「ローラーゲーム東京ボンバーズ」の版間の差分
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放送当初は日本ではまったく観た事もないスポーツであって試合の中では美人スケーターによる髪の引張り合い、殴る、蹴るなど当時としては信じられないような乱闘シーンに視聴者は驚きテレビの前に釘づけになっていたが徐々に視聴率が低下して2年6ヶ月後の1970年(昭和45年)9月に放送が打切られた。しかし、放送当初の高視聴率を維持していた頃、日本人チーム結成が計画されていて視聴率の低下などから計画は頓挫していたが諦めないローラーゲーム機構オーナー、ビル グリフィス、東京12チャンネル運動部長 白石剛達、東京ボンバーズ初代コーチ 森文雄らの思惑が一致して1972年(昭和47年)6月ハワイに於いて日系人スケーターを加える形でチーム要員を確保しロスアンゼルスサンダーバードのコーチ、ラルフヴァラディアスや選手コリーンミュレルらの応援を得て日本チーム東京ボンバーズを誕生させニューヨークチーフス、シカゴホークス、デトロイトデビルスなどと対戦する様子を26試合収録した。 | 放送当初は日本ではまったく観た事もないスポーツであって試合の中では美人スケーターによる髪の引張り合い、殴る、蹴るなど当時としては信じられないような乱闘シーンに視聴者は驚きテレビの前に釘づけになっていたが徐々に視聴率が低下して2年6ヶ月後の1970年(昭和45年)9月に放送が打切られた。しかし、放送当初の高視聴率を維持していた頃、日本人チーム結成が計画されていて視聴率の低下などから計画は頓挫していたが諦めないローラーゲーム機構オーナー、ビル グリフィス、東京12チャンネル運動部長 白石剛達、東京ボンバーズ初代コーチ 森文雄らの思惑が一致して1972年(昭和47年)6月ハワイに於いて日系人スケーターを加える形でチーム要員を確保しロスアンゼルスサンダーバードのコーチ、ラルフヴァラディアスや選手コリーンミュレルらの応援を得て日本チーム東京ボンバーズを誕生させニューヨークチーフス、シカゴホークス、デトロイトデビルスなどと対戦する様子を26試合収録した。 | ||
− | + | '''ハワイで収録した東京ボンバーズ'''の試合は同年10月から東京12チャンネル系で「日米対抗ローラーゲーム」として放送が始まり長い黒髪を持つ女性キャプテン佐々木陽子やスケーティングのテクニシャン、ミキー角田らの活躍で15%を超える視聴率を記録していたが3年後の1975年(昭和50年)9月に視聴率の低下を理由に放送が打切られた。又、ローラーゲームの放送の間に日本における女性の[[格闘技]]が少しづつ受け入れられるようになったのか極端に[[マイナー]]であった[[女子プロレス]]に[[マッハ文朱]]や[[ビューティペア]]などのスターレスラーが登場するなどして華々しい光が当たるようになった。 | |
− | + | 東京ボンバーズは1972年9月から板橋区前野町に練習場兼トレーニングスクールを開設してローラーゲーム放送が打ち切られる前まで新人スケーターの育成を行い、この間に多くの優秀なスケーターを育てたが東京ボンバーズのスケーター選手枠に制限が有ったためにボンバーズの一員に成ることもできずテレビに出ることも無く去って行ったスケーター達も多かった。 | |
− | + | 1978年(昭和53年)東京ボンバーズ初代コーチ森文雄は東京12チャンネルで旧知の運動部長白石剛達の要請もあって大田区体育館で東京ボンバーズ78(ミキー角田、二月陽子キャプテン)とトレーニングスクール育ちのブラックホークス(梅原コージ、斉藤メグミキャプテン)の試合を「ニューローラーゲーム」として主宰し日本人チーム対決を実現させて多くの新人スケータにもスポットを当てさせたものの東京12チャンネルはローラーゲーム機構のビル グリフィスなどとの「日米対抗」再契約も捨て切れなかったために後々への影響を考慮してニューローラーゲーム日本人チーム対決は[[特番]]のみで打ち切っていた。 | |
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+ | 1982年(昭和57年)東京12チャンネルは視聴者のニーズを探る目的もあって再度ビル グリフィス機構のロスアンゼルスサンダーバード対デトロイトデビルスの外国人対決のローラーゲームを放送しているがこれも特番のみで終わっていた。 | ||
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+ | '''日本に於けるローラーゲーム'''は1975年9月の日米対抗ローラーゲーム放送打切りで実質的に終息していたと記すべきか判断に迷うところはトレーニングスクールから巣立ってスターとなった小泉博が1993年(平成5年)から1994年にアメリカチームを招聘して後楽園の特設バンクでワールドシリーズと銘打って東京ボンバーズ名を復活させた試合を行っていること又、それ以降真剣勝負を提唱して大幅にルールを変えた競技(男性のみ)を行ってローラーゲーム再興の努力を続けている事などからだが2008年(平成20年)以降の試合歴は記録に無い。 | ||
== ローラーゲーム米国での歴史概略 == | == ローラーゲーム米国での歴史概略 == | ||
− | ''' | + | '''ローラーゲームはローラーダービーから分派'''したスポーツで発祥の米国において古くはローラースケーティングレースとして1922年(大正11年)頃から始まった様子をシカゴ・トリビューン紙が報じており、レースには平坦なトラックを使っていた。似たような記事がニューヨーク・タイムス紙で報じられており、こちらは更に古く1914年(大正3年)にバンクトラックを使ったチャンピオンレースとして報道している。これらをローラーダービーとしての名称で呼ぶように成ったのが1930年代(昭和5年以降)で1961年(昭和36年)にビル グリフィスとジェリー ヒルの2人がローラーダービーのスケーターを使ってテレビ受けするスポーツに変えてローラーゲームを設立させた。1960年代後半には野球場を満員にするほどの観客を動員してローラーダービーの強烈なライバルと成ってテレビでも盛んに放送されていたが現在2008年(平成20年)は総じて縮小した活動となっている。 |
== LA T-Birds(ロスアンゼルス サンダーバード)の選手名 == | == LA T-Birds(ロスアンゼルス サンダーバード)の選手名 == | ||
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●東京ボンバーズ | ●東京ボンバーズ | ||
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+ | === 東京ボンバーズ === | ||
+ | 所属 ナショナルスケーティングダービー日本支社 | ||
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+ | 当時の住所 東京都港区六本木6丁目 | ||
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+ | 活動拠点 東京 | ||
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+ | 練習場兼トレーニングスクール 板橋区前野町 1972年9月開設 | ||
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+ | 記載の支社及び練習場は現在は存在しない。 | ||
+ | == ローラーゲーム試合ルール == | ||
+ | 1960年代(昭和36年以降)から1970年代当時に主流とされていたルールを解説をまじえながら紹介する。 | ||
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+ | '''試合用リンク''' | ||
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+ | 走路巾約3.6m、1周は40m-70mで試合を行う会場の大きさに合わせて1周の距離が調節できる組立て式リンクでコーナーには10度から45度程度までの傾斜を付けて通称バンクトラックと呼ばれている。組立素材にはベニヤ合板が使われ走路表面にはメソナイト社の圧縮材をビス止めしてある又、外周には高さ1m程度の柵(ハンドレール)が設けられている。 | ||
+ | 走路の内側はインフィールドと呼ばれ中央に負傷者救護所が設けられ両方のコーナーに分かれて両チームの控えベンチとその後方にはペナルティーボックスが設置してある。 | ||
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+ | '''チーム''' | ||
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+ | 1チームは男性5名女性5名で成立つが交代要員として男女とも4,5名がチームベンチに控えている。 | ||
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+ | '''対戦''' | ||
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+ | 女性は相手チームの女性と男性は相手チームの男性とそれぞれピリオド別に試合を行うが稀に男性チームの要員が負傷などで不足したときなどは審判員が認める範囲で女性が男性チームの試合に参加することがある。 | ||
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+ | '''ピリオド''' | ||
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+ | 1試合は8ピリオドに区切られており1ピリオド(ひと区切り)は10分間である。奇数ピリオドの1,3,5,7は女性チームが対戦して偶数ピリオドの2,4,6,8は男性チームが対戦する。前半4ピリオドを終了した時点で休憩時間を挟さみ後半戦5ピリオド目が開始される。試合中に負傷者などが発生して時間のロスが有った時など審判員の判断でロス時間を加えないこともある。 | ||
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+ | '''ジャム''' | ||
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+ | 各ピリオドは更に時間が細分化されている。その時間は審判員のホイッスルを開始時間として最長1分間制限である。しかしリーディングジャマーには試合をいつでも終了させるコールオフという権利が与えられているために試合開始後、滑走集団の前方に飛び出してジャマーの先頭に位置する者は試合開始直後であっても作戦上与えられた権利を行使して試合を終了させることがある。こうしたピリオド内での細分化した得点争奪戦をジャムと称する。ジャムは1ピリオド目と休憩時間後の5ピリオド目のみトラックのスタートライン手前で静止した状態からのスタートとなり、その他のジャムは全て滑走スタートが用いられる。低速で滑走しながら両チームがそれぞれ2名づつ合計4名のジャマーを選出して滑走集団の最後方に位置させた時、攻守の布陣が整ったと認めた審判員がホイッスルを吹き鳴らしてジャムを開始させる。 | ||
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+ | '''ジャマー''' | ||
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+ | ローラーゲームには得点役が存在する。得点役はジャマーと呼称され各チーム2名まで出すことができる。ジャマーはジャム開始の審判員によるホイッスルが鳴らされるまで滑走集団の最後方に位置していなくてはならない。(1960年代後半まではヘルメットを使うことは無かったが誰がジャマーなのか判断しにくかったために1970年代からヘルメットを使用するようになった又、ヘルメットを使用していないと基本的にジャマーと認められなくなった)ジャマーは滑走路から両足が出た時には得点役としての権利を失う。 |
2008年6月6日 (金) 14:57時点における版
(ろーらーげーむ とうきょう ぼんばーず Roller Games Tokyo Bombers)
目次
概要
走る肉弾戦ローラーゲームはローラースケート靴を履いた男女混成で成立つ2チームが1ピリオド10分間区切りの得点争奪競技を8ピリオド男女別に対戦して男女の合計得点で勝敗を決める競技で対戦は走路巾約3.6m。1周40m-70mの距離を持ち(会場の面積に合わせて距離を調整した)コーナーでは10度から45度程度の傾斜の付いたバンクトラック上を左回りに周回して1チーム2名まで認められる得点役(ジャマーと呼ばれる、2チームで4名)が対戦チームのスケーターより1周先回りした状態で1人追い抜くと1得点が与えられ、先回りして何人を追い抜いたかで得点を競い合うエンターテイメント性の極めて強い米国発祥のスポーツで東京12チャンネル(現テレビ東京)によってロスアンゼルスを本拠地とするサンダーバードが米国他州のチームと対戦する試合をメインに1968年(昭和43年)4月から箱番組として日本で初めて紹介した。
放送当初は日本ではまったく観た事もないスポーツであって試合の中では美人スケーターによる髪の引張り合い、殴る、蹴るなど当時としては信じられないような乱闘シーンに視聴者は驚きテレビの前に釘づけになっていたが徐々に視聴率が低下して2年6ヶ月後の1970年(昭和45年)9月に放送が打切られた。しかし、放送当初の高視聴率を維持していた頃、日本人チーム結成が計画されていて視聴率の低下などから計画は頓挫していたが諦めないローラーゲーム機構オーナー、ビル グリフィス、東京12チャンネル運動部長 白石剛達、東京ボンバーズ初代コーチ 森文雄らの思惑が一致して1972年(昭和47年)6月ハワイに於いて日系人スケーターを加える形でチーム要員を確保しロスアンゼルスサンダーバードのコーチ、ラルフヴァラディアスや選手コリーンミュレルらの応援を得て日本チーム東京ボンバーズを誕生させニューヨークチーフス、シカゴホークス、デトロイトデビルスなどと対戦する様子を26試合収録した。
ハワイで収録した東京ボンバーズの試合は同年10月から東京12チャンネル系で「日米対抗ローラーゲーム」として放送が始まり長い黒髪を持つ女性キャプテン佐々木陽子やスケーティングのテクニシャン、ミキー角田らの活躍で15%を超える視聴率を記録していたが3年後の1975年(昭和50年)9月に視聴率の低下を理由に放送が打切られた。又、ローラーゲームの放送の間に日本における女性の格闘技が少しづつ受け入れられるようになったのか極端にマイナーであった女子プロレスにマッハ文朱やビューティペアなどのスターレスラーが登場するなどして華々しい光が当たるようになった。
東京ボンバーズは1972年9月から板橋区前野町に練習場兼トレーニングスクールを開設してローラーゲーム放送が打ち切られる前まで新人スケーターの育成を行い、この間に多くの優秀なスケーターを育てたが東京ボンバーズのスケーター選手枠に制限が有ったためにボンバーズの一員に成ることもできずテレビに出ることも無く去って行ったスケーター達も多かった。
1978年(昭和53年)東京ボンバーズ初代コーチ森文雄は東京12チャンネルで旧知の運動部長白石剛達の要請もあって大田区体育館で東京ボンバーズ78(ミキー角田、二月陽子キャプテン)とトレーニングスクール育ちのブラックホークス(梅原コージ、斉藤メグミキャプテン)の試合を「ニューローラーゲーム」として主宰し日本人チーム対決を実現させて多くの新人スケータにもスポットを当てさせたものの東京12チャンネルはローラーゲーム機構のビル グリフィスなどとの「日米対抗」再契約も捨て切れなかったために後々への影響を考慮してニューローラーゲーム日本人チーム対決は特番のみで打ち切っていた。
1982年(昭和57年)東京12チャンネルは視聴者のニーズを探る目的もあって再度ビル グリフィス機構のロスアンゼルスサンダーバード対デトロイトデビルスの外国人対決のローラーゲームを放送しているがこれも特番のみで終わっていた。
日本に於けるローラーゲームは1975年9月の日米対抗ローラーゲーム放送打切りで実質的に終息していたと記すべきか判断に迷うところはトレーニングスクールから巣立ってスターとなった小泉博が1993年(平成5年)から1994年にアメリカチームを招聘して後楽園の特設バンクでワールドシリーズと銘打って東京ボンバーズ名を復活させた試合を行っていること又、それ以降真剣勝負を提唱して大幅にルールを変えた競技(男性のみ)を行ってローラーゲーム再興の努力を続けている事などからだが2008年(平成20年)以降の試合歴は記録に無い。
ローラーゲーム米国での歴史概略
ローラーゲームはローラーダービーから分派したスポーツで発祥の米国において古くはローラースケーティングレースとして1922年(大正11年)頃から始まった様子をシカゴ・トリビューン紙が報じており、レースには平坦なトラックを使っていた。似たような記事がニューヨーク・タイムス紙で報じられており、こちらは更に古く1914年(大正3年)にバンクトラックを使ったチャンピオンレースとして報道している。これらをローラーダービーとしての名称で呼ぶように成ったのが1930年代(昭和5年以降)で1961年(昭和36年)にビル グリフィスとジェリー ヒルの2人がローラーダービーのスケーターを使ってテレビ受けするスポーツに変えてローラーゲームを設立させた。1960年代後半には野球場を満員にするほどの観客を動員してローラーダービーの強烈なライバルと成ってテレビでも盛んに放送されていたが現在2008年(平成20年)は総じて縮小した活動となっている。
LA T-Birds(ロスアンゼルス サンダーバード)の選手名
コーチ●ラルフヴァラディアス(Ralph Valladares) ●ダニーライリー(Danny Reilly) ●リチャードブラウン(Richard Brawn) ●ラリールイス(Larry Lewis) ●ボブコービン(Bob Corbin) ●グレッグロバートソン(Greg Robertson) ●ジョージアダムス(George Adsms) ●ジョージヘルナンデス(George Fernandez) ●レニーシルバーマン(Lennie Silverman) ●サムワシントン(Sam Washington) ●ビリーマーシャル(Billy Marshall) ●ヘンリーサガン(Henry Sahagun) ●エドドレッサー(Ed Dresser) ●ジョンジョンソン(John Johnson) ●ロニーレインズ(Ronnie Rains) ●ハロルドジャクソン(Harold Jackson) マネージャー●ジョンホール(John Hall) |
キャプテン●テリーリンチ(Terri Lynch) ●ハニーサンチェス(Honey Sanchez) ●ジュリーパトリック(Juliy Patrick) ●ジュディーソゥインスキー(Judy Sowinski) ●ルバータミッチェル(Ruberta Mitchell) ●カルメントンプソン(Carmen Thompson) ●リズヘルナンデス(Liz Hernandez) ●ベティーストーン(Betty Stone) ●サリーベガ(Sally Vega) ●キャロリンクルース(Carolyn Kruse) ●キャロルクルース(Carol Kruse) ●バーバラジェーコブス(Barbara Jacobs) ●コリーンミュレル(Colleen Murrell) ●グエンミラー(Gwen Miller) ●デビースミス(Debbie Smith) ●ジェニファーマーシャル(Jennifer Marshall) ●ゲイルバウワーズ(Gail Bowers) |
1960年代のローラーゲーム機構
機構主宰 ナショナルスケーティングダービー社(National Skating Derby Inc)
当時の住所 米国.ノースハイランドアベニュー.ハリウッド,カリフォルニア(1717 N.HIGHLAND AVE.HOLLYWOOD,CALIF 90028 USA)
オーナー ビル グリフィス(Bill Griffiths)
傘下チーム
●ロスアンゼルス サンダーバード
●シカゴ ホークス
●デトロイト デビルス
●ニューヨーク チーフス
●フィラデルフィア ウォリアーズ
●東京ボンバーズ
東京ボンバーズ
所属 ナショナルスケーティングダービー日本支社
当時の住所 東京都港区六本木6丁目
活動拠点 東京
練習場兼トレーニングスクール 板橋区前野町 1972年9月開設
記載の支社及び練習場は現在は存在しない。
ローラーゲーム試合ルール
1960年代(昭和36年以降)から1970年代当時に主流とされていたルールを解説をまじえながら紹介する。
試合用リンク
走路巾約3.6m、1周は40m-70mで試合を行う会場の大きさに合わせて1周の距離が調節できる組立て式リンクでコーナーには10度から45度程度までの傾斜を付けて通称バンクトラックと呼ばれている。組立素材にはベニヤ合板が使われ走路表面にはメソナイト社の圧縮材をビス止めしてある又、外周には高さ1m程度の柵(ハンドレール)が設けられている。 走路の内側はインフィールドと呼ばれ中央に負傷者救護所が設けられ両方のコーナーに分かれて両チームの控えベンチとその後方にはペナルティーボックスが設置してある。
チーム
1チームは男性5名女性5名で成立つが交代要員として男女とも4,5名がチームベンチに控えている。
対戦
女性は相手チームの女性と男性は相手チームの男性とそれぞれピリオド別に試合を行うが稀に男性チームの要員が負傷などで不足したときなどは審判員が認める範囲で女性が男性チームの試合に参加することがある。
ピリオド
1試合は8ピリオドに区切られており1ピリオド(ひと区切り)は10分間である。奇数ピリオドの1,3,5,7は女性チームが対戦して偶数ピリオドの2,4,6,8は男性チームが対戦する。前半4ピリオドを終了した時点で休憩時間を挟さみ後半戦5ピリオド目が開始される。試合中に負傷者などが発生して時間のロスが有った時など審判員の判断でロス時間を加えないこともある。
ジャム
各ピリオドは更に時間が細分化されている。その時間は審判員のホイッスルを開始時間として最長1分間制限である。しかしリーディングジャマーには試合をいつでも終了させるコールオフという権利が与えられているために試合開始後、滑走集団の前方に飛び出してジャマーの先頭に位置する者は試合開始直後であっても作戦上与えられた権利を行使して試合を終了させることがある。こうしたピリオド内での細分化した得点争奪戦をジャムと称する。ジャムは1ピリオド目と休憩時間後の5ピリオド目のみトラックのスタートライン手前で静止した状態からのスタートとなり、その他のジャムは全て滑走スタートが用いられる。低速で滑走しながら両チームがそれぞれ2名づつ合計4名のジャマーを選出して滑走集団の最後方に位置させた時、攻守の布陣が整ったと認めた審判員がホイッスルを吹き鳴らしてジャムを開始させる。
ジャマー
ローラーゲームには得点役が存在する。得点役はジャマーと呼称され各チーム2名まで出すことができる。ジャマーはジャム開始の審判員によるホイッスルが鳴らされるまで滑走集団の最後方に位置していなくてはならない。(1960年代後半まではヘルメットを使うことは無かったが誰がジャマーなのか判断しにくかったために1970年代からヘルメットを使用するようになった又、ヘルメットを使用していないと基本的にジャマーと認められなくなった)ジャマーは滑走路から両足が出た時には得点役としての権利を失う。