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2007年6月28日 (木) 20:44時点における最新版
ガスパル・ヴィレラ(Gaspar Vilela, 大永5年(1525年)? - 元亀3年(1572年))はポルトガル人。イエズス会員でカトリック教会の司祭。日本キリスト教史上最初期の宣教師の一人で、京都での布教を開始した。
生涯[編集]
1525年頃にポルトガルのアヴィシュに生まれたと推測されている。 イエズス会に入会し、1551年、兄弟らとともにインドのゴアに入り、司祭となる。1554年にはゴアを起ち日本へ向かった。
1556年(弘治2年)、イエズス会インド副管区長ヌーネス・バレトとともに豊後府内(現大分県大分市)に上陸し、日本での布教活動を開始。1558年(永禄元年)、バルタザール・ガーゴ神父に代わり平戸布教を担当し、約1500人に洗礼を授けたが仏教徒と対立し、領主松浦隆信 (道可)により退去を命じられ、一時府内に戻った後、コスメ・デ・トーレスの指示を受け、京を目指した。翌1559年(永禄2年)、日本人ロレンソらと京都入りを果たした。翌1560年(永禄3年)、苦労の末に将軍足利義輝に謁見、砂時計を献上。大友義鎮や伊勢貞孝の助力もあり、京におけるキリスト教宣教許可の制札を受け、四条坊門姥柳町に定住し、教会とした。
しかし1565年(永禄8年)、義輝が殺されるとキリシタン嫌いの松永久秀によって京を追放となり、堺に逃れた。以後は畿内を中心に豊後、平戸、堺などで布教した。この間、高山友照、右近父子らの受洗を行ったが、1570年(元亀元年)インドに渡り、1572年ゴアで病没した。
著作[編集]
ヴィレラの著作である『耶蘇会士日本通信』の1561年8月17日付け書簡には、「堺の町は甚だ広大にして大なる商人多数あり。この町はベニス市の如く執政官によりて治めらる」と書かれ、この文章によって、堺の様子は『東洋のベニス』として、当時の世界地図に掲載されるほどヨーロッパ世界に認識されることとなった。