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Yourpedia - 利用者の投稿記録 [ja]
2024-03-29T09:01:54Z
利用者の投稿記録
MediaWiki 1.25.1
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小泉敏江
2019-10-14T22:08:46Z
<p>Chobichobi: /* 人物 */</p>
<hr />
<div>'''小泉敏江''' (こいずみ としえ、 194?年1月?日〜 )は日本の詩人、歌人、文学者、明治大学名誉教授<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
==人物==<br />
194?年?月?日、東京都に生まれる。[[千葉県立国府台高等学校]]を経て、明治大学文学部に進学。明治大学卒業後、明治大学大学院文学研究科修士課程修了、文学修士、ついで明治大学大学院文学研究科博士課程単位取得。のち、文学博士(明治大学)、明治大学文学部専任講師、助教授、教授、文学部長、千葉大学学長を歴任。<br />
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==著作==<br />
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<br />
==関連項目==<br />
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==外部リンク==</div>
Chobichobi
http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E5%B0%8F%E6%B3%89%E6%95%8F%E6%B1%9F&diff=372100
小泉敏江
2019-10-14T22:08:18Z
<p>Chobichobi: /* 人物 */</p>
<hr />
<div>'''小泉敏江''' (こいずみ としえ、 194?年1月?日〜 )は日本の詩人、歌人、文学者、明治大学名誉教授<br />
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==人物==<br />
194?年?月?日、東京都に生まれる。[[千葉県立千葉高等学校]]を経て、明治大学文学部に進学。明治大学卒業後、明治大学大学院文学研究科修士課程修了、文学修士、ついで明治大学大学院文学研究科博士課程単位取得。のち、文学博士(明治大学)、明治大学文学部専任講師、助教授、教授、文学部長、千葉大学学長を歴任。<br />
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==著作==<br />
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==関連項目==<br />
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==外部リンク==</div>
Chobichobi
http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E5%B0%8F%E6%B3%89%E6%95%8F%E6%B1%9F&diff=372099
小泉敏江
2019-10-14T22:06:51Z
<p>Chobichobi: </p>
<hr />
<div>'''小泉敏江''' (こいずみ としえ、 194?年1月?日〜 )は日本の詩人、歌人、文学者、明治大学名誉教授<br />
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<br />
==人物==<br />
194?年?月?日、東京都に生まれる。[[千葉県立千葉高等学校]]を経て、千葉大学文学部に進学。大学卒業後、明治大学大学院文学研究科修士課程修了、文学修士、ついで明治大学大学院文学研究科博士課程単位取得。のち、文学博士(東京教育大学)、明治大学文学部専任講師、助教授、教授、文学部長、千葉大学学長を歴任。<br />
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==著作==<br />
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==関連項目==<br />
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==外部リンク==</div>
Chobichobi
http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E8%8A%A5%E5%B7%9D%E9%BE%8D%E4%B9%8B%E4%BB%8B%E8%B3%9E&diff=371987
芥川龍之介賞
2019-10-11T21:46:08Z
<p>Chobichobi: /* 第1回から第10回 */</p>
<hr />
<div>{{文学}}<br />
'''芥川龍之介賞'''(あくたがわりゅうのすけしょう)は、[[純文学]]の新人に与えられる[[文学賞]]。通称は'''芥川賞'''。[[文藝春秋]]社内の[[日本文学振興会]]によって選考、授賞される。<br />
<br />
[[大正|大正時代]]を代表する小説家の一人[[芥川龍之介]]の業績を記念して、友人であった[[菊池寛]]が[[1935年]]に[[直木三十五賞|直木賞]]とともに創設し、以降年2回発表される。[[第二次世界大戦]]中の[[1945年]]から一時中断したが[[1949年]]に復活した。新人作家による発表済みの短編・中編作品が対象となり、選考委員の合議によって受賞作が決定される。受賞者には正賞として懐中時計、副賞として100万円(2008年現在)が授与され、受賞作は『[[文藝春秋 (雑誌)|文藝春秋]]』に掲載される。<br />
<br />
2007年現在の選考委員は[[池澤夏樹]]、[[石原慎太郎]]、[[小川洋子]]、[[川上弘美]]、[[黒井千次]]、[[高樹のぶ子]]、[[宮本輝]]、[[村上龍]]、[[山田詠美]]の9名。選考会は、[[料亭]]『[[新喜楽]]』の1階で行われる(直木賞選考会は2階)。受賞者の記者会見と、その一ヵ月後の授賞式はともに[[東京會舘]]で行なわれる。<br />
<br />
== 成立 ==<br />
[[画像:Akutagawa Ryunosuke photo.jpg|thumb|right|芥川龍之介]]<br />
[[1934年]]、[[菊池寛]]は『[[文藝春秋 (雑誌)|文藝春秋]]』4月号(直木三十五追悼号)に掲載された連載コラム「話の屑籠」にて、この年の2月に死去した[[直木三十五]]、1927年に死去した[[芥川龍之介]]の名を冠した新人賞の構想を「まだ定まってはいない」としつつ明らかにした。[[1924年]]に菊池が『文藝春秋』を創刊して以来、芥川は毎号巻頭に「侏儒の言葉」を掲載し、直木もまた文壇ゴシップを寄せるなどして『文藝春秋』の発展に大きく寄与しており、両賞の設立は菊池のこれらの友人に対する思いに端を発している。また『[[文學界|文学界]]』の編集者であった[[川崎竹一]]の回想によれば、1934年に文藝春秋社が発行していた『文藝通信』において川崎が[[ゴンクール賞]]や[[ノーベル賞]]など海外の文学賞を紹介したついでに、日本でも権威のある文学賞を設立するべきだ、と書いた文章を菊池が読んだことも動機となっている<ref>梅田康夫「芥川賞裏話」『創』1977年3月号初出、『芥川賞の研究』124頁-125頁</ref>。このとき菊池は川崎に、文藝春秋社内ですぐに準備委員会および選考委員会を作るよう要請し、川崎や[[永井龍男]]らによって準備が進められた。同年中、『文藝春秋』1935年1月号において「芥川・直木賞宣言」が発表され、正式に両賞が設立された。設立当時から賞牌として懐中時計が贈られるとされており、当時の副賞は500円であった。芥川賞選考委員は芥川と親交があり、また文藝春秋とも関わりの深い作家として[[川端康成]]、[[佐藤春夫]]、[[山本有三]]、[[滝井孝作|瀧井孝作]]ら11名があたることになった。<br />
<br />
芥川賞・直木賞は今でこそジャーナリズムに大きく取り上げられる賞となっているが、設立当初は菊池が考えたほどには耳目を集めず、1935年の「話の屑籠」で菊池は「新聞などは、もっと大きく扱ってくれてもいいと思う」と不平をこぼしている<ref>永井龍男、佐佐木茂作「芥川賞の生まれるまで(対談)」『文学界』1959年3月号初出、『芥川賞の研究』10頁-11頁</ref>。[[1954年]]に受賞した[[吉行淳之介]]は、自身の受賞当時の芥川賞について「社会的話題にはならず、受賞者がにわかに忙しくなることはなかった」と述べており<ref>前掲 梅田康夫「芥川賞裏話」、『芥川賞の研究』143頁</ref>、[[1955年]]に受賞した[[遠藤周作]]も、当時は「ショウではなくてほんとに賞だった」と話題性の低さを言い表している<ref>遠藤周作、開高健「対談 芥川賞」『文学界』1963年9月号初出、『芥川賞の研究』158-159頁</ref>。遠藤によれば、授賞式も新聞関係と文藝春秋社内の人間が10人ほど集まるだけのごく小規模なものだったという。転機となったのは[[1956年]]の[[石原慎太郎]]「[[太陽の季節]]」の受賞である。作品のセンセーショナルな内容や、学生作家であったことなどから大きな話題を呼び、受賞作がベストセラーとなっただけでなく、「太陽族」という新語が生まれ、石原の髪型を真似た「慎太郎カット」が流行するなど「慎太郎ブーム」と呼ばれる社会現象を巻き起こした<ref>前掲 梅田康夫「芥川賞裏話」、『芥川賞の研究』143頁</ref>。これ以降芥川賞・直木賞はジャーナリズムに大きく取り上げられる賞となり、[[1957年]]に[[開高健]]、[[1958年]]に[[大江健三郎]]が受賞した頃には、新聞社だけでなくテレビ、ラジオ局からも取材が押し寄せ、また新作の掲載権をめぐって雑誌社が争うほどになっていた<ref>前掲 梅田康夫「芥川賞裏話」、『芥川賞の研究』146頁</ref>。今日においても話題性の高さは変わらず、特に受賞者が学生作家であるような場合にはジャーナリズムに大きく取り上げられ、受賞作はしばしばベストセラーとなっている。<br />
<br />
== 選考過程 ==<br />
(以下は『ダカーポ』2006年7月19日号掲載の「芥川賞・直木賞はこうして決定する」による。これは日本文学振興会スタッフ菊池夏樹への取材に基づくもの)<br />
<br />
上半期には前年の12月からその年の5月、下半期には6月から11月の間に発表された作品を対象とする。候補作の絞込みは[[日本文学振興会]]から委託される形で、文藝春秋社員20名で構成される選考スタッフによって行なわれる。選考スタッフは5人ずつ4つの班に別れ、各班に10日に1回ほどのペースで毎回3、4作ずつ作品が割り当てられる。スタッフは作品を読み、班会議でその班が推薦する作品を選ぶ。それから各班の推薦作品が持ち寄られて本会議を行いさらに作品を絞り込む。この班会議→本会議が6~7回ずつ、計12回~14回繰り返され、最終的に候補作5、6作を決定する。班会議、本会議ともにメンバーは各作品に○、△、×による採点をあらかじめ行い会議に臨む。<br />
<br />
最終候補作が決定した時点で、候補者に受賞の意志があるか確認を行い、最終候補作を発表する。選考会は上半期は7月中旬、下半期は1月中旬に[[築地]]の料亭・[[新喜楽]]1階の座敷で行なわれる。選考会の司会は『文藝春秋』編集長が務める。選考委員はやはりあらかじめ候補作を○、△、×による採点で評価しておき、各委員が評価を披露した上で審議が行なわれる。<br />
<br />
== 選考基準 ==<br />
=== 「新人」の基準 ===<br />
芥川賞は対象となる作家を「無名あるいは新進作家」としており、特に初期には「その作家が新人と言えるかどうか」が選考委員の間でしばしば議論となった。[[野間宏]]、[[中村真一郎]]、[[三島由紀夫]]など戦中の芥川賞中断期に登場した作家は既成作家と見なされてことごとく候補からはずされており、[[島木健作]]や[[田宮虎彦]]、後述する[[井上光晴]]のように候補に挙がっても「無名とはいえない」という理由で選考からはずされることもしばしば起こった。他方、第5回([[1937年]])に受賞した[[尾崎一雄]]は、受賞時すでに新人とは言えないキャリアを持っていたが、「一般的には埋もれている」(瀧井孝作)と見なされて受賞に至っている<ref>前掲 梅田康夫「芥川賞裏話」、『芥川賞の研究』133頁</ref>。第39回([[1957年]])に[[大江健三郎]]が受賞したときは、大江はまだ23歳の学生作家であったが、すでに本を何冊も出して有名作家となっていたことが議論の的となった<ref>前掲 梅田康夫「芥川賞裏話」、『芥川賞の研究』147頁</ref>。大江の受賞が決定した時には、選考委員の[[佐藤春夫]]は「芥川賞は今日以後新人の登竜門ではなく、新進の地位を安定させる底荷のような賞と合点した」と皮肉を述べている。<br />
<br />
現在ではデビューして数年経ち、他の文学賞を複数受賞しているような作家が芥川賞を受賞することも珍しくなくなっている。近年では[[阿部和重]]が、デビューして10年たち作家的地位も確立していた2004年に芥川賞を受賞し、「複雑な心境。新人に与えられる賞なので、手放しで喜んでいられない」とコメントした。<br />
<br />
=== 作品の長さ ===<br />
芥川賞は短編・中編作品を対象としており、長さに明確な規定があるわけではないが、概ね原稿用紙100枚から200枚程度の作品が候補に選ばれている。第1回の受賞者でありその後選考委員も務めた[[石川達三]]は対象となる作品の長さについて「せいぜい百五十枚までの短編」であるという見解を示したことがあるが、第51回([[1964年]])受賞の[[柴田翔]]「[[されどわれらが日々―]]」は150枚を大幅に超える280枚の作品であった<ref>前掲 梅田康夫「芥川賞裏話」、『芥川賞の研究』149頁</ref>。第50回([[1963年]])芥川賞で井上光晴が「地の群れ」で候補に上がったときは、すでに無名作家でない上、作品が長すぎるという理由で選考からはずされたが、選考委員の[[石川淳]]は「いずれの理由も納得できない」と怒りを表明している<ref>前掲 梅田康夫「芥川賞裏話」、『芥川賞の研究』146頁</ref>。またノーベル文学賞の候補となるなど国際的にも評価の高い[[村上春樹]]は芥川賞を受賞していないが、村上の場合は中篇作品で2度候補となった後、すぐに長編に移行したことが理由の一つに挙げられる<ref>「なぜ村上春樹は芥川賞をとれなかったのか?」『ダカーポ』2006年7月19日号、28頁-29頁</ref>。<br />
<br />
なお「作品の短さ」は、本になったときに読みやすく、また値段も安くなることから、直木賞に比べて作品の売り上げが伸びやすい理由となっている<ref>「データでみる芥川賞・直木賞」『ダカーポ』2006年7月19日号、18頁-19頁</ref>。<br />
<br />
=== 直木賞との境界 ===<br />
[[純文学]]の新人賞として設けられている芥川賞であるが、[[大衆小説|大衆文学]]の賞として設けられている[[直木三十五賞|直木賞]]との境界があいまいになることもしばしばある。第6回([[1937年]])直木賞には純文学の作家として名をなしていた[[井伏鱒二]]が受賞しており、直木賞選考委員の[[久米正雄]]は「純文学として書かれたものだが、このくらいの名文は当然大衆文学の世界に持ち込まれなくてはならぬ」と述べている<ref>橋爪健「芥川賞 文壇残酷物語」『小説新潮』1964年1・2月号初出、『芥川賞の研究』117頁-118頁</ref>。社会派推理作家の[[松本清張]]は「或る『小倉日記』伝」で[[1952年]]に芥川賞を取っており、これはもともと直木賞の候補となっていたものだったが、候補作の下読みをしていた永井龍男のアドヴァイスによって芥川賞に回されたものであった<ref>前掲 梅田康夫「芥川賞裏話」、『芥川賞の研究』140頁</ref>。第46回([[1961年]])の両賞では[[宇能鴻一郎]]が芥川賞を、[[伊藤桂一]]が直木賞をとり、このとき文芸評論家の[[平野謙]]は「芥川賞と直木賞が逆になったのではないかと錯覚する」と述べている<ref>前掲 梅田康夫「芥川賞裏話」、『芥川賞の研究』148頁</ref>。同様の事態は第111回([[1998年]])にも起こり、このときには私小説の作家であった[[車谷長吉]]が直木賞を、大衆文学の作家とみなされていた[[花村萬月]]、ハードボイルド調の作品を書いていた[[藤沢周]]が芥川賞を取ったことで話題となった。<br />
<br />
芥川賞に比べて、直木賞のほうはある程度キャリアのある作家を対象としていることもあり、[[檀一雄]]、[[柴田錬三郎]]、[[山田詠美]]、[[角田光代]]などのように、芥川賞の候補になりながらその後直木賞を受賞した作家もいる。1950年代までは、[[柴田錬三郎]]「デスマスク」(第25回・1951年)、[[北川荘平]]「水の壁」(第39回・1958年)など、芥川賞と直木賞の両方で候補に挙がった作品もあった。<br />
<br />
== 批判 ==<br />
<!-- 出典・参考文献に基づかない加筆を行なわないこと --><br />
<br />
賞のジャーナリスティックな性格はしばしば批判の的となるが、設立者の菊池自身は「むろん芥川賞・直木賞などは、半分は雑誌の宣伝にやっているのだ。そのことは最初から明言してある」(「話の屑籠」『文藝春秋』1935年10月号)とはっきりとその商業的な性格を認めている。菊池は賞に公的な性格を与えるため、1937年に財団法人[[日本文学振興会]]を創設し両賞をまかなわせるようになったが、同会の財源は文藝春秋の寄付に拠っており、役員も主に文藝春秋の関係者が就任している(事務所も文藝春秋社内)<ref>前掲 橋爪健「芥川賞 文壇残酷物語」、『芥川賞の研究』70頁</ref>。また設立当初には選考委員に選ばれている作家の偏りが批判されたが、これに対し菊池は「芥川賞の委員が偏しているという非難をした人があるが、あれはあれでいいと思う。芥川賞はある意味では、芥川の遺風をどことなくほのめかすような、少なくとも純芸術風な作品に与えられるのが当然である(中略)[[プロレタリア文学]]の傑作のためには、[[小林多喜二]]賞といったものが創設されてよいのである」(「話の屑籠」『文藝春秋』1935年2月号)という見方を示している。<br />
<br />
文学賞に対する批判本『[[文学賞メッタ斬り!]]』を著した[[大森望]]、[[豊崎由美]]は、現在の芥川賞の問題点として、選考委員が「終身制」で顔ぶれがほとんど変わらないこと、選考委員が必ずしも現在の文学に通じている人物ではないこと、選考委員の数が多すぎて無難な作品が受賞しがちなこと、受賞作が文藝春秋の雑誌である『文学界』掲載作品に偏りがちであることをなどを挙げている。また豊崎は改善策として、選考委員の任期を4年程度に定め、選考委員の三分の一は文芸評論家にするなどの案を示している<ref>「文学賞大国ニッポン―両賞の位置は?」『ダカーポ』2006年7月19日号、34頁-35頁</ref>。<br />
<br />
== 最年少・最年長受賞記録 ==<br />
特に若年での受賞や学生作家の受賞は大きな話題となる。最年少記録は、[[1966年]]の[[丸山健二]]の記録が40年近く破られていなかったが、[[2003年]]の[[綿矢りさ]]、[[金原ひとみ]]の同時受賞で大幅に更新された。<br />
{| class="wikitable"<br />
|+ 最年少受賞記録<br />
! 順位 !! 受賞者名 !! 受賞年 !! 受賞時の年齢<br />
|-<br />
! 1<br />
| [[綿矢りさ]] || 2004年(第130回) || 19歳11ヶ月<br />
|-<br />
! 2<br />
| [[金原ひとみ]] || 2004年(第130回) || 20歳5ヶ月<br />
|-<br />
! 3<br />
| [[丸山健二]] || 1967年(第56回) || 23歳0ヶ月<br />
|-<br />
! 4<br />
| [[石原慎太郎]] || 1956年(第34回) || 23歳3ヶ月<br />
|-<br />
! 5<br />
| [[大江健三郎]] || 1958年(第39回) || 23歳5ヶ月<br />
|-<br />
! 6<br />
| [[平野啓一郎]] || 1999年(第120回) || 23歳6ヶ月<br />
|-<br />
! 7<br />
| [[青山七恵]] || 2007年(第136回) || 23歳11ヶ月<br />
|-<br />
! 8<br />
| [[村上龍]] || 1976年(第75回) || 24歳4ヶ月<br />
|}<br />
<br />
{| class="wikitable"<br />
|+ 最年長受賞記録<br />
! 順位 !! 受賞者名 !! 受賞年 !! 受賞時の年齢<br />
|-<br />
! 1<br />
| [[森敦]] || 1974年(第70回) || 61歳11ヶ月<br />
|-<br />
! 2<br />
| [[三浦清宏]] || 1988年(第98回) || 57歳4ヶ月<br />
|-<br />
! 3<br />
| [[米谷ふみ子]] || 1986年(第94回) || 55歳2ヶ月<br />
|}<br />
<br />
== 歴代ベストセラー作品 ==<br />
ここでは現在までの累計発行部数が100万部を超える受賞作を解説する(作品名は単行本タイトル。発行部数は『ダカーポ』2006年7月19日号に基づくもので、『蹴りたい背中』を除いて単行本と文庫との総計。古い時代のものは正確な売り上げデータが残っておらず売り上げに計上されていないものもある)<br />
<br />
;[[安部公房]] 『[[壁 (小説)|壁]]』(第25回・[[1951年]])130万部<br />
:「戦後派」の代表的作家の一人安部公房の作品。『壁』は3部からなるが受賞作は第1部にあたる「壁―S・カルマ氏の犯罪」で、名前を失った男の奇譚を描くシュルレアリスム風の前衛的な作品であった。[[石川利光]]「春の草」との同時受賞で、こちらは対照的に古風な作品である。選考委員のなかでは[[川端康成]]、[[丹羽文雄]]、[[滝井孝作|瀧井孝作]]が強く推し、「退屈」として[[宇野浩二]]が反対したが、他の委員が前者に同調するかたちで受賞が決まった。<br />
;[[石原慎太郎]] 『[[太陽の季節]]』(第34回・[[1956年]])102万部<br />
:前述したように「太陽族」という新語とともにブームを巻き起こし、芥川賞の話題性を決定付けた作品である。裕福な家庭で育った若者の無軌道な生活を描いたもので、奔放な性描写が話題となった。選考では最終的に[[藤枝静男]]の「痩我慢の説」との対決となり、この2作に対し選考委員の意見が分かれた。委員のうち[[舟橋聖一]]、[[石川達三]]がそれぞれ欠点を指摘しつつも「太陽の季節」を終始積極的に支持、[[佐藤春夫]]、丹羽文雄、宇野浩二が強く反対し、最終的に瀧井孝作、川端康成、[[中村光夫]]、[[井上靖]]が前者に同調した。作者が弟の[[石原裕次郎]]から聞いた話が題材になっており、[[1956年]]に映画化され、裕次郎も脇役として出演、これが石原裕次郎のデビュー作となった。<br />
;[[大江健三郎]] 『死者の奢り・飼育』(第39回・[[1958年]])109万部<br />
:「飼育」が受賞作。大江は前年度の第38回にも「死者の奢り」で候補となっていたが、このときには[[開高健]]「裸の王様」が受賞。開高の受賞時丹羽文雄は「技巧の点では大江のほうが上だが、視野が狭くて落ちた。開高は作品に傷はあるけれども、故[[島木健作]]の持っていたシンの強さがあり、視野も広い」としている<ref>前掲 梅田康夫「芥川賞裏話」、『芥川賞の研究』146頁</ref>。「飼育」は大江の故郷である四国の村を舞台に、子供である「僕」と村人に捕らえられた黒人兵との関係を描いた作品で、当時の大江は[[ジャン=ポール・サルトル|サルトル]]の影響を強く受けた作風であった。「飼育」は選考委員の間で評価の高さは一致したものの、前述の通りすでに大江が有名作家となっていたことが議論の的となり、「今回は賞無しというのも少し淋しいかと思って」(瀧井孝作)というような意見から受賞が決定した。舟橋聖一は「死者の奢り」にこそ賞を出したかったという選評を行なっている。<br />
;[[柴田翔]] 『[[されどわれらが日々――]]』(第51回・[[1964年]])186万部<br />
:東京大学の学生を主人公に、当時の学生運動を背景にして描かれた青春小説。[[血のメーデー事件]]による革命への気分の高揚、[[日本共産党第6回全国協議会|六全協]]での挫折が物語の主軸となっており、当時の若者に広く読まれた。選考では前述のように280枚の長さが問題となったが、「他の候補作品にくらべて力倆は抜群」(石川達三)、「読み出すとスラスラ読めるので、却って、落ちた作の五十枚前後のほうが、読むのに骨が折れた」(丹羽文雄)といった意見から受賞が決定した。柴田はその後ドイツ文学者として活躍している。<br />
;[[庄司薫]] 『[[赤頭巾ちゃん気をつけて]]』(第61回・[[1969年]])160万部<br />
:[[安保闘争]]などの学生運動を背景に、[[東京都立日比谷高等学校|日比谷高等学校]]の男子生徒の一日を軽妙な文体で描いた作品。庄司は本名の福田章二としてデビューし、9年の沈黙を経て本作を発表した。「さようなら怪傑黒頭巾」などに続く4部作の第1作にあたり、作風にはサリンジャーなどのアメリカ文学からの影響が指摘されている。[[田久保英夫]]「深い河」との同時受賞。選考では[[三島由紀夫]]、[[石川淳]]らから激賞を受けている。<br />
;[[村上龍]] 『[[限りなく透明に近いブルー]]』(第75回・[[1976年]])354万部(単行本131万部、文庫223万部)<br />
:作者の実体験に基づき、米軍基地に近い町でドラッグとセックスに溺れる若者を[[LSD]]的な感覚で描いた作品。センセーショナルな内容が話題となり、歴代受賞作で最も売れた作品となった。選考では意見が真っ二つに分かれ、「因果なことに才能がある」と評した[[吉行淳之介]]のほか、丹羽文雄、[[中村光夫]]、井上靖が支持したが、永井龍男、瀧井孝作が強く反発。受賞後も[[江藤淳]]が酷評するなど論議を起こした。受賞作は村上自身の手により1979年に映画化されている。<br />
;[[池田満寿夫]] 『[[エーゲ海に捧ぐ]]』(第77回・[[1977年]])126万部<br />
:[[三田誠広]]『僕って何』との同時受賞。池田はすでに版画家として国際的な評価を得ていたため受賞は大きな話題となった。作品は池田自身を思わせる主人公がアメリカの撮影スタジオで、日本の妻と国際電話で会話しながら目の前のアメリカ人女性のヌードを観察する、というエロティシズムを全面的に押し出したもの。1979年に池田自身により映画化されている。選考では中村光夫から高い評価を受けたが、永井龍男は「空虚な痴態」「これは文学ではない」と授賞に抗議し、この作品と上記の村上の受賞を理由に選考委員を辞任している。<br />
;[[綿矢りさ]] 『[[蹴りたい背中]]』(第130回・[[2003年]])127万部(単行本のみ)<br />
:綿矢は17歳のときに『インストール』でデビュー、芥川賞受賞時は19歳で、20歳の金原ひとみと同時授賞し最年少記録を大幅に更新、単行本は『限りなく透明に近いブルー』以来28年ぶりのミリオンセラーとなった。受賞作は周囲に溶け込めない女子高生とアイドルおたくの男子生徒との交流を描いたもので、唯一反対した[[三浦哲郎]]を除く選考委員の票をすべて集め受賞が決定。「高校における異物排除のメカニズムを正確に書く技倆に感心した」([[池澤夏樹]])、「作者は作者の周辺に流行しているだろうコミック的観念遊びに足をとられず、小説のカタチで新しさを主張する愚にも陥らず、あくまで人間と人間関係を描こうとしている」([[高樹のぶ子]])と各選考委員から高評価を受けた。綿矢の受賞と前後してこの時期10代~20代前半の作家のデビューが相次ぎ、若年層の活躍を印象付けた。<br />
<br />
==太宰治の落選について==<br />
第1回芥川賞では、デビューしたばかりの[[太宰治]]も候補となった。太宰は当時[[パビナール]]中毒症に悩んでおり、薬品代の借金もあったため賞金500円を熱望していたが、結局受賞はしなかった。この時選考委員の一人だった[[川端康成]]は、太宰について「作者目下の生活に嫌な雲ありて、才能の素直に発せざる悩みがあった」と評していたが、これに対して太宰は強く憤り、『文藝通信』に「川端康成へ」と題する文章を掲載、「私は憤怒に燃えた。幾夜も寝苦しい思ひをした。小鳥を飼ひ、舞踏を見るのがそんなに立派な生活なのか。刺す、さうおもった。大悪党だと思った」と川端をなじった。これに対し川端も翌月の『文藝通信』で「太宰氏は委員会の様子など知らぬというかも知れない。知らないならば尚更根も葉もない妄想や邪推はせぬがよい」と反駁した。また太宰は選考委員のなかで太宰の理解者であった[[佐藤春夫]]に何度も嘆願の手紙を送り、第2回、第3回の候補になるべく『文藝春秋』に新作を送り続けたが、第3回以降しばらく「1度候補に挙がった者は以後候補としない」とする規定が設けられ、受賞の機会が奪われることとなった。佐藤はこれらの経緯を「小説 芥川賞」と題して詳しく描いている。<br />
<br />
==受賞作一覧==<br />
=== 第1回から第10回 ===<br />
選考委員:[[川端康成]]、[[佐藤春夫]]、[[滝井孝作|瀧井孝作]]、[[久米正雄]](直木賞兼任、第3回・第5回欠席)、[[佐佐木茂索]](直木賞兼任)、[[山本有三]](第2回まで)、[[小島政二郎]](第2回以降、直木賞兼任)、[[室生犀星]](第2回以降、第5回欠席)、[[菊池寛]](第3回のみ)、[[横光利一]](第4回以降)、[[宇野浩二]](第6回以降、第7、17-20回欠席)<br />
* 第1回([[1935年]]上半期) - [[石川達三]] 「[[蒼氓]]」、[[高見順]]候補、[[太宰治]]候補<br />
* 第2回(1935年下半期) - 該当作品なし([[二・二六事件]]のため審査中止)<br />
* 第3回([[1936年]]上半期) - [[小田嶽夫]] 「城外」、[[鶴田知也]] 「コシャマイン記」<br />
* 第4回(1936年下半期) - [[石川淳]] 「普賢」、[[冨澤有爲男]] 「地中海」<br />
* 第5回([[1937年]]上半期) - [[尾崎一雄]] 「暢気眼鏡」他<br />
* 第6回(1937年下半期) - [[火野葦平]] 「糞尿譚」<br />
* 第7回([[1938年]]上半期) - [[中山義秀]] 「厚物咲」<br />
* 第8回(1938年下半期) - [[中里恒子]] 「乗合馬車」他<br />
* 第9回([[1939年]]上半期) - [[半田義之]] 「鶏騒動」、[[長谷健]] 「あさくさの子供」<br />
* 第10回(1939年下半期) - [[寒川光太郎]] 「密獵者」<br />
<br />
=== 第11回から第20回 ===<br />
選考委員:川端康成(第13回欠席)、佐藤春夫(第18回欠席)、瀧井孝作、久米正雄(第11回-第13回欠席、第16回まで)、佐佐木茂索(第11、15回欠席、第16回まで)、小島政二郎(第17回まで)、室生犀星(第17回まで)、横光利一(第11、12、14、17回欠席、第20回まで)、宇野浩二、[[片岡鉄兵]](第13回以降、第14回-第16回欠席、第19回まで)、[[白井喬二]](直木賞兼任、第13回のみ)、[[河上徹太郎]](第17回以降)、[[岸田國士|岸田国士]](第18回以降、第19回欠席)、[[火野葦平]](第18回以降)<br />
* 第11回([[1940年]]上半期) - [[高木卓]] 「歌と門の盾」(受賞辞退)<br />
* 第12回(1940年下半期) - [[櫻田常久]] 「平賀源内」<br />
* 第13回([[1941年]]上半期) - [[多田裕計]] 「長江デルタ」<br />
* 第14回(1941年下半期) - [[芝木好子]] 「青果の市」<br />
* 第15回([[1942年]]上半期) - 該当作品なし<br />
* 第16回(1942年下半期) - [[倉光俊夫]] 「連絡員」<br />
* 第17回([[1943年]]上半期) - [[石塚喜久三]] 「纏足の頃」<br />
* 第18回(1943年下半期) - [[東野辺薫|東野邊薫]] 「和紙」<br />
* 第19回([[1944年]]上半期) - [[八木義徳]] 「劉廣福」、[[小尾十三]] 「登攀」<br />
* 第20回(1944年下半期) - [[清水基吉]] 「雁立」<br />
<br />
=== 第21回から第30回 ===<br />
選考委員:川端康成、佐藤春夫、瀧井孝作、宇野浩二、岸田国士(第27、28回欠席、第30回まで)、[[石川達三]](第25回欠席)、[[坂口安吾]](第30回まで)、[[舟橋聖一]]、[[丹羽文雄]]<br />
* 第21回([[1949年]]上半期) - [[由起しげ子]] 「[[本の話]]」、[[小谷剛]] 「確証」<br />
* 第22回(1949年下半期) - [[井上靖]] 「[[闘牛 (小説)|闘牛]]」<br />
* 第23回([[1950年]]上半期) - [[辻亮一]] 「異邦人」<br />
* 第24回(1950年下半期) - 該当作品なし<br />
* 第25回([[1951年]]上半期) - [[安部公房]] 「[[壁 (小説)|壁 S・カルマ氏の犯罪]]」、[[石川利光 (作家)|石川利光]] 「春の草」他<br />
* 第26回(1951年下半期) - [[堀田善衛]] 「[[広場の孤独]]」「漢奸」その他<br />
* 第27回([[1952年]]上半期) - 該当作品なし<br />
* 第28回(1952年下半期) - [[五味康祐]] 「喪神」、[[松本清張]] 「[[或る「小倉日記」伝|或る『小倉日記』伝]]」<br />
* 第29回([[1953年]]上半期) - [[安岡章太郎]] 「悪い仲間・陰気な愉しみ」<br />
* 第30回(1953年下半期) - 該当作品なし<br />
<br />
=== 第31回から第40回 ===<br />
選考委員:川端康成、佐藤春夫(第36回欠席)、瀧井孝作、宇野浩二、岸田国士、石川達三、舟橋聖一、丹羽文雄、[[井上靖]](第32回以降)、[[中村光夫]](第34回以降)、[[井伏鱒二]](第39回以降)、[[永井龍男]](第39回以降、直木賞選考から異動)<br />
* 第31回([[1954年]]上半期) - [[吉行淳之介]] 「[[驟雨 (小説)|驟雨]]」その他<br />
* 第32回(1954年下半期) - [[小島信夫]] 「アメリカン・スクール」、[[庄野潤三]] 「プールサイド小景」<br />
* 第33回([[1955年]]上半期) - [[遠藤周作]]「[[白い人]]」<br />
* 第34回(1955年下半期) - [[石原慎太郎]] 「[[太陽の季節]]」<br />
* 第35回([[1956年]]上半期) - [[近藤啓太郎]] 「海人舟」<br />
* 第36回(1956年下半期) - 該当作品なし<br />
* 第37回([[1957年]]上半期) - [[菊村到]] 「[[硫黄島 (小説)|硫黄島]]」<br />
* 第38回(1957年下半期) - [[開高健]] 「[[裸の王様 (小説)|裸の王様]]」<br />
* 第39回([[1958年]]上半期) - [[大江健三郎]] 「[[飼育 (小説)|飼育]]」<br />
* 第40回(1958年下半期) - 該当作品なし<br />
<br />
=== 第41回から第50回 ===<br />
選考委員:川端康成(第43、46回欠席)、佐藤春夫(第46回まで)、瀧井孝作、宇野浩二(第45回まで)、石川達三、舟橋聖一、丹羽文雄、井上靖、中村光夫、井伏鱒二(第47回まで)、永井龍男、[[高見順]](第47回以降)、[[石川淳]](第47回以降)<br />
* 第41回([[1959年]]上半期) - [[斯波四郎]] 「山塔」<br />
* 第42回(1959年下半期) - 該当作品なし<br />
* 第43回([[1960年]]上半期) - [[北杜夫]] 「[[夜と霧の隅で]]」<br />
* 第44回(1960年下半期) - [[三浦哲郎 (作家)|三浦哲郎]] 「[[忍ぶ川]]」<br />
* 第45回([[1961年]]上半期) - 該当作品なし<br />
* 第46回(1961年下半期) - [[宇能鴻一郎]] 「鯨神」<br />
* 第47回([[1962年]]上半期) - [[川村晃]] 「美談の出発」<br />
* 第48回(1962年下半期) - 該当作品なし<br />
* 第49回([[1963年]]上半期) - [[後藤紀一]] 「少年の橋」、[[河野多惠子]] 「蟹」<br />
* 第50回(1963年下半期) - [[田辺聖子]] 「感傷旅行 センチメンタル・ジャーニィ」<br />
<br />
=== 第51回から第60回 ===<br />
選考委員:川端康成(第50、51回欠席)、瀧井孝作、石川達三、舟橋聖一、丹羽文雄、井上靖(第51、57回欠席)、中村光夫、永井龍男、高見順(第53回まで)、石川淳、[[大岡昇平]](第55回以降)、[[三島由紀夫]](第55回以降)<br />
* 第51回([[1964年]]上半期) - [[柴田翔]] 「されどわれらが日々──」<br />
* 第52回(1964年下半期) - 該当作品なし<br />
* 第53回([[1965年]]上半期) - [[津村節子]] 「[[玩具 (小説)|玩具]]」<br />
* 第54回(1965年下半期) - [[高井有一]] 「北の河」<br />
* 第55回([[1966年]]上半期) - 該当作品なし<br />
* 第56回(1966年下半期) - [[丸山健二]] 「夏の流れ」<br />
* 第57回([[1967年]]上半期) - [[大城立裕]] 「カクテル・パーティー」<br />
* 第58回(1967年下半期) - [[柏原兵三]] 「徳山道助の帰郷」<br />
* 第59回([[1968年]]上半期) - [[丸谷才一]] 「年の残り」、[[大庭みな子]] 「三匹の蟹」<br />
* 第60回(1968年下半期) - 該当作品なし<br />
<br />
=== 第61回から第70回 ===<br />
選考委員:川端康成(第64回まで)、瀧井孝作、石川達三(第65回まで)、丹羽文雄、舟橋聖一、井上靖、中村光夫、永井龍男、石川淳(第65回まで)、大岡昇平、三島由紀夫(第63回まで)、[[安岡章太郎]](第66回以降)、[[吉行淳之介]](第66回以降)<br />
* 第61回([[1969年]]上半期) - [[庄司薫]] 「[[赤頭巾ちゃん気をつけて]]」、[[田久保英夫]] 「深い河」<br />
* 第62回(1969年下半期) - [[清岡卓行]] 「[[アカシヤの大連]]」<br />
* 第63回([[1970年]]上半期) - [[吉田知子]] 「無明長夜」、[[古山高麗雄]] 「プレオー8の夜明け」<br />
* 第64回(1970年下半期) - [[古井由吉]] 「杳子」<br />
* 第65回([[1971年]]上半期) - 該当作品なし<br />
* 第66回(1971年下半期) - [[李恢成]] 「砧をうつ女」、[[東峰夫]] 「オキナワの少年」<br />
* 第67回([[1972年]]上半期) - [[畑山博]] 「いつか汽笛を鳴らして」、[[宮原昭夫]] 「誰かが触った」<br />
* 第68回(1972年下半期) - [[山本道子 (作家)|山本道子]] 「ベティさんの庭」、[[郷静子]] 「れくいえむ」<br />
* 第69回([[1973年]]上半期) - [[三木卓]] 「鶸」<br />
* 第70回(1973年下半期) - [[野呂邦暢]] 「草のつるぎ」、[[森敦]] 「[[月山 (小説)|月山]]」<br />
<br />
=== 第71回から第80回 ===<br />
選考委員:瀧井孝作、丹羽文雄、舟橋聖一(第73回まで)、井上靖、中村光夫、永井龍男(第77回まで)、大岡昇平(第73回まで)、安岡章太郎、吉行淳之介、[[遠藤周作]](第76回以降)、[[大江健三郎]](第76回以降)、[[開高健]](第39回以降)、[[丸谷才一]](第79回以降)<br />
* 第71回([[1974年]]上半期) - 該当作品なし<br />
* 第72回(1974年下半期) - [[日野啓三]] 「あの夕陽」、[[阪田寛夫]] 「土の器」<br />
* 第73回([[1975年]]上半期) - [[林京子]] 「祭りの場」<br />
* 第74回(1975年下半期) - [[中上健次]] 「[[岬 (小説)|岬]]」、[[岡松和夫]] 「志賀島」<br />
* 第75回([[1976年]]上半期) - [[村上龍]] 「[[限りなく透明に近いブルー]]」<br />
* 第76回(1976年下半期) - 該当作品なし<br />
* 第77回([[1977年]]上半期) - [[三田誠広]] 「僕って何」、[[池田満寿夫]] 「[[エーゲ海に捧ぐ]]」<br />
* 第78回(1977年下半期) - [[宮本輝]] 「[[螢川]]」、[[高城修三]] 「榧の木祭り」<br />
* 第79回([[1978年]]上半期) - [[高橋揆一郎]] 「伸予」、[[高橋三千綱]] 「九月の空」<br />
* 第80回(1978年下半期) - [[ 中沢けい]] 「海を感じる時」<br />
<br />
=== 第81回から第90回 ===<br />
選考委員:瀧井孝作(第86回まで)、丹羽文雄、井上靖(第89回まで)、中村光夫、安岡章太郎、吉行淳之介、遠藤周作、大江健三郎、開高健、丸谷才一<br />
* 第81回([[1979年]]上半期) - [[重兼芳子]] 「やまあいの煙」、[[青野聰]] 「愚者の夜」<br />
* 第82回(1979年下半期) - [[森禮子]] 「モッキングバードのいる町」<br />
* 第83回([[1980年]]上半期) - 該当作品なし<br />
* 第84回(1980年下半期) - [[赤瀬川原平|尾辻克彦]] 「父が消えた」<br />
* 第85回([[1981年]]上半期) - [[吉行理恵]] 「小さな貴婦人」<br />
* 第86回(1981年下半期) - 該当作品なし<br />
* 第87回([[1982年]]上半期) - 該当作品なし<br />
* 第88回(1982年下半期) - [[加藤幸子]] 「夢の壁」、[[唐十郎]] 「佐川君からの手紙」<br />
* 第89回([[1983年]]上半期) - 該当作品なし<br />
* 第90回(1983年下半期) - [[笠原淳]] 「杢二の世界」、[[高樹のぶ子]] 「[[光抱く友よ]]」<br />
<br />
=== 第91回から第100回 ===<br />
選考委員:丹羽文雄(第92回まで)、中村光夫(第94回まで)、安岡章太郎(第95回まで)、吉行淳之介、遠藤周作(第95回まで)、大江健三郎(第91回まで)、開高健(第91、97、99回欠席)、丸谷才一(第93回まで)、[[三浦哲郎]](第94回以降)、[[田久保英夫]](第94回以降)、[[水上勉]](直木賞選考委員より異動、第100回まで)、[[古井由吉]](第94回以降)、[[大庭みな子]](第97回以降)、[[河野多惠子|河野多恵子]](第97回以降)、[[黒井千次]](第97回以降)、[[日野啓三]](第97回以降)<br />
* 第91回([[1984年]]上半期) - 該当作品なし<br />
* 第92回(1984年下半期) - [[木崎さと子]] 「青桐」<br />
* 第93回([[1985年]]上半期) - 該当作品なし<br />
* 第94回(1985年下半期) - [[米谷ふみ子]] 「過越しの祭」<br />
* 第95回([[1986年]]上半期) - 該当作品なし<br />
* 第96回(1986年下半期) - 該当作品なし<br />
* 第97回([[1987年]]上半期) - [[村田喜代子]] 「鍋の中」<br />
* 第98回(1987年下半期) - [[池澤夏樹]] 「スティル・ライフ」、[[三浦清宏]] 「長男の出家」<br />
* 第99回([[1988年]]上半期) - [[新井満]] 「尋ね人の時間」<br />
* 第100回(1988年下半期) - [[南木佳士]] 「ダイヤモンドダスト」、[[李良枝]] 「由煕」<br />
<br />
=== 第101回から第110回 ===<br />
選考委員:吉行淳之介(第110回まで)、開高健(第101回まで)、大江健三郎(第102回より復帰)、丸谷才一(第102回より復帰)、三浦哲郎(第109回欠席)、田久保英夫、古井由吉、大庭みな子、河野多恵子、黒井千次、日野啓三<br />
* 第101回([[1989年]]上半期) - 該当作品なし<br />
* 第102回(1989年下半期) - [[大岡玲]] 「表層生活」、[[瀧澤美恵子]] 「ネコババのいる町で」<br />
* 第103回([[1990年]]上半期) - [[辻原登]] 「村の名前」<br />
* 第104回(1990年下半期) - [[小川洋子]] 「[[妊娠カレンダー]]」<br />
* 第105回([[1991年]]上半期) - [[辺見庸]] 「自動起床装置」、[[荻野アンナ]] 「背負い水」<br />
* 第106回(1991年下半期) - [[松村栄子]] 「至高聖所アバトーン」<br />
* 第107回([[1992年]]上半期) - [[藤原智美]] 「運転士」<br />
* 第108回(1992年下半期) - [[多和田葉子]] 「犬婿入り」<br />
* 第109回([[1993年]]上半期) - [[吉目木晴彦]] 「寂寥郊野」<br />
* 第110回(1993年下半期) - [[奥泉光]] 「石の来歴」<br />
<br />
=== 第111回から第120回 ===<br />
選考委員:大江健三郎(第114回まで)、丸谷才一(第118回まで)、三浦哲郎(第117回欠席)、田久保英夫、古井由吉、大庭みな子(第115回まで)、河野多恵子、黒井千次、日野啓三、[[石原慎太郎]](第114回以降)、[[池澤夏樹]](第114回以降)、[[宮本輝]](第114回以降)<br />
* 第111回([[1994年]]上半期) - [[室井光広]] 「おどるでく」、[[笙野頼子]] 「タイムスリップ・コンビナート」<br />
* 第112回(1994年下半期) - 該当作品なし<br />
* 第113回([[1995年]]上半期) - [[保坂和志]] 「この人の閾」<br />
* 第114回(1995年下半期) - [[又吉栄喜]] 「豚の報い」<br />
* 第115回([[1996年]]上半期) - [[川上弘美]] 「蛇を踏む」<br />
* 第116回(1996年下半期) - [[辻仁成]] 「海峡の光」、[[柳美里]] 「家族シネマ」<br />
* 第117回([[1997年]]上半期) - [[目取真俊]] 「水滴」<br />
* 第118回(1997年下半期) - 該当作品なし<br />
* 第119回([[1998年]]上半期) - [[花村萬月]] 「[[ゲルマニウムの夜]]」、[[藤沢周]] 「[[ブエノスアイレス午前零時]]」<br />
* 第120回(1998年下半期) - [[平野啓一郎]] 「[[日蝕]]」<br />
<br />
=== 第121回から第130回 ===<br />
選考委員:三浦哲郎(第130回まで)、田久保英夫(第124回まで)、古井由吉、河野多恵子、黒井千次、日野啓三(第122回欠席、第126回まで)、石原慎太郎、池澤夏樹、宮本輝、[[村上龍]](第123回以降)、[[高樹のぶ子]](第126回以降)、[[山田詠美]](第129回以降)<br />
* 第121回([[1999年]]上半期) - 該当作品なし<br />
* 第122回(1999年下半期) - [[玄月]] 「蔭の棲みか」、[[藤野千夜]] 「夏の約束」<br />
* 第123回([[2000年]]上半期) - [[町田康]] 「きれぎれ」、[[松浦寿輝]] 「花腐し」<br />
* 第124回(2000年下半期) - [[青来有一]] 「聖水」、[[堀江敏幸]] 「熊の敷石」<br />
* 第125回([[2001年]]上半期) - [[玄侑宗久]] 「中陰の花」<br />
* 第126回(2001年下半期) - [[長嶋有]] 「猛スピードで母は」<br />
* 第127回([[2002年]]上半期) - [[吉田修一]] 「パーク・ライフ」<br />
* 第128回(2002年下半期) - [[大道珠貴]] 「しょっぱいドライブ」<br />
* 第129回([[2003年]]上半期) - [[吉村萬壱]] 「ハリガネムシ」<br />
* [[第130回芥川龍之介賞|第130回]](2003年下半期) - [[金原ひとみ]] 「[[蛇にピアス]]」、[[綿矢りさ]] 「[[蹴りたい背中]]」<br />
<br />
=== 第131回から ===<br />
選考委員:古井由吉(第132回まで)、河野多恵子(第136回まで)、黒井千次、石原慎太郎、池澤夏樹、宮本輝、村上龍、高樹のぶ子、山田詠美、[[川上弘美]](第137回以降)、[[小川洋子]](第137回以降)<br />
* 第131回([[2004年]]上半期) - [[モブ・ノリオ]] 「介護入門」<br />
* 第132回([[2004年]]下半期) - [[阿部和重]] 「グランド・フィナーレ」<br />
* 第133回([[2005年]]上半期) - [[中村文則]] 「土の中の子供」<br />
* 第134回([[2005年]]下半期) - [[絲山秋子]] 「[[沖で待つ]]」<br />
* 第135回([[2006年]]上半期) - [[伊藤たかみ]] 「八月の路上に捨てる」<br />
* 第136回([[2006年]]下半期) - [[青山七恵]] 「ひとり日和」<br />
* 第137回([[2007年]]上半期) - [[諏訪哲史]] 「[[アサッテの人]]」<br />
* 第138回([[2007年]]下半期) - [[川上未映子]] 「[[乳と卵]]」<br />
* 第139回([[2008年]]上半期) - [[楊逸]] 「[[時が滲む朝]]」<br />
<br />
== 参考文献 ==<br />
選評は『芥川賞全集』に収録されている。<br />
* 永井龍男ほか『芥川賞の研究』みき書房、1979年<br />
* 永井龍男『回想の芥川・直木賞』文藝春秋、1979年<br />
* 『芥川賞全集』文藝春秋、1982年-<br />
* 『ダカーポ』2006年7月19日号「特集・芥川賞、直木賞を徹底的に楽しむ」マガジンハウス<br />
* 大森望、豊崎由美『文学賞メッタ斬り!』シリーズ、PARCO出版、2004年- <br />
<br />
== 脚注、出典 ==<br />
<references/><br />
<br />
== 関連項目 ==<br />
いずれも出版社の主宰する非公募の純文学新人賞。<br />
* [[三島由紀夫賞]](新潮社)<br />
* [[野間文芸新人賞]](講談社)<br />
<br />
== 外部リンク ==<br />
*[http://www.bunshun.co.jp/award/akutagawa/list1.htm 各賞紹介 - 芥川賞 - (文藝春秋)]<br />
<br />
[[Category:芥川龍之介賞|*]]<br />
[[Category:文学の賞|あくたかわりゆうのすけしよう]]<br />
{{Wikipedia/Ja}}</div>
Chobichobi
http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E8%8A%A5%E5%B7%9D%E9%BE%8D%E4%B9%8B%E4%BB%8B%E8%B3%9E&diff=371986
芥川龍之介賞
2019-10-11T21:44:41Z
<p>Chobichobi: /* 第1回から第10回 */</p>
<hr />
<div>{{文学}}<br />
'''芥川龍之介賞'''(あくたがわりゅうのすけしょう)は、[[純文学]]の新人に与えられる[[文学賞]]。通称は'''芥川賞'''。[[文藝春秋]]社内の[[日本文学振興会]]によって選考、授賞される。<br />
<br />
[[大正|大正時代]]を代表する小説家の一人[[芥川龍之介]]の業績を記念して、友人であった[[菊池寛]]が[[1935年]]に[[直木三十五賞|直木賞]]とともに創設し、以降年2回発表される。[[第二次世界大戦]]中の[[1945年]]から一時中断したが[[1949年]]に復活した。新人作家による発表済みの短編・中編作品が対象となり、選考委員の合議によって受賞作が決定される。受賞者には正賞として懐中時計、副賞として100万円(2008年現在)が授与され、受賞作は『[[文藝春秋 (雑誌)|文藝春秋]]』に掲載される。<br />
<br />
2007年現在の選考委員は[[池澤夏樹]]、[[石原慎太郎]]、[[小川洋子]]、[[川上弘美]]、[[黒井千次]]、[[高樹のぶ子]]、[[宮本輝]]、[[村上龍]]、[[山田詠美]]の9名。選考会は、[[料亭]]『[[新喜楽]]』の1階で行われる(直木賞選考会は2階)。受賞者の記者会見と、その一ヵ月後の授賞式はともに[[東京會舘]]で行なわれる。<br />
<br />
== 成立 ==<br />
[[画像:Akutagawa Ryunosuke photo.jpg|thumb|right|芥川龍之介]]<br />
[[1934年]]、[[菊池寛]]は『[[文藝春秋 (雑誌)|文藝春秋]]』4月号(直木三十五追悼号)に掲載された連載コラム「話の屑籠」にて、この年の2月に死去した[[直木三十五]]、1927年に死去した[[芥川龍之介]]の名を冠した新人賞の構想を「まだ定まってはいない」としつつ明らかにした。[[1924年]]に菊池が『文藝春秋』を創刊して以来、芥川は毎号巻頭に「侏儒の言葉」を掲載し、直木もまた文壇ゴシップを寄せるなどして『文藝春秋』の発展に大きく寄与しており、両賞の設立は菊池のこれらの友人に対する思いに端を発している。また『[[文學界|文学界]]』の編集者であった[[川崎竹一]]の回想によれば、1934年に文藝春秋社が発行していた『文藝通信』において川崎が[[ゴンクール賞]]や[[ノーベル賞]]など海外の文学賞を紹介したついでに、日本でも権威のある文学賞を設立するべきだ、と書いた文章を菊池が読んだことも動機となっている<ref>梅田康夫「芥川賞裏話」『創』1977年3月号初出、『芥川賞の研究』124頁-125頁</ref>。このとき菊池は川崎に、文藝春秋社内ですぐに準備委員会および選考委員会を作るよう要請し、川崎や[[永井龍男]]らによって準備が進められた。同年中、『文藝春秋』1935年1月号において「芥川・直木賞宣言」が発表され、正式に両賞が設立された。設立当時から賞牌として懐中時計が贈られるとされており、当時の副賞は500円であった。芥川賞選考委員は芥川と親交があり、また文藝春秋とも関わりの深い作家として[[川端康成]]、[[佐藤春夫]]、[[山本有三]]、[[滝井孝作|瀧井孝作]]ら11名があたることになった。<br />
<br />
芥川賞・直木賞は今でこそジャーナリズムに大きく取り上げられる賞となっているが、設立当初は菊池が考えたほどには耳目を集めず、1935年の「話の屑籠」で菊池は「新聞などは、もっと大きく扱ってくれてもいいと思う」と不平をこぼしている<ref>永井龍男、佐佐木茂作「芥川賞の生まれるまで(対談)」『文学界』1959年3月号初出、『芥川賞の研究』10頁-11頁</ref>。[[1954年]]に受賞した[[吉行淳之介]]は、自身の受賞当時の芥川賞について「社会的話題にはならず、受賞者がにわかに忙しくなることはなかった」と述べており<ref>前掲 梅田康夫「芥川賞裏話」、『芥川賞の研究』143頁</ref>、[[1955年]]に受賞した[[遠藤周作]]も、当時は「ショウではなくてほんとに賞だった」と話題性の低さを言い表している<ref>遠藤周作、開高健「対談 芥川賞」『文学界』1963年9月号初出、『芥川賞の研究』158-159頁</ref>。遠藤によれば、授賞式も新聞関係と文藝春秋社内の人間が10人ほど集まるだけのごく小規模なものだったという。転機となったのは[[1956年]]の[[石原慎太郎]]「[[太陽の季節]]」の受賞である。作品のセンセーショナルな内容や、学生作家であったことなどから大きな話題を呼び、受賞作がベストセラーとなっただけでなく、「太陽族」という新語が生まれ、石原の髪型を真似た「慎太郎カット」が流行するなど「慎太郎ブーム」と呼ばれる社会現象を巻き起こした<ref>前掲 梅田康夫「芥川賞裏話」、『芥川賞の研究』143頁</ref>。これ以降芥川賞・直木賞はジャーナリズムに大きく取り上げられる賞となり、[[1957年]]に[[開高健]]、[[1958年]]に[[大江健三郎]]が受賞した頃には、新聞社だけでなくテレビ、ラジオ局からも取材が押し寄せ、また新作の掲載権をめぐって雑誌社が争うほどになっていた<ref>前掲 梅田康夫「芥川賞裏話」、『芥川賞の研究』146頁</ref>。今日においても話題性の高さは変わらず、特に受賞者が学生作家であるような場合にはジャーナリズムに大きく取り上げられ、受賞作はしばしばベストセラーとなっている。<br />
<br />
== 選考過程 ==<br />
(以下は『ダカーポ』2006年7月19日号掲載の「芥川賞・直木賞はこうして決定する」による。これは日本文学振興会スタッフ菊池夏樹への取材に基づくもの)<br />
<br />
上半期には前年の12月からその年の5月、下半期には6月から11月の間に発表された作品を対象とする。候補作の絞込みは[[日本文学振興会]]から委託される形で、文藝春秋社員20名で構成される選考スタッフによって行なわれる。選考スタッフは5人ずつ4つの班に別れ、各班に10日に1回ほどのペースで毎回3、4作ずつ作品が割り当てられる。スタッフは作品を読み、班会議でその班が推薦する作品を選ぶ。それから各班の推薦作品が持ち寄られて本会議を行いさらに作品を絞り込む。この班会議→本会議が6~7回ずつ、計12回~14回繰り返され、最終的に候補作5、6作を決定する。班会議、本会議ともにメンバーは各作品に○、△、×による採点をあらかじめ行い会議に臨む。<br />
<br />
最終候補作が決定した時点で、候補者に受賞の意志があるか確認を行い、最終候補作を発表する。選考会は上半期は7月中旬、下半期は1月中旬に[[築地]]の料亭・[[新喜楽]]1階の座敷で行なわれる。選考会の司会は『文藝春秋』編集長が務める。選考委員はやはりあらかじめ候補作を○、△、×による採点で評価しておき、各委員が評価を披露した上で審議が行なわれる。<br />
<br />
== 選考基準 ==<br />
=== 「新人」の基準 ===<br />
芥川賞は対象となる作家を「無名あるいは新進作家」としており、特に初期には「その作家が新人と言えるかどうか」が選考委員の間でしばしば議論となった。[[野間宏]]、[[中村真一郎]]、[[三島由紀夫]]など戦中の芥川賞中断期に登場した作家は既成作家と見なされてことごとく候補からはずされており、[[島木健作]]や[[田宮虎彦]]、後述する[[井上光晴]]のように候補に挙がっても「無名とはいえない」という理由で選考からはずされることもしばしば起こった。他方、第5回([[1937年]])に受賞した[[尾崎一雄]]は、受賞時すでに新人とは言えないキャリアを持っていたが、「一般的には埋もれている」(瀧井孝作)と見なされて受賞に至っている<ref>前掲 梅田康夫「芥川賞裏話」、『芥川賞の研究』133頁</ref>。第39回([[1957年]])に[[大江健三郎]]が受賞したときは、大江はまだ23歳の学生作家であったが、すでに本を何冊も出して有名作家となっていたことが議論の的となった<ref>前掲 梅田康夫「芥川賞裏話」、『芥川賞の研究』147頁</ref>。大江の受賞が決定した時には、選考委員の[[佐藤春夫]]は「芥川賞は今日以後新人の登竜門ではなく、新進の地位を安定させる底荷のような賞と合点した」と皮肉を述べている。<br />
<br />
現在ではデビューして数年経ち、他の文学賞を複数受賞しているような作家が芥川賞を受賞することも珍しくなくなっている。近年では[[阿部和重]]が、デビューして10年たち作家的地位も確立していた2004年に芥川賞を受賞し、「複雑な心境。新人に与えられる賞なので、手放しで喜んでいられない」とコメントした。<br />
<br />
=== 作品の長さ ===<br />
芥川賞は短編・中編作品を対象としており、長さに明確な規定があるわけではないが、概ね原稿用紙100枚から200枚程度の作品が候補に選ばれている。第1回の受賞者でありその後選考委員も務めた[[石川達三]]は対象となる作品の長さについて「せいぜい百五十枚までの短編」であるという見解を示したことがあるが、第51回([[1964年]])受賞の[[柴田翔]]「[[されどわれらが日々―]]」は150枚を大幅に超える280枚の作品であった<ref>前掲 梅田康夫「芥川賞裏話」、『芥川賞の研究』149頁</ref>。第50回([[1963年]])芥川賞で井上光晴が「地の群れ」で候補に上がったときは、すでに無名作家でない上、作品が長すぎるという理由で選考からはずされたが、選考委員の[[石川淳]]は「いずれの理由も納得できない」と怒りを表明している<ref>前掲 梅田康夫「芥川賞裏話」、『芥川賞の研究』146頁</ref>。またノーベル文学賞の候補となるなど国際的にも評価の高い[[村上春樹]]は芥川賞を受賞していないが、村上の場合は中篇作品で2度候補となった後、すぐに長編に移行したことが理由の一つに挙げられる<ref>「なぜ村上春樹は芥川賞をとれなかったのか?」『ダカーポ』2006年7月19日号、28頁-29頁</ref>。<br />
<br />
なお「作品の短さ」は、本になったときに読みやすく、また値段も安くなることから、直木賞に比べて作品の売り上げが伸びやすい理由となっている<ref>「データでみる芥川賞・直木賞」『ダカーポ』2006年7月19日号、18頁-19頁</ref>。<br />
<br />
=== 直木賞との境界 ===<br />
[[純文学]]の新人賞として設けられている芥川賞であるが、[[大衆小説|大衆文学]]の賞として設けられている[[直木三十五賞|直木賞]]との境界があいまいになることもしばしばある。第6回([[1937年]])直木賞には純文学の作家として名をなしていた[[井伏鱒二]]が受賞しており、直木賞選考委員の[[久米正雄]]は「純文学として書かれたものだが、このくらいの名文は当然大衆文学の世界に持ち込まれなくてはならぬ」と述べている<ref>橋爪健「芥川賞 文壇残酷物語」『小説新潮』1964年1・2月号初出、『芥川賞の研究』117頁-118頁</ref>。社会派推理作家の[[松本清張]]は「或る『小倉日記』伝」で[[1952年]]に芥川賞を取っており、これはもともと直木賞の候補となっていたものだったが、候補作の下読みをしていた永井龍男のアドヴァイスによって芥川賞に回されたものであった<ref>前掲 梅田康夫「芥川賞裏話」、『芥川賞の研究』140頁</ref>。第46回([[1961年]])の両賞では[[宇能鴻一郎]]が芥川賞を、[[伊藤桂一]]が直木賞をとり、このとき文芸評論家の[[平野謙]]は「芥川賞と直木賞が逆になったのではないかと錯覚する」と述べている<ref>前掲 梅田康夫「芥川賞裏話」、『芥川賞の研究』148頁</ref>。同様の事態は第111回([[1998年]])にも起こり、このときには私小説の作家であった[[車谷長吉]]が直木賞を、大衆文学の作家とみなされていた[[花村萬月]]、ハードボイルド調の作品を書いていた[[藤沢周]]が芥川賞を取ったことで話題となった。<br />
<br />
芥川賞に比べて、直木賞のほうはある程度キャリアのある作家を対象としていることもあり、[[檀一雄]]、[[柴田錬三郎]]、[[山田詠美]]、[[角田光代]]などのように、芥川賞の候補になりながらその後直木賞を受賞した作家もいる。1950年代までは、[[柴田錬三郎]]「デスマスク」(第25回・1951年)、[[北川荘平]]「水の壁」(第39回・1958年)など、芥川賞と直木賞の両方で候補に挙がった作品もあった。<br />
<br />
== 批判 ==<br />
<!-- 出典・参考文献に基づかない加筆を行なわないこと --><br />
<br />
賞のジャーナリスティックな性格はしばしば批判の的となるが、設立者の菊池自身は「むろん芥川賞・直木賞などは、半分は雑誌の宣伝にやっているのだ。そのことは最初から明言してある」(「話の屑籠」『文藝春秋』1935年10月号)とはっきりとその商業的な性格を認めている。菊池は賞に公的な性格を与えるため、1937年に財団法人[[日本文学振興会]]を創設し両賞をまかなわせるようになったが、同会の財源は文藝春秋の寄付に拠っており、役員も主に文藝春秋の関係者が就任している(事務所も文藝春秋社内)<ref>前掲 橋爪健「芥川賞 文壇残酷物語」、『芥川賞の研究』70頁</ref>。また設立当初には選考委員に選ばれている作家の偏りが批判されたが、これに対し菊池は「芥川賞の委員が偏しているという非難をした人があるが、あれはあれでいいと思う。芥川賞はある意味では、芥川の遺風をどことなくほのめかすような、少なくとも純芸術風な作品に与えられるのが当然である(中略)[[プロレタリア文学]]の傑作のためには、[[小林多喜二]]賞といったものが創設されてよいのである」(「話の屑籠」『文藝春秋』1935年2月号)という見方を示している。<br />
<br />
文学賞に対する批判本『[[文学賞メッタ斬り!]]』を著した[[大森望]]、[[豊崎由美]]は、現在の芥川賞の問題点として、選考委員が「終身制」で顔ぶれがほとんど変わらないこと、選考委員が必ずしも現在の文学に通じている人物ではないこと、選考委員の数が多すぎて無難な作品が受賞しがちなこと、受賞作が文藝春秋の雑誌である『文学界』掲載作品に偏りがちであることをなどを挙げている。また豊崎は改善策として、選考委員の任期を4年程度に定め、選考委員の三分の一は文芸評論家にするなどの案を示している<ref>「文学賞大国ニッポン―両賞の位置は?」『ダカーポ』2006年7月19日号、34頁-35頁</ref>。<br />
<br />
== 最年少・最年長受賞記録 ==<br />
特に若年での受賞や学生作家の受賞は大きな話題となる。最年少記録は、[[1966年]]の[[丸山健二]]の記録が40年近く破られていなかったが、[[2003年]]の[[綿矢りさ]]、[[金原ひとみ]]の同時受賞で大幅に更新された。<br />
{| class="wikitable"<br />
|+ 最年少受賞記録<br />
! 順位 !! 受賞者名 !! 受賞年 !! 受賞時の年齢<br />
|-<br />
! 1<br />
| [[綿矢りさ]] || 2004年(第130回) || 19歳11ヶ月<br />
|-<br />
! 2<br />
| [[金原ひとみ]] || 2004年(第130回) || 20歳5ヶ月<br />
|-<br />
! 3<br />
| [[丸山健二]] || 1967年(第56回) || 23歳0ヶ月<br />
|-<br />
! 4<br />
| [[石原慎太郎]] || 1956年(第34回) || 23歳3ヶ月<br />
|-<br />
! 5<br />
| [[大江健三郎]] || 1958年(第39回) || 23歳5ヶ月<br />
|-<br />
! 6<br />
| [[平野啓一郎]] || 1999年(第120回) || 23歳6ヶ月<br />
|-<br />
! 7<br />
| [[青山七恵]] || 2007年(第136回) || 23歳11ヶ月<br />
|-<br />
! 8<br />
| [[村上龍]] || 1976年(第75回) || 24歳4ヶ月<br />
|}<br />
<br />
{| class="wikitable"<br />
|+ 最年長受賞記録<br />
! 順位 !! 受賞者名 !! 受賞年 !! 受賞時の年齢<br />
|-<br />
! 1<br />
| [[森敦]] || 1974年(第70回) || 61歳11ヶ月<br />
|-<br />
! 2<br />
| [[三浦清宏]] || 1988年(第98回) || 57歳4ヶ月<br />
|-<br />
! 3<br />
| [[米谷ふみ子]] || 1986年(第94回) || 55歳2ヶ月<br />
|}<br />
<br />
== 歴代ベストセラー作品 ==<br />
ここでは現在までの累計発行部数が100万部を超える受賞作を解説する(作品名は単行本タイトル。発行部数は『ダカーポ』2006年7月19日号に基づくもので、『蹴りたい背中』を除いて単行本と文庫との総計。古い時代のものは正確な売り上げデータが残っておらず売り上げに計上されていないものもある)<br />
<br />
;[[安部公房]] 『[[壁 (小説)|壁]]』(第25回・[[1951年]])130万部<br />
:「戦後派」の代表的作家の一人安部公房の作品。『壁』は3部からなるが受賞作は第1部にあたる「壁―S・カルマ氏の犯罪」で、名前を失った男の奇譚を描くシュルレアリスム風の前衛的な作品であった。[[石川利光]]「春の草」との同時受賞で、こちらは対照的に古風な作品である。選考委員のなかでは[[川端康成]]、[[丹羽文雄]]、[[滝井孝作|瀧井孝作]]が強く推し、「退屈」として[[宇野浩二]]が反対したが、他の委員が前者に同調するかたちで受賞が決まった。<br />
;[[石原慎太郎]] 『[[太陽の季節]]』(第34回・[[1956年]])102万部<br />
:前述したように「太陽族」という新語とともにブームを巻き起こし、芥川賞の話題性を決定付けた作品である。裕福な家庭で育った若者の無軌道な生活を描いたもので、奔放な性描写が話題となった。選考では最終的に[[藤枝静男]]の「痩我慢の説」との対決となり、この2作に対し選考委員の意見が分かれた。委員のうち[[舟橋聖一]]、[[石川達三]]がそれぞれ欠点を指摘しつつも「太陽の季節」を終始積極的に支持、[[佐藤春夫]]、丹羽文雄、宇野浩二が強く反対し、最終的に瀧井孝作、川端康成、[[中村光夫]]、[[井上靖]]が前者に同調した。作者が弟の[[石原裕次郎]]から聞いた話が題材になっており、[[1956年]]に映画化され、裕次郎も脇役として出演、これが石原裕次郎のデビュー作となった。<br />
;[[大江健三郎]] 『死者の奢り・飼育』(第39回・[[1958年]])109万部<br />
:「飼育」が受賞作。大江は前年度の第38回にも「死者の奢り」で候補となっていたが、このときには[[開高健]]「裸の王様」が受賞。開高の受賞時丹羽文雄は「技巧の点では大江のほうが上だが、視野が狭くて落ちた。開高は作品に傷はあるけれども、故[[島木健作]]の持っていたシンの強さがあり、視野も広い」としている<ref>前掲 梅田康夫「芥川賞裏話」、『芥川賞の研究』146頁</ref>。「飼育」は大江の故郷である四国の村を舞台に、子供である「僕」と村人に捕らえられた黒人兵との関係を描いた作品で、当時の大江は[[ジャン=ポール・サルトル|サルトル]]の影響を強く受けた作風であった。「飼育」は選考委員の間で評価の高さは一致したものの、前述の通りすでに大江が有名作家となっていたことが議論の的となり、「今回は賞無しというのも少し淋しいかと思って」(瀧井孝作)というような意見から受賞が決定した。舟橋聖一は「死者の奢り」にこそ賞を出したかったという選評を行なっている。<br />
;[[柴田翔]] 『[[されどわれらが日々――]]』(第51回・[[1964年]])186万部<br />
:東京大学の学生を主人公に、当時の学生運動を背景にして描かれた青春小説。[[血のメーデー事件]]による革命への気分の高揚、[[日本共産党第6回全国協議会|六全協]]での挫折が物語の主軸となっており、当時の若者に広く読まれた。選考では前述のように280枚の長さが問題となったが、「他の候補作品にくらべて力倆は抜群」(石川達三)、「読み出すとスラスラ読めるので、却って、落ちた作の五十枚前後のほうが、読むのに骨が折れた」(丹羽文雄)といった意見から受賞が決定した。柴田はその後ドイツ文学者として活躍している。<br />
;[[庄司薫]] 『[[赤頭巾ちゃん気をつけて]]』(第61回・[[1969年]])160万部<br />
:[[安保闘争]]などの学生運動を背景に、[[東京都立日比谷高等学校|日比谷高等学校]]の男子生徒の一日を軽妙な文体で描いた作品。庄司は本名の福田章二としてデビューし、9年の沈黙を経て本作を発表した。「さようなら怪傑黒頭巾」などに続く4部作の第1作にあたり、作風にはサリンジャーなどのアメリカ文学からの影響が指摘されている。[[田久保英夫]]「深い河」との同時受賞。選考では[[三島由紀夫]]、[[石川淳]]らから激賞を受けている。<br />
;[[村上龍]] 『[[限りなく透明に近いブルー]]』(第75回・[[1976年]])354万部(単行本131万部、文庫223万部)<br />
:作者の実体験に基づき、米軍基地に近い町でドラッグとセックスに溺れる若者を[[LSD]]的な感覚で描いた作品。センセーショナルな内容が話題となり、歴代受賞作で最も売れた作品となった。選考では意見が真っ二つに分かれ、「因果なことに才能がある」と評した[[吉行淳之介]]のほか、丹羽文雄、[[中村光夫]]、井上靖が支持したが、永井龍男、瀧井孝作が強く反発。受賞後も[[江藤淳]]が酷評するなど論議を起こした。受賞作は村上自身の手により1979年に映画化されている。<br />
;[[池田満寿夫]] 『[[エーゲ海に捧ぐ]]』(第77回・[[1977年]])126万部<br />
:[[三田誠広]]『僕って何』との同時受賞。池田はすでに版画家として国際的な評価を得ていたため受賞は大きな話題となった。作品は池田自身を思わせる主人公がアメリカの撮影スタジオで、日本の妻と国際電話で会話しながら目の前のアメリカ人女性のヌードを観察する、というエロティシズムを全面的に押し出したもの。1979年に池田自身により映画化されている。選考では中村光夫から高い評価を受けたが、永井龍男は「空虚な痴態」「これは文学ではない」と授賞に抗議し、この作品と上記の村上の受賞を理由に選考委員を辞任している。<br />
;[[綿矢りさ]] 『[[蹴りたい背中]]』(第130回・[[2003年]])127万部(単行本のみ)<br />
:綿矢は17歳のときに『インストール』でデビュー、芥川賞受賞時は19歳で、20歳の金原ひとみと同時授賞し最年少記録を大幅に更新、単行本は『限りなく透明に近いブルー』以来28年ぶりのミリオンセラーとなった。受賞作は周囲に溶け込めない女子高生とアイドルおたくの男子生徒との交流を描いたもので、唯一反対した[[三浦哲郎]]を除く選考委員の票をすべて集め受賞が決定。「高校における異物排除のメカニズムを正確に書く技倆に感心した」([[池澤夏樹]])、「作者は作者の周辺に流行しているだろうコミック的観念遊びに足をとられず、小説のカタチで新しさを主張する愚にも陥らず、あくまで人間と人間関係を描こうとしている」([[高樹のぶ子]])と各選考委員から高評価を受けた。綿矢の受賞と前後してこの時期10代~20代前半の作家のデビューが相次ぎ、若年層の活躍を印象付けた。<br />
<br />
==太宰治の落選について==<br />
第1回芥川賞では、デビューしたばかりの[[太宰治]]も候補となった。太宰は当時[[パビナール]]中毒症に悩んでおり、薬品代の借金もあったため賞金500円を熱望していたが、結局受賞はしなかった。この時選考委員の一人だった[[川端康成]]は、太宰について「作者目下の生活に嫌な雲ありて、才能の素直に発せざる悩みがあった」と評していたが、これに対して太宰は強く憤り、『文藝通信』に「川端康成へ」と題する文章を掲載、「私は憤怒に燃えた。幾夜も寝苦しい思ひをした。小鳥を飼ひ、舞踏を見るのがそんなに立派な生活なのか。刺す、さうおもった。大悪党だと思った」と川端をなじった。これに対し川端も翌月の『文藝通信』で「太宰氏は委員会の様子など知らぬというかも知れない。知らないならば尚更根も葉もない妄想や邪推はせぬがよい」と反駁した。また太宰は選考委員のなかで太宰の理解者であった[[佐藤春夫]]に何度も嘆願の手紙を送り、第2回、第3回の候補になるべく『文藝春秋』に新作を送り続けたが、第3回以降しばらく「1度候補に挙がった者は以後候補としない」とする規定が設けられ、受賞の機会が奪われることとなった。佐藤はこれらの経緯を「小説 芥川賞」と題して詳しく描いている。<br />
<br />
==受賞作一覧==<br />
=== 第1回から第10回 ===<br />
選考委員:[[川端康成]]、[[佐藤春夫]]、[[滝井孝作|瀧井孝作]]、[[久米正雄]](直木賞兼任、第3回・第5回欠席)、[[佐佐木茂索]](直木賞兼任)、[[山本有三]](第2回まで)、[[小島政二郎]](第2回以降、直木賞兼任)、[[室生犀星]](第2回以降、第5回欠席)、[[菊池寛]](第3回のみ)、[[横光利一]](第4回以降)、[[宇野浩二]](第6回以降、第7、17-20回欠席)<br />
* 第1回([[1935年]]上半期) - [[石川達三]] 「[[蒼氓]]」、高見順 「 」<br />
* 第2回(1935年下半期) - 該当作品なし([[二・二六事件]]のため審査中止)<br />
* 第3回([[1936年]]上半期) - [[小田嶽夫]] 「城外」、[[鶴田知也]] 「コシャマイン記」<br />
* 第4回(1936年下半期) - [[石川淳]] 「普賢」、[[冨澤有爲男]] 「地中海」<br />
* 第5回([[1937年]]上半期) - [[尾崎一雄]] 「暢気眼鏡」他<br />
* 第6回(1937年下半期) - [[火野葦平]] 「糞尿譚」<br />
* 第7回([[1938年]]上半期) - [[中山義秀]] 「厚物咲」<br />
* 第8回(1938年下半期) - [[中里恒子]] 「乗合馬車」他<br />
* 第9回([[1939年]]上半期) - [[半田義之]] 「鶏騒動」、[[長谷健]] 「あさくさの子供」<br />
* 第10回(1939年下半期) - [[寒川光太郎]] 「密獵者」<br />
<br />
=== 第11回から第20回 ===<br />
選考委員:川端康成(第13回欠席)、佐藤春夫(第18回欠席)、瀧井孝作、久米正雄(第11回-第13回欠席、第16回まで)、佐佐木茂索(第11、15回欠席、第16回まで)、小島政二郎(第17回まで)、室生犀星(第17回まで)、横光利一(第11、12、14、17回欠席、第20回まで)、宇野浩二、[[片岡鉄兵]](第13回以降、第14回-第16回欠席、第19回まで)、[[白井喬二]](直木賞兼任、第13回のみ)、[[河上徹太郎]](第17回以降)、[[岸田國士|岸田国士]](第18回以降、第19回欠席)、[[火野葦平]](第18回以降)<br />
* 第11回([[1940年]]上半期) - [[高木卓]] 「歌と門の盾」(受賞辞退)<br />
* 第12回(1940年下半期) - [[櫻田常久]] 「平賀源内」<br />
* 第13回([[1941年]]上半期) - [[多田裕計]] 「長江デルタ」<br />
* 第14回(1941年下半期) - [[芝木好子]] 「青果の市」<br />
* 第15回([[1942年]]上半期) - 該当作品なし<br />
* 第16回(1942年下半期) - [[倉光俊夫]] 「連絡員」<br />
* 第17回([[1943年]]上半期) - [[石塚喜久三]] 「纏足の頃」<br />
* 第18回(1943年下半期) - [[東野辺薫|東野邊薫]] 「和紙」<br />
* 第19回([[1944年]]上半期) - [[八木義徳]] 「劉廣福」、[[小尾十三]] 「登攀」<br />
* 第20回(1944年下半期) - [[清水基吉]] 「雁立」<br />
<br />
=== 第21回から第30回 ===<br />
選考委員:川端康成、佐藤春夫、瀧井孝作、宇野浩二、岸田国士(第27、28回欠席、第30回まで)、[[石川達三]](第25回欠席)、[[坂口安吾]](第30回まで)、[[舟橋聖一]]、[[丹羽文雄]]<br />
* 第21回([[1949年]]上半期) - [[由起しげ子]] 「[[本の話]]」、[[小谷剛]] 「確証」<br />
* 第22回(1949年下半期) - [[井上靖]] 「[[闘牛 (小説)|闘牛]]」<br />
* 第23回([[1950年]]上半期) - [[辻亮一]] 「異邦人」<br />
* 第24回(1950年下半期) - 該当作品なし<br />
* 第25回([[1951年]]上半期) - [[安部公房]] 「[[壁 (小説)|壁 S・カルマ氏の犯罪]]」、[[石川利光 (作家)|石川利光]] 「春の草」他<br />
* 第26回(1951年下半期) - [[堀田善衛]] 「[[広場の孤独]]」「漢奸」その他<br />
* 第27回([[1952年]]上半期) - 該当作品なし<br />
* 第28回(1952年下半期) - [[五味康祐]] 「喪神」、[[松本清張]] 「[[或る「小倉日記」伝|或る『小倉日記』伝]]」<br />
* 第29回([[1953年]]上半期) - [[安岡章太郎]] 「悪い仲間・陰気な愉しみ」<br />
* 第30回(1953年下半期) - 該当作品なし<br />
<br />
=== 第31回から第40回 ===<br />
選考委員:川端康成、佐藤春夫(第36回欠席)、瀧井孝作、宇野浩二、岸田国士、石川達三、舟橋聖一、丹羽文雄、[[井上靖]](第32回以降)、[[中村光夫]](第34回以降)、[[井伏鱒二]](第39回以降)、[[永井龍男]](第39回以降、直木賞選考から異動)<br />
* 第31回([[1954年]]上半期) - [[吉行淳之介]] 「[[驟雨 (小説)|驟雨]]」その他<br />
* 第32回(1954年下半期) - [[小島信夫]] 「アメリカン・スクール」、[[庄野潤三]] 「プールサイド小景」<br />
* 第33回([[1955年]]上半期) - [[遠藤周作]]「[[白い人]]」<br />
* 第34回(1955年下半期) - [[石原慎太郎]] 「[[太陽の季節]]」<br />
* 第35回([[1956年]]上半期) - [[近藤啓太郎]] 「海人舟」<br />
* 第36回(1956年下半期) - 該当作品なし<br />
* 第37回([[1957年]]上半期) - [[菊村到]] 「[[硫黄島 (小説)|硫黄島]]」<br />
* 第38回(1957年下半期) - [[開高健]] 「[[裸の王様 (小説)|裸の王様]]」<br />
* 第39回([[1958年]]上半期) - [[大江健三郎]] 「[[飼育 (小説)|飼育]]」<br />
* 第40回(1958年下半期) - 該当作品なし<br />
<br />
=== 第41回から第50回 ===<br />
選考委員:川端康成(第43、46回欠席)、佐藤春夫(第46回まで)、瀧井孝作、宇野浩二(第45回まで)、石川達三、舟橋聖一、丹羽文雄、井上靖、中村光夫、井伏鱒二(第47回まで)、永井龍男、[[高見順]](第47回以降)、[[石川淳]](第47回以降)<br />
* 第41回([[1959年]]上半期) - [[斯波四郎]] 「山塔」<br />
* 第42回(1959年下半期) - 該当作品なし<br />
* 第43回([[1960年]]上半期) - [[北杜夫]] 「[[夜と霧の隅で]]」<br />
* 第44回(1960年下半期) - [[三浦哲郎 (作家)|三浦哲郎]] 「[[忍ぶ川]]」<br />
* 第45回([[1961年]]上半期) - 該当作品なし<br />
* 第46回(1961年下半期) - [[宇能鴻一郎]] 「鯨神」<br />
* 第47回([[1962年]]上半期) - [[川村晃]] 「美談の出発」<br />
* 第48回(1962年下半期) - 該当作品なし<br />
* 第49回([[1963年]]上半期) - [[後藤紀一]] 「少年の橋」、[[河野多惠子]] 「蟹」<br />
* 第50回(1963年下半期) - [[田辺聖子]] 「感傷旅行 センチメンタル・ジャーニィ」<br />
<br />
=== 第51回から第60回 ===<br />
選考委員:川端康成(第50、51回欠席)、瀧井孝作、石川達三、舟橋聖一、丹羽文雄、井上靖(第51、57回欠席)、中村光夫、永井龍男、高見順(第53回まで)、石川淳、[[大岡昇平]](第55回以降)、[[三島由紀夫]](第55回以降)<br />
* 第51回([[1964年]]上半期) - [[柴田翔]] 「されどわれらが日々──」<br />
* 第52回(1964年下半期) - 該当作品なし<br />
* 第53回([[1965年]]上半期) - [[津村節子]] 「[[玩具 (小説)|玩具]]」<br />
* 第54回(1965年下半期) - [[高井有一]] 「北の河」<br />
* 第55回([[1966年]]上半期) - 該当作品なし<br />
* 第56回(1966年下半期) - [[丸山健二]] 「夏の流れ」<br />
* 第57回([[1967年]]上半期) - [[大城立裕]] 「カクテル・パーティー」<br />
* 第58回(1967年下半期) - [[柏原兵三]] 「徳山道助の帰郷」<br />
* 第59回([[1968年]]上半期) - [[丸谷才一]] 「年の残り」、[[大庭みな子]] 「三匹の蟹」<br />
* 第60回(1968年下半期) - 該当作品なし<br />
<br />
=== 第61回から第70回 ===<br />
選考委員:川端康成(第64回まで)、瀧井孝作、石川達三(第65回まで)、丹羽文雄、舟橋聖一、井上靖、中村光夫、永井龍男、石川淳(第65回まで)、大岡昇平、三島由紀夫(第63回まで)、[[安岡章太郎]](第66回以降)、[[吉行淳之介]](第66回以降)<br />
* 第61回([[1969年]]上半期) - [[庄司薫]] 「[[赤頭巾ちゃん気をつけて]]」、[[田久保英夫]] 「深い河」<br />
* 第62回(1969年下半期) - [[清岡卓行]] 「[[アカシヤの大連]]」<br />
* 第63回([[1970年]]上半期) - [[吉田知子]] 「無明長夜」、[[古山高麗雄]] 「プレオー8の夜明け」<br />
* 第64回(1970年下半期) - [[古井由吉]] 「杳子」<br />
* 第65回([[1971年]]上半期) - 該当作品なし<br />
* 第66回(1971年下半期) - [[李恢成]] 「砧をうつ女」、[[東峰夫]] 「オキナワの少年」<br />
* 第67回([[1972年]]上半期) - [[畑山博]] 「いつか汽笛を鳴らして」、[[宮原昭夫]] 「誰かが触った」<br />
* 第68回(1972年下半期) - [[山本道子 (作家)|山本道子]] 「ベティさんの庭」、[[郷静子]] 「れくいえむ」<br />
* 第69回([[1973年]]上半期) - [[三木卓]] 「鶸」<br />
* 第70回(1973年下半期) - [[野呂邦暢]] 「草のつるぎ」、[[森敦]] 「[[月山 (小説)|月山]]」<br />
<br />
=== 第71回から第80回 ===<br />
選考委員:瀧井孝作、丹羽文雄、舟橋聖一(第73回まで)、井上靖、中村光夫、永井龍男(第77回まで)、大岡昇平(第73回まで)、安岡章太郎、吉行淳之介、[[遠藤周作]](第76回以降)、[[大江健三郎]](第76回以降)、[[開高健]](第39回以降)、[[丸谷才一]](第79回以降)<br />
* 第71回([[1974年]]上半期) - 該当作品なし<br />
* 第72回(1974年下半期) - [[日野啓三]] 「あの夕陽」、[[阪田寛夫]] 「土の器」<br />
* 第73回([[1975年]]上半期) - [[林京子]] 「祭りの場」<br />
* 第74回(1975年下半期) - [[中上健次]] 「[[岬 (小説)|岬]]」、[[岡松和夫]] 「志賀島」<br />
* 第75回([[1976年]]上半期) - [[村上龍]] 「[[限りなく透明に近いブルー]]」<br />
* 第76回(1976年下半期) - 該当作品なし<br />
* 第77回([[1977年]]上半期) - [[三田誠広]] 「僕って何」、[[池田満寿夫]] 「[[エーゲ海に捧ぐ]]」<br />
* 第78回(1977年下半期) - [[宮本輝]] 「[[螢川]]」、[[高城修三]] 「榧の木祭り」<br />
* 第79回([[1978年]]上半期) - [[高橋揆一郎]] 「伸予」、[[高橋三千綱]] 「九月の空」<br />
* 第80回(1978年下半期) - [[ 中沢けい]] 「海を感じる時」<br />
<br />
=== 第81回から第90回 ===<br />
選考委員:瀧井孝作(第86回まで)、丹羽文雄、井上靖(第89回まで)、中村光夫、安岡章太郎、吉行淳之介、遠藤周作、大江健三郎、開高健、丸谷才一<br />
* 第81回([[1979年]]上半期) - [[重兼芳子]] 「やまあいの煙」、[[青野聰]] 「愚者の夜」<br />
* 第82回(1979年下半期) - [[森禮子]] 「モッキングバードのいる町」<br />
* 第83回([[1980年]]上半期) - 該当作品なし<br />
* 第84回(1980年下半期) - [[赤瀬川原平|尾辻克彦]] 「父が消えた」<br />
* 第85回([[1981年]]上半期) - [[吉行理恵]] 「小さな貴婦人」<br />
* 第86回(1981年下半期) - 該当作品なし<br />
* 第87回([[1982年]]上半期) - 該当作品なし<br />
* 第88回(1982年下半期) - [[加藤幸子]] 「夢の壁」、[[唐十郎]] 「佐川君からの手紙」<br />
* 第89回([[1983年]]上半期) - 該当作品なし<br />
* 第90回(1983年下半期) - [[笠原淳]] 「杢二の世界」、[[高樹のぶ子]] 「[[光抱く友よ]]」<br />
<br />
=== 第91回から第100回 ===<br />
選考委員:丹羽文雄(第92回まで)、中村光夫(第94回まで)、安岡章太郎(第95回まで)、吉行淳之介、遠藤周作(第95回まで)、大江健三郎(第91回まで)、開高健(第91、97、99回欠席)、丸谷才一(第93回まで)、[[三浦哲郎]](第94回以降)、[[田久保英夫]](第94回以降)、[[水上勉]](直木賞選考委員より異動、第100回まで)、[[古井由吉]](第94回以降)、[[大庭みな子]](第97回以降)、[[河野多惠子|河野多恵子]](第97回以降)、[[黒井千次]](第97回以降)、[[日野啓三]](第97回以降)<br />
* 第91回([[1984年]]上半期) - 該当作品なし<br />
* 第92回(1984年下半期) - [[木崎さと子]] 「青桐」<br />
* 第93回([[1985年]]上半期) - 該当作品なし<br />
* 第94回(1985年下半期) - [[米谷ふみ子]] 「過越しの祭」<br />
* 第95回([[1986年]]上半期) - 該当作品なし<br />
* 第96回(1986年下半期) - 該当作品なし<br />
* 第97回([[1987年]]上半期) - [[村田喜代子]] 「鍋の中」<br />
* 第98回(1987年下半期) - [[池澤夏樹]] 「スティル・ライフ」、[[三浦清宏]] 「長男の出家」<br />
* 第99回([[1988年]]上半期) - [[新井満]] 「尋ね人の時間」<br />
* 第100回(1988年下半期) - [[南木佳士]] 「ダイヤモンドダスト」、[[李良枝]] 「由煕」<br />
<br />
=== 第101回から第110回 ===<br />
選考委員:吉行淳之介(第110回まで)、開高健(第101回まで)、大江健三郎(第102回より復帰)、丸谷才一(第102回より復帰)、三浦哲郎(第109回欠席)、田久保英夫、古井由吉、大庭みな子、河野多恵子、黒井千次、日野啓三<br />
* 第101回([[1989年]]上半期) - 該当作品なし<br />
* 第102回(1989年下半期) - [[大岡玲]] 「表層生活」、[[瀧澤美恵子]] 「ネコババのいる町で」<br />
* 第103回([[1990年]]上半期) - [[辻原登]] 「村の名前」<br />
* 第104回(1990年下半期) - [[小川洋子]] 「[[妊娠カレンダー]]」<br />
* 第105回([[1991年]]上半期) - [[辺見庸]] 「自動起床装置」、[[荻野アンナ]] 「背負い水」<br />
* 第106回(1991年下半期) - [[松村栄子]] 「至高聖所アバトーン」<br />
* 第107回([[1992年]]上半期) - [[藤原智美]] 「運転士」<br />
* 第108回(1992年下半期) - [[多和田葉子]] 「犬婿入り」<br />
* 第109回([[1993年]]上半期) - [[吉目木晴彦]] 「寂寥郊野」<br />
* 第110回(1993年下半期) - [[奥泉光]] 「石の来歴」<br />
<br />
=== 第111回から第120回 ===<br />
選考委員:大江健三郎(第114回まで)、丸谷才一(第118回まで)、三浦哲郎(第117回欠席)、田久保英夫、古井由吉、大庭みな子(第115回まで)、河野多恵子、黒井千次、日野啓三、[[石原慎太郎]](第114回以降)、[[池澤夏樹]](第114回以降)、[[宮本輝]](第114回以降)<br />
* 第111回([[1994年]]上半期) - [[室井光広]] 「おどるでく」、[[笙野頼子]] 「タイムスリップ・コンビナート」<br />
* 第112回(1994年下半期) - 該当作品なし<br />
* 第113回([[1995年]]上半期) - [[保坂和志]] 「この人の閾」<br />
* 第114回(1995年下半期) - [[又吉栄喜]] 「豚の報い」<br />
* 第115回([[1996年]]上半期) - [[川上弘美]] 「蛇を踏む」<br />
* 第116回(1996年下半期) - [[辻仁成]] 「海峡の光」、[[柳美里]] 「家族シネマ」<br />
* 第117回([[1997年]]上半期) - [[目取真俊]] 「水滴」<br />
* 第118回(1997年下半期) - 該当作品なし<br />
* 第119回([[1998年]]上半期) - [[花村萬月]] 「[[ゲルマニウムの夜]]」、[[藤沢周]] 「[[ブエノスアイレス午前零時]]」<br />
* 第120回(1998年下半期) - [[平野啓一郎]] 「[[日蝕]]」<br />
<br />
=== 第121回から第130回 ===<br />
選考委員:三浦哲郎(第130回まで)、田久保英夫(第124回まで)、古井由吉、河野多恵子、黒井千次、日野啓三(第122回欠席、第126回まで)、石原慎太郎、池澤夏樹、宮本輝、[[村上龍]](第123回以降)、[[高樹のぶ子]](第126回以降)、[[山田詠美]](第129回以降)<br />
* 第121回([[1999年]]上半期) - 該当作品なし<br />
* 第122回(1999年下半期) - [[玄月]] 「蔭の棲みか」、[[藤野千夜]] 「夏の約束」<br />
* 第123回([[2000年]]上半期) - [[町田康]] 「きれぎれ」、[[松浦寿輝]] 「花腐し」<br />
* 第124回(2000年下半期) - [[青来有一]] 「聖水」、[[堀江敏幸]] 「熊の敷石」<br />
* 第125回([[2001年]]上半期) - [[玄侑宗久]] 「中陰の花」<br />
* 第126回(2001年下半期) - [[長嶋有]] 「猛スピードで母は」<br />
* 第127回([[2002年]]上半期) - [[吉田修一]] 「パーク・ライフ」<br />
* 第128回(2002年下半期) - [[大道珠貴]] 「しょっぱいドライブ」<br />
* 第129回([[2003年]]上半期) - [[吉村萬壱]] 「ハリガネムシ」<br />
* [[第130回芥川龍之介賞|第130回]](2003年下半期) - [[金原ひとみ]] 「[[蛇にピアス]]」、[[綿矢りさ]] 「[[蹴りたい背中]]」<br />
<br />
=== 第131回から ===<br />
選考委員:古井由吉(第132回まで)、河野多恵子(第136回まで)、黒井千次、石原慎太郎、池澤夏樹、宮本輝、村上龍、高樹のぶ子、山田詠美、[[川上弘美]](第137回以降)、[[小川洋子]](第137回以降)<br />
* 第131回([[2004年]]上半期) - [[モブ・ノリオ]] 「介護入門」<br />
* 第132回([[2004年]]下半期) - [[阿部和重]] 「グランド・フィナーレ」<br />
* 第133回([[2005年]]上半期) - [[中村文則]] 「土の中の子供」<br />
* 第134回([[2005年]]下半期) - [[絲山秋子]] 「[[沖で待つ]]」<br />
* 第135回([[2006年]]上半期) - [[伊藤たかみ]] 「八月の路上に捨てる」<br />
* 第136回([[2006年]]下半期) - [[青山七恵]] 「ひとり日和」<br />
* 第137回([[2007年]]上半期) - [[諏訪哲史]] 「[[アサッテの人]]」<br />
* 第138回([[2007年]]下半期) - [[川上未映子]] 「[[乳と卵]]」<br />
* 第139回([[2008年]]上半期) - [[楊逸]] 「[[時が滲む朝]]」<br />
<br />
== 参考文献 ==<br />
選評は『芥川賞全集』に収録されている。<br />
* 永井龍男ほか『芥川賞の研究』みき書房、1979年<br />
* 永井龍男『回想の芥川・直木賞』文藝春秋、1979年<br />
* 『芥川賞全集』文藝春秋、1982年-<br />
* 『ダカーポ』2006年7月19日号「特集・芥川賞、直木賞を徹底的に楽しむ」マガジンハウス<br />
* 大森望、豊崎由美『文学賞メッタ斬り!』シリーズ、PARCO出版、2004年- <br />
<br />
== 脚注、出典 ==<br />
<references/><br />
<br />
== 関連項目 ==<br />
いずれも出版社の主宰する非公募の純文学新人賞。<br />
* [[三島由紀夫賞]](新潮社)<br />
* [[野間文芸新人賞]](講談社)<br />
<br />
== 外部リンク ==<br />
*[http://www.bunshun.co.jp/award/akutagawa/list1.htm 各賞紹介 - 芥川賞 - (文藝春秋)]<br />
<br />
[[Category:芥川龍之介賞|*]]<br />
[[Category:文学の賞|あくたかわりゆうのすけしよう]]<br />
{{Wikipedia/Ja}}</div>
Chobichobi
http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E8%8A%A5%E5%B7%9D%E9%BE%8D%E4%B9%8B%E4%BB%8B%E8%B3%9E&diff=371985
芥川龍之介賞
2019-10-11T21:43:33Z
<p>Chobichobi: /* 第71回から第80回 */</p>
<hr />
<div>{{文学}}<br />
'''芥川龍之介賞'''(あくたがわりゅうのすけしょう)は、[[純文学]]の新人に与えられる[[文学賞]]。通称は'''芥川賞'''。[[文藝春秋]]社内の[[日本文学振興会]]によって選考、授賞される。<br />
<br />
[[大正|大正時代]]を代表する小説家の一人[[芥川龍之介]]の業績を記念して、友人であった[[菊池寛]]が[[1935年]]に[[直木三十五賞|直木賞]]とともに創設し、以降年2回発表される。[[第二次世界大戦]]中の[[1945年]]から一時中断したが[[1949年]]に復活した。新人作家による発表済みの短編・中編作品が対象となり、選考委員の合議によって受賞作が決定される。受賞者には正賞として懐中時計、副賞として100万円(2008年現在)が授与され、受賞作は『[[文藝春秋 (雑誌)|文藝春秋]]』に掲載される。<br />
<br />
2007年現在の選考委員は[[池澤夏樹]]、[[石原慎太郎]]、[[小川洋子]]、[[川上弘美]]、[[黒井千次]]、[[高樹のぶ子]]、[[宮本輝]]、[[村上龍]]、[[山田詠美]]の9名。選考会は、[[料亭]]『[[新喜楽]]』の1階で行われる(直木賞選考会は2階)。受賞者の記者会見と、その一ヵ月後の授賞式はともに[[東京會舘]]で行なわれる。<br />
<br />
== 成立 ==<br />
[[画像:Akutagawa Ryunosuke photo.jpg|thumb|right|芥川龍之介]]<br />
[[1934年]]、[[菊池寛]]は『[[文藝春秋 (雑誌)|文藝春秋]]』4月号(直木三十五追悼号)に掲載された連載コラム「話の屑籠」にて、この年の2月に死去した[[直木三十五]]、1927年に死去した[[芥川龍之介]]の名を冠した新人賞の構想を「まだ定まってはいない」としつつ明らかにした。[[1924年]]に菊池が『文藝春秋』を創刊して以来、芥川は毎号巻頭に「侏儒の言葉」を掲載し、直木もまた文壇ゴシップを寄せるなどして『文藝春秋』の発展に大きく寄与しており、両賞の設立は菊池のこれらの友人に対する思いに端を発している。また『[[文學界|文学界]]』の編集者であった[[川崎竹一]]の回想によれば、1934年に文藝春秋社が発行していた『文藝通信』において川崎が[[ゴンクール賞]]や[[ノーベル賞]]など海外の文学賞を紹介したついでに、日本でも権威のある文学賞を設立するべきだ、と書いた文章を菊池が読んだことも動機となっている<ref>梅田康夫「芥川賞裏話」『創』1977年3月号初出、『芥川賞の研究』124頁-125頁</ref>。このとき菊池は川崎に、文藝春秋社内ですぐに準備委員会および選考委員会を作るよう要請し、川崎や[[永井龍男]]らによって準備が進められた。同年中、『文藝春秋』1935年1月号において「芥川・直木賞宣言」が発表され、正式に両賞が設立された。設立当時から賞牌として懐中時計が贈られるとされており、当時の副賞は500円であった。芥川賞選考委員は芥川と親交があり、また文藝春秋とも関わりの深い作家として[[川端康成]]、[[佐藤春夫]]、[[山本有三]]、[[滝井孝作|瀧井孝作]]ら11名があたることになった。<br />
<br />
芥川賞・直木賞は今でこそジャーナリズムに大きく取り上げられる賞となっているが、設立当初は菊池が考えたほどには耳目を集めず、1935年の「話の屑籠」で菊池は「新聞などは、もっと大きく扱ってくれてもいいと思う」と不平をこぼしている<ref>永井龍男、佐佐木茂作「芥川賞の生まれるまで(対談)」『文学界』1959年3月号初出、『芥川賞の研究』10頁-11頁</ref>。[[1954年]]に受賞した[[吉行淳之介]]は、自身の受賞当時の芥川賞について「社会的話題にはならず、受賞者がにわかに忙しくなることはなかった」と述べており<ref>前掲 梅田康夫「芥川賞裏話」、『芥川賞の研究』143頁</ref>、[[1955年]]に受賞した[[遠藤周作]]も、当時は「ショウではなくてほんとに賞だった」と話題性の低さを言い表している<ref>遠藤周作、開高健「対談 芥川賞」『文学界』1963年9月号初出、『芥川賞の研究』158-159頁</ref>。遠藤によれば、授賞式も新聞関係と文藝春秋社内の人間が10人ほど集まるだけのごく小規模なものだったという。転機となったのは[[1956年]]の[[石原慎太郎]]「[[太陽の季節]]」の受賞である。作品のセンセーショナルな内容や、学生作家であったことなどから大きな話題を呼び、受賞作がベストセラーとなっただけでなく、「太陽族」という新語が生まれ、石原の髪型を真似た「慎太郎カット」が流行するなど「慎太郎ブーム」と呼ばれる社会現象を巻き起こした<ref>前掲 梅田康夫「芥川賞裏話」、『芥川賞の研究』143頁</ref>。これ以降芥川賞・直木賞はジャーナリズムに大きく取り上げられる賞となり、[[1957年]]に[[開高健]]、[[1958年]]に[[大江健三郎]]が受賞した頃には、新聞社だけでなくテレビ、ラジオ局からも取材が押し寄せ、また新作の掲載権をめぐって雑誌社が争うほどになっていた<ref>前掲 梅田康夫「芥川賞裏話」、『芥川賞の研究』146頁</ref>。今日においても話題性の高さは変わらず、特に受賞者が学生作家であるような場合にはジャーナリズムに大きく取り上げられ、受賞作はしばしばベストセラーとなっている。<br />
<br />
== 選考過程 ==<br />
(以下は『ダカーポ』2006年7月19日号掲載の「芥川賞・直木賞はこうして決定する」による。これは日本文学振興会スタッフ菊池夏樹への取材に基づくもの)<br />
<br />
上半期には前年の12月からその年の5月、下半期には6月から11月の間に発表された作品を対象とする。候補作の絞込みは[[日本文学振興会]]から委託される形で、文藝春秋社員20名で構成される選考スタッフによって行なわれる。選考スタッフは5人ずつ4つの班に別れ、各班に10日に1回ほどのペースで毎回3、4作ずつ作品が割り当てられる。スタッフは作品を読み、班会議でその班が推薦する作品を選ぶ。それから各班の推薦作品が持ち寄られて本会議を行いさらに作品を絞り込む。この班会議→本会議が6~7回ずつ、計12回~14回繰り返され、最終的に候補作5、6作を決定する。班会議、本会議ともにメンバーは各作品に○、△、×による採点をあらかじめ行い会議に臨む。<br />
<br />
最終候補作が決定した時点で、候補者に受賞の意志があるか確認を行い、最終候補作を発表する。選考会は上半期は7月中旬、下半期は1月中旬に[[築地]]の料亭・[[新喜楽]]1階の座敷で行なわれる。選考会の司会は『文藝春秋』編集長が務める。選考委員はやはりあらかじめ候補作を○、△、×による採点で評価しておき、各委員が評価を披露した上で審議が行なわれる。<br />
<br />
== 選考基準 ==<br />
=== 「新人」の基準 ===<br />
芥川賞は対象となる作家を「無名あるいは新進作家」としており、特に初期には「その作家が新人と言えるかどうか」が選考委員の間でしばしば議論となった。[[野間宏]]、[[中村真一郎]]、[[三島由紀夫]]など戦中の芥川賞中断期に登場した作家は既成作家と見なされてことごとく候補からはずされており、[[島木健作]]や[[田宮虎彦]]、後述する[[井上光晴]]のように候補に挙がっても「無名とはいえない」という理由で選考からはずされることもしばしば起こった。他方、第5回([[1937年]])に受賞した[[尾崎一雄]]は、受賞時すでに新人とは言えないキャリアを持っていたが、「一般的には埋もれている」(瀧井孝作)と見なされて受賞に至っている<ref>前掲 梅田康夫「芥川賞裏話」、『芥川賞の研究』133頁</ref>。第39回([[1957年]])に[[大江健三郎]]が受賞したときは、大江はまだ23歳の学生作家であったが、すでに本を何冊も出して有名作家となっていたことが議論の的となった<ref>前掲 梅田康夫「芥川賞裏話」、『芥川賞の研究』147頁</ref>。大江の受賞が決定した時には、選考委員の[[佐藤春夫]]は「芥川賞は今日以後新人の登竜門ではなく、新進の地位を安定させる底荷のような賞と合点した」と皮肉を述べている。<br />
<br />
現在ではデビューして数年経ち、他の文学賞を複数受賞しているような作家が芥川賞を受賞することも珍しくなくなっている。近年では[[阿部和重]]が、デビューして10年たち作家的地位も確立していた2004年に芥川賞を受賞し、「複雑な心境。新人に与えられる賞なので、手放しで喜んでいられない」とコメントした。<br />
<br />
=== 作品の長さ ===<br />
芥川賞は短編・中編作品を対象としており、長さに明確な規定があるわけではないが、概ね原稿用紙100枚から200枚程度の作品が候補に選ばれている。第1回の受賞者でありその後選考委員も務めた[[石川達三]]は対象となる作品の長さについて「せいぜい百五十枚までの短編」であるという見解を示したことがあるが、第51回([[1964年]])受賞の[[柴田翔]]「[[されどわれらが日々―]]」は150枚を大幅に超える280枚の作品であった<ref>前掲 梅田康夫「芥川賞裏話」、『芥川賞の研究』149頁</ref>。第50回([[1963年]])芥川賞で井上光晴が「地の群れ」で候補に上がったときは、すでに無名作家でない上、作品が長すぎるという理由で選考からはずされたが、選考委員の[[石川淳]]は「いずれの理由も納得できない」と怒りを表明している<ref>前掲 梅田康夫「芥川賞裏話」、『芥川賞の研究』146頁</ref>。またノーベル文学賞の候補となるなど国際的にも評価の高い[[村上春樹]]は芥川賞を受賞していないが、村上の場合は中篇作品で2度候補となった後、すぐに長編に移行したことが理由の一つに挙げられる<ref>「なぜ村上春樹は芥川賞をとれなかったのか?」『ダカーポ』2006年7月19日号、28頁-29頁</ref>。<br />
<br />
なお「作品の短さ」は、本になったときに読みやすく、また値段も安くなることから、直木賞に比べて作品の売り上げが伸びやすい理由となっている<ref>「データでみる芥川賞・直木賞」『ダカーポ』2006年7月19日号、18頁-19頁</ref>。<br />
<br />
=== 直木賞との境界 ===<br />
[[純文学]]の新人賞として設けられている芥川賞であるが、[[大衆小説|大衆文学]]の賞として設けられている[[直木三十五賞|直木賞]]との境界があいまいになることもしばしばある。第6回([[1937年]])直木賞には純文学の作家として名をなしていた[[井伏鱒二]]が受賞しており、直木賞選考委員の[[久米正雄]]は「純文学として書かれたものだが、このくらいの名文は当然大衆文学の世界に持ち込まれなくてはならぬ」と述べている<ref>橋爪健「芥川賞 文壇残酷物語」『小説新潮』1964年1・2月号初出、『芥川賞の研究』117頁-118頁</ref>。社会派推理作家の[[松本清張]]は「或る『小倉日記』伝」で[[1952年]]に芥川賞を取っており、これはもともと直木賞の候補となっていたものだったが、候補作の下読みをしていた永井龍男のアドヴァイスによって芥川賞に回されたものであった<ref>前掲 梅田康夫「芥川賞裏話」、『芥川賞の研究』140頁</ref>。第46回([[1961年]])の両賞では[[宇能鴻一郎]]が芥川賞を、[[伊藤桂一]]が直木賞をとり、このとき文芸評論家の[[平野謙]]は「芥川賞と直木賞が逆になったのではないかと錯覚する」と述べている<ref>前掲 梅田康夫「芥川賞裏話」、『芥川賞の研究』148頁</ref>。同様の事態は第111回([[1998年]])にも起こり、このときには私小説の作家であった[[車谷長吉]]が直木賞を、大衆文学の作家とみなされていた[[花村萬月]]、ハードボイルド調の作品を書いていた[[藤沢周]]が芥川賞を取ったことで話題となった。<br />
<br />
芥川賞に比べて、直木賞のほうはある程度キャリアのある作家を対象としていることもあり、[[檀一雄]]、[[柴田錬三郎]]、[[山田詠美]]、[[角田光代]]などのように、芥川賞の候補になりながらその後直木賞を受賞した作家もいる。1950年代までは、[[柴田錬三郎]]「デスマスク」(第25回・1951年)、[[北川荘平]]「水の壁」(第39回・1958年)など、芥川賞と直木賞の両方で候補に挙がった作品もあった。<br />
<br />
== 批判 ==<br />
<!-- 出典・参考文献に基づかない加筆を行なわないこと --><br />
<br />
賞のジャーナリスティックな性格はしばしば批判の的となるが、設立者の菊池自身は「むろん芥川賞・直木賞などは、半分は雑誌の宣伝にやっているのだ。そのことは最初から明言してある」(「話の屑籠」『文藝春秋』1935年10月号)とはっきりとその商業的な性格を認めている。菊池は賞に公的な性格を与えるため、1937年に財団法人[[日本文学振興会]]を創設し両賞をまかなわせるようになったが、同会の財源は文藝春秋の寄付に拠っており、役員も主に文藝春秋の関係者が就任している(事務所も文藝春秋社内)<ref>前掲 橋爪健「芥川賞 文壇残酷物語」、『芥川賞の研究』70頁</ref>。また設立当初には選考委員に選ばれている作家の偏りが批判されたが、これに対し菊池は「芥川賞の委員が偏しているという非難をした人があるが、あれはあれでいいと思う。芥川賞はある意味では、芥川の遺風をどことなくほのめかすような、少なくとも純芸術風な作品に与えられるのが当然である(中略)[[プロレタリア文学]]の傑作のためには、[[小林多喜二]]賞といったものが創設されてよいのである」(「話の屑籠」『文藝春秋』1935年2月号)という見方を示している。<br />
<br />
文学賞に対する批判本『[[文学賞メッタ斬り!]]』を著した[[大森望]]、[[豊崎由美]]は、現在の芥川賞の問題点として、選考委員が「終身制」で顔ぶれがほとんど変わらないこと、選考委員が必ずしも現在の文学に通じている人物ではないこと、選考委員の数が多すぎて無難な作品が受賞しがちなこと、受賞作が文藝春秋の雑誌である『文学界』掲載作品に偏りがちであることをなどを挙げている。また豊崎は改善策として、選考委員の任期を4年程度に定め、選考委員の三分の一は文芸評論家にするなどの案を示している<ref>「文学賞大国ニッポン―両賞の位置は?」『ダカーポ』2006年7月19日号、34頁-35頁</ref>。<br />
<br />
== 最年少・最年長受賞記録 ==<br />
特に若年での受賞や学生作家の受賞は大きな話題となる。最年少記録は、[[1966年]]の[[丸山健二]]の記録が40年近く破られていなかったが、[[2003年]]の[[綿矢りさ]]、[[金原ひとみ]]の同時受賞で大幅に更新された。<br />
{| class="wikitable"<br />
|+ 最年少受賞記録<br />
! 順位 !! 受賞者名 !! 受賞年 !! 受賞時の年齢<br />
|-<br />
! 1<br />
| [[綿矢りさ]] || 2004年(第130回) || 19歳11ヶ月<br />
|-<br />
! 2<br />
| [[金原ひとみ]] || 2004年(第130回) || 20歳5ヶ月<br />
|-<br />
! 3<br />
| [[丸山健二]] || 1967年(第56回) || 23歳0ヶ月<br />
|-<br />
! 4<br />
| [[石原慎太郎]] || 1956年(第34回) || 23歳3ヶ月<br />
|-<br />
! 5<br />
| [[大江健三郎]] || 1958年(第39回) || 23歳5ヶ月<br />
|-<br />
! 6<br />
| [[平野啓一郎]] || 1999年(第120回) || 23歳6ヶ月<br />
|-<br />
! 7<br />
| [[青山七恵]] || 2007年(第136回) || 23歳11ヶ月<br />
|-<br />
! 8<br />
| [[村上龍]] || 1976年(第75回) || 24歳4ヶ月<br />
|}<br />
<br />
{| class="wikitable"<br />
|+ 最年長受賞記録<br />
! 順位 !! 受賞者名 !! 受賞年 !! 受賞時の年齢<br />
|-<br />
! 1<br />
| [[森敦]] || 1974年(第70回) || 61歳11ヶ月<br />
|-<br />
! 2<br />
| [[三浦清宏]] || 1988年(第98回) || 57歳4ヶ月<br />
|-<br />
! 3<br />
| [[米谷ふみ子]] || 1986年(第94回) || 55歳2ヶ月<br />
|}<br />
<br />
== 歴代ベストセラー作品 ==<br />
ここでは現在までの累計発行部数が100万部を超える受賞作を解説する(作品名は単行本タイトル。発行部数は『ダカーポ』2006年7月19日号に基づくもので、『蹴りたい背中』を除いて単行本と文庫との総計。古い時代のものは正確な売り上げデータが残っておらず売り上げに計上されていないものもある)<br />
<br />
;[[安部公房]] 『[[壁 (小説)|壁]]』(第25回・[[1951年]])130万部<br />
:「戦後派」の代表的作家の一人安部公房の作品。『壁』は3部からなるが受賞作は第1部にあたる「壁―S・カルマ氏の犯罪」で、名前を失った男の奇譚を描くシュルレアリスム風の前衛的な作品であった。[[石川利光]]「春の草」との同時受賞で、こちらは対照的に古風な作品である。選考委員のなかでは[[川端康成]]、[[丹羽文雄]]、[[滝井孝作|瀧井孝作]]が強く推し、「退屈」として[[宇野浩二]]が反対したが、他の委員が前者に同調するかたちで受賞が決まった。<br />
;[[石原慎太郎]] 『[[太陽の季節]]』(第34回・[[1956年]])102万部<br />
:前述したように「太陽族」という新語とともにブームを巻き起こし、芥川賞の話題性を決定付けた作品である。裕福な家庭で育った若者の無軌道な生活を描いたもので、奔放な性描写が話題となった。選考では最終的に[[藤枝静男]]の「痩我慢の説」との対決となり、この2作に対し選考委員の意見が分かれた。委員のうち[[舟橋聖一]]、[[石川達三]]がそれぞれ欠点を指摘しつつも「太陽の季節」を終始積極的に支持、[[佐藤春夫]]、丹羽文雄、宇野浩二が強く反対し、最終的に瀧井孝作、川端康成、[[中村光夫]]、[[井上靖]]が前者に同調した。作者が弟の[[石原裕次郎]]から聞いた話が題材になっており、[[1956年]]に映画化され、裕次郎も脇役として出演、これが石原裕次郎のデビュー作となった。<br />
;[[大江健三郎]] 『死者の奢り・飼育』(第39回・[[1958年]])109万部<br />
:「飼育」が受賞作。大江は前年度の第38回にも「死者の奢り」で候補となっていたが、このときには[[開高健]]「裸の王様」が受賞。開高の受賞時丹羽文雄は「技巧の点では大江のほうが上だが、視野が狭くて落ちた。開高は作品に傷はあるけれども、故[[島木健作]]の持っていたシンの強さがあり、視野も広い」としている<ref>前掲 梅田康夫「芥川賞裏話」、『芥川賞の研究』146頁</ref>。「飼育」は大江の故郷である四国の村を舞台に、子供である「僕」と村人に捕らえられた黒人兵との関係を描いた作品で、当時の大江は[[ジャン=ポール・サルトル|サルトル]]の影響を強く受けた作風であった。「飼育」は選考委員の間で評価の高さは一致したものの、前述の通りすでに大江が有名作家となっていたことが議論の的となり、「今回は賞無しというのも少し淋しいかと思って」(瀧井孝作)というような意見から受賞が決定した。舟橋聖一は「死者の奢り」にこそ賞を出したかったという選評を行なっている。<br />
;[[柴田翔]] 『[[されどわれらが日々――]]』(第51回・[[1964年]])186万部<br />
:東京大学の学生を主人公に、当時の学生運動を背景にして描かれた青春小説。[[血のメーデー事件]]による革命への気分の高揚、[[日本共産党第6回全国協議会|六全協]]での挫折が物語の主軸となっており、当時の若者に広く読まれた。選考では前述のように280枚の長さが問題となったが、「他の候補作品にくらべて力倆は抜群」(石川達三)、「読み出すとスラスラ読めるので、却って、落ちた作の五十枚前後のほうが、読むのに骨が折れた」(丹羽文雄)といった意見から受賞が決定した。柴田はその後ドイツ文学者として活躍している。<br />
;[[庄司薫]] 『[[赤頭巾ちゃん気をつけて]]』(第61回・[[1969年]])160万部<br />
:[[安保闘争]]などの学生運動を背景に、[[東京都立日比谷高等学校|日比谷高等学校]]の男子生徒の一日を軽妙な文体で描いた作品。庄司は本名の福田章二としてデビューし、9年の沈黙を経て本作を発表した。「さようなら怪傑黒頭巾」などに続く4部作の第1作にあたり、作風にはサリンジャーなどのアメリカ文学からの影響が指摘されている。[[田久保英夫]]「深い河」との同時受賞。選考では[[三島由紀夫]]、[[石川淳]]らから激賞を受けている。<br />
;[[村上龍]] 『[[限りなく透明に近いブルー]]』(第75回・[[1976年]])354万部(単行本131万部、文庫223万部)<br />
:作者の実体験に基づき、米軍基地に近い町でドラッグとセックスに溺れる若者を[[LSD]]的な感覚で描いた作品。センセーショナルな内容が話題となり、歴代受賞作で最も売れた作品となった。選考では意見が真っ二つに分かれ、「因果なことに才能がある」と評した[[吉行淳之介]]のほか、丹羽文雄、[[中村光夫]]、井上靖が支持したが、永井龍男、瀧井孝作が強く反発。受賞後も[[江藤淳]]が酷評するなど論議を起こした。受賞作は村上自身の手により1979年に映画化されている。<br />
;[[池田満寿夫]] 『[[エーゲ海に捧ぐ]]』(第77回・[[1977年]])126万部<br />
:[[三田誠広]]『僕って何』との同時受賞。池田はすでに版画家として国際的な評価を得ていたため受賞は大きな話題となった。作品は池田自身を思わせる主人公がアメリカの撮影スタジオで、日本の妻と国際電話で会話しながら目の前のアメリカ人女性のヌードを観察する、というエロティシズムを全面的に押し出したもの。1979年に池田自身により映画化されている。選考では中村光夫から高い評価を受けたが、永井龍男は「空虚な痴態」「これは文学ではない」と授賞に抗議し、この作品と上記の村上の受賞を理由に選考委員を辞任している。<br />
;[[綿矢りさ]] 『[[蹴りたい背中]]』(第130回・[[2003年]])127万部(単行本のみ)<br />
:綿矢は17歳のときに『インストール』でデビュー、芥川賞受賞時は19歳で、20歳の金原ひとみと同時授賞し最年少記録を大幅に更新、単行本は『限りなく透明に近いブルー』以来28年ぶりのミリオンセラーとなった。受賞作は周囲に溶け込めない女子高生とアイドルおたくの男子生徒との交流を描いたもので、唯一反対した[[三浦哲郎]]を除く選考委員の票をすべて集め受賞が決定。「高校における異物排除のメカニズムを正確に書く技倆に感心した」([[池澤夏樹]])、「作者は作者の周辺に流行しているだろうコミック的観念遊びに足をとられず、小説のカタチで新しさを主張する愚にも陥らず、あくまで人間と人間関係を描こうとしている」([[高樹のぶ子]])と各選考委員から高評価を受けた。綿矢の受賞と前後してこの時期10代~20代前半の作家のデビューが相次ぎ、若年層の活躍を印象付けた。<br />
<br />
==太宰治の落選について==<br />
第1回芥川賞では、デビューしたばかりの[[太宰治]]も候補となった。太宰は当時[[パビナール]]中毒症に悩んでおり、薬品代の借金もあったため賞金500円を熱望していたが、結局受賞はしなかった。この時選考委員の一人だった[[川端康成]]は、太宰について「作者目下の生活に嫌な雲ありて、才能の素直に発せざる悩みがあった」と評していたが、これに対して太宰は強く憤り、『文藝通信』に「川端康成へ」と題する文章を掲載、「私は憤怒に燃えた。幾夜も寝苦しい思ひをした。小鳥を飼ひ、舞踏を見るのがそんなに立派な生活なのか。刺す、さうおもった。大悪党だと思った」と川端をなじった。これに対し川端も翌月の『文藝通信』で「太宰氏は委員会の様子など知らぬというかも知れない。知らないならば尚更根も葉もない妄想や邪推はせぬがよい」と反駁した。また太宰は選考委員のなかで太宰の理解者であった[[佐藤春夫]]に何度も嘆願の手紙を送り、第2回、第3回の候補になるべく『文藝春秋』に新作を送り続けたが、第3回以降しばらく「1度候補に挙がった者は以後候補としない」とする規定が設けられ、受賞の機会が奪われることとなった。佐藤はこれらの経緯を「小説 芥川賞」と題して詳しく描いている。<br />
<br />
==受賞作一覧==<br />
=== 第1回から第10回 ===<br />
選考委員:[[川端康成]]、[[佐藤春夫]]、[[滝井孝作|瀧井孝作]]、[[久米正雄]](直木賞兼任、第3回・第5回欠席)、[[佐佐木茂索]](直木賞兼任)、[[山本有三]](第2回まで)、[[小島政二郎]](第2回以降、直木賞兼任)、[[室生犀星]](第2回以降、第5回欠席)、[[菊池寛]](第3回のみ)、[[横光利一]](第4回以降)、[[宇野浩二]](第6回以降、第7、17-20回欠席)<br />
* 第1回([[1935年]]上半期) - [[石川達三]] 「[[蒼氓]]」<br />
* 第2回(1935年下半期) - 該当作品なし([[二・二六事件]]のため審査中止)<br />
* 第3回([[1936年]]上半期) - [[小田嶽夫]] 「城外」、[[鶴田知也]] 「コシャマイン記」<br />
* 第4回(1936年下半期) - [[石川淳]] 「普賢」、[[冨澤有爲男]] 「地中海」<br />
* 第5回([[1937年]]上半期) - [[尾崎一雄]] 「暢気眼鏡」他<br />
* 第6回(1937年下半期) - [[火野葦平]] 「糞尿譚」<br />
* 第7回([[1938年]]上半期) - [[中山義秀]] 「厚物咲」<br />
* 第8回(1938年下半期) - [[中里恒子]] 「乗合馬車」他<br />
* 第9回([[1939年]]上半期) - [[半田義之]] 「鶏騒動」、[[長谷健]] 「あさくさの子供」<br />
* 第10回(1939年下半期) - [[寒川光太郎]] 「密獵者」<br />
<br />
=== 第11回から第20回 ===<br />
選考委員:川端康成(第13回欠席)、佐藤春夫(第18回欠席)、瀧井孝作、久米正雄(第11回-第13回欠席、第16回まで)、佐佐木茂索(第11、15回欠席、第16回まで)、小島政二郎(第17回まで)、室生犀星(第17回まで)、横光利一(第11、12、14、17回欠席、第20回まで)、宇野浩二、[[片岡鉄兵]](第13回以降、第14回-第16回欠席、第19回まで)、[[白井喬二]](直木賞兼任、第13回のみ)、[[河上徹太郎]](第17回以降)、[[岸田國士|岸田国士]](第18回以降、第19回欠席)、[[火野葦平]](第18回以降)<br />
* 第11回([[1940年]]上半期) - [[高木卓]] 「歌と門の盾」(受賞辞退)<br />
* 第12回(1940年下半期) - [[櫻田常久]] 「平賀源内」<br />
* 第13回([[1941年]]上半期) - [[多田裕計]] 「長江デルタ」<br />
* 第14回(1941年下半期) - [[芝木好子]] 「青果の市」<br />
* 第15回([[1942年]]上半期) - 該当作品なし<br />
* 第16回(1942年下半期) - [[倉光俊夫]] 「連絡員」<br />
* 第17回([[1943年]]上半期) - [[石塚喜久三]] 「纏足の頃」<br />
* 第18回(1943年下半期) - [[東野辺薫|東野邊薫]] 「和紙」<br />
* 第19回([[1944年]]上半期) - [[八木義徳]] 「劉廣福」、[[小尾十三]] 「登攀」<br />
* 第20回(1944年下半期) - [[清水基吉]] 「雁立」<br />
<br />
=== 第21回から第30回 ===<br />
選考委員:川端康成、佐藤春夫、瀧井孝作、宇野浩二、岸田国士(第27、28回欠席、第30回まで)、[[石川達三]](第25回欠席)、[[坂口安吾]](第30回まで)、[[舟橋聖一]]、[[丹羽文雄]]<br />
* 第21回([[1949年]]上半期) - [[由起しげ子]] 「[[本の話]]」、[[小谷剛]] 「確証」<br />
* 第22回(1949年下半期) - [[井上靖]] 「[[闘牛 (小説)|闘牛]]」<br />
* 第23回([[1950年]]上半期) - [[辻亮一]] 「異邦人」<br />
* 第24回(1950年下半期) - 該当作品なし<br />
* 第25回([[1951年]]上半期) - [[安部公房]] 「[[壁 (小説)|壁 S・カルマ氏の犯罪]]」、[[石川利光 (作家)|石川利光]] 「春の草」他<br />
* 第26回(1951年下半期) - [[堀田善衛]] 「[[広場の孤独]]」「漢奸」その他<br />
* 第27回([[1952年]]上半期) - 該当作品なし<br />
* 第28回(1952年下半期) - [[五味康祐]] 「喪神」、[[松本清張]] 「[[或る「小倉日記」伝|或る『小倉日記』伝]]」<br />
* 第29回([[1953年]]上半期) - [[安岡章太郎]] 「悪い仲間・陰気な愉しみ」<br />
* 第30回(1953年下半期) - 該当作品なし<br />
<br />
=== 第31回から第40回 ===<br />
選考委員:川端康成、佐藤春夫(第36回欠席)、瀧井孝作、宇野浩二、岸田国士、石川達三、舟橋聖一、丹羽文雄、[[井上靖]](第32回以降)、[[中村光夫]](第34回以降)、[[井伏鱒二]](第39回以降)、[[永井龍男]](第39回以降、直木賞選考から異動)<br />
* 第31回([[1954年]]上半期) - [[吉行淳之介]] 「[[驟雨 (小説)|驟雨]]」その他<br />
* 第32回(1954年下半期) - [[小島信夫]] 「アメリカン・スクール」、[[庄野潤三]] 「プールサイド小景」<br />
* 第33回([[1955年]]上半期) - [[遠藤周作]]「[[白い人]]」<br />
* 第34回(1955年下半期) - [[石原慎太郎]] 「[[太陽の季節]]」<br />
* 第35回([[1956年]]上半期) - [[近藤啓太郎]] 「海人舟」<br />
* 第36回(1956年下半期) - 該当作品なし<br />
* 第37回([[1957年]]上半期) - [[菊村到]] 「[[硫黄島 (小説)|硫黄島]]」<br />
* 第38回(1957年下半期) - [[開高健]] 「[[裸の王様 (小説)|裸の王様]]」<br />
* 第39回([[1958年]]上半期) - [[大江健三郎]] 「[[飼育 (小説)|飼育]]」<br />
* 第40回(1958年下半期) - 該当作品なし<br />
<br />
=== 第41回から第50回 ===<br />
選考委員:川端康成(第43、46回欠席)、佐藤春夫(第46回まで)、瀧井孝作、宇野浩二(第45回まで)、石川達三、舟橋聖一、丹羽文雄、井上靖、中村光夫、井伏鱒二(第47回まで)、永井龍男、[[高見順]](第47回以降)、[[石川淳]](第47回以降)<br />
* 第41回([[1959年]]上半期) - [[斯波四郎]] 「山塔」<br />
* 第42回(1959年下半期) - 該当作品なし<br />
* 第43回([[1960年]]上半期) - [[北杜夫]] 「[[夜と霧の隅で]]」<br />
* 第44回(1960年下半期) - [[三浦哲郎 (作家)|三浦哲郎]] 「[[忍ぶ川]]」<br />
* 第45回([[1961年]]上半期) - 該当作品なし<br />
* 第46回(1961年下半期) - [[宇能鴻一郎]] 「鯨神」<br />
* 第47回([[1962年]]上半期) - [[川村晃]] 「美談の出発」<br />
* 第48回(1962年下半期) - 該当作品なし<br />
* 第49回([[1963年]]上半期) - [[後藤紀一]] 「少年の橋」、[[河野多惠子]] 「蟹」<br />
* 第50回(1963年下半期) - [[田辺聖子]] 「感傷旅行 センチメンタル・ジャーニィ」<br />
<br />
=== 第51回から第60回 ===<br />
選考委員:川端康成(第50、51回欠席)、瀧井孝作、石川達三、舟橋聖一、丹羽文雄、井上靖(第51、57回欠席)、中村光夫、永井龍男、高見順(第53回まで)、石川淳、[[大岡昇平]](第55回以降)、[[三島由紀夫]](第55回以降)<br />
* 第51回([[1964年]]上半期) - [[柴田翔]] 「されどわれらが日々──」<br />
* 第52回(1964年下半期) - 該当作品なし<br />
* 第53回([[1965年]]上半期) - [[津村節子]] 「[[玩具 (小説)|玩具]]」<br />
* 第54回(1965年下半期) - [[高井有一]] 「北の河」<br />
* 第55回([[1966年]]上半期) - 該当作品なし<br />
* 第56回(1966年下半期) - [[丸山健二]] 「夏の流れ」<br />
* 第57回([[1967年]]上半期) - [[大城立裕]] 「カクテル・パーティー」<br />
* 第58回(1967年下半期) - [[柏原兵三]] 「徳山道助の帰郷」<br />
* 第59回([[1968年]]上半期) - [[丸谷才一]] 「年の残り」、[[大庭みな子]] 「三匹の蟹」<br />
* 第60回(1968年下半期) - 該当作品なし<br />
<br />
=== 第61回から第70回 ===<br />
選考委員:川端康成(第64回まで)、瀧井孝作、石川達三(第65回まで)、丹羽文雄、舟橋聖一、井上靖、中村光夫、永井龍男、石川淳(第65回まで)、大岡昇平、三島由紀夫(第63回まで)、[[安岡章太郎]](第66回以降)、[[吉行淳之介]](第66回以降)<br />
* 第61回([[1969年]]上半期) - [[庄司薫]] 「[[赤頭巾ちゃん気をつけて]]」、[[田久保英夫]] 「深い河」<br />
* 第62回(1969年下半期) - [[清岡卓行]] 「[[アカシヤの大連]]」<br />
* 第63回([[1970年]]上半期) - [[吉田知子]] 「無明長夜」、[[古山高麗雄]] 「プレオー8の夜明け」<br />
* 第64回(1970年下半期) - [[古井由吉]] 「杳子」<br />
* 第65回([[1971年]]上半期) - 該当作品なし<br />
* 第66回(1971年下半期) - [[李恢成]] 「砧をうつ女」、[[東峰夫]] 「オキナワの少年」<br />
* 第67回([[1972年]]上半期) - [[畑山博]] 「いつか汽笛を鳴らして」、[[宮原昭夫]] 「誰かが触った」<br />
* 第68回(1972年下半期) - [[山本道子 (作家)|山本道子]] 「ベティさんの庭」、[[郷静子]] 「れくいえむ」<br />
* 第69回([[1973年]]上半期) - [[三木卓]] 「鶸」<br />
* 第70回(1973年下半期) - [[野呂邦暢]] 「草のつるぎ」、[[森敦]] 「[[月山 (小説)|月山]]」<br />
<br />
=== 第71回から第80回 ===<br />
選考委員:瀧井孝作、丹羽文雄、舟橋聖一(第73回まで)、井上靖、中村光夫、永井龍男(第77回まで)、大岡昇平(第73回まで)、安岡章太郎、吉行淳之介、[[遠藤周作]](第76回以降)、[[大江健三郎]](第76回以降)、[[開高健]](第39回以降)、[[丸谷才一]](第79回以降)<br />
* 第71回([[1974年]]上半期) - 該当作品なし<br />
* 第72回(1974年下半期) - [[日野啓三]] 「あの夕陽」、[[阪田寛夫]] 「土の器」<br />
* 第73回([[1975年]]上半期) - [[林京子]] 「祭りの場」<br />
* 第74回(1975年下半期) - [[中上健次]] 「[[岬 (小説)|岬]]」、[[岡松和夫]] 「志賀島」<br />
* 第75回([[1976年]]上半期) - [[村上龍]] 「[[限りなく透明に近いブルー]]」<br />
* 第76回(1976年下半期) - 該当作品なし<br />
* 第77回([[1977年]]上半期) - [[三田誠広]] 「僕って何」、[[池田満寿夫]] 「[[エーゲ海に捧ぐ]]」<br />
* 第78回(1977年下半期) - [[宮本輝]] 「[[螢川]]」、[[高城修三]] 「榧の木祭り」<br />
* 第79回([[1978年]]上半期) - [[高橋揆一郎]] 「伸予」、[[高橋三千綱]] 「九月の空」<br />
* 第80回(1978年下半期) - [[ 中沢けい]] 「海を感じる時」<br />
<br />
=== 第81回から第90回 ===<br />
選考委員:瀧井孝作(第86回まで)、丹羽文雄、井上靖(第89回まで)、中村光夫、安岡章太郎、吉行淳之介、遠藤周作、大江健三郎、開高健、丸谷才一<br />
* 第81回([[1979年]]上半期) - [[重兼芳子]] 「やまあいの煙」、[[青野聰]] 「愚者の夜」<br />
* 第82回(1979年下半期) - [[森禮子]] 「モッキングバードのいる町」<br />
* 第83回([[1980年]]上半期) - 該当作品なし<br />
* 第84回(1980年下半期) - [[赤瀬川原平|尾辻克彦]] 「父が消えた」<br />
* 第85回([[1981年]]上半期) - [[吉行理恵]] 「小さな貴婦人」<br />
* 第86回(1981年下半期) - 該当作品なし<br />
* 第87回([[1982年]]上半期) - 該当作品なし<br />
* 第88回(1982年下半期) - [[加藤幸子]] 「夢の壁」、[[唐十郎]] 「佐川君からの手紙」<br />
* 第89回([[1983年]]上半期) - 該当作品なし<br />
* 第90回(1983年下半期) - [[笠原淳]] 「杢二の世界」、[[高樹のぶ子]] 「[[光抱く友よ]]」<br />
<br />
=== 第91回から第100回 ===<br />
選考委員:丹羽文雄(第92回まで)、中村光夫(第94回まで)、安岡章太郎(第95回まで)、吉行淳之介、遠藤周作(第95回まで)、大江健三郎(第91回まで)、開高健(第91、97、99回欠席)、丸谷才一(第93回まで)、[[三浦哲郎]](第94回以降)、[[田久保英夫]](第94回以降)、[[水上勉]](直木賞選考委員より異動、第100回まで)、[[古井由吉]](第94回以降)、[[大庭みな子]](第97回以降)、[[河野多惠子|河野多恵子]](第97回以降)、[[黒井千次]](第97回以降)、[[日野啓三]](第97回以降)<br />
* 第91回([[1984年]]上半期) - 該当作品なし<br />
* 第92回(1984年下半期) - [[木崎さと子]] 「青桐」<br />
* 第93回([[1985年]]上半期) - 該当作品なし<br />
* 第94回(1985年下半期) - [[米谷ふみ子]] 「過越しの祭」<br />
* 第95回([[1986年]]上半期) - 該当作品なし<br />
* 第96回(1986年下半期) - 該当作品なし<br />
* 第97回([[1987年]]上半期) - [[村田喜代子]] 「鍋の中」<br />
* 第98回(1987年下半期) - [[池澤夏樹]] 「スティル・ライフ」、[[三浦清宏]] 「長男の出家」<br />
* 第99回([[1988年]]上半期) - [[新井満]] 「尋ね人の時間」<br />
* 第100回(1988年下半期) - [[南木佳士]] 「ダイヤモンドダスト」、[[李良枝]] 「由煕」<br />
<br />
=== 第101回から第110回 ===<br />
選考委員:吉行淳之介(第110回まで)、開高健(第101回まで)、大江健三郎(第102回より復帰)、丸谷才一(第102回より復帰)、三浦哲郎(第109回欠席)、田久保英夫、古井由吉、大庭みな子、河野多恵子、黒井千次、日野啓三<br />
* 第101回([[1989年]]上半期) - 該当作品なし<br />
* 第102回(1989年下半期) - [[大岡玲]] 「表層生活」、[[瀧澤美恵子]] 「ネコババのいる町で」<br />
* 第103回([[1990年]]上半期) - [[辻原登]] 「村の名前」<br />
* 第104回(1990年下半期) - [[小川洋子]] 「[[妊娠カレンダー]]」<br />
* 第105回([[1991年]]上半期) - [[辺見庸]] 「自動起床装置」、[[荻野アンナ]] 「背負い水」<br />
* 第106回(1991年下半期) - [[松村栄子]] 「至高聖所アバトーン」<br />
* 第107回([[1992年]]上半期) - [[藤原智美]] 「運転士」<br />
* 第108回(1992年下半期) - [[多和田葉子]] 「犬婿入り」<br />
* 第109回([[1993年]]上半期) - [[吉目木晴彦]] 「寂寥郊野」<br />
* 第110回(1993年下半期) - [[奥泉光]] 「石の来歴」<br />
<br />
=== 第111回から第120回 ===<br />
選考委員:大江健三郎(第114回まで)、丸谷才一(第118回まで)、三浦哲郎(第117回欠席)、田久保英夫、古井由吉、大庭みな子(第115回まで)、河野多恵子、黒井千次、日野啓三、[[石原慎太郎]](第114回以降)、[[池澤夏樹]](第114回以降)、[[宮本輝]](第114回以降)<br />
* 第111回([[1994年]]上半期) - [[室井光広]] 「おどるでく」、[[笙野頼子]] 「タイムスリップ・コンビナート」<br />
* 第112回(1994年下半期) - 該当作品なし<br />
* 第113回([[1995年]]上半期) - [[保坂和志]] 「この人の閾」<br />
* 第114回(1995年下半期) - [[又吉栄喜]] 「豚の報い」<br />
* 第115回([[1996年]]上半期) - [[川上弘美]] 「蛇を踏む」<br />
* 第116回(1996年下半期) - [[辻仁成]] 「海峡の光」、[[柳美里]] 「家族シネマ」<br />
* 第117回([[1997年]]上半期) - [[目取真俊]] 「水滴」<br />
* 第118回(1997年下半期) - 該当作品なし<br />
* 第119回([[1998年]]上半期) - [[花村萬月]] 「[[ゲルマニウムの夜]]」、[[藤沢周]] 「[[ブエノスアイレス午前零時]]」<br />
* 第120回(1998年下半期) - [[平野啓一郎]] 「[[日蝕]]」<br />
<br />
=== 第121回から第130回 ===<br />
選考委員:三浦哲郎(第130回まで)、田久保英夫(第124回まで)、古井由吉、河野多恵子、黒井千次、日野啓三(第122回欠席、第126回まで)、石原慎太郎、池澤夏樹、宮本輝、[[村上龍]](第123回以降)、[[高樹のぶ子]](第126回以降)、[[山田詠美]](第129回以降)<br />
* 第121回([[1999年]]上半期) - 該当作品なし<br />
* 第122回(1999年下半期) - [[玄月]] 「蔭の棲みか」、[[藤野千夜]] 「夏の約束」<br />
* 第123回([[2000年]]上半期) - [[町田康]] 「きれぎれ」、[[松浦寿輝]] 「花腐し」<br />
* 第124回(2000年下半期) - [[青来有一]] 「聖水」、[[堀江敏幸]] 「熊の敷石」<br />
* 第125回([[2001年]]上半期) - [[玄侑宗久]] 「中陰の花」<br />
* 第126回(2001年下半期) - [[長嶋有]] 「猛スピードで母は」<br />
* 第127回([[2002年]]上半期) - [[吉田修一]] 「パーク・ライフ」<br />
* 第128回(2002年下半期) - [[大道珠貴]] 「しょっぱいドライブ」<br />
* 第129回([[2003年]]上半期) - [[吉村萬壱]] 「ハリガネムシ」<br />
* [[第130回芥川龍之介賞|第130回]](2003年下半期) - [[金原ひとみ]] 「[[蛇にピアス]]」、[[綿矢りさ]] 「[[蹴りたい背中]]」<br />
<br />
=== 第131回から ===<br />
選考委員:古井由吉(第132回まで)、河野多恵子(第136回まで)、黒井千次、石原慎太郎、池澤夏樹、宮本輝、村上龍、高樹のぶ子、山田詠美、[[川上弘美]](第137回以降)、[[小川洋子]](第137回以降)<br />
* 第131回([[2004年]]上半期) - [[モブ・ノリオ]] 「介護入門」<br />
* 第132回([[2004年]]下半期) - [[阿部和重]] 「グランド・フィナーレ」<br />
* 第133回([[2005年]]上半期) - [[中村文則]] 「土の中の子供」<br />
* 第134回([[2005年]]下半期) - [[絲山秋子]] 「[[沖で待つ]]」<br />
* 第135回([[2006年]]上半期) - [[伊藤たかみ]] 「八月の路上に捨てる」<br />
* 第136回([[2006年]]下半期) - [[青山七恵]] 「ひとり日和」<br />
* 第137回([[2007年]]上半期) - [[諏訪哲史]] 「[[アサッテの人]]」<br />
* 第138回([[2007年]]下半期) - [[川上未映子]] 「[[乳と卵]]」<br />
* 第139回([[2008年]]上半期) - [[楊逸]] 「[[時が滲む朝]]」<br />
<br />
== 参考文献 ==<br />
選評は『芥川賞全集』に収録されている。<br />
* 永井龍男ほか『芥川賞の研究』みき書房、1979年<br />
* 永井龍男『回想の芥川・直木賞』文藝春秋、1979年<br />
* 『芥川賞全集』文藝春秋、1982年-<br />
* 『ダカーポ』2006年7月19日号「特集・芥川賞、直木賞を徹底的に楽しむ」マガジンハウス<br />
* 大森望、豊崎由美『文学賞メッタ斬り!』シリーズ、PARCO出版、2004年- <br />
<br />
== 脚注、出典 ==<br />
<references/><br />
<br />
== 関連項目 ==<br />
いずれも出版社の主宰する非公募の純文学新人賞。<br />
* [[三島由紀夫賞]](新潮社)<br />
* [[野間文芸新人賞]](講談社)<br />
<br />
== 外部リンク ==<br />
*[http://www.bunshun.co.jp/award/akutagawa/list1.htm 各賞紹介 - 芥川賞 - (文藝春秋)]<br />
<br />
[[Category:芥川龍之介賞|*]]<br />
[[Category:文学の賞|あくたかわりゆうのすけしよう]]<br />
{{Wikipedia/Ja}}</div>
Chobichobi
http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E8%8A%A5%E5%B7%9D%E9%BE%8D%E4%B9%8B%E4%BB%8B%E8%B3%9E&diff=371984
芥川龍之介賞
2019-10-11T21:42:56Z
<p>Chobichobi: /* 第71回から第80回 */</p>
<hr />
<div>{{文学}}<br />
'''芥川龍之介賞'''(あくたがわりゅうのすけしょう)は、[[純文学]]の新人に与えられる[[文学賞]]。通称は'''芥川賞'''。[[文藝春秋]]社内の[[日本文学振興会]]によって選考、授賞される。<br />
<br />
[[大正|大正時代]]を代表する小説家の一人[[芥川龍之介]]の業績を記念して、友人であった[[菊池寛]]が[[1935年]]に[[直木三十五賞|直木賞]]とともに創設し、以降年2回発表される。[[第二次世界大戦]]中の[[1945年]]から一時中断したが[[1949年]]に復活した。新人作家による発表済みの短編・中編作品が対象となり、選考委員の合議によって受賞作が決定される。受賞者には正賞として懐中時計、副賞として100万円(2008年現在)が授与され、受賞作は『[[文藝春秋 (雑誌)|文藝春秋]]』に掲載される。<br />
<br />
2007年現在の選考委員は[[池澤夏樹]]、[[石原慎太郎]]、[[小川洋子]]、[[川上弘美]]、[[黒井千次]]、[[高樹のぶ子]]、[[宮本輝]]、[[村上龍]]、[[山田詠美]]の9名。選考会は、[[料亭]]『[[新喜楽]]』の1階で行われる(直木賞選考会は2階)。受賞者の記者会見と、その一ヵ月後の授賞式はともに[[東京會舘]]で行なわれる。<br />
<br />
== 成立 ==<br />
[[画像:Akutagawa Ryunosuke photo.jpg|thumb|right|芥川龍之介]]<br />
[[1934年]]、[[菊池寛]]は『[[文藝春秋 (雑誌)|文藝春秋]]』4月号(直木三十五追悼号)に掲載された連載コラム「話の屑籠」にて、この年の2月に死去した[[直木三十五]]、1927年に死去した[[芥川龍之介]]の名を冠した新人賞の構想を「まだ定まってはいない」としつつ明らかにした。[[1924年]]に菊池が『文藝春秋』を創刊して以来、芥川は毎号巻頭に「侏儒の言葉」を掲載し、直木もまた文壇ゴシップを寄せるなどして『文藝春秋』の発展に大きく寄与しており、両賞の設立は菊池のこれらの友人に対する思いに端を発している。また『[[文學界|文学界]]』の編集者であった[[川崎竹一]]の回想によれば、1934年に文藝春秋社が発行していた『文藝通信』において川崎が[[ゴンクール賞]]や[[ノーベル賞]]など海外の文学賞を紹介したついでに、日本でも権威のある文学賞を設立するべきだ、と書いた文章を菊池が読んだことも動機となっている<ref>梅田康夫「芥川賞裏話」『創』1977年3月号初出、『芥川賞の研究』124頁-125頁</ref>。このとき菊池は川崎に、文藝春秋社内ですぐに準備委員会および選考委員会を作るよう要請し、川崎や[[永井龍男]]らによって準備が進められた。同年中、『文藝春秋』1935年1月号において「芥川・直木賞宣言」が発表され、正式に両賞が設立された。設立当時から賞牌として懐中時計が贈られるとされており、当時の副賞は500円であった。芥川賞選考委員は芥川と親交があり、また文藝春秋とも関わりの深い作家として[[川端康成]]、[[佐藤春夫]]、[[山本有三]]、[[滝井孝作|瀧井孝作]]ら11名があたることになった。<br />
<br />
芥川賞・直木賞は今でこそジャーナリズムに大きく取り上げられる賞となっているが、設立当初は菊池が考えたほどには耳目を集めず、1935年の「話の屑籠」で菊池は「新聞などは、もっと大きく扱ってくれてもいいと思う」と不平をこぼしている<ref>永井龍男、佐佐木茂作「芥川賞の生まれるまで(対談)」『文学界』1959年3月号初出、『芥川賞の研究』10頁-11頁</ref>。[[1954年]]に受賞した[[吉行淳之介]]は、自身の受賞当時の芥川賞について「社会的話題にはならず、受賞者がにわかに忙しくなることはなかった」と述べており<ref>前掲 梅田康夫「芥川賞裏話」、『芥川賞の研究』143頁</ref>、[[1955年]]に受賞した[[遠藤周作]]も、当時は「ショウではなくてほんとに賞だった」と話題性の低さを言い表している<ref>遠藤周作、開高健「対談 芥川賞」『文学界』1963年9月号初出、『芥川賞の研究』158-159頁</ref>。遠藤によれば、授賞式も新聞関係と文藝春秋社内の人間が10人ほど集まるだけのごく小規模なものだったという。転機となったのは[[1956年]]の[[石原慎太郎]]「[[太陽の季節]]」の受賞である。作品のセンセーショナルな内容や、学生作家であったことなどから大きな話題を呼び、受賞作がベストセラーとなっただけでなく、「太陽族」という新語が生まれ、石原の髪型を真似た「慎太郎カット」が流行するなど「慎太郎ブーム」と呼ばれる社会現象を巻き起こした<ref>前掲 梅田康夫「芥川賞裏話」、『芥川賞の研究』143頁</ref>。これ以降芥川賞・直木賞はジャーナリズムに大きく取り上げられる賞となり、[[1957年]]に[[開高健]]、[[1958年]]に[[大江健三郎]]が受賞した頃には、新聞社だけでなくテレビ、ラジオ局からも取材が押し寄せ、また新作の掲載権をめぐって雑誌社が争うほどになっていた<ref>前掲 梅田康夫「芥川賞裏話」、『芥川賞の研究』146頁</ref>。今日においても話題性の高さは変わらず、特に受賞者が学生作家であるような場合にはジャーナリズムに大きく取り上げられ、受賞作はしばしばベストセラーとなっている。<br />
<br />
== 選考過程 ==<br />
(以下は『ダカーポ』2006年7月19日号掲載の「芥川賞・直木賞はこうして決定する」による。これは日本文学振興会スタッフ菊池夏樹への取材に基づくもの)<br />
<br />
上半期には前年の12月からその年の5月、下半期には6月から11月の間に発表された作品を対象とする。候補作の絞込みは[[日本文学振興会]]から委託される形で、文藝春秋社員20名で構成される選考スタッフによって行なわれる。選考スタッフは5人ずつ4つの班に別れ、各班に10日に1回ほどのペースで毎回3、4作ずつ作品が割り当てられる。スタッフは作品を読み、班会議でその班が推薦する作品を選ぶ。それから各班の推薦作品が持ち寄られて本会議を行いさらに作品を絞り込む。この班会議→本会議が6~7回ずつ、計12回~14回繰り返され、最終的に候補作5、6作を決定する。班会議、本会議ともにメンバーは各作品に○、△、×による採点をあらかじめ行い会議に臨む。<br />
<br />
最終候補作が決定した時点で、候補者に受賞の意志があるか確認を行い、最終候補作を発表する。選考会は上半期は7月中旬、下半期は1月中旬に[[築地]]の料亭・[[新喜楽]]1階の座敷で行なわれる。選考会の司会は『文藝春秋』編集長が務める。選考委員はやはりあらかじめ候補作を○、△、×による採点で評価しておき、各委員が評価を披露した上で審議が行なわれる。<br />
<br />
== 選考基準 ==<br />
=== 「新人」の基準 ===<br />
芥川賞は対象となる作家を「無名あるいは新進作家」としており、特に初期には「その作家が新人と言えるかどうか」が選考委員の間でしばしば議論となった。[[野間宏]]、[[中村真一郎]]、[[三島由紀夫]]など戦中の芥川賞中断期に登場した作家は既成作家と見なされてことごとく候補からはずされており、[[島木健作]]や[[田宮虎彦]]、後述する[[井上光晴]]のように候補に挙がっても「無名とはいえない」という理由で選考からはずされることもしばしば起こった。他方、第5回([[1937年]])に受賞した[[尾崎一雄]]は、受賞時すでに新人とは言えないキャリアを持っていたが、「一般的には埋もれている」(瀧井孝作)と見なされて受賞に至っている<ref>前掲 梅田康夫「芥川賞裏話」、『芥川賞の研究』133頁</ref>。第39回([[1957年]])に[[大江健三郎]]が受賞したときは、大江はまだ23歳の学生作家であったが、すでに本を何冊も出して有名作家となっていたことが議論の的となった<ref>前掲 梅田康夫「芥川賞裏話」、『芥川賞の研究』147頁</ref>。大江の受賞が決定した時には、選考委員の[[佐藤春夫]]は「芥川賞は今日以後新人の登竜門ではなく、新進の地位を安定させる底荷のような賞と合点した」と皮肉を述べている。<br />
<br />
現在ではデビューして数年経ち、他の文学賞を複数受賞しているような作家が芥川賞を受賞することも珍しくなくなっている。近年では[[阿部和重]]が、デビューして10年たち作家的地位も確立していた2004年に芥川賞を受賞し、「複雑な心境。新人に与えられる賞なので、手放しで喜んでいられない」とコメントした。<br />
<br />
=== 作品の長さ ===<br />
芥川賞は短編・中編作品を対象としており、長さに明確な規定があるわけではないが、概ね原稿用紙100枚から200枚程度の作品が候補に選ばれている。第1回の受賞者でありその後選考委員も務めた[[石川達三]]は対象となる作品の長さについて「せいぜい百五十枚までの短編」であるという見解を示したことがあるが、第51回([[1964年]])受賞の[[柴田翔]]「[[されどわれらが日々―]]」は150枚を大幅に超える280枚の作品であった<ref>前掲 梅田康夫「芥川賞裏話」、『芥川賞の研究』149頁</ref>。第50回([[1963年]])芥川賞で井上光晴が「地の群れ」で候補に上がったときは、すでに無名作家でない上、作品が長すぎるという理由で選考からはずされたが、選考委員の[[石川淳]]は「いずれの理由も納得できない」と怒りを表明している<ref>前掲 梅田康夫「芥川賞裏話」、『芥川賞の研究』146頁</ref>。またノーベル文学賞の候補となるなど国際的にも評価の高い[[村上春樹]]は芥川賞を受賞していないが、村上の場合は中篇作品で2度候補となった後、すぐに長編に移行したことが理由の一つに挙げられる<ref>「なぜ村上春樹は芥川賞をとれなかったのか?」『ダカーポ』2006年7月19日号、28頁-29頁</ref>。<br />
<br />
なお「作品の短さ」は、本になったときに読みやすく、また値段も安くなることから、直木賞に比べて作品の売り上げが伸びやすい理由となっている<ref>「データでみる芥川賞・直木賞」『ダカーポ』2006年7月19日号、18頁-19頁</ref>。<br />
<br />
=== 直木賞との境界 ===<br />
[[純文学]]の新人賞として設けられている芥川賞であるが、[[大衆小説|大衆文学]]の賞として設けられている[[直木三十五賞|直木賞]]との境界があいまいになることもしばしばある。第6回([[1937年]])直木賞には純文学の作家として名をなしていた[[井伏鱒二]]が受賞しており、直木賞選考委員の[[久米正雄]]は「純文学として書かれたものだが、このくらいの名文は当然大衆文学の世界に持ち込まれなくてはならぬ」と述べている<ref>橋爪健「芥川賞 文壇残酷物語」『小説新潮』1964年1・2月号初出、『芥川賞の研究』117頁-118頁</ref>。社会派推理作家の[[松本清張]]は「或る『小倉日記』伝」で[[1952年]]に芥川賞を取っており、これはもともと直木賞の候補となっていたものだったが、候補作の下読みをしていた永井龍男のアドヴァイスによって芥川賞に回されたものであった<ref>前掲 梅田康夫「芥川賞裏話」、『芥川賞の研究』140頁</ref>。第46回([[1961年]])の両賞では[[宇能鴻一郎]]が芥川賞を、[[伊藤桂一]]が直木賞をとり、このとき文芸評論家の[[平野謙]]は「芥川賞と直木賞が逆になったのではないかと錯覚する」と述べている<ref>前掲 梅田康夫「芥川賞裏話」、『芥川賞の研究』148頁</ref>。同様の事態は第111回([[1998年]])にも起こり、このときには私小説の作家であった[[車谷長吉]]が直木賞を、大衆文学の作家とみなされていた[[花村萬月]]、ハードボイルド調の作品を書いていた[[藤沢周]]が芥川賞を取ったことで話題となった。<br />
<br />
芥川賞に比べて、直木賞のほうはある程度キャリアのある作家を対象としていることもあり、[[檀一雄]]、[[柴田錬三郎]]、[[山田詠美]]、[[角田光代]]などのように、芥川賞の候補になりながらその後直木賞を受賞した作家もいる。1950年代までは、[[柴田錬三郎]]「デスマスク」(第25回・1951年)、[[北川荘平]]「水の壁」(第39回・1958年)など、芥川賞と直木賞の両方で候補に挙がった作品もあった。<br />
<br />
== 批判 ==<br />
<!-- 出典・参考文献に基づかない加筆を行なわないこと --><br />
<br />
賞のジャーナリスティックな性格はしばしば批判の的となるが、設立者の菊池自身は「むろん芥川賞・直木賞などは、半分は雑誌の宣伝にやっているのだ。そのことは最初から明言してある」(「話の屑籠」『文藝春秋』1935年10月号)とはっきりとその商業的な性格を認めている。菊池は賞に公的な性格を与えるため、1937年に財団法人[[日本文学振興会]]を創設し両賞をまかなわせるようになったが、同会の財源は文藝春秋の寄付に拠っており、役員も主に文藝春秋の関係者が就任している(事務所も文藝春秋社内)<ref>前掲 橋爪健「芥川賞 文壇残酷物語」、『芥川賞の研究』70頁</ref>。また設立当初には選考委員に選ばれている作家の偏りが批判されたが、これに対し菊池は「芥川賞の委員が偏しているという非難をした人があるが、あれはあれでいいと思う。芥川賞はある意味では、芥川の遺風をどことなくほのめかすような、少なくとも純芸術風な作品に与えられるのが当然である(中略)[[プロレタリア文学]]の傑作のためには、[[小林多喜二]]賞といったものが創設されてよいのである」(「話の屑籠」『文藝春秋』1935年2月号)という見方を示している。<br />
<br />
文学賞に対する批判本『[[文学賞メッタ斬り!]]』を著した[[大森望]]、[[豊崎由美]]は、現在の芥川賞の問題点として、選考委員が「終身制」で顔ぶれがほとんど変わらないこと、選考委員が必ずしも現在の文学に通じている人物ではないこと、選考委員の数が多すぎて無難な作品が受賞しがちなこと、受賞作が文藝春秋の雑誌である『文学界』掲載作品に偏りがちであることをなどを挙げている。また豊崎は改善策として、選考委員の任期を4年程度に定め、選考委員の三分の一は文芸評論家にするなどの案を示している<ref>「文学賞大国ニッポン―両賞の位置は?」『ダカーポ』2006年7月19日号、34頁-35頁</ref>。<br />
<br />
== 最年少・最年長受賞記録 ==<br />
特に若年での受賞や学生作家の受賞は大きな話題となる。最年少記録は、[[1966年]]の[[丸山健二]]の記録が40年近く破られていなかったが、[[2003年]]の[[綿矢りさ]]、[[金原ひとみ]]の同時受賞で大幅に更新された。<br />
{| class="wikitable"<br />
|+ 最年少受賞記録<br />
! 順位 !! 受賞者名 !! 受賞年 !! 受賞時の年齢<br />
|-<br />
! 1<br />
| [[綿矢りさ]] || 2004年(第130回) || 19歳11ヶ月<br />
|-<br />
! 2<br />
| [[金原ひとみ]] || 2004年(第130回) || 20歳5ヶ月<br />
|-<br />
! 3<br />
| [[丸山健二]] || 1967年(第56回) || 23歳0ヶ月<br />
|-<br />
! 4<br />
| [[石原慎太郎]] || 1956年(第34回) || 23歳3ヶ月<br />
|-<br />
! 5<br />
| [[大江健三郎]] || 1958年(第39回) || 23歳5ヶ月<br />
|-<br />
! 6<br />
| [[平野啓一郎]] || 1999年(第120回) || 23歳6ヶ月<br />
|-<br />
! 7<br />
| [[青山七恵]] || 2007年(第136回) || 23歳11ヶ月<br />
|-<br />
! 8<br />
| [[村上龍]] || 1976年(第75回) || 24歳4ヶ月<br />
|}<br />
<br />
{| class="wikitable"<br />
|+ 最年長受賞記録<br />
! 順位 !! 受賞者名 !! 受賞年 !! 受賞時の年齢<br />
|-<br />
! 1<br />
| [[森敦]] || 1974年(第70回) || 61歳11ヶ月<br />
|-<br />
! 2<br />
| [[三浦清宏]] || 1988年(第98回) || 57歳4ヶ月<br />
|-<br />
! 3<br />
| [[米谷ふみ子]] || 1986年(第94回) || 55歳2ヶ月<br />
|}<br />
<br />
== 歴代ベストセラー作品 ==<br />
ここでは現在までの累計発行部数が100万部を超える受賞作を解説する(作品名は単行本タイトル。発行部数は『ダカーポ』2006年7月19日号に基づくもので、『蹴りたい背中』を除いて単行本と文庫との総計。古い時代のものは正確な売り上げデータが残っておらず売り上げに計上されていないものもある)<br />
<br />
;[[安部公房]] 『[[壁 (小説)|壁]]』(第25回・[[1951年]])130万部<br />
:「戦後派」の代表的作家の一人安部公房の作品。『壁』は3部からなるが受賞作は第1部にあたる「壁―S・カルマ氏の犯罪」で、名前を失った男の奇譚を描くシュルレアリスム風の前衛的な作品であった。[[石川利光]]「春の草」との同時受賞で、こちらは対照的に古風な作品である。選考委員のなかでは[[川端康成]]、[[丹羽文雄]]、[[滝井孝作|瀧井孝作]]が強く推し、「退屈」として[[宇野浩二]]が反対したが、他の委員が前者に同調するかたちで受賞が決まった。<br />
;[[石原慎太郎]] 『[[太陽の季節]]』(第34回・[[1956年]])102万部<br />
:前述したように「太陽族」という新語とともにブームを巻き起こし、芥川賞の話題性を決定付けた作品である。裕福な家庭で育った若者の無軌道な生活を描いたもので、奔放な性描写が話題となった。選考では最終的に[[藤枝静男]]の「痩我慢の説」との対決となり、この2作に対し選考委員の意見が分かれた。委員のうち[[舟橋聖一]]、[[石川達三]]がそれぞれ欠点を指摘しつつも「太陽の季節」を終始積極的に支持、[[佐藤春夫]]、丹羽文雄、宇野浩二が強く反対し、最終的に瀧井孝作、川端康成、[[中村光夫]]、[[井上靖]]が前者に同調した。作者が弟の[[石原裕次郎]]から聞いた話が題材になっており、[[1956年]]に映画化され、裕次郎も脇役として出演、これが石原裕次郎のデビュー作となった。<br />
;[[大江健三郎]] 『死者の奢り・飼育』(第39回・[[1958年]])109万部<br />
:「飼育」が受賞作。大江は前年度の第38回にも「死者の奢り」で候補となっていたが、このときには[[開高健]]「裸の王様」が受賞。開高の受賞時丹羽文雄は「技巧の点では大江のほうが上だが、視野が狭くて落ちた。開高は作品に傷はあるけれども、故[[島木健作]]の持っていたシンの強さがあり、視野も広い」としている<ref>前掲 梅田康夫「芥川賞裏話」、『芥川賞の研究』146頁</ref>。「飼育」は大江の故郷である四国の村を舞台に、子供である「僕」と村人に捕らえられた黒人兵との関係を描いた作品で、当時の大江は[[ジャン=ポール・サルトル|サルトル]]の影響を強く受けた作風であった。「飼育」は選考委員の間で評価の高さは一致したものの、前述の通りすでに大江が有名作家となっていたことが議論の的となり、「今回は賞無しというのも少し淋しいかと思って」(瀧井孝作)というような意見から受賞が決定した。舟橋聖一は「死者の奢り」にこそ賞を出したかったという選評を行なっている。<br />
;[[柴田翔]] 『[[されどわれらが日々――]]』(第51回・[[1964年]])186万部<br />
:東京大学の学生を主人公に、当時の学生運動を背景にして描かれた青春小説。[[血のメーデー事件]]による革命への気分の高揚、[[日本共産党第6回全国協議会|六全協]]での挫折が物語の主軸となっており、当時の若者に広く読まれた。選考では前述のように280枚の長さが問題となったが、「他の候補作品にくらべて力倆は抜群」(石川達三)、「読み出すとスラスラ読めるので、却って、落ちた作の五十枚前後のほうが、読むのに骨が折れた」(丹羽文雄)といった意見から受賞が決定した。柴田はその後ドイツ文学者として活躍している。<br />
;[[庄司薫]] 『[[赤頭巾ちゃん気をつけて]]』(第61回・[[1969年]])160万部<br />
:[[安保闘争]]などの学生運動を背景に、[[東京都立日比谷高等学校|日比谷高等学校]]の男子生徒の一日を軽妙な文体で描いた作品。庄司は本名の福田章二としてデビューし、9年の沈黙を経て本作を発表した。「さようなら怪傑黒頭巾」などに続く4部作の第1作にあたり、作風にはサリンジャーなどのアメリカ文学からの影響が指摘されている。[[田久保英夫]]「深い河」との同時受賞。選考では[[三島由紀夫]]、[[石川淳]]らから激賞を受けている。<br />
;[[村上龍]] 『[[限りなく透明に近いブルー]]』(第75回・[[1976年]])354万部(単行本131万部、文庫223万部)<br />
:作者の実体験に基づき、米軍基地に近い町でドラッグとセックスに溺れる若者を[[LSD]]的な感覚で描いた作品。センセーショナルな内容が話題となり、歴代受賞作で最も売れた作品となった。選考では意見が真っ二つに分かれ、「因果なことに才能がある」と評した[[吉行淳之介]]のほか、丹羽文雄、[[中村光夫]]、井上靖が支持したが、永井龍男、瀧井孝作が強く反発。受賞後も[[江藤淳]]が酷評するなど論議を起こした。受賞作は村上自身の手により1979年に映画化されている。<br />
;[[池田満寿夫]] 『[[エーゲ海に捧ぐ]]』(第77回・[[1977年]])126万部<br />
:[[三田誠広]]『僕って何』との同時受賞。池田はすでに版画家として国際的な評価を得ていたため受賞は大きな話題となった。作品は池田自身を思わせる主人公がアメリカの撮影スタジオで、日本の妻と国際電話で会話しながら目の前のアメリカ人女性のヌードを観察する、というエロティシズムを全面的に押し出したもの。1979年に池田自身により映画化されている。選考では中村光夫から高い評価を受けたが、永井龍男は「空虚な痴態」「これは文学ではない」と授賞に抗議し、この作品と上記の村上の受賞を理由に選考委員を辞任している。<br />
;[[綿矢りさ]] 『[[蹴りたい背中]]』(第130回・[[2003年]])127万部(単行本のみ)<br />
:綿矢は17歳のときに『インストール』でデビュー、芥川賞受賞時は19歳で、20歳の金原ひとみと同時授賞し最年少記録を大幅に更新、単行本は『限りなく透明に近いブルー』以来28年ぶりのミリオンセラーとなった。受賞作は周囲に溶け込めない女子高生とアイドルおたくの男子生徒との交流を描いたもので、唯一反対した[[三浦哲郎]]を除く選考委員の票をすべて集め受賞が決定。「高校における異物排除のメカニズムを正確に書く技倆に感心した」([[池澤夏樹]])、「作者は作者の周辺に流行しているだろうコミック的観念遊びに足をとられず、小説のカタチで新しさを主張する愚にも陥らず、あくまで人間と人間関係を描こうとしている」([[高樹のぶ子]])と各選考委員から高評価を受けた。綿矢の受賞と前後してこの時期10代~20代前半の作家のデビューが相次ぎ、若年層の活躍を印象付けた。<br />
<br />
==太宰治の落選について==<br />
第1回芥川賞では、デビューしたばかりの[[太宰治]]も候補となった。太宰は当時[[パビナール]]中毒症に悩んでおり、薬品代の借金もあったため賞金500円を熱望していたが、結局受賞はしなかった。この時選考委員の一人だった[[川端康成]]は、太宰について「作者目下の生活に嫌な雲ありて、才能の素直に発せざる悩みがあった」と評していたが、これに対して太宰は強く憤り、『文藝通信』に「川端康成へ」と題する文章を掲載、「私は憤怒に燃えた。幾夜も寝苦しい思ひをした。小鳥を飼ひ、舞踏を見るのがそんなに立派な生活なのか。刺す、さうおもった。大悪党だと思った」と川端をなじった。これに対し川端も翌月の『文藝通信』で「太宰氏は委員会の様子など知らぬというかも知れない。知らないならば尚更根も葉もない妄想や邪推はせぬがよい」と反駁した。また太宰は選考委員のなかで太宰の理解者であった[[佐藤春夫]]に何度も嘆願の手紙を送り、第2回、第3回の候補になるべく『文藝春秋』に新作を送り続けたが、第3回以降しばらく「1度候補に挙がった者は以後候補としない」とする規定が設けられ、受賞の機会が奪われることとなった。佐藤はこれらの経緯を「小説 芥川賞」と題して詳しく描いている。<br />
<br />
==受賞作一覧==<br />
=== 第1回から第10回 ===<br />
選考委員:[[川端康成]]、[[佐藤春夫]]、[[滝井孝作|瀧井孝作]]、[[久米正雄]](直木賞兼任、第3回・第5回欠席)、[[佐佐木茂索]](直木賞兼任)、[[山本有三]](第2回まで)、[[小島政二郎]](第2回以降、直木賞兼任)、[[室生犀星]](第2回以降、第5回欠席)、[[菊池寛]](第3回のみ)、[[横光利一]](第4回以降)、[[宇野浩二]](第6回以降、第7、17-20回欠席)<br />
* 第1回([[1935年]]上半期) - [[石川達三]] 「[[蒼氓]]」<br />
* 第2回(1935年下半期) - 該当作品なし([[二・二六事件]]のため審査中止)<br />
* 第3回([[1936年]]上半期) - [[小田嶽夫]] 「城外」、[[鶴田知也]] 「コシャマイン記」<br />
* 第4回(1936年下半期) - [[石川淳]] 「普賢」、[[冨澤有爲男]] 「地中海」<br />
* 第5回([[1937年]]上半期) - [[尾崎一雄]] 「暢気眼鏡」他<br />
* 第6回(1937年下半期) - [[火野葦平]] 「糞尿譚」<br />
* 第7回([[1938年]]上半期) - [[中山義秀]] 「厚物咲」<br />
* 第8回(1938年下半期) - [[中里恒子]] 「乗合馬車」他<br />
* 第9回([[1939年]]上半期) - [[半田義之]] 「鶏騒動」、[[長谷健]] 「あさくさの子供」<br />
* 第10回(1939年下半期) - [[寒川光太郎]] 「密獵者」<br />
<br />
=== 第11回から第20回 ===<br />
選考委員:川端康成(第13回欠席)、佐藤春夫(第18回欠席)、瀧井孝作、久米正雄(第11回-第13回欠席、第16回まで)、佐佐木茂索(第11、15回欠席、第16回まで)、小島政二郎(第17回まで)、室生犀星(第17回まで)、横光利一(第11、12、14、17回欠席、第20回まで)、宇野浩二、[[片岡鉄兵]](第13回以降、第14回-第16回欠席、第19回まで)、[[白井喬二]](直木賞兼任、第13回のみ)、[[河上徹太郎]](第17回以降)、[[岸田國士|岸田国士]](第18回以降、第19回欠席)、[[火野葦平]](第18回以降)<br />
* 第11回([[1940年]]上半期) - [[高木卓]] 「歌と門の盾」(受賞辞退)<br />
* 第12回(1940年下半期) - [[櫻田常久]] 「平賀源内」<br />
* 第13回([[1941年]]上半期) - [[多田裕計]] 「長江デルタ」<br />
* 第14回(1941年下半期) - [[芝木好子]] 「青果の市」<br />
* 第15回([[1942年]]上半期) - 該当作品なし<br />
* 第16回(1942年下半期) - [[倉光俊夫]] 「連絡員」<br />
* 第17回([[1943年]]上半期) - [[石塚喜久三]] 「纏足の頃」<br />
* 第18回(1943年下半期) - [[東野辺薫|東野邊薫]] 「和紙」<br />
* 第19回([[1944年]]上半期) - [[八木義徳]] 「劉廣福」、[[小尾十三]] 「登攀」<br />
* 第20回(1944年下半期) - [[清水基吉]] 「雁立」<br />
<br />
=== 第21回から第30回 ===<br />
選考委員:川端康成、佐藤春夫、瀧井孝作、宇野浩二、岸田国士(第27、28回欠席、第30回まで)、[[石川達三]](第25回欠席)、[[坂口安吾]](第30回まで)、[[舟橋聖一]]、[[丹羽文雄]]<br />
* 第21回([[1949年]]上半期) - [[由起しげ子]] 「[[本の話]]」、[[小谷剛]] 「確証」<br />
* 第22回(1949年下半期) - [[井上靖]] 「[[闘牛 (小説)|闘牛]]」<br />
* 第23回([[1950年]]上半期) - [[辻亮一]] 「異邦人」<br />
* 第24回(1950年下半期) - 該当作品なし<br />
* 第25回([[1951年]]上半期) - [[安部公房]] 「[[壁 (小説)|壁 S・カルマ氏の犯罪]]」、[[石川利光 (作家)|石川利光]] 「春の草」他<br />
* 第26回(1951年下半期) - [[堀田善衛]] 「[[広場の孤独]]」「漢奸」その他<br />
* 第27回([[1952年]]上半期) - 該当作品なし<br />
* 第28回(1952年下半期) - [[五味康祐]] 「喪神」、[[松本清張]] 「[[或る「小倉日記」伝|或る『小倉日記』伝]]」<br />
* 第29回([[1953年]]上半期) - [[安岡章太郎]] 「悪い仲間・陰気な愉しみ」<br />
* 第30回(1953年下半期) - 該当作品なし<br />
<br />
=== 第31回から第40回 ===<br />
選考委員:川端康成、佐藤春夫(第36回欠席)、瀧井孝作、宇野浩二、岸田国士、石川達三、舟橋聖一、丹羽文雄、[[井上靖]](第32回以降)、[[中村光夫]](第34回以降)、[[井伏鱒二]](第39回以降)、[[永井龍男]](第39回以降、直木賞選考から異動)<br />
* 第31回([[1954年]]上半期) - [[吉行淳之介]] 「[[驟雨 (小説)|驟雨]]」その他<br />
* 第32回(1954年下半期) - [[小島信夫]] 「アメリカン・スクール」、[[庄野潤三]] 「プールサイド小景」<br />
* 第33回([[1955年]]上半期) - [[遠藤周作]]「[[白い人]]」<br />
* 第34回(1955年下半期) - [[石原慎太郎]] 「[[太陽の季節]]」<br />
* 第35回([[1956年]]上半期) - [[近藤啓太郎]] 「海人舟」<br />
* 第36回(1956年下半期) - 該当作品なし<br />
* 第37回([[1957年]]上半期) - [[菊村到]] 「[[硫黄島 (小説)|硫黄島]]」<br />
* 第38回(1957年下半期) - [[開高健]] 「[[裸の王様 (小説)|裸の王様]]」<br />
* 第39回([[1958年]]上半期) - [[大江健三郎]] 「[[飼育 (小説)|飼育]]」<br />
* 第40回(1958年下半期) - 該当作品なし<br />
<br />
=== 第41回から第50回 ===<br />
選考委員:川端康成(第43、46回欠席)、佐藤春夫(第46回まで)、瀧井孝作、宇野浩二(第45回まで)、石川達三、舟橋聖一、丹羽文雄、井上靖、中村光夫、井伏鱒二(第47回まで)、永井龍男、[[高見順]](第47回以降)、[[石川淳]](第47回以降)<br />
* 第41回([[1959年]]上半期) - [[斯波四郎]] 「山塔」<br />
* 第42回(1959年下半期) - 該当作品なし<br />
* 第43回([[1960年]]上半期) - [[北杜夫]] 「[[夜と霧の隅で]]」<br />
* 第44回(1960年下半期) - [[三浦哲郎 (作家)|三浦哲郎]] 「[[忍ぶ川]]」<br />
* 第45回([[1961年]]上半期) - 該当作品なし<br />
* 第46回(1961年下半期) - [[宇能鴻一郎]] 「鯨神」<br />
* 第47回([[1962年]]上半期) - [[川村晃]] 「美談の出発」<br />
* 第48回(1962年下半期) - 該当作品なし<br />
* 第49回([[1963年]]上半期) - [[後藤紀一]] 「少年の橋」、[[河野多惠子]] 「蟹」<br />
* 第50回(1963年下半期) - [[田辺聖子]] 「感傷旅行 センチメンタル・ジャーニィ」<br />
<br />
=== 第51回から第60回 ===<br />
選考委員:川端康成(第50、51回欠席)、瀧井孝作、石川達三、舟橋聖一、丹羽文雄、井上靖(第51、57回欠席)、中村光夫、永井龍男、高見順(第53回まで)、石川淳、[[大岡昇平]](第55回以降)、[[三島由紀夫]](第55回以降)<br />
* 第51回([[1964年]]上半期) - [[柴田翔]] 「されどわれらが日々──」<br />
* 第52回(1964年下半期) - 該当作品なし<br />
* 第53回([[1965年]]上半期) - [[津村節子]] 「[[玩具 (小説)|玩具]]」<br />
* 第54回(1965年下半期) - [[高井有一]] 「北の河」<br />
* 第55回([[1966年]]上半期) - 該当作品なし<br />
* 第56回(1966年下半期) - [[丸山健二]] 「夏の流れ」<br />
* 第57回([[1967年]]上半期) - [[大城立裕]] 「カクテル・パーティー」<br />
* 第58回(1967年下半期) - [[柏原兵三]] 「徳山道助の帰郷」<br />
* 第59回([[1968年]]上半期) - [[丸谷才一]] 「年の残り」、[[大庭みな子]] 「三匹の蟹」<br />
* 第60回(1968年下半期) - 該当作品なし<br />
<br />
=== 第61回から第70回 ===<br />
選考委員:川端康成(第64回まで)、瀧井孝作、石川達三(第65回まで)、丹羽文雄、舟橋聖一、井上靖、中村光夫、永井龍男、石川淳(第65回まで)、大岡昇平、三島由紀夫(第63回まで)、[[安岡章太郎]](第66回以降)、[[吉行淳之介]](第66回以降)<br />
* 第61回([[1969年]]上半期) - [[庄司薫]] 「[[赤頭巾ちゃん気をつけて]]」、[[田久保英夫]] 「深い河」<br />
* 第62回(1969年下半期) - [[清岡卓行]] 「[[アカシヤの大連]]」<br />
* 第63回([[1970年]]上半期) - [[吉田知子]] 「無明長夜」、[[古山高麗雄]] 「プレオー8の夜明け」<br />
* 第64回(1970年下半期) - [[古井由吉]] 「杳子」<br />
* 第65回([[1971年]]上半期) - 該当作品なし<br />
* 第66回(1971年下半期) - [[李恢成]] 「砧をうつ女」、[[東峰夫]] 「オキナワの少年」<br />
* 第67回([[1972年]]上半期) - [[畑山博]] 「いつか汽笛を鳴らして」、[[宮原昭夫]] 「誰かが触った」<br />
* 第68回(1972年下半期) - [[山本道子 (作家)|山本道子]] 「ベティさんの庭」、[[郷静子]] 「れくいえむ」<br />
* 第69回([[1973年]]上半期) - [[三木卓]] 「鶸」<br />
* 第70回(1973年下半期) - [[野呂邦暢]] 「草のつるぎ」、[[森敦]] 「[[月山 (小説)|月山]]」<br />
<br />
=== 第71回から第80回 ===<br />
選考委員:瀧井孝作、丹羽文雄、舟橋聖一(第73回まで)、井上靖、中村光夫、永井龍男(第77回まで)、大岡昇平(第73回まで)、安岡章太郎、吉行淳之介、[[遠藤周作]](第76回以降)、[[大江健三郎]](第76回以降)、[[開高健]](第39回以降)、[[丸谷才一]](第79回以降)<br />
* 第71回([[1974年]]上半期) - 該当作品なし<br />
* 第72回(1974年下半期) - [[日野啓三]] 「あの夕陽」、[[阪田寛夫]] 「土の器」<br />
* 第73回([[1975年]]上半期) - [[林京子]] 「祭りの場」<br />
* 第74回(1975年下半期) - [[中上健次]] 「[[岬 (小説)|岬]]」、[[岡松和夫]] 「志賀島」<br />
* 第75回([[1976年]]上半期) - [[村上龍]] 「[[限りなく透明に近いブルー]]」<br />
* 第76回(1976年下半期) - 該当作品なし<br />
* 第77回([[1977年]]上半期) - [[三田誠広]] 「僕って何」、[[池田満寿夫]] 「[[エーゲ海に捧ぐ]]」<br />
* 第78回(1977年下半期) - [[宮本輝]] 「[[螢川]]」、[[高城修三]] 「榧の木祭り」<br />
* 第79回([[1978年]]上半期) - [[高橋揆一郎]] 「伸予」、[[高橋三千綱]] 「九月の空」<br />
* 第80回(1978年下半期) - [[ 中沢けい]] [海を感じる時]」<br />
<br />
=== 第81回から第90回 ===<br />
選考委員:瀧井孝作(第86回まで)、丹羽文雄、井上靖(第89回まで)、中村光夫、安岡章太郎、吉行淳之介、遠藤周作、大江健三郎、開高健、丸谷才一<br />
* 第81回([[1979年]]上半期) - [[重兼芳子]] 「やまあいの煙」、[[青野聰]] 「愚者の夜」<br />
* 第82回(1979年下半期) - [[森禮子]] 「モッキングバードのいる町」<br />
* 第83回([[1980年]]上半期) - 該当作品なし<br />
* 第84回(1980年下半期) - [[赤瀬川原平|尾辻克彦]] 「父が消えた」<br />
* 第85回([[1981年]]上半期) - [[吉行理恵]] 「小さな貴婦人」<br />
* 第86回(1981年下半期) - 該当作品なし<br />
* 第87回([[1982年]]上半期) - 該当作品なし<br />
* 第88回(1982年下半期) - [[加藤幸子]] 「夢の壁」、[[唐十郎]] 「佐川君からの手紙」<br />
* 第89回([[1983年]]上半期) - 該当作品なし<br />
* 第90回(1983年下半期) - [[笠原淳]] 「杢二の世界」、[[高樹のぶ子]] 「[[光抱く友よ]]」<br />
<br />
=== 第91回から第100回 ===<br />
選考委員:丹羽文雄(第92回まで)、中村光夫(第94回まで)、安岡章太郎(第95回まで)、吉行淳之介、遠藤周作(第95回まで)、大江健三郎(第91回まで)、開高健(第91、97、99回欠席)、丸谷才一(第93回まで)、[[三浦哲郎]](第94回以降)、[[田久保英夫]](第94回以降)、[[水上勉]](直木賞選考委員より異動、第100回まで)、[[古井由吉]](第94回以降)、[[大庭みな子]](第97回以降)、[[河野多惠子|河野多恵子]](第97回以降)、[[黒井千次]](第97回以降)、[[日野啓三]](第97回以降)<br />
* 第91回([[1984年]]上半期) - 該当作品なし<br />
* 第92回(1984年下半期) - [[木崎さと子]] 「青桐」<br />
* 第93回([[1985年]]上半期) - 該当作品なし<br />
* 第94回(1985年下半期) - [[米谷ふみ子]] 「過越しの祭」<br />
* 第95回([[1986年]]上半期) - 該当作品なし<br />
* 第96回(1986年下半期) - 該当作品なし<br />
* 第97回([[1987年]]上半期) - [[村田喜代子]] 「鍋の中」<br />
* 第98回(1987年下半期) - [[池澤夏樹]] 「スティル・ライフ」、[[三浦清宏]] 「長男の出家」<br />
* 第99回([[1988年]]上半期) - [[新井満]] 「尋ね人の時間」<br />
* 第100回(1988年下半期) - [[南木佳士]] 「ダイヤモンドダスト」、[[李良枝]] 「由煕」<br />
<br />
=== 第101回から第110回 ===<br />
選考委員:吉行淳之介(第110回まで)、開高健(第101回まで)、大江健三郎(第102回より復帰)、丸谷才一(第102回より復帰)、三浦哲郎(第109回欠席)、田久保英夫、古井由吉、大庭みな子、河野多恵子、黒井千次、日野啓三<br />
* 第101回([[1989年]]上半期) - 該当作品なし<br />
* 第102回(1989年下半期) - [[大岡玲]] 「表層生活」、[[瀧澤美恵子]] 「ネコババのいる町で」<br />
* 第103回([[1990年]]上半期) - [[辻原登]] 「村の名前」<br />
* 第104回(1990年下半期) - [[小川洋子]] 「[[妊娠カレンダー]]」<br />
* 第105回([[1991年]]上半期) - [[辺見庸]] 「自動起床装置」、[[荻野アンナ]] 「背負い水」<br />
* 第106回(1991年下半期) - [[松村栄子]] 「至高聖所アバトーン」<br />
* 第107回([[1992年]]上半期) - [[藤原智美]] 「運転士」<br />
* 第108回(1992年下半期) - [[多和田葉子]] 「犬婿入り」<br />
* 第109回([[1993年]]上半期) - [[吉目木晴彦]] 「寂寥郊野」<br />
* 第110回(1993年下半期) - [[奥泉光]] 「石の来歴」<br />
<br />
=== 第111回から第120回 ===<br />
選考委員:大江健三郎(第114回まで)、丸谷才一(第118回まで)、三浦哲郎(第117回欠席)、田久保英夫、古井由吉、大庭みな子(第115回まで)、河野多恵子、黒井千次、日野啓三、[[石原慎太郎]](第114回以降)、[[池澤夏樹]](第114回以降)、[[宮本輝]](第114回以降)<br />
* 第111回([[1994年]]上半期) - [[室井光広]] 「おどるでく」、[[笙野頼子]] 「タイムスリップ・コンビナート」<br />
* 第112回(1994年下半期) - 該当作品なし<br />
* 第113回([[1995年]]上半期) - [[保坂和志]] 「この人の閾」<br />
* 第114回(1995年下半期) - [[又吉栄喜]] 「豚の報い」<br />
* 第115回([[1996年]]上半期) - [[川上弘美]] 「蛇を踏む」<br />
* 第116回(1996年下半期) - [[辻仁成]] 「海峡の光」、[[柳美里]] 「家族シネマ」<br />
* 第117回([[1997年]]上半期) - [[目取真俊]] 「水滴」<br />
* 第118回(1997年下半期) - 該当作品なし<br />
* 第119回([[1998年]]上半期) - [[花村萬月]] 「[[ゲルマニウムの夜]]」、[[藤沢周]] 「[[ブエノスアイレス午前零時]]」<br />
* 第120回(1998年下半期) - [[平野啓一郎]] 「[[日蝕]]」<br />
<br />
=== 第121回から第130回 ===<br />
選考委員:三浦哲郎(第130回まで)、田久保英夫(第124回まで)、古井由吉、河野多恵子、黒井千次、日野啓三(第122回欠席、第126回まで)、石原慎太郎、池澤夏樹、宮本輝、[[村上龍]](第123回以降)、[[高樹のぶ子]](第126回以降)、[[山田詠美]](第129回以降)<br />
* 第121回([[1999年]]上半期) - 該当作品なし<br />
* 第122回(1999年下半期) - [[玄月]] 「蔭の棲みか」、[[藤野千夜]] 「夏の約束」<br />
* 第123回([[2000年]]上半期) - [[町田康]] 「きれぎれ」、[[松浦寿輝]] 「花腐し」<br />
* 第124回(2000年下半期) - [[青来有一]] 「聖水」、[[堀江敏幸]] 「熊の敷石」<br />
* 第125回([[2001年]]上半期) - [[玄侑宗久]] 「中陰の花」<br />
* 第126回(2001年下半期) - [[長嶋有]] 「猛スピードで母は」<br />
* 第127回([[2002年]]上半期) - [[吉田修一]] 「パーク・ライフ」<br />
* 第128回(2002年下半期) - [[大道珠貴]] 「しょっぱいドライブ」<br />
* 第129回([[2003年]]上半期) - [[吉村萬壱]] 「ハリガネムシ」<br />
* [[第130回芥川龍之介賞|第130回]](2003年下半期) - [[金原ひとみ]] 「[[蛇にピアス]]」、[[綿矢りさ]] 「[[蹴りたい背中]]」<br />
<br />
=== 第131回から ===<br />
選考委員:古井由吉(第132回まで)、河野多恵子(第136回まで)、黒井千次、石原慎太郎、池澤夏樹、宮本輝、村上龍、高樹のぶ子、山田詠美、[[川上弘美]](第137回以降)、[[小川洋子]](第137回以降)<br />
* 第131回([[2004年]]上半期) - [[モブ・ノリオ]] 「介護入門」<br />
* 第132回([[2004年]]下半期) - [[阿部和重]] 「グランド・フィナーレ」<br />
* 第133回([[2005年]]上半期) - [[中村文則]] 「土の中の子供」<br />
* 第134回([[2005年]]下半期) - [[絲山秋子]] 「[[沖で待つ]]」<br />
* 第135回([[2006年]]上半期) - [[伊藤たかみ]] 「八月の路上に捨てる」<br />
* 第136回([[2006年]]下半期) - [[青山七恵]] 「ひとり日和」<br />
* 第137回([[2007年]]上半期) - [[諏訪哲史]] 「[[アサッテの人]]」<br />
* 第138回([[2007年]]下半期) - [[川上未映子]] 「[[乳と卵]]」<br />
* 第139回([[2008年]]上半期) - [[楊逸]] 「[[時が滲む朝]]」<br />
<br />
== 参考文献 ==<br />
選評は『芥川賞全集』に収録されている。<br />
* 永井龍男ほか『芥川賞の研究』みき書房、1979年<br />
* 永井龍男『回想の芥川・直木賞』文藝春秋、1979年<br />
* 『芥川賞全集』文藝春秋、1982年-<br />
* 『ダカーポ』2006年7月19日号「特集・芥川賞、直木賞を徹底的に楽しむ」マガジンハウス<br />
* 大森望、豊崎由美『文学賞メッタ斬り!』シリーズ、PARCO出版、2004年- <br />
<br />
== 脚注、出典 ==<br />
<references/><br />
<br />
== 関連項目 ==<br />
いずれも出版社の主宰する非公募の純文学新人賞。<br />
* [[三島由紀夫賞]](新潮社)<br />
* [[野間文芸新人賞]](講談社)<br />
<br />
== 外部リンク ==<br />
*[http://www.bunshun.co.jp/award/akutagawa/list1.htm 各賞紹介 - 芥川賞 - (文藝春秋)]<br />
<br />
[[Category:芥川龍之介賞|*]]<br />
[[Category:文学の賞|あくたかわりゆうのすけしよう]]<br />
{{Wikipedia/Ja}}</div>
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中沢けい
2019-10-11T21:41:36Z
<p>Chobichobi: </p>
<hr />
<div>'''中沢 けい'''(なかざわ けい、1959年10月6日 - )は、日本の小説家、法政大学教授。[[群像新人文学賞]]受賞、[[野間文芸新人賞]]受賞、1978年、[[芥川賞]]候補<br />
<br />
==目次==<br />
*1 人物・来歴<br />
*2 著書<br />
*3 脚注<br />
*4 外部リンク<br />
<br />
<br />
==人物・来歴==<br />
千葉県館山市出身。[[千葉県立安房高等学校]]卒業。1978年[[明治大学]]政治経済学部経済学科に入学し、同年「海を感じる時」で第21回群像新人文学賞を受賞した。1982年明治大学卒業。明治大学大学院政治経済学研究科経済学専攻博士前期課程修了、明治大学大学院政治経済学研究科博士後期課程単位取得。文学博士(法政大学)。<br />
<br />
1985年には『水平線上にて』で第7回野間文芸新人賞を受賞した。[[芥川賞]]候補。<br />
21歳で出版社社員と結婚、二児を産んだが離婚[2]。シングルマザーとして親子関係や子育てに関しての発言も多い。<br />
西部邁主宰の雑誌『発言者』に、1999年から2000年「思考の原器」、2000年から2005年まで「器物愛玩」を連載した。<br />
2005年法政大学文学部日本文学科教授に就任。「法政文芸」編集長も務める。BRC(放送と人権等権利に関する委員会)委員となっている。 2013年『楽隊のうさぎ』が鈴木卓爾監督で映画化された。中沢作品初の映画化となる。<br />
有田芳生と仲がよく、のりこえねっと『ヘイトスピーチってなに? レイシズムってどんなこと? 』(のりこえブックス)2014年4月23日刊行で、中沢が日本のレイシズムの事例項目を担当している。<br />
2015年8月3日のニコニコ動画で、「ヘイトスピーチをする人間は3歳児のようなものであり、反論するのではなく叱りつけるしかない。」と自身が批判するレイシストと同様の発言を行い大きな批判を浴びた[要出典]。またインターネット上の言論において「インターネットにおいて言論の管理をすることが必要」という言論の自由を否定する発言を行い痛烈な批判を浴びているが、反省や謝罪は一切行っていない[要出典]。<br />
2016年東京都知事選挙では、野党共闘の統一候補として立候補した鳥越俊太郎への支持を表明していたが、鳥越が落選した後の8月13日にはツイッターで「こんなアホダラ候補でも『野党共闘が大事』でがんばれば130万票とれたってこと。良い候補が見つかれば300万票超えも夢ではありません。」と鳥越を揶揄した[3]。 <br />
<br />
令和元年8月23日、中沢けい教授のツイート<br />
韓国は8つも偵察衛星を持っていることを知らない人がぞろぞろ出てきた。そんな人たちに支持される首相は自分の政府が出した「個人賠償権は残っている」との見解を忘れている。<br />
<br />
==著書==<br />
*『海を感じる時』講談社 1978、のち文庫、文芸文庫 *2014年12月に映画化[4]<br />
*『女ともだち』河出書房新社 1981 のち文庫、講談社文芸文庫<br />
*『野ぶどうを摘む』講談社 1981、のち文庫<br />
*『風のことば海の記憶』冬樹社 1983 のち中公文庫<br />
*『ひとりでいるよ一羽の鳥が』講談社 1983 のち文庫<br />
*『水平線上にて』講談社 1985 のち文芸文庫(海を感じる時との合冊)<br />
*『往きがけの空』河出書房新社 1986<br />
*『静謐の日』福武書店 1986<br />
*『曇り日を』福武書店 1988<br />
*『喫水』集英社 1988 のち文庫<br />
*『遊覧街道』リクルート出版 1989<br />
*『首都圏』集英社 1991 のち文庫<br />
*『男の背中』日本文芸社 1993<br />
*『仮寝』講談社 1993<br />
*『楽譜帳 女ともだちそれから』集英社 1994 のち文庫<br />
*『親、まあ』河出書房新社 1994<br />
*『夜程』日本文芸社 1995<br />
『豆畑の夜』講談社 1995<br />
*『占術家入門報告』朝日新聞社 1996<br />
*『さくらささくれ』講談社 1999<br />
*『豆畑の昼』講談社 1999<br />
*『時の装飾法』青土社 2000<br />
*『楽隊のうさぎ』新潮社 2000 のち文庫<br />
*『人生の細部』青土社 2001<br />
*『月の桂』集英社 2001<br />
*『うさぎとトランペット』新潮社 2004 のち文庫<br />
*『豊海と育海の物語』集英社文庫 2006(文庫オリジナル編集)<br />
*『大人になるヒント』メディアパル 2008<br />
*『書評 時評 本の話』河出書房新社 2011<br />
*『動物園の王子』新潮社、2013<br />
*『麹町二婆二娘孫一人』新潮社、2014<br />
*『アンチヘイト・ダイアローグ』(対談集)人文書院、2015年 <br />
<br />
<br />
==脚注==<br />
*『読売年鑑 2016年版』(読売新聞東京本社、2016年)p.459<br />
*「年譜」『女ともだち』講談社文芸文庫<br />
^*https://mobile.twitter.com/kei_nakazawa/status/764264713152671744<br />
* “市川由衣、少女から女への変貌…中沢けい「海を感じる時」映画化で大胆演技!”. シネマトゥデイ. (2014年3月27日) 2014年12月5日<br />
<br />
==閲覧==<br />
*外部リンク[編集]<br />
*中沢けい - Facebook<br />
*公式ウェブサイト「豆畑の友」<br />
*くすだま「明日、何を食べようか」<br />
*中沢けい - Researchmap<br />
*中沢けい - J-GLOBAL</div>
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中沢けい
2019-10-11T21:39:22Z
<p>Chobichobi: </p>
<hr />
<div>'''中沢 けい'''(なかざわ けい、1959年10月6日 - )は、日本の小説家、法政大学教授。芥川賞、群像新人文学賞、野間文芸新人賞<br />
<br />
==目次==<br />
*1 人物・来歴<br />
*2 著書<br />
*3 脚注<br />
*4 外部リンク<br />
<br />
<br />
==人物・来歴==<br />
千葉県館山市出身。[[千葉県立安房高等学校]]卒業。1978年[[明治大学]]政治経済学部経済学科に入学し、同年「海を感じる時」で第21回群像新人文学賞を受賞した。1982年明治大学卒業。明治大学大学院政治経済学研究科経済学専攻博士前期課程修了、明治大学大学院政治経済学研究科博士後期課程単位取得。文学博士(法政大学)。<br />
<br />
1985年には『水平線上にて』で第7回野間文芸新人賞を受賞した。[[芥川賞]]候補。<br />
21歳で出版社社員と結婚、二児を産んだが離婚[2]。シングルマザーとして親子関係や子育てに関しての発言も多い。<br />
西部邁主宰の雑誌『発言者』に、1999年から2000年「思考の原器」、2000年から2005年まで「器物愛玩」を連載した。<br />
2005年法政大学文学部日本文学科教授に就任。「法政文芸」編集長も務める。BRC(放送と人権等権利に関する委員会)委員となっている。 2013年『楽隊のうさぎ』が鈴木卓爾監督で映画化された。中沢作品初の映画化となる。<br />
有田芳生と仲がよく、のりこえねっと『ヘイトスピーチってなに? レイシズムってどんなこと? 』(のりこえブックス)2014年4月23日刊行で、中沢が日本のレイシズムの事例項目を担当している。<br />
2015年8月3日のニコニコ動画で、「ヘイトスピーチをする人間は3歳児のようなものであり、反論するのではなく叱りつけるしかない。」と自身が批判するレイシストと同様の発言を行い大きな批判を浴びた[要出典]。またインターネット上の言論において「インターネットにおいて言論の管理をすることが必要」という言論の自由を否定する発言を行い痛烈な批判を浴びているが、反省や謝罪は一切行っていない[要出典]。<br />
2016年東京都知事選挙では、野党共闘の統一候補として立候補した鳥越俊太郎への支持を表明していたが、鳥越が落選した後の8月13日にはツイッターで「こんなアホダラ候補でも『野党共闘が大事』でがんばれば130万票とれたってこと。良い候補が見つかれば300万票超えも夢ではありません。」と鳥越を揶揄した[3]。 <br />
<br />
令和元年8月23日、中沢けい教授のツイート<br />
韓国は8つも偵察衛星を持っていることを知らない人がぞろぞろ出てきた。そんな人たちに支持される首相は自分の政府が出した「個人賠償権は残っている」との見解を忘れている。<br />
<br />
==著書==<br />
*『海を感じる時』講談社 1978、のち文庫、文芸文庫 *2014年12月に映画化[4]<br />
*『女ともだち』河出書房新社 1981 のち文庫、講談社文芸文庫<br />
*『野ぶどうを摘む』講談社 1981、のち文庫<br />
*『風のことば海の記憶』冬樹社 1983 のち中公文庫<br />
*『ひとりでいるよ一羽の鳥が』講談社 1983 のち文庫<br />
*『水平線上にて』講談社 1985 のち文芸文庫(海を感じる時との合冊)<br />
*『往きがけの空』河出書房新社 1986<br />
*『静謐の日』福武書店 1986<br />
*『曇り日を』福武書店 1988<br />
*『喫水』集英社 1988 のち文庫<br />
*『遊覧街道』リクルート出版 1989<br />
*『首都圏』集英社 1991 のち文庫<br />
*『男の背中』日本文芸社 1993<br />
*『仮寝』講談社 1993<br />
*『楽譜帳 女ともだちそれから』集英社 1994 のち文庫<br />
*『親、まあ』河出書房新社 1994<br />
*『夜程』日本文芸社 1995<br />
『豆畑の夜』講談社 1995<br />
*『占術家入門報告』朝日新聞社 1996<br />
*『さくらささくれ』講談社 1999<br />
*『豆畑の昼』講談社 1999<br />
*『時の装飾法』青土社 2000<br />
*『楽隊のうさぎ』新潮社 2000 のち文庫<br />
*『人生の細部』青土社 2001<br />
*『月の桂』集英社 2001<br />
*『うさぎとトランペット』新潮社 2004 のち文庫<br />
*『豊海と育海の物語』集英社文庫 2006(文庫オリジナル編集)<br />
*『大人になるヒント』メディアパル 2008<br />
*『書評 時評 本の話』河出書房新社 2011<br />
*『動物園の王子』新潮社、2013<br />
*『麹町二婆二娘孫一人』新潮社、2014<br />
*『アンチヘイト・ダイアローグ』(対談集)人文書院、2015年 <br />
<br />
<br />
==脚注==<br />
*『読売年鑑 2016年版』(読売新聞東京本社、2016年)p.459<br />
*「年譜」『女ともだち』講談社文芸文庫<br />
^*https://mobile.twitter.com/kei_nakazawa/status/764264713152671744<br />
* “市川由衣、少女から女への変貌…中沢けい「海を感じる時」映画化で大胆演技!”. シネマトゥデイ. (2014年3月27日) 2014年12月5日<br />
<br />
==閲覧==<br />
*外部リンク[編集]<br />
*中沢けい - Facebook<br />
*公式ウェブサイト「豆畑の友」<br />
*くすだま「明日、何を食べようか」<br />
*中沢けい - Researchmap<br />
*中沢けい - J-GLOBAL</div>
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中沢けい
2019-10-11T21:37:46Z
<p>Chobichobi: /* 人物・来歴 */</p>
<hr />
<div>'''中沢 けい'''(なかざわ けい、1959年10月6日 - )は、日本の小説家、法政大学教授。芥川賞候補、群像新人文学賞<br />
<br />
==目次==<br />
*1 人物・来歴<br />
*2 著書<br />
*3 脚注<br />
*4 外部リンク<br />
<br />
<br />
==人物・来歴==<br />
千葉県館山市出身。[[千葉県立安房高等学校]]卒業。1978年[[明治大学]]政治経済学部経済学科に入学し、同年「海を感じる時」で第21回群像新人文学賞を受賞した。1982年明治大学卒業。明治大学大学院政治経済学研究科経済学専攻博士前期課程修了、明治大学大学院政治経済学研究科博士後期課程単位取得。文学博士(法政大学)。<br />
<br />
1985年には『水平線上にて』で第7回野間文芸新人賞を受賞した。[[芥川賞]]候補。<br />
21歳で出版社社員と結婚、二児を産んだが離婚[2]。シングルマザーとして親子関係や子育てに関しての発言も多い。<br />
西部邁主宰の雑誌『発言者』に、1999年から2000年「思考の原器」、2000年から2005年まで「器物愛玩」を連載した。<br />
2005年法政大学文学部日本文学科教授に就任。「法政文芸」編集長も務める。BRC(放送と人権等権利に関する委員会)委員となっている。 2013年『楽隊のうさぎ』が鈴木卓爾監督で映画化された。中沢作品初の映画化となる。<br />
有田芳生と仲がよく、のりこえねっと『ヘイトスピーチってなに? レイシズムってどんなこと? 』(のりこえブックス)2014年4月23日刊行で、中沢が日本のレイシズムの事例項目を担当している。<br />
2015年8月3日のニコニコ動画で、「ヘイトスピーチをする人間は3歳児のようなものであり、反論するのではなく叱りつけるしかない。」と自身が批判するレイシストと同様の発言を行い大きな批判を浴びた[要出典]。またインターネット上の言論において「インターネットにおいて言論の管理をすることが必要」という言論の自由を否定する発言を行い痛烈な批判を浴びているが、反省や謝罪は一切行っていない[要出典]。<br />
2016年東京都知事選挙では、野党共闘の統一候補として立候補した鳥越俊太郎への支持を表明していたが、鳥越が落選した後の8月13日にはツイッターで「こんなアホダラ候補でも『野党共闘が大事』でがんばれば130万票とれたってこと。良い候補が見つかれば300万票超えも夢ではありません。」と鳥越を揶揄した[3]。 <br />
<br />
令和元年8月23日、中沢けい教授のツイート<br />
韓国は8つも偵察衛星を持っていることを知らない人がぞろぞろ出てきた。そんな人たちに支持される首相は自分の政府が出した「個人賠償権は残っている」との見解を忘れている。<br />
<br />
==著書==<br />
*『海を感じる時』講談社 1978、のち文庫、文芸文庫 *2014年12月に映画化[4]<br />
*『女ともだち』河出書房新社 1981 のち文庫、講談社文芸文庫<br />
*『野ぶどうを摘む』講談社 1981、のち文庫<br />
*『風のことば海の記憶』冬樹社 1983 のち中公文庫<br />
*『ひとりでいるよ一羽の鳥が』講談社 1983 のち文庫<br />
*『水平線上にて』講談社 1985 のち文芸文庫(海を感じる時との合冊)<br />
*『往きがけの空』河出書房新社 1986<br />
*『静謐の日』福武書店 1986<br />
*『曇り日を』福武書店 1988<br />
*『喫水』集英社 1988 のち文庫<br />
*『遊覧街道』リクルート出版 1989<br />
*『首都圏』集英社 1991 のち文庫<br />
*『男の背中』日本文芸社 1993<br />
*『仮寝』講談社 1993<br />
*『楽譜帳 女ともだちそれから』集英社 1994 のち文庫<br />
*『親、まあ』河出書房新社 1994<br />
*『夜程』日本文芸社 1995<br />
『豆畑の夜』講談社 1995<br />
*『占術家入門報告』朝日新聞社 1996<br />
*『さくらささくれ』講談社 1999<br />
*『豆畑の昼』講談社 1999<br />
*『時の装飾法』青土社 2000<br />
*『楽隊のうさぎ』新潮社 2000 のち文庫<br />
*『人生の細部』青土社 2001<br />
*『月の桂』集英社 2001<br />
*『うさぎとトランペット』新潮社 2004 のち文庫<br />
*『豊海と育海の物語』集英社文庫 2006(文庫オリジナル編集)<br />
*『大人になるヒント』メディアパル 2008<br />
*『書評 時評 本の話』河出書房新社 2011<br />
*『動物園の王子』新潮社、2013<br />
*『麹町二婆二娘孫一人』新潮社、2014<br />
*『アンチヘイト・ダイアローグ』(対談集)人文書院、2015年 <br />
<br />
<br />
==脚注==<br />
*『読売年鑑 2016年版』(読売新聞東京本社、2016年)p.459<br />
*「年譜」『女ともだち』講談社文芸文庫<br />
^*https://mobile.twitter.com/kei_nakazawa/status/764264713152671744<br />
* “市川由衣、少女から女への変貌…中沢けい「海を感じる時」映画化で大胆演技!”. シネマトゥデイ. (2014年3月27日) 2014年12月5日<br />
<br />
==閲覧==<br />
*外部リンク[編集]<br />
*中沢けい - Facebook<br />
*公式ウェブサイト「豆畑の友」<br />
*くすだま「明日、何を食べようか」<br />
*中沢けい - Researchmap<br />
*中沢けい - J-GLOBAL</div>
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中沢けい
2019-10-11T21:36:47Z
<p>Chobichobi: /* 人物・来歴 */</p>
<hr />
<div>'''中沢 けい'''(なかざわ けい、1959年10月6日 - )は、日本の小説家、法政大学教授。芥川賞候補、群像新人文学賞<br />
<br />
==目次==<br />
*1 人物・来歴<br />
*2 著書<br />
*3 脚注<br />
*4 外部リンク<br />
<br />
<br />
==人物・来歴==<br />
千葉県館山市出身。[[千葉県立安房高等学校]]卒業。1978年[[明治大学]]政治経済学部経済学科に入学し、同年「海を感じる時」で第21回群像新人文学賞を受賞した。1982年明治大学卒業。明治大学大学院政治経済学研究科経済学専攻博士前期課程修了、明治大学大学院政治経済学研究科博士後期課程単位取得。文学博士(法政大学)。<br />
<br />
1985年には『水平線上にて』で第7回野間文芸新人賞を受賞した。<br />
21歳で出版社社員と結婚、二児を産んだが離婚[2]。シングルマザーとして親子関係や子育てに関しての発言も多い。<br />
西部邁主宰の雑誌『発言者』に、1999年から2000年「思考の原器」、2000年から2005年まで「器物愛玩」を連載した。<br />
2005年法政大学文学部日本文学科教授に就任。「法政文芸」編集長も務める。BRC(放送と人権等権利に関する委員会)委員となっている。 2013年『楽隊のうさぎ』が鈴木卓爾監督で映画化された。中沢作品初の映画化となる。<br />
有田芳生と仲がよく、のりこえねっと『ヘイトスピーチってなに? レイシズムってどんなこと? 』(のりこえブックス)2014年4月23日刊行で、中沢が日本のレイシズムの事例項目を担当している。<br />
2015年8月3日のニコニコ動画で、「ヘイトスピーチをする人間は3歳児のようなものであり、反論するのではなく叱りつけるしかない。」と自身が批判するレイシストと同様の発言を行い大きな批判を浴びた[要出典]。またインターネット上の言論において「インターネットにおいて言論の管理をすることが必要」という言論の自由を否定する発言を行い痛烈な批判を浴びているが、反省や謝罪は一切行っていない[要出典]。<br />
2016年東京都知事選挙では、野党共闘の統一候補として立候補した鳥越俊太郎への支持を表明していたが、鳥越が落選した後の8月13日にはツイッターで「こんなアホダラ候補でも『野党共闘が大事』でがんばれば130万票とれたってこと。良い候補が見つかれば300万票超えも夢ではありません。」と鳥越を揶揄した[3]。 <br />
<br />
令和元年8月23日、中沢けい教授のツイート<br />
韓国は8つも偵察衛星を持っていることを知らない人がぞろぞろ出てきた。そんな人たちに支持される首相は自分の政府が出した「個人賠償権は残っている」との見解を忘れている。<br />
<br />
==著書==<br />
*『海を感じる時』講談社 1978、のち文庫、文芸文庫 *2014年12月に映画化[4]<br />
*『女ともだち』河出書房新社 1981 のち文庫、講談社文芸文庫<br />
*『野ぶどうを摘む』講談社 1981、のち文庫<br />
*『風のことば海の記憶』冬樹社 1983 のち中公文庫<br />
*『ひとりでいるよ一羽の鳥が』講談社 1983 のち文庫<br />
*『水平線上にて』講談社 1985 のち文芸文庫(海を感じる時との合冊)<br />
*『往きがけの空』河出書房新社 1986<br />
*『静謐の日』福武書店 1986<br />
*『曇り日を』福武書店 1988<br />
*『喫水』集英社 1988 のち文庫<br />
*『遊覧街道』リクルート出版 1989<br />
*『首都圏』集英社 1991 のち文庫<br />
*『男の背中』日本文芸社 1993<br />
*『仮寝』講談社 1993<br />
*『楽譜帳 女ともだちそれから』集英社 1994 のち文庫<br />
*『親、まあ』河出書房新社 1994<br />
*『夜程』日本文芸社 1995<br />
『豆畑の夜』講談社 1995<br />
*『占術家入門報告』朝日新聞社 1996<br />
*『さくらささくれ』講談社 1999<br />
*『豆畑の昼』講談社 1999<br />
*『時の装飾法』青土社 2000<br />
*『楽隊のうさぎ』新潮社 2000 のち文庫<br />
*『人生の細部』青土社 2001<br />
*『月の桂』集英社 2001<br />
*『うさぎとトランペット』新潮社 2004 のち文庫<br />
*『豊海と育海の物語』集英社文庫 2006(文庫オリジナル編集)<br />
*『大人になるヒント』メディアパル 2008<br />
*『書評 時評 本の話』河出書房新社 2011<br />
*『動物園の王子』新潮社、2013<br />
*『麹町二婆二娘孫一人』新潮社、2014<br />
*『アンチヘイト・ダイアローグ』(対談集)人文書院、2015年 <br />
<br />
<br />
==脚注==<br />
*『読売年鑑 2016年版』(読売新聞東京本社、2016年)p.459<br />
*「年譜」『女ともだち』講談社文芸文庫<br />
^*https://mobile.twitter.com/kei_nakazawa/status/764264713152671744<br />
* “市川由衣、少女から女への変貌…中沢けい「海を感じる時」映画化で大胆演技!”. シネマトゥデイ. (2014年3月27日) 2014年12月5日<br />
<br />
==閲覧==<br />
*外部リンク[編集]<br />
*中沢けい - Facebook<br />
*公式ウェブサイト「豆畑の友」<br />
*くすだま「明日、何を食べようか」<br />
*中沢けい - Researchmap<br />
*中沢けい - J-GLOBAL</div>
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工藤美知尋
2019-10-11T21:22:05Z
<p>Chobichobi: ページの作成:「'''工藤 美知尋'''(くどう みちひろ、1947年4月29日[1] - )は、日本の戦史研究者、日本大学名誉教授 ==目次== *1 人物 *2 著...」</p>
<hr />
<div>'''工藤 美知尋'''(くどう みちひろ、1947年4月29日[1] - )は、日本の戦史研究者、日本大学名誉教授<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
==目次==<br />
*1 人物<br />
*2 著作<br />
*3 脚注<br />
*4 外部リンク<br />
<br />
==人物==<br />
1947年、山形県長井市に生まれる。山形県立長井高等学校を経て、1970年3月、日本大学法学部政治経済学科卒業。1972年3月、日本大学大学院政治学研究科修士課程修了。1972年~1974年、オーストリア、ウィーン大学留学。1979年、日本大学大学院政治学研究科博士課程単位取得退学。1985年、日本大学より政治学博士号を取得。博士論文は「日本海軍 太平洋戦争開戦原因論」。<br />
日本大学法学部助手、日本大学法学部専任講師、助教授、教授の後、定年退職、日本大学名誉教授に称される。<br />
<br />
大日本帝国海軍の研究者としても著名で、帝国海軍史の著作もある。<br />
<br />
==著作==<br />
*「日本海軍と太平洋戦争」(上・下)、南窓社、1982年<br />
*「東条英機暗殺計画」、PHP研究所、1986年<br />
*「稜線 劇物語 山本五十六」、光人社、1990年<br />
*「残照 劇物語 井上成美」、光人社、1990年<br />
*「孤独 劇物語 裕仁天皇」、光人社、1991年<br />
*「日本海軍の歴史がよくわかる本」、PHP研究所、2007年<br />
<br />
==脚注==<br />
*『読売年鑑 2016年版』(読売新聞東京本社、2016年)p.258<br />
外部リンク[ソースを編集]<br />
<br />
==典拠管理== <br />
*WorldCat Identities ISNI: 0000 0000 8460 9788 LCCN: n83225207 VIAF: 108502058<br />
カテゴリ: 日本の歴史学者日本大学出身の人物ウィーン大学出身の人物日本近現代軍事史学者日本大学の教員山形県出身の人物1947年生存命人物</div>
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中沢けい
2019-10-11T13:54:29Z
<p>Chobichobi: ページの作成:「'''中沢 けい'''(なかざわ けい、1959年10月6日 - )は、日本の小説家、法政大学教授。芥川賞候補、群像新人文学賞 ==目次== *1...」</p>
<hr />
<div>'''中沢 けい'''(なかざわ けい、1959年10月6日 - )は、日本の小説家、法政大学教授。芥川賞候補、群像新人文学賞<br />
<br />
==目次==<br />
*1 人物・来歴<br />
*2 著書<br />
*3 脚注<br />
*4 外部リンク<br />
<br />
<br />
==人物・来歴==<br />
千葉県館山市出身。[[千葉県立安房高等学校]]卒業。1978年[[明治大学]]政治経済学部経済学科に入学し、同年「海を感じる時」で第21回群像新人文学賞を受賞した。1982年明治大学卒業。1985年には『水平線上にて』で第7回野間文芸新人賞を受賞した。<br />
21歳で出版社社員と結婚、二児を産んだが離婚[2]。シングルマザーとして親子関係や子育てに関しての発言も多い。<br />
西部邁主宰の雑誌『発言者』に、1999年から2000年「思考の原器」、2000年から2005年まで「器物愛玩」を連載した。<br />
2005年法政大学文学部日本文学科教授に就任。「法政文芸」編集長も務める。BRC(放送と人権等権利に関する委員会)委員となっている。 2013年『楽隊のうさぎ』が鈴木卓爾監督で映画化された。中沢作品初の映画化となる。<br />
有田芳生と仲がよく、のりこえねっと『ヘイトスピーチってなに? レイシズムってどんなこと? 』(のりこえブックス)2014年4月23日刊行で、中沢が日本のレイシズムの事例項目を担当している。<br />
2015年8月3日のニコニコ動画で、「ヘイトスピーチをする人間は3歳児のようなものであり、反論するのではなく叱りつけるしかない。」と自身が批判するレイシストと同様の発言を行い大きな批判を浴びた[要出典]。またインターネット上の言論において「インターネットにおいて言論の管理をすることが必要」という言論の自由を否定する発言を行い痛烈な批判を浴びているが、反省や謝罪は一切行っていない[要出典]。<br />
2016年東京都知事選挙では、野党共闘の統一候補として立候補した鳥越俊太郎への支持を表明していたが、鳥越が落選した後の8月13日にはツイッターで「こんなアホダラ候補でも『野党共闘が大事』でがんばれば130万票とれたってこと。良い候補が見つかれば300万票超えも夢ではありません。」と鳥越を揶揄した[3]。 <br />
<br />
令和元年8月23日、中沢けい教授のツイート<br />
韓国は8つも偵察衛星を持っていることを知らない人がぞろぞろ出てきた。そんな人たちに支持される首相は自分の政府が出した「個人賠償権は残っている」との見解を忘れている。<br />
<br />
<br />
==著書==<br />
*『海を感じる時』講談社 1978、のち文庫、文芸文庫 *2014年12月に映画化[4]<br />
*『女ともだち』河出書房新社 1981 のち文庫、講談社文芸文庫<br />
*『野ぶどうを摘む』講談社 1981、のち文庫<br />
*『風のことば海の記憶』冬樹社 1983 のち中公文庫<br />
*『ひとりでいるよ一羽の鳥が』講談社 1983 のち文庫<br />
*『水平線上にて』講談社 1985 のち文芸文庫(海を感じる時との合冊)<br />
*『往きがけの空』河出書房新社 1986<br />
*『静謐の日』福武書店 1986<br />
*『曇り日を』福武書店 1988<br />
*『喫水』集英社 1988 のち文庫<br />
*『遊覧街道』リクルート出版 1989<br />
*『首都圏』集英社 1991 のち文庫<br />
*『男の背中』日本文芸社 1993<br />
*『仮寝』講談社 1993<br />
*『楽譜帳 女ともだちそれから』集英社 1994 のち文庫<br />
*『親、まあ』河出書房新社 1994<br />
*『夜程』日本文芸社 1995<br />
『豆畑の夜』講談社 1995<br />
*『占術家入門報告』朝日新聞社 1996<br />
*『さくらささくれ』講談社 1999<br />
*『豆畑の昼』講談社 1999<br />
*『時の装飾法』青土社 2000<br />
*『楽隊のうさぎ』新潮社 2000 のち文庫<br />
*『人生の細部』青土社 2001<br />
*『月の桂』集英社 2001<br />
*『うさぎとトランペット』新潮社 2004 のち文庫<br />
*『豊海と育海の物語』集英社文庫 2006(文庫オリジナル編集)<br />
*『大人になるヒント』メディアパル 2008<br />
*『書評 時評 本の話』河出書房新社 2011<br />
*『動物園の王子』新潮社、2013<br />
*『麹町二婆二娘孫一人』新潮社、2014<br />
*『アンチヘイト・ダイアローグ』(対談集)人文書院、2015年 <br />
<br />
<br />
==脚注==<br />
*『読売年鑑 2016年版』(読売新聞東京本社、2016年)p.459<br />
*「年譜」『女ともだち』講談社文芸文庫<br />
^*https://mobile.twitter.com/kei_nakazawa/status/764264713152671744<br />
* “市川由衣、少女から女への変貌…中沢けい「海を感じる時」映画化で大胆演技!”. シネマトゥデイ. (2014年3月27日) 2014年12月5日<br />
<br />
==閲覧==<br />
*外部リンク[編集]<br />
*中沢けい - Facebook<br />
*公式ウェブサイト「豆畑の友」<br />
*くすだま「明日、何を食べようか」<br />
*中沢けい - Researchmap<br />
*中沢けい - J-GLOBAL</div>
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小泉正人
2019-10-11T11:26:42Z
<p>Chobichobi: </p>
<hr />
<div>'''小泉正人''' (こいずみ まさと、 1969年1月1日 ~ )は、日本の神学者、自由人、詩人、哲学者、スナフキン、仙人、歴史学者、画家<br />
<br />
<br />
==概略==<br />
1969年1月1日、千葉県千葉市花見川区生まれ。私立[[青い鳥第二幼稚園]]卒園、[[千葉市立さつきが丘西小学校]]卒業、[[千葉市立さつきが丘中学校]]卒業、千葉県私立[[八千代松陰高等学校]]から、[[明治大学]][[政治経済学部]]経済学科卒業、[[早稲田大学]]文学学術院[[文学部]]社会専修卒業、現在は、宗教学、心理学、[[地方史]]、政治学、経済学、哲学、思想、文芸評論、日本史、世界史など幅広く活動している。<br />
[[救世軍]]兵士でもある。<br />
<br />
南朝、後南朝の歴史研究における権威である。<br />
<br />
==著作==<br />
*『亀井勝一郎の世界』<br />
*『ローマ教皇』<br />
*『真間の手児奈物語』<br />
*『ミシェル・フーコーの哲学』<br />
*『種田山頭火伝』<br />
* 『多紀元堅』<br />
* 『入門 大人の発達障害 自閉症スペクトラム(ASD)、注意欠陥多動性障害(ADHD)、注意欠陥障害(ADD)、アスペルガー』<br />
* 『将軍家奥医師 多紀氏』<br />
*『高見順の文学』<br />
* 『画壇の仙人 熊谷守一』<br />
*『丹羽文雄伝』<br />
* 『洋学の家 桂川家』<br />
* 『上総広常』<br />
* 『矢数道明』<br />
* 『臨床医学の誕生』<br />
* 『入門 漢方医学』<br />
* 『肥沼信次伝』<br />
* 『千葉常胤』<br />
* 『三浦義明』<br />
* 『千葉市長 加納金助』<br />
* 『財部実秀千葉市長』<br />
<br />
==関連項目==<br />
*[[内村鑑三]]<br />
*[[無教会主義]]<br />
*[[yourpedia]]<br />
*[[亀井勝一郎]]<br />
*[[高見順]]<br />
*[[丹羽文雄]]<br />
*[[北杜夫]]<br />
*[[斎藤茂太]]<br />
*[[種田山頭火]]<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
==外部リンク==<br />
*早稲田大学<br />
*yourpedia</div>
Chobichobi
http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E5%B0%8F%E6%B3%89%E6%AD%A3%E4%BA%BA&diff=371975
小泉正人
2019-10-11T11:25:28Z
<p>Chobichobi: </p>
<hr />
<div>'''小泉正人''' (こいずみ まさと、 1969年1月1日 ~ )は、日本の神学者、自由人、詩人、哲学者、スナフキン、仙人、歴史学者、画家<br />
<br />
<br />
==概略==<br />
1969年1月1日、千葉県千葉市花見川区生まれ。私立[[青い鳥第二幼稚園]]卒園、[[千葉市立さつきが丘西小学校]]卒業、[[千葉市立さつきが丘中学校]]卒業、千葉県私立[[八千代松陰高等学校]]から、[[明治大学]][[政治経済学部]]経済学科卒業、[[早稲田大学]]文学学術院[[文学部]]社会専修卒業、現在は、宗教学、心理学、[[地方史]]、政治学、経済学、哲学、思想、文芸評論、日本史、世界史など幅広く活動している。<br />
プロフェッショナル調理補助、皿洗い、[[救世軍]]兵士でもある。<br />
<br />
南朝、後南朝の歴史研究における権威である。<br />
<br />
==著作==<br />
*『亀井勝一郎の世界』<br />
*『ローマ教皇』<br />
*『真間の手児奈物語』<br />
*『ミシェル・フーコーの哲学』<br />
*『種田山頭火伝』<br />
* 『多紀元堅』<br />
* 『入門 大人の発達障害 自閉症スペクトラム(ASD)、注意欠陥多動性障害(ADHD)、注意欠陥障害(ADD)、アスペルガー』<br />
* 『将軍家奥医師 多紀氏』<br />
*『高見順の文学』<br />
* 『画壇の仙人 熊谷守一』<br />
*『丹羽文雄伝』<br />
* 『洋学の家 桂川家』<br />
* 『上総広常』<br />
* 『矢数道明』<br />
* 『臨床医学の誕生』<br />
* 『入門 漢方医学』<br />
* 『肥沼信次伝』<br />
* 『千葉常胤』<br />
* 『三浦義明』<br />
* 『千葉市長 加納金助』<br />
* 『財部実秀千葉市長』<br />
<br />
==関連項目==<br />
*[[内村鑑三]]<br />
*[[無教会主義]]<br />
*[[yourpedia]]<br />
*[[亀井勝一郎]]<br />
*[[高見順]]<br />
*[[丹羽文雄]]<br />
*[[北杜夫]]<br />
*[[斎藤茂太]]<br />
*[[種田山頭火]]<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
==外部リンク==<br />
*早稲田大学<br />
*yourpedia</div>
Chobichobi
http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E4%B8%AD%E9%87%8E%E4%B8%80%E6%B0%B4&diff=371794
中野一水
2019-09-30T13:18:45Z
<p>Chobichobi: </p>
<hr />
<div>'''中野一水''' (なかの いっすい、 1907年3月3日〜1983年8月4日)は日本の画家、東京芸術大学名誉教授<br />
人間国宝。文化功労者、文化勲章、フランス芸術文化勲章、レジオンドヌール勲章。<br />
<br />
==人物==<br />
1911年3月3日[[徳島県]][[徳島市]]生まれ。旧制[[徳島県立徳島中学校]]を経て、旧制[[東京美術学校]]卒業。フランスに留学。[[ソルボンヌ大学]]に学ぶ。在学中から[[藤島武二]]に師事する。太平洋戦争中は陸軍大尉として従軍したが戦闘は一度もなかった。戦後は、その天才的な技法と抽象物の画力によって大御所となる。[[文化功労者]]を授けられる。従三位勲一等瑞宝章。[[東京芸術大学]]専任講師、助教授、教授を歴任。その後は在野の画家として余生を[[神奈川県]][[鎌倉市]]の窯と自宅、草庵で過ごす。墓所は[[鎌倉霊園]]にある。<br />
[[人間国宝]]。[[千葉大学工学部]]、[[女子美術大学]]でも教えた。<br />
<br />
==関連項目==<br />
*[[藤島武二]]<br />
*[[割烹 川松 市川駅前店(本店)]]<br />
<br />
==著書==<br />
*『中野一水の世界』<br />
<br />
==外部リンク==<br />
<br />
* 東京芸術大学<br />
<br />
{{DEFAULTSORT:なかの いっすい}}<br />
[[Category:日本の画家]]<br />
[[Category:徳島県出身の人物]]<br />
[[Category:1907年生]]<br />
[[Category:1983年没]]</div>
Chobichobi
http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E6%A8%AA%E4%BA%95%E5%BA%84%E4%B8%80&diff=371750
横井庄一
2019-09-27T07:50:24Z
<p>Chobichobi: /* 来歴 */</p>
<hr />
<div>[[Image:Shouichi yokoi.jpg|200px|thumb|横井 庄一軍曹]]<br />
'''横井 庄一'''(よこい しょういち、[[1915年]][[3月31日]] - [[1997年]][[9月22日]])は、元[[大日本帝国|日本]][[軍人|兵]]である。[[太平洋戦争]]([[大東亜戦争]])終結から28年目、[[アメリカ合衆国]]領[[グアム|グアム島]]で地元の[[狩猟|猟師]]に発見された。[[栄典]]は[[勲七等]][[旭日章|青色桐葉章]]。元陸軍軍曹、のち陸軍少尉、文学博士(早稲田大学)。南山大学名誉教授<br />
<br />
== 来歴 ==<br />
1915年(大正4年)、愛知県[[海部郡 (愛知県)|海部郡]][[佐織町|佐織村]](現在の[[愛西市]])にて、父山田庄七と母つるの間に長男として生まれるが、両親が3年後に離婚し、姓が母の旧姓大鹿になる。生後3ヶ月から小学校5年生まで母親の里(海部郡[[神守村]]、現在の[[津島市]])で大鹿庄一として育てられた。1926年に(大正15年)つるが再婚し、横井姓となる。旧制愛知第五中学校卒業後は上京し、早稲田大学に入学。昼間は、兼松江商に勤務する。そして1935年(昭和10年)に第一補充兵役に編入、[[早稲田大学]]文学部を卒業。<br />
<br />
1941年(昭和16年)には太平洋戦争のため再召集され、[[満州]]を経て1944年(昭和19年)からはグアム島の[[歩兵第38連隊]]に[[伍長]]として配属。戦争が激化し、同年8月にグアムで戦死したとされ戦死公報が届けられた。[[1965年]](昭和40年)[[10月30日]]の第19回戦没者叙勲では、戦没者として、戦前受けていた従五位勲四等から従三位[[勲二等]][[旭日中授章]]への昇叙者として[[官報]]掲載されている。<br />
<br />
その当時グアムに残っていた隊員には[[ポツダム宣言]]([[1945年]])受諾によって日本軍の[[無条件降伏]]が発令されたことが知らされなかった。横井は[[熱帯雨林|ジャングル]]や竹藪に自ら作った地下壕などで生活、グアム派遣から約28年後の[[1972年]](昭和47年)[[1月24日]]にエビやウナギをとるために[[ウケ]]をしかけに行ったところ、現地の行方不明者を捜す村人たちに遭遇し、同年[[2月2日]]に満57歳で日本に帰還した。帰国後、特例として[[陸軍少尉]]となる。<br />
<br />
軍事教育を受け育った横井は「生きて本土へは戻らぬ決意」で出かけた記憶がしっかりとあったため、帰国の際、[[東京国際空港|羽田空港]]で発した第一声は「恥ずかしいけれど、帰って参りました」であった。この言葉をとらえた「'''恥ずかしながら帰って参りました'''」がその年の[[流行語]]となった。同年2月2日14時から60分間にわたり[[日本放送協会|NHK]]で放送された[[報道特別番組]]『横井庄一さん帰る』は、41.2%([[ビデオリサーチ]]・関東地区調べ)の[[視聴率]]を記録した。<br />
<br />
帰国後は、愛知県名古屋市中川区富田町に居住した。戦後の日本の変化に適応できるかどうかが心配されたが、驚くほど素直に戦後の日本に馴染んだ。その年に幡新美保子と結婚した後は、自身のグアムでのサバイバルについて耐乏生活評論家、あるいは生活評論家として全国各地で講演、[[1974年]]7月の[[第10回参議院議員通常選挙]](全国区)にも無所属で立候補し落選した。この後、マスコミの扱いも次第に終息し、横井の生活は落ち着いたが、ヘルニアや胃がんなどの病気がちとなり、満82歳で[[心臓発作]]を起こして死去した。早稲田大学文学部卒業、早稲田大学大学院文学研究科博士前期課程修了、ウィーン大学留学。早稲田大学大学院文学研究科博士後期課程単位取得、のち早稲田大学より、文学博士。南山大学人文学部教授を歴任。南山大学名誉教授。<br />
<br />
== 著書 ==<br />
*『明日への道 全報告グアム島孤独の28年』([[文藝春秋]]、1974年)<br />
*『無事がいちばん 不景気なんかこわくない』([[中央公論社]]、1983年)<br />
*『横井庄一のサバイバル極意書/もっと困れ!』([[小学館]]、1984年)ISBN 4-09-366301-7<br />
<br />
== 記念館 ==<br />
'''横井庄一記念館'''(よこいしょういちきねんかん)は、日本の名古屋市中川区にある私営の[[記念館]]である。横井庄一を記念し、自宅の一部を日曜日にのみ公開している。<br />
<br />
横井の没後、2003年(平成15年)頃、横井家と名古屋市との間において、横井庄一記念館の建設計画が進み、[[2004年]](平成16年)10月の開館を目標としていたが、2004年2月に、記念館老朽化後の管理が難しいとの名古屋市の判断からこの計画は白紙となった。その後、妻の私営という形で名古屋市中川区の自宅を改装して記念館とし、[[2006年]](平成18年)[[6月24日]]に開館した。展示の中心は、横井が竹藪に掘って住んでいた穴を、横井夫妻の知人の美術教諭が紙や竹などで再現した模型である。横井が帰国後に復元した、パゴ(ハイビスカス)の木の繊維を織る機織り機や、魚を捕るかご、[[ココナッツ]]の実で作った椀なども展示されている。<br />
<br />
* 所在地 : [[名古屋市]][[中川区]]冨田町千音寺稲屋4175 <br />
* 館長 : 横井美保子<br />
* 開館日 : 毎週日曜日<br />
* 開館時間 : 10:00 - 16:30<br />
* 入館料 : 無料<br />
<br />
== 参考文献 ==<br />
* [[島村喬]]著 『秘録化石の兵隊 横井元伍長・極限の二十八年』([[番町書房]]、1972年)<br />
* [[伊藤忠彦]]著 『日本人その生と死 横井庄一奇蹟の二八年』([[日芸出版]]、1972年)<br />
* 朝日新聞特派記者団著 『グアムに生きた二十八年 横井庄一さんの記録』([[朝日新聞社]]、1972年)<br />
* 毎日新聞社編 『最後の一兵 グアム島取材記者団の全記録』([[毎日新聞社]]、1972年)<br />
* [[サンケイ新聞]]・フジテレビ特別取材班著 『陸軍伍長横井庄一 その28年間のグアム島生活』([[扶桑社|サンケイ新聞社出版局]]、1972年)<br />
* 文藝春秋編 『「文藝春秋」にみる昭和史』(文藝春秋、1988年) ISBN 4-16-362650-6<br />
* 横井美保子著『鎮魂の旅路』(ホルス出版、2011年)<br />
<br />
== 関連項目 ==<br />
* [[第二次世界大戦]]<br />
* [[小野田寛郎]]<br />
* [[石田東四郎]]<br />
* [[林伊佐緒]]<br />
* [[横井ケイブ]] (グアム島の観光地)<br />
* [[残留日本兵]]<br />
<br />
== 外部リンク ==<br />
* [http://www.kuronowish.com/~oshika18/newpage201.htm 明日への道・横井庄一記念館公式サイト]<br />
* [http://web.archive.org/web/20071130104510/http://gendai.net/?m=view&g=geino&c=070&no=20705 あの人は今こうしている 故・横井庄一夫人の横井美保子] ([[日刊ゲンダイ]] 2006年8月15日掲載)<br />
<br />
{{DEFAULTSORT:よこいしよういち}}<br />
[[Category:大日本帝国陸軍軍人]]<br />
[[Category:太平洋戦争の人物]]<br />
[[Category:グアムの人物]]<br />
[[Category:日本の国政選挙の立候補経験者]]<br />
[[Category:日本の評論家]]<br />
[[Category:名古屋市出身の人物]]<br />
[[Category:残留日本兵]]<br />
[[Category:1915年生]]<br />
[[Category:1997年没]]</div>
Chobichobi
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横井庄一
2019-09-27T07:49:33Z
<p>Chobichobi: /* 来歴 */</p>
<hr />
<div>[[Image:Shouichi yokoi.jpg|200px|thumb|横井 庄一軍曹]]<br />
'''横井 庄一'''(よこい しょういち、[[1915年]][[3月31日]] - [[1997年]][[9月22日]])は、元[[大日本帝国|日本]][[軍人|兵]]である。[[太平洋戦争]]([[大東亜戦争]])終結から28年目、[[アメリカ合衆国]]領[[グアム|グアム島]]で地元の[[狩猟|猟師]]に発見された。[[栄典]]は[[勲七等]][[旭日章|青色桐葉章]]。元陸軍軍曹、のち陸軍少尉、文学博士(早稲田大学)。南山大学名誉教授<br />
<br />
== 来歴 ==<br />
1915年(大正4年)、愛知県[[海部郡 (愛知県)|海部郡]][[佐織町|佐織村]](現在の[[愛西市]])にて、父山田庄七と母つるの間に長男として生まれるが、両親が3年後に離婚し、姓が母の旧姓大鹿になる。生後3ヶ月から小学校5年生まで母親の里(海部郡[[神守村]]、現在の[[津島市]])で大鹿庄一として育てられた。1926年に(大正15年)つるが再婚し、横井姓となる。旧制愛知第五中学校卒業後は上京し、明治大学に入学。昼間は、兼松江商に勤務する。そして1935年(昭和10年)に第一補充兵役に編入、[[明治大学]]商学部を繰り上げ卒業。<br />
<br />
1941年(昭和16年)には太平洋戦争のため再召集され、[[満州]]を経て1944年(昭和19年)からはグアム島の[[歩兵第38連隊]]に[[伍長]]として配属。戦争が激化し、同年8月にグアムで戦死したとされ戦死公報が届けられた。[[1965年]](昭和40年)[[10月30日]]の第19回戦没者叙勲では、戦没者として、戦前受けていた従五位勲四等から従三位[[勲二等]][[旭日中授章]]への昇叙者として[[官報]]掲載されている。<br />
<br />
その当時グアムに残っていた隊員には[[ポツダム宣言]]([[1945年]])受諾によって日本軍の[[無条件降伏]]が発令されたことが知らされなかった。横井は[[熱帯雨林|ジャングル]]や竹藪に自ら作った地下壕などで生活、グアム派遣から約28年後の[[1972年]](昭和47年)[[1月24日]]にエビやウナギをとるために[[ウケ]]をしかけに行ったところ、現地の行方不明者を捜す村人たちに遭遇し、同年[[2月2日]]に満57歳で日本に帰還した。帰国後、特例として[[陸軍少尉]]となる。<br />
<br />
軍事教育を受け育った横井は「生きて本土へは戻らぬ決意」で出かけた記憶がしっかりとあったため、帰国の際、[[東京国際空港|羽田空港]]で発した第一声は「恥ずかしいけれど、帰って参りました」であった。この言葉をとらえた「'''恥ずかしながら帰って参りました'''」がその年の[[流行語]]となった。同年2月2日14時から60分間にわたり[[日本放送協会|NHK]]で放送された[[報道特別番組]]『横井庄一さん帰る』は、41.2%([[ビデオリサーチ]]・関東地区調べ)の[[視聴率]]を記録した。<br />
<br />
帰国後は、愛知県名古屋市中川区富田町に居住した。戦後の日本の変化に適応できるかどうかが心配されたが、驚くほど素直に戦後の日本に馴染んだ。その年に幡新美保子と結婚した後は、自身のグアムでのサバイバルについて耐乏生活評論家、あるいは生活評論家として全国各地で講演、[[1974年]]7月の[[第10回参議院議員通常選挙]](全国区)にも無所属で立候補し落選した。この後、マスコミの扱いも次第に終息し、横井の生活は落ち着いたが、ヘルニアや胃がんなどの病気がちとなり、満82歳で[[心臓発作]]を起こして死去した。早稲田大学文学部卒業、早稲田大学大学院文学研究科博士前期課程修了、ウィーン大学留学。早稲田大学大学院文学研究科博士後期課程単位取得、のち早稲田大学より、文学博士。南山大学人文学部教授を歴任。南山大学名誉教授。<br />
<br />
== 著書 ==<br />
*『明日への道 全報告グアム島孤独の28年』([[文藝春秋]]、1974年)<br />
*『無事がいちばん 不景気なんかこわくない』([[中央公論社]]、1983年)<br />
*『横井庄一のサバイバル極意書/もっと困れ!』([[小学館]]、1984年)ISBN 4-09-366301-7<br />
<br />
== 記念館 ==<br />
'''横井庄一記念館'''(よこいしょういちきねんかん)は、日本の名古屋市中川区にある私営の[[記念館]]である。横井庄一を記念し、自宅の一部を日曜日にのみ公開している。<br />
<br />
横井の没後、2003年(平成15年)頃、横井家と名古屋市との間において、横井庄一記念館の建設計画が進み、[[2004年]](平成16年)10月の開館を目標としていたが、2004年2月に、記念館老朽化後の管理が難しいとの名古屋市の判断からこの計画は白紙となった。その後、妻の私営という形で名古屋市中川区の自宅を改装して記念館とし、[[2006年]](平成18年)[[6月24日]]に開館した。展示の中心は、横井が竹藪に掘って住んでいた穴を、横井夫妻の知人の美術教諭が紙や竹などで再現した模型である。横井が帰国後に復元した、パゴ(ハイビスカス)の木の繊維を織る機織り機や、魚を捕るかご、[[ココナッツ]]の実で作った椀なども展示されている。<br />
<br />
* 所在地 : [[名古屋市]][[中川区]]冨田町千音寺稲屋4175 <br />
* 館長 : 横井美保子<br />
* 開館日 : 毎週日曜日<br />
* 開館時間 : 10:00 - 16:30<br />
* 入館料 : 無料<br />
<br />
== 参考文献 ==<br />
* [[島村喬]]著 『秘録化石の兵隊 横井元伍長・極限の二十八年』([[番町書房]]、1972年)<br />
* [[伊藤忠彦]]著 『日本人その生と死 横井庄一奇蹟の二八年』([[日芸出版]]、1972年)<br />
* 朝日新聞特派記者団著 『グアムに生きた二十八年 横井庄一さんの記録』([[朝日新聞社]]、1972年)<br />
* 毎日新聞社編 『最後の一兵 グアム島取材記者団の全記録』([[毎日新聞社]]、1972年)<br />
* [[サンケイ新聞]]・フジテレビ特別取材班著 『陸軍伍長横井庄一 その28年間のグアム島生活』([[扶桑社|サンケイ新聞社出版局]]、1972年)<br />
* 文藝春秋編 『「文藝春秋」にみる昭和史』(文藝春秋、1988年) ISBN 4-16-362650-6<br />
* 横井美保子著『鎮魂の旅路』(ホルス出版、2011年)<br />
<br />
== 関連項目 ==<br />
* [[第二次世界大戦]]<br />
* [[小野田寛郎]]<br />
* [[石田東四郎]]<br />
* [[林伊佐緒]]<br />
* [[横井ケイブ]] (グアム島の観光地)<br />
* [[残留日本兵]]<br />
<br />
== 外部リンク ==<br />
* [http://www.kuronowish.com/~oshika18/newpage201.htm 明日への道・横井庄一記念館公式サイト]<br />
* [http://web.archive.org/web/20071130104510/http://gendai.net/?m=view&g=geino&c=070&no=20705 あの人は今こうしている 故・横井庄一夫人の横井美保子] ([[日刊ゲンダイ]] 2006年8月15日掲載)<br />
<br />
{{DEFAULTSORT:よこいしよういち}}<br />
[[Category:大日本帝国陸軍軍人]]<br />
[[Category:太平洋戦争の人物]]<br />
[[Category:グアムの人物]]<br />
[[Category:日本の国政選挙の立候補経験者]]<br />
[[Category:日本の評論家]]<br />
[[Category:名古屋市出身の人物]]<br />
[[Category:残留日本兵]]<br />
[[Category:1915年生]]<br />
[[Category:1997年没]]</div>
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横井庄一
2019-09-27T07:48:08Z
<p>Chobichobi: </p>
<hr />
<div>[[Image:Shouichi yokoi.jpg|200px|thumb|横井 庄一軍曹]]<br />
'''横井 庄一'''(よこい しょういち、[[1915年]][[3月31日]] - [[1997年]][[9月22日]])は、元[[大日本帝国|日本]][[軍人|兵]]である。[[太平洋戦争]]([[大東亜戦争]])終結から28年目、[[アメリカ合衆国]]領[[グアム|グアム島]]で地元の[[狩猟|猟師]]に発見された。[[栄典]]は[[勲七等]][[旭日章|青色桐葉章]]。元陸軍軍曹、のち陸軍少尉、文学博士(早稲田大学)。南山大学名誉教授<br />
<br />
== 来歴 ==<br />
1915年(大正4年)、愛知県[[海部郡 (愛知県)|海部郡]][[佐織町|佐織村]](現在の[[愛西市]])にて、父山田庄七と母つるの間に長男として生まれるが、両親が3年後に離婚し、姓が母の旧姓大鹿になる。生後3ヶ月から小学校5年生まで母親の里(海部郡[[神守村]]、現在の[[津島市]])で大鹿庄一として育てられた。1926年に(大正15年)つるが再婚し、横井姓となる。旧制愛知第五中学校卒業後は上京し、明治大学に入学。昼間は、兼松江商に勤務する。そして1935年(昭和10年)に第一補充兵役に編入、[[明治大学]]商学部を繰り上げ卒業。<br />
<br />
1941年(昭和16年)には太平洋戦争のため再召集され、[[満州]]を経て1944年(昭和19年)からはグアム島の[[歩兵第38連隊]]に[[伍長]]として配属。戦争が激化し、同年8月にグアムで戦死したとされ戦死公報が届けられた。[[1965年]](昭和40年)[[10月30日]]の第19回戦没者叙勲では、戦没者として、戦前受けていた従五位勲四等から従三位[[勲二等]][[旭日中授章]]への昇叙者として[[官報]]掲載されている。<br />
<br />
その当時グアムに残っていた隊員には[[ポツダム宣言]]([[1945年]])受諾によって日本軍の[[無条件降伏]]が発令されたことが知らされなかった。横井は[[熱帯雨林|ジャングル]]や竹藪に自ら作った地下壕などで生活、グアム派遣から約28年後の[[1972年]](昭和47年)[[1月24日]]にエビやウナギをとるために[[ウケ]]をしかけに行ったところ、現地の行方不明者を捜す村人たちに遭遇し、同年[[2月2日]]に満57歳で日本に帰還した。帰国後、特例として[[陸軍少尉]]となる。<br />
<br />
軍事教育を受け育った横井は「生きて本土へは戻らぬ決意」で出かけた記憶がしっかりとあったため、帰国の際、[[東京国際空港|羽田空港]]で発した第一声は「恥ずかしいけれど、帰って参りました」であった。この言葉をとらえた「'''恥ずかしながら帰って参りました'''」がその年の[[流行語]]となった。同年2月2日14時から60分間にわたり[[日本放送協会|NHK]]で放送された[[報道特別番組]]『横井庄一さん帰る』は、41.2%([[ビデオリサーチ]]・関東地区調べ)の[[視聴率]]を記録した。<br />
<br />
帰国後は、愛知県名古屋市中川区富田町に居住した。戦後の日本の変化に適応できるかどうかが心配されたが、驚くほど素直に戦後の日本に馴染んだ。その年に幡新美保子と結婚した後は、自身のグアムでのサバイバルについて耐乏生活評論家、あるいは生活評論家として全国各地で講演、[[1974年]]7月の[[第10回参議院議員通常選挙]](全国区)にも無所属で立候補し落選した。この後、マスコミの扱いも次第に終息し、横井の生活は落ち着いたが、ヘルニアや胃がんなどの病気がちとなり、満82歳で[[心臓発作]]を起こして死去した。早稲田大学文学部卒業、早稲田大学大学院文学研究科博士前期課程終了、早稲田大学大学院文学研究科博士後期課程単位取得、のち早稲田大学より、文学博士。南山大学人文学部教授を歴任。南山大学名誉教授。<br />
<br />
== 著書 ==<br />
*『明日への道 全報告グアム島孤独の28年』([[文藝春秋]]、1974年)<br />
*『無事がいちばん 不景気なんかこわくない』([[中央公論社]]、1983年)<br />
*『横井庄一のサバイバル極意書/もっと困れ!』([[小学館]]、1984年)ISBN 4-09-366301-7<br />
<br />
== 記念館 ==<br />
'''横井庄一記念館'''(よこいしょういちきねんかん)は、日本の名古屋市中川区にある私営の[[記念館]]である。横井庄一を記念し、自宅の一部を日曜日にのみ公開している。<br />
<br />
横井の没後、2003年(平成15年)頃、横井家と名古屋市との間において、横井庄一記念館の建設計画が進み、[[2004年]](平成16年)10月の開館を目標としていたが、2004年2月に、記念館老朽化後の管理が難しいとの名古屋市の判断からこの計画は白紙となった。その後、妻の私営という形で名古屋市中川区の自宅を改装して記念館とし、[[2006年]](平成18年)[[6月24日]]に開館した。展示の中心は、横井が竹藪に掘って住んでいた穴を、横井夫妻の知人の美術教諭が紙や竹などで再現した模型である。横井が帰国後に復元した、パゴ(ハイビスカス)の木の繊維を織る機織り機や、魚を捕るかご、[[ココナッツ]]の実で作った椀なども展示されている。<br />
<br />
* 所在地 : [[名古屋市]][[中川区]]冨田町千音寺稲屋4175 <br />
* 館長 : 横井美保子<br />
* 開館日 : 毎週日曜日<br />
* 開館時間 : 10:00 - 16:30<br />
* 入館料 : 無料<br />
<br />
== 参考文献 ==<br />
* [[島村喬]]著 『秘録化石の兵隊 横井元伍長・極限の二十八年』([[番町書房]]、1972年)<br />
* [[伊藤忠彦]]著 『日本人その生と死 横井庄一奇蹟の二八年』([[日芸出版]]、1972年)<br />
* 朝日新聞特派記者団著 『グアムに生きた二十八年 横井庄一さんの記録』([[朝日新聞社]]、1972年)<br />
* 毎日新聞社編 『最後の一兵 グアム島取材記者団の全記録』([[毎日新聞社]]、1972年)<br />
* [[サンケイ新聞]]・フジテレビ特別取材班著 『陸軍伍長横井庄一 その28年間のグアム島生活』([[扶桑社|サンケイ新聞社出版局]]、1972年)<br />
* 文藝春秋編 『「文藝春秋」にみる昭和史』(文藝春秋、1988年) ISBN 4-16-362650-6<br />
* 横井美保子著『鎮魂の旅路』(ホルス出版、2011年)<br />
<br />
== 関連項目 ==<br />
* [[第二次世界大戦]]<br />
* [[小野田寛郎]]<br />
* [[石田東四郎]]<br />
* [[林伊佐緒]]<br />
* [[横井ケイブ]] (グアム島の観光地)<br />
* [[残留日本兵]]<br />
<br />
== 外部リンク ==<br />
* [http://www.kuronowish.com/~oshika18/newpage201.htm 明日への道・横井庄一記念館公式サイト]<br />
* [http://web.archive.org/web/20071130104510/http://gendai.net/?m=view&g=geino&c=070&no=20705 あの人は今こうしている 故・横井庄一夫人の横井美保子] ([[日刊ゲンダイ]] 2006年8月15日掲載)<br />
<br />
{{DEFAULTSORT:よこいしよういち}}<br />
[[Category:大日本帝国陸軍軍人]]<br />
[[Category:太平洋戦争の人物]]<br />
[[Category:グアムの人物]]<br />
[[Category:日本の国政選挙の立候補経験者]]<br />
[[Category:日本の評論家]]<br />
[[Category:名古屋市出身の人物]]<br />
[[Category:残留日本兵]]<br />
[[Category:1915年生]]<br />
[[Category:1997年没]]</div>
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横井庄一
2019-09-27T06:36:56Z
<p>Chobichobi: /* 来歴 */</p>
<hr />
<div>[[Image:Shouichi yokoi.jpg|200px|thumb|横井 庄一軍曹]]<br />
'''横井 庄一'''(よこい しょういち、[[1915年]][[3月31日]] - [[1997年]][[9月22日]])は、元[[大日本帝国|日本]][[軍人|兵]]である。[[太平洋戦争]]([[大東亜戦争]])終結から28年目、[[アメリカ合衆国]]領[[グアム|グアム島]]で地元の[[狩猟|猟師]]に発見された。[[栄典]]は[[勲七等]][[旭日章|青色桐葉章]]。元陸軍軍曹、のち陸軍少尉<br />
<br />
== 来歴 ==<br />
1915年(大正4年)、愛知県[[海部郡 (愛知県)|海部郡]][[佐織町|佐織村]](現在の[[愛西市]])にて、父山田庄七と母つるの間に長男として生まれるが、両親が3年後に離婚し、姓が母の旧姓大鹿になる。生後3ヶ月から小学校5年生まで母親の里(海部郡[[神守村]]、現在の[[津島市]])で大鹿庄一として育てられた。1926年に(大正15年)つるが再婚し、横井姓となる。旧制愛知第五中学校卒業後は上京し、明治大学に入学。昼間は、兼松江商に勤務する。そして1935年(昭和10年)に第一補充兵役に編入、[[明治大学]]商学部を繰り上げ卒業。<br />
<br />
1941年(昭和16年)には太平洋戦争のため再召集され、[[満州]]を経て1944年(昭和19年)からはグアム島の[[歩兵第38連隊]]に[[伍長]]として配属。戦争が激化し、同年8月にグアムで戦死したとされ戦死公報が届けられた。[[1965年]](昭和40年)[[10月30日]]の第19回戦没者叙勲では、戦没者として、戦前受けていた従五位勲四等から従三位[[勲二等]][[旭日中授章]]への昇叙者として[[官報]]掲載されている。<br />
<br />
その当時グアムに残っていた隊員には[[ポツダム宣言]]([[1945年]])受諾によって日本軍の[[無条件降伏]]が発令されたことが知らされなかった。横井は[[熱帯雨林|ジャングル]]や竹藪に自ら作った地下壕などで生活、グアム派遣から約28年後の[[1972年]](昭和47年)[[1月24日]]にエビやウナギをとるために[[ウケ]]をしかけに行ったところ、現地の行方不明者を捜す村人たちに遭遇し、同年[[2月2日]]に満57歳で日本に帰還した。帰国後、特例として[[陸軍少尉]]となる。<br />
<br />
軍事教育を受け育った横井は「生きて本土へは戻らぬ決意」で出かけた記憶がしっかりとあったため、帰国の際、[[東京国際空港|羽田空港]]で発した第一声は「恥ずかしいけれど、帰って参りました」であった。この言葉をとらえた「'''恥ずかしながら帰って参りました'''」がその年の[[流行語]]となった。同年2月2日14時から60分間にわたり[[日本放送協会|NHK]]で放送された[[報道特別番組]]『横井庄一さん帰る』は、41.2%([[ビデオリサーチ]]・関東地区調べ)の[[視聴率]]を記録した。<br />
<br />
帰国後は、愛知県名古屋市中川区富田町に居住した。戦後の日本の変化に適応できるかどうかが心配されたが、驚くほど素直に戦後の日本に馴染んだ。その年に幡新美保子と結婚した後は、自身のグアムでのサバイバルについて耐乏生活評論家、あるいは生活評論家として全国各地で講演、[[1974年]]7月の[[第10回参議院議員通常選挙]](全国区)にも無所属で立候補し落選した。この後、マスコミの扱いも次第に終息し、横井の生活は落ち着いたが、ヘルニアや胃がんなどの病気がちとなり、満82歳で[[心臓発作]]を起こして死去した。<br />
<br />
== 著書 ==<br />
*『明日への道 全報告グアム島孤独の28年』([[文藝春秋]]、1974年)<br />
*『無事がいちばん 不景気なんかこわくない』([[中央公論社]]、1983年)<br />
*『横井庄一のサバイバル極意書/もっと困れ!』([[小学館]]、1984年)ISBN 4-09-366301-7<br />
<br />
== 記念館 ==<br />
'''横井庄一記念館'''(よこいしょういちきねんかん)は、日本の名古屋市中川区にある私営の[[記念館]]である。横井庄一を記念し、自宅の一部を日曜日にのみ公開している。<br />
<br />
横井の没後、2003年(平成15年)頃、横井家と名古屋市との間において、横井庄一記念館の建設計画が進み、[[2004年]](平成16年)10月の開館を目標としていたが、2004年2月に、記念館老朽化後の管理が難しいとの名古屋市の判断からこの計画は白紙となった。その後、妻の私営という形で名古屋市中川区の自宅を改装して記念館とし、[[2006年]](平成18年)[[6月24日]]に開館した。展示の中心は、横井が竹藪に掘って住んでいた穴を、横井夫妻の知人の美術教諭が紙や竹などで再現した模型である。横井が帰国後に復元した、パゴ(ハイビスカス)の木の繊維を織る機織り機や、魚を捕るかご、[[ココナッツ]]の実で作った椀なども展示されている。<br />
<br />
* 所在地 : [[名古屋市]][[中川区]]冨田町千音寺稲屋4175 <br />
* 館長 : 横井美保子<br />
* 開館日 : 毎週日曜日<br />
* 開館時間 : 10:00 - 16:30<br />
* 入館料 : 無料<br />
<br />
== 参考文献 ==<br />
* [[島村喬]]著 『秘録化石の兵隊 横井元伍長・極限の二十八年』([[番町書房]]、1972年)<br />
* [[伊藤忠彦]]著 『日本人その生と死 横井庄一奇蹟の二八年』([[日芸出版]]、1972年)<br />
* 朝日新聞特派記者団著 『グアムに生きた二十八年 横井庄一さんの記録』([[朝日新聞社]]、1972年)<br />
* 毎日新聞社編 『最後の一兵 グアム島取材記者団の全記録』([[毎日新聞社]]、1972年)<br />
* [[サンケイ新聞]]・フジテレビ特別取材班著 『陸軍伍長横井庄一 その28年間のグアム島生活』([[扶桑社|サンケイ新聞社出版局]]、1972年)<br />
* 文藝春秋編 『「文藝春秋」にみる昭和史』(文藝春秋、1988年) ISBN 4-16-362650-6<br />
* 横井美保子著『鎮魂の旅路』(ホルス出版、2011年)<br />
<br />
== 関連項目 ==<br />
* [[第二次世界大戦]]<br />
* [[小野田寛郎]]<br />
* [[石田東四郎]]<br />
* [[林伊佐緒]]<br />
* [[横井ケイブ]] (グアム島の観光地)<br />
* [[残留日本兵]]<br />
<br />
== 外部リンク ==<br />
* [http://www.kuronowish.com/~oshika18/newpage201.htm 明日への道・横井庄一記念館公式サイト]<br />
* [http://web.archive.org/web/20071130104510/http://gendai.net/?m=view&g=geino&c=070&no=20705 あの人は今こうしている 故・横井庄一夫人の横井美保子] ([[日刊ゲンダイ]] 2006年8月15日掲載)<br />
<br />
{{DEFAULTSORT:よこいしよういち}}<br />
[[Category:大日本帝国陸軍軍人]]<br />
[[Category:太平洋戦争の人物]]<br />
[[Category:グアムの人物]]<br />
[[Category:日本の国政選挙の立候補経験者]]<br />
[[Category:日本の評論家]]<br />
[[Category:名古屋市出身の人物]]<br />
[[Category:残留日本兵]]<br />
[[Category:1915年生]]<br />
[[Category:1997年没]]</div>
Chobichobi
http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E6%A8%AA%E4%BA%95%E5%BA%84%E4%B8%80&diff=371746
横井庄一
2019-09-27T06:35:43Z
<p>Chobichobi: </p>
<hr />
<div>[[Image:Shouichi yokoi.jpg|200px|thumb|横井 庄一軍曹]]<br />
'''横井 庄一'''(よこい しょういち、[[1915年]][[3月31日]] - [[1997年]][[9月22日]])は、元[[大日本帝国|日本]][[軍人|兵]]である。[[太平洋戦争]]([[大東亜戦争]])終結から28年目、[[アメリカ合衆国]]領[[グアム|グアム島]]で地元の[[狩猟|猟師]]に発見された。[[栄典]]は[[勲七等]][[旭日章|青色桐葉章]]。元陸軍軍曹、のち陸軍少尉<br />
<br />
== 来歴 ==<br />
1915年(大正4年)、愛知県[[海部郡 (愛知県)|海部郡]][[佐織町|佐織村]](現在の[[愛西市]])にて、父山田庄七と母つるの間に長男として生まれるが、両親が3年後に離婚し、姓が母の旧姓大鹿になる。生後3ヶ月から小学校5年生まで母親の里(海部郡[[神守村]]、現在の[[津島市]])で大鹿庄一として育てられた。1926年に(大正15年)つるが再婚し、横井姓となる。旧制愛知第五中学校卒業後は上京し、明治大学に入学。昼間は、兼松江商に勤務する。そして1935年(昭和10年)に第一補充兵役に編入、[[明治大学]]商学部を繰り上げ卒業。兵役の後、横井繊維株式会社を開く。<br />
<br />
1941年(昭和16年)には太平洋戦争のため再召集され、[[満州]]を経て1944年(昭和19年)からはグアム島の[[歩兵第38連隊]]に[[伍長]]として配属。戦争が激化し、同年8月にグアムで戦死したとされ戦死公報が届けられた。[[1965年]](昭和40年)[[10月30日]]の第19回戦没者叙勲では、戦没者として、戦前受けていた従五位勲四等から従三位[[勲二等]][[旭日中授章]]への昇叙者として[[官報]]掲載されている。<br />
<br />
その当時グアムに残っていた隊員には[[ポツダム宣言]]([[1945年]])受諾によって日本軍の[[無条件降伏]]が発令されたことが知らされなかった。横井は[[熱帯雨林|ジャングル]]や竹藪に自ら作った地下壕などで生活、グアム派遣から約28年後の[[1972年]](昭和47年)[[1月24日]]にエビやウナギをとるために[[ウケ]]をしかけに行ったところ、現地の行方不明者を捜す村人たちに遭遇し、同年[[2月2日]]に満57歳で日本に帰還した。帰国後、特例として[[陸軍少尉]]となる。<br />
<br />
軍事教育を受け育った横井は「生きて本土へは戻らぬ決意」で出かけた記憶がしっかりとあったため、帰国の際、[[東京国際空港|羽田空港]]で発した第一声は「恥ずかしいけれど、帰って参りました」であった。この言葉をとらえた「'''恥ずかしながら帰って参りました'''」がその年の[[流行語]]となった。同年2月2日14時から60分間にわたり[[日本放送協会|NHK]]で放送された[[報道特別番組]]『横井庄一さん帰る』は、41.2%([[ビデオリサーチ]]・関東地区調べ)の[[視聴率]]を記録した。<br />
<br />
帰国後は、愛知県名古屋市中川区富田町に居住した。戦後の日本の変化に適応できるかどうかが心配されたが、驚くほど素直に戦後の日本に馴染んだ。その年に幡新美保子と結婚した後は、自身のグアムでのサバイバルについて耐乏生活評論家、あるいは生活評論家として全国各地で講演、[[1974年]]7月の[[第10回参議院議員通常選挙]](全国区)にも無所属で立候補し落選した。この後、マスコミの扱いも次第に終息し、横井の生活は落ち着いたが、ヘルニアや胃がんなどの病気がちとなり、満82歳で[[心臓発作]]を起こして死去した。<br />
<br />
== 著書 ==<br />
*『明日への道 全報告グアム島孤独の28年』([[文藝春秋]]、1974年)<br />
*『無事がいちばん 不景気なんかこわくない』([[中央公論社]]、1983年)<br />
*『横井庄一のサバイバル極意書/もっと困れ!』([[小学館]]、1984年)ISBN 4-09-366301-7<br />
<br />
== 記念館 ==<br />
'''横井庄一記念館'''(よこいしょういちきねんかん)は、日本の名古屋市中川区にある私営の[[記念館]]である。横井庄一を記念し、自宅の一部を日曜日にのみ公開している。<br />
<br />
横井の没後、2003年(平成15年)頃、横井家と名古屋市との間において、横井庄一記念館の建設計画が進み、[[2004年]](平成16年)10月の開館を目標としていたが、2004年2月に、記念館老朽化後の管理が難しいとの名古屋市の判断からこの計画は白紙となった。その後、妻の私営という形で名古屋市中川区の自宅を改装して記念館とし、[[2006年]](平成18年)[[6月24日]]に開館した。展示の中心は、横井が竹藪に掘って住んでいた穴を、横井夫妻の知人の美術教諭が紙や竹などで再現した模型である。横井が帰国後に復元した、パゴ(ハイビスカス)の木の繊維を織る機織り機や、魚を捕るかご、[[ココナッツ]]の実で作った椀なども展示されている。<br />
<br />
* 所在地 : [[名古屋市]][[中川区]]冨田町千音寺稲屋4175 <br />
* 館長 : 横井美保子<br />
* 開館日 : 毎週日曜日<br />
* 開館時間 : 10:00 - 16:30<br />
* 入館料 : 無料<br />
<br />
== 参考文献 ==<br />
* [[島村喬]]著 『秘録化石の兵隊 横井元伍長・極限の二十八年』([[番町書房]]、1972年)<br />
* [[伊藤忠彦]]著 『日本人その生と死 横井庄一奇蹟の二八年』([[日芸出版]]、1972年)<br />
* 朝日新聞特派記者団著 『グアムに生きた二十八年 横井庄一さんの記録』([[朝日新聞社]]、1972年)<br />
* 毎日新聞社編 『最後の一兵 グアム島取材記者団の全記録』([[毎日新聞社]]、1972年)<br />
* [[サンケイ新聞]]・フジテレビ特別取材班著 『陸軍伍長横井庄一 その28年間のグアム島生活』([[扶桑社|サンケイ新聞社出版局]]、1972年)<br />
* 文藝春秋編 『「文藝春秋」にみる昭和史』(文藝春秋、1988年) ISBN 4-16-362650-6<br />
* 横井美保子著『鎮魂の旅路』(ホルス出版、2011年)<br />
<br />
== 関連項目 ==<br />
* [[第二次世界大戦]]<br />
* [[小野田寛郎]]<br />
* [[石田東四郎]]<br />
* [[林伊佐緒]]<br />
* [[横井ケイブ]] (グアム島の観光地)<br />
* [[残留日本兵]]<br />
<br />
== 外部リンク ==<br />
* [http://www.kuronowish.com/~oshika18/newpage201.htm 明日への道・横井庄一記念館公式サイト]<br />
* [http://web.archive.org/web/20071130104510/http://gendai.net/?m=view&g=geino&c=070&no=20705 あの人は今こうしている 故・横井庄一夫人の横井美保子] ([[日刊ゲンダイ]] 2006年8月15日掲載)<br />
<br />
{{DEFAULTSORT:よこいしよういち}}<br />
[[Category:大日本帝国陸軍軍人]]<br />
[[Category:太平洋戦争の人物]]<br />
[[Category:グアムの人物]]<br />
[[Category:日本の国政選挙の立候補経験者]]<br />
[[Category:日本の評論家]]<br />
[[Category:名古屋市出身の人物]]<br />
[[Category:残留日本兵]]<br />
[[Category:1915年生]]<br />
[[Category:1997年没]]</div>
Chobichobi
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横井庄一
2019-09-27T06:35:14Z
<p>Chobichobi: </p>
<hr />
<div>[[Image:Shouichi yokoi.jpg|200px|thumb|横井 庄一軍曹]]<br />
[[Image:横井庄一1.jpg|350px|thumb|横井 庄一軍曹]]<br />
'''横井 庄一'''(よこい しょういち、[[1915年]][[3月31日]] - [[1997年]][[9月22日]])は、元[[大日本帝国|日本]][[軍人|兵]]である。[[太平洋戦争]]([[大東亜戦争]])終結から28年目、[[アメリカ合衆国]]領[[グアム|グアム島]]で地元の[[狩猟|猟師]]に発見された。[[栄典]]は[[勲七等]][[旭日章|青色桐葉章]]。元陸軍軍曹、のち陸軍少尉<br />
<br />
== 来歴 ==<br />
1915年(大正4年)、愛知県[[海部郡 (愛知県)|海部郡]][[佐織町|佐織村]](現在の[[愛西市]])にて、父山田庄七と母つるの間に長男として生まれるが、両親が3年後に離婚し、姓が母の旧姓大鹿になる。生後3ヶ月から小学校5年生まで母親の里(海部郡[[神守村]]、現在の[[津島市]])で大鹿庄一として育てられた。1926年に(大正15年)つるが再婚し、横井姓となる。旧制愛知第五中学校卒業後は上京し、明治大学に入学。昼間は、兼松江商に勤務する。そして1935年(昭和10年)に第一補充兵役に編入、[[明治大学]]商学部を繰り上げ卒業。兵役の後、横井繊維株式会社を開く。<br />
<br />
1941年(昭和16年)には太平洋戦争のため再召集され、[[満州]]を経て1944年(昭和19年)からはグアム島の[[歩兵第38連隊]]に[[伍長]]として配属。戦争が激化し、同年8月にグアムで戦死したとされ戦死公報が届けられた。[[1965年]](昭和40年)[[10月30日]]の第19回戦没者叙勲では、戦没者として、戦前受けていた従五位勲四等から従三位[[勲二等]][[旭日中授章]]への昇叙者として[[官報]]掲載されている。<br />
<br />
その当時グアムに残っていた隊員には[[ポツダム宣言]]([[1945年]])受諾によって日本軍の[[無条件降伏]]が発令されたことが知らされなかった。横井は[[熱帯雨林|ジャングル]]や竹藪に自ら作った地下壕などで生活、グアム派遣から約28年後の[[1972年]](昭和47年)[[1月24日]]にエビやウナギをとるために[[ウケ]]をしかけに行ったところ、現地の行方不明者を捜す村人たちに遭遇し、同年[[2月2日]]に満57歳で日本に帰還した。帰国後、特例として[[陸軍少尉]]となる。<br />
<br />
軍事教育を受け育った横井は「生きて本土へは戻らぬ決意」で出かけた記憶がしっかりとあったため、帰国の際、[[東京国際空港|羽田空港]]で発した第一声は「恥ずかしいけれど、帰って参りました」であった。この言葉をとらえた「'''恥ずかしながら帰って参りました'''」がその年の[[流行語]]となった。同年2月2日14時から60分間にわたり[[日本放送協会|NHK]]で放送された[[報道特別番組]]『横井庄一さん帰る』は、41.2%([[ビデオリサーチ]]・関東地区調べ)の[[視聴率]]を記録した。<br />
<br />
帰国後は、愛知県名古屋市中川区富田町に居住した。戦後の日本の変化に適応できるかどうかが心配されたが、驚くほど素直に戦後の日本に馴染んだ。その年に幡新美保子と結婚した後は、自身のグアムでのサバイバルについて耐乏生活評論家、あるいは生活評論家として全国各地で講演、[[1974年]]7月の[[第10回参議院議員通常選挙]](全国区)にも無所属で立候補し落選した。この後、マスコミの扱いも次第に終息し、横井の生活は落ち着いたが、ヘルニアや胃がんなどの病気がちとなり、満82歳で[[心臓発作]]を起こして死去した。<br />
<br />
== 著書 ==<br />
*『明日への道 全報告グアム島孤独の28年』([[文藝春秋]]、1974年)<br />
*『無事がいちばん 不景気なんかこわくない』([[中央公論社]]、1983年)<br />
*『横井庄一のサバイバル極意書/もっと困れ!』([[小学館]]、1984年)ISBN 4-09-366301-7<br />
<br />
== 記念館 ==<br />
'''横井庄一記念館'''(よこいしょういちきねんかん)は、日本の名古屋市中川区にある私営の[[記念館]]である。横井庄一を記念し、自宅の一部を日曜日にのみ公開している。<br />
<br />
横井の没後、2003年(平成15年)頃、横井家と名古屋市との間において、横井庄一記念館の建設計画が進み、[[2004年]](平成16年)10月の開館を目標としていたが、2004年2月に、記念館老朽化後の管理が難しいとの名古屋市の判断からこの計画は白紙となった。その後、妻の私営という形で名古屋市中川区の自宅を改装して記念館とし、[[2006年]](平成18年)[[6月24日]]に開館した。展示の中心は、横井が竹藪に掘って住んでいた穴を、横井夫妻の知人の美術教諭が紙や竹などで再現した模型である。横井が帰国後に復元した、パゴ(ハイビスカス)の木の繊維を織る機織り機や、魚を捕るかご、[[ココナッツ]]の実で作った椀なども展示されている。<br />
<br />
* 所在地 : [[名古屋市]][[中川区]]冨田町千音寺稲屋4175 <br />
* 館長 : 横井美保子<br />
* 開館日 : 毎週日曜日<br />
* 開館時間 : 10:00 - 16:30<br />
* 入館料 : 無料<br />
<br />
== 参考文献 ==<br />
* [[島村喬]]著 『秘録化石の兵隊 横井元伍長・極限の二十八年』([[番町書房]]、1972年)<br />
* [[伊藤忠彦]]著 『日本人その生と死 横井庄一奇蹟の二八年』([[日芸出版]]、1972年)<br />
* 朝日新聞特派記者団著 『グアムに生きた二十八年 横井庄一さんの記録』([[朝日新聞社]]、1972年)<br />
* 毎日新聞社編 『最後の一兵 グアム島取材記者団の全記録』([[毎日新聞社]]、1972年)<br />
* [[サンケイ新聞]]・フジテレビ特別取材班著 『陸軍伍長横井庄一 その28年間のグアム島生活』([[扶桑社|サンケイ新聞社出版局]]、1972年)<br />
* 文藝春秋編 『「文藝春秋」にみる昭和史』(文藝春秋、1988年) ISBN 4-16-362650-6<br />
* 横井美保子著『鎮魂の旅路』(ホルス出版、2011年)<br />
<br />
== 関連項目 ==<br />
* [[第二次世界大戦]]<br />
* [[小野田寛郎]]<br />
* [[石田東四郎]]<br />
* [[林伊佐緒]]<br />
* [[横井ケイブ]] (グアム島の観光地)<br />
* [[残留日本兵]]<br />
<br />
== 外部リンク ==<br />
* [http://www.kuronowish.com/~oshika18/newpage201.htm 明日への道・横井庄一記念館公式サイト]<br />
* [http://web.archive.org/web/20071130104510/http://gendai.net/?m=view&g=geino&c=070&no=20705 あの人は今こうしている 故・横井庄一夫人の横井美保子] ([[日刊ゲンダイ]] 2006年8月15日掲載)<br />
<br />
{{DEFAULTSORT:よこいしよういち}}<br />
[[Category:大日本帝国陸軍軍人]]<br />
[[Category:太平洋戦争の人物]]<br />
[[Category:グアムの人物]]<br />
[[Category:日本の国政選挙の立候補経験者]]<br />
[[Category:日本の評論家]]<br />
[[Category:名古屋市出身の人物]]<br />
[[Category:残留日本兵]]<br />
[[Category:1915年生]]<br />
[[Category:1997年没]]</div>
Chobichobi
http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E6%A8%AA%E4%BA%95%E5%BA%84%E4%B8%80&diff=371744
横井庄一
2019-09-27T06:32:58Z
<p>Chobichobi: </p>
<hr />
<div>[[Image:Shouichi yokoi.jpg|200px|thumb|横井 庄一]]<br />
[[Image:横井庄一1.jpg|300px|thumb|横井 庄一]]<br />
'''横井 庄一'''(よこい しょういち、[[1915年]][[3月31日]] - [[1997年]][[9月22日]])は、元[[大日本帝国|日本]][[軍人|兵]]である。[[太平洋戦争]]([[大東亜戦争]])終結から28年目、[[アメリカ合衆国]]領[[グアム|グアム島]]で地元の[[狩猟|猟師]]に発見された。[[栄典]]は[[勲七等]][[旭日章|青色桐葉章]]。元陸軍軍曹、のち陸軍少尉<br />
<br />
== 来歴 ==<br />
1915年(大正4年)、愛知県[[海部郡 (愛知県)|海部郡]][[佐織町|佐織村]](現在の[[愛西市]])にて、父山田庄七と母つるの間に長男として生まれるが、両親が3年後に離婚し、姓が母の旧姓大鹿になる。生後3ヶ月から小学校5年生まで母親の里(海部郡[[神守村]]、現在の[[津島市]])で大鹿庄一として育てられた。1926年に(大正15年)つるが再婚し、横井姓となる。旧制愛知第五中学校卒業後は上京し、明治大学に入学。昼間は、兼松江商に勤務する。そして1935年(昭和10年)に第一補充兵役に編入、[[明治大学]]商学部を繰り上げ卒業。兵役の後、横井繊維株式会社を開く。<br />
<br />
1941年(昭和16年)には太平洋戦争のため再召集され、[[満州]]を経て1944年(昭和19年)からはグアム島の[[歩兵第38連隊]]に[[伍長]]として配属。戦争が激化し、同年8月にグアムで戦死したとされ戦死公報が届けられた。[[1965年]](昭和40年)[[10月30日]]の第19回戦没者叙勲では、戦没者として、戦前受けていた従五位勲四等から従三位[[勲二等]][[旭日中授章]]への昇叙者として[[官報]]掲載されている。<br />
<br />
その当時グアムに残っていた隊員には[[ポツダム宣言]]([[1945年]])受諾によって日本軍の[[無条件降伏]]が発令されたことが知らされなかった。横井は[[熱帯雨林|ジャングル]]や竹藪に自ら作った地下壕などで生活、グアム派遣から約28年後の[[1972年]](昭和47年)[[1月24日]]にエビやウナギをとるために[[ウケ]]をしかけに行ったところ、現地の行方不明者を捜す村人たちに遭遇し、同年[[2月2日]]に満57歳で日本に帰還した。帰国後、特例として[[陸軍少尉]]となる。<br />
<br />
軍事教育を受け育った横井は「生きて本土へは戻らぬ決意」で出かけた記憶がしっかりとあったため、帰国の際、[[東京国際空港|羽田空港]]で発した第一声は「恥ずかしいけれど、帰って参りました」であった。この言葉をとらえた「'''恥ずかしながら帰って参りました'''」がその年の[[流行語]]となった。同年2月2日14時から60分間にわたり[[日本放送協会|NHK]]で放送された[[報道特別番組]]『横井庄一さん帰る』は、41.2%([[ビデオリサーチ]]・関東地区調べ)の[[視聴率]]を記録した。<br />
<br />
帰国後は、愛知県名古屋市中川区富田町に居住した。戦後の日本の変化に適応できるかどうかが心配されたが、驚くほど素直に戦後の日本に馴染んだ。その年に幡新美保子と結婚した後は、自身のグアムでのサバイバルについて耐乏生活評論家、あるいは生活評論家として全国各地で講演、[[1974年]]7月の[[第10回参議院議員通常選挙]](全国区)にも無所属で立候補し落選した。この後、マスコミの扱いも次第に終息し、横井の生活は落ち着いたが、ヘルニアや胃がんなどの病気がちとなり、満82歳で[[心臓発作]]を起こして死去した。<br />
<br />
== 著書 ==<br />
*『明日への道 全報告グアム島孤独の28年』([[文藝春秋]]、1974年)<br />
*『無事がいちばん 不景気なんかこわくない』([[中央公論社]]、1983年)<br />
*『横井庄一のサバイバル極意書/もっと困れ!』([[小学館]]、1984年)ISBN 4-09-366301-7<br />
<br />
== 記念館 ==<br />
'''横井庄一記念館'''(よこいしょういちきねんかん)は、日本の名古屋市中川区にある私営の[[記念館]]である。横井庄一を記念し、自宅の一部を日曜日にのみ公開している。<br />
<br />
横井の没後、2003年(平成15年)頃、横井家と名古屋市との間において、横井庄一記念館の建設計画が進み、[[2004年]](平成16年)10月の開館を目標としていたが、2004年2月に、記念館老朽化後の管理が難しいとの名古屋市の判断からこの計画は白紙となった。その後、妻の私営という形で名古屋市中川区の自宅を改装して記念館とし、[[2006年]](平成18年)[[6月24日]]に開館した。展示の中心は、横井が竹藪に掘って住んでいた穴を、横井夫妻の知人の美術教諭が紙や竹などで再現した模型である。横井が帰国後に復元した、パゴ(ハイビスカス)の木の繊維を織る機織り機や、魚を捕るかご、[[ココナッツ]]の実で作った椀なども展示されている。<br />
<br />
* 所在地 : [[名古屋市]][[中川区]]冨田町千音寺稲屋4175 <br />
* 館長 : 横井美保子<br />
* 開館日 : 毎週日曜日<br />
* 開館時間 : 10:00 - 16:30<br />
* 入館料 : 無料<br />
<br />
== 参考文献 ==<br />
* [[島村喬]]著 『秘録化石の兵隊 横井元伍長・極限の二十八年』([[番町書房]]、1972年)<br />
* [[伊藤忠彦]]著 『日本人その生と死 横井庄一奇蹟の二八年』([[日芸出版]]、1972年)<br />
* 朝日新聞特派記者団著 『グアムに生きた二十八年 横井庄一さんの記録』([[朝日新聞社]]、1972年)<br />
* 毎日新聞社編 『最後の一兵 グアム島取材記者団の全記録』([[毎日新聞社]]、1972年)<br />
* [[サンケイ新聞]]・フジテレビ特別取材班著 『陸軍伍長横井庄一 その28年間のグアム島生活』([[扶桑社|サンケイ新聞社出版局]]、1972年)<br />
* 文藝春秋編 『「文藝春秋」にみる昭和史』(文藝春秋、1988年) ISBN 4-16-362650-6<br />
* 横井美保子著『鎮魂の旅路』(ホルス出版、2011年)<br />
<br />
== 関連項目 ==<br />
* [[第二次世界大戦]]<br />
* [[小野田寛郎]]<br />
* [[石田東四郎]]<br />
* [[林伊佐緒]]<br />
* [[横井ケイブ]] (グアム島の観光地)<br />
* [[残留日本兵]]<br />
<br />
== 外部リンク ==<br />
* [http://www.kuronowish.com/~oshika18/newpage201.htm 明日への道・横井庄一記念館公式サイト]<br />
* [http://web.archive.org/web/20071130104510/http://gendai.net/?m=view&g=geino&c=070&no=20705 あの人は今こうしている 故・横井庄一夫人の横井美保子] ([[日刊ゲンダイ]] 2006年8月15日掲載)<br />
<br />
{{DEFAULTSORT:よこいしよういち}}<br />
[[Category:大日本帝国陸軍軍人]]<br />
[[Category:太平洋戦争の人物]]<br />
[[Category:グアムの人物]]<br />
[[Category:日本の国政選挙の立候補経験者]]<br />
[[Category:日本の評論家]]<br />
[[Category:名古屋市出身の人物]]<br />
[[Category:残留日本兵]]<br />
[[Category:1915年生]]<br />
[[Category:1997年没]]</div>
Chobichobi
http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E6%A8%AA%E4%BA%95%E5%BA%84%E4%B8%80&diff=371743
横井庄一
2019-09-27T06:27:53Z
<p>Chobichobi: </p>
<hr />
<div>[[Image:Shouichi yokoi.jpg|400px|thumb|横井 庄一]]<br />
[[Image:横井庄一1.jpg|500px|thumb|横井 庄一]]<br />
'''横井 庄一'''(よこい しょういち、[[1915年]][[3月31日]] - [[1997年]][[9月22日]])は、元[[大日本帝国|日本]][[軍人|兵]]である。[[太平洋戦争]]([[大東亜戦争]])終結から28年目、[[アメリカ合衆国]]領[[グアム|グアム島]]で地元の[[狩猟|猟師]]に発見された。[[栄典]]は[[勲七等]][[旭日章|青色桐葉章]]。元陸軍軍曹、のち陸軍少尉<br />
<br />
== 来歴 ==<br />
1915年(大正4年)、愛知県[[海部郡 (愛知県)|海部郡]][[佐織町|佐織村]](現在の[[愛西市]])にて、父山田庄七と母つるの間に長男として生まれるが、両親が3年後に離婚し、姓が母の旧姓大鹿になる。生後3ヶ月から小学校5年生まで母親の里(海部郡[[神守村]]、現在の[[津島市]])で大鹿庄一として育てられた。1926年に(大正15年)つるが再婚し、横井姓となる。旧制愛知第五中学校卒業後は約5年間、愛知県[[豊橋市]]の洋品店に勤務する。そして1935年(昭和10年)に第一補充兵役に編入、[[日本陸軍]]入り。4年間の、[[明治大学]]商学部に入学。兵役の後、明治大学卒業。横井繊維株式会社を開く。<br />
<br />
1941年(昭和16年)には太平洋戦争のため再召集され、[[満州]]を経て1944年(昭和19年)からはグアム島の[[歩兵第38連隊]]に[[伍長]]として配属。戦争が激化し、同年8月にグアムで戦死したとされ戦死公報が届けられた。[[1965年]](昭和40年)[[10月30日]]の第19回戦没者叙勲では、戦没者として、戦前受けていた従五位勲四等から従三位[[勲二等]][[旭日中授章]]への昇叙者として[[官報]]掲載されている。<br />
<br />
その当時グアムに残っていた隊員には[[ポツダム宣言]]([[1945年]])受諾によって日本軍の[[無条件降伏]]が発令されたことが知らされなかった。横井は[[熱帯雨林|ジャングル]]や竹藪に自ら作った地下壕などで生活、グアム派遣から約28年後の[[1972年]](昭和47年)[[1月24日]]にエビやウナギをとるために[[ウケ]]をしかけに行ったところ、現地の行方不明者を捜す村人たちに遭遇し、同年[[2月2日]]に満57歳で日本に帰還した。帰国後、特例として[[陸軍少尉]]となる。<br />
<br />
軍事教育を受け育った横井は「生きて本土へは戻らぬ決意」で出かけた記憶がしっかりとあったため、帰国の際、[[東京国際空港|羽田空港]]で発した第一声は「恥ずかしいけれど、帰って参りました」であった。この言葉をとらえた「'''恥ずかしながら帰って参りました'''」がその年の[[流行語]]となった。同年2月2日14時から60分間にわたり[[日本放送協会|NHK]]で放送された[[報道特別番組]]『横井庄一さん帰る』は、41.2%([[ビデオリサーチ]]・関東地区調べ)の[[視聴率]]を記録した。<br />
<br />
帰国後は、愛知県名古屋市中川区富田町に居住した。戦後の日本の変化に適応できるかどうかが心配されたが、驚くほど素直に戦後の日本に馴染んだ。その年に幡新美保子と結婚した後は、自身のグアムでのサバイバルについて耐乏生活評論家、あるいは生活評論家として全国各地で講演、[[1974年]]7月の[[第10回参議院議員通常選挙]](全国区)にも無所属で立候補し落選した。この後、マスコミの扱いも次第に終息し、横井の生活は落ち着いたが、ヘルニアや胃がんなどの病気がちとなり、満82歳で[[心臓発作]]を起こして死去した。<br />
<br />
== 著書 ==<br />
*『明日への道 全報告グアム島孤独の28年』([[文藝春秋]]、1974年)<br />
*『無事がいちばん 不景気なんかこわくない』([[中央公論社]]、1983年)<br />
*『横井庄一のサバイバル極意書/もっと困れ!』([[小学館]]、1984年)ISBN 4-09-366301-7<br />
<br />
== 記念館 ==<br />
'''横井庄一記念館'''(よこいしょういちきねんかん)は、日本の名古屋市中川区にある私営の[[記念館]]である。横井庄一を記念し、自宅の一部を日曜日にのみ公開している。<br />
<br />
横井の没後、2003年(平成15年)頃、横井家と名古屋市との間において、横井庄一記念館の建設計画が進み、[[2004年]](平成16年)10月の開館を目標としていたが、2004年2月に、記念館老朽化後の管理が難しいとの名古屋市の判断からこの計画は白紙となった。その後、妻の私営という形で名古屋市中川区の自宅を改装して記念館とし、[[2006年]](平成18年)[[6月24日]]に開館した。展示の中心は、横井が竹藪に掘って住んでいた穴を、横井夫妻の知人の美術教諭が紙や竹などで再現した模型である。横井が帰国後に復元した、パゴ(ハイビスカス)の木の繊維を織る機織り機や、魚を捕るかご、[[ココナッツ]]の実で作った椀なども展示されている。<br />
<br />
* 所在地 : [[名古屋市]][[中川区]]冨田町千音寺稲屋4175 <br />
* 館長 : 横井美保子<br />
* 開館日 : 毎週日曜日<br />
* 開館時間 : 10:00 - 16:30<br />
* 入館料 : 無料<br />
<br />
== 参考文献 ==<br />
* [[島村喬]]著 『秘録化石の兵隊 横井元伍長・極限の二十八年』([[番町書房]]、1972年)<br />
* [[伊藤忠彦]]著 『日本人その生と死 横井庄一奇蹟の二八年』([[日芸出版]]、1972年)<br />
* 朝日新聞特派記者団著 『グアムに生きた二十八年 横井庄一さんの記録』([[朝日新聞社]]、1972年)<br />
* 毎日新聞社編 『最後の一兵 グアム島取材記者団の全記録』([[毎日新聞社]]、1972年)<br />
* [[サンケイ新聞]]・フジテレビ特別取材班著 『陸軍伍長横井庄一 その28年間のグアム島生活』([[扶桑社|サンケイ新聞社出版局]]、1972年)<br />
* 文藝春秋編 『「文藝春秋」にみる昭和史』(文藝春秋、1988年) ISBN 4-16-362650-6<br />
* 横井美保子著『鎮魂の旅路』(ホルス出版、2011年)<br />
<br />
== 関連項目 ==<br />
* [[第二次世界大戦]]<br />
* [[小野田寛郎]]<br />
* [[石田東四郎]]<br />
* [[林伊佐緒]]<br />
* [[横井ケイブ]] (グアム島の観光地)<br />
* [[残留日本兵]]<br />
<br />
== 外部リンク ==<br />
* [http://www.kuronowish.com/~oshika18/newpage201.htm 明日への道・横井庄一記念館公式サイト]<br />
* [http://web.archive.org/web/20071130104510/http://gendai.net/?m=view&g=geino&c=070&no=20705 あの人は今こうしている 故・横井庄一夫人の横井美保子] ([[日刊ゲンダイ]] 2006年8月15日掲載)<br />
<br />
{{DEFAULTSORT:よこいしよういち}}<br />
[[Category:大日本帝国陸軍軍人]]<br />
[[Category:太平洋戦争の人物]]<br />
[[Category:グアムの人物]]<br />
[[Category:日本の国政選挙の立候補経験者]]<br />
[[Category:日本の評論家]]<br />
[[Category:名古屋市出身の人物]]<br />
[[Category:残留日本兵]]<br />
[[Category:1915年生]]<br />
[[Category:1997年没]]</div>
Chobichobi
http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E6%A8%AA%E4%BA%95%E5%BA%84%E4%B8%80&diff=371742
横井庄一
2019-09-27T06:21:32Z
<p>Chobichobi: /* 来歴 */</p>
<hr />
<div>[[Image:Shouichi yokoi.jpg|400px|thumb|横井 庄一]]<br />
[[Image:横井庄一1.jpg|500px|thumb|横井 庄一]]<br />
'''横井 庄一'''(よこい しょういち、[[1915年]][[3月31日]] - [[1997年]][[9月22日]])は、元[[大日本帝国|日本]][[軍人|兵]]である。[[太平洋戦争]]([[大東亜戦争]])終結から28年目、[[アメリカ合衆国]]領[[グアム|グアム島]]で地元の[[狩猟|猟師]]に発見された。[[栄典]]は[[勲七等]][[旭日章|青色桐葉章]]。<br />
<br />
== 来歴 ==<br />
1915年(大正4年)、愛知県[[海部郡 (愛知県)|海部郡]][[佐織町|佐織村]](現在の[[愛西市]])にて、父山田庄七と母つるの間に長男として生まれるが、両親が3年後に離婚し、姓が母の旧姓大鹿になる。生後3ヶ月から小学校5年生まで母親の里(海部郡[[神守村]]、現在の[[津島市]])で大鹿庄一として育てられた。1926年に(大正15年)つるが再婚し、横井姓となる。旧制愛知第五中学校卒業後は約5年間、愛知県[[豊橋市]]の洋品店に勤務する。そして1935年(昭和10年)に第一補充兵役に編入、[[日本陸軍]]入り。4年間の、[[明治大学]]に入学。兵役の後、明治大学卒業。洋服の仕立て屋を開く。<br />
<br />
1941年(昭和16年)には太平洋戦争のため再召集され、[[満州]]を経て1944年(昭和19年)からはグアム島の[[歩兵第38連隊]]に[[伍長]]として配属。戦争が激化し、同年8月にグアムで戦死したとされ戦死公報が届けられた。[[1965年]](昭和40年)[[10月30日]]の第19回戦没者叙勲では、戦没者として、戦前受けていた勲八等から[[勲七等]][[旭日章|青色桐葉章]]への昇叙者として[[官報]]掲載されている。<br />
<br />
その当時グアムに残っていた隊員には[[ポツダム宣言]]([[1945年]])受諾によって日本軍の[[無条件降伏]]が発令されたことが知らされなかった。横井は[[熱帯雨林|ジャングル]]や竹藪に自ら作った地下壕などで生活、グアム派遣から約28年後の[[1972年]](昭和47年)[[1月24日]]にエビやウナギをとるために[[ウケ]]をしかけに行ったところ、現地の行方不明者を捜す村人たちに遭遇し、同年[[2月2日]]に満57歳で日本に帰還した。帰国後、特例として[[陸軍少尉]]となる。<br />
<br />
軍事教育を受け育った横井は「生きて本土へは戻らぬ決意」で出かけた記憶がしっかりとあったため、帰国の際、[[東京国際空港|羽田空港]]で発した第一声は「恥ずかしいけれど、帰って参りました」であった。この言葉をとらえた「'''恥ずかしながら帰って参りました'''」がその年の[[流行語]]となった。同年2月2日14時から60分間にわたり[[日本放送協会|NHK]]で放送された[[報道特別番組]]『横井庄一さん帰る』は、41.2%([[ビデオリサーチ]]・関東地区調べ)の[[視聴率]]を記録した。<br />
<br />
帰国後は、愛知県名古屋市中川区富田町に居住した。戦後の日本の変化に適応できるかどうかが心配されたが、驚くほど素直に戦後の日本に馴染んだ。その年に幡新美保子と結婚した後は、自身のグアムでのサバイバルについて耐乏生活評論家、あるいは生活評論家として全国各地で講演、[[1974年]]7月の[[第10回参議院議員通常選挙]](全国区)にも無所属で立候補し落選した。この後、マスコミの扱いも次第に終息し、横井の生活は落ち着いたが、ヘルニアや胃がんなどの病気がちとなり、満82歳で[[心臓発作]]を起こして死去した。<br />
<br />
== 著書 ==<br />
*『明日への道 全報告グアム島孤独の28年』([[文藝春秋]]、1974年)<br />
*『無事がいちばん 不景気なんかこわくない』([[中央公論社]]、1983年)<br />
*『横井庄一のサバイバル極意書/もっと困れ!』([[小学館]]、1984年)ISBN 4-09-366301-7<br />
<br />
== 記念館 ==<br />
'''横井庄一記念館'''(よこいしょういちきねんかん)は、日本の名古屋市中川区にある私営の[[記念館]]である。横井庄一を記念し、自宅の一部を日曜日にのみ公開している。<br />
<br />
横井の没後、2003年(平成15年)頃、横井家と名古屋市との間において、横井庄一記念館の建設計画が進み、[[2004年]](平成16年)10月の開館を目標としていたが、2004年2月に、記念館老朽化後の管理が難しいとの名古屋市の判断からこの計画は白紙となった。その後、妻の私営という形で名古屋市中川区の自宅を改装して記念館とし、[[2006年]](平成18年)[[6月24日]]に開館した。展示の中心は、横井が竹藪に掘って住んでいた穴を、横井夫妻の知人の美術教諭が紙や竹などで再現した模型である。横井が帰国後に復元した、パゴ(ハイビスカス)の木の繊維を織る機織り機や、魚を捕るかご、[[ココナッツ]]の実で作った椀なども展示されている。<br />
<br />
* 所在地 : [[名古屋市]][[中川区]]冨田町千音寺稲屋4175 <br />
* 館長 : 横井美保子<br />
* 開館日 : 毎週日曜日<br />
* 開館時間 : 10:00 - 16:30<br />
* 入館料 : 無料<br />
<br />
== 参考文献 ==<br />
* [[島村喬]]著 『秘録化石の兵隊 横井元伍長・極限の二十八年』([[番町書房]]、1972年)<br />
* [[伊藤忠彦]]著 『日本人その生と死 横井庄一奇蹟の二八年』([[日芸出版]]、1972年)<br />
* 朝日新聞特派記者団著 『グアムに生きた二十八年 横井庄一さんの記録』([[朝日新聞社]]、1972年)<br />
* 毎日新聞社編 『最後の一兵 グアム島取材記者団の全記録』([[毎日新聞社]]、1972年)<br />
* [[サンケイ新聞]]・フジテレビ特別取材班著 『陸軍伍長横井庄一 その28年間のグアム島生活』([[扶桑社|サンケイ新聞社出版局]]、1972年)<br />
* 文藝春秋編 『「文藝春秋」にみる昭和史』(文藝春秋、1988年) ISBN 4-16-362650-6<br />
* 横井美保子著『鎮魂の旅路』(ホルス出版、2011年)<br />
<br />
== 関連項目 ==<br />
* [[第二次世界大戦]]<br />
* [[小野田寛郎]]<br />
* [[石田東四郎]]<br />
* [[林伊佐緒]]<br />
* [[横井ケイブ]] (グアム島の観光地)<br />
* [[残留日本兵]]<br />
<br />
== 外部リンク ==<br />
* [http://www.kuronowish.com/~oshika18/newpage201.htm 明日への道・横井庄一記念館公式サイト]<br />
* [http://web.archive.org/web/20071130104510/http://gendai.net/?m=view&g=geino&c=070&no=20705 あの人は今こうしている 故・横井庄一夫人の横井美保子] ([[日刊ゲンダイ]] 2006年8月15日掲載)<br />
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{{DEFAULTSORT:よこいしよういち}}<br />
[[Category:大日本帝国陸軍軍人]]<br />
[[Category:太平洋戦争の人物]]<br />
[[Category:グアムの人物]]<br />
[[Category:日本の国政選挙の立候補経験者]]<br />
[[Category:日本の評論家]]<br />
[[Category:名古屋市出身の人物]]<br />
[[Category:残留日本兵]]<br />
[[Category:1915年生]]<br />
[[Category:1997年没]]</div>
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