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− | '''三原 正'''(みはら ただし、1955年3月30日生まれ)は、日本の元プロボクサー。元WBA世界ジュニアミドル級チャンピオン。死神のイメージを好んだが、切れ味の良い右ストレートを武器とする比較的正統派の右ボクサーだった<ref name="gloriousmoments">{{Cite book|和書|authorlink=宮崎正博 (Masahiro Miyazaki)|editor=ボクシング・マガジン編集部編|title=THE GLORIOUS MOMENTS 究極の栄光・世界チャンピオン名鑑 | + | |
− | 1955年3月30日、群馬県群馬郡箕郷町(現在の高崎市)に生まれ、高崎工業高校3年生で[[ボクシング]]を始める<ref name="gloriousmoments" />。[[日本大学]]にスカウトされ、4年生で出場した1977年の全日本選手権でライトミドル級チャンピオンとなった他<ref name="directory">{{Cite book|和書|editor=ボクシング・マガジン編集部編|title=日本プロボクシングチャンピオン大鑑|date=2004年3月1日|publisher=ベースボール・マガジン社|isbn=978-4-583-03784-4|pages=p. 57|chapter=三原正}}</ref> | + | 1955年3月30日、群馬県群馬郡箕郷町(現在の高崎市)に生まれ、高崎工業高校3年生で[[ボクシング]]を始める<ref name="gloriousmoments" />。[[日本大学]]にスカウトされ、4年生で出場した1977年の全日本選手権でライトミドル級チャンピオンとなった他<ref name="directory">{{Cite book|和書|editor=ボクシング・マガジン編集部編|title=日本プロボクシングチャンピオン大鑑|date=2004年3月1日|publisher=ベースボール・マガジン社|isbn=978-4-583-03784-4|pages=p. 57|chapter=三原正}}</ref>、主将としてもボクシング部を大学リーグの団体優勝に導き、またキングスカップでは3位の結果を残した<ref name="gloriousmoments" />。アマチュア戦績は38戦28勝 (15KO・RSC) 10敗。翌1978年にはプロに転向し、6月22日にデビュー戦を行った。1979年4月26日、体重超過で計量失格となった韓国人チャンピオンの林載根を5回KOで打ち倒し、プロ5戦目にしてOPBF東洋太平洋ジュニアミドル級タイトルを獲得。1979年末にデビュー以来の8連続KO勝ちも達成し、OPBFタイトルは1981年1月23日までに6度防衛して返上した。 |
− | WBA同級1位までランクを上げたが、[[アメリカ合衆国|アメリカ]] | + | WBA同級1位までランクを上げたが、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]主導の戦況を意識して1981年6月25日にはヒューストンへ遠征し、[[シュガー・レイ・レナード]]対アユブ・カルレの前座に出場して5回KOで勝利した<ref name="gloriousmoments" />。この後、レナードがタイトルを返上したため、1981年11月7日にニューヨーク州ロチェスターでアメリカ人選手のロッキー・フラットと無敗同士でWBA世界ジュニアミドル級タイトルを争い、4回には右ショートストレートでフラットをダウンさせ、プロ15戦目にして2-0の15回判定で世界タイトルを獲得。日本以外での世界奪取を成し遂げた5人目の日本人となり<ref name="history">{{Cite book|和書|editor=ボクシング・マガジン編集部編|title=日本プロボクシング史 世界タイトルマッチで見る50年 (JAPAN PRO BOXING HISTORY – 50 YEARS OF WORLD TITLE BOUTS)|date=2002年5月31日|publisher=ベースボール・マガジン社|isbn=978-4-583-03695-3|pages=p. 279}}</ref>、半年間の日本人世界チャンピオン不在時代を終わらせた。成田空港到着時には報道陣に囲まれ、地元・群馬では所属ジムの三迫仁志会長とともにオープンカーでの凱旋パレードを行い<ref name="gloriousmoments" />、1981年の年間表彰ではMVPを獲得した。 |
しかし、1982年2月2日に東京体育館で開催された初防衛戦では、アメリカ人選手でトップランク社の新鋭だったデビー・ムーアに6回KOで敗れてタイトルを失い<ref name="history" />、この頃からは慢性化した腰痛にも苦しめられた<ref name="directory" /><ref name="gloriousmoments" />。 | しかし、1982年2月2日に東京体育館で開催された初防衛戦では、アメリカ人選手でトップランク社の新鋭だったデビー・ムーアに6回KOで敗れてタイトルを失い<ref name="history" />、この頃からは慢性化した腰痛にも苦しめられた<ref name="directory" /><ref name="gloriousmoments" />。 | ||
− | + | 1982年11月2日には5回KO勝ちで日本ジュニアミドル級タイトルを獲得し、このタイトルは1984年6月28日までに6度防衛して返上した。1985年3月の試合を最後に選手生活を引退し、引退後は一時期、自身が現役時代に所属した三迫ボクシングジムでトレーナーを務めた。プロ戦績は25戦24勝 (15KO) 1敗。 | |
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− | *[http://boxrec.com/list_bouts.php?human_id=43858&cat=boxer BoxRec | + | *[http://boxrec.com/list_bouts.php?human_id=43858&cat=boxer BoxRec – Tadashi Mihara] |
− | *{{Cite web|url=http://jpba.gr.jp/archive/1980_03.html|title=世界王者アーカイヴス (World Champion Archives)|editor=日本プロボクシング協会|date=2008年6月1日|accessdate=2010-01-05|publisher=日本プロボクシング協会|work=三原 正}} | + | <!--*{{Cite web|url=http://jpba.gr.jp/archive/1980_03.html|title=世界王者アーカイヴス (World Champion Archives)|editor=日本プロボクシング協会|date=2008年6月1日|accessdate=2010-01-05|publisher=日本プロボクシング協会|work=三原 正}} |
− | *{{Cite web|url=http://ameblo.jp/stanbox7/entry-10461987867.html|title=コット vs フォアマン・石田 vs “アラム”|editor=金元孝男|date=2010年2月18日|accessdate=2010-02-20|publisher=BOXING MASTER / ボクシング マスター|work=ボクシングを考える | + | *{{Cite web|url=http://ameblo.jp/stanbox7/entry-10461987867.html|title=コット vs フォアマン・石田 vs “アラム”|editor=金元孝男|date=2010年2月18日|accessdate=2010-02-20|publisher=BOXING MASTER / ボクシング マスター|work=ボクシングを考える – 三原正関連エピソード掲載}}--> |
− | *[http://www.youtube.com/watch?v=nNaCrc3EWv8 1981] | + | *[http://www.youtube.com/watch?v=nNaCrc3EWv8 1981] | [http://www.youtube.com/watch?v=KQzJdSXHLCw 1982-1], [http://www.youtube.com/watch?v=kHfHT2l1CJY 1982-2] |
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2012年8月14日 (火) 22:34時点における最新版
三原 正(みはら ただし、1955年3月30日生まれ)は、日本の元プロボクサー。元WBA世界ジュニアミドル級チャンピオン。死神のイメージを好んだが、切れ味の良い右ストレートを武器とする比較的正統派の右ボクサーだった[1]。
1955年3月30日、群馬県群馬郡箕郷町(現在の高崎市)に生まれ、高崎工業高校3年生でボクシングを始める[1]。日本大学にスカウトされ、4年生で出場した1977年の全日本選手権でライトミドル級チャンピオンとなった他[2]、主将としてもボクシング部を大学リーグの団体優勝に導き、またキングスカップでは3位の結果を残した[1]。アマチュア戦績は38戦28勝 (15KO・RSC) 10敗。翌1978年にはプロに転向し、6月22日にデビュー戦を行った。1979年4月26日、体重超過で計量失格となった韓国人チャンピオンの林載根を5回KOで打ち倒し、プロ5戦目にしてOPBF東洋太平洋ジュニアミドル級タイトルを獲得。1979年末にデビュー以来の8連続KO勝ちも達成し、OPBFタイトルは1981年1月23日までに6度防衛して返上した。
WBA同級1位までランクを上げたが、アメリカ主導の戦況を意識して1981年6月25日にはヒューストンへ遠征し、シュガー・レイ・レナード対アユブ・カルレの前座に出場して5回KOで勝利した[1]。この後、レナードがタイトルを返上したため、1981年11月7日にニューヨーク州ロチェスターでアメリカ人選手のロッキー・フラットと無敗同士でWBA世界ジュニアミドル級タイトルを争い、4回には右ショートストレートでフラットをダウンさせ、プロ15戦目にして2-0の15回判定で世界タイトルを獲得。日本以外での世界奪取を成し遂げた5人目の日本人となり[3]、半年間の日本人世界チャンピオン不在時代を終わらせた。成田空港到着時には報道陣に囲まれ、地元・群馬では所属ジムの三迫仁志会長とともにオープンカーでの凱旋パレードを行い[1]、1981年の年間表彰ではMVPを獲得した。 しかし、1982年2月2日に東京体育館で開催された初防衛戦では、アメリカ人選手でトップランク社の新鋭だったデビー・ムーアに6回KOで敗れてタイトルを失い[3]、この頃からは慢性化した腰痛にも苦しめられた[2][1]。
1982年11月2日には5回KO勝ちで日本ジュニアミドル級タイトルを獲得し、このタイトルは1984年6月28日までに6度防衛して返上した。1985年3月の試合を最後に選手生活を引退し、引退後は一時期、自身が現役時代に所属した三迫ボクシングジムでトレーナーを務めた。プロ戦績は25戦24勝 (15KO) 1敗。
関連項目[編集]
外部リンク[編集]
空位 前タイトルホルダー 林載根 |
第11代OPBF東洋太平洋ジュニアミドル級チャンピオン 1979年4月26日 – 1981年11月20日(返上) |
空位 次タイトルホルダー 白仁鉄 |
空位 前タイトルホルダー シュガー・レイ・レナード |
第20代WBA世界ジュニアミドル級チャンピオン 1981年11月7日 – 1982年2月2日 |
次チャンピオン デビー・ムーア |
前チャンピオン 沢田勝博 |
第15代日本ジュニアミドル級チャンピオン 1983年11月2日 – 1984年6月28日(返上) |
空位 次タイトルホルダー 無限川坂 |
- ↑ 1.0 1.1 1.2 1.3 1.4 1.5 (2000年1月15日) 三原正〜本場・米国で名を刻んだエリート〜 ボクシング・マガジン編集部編 [ THE GLORIOUS MOMENTS 究極の栄光・世界チャンピオン名鑑 – 日本ボクシング史に輝く41人の男たち ] B.B.mook; 117, sports series; No.72 ベースボール・マガジン社 2000年1月15日 978-4-583-61076-4 pp. 56–57
- ↑ 2.0 2.1 (2004年3月1日) 三原正 ボクシング・マガジン編集部編 [ 日本プロボクシングチャンピオン大鑑 ] ベースボール・マガジン社 2004年3月1日 978-4-583-03784-4 p. 57
- ↑ 3.0 3.1 (2002年5月31日) ボクシング・マガジン編集部編 [ 日本プロボクシング史 世界タイトルマッチで見る50年 (JAPAN PRO BOXING HISTORY – 50 YEARS OF WORLD TITLE BOUTS) ] ベースボール・マガジン社 2002年5月31日 978-4-583-03695-3 p. 279