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哲也君は、夢中で山をよじ登ったが、後ろから津波の強い衝撃を受けて気を失った。同じように津波にのまれて、流れてきた冷蔵庫に入って助かった同級生が、体が半分ほど土に埋もれていた哲也君を助け出した。 | 哲也君は、夢中で山をよじ登ったが、後ろから津波の強い衝撃を受けて気を失った。同じように津波にのまれて、流れてきた冷蔵庫に入って助かった同級生が、体が半分ほど土に埋もれていた哲也君を助け出した。 | ||
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+ | == 大川小児童遺族、第三者委会合で学校の対応批判(2013年3月) == | ||
+ | 東日本大震災の津波により宮城県石巻市立大川小学校の児童・教職員84人が死亡・行方不明となった問題の原因解明に向け、[[文部科学省]]主導で設置された第三者検証委員会の第2回会合が21日、同市内で開かれた。 | ||
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+ | 犠牲になった児童3人の父母が意見を述べ、学校の当時の判断や事後対応を批判した。 | ||
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+ | 検証委で、父母らは震災が起きる以前、児童たちが学校の裏山に登っていた様子を撮影した写真を示しながら、児童が避難しようとしていた北上川べりの高台ではなく、「低学年でも登れる裏山に避難するべきだった」と指摘。「避難できる時間、情報、手段は十分にそろっていたのに、移動した時間と距離はわずかだった」と、学校側の判断が誤りだったと主張した。 | ||
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+ | また、校庭に避難していた児童たちが裏山へ逃げようと訴えていたと生存児童が証言しているとし、「子どもが話したこともなかったことのようにされた。隠蔽、捏造と言われても仕方のない対応」と非難した。 | ||
== 通学区域 == | == 通学区域 == |
2013年3月22日 (金) 20:53時点における最新版
石巻市立大川小学校(いしのまきしりつ おおかわしょうがっこう)は、宮城県石巻市釜谷山根にある公立小学校である。旧桃生郡河北町に位置する。
目次
沿革[編集]
- 1873年(明治6年) - 桃生郡釜谷小学校開校。
- 1887年(明治20年) - 長面尋常小学校と改称。
- 1901年(明治34年) - 大川尋常高等小学校創設。
- 1941年(昭和16年) - 国民学校令により、大川国民学校と改称。
- 1947年(昭和22年) - 学制改革により大川小学校と改称。
- 1955年(昭和30年) - 町村合併により河北町立大川小学校に改称。
- 1958年(昭和33年) - 福地分校が大川第二小学校として独立し、大川小学校は大川第一小学校に改称。
- 1985年(昭和60年) - 大川第一小学校、大川第二小学校が統合され大川小学校に改称。
- 2005年(平成17年) - 平成の大合併により石巻市立大川小学校と改称。
- 2007年(平成19年) - 尾崎、長面、針岡、福地、横川地区からの通学者向け路線バスが廃止されたため、スクールバスを導入。
- 2011年(平成23年) - 東日本大震災の津波により、多数の児童が犠牲となる。
東日本大震災[編集]
2011年(平成23年)3月11日に発生した東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)に伴う津波が地震発生後およそ50分経った15時36分頃、三陸海岸・追波湾の湾奥にある新北上川(追波川)河口から約5kmの距離にある当校を襲い、校庭に避難していた児童108名中70名が死亡、4名が行方不明(2012年1月23日現在)、教職員13名中、校内にいた11名のうち9名が死亡、1名が行方不明(2011年4月9日現在)となった。スクールバスの運転手も死亡している。
地震直後、校舎は割れたガラスが散乱し、余震で倒壊する恐れもあり、学校南側の裏山は急斜面で足場が悪いことから(泥炭地で足が滑りやすいと判断されていた。津波が来た際にあわてて裏山に登り助かった児童も雪で足を滑らせながらもよじ登った。)、約200m西側にある周囲の堤防より小高くなっていた新北上大橋のたもと(三角地帯)を目指して移動し始めた。その直後、堤防を乗り越えた巨大な津波が児童の列を前方からのみ込んだ。列の後方にいた教諭と数人の児童は向きを変えて裏山を駆け上がるなどして、一部は助かった。
その後のマスコミ取材で、裏山と三角地帯が避難先の候補となり、山へ逃げるという意見と、老人も含まれている事を考慮して三角地帯にするべきという意見が教職員の間で対立し、最終的に三角地帯を目指した事が分かってきている。なお、目ざした三角地帯も、津波に呑み込まれている。
宮城県が2004年3月に策定した第3次地震被害想定調査による津波浸水域予測図では、津波は海岸から最大で3km程度内陸に入り、津波は来ないとされている大川小学校は避難所に指定されている。このため、地震の後、高齢者を含む近所の住民が避難してきていた。被災後の議論で石巻市教育委員会は、学校の危機管理マニュアルに津波を想定した2次避難先が明記されていなかった点で責任があると認め、父母らに謝罪している。
難を逃れた児童22名は新学期より、同校より10km離れた石巻市立飯野川第一小学校へ通学している。大川小には、犠牲者を慰霊するために制作された母子像が設置され、2011年10月23日に除幕式が行われた。
小学生「おい裏山に逃げようぜ!」「ここにいたら死ぬ」先生「は?戻れ!」→74人死亡[編集]
この日、大川小の柏葉照幸校長(当時)は、年休を取り、学校には不在だった。 教務主任のA教諭(教職員として唯一の生存者)は、廊下から「校庭へ避難しろ」と叫んでいた。
子どもたちは早足で、校庭へ出た。上履きを靴に履き替えたり、自分の判断でジャンパーを着用したりした子どももいた。外では、小雪が舞い始めていた。A教諭は、校庭に出ると「山だ! 山だ! 山に逃げろ」と叫んだ。それを聞いて、山にダーッと登っていった子がいたが、教諭の誰かから「戻れ!」と怒られ、連れ戻された。
5、6年生の男子たちが、「山さ上がろう」と先生に訴えていた。当時6年生の佐藤雄樹君と今野大輔君は「いつも、俺たち、(裏山へ)上がってっから」「地割れが起きる」「俺たち、ここにいたら死ぬべや」「先生なのに、なんでわからないんだ」と、くってかかっていたという。
2人も一旦校庭から裏山に駆けだしたが、戻れと言われて、校庭に引き返している。防災無線では、「海岸線や河川には近づかないでください」と呼びかけていた。教頭の持っていたラジオでは、6メートルの大津波警報を伝えていた。
担任教諭たちが校庭で点呼をとり、教頭へ報告。遅くとも午後3時前には完了していたと思われる。数分ごとに、たびたび余震が起きていた。校庭では、女の子たちが泣いていた。「地震酔い」なのか、吐いている子もいた。
哲也君は、夢中で山をよじ登ったが、後ろから津波の強い衝撃を受けて気を失った。同じように津波にのまれて、流れてきた冷蔵庫に入って助かった同級生が、体が半分ほど土に埋もれていた哲也君を助け出した。
大川小児童遺族、第三者委会合で学校の対応批判(2013年3月)[編集]
東日本大震災の津波により宮城県石巻市立大川小学校の児童・教職員84人が死亡・行方不明となった問題の原因解明に向け、文部科学省主導で設置された第三者検証委員会の第2回会合が21日、同市内で開かれた。
犠牲になった児童3人の父母が意見を述べ、学校の当時の判断や事後対応を批判した。
検証委で、父母らは震災が起きる以前、児童たちが学校の裏山に登っていた様子を撮影した写真を示しながら、児童が避難しようとしていた北上川べりの高台ではなく、「低学年でも登れる裏山に避難するべきだった」と指摘。「避難できる時間、情報、手段は十分にそろっていたのに、移動した時間と距離はわずかだった」と、学校側の判断が誤りだったと主張した。
また、校庭に避難していた児童たちが裏山へ逃げようと訴えていたと生存児童が証言しているとし、「子どもが話したこともなかったことのようにされた。隠蔽、捏造と言われても仕方のない対応」と非難した。
通学区域[編集]
石巻市福地、針岡、釜谷、長面、尾崎の全域が大川小学校の通学区域に指定されている
関連項目[編集]
外部リンク[編集]
- 石巻市立大川小学校(現在はトップページのみの掲載となっている)