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貢進生(こうしんせい)は、1870年(明治3年)7月27日太政官布告により,学問,品行に優秀なる子弟を選抜し,各藩の負担によって大学南校へ進学させた奨学制度である。大学卒業後、多くは明治のエリートになった。
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貢進生(こうしんせい)は、1870年(明治3年)7月27日[[太政官]]布告により、学問,品行に優秀なる子弟を選抜し,各藩の負担によって[[大学南校]]へ進学させた奨学制度である。大学卒業後、
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その多くは明治のエリートになった<ref>渡辺修二郎(1900)『青年と立身処世』大学館</ref><ref>国史大辞典編集委員会(1985)『国史大辞典』吉川弘文館</ref>。
  
1970年10月には,各藩が派遣した英才を貢進生として大学南校に迎えた。貢進生の総数は318名で、年齢は16歳から20歳とされていた。
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1970年10月には,各藩が派遣した英才を貢進生として[[大学南校]]に迎えた。貢進生の総数は318名で、年齢は16歳から20歳とされていた。
 
貢進生の制度は1871年に廃止されたが,その後,旧藩は独自に育英会を組織した。
 
貢進生の制度は1871年に廃止されたが,その後,旧藩は独自に育英会を組織した。
  
外国人教師が英語・フランス語(後にドイツ語が加わる)で初・中等教育カリキュラムを直接教える正則コースでは、場合によっては左氏春秋や漢書まで仕上げた学生に、アメリカの少年向きの文法書を教えたため、年齢の高い学生の不満は強かった。そのため教授内容にあきたらず学校を去る例が多かった。大学南校規則にはあえて「普通科ヲ学フノ間ハ専ラ教師教官ノ指示ニ従ヒ妄ニ私見ヲ立ツベカラス」という条項が設けられている。それぞれ半年の課程である初等(スペル・加減乗除)、八等(クワッケンボス小文典・分数比例)、七等(大文典・平方根と立方根)、六等(ウィルソン氏万国史・代数)、五等(クワッケンボス氏物理学・幾何)をすべて英語やフランス語で理解してはじめて、その上の専門科のカリキュラムについていけるのであり、[[開成学校]]や[[東京大学]]まで残った学生はすべてこの難行に耐えた。
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外国人教師が英語・フランス語(後にドイツ語が加わる)で初・中等教育カリキュラムを直接教える正則コースでは、場合によっては[[左氏春秋]]や[[漢書]]まで仕上げた学生に、アメリカの少年向きの文法書を教えたため、年齢の高い学生の不満は強かった。そのため教授内容にあきたらず学校を去る例が多かった。[[大学南校]]規則にはあえて「普通科ヲ学フノ間ハ専ラ教師教官ノ指示ニ従ヒ妄ニ私見ヲ立ツベカラス」という条項が設けられている。それぞれ半年の課程である初等(スペル・加減乗除)、八等(クワッケンボス小文典・分数比例)、七等(大文典・平方根と立方根)、六等(ウィルソン氏万国史・代数)、五等(クワッケンボス氏物理学・幾何)をすべて英語やフランス語で理解してはじめて、その上の専門科のカリキュラムについていけるのであり、[[開成学校]]や[[東京大学]]まで残った学生はすべてこの難行に耐えた。
大学南校時代に集まった貢進生318名のうち、南校に残ることができたのは約130名であった。
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[[大学南校]]時代に集まった貢進生318名のうち、
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最後まで大学南校に残ることができたのは約130名であった<ref>東京帝国大学(1932)『東京帝国大学五十年史』東京帝国大学</ref>。
  
貢進生は原則として寄宿舎に入った。明治5年の名簿では、英語は9クラス、フランス語は6クラス、ドイツ語は4クラスに分けられ、総学生数は447名であった。
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貢進生は原則として寄宿舎に入った。明治5年の名簿では、英語は9クラス、フランス語は6クラス、
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ドイツ語は4クラスに分けられ、総学生数は447名であった<ref>唐澤富太郎(1974)『貢進生 : 幕末維新期のエリート』ぎょうせい</ref>。
  
 
== 主な出身者 ==
 
== 主な出身者 ==
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*1870 [[櫻井錠二]](加賀藩)
 
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*1870 [[中村恭平 (教育者)|中村恭平]](田原藩)
 
*1870 [[青木保]](足守藩)
 
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*1871 [[高橋順太郎]](加賀藩)
 
*1871 [[高橋順太郎]](加賀藩)
 
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*1870 [[高平小五郎]](一関藩)
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2018年9月9日 (日) 12:25時点における最新版

貢進生(こうしんせい)は、1870年(明治3年)7月27日太政官布告により、学問,品行に優秀なる子弟を選抜し,各藩の負担によって大学南校へ進学させた奨学制度である。大学卒業後、 その多くは明治のエリートになった[1][2]

1970年10月には,各藩が派遣した英才を貢進生として大学南校に迎えた。貢進生の総数は318名で、年齢は16歳から20歳とされていた。 貢進生の制度は1871年に廃止されたが,その後,旧藩は独自に育英会を組織した。

外国人教師が英語・フランス語(後にドイツ語が加わる)で初・中等教育カリキュラムを直接教える正則コースでは、場合によっては左氏春秋漢書まで仕上げた学生に、アメリカの少年向きの文法書を教えたため、年齢の高い学生の不満は強かった。そのため教授内容にあきたらず学校を去る例が多かった。大学南校規則にはあえて「普通科ヲ学フノ間ハ専ラ教師教官ノ指示ニ従ヒ妄ニ私見ヲ立ツベカラス」という条項が設けられている。それぞれ半年の課程である初等(スペル・加減乗除)、八等(クワッケンボス小文典・分数比例)、七等(大文典・平方根と立方根)、六等(ウィルソン氏万国史・代数)、五等(クワッケンボス氏物理学・幾何)をすべて英語やフランス語で理解してはじめて、その上の専門科のカリキュラムについていけるのであり、開成学校東京大学まで残った学生はすべてこの難行に耐えた。 大学南校時代に集まった貢進生318名のうち、 最後まで大学南校に残ることができたのは約130名であった[3]

貢進生は原則として寄宿舎に入った。明治5年の名簿では、英語は9クラス、フランス語は6クラス、 ドイツ語は4クラスに分けられ、総学生数は447名であった[4]

主な出身者[編集]

参考文献[編集]

  1. 渡辺修二郎(1900)『青年と立身処世』大学館
  2. 国史大辞典編集委員会(1985)『国史大辞典』吉川弘文館
  3. 東京帝国大学(1932)『東京帝国大学五十年史』東京帝国大学
  4. 唐澤富太郎(1974)『貢進生 : 幕末維新期のエリート』ぎょうせい