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発見者は家主から鍵を預かり、「喜寿荘」のオーナーが経営するネパール料理店の店長Mだった。Mは、前日、101号室の玄関脇の小窓が10センチほど開いたままになっているのに気づき、そこから中を覗くと、仰向けに寝た状態の女の上半身が見えたので、玄関のドアノブを回すと鍵はかかっておらずドアが開いた。そこには女ものの靴が一足きちんと揃えてあった。Mはネパール人の女性だと思い、ネパール語で声をかけたが、返事がないので、熟睡しているものと思い、その場を立ち去った。だが、次の日、さすがに気になってもう一度部屋を覗き、女がまだ「寝ている」のを見て、もしやと思い、警察に通報したのだった。捜査本部の調べで、死因は絞殺によるもので、死亡推定日時は8日夜から9日未明の間とされた。 | 発見者は家主から鍵を預かり、「喜寿荘」のオーナーが経営するネパール料理店の店長Mだった。Mは、前日、101号室の玄関脇の小窓が10センチほど開いたままになっているのに気づき、そこから中を覗くと、仰向けに寝た状態の女の上半身が見えたので、玄関のドアノブを回すと鍵はかかっておらずドアが開いた。そこには女ものの靴が一足きちんと揃えてあった。Mはネパール人の女性だと思い、ネパール語で声をかけたが、返事がないので、熟睡しているものと思い、その場を立ち去った。だが、次の日、さすがに気になってもう一度部屋を覗き、女がまだ「寝ている」のを見て、もしやと思い、警察に通報したのだった。捜査本部の調べで、死因は絞殺によるもので、死亡推定日時は8日夜から9日未明の間とされた。 | ||
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2019年11月27日 (水) 11:07時点における最新版
東電OL殺人事件(とうでんオーエルさつじんじけん)は1997年(平成9年)3月に東京電力東京本社・企画部・経済調査室副長 渡邉泰子が東京都渋谷区円山町にあるアパートで殺害された事件である。
渡邉泰子の当時の直属の上司が取締役企画部長・勝俣恒久(現東電会長)。企画部管理課長には藤原万喜夫(現副社長) 。上司の勝俣部長は、翌年「常務取締役」に出世した。
目次
遺体発見[編集]
1997年(平成9年)3月19日午後5時半ころ、東京都渋谷区円山町の木造2階建てのアパート「喜寿荘」の1階101号室の空き部屋で、東京電力に勤める渡邉泰子(39歳)が絞殺死体で発見された。
バーバリーのベージュのコート、下には青のツーピース、下着にも乱れはなかった。長い髪の毛(カツラ)にはなぜかボールペンが絡まっていた。死体の頭部の近くには取っ手が根元からはずれたショルダーバッグがあり、口が開いていた。バッグの中にあった財布の中の現金は473円、未使用のコンドーム28個、名刺入れの中の名刺には、<東京電力東京本社 企画部 経済調査室副長 渡邉泰子>とあった。身長169センチに対し体重44キログラムであり、拒食症という摂食障害があった。また、トイレの中の和式水洗便器のブルーレット水溶液内には使用済みのコンドームがあり、コンドームの中には精液があった。
発見者は家主から鍵を預かり、「喜寿荘」のオーナーが経営するネパール料理店の店長Mだった。Mは、前日、101号室の玄関脇の小窓が10センチほど開いたままになっているのに気づき、そこから中を覗くと、仰向けに寝た状態の女の上半身が見えたので、玄関のドアノブを回すと鍵はかかっておらずドアが開いた。そこには女ものの靴が一足きちんと揃えてあった。Mはネパール人の女性だと思い、ネパール語で声をかけたが、返事がないので、熟睡しているものと思い、その場を立ち去った。だが、次の日、さすがに気になってもう一度部屋を覗き、女がまだ「寝ている」のを見て、もしやと思い、警察に通報したのだった。捜査本部の調べで、死因は絞殺によるもので、死亡推定日時は8日夜から9日未明の間とされた。
捜査[編集]
殺害があったとされた8日から4日後の3月12日、現場から10キロ以上離れた豊島区巣鴨の民家の庭先で泰子の定期券が発見された。この西永福ー新橋間の定期は殺害があったとされた8日から1週間前の3月1日に購入したもので、有効期限は8月31日まであり、泰子本人が捨てたとは考えられない。捜査本部は犯人が捜査の撹乱を狙って無関係な場所に捨てたものとみていた。
捜査本部の聞き込みにより、8日午後11時25分ころから45分ころまでの間に、泰子と思われる女性が東南アジア系の男性と「喜寿荘」101号室に入るのを目撃したという男の証言を得た。ただ、この時点では目撃した男を「東南アジア系の男性」とは証言しておらず、警察の誘導によって作られた可能性もある。また、午後11時45分ごろ、同じアパートの2階に住む女子高生が階段を降りてきて101号室の前を通りかかったとき、中から女の喘ぐような声がもれてくるのを聞いている。その後、女子高生は9日午前0時半過ぎ、再び自宅を出たが、そのときにはその声は聞こえなくなっていた。さらに、泰子が以前から「喜寿荘」101号室をセックスする場所に利用していたことも判明した。
マイナリの逮捕[編集]
1997年(平成9年)5月20日、ネパール国籍のゴビンダ・プラサド・マイナリ(当時30歳)が逮捕された。マイナリは事件当時、殺害現場となった「喜寿荘」の隣りの粕谷ビル401号室にネパール人の仲間4人と一緒に住み、仕事先である千葉市内JR海浜幕張駅近くのインド料理店「幕張マハラジャ」で働いていた。
警察がマイナリを疑ったのは、事件当時、マイナリが「喜寿荘」101号室の鍵を持っていたと見なされたことと目撃証言であった。マイナリは妻と2人の子どもを国に残し、1994年(平成6年)2月28日に90日間の短期滞在ビザで来日。いくつかのレストランの店員として働き、家族に送金していた。
5月29日、ビザ失効。1996年(平成8年)暮れ、マイナリは姉が来日するという知らせを受けた。そこで、姉と一緒に暮らしたいと思い、4人の同居人に「喜寿荘」101号室に移ってほしいと話をもちかけた。
1997年(平成9年)1月、マイナリはアパートの管理をしていたネパール料理店「K」の店長Mから同室の鍵を借り、4人に室内を見せた。だが、4人は部屋代が高いことなどを理由に借りることを渋った。また、その後、姉の来日も延期になって、4人が転居するという話はなくなっていたが、マイナリは鍵をMに返さないままにしていた。だが、3月5日に、同居人のネパール人のリラに鍵をMに返しておいてほしいと依頼し、翌6日、リラはMに鍵を返していたことが判明する。そして、泰子はその2日後の8日夜に殺害された。
泰子の死体が発見されたのは、3月19日だが、この日の深夜、仕事から帰ったマイナリは粕谷ビルに入ろうとしたところを、刑事に呼び止められ、名前や勤め先を訊かれ、自室の中まで調べられている。翌20日、マイナリは自分の勤め先のインド料理店「幕張マハラジャ」に電話を入れ、警察にいろいろと訊かれて部屋の中まで調べられたことを告げ、オーバーステイ(不法残留)のことで警察にいずれバレることが気になるので、しばらく休ませてほしいと頼んだ。22日、自ら渋谷署に出向いて、オーバーステイの事実を明かした。翌23日、警視庁に逮捕され、31日、東京地検にこの件で起訴された。
5月20日、東京地裁で、マイナリはオーバーステイの件、つまり入管難民法(出入国管理及び難民認定法)違反(不法残留)で懲役1年・執行猶予3年の判決を受けた。そしてその日の午後、すぐに警視庁により泰子殺害および現金4万円を奪った強盗殺人容疑で逮捕され、6月10日、東京地検に起訴された。
マイナリは、捜査段階から一貫して冤罪を主張。当初は、ありふれた殺人事件と思われていたが、日本を代表する大企業のエリート女性社員が売春を行っていたこと、無罪になった外国人を釈放せず拘留し続けたこと、DNA鑑定の真偽に問題があること、検察による証拠隠しの疑いなどにより、裁判史に残る事件となった。
被害者:渡邉泰子[編集]
家族と東電[編集]
渡邉泰子は、慶應義塾女子高等学校をへて、同大学経済学部を卒業した後、東京電力に初の女性総合職として入社した。その後、エリートコースを進み、管理職となった。会社では仕事を完全にこなしていたが、服装は地味で、人付き合いもなく、これといった男性との噂も聞かず、孤立した存在だったという。ちなみに、父親は東大出身で、母親は日本女子大出身、妹は東京女子大を出て大手電器メーカーに勤めている。
泰子は杉並区永福で母親と妹の3人で暮らしていた。父親も東京電力に勤めていたが、1977年(昭和52年)7月に、50代の若さで他界している。
渡邉泰子は、渡邉達雄の長女として、1957年(昭和32)6月7日に生まれ、慶応義塾女子高等学校、慶応義塾大学経済学部を卒業後、他界した父の跡を継ぐ形で 1980年(昭和55)4月に東京電力に就職。
東電本社では企画部調査課に所属し、1993(平成5)年には企画部経済調査室副長に昇進。同室は電力事業に対する経済の影響を研究する部署であり、泰子は、そのなかで、国の財政や税制及びその運用等が電気事業に与える影響をテーマにした研究を行い、月一、二本の報告書を作成していたそうで、そのレポートは高い評価を得ていた。
「原発の危険性を指摘」する報告書を作成し、その内容は、「原発の危険性を指摘」する報告書もあったようで、工務部副部長だった父親の渡邉達雄さんの遺志を受け継いだ内容の報告書などを作成した。
父親の渡邊達雄さんは、1949年に東大工学部を卒業、東電に勤務し、工務部副部長として将来の役員候補とされていたが、原発の危険性を指摘したため、降格させられ、渡邊泰子が慶応大学2年のとき、52歳でガンで死亡した。
夜の顔[編集]
未婚のエリート社員であったが、後の捜査で、退勤後は、円山町付近の路上で客を勧誘し売春を行っていたことが判明する。被害者が、昼間は大企業の幹部社員、夜は娼婦と全く別の顔を持っていたことで、この事件がマスコミによって興味本位に大々的に取り上げられ、被害者および家族のプライバシーをめぐり、議論が喚起された。
昼のエリート・キャリアウーマンには全く別の夜の顔があった。それを知ったマスコミが放っておくわけがなく、泰子のプライバシーは滅茶苦茶にされた。マスコミは円山町周辺の取材をして、泰子が通りかかった男に声をかけているところや男と腕を組んで歩いている姿を目撃したという話を書いた。東電の管理職である泰子が金目当てで売春しているとは考えられないと、スポーツ新聞や週刊誌はいろんな憶測記事を書き、ある週刊誌は全裸写真まで掲載した。泰子の母親は耐え切れず警察に抗議した。東京法務局は、行過ぎた内容は人権侵害に当たるとして再発防止の異例の勧告を行なった。その後、少しは鎮静化したようだった。
泰子は千代田区内幸町にある東京電力本社に勤めていたが、毎日午後5時20分に定時退社していたのに帰宅はほとんど深夜だった。調査した結果、泰子は1991年(平成3年)ころから勤務後は渋谷区円山町界隈に出没し、すぐ近くの道玄坂のホテル街で売春したり、なじみの客と待ち合わせをして売春し、一日に客を4人とるノルマを自分に課し、終電で帰るという毎日を繰り返していたことが判明した。
さらに、1996年(平成8年)6月ころからは品川区西五反田のSMクラブ「マゾッ娘宅配便」(捜査当局は最初の頃は「魔女っ子宅配便」と発表していたが、これが間違いであるとのちに訂正した)に在籍し、勤務先が休日である土日や祭日の午後0時30分ころから午後5時ころまでは「マゾッ娘宅配便」の事務室で待機し、客をとっていた。そのあとは円山町界隈で深夜まで売春していた。のちの裁判で泰子が売春していたことを母親が知っていたことが明らかになる。
また、泰子には数々の奇行が見られた。コートの裾をたくし上げて路上で放尿。道に落ちているビール瓶を拾って酒屋で1本5円に換金。さらに、その小銭を集めて、百円玉に、百円玉がたまると千円札に、そして千円札がたまると一万円札に“逆両替”。ホテルで布団を大便や小便で汚して出入り禁止になっても性懲りもなく利用。帰りの終電の中で菓子パンをムシャムシャ。
夜の渋谷では、痩せこけて異様に派手な化粧をした中年女性がふらりとやって来て、50円のチョコレートをひとつだけ買って行き「いつもわけのわからない文句ばかり言って嫌な客」と言われ、終電の井の頭線の車内では、傍目も気にせず菓子パンにかぶりついている彼女の姿が乗客達の間で有名であった。
泰子の手帳には十数人の男性の名前、電話番号がメモされていた。捜査本部はメモに記されていた男性を次々と調べていった。その結果、殺害があったとされた8日夜に、一緒に食事をしてホテルへ行った会社員がいることが判明した。この日は土曜日で泰子の会社は休みだったが、午前11時20分に自宅を出て、電車で渋谷経由、五反田へ向かった。行き先は休日の職場にしていた「マゾッ娘宅配便」だった。ここで泰子は2万5000円で客をとり、うち1万円をお店側に渡し、残りの1万5000円が泰子の取り分になっていた。この日、マンションの一室にある「マゾッ娘宅配便」の事務所で午後5時ころまで客を待っていたが、1人もつかなかった。その後、会社員と電話で約束の上、午後6時40分ころ、渋谷のハチ公前で落ち合い、午後7時10分過ぎ、円山町のホテルへ入り、午後10時16分にチェック・アウトした。この時刻はホテルに備え付けの防犯ビデオの映像で確認された。そして、午後10時半ころには、泰子とは別れており、その後のこの会社員のアリバイは完全だった。このとき、会社員は泰子に売春代として4万円払っている。
第一審[編集]
犯人を特定する直接の証拠はなく、検察側は状況証拠を複数積み上げることでマイナリ被告が犯人であることを立証できるとして、東京地方裁判所に起訴した。マイナリは無罪を主張した。
裁判では以下の状況証拠をどう判断するかが争点となった。
- 殺害現場に残された使用済みコンドームに付着した被告人の精液と体毛。
- 被告人は被害者と面識はないと公判開始数ヶ月間は主張していたが、その後で数回性交するほどの間柄であったことが判明して、嘘が発覚したこと。
- 事件直前に現場近くで被害者とともに目撃された男性が被告人か否か。
- 現場アパートの鍵を被告人が所持していたが、事件2日前に管理人に返すために同室の人間に鍵を渡し、鍵を所持していなかったとする被告人の供述の信用性。
- 交遊関係を詳細にしるし、事件直前に会ったのが被告人であるとする被害者の手帳の信用性。
- 事件前に7万円しか所持していなかった被告人が、事件後に10万円を知人に渡した金の工面。
- 被告人が働いていた海浜幕張駅近くの料理店で午後10時閉店まで働いた場合、殺害時刻とされる午後11時30分前後まで渋谷駅付近の現場に辿り着けるか。
- 被害者の定期券が、被告人の土地勘のない豊島区の民家で発見されたこと。
2000年(平成12年)4月14日、東京地方裁判所(大渕敏和裁判長)で、現場から第三者の体毛が見つかったことなどを「解明できない疑問点」として挙げ「第三者が犯行時に現場にいた可能性も否定できず、立証不十分」として、無罪判決が言い渡された。しかし、4月18日に検察側が控訴した。
公判詳細[編集]
1997年(平成9年)10月14日、東京地裁で初公判が開かれた。マイナリは、取り調べから公判に至るまで、一貫して泰子殺害を否認した。また、泰子とは全く面識がないと主張していた。だが、1999年(平成11年)3月25日、東京地裁での第25回公判で翻し、泰子に路上で誘われて顔見知りになったと証言し、4月26日の第26回公判では、泰子と3回会ってセックスしたことを認めた。
最初は1996年(平成8年)12月20日ごろで、マイナリは勤めから帰る途中、泰子に、「セックスしませんか。1回5000円です」と声をかけられた。マイナリは「ホテル代がない」と言うと、泰子は「どこでも構わない」と言うので、粕谷ビル401号室の自室へ連れ込んで事に及んだ。このときは同居人2人も泰子の相手をした。
泰子はたとえ1000円の客でも相手をし、客の所持金が少ない場合は、ホテル代を節約させるためもあるが、泰子自身、「どこでも構わない」と言っているように、場所を気にしていなかったようで、殺害があったとされた8日の前日にも「喜寿荘」向かいの駐車場で中年の男とセックスしていたことが警察により確認され、他にも、路地の物陰やビルの非常階段でセックスしているところを付近の住人などから目撃されている。また、そうしたことが公判での客の証言からも明らかになっている。
同年大みそか近い頃、突然、同室を訪れてきた泰子に、「今日もセックスしませんか」と言われたが、このときは同居の2人が反対したため何もなかった。翌1997年(平成9年)1月末、路上で泰子に、「今日もセックスするなら5000円です」と言われたが、前に同居人が泰子を追い返したことを思い出し、「友人たちが邪魔になるかもしれない。どうしよう」と言うと、泰子は「どこでも構いません」と言ったので、マイナリは「喜寿荘」101号室へ持っていた鍵で開けて入り、事に及んだ。3回目は2月25日から3月2日までのいずれかの日に、粕谷ビルの階段の踊り場に立っていた泰子に、「今日もセックスしませんか」と誘われて、同じく101号室で事に及んだ。このとき使ったコンドームを部屋のトイレに捨て、鍵をかけずに部屋を出た。鍵をかけなかったのは、また同じように部屋を使うことになると思って、そうしたのだという。そうすると、鍵を返した日が殺害した日より前であっても後であっても問題にはならないということになる。また、それ以降は泰子には会っていないと証言した。
3月5日、マイナリが鍵を管理人のMに返すように同居人のネパール人のリラに頼んで鍵を渡し、リラは「3月6日に私が返却した」と捜査の段階で供述しているが、結局、連日連夜の取り調べで、「3月6日に私が返したというのは嘘でした」という調書を作成された。検察はこの調書を公判に提出し、「事件当日にはマイナリが鍵を持っていた。だからマイナリが犯人だ」というストーリーを主張した。
その検察側のストーリーによると、殺害があったとされた3月8日の2日後の10日にマイナリ自身が管理人のMに鍵を返却した、ということになっているが、これでは自分が犯人だと表明しているようなもの。また、死体が発見されたときは「喜寿荘」101号室には鍵がかけられていないので、誰でも自由に出入りできる状態にあり、鍵を持っていることが犯人であるということを決定付けることにはならない。
泰子の手帳には次のような記載があった。これはマイナリが証言したあとに証拠として開示されたものあり、マイナリがこの手帳の記載に合わせて証言したわけではない。
1996年 12月12日 外人3人(401)1.1万
12月16日 外人(401)0.3万
1997年 1月29日 0.5万
2月28日 外人0.2万
マイナリは泰子と初めて会った日を12月20日ころと証言しているが、泰子の手帳の記載の<外人><3人><401>から判断して、2人が初めて会った日は、12月12日と見ていい。12月16日も同じく、<401>と記載されており、マイナリの部屋であると見ていいのだが、マイナリの証言にはない。マイナリが泰子と会ったことを覚えていないだけなのか、あるいはこの<外人>はマイナリではなく、同居人4人のうちの1人であることが考えられる。その後の1月29日と2月28日はマイナリの証言とほぼ一致するが、1月29日に「外人」と記されていないのはどうしてなのか分かっていない。マイナリではないのか? 2月28日にマイナリが泰子に渡した金額は泰子の手帳によると2000円だが、マイナリは5000円より少ない金額を渡したことだけは覚えているという。マイナリはこのとき、丁度5000円分のお金がなく、お釣をもらうつもりで1万円札を出したが、泰子にお釣りがないと言われて細かい金額を渡している。このとき、泰子は「足りない分は次に会ったときでいい」と言ったという。
トイレに捨ててあったコンドームの残留精液から検出された血液型はB型で、DNA鑑定を行なった結果、マイナリのそれと一致した。検察側はコンドームを使って捨てた日を殺害があったとされた3月8日ころとし、泰子の手帳にあった2月28日の<外人>はマイナリではないと主張し、弁護側はコンドームを使って捨てた日を泰子の手帳にあった2月28日ころと主張した。
精子は射精した時から時間の経過とともにその形が崩れていくことが分かっていることから、それが何日経過したものかを帝京大学医学部講師の押尾茂が鑑定した。精液入りコンドームは死体が発見された3月19日に発見されているが、このコンドーム内の精子が約10日前のものなら検察側が、約20日前のものなら弁護側の主張が正しいということになる。鑑定では任意に選んだ男性から採取した精液をブルーレット溶液に混ぜ、その精子の日毎の変化を調べて、死体発見現場のコンドーム内の精子の状態と比較し、コンドーム内の精子が何日前のものなのかを推定した。
死体発見現場のコンドーム内の精子の形状は頭部のみしかなく、尾はあってもほとんど痕跡程度であった。一方、鑑定用に採取した精子は10日間、放置したものは頭部と尾部が分離したものが約40%であったが、20日間、放置したものは約80%が分離していた。この結果からすると、死体発見現場にあったコンドーム内の精子は尾部が痕跡程度しか残っていないということから、20日は放置されていたという結論になる。しかし、押尾講師は「自分の実験は清潔な環境でやったからこうなったが、現場のトイレは不潔だろうから、実験で20日かかった分離崩壊が現場のトイレではわずか10日で起きても不思議はない」という趣旨の意見でまとめている。だが、「不潔な環境だと精子の崩壊が早い」という意見は仮説に過ぎず、科学的合理性のない結論であった。
マイナリの勤務先のインド料理店「幕張マハラジャ」のタイムカードの記録によれば、泰子が殺害があったとされた8日、マイナリは午後10時少し過ぎに退店しており、それから電車を乗り継いで渋谷へ行き、さらに徒歩で粕谷ビル近くに着き、午後11時25分ごろに2人でいるところを男に目撃された、とされているが、これが可能かどうかがひとつの争点となった。
海浜幕張駅発東京行きの京葉線は午後10時台は7分発、12分発、22分発、37分発、52分発、59分発の6本あるが、このうち12分発と59分発の2本の電車は隣駅の新習志野どまりで接続電車もないため、除外すると、7分発、22分発、37分発、52分発の4本になる。マイナリが勤めるインド料理店と海浜幕張駅は急いで歩いても5分はかかる。マイナリは午後10時の閉店後、あとかたずけをして、ウエイターの制服を私服に着替えて駅に向かって午後10時22分発の電車に乗ったと証言した。
渋谷署の警察官が実際に歩いて調べたところでは、7分発の電車に乗り、最短距離を歩いてなんとかギリギリ間に合い、22分発では間に合わないという結果を出している。ただ、7分発では間に合うといっても、これには泰子との売春の交渉をした時間が含まれていない。また、警察はこの目撃証言をのちに「午後11時25分」から「午後11時25分以降」と訂正、初公判の検察の冒頭陳述では「幕張マハラジャ」を退店したのは、同店のタイムレコーダーが2分40秒進んでいたとして、「午後9時57分ごろ」としている。
検察側はマイナリが7分発の電車に乗車したと主張し、弁護側は7分発の電車に乗り込むのは無理があり、22分発の電車に乗車したと主張した。巣鴨の民家の庭先で見つかった泰子の定期入れについては、マイナリの指紋は検出されておらず、また、マイナリにとっても巣鴨は友人や職場の同僚がいるわけではなく、まったく土地勘のない場所であり、謎のまま放置されていた。現場から採取された陰毛は全部で16本あった。うち12本はDNA鑑定の結果、泰子とマイナリのものだと判明した。残り4本のうち3本の陰毛は最後まで誰のものか判明しなかった。
泰子の血液型はO型だが、現場にあった泰子のショルダーバッグの取っ手からはマイナリと同じB型の血液型物質が検出された。だが、DNA型については普段それを持ち歩いている泰子のDNA型のものが圧倒的に多く、結論としてはマイナリと同じ型のDNAがあったとは認定されなかった。
1999年(平成11年)12月17日、東京地裁での求刑公判で、検察側は無期懲役を求刑した。
2000年(平成12年)1月24日、東京地裁で弁護側は最終弁論で、「被告には動機がなく、犯人であることと矛盾する証拠もあり、他に犯人がいる可能性が高い」として無罪を主張した。
4月14日、東京地裁で大渕敏和裁判長は、マイナリに対し無罪を言い渡した。大渕裁判長は「被告が犯人であると推認できるように思われる」としつつも「被告以外の者が犯行時、アパートにいた可能性が払拭できない上、被告を犯人とすると、矛盾したり、合理的に説明できない事実も存在する」また、精子の鑑定結果については、「(押尾講師の実験の)数字等を根拠にする限りは本件精液は10日間以上放置されていた可能性の方が、20日間放置されていた可能性より高いとなどと断定することができないことは言うまでもない」と述べた。刑事訴訟法345条には「無罪、免訴、刑の免除、刑の執行猶予、控訴棄却、罰金または科料の裁判の告知があったときは勾留状はその効力を失う」と規定されており、マイナリは1997年(平成9年)5月に、入管難民法違反で有罪判決を受け、確定していることから、入管当局に収容され、その後、国外退去の手続きに入った。
控訴審・上告審[編集]
2000年(平成12年)12月22日、東京高等裁判所では、「犯行直前に被告人が事件現場にいたこと(鑑定により現場に残された使用済みコンドームに付着した精液と現場に残された体毛が被告と一致)と、事件直後に金を工面できたこと」などいくつかの状況証拠を理由に有罪とし、無期懲役判決を言い渡した。
公判内容詳細[編集]
4月18日、東京地検は控訴した。「国外に出ると控訴審が実質上、不可能になる」として、通常であれば釈放後、入管難民法違反の有罪判決による強制送還になる被告の身柄に関して、検察側は東京地裁に勾留への職権発動を要請した。
弁護側は「マイナリ被告は控訴審の文書の送達先としてネパール大使館を指定しており、帰国しても審理を進めることは可能」などと主張し、勾留に反対する意見書を東京地裁に提出していた。4月19日、東京地裁は勾留しないことを決め、弁護側、検察側の双方に通知した。勾留は「罪を犯したと疑うに足りる相当な理由」がある場合に認められる(刑事訴訟法60条)と規定されており、マイナリの場合は3年間の審理の結果、無罪となっているので勾留される理由はなかった。
すると、東京高検は一転して東京高裁へ勾留の要請をした。
4月20日、東京高裁第5特別部は裁判官3人で協議した結果、検察側の要請を退け、勾留の職権発動をしない決定を出した。裁判長は「1審判決の訴訟記録が届いていない段階では、高裁は勾留する権限をもっていない」という初判断を示した。
5月1日、控訴審の担当部が東京高裁第4刑事部になる。東京高裁第4刑事部(高木俊夫部長)は1999年(平成11年)7月8日、狭山事件での第2次再審請求を棄却した部局でもある。東京高検は今度は職権で勾留するよう担当部の東京高裁第4刑事部に再勾留を要請。東京地検が東京地裁に行なった申し立てを含めると3度目となる。
5月2日、東京高裁第4刑事部は一件記録を東京地裁から受け取った翌日のこの日、「5月8日に勾留質問をする」と宣言した。勾留質問とは、勾留前に被告人の弁解を聞く手続きであり、勾留することを前提としたものであった。3年に及ぶ裁判の記録をたった1日で読んで精査したとは思えず、記録を読む前から勾留に前向きであったと思わざるを得ない。
5月8日、東京高裁第4刑事部の高木俊夫判事は「犯罪を疑う相当な理由がある」などと判断して勾留を決定した。マイナリ被告は入管施設から東京拘置所に移送された。弁護側は決定を不服として勾留理由の開示を東京高裁に求めた。
5月12日、東京高裁で、勾留理由の開示の手続きが行なわれた。職務権限による再勾留の理由を問い質した弁護団に対し、東京高裁は次のように答えた。
「1審の記録を慎重に検討した結果、罪を犯したと疑う相当な理由があると判断した。また、強制退去手続き中で日本に定まった住居がなく、証拠隠滅や逃亡のおそれもある」
これに対し弁護団は「勾留は逆転有罪を想定した刑の執行の確保が目的で、勾留制度の濫用だ」と厳しく批判した。
5月15日、弁護側は東京高裁第4刑事部が「犯罪の疑いがある」として職権で勾留したことを不服として東京高裁に異議を申し立てた。申立書で、弁護人は
(1)無罪を言い渡されたマイナリ被告は犯罪に足る相当な理由はない。
(2)帰国後は妻子と両親のもとに住み、出頭要請には応じると述べており、逃亡のおそれはない、と主張し、勾留決定を取り消すよう求めた。
5月17日、法務省入国管理局は、写真週刊誌『FRIDAY』を発行する講談社に対し、謝罪記事の掲載などを求める抗議文を送った。『FRIDAY』5月5日号に、東京入管内でマイナリ被告に義兄が接見した際の隠し撮り写真を掲載したことに対し、入管はマイナリ被告は撮影を承諾していないことや接見室での撮影が禁止されているなどの理由からの抗議だった。
これに対し、『FRIDAY』の加藤晴之編集長は「無罪判決にもかかわらず、勾留され続けているのは司法当局による重大な人権侵害。被告の心身耗弱を伝えることは充分な公益性がある」と判断して掲載したと話した。
5月19日、東京高裁第5刑事部(前述の「第5特別部」とは別の部局)は3人の裁判官で協議した結果、弁護側の勾留決定を取り消すよう求めていた申し立てを棄却した。
その理由を、相当な嫌疑の有無の判断については「一件記録を精査検討すると、被告人が本件強盗殺人の罪を犯したことを疑うに足りる相当な理由があることは明らかである」のひと言で済ませている。
1ヶ月前の4月20日、東京高裁第5特別部において3人の裁判官の協議によって職権発動をしない旨の決定をしているが、このときの協議に加わった3人のうちの1人の裁判官は、5月19日の東京高裁第5刑事部で協議した3人の裁判官のうちの1人である。
わずか1ヶ月の間に前とは正反対の判断を下したことになる。この裁判官村木保裕は4月から東京高裁に赴任したばかりの判事で、2001年(平成13)5月19日に14歳の少女に現金を渡してみだらな行為をしたとして児童買春・児童ポルノ禁止違反の疑いで警視庁に逮捕、その後、起訴されて、8月27日、東京地裁で懲役2年・執行猶予5年の判決。11月28日、裁判官弾劾裁判所では罷免を言い渡され、不服申し立てができず、罷免が確定している。
5月23日、弁護側は東京高裁がマイナリ被告を職権で勾留したことを不服として、最高裁に特別抗告した。
6月27日、最高裁は3対2の小差で弁護側の特別抗告を棄却する決定を出した。5人の判事のうち2人は反対意見を述べたが、
「1審無罪の場合でも、控訴審の裁判所は審理の段階を問わず被告を勾留できる」との初判断を示し、東京高裁での勾留決定を支持した。
7月31日、弁護側は東京高裁にマイナリの勾留の取り消しを再度、請求した。
8月7日、東京高裁は弁護側の勾留取り消し請求を棄却した。弁護側は異議申し立てをした。
8月10日、東京高裁は弁護側の異議申し立てを棄却した。
8月14日、弁護側は東京高裁に勾留取り消し請求していたが、退けられていたため、「勾留の理由が示されていない」と、最高裁に特別抗告した。
8月18日、私選弁護人5人が「被告に資力がないため国選弁護人に選任されるよう要請したが、認められなかった」ことを理由に東京高裁に辞任届を提出し、受理された。刑事訴訟法では3年以上の懲役または禁錮刑の事件では弁護士がいなければ開廷できないと定めており、同日午後に予定されていた控訴審第1回公判は行なわれなかった。
8月23日、控訴審の弁護人の私選国選問題で2人を国選、3人を私選にすることが決まる。
8月24日、東京高裁で控訴審初公判が開かれた。1審で無罪判決になったマイナリの再勾留を求めた東京高検の要請に対し、職務権限で再勾留を決定した東京高裁第4刑事部の部長の高木俊夫が裁判長となった。このことについては問題がなかったのかが、当然問われた。
9月27日、最高裁は弁護側の勾留取り消しを求めた特別抗告を棄却する決定を出した。
11月6日、弁護側は東京高裁が異議申し立てを棄却したことを不服として、最高裁に特別抗告した。最高裁に勾留取り消しを求めた特別抗告はこれで3回目。東京高裁の公判では、弁護側からコンドーム内の精液の古さの問題については押尾実験に終わらせずに裁判所できちんと鑑定してほしい」と鑑定申請したにもかかわらず、裁判所はこれを却下した。
12月22日、東京高裁で判決公判が開かれた。
「原判決を破棄する。被告人を無期懲役に処する」高木俊夫裁判長が主文を読み上げ、ネパール語に翻訳され始めたとき、マイナリは日本語で突然、
「神様、やっていない」「神様、助けてください」と裁判長に向かって叫び、傍聴席を振り向いてもう一度、「やってない」と叫んだ。
結局、マイナリと泰子殺害とを結びつける決定的証拠を検察側が何ひとつ提出できなかったにもかかわらず、高木裁判長は「被告が犯行に及んだことは充分に証明されており、合理的な疑いを生じない」と述べた。同日、弁護側は上告した。
最高裁へ[編集]
2001年(平成13年)2月下旬、上告審において弁護側は事件と同じ時期の2月下旬に、日本大学医学部法医学教室の押田茂實(しげみ)教授に鑑定を依頼した。
それは、本物の便器内の汚水による精子の崩壊を観察するというものであったが、その結果はやはり、10日間の放置では頭部のみになっている精子は約40%で、20日間の放置では80~90%となり、「不潔な水だと崩壊が早い」という帝京大学医学部の押尾講師の意見が正しくないということを証明するものであった。
3月25日、市民団体「無実のゴビンダさんを支える会」の結成集会が、都内で開かれ、日本ネパール協会関係者ら約150人が集まった。松本サリン事件でマスコミから犯人扱いされた河野義行(こうのよしゆき)の「冤罪を生む構造」という講演もあり、会場には「疑惑の銃弾」事件の三浦和義も姿を見せた。
7月5日、弁護側が新たな鑑定書を添えて、上告趣意書を最高裁に提出した。鑑定書は「現場に残されたマイナリ被告の体液は、事件当日のものでない可能性が高い」としている。
2003年(平成15年)10月1日、弁護側が補充鑑定意見書を最高裁に提出。
10月20日、最高裁3小法廷の藤田宙靖(ときやす)裁判長は無期懲役とした2審判決を支持して被告の上告を棄却する決定を出した。最高裁小法廷は、記録を精査しても2審判決に重大な事実誤認は見当たらないと判断した。
10月23日、弁護団は最高裁決定に対し異議を申し立てた。申立書は「記録を精査すれば、被告の無罪は明らか。2審判決には、重大な事実誤認があり、破棄しなければ著しく正義に反する」と指摘。「決定の内容には明白な誤りがある」としている。
11月4日、最高裁第3小法廷の藤田裁判長は被告人の上告棄却決定に対する異議申し立てを退ける決定をした。
これで、無期懲役とした2審・東京高裁判決が確定した。弁護側は冤罪を主張し、再審を求める方針を明らかにした。
東電OL殺人事件はマイナリの逮捕から裁判で判決が下されるまでの手続きにおいて外国人に対する差別が見られた。『神様、わたしやっていない!』(現代人文社/無実のゴビンダさんを支える会[編]/2001)によると、事件のあった1997年(平成9年)の外国人事件の勾留率は99%(日本人は76.1%)、また、判決言い渡し時点での勾留率は97.7%(日本人は61.4%)だという。1審では「疑わしきは罰せず」「疑わしきは被告人の利益に」という法の理念に基づいた裁判の原則が生かされたが、控訴審や上告審ではその原則が踏みにじられた形となった。
最高裁判例[編集]
- 事件名=勾留の裁判に対する異議申立て棄却決定に対する特別抗告事件
- 事件番号= 平成12(し)94
- 裁判年月日=2000年(平成12年)6月27日
- 判例集=刑集第43巻6号427頁
- 裁判要旨=第一審裁判所が犯罪の証明がないことを理由として無罪の判決を言い渡したとしても、控訴審裁判所は、記録等の調査により、第一審の無罪判決理由の検討を行い、それでもなお罪を犯したことを疑うに足りる相当の理由があるときは、勾留の理由があり、かつ、控訴審における適正、迅速な審理のためにも勾留の必要性がある場合、その審理の段階を問わず、被告人を勾留することができる。
- 法廷名=第一小法廷
- 裁判長=藤井正雄
- 陪席裁判官=遠藤光男 井嶋一友 大出峻郎 町田顕
- 多数意見=井嶋一友 大出峻郎 町田顕
- 意見=なし
- 反対意見=藤井正雄 遠藤光男
- 参照法条= 刑事訴訟法60条1項、刑事訴訟法345条
再審請求[編集]
2005年(平成17年)3月24日、収監されたマイナリは、獄中から東京高裁に再審を請求している。現在、日本国民救援会が支援している。また、日本弁護士連合会も、2006年(平成18年)10月に冤罪事件として専門家の派遣、費用の援助などさまざまなかたちでの支援を決定している。
2011年(平成23年)7月21日、東京高裁の再審請求審で弁護側が要請し、東京高裁がそれを受けて現場で採取された物証のうちDNA鑑定をしていないものについて実施するよう検察側に要請し、東京高検がDNA鑑定を実施。その結果、遺体から採取された精液から検出されたDNAは、先述のマイナリのものと一致しないものであることが判明し、現場に残された体毛と一致することがわかったと新聞、テレビにより報道された。
これについて検察側は、複数の状況証拠を覆すものではなく、被害者は不特定多数の男性と性交渉をもっており、精液付着の時間も不明であることから犯人が別にいることを直接示すものでもないとしている。なお、この新たに見つかったDNAを持つ人物は警察のデータバンクにはなく、現在のところ、割り出すのは困難である。この男性Xが誰でいつ部屋に入ったかは特定できていないため、主に次の2つのシナリオが新たに浮上した。
- ケース1:被告が殺害前日までに部屋にいて、当日別の男性Xが部屋に入り殺害
- ケース2:男性Xが殺害される前日までに女性とDNAが残るような行為をした後に被告が殺害
今回の鑑定結果を踏まえて検察が別にいることを直接示すものでもないとしているのはケース2のパターンがあるというのが1つの理由となっている。一方、ケース1の場合は被告は無実ということになり、弁護団の主張通り第三者Xが犯人となりえる。その後、検察が新たに裁判では鑑定していなかった唾液などについて再鑑定しようとしたものの、弁護側の再審開始の是非が決まるのが遅れると言う抗議によって鑑定するものを絞ることを決定。
さらに被害者の体内から採取された精液とDNA型が一致するとの鑑定結果が出ている体毛が別人の体毛のDNA型と一致したことが10月21日に判明した。この体毛は検察側が追加実施したDNA型鑑定で、被害者の胸や陰部などから採取された付着物だった。DNA型が判明しなかった2点を除いた、今回鑑定された5点のうち、右胸に付着していた唾液と下半身の陰部などの付着物が第三者Xの精液や唾液のDNA型と一致したことになる。今回は体内から検出されたことにより、第三者Xが事件当日に被害者と関係をもった可能性がより高まったと弁護側は主張。一方、検察側は殺害を直接証明するものではなく、女性が第三者と別の場所で関係をもった際に着いた付着物が現場に落ちた可能性があるなどと主張して追加鑑定を求める方針だが、弁護側は必要ないと反発している。再審開始の是非は早くても数カ月はかかると見られている。
9月16日、東京高検が事件当日に第三者が殺害現場で泰子と接触した可能性を示すDNA型鑑定結果に対する意見書を東京高裁と弁護団に提出。
11月1日、弁護団が遺体の胸や下腹部周辺など計3ヶ所の付着物から第三者のDNA型が検出されたとする鑑定書を新証拠として東京高裁に提出。
2012年(平成24年)
- 1月20日、弁護団が泰子の下着の付着物に関するDNA型鑑定の結果が東京高検から開示されたことを明らかにした。前年9月から進められた計15点の試料の追加鑑定で下着の十数ヶ所でマイナリをうかがわせる型は検出されなかったが、完全な形では検出されなかったDNA型も複数ヶ所で見つかり、弁護団が泰子と最後に接触したと主張する「第三者」が泰子の体内に残した精液や殺害現場に落ちていた体毛のDNA型と「矛盾しない」という結果だった。
- 2月7日、東京高検は追加のDNA鑑定を求めていた物証42点のうち、東京高裁が鑑定は不要との意向を示している27点について、独自に鑑定を実施する方針を固めた。42点のうち泰子の胸や着衣などの付着物15点の鑑定はすでに終了。いずれもマイナリのDNA型は検出されず、胸に付着した唾液などからは事件に関与した可能性が浮上している第三者の型が検出された。このため高裁は先月24日の3者協議で残る27点の鑑定は「原則として実施しない」との意向を示していた。しかし、検察内部で「真相解明のため、全ての物証を鑑定すべきだ」との意見が強まり、高検が独自の鑑定実施を決めた。27点は被害者の手や着衣などの付着物。
- 3月16日 - 高検、追加鑑定で意見書、改めて有罪主張
- 東京電力女性社員殺害事件の再審請求審で、東京高検は16日、追加で実施した15点のDNA型鑑定の結果を受け、ゴビンダ・プラサド・マイナリ受刑者(45)の有罪を改めて主張する意見書を東京高裁に提出した。関係者によると、高検は意見書で、殺害現場のアパートの鍵をマイナリ受刑者が持っていた点を強調。15点の鑑定結果のうち、被害女性の下着の付着物から検出されたのはマイナリ受刑者のDNA型である可能性は否定できないとした。
その他問題となった点[編集]
DNA鑑定の有効性[編集]
本事件ではDNA鑑定の有効性が問われた。一審では反対解釈の余地もあるとして無罪となったが、二審では決定的な証拠であるとして無期懲役の判決が出た。
無罪判決後の勾留の可否[編集]
東京地裁の一審無罪判決で勾留(拘置)が一度失効し、不法滞在による母国ネパールへの強制退去の行政手続きが開始されることになった。
しかし、控訴していた検察は「ネパールへの出国を認めて送還した後に逃亡されてしまうと、裁判審理や有罪確定時の刑の執行が事実上不可能になる」として、裁判所に職権による勾留を要請。弁護側は、「控訴審は、文書送付先にネパール大使館を指定しており、無罪確定時の補償金受け取りのために、被告は、日本政府の裁判審理のための出頭要請には応ずる」と反論し、勾留を行わないよう求めた。
東京地検の要請を受けた東京地裁と、東京高検の要請を受けた東京高裁第5特別部は、勾留(拘置)を認めなかった。しかし、控訴審が係属した東京高裁刑事4部は、勾留を認める。弁護側は、異議申立てを行ったが、東京高裁刑事5部は異議申立てを棄却して勾留を認める。弁護側は、最高裁に特別抗告をしたが、最高裁は「一審無罪の場合でも、上級審裁判所が罪を犯したことを疑うに足りる相当な理由があると判断できる場合は被告人を拘置できる」として3対2で特別抗告を棄却し、勾留を認めたために、再勾留となった。
検察の証拠開示の問題[編集]
検察は、被害者の胸から第三者のものである唾液が検出されていたにも関わらず、裁判において証拠開示をしていなかった。この唾液は被告の血液型B型と異なるO型だった。そのため、弁護側から『判決に影響を与えた可能性があるにも関わらず、証拠を提出しなかったのは証拠隠しだ』という指摘がなされている。
当事件を扱った作品[編集]
ノンフィクション書籍[編集]
- 高橋龍太郎『あなたの心が壊れるとき』(1997年7月、扶桑社)
- 酒井あゆみ『禁断の25時』(1997年10月、ザマサダ)
- 酒井は1992年頃に被害者女性と同じホテトルに在籍していた人物。
- 酒井あゆみ『眠らない女 - 昼はふつうの社会人、夜になると風俗嬢』(1998年7月、幻冬舎。後にアウトロー文庫より文庫化)
- 秋川義男『ワニの穴10 ドキュメント 消えた殺人者たち』所収の「渋谷・東電OL殺人事件、終わらない暗闇」(1999年2月、ワニマガジン社)
- 佐野眞一『東電OL殺人事件』(2000年、新潮社)
- 朝倉喬司『誰が私を殺したの - 三大未解決殺人事件の迷宮』(2001年、恒文社)
- 2007年に『女性未解決事件ファイル』に改題され、新風舎文庫より文庫化。
- 無実のゴビンダさんを支える会『神様、わたしやっていない!』(2001年12月、現代人文社)
- 佐野眞一『東電OL症候群』(2003年、新潮社)
- 押田茂実『死人に口あり - 現場の法医学・法医解剖室より』(2004年11月、実業之日本社)
- 永島雪夫『東電OL強盗殺人事件 午前0時の逃亡者』(2008年4月、リアン合同会社)
小説[編集]
- 鳴海章『鹹湖 - 彼女が殺された街』(1998年、集英社)
- 久間十義『ダブルフェイス』(2000年、幻冬舎)
- 桐野夏生『グロテスク』(2003年:文藝春秋、2006年:文春文庫)
- 真梨幸子『女ともだち』(2006年、講談社)
- 折原一『追悼者』(2010年、文藝春秋)
コラム[編集]
- 福田和也『乃木坂血風録 - 人でなし稼業』(2001年1月、新潮社)
- 中村うさぎ『穴があったら、落っこちたい!』(2003年、角川文庫)
- 中村うさぎ『私という病』(第4章『東電OLという病』。2006年3月、新潮社)
- 上野千鶴子『女ぎらい - ニッポンのミソジニー』(2010年10月、紀伊國屋書店)
詩集[編集]
- 柴田千晶『空室(1991 - 2000)』(2000年10月、ミッドナイト・プレス。写真:野口賢一郎)
漫画[編集]
- 坂辺周一『ウラノルマ』(第2巻、グリーンアロー出版社)
- 事件を直接扱っていないが、主人公の人物設定が被害者女性を摸している。
雑誌[編集]
- 『現代』(1997年7月号、講談社)
- 1992年10月30日から2年間に渡り、週1回のペースで売春の常連顧客だった経営コンサルタントの男性が手記を寄せている。
- 『UNO!』(1997年8月号、朝日新聞社)
- 1994年から殺害事件のあった前日まで、3年間、計56回に渡る売春の常連顧客だった元大学教授(経済学)がインタビューに答えている。
- 『文藝春秋』(2001年6月号、文藝春秋)
- フリーライター・椎名玲による寄稿『現代のカリスマ 円山町OL 淋しい女たちの「教祖」になるまで』。 椎名は、被害者女性が殺害される日からさかのぼった約2年間、同じ電車(京王井の頭線の最終電車)によく乗り合わせていた人物で、利用駅も同じ西永福駅だった。
- 『COSMOPOLITAN JAPAN』(2002年12月号、集英社)
- 佐野眞一による寄稿『開かれた「パンドラの匣」』。 写真:藤原新也。
- 『週刊新潮』(2007年3月22日号、新潮社)
- 作家の松田美智子が、3年に渡る常連顧客だった元大学教授(経済学)をインタビューしている。
- 季刊誌『冤罪ファイル』(2008年2月、創刊号)
映画[編集]
- TOKYO NOIR (R-15指定作品。2004年9月25日公開。当事件を題材にした3篇のオムニバス作品)
- 「BIRTHDAY」(主演:吉本多香美)
- 「GIRL'S LIFE」(主演:中村愛美)
- 「NIGHT LOVERS」(主演:吉野きみか)
- 恋の罪 (R-18指定作品。2011年11月公開。監督:園子温)
アダルトビデオ[編集]
- 日本猟奇残虐事件簿 T電OL熟女陵辱殺人 (R-18指定作品。主演:安藤美里)
テレビ番組[編集]
- ビートたけし新解釈ニッポン人の現代史! (2008年12月28日、テレビ朝日)
テレビドラマ[編集]
演劇[編集]
- 劇団1980 『天女譬え歌』(1998年、紀伊国屋ホール)
- 転位21 『齧る女 -東電OL殺人事件-』(2004年、中野光座)
当事件に類似する作品や人物[編集]
- 能楽『卒都婆小町』
- メリケンお浜
- メリーさん (映画『ヨコハマメリー』)
- 映画『昼顔』 (1967年。主演:カトリーヌ・ドヌーヴ)
- 映画『ミスター・グッドバーを探して』 (1977年。主演:ダイアン・キートン)
補足[編集]
一審で無罪判決を下されて、その後に逆転有罪判決となった殺人事件は、記録の残る中では以下の例がある(カッコ内は事件発生年)。
- 弘前大学教授夫人殺人事件(1949年):一審無罪判決も、二審で逆転有罪判決で最高裁で懲役15年が確定。しかし、事件発生から28年後に真犯人の出頭により再審無罪が確定。
- ホテル日本閣殺人事件(1960年 - 61年):一審は殺人罪について無罪だったが、二審で懲役10年の判決、最高裁で確定。
- 名張毒ぶどう酒事件(1961年):一審無罪も、二審で死刑判決、最高裁で確定。事件発生から44年後の2005年に再審開始決定が出されたが、翌年取り消し。最高裁に特別抗告され、2010年に高裁へ審理が差し戻された。
- CMソングプロダクション社長殺人事件(1964年):一審は無罪だったが二審で無期懲役判決。ただし、この被告は心神喪失と認定され無罪判決を受けたが、後にそれが仮病であることが判明したため有罪判決につながった。
- 富山事件(1974年):一審は無罪判決だったが、二審で懲役10年の逆転有罪判決、最高裁で確定。
- 大阪市松林男児刺殺事件(1982年):一審では無罪判決だったが、二審で無期懲役の逆転有罪判決、最高裁で確定。
- 堺市雑居ビル女児絞殺事件(1984年):一審無罪も、二審で懲役20年の有罪判決、最高裁で確定。
- 福井女子中学生殺人事件(1986年):一審で無罪判決も二審で懲役7年の逆転有罪、最高裁で確定。事件発生から25年後の2011年に再審開始決定、検察側が異議申し立て中。
- 藤沢放火殺人事件(1993年):一審では無罪判決だったが、二審で懲役15年の逆転有罪判決、最高裁で確定。
- 京都日整学園女性理事長殺害事件(1997年):一審無罪も、二審で懲役12年、最高裁で確定。
- 豊川市男児連れ去り殺人事件(2002年):一審で無罪判決が下されたが、二審で懲役17年の有罪判決が下され、最高裁で確定した。
- 土浦一家3人殺害事件(2004年):一審では心神喪失とされ無罪だったが、二審では心神耗弱とされて無期懲役判決。最高裁で確定。
- 神戸質店主強盗殺人事件(2005年):一審は無罪だったが二審で無期懲役判決、最高裁で確定。
関連項目[編集]
外部リンク[編集]
- 東電OL殺人事件 無実のゴビンダさんを支える会
- 東電OL強盗殺人事件(松山大学法学部教授・田村譲のホームページ)