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− | *憚りながら([[宝島社]]、2011)ISBN 9784796681346 | + | * 憚りながら([[宝島社]]、2011)ISBN 9784796681346 |
== 参考文献 == | == 参考文献 == | ||
* 木村勝美 『さらば山口組 後藤組・後藤忠政組長の半生』 [[メディアックス]] 2010年5月26日 | * 木村勝美 『さらば山口組 後藤組・後藤忠政組長の半生』 [[メディアックス]] 2010年5月26日 | ||
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2012年6月24日 (日) 14:51時点における最新版
後藤 忠政(ごとう ただまさ、本名: 後藤 忠正=読み同じ、1942年9月16日 - )は、日本の元暴力団員である。
暴力団・川内組若頭補佐兼静岡支部長を経て、暴力団・後藤組を結成、後に伊堂組舎弟となった。指定暴力団・山口組の幹部構成員として、五代目山口組若頭補佐、六代目山口組舎弟などを歴任したが、2008年をもって引退した。
目次
人物[編集]
1942年(昭和17年)、東京府東京市荏原区に4人兄弟の末っ子として出生。祖父は富士川発電や伊豆箱根鉄道を興した実業家の後藤幸正であった。戦争の激化により、2歳の時に父の実家がある静岡県富士宮市に疎開して以降、同地で育った。
経歴[編集]
暴力団・川内組の組員だった1969年、富士宮市に暴力団・後藤組を結成して組長となった。川内組組長・川内弘は、菅谷組組長であり三代目山口組若頭補佐であった菅谷政雄の舎弟であった。後藤組はその後、静岡県における山口組勢力拡大の嚆矢となったが、1977年、川内の破門・殺害によって川内組が事実上消滅したため、浜松市を拠点とする山口組系伊堂組(組長・伊堂敏雄)に舎弟として移籍した。1984年7月、竹中正久を組長とする四代目山口組が発足すると伊堂は引退、後藤は山口組直参に昇格した。オウム真理教の富士宮市への進出を助けたことでも知られる。
後藤は武闘派として、同年に勃発した一和会との山一抗争で積極的に働いた他、渡辺芳則を組長とする五代目山口組の東京進出に際しては、その先駆けとなって勢力の拡大に寄与した。1992年には後藤組組員5人が、暴力団を描いた映画 『ミンボーの女』の監督伊丹十三を襲撃した。
2002年7月、山口組若頭補佐に就任した。2005年8月、六代目山口組の発足に伴い、同組舎弟に直った。
日本航空(JAL)の個人筆頭株主でもあった。2008年10月、山口組から除籍処分を受けた。山口組の会合への欠席などが問題視されたためと見られている。これを機に引退した。
アメリカでの肝臓移植[編集]
2001年4月、肝臓が悪化したため、アメリカで肝臓移植を受けさせてもらうかわりに、連邦捜査局に山口組内部情報を米当局に教えると約束をし、弘道会の幹部らのリストや山口組の米国でのご用達の金融機関などを教えた。2003年11月ごろ、アメリカの捜査当局は、後藤からの情報を元に、五菱会の実質№2だった梶山進の資金2億ドルを発見し、警察庁に連絡した。資金2億ドルは、全額没収された。アメリカの捜査当局がスイスの捜査当局とも情報交換し、さらに50億円を没収した。山口組の損失が54億円。後藤組の損失は0であった。
真珠宮ビル事件[編集]
2006年5月8日、東京都渋谷区のビル所有権を菱和ライフクリエイト(現:クレアスライフ)社長西岡進らと共謀し不正変更した、電磁的公正証書原本不実記録の容疑で、組関係者などとともに警視庁に逮捕、勾留された。容疑は否認した。翌2007年6月14日、病気を理由に弁護人が勾留の執行停止を申し立て、保釈金7000万円を払い保釈されたが、2012年2月13日有罪が確定した。
警視庁からの捜査情報漏出[編集]
2007年6月12日までに警視庁北沢署巡査長のパソコンから情報が流出し、警察がグラビアアイドル出身の女優、レースクイーン出身のタレント、声優で歌手の女性の3人を、捜査・監視の対象である後藤の愛人として把握していることが発覚した。
引退[編集]
2008年10月、前月の後藤の誕生日を祝って開いたゴルフコンペに細川たかし、小林旭、角川博、松原のぶえ、中条きよし、須之内美帆子、益子梨恵らが参加していたことが報じられた。これを受けNHKが細川、小林、角川、松原、中条の5人について、数カ月間番組への出演を見合わせた。事態を重く見た山口組執行部は、病気を理由に本部の定例会を欠席しながらゴルフコンペを開いたとして、後藤を山口組から除籍し引退させた。
芸能人とゴルフコンペ[編集]
NHKが、「暴力団組長らと共にゴルフコンペに参加した」と週刊新潮に報じられた細川たかしさん、小林旭さんら5人の歌手について、番組への出演を見合わせる方針を決めたことが7日、わかった。見合わせの期限は決まっていないが、年末に迫った紅白歌合戦への出場は事実上、難しくなったとみられる。
コンペに参加した他の歌手は松原のぶえさん、角川博さん、中条きよしさん。細川さんが出演予定だった11月23日放送分の「NHKのど自慢」、細川さん、小林さん、角川さんが出演予定だった12月13日放送分の「BS日本のうた」は、代役を立てて収録する。
5人が出演する番組は、再放送や既に収録済みの場合も放送をとりやめる。
コンペは9月中旬、静岡県内で暴力団後藤組長の誕生日を祝う会として開かれた。その後のパーティーには中条さんを除く4人が参加し、それぞれ歌を披露したという。週刊誌の報道を受け、NHKが各歌手の所属事務所やレコード会社に確認したところ、いずれもコンペやパーティーに参加したことを認めた。NHKと歌手側とで協議した結果、5人の出演見合わせを6日に決めた。見合わせの期限は短くても数カ月間とみられる。
5人は、細川さんの32回を筆頭に、いずれも紅白歌合戦の出場経験がある。このうち、小林さん側は「金銭の授受などはないが、週刊誌に書かれた以上、公人として責任はあると考え、10月の出演予定を辞退した」、松原さん側も「事務所の判断で出演を自粛する」という。
引退後[編集]
2009年4月8日、神奈川県伊勢原市の天台宗の寺院・無常山浄発願寺で得度、法名・忠叡を名乗る。 2010年、袴田事件を扱った映画『BOX 袴田事件 命とは』を企画。自叙伝『憚りながら』(宝島社)を出版、後藤組と創価学会の関係について明らかにした。
武闘派ヤクザ「後藤組元組長」出家の裏にあった"思惑"とは[編集]
後藤忠政組長といえば山口組の幹部であり、「武闘派」「経済ヤクザ」として知られながら、山口組を除籍処分となったことが話題になった大物ヤクザである。
浮き沈みの激しいアウトロー社会では、仏教や神道を信奉する人間は意外に多いが、これは「政治家なども同様。しかし、出家というのは聞いたことがありません」(実話誌記者)という。
そして、4月8日。神奈川県伊勢原市の浄発願寺で、後藤元組長の得度式が執り行われ、元組長は剃髪し、法衣を授かった。式は、親類のほか親交のある作家や弁護士など40人ほどが列席、厳かに行われたという。この寺は、1993年に朝日新聞本社で自決した民族派右翼の故野村秋介氏の菩提寺でもある。
「後藤さんは故野村氏の実子を含めて関係が深いといわれるので、そのご縁でしょうね」とは先の記者。ただし、元組長は「寺に迷惑がかかる」として、住み込まない在宅出家だという。
元組長の出家の真意をめぐる"憶測"には、大きく分けて3つある。まずは、ヤクザ社会に嫌気が差したこと。
「これには異論を唱える人もいるんですが、後藤さんは山口組の幹部の中でも何かと話題の多い人。まったくのデタラメから信憑性の高いものまで、多種多様な怪文書や怪情報が飛び交っていましたからね。人気もあるけど、妬まれることも多かったんです」
たとえば、1992年の伊丹十三(故人)監督襲撃問題。後藤組の幹部らが、映画『ミンボーの女』の内容に抗議して、伊丹監督を襲って重傷を負わせたという事件だが、これには「よくぞやってくれた」と拍手喝采が送られた一方で、「余計なことを」という声もあった。
当時の新聞には「『あそこの組(後藤組)はスタンドプレーがよう目につく。菱の代紋をはき違えとるのとちゃうか。(われわれが)暴力団対策法でまいっとるゆうのに』。大阪の繁華街・ミナミにあるマンションの一室。山口組直系の組幹部の一人は吐き捨てるように言った」(1992年12月3日付産経新聞)などと報じられている。暴対法は92年3月に施行されており、ヤクザ社会に微妙な緊張感があったのは確かだろう。
これ以外にも除籍処分の発端とされる細川たかしらを招いたゴルフコンペ問題のほか、警視庁北沢署巡査長の私物パソコンから流出したことで発覚した愛人問題(2007年)、米UCLAでの腎臓移植問題(2008年発覚)、日本航空(JAL)株式の100万株取得(99年)など、元組長に関する報道は多い。
妬まれてわずらわしさを感じることもあったかもしれない。 もうひとつ考えられる理由は、「隠れみの説」だ。「これは警察関係者も含めて、多くの人が考えている説です」とは前出の実話誌記者。
「後藤さんは経済ヤクザとしても知られていますから、今までの蓄財をどうするか。宗教法人を隠れみのにするのではないかというわけです」(同)
最後は「パフォーマンス説」。後藤元組長は、2006年に東証二部上場の不動産業者とともに電磁的公正証書原本不実記録・同供用罪で逮捕・起訴され、2008年3月に無罪判決を受けている。共犯とされた不動産業者は無罪が確定したものの、元組長に対しては検察が控訴し、そろそろ控訴審がスタートすると見られている。
「ヤクザ社会と縁を切ったと見せることで、裁判を有利に進めようというパフォーマンスだと警察は見ているようです。しかし、一時は警視庁内に『後藤組対策本部』もあったほどで、後藤さんの逮捕は悲願でした。二次団体の対策本部を作ることは、異例中の異例なんです。だから、簡単には諦めないんじゃないですか」(同)
得度式でも警視庁、神奈川県警、静岡県警の関係者が周辺を探っていたというから、まだまだ警察の追及は続いており、元組長が俗世との関係を断つのは難しそうだ。
著書[編集]
- 憚りながら(宝島社、2010)ISBN 9784796675475
- 憚りながら(宝島社、2011)ISBN 9784796681346
参考文献[編集]
- 木村勝美 『さらば山口組 後藤組・後藤忠政組長の半生』 メディアックス 2010年5月26日
オウム真理教 | |
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主な事件 : | 村井秀夫刺殺事件 | 坂本堤弁護士一家殺害事件 | 松本サリン事件 | 地下鉄サリン事件 |
自称信者 : | 麻原彰晃(教祖) |
信者の一覧 : | オウム真理教の信者一覧 |
関連項目 : | 後藤組 | フェラチオ | ホモ | 真理党 |
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