「シンカワン県」の版間の差分

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'''シンカワン県'''({{Lang-id|Kabupaten Singkawang}})は、[[日本海軍]]の占領行政の時代に[[西カリマンタン]](旧[[蘭領ボルネオ]]西部)地方に設置された[[県]]{{Sfn|赤道会|1975|p=序}}。分担地域の広さは約1,515,000km<sup>2</sup>{{Sfn|赤道会|1975|p=23}}。
 
'''シンカワン県'''({{Lang-id|Kabupaten Singkawang}})は、[[日本海軍]]の占領行政の時代に[[西カリマンタン]](旧[[蘭領ボルネオ]]西部)地方に設置された[[県]]{{Sfn|赤道会|1975|p=序}}。分担地域の広さは約1,515,000km<sup>2</sup>{{Sfn|赤道会|1975|p=23}}。
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1943年6月頃、[[四国]]ほどの面積に人口60万人が暮らしていた{{Sfn|赤道会|1976|p=40}}。うち[[華人]]が15-16万人を占めていた{{Sfn|赤道会|1976|p=40}}。県都は[[シンカワン]]{{Sfn|赤道会|1976|p=40}}。
  
 
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シンカワン民政部の事務所は、市街地の西北端にあった市長の事務所をそのまま使用{{Sfn|赤道会|1975|p=23}}。市長の[[アリウデン]]と[[華僑統制会]]の[[許可祥]]が民政に協力していた{{Sfn|赤道会|1975|p=23}}。
 
シンカワン民政部の事務所は、市街地の西北端にあった市長の事務所をそのまま使用{{Sfn|赤道会|1975|p=23}}。市長の[[アリウデン]]と[[華僑統制会]]の[[許可祥]]が民政に協力していた{{Sfn|赤道会|1975|p=23}}。
  
のちポンチアナク民政部支部は州知事庁に変わり、シンカワン県監理官が設置され、[[土侯・部長制]]が実施された{{Sfn|赤道会|1975|p=23}}。シンカワンは、シンカワン・ベンカヤン・サンバス・ムンパワの4分県に分割され、[[スルタン・サンバス|サンバス]]と[[スルタン・メンパワ|ムンパワ]]のサルタンの下に約300人の王領職員、部長6人、副部長9人、村長591人、民政部所属職員500人で自治を分担した{{Sfn|赤道会|1975|p=23}}。
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のちポンチアナク民政部支部は州知事庁に変わり、シンカワン県監理官が設置され、[[土侯・部長制]]が実施された{{Sfn|赤道会|1975|p=23}}。シンカワンは、シンカワン・ベンカヤン・サンバス・ムンパワの4分県に分割され、[[スルタン・サンバス|サンバス]]と[[スルタン・ムンパワ|ムンパワ]]のサルタンの下に約300人の王領職員、部長6人、副部長9人、村長591人、民政部所属職員500人で自治を分担した{{Sfn|赤道会|1975|p=23}}。
  
 
終戦時に、県庁の職員数人が処刑された{{Sfn|赤道会|1975|p=23。同書は、無実の罪状によって処刑された、としている。}}。
 
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*[[サンバス市]]
 
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*{{Aya|赤道会|year=1975}} ポンチアナク赤道会『赤道標』{{JPNO|73012073}}
 
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2020年6月23日 (火) 01:25時点における最新版

シンカワン県インドネシア語Kabupaten Singkawang)は、日本海軍の占領行政の時代に西カリマンタン(旧蘭領ボルネオ西部)地方に設置された[1]。分担地域の広さは約1,515,000km2[2]

地勢[編集]

1943年6月頃、四国ほどの面積に人口60万人が暮らしていた[3]。うち華人が15-16万人を占めていた[3]。県都はシンカワン[3]

物産[編集]

コプラガンビルロタン胡椒ゴムダマール木材などがシンカワン市を中心に取扱われていた[2]

県事務所[編集]

シンカワン民政部の事務所は、市街地の西北端にあった市長の事務所をそのまま使用[2]。市長のアリウデン華僑統制会許可祥が民政に協力していた[2]

のちポンチアナク民政部支部は州知事庁に変わり、シンカワン県監理官が設置され、土侯・部長制が実施された[2]。シンカワンは、シンカワン・ベンカヤン・サンバス・ムンパワの4分県に分割され、サンバスムンパワのサルタンの下に約300人の王領職員、部長6人、副部長9人、村長591人、民政部所属職員500人で自治を分担した[2]

終戦時に、県庁の職員数人が処刑された[4]

警察署[編集]

  • シンカワン警察署長:山田武夫警部[5]

県内の市[編集]

付録[編集]

脚注[編集]

  1. 赤道会 1975
  2. 2.0 2.1 2.2 2.3 2.4 2.5 赤道会 1975 23
  3. 3.0 3.1 3.2 赤道会 1976 40
  4. 赤道会 1975 23。同書は、無実の罪状によって処刑された、としている。
  5. 赤道会 1975 74

参考文献[編集]

  • 赤道会 (1976) ポンチアナク赤道会『続赤道標』JPNO 73015036
  • 赤道会 (1975) ポンチアナク赤道会『赤道標』JPNO 73012073