「増田宋太郎」の版間の差分
細 |
(→士族反乱) |
||
27行目: | 27行目: | ||
{{和暦|1869}}中津藩の尊王攘夷の国学の徒は、攘夷を捨てた[[薩長]]が[[明治天皇]]を奪うものとして憤慨して天皇奪還を目指して[[京都還幸]]の計を進めた。宋太郎もまた、[[岩田茂穂]]ら私塾・「道生館」一統をひきいて上京参加せんとしたが、今度は[[柳田清雄]]に諫止されて果たせず。明治3年([[1870年]])には上京して政府の[[文明開化]]・[[開国和親]]の方針を確認し、増田の幻滅と憎悪は深かったといい、時代の[[文明開化]]のリーダーで、いとこの[[福沢諭吉]]への不満を募らせた宋太郎は、同志・[[朝吹英二]]に福沢暗殺を依頼し、同年の明治3年(1870年)に福澤諭吉帰郷した際、寝込みを襲おうと暗殺を企てた。しかし、福沢邸に乗り込むものの、福澤は来客した[[服部五郎兵衛]]と夜通し飲み明かしたためこの計画は失敗し、逆に朝吹・増田共に論吉に心服し、そのまま藩邸の[[慶應義塾]]に入学した<ref>『慶應義塾入社帳』第一巻</ref>。明治4年([[1871年]])に郷里の中津に帰郷して「皇学校」を設立し、[[闇無浜神社]]の[[祀官]]となる。直後に[[小幡篤次郎]]と福澤諭吉の旧藩校・[[進脩館]]と統合<ref>第36番中学校</ref>。次いで[[島津久光]]への討薩計画を立てて上京したが、明治6年([[1873年]])に同志と共に[[久留米]]で自首、藩主より半年間の蟄居を命じられた。 | {{和暦|1869}}中津藩の尊王攘夷の国学の徒は、攘夷を捨てた[[薩長]]が[[明治天皇]]を奪うものとして憤慨して天皇奪還を目指して[[京都還幸]]の計を進めた。宋太郎もまた、[[岩田茂穂]]ら私塾・「道生館」一統をひきいて上京参加せんとしたが、今度は[[柳田清雄]]に諫止されて果たせず。明治3年([[1870年]])には上京して政府の[[文明開化]]・[[開国和親]]の方針を確認し、増田の幻滅と憎悪は深かったといい、時代の[[文明開化]]のリーダーで、いとこの[[福沢諭吉]]への不満を募らせた宋太郎は、同志・[[朝吹英二]]に福沢暗殺を依頼し、同年の明治3年(1870年)に福澤諭吉帰郷した際、寝込みを襲おうと暗殺を企てた。しかし、福沢邸に乗り込むものの、福澤は来客した[[服部五郎兵衛]]と夜通し飲み明かしたためこの計画は失敗し、逆に朝吹・増田共に論吉に心服し、そのまま藩邸の[[慶應義塾]]に入学した<ref>『慶應義塾入社帳』第一巻</ref>。明治4年([[1871年]])に郷里の中津に帰郷して「皇学校」を設立し、[[闇無浜神社]]の[[祀官]]となる。直後に[[小幡篤次郎]]と福澤諭吉の旧藩校・[[進脩館]]と統合<ref>第36番中学校</ref>。次いで[[島津久光]]への討薩計画を立てて上京したが、明治6年([[1873年]])に同志と共に[[久留米]]で自首、藩主より半年間の蟄居を命じられた。 | ||
− | + | This introduces a plesainlgy rational point of view. | |
− | + | ||
− | + | ||
− | + | ||
− | + | ||
− | + | ||
==著書== | ==著書== |
2012年5月20日 (日) 19:18時点における版
増田 宗太郎 | |
---|---|
増田宗太郎 | |
肖像 | |
通称 | |
生年 | 嘉永2年2月23日 |
生地 | 豊前国 |
没年 | 明治10年(1877年)9月 |
没地 | 鹿児島 |
思想 | |
活動 | 西南戦争 |
藩 | 中津藩 |
所属 | 中津隊 |
投獄 | |
裁判 | |
刑場 | |
受賞 | |
記念碑 | |
母校 | |
信教 | |
影響を受けたもの | |
影響を与えたもの | |
現職 | |
廟 | 中津市安全寺 南洲墓地 |
脚注 | |
テンプレートを表示 |
増田 宗太郎(ますだ そうたろう、嘉永2年2月23日(1849年3月17日) - 明治10年(1877年)9月)は、中津藩下士増田久行の嫡男。母は九州国学の三大家の一人で、平田篤胤直系の弟子である[1]渡辺重名の娘。父は儒学者・福沢百助の妻のいとこ。福沢諭吉とは再従兄弟にあたり、家も近くである。幼名は久米丸。民権結社「共憂社」主宰、西南戦争における中津隊々長。
略歴
生い立ち
嘉永2年2月23日、中津藩下士・増田久行の嫡男として生まれる。
1857年(和暦??年)、渡辺重名の孫で、渡辺重石丸(鉄次郎)が始めた国学塾「道生館」に入門し、平田篤胤派国学を学び、尊王攘夷思想に開眼する。1863年(和暦??年)の第1次長州征伐の中津藩出兵では選考に洩れ、慶応2年(1866年)の第2次長州征伐に際しては、攘夷派長州を討つべきではないとして征長中止を建言しようとしたが、師・重石丸に諫止されて果たせなかった[2]。
慶応4年(1868年)に長州藩脱徒の兵と佐田秀らの草莽隊が、御許山に勤王義挙の旗を立て、花山院を擁して西国郡代を討ち、九州に維新回天の業を進めようとしたものである。中津城下は震動し、宋太郎またもや参加しようとしたが、重石丸に阻止される。直後に長州藩兵によって草莽隊は鎮圧された。明治新新府への恭順を決定した中津藩は出兵し、やがて戊辰戦争に従軍して奥羽にまで転戦したが、この時も宋太郎の従軍は京都までであり、帰郷を命じられた。そしてこの時に、宋太郎は維新政府の攘夷実行の意志に幻滅し、疑念を抱き始める[3]。
維新後
1869年(和暦??年)中津藩の尊王攘夷の国学の徒は、攘夷を捨てた薩長が明治天皇を奪うものとして憤慨して天皇奪還を目指して京都還幸の計を進めた。宋太郎もまた、岩田茂穂ら私塾・「道生館」一統をひきいて上京参加せんとしたが、今度は柳田清雄に諫止されて果たせず。明治3年(1870年)には上京して政府の文明開化・開国和親の方針を確認し、増田の幻滅と憎悪は深かったといい、時代の文明開化のリーダーで、いとこの福沢諭吉への不満を募らせた宋太郎は、同志・朝吹英二に福沢暗殺を依頼し、同年の明治3年(1870年)に福澤諭吉帰郷した際、寝込みを襲おうと暗殺を企てた。しかし、福沢邸に乗り込むものの、福澤は来客した服部五郎兵衛と夜通し飲み明かしたためこの計画は失敗し、逆に朝吹・増田共に論吉に心服し、そのまま藩邸の慶應義塾に入学した[4]。明治4年(1871年)に郷里の中津に帰郷して「皇学校」を設立し、闇無浜神社の祀官となる。直後に小幡篤次郎と福澤諭吉の旧藩校・進脩館と統合[5]。次いで島津久光への討薩計画を立てて上京したが、明治6年(1873年)に同志と共に久留米で自首、藩主より半年間の蟄居を命じられた。
This introduces a plesainlgy rational point of view.
著書
- 『増田宋太郎遺稿集』(漢詩集、明治16年)
- 『増田宋太郎歌集』
関連項目
エピソード
- 司馬遼太郎も著書『翔ぶが如く』で引用した「1日先生に接すれば1日の愛があり、3日接すれば3日の愛がある」とは増田の言葉である。最後は城山の戦いで戦死したとも捕えられて斬首されたともいう。
- 太平洋戦争中には蘭学者の福沢の評価よりも暗殺しようとした増田の評価が高まり、一時は生家跡地に神社(増田神社)まで建立され、祭神となったという。戦後、評価は元に戻り、現在、増田の生家跡地は小さな公園になっている。
脚注
- ↑ 平田篤胤-渡辺重石丸―増田宋太郎
- ↑ 師重石丸に諫止されて果たせなかった。
- ↑ 家永三郎 『近代日本の争点』 每日新聞社 1967年 P389
- ↑ 『慶應義塾入社帳』第一巻
- ↑ 第36番中学校
参考文献
- 司馬遼太郎 『翔ぶが如く』
- 熊谷克己 『増田宋太郎伝』 二豐新聞社 1913年
- 丸山信編『人物書誌体系 30 福沢諭吉門下』日外アソシエーツ、1995年3月、ISBN 4816912843
- 江藤淳『南洲残影』文藝春秋〈文春文庫〉、平成13年(2001年)、ISBN 4-16-353840-2
- 増田宋太郎(ますだそうたろう) 世ヲ憤リ身ヲ憂イテ涙雨ノ如シ