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+ | '''大室寅之祐'''(おおむろとらのすけ)とは、[[長州]]出身。[[明治天皇]]の正体ではないかと考えられる人物である。 | ||
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+ | ◆山口県田布施町麻郷の大室さん 2012年12月4日現在(更新) | ||
+ | 橋本龍太郎氏の祖母大室ヨネ(米)の父大室庄吉の兄大室寅之祐(東京明治天皇) | ||
+ | についてお話します。 | ||
+ | そもそも、田布施町のタブーについて(この事)(大室寅之祐について)は、 | ||
+ | 田布施町麻郷の古い人間なら500%知っている事実で、佐藤栄作、岸信介すらわ | ||
+ | かっていたが、うちの爺さんが「大室家が南朝光良親王の末裔で500年以上続いて、 | ||
+ | しかも寅之祐が大室家24代目なんて嘘だ!」と言ってた。始め意味が分から | ||
+ | なかったが本質は、 | ||
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+ | A寅之祐の大室家が本当に南朝後醍醐天皇の玄孫光良親王が1400年に吉野から | ||
+ | 麻郷に亡命して大室姓をなのってから24代も続いているのか? | ||
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+ | B本当に寅之祐の実の父は大室弥兵衛なのか? と言う事であった。 | ||
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+ | その後の調査で実はAに関しては、大室家(後の後南朝大室家)は1800年頃から始まり、 | ||
+ | 文政時代に初代大室家当主(父)大室文右衛門が死去(系図には大室家初代(父)大室文右衛門の父は麻郷某と | ||
+ | いうかかれ方してる。)(妻は1830年8月9日死去)。2代目(息子)大室文右衛門が家督を | ||
+ | 継ぐ。同時代に大室家は村の大庄屋となり家が繁栄した。同じ頃頼山陽によって、 | ||
+ | 大室家の家系図が整備され南朝の末裔を自称するようになった。2代目(息子)大室文右衛門の妻は1827年8月2日に死亡。 | ||
+ | 子は1827年10月9日に早死してしまう。そこで大室又兵衛(1789年3月29日生れ)の | ||
+ | 息子大室弥兵衛(1813年6月14日~1886年3月3日)が満24歳の時2代目(息子)大室文右衛門の娘ハナ(1815年12月5日~1903年2月1日) | ||
+ | と1837年結婚し2代目(息子)大室文右衛門家(大室本家)の養子に入って大室本家3代目として家督を | ||
+ | 継ぐ。ハナと弥兵衛との間に子供が2人できたが一人目は1849年4月14日に早死し | ||
+ | 2人目は1853年に同じく早死してしまった。(以上地家の西円寺の過去帳による)ちなみに地家吉左衛門の父は2代目地家正右衛門。その父は初代地家正右衛門。その父は地家某で不明。(以上西円寺の過去帳による) | ||
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+ | (※だから、大室寅之祐の代で、大室家4代目にあたる。) | ||
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+ | Bに関してはこれを踏まえ、本当の所は、苗字は岸(ガン)の廻船業者の荒くれ男の岸(李)半左衛門要蔵(遼陽から戎ヶ下にきた在日一世)。(1853年1月17日没) | ||
+ | 周 伊麻→岸(李)半左衛門要蔵→(岸)地家作蔵→明治天皇→昭和天皇と | ||
+ | 岸要蔵→信祐→佐藤(岸)秀助→岸信介で昭和天皇と岸信介は「はとこ」の関係がある。 | ||
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+ | 岸要蔵の息子岸作蔵が地家吉左衛門家(1840年3月12日没)の養子となり(1835年4月)「地家」姓を賜る。 | ||
+ | (のちに地家庄兵衛の養子になる)地家河内作蔵となのり廻船業して財を築き周防国(田布施町)麻郷村小字地家に住み着いた。 | ||
+ | 1840年頃、興正寺(大谷)谷口(やぐち)昭顥(ショウコウ)坊(照景?)(苗字は谷口)と娘谷口(やぐち)スヘが田布施町麻郷地家の西円寺に | ||
+ | 京都浄土真宗興正派、興正寺からやってきた。(興正寺昭顥坊は興正派門主一族)やがて地家作蔵(旧暦1823年2月16日~新暦1887年4月24日) | ||
+ | と興正寺基子(SUEKO)=谷口スヘ(1831年5月1日~1855年11月20日)が1844年頃結婚する。スヘが満13歳頃の時である。作蔵 | ||
+ | と結婚した1年後、スヘ満14歳の頃、第一子をもうけるが1845年12月15日に1歳弱で病死した。その後スヘは | ||
+ | 長女ターケ(1847年4月14日生まれ)を出産。1850年1月10日(戸籍では庄吉の誕生日になっている)に | ||
+ | 戸籍名寅吉(普段使う通名は虎吉。後の大室寅之祐の明治天皇)をスヘの実家の西円寺にて出産。 | ||
+ | この頃(1845年頃)作蔵が西円寺の東隣の麻郷「地家」に家を建てる。だから戸籍を作る時、「地家」の地名を苗字にした。 | ||
+ | (「地家」とはそもそも村の中心地と言う意味) | ||
+ | 1852年12月8日(戸籍では寅助の誕生日になっている)戸籍名庄吉(通名は省吉)出産。 | ||
+ | 1854年2月29日に戸籍名三男朝平(通名は浅平、浅蔵とも)出産。(俺の高祖父) | ||
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+ | >>その後、旧暦1854年8月22日に作蔵とスヘが離婚。 | ||
+ | 長男寅吉、次男庄吉をスヘが引き取り、多分西円寺の実家?へ戻る。 | ||
+ | 大谷(興正寺)昭顥坊(照景?)の家か?? (京都には帰ってないであろう) | ||
+ | 長女ターケと3男朝平は作蔵が引き取る。その後、作蔵は神代某と再婚する。その後作蔵とのあいだに虎吉をもうける。 | ||
+ | (作蔵の後妻神代某は明治4年9月1日死去)1855年9月8日 | ||
+ | (祖父の記憶では寅吉がかぞえ6歳の時)大室弥兵衛とスヘ再婚。 | ||
+ | スヘは大室弥兵衛の2号となる。(弥兵衛の本妻は前に書いたとおり大室文右衛門の娘ハナ) | ||
+ | 地家寅吉は大室寅吉(後の大室寅之祐明治天皇)に。地家庄吉は大室庄吉となる。 | ||
+ | 1855年11月頃、大室弥兵衛とスへとの間に大室寅助が生まれたが直後、 | ||
+ | スヘが産後のひだち悪く肺結核で死亡。(1855年11月20日没) | ||
+ | (西円寺池で入水自殺か?大室近祐説) 寅助の方も1857年6月22日に1歳数カ月で病死。 | ||
+ | 文政時代に初代大室家当主が死去してから4代目と思われる大室寅助死去により大室家断絶。 | ||
+ | 大室本家は実質作蔵の息子たちにのっとられた。(大室家に海賊の血が混入してガラが悪くなった) | ||
+ | そこから先は、鹿島昇著、新国民社刊『裏切られた三人の天皇 ── 明治維新の謎』に書いてある通りなので省略。 | ||
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+ | 1863年8月18日の政変により長州尊攘派、七卿とともに京都より追放される。そのため朝敵となった長州藩在京勢力は | ||
+ | 三条実美ら七卿をともなって長州麻郷の大室家に落ち着いてかぞえ14歳になったばかりの寅吉を見て喜び滞在中非常に | ||
+ | かわいがって日々をすごしたという。(1863年8月~9月頃)その後1863年寅吉は奇兵隊に参加。 | ||
+ | 1863年から1864年まで伊藤俊輔が大室家に立ち寄るようになった。 | ||
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+ | 1865年1月寅吉かぞえ16歳の時、萩へ行きそこから高杉晋作による功山寺挙兵に参戦。見事に勝利する。そのため弟の庄吉の方は別府村 | ||
+ | の高城家にあずけられた。(この庄吉が実家の大室家に帰ったのは1866年10月末頃俊輔が寅吉(玉)を麻郷から連れ出した | ||
+ | 後のことであった。)そして1866年10月末ころ寅吉改め寅助が16歳(かぞえ17歳)の時、錦の旗と南朝の首飾りをつけ「萩へマンジュウ作りに行く」といって | ||
+ | 萩へ行く。萩の杉家(吉田松陰の実家)へ玉をうつし松蔭の母杉瀧子によるしつけ教育をうながすことにした。(護衛は力士隊)この時期に麻郷では寅吉が行方不明になった | ||
+ | というので大騒ぎになった。麻郷村の人間が手分けして探した。(庄吉はこのとき上関宰判所へ呼び出され大庄屋時政藤五郎の取り調べを受けて小役人たちに拷問されたが | ||
+ | 歯を食いしばって通しさらに行方を自状しなかったという。)1867年3月下旬『玉』は田中光顕 | ||
+ | や力士隊に守られ萩から周防高森に移る。手紙が来て寅 | ||
+ | 助(寅之祐)が | ||
+ | 上洛するから大室弥兵衛が高森までおみまいにいったが寅助(寅之祐)にあえず、 | ||
+ | 麻郷へ帰ったという。それから「玉」は一時期通化寺の遊撃隊屯所に滞在していたが | ||
+ | 岩国新湊から英国船で品川弥二郎や中岡慎太郎とともに上京して1867年4月13日、 | ||
+ | 二本松の島津屋敷に入った。 | ||
+ | しかし新撰組に捕まりそうになったので1867年10月17日に寅助を寅之祐と改名し | ||
+ | 亡命するため女装した「玉」が芸者風に変装した女官たちを連れて京都を脱出。 | ||
+ | 西郷らの忍者部隊にまもられて英国船などにのり一同は1867年10月下旬、 | ||
+ | 田布施町麻郷の大室家に帰ってくるのである。 | ||
+ | それが、「大室虎吉改め大室寅之祐が芸者連れて麻郷に帰ってきて・・」 と | ||
+ | 書かれた例の資料が出てきた話に通じる。(鹿島昇先生調べ) | ||
+ | 1867年11月倒幕出兵軍、海路進発11月初旬には薩摩の軍船2隻が麻郷米出浜に着岸し | ||
+ | 兵800を率いて上陸してきた島津久光と、博多から同乗してきた三条実美ほかの | ||
+ | 五卿も合流した。(麻郷に島津久光の薩摩屋敷跡あり。) | ||
+ | 11月13日藩主島津忠義が自ら率いる薩摩藩主力3000は倒幕のため鹿児島から4隻の | ||
+ | 巨船にのって西宮に上陸。(1867年11月15日慶喜追討に反対してた坂本龍馬と中岡慎太郎が伊藤博文、 | ||
+ | 山縣有朋、井上馨、3名によって暗殺される。)11月25日長州藩は近代的装備の第一陣1200の兵を藩船7隻に | ||
+ | 分乗させて三田尻を発し第二陣1000人の部隊は陸路西宮へ進軍した | ||
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+ | 先の島津忠義軍と西宮で合流し大洲藩は勤皇藩として西宮の藩邸に長州薩摩軍を無血上陸させるなど貢献した。そして一同は鳥羽伏見の戦いのため準備をした。 | ||
+ | 大室寅吉が大室寅助、、、寅之祐と名前を巧みに変えたのは伊藤博文が林宇一や林利助や俊輔の様に名前を変えて変名を用いたのと同じ事。このような倒幕軍の | ||
+ | 進発予定が麻郷に届いて「玉」および奇兵隊一条勝子以下三条ら五卿、島津久光、薩長同盟幹部一同は打ちそろって1867年12月9日、田布施町麻郷井神の高松八幡宮にて | ||
+ | 「王政復古の大号令」を発し新調の錦旗を掲げる官軍(薩長諸隊)の出陣式を行った。(だから通史にある王政復古の大号令(1867年12月9日)とはもちろん京都での話ではない。) | ||
+ | (今でも麻郷には三条実美らが滞在したと言われる石碑がひっそりと残っている。) 午後の小御所会議もそうで、通史にある京都御所での話ではない。 | ||
+ | このあと12月下旬彼らは室津(上関町)から英国船など2隻に乗船し薩摩の軍船2隻と合流し、おくれて京都をめざした。鳥羽伏見の戦いの時明治天皇自ら閲兵したという | ||
+ | のはウソで戦い中大室寅之祐は大阪湾に浮かぶ軍艦の上に立ってた。(護衛は第二奇兵隊)鳥羽伏見の戦い中(1月3日)、慶喜軍が砲撃してくるから大阪に上陸できなかったという。 | ||
+ | その後、鳥羽・伏見の戦いで薩長軍勝利。このとき寅之祐が大阪に初上陸。(大阪に明治天皇上陸の記念碑あり。)一同は京都御所をめざす。 | ||
+ | 1月8日慶喜は松平容保、松平定敬ら重役連と軍艦開陽丸にのり江戸に逃げ帰った。 | ||
+ | 1月10日のあけがた京都御所にいた睦仁(京都明治天皇)は御所を脱出。鹿島昇が | ||
+ | 京都明治天皇は暗殺されたと書いてたがウソで維新後、京都明治天皇は比叡山方面の | ||
+ | 某寺で僧として生き延びた。同日入れかわるようにして大室寅之祐が軍隊を引き連れ京都御所に入った。 | ||
+ | 旧暦1868年(慶応4年)1月10日から1月15日までの間人事の一新が京都御所で行われた。 | ||
+ | この一新が「明治維新」の語源となる。(手柄のあった奴に論功賞をあたえた。) | ||
+ | 慶応4年1月15日、大室寅之祐が新明治天皇として正式に御所ですりかわって即位。 | ||
+ | 15日以降の明治天皇の伝記についてはドナルド=キーン氏『明治天皇』上巻に詳しい。 |
2016年12月22日 (木) 14:11時点における最新版
大室寅之祐(おおむろとらのすけ)とは、長州出身。明治天皇の正体ではないかと考えられる人物である。
◆山口県田布施町麻郷の大室さん 2012年12月4日現在(更新) 橋本龍太郎氏の祖母大室ヨネ(米)の父大室庄吉の兄大室寅之祐(東京明治天皇) についてお話します。 そもそも、田布施町のタブーについて(この事)(大室寅之祐について)は、 田布施町麻郷の古い人間なら500%知っている事実で、佐藤栄作、岸信介すらわ かっていたが、うちの爺さんが「大室家が南朝光良親王の末裔で500年以上続いて、 しかも寅之祐が大室家24代目なんて嘘だ!」と言ってた。始め意味が分から なかったが本質は、
A寅之祐の大室家が本当に南朝後醍醐天皇の玄孫光良親王が1400年に吉野から 麻郷に亡命して大室姓をなのってから24代も続いているのか?
B本当に寅之祐の実の父は大室弥兵衛なのか? と言う事であった。
その後の調査で実はAに関しては、大室家(後の後南朝大室家)は1800年頃から始まり、 文政時代に初代大室家当主(父)大室文右衛門が死去(系図には大室家初代(父)大室文右衛門の父は麻郷某と いうかかれ方してる。)(妻は1830年8月9日死去)。2代目(息子)大室文右衛門が家督を 継ぐ。同時代に大室家は村の大庄屋となり家が繁栄した。同じ頃頼山陽によって、 大室家の家系図が整備され南朝の末裔を自称するようになった。2代目(息子)大室文右衛門の妻は1827年8月2日に死亡。 子は1827年10月9日に早死してしまう。そこで大室又兵衛(1789年3月29日生れ)の 息子大室弥兵衛(1813年6月14日~1886年3月3日)が満24歳の時2代目(息子)大室文右衛門の娘ハナ(1815年12月5日~1903年2月1日) と1837年結婚し2代目(息子)大室文右衛門家(大室本家)の養子に入って大室本家3代目として家督を 継ぐ。ハナと弥兵衛との間に子供が2人できたが一人目は1849年4月14日に早死し 2人目は1853年に同じく早死してしまった。(以上地家の西円寺の過去帳による)ちなみに地家吉左衛門の父は2代目地家正右衛門。その父は初代地家正右衛門。その父は地家某で不明。(以上西円寺の過去帳による)
(※だから、大室寅之祐の代で、大室家4代目にあたる。)
Bに関してはこれを踏まえ、本当の所は、苗字は岸(ガン)の廻船業者の荒くれ男の岸(李)半左衛門要蔵(遼陽から戎ヶ下にきた在日一世)。(1853年1月17日没) 周 伊麻→岸(李)半左衛門要蔵→(岸)地家作蔵→明治天皇→昭和天皇と 岸要蔵→信祐→佐藤(岸)秀助→岸信介で昭和天皇と岸信介は「はとこ」の関係がある。
岸要蔵の息子岸作蔵が地家吉左衛門家(1840年3月12日没)の養子となり(1835年4月)「地家」姓を賜る。 (のちに地家庄兵衛の養子になる)地家河内作蔵となのり廻船業して財を築き周防国(田布施町)麻郷村小字地家に住み着いた。 1840年頃、興正寺(大谷)谷口(やぐち)昭顥(ショウコウ)坊(照景?)(苗字は谷口)と娘谷口(やぐち)スヘが田布施町麻郷地家の西円寺に 京都浄土真宗興正派、興正寺からやってきた。(興正寺昭顥坊は興正派門主一族)やがて地家作蔵(旧暦1823年2月16日~新暦1887年4月24日) と興正寺基子(SUEKO)=谷口スヘ(1831年5月1日~1855年11月20日)が1844年頃結婚する。スヘが満13歳頃の時である。作蔵 と結婚した1年後、スヘ満14歳の頃、第一子をもうけるが1845年12月15日に1歳弱で病死した。その後スヘは 長女ターケ(1847年4月14日生まれ)を出産。1850年1月10日(戸籍では庄吉の誕生日になっている)に 戸籍名寅吉(普段使う通名は虎吉。後の大室寅之祐の明治天皇)をスヘの実家の西円寺にて出産。 この頃(1845年頃)作蔵が西円寺の東隣の麻郷「地家」に家を建てる。だから戸籍を作る時、「地家」の地名を苗字にした。 (「地家」とはそもそも村の中心地と言う意味) 1852年12月8日(戸籍では寅助の誕生日になっている)戸籍名庄吉(通名は省吉)出産。 1854年2月29日に戸籍名三男朝平(通名は浅平、浅蔵とも)出産。(俺の高祖父)
>>その後、旧暦1854年8月22日に作蔵とスヘが離婚。 長男寅吉、次男庄吉をスヘが引き取り、多分西円寺の実家?へ戻る。 大谷(興正寺)昭顥坊(照景?)の家か?? (京都には帰ってないであろう) 長女ターケと3男朝平は作蔵が引き取る。その後、作蔵は神代某と再婚する。その後作蔵とのあいだに虎吉をもうける。 (作蔵の後妻神代某は明治4年9月1日死去)1855年9月8日 (祖父の記憶では寅吉がかぞえ6歳の時)大室弥兵衛とスヘ再婚。 スヘは大室弥兵衛の2号となる。(弥兵衛の本妻は前に書いたとおり大室文右衛門の娘ハナ) 地家寅吉は大室寅吉(後の大室寅之祐明治天皇)に。地家庄吉は大室庄吉となる。 1855年11月頃、大室弥兵衛とスへとの間に大室寅助が生まれたが直後、 スヘが産後のひだち悪く肺結核で死亡。(1855年11月20日没) (西円寺池で入水自殺か?大室近祐説) 寅助の方も1857年6月22日に1歳数カ月で病死。 文政時代に初代大室家当主が死去してから4代目と思われる大室寅助死去により大室家断絶。 大室本家は実質作蔵の息子たちにのっとられた。(大室家に海賊の血が混入してガラが悪くなった) そこから先は、鹿島昇著、新国民社刊『裏切られた三人の天皇 ── 明治維新の謎』に書いてある通りなので省略。
1863年8月18日の政変により長州尊攘派、七卿とともに京都より追放される。そのため朝敵となった長州藩在京勢力は
三条実美ら七卿をともなって長州麻郷の大室家に落ち着いてかぞえ14歳になったばかりの寅吉を見て喜び滞在中非常に
かわいがって日々をすごしたという。(1863年8月~9月頃)その後1863年寅吉は奇兵隊に参加。
1863年から1864年まで伊藤俊輔が大室家に立ち寄るようになった。
1865年1月寅吉かぞえ16歳の時、萩へ行きそこから高杉晋作による功山寺挙兵に参戦。見事に勝利する。そのため弟の庄吉の方は別府村 の高城家にあずけられた。(この庄吉が実家の大室家に帰ったのは1866年10月末頃俊輔が寅吉(玉)を麻郷から連れ出した 後のことであった。)そして1866年10月末ころ寅吉改め寅助が16歳(かぞえ17歳)の時、錦の旗と南朝の首飾りをつけ「萩へマンジュウ作りに行く」といって 萩へ行く。萩の杉家(吉田松陰の実家)へ玉をうつし松蔭の母杉瀧子によるしつけ教育をうながすことにした。(護衛は力士隊)この時期に麻郷では寅吉が行方不明になった というので大騒ぎになった。麻郷村の人間が手分けして探した。(庄吉はこのとき上関宰判所へ呼び出され大庄屋時政藤五郎の取り調べを受けて小役人たちに拷問されたが 歯を食いしばって通しさらに行方を自状しなかったという。)1867年3月下旬『玉』は田中光顕 や力士隊に守られ萩から周防高森に移る。手紙が来て寅 助(寅之祐)が 上洛するから大室弥兵衛が高森までおみまいにいったが寅助(寅之祐)にあえず、 麻郷へ帰ったという。それから「玉」は一時期通化寺の遊撃隊屯所に滞在していたが 岩国新湊から英国船で品川弥二郎や中岡慎太郎とともに上京して1867年4月13日、 二本松の島津屋敷に入った。 しかし新撰組に捕まりそうになったので1867年10月17日に寅助を寅之祐と改名し 亡命するため女装した「玉」が芸者風に変装した女官たちを連れて京都を脱出。 西郷らの忍者部隊にまもられて英国船などにのり一同は1867年10月下旬、 田布施町麻郷の大室家に帰ってくるのである。 それが、「大室虎吉改め大室寅之祐が芸者連れて麻郷に帰ってきて・・」 と 書かれた例の資料が出てきた話に通じる。(鹿島昇先生調べ) 1867年11月倒幕出兵軍、海路進発11月初旬には薩摩の軍船2隻が麻郷米出浜に着岸し 兵800を率いて上陸してきた島津久光と、博多から同乗してきた三条実美ほかの 五卿も合流した。(麻郷に島津久光の薩摩屋敷跡あり。) 11月13日藩主島津忠義が自ら率いる薩摩藩主力3000は倒幕のため鹿児島から4隻の 巨船にのって西宮に上陸。(1867年11月15日慶喜追討に反対してた坂本龍馬と中岡慎太郎が伊藤博文、 山縣有朋、井上馨、3名によって暗殺される。)11月25日長州藩は近代的装備の第一陣1200の兵を藩船7隻に 分乗させて三田尻を発し第二陣1000人の部隊は陸路西宮へ進軍した
先の島津忠義軍と西宮で合流し大洲藩は勤皇藩として西宮の藩邸に長州薩摩軍を無血上陸させるなど貢献した。そして一同は鳥羽伏見の戦いのため準備をした。 大室寅吉が大室寅助、、、寅之祐と名前を巧みに変えたのは伊藤博文が林宇一や林利助や俊輔の様に名前を変えて変名を用いたのと同じ事。このような倒幕軍の 進発予定が麻郷に届いて「玉」および奇兵隊一条勝子以下三条ら五卿、島津久光、薩長同盟幹部一同は打ちそろって1867年12月9日、田布施町麻郷井神の高松八幡宮にて 「王政復古の大号令」を発し新調の錦旗を掲げる官軍(薩長諸隊)の出陣式を行った。(だから通史にある王政復古の大号令(1867年12月9日)とはもちろん京都での話ではない。) (今でも麻郷には三条実美らが滞在したと言われる石碑がひっそりと残っている。) 午後の小御所会議もそうで、通史にある京都御所での話ではない。 このあと12月下旬彼らは室津(上関町)から英国船など2隻に乗船し薩摩の軍船2隻と合流し、おくれて京都をめざした。鳥羽伏見の戦いの時明治天皇自ら閲兵したという のはウソで戦い中大室寅之祐は大阪湾に浮かぶ軍艦の上に立ってた。(護衛は第二奇兵隊)鳥羽伏見の戦い中(1月3日)、慶喜軍が砲撃してくるから大阪に上陸できなかったという。 その後、鳥羽・伏見の戦いで薩長軍勝利。このとき寅之祐が大阪に初上陸。(大阪に明治天皇上陸の記念碑あり。)一同は京都御所をめざす。 1月8日慶喜は松平容保、松平定敬ら重役連と軍艦開陽丸にのり江戸に逃げ帰った。 1月10日のあけがた京都御所にいた睦仁(京都明治天皇)は御所を脱出。鹿島昇が 京都明治天皇は暗殺されたと書いてたがウソで維新後、京都明治天皇は比叡山方面の 某寺で僧として生き延びた。同日入れかわるようにして大室寅之祐が軍隊を引き連れ京都御所に入った。 旧暦1868年(慶応4年)1月10日から1月15日までの間人事の一新が京都御所で行われた。 この一新が「明治維新」の語源となる。(手柄のあった奴に論功賞をあたえた。) 慶応4年1月15日、大室寅之祐が新明治天皇として正式に御所ですりかわって即位。 15日以降の明治天皇の伝記についてはドナルド=キーン氏『明治天皇』上巻に詳しい。