「アレクサンドラ病院事件」の版間の差分

提供: Yourpedia
移動: 案内検索
(wiki:ja:アレクサンドラ病院事件 2016年5月20日 (金) 14:41‎の Straysheep による版を転記)
 
(画像サイズの修正)
 
(同じ利用者による、間の1版が非表示)
1行目: 1行目:
[[File:Alexandria Hosp plaque.jpg|thumb|140px|right| 虐殺の犠牲者を追悼し、戦後の病院の歴史について説明する石碑]]
+
[[画像:Alexandria Hosp plaque.jpg|thumb|虐殺の犠牲者を追悼し、戦後の病院の歴史について説明する石碑]]
'''アレクサンドラ病院事件'''(アレクサンドラびょういんじけん)は、[[シンガポールの戦い|シンガポール攻略戦]]中の[[1942年]][[2月14日]]に、[[シンガポール]]の{{仮リンク|アレクサンドラ病院|en|Alexandra Hospital}}で、[[第25軍 (日本軍)|日本軍 (第25軍)]]が、{{仮リンク|英国陸軍医療隊|label=英軍医療隊|en|Royal Army Medical Corps}}の軍医将校・看護兵、負傷者ら200人以上を殺害したとされる事件。戦後、英軍[[シリル・ワイルド|ワイルド]]大佐が戦犯事件として調査し、[[極東国際軍事裁判|東京裁判]]でも報告されたが、1945年12月に逮捕され、ワイルド没後1946年12月にシンガポールで尋問を受けた当時の第25軍[[第18師団 (日本軍)#太平洋戦争|第18師団]][[牟田口廉也]]師団長はそのまま釈放され、起訴されることはなかった。<ref>この記事の主な出典は、ブラッドリー(2001) 171-195頁および聯合早報(1986)。</ref>
+
'''アレクサンドラ病院事件'''(アレクサンドラびょういんじけん)は、[[シンガポールの戦い|シンガポール攻略戦]]中の[[1942年]][[2月14日]]に、[[シンガポール]]の{{仮リンク|アレクサンドラ病院|en|Alexandra Hospital}}で、[[第25軍 (日本軍)|日本軍 (第25軍)]]が、{{仮リンク|英国陸軍医療隊|label=英軍医療隊|en|Royal Army Medical Corps}}の軍医将校・看護兵、負傷者ら200人以上を殺害したとされる事件。
 +
 
 +
戦後、事件で殺害されたR.M.アラダイス大尉の友人だった英軍・[[シリル・ワイルド|ワイルド大佐]]が戦犯事件として調査し、1945年12月に事件当時、第25軍[[第18師団 (日本軍)#太平洋戦争|第18師団]]師団長だった[[牟田口廉也]]が逮捕され、[[極東国際軍事裁判|東京裁判]]でも戦争犯罪として報告されたが、1946年9月にワイルド大佐が事故死した後、同年12月にシンガポールで尋問を受けた牟田口はそのまま釈放され、起訴されることはなかった。
  
 
== 背景 ==
 
== 背景 ==
[[シンガポール]]市街の西に位置する{{仮リンク|アレクサンドラ病院|en|Alexandra Hospital}}は、[[第二次世界大戦]]前に[[イギリス]]が海外に持っていた軍用病院の中でも最大規模の病院だった<ref>ブラッドリー(2001) 190頁</ref>
+
[[シンガポール]]市街の西に位置する{{仮リンク|アレクサンドラ病院|en|Alexandra Hospital}}は、[[第二次世界大戦]]前に[[イギリス]]が海外に持っていた軍用病院の中でも最大規模の病院だった{{Sfn|ブラッドリー|2001|p=190}}
  
1942年2月の[[シンガポールの戦い]]では、[[第25軍 (日本軍)|日本軍 (第25軍)]]<ref>司令官・[[山下奉文]]中将</ref>の[[第18師団 (日本軍)#太平洋戦争|第18師団]]<ref>司令官・[[牟田口廉也]]中将</ref>がアレクサンドラ病院の位置するシンガポール島の西側を担当していた<ref name="Bradley_p176">ブラッドリー(2001) 176頁</ref>
+
1942年2月の[[シンガポールの戦い]]では、[[第25軍 (日本軍)|日本軍 (第25軍)]](司令官・[[山下奉文]]中将)の[[第18師団 (日本軍)#太平洋戦争|第18師団]](司令官・[[牟田口廉也]]中将)がアレクサンドラ病院の位置するシンガポール島の西側を担当していた{{Sfn|ブラッドリー|2001|p=176}}
  
同月12日、[[連合軍]]の前線はアレクサンドラ病院の後方まで後退し、病院は日本軍と[[連合軍]]との間の中間地帯となっていた<ref name="b181 and s1984">ブラッドリー(2001) 181頁、聯合早報(1984)</ref>。アレクサンドラ病院のクレイヴン大佐はこのことを{{仮リンク|マラヤ軍|en|Malaya Command}}司令部から知らされ、既に病院には赤十字章が方々に印されていたが、それでも日本軍が侵入してくることを予想して、あらゆる入口に更に赤十字旗を掲げた<ref name="Bradley_p181">ブラッドリー(2001) 181頁</ref>
+
同月12日、[[連合軍]]の前線はアレクサンドラ病院の後方まで後退し、病院は日本軍と[[連合軍]]との間の中間地帯となっていた{{Sfn|ブラッドリー|2001|p=181}}{{Sfn|聯合早報|1984}}。アレクサンドラ病院のクレイヴン大佐はこのことを{{仮リンク|マラヤ軍|en|Malaya Command}}司令部から知らされ、既に病院には赤十字章が方々に印されていたが、それでも日本軍が侵入してくることを予想して、あらゆる入口に更に赤十字旗を掲げた{{Sfn|ブラッドリー|2001|p=181}}
  
 
== 事件 ==
 
== 事件 ==
1942年2月14日<ref>聯合早報(1984)では「13日」、ブラッドリー(2001)216頁の東京裁判での証言では「15日16日の(…)殺戮」</ref>、病院のバルコニーにいるインド兵が彼らに発砲したことを理由に<ref>聯合早報(1984)。ブラッドリー(2001)にはない。</ref>、日本兵が病院になだれ込んだ<ref name="Bradley_p181" />
+
1942年2月14日<ref>{{Harvtxt|聯合早報|1984}}は「13日」、{{Harvtxt|ブラッドリー|2001|p=216}}の東京裁判での証言では「15日16日の(…)殺戮」</ref>、病院のバルコニーにいるインド兵が発砲したことを理由に<ref>{{Harvtxt|聯合早報|1984}}。{{Harvtxt|ブラッドリー|2001}}にはない。</ref>、日本兵が病院になだれ込んだ{{Sfn|ブラッドリー|2001|p=181}}
  
J.W.D.ブル少佐<ref>後に事件について報告した(ブラッドリー(2001) 181頁)。</ref>は、病院最上階のベランダに立って赤十字の旗を振ったが、銃弾が旗を打ち抜き、後ろの壁にあたった<ref name="Bradley_p181" />。ブル少佐は、階下で日本の将校が銃撃を指示しているのを見た<ref name="Bradley_p181" />。
+
後に事件について報告したJ.W.D.ブル少佐は、病院最上階のベランダに立って赤十字の旗を振ったが、銃弾が旗を打ち抜き、後ろの壁にあたった。ブル少佐は、階下で日本の将校が銃撃を指示しているのを見た。{{Sfn|ブラッドリー|2001|p=181}}
  
日本軍は、手術室<ref>ブラッドリー(2001) 181頁では「1階」</ref>にいた者全員を、銃剣で突くか銃殺し、手術台の上にいた負傷兵1人と執刀中の外科医も殺害した<ref name="b181 and s1984" />。麻酔医<ref>聯合早報(1984)によるとこの医師は「ナトール医師」</ref>だけが銃剣で刺されながらも生き延び<ref name="b181 and s1984" />、のちに英軍[[シリル・ワイルド|ワイルド]]大佐に傷痕を見せながら自身の体験について語った<ref name="Bradley_p181" />
+
日本軍は、手術室<ref>{{Harvtxt|ブラッドリー|2001|p=181}}では「1階」</ref>にいた者全員を、銃剣で突くか銃殺し、手術台の上にいた負傷兵1人と執刀中の外科医も殺害した{{Sfn|ブラッドリー|2001|p=181}}{{Sfn|聯合早報|1984}}。麻酔医({{Harvtxt|聯合早報|1984}}によると、「ナトール医師」)だけが銃剣で刺されながらも生き延び{{Sfn|ブラッドリー|2001|p=181}}{{Sfn|聯合早報|1984}}、のちに自身の体験について証言した{{Sfn|ブラッドリー|2001|p=181}}
  
日本軍は病棟中を歩き回り、医療班員や立つことのできる病人すべてを建物の外へ追い出した<ref name="Bradley_p181" />。軍医将校R.M.アラダイス大尉<ref>ワイルド大佐の友人だった(ブラッドリー(2001)181頁)</ref>は日本語を解したので、自ら日本の将校を探し、この事態を止めさせようとした<ref name="Bradley_p181" />。しかしアラダイス大尉も200人の負傷者や医療班員とともに半マイルほど離れた家屋に連行され、狭い部屋に入れられて、戸や窓を閉め切ったまま一晩の間監禁された<ref name="Bradley_p181" />。これにより5人が窒息死した<ref name="Bradley_p181" />。残った者も翌日銃剣や機関銃で殺害された<ref name="Bradley_p181" />。アラダイス大尉はこのとき死亡した<ref name="Bradley_p181" />。生存者は5人だけだった<ref>ブラッドリー(2001) 181-182頁。</ref><ref>聯合早報(1984)では部屋に監禁されたことには言及がなく、英軍医療隊とまだ動ける患者ら約350人が病院から連れ出されて1人ずつ銃剣で刺され、ナトール医師は地面に倒れて死んだふりをして難を逃れた、としている。</ref>
+
日本軍は病棟中を歩き回り、医療班員や立つことのできる病人を全員建物の外へ出して、200人の負傷者や医療班員を半マイルほど離れた家屋に連行し、戸や窓を閉め切って一晩監禁した{{Sfn|ブラッドリー|2001|p=181}}。
 +
*軍医将校R.M.アラダイス大尉は、[[日本語]]を解したので、自ら日本の将校を探し、この事態を止めさせようとしたが、他の医療班員とともに監禁された{{Sfn|ブラッドリー|2001|p=181}}
  
この事件で、200人の負傷者と、20人の軍医将校、60人の看護兵が日本兵に殺害された<ref>ブラッドリー(2001) 182頁。聯合早報(1984)では、約400人が殺害された、としている。</ref>
+
監禁中に5人が窒息死し、残った者も翌日、銃剣や機関銃で殺害された。生存者は5人だけだった。{{Sfn|ブラッドリー|2001|pp=181-182}}
 +
*アラダイス大尉もこのとき死亡した{{Sfn|ブラッドリー|2001|p=181}}。
 +
*{{Harvtxt|聯合早報|1984}}のナトール医師の話には、部屋に監禁されたことには言及がなく、英軍医療隊とまだ動ける患者ら約350人が病院から連れ出されて1人ずつ銃剣で刺された、とされている。ナトール医師は地面に倒れて死んだふりをして難を逃れ、その後日本軍の捕虜となって俘虜収容所で3年半を過ごした{{Sfn|聯合早報|1984}}
 +
 
 +
{{Harvtxt|ブラッドリー|2001|p=182}}によると、この事件で、200人の負傷者と、20人の軍医将校、60人の看護兵が日本兵に殺害された。
 +
*{{Harvtxt|聯合早報|1984}}は、約400人が殺害された、としている。
  
 
== 将校の謝罪 ==
 
== 将校の謝罪 ==
同月16日、或る日本軍の将校が病院を訪れて事件を謝罪した<ref>ブラッドリー(2001) 184頁</ref>
+
同月16日、或る日本軍の将校が病院を訪れて事件を謝罪した{{Sfn|ブラッドリー|2001|p=184}}
  
 
== 遺体の埋葬 ==
 
== 遺体の埋葬 ==
事件の3ヶ月後、当時日本軍の捕虜となってリバーヴァレー通りの収容所に収容されていたワイルド大佐の統率する捕虜たちが、遺体を集めて埋葬した<ref>ブラッドリー(2001) 182頁</ref>。
+
事件の3ヶ月後、当時日本軍の捕虜となって{{仮リンク|リバー・バレー|label=リバー・ヴァレー通り|en|River Valley, Singapore}}の収容所に収容されていた[[シリル・ワイルド|ワイルド少佐]]の統率する捕虜たちが遺体を集めて埋葬した{{Sfn|ブラッドリー|2001|p=182}}。殺害されたR.M.アラダイス大尉は、ワイルド少佐の友人だった{{Sfn|ブラッドリー|2001|p=181}}
<!-- ナトール医師はその後逮捕されて日本軍の俘虜収容所で3年半を過ごした<ref>聯合早報(1984)</ref>-->
+
  
 
== 戦犯調査 ==
 
== 戦犯調査 ==
戦後、この事件の戦犯調査にあたったワイルド大佐は、1945年10月28日、米軍によって[[マニラ]]に拘留されていた[[山下奉文]]元第25軍司令官を尋問した<ref>ブラッドリー(2001) 173-174頁</ref>
+
戦後、この事件の戦犯調査にあたることになったワイルド少佐(1946年2月に大佐)は、1945年10月28日に、米軍によって[[マニラ]]に拘留されていた[[山下奉文]]元第25軍司令官を尋問した{{Sfn|ブラッドリー|2001|pp=173-174}}
  
山下は、今まで事件について聞いたことがなく、「このような無分別で暴虐な事件を犯すのは大馬鹿者だ」と言った<ref name="Bradley_p176" />。ワイルドが、事件後に日本軍の将校が謝罪に訪れているので、日本軍が虐殺事件を公式に知っていたのは立証できると伝えると、山下は当時の第18師団の師団長・[[牟田口廉也]]中将の名前を明かし、謝罪に訪れたのはおそらく第18師団麾下の部隊の将校で、牟田口に責任があるから、日本にいる牟田口を尋問すべきだ、と話した<ref>ブラッドリー(2001) 176,184-185頁</ref>
+
山下は、今まで事件について聞いたことがなく、「このような無分別で暴虐な事件を犯すのは大馬鹿者だ」と言った{{Sfn|ブラッドリー|2001|p=176}}。ワイルドが、事件後に日本軍の将校が謝罪に訪れているので、日本軍が虐殺事件を公式に知っていたことは立証できる、と伝えると、山下は当時の第18師団の師団長・[[牟田口廉也]]中将の名前を明かし、謝罪に訪れたのはおそらく第18師団麾下の部隊の将校で、牟田口に責任があるから、日本にいる牟田口を尋問すべきだ、と話した{{Sfn|ブラッドリー|2001|pp=176,184-185}}
  
牟田口は1945年12月に逮捕された<ref>ブラッドリー(2001) 307頁</ref>
+
牟田口は1945年12月に逮捕された{{Sfn|ブラッドリー|2001|p=307}}
  
ワイルドは、牟田口の尋問を予定しており<ref>ブラッドリー(2001) 179-180頁</ref>、1946年9月11日に証人として出廷した[[極東国際軍事裁判|東京裁判]]でもアレクサンドラ病院の事件について証言していたが<ref>ブラッドリー(2001) 216-217頁</ref>、東京裁判からの帰路、[[香港]]で事故死した<ref>ブラッドリー(2001) 261頁</ref>
+
ワイルドは、牟田口の尋問を予定しており{{Sfn|ブラッドリー|2001|pp=179-180}}、1946年9月11日に証人として出廷した[[極東国際軍事裁判|東京裁判]]でもアレクサンドラ病院の事件について証言していたが{{Sfn|ブラッドリー|2001|pp=216-217}}、東京裁判からの帰路、[[香港]]で事故死した{{Sfn|ブラッドリー|2001|p=261}}
  
1946年10月、牟田口はイギリス軍シンガポール裁判のためシンガポールへ移送され、同年12月7日に取り調べを受けたが、アレクサンドラ病院の事件については問題とされず、起訴されることはなかった<ref>ブラッドリー(2001) 192-193頁。牟田口は[[シンガポール華僑粛清事件]]で同年9月に逮捕された[[河村参郎]]とシンガポールへ同行したため、河村の日記に「(…)病院事件は一応問題にならなかった由」と記されていた(同)。</ref>
+
1946年10月、牟田口は[[イギリス軍シンガポール裁判]]のためシンガポールへ移送され、同年12月7日に取り調べを受けたが、アレクサンドラ病院の事件については問題とされず、起訴されることはなかった{{Sfn|ブラッドリー|2001|pp=192-193}}。
 +
*牟田口は[[シンガポール華僑粛清事件]]で同年9月に逮捕された[[河村参郎]]とともにシンガポールへ移送されており、河村の日記には「(…)病院事件は一応問題にならなかった由」と記されていた{{Sfn|ブラッドリー|2001|pp=192-193}}
  
== 脚注 ==
+
==付録==
{{Reflist}}
+
=== 脚注 ===
 +
{{Reflist|20em}}
  
== 参考文献 ==
+
=== 参考文献 ===
* ブラッドリー(2001): ジェイムズ・ブラッドリー(著)小野木祥之(訳)『知日家イギリス人将校 シリル・ワイルド-泰緬鉄道建設・東京裁判に携わった捕虜の記録』明石書店、2001年8月。 :ISBN 4750314501
+
*{{Aya|ブラッドリー|year=2001}} ジェイムズ・ブラッドリー(著)小野木祥之(訳)『知日家イギリス人将校 シリル・ワイルド - 泰緬鉄道建設・東京裁判に携わった捕虜の記録』明石書店、ISBN 4750314501
* 聯合早報(1986):[http://eresources.nlb.gov.sg/newspapers/Digitised/Page/lhzb19840716-1.1.32.aspx 『南洋・星洲聯合早報』1984年7月16日付「1942年、日本軍によるアレキサンドラ病院の惨劇」]許雲樵・蔡史君(原編)、田中宏・福永平和(編訳)『日本軍占領下のシンガポール』青木書店、1986年5月、58-59頁。 :ISBN 4250860280
+
*{{Aya|聯合早報|year=1984}} [https://eresources.nlb.gov.sg/newspapers/Digitised/Article/lhzb19840716-1.2.49.3 日軍曾在1942年血洗亜歴山大医院]『聯合早報』1984年7月16日32面
 
+
**日本語訳:「1942年、日本軍によるアレキサンドラ病院の惨劇」許雲樵・蔡史君(原編)、田中宏・福永平和(編訳)『日本軍占領下のシンガポール』青木書店、1986、pp.58-59、ISBN 4250860280
<!-- == 外部リンク == -->
+
<!-- == 関連図書 == -->
+
<!-- == 関連項目 == -->
+
  
 
{{デフォルトソート:あれくさんとらひよういんしけん}}
 
{{デフォルトソート:あれくさんとらひよういんしけん}}
 +
 
[[Category:日本占領下のシンガポール]]
 
[[Category:日本占領下のシンガポール]]
 
[[Category:日本の戦争犯罪]]
 
[[Category:日本の戦争犯罪]]
55行目: 62行目:
 
[[Category:第二次世界大戦中の戦争犯罪]]
 
[[Category:第二次世界大戦中の戦争犯罪]]
 
[[Category:裁かれていない戦争犯罪]]
 
[[Category:裁かれていない戦争犯罪]]
[[Category:1942年の日本]]
 
 
[[Category:1942年のシンガポール]]
 
[[Category:1942年のシンガポール]]

2020年5月9日 (土) 19:32時点における最新版

虐殺の犠牲者を追悼し、戦後の病院の歴史について説明する石碑

アレクサンドラ病院事件(アレクサンドラびょういんじけん)は、シンガポール攻略戦中の1942年2月14日に、シンガポールアレクサンドラ病院English版で、日本軍 (第25軍)が、英軍医療隊English版の軍医将校・看護兵、負傷者ら200人以上を殺害したとされる事件。

戦後、事件で殺害されたR.M.アラダイス大尉の友人だった英軍・ワイルド大佐が戦犯事件として調査し、1945年12月に事件当時、第25軍第18師団師団長だった牟田口廉也が逮捕され、東京裁判でも戦争犯罪として報告されたが、1946年9月にワイルド大佐が事故死した後、同年12月にシンガポールで尋問を受けた牟田口はそのまま釈放され、起訴されることはなかった。

背景[編集]

シンガポール市街の西に位置するアレクサンドラ病院English版は、第二次世界大戦前にイギリスが海外に持っていた軍用病院の中でも最大規模の病院だった[1]

1942年2月のシンガポールの戦いでは、日本軍 (第25軍)(司令官・山下奉文中将)の第18師団(司令官・牟田口廉也中将)がアレクサンドラ病院の位置するシンガポール島の西側を担当していた[2]

同月12日、連合軍の前線はアレクサンドラ病院の後方まで後退し、病院は日本軍と連合軍との間の中間地帯となっていた[3][4]。アレクサンドラ病院のクレイヴン大佐はこのことをマラヤ軍English版司令部から知らされ、既に病院には赤十字章が方々に印されていたが、それでも日本軍が侵入してくることを予想して、あらゆる入口に更に赤十字旗を掲げた[3]

事件[編集]

1942年2月14日[5]、病院のバルコニーにいるインド兵が発砲したことを理由に[6]、日本兵が病院になだれ込んだ[3]

後に事件について報告したJ.W.D.ブル少佐は、病院最上階のベランダに立って赤十字の旗を振ったが、銃弾が旗を打ち抜き、後ろの壁にあたった。ブル少佐は、階下で日本の将校が銃撃を指示しているのを見た。[3]

日本軍は、手術室[7]にいた者全員を、銃剣で突くか銃殺し、手術台の上にいた負傷兵1人と執刀中の外科医も殺害した[3][4]。麻酔医(聯合早報 (1984 )によると、「ナトール医師」)だけが銃剣で刺されながらも生き延び[3][4]、のちに自身の体験について証言した[3]

日本軍は病棟中を歩き回り、医療班員や立つことのできる病人を全員建物の外へ出して、200人の負傷者や医療班員を半マイルほど離れた家屋に連行し、戸や窓を閉め切って一晩監禁した[3]

  • 軍医将校R.M.アラダイス大尉は、日本語を解したので、自ら日本の将校を探し、この事態を止めさせようとしたが、他の医療班員とともに監禁された[3]

監禁中に5人が窒息死し、残った者も翌日、銃剣や機関銃で殺害された。生存者は5人だけだった。[8]

  • アラダイス大尉もこのとき死亡した[3]
  • 聯合早報 (1984 )のナトール医師の話には、部屋に監禁されたことには言及がなく、英軍医療隊とまだ動ける患者ら約350人が病院から連れ出されて1人ずつ銃剣で刺された、とされている。ナトール医師は地面に倒れて死んだふりをして難を逃れ、その後日本軍の捕虜となって俘虜収容所で3年半を過ごした[4]

ブラッドリー (2001 182)によると、この事件で、200人の負傷者と、20人の軍医将校、60人の看護兵が日本兵に殺害された。

将校の謝罪[編集]

同月16日、或る日本軍の将校が病院を訪れて事件を謝罪した[9]

遺体の埋葬[編集]

事件の3ヶ月後、当時日本軍の捕虜となってリバー・ヴァレー通りEnglish版の収容所に収容されていたワイルド少佐の統率する捕虜たちが遺体を集めて埋葬した[10]。殺害されたR.M.アラダイス大尉は、ワイルド少佐の友人だった[3]

戦犯調査[編集]

戦後、この事件の戦犯調査にあたることになったワイルド少佐(1946年2月に大佐)は、1945年10月28日に、米軍によってマニラに拘留されていた山下奉文元第25軍司令官を尋問した[11]

山下は、今まで事件について聞いたことがなく、「このような無分別で暴虐な事件を犯すのは大馬鹿者だ」と言った[2]。ワイルドが、事件後に日本軍の将校が謝罪に訪れているので、日本軍が虐殺事件を公式に知っていたことは立証できる、と伝えると、山下は当時の第18師団の師団長・牟田口廉也中将の名前を明かし、謝罪に訪れたのはおそらく第18師団麾下の部隊の将校で、牟田口に責任があるから、日本にいる牟田口を尋問すべきだ、と話した[12]

牟田口は1945年12月に逮捕された[13]

ワイルドは、牟田口の尋問を予定しており[14]、1946年9月11日に証人として出廷した東京裁判でもアレクサンドラ病院の事件について証言していたが[15]、東京裁判からの帰路、香港で事故死した[16]

1946年10月、牟田口はイギリス軍シンガポール裁判のためシンガポールへ移送され、同年12月7日に取り調べを受けたが、アレクサンドラ病院の事件については問題とされず、起訴されることはなかった[17]

付録[編集]

脚注[編集]

参考文献[編集]

  • ブラッドリー (2001) ジェイムズ・ブラッドリー(著)小野木祥之(訳)『知日家イギリス人将校 シリル・ワイルド - 泰緬鉄道建設・東京裁判に携わった捕虜の記録』明石書店、ISBN 4750314501
  • 聯合早報 (1984) 日軍曾在1942年血洗亜歴山大医院『聯合早報』1984年7月16日32面
    • 日本語訳:「1942年、日本軍によるアレキサンドラ病院の惨劇」許雲樵・蔡史君(原編)、田中宏・福永平和(編訳)『日本軍占領下のシンガポール』青木書店、1986、pp.58-59、ISBN 4250860280