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+ | 端島炭鉱は良質な強粘炭が採れ、隣接する[[高島炭鉱]]とともに、日本の近代化を支えてきた炭鉱の一つであった。石炭出炭量が最盛期を迎えた[[1941年]]には約41万トンを出炭。人口が最盛期を迎えた[[1960年]]には5,267人の人口がおり、[[人口密度]]は83,600 人/km<sup>2</sup>と世界一を誇り[[東京特別区]]の9倍以上に達した。炭鉱施設・[[住宅]]のほか、小中学校・店舗(常設の店舗のほか、島外からの行商人も多く訪れていた)・[[病院]](外科や分娩設備もあった)・[[寺院]]「泉福寺」(禅寺だがすべての宗派を扱っていた)・[[映画館]]「昭和館」・理髪店・美容院・パチンコ屋・雀荘・社交場(スナック)「白水苑」などがあり、島内においてほぼ完結した都市機能を有していた。ただし[[火葬場]]と[[墓地]]、十分な広さと設備のある公園は島内になく、これらは端島と高島の間にある中ノ島に(端島の住民のためのものが)建設された。 | ||
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2011年12月18日 (日) 17:34時点における版
軍艦島(ぐんかんじま)とは、長崎県長崎市(旧高島町)にある島で端島(はしま)の通称である。かつては海底炭鉱によって栄え東京以上の人口密度を有していたが、閉山とともに島民が島を離れたため、現在は無人島である。
地理
長崎港から南西の海上約17.5キロメートルの位置にある。旧高島町の中心であり同じく炭鉱で栄えていた高島(の南端)からは南西に約2.5キロメートルの距離にあり、長崎半島(野母半島)からは約4.5キロメートル離れている。端島と高島の間には「中ノ島」という小さな無人島があり、ここにも炭鉱が建設されたが、わずか数年で閉山となり、島は端島の住民が公園や火葬場・墓地として使用していた。そのほか端島の南西には「三ツ瀬」という岩礁があり、端島炭鉱から坑道を延ばしてその区域の海底炭鉱でも採炭を行っていた。
端島は本来は、現在の3分の1ほどの面積しかない小さな瀬であった(当時の瀬の大きさは南北約320メートル、東西約120メートル)。その小さな瀬と周囲の岩礁・砂州を、1897年から1931年にわたる6回の埋め立て工事によって拡張したものが、現在の端島である。その大きさは南北に約480メートル、東西に約160メートルで、南北に細長く、海岸線は直線的で、島全体が護岸堤防で覆われている。面積は約6.3ヘクタール、海岸線の全長は約1200メートル。島の中央部には埋め立て前の岩山が南北に走っており、その西側と北側および山頂には住宅などの生活に関する施設が、東側と南側には炭鉱関連の施設がある。
年間平均気温は15から16℃。平均降水量は2000ミリメートル。夏は南東風・南風、冬は北西風・北風が多い。(いずれも旧高島町についてのもの)
端島を舞台とした1949年の映画『緑なき島』のタイトルにも現れているが、この島には植物がとても少なく、住民は本土から土砂を運んで日本初の屋上庭園を作り、家庭でもサボテンをはじめ観葉植物をおくところが多かった。また、主婦には生け花が人気であったという。西山夘三も草木はほとんどないと述べているが、これについては誇張的という指摘がある。閉山後の調査では二十数項目の植物が確認されており、特にオニヤブマオ(イラクサ科)、ボタンボウフウ(セリ科)、ハマススキ(イネ科)の3種が端島の主な植物として挙げられている。
歴史
19世紀まで
端島の名がいつごろから用いられるようになったのか正確なところは不明だが、『正保国絵図』には「はしの島」、『元禄国絵図』には「端島」と記されている。『天保国絵図』にも「端島」とある。
端島での石炭の発見は一般に1810年(文化7年)のこととされる(発見者は不明)が、『佐嘉領より到来之細書答覚』によると、1760年(宝暦10年)に佐賀藩深堀領の蚊焼村(旧三和町・現長崎市)と幕府領の野母村・高浜村(旧野母崎町・現長崎市)が端島・中ノ島・下二子島(埋め立てにより現在は高島の一部となっている)・三ツ瀬の領有をめぐって争いになり、その際に両者とも「以前から自分達の村で葛根掘り、茅刈り、野焼き、採炭を行ってきた」と主張、特に後者は「四拾年余以前」に野母村の鍛冶屋勘兵衛が見つけ、高浜村とともに採掘し、長崎の稲佐で売り歩いていたと述べている。なお当時は幕府領では『初島』と、佐賀領では『端島』と書いていたようである(『佐嘉領より到来之細書答覚』『安永二年境界取掟書』『長崎代官記録集』)。
このように石炭発見の時期ははっきりしないが、いずれにせよ江戸時代の終わりまでは、漁民が漁業の傍らに「磯掘り」と称し、ごく小規模に露出炭を採炭する程度であった。1869年には長崎の業者が採炭に着手したものの、1年ほどで廃業し、それに続いた3社も1年から3年ほどで、大風による被害のために廃業に追い込まれた。36メートルの竪坑が無事に完成したのは1886年のことで、これが第一竪坑である。
1890年、端島炭鉱の所有者であった鍋島孫太郎(鍋島孫六郎、旧鍋島藩深堀領主)が三菱社へ10万円で譲渡。端島はその後100年以上にわたり三菱の私有地となる。譲渡後は第二竪坑と第三竪坑の開鑿もあって端島炭鉱の出炭量は高島炭鉱を抜く(1897年)までに成長した。この頃には社船「夕顔丸」の就航、蒸留水機設置にともなう飲料水供給開始(1891年)、社立の尋常小学校の設立(1893年)など基本的な居住環境が整備されるとともに、島の周囲が段階的に埋め立てられた(1897年から1931年)。
20世紀
1916年には日本で最初の鉄筋コンクリート造の集合住宅「30号棟」が建設された。この年には大阪朝日新聞が端島の外観を「軍艦とみまがふさうである」と報道しており、5年後の1921年に長崎日日新聞も、当時三菱重工業長崎造船所で建造中だった日本海軍の戦艦「土佐」に似ているとして「軍艦島」と呼んでいることから、「軍艦島」の通称は大正時代ごろから用いられるようになったとみられる。ただし、この頃はまだ鉄筋コンクリート造の高層アパートは少なく(30号棟と日給社宅のみ)、大半は木造の平屋か2階建てであった。
大正期から朝鮮人労働者が増え、第二次世界大戦中には徴用と吉田飯場(朝鮮人の吉田が経営する飯場)を合わせて500人から600人ほど、自由渡航で来た所帯持ちの朝鮮人労働者も80人ほど働いていた。中国人労働者も、1944年に204人が徴用されてきた。朝鮮人や中国人に限らず日本人にも言えることだが、給料や食事、休日などの虚偽の好条件で騙されてやってきた労働者が多く、劣悪な環境下での作業で事故死・病死も多発し、「島抜け」(泳いで島を脱出すること)や自殺をする者も少なくなかった。ただし、実際に「島抜け」が成功した例は少なく、大半は溺死するか、監視する職員に捕まり殺された。労働者、特に朝鮮人・中国人の徴用者は、端島や高島を「監獄島」と呼んだ。端島炭鉱から後に長崎市内の造船所へと移された朝鮮人労働者によると、同じ三菱の経営ながら造船所と端島炭鉱の待遇の差は「天と地の差」であったという。朝鮮人と中国人が手を組んで日本人に抵抗しないよう、朝鮮人は端島の北端、中国人は端島の南端の寮にそれぞれ収容され、作業現場も交代時間も重ならないようにされた。
1945年6月11日にアメリカの潜水艦「ティランテ」が、停泊していた石炭運搬船「白寿丸」を魚雷で攻撃し撃沈したが、このことは「米軍が端島を本物の軍艦と勘違いして魚雷を撃ち込んだ」という噂話になった。
端島炭鉱は良質な強粘炭が採れ、隣接する高島炭鉱とともに、日本の近代化を支えてきた炭鉱の一つであった。石炭出炭量が最盛期を迎えた1941年には約41万トンを出炭。人口が最盛期を迎えた1960年には5,267人の人口がおり、人口密度は83,600 人/km2と世界一を誇り東京特別区の9倍以上に達した。炭鉱施設・住宅のほか、小中学校・店舗(常設の店舗のほか、島外からの行商人も多く訪れていた)・病院(外科や分娩設備もあった)・寺院「泉福寺」(禅寺だがすべての宗派を扱っていた)・映画館「昭和館」・理髪店・美容院・パチンコ屋・雀荘・社交場(スナック)「白水苑」などがあり、島内においてほぼ完結した都市機能を有していた。ただし火葬場と墓地、十分な広さと設備のある公園は島内になく、これらは端島と高島の間にある中ノ島に(端島の住民のためのものが)建設された。
1960年以降は、主要エネルギーの石炭から石油への移行(エネルギー革命)により衰退。1965年に三ツ瀬区域の新坑が開発され一時期は持ち直したが、1970年代以降のエネルギー政策の影響を受けて1974年1月15日に閉山した。閉山時に約2,000人まで減っていた住民は4月20日までに全て島を離れ、端島は無人島となった。しかしその後すぐに人がいなくなったわけではなく、高島鉱業所による残務整理もあり、炭鉱関連施設の解体作業は1974年の末まで続いた。
1920年 | 3,271 | 国勢調査による推計人口 |
---|---|---|
1925年 | 2,750 | |
1930年 | 3,290 | |
1935年 | 3,231 | |
1940年 | 3,333 | |
1945年 | 1,656 | |
4,022 | 高島町端島支所による人口 | |
1950年 | 4,600 | |
1955年 | 4,738 | |
1960年 | 5,151 | |
1965年 | 3,391 | |
1970年 | ||
1973年 | 2,150 | |
1975年 | 0 |