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事件の直後から王仁三郎が口述を始めた『霊界物語』は、『大本神諭』と並ぶ大本の教典とされた{{Sfn|原|2009|pp=84-85,97-98}}。 | 事件の直後から王仁三郎が口述を始めた『霊界物語』は、『大本神諭』と並ぶ大本の教典とされた{{Sfn|原|2009|pp=84-85,97-98}}。 | ||
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===関連文献=== | ===関連文献=== | ||
*大本七十年史編纂会(編)『大本七十年史 上巻』大本、1964年、{{NDLJP|3003950}}{{閉}} | *大本七十年史編纂会(編)『大本七十年史 上巻』大本、1964年、{{NDLJP|3003950}}{{閉}} | ||
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− | *{{Aya|原|year=2009}} 原武史『松本清張の「遺言」 - | + | *{{Aya|原|year=2009}} 原武史『松本清張の「遺言」 - 『神々の乱心』を読み解く』〈文春新書〉文藝春秋、ISBN 978-4166607037 |
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2021年4月9日 (金) 20:29時点における最新版
大本(おおもと)、大本教(おおもときょう)は、1892年に出口ナヲが開教した宗教[1]。大本の教典にあたる『大本神諭』は、開祖・出口ナヲの「お筆先(ふでさき)」(自動筆記)によって書かれたとされている[2]。京都府に本部がある[3]。
ナヲの養子・出口王仁三郎は、ナオが紙に書きなぐった「お筆先」をわかりやすく解説して理論付け、大本の「聖師」と呼ばれた[4]。
大正の初め頃、皇道大本では、「鎮魂帰神の神がかりの修行」を盛んに行い、「大正維新」を提唱し、世の切替えの時期が切迫していると予言していた[5]。
第1次世界大戦後の不況下で、教団は全国的に発展。世の立替えの時期は大正11年(1922年)3月3日か5月5日だと予言するようになった[6]。
1921年(大正10)に、大本の急速な勢力拡大が反体制運動につながることを懸念した当局によって王仁三郎が不敬罪で検挙され、京都地裁で有罪判決を受けた(第1次大本事件)[7]。
また事件翌年の「最後の日」には何事もなく過ぎた。こうしたことから信者が動揺し、浅野和三郎や谷口雅春は教団を離れて東京へ移住した。[6]
事件の直後から王仁三郎が口述を始めた『霊界物語』は、『大本神諭』と並ぶ大本の教典とされた[8]。
1931年(昭和6)の満洲事変の後、控訴中に出口王仁三郎は蒙古へ渡航し、道院(紅卍字会)やラマ教、シベリア方面の回々教とも提携して外地で勢力を拡大。内地では昭和青年会を組織した。[9]
大本が教義とした「世直し」は国家改造を主張する国粋主義者や陸軍の反現状維持派の軍人から支持を得ていった[10]。
1935年(昭和10)12月8日に不敬罪と治安維持法違反で王仁三郎ら幹部が一斉検挙された(第2次大本事件)[11]。
1942年(昭和17)8月、王仁三郎が保釈され、出獄[12]。
1945年(昭和20)12月8日、綾部で行われた「大本事件解決奉告祭」で、新教団・「愛善苑」を発足させることを表明。1947年(昭和22)1月22日に「宗教法人愛善苑」が正式に発足した[13]。
付録[編集]
関連文献[編集]
脚注[編集]
参考文献[編集]
- 原 (2009) 原武史『松本清張の「遺言」 - 『神々の乱心』を読み解く』〈文春新書〉文藝春秋、ISBN 978-4166607037
- 森克明「『九鬼文書』の周辺」三浦一郎『九鬼文書の研究 新装版』八幡書店、1999年、ISBN 978-4893502018
- ― (1986) 初版:八幡書店、1986年
- 村上 (1978) 村上重良『日本宗教事典』講談社、JPNO 79002209