「昭南忠霊塔」の版間の差分
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− | '''昭南忠霊塔'''(しょうなんちゅうれいとう)は、[[1942年]] | + | '''昭南忠霊塔'''(しょうなんちゅうれいとう)は、[[1942年]]9月に、[[シンガポール]]を占領していた日本軍が、市内の{{仮リンク|ブキット・バトク|en|Bukit Batok}}に建立した[[忠霊塔]]。連合軍の捕虜を使役して参道が設けられ、日本軍の占領期間中は「忠霊塔参拝」が励行された。1945年8月の日本軍降伏後に取り壊された。 |
== 建立 == | == 建立 == | ||
− | 1942年2月15日に英軍が降服して[[シンガポールの戦い|シンガポール攻略戦]]が終わり、[[第25軍 (日本軍)|日本軍(第25軍)]]がシンガポールを占領すると、第25軍司令官の[[山下奉文]] | + | 1942年2月15日に英軍が降服して[[シンガポールの戦い|シンガポール攻略戦]]が終わり、[[第25軍 (日本軍)|日本軍(第25軍)]]がシンガポールを占領すると、第25軍司令官の[[山下奉文]]中将は、[[マレー作戦]]・シンガポール戦の戦死者の慰霊のため、ブキット・バトクに忠霊塔の建設を命令した{{Sfn|篠崎|1976|pp=210-212}}{{Sfn|サイレンバーグ|1988|pp=212-213}}{{Sfn|二松|1987|p=79}}{{Sfn|リー|2007|p=102}}{{Sfn|アジアエックス|2012}}。<ref>建立地点について、{{Harvtxt|篠崎|1976|pp=210-212}}、{{Harvtxt|サイレンバーグ|1988|pp=212-213}}および{{Harvtxt|二松|1987|p=79}}は[[ブキッ・ティマ|ブキテマ]]の丘の上とし、特に篠崎は同地がシンガポール攻略戦の激戦地となったことから、山下が同地を「武威山」と命名し、忠霊塔の建立を指示したとしている。{{Harvtxt|リー|2007|p=102}}および{{Harvtxt|アジアエックス|2012}}は建立地点をブキテマより西にあたるブキット・バトク(ないしブキ・バト)としており、地図上の跡地は同地にある(座標参照)。</ref> |
− | 忠霊塔の建立は、[[昭南神社]]と同じく、当初は横山部隊(第15独立工兵連隊)、後に田村部隊(工兵第5連隊)が担当し<ref>{{Harvtxt|二松|1987|pp=78-81}}。横山部隊は「乾季が終わろうとする頃」に[[インパール作戦]]参加のため[[ビルマ]]へ転進し、交代で田村部隊が着任した{{Harv|二松|1987|p=79}}。</ref>、1942年5月頃から数週間かけて、[[連合軍]]の捕虜を使役して、{{仮リンク|ブキット・バトク|en|Bukit Batok}}の丘の上に至る参道が建設された{{Sfn|リー|2007|p=102}}{{Sfn|エドワーズ|1992|pp=64-71}}{{Sfn|サイレンバーグ|1988|pp=212-213}} | + | 忠霊塔の建立は、[[昭南神社]]と同じく、当初は横山部隊(第15独立工兵連隊)、後に田村部隊(工兵第5連隊)が担当し<ref>{{Harvtxt|二松|1987|pp=78-81}}。横山部隊は「乾季が終わろうとする頃」に[[インパール作戦]]参加のため[[ビルマ]]へ転進し、交代で田村部隊が着任した{{Harv|二松|1987|p=79}}。</ref>、1942年5月頃から数週間かけて、[[連合軍]]の捕虜を使役して、{{仮リンク|ブキッ・ティマ路|label=ブキテマ街道|en|Bukit Timah Road}}から{{仮リンク|ブキット・バトク|en|Bukit Batok}}の丘の上に至る参道が建設された{{Sfn|リー|2007|p=102}}{{Sfn|エドワーズ|1992|pp=64-71}}{{Sfn|サイレンバーグ|1988|pp=212-213}}{{Sfn|二松|1987|pp=78-81}}{{Sfn|篠崎|1976|pp=210-212}}。 |
+ | *横山部隊の下士官や兵士は捕虜に対して高圧的に接し日常的に平手打ちなどの暴力を振るったが、田村部隊の将兵は横山部隊よりも捕虜に暖かく親切に接したため、捕虜との関係は良好だったという{{Sfn|二松|1987|pp=78-81}}{{Sfn|エドワーズ|1992|p=71}}。 | ||
− | 忠霊塔は同年9月に竣工し、9月10日に除幕式が行なわれた{{Sfn|小田部|1988|p=149}}<ref>{{Harvtxt|二松|1987|p=80}}は、同年10月に昭南神社とともに竣工した、としている。</ref> | + | 忠霊塔は同年9月に竣工し、9月10日に除幕式が行なわれた{{Sfn|小田部|1988|p=149}}<ref>{{Harvtxt|二松|1987|p=80}}は、同年10月に昭南神社とともに竣工した、としている。</ref>。 |
− | 忠霊塔は、先端を円錐状の銅で覆った高さ12メートルの木造の塔だった | + | [[マライ軍政監部#軍政顧問|第25軍軍政顧問]]の[[徳川義親]]は、マライ各州の[[スルターン|スルタン]]から忠霊塔建設のための寄付金を徴収し、除幕式の後、同月13日に[[ジョホール州]]のスルタンから5,000円、翌10月9日に[[ケダ州]]のスルタンから5,000円を受け取った{{Sfn|小田部|1988|p=149}}。 |
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+ | 忠霊塔は、先端を円錐状の銅で覆った高さ12メートルの木造の塔だった{{Sfn|アジアエックス|2012}}<ref>{{Harvtxt|篠崎|1976|p=135}}によると、檜の円柱。</ref>。塔の北側には高さ約3メートルの十字架標が建てられ、連合軍戦死者の霊を弔った{{Sfn|アジアエックス|2012}}{{Sfn|二松|1987|p=80}}{{Sfn|篠崎|1976|p=211}}。 | ||
+ | *{{Harvtxt|篠崎|1976|p=211}}は、使役されていた捕虜は十字架を見て初めて作業の意味を知った、としているが、{{Harvtxt|アジアエックス|2012}}によると、ブキット・バトクの記念碑には、捕虜たちが日本軍の許可を得て連合軍戦死将兵のための慰霊塔を建てた、と記されている。また{{Harvtxt|二松|1987|p=80}}は、十字架標の建立は捕虜との関係が良好だった田村部隊の頃の出来事としている。 | ||
+ | *{{harvtxt|篠崎|1976|pp=210-212}}は、忠霊塔は山下が自ら設計した、としている。 | ||
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+ | {{Harvtxt|アジアエックス|2012}}は、「慰霊塔に収められていた戦死兵たちの灰は[[シンガポール日本人墓地公園|日本人墓地]]に移された」としているが、{{harvtxt|篠崎|1976|pp=211-212}}によると、戦死者の遺骨は1942年2月20日に行われた{{Sfn|総山|1983|p=146}}合同慰霊祭の後に日本に送られており、忠霊塔には最初から遺骨は収められていなかった。 | ||
== 参拝 == | == 参拝 == | ||
− | 日本軍の占領期間中には[[東方遥拝]]とあわせて「忠霊塔参拝」が励行された | + | 日本軍の占領期間中には[[東方遥拝]]とあわせて「忠霊塔参拝」が励行された{{Sfn|洪|1986|p=195}}。 |
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== 破壊 == | == 破壊 == | ||
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* {{Cite web|year = 2012|date=2012-11-19 |url=http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/36563 |title=昭南忠霊塔跡地を訪ねて Bukit Batok Memorial 日本軍のシンガポール占領から70年 |author = アジアエックス |publisher=[[日本ビジネスプレス|JBPress]] |accessdate=2015-10-26 |ref = harv}} | * {{Cite web|year = 2012|date=2012-11-19 |url=http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/36563 |title=昭南忠霊塔跡地を訪ねて Bukit Batok Memorial 日本軍のシンガポール占領から70年 |author = アジアエックス |publisher=[[日本ビジネスプレス|JBPress]] |accessdate=2015-10-26 |ref = harv}} | ||
− | * {{Cite book|和書|last = リー|year = 2007|first = ギョクボイ|translator = 越田稜|editor = シンガポール・ヘリテージ・ソサイエティ|title = 日本のシンガポール占領-証言=「昭南島」の3年半|publisher = 凱風社| | + | * {{Cite book|和書|last = リー|year = 2007|first = ギョクボイ|translator = 越田稜|editor = シンガポール・ヘリテージ・ソサイエティ|title = 日本のシンガポール占領-証言=「昭南島」の3年半|publisher = 凱風社|id = ISBN 9784773631029 |ref = harv}} |
− | * {{Cite book|和書|last = エドワーズ|year = 1992|first = ジャック|translator = 薙野慎二・川島めぐみ|title = くたばれ、ジャップ野郎!−日本軍の捕虜になったイギリス兵の記録|publisher = 径書房|date = 1992-07-10 | | + | * {{Cite book|和書|last = エドワーズ|year = 1992|first = ジャック|translator = 薙野慎二・川島めぐみ|title = くたばれ、ジャップ野郎!−日本軍の捕虜になったイギリス兵の記録|publisher = 径書房|date = 1992-07-10 |id = ISBN 4770501102 |ref= harv}} |
− | * {{Cite book|和書|last= 小田部 |year= 1988 |first= 雄次 |authorlink= 小田部雄次 |title= 徳川義親の十五年戦争 |publisher= 青木書店 | | + | * {{Cite book|和書|last= 小田部 |year= 1988 |first= 雄次 |authorlink= 小田部雄次 |title= 徳川義親の十五年戦争 |publisher= 青木書店 |id= ISBN 4250880192 |ref= harv }} |
− | * {{Cite book|和書|last = サイレンバーグ|year = 1988|first = ジョン・バートラム・グァン|title = 思い出のシンガポール‐光の日々と影の日々|publisher = 幻想社| | + | * {{Cite book|和書|last = サイレンバーグ|year = 1988|first = ジョン・バートラム・グァン|title = 思い出のシンガポール‐光の日々と影の日々|publisher = 幻想社|id = ISBN 4874680550 |ref= harv}} |
− | * {{Cite journal|和書|last = 二松|first = 慶彦|title = 昭南島の頃 |date = 1987-6 |publisher = シンガポール日本人会|journal = 「南十字星」創刊20周年記念復刻版 |pages = 74-82 |ref = harv}} | + | * {{Cite journal|和書|last = 二松|first = 慶彦|title = 昭南島の頃 |year= 1987 |date = 1987-6 |publisher = シンガポール日本人会|journal = 「南十字星」創刊20周年記念復刻版 |pages = 74-82 |id= {{JPNO|88090020}}|ref = harv}} |
**{{Cite Book|author = Geoffrey Pharaoh Adams|title = No time for geishas|publisher = Leo Cooper London|year = 1976}}からの抄訳({{Harvnb|二松|1987|pages=75}}) | **{{Cite Book|author = Geoffrey Pharaoh Adams|title = No time for geishas|publisher = Leo Cooper London|year = 1976}}からの抄訳({{Harvnb|二松|1987|pages=75}}) | ||
− | * {{Cite journal|last = 洪|year = 1986|first = 錦棠|title = 1 奇々怪々なその政治|editor = 許雲樵・蔡史君(原編)田中宏・福永平和(編訳)|journal = 日本軍占領下のシンガポール |publisher =青木書店|pages = 186-204 |ref = harv}} | + | * {{Cite journal|last = 洪|year = 1986|first = 錦棠|title = 1 奇々怪々なその政治|editor = 許雲樵・蔡史君(原編)田中宏・福永平和(編訳)|journal = 日本軍占領下のシンガポール |id= ISBN 4250860280 |publisher =青木書店|pages = 186-204 |ref = harv}} |
− | * {{Cite book|和書|last = 総山|year = 1983|first =孝雄|title = 南海のあけぼの|publisher = 叢文社| | + | * {{Cite book|和書|last = 総山|year = 1983|first =孝雄|title = 南海のあけぼの|publisher = 叢文社|id = ISBN 4794700857 |ref = harv}} |
− | * {{Cite book|和書|last = 篠崎|year = 1976|first = 護|authorlink = 篠崎護|title = | + | * {{Cite book|和書|last = 篠崎|year = 1976|first = 護|authorlink = 篠崎護|title = シンガポール占領秘録 - 戦争とその人間像|id= {{JPNO|73016313}} |publisher = 原書房|ref = harv}} |
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2018年6月11日 (月) 23:49時点における版
昭南忠霊塔(しょうなんちゅうれいとう)は、1942年9月に、シンガポールを占領していた日本軍が、市内のブキット・バトク に建立した忠霊塔。連合軍の捕虜を使役して参道が設けられ、日本軍の占領期間中は「忠霊塔参拝」が励行された。1945年8月の日本軍降伏後に取り壊された。
建立
1942年2月15日に英軍が降服してシンガポール攻略戦が終わり、日本軍(第25軍)がシンガポールを占領すると、第25軍司令官の山下奉文中将は、マレー作戦・シンガポール戦の戦死者の慰霊のため、ブキット・バトクに忠霊塔の建設を命令した[1][2][3][4][5]。[6]
忠霊塔の建立は、昭南神社と同じく、当初は横山部隊(第15独立工兵連隊)、後に田村部隊(工兵第5連隊)が担当し[7]、1942年5月頃から数週間かけて、連合軍の捕虜を使役して、ブキテマ街道 からブキット・バトク の丘の上に至る参道が建設された[4][8][2][9][1]。
忠霊塔は同年9月に竣工し、9月10日に除幕式が行なわれた[11][12]。
第25軍軍政顧問の徳川義親は、マライ各州のスルタンから忠霊塔建設のための寄付金を徴収し、除幕式の後、同月13日にジョホール州のスルタンから5,000円、翌10月9日にケダ州のスルタンから5,000円を受け取った[11]。
忠霊塔は、先端を円錐状の銅で覆った高さ12メートルの木造の塔だった[5][13]。塔の北側には高さ約3メートルの十字架標が建てられ、連合軍戦死者の霊を弔った[5][14][15]。
- 篠崎 (1976 211)は、使役されていた捕虜は十字架を見て初めて作業の意味を知った、としているが、アジアエックス (2012 )によると、ブキット・バトクの記念碑には、捕虜たちが日本軍の許可を得て連合軍戦死将兵のための慰霊塔を建てた、と記されている。また二松 (1987 80)は、十字架標の建立は捕虜との関係が良好だった田村部隊の頃の出来事としている。
- 篠崎 (1976 210-212)は、忠霊塔は山下が自ら設計した、としている。
アジアエックス (2012 )は、「慰霊塔に収められていた戦死兵たちの灰は日本人墓地に移された」としているが、篠崎 (1976 211-212)によると、戦死者の遺骨は1942年2月20日に行われた[16]合同慰霊祭の後に日本に送られており、忠霊塔には最初から遺骨は収められていなかった。
参拝
日本軍の占領期間中には東方遥拝とあわせて「忠霊塔参拝」が励行された[17]。
1943年1月20日に開催された「サルタン会同」[18]の前には、マラヤ・スマトラ各州のスルタンによる忠霊塔への基金献納、忠霊塔参拝が行われた[19]。また開戦記念日、元日、天皇誕生日などの祝日に日本人や現地の人々が訪れたり、マラソンのゴールになったりした[15]。
破壊
篠崎 (1976 205)は、1945年8月18日に第7方面軍司令官板垣征四郎大将から麾下の部隊長、軍政監部および市政庁の部科長以上に日本の降伏が告げられると、翌日以降忠霊塔や昭南神社の爆破、破壊が行われたとしている。
シンガポール最大の激戦地、弾痕も生々しい家々が続くブキテマの「三叉路」から、左に折れて、ようやく人影のないジュロン街道に出た。人家がなくなった所で、一同停止、爆破された忠霊塔の跡に向かって整列し、心からのお別れの遥拝をした。忠霊塔には遺骨はなく、シンボルとしての檜の円柱だけではあったが…。遥拝が済むと、一同申し合せたように丘の方に向かって放尿した。此処まで皆、我慢して歩いて来たのだった。
サイレンバーグ (1988 212-213)は、忠霊塔は解放後に進駐してきたグルカ兵によって最初にダイナマイトで爆破された、としている[21]。
日本軍が降伏した後、これらの連中(協警会の幹部になって日本人のような振る舞いをしていた華人の住民)は、まるで悪夢を見ているようだった。いつまでも「東京遥拝」「忠霊塔参拝」をつづけ、大東亜共栄圏のご利益にあずかろうと望むならば、それはまさに大久保が言ったように、「馬鹿どもが寝言をいっているようなもので、哀れなほど愚かなこと」なのだ。
– 洪錦棠「奇々怪々なその政治 - 協警制度」より [17]
跡地
2012年現在、ブキット・バトクの丘の上には参道とそこに続く階段が残されており、階段を上がったところに記念碑が設置されている[5][22]。
付録
脚注
- ↑ 1.0 1.1 篠崎 1976 210-212
- ↑ 2.0 2.1 サイレンバーグ 1988 212-213
- ↑ 二松 1987 79
- ↑ 4.0 4.1 リー 2007 102
- ↑ 5.0 5.1 5.2 5.3 アジアエックス 2012
- ↑ 建立地点について、篠崎 (1976 210-212)、サイレンバーグ (1988 212-213)および二松 (1987 79)はブキテマの丘の上とし、特に篠崎は同地がシンガポール攻略戦の激戦地となったことから、山下が同地を「武威山」と命名し、忠霊塔の建立を指示したとしている。リー (2007 102)およびアジアエックス (2012 )は建立地点をブキテマより西にあたるブキット・バトク(ないしブキ・バト)としており、地図上の跡地は同地にある(座標参照)。
- ↑ 二松 (1987 78-81)。横山部隊は「乾季が終わろうとする頃」にインパール作戦参加のためビルマへ転進し、交代で田村部隊が着任した(二松 1987 79)。
- ↑ エドワーズ 1992 64-71
- ↑ 9.0 9.1 二松 1987 78-81
- ↑ エドワーズ 1992 71
- ↑ 11.0 11.1 小田部 1988 149
- ↑ 二松 (1987 80)は、同年10月に昭南神社とともに竣工した、としている。
- ↑ 篠崎 (1976 135)によると、檜の円柱。
- ↑ 二松 1987 80
- ↑ 15.0 15.1 篠崎 1976 211
- ↑ 総山 1983 146
- ↑ 17.0 17.1 洪 1986 195
- ↑ 第25軍軍政監部がマラヤ・スマトラのスルタンをシンガポールに招いて会議を開き、スルタンの回教の首長としての地位・尊厳と財産所有権を公式に承認した(小田部 1988 150-151)。
- ↑ 小田部 1988 151
- ↑ 篠崎 1976 135
- ↑ リー (2007 102)は、日本軍降伏後、解放軍によって取り壊された、としている
- ↑ 篠崎 (1976 212)は、1976年当時、石段は取り除かれて、頂上まで自動車で登れるようになっている、としているが、2012年に至るまで、石段はそのまま残されており、自動車で石段の下まで上ることができるようである。
参考文献
- アジアエックス (2012) アジアエックス 昭南忠霊塔跡地を訪ねて Bukit Batok Memorial 日本軍のシンガポール占領から70年 JBPress 2012-11-19 [ arch. ] 2015-10-26
- リー (2007) リーギョクボイ シンガポール・ヘリテージ・ソサイエティ 越田稜 [ 日本のシンガポール占領-証言=「昭南島」の3年半 ] 凱風社 2007 ISBN 9784773631029
- エドワーズ (1992) エドワーズジャック 薙野慎二・川島めぐみ [ くたばれ、ジャップ野郎!−日本軍の捕虜になったイギリス兵の記録 ] 径書房 1992-07-10 ISBN 4770501102
- 小田部 (1988) 小田部雄次 [ 徳川義親の十五年戦争 ] 青木書店 1988 ISBN 4250880192
- サイレンバーグ (1988) サイレンバーグジョン・バートラム・グァン [ 思い出のシンガポール‐光の日々と影の日々 ] 幻想社 1988 ISBN 4874680550
- 二松 (1987) 二松慶彦 [ 昭南島の頃 ] 「南十字星」創刊20周年記念復刻版 シンガポール日本人会 1987-6 74-82 JPNO 88090020
- Geoffrey Pharaoh Adams (1976) Geoffrey Pharaoh Adams [ No time for geishas ] Leo Cooper London 1976 からの抄訳(二松 1987 75)
- 洪 (1986) 洪錦棠 許雲樵・蔡史君(原編)田中宏・福永平和(編訳) [ 1 奇々怪々なその政治 ] 日本軍占領下のシンガポール 青木書店 1986 186-204 ISBN 4250860280
- 総山 (1983) 総山孝雄 [ 南海のあけぼの ] 叢文社 1983 ISBN 4794700857
- 篠崎 (1976) 篠崎護 [ シンガポール占領秘録 - 戦争とその人間像 ] 原書房 1976 JPNO 73016313