「名古屋コーチン」の版間の差分

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海部種から名古屋コーチンが作出された過程の詳細はよく分かっていないが{{Sfn|入谷|2000|pp=156-157}}、海部壮平は、1888年(明治21)に西洋種12種を購入して、5年にわたり自家の改良種と比較飼育したが、改良種の方が強健で、肉味がよく、換羽期によく産卵するなどの特長が確認できたため、洋種を廃し、改良種の飼育を続けて、品種を固定化させた、などの記録から、海部種に近いものを残し、更に羽色が[[淡黄色]]の種を選抜するなどの品種改良を加えて作出されたと見られている{{Sfn|入谷|2000|p=166-167,169 - 石崎芳吉『副業養鶏』、愛知県農事試験場『愛知の養鶏』1916年(大正5)および愛知県養鶏組合連合会『愛知の養鶏』1926年(大正15)による。}}。
 
海部種から名古屋コーチンが作出された過程の詳細はよく分かっていないが{{Sfn|入谷|2000|pp=156-157}}、海部壮平は、1888年(明治21)に西洋種12種を購入して、5年にわたり自家の改良種と比較飼育したが、改良種の方が強健で、肉味がよく、換羽期によく産卵するなどの特長が確認できたため、洋種を廃し、改良種の飼育を続けて、品種を固定化させた、などの記録から、海部種に近いものを残し、更に羽色が[[淡黄色]]の種を選抜するなどの品種改良を加えて作出されたと見られている{{Sfn|入谷|2000|p=166-167,169 - 石崎芳吉『副業養鶏』、愛知県農事試験場『愛知の養鶏』1916年(大正5)および愛知県養鶏組合連合会『愛知の養鶏』1926年(大正15)による。}}。
  
海部壮平は1895年(明治28)に急死し、その死後は、弟・正秀、佐藤正重、五味岩太郎、重枝正樹、木村練三郎、大野良吉らによって改良が続けられた{{Sfn|入谷|2000|pp=177,181,}}。
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海部壮平は1895年(明治28)に急死し、その死後は、弟・正秀、佐藤正重、[[五味岩太郎]]、重枝正樹、木村練三郎、大野良吉らによって改良が続けられた{{Sfn|入谷|2000|pp=177,181,}}。
  
 
1903年(明治36)に[[愛知県立農事試験場]]は[[西春日井郡]][[清洲町]]に養鶏部を設置し、名古屋コーチンの品種完成を目指した{{Sfn|入谷|2000|p=205}}。
 
1903年(明治36)に[[愛知県立農事試験場]]は[[西春日井郡]][[清洲町]]に養鶏部を設置し、名古屋コーチンの品種完成を目指した{{Sfn|入谷|2000|p=205}}。

2021年2月18日 (木) 01:55時点における最新版

名古屋コーチン(なごやコーチン)は、主に愛知県で育成される卵肉兼用の鶏の品種、呼称。幕末明治初期の尾張藩士だった海部壮平正秀兄弟が1883年(明治16)に地鶏とバフコーチンを交配させて作出した海部種を原型とし、品種改良を重ねて旧尾張国一円の養鶏農家に普及、明治20年代に関西に販路を拡大する中で「名古屋コーチン」と呼ばれるようになった。1905年、「名古屋コーチン」名で日本家禽協会による実用鶏認定第1号。大正期の品種改良を経て、1919年に名古屋種と改称。卵用種としての改良が進み、鶏・卵ともに小型化していたところ、戦後、ブロイラーレグホーンなどの輸入品種の普及により急速に衰退。1972年以降、肉用品種として再改良が行われ、1992年に明治40年代と同程度の大きさの新肉用名古屋コーチンが作出され、肉味も改良された。

誕生[編集]

尾張藩では安政年間に藩士の近松某・八尾某が副業として自身の屋敷内で500羽以上の鶏を柵飼いしており、その他にも禄の少ない武士で数百羽規模の養鶏をしている者が10数名あった[1]

1877年(明治10)には尾張部の専業養鶏家が集まり、愛知県飼鶏業組合を組織[2]

1883年に地鶏とバフコーチンの交配によって作出された海部種は、旧尾張国一円の養鶏家の間で普及し、(1888年以降)東海道線開通により、岐阜大垣滋賀県京阪地方へ販路を拡大。関西でも人気を博し、「名古屋から来た」という意味合いで「名古屋コーチン」と呼ばれるようになった。[3]

海部種から名古屋コーチンが作出された過程の詳細はよく分かっていないが[4]、海部壮平は、1888年(明治21)に西洋種12種を購入して、5年にわたり自家の改良種と比較飼育したが、改良種の方が強健で、肉味がよく、換羽期によく産卵するなどの特長が確認できたため、洋種を廃し、改良種の飼育を続けて、品種を固定化させた、などの記録から、海部種に近いものを残し、更に羽色が淡黄色の種を選抜するなどの品種改良を加えて作出されたと見られている[5]

海部壮平は1895年(明治28)に急死し、その死後は、弟・正秀、佐藤正重、五味岩太郎、重枝正樹、木村練三郎、大野良吉らによって改良が続けられた[6]

1903年(明治36)に愛知県立農事試験場西春日井郡清洲町に養鶏部を設置し、名古屋コーチンの品種完成を目指した[7]

1905年(明治38)に日本家禽協会は、「名古屋コーチン」を実用鶏第1号に認定[8]

その後、愛知県農事試験場に設けられた畜産部で品種改良が進められた[9]

大正期には、改良が進み、1919年に中央畜産会によって呼称は名古屋種と改められた[10]

新肉用名古屋コーチン[編集]

1962年に鶏の貿易が自由化された後、肉用種のブロイラー、卵用種のレグホーンの種鶏が普及した。名古屋コーチンは、卵用種として改良されていたものの、鶏・卵ともに小型化しており、また輸入品種が持っていたマレック病への抗体を持っておらず、同病に罹病し大量死することがあったことから、養鶏家に選好されにくくなり、急速に衰退した。[11]

バブル景気の頃、グルメ志向によって食肉の品質のよい鶏種への需要が高まり、名古屋市農業センターは「名古屋種振興会」(のち名古屋コーチン普及会)を結成して品種の再普及に取り組むことにした。愛知県農業総合試験場養鶏研究所は卵用鶏の改良から食肉の品質改良にテーマを変更し、近親交配を避けるため、1972年に冨山県で飼育されていた遠縁の名古屋コーチンを入手。試験場の名古屋コーチンと交配させて、大型化と肉味の改良を進めた。[12]

1972年冬に品種改良を始めた当初、250日齢の体重はオス2.7kg、メス2.1kgだったが、1983年には同体重はオス3.9kg、メス2.7kgに達し、肉味も改良された。その後、1984年から更に新肉用品種の改良が続けられ、1992年には明治40年代の体重と同程度の、250日齢の体重がオス4kg、メス3.2kgの品種が作出された。[13]

付録[編集]

関連文献[編集]

  • 愛知の養鶏史編纂委員会『愛知の養鶏史』愛知の養鶏史編纂委員会、1987、JPNO 98053698
  • 高橋徳次「名古屋種作出者海部翁を偲ぶ」『養鶏之日本』1931年7,8,9月号[14]
  • 愛知県養鶏組合連合会『愛知の養鶏』1926年(大正15)[15]
  • 愛知県農事試験場『愛知の養鶏』1916(大正5)[16]
  • 重枝正樹『養鶏秘訣大全』1901年(明治34)[17]
  • 石崎芳吉『副業養鶏』[16]

脚注[編集]

  1. 入谷 2000 40
  2. 入谷 2000 68
  3. 入谷 2000 175
  4. 入谷 2000 156-157
  5. 入谷 2000 166-167,169 - 石崎芳吉『副業養鶏』、愛知県農事試験場『愛知の養鶏』1916年(大正5)および愛知県養鶏組合連合会『愛知の養鶏』1926年(大正15)による。
  6. 入谷 2000 177,181,
  7. 入谷 2000 205
  8. 入谷 2000 178
  9. 入谷 2000 181
  10. 入谷 2000 181,206
  11. 入谷 2000 10-11
  12. 入谷 2000 11-16
  13. 入谷 2000 11-20
  14. 入谷 2000 110-111
  15. 入谷 2000 169
  16. 16.0 16.1 入谷 2000 166-167
  17. 入谷 2000 178-181

参考文献[編集]