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'''萩原 真'''(はぎはら まこと)、'''斎藤 義暢'''(さいとう よしお?)は、日本の宗教活動家。宗教団体・[[真の道]]の開祖。
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'''萩原 真'''(はぎはら まこと、[[1910年]] - [[1981年]])、'''斎藤 義暢'''(さいとう よしお?)は、日本の宗教活動家。宗教団体・[[真の道]]の開祖。
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1910年(明治43)、[[千葉県]][[長生郡]]南白亀(なばき)村(2011年当時の[[白子町]])生まれ{{Sfn|柏書房|2011|p=336}}。
  
 
1927年、[[満洲]]を訪問し、[[関東州]][[関子]]の[[日高見農場]]で[[内山若枝]]に会って影響を受ける{{Sfn|原|2009|p=191。『真を求めて - 萩原真自伝』(宗教法人真の道、1991年)による。}}。
 
1927年、[[満洲]]を訪問し、[[関東州]][[関子]]の[[日高見農場]]で[[内山若枝]]に会って影響を受ける{{Sfn|原|2009|p=191。『真を求めて - 萩原真自伝』(宗教法人真の道、1991年)による。}}。
  
1931年に萩原は[[大連]]の[[道院]]を訪問し、[[乩示]](扶乩、降霊術)によって「瑞道」という名を与えられ、霊能者から天意を受けて働かなくてはならない使命を持っているといわれたといい、日本に帰国した後、真の道の前身にあたる宗教団体・千鳥会を開いた{{Sfn|原|2009|p=191}}。
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1931年、[[大連]]の[[道院]]を訪問し、[[乩示]](扶乩、降霊術)によって「瑞道」という名を与えられ、霊能者から天意を受けて働かなくてはならない使命を持っているといわれたといい、日本に帰国した後、真の道の前身にあたる宗教団体・千鳥会を開いた{{Sfn|原|2009|p=191}}。
  
 
[[小田秀人]]{{Harv|小田|1985|pp=60-61}}によると、萩原は1931年に内山とともに小田を訪ねて来た一行の中にいた青年だったが、満洲に帰ってから「物理現象的霊能」を発揮するようになった。小田は、萩原を[[朝鮮]]から[[東京]]へ呼び寄せて日本の心霊界に紹介したという。
 
[[小田秀人]]{{Harv|小田|1985|pp=60-61}}によると、萩原は1931年に内山とともに小田を訪ねて来た一行の中にいた青年だったが、満洲に帰ってから「物理現象的霊能」を発揮するようになった。小田は、萩原を[[朝鮮]]から[[東京]]へ呼び寄せて日本の心霊界に紹介したという。
  
この頃、萩原は[[千葉県]]の[[九十九里浜]]近くで暮らしており、小田秀人や[[竹内満朋]]とともに九十九里浜で2月に5日間の「断食みそぎ」をしたことがあった{{Sfn|小田|1985|pp=60-61}}。
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この頃、萩原は千葉県の[[九十九里浜]]近くで暮らしており、小田秀人や[[竹内満朋]]とともに九十九里浜で2月に5日間の「断食みそぎ」をしたことがあった{{Sfn|小田|1985|pp=60-61}}。
  
 
[[1933年]](昭和8)[[12月20日]]に、東京・[[成城]]の[[巴章呂]]で行われた「神言拝受の儀式」には「巴章呂の一党」の1人として[[若林不比等]]、[[舟田六郎]]、[[竹内重郎]]、[[執行稲造]]らとともに出席。このとき、霊媒となった内山は、「みちから ちはえて あめつち ゆりませ」という16音の「ことたま」の託宣をした。{{Sfn|小田|1985|pp=150-153,156-162}}
 
[[1933年]](昭和8)[[12月20日]]に、東京・[[成城]]の[[巴章呂]]で行われた「神言拝受の儀式」には「巴章呂の一党」の1人として[[若林不比等]]、[[舟田六郎]]、[[竹内重郎]]、[[執行稲造]]らとともに出席。このとき、霊媒となった内山は、「みちから ちはえて あめつち ゆりませ」という16音の「ことたま」の託宣をした。{{Sfn|小田|1985|pp=150-153,156-162}}
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青年時代に萩原は何度も中国大陸へ渡り、大連、[[青島]]、[[上海]]、[[香港]]などを流浪したという{{Sfn|柏書房|2011|p=336}}。
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1946年に日本に帰国し、その後、心霊研究グループ・[[菊花会]]に参加{{Sfn|柏書房|2011|p=336}}。1948年に[[塩谷信男]]ら有志と心霊研究グループ・'''千鳥会'''を結成した{{Sfn|柏書房|2011|p=336}}。
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1952年に教団名を「真の道」と改め、1953年に[[宗教法人]]化{{Sfn|柏書房|2011|p=336}}。
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1981年に死去した{{Sfn|柏書房|2011|p=336}}。
  
 
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=== 参考文献 ===
 
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*{{Aya|柏書房|year=2011}} 島田裕巳(監修)柏書房(編)『現代にっぽん新宗教百科』柏書房、ISBN 978-4760139729
 
*{{Aya|原|year=2009}} 原武史『松本清張の「遺言」 - 『神々の乱心』を読み解く』〈文春新書〉文藝春秋、2009年、ISBN 978-4166607037
 
*{{Aya|原|year=2009}} 原武史『松本清張の「遺言」 - 『神々の乱心』を読み解く』〈文春新書〉文藝春秋、2009年、ISBN 978-4166607037
 
*{{Aya|小田|year=1985}} 小田秀人『生命の原点に還れ』たま出版、1985年1月、ISBN 4884811291
 
*{{Aya|小田|year=1985}} 小田秀人『生命の原点に還れ』たま出版、1985年1月、ISBN 4884811291
  
 
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萩原 真(はぎはら まこと、1910年 - 1981年)、斎藤 義暢(さいとう よしお?)は、日本の宗教活動家。宗教団体・真の道の開祖。

経歴[編集]

戦前[編集]

1910年(明治43)、千葉県長生郡南白亀(なばき)村(2011年当時の白子町)生まれ[1]

1927年、満洲を訪問し、関東州関子日高見農場内山若枝に会って影響を受ける[2]

1931年、大連道院を訪問し、乩示(扶乩、降霊術)によって「瑞道」という名を与えられ、霊能者から天意を受けて働かなくてはならない使命を持っているといわれたといい、日本に帰国した後、真の道の前身にあたる宗教団体・千鳥会を開いた[3]

小田秀人(小田 1985 60-61)によると、萩原は1931年に内山とともに小田を訪ねて来た一行の中にいた青年だったが、満洲に帰ってから「物理現象的霊能」を発揮するようになった。小田は、萩原を朝鮮から東京へ呼び寄せて日本の心霊界に紹介したという。

この頃、萩原は千葉県の九十九里浜近くで暮らしており、小田秀人や竹内満朋とともに九十九里浜で2月に5日間の「断食みそぎ」をしたことがあった[4]

1933年(昭和8)12月20日に、東京・成城巴章呂で行われた「神言拝受の儀式」には「巴章呂の一党」の1人として若林不比等舟田六郎竹内重郎執行稲造らとともに出席。このとき、霊媒となった内山は、「みちから ちはえて あめつち ゆりませ」という16音の「ことたま」の託宣をした。[5]

青年時代に萩原は何度も中国大陸へ渡り、大連、青島上海香港などを流浪したという[1]

戦後[編集]

1946年に日本に帰国し、その後、心霊研究グループ・菊花会に参加[1]。1948年に塩谷信男ら有志と心霊研究グループ・千鳥会を結成した[1]

1952年に教団名を「真の道」と改め、1953年に宗教法人[1]

1981年に死去した[1]

付録[編集]

脚注[編集]

  1. 1.0 1.1 1.2 1.3 1.4 1.5 柏書房 2011 336
  2. 原 2009 191。『真を求めて - 萩原真自伝』(宗教法人真の道、1991年)による。
  3. 原 2009 191
  4. 小田 1985 60-61
  5. 小田 1985 150-153,156-162

参考文献[編集]

  • 柏書房 (2011) 島田裕巳(監修)柏書房(編)『現代にっぽん新宗教百科』柏書房、ISBN 978-4760139729
  • 原 (2009) 原武史『松本清張の「遺言」 - 『神々の乱心』を読み解く』〈文春新書〉文藝春秋、2009年、ISBN 978-4166607037
  • 小田 (1985) 小田秀人『生命の原点に還れ』たま出版、1985年1月、ISBN 4884811291