「梅ヶ谷藤太郎 (2代)」の版間の差分

提供: Yourpedia
移動: 案内検索
(ページの作成:「'''梅ヶ谷 藤太郎'''(うめがたに とうたろう、1878年3月11日 - 1927年9月2日)は、石川県上新川郡水橋町(現在の...」)
 
 
22行目: 22行目:
 
指導を担当した人の名前が名前だったので、[[節分]]の際にも絶対に鬼は外とは言えず常に福は内とだけ言って豆を撒いていた。
 
指導を担当した人の名前が名前だったので、[[節分]]の際にも絶対に鬼は外とは言えず常に福は内とだけ言って豆を撒いていた。
  
== 関連項目 ==
 
*[[横綱一覧]]
 
  
 
{{DEFAULTSORT:うめかたにとうたろう2}}
 
{{DEFAULTSORT:うめかたにとうたろう2}}

2011年9月28日 (水) 08:01時点における最新版

梅ヶ谷 藤太郎(うめがたに とうたろう、1878年3月11日 - 1927年9月2日)は、石川県上新川郡水橋町(現在の富山県富山市水橋辻ヶ堂)出身で雷部屋所属の元大相撲力士、第20代横綱。本名押田音次郎、後に小江音松。常陸山谷右エ門と同時に横綱に昇進、「梅・常陸時代」と呼ばれる黄金時代を築いた。

経歴・人物[編集]

売薬商の四男として生まれる。なお、誕生日には異説もある。1891年(明治24年)に横綱初代西ノ海大関劔山の一行が巡業に来た際に劔山の熱心な勧誘により雷(初代梅ヶ谷)に入門、同年1月初土俵。「梅ヶ谷の弟子ということで四股名は梅ノ谷だ」という師匠の発言で四股名は決まった。

番付には「梅ノ谷音松」と書かれた。当時まだ満12歳という子供ながら周囲の英才教育によってめきめき育ち鬼ヶ谷からの指導は特に熱心だった。何しろ三段目時代には単独土俵入りが許され錦絵も発売、幕下時代には早くも横綱免許授与に備え横綱土俵入りの稽古までしていたという。

1898年(明治31年)1月新入幕、この場所は初代の横綱小錦から金星を獲得した。同年5月場所も小錦から金星、次の1899年(明治32年)1月には早くも小結、5月関脇、勝ち越しながらなぜか1度小結に下がるが、次の1900年(明治33年)5月には大関になった。大関になると師匠の現役名の継承を申し出たが、ここで師匠は「今襲名したら横綱になった時何を名乗るつもりだ」と時期尚早を唱えた。

しかし1902年(明治35年)1月から2代目梅ヶ谷藤太郎を襲名、師匠の名に恥じぬ好成績が続いた。1903年(明治36年)5月場所9日目(当時は1場所10日、ただし幕内力士は千秋楽には出場しない)に同じく大関の常陸山と全勝同士で対決。敗れはしたが場所後横綱免許授与が決まった常陸山の「できれば梅ヶ谷関といっしょにお願いします」という申し出により、2代梅ヶ谷も吉田司家より横綱免許を授与される。24歳6ヶ月は当時の最年少記録。現在雲竜型と呼ばれる横綱土俵入りの開祖とされている(映像も現存する)。

短躯肥満はあまり長持ちする体格ではないとよくいわれるが、横綱を務めること実に12年、同時に横綱になった常陸山より1年長かった。旧両国国技館開館後は優勝はないが、長年の功績を称えられ引退時に優勝額に相当するものが贈呈された。

引退後は師匠廃業に伴い年寄並びに雷部屋を継承。しかし師匠より早く1927年(昭和2年)9月2日に逝去。弟子は梅ヶ谷の弟弟子だった玉椿(最高位関脇、年寄白玉)が引き取ったものの、江戸時代から続く名門だった雷部屋は彼の代を最後に消滅してしまった。

現役時代の体格は168cm・158kg、幕内通算成績は36場所、168勝27敗47分2預116休、勝率.862。優勝相当成績3回、金星2個(いずれも小錦から)。

腹が出ているのを活かした理詰めの相撲を取り、体格ゆえか横にやや脆い点を努力で克服していた。ただし晩年には守り重視になっていった。常に自分の相撲を事細かに分析していたと伝わる。

横綱太刀山より1歳若いため常陸山引退後は太刀山の相手役を期待され、番付はそれまでと逆の出羽ノ海一門側に回されたが、その状態で出場することはなかった。

指導を担当した人の名前が名前だったので、節分の際にも絶対に鬼は外とは言えず常に福は内とだけ言って豆を撒いていた。