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2010年9月4日 (土) 08:18時点における最新版
飯田 覚士 | ||||||
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[[画像:|0200px|]] | ||||||
基礎データ | ||||||
本名 | 飯田覚士 | |||||
通称 | ||||||
階級 | スーパーフライ級 | |||||
身長 | ||||||
リーチ | ||||||
国籍 | 日本 | |||||
生年月日 | 1969年8月11日((2024-1969)+((11-8)*100+(10-11)>=0)-1歳) | |||||
出生地 | 愛知県名古屋市 | |||||
没年月日 | ||||||
死没地 | ||||||
所属 | 緑 | |||||
構え | 左ボクサーファイター | |||||
入場曲 | ||||||
アマチュアボクシング戦績 | ||||||
総試合数 | 8[1] | |||||
勝 | 7 | |||||
KO・RSC勝 | ||||||
敗 | 1 | |||||
分 | ||||||
無効試合 | ||||||
獲得メダル | ||||||
金 | 銀 | 銅 | ||||
オリンピック | 0 | 0 | 0 | |||
世界選手権 | 0 | 0 | 0 | |||
ヨーロッパ選手権 | 0 | 0 | 0 | |||
アジア選手権 | 0 | 0 | 0 | |||
世界ユース選手権 | 0 | 0 | 0 | |||
世界ジュニア選手権 | 0 | 0 | 0 | |||
世界女子選手権 | 0 | 0 | 0 | |||
0 | 0 | 0 | ||||
獲得タイトル | ||||||
全日本選手権優勝 | 0 | |||||
全日本社会人選手権優勝 | 0 | |||||
全日本女子選手権優勝 | 0 | |||||
全国高校総体優勝 | 0 | |||||
全国高校選抜優勝 | 0 | |||||
国民体育大会優勝 | 0 | |||||
0 | ||||||
0 | ||||||
0 | ||||||
プロボクシング戦績 | ||||||
総試合数 | 28 | |||||
勝 | 25 | |||||
KO勝 | 11 | |||||
敗 | 2 | |||||
分 | 1 | |||||
無効試合 | ||||||
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飯田 覚士(いいだ さとし、1969年8月11日生まれ)は、愛知県名古屋市出身の元プロボクサー(緑ジム所属)で、WBA世界ジュニアバンタム(スーパーフライ級)チャンピオンとなった。愛知県立大府東高等学校、岐阜経済大学経済学部卒業。
大学在学中の1990年にバラエティ番組「天才・たけしの元気が出るテレビ!!」の企画「ボクシング予備校」に参加。甘いマスクで人気を博す。こうした経緯から人気先行ボクサーと目され、俳優の松村雄基を彷彿する顔立ちで「アイドルボクサー」の風評に悩まされるが、熱心な練習と科学的トレーニングにより世界チャンピオンにまで登りつめた。緑ジム関係者は当時の飯田について「パワー、スピード、テクニックに目を見張るものはなかったが、とにかく頭のいいボクサーだった」と語っている。
現役引退後は、子供向けボクシング教室を開設して底辺拡大に励みつつ、舞台で活躍する等、芸能活動にも勤しんでいる。日本テレビ系列のボクシング中継で、解説者として出演することもある。口調は淡々としているが、解説は的確で、ボクシングファンからは高い評価を得ている。また、ボクシング専門誌『ボクシング・ビート』ではこの雑誌が旧名の時代から毎月、内藤大助、ファイティング原田などの新旧有名ボクサーをはじめ、漫画家の森川ジョージ、俳優の速水もこみちなどのボクシングファンとも積極的に対談を行っている。
2006年11月]]、元世界チャンピオンの輪島功一、渡嘉敷勝男、玉熊幸人、戸高秀樹らとともに、元ボクサー・袴田巌が起こしたとされている袴田事件の再審を求める要請書を最高裁判所に提出。彼の無罪獲得・冤罪認定のため活動を続けている。
来歴[編集]
1988年、岐阜経済大学入学と同時にボクシング部入部。本格的にボクシングを始める。1990年、「天才・たけしの元気が出るテレビ!!」の企画「ボクシング予備校」に参加。
1991年、名古屋市緑区の緑ボクシングジムに入門し、3月にプロデビュー。1992年2月16日、同じくボクシング予備校出身の松島二郎と全日本スーパーフライ級新人王を争い、6R判定勝利で獲得。3月、大学卒業。
1994年3月13日、川島郭志が前年12月に返上した日本スーパーフライ級タイトルを松島と争い8RTKOで獲得。1度防衛後返上。
1996年4月29日、名古屋市総合体育館で行われたWBA世界ジュニアバンタム級(現スーパーフライ級)チャンピオンのアリミ・ゴイティア(ベネズエラ)に世界初挑戦、5回TKOで敗れる。1997年4月29日、愛知県体育館において2度目の世界挑戦。前年8月にゴイティアを降して、WBA世界スーパーフライ級チャンピオンになったヨックタイ・シスオー(タイ)に挑むが、引き分けで惜しくもタイトル獲得はならず。
同年[[12月23日、再び愛知県体育館でヨックタイに挑戦。12回判定勝ち (3-0) を収め、WBA世界ジュニアバンタム級タイトル獲得。その後、井岡弘樹、フリオ・ガンボアを退け2度の防衛に成功。
1998年12月23日、ヘスス・ロハス(ベネズエラ、本来は協栄所属ピューマ渡久地が挑戦予定だった)と3度目の防衛戦を行い、5Rに突如右肩が脱臼するアクシデントに見舞われる。その後、ロハスの猛攻に晒されるも、ダウンだけは拒み続け、3-0の判定で敗れ、タイトル奪取からちょうど1年でタイトルを手放す。この試合を最後に引退した。
日本プロボクシング史上唯一、デビュー戦からラストファイトまで首尾一貫してスーパーフライ級で戦い、世界タイトルを獲得して指名試合をクリアした選手でもある。
獲得タイトル[編集]
- 全日本スーパーフライ級新人王
- 日本スーパーフライ級タイトル(1度防衛、返上)
- WBA世界ジュニアバンタム級タイトル(2度防衛、2度目の防衛よりスーパーフライ級に改称)
脚注[編集]
- ↑ (2004年3月1日) 飯田覚士 ボクシング・マガジン編集部編 [ 日本プロボクシングチャンピオン大鑑 ] ベースボール・マガジン社 2004年3月1日 978-4-583-03784-4 p. 33
関連項目[編集]
外部リンク[編集]
前チャンピオン 川島郭志 |
第17代日本スーパーフライ級チャンピオン 1994年3月13日 – 1994年1月24日(返上) |
空位 次タイトルホルダー ネルソン原田 |
前王者 ヨックタイ・シスオー |
第9代WBA世界スーパーフライ級王者 1997年12月23日 – 1998年12月23日 |
次王者 ヘスス・ロハス |