「皇后雅子」の版間の差分
細 (→外部リンク) |
|||
(2人の利用者による、間の3版が非表示) | |||
1行目: | 1行目: | ||
'''皇太子徳仁親王妃雅子'''(こうたいしなるひとしんのうひ まさこ、[[1963年]]([[昭和]]38年)[[12月9日]] - )は、[[日本]]の[[皇族]]。[[皇太子徳仁親王]]の妃。旧名・'''小和田雅子'''(おわだ まさこ)。[[身位]]は[[皇太子妃]]、[[親王妃]]。[[皇室典範]]に定める[[敬称]]は[[殿下]]。[[お印]]は[[ハマナス]]。[[勲等]]は[[宝冠大綬章]]。[[学位]]は[[学士(経済学)|経済学士]](Bachelor of Arts in Economics ''magna cum laude'')([[ハーバード大学]]・[[1985年]])。 | '''皇太子徳仁親王妃雅子'''(こうたいしなるひとしんのうひ まさこ、[[1963年]]([[昭和]]38年)[[12月9日]] - )は、[[日本]]の[[皇族]]。[[皇太子徳仁親王]]の妃。旧名・'''小和田雅子'''(おわだ まさこ)。[[身位]]は[[皇太子妃]]、[[親王妃]]。[[皇室典範]]に定める[[敬称]]は[[殿下]]。[[お印]]は[[ハマナス]]。[[勲等]]は[[宝冠大綬章]]。[[学位]]は[[学士(経済学)|経済学士]](Bachelor of Arts in Economics ''magna cum laude'')([[ハーバード大学]]・[[1985年]])。 | ||
+ | ==発言== | ||
+ | {{Quotation|'''殿下と夕食をとりながらテレビを見てたのよ'''||1993年10月15日}} | ||
+ | {{Quotation|'''食事はおいしいですか?'''||2000年10月27日}} | ||
+ | {{Quotation|'''これは中国の犬ですか?'''||2006年10月26日}} | ||
+ | {{Quotation|'''ああダメだわ'''||2008年10月23日}} | ||
+ | {{Quotation|'''あら偶然ね'''||2011年9月14日}} | ||
+ | {{Quotation|'''大丈夫、為せば成る、為さねば成らぬ何事も、の精神で行きなさい'''||2011年10月13日}} | ||
== 略歴 == | == 略歴 == | ||
=== 生い立ち === | === 生い立ち === | ||
100行目: | 107行目: | ||
[[Category:日本の外交官]] | [[Category:日本の外交官]] | ||
[[Category:帰国子女]] | [[Category:帰国子女]] | ||
− | [[Category: | + | [[Category:東京大学に在学した人物]] |
[[Category:オックスフォード大学出身の人物]] | [[Category:オックスフォード大学出身の人物]] | ||
[[Category:ハーバード大学出身の人物]] | [[Category:ハーバード大学出身の人物]] | ||
[[Category:東京都出身の人物]] | [[Category:東京都出身の人物]] | ||
[[Category:1963年生]] | [[Category:1963年生]] |
2020年7月2日 (木) 11:53時点における最新版
皇太子徳仁親王妃雅子(こうたいしなるひとしんのうひ まさこ、1963年(昭和38年)12月9日 - )は、日本の皇族。皇太子徳仁親王の妃。旧名・小和田雅子(おわだ まさこ)。身位は皇太子妃、親王妃。皇室典範に定める敬称は殿下。お印はハマナス。勲等は宝冠大綬章。学位は経済学士(Bachelor of Arts in Economics magna cum laude)(ハーバード大学・1985年)。
目次
発言[編集]
殿下と夕食をとりながらテレビを見てたのよ
– 1993年10月15日
食事はおいしいですか?
– 2000年10月27日
これは中国の犬ですか?
– 2006年10月26日
ああダメだわ
– 2008年10月23日
あら偶然ね
– 2011年9月14日
大丈夫、為せば成る、為さねば成らぬ何事も、の精神で行きなさい
– 2011年10月13日
略歴[編集]
生い立ち[編集]
- 1963年(昭和38年)12月9日、外務省職員の小和田恆・優美子夫妻の長女として東京都港区の虎の門病院にて誕生する。父の仕事の関係で幼少期をソビエト連邦・スイス連邦で過ごす。
- 1971年(昭和46年)3月、目黒区立原町小学校第1学年に編入して、同年5月に、新宿区立富久小学校第2学年に編入する。
- 1972年(昭和47年)4月から、田園調布雙葉小学校に編入して卒業する。その後、同中学校を経て同高校に進学するも、父の仕事の関係で、米国ボストンへ移住する。
- 1979年(昭和54年)よりベルモントハイスクールへ通学する。
- 1981年(昭和56年)、同ハイスクールを卒業する。ハーバード大学に入学。
独身時代[編集]
- 1985年(昭和60年)6月、ハーバード大学を卒業する。在学中は、心身障害児の運動指導やフランス語のサークルで活動する。
- 1986年(昭和61年)、帰国後となる4月に東京大学法学部に外部学士入学するが、同年10月に外務公務員採用I種試験に合格し、外務省入省が決まる。この際、女性初のキャリア官僚 スーパールーキーと話題になる。
- 1987年(昭和62年)に東京大学を中退し、外務省へ入省。経済局国際機関第二課に配属された。
- 1988年(昭和63年)から外務省の研修留学として、オックスフォード大学ベリオール・カレッジに留学。
- 1990年(平成2年)6月に研修留学から帰国、7月1日付で北米二課に配属された。
徳仁親王との馴れ初め[編集]
- 1986年(昭和61年)に来日したスペインのエレナ王女の歓迎レセプションに出席した時に徳仁親王と知り合い、研修留学からの帰国後には、皇太子となった皇太子徳仁親王の御妃候補として報道され、大きな話題となった。その後、徳仁親王との交際に付いては、『鴨場でのデート』も話題になっている。
- 1992年(平成4年)12月12日に、皇太子徳仁親王からの求婚を受諾している。
愛車の流行[編集]
当時、雅子が所有し運転するトヨタ・カローラIIが報道され、販売台数が爆発的に増えた。
皇太子妃時代[編集]
- 1993年(平成5年)1月19日、皇室会議にて徳仁親王妃に内定し、記者会見を行なう。ハーバード大卒のキャリアウーマンであること等が世間の注目を受けた。同年2月をもって外務省を退職。同年4月12日の納采の儀(婚約)を経て、同年6月9日に結婚の儀が行なわれた。「結婚の儀」のテレビ中継の最高視聴率は77.9%(午前10時12分(JST)に記録。ビデオリサーチ・関東地区調べ、NHK総合と民放を合わせた総世帯視聴率)を記録した。成婚パレードには沿道に19万人の市民が集まり、テレビ中継の最高視聴率は79.2%(パレード終了直後の午後5時21分(JST)に記録。ビデオリサーチ・関東地区調べ、NHK総合と民放を合わせた総世帯視聴率)を記録した。6月17日に雅子の名が皇統譜に登録された。
- 1996年(平成8年)5月、米国のニューズウィーク誌が伝統の中で能力を発揮できないという主旨の記事を掲載する。同年12月の誕生日記者会見には単独で応じ、以後2002年(平成14年)まで6回、単独会見を開いている。
- 1999年(平成11年)12月10日、朝日新聞が朝刊一面で皇太子妃雅子の懐妊の兆候をスクープ報道する。宮内庁および同東宮職は複数回に渡り、過熱報道の自粛を要請した。皇太子妃雅子は12月23日の天皇誕生日一般参賀には出席したが、その後12月30日に稽留流産の手術を受けたと発表された。古川清東宮大夫・川口政行東宮侍医長・医師の岡井崇が記者会見を開き、懐妊が早期から大々的に報道され皇太子妃雅子に心労を与えたことを批判する一方、海外訪問との因果関係については否定した。また、過度の報道に対して徳仁親王は遺憾の意を表明した。
- 2000年(平成12年)2月から、公務に復帰する。
- 2001年(平成13年)4月16日に懐妊の可能性が発表された。
- 2004年(平成16年)5月、徳仁親王が訪欧を前にした記者会見で「雅子のキャリアや、そのことに基づいた雅子の人格を否定するような動きがあったことも事実です」と発言。海外育ちで国際派と見られていた皇太子妃雅子と、伝統と慣習に厳格な宮内庁との間で不和があることをうかがわせた。この発言は人格否定発言と呼ばれ、大きな反響を呼んだ。
- 同年6月、適応障害の診断を受け病気療養に入る 。
- 2006年(平成18年)からは今上天皇・皇后(いずれも現在)陪席のもと、御所で歴代天皇のご進講を続けている。
- 2010年(平成22年)3月以降、学校内に問題を抱えた愛子内親王を気遣って登下校に付き添うようになり、外出の機会が一時期増加した。
- 2013年(平成25年)4月28日、皇太子夫妻はオランダからの招待を受け同国の公式訪問が実現し、30日アムステルダムにある新協会で ウィレム=アレクサンダー (オランダ王) の即位式に出席した 。海外で公務に臨んだのは夫妻でニュージーランドとオーストラリアを訪問した平成14年12月以来約11年ぶり。
- 同年10月12日、全国障害者スポーツ大会開会式に10年ぶりに出席した。
- 2014年(平成26年)7月15日、武蔵陵墓地に12年ぶりに参拝、7月29日に伊勢神宮に20年ぶりに参拝した。8月3日には全国高等学校総合体育大会に12年ぶりに出席、皇太子一家で競技を観戦した。
- 同年10月29日オランダ国王夫妻歓迎行事に出席(5年ぶり)、宮中晩さん会に11年ぶりに出席した。
公務と体調[編集]
2000年(平成12年)7月の香淳皇后の斂葬の儀の欠席や同年8月の佐賀県訪問中止を皮切りに、徐々に体調不良を理由とした公務や祭祀への欠席が目立つようになる。2003年(平成15年)には帯状疱疹のため長期静養し、翌2004年(平成16年)7月30日に、適応障害で長期間静養している事実が公表された。以後、東宮御所における接見を除けば出席する公務は殆ど無くなり、宮中祭祀も参加していない状態にある。唯一、2009年(平成21年)1月2日、「昭和天皇二十年式年祭の儀」中の「皇霊殿の儀」に、今上天皇・皇后の名代として夫の徳仁親王とともに拝礼した。これは2003年(平成15年)9月23日以来5年3ヶ月ぶりに、潔斎を経て平安装束を着用しての祭祀出席となった。
なお、公務の出欠の判断は病気の性質上東宮職医師団が行い、皇太子妃雅子の当日の体調により最終決定される。
2011年(平成23年)、4月より8月まで複数回、岩手県大船渡市などの東日本大震災の被災地慰問を行った。
2013年(平成25年)、復興の過程にある東日本大震災の被災地を励ますために東北三県の慰問を行った。8月20日には宮城県を訪れ、七ヶ浜町の仮設住宅を慰問した。11月1日と2日は岩手県を訪れ、3年ぶりの泊まりがけ公務にJR盛岡駅前の出迎えは1800人に達した。釜石市の仮設住宅と津波被害から復旧した水産加工会社を慰問した。
年譜[編集]
- 1963年(昭和38年)12月9日、東京都港区に生まれる。本籍地は新潟県村上市本町
- 1981年 (昭和56年)5月(17歳)、ハーバード大学経済学部入学
- 1985年(昭和60年)6月(21歳)、ハーバード大学経済学部卒業
- 1986年(昭和61年)4月(22歳)、東京大学法学部に学士入学。3年に編入学
- 1987年(昭和62年)4月(23歳)、外務省入省 経済局国際機関第二課に配属されOECD担当となる
- 1988年(昭和63年)(24歳)、オックスフォード大学ベリオール・カレッジに外務省の研修で留学
- 1990年(平成2年)(26歳)、北米局北米二課に配属され市場開放・規制緩和を担当となる
- 1993年(平成5年)1月19日(29歳)、皇室会議で皇太子徳仁親王の妃に内定
- 2001年(平成13年)12月1日(37歳)、愛子内親王を出産
家系[編集]
雅子 | 父: 小和田恆 (外務省事務次官) |
祖父: 小和田毅夫 (高田市教育委員長) |
祖母: 小和田静 | ||
母: 小和田優美子 |
祖父: 江頭豊 (チッソ会長) | |
祖母: 江頭寿々子 |
発言[編集]
- 「私に対して『皇室に入られるということには、いろいろな不安や心配がおありでしょうけれども、雅子さんのことは僕が一生全力でお守りしますから』というふうに仰ってくださいました」 - 皇室入りを決意させたものについて
- 1993年(平成5年)1月19日、婚約内定の記者会見にて
- 「本当に生まれてきてありがとうという気持ちで一杯になりました」 - 愛子内親王出産の際の気持ちについて
- 2002年(平成14年)4月2日、愛子内親王誕生の際の記者会見にて
関連項目[編集]
外部リンク[編集]
- 皇太子夫妻の略歴と子女の紹介(宮内庁公式)
- とっておき!雅子さまの写真(写真家・浅岡敬史による)
- 皇太子妃殿下 雅子様ゆかりの地(新潟県村上市郷土資料館)
- NHKアーカイブス 皇太子さま・雅子さまご結婚(1993年) - 日本放送協会(NHK)