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マスメディアと芸能。ここではマスメディアと芸能の関係について述べる。
歴史[編集]
大正の末まで芸能と言えば演芸場の興行と映画であった。1925年(大正14年)に社団法人東京・名古屋・大阪放送局がラジオ放送を開始したのを機に浪曲師や講釈師が出演し始め、より多くの人達が芸能に接する機会を得た。
しかしながら、ラジオ本体の性能の悪さからその音声はあまり良いものではなく、一部の浪曲師や講釈師は出演を拒んだ。ラジオの受信出来る地域の興行主の一部には自分達の浪曲師や講釈師を放送局に出す事で興行が上手くいくのではないかと考える者や、ラジオに客を取られるのではないかと考える者がいた。昭和初期、蓄音機が量産され、各地にもラジオ局が出来た為、興行の主体は徐々に劇が中心になって行く。この傾向は戦後まで続いた。
1953年(昭和28年)2月1日にNHKでテレビ放送が開始され、伝統芸能の能や歌舞伎が放送されたが、芸能(歌・浪曲等)関係はあまり出演したがらなかった。当時は映画が全盛で、テレビは高価な品物で主に街頭にテレビを設置していて「映り悪い小さい画面」にわざわざ出演する必要が無かったのである。当時テレビ出演は「映画に出られない俳優の仕事」と揶揄され、当時の一流映画俳優の一部には「あんな紙芝居」とまで発言していたが、1964年(昭和39年)東京オリンピックと皇太子明仁親王(今上天皇)成婚のテレビ中継でテレビの需要が拡大して映画界は斜陽の時代を迎える事になる。
マスメディアと芸能の関係[編集]
先述の通り、芸能人のコンテンツである芸能を広めるのに、昔は地方巡業をして日本中を回っていた。海外において、演奏団体が新曲の音楽(今となってはクラシック)を広めるのに地域を回っていたのと同じである。そうしなければ、存在の認知ができなかったからである。仮に何らかの手段で認知できたとしても、演劇場、コンサートホールなどの興業場に行かなければ芸能を経験する事はできなかった。
それがラジオが登場し、テレビが登場し、存在の認知、コンテンツの披露の双方が同時に、しかも興業巡業と比べて格段に手間が少なく行える事となった。わざわざ興業場に行かなくても、家庭にいながらそれらの娯楽が味わえるテレビは瞬く間に広がった。マスメディアで宣伝をし、芸能を披露すればすれば日本中を飛び回る必要がなくなる、ということになり芝居の地方巡業などは一気に減少し、昔ながらの興業形態を志向していた団体は転業や廃業を余儀なくされた。映画とテレビの関係にもこの構造は適用できる。
ただ、コンテンツ提供者(芸能事務所、レコード会社など)や資金提供者(広告主など)などからの、マスメディアへの過度の依存が起こり、結果としてマスメディアへ露出できる芸能人の数が飽和した。それを背景としての利権が発生しやすい。芸能人の実力よりも所属する芸能事務所の力がものを言うようになってくる。芸能人が不祥事を起こしても所属事務所が報道させないようにマスメディアに圧力をかけることさえある。
マスメディアと芸能の関係は、インターネットの隆盛とダイレクトコミュニケーションへの再評価などにより、以前のような蜜月ではなくなっている。ただそれでも、発信する側にとって一度の手間で済み、受ける側の趣味志向を問わず一律に認知させられる最大の手段である、マスメディアの力への依存がなくなる事はないであろう。