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2020年5月29日 (金) 19:05時点における版
矢野 祐太郎(やの ゆうたろう、1881年 - 1938年)は、日本の軍人、宗教活動家。神政龍神会を創始した。[1]
1881年、日本鉄道に技師として勤めていた、矢野源次郎の長男として生まれる[1]。
一時期、英国大使館附海軍武官として、軍需産業に関するスパイ活動をしていたことがあった[1]。
1917年、海軍兵学校時代の恩師・浅野正恭から大本の存在を教えられ、京都府の綾部町にある本部を訪問[1]。
大本に入信し、出口王仁三郎に軍機を漏洩したとして懲罰を受けた[1]。
砲弾の信管を開発したり、新合金の開発により大口径の大砲製造を可能としたり、ボタン一つで全砲門を操作できるようにするなど、海軍に大きな貢献をしたので、中佐としては、破格の勲三等に叙せられた。
ニッケル貨幣も矢野の発案である。金属を軍部が保管してあるだけでは勿体ないので、平時は貨幣として流通させ、戦時に回収して兵器に転用した方が良いとして、ニッケル貨幣が流通するようになる。
1923年、予備役編入を申し出て、海軍を辞職[1]。
この際に、加藤海軍大臣より、もうすぐ少将に昇進するので、それまで待てと言われるが、これでは埒が明かぬと、各宮家などに挨拶を済ませたので、各所より「何故、矢野のような優秀な人物を予備役に編入するのか」と抗議が殺到し、加藤大臣の顔に泥を塗る形となるが、加藤大臣もやむなしと、矢野の予備役編入を認める。
このとき、不敬罪で有罪判決を受け、控訴中だった出口王仁三郎をモンゴルに脱出させて満蒙独立運動に携わった[1]。この時より、出口王仁三郎に「聖師」の呼称が付く。矢野が満蒙活動向けに付けたものである。
しかし運動は失敗し、大本の主流から孤立。兵庫県川辺郡中谷村字肝川(猪名川町肝川)にあった肝川支部を訪れたが、非主流派との連携もうまくいかなかった。[1]
1929年に矢野の妻・シンが神がかり、神示を下すようになる[1]。
1930年に天津教の外郭団体・神宝奉賛会を立ち上げて自ら会長となるが、うまくいかずに同会を脱会[1]。
1934年11月14日に、肝川の「八代竜神」にまつわる伝説と土俗信仰を土台にして、大本教と天津教の教義を附会して神政龍神会を組織[1]。
伊勢神宮の鏡は偽物で本物は天津教の皇祖皇太神宮にあり、熱田神宮の剣も皇位継承の象徴ではないと主張した[1]。
昭和天皇自身が「世界統理、神政復古」を担う使命責任を自覚することが「根本であり、全問題の要」であると考え、天皇に拝謁して自分の考えを伝えようとしたが、1936年3月に不敬罪で逮捕され、裁判中の1938年に拘置所で病死した[1]。
- 獄中で太古史を書かされ、書き終わった翌日に獄中で怪死したことが当時喧伝された。茨城県磯原町の「磯原館」の主人で矢野の熱心な同志だった吉田兼吉が、矢野の獄中怪死事件の顛末をパンフレットにして同志に配布していた。[2]
矢野の三男・矢野凱也へのインタビュー記録によると、矢野は明治天皇までの天皇を崇拝していたといい[3]、原 (2009 188)は、矢野は、当時の皇室のあり方が誤っているという信念を持っていたと推測している。
評価
三村 (1953 211)は、竹内文書の研究家として(また親猶主義者として)特異の存在だった、と評している。
付録
脚注
参考文献
- 原 (2009) 原武史『松本清張の「遺言」 - 『神々の乱心』を読み解く』〈文春新書〉文藝春秋、2009年、ISBN 978-4166607037
- 三村 (1953) 三村三郎『ユダヤ問題と裏返して見た日本歴史』八幡書店、1986年
- 初出:日猶関係研究会、1953年
- 新装版:八幡書店、2000年、ISBN 4893500163