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'''中山 孝太郎'''(なかやま こうたろう、[[1949年]] - )は、[[日本]][[小説家]]である。
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{{ActorActress
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| 芸名 = 中山 孝太郎
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| ふりがな = なかやま こうたろう
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| 画像ファイル =
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| 画像サイズ =
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| 画像コメント =
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| 本名 = 上野誠治
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| 別名 = 中山孝太郎
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| 出生地 = 広島'''在住'''
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| 死没地 =
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| 国籍 = 日本
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| 民族 = -
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| 生年 = 1949
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| 生月 =
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| 生日 =
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| 没年 =
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| 没月 =
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| 没日 =
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| 職業 = [[小説家]]、フリーライター
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| ジャンル = 純文学
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| 活動期間 =  [[1985年]]
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| 活動内容 = 
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| 配偶者 =
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| 家族 =
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| 公式サイト =
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| 主な作品 = <!--皆が認める代表作品を入力-->『争点』
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『藪を這う』
  
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『気になる紐と首』
  
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| アカデミー賞 =
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| AFI賞 =
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| 英国アカデミー賞 =
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| セザール賞 =
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| エミー賞 =
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| ジェミニ賞 =
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| ゴールデングローブ賞 =
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| ゴールデンラズベリー賞 =
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| ゴヤ賞 =
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| グラミー賞 =
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| ブルーリボン賞 =
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| ローレンス・オリヴィエ賞 =
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| 全米映画俳優組合賞 =
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| トニー賞 =
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| 日本アカデミー賞 =
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| その他の賞 = コスモス文学新人賞
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| 備考 =
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'''中山 孝太郎'''(なかやま こうたろう、本名:上野誠治、[[1949年]] - )は、[[日本]]の[[小説家]]である。
  
==経歴==
 
  
=== 生い立ち ===
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==来歴==
 生まれ広島<ref>[https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%83%E5%B3%B6%E5%B8%82]生まれ広島</ref>。育ち各都府県<ref>[http://www.e-sale24.com/]育ち各都府県(広島県、東京都、京都府)</ref>。広島県立広島国泰寺高等学校<ref>[https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%83%E5%B3%B6%E7%9C%8C%E7%AB%8B%E5%BA%83%E5%B3%B6%E5%9B%BD%E6%B3%B0%E5%AF%BA%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E3%81%AE%E4%BA%BA%E7%89%A9%E4%B8%80%E8%A6%A7]広島県立広島国泰寺高等学校</ref>、法政大学文学部<ref>[https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%95%E6%94%BF%E5%A4%A7%E5%AD%A6%E3%81%AE%E4%BA%BA%E7%89%A9%E4%B8%80%E8%A6%A7]法政大学文学部、純文学</ref>、東京建築専門学校<ref>[https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E5%BB%BA%E7%AF%89%E5%B0%82%E9%96%80%E5%AD%A6%E6%A0%A1]東京建築専門学校、後に一級建築士となる</ref>、文学士。 防衛省特別職国家公務員<ref>[https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%B2%E8%A1%9B%E7%9C%81%E8%81%B7%E5%93%A1]防衛省特別職国家公務員</ref>の退職後は少し職を点々と確かめたが、詰まる所、物書きになっている<ref>[https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E8%AA%AC%E5%AE%B6]詰まる所、物書きになっている</ref>。「広島西飛行場存続の危機脱出変遷史」96年12月16日発行。広島市教育委員会から教育用として採用を頂いて県と市へ謹呈している。一部書店で売り上げ上位になった。<ref>[https://www.hplibra.pref.hiroshima.jp/hp/page000000400/hpg000000370.htm]広島市教育委員会から教育用として採用を頂いて、県と市へ謹呈している、一部書店で売り上げ上位になった</ref>。
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 小学時代から随筆らしきモノを書いていたという。その頃から物書きの片鱗を見せているが、父親との折り合いが悪く、度重なる今でいう(DV)ドメスティックバイオレンスの暴言または冷笑で打ちのめされ、めげていたという。あの当時は親に対して歯向かうことが出来ず呪縛されたかのようになり、貝になっていたという。諸々頭には、傷が残り後遺症となっているという。また何かにつけて肝心な事は教えてはくれなく、冷遇されていたという。父親は世間的には外面が良くて内面が悪かったという。長男だが、きょうだいは姉と妹がいる。どちらも頭は普通で本人よりは大したことはなかったという。しかし、父親は女どもをかわいがっていたという。従って、姉妹の仲は親父の意向があって、たえず姉と妹がつるんでいて本人を遠ざけていたという。子どもの頃はラジオなどの機械いじりが好きで、これにも精を出していて、その中学時代の頃将棋も指していたという。仲間うちの連中のなかでは結構イケたという。幼少期からハングリー精神が旺盛で将来は建築家になるか小説家になるかが夢であった。かねての夢は苦労が実り、念願が叶っているが、今まであまりスッキリとはしていなかったという。その理由はこれまでにうだつが上がってはいないからだという。しかし、本人は少年時代から色んな事に飛んでいて夢があった様だ。うだつが上がっていないは少し疑問である。後年の小説はこれまでになかったモノ、バーチャルの世界と現世とが融合しており、他人とは違う世界が見えている小説が主。現実と妄想の境界が入り乱れ、引き込まれる。因って読み手の頭が混乱する。小さい頃実家は富裕な時もあったが、極貧の生活で青息吐息だったともいう。この時期に早くも現実は学歴社会ではないと思ったという。それは亡き田中角栄元首相が活躍されている後姿を見て後にも先にもいないほど師と仰いでいたので実務家が強い・・・だが、すぐに一転してこの社会で上に這い上がるには学歴が無くて頭が良いだけでは難しいと悟る。しかし、学歴は本来、邪道であるという持論は持っている。本来は学力であるという。しかし、この社会は学歴と学閥が幅を利かせているという。今頃は父親に打ちのめされた事に対する反面教師として子ども達には和やかに接することに注力している。まだ亡き父とのしがらみがあるが、何事もなかったように、それ以降現在も物書きの筆が動く限り描いている。高齢者になった現在でも今から巻き返すという。元来負けず嫌いで初志貫徹という性格だというが、ダメだと決断したら、いさぎよく手を引くのが早いという。だが、その反面如才ないところもある様だ。また、あえてこの男は苦難の道に入り込む独特な性格の持ち主でもあろう。
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 過ぎ去った昔、幾多の困難があったという。そんな中、短編、中篇の純文学小説を書き続け、数多くの作品がたまるが、中々日の目を見なかったが、1998年、人間の煩悩や心の葛藤を描きぬいた僅か「1センチ4ミリ」を争う世界の作品が、やっと芽生えたという。
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98年、第68回コスモス文学新人賞(長崎市のコスモス文学の会主催)の小説部門に「憔悴した点」が決定し、受  賞。<ref>[http://prizesworld.com/naoki/ichiran/sen_ichiran121-140.htm#list137]1998年、第68回コスモス文学新人賞、小説部門に「憔悴した点」が決定し、受賞している。</ref>
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 この作者は、ここまでも書くのかという感じで「藪を這う」なんかはまるで映画を観ているようで、少し気が違う面には動揺するが、中々面白くて近頃は珍しい。「藪を這う」と「争点」は映画にしたらどうかと思うが、ここに掲載されている代表作品をクリックされて、一読されたら良いでしょう。小生は他の作品があれば読んでみたい。色々な経験が小説に生きているのだろう。期待している。
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 書き上げる上での作者独自の留意点
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広島在住。広島県立広島国泰寺高等学校。[https://www.hosei.ac.jp/bungaku/?auth=9abbb458a78210eb174f4bdd385bcf54 法政大学文学部]卒。[https://www.sanno.ac.jp/ 産業能率大学長上野一郎]の下、[https://www.sanno.ac.jp/admin/founder/ 能率学]修める。[http://www.j.u-tokyo.ac.jp/ 東京大学大学院法学政治学研究科] [https://www.town.shibata.miyagi.jp/reiki_int/reiki_honbun/1000100004150411h.html 地方自治法]など履修。
 初期の小説は一つひとつの文字を書く筆に苦痛を感じながら、それなりのモチベーションで書きあげ、同人会で発表するが中々馴染めない面があった。この時期にある程度の量を書き上げていたという。だが、自暴自棄になっていた。因ってかなりのブランクが発生し、まだ初期の段階で、もう筆を折ろうかと思っていたという。しかし、周りの連中から、これからが良くなると言われ、思いとどまった。自称の作家が言ったという。「俺は国立大学で同人に入っていて100枚以上の小説を100作以上書いている。お前の小説は小学生以下の作文だ。読んだが、吐き気がした。小説の体(てい)を知らないのだろう。勿体ないが、俺の1作だけを参考に見せてやる」理不尽で失礼千万だ。小説の体を言う前に手前はどうか、支離滅裂な説教でうんざりとしたという。こいつは小説の書き方が一つしか無いのだと確信していた様だという。小説の中にも絵などが入っているのもあるし、文章間に詳しい説明の文章が入っているのも沢山あるようだ。こいつは本を読んでいないのだろうかと思ったという。1人称(私小説)や3人称の書き方もあれば、まだ書き方は沢山ある。箇条書きもある。つまり何でも良いという。主題やテーマがハッキリとしていて、それに沿って書き上げていれば問題はないようだ。水の如くいっきに流れるように書いてあるのもある。途中でいきなり回想しているのもあるという。彼は誹謗中傷侮辱されたという。しかし、批判は批判として真摯(しんし)に受けとめる。こいう意見もあるのだと感じたという。彼はいろんな作家の小説を読んでいて、どの小説のテーマもまちまちで、出現の仕方も違うという。もちろん文体も違うだろう。かなり自由に書いていて、これらはすべて「小説の体」を成しているという点では共通しているのであろう。もちろんテーマがあってストーリーがあって描写があるのだ。新人文学賞を目指す小説家の卵は「応募作はほぼ小説の体をなしていない作品が多いので落とされる」というが、数ページ読んで直ぐ小説の主題やテーマがわかるはずはないので、そういうことではないという。小説家の卵さんが想定しているような主題や比喩(ひゆ)の的確さ、文体の精巧さといった細かい技巧ではないという。問題があるのは、もっと基礎的なこと、明らかな文法ミスがあるだとか、表現があまりにも稚拙(ちせつ)だとか、改行や句読点といった書面上の規則を守らないといったことであるのだろうという。こうでなければいけないという厳密な「体」なるルールがあるわけではないともいう。そもそも「小説の成立条件は何か」という問いそのものが文学の範疇(はんちゅう)なのである。下読みで「小説の体」がどうこう言う人がいるとしたら、はなはだ滑稽な状況であるという。その下読みの人は表現が不適切であろう。あくまでも「コイツはおおまかに、もう見込みがないな」と判断して読むのをやめてしまう状況を婉曲的(えんきょくてき)に言っているにすぎないという。主題やテーマがハッキリしない。何が書きたいのかも分からなければ問題である。支離滅裂になってはもちろん良くないという。質はもちろん大事で、数を書いて会得していくことも大事なのであろう。書き続けることで、なんだ、こんなことで悩んでいたのかはままあるという。因って小説の体をなしていないとは、そもそも文章自体に乱れ、稚拙で支離滅裂などで破綻(はたん)していることであるという。
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賞について
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「広島西飛行場<ref>[https://www.youtube.com/watch?v=KDWq_AoOEBo]旧広島西飛行場の姿</ref>存続の危機脱出変遷史」<ref>[https://www.hplibra.pref.hiroshima.jp/hp/page000000400/hpg000000370.htm]『広島の交通』展示資料リスト</ref>96年12月16日東洋図書出版発行。広島市教育委員会から教育用として採用され、県と市や市内の各図書館へ納品。一部書店では売り上が上位になった。
 1996年12月に「広島西飛行場存続の危機脱出変遷史」を発行。広島市教育委員会から教育用として採用され、県と市へ謹呈をした。1998年、第68回コスモス文学新人賞(長崎市のコスモス文学の会主催)小説部門に「憔悴した点」が決定し、受賞。1999年9月文藝春秋の雑誌に第2回草枕文学賞の中間発表があり、名前が載った。全国各地及び海外から総数769編の応募があって、80編が予選を通過した。文学賞の最終選考には残ったが、賞は貰えなかった。草枕文学賞を受賞すると、その作品は文学界の雑誌に掲載される。そして必然的に芥川賞にノミネートされるのだが残念だったでしょう。その小説は「藪を這う」であった。後に関西文學に掲載された。小説は「日本ペンクラブ電子文藝館」に所蔵されている。1999年4月号の小説現代に新人賞の予選発表があった。応募総数1615編で予選通過者数は114名。これに名前が載った。その作品は改稿後「争点」で安藝文學に掲載された。その後、「日本ペンクラブ電子文藝館」に所蔵されている。作家の五木寛之先生は1966年に「さらばモスクワ愚連隊」で、この小説現代新人賞を受賞された。翌年67年に直木賞受賞。2012年7月安藝文學に小説「気になる紐と首」が掲載された。 現在は「国立国会図書館」に所蔵されている。2003年6月新風舎出版賞第20回、小説「未発表作品」で出版奨励賞受賞。「現れた情景」まとりた賞や「魚うお」ぶんりき賞は、小説が雑誌に掲載された。その他諸々予選は通過。なお最近の賞歴は整理していないためここには載せていない。
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1998年「第68回コスモス文学新人賞」(長崎市のコスモス文学の会主催)小説部門に「憔悴した点」が決定し、受賞。
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1998年「第68回コスモス文学新人賞」ノンフイクション部門に「揺れる灯」が佳作に選ばれ、受賞。
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2001年1月31日に「脳裏を刳る映像(2)」が愛知県土地家屋調査士会の「地図読み人」に採用され、全文が掲載された。
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1998年9月彩図社<ref>[https://www.saiz.co.jp/]彩図社のぶんりき賞</ref>のぶんりき賞で小説「魚うお」が雑誌に全文が掲載された。
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2000年4月同文書院<ref>[http://www.dobun.co.jp/]同文書院のまとりた賞</ref>のまとりた賞で小説「現れた情景」が雑誌に全文が掲載された。 
  
=== 著作 ===
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本名「上野誠治」<ref>[https://scontent-lax3-2.xx.fbcdn.net/v/t39.30808-6/273636716_3127497530902616_5143396535033206169_n.jpg?_nc_cat=106&ccb=1-5&_nc_sid=09cbfe&_nc_ohc=fXUNkufCDskAX9fXuo_&tn=8VLVsqV8GZiVX2NF&_nc_ht=scontent-lax3-2.xx&oh=00_AT9ohdGguCMwLiZLUfbwcWgimcavERTFCn-PlJGXA7L5Nw&oe=621051CD]ペンネーム「中山孝太郎</ref>ペンネーム「中山孝太郎」の名前の由来は下記の複合的要因による。
*コラム
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長崎の「'''上野彦馬'''」は日本における「'''最初期'''の'''写真家'''」であり、「日本写真の'''開祖'''」として知られる。<ref>[http://www.city.nagasaki.lg.jp/nagazine/hakken0306/]上野彦馬ってどんな人!?その人物像と功績に迫る</ref><ref>[http://www.ph.nagasaki-u.ac.jp/history/research/cp2/chapter2-2.html]薬学 上野彦馬の開眼</ref><ref>[https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/260429]で撮影の鶏卵写真</ref>
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<ref>[http://www.japanserve.com/bakumatsu/spt-nag-001-ueno.html]上野彦馬宅跡</ref><ref>[https://www.google.co.jp/search?sa=N&sxsrf=ALeKk02PDRlj_VoC78RiSNV8quzrBF_rwA:1614161168625&source=univ&tbm=isch&q=%E4%B8%8A%E9%87%8E%E5%BD%A6%E9%A6%AC&ved=2ahUKEwiglMP4ooLvAhVXfXAKHVV0BaI4ChCMmQR6BAgDEAE&biw=1536&bih=754]上野彦馬などの画像 </ref><ref>[https://kotobank.jp/word/%E4%B8%8A%E9%87%8E%E5%BD%A6%E9%A6%AC-33935]上野彦馬 ブリタニカ国際大百科事典 コトバンク</ref><ref>[http://boken.nagasaki.jp/spot/boken351.html]日本の写真家の始祖「上野彦馬」、ゆかりの地</ref><ref>[https://tabi-bito.net/ueno-hikomas-birth-place-and-photography-station-mark-nagasaki-city/]上野彦馬生誕地と撮影局跡(長崎市)</ref><ref>[https://shae-bear.com/archives/5203]上野彦馬【写真家】の子孫と作品、写真館を紹介!日本最初の戦場カメラマン</ref><ref>[https://photolala.net/2010/11/000304.php]日本写真界の開祖として
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上野彦馬は、1838年長崎市銀屋町で生まれます。彦馬の父、俊之丞が出島のオランダ商品を通して写真機を初めて輸入したのが1843年</ref><ref>[https://www.jcii-cameramuseum.jp/photosalon/2010/08/03/9117/]古写真に見る西南戦争の記録-「彦馬が見た西南戦争」</ref><ref>[https://www.city.nagasaki.lg.jp/shimin/190001/192001/p000651.html]上野(彦馬)家墓地 市指定史跡 指定年月日 平成18年1月10日 所在地 長崎市伊良林3丁目4番</ref>
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産能短期大学創始者「'''上野陽一'''」<ref>[https://shashinshi.biz/archives/9331]写真師・上野彦馬の弟の長男、産業能率短期大学創始者・上野陽一</ref><ref>[https://www.sanno.ac.jp/admin/founder/history.html]上野陽一の日本における産業能率研究の歴史です</ref><ref>[https://www.sanno.ac.jp/admin/founder/ ]日本にマネジメントを「導入した父」産業能率大学創始者・上野陽一</ref><ref>[https://g.co/kgs/YHt5D9 ]上野陽一</ref>の伯父に当たる。
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陽一が最初に手掛けた能率指導は1921年(大正10年)化粧品最大手「'''中山太陽堂'''」であった。創業者は 「'''中山太一'''」である。<ref>[http://heisei-shokasonjuku.jp/senjindb/nakayamataichi/]東洋の化粧王 中山 太一なかやま たいち 明治・大正・昭和時代の実業家 1881(明治14)年〜1956(昭和31)年</ref><ref>[https://www.clubcosmetics.co.jp/history/%E5%89%B5%E6%A5%AD%E8%80%85-%E4%B8%AD%E5%B1%B1%E5%A4%AA%E4%B8%80/]創業者中山太一 化粧品業界の巨星と呼ばれた中山太一は、明治14年(1881年)山口県豊浦郡滝部村に生まれた。明治36年4月3日(1903年)、神戸市花隈町において化粧品の卸商「中山太陽堂」を創業。創業から3年後、製造業に転身をはかる。外国人技師を招聘して開発にあたらせ、化学研究所や近代的化粧品工場を設立して独自の美身剤の開発や作業の能率化を図った。その一方では、中山文化研究所を設立し、幅広いメセナ活動を実施した</ref><ref>[https://www.justice.co.jp/kigyoka/tablelist.php?name=%92%86%8ER%20%91%BE%88%EA ]中山太一の年表</ref><ref>[http://jahis.law.nagoya-u.ac.jp/who/docs/who4-6725]日本研究のための歴史情報『人事興信録』データベース 中山太一 (第4版 [大正4(1915)年1月] の情報) </ref><ref>[https://www.opmia.or.jp/wp-content/uploads/2016/07/%E5%95%86%E5%B7%A5%E6%8C%AF%E8%88%887%E6%9C%88%E5%8F%B7_%E5%81%89%E4%BA%BA%E4%BC%9D.pdf]時代の先を行く感性で文明開化の日本を彩った「東洋の化粧品王」中山 太一 (1881~1956年)</ref>
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陽一の子ども「'''上野一郎'''」<ref>[https://ja.unionpedia.org/i/%E4%B8%8A%E9%87%8E%E4%B8%80%E9%83%8E] 上野一郎</ref><ref>[https://bakumatsu.org/posterities/view/170] 上野一郎の上野彦馬</ref><ref>[https://www.sanno.ac.jp/admin/bokin/vbnear00000009bh-att/zadankai.pdf ]上野陽一先生の事上野一郎座談会</ref><ref>[https://www.google.co.jp/search?q=%E4%B8%8A%E9%87%8E%E9%99%BD%E4%B8%80%E3%81%A8%E4%B8%AD%E5%B1%B1%E5%A4%AA%E4%B8%80%E3%81%AE%E9%96%A2%E4%BF%82&tbm=isch&chips=q:%E4%B8%8A%E9%87%8E+%E9%99%BD%E4%B8%80+%E3%81%A8+%E4%B8%AD%E5%B1%B1+%E5%A4%AA%E4%B8%80+%E3%81%AE+%E9%96%A2%E4%BF%82,online_chips:%E7%94%A3%E6%A5%AD%E8%83%BD%E7%8E%87%E5%A4%A7%E5%AD%A6&hl=ja&sa=X&ved=2ahUKEwiAla-a_4TvAhUbMN4KHaH6CJcQ4lYoBXoECAEQHw&biw=1519&bih=754]上野一郎などの画像</ref>は産能大学長で、上野誠治の師匠である。この様な経緯をとらえると、上野誠治のペンネーム命名は、陽一先生が能率指導した、企業の化粧品最大手「中山太陽堂」創業者「中山太一」の名前に授かる方針で「中山太一」で決まりであったが、あまりにも偉大で、彼、上野誠治が気が引けたということで、変更案として中山太一の「中山太」と上野一郎の「一」ではなく「郎」でミックスし、ペンネームを「中山太郎」とするであったが、また上野誠治が、語呂を良くするため、頭に「孝」を加えて「'''中山孝太郎'''」として命名しているというエピソードがある。
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また、彼自身はカメラ愛好家の写真家でもあり、ウエノスタジオのカメラマンでもある。
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後に中山孝太郎<ref>[http://xs477883.xsrv.jp/test/002/wp-content/uploads/2022/02/dtx78wfbg8t8hh2xinyc_920_865-b820dfe5.jpg] 中山孝太郎</ref> が長崎市のコスモス文学の会主催(平成10年/1998年)第68回小説部門に「憔悴した点」でコスモス文学新人賞を受賞した。長崎の「上野彦馬」との見えない紅線があったのであろうか。
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== 作風 ==
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往時
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幾多の困難があった。そんな中、短編、中篇の純文学小説を書き続け、数多くの作品がたまるが、中々日の目を見なかったが、1998年、人間の煩悩や心の葛藤を描きぬいた僅か「1センチ4ミリ」を争う世界の作品が、やっと芽生えた。98年、第68回コスモス文学新人賞(長崎市のコスモス文学の会主催)の小説部門に「憔悴した点」が決定し、受賞。<ref>[http://prizesworld.com/naoki/ichiran/sen_ichiran121-140.htm#list137]1998年、第68回コスモス文学新人賞、小説部門に「憔悴した点」が決定し、受賞している</ref>
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近作
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これまでになかったモノ、バーチャルの世界と現世とが融合しており、他人とは違う世界が見えている小説が主。現実と妄想の境界が入り乱れ、引き込まれる。因って読み手の頭が混乱するであろう。この作者は、ここまでも書くのかというクレイジーな感じで「藪を這う」なんかはまるで映画を観ているようで、少し気が違う面には動揺するが、中々変わっていて、近頃は珍しい。「藪を這う」と「争点」は、ここに掲載されている代表作品。
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文体
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初期の小説は一つひとつの文字を書く筆にいきおいを感じながら、それなりのモチベーションで書きあげ、同人会で発表するが中々馴染めない面があった。この時期にある程度の量を書き上げていたが、自暴自棄になっていた。因ってかなりのブランクが発生し、まだ初期の段階で、もう筆を折ろうかと思っていたという。しかし、周りの連中から、これからが良くなると言われ、思いとどまった。自称の作家が言った。「お前の小説を読んだが、吐き気がした。小説の体(てい)を知らないのだろう。俺は国立大学の同人会に所属していた。もう息子は小説家になった。勿体ないが、俺が書いた100数十作の小説は、1作あたり全部100枚以上はあるが、そのうちどれか1作だけを参考に見せてやる」理不尽で失礼千万だ。小説の体を言う前に手前はどうか、支離滅裂な説教でうんざりとしたという。こいつは小説の書き方が一つしか無いのだと確信していた様だという。小説の中にも絵や図などが入っているのもある。文章間に詳しい説明の文章が入っているのも沢山あるようだ。こいつは本を読んでいないのだろうかとも思ったという。1人称(私小説)や3人称の書き方もあれば、まだ書き方は沢山ある。箇条書きもある。ひらがなやカタカナだけのものもある。また横書きもある。つまり何でも良いという。主題やテーマがハッキリとしていて、それに沿って書き上げていれば問題はないようだ。水の如くいっきに流れるように書いてあるのもある。途中でいきなり回想しているのもある。彼は誹謗中傷侮辱された。しかし、批判は批判として真摯(しんし)に受けとめる。こういう意見もあるのだと感じたという。彼はいろんな作家の小説を読んでいて、どの小説のテーマもまちまちで、出現の仕方も違うという。もちろん文体も違うだろう。かなり自由に書いていて、これらはすべて「小説の体」を成しているという点では共通しているのであろう。もちろんテーマがあってストーリーがあって描写があるのだ。支離滅裂になってはもちろん良くない。質はもちろん大事で、数を書いて会得していくことも大事なのであろう。書き続けることで、なんだ、こんなことで悩んでいたのかはままある。因って小説の体をなしていないとは、そもそも文章自体に乱れ、稚拙で支離滅裂などで破綻(はたん)していることであるという。
 +
 
 +
==賞歴==
 +
など
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*1996年12月に「広島西飛行場存続の危機脱出変遷史」<ref>[https://www.youtube.com/watch?v=KDWq_AoOEBo]旧広島西飛行場の映像</ref><ref>[https://www.pref.hiroshima.lg.jp/soshiki_file/monjokan/mokuroku/200407osafune.pdf]広島市 長船 おさふね 友則 と も の り
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氏収集資料仮目録 ]</ref>を発行。
 +
*広島市教育委員会から教育用として採用され、県と市へ納品した。
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*1998年、「第68回コスモス文学新人賞」(長崎市のコスモス文学の会主催)小説部門に「憔悴した点」が決定し、受賞。
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*1998年、「第68回コスモス文学新人賞ノンフイクション部門」に「揺れる灯」が佳作に決定し、受賞。
 +
*1999年9月文藝春秋の雑誌に「第2回草枕文学賞」の中間発表があり、名前が載った。主催は熊本県『草枕文学賞』実行委員会。後援は文藝春秋。全国各地及び海外から総数769編の応募があり、80編が予選を通過した。文学賞の最終選考には残ったが、賞は貰えなかった。草枕文学賞を受賞すると、その作品は文学界の雑誌に掲載され、そして必然的に芥川賞にノミネートされるのだが残念だった。その小説は「藪を這う」。後に改稿後関西文學に掲載された。さらに改稿後安藝文學にも掲載された。その小説は「日本ペンクラブ電子文藝館」に所蔵されている。
 +
*1999年4月号の小説現代に「第67回小説現代新人賞」の予選発表があった。応募総数1615編で予選通過者数は114名。これに名前が載った。その作品は改稿後「争点」で安藝文學に掲載された。後に「日本ペンクラブ電子文藝館」に所蔵されている。
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*2001年1月31日に「脳裏を刳る映像(2)」が愛知県土地家屋調査士会の「地図読み人」に採用され、全文が掲載された。
 +
*2001年「第18回織田作之助賞」に「気になる紐と首」が応募総数503篇で第1次予選を通過し、さらに第2次予選も通過した。50篇が第2次予選を通過。
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*2002年に改稿後「第3回関西文學新人賞」で第1次予選を通過し、さらに第2次予選も通過した。応募総数190篇で第2次予選通過作は23作。2012年7月さらに改稿後安藝文學に小説「気になる紐と首」が掲載された。現在は「国立国会図書館」に所蔵されている。
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*1998年9月彩図社のぶんりき賞で小説「魚うお」が雑誌に全文が掲載された。
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*2000年4月同文書院のまとりた賞で小説「現れた情景」が雑誌に全文が掲載された。
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*2003年6月新風舎出版賞第20回、小説で出版奨励賞受賞。
 +
その他諸々予選は通過しているが、中期はブランクがあってあまり応募はしていない。後期、最近は体調を悪くし、あまり書いていないが、作がかなりたまってきている。が、推敲校正が必要だという。しかし、近いうちに発表予定でもあるという。
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== 著作 ==
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コラムなど
 
*「予算消化工事税金無駄遣い」93.2.25中国新聞
 
*「予算消化工事税金無駄遣い」93.2.25中国新聞
 
*「選挙の資金は国民が出資を」93.3.4 中国新聞
 
*「選挙の資金は国民が出資を」93.3.4 中国新聞
27行目: 119行目:
 
*「広島らしさを物産館に望む」96.10.6中国新聞
 
*「広島らしさを物産館に望む」96.10.6中国新聞
 
*「専門学校設け広大跡地活用」96.10.20中国新聞
 
*「専門学校設け広大跡地活用」96.10.20中国新聞
*「コミューター航空の発展を願う」96.11.10文化評論
 
*「新空港へのアクセスを考える」96.11.10文化評論
 
*「新幹線のスピードアップは大丈夫か」96.11.15文化評論
 
 
*「小企業の支援に商工会議所充実を」96.11.16中国新聞
 
*「小企業の支援に商工会議所充実を」96.11.16中国新聞
*「地域振興にヘリポートの設置」96.11.25文化評論
 
*「予算配分の地域差別発言に思う」96.11.30文化評論
 
*「予算ムダ遣いの悪弊」96.12.18文化評論
 
 
*「運転中の通話について」96.12.19中国新聞
 
*「運転中の通話について」96.12.19中国新聞
*「平成9年度予算編成に思う」96.12.21文化評論
 
*「広島の特色ある地方分権」96.12.22文化評論
 
*「行政のたらい回しをやめて」97.1.19文化評論
 
 
*「政治や経済の勉強」97.1.30朝日新聞
 
*「政治や経済の勉強」97.1.30朝日新聞
 
*「『毛利元就』もっと方言を望む」97.2.13読売新聞
 
*「『毛利元就』もっと方言を望む」97.2.13読売新聞
 
*「真の『上得意様』へのサービス」97.2.14毎日新聞
 
*「真の『上得意様』へのサービス」97.2.14毎日新聞
 
*「W杯招致運動もうやめよう」97.2.18中国新聞
 
*「W杯招致運動もうやめよう」97.2.18中国新聞
*「消費税アップに一考を」97.2.25文化評論
 
*「郵便局はより高いサービスを」97.3.4文化評論
 
 
*「『一人くらい』を返上し投票を」97.3.25中国新聞
 
*「『一人くらい』を返上し投票を」97.3.25中国新聞
*「バブル再燃を許さない景気対策」97.4.1文化評論
 
*「表現の自由は民主主義の根本」97.4.7文化評論
 
*「県民を無視した推薦依頼」97.11.26文化評論
 
*「商工会議所の無風選挙に思う」97.11.26文化評論
 
 
*「トンネル内の照明を整備せよ」97.12.18産経新聞  
 
*「トンネル内の照明を整備せよ」97.12.18産経新聞  
*「ポケモンの被害」97.12.26文化評論
 
 
*「納得できない可部線の廃止」98.4.19中国新聞
 
*「納得できない可部線の廃止」98.4.19中国新聞
 
*「南道路県と市協調を」04.6.19中国新聞
 
*「南道路県と市協調を」04.6.19中国新聞
*など
+
*随筆など
*随筆
+
*「粗大ゴミの家出」95.12.25文化評論
+
*「便利なモノにも落とし穴」97.1.19文化評論
+
 
*「私の健康法」97.1.27中建日報
 
*「私の健康法」97.1.27中建日報
*「真実」97.5.5文化評論
 
*「山間部でのホットする光景」97.10.10文化評論
 
*「カメラ好きウイルス」99.7.29文化評論
 
*「ナンセンスな便通」99.7.30文化評論
 
 
*「地球は生命体」97.3.27川柳ひろしま
 
*「地球は生命体」97.3.27川柳ひろしま
 
*「さばを読む」97.4.5川柳ひろしま
 
*「さばを読む」97.4.5川柳ひろしま
*など
+
*川柳など
*川柳
+
 
*「ガラス細工」00.4.1葉文館出版
 
*「ガラス細工」00.4.1葉文館出版
*など
+
*ノンフイクションなど
*ノンフイクション
+
*「広島西飛行場存続の変遷史」96.12.16東洋図書出版 著書
*「広島西飛行場存続の変遷史」96.12.16東洋図書出版
+
*「広島のデルタを歩くリベラリスト」99.9.9タニシ企画印刷 著書
*「広島のデルタを歩くリベラリスト」99.9.9文化評論
+
*『調査士放談』10.11 広島県土地家屋調査士会「会報ひろしま」154号
*など
+
*『上野誠治が利用している実務に役立つ平方メートルと坪の関係など』
*小説
+
 広島県建築士会7/2022 № 186
 +
*『【尺貫法】 日本古来の度量衡法』22.8
 +
 広島県土地家屋調査士会「会報ひろしま」№177号
 +
*小説など
 +
*「脳裏を刳る映像(1)」00.1.1ウエノ書房 著書
 
*「三角関係」97.11.1ビジネスセミナー
 
*「三角関係」97.11.1ビジネスセミナー
 
*「魚(うお)」98.9.1採図社
 
*「魚(うお)」98.9.1採図社
*「藪を這う」00.2.1関西文學
 
*「脳裏を刳る映像(1)」00.1.1ウエノ書房
 
 
*「藪を這う」00.2.1関西文學
 
*「藪を這う」00.2.1関西文學
 
*「現れた情景」00.4.1同文書院
 
*「現れた情景」00.4.1同文書院
82行目: 152行目:
 
*「気に為る紐と首」12.7.10安藝文學
 
*「気に為る紐と首」12.7.10安藝文學
 
*「争点」15.8.10安藝文學
 
*「争点」15.8.10安藝文學
*など
+
その他寝かせている小説などがあるが推敲校正が必要で未発表作品。
*その他寝かせている小説などがある。推敲校正が必要で、今はゴロゴロとしているので未発表作品であるという。そのためここには掲載していない。
+
 
 +
== 代表==
  
=== 代表作品 ===
 
*「藪を這う」http://bungeikan.jp/domestic/detail/567/
 
*「争点」http://bungeikan.jp/domestic/detail/1006/
 
  
=== 所属団体 ===
 
日本文藝家協会会員<ref>[http://www.bungeika.or.jp/links.htm]日本文藝家協会会員</ref>、日本ペンクラブ会員<ref>[http://www.japanpen.or.jp/members/]日本ペンクラブ会員</ref>、安藝文學同人<ref>[http://www.a-net.shimin.city.hiroshima.jp/anet/dantai/archives/p-1019814058058.html]安藝文學同人</ref>
 
 
 
  
 +
「争点」
 +
    日本ペンクラブ電子文藝館
 +
  
  
 +
「藪を這う」
 
 
 
 
 +
日本ペンクラブ
 +
電子文藝館
  
==作品の感想==
+
== 所属 ==
  
 +
[http://www.bungeika.or.jp/links.htm 日本文藝家協会]
  
 +
[http://bungeikan.jp/domestic/search/author/?author=nagyou 日本ペンクラブ]
  
'''「争点」''' 某氏 
 
  
 
 思わせぶりで、深刻な出だしで始まるこの小説に、何事を作者は語りだすのだろうかと一気に話に引き込まれた。誰にでもその深刻さの度合は違ってもおこりうる間違いが、その人の人生の全てを左右してしまうという話は興味深い。作者が“点”という言葉に主人公の仕事と重ね合わせてこだわりをみせる所が面白い。特に点滴の“点”という字を見て脳裏から取れなかったと言うエピソードはなる程と思う。最後は、主人公の長年の秘密(悩み)がとけるわけだが、問題の土地を前にして主人公がへたり込み、全身の力が抜けるシーンで“一点の世界の大地から、いままで私が注ぎ込んだ活力よりも遥かなエネルギーの源が加えられた気がした”というくだりは、この小説の主題をよく表わした秀逸の文章だと思う。
 
 
 
 
'''「藪を這う」''' 某氏
 
 
 
 主人公である“滝沢”は、もはや生きている、というだけで、わずかばかりに残された気力は、生存するためにだけ使われる。歓楽街に出て残飯をあさる。山の麓の小屋に住み、蛇をとる。言葉も忘れ、ただ生きているだけの主人公の滝沢は、かつて世話をしてやった黒川に出会い、彼の恩を忘れない男気によって社会復帰への道が開かれるが、それすらも、滝沢にとっては、わずらわしいものでしかなかった。彼はもう、なにもいらないのだ。そんな滝沢が唯一、心を動かしたのが、生きていくためではない、それ以外の行動を起こさせたのが、車から優しく手を振った女性の存在であった。滝沢は、彼女を探した。もう一度、彼女に会いたいと思った。幾度も探したが分からない、仕方がない彼はもう諦めて小屋に戻り、過去の女性のことを目を閉じて回想していた。ふと周りのざわめきで目が開いた。辺りは蛇の群れが沸き上がり一面湖のようだ。その中には見たことのある彼女がいた。彼は優しくその彼女に包まれ、安らかな眠りに就いた。最後はこの小説の主題をよく表わしているが、悲しい話であった。
 
 
== 脚注 ==
 
== 脚注 ==
 
<references/>
 
<references/>
  
 
+
== 外部 ==
== 外部リンク ==
+
 
* [http://www.nakayama-koutarou.com/ 中山孝太郎公式サイト]
 
* [http://www.nakayama-koutarou.com/ 中山孝太郎公式サイト]
* [http://bungeikan.jp/domestic/search/author/%E3%81%AA/ 日本ペンクラブ電子文藝館]
+
* [http://www.nakayama-koutarou.com/prf.htm 中山孝太郎公式サイト]
* [http://www.bungeika.or.jp/links.htm 日本文藝家協会会員ホームページ]
+
* [http://bungeikan.jp/domestic/search/author/?author=nagyou 日本ペンクラブ電子文藝館]
* [http://www.a-net.shimin.city.hiroshima.jp/anet/dantai/archives/p-1019814058058.html 安藝文學同人会]
+
* [http://www.bungeika.or.jp/links.htm 日本文藝家協会]
 
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2022年11月3日 (木) 23:38時点における最新版

なかやま こうたろう
中山 孝太郎
[[ファイル:|0|]]
本名 上野誠治
別名 中山孝太郎
生年月日 1949年月日
没年月日 月日
出生地 広島在住
死没地
国籍 日本
民族 -
身長
血液型
職業 小説家、フリーライター
ジャンル 純文学
活動期間 1985年
活動内容
配偶者
家族
公式サイト
主な作品
『争点』

『藪を這う』

『気になる紐と首』

受賞
コスモス文学新人賞
備考
テンプレート

中山 孝太郎(なかやま こうたろう、本名:上野誠治、1949年 - )は、日本小説家である。


来歴[編集]

広島在住。広島県立広島国泰寺高等学校。法政大学文学部卒。産業能率大学長上野一郎の下、能率学修める。東京大学大学院法学政治学研究科 地方自治法など履修。


「広島西飛行場[1]存続の危機脱出変遷史」[2]96年12月16日東洋図書出版発行。広島市教育委員会から教育用として採用され、県と市や市内の各図書館へ納品。一部書店では売り上が上位になった。 1998年「第68回コスモス文学新人賞」(長崎市のコスモス文学の会主催)小説部門に「憔悴した点」が決定し、受賞。 1998年「第68回コスモス文学新人賞」ノンフイクション部門に「揺れる灯」が佳作に選ばれ、受賞。 2001年1月31日に「脳裏を刳る映像(2)」が愛知県土地家屋調査士会の「地図読み人」に採用され、全文が掲載された。 1998年9月彩図社[3]のぶんりき賞で小説「魚うお」が雑誌に全文が掲載された。 2000年4月同文書院[4]のまとりた賞で小説「現れた情景」が雑誌に全文が掲載された。 

本名「上野誠治」[5]ペンネーム「中山孝太郎」の名前の由来は下記の複合的要因による。

長崎の「上野彦馬」は日本における「最初期写真家」であり、「日本写真の開祖」として知られる。[6][7][8] [9][10][11][12][13][14][15][16][17] 産能短期大学創始者「上野陽一[18][19][20][21]の伯父に当たる。   陽一が最初に手掛けた能率指導は1921年(大正10年)化粧品最大手「中山太陽堂」であった。創業者は 「中山太一」である。[22][23][24][25][26]   陽一の子ども「上野一郎[27][28][29][30]は産能大学長で、上野誠治の師匠である。この様な経緯をとらえると、上野誠治のペンネーム命名は、陽一先生が能率指導した、企業の化粧品最大手「中山太陽堂」創業者「中山太一」の名前に授かる方針で「中山太一」で決まりであったが、あまりにも偉大で、彼、上野誠治が気が引けたということで、変更案として中山太一の「中山太」と上野一郎の「一」ではなく「郎」でミックスし、ペンネームを「中山太郎」とするであったが、また上野誠治が、語呂を良くするため、頭に「孝」を加えて「中山孝太郎」として命名しているというエピソードがある。 また、彼自身はカメラ愛好家の写真家でもあり、ウエノスタジオのカメラマンでもある。

後に中山孝太郎[31] が長崎市のコスモス文学の会主催(平成10年/1998年)第68回小説部門に「憔悴した点」でコスモス文学新人賞を受賞した。長崎の「上野彦馬」との見えない紅線があったのであろうか。

作風[編集]

往時

幾多の困難があった。そんな中、短編、中篇の純文学小説を書き続け、数多くの作品がたまるが、中々日の目を見なかったが、1998年、人間の煩悩や心の葛藤を描きぬいた僅か「1センチ4ミリ」を争う世界の作品が、やっと芽生えた。98年、第68回コスモス文学新人賞(長崎市のコスモス文学の会主催)の小説部門に「憔悴した点」が決定し、受賞。[32]

近作  

これまでになかったモノ、バーチャルの世界と現世とが融合しており、他人とは違う世界が見えている小説が主。現実と妄想の境界が入り乱れ、引き込まれる。因って読み手の頭が混乱するであろう。この作者は、ここまでも書くのかというクレイジーな感じで「藪を這う」なんかはまるで映画を観ているようで、少し気が違う面には動揺するが、中々変わっていて、近頃は珍しい。「藪を這う」と「争点」は、ここに掲載されている代表作品。

文体  

初期の小説は一つひとつの文字を書く筆にいきおいを感じながら、それなりのモチベーションで書きあげ、同人会で発表するが中々馴染めない面があった。この時期にある程度の量を書き上げていたが、自暴自棄になっていた。因ってかなりのブランクが発生し、まだ初期の段階で、もう筆を折ろうかと思っていたという。しかし、周りの連中から、これからが良くなると言われ、思いとどまった。自称の作家が言った。「お前の小説を読んだが、吐き気がした。小説の体(てい)を知らないのだろう。俺は国立大学の同人会に所属していた。もう息子は小説家になった。勿体ないが、俺が書いた100数十作の小説は、1作あたり全部100枚以上はあるが、そのうちどれか1作だけを参考に見せてやる」理不尽で失礼千万だ。小説の体を言う前に手前はどうか、支離滅裂な説教でうんざりとしたという。こいつは小説の書き方が一つしか無いのだと確信していた様だという。小説の中にも絵や図などが入っているのもある。文章間に詳しい説明の文章が入っているのも沢山あるようだ。こいつは本を読んでいないのだろうかとも思ったという。1人称(私小説)や3人称の書き方もあれば、まだ書き方は沢山ある。箇条書きもある。ひらがなやカタカナだけのものもある。また横書きもある。つまり何でも良いという。主題やテーマがハッキリとしていて、それに沿って書き上げていれば問題はないようだ。水の如くいっきに流れるように書いてあるのもある。途中でいきなり回想しているのもある。彼は誹謗中傷侮辱された。しかし、批判は批判として真摯(しんし)に受けとめる。こういう意見もあるのだと感じたという。彼はいろんな作家の小説を読んでいて、どの小説のテーマもまちまちで、出現の仕方も違うという。もちろん文体も違うだろう。かなり自由に書いていて、これらはすべて「小説の体」を成しているという点では共通しているのであろう。もちろんテーマがあってストーリーがあって描写があるのだ。支離滅裂になってはもちろん良くない。質はもちろん大事で、数を書いて会得していくことも大事なのであろう。書き続けることで、なんだ、こんなことで悩んでいたのかはままある。因って小説の体をなしていないとは、そもそも文章自体に乱れ、稚拙で支離滅裂などで破綻(はたん)していることであるという。

賞歴[編集]

など

  • 1996年12月に「広島西飛行場存続の危機脱出変遷史」[33][34]を発行。
  • 広島市教育委員会から教育用として採用され、県と市へ納品した。
  • 1998年、「第68回コスモス文学新人賞」(長崎市のコスモス文学の会主催)小説部門に「憔悴した点」が決定し、受賞。
  • 1998年、「第68回コスモス文学新人賞ノンフイクション部門」に「揺れる灯」が佳作に決定し、受賞。
  • 1999年9月文藝春秋の雑誌に「第2回草枕文学賞」の中間発表があり、名前が載った。主催は熊本県『草枕文学賞』実行委員会。後援は文藝春秋。全国各地及び海外から総数769編の応募があり、80編が予選を通過した。文学賞の最終選考には残ったが、賞は貰えなかった。草枕文学賞を受賞すると、その作品は文学界の雑誌に掲載され、そして必然的に芥川賞にノミネートされるのだが残念だった。その小説は「藪を這う」。後に改稿後関西文學に掲載された。さらに改稿後安藝文學にも掲載された。その小説は「日本ペンクラブ電子文藝館」に所蔵されている。
  • 1999年4月号の小説現代に「第67回小説現代新人賞」の予選発表があった。応募総数1615編で予選通過者数は114名。これに名前が載った。その作品は改稿後「争点」で安藝文學に掲載された。後に「日本ペンクラブ電子文藝館」に所蔵されている。
  • 2001年1月31日に「脳裏を刳る映像(2)」が愛知県土地家屋調査士会の「地図読み人」に採用され、全文が掲載された。
  • 2001年「第18回織田作之助賞」に「気になる紐と首」が応募総数503篇で第1次予選を通過し、さらに第2次予選も通過した。50篇が第2次予選を通過。
  • 2002年に改稿後「第3回関西文學新人賞」で第1次予選を通過し、さらに第2次予選も通過した。応募総数190篇で第2次予選通過作は23作。2012年7月さらに改稿後安藝文學に小説「気になる紐と首」が掲載された。現在は「国立国会図書館」に所蔵されている。
  • 1998年9月彩図社のぶんりき賞で小説「魚うお」が雑誌に全文が掲載された。
  • 2000年4月同文書院のまとりた賞で小説「現れた情景」が雑誌に全文が掲載された。
  • 2003年6月新風舎出版賞第20回、小説で出版奨励賞受賞。

その他諸々予選は通過しているが、中期はブランクがあってあまり応募はしていない。後期、最近は体調を悪くし、あまり書いていないが、作がかなりたまってきている。が、推敲校正が必要だという。しかし、近いうちに発表予定でもあるという。

著作[編集]

コラムなど

  • 「予算消化工事税金無駄遣い」93.2.25中国新聞
  • 「選挙の資金は国民が出資を」93.3.4 中国新聞
  • 「証人喚問制度もっと厳正に」93.3.16中国新聞
  • 「広島らしさを物産館に望む」96.10.6中国新聞
  • 「専門学校設け広大跡地活用」96.10.20中国新聞
  • 「小企業の支援に商工会議所充実を」96.11.16中国新聞
  • 「運転中の通話について」96.12.19中国新聞
  • 「政治や経済の勉強」97.1.30朝日新聞
  • 「『毛利元就』もっと方言を望む」97.2.13読売新聞
  • 「真の『上得意様』へのサービス」97.2.14毎日新聞
  • 「W杯招致運動もうやめよう」97.2.18中国新聞
  • 「『一人くらい』を返上し投票を」97.3.25中国新聞
  • 「トンネル内の照明を整備せよ」97.12.18産経新聞
  • 「納得できない可部線の廃止」98.4.19中国新聞
  • 「南道路県と市協調を」04.6.19中国新聞
  • 随筆など
  • 「私の健康法」97.1.27中建日報
  • 「地球は生命体」97.3.27川柳ひろしま
  • 「さばを読む」97.4.5川柳ひろしま
  • 川柳など
  • 「ガラス細工」00.4.1葉文館出版
  • ノンフイクションなど
  • 「広島西飛行場存続の変遷史」96.12.16東洋図書出版 著書
  • 「広島のデルタを歩くリベラリスト」99.9.9タニシ企画印刷 著書
  • 『調査士放談』10.11 広島県土地家屋調査士会「会報ひろしま」154号
  • 『上野誠治が利用している実務に役立つ平方メートルと坪の関係など』

 広島県建築士会7/2022 № 186

  • 『【尺貫法】 日本古来の度量衡法』22.8

 広島県土地家屋調査士会「会報ひろしま」№177号

  • 小説など
  • 「脳裏を刳る映像(1)」00.1.1ウエノ書房 著書
  • 「三角関係」97.11.1ビジネスセミナー
  • 「魚(うお)」98.9.1採図社
  • 「藪を這う」00.2.1関西文學
  • 「現れた情景」00.4.1同文書院
  • 「脳裏を刳る映像(2)」01.1.31地図読み人
  • 「気に為る紐と首」12.7.10安藝文學
  • 「争点」15.8.10安藝文學

その他寝かせている小説などがあるが推敲校正が必要で未発表作品。

代表[編集]

「争点」     日本ペンクラブ電子文藝館   

「藪を這う」   日本ペンクラブ 電子文藝館

所属[編集]

日本文藝家協会

日本ペンクラブ


脚注[編集]

  1. [1]旧広島西飛行場の姿
  2. [2]『広島の交通』展示資料リスト
  3. [3]彩図社のぶんりき賞
  4. [4]同文書院のまとりた賞
  5. [5]ペンネーム「中山孝太郎
  6. [6]上野彦馬ってどんな人!?その人物像と功績に迫る
  7. [7]薬学 上野彦馬の開眼
  8. [8]で撮影の鶏卵写真
  9. [9]上野彦馬宅跡
  10. [10]上野彦馬などの画像 
  11. [11]上野彦馬 ブリタニカ国際大百科事典 コトバンク
  12. [12]日本の写真家の始祖「上野彦馬」、ゆかりの地
  13. [13]上野彦馬生誕地と撮影局跡(長崎市)
  14. [14]上野彦馬【写真家】の子孫と作品、写真館を紹介!日本最初の戦場カメラマン
  15. [15]日本写真界の開祖として 上野彦馬は、1838年長崎市銀屋町で生まれます。彦馬の父、俊之丞が出島のオランダ商品を通して写真機を初めて輸入したのが1843年
  16. [16]古写真に見る西南戦争の記録-「彦馬が見た西南戦争」
  17. [17]上野(彦馬)家墓地 市指定史跡 指定年月日 平成18年1月10日 所在地 長崎市伊良林3丁目4番
  18. [18]写真師・上野彦馬の弟の長男、産業能率短期大学創始者・上野陽一
  19. [19]上野陽一の日本における産業能率研究の歴史です
  20. [20]日本にマネジメントを「導入した父」産業能率大学創始者・上野陽一
  21. [21]上野陽一
  22. [22]東洋の化粧王 中山 太一なかやま たいち 明治・大正・昭和時代の実業家 1881(明治14)年〜1956(昭和31)年
  23. [23]創業者中山太一 化粧品業界の巨星と呼ばれた中山太一は、明治14年(1881年)山口県豊浦郡滝部村に生まれた。明治36年4月3日(1903年)、神戸市花隈町において化粧品の卸商「中山太陽堂」を創業。創業から3年後、製造業に転身をはかる。外国人技師を招聘して開発にあたらせ、化学研究所や近代的化粧品工場を設立して独自の美身剤の開発や作業の能率化を図った。その一方では、中山文化研究所を設立し、幅広いメセナ活動を実施した
  24. [24]中山太一の年表
  25. [25]日本研究のための歴史情報『人事興信録』データベース 中山太一 (第4版 [大正4(1915)年1月] の情報)
  26. [26]時代の先を行く感性で文明開化の日本を彩った「東洋の化粧品王」中山 太一 (1881~1956年)
  27. [27] 上野一郎
  28. [28] 上野一郎の上野彦馬
  29. [29]上野陽一先生の事上野一郎座談会
  30. [30]上野一郎などの画像
  31. [31] 中山孝太郎
  32. [32]1998年、第68回コスモス文学新人賞、小説部門に「憔悴した点」が決定し、受賞している
  33. [33]旧広島西飛行場の映像
  34. [34]広島市 長船 おさふね 友則 と も の り 氏収集資料仮目録 ]

外部[編集]