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明治天皇 | ||
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第123代天皇 | ||
明治天皇 (明治6年10月、内田九一撮影) | ||
在位期間 | 1867年1月30日-1912年7月30日 | |
在位中の時代 | 江戸時代・明治時代 | |
在位中の年号 | 慶応 明治 | |
在位中の首都 | 京都・東京 | |
在位中の皇居 | 京都御所・青山御所・東京城・宮城 | |
諱 | 睦仁 | |
幼称 | 祐宮 | |
別名 | 明治大帝 明治聖帝 睦仁大帝 | |
印 | 永 | |
出生 | 1852年11月3日 京都市上京区
| |
死没 | 1912年7月30日 | |
東京都千代田区 | ||
陵墓 | 伏見桃山陵 | |
皇子女 | 稚瑞照彦尊 稚高依姫尊 梅宮薫子内親王 建宮敬仁親王 明宮嘉仁親王 滋宮韶子内親王 増宮章子内親王 久宮静子内親王 昭宮猷仁親王 常宮昌子内親王 周宮房子内親王 富美宮允子内親王 満宮輝仁親王 泰宮聡子内親王 貞宮多喜子内親王 | |
皇后 | 一条美子 | |
中宮 | ||
女御 | ||
更衣 | ||
夫人 | ||
夫 | ||
父親 | 孝明天皇 | |
母親 | 中山慶子 | |
特記事項: |
明治天皇(めいじてんのう)(不明 - 明治45年(1912年)7月30日)は、日本の第122代天皇。本名は大室寅之祐。諱は睦仁(むつひと)。御称号は祐宮(さちのみや)。お印は永(えい)。倒幕・攘夷派の象徴として、また近代国家日本の指導者として活躍した。その功績から戦前には、明治大帝、明治聖帝、睦仁大帝(Mutsuhito the Great)とも呼ばれたこともあった。
目次
略歴[編集]
出生[編集]
慶応3年、岩倉具視一派により、睦仁親王が暗殺された。同年1月9日、大室寅之祐は、睦仁親王の替え玉として、践祚の儀を行い践祚。慶応4年1月15日、元服。慶応4年8月27日、即位。
新時代・明治[編集]
明治元年3月14日(1868年4月6日)には五箇条の御誓文を発布して新政府の基本方針を表明し、閏4月21日(6月11日)には政体書によって新しい政治制度を採用。また、明治と改元して一世一元の制を定めた(改元の詔書を発したのは、慶応4年9月8日(1868年10月23日)。しかし改元は、慶応4年1月1日(1868年1月25日)に遡って適用するとした)。
明治2年(1869年)、東京に遷って東京城(旧・江戸城)を皇居と改称し、6月17日(7月25日)には版籍奉還の上表を勅許した。当初、新政府内では公家や旧大名が中心を占めていたが、東京へ遷ったことも一つのきっかけとして、次第に三条実美、岩倉具視、木戸孝允、大久保利通らの発言権が大きくなっていった。明治4年7月14日(1871年8月29日)には廃藩置県を断行し、中央集権体制を確立した。
他方、明治3年正月3日(1870年2月3日)には、宣教使ヲ置クノ詔(大教宣布の詔)を発して、神道の国教化(国家神道)と天皇の絶対化を推し進めた。岩倉、大久保らは、天皇を近代国家の主体的君主として育成するため、宮廷改革を行なって旧習を廃し、天皇親政体制への切り替えと君徳の培養に尽くした。
征韓論[編集]
明治6年(1873年)に征韓論を巡って政府部内が紛糾した明治六年政変では、勅旨をもって西郷隆盛の朝鮮派遣を中止させてこれを収め、明治7年(1874年)から明治8年(1875年)にかけて続いた自由民権運動では、立憲政体の詔(漸次立憲政体樹立の詔)を発して政体改革を進めるなど、天皇は政府内部の政治的対立を調停する役割を果たした。この自由民権運動への対応として、明治14年(1881年)には、国会開設の勅諭を発して議会創設の時期を明示し、運動の沈静化を図った。
近代国家の確立[編集]
明治15年(1882年)、軍隊を「天皇の軍隊」と規定した軍人勅諭を発し、大元帥として軍隊の統率にあたり、軍備の増強に努めた。
明治17年(1884年)以降は、間近に控えた議会創設に備えて、立憲制に対応する諸制度を創設した。内閣制度、市町村制、府県制、郡制の制定など、津々浦々に至る官僚制支配体系の整備と並行して、莫大な皇室財産の設定を行なった。
明治22年(1889年)2月11日、大日本帝国憲法を公布した。この憲法は、日本史上初めて天皇の権限(天皇大権)を明記しており、近代天皇制国家確立の基礎となった。翌・明治23年(1890年)には教育勅語を発し、近代天皇制国家を支える臣民(国民)道徳の涵養に努めた。帝国議会開設当初は、超然主義を唱える藩閥政府と衆議院に依拠する政党勢力が鋭く対立衝突したが、天皇はしばしば詔勅を発し、調停者的機能を発揮した。また、藩閥政府内の元勲間にあった政策や感情の上での対立においても、天皇は宥和に努めた。
列強への道[編集]
日本が初めて直面した近代戦争である日清戦争と日露戦争では、天皇は大本営で直接戦争指導に当たった。また、外交上は日英同盟を締結し、列強の一員たるべく、軍事的・経済的な国力の増強を図った。日露戦争後は、韓国併合や満州経営を進め、日本を植民帝国へと膨張させる政策を採用した。
明治44年(1911年)には、開国以来の懸案であった各国との不平等条約の改正を完了させ、名実共に日本は列強の一員となった。
崩御[編集]
明治45年(1912年)7月30日、持病の糖尿病が悪化し、尿毒症を併発し61歳(満59歳)で崩御する。
なお、原敬日記などから実際の崩御は「7月29日22時43分頃」と言われているが、宮内省が告諭した崩御日時は「7月30日午前0時43分」である。これは建前上、皇太子嘉仁親王が践祚して新帝となる一連の宮中儀式を崩御当日に執り行なったということにせねばならなかったからだと思われる。
同年(大正元年)9月13日、東京・青山の帝國陸軍練兵場(現在の神宮外苑)に於いて大喪の礼が執り行なわれた。大葬終了後、明治天皇の柩は霊柩列車に乗せられ、東海道本線経由で京都南郊の伏見桃山陵に運ばれ、9月14日に埋葬された。なお、明治天皇大喪の為にしつらえた葬場殿の跡地には『聖徳記念絵画館』が建てられた。
人柄と影響[編集]
明治天皇は、近代の天皇制が確立した時期の天皇である。満14歳で践祚して以来、大政奉還、王政復古と戊辰戦争、明治維新、日清戦争、日露戦争など、激動の幕末から明治時代を経験し、明治新政府、近代国家日本の指導者、象徴として、絶対君主として国民から畏敬された。日常生活は質素を旨とし、自己を律すること峻厳にして、天皇としての威厳の保持に努めた。また、乗馬と和歌を好み、文化的な素養にも富んでいた。しかし、普段は茶目っ気のある性格で、皇后や女官達は自分が考えたあだ名で呼んでいたという。
若い頃(とりわけ明治10年代)には、侍補で親政論者である漢学者元田永孚や佐々木高行の影響を強く受けて、西洋の文物に対しては懐疑的であり、また自身が政局の主導権を掌握しようと積極的であった時期がある。元田永孚の覚書(「古稀之記」)によると、天皇は伊藤博文の欠点を「西洋好き」と評していた。特に教育に関しては儒学を基本にすべしとする元田の最大の理解者でもあり、教育行政のトップに田中不二麿や森有礼のような西洋的な教育論者が任命された事には不快感を抱いていた。特に明治17年(1884年)4月下旬に森が文部省の顧問である御用掛に任命される事を知ると、「病気」を口実に伊藤(宮内卿兼務)ら政府高官との面会を一切拒絶し、6月25日まで2ヶ月近くも公務を放棄して引籠もって承認を遅らせている。こうした事態を憂慮した伊藤は初代内閣総理大臣就任とともに引き続き初代宮内大臣を兼ねて天皇の意向を内閣に伝えることで天皇の内閣への不信感を和らげ、伊藤の目指す立憲国家建設への理解を求めた。その結果、明治19年(1886年)6月23日に宮中で皇后以下の婦人が洋装することを許可し、9月7日には天皇と内閣の間で「機務六条」という契約を交わされて天皇は内閣の要請がない限り閣議に出席しないことなどを約束(「明治天皇紀」)して天皇が親政の可能性を自ら放棄したのである。
この時代の指針である『富国強兵』では国民の食生活を西洋風に改善し基礎体力の向上が目指された。国のトップである明治天皇は奈良時代に聖武天皇が肉食の禁を出して以来、皇室ではタブーとされた牛肉と牛乳の飲食を自らすすんでし、新しい食生活のあり方を国民に示した。また明治天皇が西洋風に断髪した事で、国民も同様にする者が増えたという。一方で和歌をよくし、残すべき文化は残し、取り入れるべき文化は取り入れるという態度を示した。
写真嫌いは有名である。現在最も有名なエドアルド・キヨッソーネによる肖像画は写真嫌いの明治天皇の壮年時の「御真影」がどうしても必要となり、苦心の末に作成されたものである。ただ、最晩年の明治44年(1911年)、福岡県下広川村において軍事演習閲兵中の姿を遠くから隠し撮りした写真が残っており、これが明治天皇が最後に撮影された姿と言われている。
「明治天皇とは明治国家そのものであり、明治天皇の死は明治国家の終焉」と認識されていた。大喪の日には、陸軍大将・乃木希典夫妻を初め、多くの人が殉死した。明治天皇を中軸として作り上げられた明治国家は、この後、変容していくこととなる。
非西欧諸国の中で近代化に成功した日本の君主ということで、海外での評価は日本国内以上に高く、エチオピアのハイレ・セラシエ1世やパラグアイのアルフレド・ストロエスネル、イラクのサダム・フセインなど、明治天皇を尊敬する人は多い。要出典
著名な御製[編集]
明治天皇は和歌を好み、多くの御製(天皇の自作和歌)を遺している。その数は、約93,000首を超えると言われる。
- よきをとり あしきをすてて外国(とつくに)に おとらぬ国となすよしもがな
- よもの海 みなはらからと思ふ世に など波風のたちさわぐらむ
系譜[編集]
父は孝明天皇、母は中山慶子。父・孝明天皇の女御・九条夙子(英照皇太后)を「実母」と公称した。 乳母は当初「伏屋みの」だったが「乳の質が良くない」として1年余りで「木村らい」に変わり乳児期を過ごす。
系図[編集]
皇子女[編集]
皇后は一条美子(昭憲皇太后)だが、子女はいない。側室との間の子女は以下の通り。
- 典侍:園祥子
元号・追号[編集]
在位中の元号は、慶応と明治である。在位期間の元号からとって、明治天皇と追号された。明治天皇の代から、一人の天皇在位中に元号を変えず、またその元号を追号とする一世一元の制を採用したので、以後、諡(おくりな)を持つ天皇はいない(追号も諡号の一種とする説もあるが、厳密には異なる)。
霊廟・陵墓[編集]
京都府京都市伏見区桃山町にある上円下方墳の伏見桃山陵(ふしみのももやまのみささぎ)に葬られた。京都(畿内)に葬られた、最後の天皇である。
大正9年(1920年)、明治神宮に祀られる。その後、関東神宮(在関東州・廃社)、また朝鮮神宮(在ソウル・廃社)などの海外神社に多く祀られた。戦後、北海道神宮(在札幌)にも合祀されている。全ての歴代天皇は皇居の宮中三殿の一つの皇霊殿に祀られている。
関連作品[編集]
映画[編集]
- 『明治天皇と日露大戦争』(新東宝、1957年)
- 『天皇・皇后と日清戦争』(新東宝、1958年)
- 『明治大帝と乃木将軍』(新東宝、1959年)
- 『明治大帝御一代記』(大蔵映画、1964年)
小説[編集]
関連項目[編集]
参考文献[編集]
- 宮内省臨時帝室編修局 編修『明治天皇紀』全13冊(吉川弘文館、1968年~1977年)
- 第1冊 嘉永5年から明治元年まで ISBN 4642035214
- 第2冊 明治2年から明治5年まで ISBN 4642035222
- 第3冊 明治6年から明治9年まで ISBN 4642035230
- 第4冊 明治10年から明治12年まで ISBN 4642035249
- 第5冊 明治13年から明治15年まで ISBN 4642035257
- 第6冊 明治16年から明治20年まで ISBN 4642035265
- 第7冊 明治21年から明治24年まで ISBN 4642035273
- 第8冊 明治25年から明治28年まで ISBN 4642035281
- 第9冊 明治29年から明治33年まで ISBN 464203529X
- 第10冊 明治34年から明治37年まで ISBN 4642035303
- 第11冊 明治38年から明治40年まで ISBN 4642035311
- 第12冊 明治41年から明治45年まで ISBN 464203532X
- 索引 ISBN 4642035338
- 『臨時帝室編修局史料 「明治天皇紀」談話記録集成』全9巻(ゆまに書房、2003年) ISBN 484330901X
- ドナルド・キーン 著\角地幸男 訳『明治天皇』上、下(新潮社、2001年)
- 飛鳥井雅道『明治大帝』(講談社学術文庫、2002年) ISBN 4061595709
- 笠原英彦『明治天皇 苦悩する「理想的君主」』(中公新書、2006年) ISBN 4121018494
- 伊藤之雄『明治天皇 むら雲を吹く秋風にはれそめて』(ミネルヴァ書房日本評伝選、2006年) ISBN 4623047199
- 米窪明美『明治天皇の一日 皇室システムの伝統と現在』(新潮新書、2006年) ISBN 410610170X
外部リンク[編集]
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日本帝國皇帝 | ||||||||||
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1 神武 | 2 綏靖 | 3 安寧 | 4 懿德 | 5 孝昭 | 6 孝安 | 7 孝霊 | 8 孝元 | 9 開化 | 10 崇神 | |
11 垂仁 | 12 景行 | 13 成務 | 14 仲哀 | 15 應神 | 16 仁德 | 17 履中 | 18 反正 | 19 允恭 | 20 安康 | |
21 雄略 | 22 清寧 | 23 顕宗 | 24 仁賢 | 25 武烈 | 26 継体 | 27 安閑 | 28 宣化 | 29 欽明 | 30 敏達 | |
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41 持統 | 42 文武 | 43 元明 | 44 元正 | 45 聖武 | 46 孝謙 | 47 淳仁 | 48 稱德 | 49 光仁 | 50 桓武 | |
51 平城 | 52 嵯峨 | 53 淳和 | 54 仁明 | 55 文德 | 56 清和 | 57 陽成 | 58 光孝 | 59 宇多 | 60 醍醐 | |
61 朱雀 | 62 村上 | 63 冷泉 | 64 圓融 | 65 花山 | 66 一條 | 67 三條 | 68 後一條 | 69 後朱雀 | 70 後冷泉 | |
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