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		<title>Yourpedia - 利用者の投稿記録 [ja]</title>
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		<updated>2026-04-09T22:40:30Z</updated>
		<subtitle>利用者の投稿記録</subtitle>
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		<title>東海大学ローバースカウト隊</title>
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				<updated>2013-05-16T07:51:21Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Minagoroshida: 皆様、対応ありがとうございます。&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;東海大学ローバースカウト隊とは、クズ集団である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== クズ共 ==&lt;br /&gt;
*中根 由尚（なかね　よしたか）&lt;br /&gt;
:典型的なDQN。&lt;br /&gt;
:強い者に媚びへつらい、弱い者いじめ大好き。&lt;br /&gt;
:女子にセクハラは日常茶飯事。内容もむりやり胸を揉むなど直接的。いつ訴えられてもおかしくない状態だった。&lt;br /&gt;
:授業には行かず、女と同棲し、パチンコ・麻雀ざんまい。全く単位が取れず5年目が確定したため、親元に召還され、退学。&lt;br /&gt;
:しかし地元（[[名古屋]]）に戻った途端、金髪のヤンキーファッションに身を固める。何考えてんだコイツ。&lt;br /&gt;
:ある日、後輩たちがアルバイト談義をしていると唐突に「お前、楽する事ばっか考えてるだろ！んなんじゃどこも雇ってくれねぇよ！」と怒鳴る。&lt;br /&gt;
:誰がいつ楽をする事の話などしたのか。というか、それまんまアナタの事じゃないですか。&lt;br /&gt;
:自分では有能な人間だと思ってるらしい。&lt;br /&gt;
:卑怯で、非道で、ズル賢い事をやらせたら右に出る者はいない。&lt;br /&gt;
:資格も専門知識もな～んもありゃしません。&lt;br /&gt;
:世渡りの上手さだけは感じる。[[金正日]]みたい。&lt;br /&gt;
:本人いわく「（新人は）叩いて潰す」ことが教育らしい。何様だお前は。&lt;br /&gt;
:そもそもボーイスカウト自体が未熟者や社会のゴミに人間を教育させる勘違い団体なのだが、それにしてもこんなカスが他人を教育しようとしているから始末におえない。&lt;br /&gt;
:この人間が役に立つ方法はただ1つ、死んでこの世からいなくなる事である。&lt;br /&gt;
:締めるところは締める、がモットー。全部締めろや！&lt;br /&gt;
:礼儀を守れ、が口癖。だが自分は守らない。&lt;br /&gt;
:人の陰口を叩くのが趣味。だが自分が陰口を叩かれたと知るや激怒。&lt;br /&gt;
:立場の弱い者は大勢の前で罵倒するのがこれまた趣味。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*窪田 肇（くぼた　はじめ）&lt;br /&gt;
:偽善者。独善者。そしてDQN。&lt;br /&gt;
:コミュ障。人に分かるように会話するという事ができない。&lt;br /&gt;
:暴力。&lt;br /&gt;
:自分を正義の味方だと勘違いしている。&lt;br /&gt;
:ホモ顔。&lt;br /&gt;
:なぜか自分は頭がいいと思い込んでいる。&lt;br /&gt;
:コネ以外に自慢できるものがない。まあこれも自慢できるようなものじゃないが・・・&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*泉 紀子（いずみ　のりこ）&lt;br /&gt;
:偽善者。人の善意につけこんで悪事を働くのがうまい。&lt;br /&gt;
:関西人（滋賀県）。なんか関西ってこんなんばっかだな･･･&lt;br /&gt;
:結婚したらしい。よくこの女が結婚できたものだと感動さえする。イヤミぬきで。&lt;br /&gt;
:「日本人は時間に正確」が持論。が、人の遅刻はしつこく罵るくせに、自分が遅刻した場合は謝罪なし。どうなってんだ？&lt;br /&gt;
:全体主義者。&lt;br /&gt;
:自己中心主義者。自分の意見は絶対である。&lt;br /&gt;
:自分の責任逃れのためならどんな卑怯な手でも使う。自分が言い出したことでもみんなの責任だとか言い出す。旧日本軍の軍部と同じ手。&lt;br /&gt;
:頭は悪い。しかし自分では頭がいいと思っている。&lt;br /&gt;
:貧乏性。安く物を買うと自慢する。&lt;br /&gt;
:守銭奴。やはり関西人か。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==ボーイスカウトで学べること==&lt;br /&gt;
*他人を見下すこと&lt;br /&gt;
*悪口を言うこと&lt;br /&gt;
*善良な人の心を傷つけること&lt;br /&gt;
*責任逃れ&lt;br /&gt;
*他人に責任を押し付けること&lt;br /&gt;
*他人を体良く利用すること&lt;br /&gt;
*自分の体面だけは取り繕うこと&lt;br /&gt;
*綺麗ごとを言うこと&lt;br /&gt;
*偽善行為を働くこと&lt;br /&gt;
*表面上だけは礼儀を守ること&lt;br /&gt;
*金に汚いこと&lt;br /&gt;
*時間を守ること&lt;br /&gt;
*約束を破ること&lt;br /&gt;
*わがままを言うこと&lt;br /&gt;
*感情的になること&lt;br /&gt;
*世の中、立ち回りや口のうまさ、コネが全てだということ&lt;br /&gt;
*真面目に努力するのはバカらしいということ&lt;br /&gt;
*正直に生きるのはバカだけということ&lt;br /&gt;
*社会のために働くのはバカだけということ&lt;br /&gt;
*何を言っても責任は取る必要はないということ&lt;br /&gt;
*取るハメになりそうになったら無関係の他人に押し付けて逃げる、もしくは道連れにして自分の罪を軽減すればいいということ&lt;br /&gt;
*人をどれほど侮辱・中傷・罵倒しても罪には問われないということ&lt;br /&gt;
*何が正しいかなどどうでもよく周囲の人間の言うことが正しいとされるいうこと（そして大きな間違いを犯す）&lt;br /&gt;
*結局のところ、うるさい人間が勝つということ&lt;br /&gt;
*人の話を封殺すること&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Minagoroshida</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E8%B1%8A%E8%87%A3%E7%A7%80%E5%90%89&amp;diff=187137</id>
		<title>豊臣秀吉</title>
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				<updated>2013-05-16T07:35:26Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Minagoroshida: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''豐臣 秀吉'''（とよとみ の ひでよし / とよとみ ひでよし&amp;lt;ref&amp;gt;読み方については「[[豊臣氏]]」の項を参照。&amp;lt;/ref&amp;gt;）/ '''羽柴 秀吉'''（はしば ひでよし）は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]から[[安土桃山時代]]にかけての[[武将]]・[[戦国大名]]。'''[[三英傑]]'''の一人。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
はじめ[[木下氏]]を名字とし、[[羽柴氏]]に改める。はじめ[[平氏]]を自称するが、[[近衛家]]の[[猶子]]となり[[藤原氏]]に改姓した後、[[豊臣氏]]に改める。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[尾張国]][[愛知郡 (愛知県)|愛知郡]]中村の半農半兵の家に[[百姓]]として生まれた。後に[[織田信長]]に仕官し、次第に頭角を表す。信長が[[本能寺の変]]で[[明智光秀]]に討たれると、「[[中国大返し]]」により[[京都|京]]へと戻り、[[山崎の戦い]]で光秀を破る。その後、織田政権を乗っ取って実質的に運営するようになった。[[大坂城]]を築き[[関白]]・[[太政大臣]]に就任、豊臣姓を賜り日本全国の[[戦国大名|大名]]を従え[[天下統一]]を果たした。その後、[[太閤検地]]や[[刀狩]]など、織田信長の実行していた政策を全国レベルに広げ、[[文禄・慶長の役|慶長の役]]の最中に病没。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 生涯 ==&lt;br /&gt;
=== 出自 ===&lt;br /&gt;
秀吉は[[尾張国]][[愛知郡 (愛知県)|愛知郡]]中村郷中中村（現在の[[名古屋市]][[中村区]]）、もしくは美濃国&amp;lt;ref&amp;gt;フロイス日本史&amp;lt;/ref&amp;gt;で、[[百姓]]と伝えられる木下弥右衛門・なか（のちの[[大政所]]）の子として生まれた。生年については、従来は[[天文_(元号)|天文]]5年（[[1536年]]）といわれていたが、最近では天文6年（[[1537年]]）説が有力となっている。弥右衛門の素性には諸説がある&amp;lt;ref&amp;gt;[[#出身・家系|出身・家系]]の項目を参照。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
誕生日は1月1日、幼名は日吉丸となっているが、これは『[[絵本太閤記]]』の創作で、実際の生誕日は『[[天正記]]』や家臣[[伊藤秀盛]]の願文の記載から天文6年2月6日とする説が有力である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
秀吉の出自に関しては、父・[[木下弥右衛門]]は[[足軽]]（鉄砲足軽？）&amp;lt;ref&amp;gt;『太閤素性記』には元鉄砲足軽であったとの記述があるが、日本で初めて[[種子島]]に[[鉄砲]]が伝わったのが[[1543年]]8月であり、同年1月に弥右衛門が亡くなっていることなどから信憑性に疑問が持たれている。&amp;lt;/ref&amp;gt;から[[農民]]、さらにはその下の階級ではなかったかとも言われており、確定していないが、少なくとも下層階級の出身であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
秀吉は自身の[[御伽衆]]である[[大村由己]]にいくつかの伝記を書かせているが（天正記）、それによっても素性は異なっている。[[本能寺の変]]を記した『[[惟任退治記]]』では「秀吉の出生、元これ貴にあらず」と低い身分であった事が書かれているが、関白任官翌月の奥付を持つ『[[関白任官記]]』では、母親である大政所の父は「萩の中納言」であり、大政所が宮仕えをした後に生まれたと記述されており、天皇の子である事がほのめかされているが、これは事実とは考えられていない&amp;lt;ref name=&amp;quot;ikegami&amp;quot;&amp;gt;池上、147-149p&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
&amp;lt;ref name=&amp;quot;Owada&amp;quot;&amp;gt;小和田哲男 『豊臣秀吉』 中公新書、1985年、44頁。ISBN 978-4121007841&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
広く流布している説として、父・木下弥右衛門の死後、母・なかは[[竹阿弥]]と再婚したが、秀吉は竹阿弥と折り合い悪く、いつも虐待されており、家を出て侍になるために駿河国に行ったとされる。江戸初期に成立した『太閤素性記』によると7歳で実父・弥右衛門と死別し、8歳で光明寺に入るがすぐに飛び出し、15歳の時亡父の遺産の一部をもらい家を出て、針売りなどしながら放浪したとなっている。しかし、『[[太閤記]]』では竹阿弥を秀吉の実父としている。木下姓も父から継いだ姓かどうか疑問視されていて、妻・[[高台院|ねね]]の母方の姓とする説もある&amp;lt;ref name=&amp;quot;ikegami&amp;quot;/&amp;gt;。秀吉の出自については、ほかに村長の息子&amp;lt;ref&amp;gt;『前野家文書』「武功夜話」&amp;lt;/ref&amp;gt;、大工・鍛冶等の技術者集団&amp;lt;ref&amp;gt;小和田哲男 『豊臣秀吉』 中公新書、1985年、50～53頁。ISBN 978-4121007841&amp;lt;/ref&amp;gt;や行商人&amp;lt;ref&amp;gt;一説に秀吉自身は仕官以前の放浪時代に針の行商人であったという。&amp;lt;/ref&amp;gt;であったとする非農業民説&amp;lt;ref&amp;gt;この説を支持している代表的な人物として、歴史学者[[小和田哲男]]や石井進が挙げられる。&amp;lt;/ref&amp;gt;、[[水野氏]]説&amp;lt;ref&amp;gt;[[日本家紋研究会]]の[[高澤等]]は秀吉の一族が用いる沢瀉紋と、秀吉の通称「藤吉郎」、また姉日秀、妹朝日の夫の出身地などの関係から、[[水野氏]]説のある継父竹阿弥を含め、秀吉自身も水野氏族を意識していたのではないかとの説を『[[歴史読本]]』に寄稿している。&amp;lt;/ref&amp;gt;、また漂泊民の[[山窩]]出身説&amp;lt;ref&amp;gt;この説を唱えている代表的な人物として、作家の[[八切止夫]]や[[小林久三]]が挙げられる。歴史小説家[[加藤廣]]も、『秀吉の枷』と『空白の桶狭間』の中でこの説を採用している。&amp;lt;/ref&amp;gt;、などがあるが、真相は不明である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
はじめ'''木下 藤吉郎'''（きのした とうきちろう）と名乗った&amp;lt;ref&amp;gt;『太閤記』といった秀吉の伝記では、松下加兵衛が烏帽子親となって元服させ、最初は故郷の名を取って中村藤吉郎と名乗り、後に木下に改姓したと書かれている。なお、加兵衛もしくは信長と最初に会った時に「木の下」に立っていたのでこれを名字としたとする俗説は極めて信憑性が薄く、事実ではないと考えられている。&amp;lt;/ref&amp;gt;。『太閤記』などでは[[今川氏]]の家臣に仕えたとしているが、創作であろう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 織田家に仕官 ===&lt;br /&gt;
秀吉の名が現れた最初の史料は、永禄8年（[[1565年]]）11月2日付けの書状であり、「木下藤吉郎秀吉」として副署している（坪内文書）&amp;lt;ref name=&amp;quot;ikegami&amp;quot;/&amp;gt;。永禄11年（[[1568年]]）9月、近江箕作城攻略戦で活躍したことが『[[信長記]]』に記されている（[[観音寺城の戦い]]）。&lt;br /&gt;
同年、信長の上洛に際して[[明智光秀]]、[[丹羽長秀]]らとともに[[京都]]の政務を任された&amp;lt;!--（「秀吉」名の最古の記録は永禄3年8月付の書状）--&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
以降は確かな史料によらない、疑わしいレベルの記述である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*天文23年（[[1554年]]）頃から[[織田信長]]に[[小者]]として仕える&amp;lt;ref&amp;gt;仕官のいきさつについては、信長に直訴した（『太閤記』）、信長に仕えていた友人の紹介（『太閤素性記』）、信長の側室[[生駒吉乃|吉乃]]の紹介（『[[武功夜話]]』）など諸説ある。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*[[清洲城]]の[[普請奉行]]、[[台所奉行]]などを率先して引き受けて大きな成果を挙げる。&lt;br /&gt;
*信長の草履取りをした際に、冷えた草履を懐に入れて温めておいたことなどで功績をあげる。&lt;br /&gt;
*[[弘治 (日本)|弘治]]元年（[[1555年]]）頃に[[小折城|生駒屋敷]]を訪れ、[[蜂須賀正勝]]の家臣になっていた&lt;br /&gt;
*[[永禄]]4年（[[1561年]]）&amp;lt;ref&amp;gt;田端泰子 『北政所おね』 ミネルヴァ書房、2007年、11頁。ISBN 978-4623049547&amp;lt;/ref&amp;gt;、[[浅野長勝]]の養女で[[杉原定利]]の娘・[[高台院|ねね]]と結婚。この結婚については、時期はともかく結婚した事は事実である。&lt;br /&gt;
*[[美濃国]]の[[斎藤龍興]]との戦いのなかで、[[墨俣一夜城]]建設に功績を上げたとされる逸話があるが『絵本太閤記』『武功夜話』などを典拠とするこのエピソードは当時の史料に関係する記述がなく、[[江戸時代]]の創作であるとする説が強い。&lt;br /&gt;
*斎藤氏の影響下にあった美濃より[[竹中重治]]、[[川並衆]]の蜂須賀正勝、[[前野長康]]らを配下に組み入れた&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[元亀]]元年（[[1570年]]）、[[越前国]]の[[朝倉義景]]討伐に従軍。順調に侵攻を進めていくが、金ヶ崎付近を進軍中に突然盟友であった北近江の[[浅井長政]]が裏切ったという報告が入る。浅井と朝倉の挟み撃ちされる恐れが出てきたため、信長は速やかに撤退。秀吉は[[池田勝正]]や明智光秀と共に金ヶ崎城に入り[[殿 (軍事用語)|殿軍]]を務めた。この時に功績を挙げたとも言うが（[[金ヶ崎の戦い|金ヶ崎の退き口]]）、信頼できる史料には戦いがあったという記述はなく、疑わしい。また、従来は『[[三河物語]]』に書かれているように秀吉が殿軍を率いたとされてきたが（信長公記は「秀吉を金ヶ崎城に入れおいた」とあるのみ）、近年は当時の序列から考えて池田勝正が主将だったのではないかともされる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[姉川の戦い]]の後、[[横山城 (近江国)|横山城]]の城代に任じられた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その後、[[小谷城の戦い]]では3千の兵を率いて夜半に清水谷の斜面から京極丸を攻め落すという功をあげた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 織田政権下での台頭 ===&lt;br /&gt;
[[天正]]元年（[[1573年]]）、浅井氏が滅亡すると、その旧領北[[近江国|近江]]三郡に封ぜられて、今浜の地を「長浜」と改め、[[長浜城 (近江国)|長浜城]]の城主となる。この頃、木下氏を羽柴氏に改めている（'''羽柴秀吉'''）&amp;lt;ref&amp;gt;太閤記などでは、柴田勝家と丹羽長秀から1字ずつもらったとされているが、上の立場の人間にばかり配慮したこの考え方はモロに儒教思想に基づいたもので（太閤記の作者は熱心な儒教信者）、逆説の日本史などで反論されており、疑わしい&amp;lt;/ref&amp;gt;。信長は長浜の年貢や諸役を免除したため、近在の百姓などが長浜に集まってきた。そのことに不満を感じた秀吉は方針を引き締めようとしたが、正妻ねねの執り成しにより年貢や諸役免除の方針をそのままとした&amp;lt;ref&amp;gt;桑田忠親『太閤の手紙』３１頁、天正元年十二月廿二日秀吉書状&amp;lt;/ref&amp;gt;。このころ近江で、旧浅井家臣団などの部下を登用。この中には後の[[石田三成]]もいた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
天正3年（[[1575年]]）、[[長篠の戦い]]に従軍。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
天正4年（[[1576年]]）、[[越後国]]の[[上杉謙信]]と対峙している北陸方面軍団長・柴田勝家への救援を信長に命じられるが、秀吉は勝家と仲違いをし、無断で帰還してしまった。信長は秀吉の行動に激怒したが許され、秀吉は[[織田信忠]]の指揮下で[[松永久秀]]を滅ぼし功績を挙げる（[[信貴山城の戦い]]）。ちなみに勝家らは情報不足から撤退した（[[手取川の戦い]]があったともいわれるが、真偽不明）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その後、信長に[[中国地方]]攻略を命ぜられ[[播磨国]]に進軍し、かつての守護[[赤松氏]]の勢力である[[赤松則房]]・[[別所長治]]・[[小寺政職]]らを従える。さらに小寺政織の家臣の小寺孝高（[[黒田孝高]]）より[[姫路城]]を譲り受け、ここを中国攻めの拠点とする。一部の勢力は秀吉に従わなかったが[[上月城の戦い]]（第一次）でこれを滅ぼした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
天正7年（[[1579年]]）には、上月城を巡る毛利氏との攻防の末、[[備前国]]・[[美作国]]の大名[[宇喜多直家]]を服属させ、毛利氏との争いを有利にすすめるものの、[[摂津国]]の[[荒木村重]]が反旗を翻した（[[有岡城の戦い]]）ことにより、秀吉は苦戦する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
天正8年（[[1580年]]）には同じく反旗を翻した播磨[[三木城]]主・別所長治を攻撃。途上において竹中重治や[[古田重則]]といった有力家臣を失うものの、2年に渡る兵糧攻めの末、降した（[[三木合戦]]）。同年、[[但馬国]]の[[山名堯熙]]が篭もる[[有子山城]]も攻め落とし、但馬国を織田氏の勢力圏においた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
天正9年（[[1581年]]）には[[山名氏|因幡山名家]]の家臣団が、[[山名豊国]]を追放した上で毛利一族の[[吉川経家]]を立てて[[鳥取城]]にて反旗を翻したが、秀吉は鳥取周辺の兵糧を買い占めた上で兵糧攻めを行い、これを落城させた（[[鳥取城の戦い]]）。その後も中国西地方一帯を支配する[[毛利輝元]]との戦いは続いた。同年、[[岩屋城 (淡路国)|岩屋城]]を攻略して[[淡路国]]を支配下に置いた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
天正10年（[[1582年]]）には[[備中国]]に侵攻し（[[中国攻め]]）、毛利方の[[清水宗治]]が守る[[高松城 (備中国)|備中高松城]]を水攻めに追い込んだ（[[高松城の水攻め]]）。その後、毛利輝元・[[吉川元春]]・[[小早川隆景]]らを大将とする毛利軍と対峙し、信長に援軍を要請している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これ以降、バカのひとつ覚えのように兵糧攻め・水攻めを多用するようになる。が、これは秀吉の才能というより、織田家の圧倒的な物量によるところが大きい。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 信長の死から清洲会議まで ===&lt;br /&gt;
天正10年（[[1582年]]）6月2日、主君・織田信長が京都の[[本能寺]]において明智光秀の謀反により殺された（[[本能寺の変]]）。このとき、備中高松城を水攻めにしていた秀吉は事件を知ると、すぐさま高松城城主・清水宗治の[[切腹]]を条件にして毛利輝元と講和し、京都に軍を返した（[[中国大返し]]）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
秀吉勢の出現に驚愕した明智光秀は、6月13日に山崎において秀吉と戦ったが、光秀には何の大義名分もなく、[[池田恒興]]や丹羽長秀といった織田家の諸将は秀吉と協力し、光秀の寄騎であった[[中川清秀]]や[[高山右近]]も光秀にはつかなかった。兵力で劣る光秀方は大敗を喫し、光秀は[[落武者]]狩りにより討たれた（[[山崎の戦い]]）。その後、光秀の残党もほぼ残らず討たれた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
6月27日、[[清洲城]]において信長の後継者と遺領の分割を決めるための会議が開かれた（[[清洲会議]]）。会議の詳細は不明だが&amp;lt;ref&amp;gt;織田家筆頭家老の柴田勝家は信長の三男・[[織田信孝]]（神戸信孝）を推したが、明智光秀討伐による戦功があった秀吉は、信長の嫡男・織田信忠の長男・三法師（後の[[織田秀信]]）を推した。勝家はこれに反対したが、池田恒興や丹羽長秀らが秀吉を支持し、さらに秀吉が幼少の三法師を信孝が後見人とすべきであるという妥協案を提示したため、勝家も秀吉の意見に従わざるを得なくなり、三法師が信長の後継者となった。&amp;lt;/ref&amp;gt;。信忠の子・三法師が家督を継ぎ、織田信孝がその後見人になったという結果は確かである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
信長・信忠の遺領は、[[織田信雄]]が尾張国、織田信孝が美濃国、[[織田信包]]が北[[伊勢国|伊勢]]と[[伊賀国]]、光秀の寄騎であった[[細川幽斎|細川藤孝]]は[[丹後国]]、[[筒井順慶]]は[[大和国]]、高山右近と中川清秀は本領安堵、丹羽長秀は[[近江国]]の[[滋賀郡|滋賀]]・[[高島郡 (滋賀県)|高島]]15万石の加増、池田恒興は[[摂津国|摂津]][[尼崎]]と[[大坂]]15万石の加増、[[堀秀政]]は近江佐和山を与えられた。勝家も秀吉の領地であった近江長浜12万石が与えられた。秀吉自身は、明智光秀の旧領であった[[丹波国]]や[[山城国]]・[[河内国]]を増領し、28万石の加増となった。これにより、領地においても秀吉は勝家に勝るようになったといわれるが、織田の領国経営は国を支配しているからといってその国の全権を任されているわけではなく、さらに与力システムといったものも存在するため、実際に上回っていたかは不明である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 柴田勝家との対立 ===&lt;br /&gt;
秀吉と勝家の対立は、日増しに激しくなった。原因は秀吉にあった。秀吉は敵領に面していない山崎に[[宝寺城]]を新しく築城し、さらに山崎と丹波で検地を実施、筒井順慶から人質を出させるなどした。これらは全て織田家や勝家の承認を得ないものであった。天正10年（1582年）10月に勝家は[[滝川一益]]や織田信孝と共に秀吉に対する弾劾状を諸大名にばらまいた。だが秀吉は全く懲りず、10月15日、養子の[[羽柴秀勝]]（信長の四男）を喪主として、大々的に信長の葬儀を行ない、自らのプロパガンダとした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
12月、越前の勝家が雪で動けないのを好機と見た秀吉は、信孝が三法師を安土に戻さないことなどを大義名分とし、信孝打倒の兵を挙げる。もちろん不当なものであった。なぜなら戻さないなら戻さないで、まず書状なり何なりで言上するべき問題だからである。そもそも戻さなかったからといって、家臣筋の秀吉が口出しする案件ではない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
12月9日、秀吉は池田恒興ら諸将に動員令を発動し、5万の大軍を率いて山崎宝寺城から出陣し、12月11日に堀秀政の[[佐和山城]]に入った。そして柴田勝家の養子・[[柴田勝豊]]が守る長浜城を包囲した。元々勝豊は勝家、そして同じく養子であった[[柴田勝政]]らと不仲であった上に病床に臥していたため、秀吉の調略に応じて降伏。秀吉は長浜城を獲得した。12月16日には美濃に侵攻し、[[稲葉良通|稲葉一鉄]]らの降伏や織田信雄軍の合流などもあってさらに兵力を増強した秀吉は、信孝の家老・[[斎藤利堯]]が守る加治木城を攻撃して降伏せしめた。こうして岐阜城に孤立してしまった信孝は、三法師を秀吉に引き渡し、生母の坂氏と娘を人質として差し出すことで和議を結んだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
天正11年（[[1583年]]）1月、反秀吉派の一人であった滝川一益は、秀吉方の伊勢[[峰城]]を守る[[岡本宗憲|岡本良勝]]、[[関城]]や[[亀山城 (伊勢国)|伊勢亀山城]]を守る[[関盛信]]らを破った。これに対して秀吉は2月10日に北伊勢に侵攻する。2月12日には一益の居城・[[桑名城]]を攻撃したが、桑名城の堅固さと一益の抵抗にあって、三里も後退を余儀なくされた。また、秀吉が編成した別働隊が[[長島城]]や[[中井城]]に向かったが、こちらも滝川勢の抵抗にあって敗退した。しかし伊勢亀山城は、[[蒲生氏郷]]や[[細川忠興]]・[[山内一豊]]らの攻撃で遂に力尽き、3月3日に降伏した。とはいえ、伊勢戦線では反秀吉方が寡兵であるにもかかわらず、優勢であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2月28日、勝家は[[前田利長]]を先手として出陣させ、3月9日には自らも3万の大軍を率いて出陣した。これに対して秀吉は北伊勢を蒲生氏郷に任せて近江に戻り、3月11日には柴田勢と対峙した。この対峙はしばらく続いたが、4月13日に秀吉に降伏していた柴田勝豊の家臣・[[山路正国]]が勝家方に寝返るという事件が起こった。さらに織田信孝が岐阜で再び挙兵して稲葉一鉄を攻めると、信孝の人質を磔にした（磔にしたのが先だとも言う）。はじめは勝家方が優勢であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
4月20日早朝、勝家の重臣・[[佐久間盛政]]は、秀吉が織田信孝を討伐するために美濃に赴いた隙を突いて、奇襲を実行した。この奇襲は成功し、大岩山砦の中川清秀は敗死し、岩崎山砦の高山重友は敗走した。しかしその後、盛政は勝家の命令に逆らってこの砦で対陣を続けたため、4月21日に中国大返しと同様に迅速に引き返してきた秀吉の反撃にあい、さらに[[前田利家]]らの裏切りもあって柴田軍は大敗を喫し、柴田勝家は越前に撤退した（[[美濃大返し]]）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
4月24日、勝家は[[正室]]・[[お市の方]]と共に自害した。秀吉はさらに[[加賀国]]と[[能登国]]も平定し、それを前田利家に与えた。5月2日（異説あり）には、信長の三男・織田信孝も自害に追い込み、やがて滝川一益も降伏した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
こうして織田家の実力者たちを葬ったことにより、秀吉は家臣第一の地位を確立。表面上は三法師を奉りつつ、実質的に織田家中を牛耳ることになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 徳川家康との対立と朝廷への接近 ===&lt;br /&gt;
天正12年（[[1584年]]）、信長の次男・織田信雄は、秀吉から年賀の礼に来るように命令されたことを契機に秀吉に反発し、対立するようになる。そして3月6日、信雄は秀吉に内通したとして、秀吉との戦いを懸命に諫めていた重臣の[[浅井長時]]・[[岡田重孝]]・[[津川義冬]]らを謀殺し、秀吉に事実上の[[宣戦布告]]をした。このとき、信長の盟友であった[[徳川家康]]が信雄に加担し、さらに家康に通じて[[長宗我部元親]]や[[紀伊国|紀伊]][[雑賀党]]らも反秀吉として決起した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これに対して秀吉は、調略をもって関盛信（万鉄）、[[九鬼嘉隆]]、織田信包ら伊勢の諸将を味方につけた。さらに信長の乳兄弟だった美濃の池田恒興を、尾張国と[[三河国]]を恩賞に与えるという約束をエサにして味方につけた。そして3月13日、恒興は尾張[[犬山城]]を守る信雄方の武将・[[中山雄忠]]を攻略した。また、伊勢においても峰城を蒲生氏郷・堀秀政らが落とすなど、緒戦は秀吉方が優勢であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし家康・信雄連合軍もすぐに反撃し、羽黒に布陣していた[[森長可]]を破った（[[羽黒の戦い]]）。連合はさらに小牧に堅陣を敷き、秀吉と対峙した。秀吉は雑賀党に備えてはじめは大坂から動かなかったが、3月21日に大坂から出陣し、3月27日には犬山城に入った。秀吉軍も堅固な陣地を構築し両軍は長期間対峙し合うこととなり戦線は膠着した（小牧の戦い）。このとき、羽柴軍10万、織田・徳川連合軍は3万であったとされる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そのような中、前の敗戦で雪辱に燃える森長可や池田恒興らが、秀吉の甥である三好秀次（[[豊臣秀次]]）を総大将に擁して4月6日、三河奇襲作戦を開始した。しかし、奇襲部隊であるにもかかわらず、行軍は鈍足だったために家康の張った歩哨網に引っかかり、4月9日には徳川軍の追尾を受けて逆に奇襲されて大敗。池田恒興・[[池田元助]]親子と森長可らは戦死してしまった（[[長久手の戦い]]）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
兵力で圧倒的に優位であるにもかかわらず、相次ぐ戦況悪化により、秀吉自らが攻略に乗り出すことを余儀なくされた。秀吉は[[加賀井重望]]が守る[[加賀井城]]など、信雄方の美濃における諸城を次々と攻略していき、信雄を圧迫する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
11月11日、信雄は家康に無断で秀吉と単独講和した。これにより、家康も秀吉と戦うための[[大義名分]]が無くなり、三河に撤退することとなった。家康は次男・於義丸を秀吉の養子（＝人質）として差し出し、「羽柴秀康（のちの[[結城秀康]]）」とし講和した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この戦いの最中の10月15日、秀吉は初めて従五位下左近権少将に叙位任官され、そのわずか一ヵ月後の11月22日には権大納言に任官された。この急速な昇進のための辻褄合わせが行われ、従五位下左近権少将叙爵の綸旨は2年さかのぼった天正10年に発給された事になっている。天正11年5月5日に従四位下参議と任官された文書もあるが、これも同様と見られている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これにより秀吉の地位は主家の織田家を凌駕することになり、織田政権は「秀吉政権」となった。また、信雄との和議後は「羽柴」の苗字を使用しなくなった&amp;lt;ref name=&amp;quot;ikegami&amp;quot;/&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その後、秀吉は天正14年（1586年）には妹・[[朝日姫]]を家康の正室として、さらに母・大政所を人質として家康のもとに送り、配下としての上洛を家康に促す。有利な秀吉側がこのような事をしたということは、明らかな大義名分作りであり、家康がモタモタしていたらなにかしらの難癖をつけ、徳川家を討伐していただろう。母孝行とされる秀吉だが、自身の野望のためならその母を犠牲にする事も何ら問題にはしなかったのである。これに気付いた家康はただちに上洛し、秀吉への臣従を誓った。これ以降も家康は秀吉につけいるスキを見せず、なんとか家を保った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 関白任官と紀伊・四国・越中攻略 ===&lt;br /&gt;
天正11年（1583年）、秀吉は信長の構想をパクり（もちろんそうは言わず、自身の策だと喧伝した）、大坂本願寺（[[石山本願寺]]）の跡地に[[大坂城]]を築いた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
天正12年（[[1584年]]）には朝廷より[[征夷大将軍|将軍]]任官を勧められたが断ったとする説がある。が、これの真偽はさしたる問題ではないことは、関白任官のあたりで後述することにする。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
天正13年（[[1585年]]）3月10日、秀吉は正二位・[[内大臣]]に叙位・任官された。そして3月21日には紀伊に侵攻して雑賀党を各地で破る（[[千石堀城#千石堀城の戦い|千石堀城の戦い]]）。最終的には[[藤堂高虎]]に命じて雑賀党の首領・[[鈴木重意]]を謀殺させることで平定した（[[紀州征伐]]）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、四国の長宗我部元親に対しても、弟・[[豊臣秀長|羽柴秀長]]を総大将として、毛利輝元や小早川隆景らも出陣させるという大規模なもので、総勢10万という大軍を四国に送り込んだ。これに対して元親は抵抗したが、兵力の差などから7月25日、秀吉に降伏する。元親は[[土佐国]]のみを安堵されることで許された（[[四国攻め]]）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
同年7月11日にはかねてから紛糾していた[[関白]]職を巡る争い（[[関白相論]]）に便乗し、[[近衛前久]]の猶子として関白宣下を受けた。秀吉としては将軍でも関白でもどちらでも良かった。秀吉には朝廷による権威づけが必要だったのだ。別に朝廷を敬っていたとか、関白という位を好き好んでいたのではないという事は、秀吉が明確に天皇より上を目指していることからもわかる（この事については朝鮮出兵の項で述べる）。その秀吉が関白に就いたということは、この時期はまだ関白職が必要だったという事以外の何者でもないのである。このあたり、本能寺の変より数年前から無官で様々なことが行えた信長とは異なり、秀吉の権力の脆弱さがうかがえるではないか。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
天正14年（[[1586年]]）9月9日には'''豊臣'''の姓を賜って&amp;lt;ref&amp;gt;これを「羽柴」から「豊臣」への改姓と誤解されることが多いが、「羽柴」は[[名字]]、「豊臣」は[[本姓]]であり、両者は性質が異なる。詳細は「[[豊臣氏]]」を参照。&amp;lt;/ref&amp;gt;、12月25日には[[太政大臣]]に就任し&amp;lt;ref&amp;gt;『[[公卿補任]]』には[[12月19日 (旧暦)|12月19日]]と記載されているが、『[[兼見卿記]]』に[[後陽成天皇]][[即位式]]当日に式に先立って任命が行われたとされており、『公卿補任』はその事実を憚ったとされている（[[橋本政宣]]『近世公家社会の研究』）。&amp;lt;/ref&amp;gt;、政権を確立した（[[豊臣政権]]）。なお、秀吉は征夷大将軍職に就いて「豊臣幕府」を開くために[[足利義昭]]へ自分を養子にするよう頼んだが断られたために関白職を望んだという俗説もあるがこれは後の創作&amp;lt;ref&amp;gt;[[林羅山]]の『豊臣秀吉系譜』『後鏡』の記述が根拠とされる。後に竹内確斎の『絵本太閤記』にも採用され、通説となった。&amp;lt;/ref&amp;gt;である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[越中国]]の[[佐々成政]]に対しても8月から[[富山の役]]を開始したが、ほとんど戦うこと無くして8月25日に成政は剃髪して秀吉に降伏する。織田信雄の仲介もあったため、秀吉は成政を許して越中[[新川郡]]のみを安堵した。もっとも本気で許すつもりはなくーなぜなら織田譜代の佐々成政は秀吉にとって目の上のタンコブだったーのちに肥後で策略にハメ、切腹させる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
こうして紀伊・四国・越中は秀吉によって平定されたのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 九州の役 ===&lt;br /&gt;
{{Main|九州の役}}&lt;br /&gt;
その頃[[九州]]では[[大友氏]]・[[龍造寺氏]]を下した[[島津義久]]が勢力を大きく伸ばし、島津に圧迫された大友宗麟（織田家とは同盟）が秀吉に助けを求めてきていた。天正13年（[[1585年]]）関白となった秀吉は島津義久と大友宗麟に朝廷権威を以て停戦命令（いわゆる[[惣無事令]]の第一号）を発したが、島津氏はこれに反発していう事を聞かず、秀吉は九州に攻め入ることになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
天正14年（[[1586年]]）には豊後戸次川（現在の[[大野川]]）において、[[仙石秀久]]を[[軍監]]とした、長宗我部元親・[[長宗我部信親]]・[[十河存保]]・[[大友義統]]らの混合軍で島津軍の[[島津家久]]と戦うが、仙石秀久の失策により、長宗我部信親や十河存保が討ち取られるなどして大敗した（[[戸次川の戦い]]）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
だが天正15年（[[1587年]]）には秀吉自らが、弟・秀長と共に20万の大軍を率い、九州に本格的に侵攻し、島津軍を圧倒、島津義久を降伏させる（[[九州の役]]）。帰り道に[[備後国]]へ亡命中の足利義昭のもとを訪れ、京都に連れ帰り出家させた。こうして秀吉は[[西日本]]の全域を服属させた。九州の役完了後に博多において[[バテレン追放令]]を発布した。この段階では、庶民の信仰は自由、大名は届出制であるもののキリシタンも許可されていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
同年[[10月1日 (旧暦)|10月1日]]には京都にある[[北野天満宮]]の境内と松原において[[千利休]]・[[津田宗及]]・[[今井宗久]]らを茶頭として大規模な茶会を開催した（[[北野大茶会]]）。茶会は一般庶民にも参加を呼びかけた結果、当日は京都だけではなく各地からも大勢の人が参加し、会場では秀吉も参加して[[野点]]が行われた。また、[[黄金の茶室]]も披露されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 朝臣として聚楽第を構える ===&lt;br /&gt;
天正15年（[[1587年]]）、平安京旧大内裏跡付近に[[聚楽第]]を築いた。本能寺の二の舞にならないための京都の城塞である。これ以前、本能寺には本格的な城塞は無かったのだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
天正16年（[[1588年]]）[[4月14日 (旧暦)|4月14日]]には聚楽第に[[後陽成天皇]]を迎え華々しく饗応、徳川家康や織田信雄ら有力大名に自身への忠誠を誓わせた。同年には[[刀狩令]]や[[海賊停止令]]を発布した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 小田原の役 ===&lt;br /&gt;
天正17年（[[1589年]]）、側室の[[淀殿]]との間に[[豊臣鶴松|鶴松]]が産まれた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
同年、[[後北条氏]]の家臣・[[猪俣邦憲]]が[[真田昌幸]]家臣・[[鈴木重則]]が守る[[上野国]][[名胡桃城]]を奪取したのをきっかけとして、秀吉は天正18年（[[1590年]]）に[[関東地方|関東]]へ遠征、後北条氏の本拠[[小田原城]]を包囲した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
小田原城は堅城として知られるが、3か月の篭城戦の後に[[北条氏政]]・[[北条氏直]]父子は降伏した。北条氏政・[[北条氏照]]は切腹し、氏直は紀伊の[[高野山]]に追放された（[[小田原の役]]）。小田原城を包囲中に、[[伊達政宗]]ら東北の大名も秀吉に恭順の意を示した。これによって、名実ともに秀吉の天下統一事業が完遂された。この戦後の論功行賞で、謀反を起こす可能性のある徳川家を江戸に、織田信雄を家康の旧領地へと豊臣家から遠くへ国替えさせた。だが信雄には断られたため、領地を全て没収して流罪にした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 天下統一 ===&lt;br /&gt;
こうして秀吉は後北条氏を下し、日本を統一した。だが、[[毛利氏]]や[[島津氏]]といった有力大名は滅ぼすことはできず臣従させるにとどまり、いまだ強大である徳川氏や、全く戦うことなく戦力を温存した[[伊達氏]]のような勢力もいた。これら有力諸大名の処遇が、豊臣政権の課題となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
天正19年（[[1591年]]）、後継者に指名していた鶴松が病死した。そのため、甥・秀次を養子として関白職を譲り、'''[[太閤]]'''（前関白の尊称）と呼ばれるようになる。ただし、秀吉は全権を譲らず、実権を握り二元政を敷いた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この年、重用してきた茶人・千利休に自害を命じている。利休の弟子である[[古田重然]]、細川忠興らの助命嘆願は受け入れられず、利休は切腹した。その首は[[一条戻橋]]に晒された。この事件の発端には諸説があるが、信長路線を続けて天皇家の墓石を手水鉢にするなどしていた事が、関白という立場の秀吉は許すことができなかったのだ、というのが通説である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
同年には東北で[[南部氏]]一族の[[九戸政実]]が、後継者争いのもつれから反乱を起こした。[[南部信直]]の救援依頼に、秀吉は豊臣秀次を総大将として蒲生氏郷・[[浅野長政]]・石田三成ら九戸討伐軍を派遣した。東北諸大名もこれに加わり6万の軍となった。戦いの後に九戸政実・[[九戸実親|実親]]は降伏した。九戸氏は豊臣秀次に一族とともに斬首され滅亡し、乱は終結した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 織田家の再興 ===&lt;br /&gt;
文禄元年（1592年）9月9日、東北から九州の果てまで全国を完全に平定した秀吉は、織田家の嫡孫・織田秀信を美濃国の大名に封じ岐阜城を返した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
またこの年、織田信雄も家康の仲介で赦免され、相伴衆に加えられて大和国内に1万8,000石を領した。肥前名護屋城にも兵1,500を率いて着陣したという（太閤記）。この際、長男・秀雄も越前国亀山5万石を与えられた&amp;lt;ref&amp;gt;この時、実際に知行を与えられたのは秀雄の4万5000石（当代記）で、信雄は後見役（隠居身分）として復帰したに過ぎず、本人が知行を直接与えられたのは御伽衆として秀吉に召抱えられた晩年で、1万7000石ともいう（武家事紀）。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 文禄の役 ===&lt;br /&gt;
[[文禄]]元年（[[1592年]]）、[[明]]の征服と[[李氏朝鮮|朝鮮]]の服属を目指して[[宇喜多秀家]]を元帥とする16万の軍勢を朝鮮に出兵した。初期の日本軍は朝鮮軍を相手に連戦連勝し、[[ソウル特別市|漢城]]、[[平壌]]などを占領するなど圧倒したが、各地の[[義兵]]による抵抗や明の援軍が到着したことによって戦況は膠着状態となり、文禄2年（[[1593年]]）、明との間に講和交渉が開始された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 秀次事件 ===&lt;br /&gt;
一方、文禄2年（[[1593年]]）に側室の淀殿が[[豊臣秀頼|秀頼]]を産むと、秀次との対立が深刻となる。2年後の文禄4年（[[1595年]]）、秀次を「殺生関白」（摂政関白のもじり）と呼ばれたほどの乱行を理由として廃嫡し、高野山へ追放。のちに謀反の容疑で切腹を命じた。秀次の補佐役であった古参の前野長康らも切腹処分となったほか、秀次の妻子などもこの時処刑された。秀吉の命令により秀次の側室たち39人の首は次々と切り落とされ、遺体は巨大な穴に投げ捨てられた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
秀次の乱行が実際にあったかには諸説あり、実子が生まれたので秀次が邪魔になったという見方も有力である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これは信長の死後、信雄・信孝・三法師を利用して天下を奪った経験からきたものだろう。すなわち秀頼と秀次の2人がいれば、誰かが片方をかついで片方に戦いを挑み、それによって天下を奪い取ろうとするかもしれぬ。だが片方が死んでしまえばもうそれはできない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この策は間違いであった。秀頼を秀次の養子にするのがベストな選択だったはずだ。それがダメならいっそ秀頼の方を殺すべきだった。秀頼では対抗馬はいなくとも、自分で物事の判断ができず、結局は周囲の好きにされてしまうからだ。史実ではそれが半分、淀殿が誤った判断をくだすというさらに悪い結果が半分。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
我が子かわいさに目が曇ったのは本当であろう。まことに残念な話である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===サン＝フェリペ号事件と二十六聖人処刑===&lt;br /&gt;
文禄5年（[[1596年]]）10月に土佐国にスペイン船が漂着し、[[サン＝フェリペ号事件]]が起きる。奉行・[[増田長盛]]らは船員たちに「スペイン人たちは[[海賊]]であり、ペルー、メキシコ（ノビスパニア）、フィリピンを武力制圧したように日本でもそれを行うため、測量に来たに違いない。このことは都にいる三名のポルトガル人ほか数名に聞いた」という秀吉の書状を告げた&amp;lt;ref&amp;gt;松田毅一『秀吉の南蛮外交』新人物往来社、昭和47年、227-8頁&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
同年12月8日に秀吉は再び禁教令を公布した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
翌[[慶長]]2年（[[1597年]]）、秀吉は朝鮮半島への再出兵と同時期に、イエズス会の後に来日したフランシスコ会（アルカンタラ派）の活発な宣教活動が禁教令に対して挑発的であると考え、京都奉行の石田三成に命じて、京都と大阪に住むフランシスコ会員とキリスト教徒全員を捕縛し処刑を命じた。三成は[[パウロ三木]]を含むイエズス会関係者を除外しようとしたが、果たせなかった。2月5日、日本人20名、スペイン人4名、メキシコ人、ポルトガル人各1名の26人が処刑された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 慶長の役 === &lt;br /&gt;
文禄5年（1596年）、明との間の講和交渉が決裂し、秀吉は作戦目標を「[[全羅道]]を悉く成敗し、[[忠清道]]・[[京畿道]]にもなるべく侵攻すること、その達成後は拠点となる城郭を建設し在番の城主を定め、その他の諸将は帰国させる&amp;lt;ref&amp;gt;『慶長二年二月二十一日付朱印状（立花家文書他）』&amp;lt;/ref&amp;gt;」として再出兵の号令を発した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
慶長2年（1597年）、[[小早川秀秋]]を元帥として14万人の軍を朝鮮へ再度出兵する。[[漆川梁海戦]]で朝鮮水軍を壊滅させると進撃を開始し、2か月で[[慶尚道]]・全羅道・忠清道を制圧。京畿道に進出後、日本軍は撤収し作戦目標通り南岸に文禄の役の際に築かれた既存の城郭の外縁部に新たに城塞（[[倭城]]）を築いて城郭群を補強した。このうち[[蔚山城]]は完成前に明・朝鮮軍の攻撃を受けたが、撃退し大勝する（[[蔚山城の戦い#第一次蔚山城の戦い|第一次蔚山城の戦い]]）。城郭群が完成し防衛体制を整えると、6万4千余の将兵を在番として拠点となる城郭群に残し防備を固めさせる一方、7万余の将兵を本土に帰還させ慶長の役の作戦目標は完了した&amp;lt;ref&amp;gt;『日本戦史　朝鮮役』／日本陸軍参謀本部393項&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
秀吉は慶長4年（1599年）にも大規模な軍事行動を計画しており、それに向けて倭城に兵糧や玉薬などを諸将に備蓄するように命じていたが、計画実施前に秀吉が死去したため実施されることはなかった&amp;lt;ref&amp;gt;来年は御人数指し渡され、朝鮮都までも動きの儀、仰せ付けららるべく候。其の意を得、兵糧、玉薬沢山に覚悟仕り、在庫すべく候なり『慶長三年三月十三日付朱印状（立花家文書）』　度々仰せ遣わされ候ごとく、来年大人数遣わされ働の儀、仰せ付けらるベく候間、其の中いずれの城々も丈夫に在番肝用に候『慶長三年五月二十二日付朱印状（鍋島家文書）』等&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 最期 ===&lt;br /&gt;
慶長3年（[[1598年]]）3月15日、[[醍醐寺]]諸堂の再建を命じ、庭園を造営、各地から700本の桜を集めて境内に植えさせて秀頼や奥方たちと一日だけの[[花見]]を楽しんだ（[[醍醐の花見]]）。同年5月から秀吉は病に伏せるようになり日を追う毎にその病状は悪化していった&amp;lt;ref name=&amp;quot;SekigaharaOsaka&amp;quot;&amp;gt; 『関ヶ原から大坂の陣へ』19頁&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;SekigaharaOsaka2&amp;quot;&amp;gt;『関ヶ原から大坂の陣へ』20頁&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;SekigaharaOsaka3&amp;quot;&amp;gt;『関ヶ原から大坂の陣へ』21頁&amp;lt;/ref&amp;gt;。5月15日には『太閤様被成御煩候内に被為仰置候覚』という名で、徳川家康・[[徳川秀忠]]・前田利家・前田利長・宇喜多秀家・[[上杉景勝]]・毛利輝元ら[[五大老]]及びその[[嫡男]]らと[[五奉行]]のうちの[[前田玄以]]・[[長束正家]]に宛てた十一箇条からなる遺言書を出し、これを受けた彼らは起請文を書きそれに血判を付けて返答した&amp;lt;ref name=&amp;quot;SekigaharaOsaka5&amp;quot;&amp;gt;『関ヶ原から大坂の陣へ』23頁&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
自分の死が近いことを悟った秀吉は7月4日に居城である[[伏見城]]に徳川家康ら諸大名を呼び寄せて、家康に対して子の秀頼の[[後見人]]になるようにと依頼した&amp;lt;ref name=&amp;quot;SekigaharaOsaka3&amp;quot;/&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;SekigaharaOsaka4&amp;quot;&amp;gt;『関ヶ原から大坂の陣へ』22頁&amp;lt;/ref&amp;gt;。また、自身を新たな[[八幡]]として神格化するよう遺言した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
8月5日、秀吉は五大老宛てに二度目の遺言書を記し、8月18日、その生涯を終えた&amp;lt;ref name=&amp;quot;SekigaharaOsaka5&amp;quot;/&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
秀吉の死はしばらくの間秘密とされることとなった&amp;lt;ref name=&amp;quot;SekigaharaOsaka6&amp;quot;&amp;gt;『関ヶ原から大坂の陣へ』26頁&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
死因については現在も不明である&amp;lt;ref name=&amp;quot;SekigaharaOsaka5&amp;quot;/&amp;gt;が、近年「[[脚気]]」だったという説も唱えられている。死の直後に通夜も葬儀も行われないまま、その日のうちに伏見城から[[#墓所・霊廟・神社|阿弥陀ヶ峰]]に遺体を移し埋葬され、家督は秀頼が継いだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[辞世の句]]は「''露と落ち 露と消えにし 我が身かな 浪速のことは 夢のまた夢'' 」。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
秀吉が死去すると、戦争継続を主張する者はほとんどおらず、五大老や五奉行によって撤兵が決定された。当時、日本軍は、攻撃してきた明・朝鮮軍に[[蔚山城の戦い#第二次蔚山城の戦い|第二次蔚山城の戦い]]、[[泗川の戦い]]、[[順天城の戦い]]などで勝利していたが、撤退命令が伝えられると明軍と和議を結び、全軍朝鮮から撤退した。秀吉の死は秘密にされたままであった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この戦争は、朝鮮の国土と軍民に大きな被害をもたらした。また、明は莫大な戦費の負担と兵員の損耗によって疲弊し、後に滅亡する一因となった。日本でも、征服軍の中心であった西国大名達が消耗し、秀吉没後の豊臣政権内部の対立の激化を招くことになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
秀吉の墓は壮麗に築かれたものの、没後の混乱のため、葬儀は行なわれなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 年表 ==&lt;br /&gt;
{| class=wikitable&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
!style=&amp;quot;width:5em;&amp;quot;|[[和暦]]&lt;br /&gt;
!style=&amp;quot;width:5em;&amp;quot;|[[西暦]]&amp;lt;ref name=&amp;quot;暦&amp;quot;&amp;gt;1582年10月4日以前は[[ユリウス暦]]、それ以降は[[グレゴリオ暦]]。日付は[[宣明暦]]長暦。&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
!style=&amp;quot;width:6em;&amp;quot;|月日&amp;lt;ref name=&amp;quot;暦&amp;quot;/&amp;gt;&lt;br /&gt;
!style=&amp;quot;width:4.5em;&amp;quot;|年齢&lt;br /&gt;
!style=&amp;quot;width:30em;&amp;quot;|内容&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|天文6年&lt;br /&gt;
|1537年&lt;br /&gt;
|2月6日&lt;br /&gt;
|1歳&lt;br /&gt;
|生誕&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|天文23年&lt;br /&gt;
|1554年&lt;br /&gt;
|&lt;br /&gt;
|17歳&lt;br /&gt;
|（織田信長に仕官？）&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|永禄4年&lt;br /&gt;
|1561年&lt;br /&gt;
|&lt;br /&gt;
|24歳&lt;br /&gt;
|（浅野長勝の養女（高台院）と結婚？）&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|永禄11年&lt;br /&gt;
|1568年&lt;br /&gt;
|9月12日&lt;br /&gt;
|31歳&lt;br /&gt;
|観音寺城の戦い&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|元亀元年&lt;br /&gt;
|1570年&lt;br /&gt;
|4月20日&lt;br /&gt;
|33歳&lt;br /&gt;
|金ヶ崎で殿をつとめる&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|rowspan=2|天正元年&lt;br /&gt;
|rowspan=2|1573年&lt;br /&gt;
|8月&lt;br /&gt;
|36歳&lt;br /&gt;
|小谷城の戦い&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|&lt;br /&gt;
|&lt;br /&gt;
|羽柴改姓？&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|天正3年&lt;br /&gt;
|1575年&lt;br /&gt;
|7月3日&lt;br /&gt;
|38歳&lt;br /&gt;
|筑前守&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|rowspan=2|天正5年&lt;br /&gt;
|rowspan=2|1577年&lt;br /&gt;
|10月5日&lt;br /&gt;
|40歳&lt;br /&gt;
|信貴山城の戦い&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|11月3日&lt;br /&gt;
|&lt;br /&gt;
|手取川の戦い&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|rowspan=2|天正6年&lt;br /&gt;
|rowspan=2|1578年&lt;br /&gt;
|3月&lt;br /&gt;
|41歳&lt;br /&gt;
|三木合戦&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|4月18日&lt;br /&gt;
|&lt;br /&gt;
|上月城の戦い&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|rowspan=4|天正10年&lt;br /&gt;
|rowspan=4|1582年&lt;br /&gt;
|&lt;br /&gt;
|45歳&lt;br /&gt;
|備中高松城の戦い&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|6月13日&lt;br /&gt;
|&lt;br /&gt;
|山崎の戦い&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|6月27日&lt;br /&gt;
|&lt;br /&gt;
|清洲会議&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|10月3日&lt;br /&gt;
|&lt;br /&gt;
|従五位下左近衛少将（『公卿補任』）&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|rowspan=3|天正11年&lt;br /&gt;
|rowspan=3|1583年&lt;br /&gt;
|4月&lt;br /&gt;
|46歳&lt;br /&gt;
|賤ヶ岳の戦い&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|5月22日&lt;br /&gt;
|&lt;br /&gt;
|従四位下参議&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|11月&lt;br /&gt;
|&lt;br /&gt;
|本拠を大坂城に移転。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|rowspan=2|天正12年&lt;br /&gt;
|rowspan=2|1584年&lt;br /&gt;
|9月16日&lt;br /&gt;
|47歳&lt;br /&gt;
|小牧・長久手の戦い&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|11月21日&lt;br /&gt;
|&lt;br /&gt;
|従三位権大納言&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|rowspan=7|天正13年&lt;br /&gt;
|rowspan=7|1585年&lt;br /&gt;
|3月&lt;br /&gt;
|48歳&lt;br /&gt;
|紀州征伐&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|3月10日&lt;br /&gt;
|&lt;br /&gt;
|正二位、内大臣宣下&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|6月&lt;br /&gt;
|&lt;br /&gt;
|四国攻め&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|7月&lt;br /&gt;
|&lt;br /&gt;
|近衛前久の猶子となる、藤原改姓&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|7月11日&lt;br /&gt;
|&lt;br /&gt;
|従一位関白宣下、内大臣如元&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|8月&lt;br /&gt;
|&lt;br /&gt;
|富山の役&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|10月&lt;br /&gt;
|&lt;br /&gt;
|惣無事令実施（九州地方）&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|rowspan=4|天正14年&lt;br /&gt;
|rowspan=4|1586年&lt;br /&gt;
|7月&lt;br /&gt;
|49歳&lt;br /&gt;
|九州征伐&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|9月9日&lt;br /&gt;
|&lt;br /&gt;
|賜豊臣氏（『押小路文書』）&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|12月19日&lt;br /&gt;
|&lt;br /&gt;
|内大臣辞職&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|12月25日&lt;br /&gt;
|&lt;br /&gt;
|太政大臣兼帯&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|rowspan=4|天正15年&lt;br /&gt;
|rowspan=4|1587年&lt;br /&gt;
|5月9日&lt;br /&gt;
|50歳&lt;br /&gt;
|書状「かうらい国へ御人」&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|6月1日&lt;br /&gt;
|&lt;br /&gt;
|書状「我朝之覚候間高麗国王可参内候旨被仰遣候」&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|6月19日&lt;br /&gt;
|&lt;br /&gt;
|バテレン追放令制定&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|12月&lt;br /&gt;
|&lt;br /&gt;
|惣無事令実施（関東・奥羽地方）&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|rowspan=3|天正16年&lt;br /&gt;
|rowspan=3|1588年&lt;br /&gt;
|7月28日&lt;br /&gt;
|51歳&lt;br /&gt;
|刀狩令制定&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|8月12日&lt;br /&gt;
|&lt;br /&gt;
|島津氏を介し琉球へ服属入貢要求&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|&lt;br /&gt;
|&lt;br /&gt;
|海賊停止令制定&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|天正17年&lt;br /&gt;
|1589年&lt;br /&gt;
|5月&lt;br /&gt;
|52歳&lt;br /&gt;
|鶴松が誕生。鶴松を後継者に指名。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|rowspan=4|天正18年&lt;br /&gt;
|rowspan=4|1590年&lt;br /&gt;
|2月&lt;br /&gt;
|53歳&lt;br /&gt;
|小田原の役&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|2月28日&lt;br /&gt;
|&lt;br /&gt;
|琉球へ唐・南蛮も服属予定として入朝要求&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|7月&lt;br /&gt;
|&lt;br /&gt;
|奥州仕置&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|11月&lt;br /&gt;
|&lt;br /&gt;
|朝鮮へ征明を告げ入朝要求&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|rowspan=6|天正19年&lt;br /&gt;
|rowspan=6|1591年&lt;br /&gt;
|&lt;br /&gt;
|54歳&lt;br /&gt;
|身分統制令制定&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|3月3日&lt;br /&gt;
|&lt;br /&gt;
|天正遣欧少年使節が聚楽第において秀吉に西洋音楽（ジョスカン・デ・プレの曲）を演奏&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|7月25日&lt;br /&gt;
|&lt;br /&gt;
|ポルトガル領インド副王に宛ててイスパニア王の来日を要求&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|9月15日&lt;br /&gt;
|&lt;br /&gt;
|スペイン領フィリピン諸島（小琉球）に服属要求&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|10月14日&lt;br /&gt;
|&lt;br /&gt;
|島津氏を介し琉球へ唐入への軍役要求&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|12月&lt;br /&gt;
|&lt;br /&gt;
|関白辞職、太政大臣如元&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|rowspan=3|文禄元年&lt;br /&gt;
|rowspan=3|1592年&lt;br /&gt;
|4月12日&lt;br /&gt;
|55歳&lt;br /&gt;
|朝鮮出兵開始（文禄の役）&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|7月21日&lt;br /&gt;
|&lt;br /&gt;
|スペイン領フィリピン諸島（小琉球）に約を違えた朝鮮を伐ったことを告げ服属要求&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|&lt;br /&gt;
|&lt;br /&gt;
|人掃令制定&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|rowspan=2|文禄2年&lt;br /&gt;
|rowspan=2|1593年&lt;br /&gt;
|8月&lt;br /&gt;
|56歳&lt;br /&gt;
|本拠を伏見城に移す。秀頼が誕生。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|11月5日&lt;br /&gt;
|&lt;br /&gt;
|高山国へ約を違えた朝鮮を伐ち明も和を求めているとして服属入貢を要求&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|慶長元年&lt;br /&gt;
|1596年&lt;br /&gt;
|&lt;br /&gt;
|60歳&lt;br /&gt;
|サン＝フェリペ号事件&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|rowspan=2|慶長2年&lt;br /&gt;
|rowspan=2|1597年&lt;br /&gt;
|2月&lt;br /&gt;
|61歳&lt;br /&gt;
|再度の朝鮮出兵開始（慶長の役）&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|7月27日&lt;br /&gt;
|&lt;br /&gt;
|スペイン領フィリピン諸島（小琉球）に日本は神国でキリスト教を禁止したことを告ぐ&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|rowspan=2|慶長3年&lt;br /&gt;
|rowspan=2|1598年&lt;br /&gt;
|&lt;br /&gt;
|62歳&lt;br /&gt;
|太政大臣辞職&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|8月18日&lt;br /&gt;
|&lt;br /&gt;
|伏見城で薨去。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|大正4年&lt;br /&gt;
|1915年&lt;br /&gt;
|8月18日&lt;br /&gt;
|&lt;br /&gt;
|贈正一位&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 人物 ==&lt;br /&gt;
=== 出身・家系 ===&lt;br /&gt;
* 秀吉の父・弥右衛門は[[百姓]]であったとされるが、百姓＝農民とするのは後代の用例であり、弥右衛門の主たる生業は織田家の[[足軽]]だったとする説もある。[[太田道灌]]や[[北条早雲]]の軍制に重用された足軽は急速に全国へ広まっていた。ただし、秀吉が初めて苗字を名乗るのは木下家出身のねねとの婚姻を契機とすることを指摘した研究もある。つまり、それ以前は苗字を名乗る地盤すら持たない階層だった可能性も指摘されている&amp;lt;ref&amp;gt;当時の百姓身分は農業や手工業の比較的規模の大きい経営者階層であり、この層に出自する者が地侍などの形で武士身分に食い込みを図るときには、勢力地盤となっている村の名前などを苗字とするのが普通であるし、そもそもこの階層は惣村共同体の足軽中で通用する程度に権威のある私称の苗字を保持しているのが通例であった。それすらも自前で名乗る地盤を持たなかったとすれば、秀吉の出自は百姓身分ですらない、さらに下層の出身者である可能性がある。&amp;lt;/ref&amp;gt;。[[フロイス日本史]]では「若い頃は山で薪を刈り、それを売って生計を立てていた」、[[日本教会史]]では、秀吉は「木こり」出身と書かれている。また[[八切止夫]]は、秀吉は「端柴売り」出身で、わざとその事を示す羽柴（＝端柴）に改姓し、自分が本来低い身分なのだとアピールすることによって周囲からの嫉妬を避けようとしたのだと推測している。[[井沢元彦]]は「当時の西洋人からは端柴売りが木こりに見えたのだろう」と両者を整合する説をとっている。&amp;lt;ref&amp;gt;井沢はさらに「秀吉」という名前も、「稗よし（稗くらいは良く食べられますように）」という当時の貧民層に見られた名前を変えたもので、これも自分をへりくだるための命名だと推測している。&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
* 秀吉は好色・女好きで知られ、300名ともいわれる多くの側室を置いていたが&amp;lt;ref&amp;gt;[[ルイス・フロイス]]は『日本史』において「300名の側室を抱えていた」と記録している。その反面、『伊達世臣家譜』には「秀吉、愛妾十六人あり」という記述が見られる。歴史学者の桑田忠親も、秀吉の正式な側室は20人足らずだと推定している。フロイスが挙げた数字は、側室の世話をする女官も含めた数字であろう。&amp;lt;/ref&amp;gt;、一方で正室である[[高台院]]にも、側室のほとんどとの間にも子供が生まれず、実子の数は生涯を通じても非常に少なかった。これは秀吉自身が子供ができにくい体質であったためと思われる。そのため秀頼は秀吉の子ではなく、淀殿が他の者（[[大野治長]]など）と通じて成した子であるとする説もある。これについては、秀頼だけでなく鶴松の時点でそうした噂があったようである&amp;lt;ref&amp;gt;『完訳フロイス日本史5　「暴君」秀吉の野望』第34章&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
* 子宝に恵まれなかった秀吉であるが、長浜城主時代に一男一女を授かったという説がある。男子は南殿と呼ばれた女性の間に生まれた子で「秀勝」と言ったらしい。[[長浜市|長浜]]で毎年4月（昔は10月）に行われる曳山祭は、秀吉に男の子が生まれ、そのことに喜んだ秀吉からお祝いの砂金を贈られた町民が、山車を作り、長浜八幡宮の祭礼に曳き回したことが、始まりと伝えられている。しかし、実子秀勝は、幼少で病死（その後、秀吉は2人の養子に秀勝の名を与えている）。長浜にある妙法寺には、伝羽柴秀勝像といわれる子どもの肖像画や秀勝の墓といわれる石碑、位牌が残っている。女子については、名前を含め詳細不明であるが、長浜市内にある舎那院所蔵の弥陀三尊の懸仏の裏に次のような銘記がある。「江州北郡 羽柴筑前守殿 天正九年 御れう人 甲戌歳 奉寄進御宝前 息災延命 八月五日 如意御満足虚 八幡宮」これは秀吉が、天正2年（1574年）に生まれた実娘のために寄進したとされている&amp;lt;ref&amp;gt;近江坂田郡誌に記載&amp;lt;/ref&amp;gt;。となると秀吉は長浜城時代に秀勝ともう一人の女の子が授かっていることになる。しかし、舎那院では現在、秀吉の母である大政所のために寄進されたものであると説明している。多聞院日記によれば、大政所は[[文禄]]元年（1592年）に76歳で亡くなっているとされているので年代にずれがある。「御れう人」とは麗人のことであり、76歳の老人にまで解釈が及ぶものかどうか疑問であり、秀吉に女児が生まれたと考える方が妥当である。&lt;br /&gt;
* 関白就任時に、母親の大政所は萩中納言の娘であり、自身も帝の血を引いていると主張した。側近の[[大村由己]]が記した『関白任官記』の他、[[松永貞徳]]の『戴恩記』にも同様の記述が見られる。当時の公家に萩中納言という人物は存在せず、関白就任のための方便だったとされている&amp;lt;ref name=&amp;quot;Owada&amp;quot;/&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 容姿 ===&lt;br /&gt;
* 「猿面冠者」という言葉が残るように、秀吉が容姿から[[猿]]と呼ばれたことは有名である。&lt;br /&gt;
** 『太閤素生記』では秀吉の幼名を「猿」としている。&lt;br /&gt;
** 秀吉の父が亡くなったとき、秀吉に金を遺した一節に「父死去ノ節猿ニ永楽一貫遺物トシテ置ク」とある（『[[太閤素生記]]』)。&lt;br /&gt;
** [[松下之綱|松下加兵衛]]は「猿ヲ見付、異形成ル者也、猿カト思ヘバ人、人カト思ヘバ猿ナリ」と語っている。&lt;br /&gt;
** 秀吉が猿と呼ばれたのは、関白就任後の[[落書]]『まつせ（末世）とは別にはあらじ木の下のさる関白』などを見るに付てもの中で「どこの馬の骨とも分からない身分の低い生まれ」という意味の皮肉として使われた「さる関白」という表現に由来するという説もある。&lt;br /&gt;
** 毛利家家臣の[[玉木吉保]]は「秀吉は赤ひげで猿まなこで、空うそ吹く顔をしている」と記している。&lt;br /&gt;
** 秀吉に謁見した朝鮮使節は「秀吉が顔が小さく色黒で猿に似ている」と報告している（『[[懲毖録]]』）。&lt;br /&gt;
** ルイス・フロイスは「彼は身長が低く、また醜悪な容貌の持ち主で、片手には6本の指があった。目が飛び出ており、シナ人のようにヒゲが少なかった」と書いている&amp;lt;ref&amp;gt;『完訳フロイス日本史4　秀吉の天下統一と高山右近の追放』第16章&amp;lt;/ref&amp;gt;。また、秀吉本人も「皆が見るとおり、予は醜い顔をしており、五体も貧弱だが、予の日本における成功を忘れるでないぞ」と語ったという。&amp;lt;ref&amp;gt;『完訳フロイス日本史4　秀吉の天下統一と高山右近の追放』第14章&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
** [[藤田達生]]は[[山王信仰]]（猿は[[日吉大社]]の使い）を利用するため「猿」という呼び名を捏造したと推測している。&lt;br /&gt;
** 信長は「猿」と呼んでいないとの主張もある。「禿げ鼠」の呼び名も、信長の[[高台院|ねね]]への書状の中で秀吉を叱責する際に「あの禿げ鼠」と書かれているものが1つ現存しているのみで、普段でもそう呼ばれていたかどうかは不明。&lt;br /&gt;
* 秀吉は指が1本多い[[多指症]]だったと[[ルイス・フロイス]]の記録や[[前田利家]]の回想録『国祖遺言』に記されている。後者によれば右手の親指が1本多く、信長からは「六ツめ」と呼ばれていたという。当時は（現在もそうだが）、多くの場合、幼児期までに切除して五指とするが、秀吉は周囲から奇異な目で見られても六指で生涯を通し、天下人になるまでその事実を隠すことがなかったという。しかし天下人となった後は、記録からこの事実を抹消し、肖像画も右手の親指を隠す姿で描かせたりした。そのため、「秀吉六指説」は長く邪説扱いされていた。現在では六指説を真説とする考えが有力であるものの、いまだにこのことに触れない秀吉の伝記は多い&amp;lt;ref&amp;gt;近年発表された小説でさえこの説を奇説扱いするなど、まだ一般に認知されるには至っていない。なお、戦国時代を題材にした漫画では、『[[センゴク]]』と『[[シグルイ]]』がこの説を取り入れており、これらの作品に登場する秀吉は六指である。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
* 身長は小柄であったが詳しい数字は不明。150cm下から160cm余まで諸説ある。&lt;br /&gt;
* 髭が薄かったため、付け髭をしていた。当時の戦国武将が髭を蓄えるのは習慣であり、髭の薄いものが付け髭をするのは普通のことであった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 死因 ===&lt;br /&gt;
* 様々な説が唱えられており、[[梅毒|脳梅毒]]、痢病（赤痢・疫痢の類）&amp;lt;ref&amp;gt;『日本西教史』より&amp;lt;/ref&amp;gt;のほか、[[沈惟敬]]による毒殺説もある&amp;lt;ref group=&amp;gt;朝鮮の古文書『燃黎室記述』による。ただし沈惟敬が日本に来たのは慶長元年（[[1596年]]）で、秀吉が死亡したのはその3年後である。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
* 50代後半頃からは、老衰のためか無意識のうちに失禁した事もあったと記録されている&amp;lt;ref&amp;gt;『駒井日記』より&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
* 平成21年（[[2009年]]）に脳神経外科医で作家の若林利光が、当時の症状などを基に「[[脚気]]だった」とする新説をまとめた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 逸話 ===&lt;br /&gt;
[[ファイル:Toyotomi Hideyoshi Kaou.svg|thumb|200px|豊臣秀吉の[[花押]]]]&lt;br /&gt;
* 人の心を掴む天才とされており、「人たらし」と称せられる。&lt;br /&gt;
** 九州征伐において降伏した[[島津義久]]に対し、丸腰の義久に自らの佩刀を渡している。同様に小田原の役でも遅参した伊達政宗に佩刀を渡し石垣山の崖上で二人きりになった。両名とも秀吉のあまりの度量に気を呑まれ斬りつけることは出来なかった。&lt;br /&gt;
** 小牧・長久手の戦いの後に上洛した徳川家康の下を近習一人をつれて密かに訪れ、数万の徳川兵の中で酒を交わしながら翌日の拝謁の打ち合わせをした。&lt;br /&gt;
** 賤ヶ岳の戦いの最中、熱暑に苦しむ負傷兵に秀吉は農家から大量の菅笠を買い敵味方の区別無く被せて回った。『[[賤ヶ岳合戦記]]』は「誠に天下を治め給うほどの大将はかく御心の付き給うものかな」と伝えている。&lt;br /&gt;
** 賤ヶ岳の戦いの後、小早川隆景に書状で「無精者は成敗すべきであるが、人を斬るのは嫌いだから命を助け領地も与える」と報じている。&lt;br /&gt;
** ただし、徳川家康や伊達政宗を筆頭に豊臣政権に牙をむいた者はおり、少なくとも全員の心を掴んでいたわけではない。&lt;br /&gt;
* 非常にスケールの大きい「大気者」だったともいわれているが、狭量な面も見せている。&lt;br /&gt;
** 秀吉が関白になった後、秀吉が可愛がっていた鶴が飼育係の不注意から飛んで逃げてしまった。飼育係の者は、打ち首覚悟で秀吉に、事の次第を隠さずに報告したが、「日本国中がわしの庭じゃ。なにも籠の中におらずとも、日本の庭におればよい。」と笑って許したという。&lt;br /&gt;
** 小田原の役の際、[[鎌倉]]の[[鶴岡八幡宮]]の白旗の宮を訪ね、[[源頼朝]]の木像&amp;lt;ref&amp;gt;「伝源頼朝坐像」（[[重要文化財]]）、現在は[[東京国立博物館]]所蔵。[http://www.emuseum.jp/detail/100430/000/000?mode=simple&amp;amp;d_lang=ja&amp;amp;s_lang=ja&amp;amp;word=%E6%BA%90%E9%A0%BC%E6%9C%9D&amp;amp;class=&amp;amp;title=&amp;amp;c_e=&amp;amp;region=&amp;amp;era=&amp;amp;century=&amp;amp;cptype=&amp;amp;owner=&amp;amp;pos=1&amp;amp;num=5 「e国宝」に画像と解説あり]。&amp;lt;/ref&amp;gt;に向かい「小身から四海を平定し天下を手中にしたのは貴方とこのわしだけであり、我らは天下友達である。しかし貴方は御門の御後胤で、父祖は東国の守護であり、故に流人の身から挙兵しても多く者が従った。わしは、元々は卑賤の出で、氏も系図もない男だ。だからこのように天下を平定したことは、貴方よりわしの功が優れている」と木像の肩を叩きながら言ったという。&lt;br /&gt;
** 非常に世評を気にする人物であった。北野大茶会や華美な軍装などの人々の評判が上がる行為を頻繁に行った。一方、聚楽第に自身を非難する[[落書]]が書かれた際は当番の兵を処刑し、作者を探し出して自害させている。&lt;br /&gt;
** 上述のような逸話などのせいか、ドラマなどでも人を殺すことを嫌う人物のように描写されることの多い秀吉であるが、実際には元亀2年に湖北一向一揆を殲滅したり（『松下文書』や『信長公記』より）、天正5年に備前・美作・播磨の国境付近で毛利氏への見せしめのために、女・子供200人以上を子供は串刺しに、女は磔にして処刑する（同年12月 5日の羽柴秀吉書状より）等、現代の価値観では残酷とされる行為を行うこともあった。&lt;br /&gt;
* 母・大政所への忠孝で知られる。小牧・長久手の戦いの後、家康を上洛させるため母と妹を人質として一時家康に差し出したが、そこで母を粗略に扱った[[本多重次]]を後に家康に命じて蟄居させている。天下人としての多忙な日々の中でも、正室・北政所や大政所本人に母親の健康を案じる手紙をたびたび出しており、そのうちの幾つかは現存している。朝鮮出兵のために肥前名護屋に滞在中、母の危篤を聞いた秀吉は急いで帰京したが、結局臨終には間に合わず、ショックのあまり卒倒したという。秀吉が親孝行であったことは[[明治時代]]の[[国定教科書]]でも好意的に記述された。&lt;br /&gt;
* 戦国大名は主君と臣下の[[男色]]（いわゆる「[[衆道]]」）を武士の嗜みとしていたが&amp;lt;ref&amp;gt;有名なのは織田信長と[[長谷川秀一]]などである。&amp;lt;/ref&amp;gt;、秀吉には男色への関心がまったくと言ってよいほどなかった。男色傾向の無さを訝しんだ家臣が家中で一番との評判の美少年を呼び出し、秀吉に会わせ二人きりにさせたのだが秀吉はその少年に「お前に姉か妹はいるか？」と聞いただけだったと言われる。&lt;br /&gt;
* ルイス・フロイスは、秀吉の外見以外については「優秀な武将で戦闘に熟練していたが、気品に欠けていた」「極度に淫蕩で、悪徳に汚れ、獣欲に耽溺していた」「抜け目なき策略家であった」「彼は本心を明かさず、偽ることが巧みで、悪知恵に長け、人を欺くことに長じているのを自慢としていた」などと記している。&lt;br /&gt;
*上杉謙信と対決するために北陸へ出兵した際、軍議で大将の柴田勝家に反発し、勝手に領地へ引き上げてしまったことがある&amp;lt;ref&amp;gt;この無断撤退が信長の怒りを買ったことは、『信長公記』にも記されている。『絵本太閤記』では、謙信の武勇を軽視した勝家に対する面当てだったとされる。&amp;lt;/ref&amp;gt;。その後の中国攻めでも、宇喜多直家の寝返りを勝手に許可してしまい、再び信長に怒られている。&lt;br /&gt;
* 人と同じに振る舞うことを嫌う、[[傾奇者]]だった。何回か開いた仮装茶会（名護屋城の仮装茶会が有名）では、参加する武将達にわざと身分の低い者の格好をしてくるように通達し、自身も瓜売りの姿で参加したと伝えられている。武将たちも喜んで通達に応じ、徳川家康は同じく瓜売り、伊達政宗は[[山伏]]に扮した。&lt;br /&gt;
* 今で言う美食家であり、食事には贅沢をした。ただ、後年家来に対し、「位が高くなっていろいろ贅沢なものを食べたが、貧しい時代腹が減ったときに食べた、麦飯ほど美味いものはなかった」と語っている。&lt;br /&gt;
* 文化的修養を積むことに努力し身につけていた。古典文学を[[細川幽斎]]、[[連歌]]を[[里村紹巴]]、[[茶道]]を[[千利休]]、有識故実を[[菊亭晴季]]、[[禅]]を[[西笑承兌]]、[[儒学]]を大村由己、[[能楽]]を金春太夫安照に学んだとされる&amp;lt;ref&amp;gt;桑田忠親 『豊臣秀吉の発想力と知謀』 広済堂文庫、1990年、222頁。ISBN 4-331-65065-0&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
** 能楽には無邪気なほど熱中し、前田利家と徳川家康と共に天皇の御前で演じたり、『明智討』『柴田』など自分の活躍を演目にして自ら演じたりした。&lt;br /&gt;
** 秀吉の和歌は、[[八条宮智仁親王]]によって『豊臣太閤御詠草』として編纂された。&lt;br /&gt;
** 茶人としても独自の境地を切り開いた。茶道の研究者である矢部良明は、千利休でも古田重然でもなく、秀吉こそが武家茶の湯の大成者であると指摘している&amp;lt;ref&amp;gt;矢部良明 『茶人豊臣秀吉』 角川選書、2002年、255～261頁。ISBN 978-4047033474&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
** 能筆家であった。[[北大路魯山人]]は秀吉の[[書道|書]]に対して、新たに[[三筆]]を選べば、秀吉も加えられると高く評価した。達筆である反面、文字の正確さにはこだわらない性格であった。『老人雑話』や『武野燭談』、『太閤夜話』には「醍醐」の「醍」を祐筆が失念した際、「大」と書くよう指示したという逸話が記されている。現存する秀吉の書簡には、誤字や当て字、仮名が多用されている。ただし当時の私的な書状では慣例的に当て字や仮名が使用されていて当然であり、このことは秀吉の無教養を示すことにはならないと桑田忠親は擁護している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 本能寺の変の黒幕説 ===&lt;br /&gt;
本能寺の変で最終的に最も得をした秀吉が事件の黒幕ではないか、との説もある。その説の根拠は、秀吉の信長に対する必要ないと思われる援軍要請である。秀吉は備中高松城攻めのとき、毛利輝元・吉川元春・小早川隆景らが高松城の救援に出てきたため、信長に苦境を訴えて援軍を要請した。ところが当時の毛利氏は、相次ぐ対外戦争による財政的問題、豊後の大友宗麟や山陰の[[南条元続]]たちへの備えといった理由により高松城救援に用意できた兵力は羽柴軍の半分の1万5000ほどでしかなく、救援など不要であったと思われる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
では、なぜこのような要請を行なったのかと言えば、当時の信長は三職補任問題や皇位継承問題などで朝廷と頻繁に交渉していたため、京都に上洛する必要があった。明智光秀はそこを狙って「本能寺の変」を起こした訳であるが、一つだけ大きな問題があった。それは、軍勢を集める理由である。ところが秀吉の必要ない救援要請で援軍に赴くように命じられたため、信長に疑われること無く軍勢を集め、その軍勢で光秀は京都の信長を討ち果たしているのである。光秀が近衛前久と内通していたという説があるように、秀吉も当時の朝廷の実力者である大納言の[[勧修寺晴豊]]あたりと内通しており、その筋から光秀の謀反計画を知り、わざわざこのような要請を行なったのではないかと言われている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、秀吉の中国大返しに関しても、沼城から姫路城まで70キロの距離をわずか1日で撤収している。如何に秀吉が優秀な武将だったとはいえ、あの速さは事前に用意をしていなければ出来ない、「本能寺の変」を知らせる使者は果たして、本当に毛利方と間違えて秀吉の陣に入ってきたのか、中国大返し後の織田方有力武将への切崩しの異常な速さ等について、疑惑が持たれている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ただし、以上のような説は正規の学説にはなっていない。学会では、むしろ本能寺の変の原因に争点の中心が置かれている関係もあり、現在では小説家や歴史研究家が個人的にフィクションや推論として採用している例がほとんどである。従って上記の説についても、反論を挙げる事は可能である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 信長についての史料として信憑性が高いとされる『[[信長公記]]』によれば、高松城への援軍、西国への出陣を立案したのは信長自身であり、秀吉は毛利家主力の出陣を報告したのみで、秀吉側から援軍の要請があったという記述はない。&lt;br /&gt;
* 『浅野家文書』には毛利軍5万人と記されており、秀吉は初期情報のこの数字を元に信長の援軍を請求した可能性が存在する。&lt;br /&gt;
* 本能寺の変直後の六月三日には、江北周辺の武田、京極らの武将は光秀に呼応し秀吉の居城である長浜城を接収しており、同城には、光秀の重臣である斎藤利三が入城している。また、長浜にいた秀吉の家族らは本能寺の急報を聞き、美濃へ避難したという。このことから考えると、光秀と秀吉に先立っての接触があったとは考えづらい。「『[[言経卿記]]』、『豊鑑』」&lt;br /&gt;
* 明智光秀の援軍は、対毛利戦線の山陰道方面に対してのものであり、秀吉が現在戦っている山陽道方面ではない。&lt;br /&gt;
* 秀吉の援軍要請は、手柄を独占する事によって信長に疑念を持たれるのを避ける（信長自身を招いて信長に手柄を譲る）為の保身であり、有利な状況でありながら援軍を求める必然性は存在する。(『常山記談』)&lt;br /&gt;
* いわゆる「[[中国大返し]]」についても、信長自身による援軍を迎えるための道中の準備が、たまたま功を奏したに過ぎない。「事前に用意していなければ出来ない」とする説はほとんどが近年の学者が述べている発言であり、当時秀吉や豊臣家と関係があった武士からは敵味方を問わず中国大返しを疑問視した発言や記録は出ていない。そもそも沼城から姫路城まで、わずか1日で70キロを走破というのは、事前の準備があってもあり得ないスピードである。種をあかせば、わずか1日で撤収したのは最初に姫路城に到着した兵であり、彼らは馬に乗っていたためにこの速度が可能だった。徒歩の兵士を含めての全てが姫路城まで到着するには、もっと時間がかかっている。&lt;br /&gt;
* 本能寺の変を知った吉川元春は和睦を反古にして秀吉軍を攻撃する事を主張したが、小早川隆景らの反対&amp;lt;ref&amp;gt;『萩藩閥閲録』などによれば、毛利・小早川勢には信長・信忠・信孝が既に討たれ、謀反に加担した者は光秀の他に津田信澄・柴田勝家らがいるとの情報（誤報）が入っていた。仮に秀吉軍を追撃して破ったところで、柴田・津田らの軍勢を含めた明智勢と再度事を構えるまでの余裕はないため、追撃を諦め、正確な情報が入るまで静観するべきだという結論に至ったと考察されている（[[谷口克広]]説など）。&amp;lt;/ref&amp;gt;によって取り止めになっている。一歩間違えば秀吉は毛利勢と明智勢の挟み撃ちにあった恐れが大であり、現に[[滝川一益]]のように本能寺の変が敵方に知られた事により大敗し領土を失った信長配下の武将も存在し、秀吉がこのような危険極まり無い事を、謀略としてあえて意図したとは考えにくい。&lt;br /&gt;
* また、もし秀吉が光秀と共謀していたなら、山崎の合戦で光秀はそのことを黙って討たれたことになる。共謀が事実ならばそのことを公表することで秀吉は謀反の一味となり、他の織田旧臣や信孝ら織田一族との連合はほぼ不可能となる。光秀方にきわめて有利な情勢を作り出せるからである。&lt;br /&gt;
* 当時の武士から見ても不自然な状況であったり、連携を疑わせる情報が流れていれば、後に秀吉と敵対した織田信雄・信孝・柴田勝家・徳川家康などがそれを主張しないのは不自然である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 政策 ==&lt;br /&gt;
ウィキペディアでは[[MURMUR4040]]とかいうカスが秀吉は近世社会への転換をなしとげたんでちゅ～とかイタい事をほざいているが、そもそも中世だの近世だのといった言葉は単なる学術上の分類である。「（白豚様にならって）こっからここまでを中世と呼ぶことにしよう」などといった事にすぎない。その上、ド素人の分際で「学会ではこの考え方が主流です（ｷﾘｯ）」などと言いつつ、持ち出している資料が百科事典（笑）とは……&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
あきれた低レベルさである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 朝臣体制 ===&lt;br /&gt;
秀吉は天皇・朝廷の権威を自身の支配のために利用した、というのが定説である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
彼は関白の地位を得ると、諸大名に天皇への臣従を誓わせることによって、彼らを実質的に自分の家臣とした。織田家との主従関係はこれによって逆転している。また、天皇の名を使って惣無事令などの政策を実行し、これに従っていないという事を理由として九州や関東以北を征服するなど、戦いの大義名分作りにも利用している。これらの手法は、かつて織田信長が足利義昭の将軍としての権威を様々に利用した事や、義昭と対立した際に朝廷と接近した事と共通するものである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
さらに秀吉は、関白としての支配を強固にするため、本来は公家のものであった朝廷の官位を自身の配下たちに次々と与え、天皇を頂点とした体制に組み入れた。この方策・体制は「武家関白制」などと呼ばれる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
このように秀吉の地位は天皇の家臣であったが、実質的な日本の支配者は秀吉であったことが様々な史料から読み取れる。秀吉が事実上の権力者として政治を行っている事から、[[摂関政治]]の一種とも解釈されることがある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
天下統一をなしとげた上、天皇・朝廷の権威まで加わったので、秀吉の権力は絶大だったが、一方では天皇の権威を借りているために、政権に不安要素も抱えることになってしまった。後に豊臣秀頼が関白になれなかったことは、徳川家による政権奪取や豊臣家滅亡の一因となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なお、秀吉は実質的な支配者という地位に満足せず、朝鮮出兵・明征服による権威上昇によって、名目上でも天皇をしのぐ支配者になろうとしたという説も存在する&amp;lt;ref&amp;gt;井沢元彦『逆説の日本史11　戦国乱世編　朝鮮出兵と秀吉の謎』より。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 国内統治システム ===&lt;br /&gt;
[[ファイル:Tensho-hishi-obankin.jpg|thumb|150px|豊臣秀吉が鋳造させた[[天正大判]]]]&lt;br /&gt;
秀吉は政策面では織田信長のものを多く踏襲している。具体的には、織田政権で限定的に行われていた検地や刀狩、惣無事、楽市楽座等、関所の廃止といったものを、秀吉は調整を加えつつ全国的に広げていった&amp;lt;ref&amp;gt;織田政権下ではまだ存在していた[[七口の関]]を廃止し、また座の撤廃も積極的に行った。ただし秀吉も政権運営当初は、前田玄以に命じて畿内の座を安堵する文書を発給している。豊臣政権が本格的に座の撤廃に動き出すのは、本能寺の変から数年後のことであった。研究者の中には秀吉の楽座を特に「破座」と呼んで区別する者も居る。&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;脇田修 『秀吉の経済感覚 経済を武器とした天下人』 中公新書、1991年、112～123頁。ISBN 978-4121010155。[[脇田修]]や[[佐々木潤之介]]は「信長までは中世であり、秀吉から近世が始まる」と分類している。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また領土拡大と並行して、日本全国の税制を[[石高制]]に統一、身分の確定と兵農分離、百姓の逃散禁止、海賊の取り締まり、朱印船貿易、貨幣鋳造などを行った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
秀吉の政策の多くは江戸幕府に継承されたため、[[江戸時代]]の基礎を築いたとも言われる。&lt;br /&gt;
{{節stub}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 宗教政策 ===&lt;br /&gt;
仏教勢力に対しては、高野山を降伏させたり、[[根来寺]]を焼き討ちするなど、信長時代に引き続き武力によって統制した。一方で大仏を建立したり本願寺を再建したりもしているが、その後の[[顕如]]への態度など、仏教への好意や敬意は伺えない。ルイス・フロイスは伴天連追放令後の状況にあって「（秀吉は）偶像を以前にも増して悪しざまに扱い、仏僧たちを我ら以上に虐待している」と書いている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
キリシタンに対しては、当初は好意的であった。しかし宣教師による信仰の強制、キリシタンによる寺社の破壊、宣教師たちの牛馬の肉食、日本人を奴隷商品として国外へ売却していた事などを理由に、天正15年（1587年）に伴天連追放令（[[バテレン追放令]]）を出した。ただしこのときの布告は強制的な禁教を伴うものではなく、宣教師たちも依然として日本国内で布教活動を継続することが可能であった。秀吉が決定的に態度を硬化させるのは、慶長元年（1596年）に起きた[[サン＝フェリペ号事件]]からのことである。幕末以降の歴史書・研究史においては、秀吉は、宣教師の行いを通じて、スペインやポルトガルの日本征服の意図を察知していた事が強調されている。[[イエズス会]]宣教師による日本征服計画があったのは確実であるが&amp;lt;ref&amp;gt;アレッサンドロ・ヴァリニャーノは、1582年12月14日のフィリピン総督宛の書簡において、明征服のためには日本でキリスト教徒を増やし、彼らを兵として用いることを進言している。また、ペドロ・デ・ラ・クルスは、1599年2月25日付けのイエズス会総会長宛ての書簡で、日本は海軍力が弱く、スペイン海軍をもってすれば九州または四国を征服できると進言している。当時の西洋の強国にとって、武力で手に入れた港を拠点とし、そしてさらなる征服を進めるのが常套手段であり、ポルトガルは、ゴア、マラッカ、マカオをこの方法で征服している（高橋裕史『イエズス会の世界戦略』講談社、1999年）。&amp;lt;/ref&amp;gt;、スペインやポルトガル本国が宣教師たちの提案に賛同したかどうかは不明である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 外交政策 ===&lt;br /&gt;
[[ファイル:WakouLandingColor.jpg|thumb|200px|『釜山鎮殉節図』　文禄の役での釜山城攻略を描いたもの。]]&lt;br /&gt;
秀吉は大陸侵攻（唐入り）の準備をしつつ、周辺諸国やスペイン・ポルトガルの植民地に対し服属入貢を要求した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
秀吉における海外進出の構想は天正15年（1587年）の九州遠征の時期に行われたとみられ、5月9日に秀吉夫妻に仕える「こほ」という女性への書状において「かうらい国へ御人しゆつか（はし）かのくにもせひはい申つけ候まま」と記し、九州平定の延長として高麗（朝鮮）平定の意向もある事を示している&amp;lt;ref name=&amp;quot;Shimizu&amp;quot;&amp;gt;清水紘一「博多基地化構想をめぐって -天正禁教令との関連を中心として-」（藤野保先生還暦記念会編 『近世日本の政治と外交』 雄山閣、1993年、ISBN 4639011954）&amp;lt;/ref&amp;gt;。明への出兵についてはかつて信長も語っており、秀吉にも知らされていた可能性がある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
同年6月1日付で[[本願寺顕如]]に宛てた[[朱印状]]のなかで「我朝之覚候間高麗国王可参内候旨被仰遣候」と記している&amp;lt;ref&amp;gt;本願寺文書による&amp;lt;/ref&amp;gt;。この先例に倣って&amp;lt;ref group=&amp;gt;当時は神功皇后の三韓征伐が史実と考えられていたし、また[[鎌倉時代]]の『[[曾我物語]]』（妙本寺本）においても日本の西の果てを「[[鬼界ヶ島|鬼界]]・高麗・[[硫黄島 (鹿児島県)|硫黄嶋]]」と記している。秀吉のこうした振舞いは朝鮮を[[惣無事令]]などの日本の法令の適用対象として認識していた可能性を示している。&amp;lt;/ref&amp;gt;高麗（朝鮮）国王は諸大名と同じように朝廷（秀吉）への出仕義務があると考え、直後に李氏朝鮮に対馬の宗氏を介して服属入貢を要求した&amp;lt;ref name=&amp;quot;Shimizu&amp;quot;/&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
翌天正16年（1588年）には島津氏を介して琉球へ服属入貢を行い、以後複数回要求を繰り返す。天正19年（1591年）7月25日にはポルトガル領インド副王に宛ててイスパニア王の来日を要求した。同年9月15日、スペイン領フィリピン諸島（小琉球）に服属要求し、翌天正20年（1592年）5月18日付関白豊臣秀次宛朱印状では高麗の留守に宮中を置き、3年後に天皇を北京に移し、その周辺に10カ国を進上し、秀次を大唐の関白に就け、北京周辺に100カ国を与えるとした&amp;lt;ref&amp;gt;『秀吉と文禄・慶長の役』 佐賀県立名護屋城博物館、2007年、43頁&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
また秀吉自身は北京に入ったあと、天竺（インドの古称）&amp;lt;ref&amp;gt;さらに南蛮つまりヨーロッパや西アジアまでを射程にいれていたとする説もある（佐藤信淵『宇内混同秘策』）。&amp;lt;/ref&amp;gt;征服のために寧波に移るとした&amp;lt;ref&amp;gt;秀吉側近の山中長俊の書状「組屋文書」による（『秀吉と文禄・慶長の役』 佐賀県立名護屋城博物館、2007年、43頁）&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
文禄2年（1593年）には高山国へ服属入貢を要求した&amp;lt;ref&amp;gt;『秀吉と文禄・慶長の役』 佐賀県立名護屋城博物館、2007年、16頁&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 人事政策 ===&lt;br /&gt;
* 人事においては、石田三成や[[大谷吉継]]らを[[文治派]]、[[加藤清正]]や[[福島正則]]らを[[武断派]]として用いた。秀吉としては個人の能力に見合った仕事を与えることで両派を形成させたと思われるが、両派を分断したことは秀吉の死後、豊臣家臣団の分裂を招くことにも繋がった。&lt;br /&gt;
* 織田信長が重臣の[[林秀貞]]や[[佐久間信盛]]らを追放したことは有名だが、秀吉も[[神子田正治]]や[[尾藤知宣]]らを追放し、さらに軍師であった[[黒田孝高]]も冷遇して中枢から排除している。これらの面々は信長時代から秀吉に仕えていた譜代の家臣とも言ってよい人物だったため、その追放は譜代の家臣がいなかった豊臣家の衰退に繋がったと言っても過言ではない。&lt;br /&gt;
* 天下統一後の政権の中に、秀吉に縁の深い家臣団という一群と、外様大名という一群の二つの勢力が存在し、死後の政権争いの元となっている。&lt;br /&gt;
* [[蒲生秀行 (侍従)|蒲生秀行]]・[[小早川秀秋]]ら諸大名を大した罪でも無いのに若年などを理由に減封・移封したことは、[[関ヶ原の戦い]]で彼らを東軍（徳川方）に所属させる一因を成した。&lt;br /&gt;
* 多くの家臣たちに豊臣の[[カバネ|姓]]、羽柴の[[氏]]を与えた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 後世の評価 ==&lt;br /&gt;
* 明治から昭和の戦前にかけては、富国強兵政策や身分が低いながらも関白太政大臣になったということで民衆の手本にしようという試みもあり、好意的に捉えられることが多かった。秀吉を肯定することで家康および江戸幕府の評価を下げ明治政府の正当性を高める、関白を好意的にとらえることで天皇の権威を高める、という側面もあったとも言われる。その評価では、日本では武将ながら愛嬌に満ちた存在、武力より知略で勝利を得るなど、陽的な人物とされ、「太閤さん」と呼ばれることも多い。このような評価から創られた物語では、信長を怜悧な天才、家康を実直な慎重家と設定し、彼らとの対比で秀吉を陽気な知恵者として描かれることが多い。江戸時代では逆に「徳川史観」の元に、石田三成などのように意図的に貶められた存在として描かれていた。&lt;br /&gt;
* 秀吉を好意的に評価する土地は多く、特に誕生の地である名古屋市中村区&amp;lt;ref&amp;gt;記念館がある。また、[[名古屋まつり]]では毎年織田信長・徳川家康とともに彼に扮した人物がパレードする。&amp;lt;/ref&amp;gt;や政権を執った本拠地の大阪市&amp;lt;ref&amp;gt;江戸期の大坂商業発達の基盤を築いたという見方も強い。&amp;lt;/ref&amp;gt;では人気が高い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 系譜 ==&lt;br /&gt;
=== 略系図 ===&lt;br /&gt;
{{枠の始まり}}&lt;br /&gt;
:&lt;br /&gt;
&amp;lt;div style=&amp;quot;font-size:80%&amp;quot;&amp;gt;&lt;br /&gt;
{{familytree/start}}&lt;br /&gt;
{{familytree|||||父|~|y|母|~|~|y|~|継父|父=[[木下弥右衛門|木下昌吉（弥右衛門）]]|母=[[大政所]]|継父=[[竹阿弥|水野昌盛（竹阿弥）]]}}&lt;br /&gt;
{{familytree|||||||||)|-|-|.|||)|-|-|-|.}}&lt;br /&gt;
{{familytree||||義兄|y|姉||!||弟||妹|~|義弟|義兄=[[三好吉房]]|姉=[[日秀尼]]|弟=[[豊臣秀長]]|妹=[[朝日姫]]|義弟=[[徳川家康]]}}&lt;br /&gt;
{{familytree|||||||!|||||!|||||||||||!}}&lt;br /&gt;
{{familytree||||||甥||||!|F|~|正室||||F|義甥|甥=[[豊臣秀次]]|正室=[[高台院|北政所]]|義甥=[[徳川秀忠]]}}&lt;br /&gt;
{{familytree||||||||||||!|:|||,|-|-|-|.|}|-|-|-|.}}&lt;br /&gt;
{{familytree|||||||側室1|y|己|y|側室2||義妹||F|義姪|己='''豊臣秀吉'''|側室1=[[南殿]]|側室2=[[淀殿]]|義妹=[[崇源院]]|義姪=[[千姫]]|boxstyle_己=background-color: #afa;}}&lt;br /&gt;
{{familytree||||||,|-|-|-|(||||)|-|-|-|-|-|-|-|.|:}}&lt;br /&gt;
{{familytree|||||長男||長女||次男||側室3|y|嫡男|y|側室4|長男=[[羽柴秀勝 (石松丸)|羽柴秀勝]]|長女=女児|次男=[[豊臣鶴松]]|側室3=[[和期の方]]|嫡男=[[豊臣秀頼]]|側室4=[[小石の方]]}}&lt;br /&gt;
{{familytree||||||||||||||||||||!||||!}}&lt;br /&gt;
{{familytree|||||||||||||||||||嫡孫||孫|嫡孫=[[豊臣国松]]|孫=[[奈阿姫]]}}&lt;br /&gt;
{{familytree/end}}&lt;br /&gt;
&amp;lt;/div&amp;gt;&lt;br /&gt;
 実線は親子関係 点線は婚姻関係&lt;br /&gt;
{{枠の終わり}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 妻子 ===&lt;br /&gt;
* 正室：[[高台院|北政所]]（[[杉原定利]]の娘・寧々）&lt;br /&gt;
* 側室：[[南殿]]&lt;br /&gt;
** 長男：[[羽柴秀勝 (石松丸)|羽柴秀勝]]（石松丸）&lt;br /&gt;
** 女（名前不詳）&lt;br /&gt;
* 側室：[[淀殿]]（[[浅井長政]]の娘・茶々）&lt;br /&gt;
** 次男：[[豊臣鶴松]]&lt;br /&gt;
** 三男：[[豊臣秀頼]]&lt;br /&gt;
* 側室：[[南の局]]（[[山名豊国]]の娘）&lt;br /&gt;
* 側室：[[京極竜子|松の丸殿]]（[[京極高吉]]の娘・竜子）&lt;br /&gt;
* 側室：[[摩阿姫|加賀殿]]（[[前田利家]]娘・摩阿）&lt;br /&gt;
* 側室：[[甲斐姫]]（[[成田氏長]]の娘）&lt;br /&gt;
* 側室：[[三の丸殿]]（[[蒲生氏郷]]の養女、織田信長の娘）&lt;br /&gt;
* 側室：[[三条殿]]（[[蒲生賢秀]]の娘・とら）&lt;br /&gt;
* 側室：[[姫路殿]]（[[織田信包]]の娘）&lt;br /&gt;
* 側室：[[広沢局]]（[[名護屋経勝]]の娘）&lt;br /&gt;
* 側室：[[月桂院]]（[[足利頼純]]の娘・嶋子）&lt;br /&gt;
* 側室：[[香の前|於種の方]]（伏見の地侍・高田次郎左衛門の娘・種）&lt;br /&gt;
* 側室：[[円融院]]（三浦能登守の娘・おふく（法鮮尼）。[[宇喜多秀家]]の母）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
『[[絵本太閤記]]』・『[[新書太閤記]]』によると、秀吉は故郷の尾張を離れた後、浜松頭陀寺城主・[[松下之綱]]に仕えた。之綱は秀吉を気に入り、家臣の娘で美人のおきくという女性を選び、結婚させた。しかし、おきくは秀吉を嫌い、秀吉が尾張へ向かう際に離縁したといわれている。そのため、秀吉は高台院とは2度目の結婚であり、高台院の生母[[朝日殿]]が結婚に反対した理由のひとつともいわれている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 養子 ===&lt;br /&gt;
* [[羽柴秀勝]]（織田信長の四男・於次）&lt;br /&gt;
* [[豊臣秀勝]]（姉・とも（[[日秀尼|日秀]]）と[[三好吉房]]の次男。羽柴秀勝を継ぐ）&lt;br /&gt;
* [[豊臣秀次]]（姉・とも（日秀）と三好吉房の長男）&lt;br /&gt;
* [[結城秀康]]（徳川家康の次男）&lt;br /&gt;
* [[小早川秀秋]]（[[木下家定]]の五男。高台院の甥）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 養女 ===&lt;br /&gt;
* [[豪姫]]（[[前田利家]]の娘。[[宇喜多秀家]]正室）&lt;br /&gt;
* [[摩阿姫]] (前田利家の娘。'''豊臣秀吉'''側室)&lt;br /&gt;
* [[前田菊姫|菊姫]]（前田利家の庶女。早世）&lt;br /&gt;
* [[小姫]]（[[織田信雄]]の娘。[[徳川秀忠]]正室。早世）&lt;br /&gt;
* [[大善院]]（[[豊臣秀長]]の娘。[[毛利秀元]]正室）&lt;br /&gt;
* [[淀殿|茶々]]（[[浅井長政]]の娘。 '''豊臣秀吉'''側室）&lt;br /&gt;
* [[常高院|初]]（浅井長政の娘。[[京極高次]]正室）&lt;br /&gt;
* [[崇源院|江]]（浅井長政の娘。[[佐治一成]]正室→[[豊臣秀勝]]正室→[[徳川秀忠]]継室）&lt;br /&gt;
* [[宇喜多直家]]の娘（[[吉川広家]]正室）&lt;br /&gt;
* [[蜂須賀正勝]]の娘（[[黒田長政]]正室）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 猶子 ===&lt;br /&gt;
* [[池田長吉]]（池田恒興の三男）&lt;br /&gt;
* [[宇喜多秀家]]（宇喜多直家の嫡子）&lt;br /&gt;
* [[智仁親王]]（[[誠仁親王]]第6皇子。後に[[桂宮|八条宮]]家を創設）&lt;br /&gt;
* [[伊達秀宗]]（伊達政宗の庶子）&lt;br /&gt;
* [[近衛前子]]（[[近衛前久]]の娘。[[後陽成天皇]][[女御]]）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 家臣 ==&lt;br /&gt;
譜代の家臣を持たずに生まれ、天下人へと至った秀吉は、その生涯で多くの家臣を（新たに）得た。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[織田信長]]に仕えた頃からの陪臣として[[浅野長政]]、[[堀尾吉晴]]、[[山内一豊]]、[[中村一氏]]、[[竹中重治]]、[[樋口直房]]、[[脇坂安治]]、[[片桐且元]]、[[石田三成]]、[[黒田孝高]]、[[増田長盛]]などがおり、[[福島正則]]、[[加藤清正]]は幼少の頃から自身で養育する。親類縁者は当然のように総動員で取り立てられたが、農民から大名となり、あげくに追放された姉婿・[[三好吉房]]だけでなく、その子・[[豊臣秀次]]、やはり甥の[[小早川秀秋]]ら、環境の激変する中で不幸な生涯を終えた者が多い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[賤ヶ岳の戦い]]では、抜群の功績を上げた正則、清正に加え[[加藤嘉明]]、脇坂安治、[[平野長泰]]、[[糟屋武則]]、片桐且元らが[[賤ヶ岳の戦い#賤ヶ岳の七本槍|賤ヶ岳の七本槍]]として数えられる。ただし、誰を賤ヶ岳の七本槍とすべきかについては諸説ある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
信長の後継を得るとその重臣である前田利家、丹羽長秀、[[蜂須賀正勝]]らも臣下に加えるが、彼らとは友人としての関係を保ったとも考えられている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
晩年には[[豊臣政権]]の職制として[[五大老]]、[[三中老]]、[[五奉行]]、十人衆を設けるが、譜代の家臣は武断派と文治派に分かれ死後[[関ヶ原の戦い]]で戦った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
; 五大老&lt;br /&gt;
: [[徳川家康]]（筆頭）、[[前田利家]]、[[毛利輝元]]、[[宇喜多秀家]]、[[小早川隆景]]、[[上杉景勝]]（隆景死後）&lt;br /&gt;
; 三中老&lt;br /&gt;
: [[生駒親正]]、[[中村一氏]]、[[堀尾吉晴]]&lt;br /&gt;
; 五奉行&lt;br /&gt;
: [[浅野長政]]（筆頭）、[[石田三成]]、[[増田長盛]]、[[長束正家]]、[[前田玄以]]&lt;br /&gt;
; 十人衆&lt;br /&gt;
: [[富田知信]]、[[寺西正勝]]、[[毛利勝信|毛利吉成]]、[[堀田一継]]、[[佐々行政]]、[[石田正澄]]、[[片桐貞隆]]、[[石川光元]]、[[山中長俊]]、[[木下延重]]&lt;br /&gt;
; 一門&lt;br /&gt;
: [[豊臣秀長]]、[[豊臣秀次]]、[[豊臣秀勝]]、[[豊臣秀保]]、[[小早川秀秋]]、[[木下家定]]、[[木下勝俊]]、[[杉原家次]]、[[青木一矩]]&lt;br /&gt;
; 賤ヶ岳の七本槍&lt;br /&gt;
: [[福島正則]]、[[加藤清正]]、[[加藤嘉明]]、[[脇坂安治]]、[[平野長泰]]、[[糟屋武則]]、[[片桐且元]]、（[[桜井佐吉]]、[[石川一光]]）&lt;br /&gt;
; 与力&lt;br /&gt;
: [[宮部継潤]]、[[一柳直末]]、[[田中吉政]]、[[木村定重]]、[[小出吉政]]、[[亀井茲矩]]、[[谷衛友]]、[[寺沢広高]]、[[新庄直頼]]、[[斎村政広]]、[[別所重宗]]&lt;br /&gt;
; 信長旧臣&lt;br /&gt;
: [[丹羽長秀]]、[[蜂須賀正勝]]、[[前野長康]]、[[蒲生氏郷]]、[[堀秀政]]、[[細川藤孝]]、[[細川忠興]]、[[蜂屋頼隆]]、[[織田信包]]、[[織田長益]]、[[長谷川秀一]]、[[長谷川与次]]、[[日根野弘就]]、[[日根野盛就]]、[[長谷川宗仁]]、[[矢部家定]]、[[建部寿徳]]、[[稲葉一鉄]]、[[市橋長利]]、[[伊東長久]]、[[九鬼嘉隆]]、[[古田重然]]、[[堀内氏善]]、[[丸毛兼利]]、[[毛利秀頼]]&lt;br /&gt;
; 黄母衣衆&lt;br /&gt;
: [[青木一重]]、[[伊木遠勝]]、[[石尾治一]]、[[伊東長実]]、[[井上道勝]]、[[井上頼次]]、[[猪子一時]]、[[織田信高]]、[[小野木重勝|小野木公郷]]、[[郡宗保]]、[[仙石秀久]]、[[津川親行]]、[[津田信任]]、[[戸田勝隆]]、[[友松盛保]]、[[中島氏種]]、[[中西守之]]、[[長原雲沢軒]]、[[野々村吉安]]、[[長谷川重成]]、[[蜂須賀家政]]、[[服部一忠]]、[[速水守久]]、[[尾藤知宣]]、[[前野忠康|舞兵庫]]、[[神子田正治]]、[[箕浦勘右衛門]]、[[三好房一]]、[[毛利勝信|毛利吉成]]、[[森可政]]、[[山内一豊]]、[[分部光嘉]]、[[一柳直末]]&lt;br /&gt;
; 参謀&lt;br /&gt;
: [[竹中重治]]、[[黒田孝高]]&lt;br /&gt;
; その他子飼い&lt;br /&gt;
: [[小西行長]]、[[大谷吉継]]、[[宮田光次]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 秀吉が偏諱を与えた人物 ===&lt;br /&gt;
* [[宇喜多秀家]]&lt;br /&gt;
* [[大谷吉継]]&lt;br /&gt;
* [[大友義統|大友吉統]]&lt;br /&gt;
* [[織田秀信]]&lt;br /&gt;
* [[織田秀雄]]&lt;br /&gt;
* [[蒲生秀行]]&lt;br /&gt;
* [[小早川秀秋]]&lt;br /&gt;
* [[毛利秀包|小早川秀包]]&lt;br /&gt;
* [[伊達秀宗]]&lt;br /&gt;
* [[徳川秀忠]]&lt;br /&gt;
* [[羽柴秀勝]]&lt;br /&gt;
* [[堀秀治]]&lt;br /&gt;
* [[毛利秀元]]&lt;br /&gt;
* [[毛利秀就]]&lt;br /&gt;
* [[結城秀康]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 墓所・霊廟・神社 ==&lt;br /&gt;
[[ファイル:Toyokuni jinja01s1024.jpg|thumb|250px|明治時代に再建された京都の豊国神社]]&lt;br /&gt;
死後、京都東山の阿弥陀ヶ峰（現在の豊国廟）に葬られ、豊国大明神として[[豊国神社 (京都市)|豊国神社]]に祀られた。しかし[[大坂の陣]]で豊臣家が滅亡すると、徳川家康により大明神の号は剥奪された。この時、建物も破却されかけたが、秀吉の正室であった[[高台院]]や豊国神社の社僧である[[神龍院梵舜]]の嘆願により、内苑（本殿など）は残された&amp;lt;ref&amp;gt;外苑部分は破却された。&amp;lt;/ref&amp;gt;。なお、建造物の一部は[[片桐且元]]らによって[[宝厳寺]]や[[都久夫須麻神社]]に移築されたともされる。その後[[徳川家光|家光]]の時代に[[徳川幕府|幕府]]は社領も没収、社殿は破却解体され、豊国神社の敷地は荒れるがままであったと言う。明治になり[[日光東照宮]]の相殿に祀られ、豊国神社は再興された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
秀吉が主祭神として祀られている神社は、京都市以外には[[豐國神社 (大阪市)|大阪]]、[[豊国神社 (長浜市)|長浜]]、[[豊国神社 (名古屋市)|名古屋]]にある&amp;lt;ref&amp;gt;大阪と長浜はかつて秀吉が統治した町、名古屋は秀吉の生地である。&amp;lt;/ref&amp;gt;。なお[[金剛峯寺#奥の院|高野山奥の院]]に豊臣家墓所があるのは有名であるが、現存する墓碑の中に秀吉のものはない。その理由は不明&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.koya.org/rekishi/sengoku.html 高野山戦国大名の墓]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 脚注 ==&lt;br /&gt;
{{Reflist|2}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 参考文献 ==&lt;br /&gt;
* [[藤木久志]] 『織田・豊臣政権』 小学館、1975年&lt;br /&gt;
* 藤木久志 『豊臣平和令と戦国社会』 東京大学出版会、1985年、ISBN 978-4130200738&lt;br /&gt;
* [[中野等]] 「文禄・慶長期の豊臣政権」 1994年&lt;br /&gt;
* [[朝尾直弘]] 『将軍権力の創出』 1995年&lt;br /&gt;
* 朝尾直弘 『天下一統』 小学館、1988年、ISBN 978-4096220085&lt;br /&gt;
* [[小和田哲男]] 『関ヶ原から大坂の陣へ』 [[新人物往来社]]、1999年、ISBN 440402844X&lt;br /&gt;
* [[村川浩平]] 『日本近世武家政権論』 日本図書刊行会、2000年、ISBN 978-4823105289&lt;br /&gt;
* 佐賀県立[[名護屋城]]博物館『秀吉と文禄・慶長の役』 2007年&lt;br /&gt;
* [[池上裕子]]『織豊政権と江戸幕府』日本の歴史15 [[講談社学術文庫]] 2009年、 ISBN 978-4062919159&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連事項 ==&lt;br /&gt;
=== 史料 ===&lt;br /&gt;
* [[天正記]]&lt;br /&gt;
* [[太閤記]]&lt;br /&gt;
* [[大かうさまくんきのうち]]（[[慶應義塾大学]]保有）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 資料館 ===&lt;br /&gt;
* [http://www.ncm-jp.com/shisetu/hidekiyo.html 名古屋市秀吉清正記念館]&lt;br /&gt;
* [http://www.pref.saga.lg.jp/web/nagoya.html 佐賀県立名護屋城博物館]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 関連作品 ===&lt;br /&gt;
; 小説&lt;br /&gt;
*『[[新史太閤記]]』[[司馬遼太郎]]&lt;br /&gt;
*『[[新書太閤記]]』[[吉川英治]]&lt;br /&gt;
*『異本太閤記』[[山岡荘八]]&lt;br /&gt;
*『妖説太閤記』[[山田風太郎]]&lt;br /&gt;
*『夢のまた夢』[[津本陽]]&lt;br /&gt;
*『秀吉－夢を超えた男』[[堺屋太一]]&lt;br /&gt;
*『秀吉と利休』[[野上彌生子]]&lt;br /&gt;
*『秀吉の枷』[[加藤廣]]&lt;br /&gt;
; 漫画&lt;br /&gt;
*『豊臣秀吉』 [[横山光輝]]&lt;br /&gt;
*『黄金太閤記』 [[小島剛夕]]（[[井沢元彦]]原作）&lt;br /&gt;
*『豊臣秀吉』 [[樋口清之]]&lt;br /&gt;
*『豊臣秀吉』 [[土山しげる]]&lt;br /&gt;
*『[[秀吉でごザル!!]]』[[たなかかなこ]]&lt;br /&gt;
; 映画&lt;br /&gt;
*[[旧劇 太功記十段目 尼ヶ崎の段|絵本太閤記（太功記十段目）]]（1908年、[[M・パテー商会|M パテー商会]]、撮影：[[男澤粛]]）&lt;br /&gt;
*[[豊太閤栄華物語]]（1918年、演：[[尾上松之助]]）&lt;br /&gt;
*[[出世大閤日吉丸]]（1919年、演：尾上松之助）&lt;br /&gt;
*[[木下藤吉郎 (1921年の映画)|木下藤吉郎]]（1921年、演：[[澤村四郎五郎 (5代目)|澤村四郎五郎]]）&lt;br /&gt;
*[[太閤記 (1922年の映画)|太閤記]]（1922年、演：尾上松之助）&lt;br /&gt;
*[[大功記十段目 (1922年の映画)|大功記十段目]]（1922年、演：[[嵐璃徳]]）&lt;br /&gt;
*[[大功記十段目 (1923年の映画)|大功記十段目]]（1923年、演：沢村四郎五郎）&lt;br /&gt;
*[[木下藤吉郎 (1924年の映画)|木下藤吉郎]]（1924年、演：沢村四郎五郎）&lt;br /&gt;
*[[豆本太閤記]]（1926年、演：[[松尾文人]]）&lt;br /&gt;
*[[羽柴筑後守]]（1926年、演：[[片岡左衛門]]）&lt;br /&gt;
*[[木下藤吉郎 (1928年の映画)|木下藤吉郎]]（1928年、演：[[実川延松]]）&lt;br /&gt;
*[[出世筑前守]]（1928年、演：[[綾小路絃三郎]]）&lt;br /&gt;
*[[豊太閤]]（1929年、演：[[河津清三郎]]）&lt;br /&gt;
*[[英傑秀吉]]（1929年、演：[[河部五郎]]）&lt;br /&gt;
*[[太閤記 藤吉郎走卒の巻]]（1935年、演：[[尾上栄五郎]]）&lt;br /&gt;
*[[太閤記 藤吉郎出世飛躍の巻]]（1936年、演：尾上栄五郎）&lt;br /&gt;
*[[怪童日吉丸]]（1937年、演：[[井上琢也]]）&lt;br /&gt;
*[[出世太閤記]]（1938年、演：[[嵐寛寿郎]]）&lt;br /&gt;
*[[祝言太閤記]]（1940年、演：[[藤井貢]]）&lt;br /&gt;
*[[夫婦太閤記]]（1940年、演：藤井貢）&lt;br /&gt;
*[[花婿太閤記]]（1945年、演：嵐寛寿郎）&lt;br /&gt;
*[[凸凹太閤記]]（1953年、[[大映]]、監督：[[加戸敏]]、演：[[森繁久彌]]）&lt;br /&gt;
*[[新書太閤記 流転日吉丸]]（1953年、演：[[東宮秀樹]]→[[市川右太衛門]]）&lt;br /&gt;
*[[新書太閤記 急襲桶狭間]]（1953年、演：市川右太衛門）&lt;br /&gt;
*[[俺は藤吉郎]]（1955年、演：[[林成年]]）&lt;br /&gt;
*[[太閤記 (1958年の映画)|太閤記]]（1958年、演：[[高田浩吉]]）&lt;br /&gt;
*[[ホラ吹き太閤記]]（1964年、東宝、監督：[[古沢憲吾]]、演：[[植木等]]）&lt;br /&gt;
; テレビドラマ&lt;br /&gt;
*[[太閤記 (1957年のテレビドラマ)|太閤記]]（1957年、日本テレビ、演：[[大川太郎]]）&lt;br /&gt;
*[[新書太閤記]]（1959年、毎日放送、演：[[東宮秀樹]]→[[宮崎照男]]）&lt;br /&gt;
*[[珍版太閤記]]（1960年、KRT、演：[[矢代和雄]]）&lt;br /&gt;
*[[太閤記 (NHK大河ドラマ)|太閤記]]（1965年、[[NHK大河ドラマ]]、演：[[緒形拳]]）&lt;br /&gt;
*[[あまから太閤記]]（1967年、毎日放送、演：[[白木みのる]]）  &lt;br /&gt;
*[[青春太閤記 いまにみておれ]]（1970年、日本テレビ、演：[[なべおさみ]]）&lt;br /&gt;
*[[新書太閤記]]（1973年、テレビ朝日、演：[[山口崇]]）&lt;br /&gt;
*[[太閤記 (1987年のテレビドラマ)|太閤記]]（1987年、[[TBS大型時代劇スペシャル]]、演：[[柴田恭兵]]）&lt;br /&gt;
*[[天下を獲った男 豊臣秀吉]]（1993年、TBS大型時代劇スペシャル、演：[[柳葉敏郎]]）&lt;br /&gt;
*[[豊臣秀吉 天下を獲る!]]（1995年、テレビ東京[[新春ワイド時代劇|12時間超ワイドドラマ]]、演：[[中村勘三郎 (18代目)|中村勘九郎]]）&lt;br /&gt;
*[[秀吉 (NHK大河ドラマ)|秀吉]]（1996年、NHK大河ドラマ、演：[[竹中直人]]）&lt;br /&gt;
*[[太閤記 サルと呼ばれた男]]（2003年、フジテレビ、演：[[草彅剛]]）&lt;br /&gt;
*[[太閤記〜天下を獲った男・秀吉]]（2006年、テレビ朝日、演：[[中村橋之助 (3代目)|中村橋之助]]）&lt;br /&gt;
; ゲーム&lt;br /&gt;
*『[[太閤立志伝シリーズ|太閤立志伝]]』シリーズ（[[コーエー]]）&lt;br /&gt;
; ボードゲーム&lt;br /&gt;
*『秀吉軍記』、[[ツクダホビー]]、&lt;br /&gt;
; 歌謡曲&lt;br /&gt;
*俺は藤吉郎（[[三波春夫]]）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
* [[比叡山焼き討ち (1571年)]]&lt;br /&gt;
* [[出世稲荷神社]]&lt;br /&gt;
* [[源平交代思想]]&lt;br /&gt;
* [[太閤将棋]]&lt;br /&gt;
* [[高台寺]]&lt;br /&gt;
* [[太田城 (紀伊国)]]&lt;br /&gt;
* [[高槻城]]&lt;br /&gt;
* [[広徳寺 (尼崎市)]]&lt;br /&gt;
* [[八幡山城]]　-　豊臣秀吉が[[普請]]を指導したと言われている&lt;br /&gt;
* [[有馬温泉]]&lt;br /&gt;
* [[羽柴誠三秀吉]] - 豊臣秀吉の生まれ変わりと自称している実業家（本名：[[三上誠三]]）&lt;br /&gt;
* [[安土桃山時代の人物一覧]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 外部リンク ==&lt;br /&gt;
{{Commonscat|Toyotomi Hideyoshi}}&lt;br /&gt;
{{wikiquote}}&lt;br /&gt;
* [http://www.sengoku-shizuoka.com/stage/general/toyotomi/ 豊臣秀吉・静岡武将列伝]　Shizuoka城と戦国浪漫&lt;br /&gt;
* [http://www2.harimaya.com/sengoku/html/toyo_k.html 豊臣氏系譜]&lt;br /&gt;
* [http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/04/04001.htm 日本の苗字7000傑 姓氏類別大観 豊臣氏]&lt;br /&gt;
* [http://www.aichi-c.ed.jp/contents/syakai/syakai/nagoya/nag019.htm 豊臣秀吉産湯の井]&lt;br /&gt;
* [http://www.kakeiken.com/report001.html#豊臣秀吉のルーツ 関連系図]&lt;br /&gt;
* [http://alay.at.webry.info/200802/article_8.html 中村公園駅にある大鳥居（豊国神社）]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Minagoroshida</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E6%AD%A6%E5%AF%8C%E5%A3%AB&amp;diff=186896</id>
		<title>武富士</title>
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				<updated>2013-05-11T17:11:35Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Minagoroshida: /* 年表 */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{自己責任}}&lt;br /&gt;
{{基礎情報 会社|&lt;br /&gt;
社名 = 株式会社武富士|&lt;br /&gt;
英文社名 = TAKEFUJI CORPORATION|&lt;br /&gt;
ロゴ = |&lt;br /&gt;
種類 = 株式会社|&lt;br /&gt;
市場情報 = {{上場情報|東証1部|8564}}{{上場情報|LSE|TAK}}|&lt;br /&gt;
略称 = 武氏、武蛆|&lt;br /&gt;
国籍 = |&lt;br /&gt;
郵便番号 = 163-8654|&lt;br /&gt;
本社所在地 = [[東京都]][[新宿区]]西新宿8-15-1|&lt;br /&gt;
電話番号 = 03-3365-8000(大代表)|&lt;br /&gt;
設立 = 1966年1月|&lt;br /&gt;
業種 = 金融業|&lt;br /&gt;
統一金融機関コード = |&lt;br /&gt;
SWIFTコード = |&lt;br /&gt;
事業内容 = 消費者金融業ほか|&lt;br /&gt;
代表者 = 代表取締役社長執行役員 近藤光|&lt;br /&gt;
資本金 = 304億7790万円|&lt;br /&gt;
売上高 = 連結3512億5900万円（2006年3月期）|&lt;br /&gt;
従業員数 = 3424人（2005年9月30日現在）|&lt;br /&gt;
決算期 = 毎年3月31日|&lt;br /&gt;
主要株主 = [[グロービートジャパン]]株式会社 54.1%|&lt;br /&gt;
主要子会社 = 株式会社テイクワン&amp;lt;br&amp;gt;株式会社武富士キャピトル|&lt;br /&gt;
関係する人物 = 武井保雄（創業者）|&lt;br /&gt;
外部リンク = |&lt;br /&gt;
特記事項 = 登録番号：関東財務局長(8)第00020号|&lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
'''株式会社武富士'''（'''たけふじ'''）は、[[日本]]の[[消費者金融]]業者である。英文社名は、''Takefuji Corporation''。愛称は'''武氏'''（'''たけうじ'''）。[[東京証券取引所|東証]]第1部に[[上場]]している。本社所在地は[[東京都]][[新宿区]]西新宿8-15-1。愛称は'''武蛆（たけうじ）'''。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==概説==&lt;br /&gt;
[[1966年]]に創業された富士商事が前身。故・[[武井保雄]]が一代で築いた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
同社の企業体質は、しばしば週刊誌などで非難を受けることがあり、厳しい取立てのイメージが強い。しかし業界人によれば、最も厳しい取立てをするのは[[金融庁]]より一時業務停止命令が下された[[アイフル]]であり、取立ては大手の中では2番目に厳しいとされる。また、同社の体質を批判した出版社やフリーライターに名誉毀損訴訟を起こすことが多いが、ほとんどのケースで敗訴している。反訴を提起したフリーライターとは多額の和解金を支払い決着したことから、「フリーライターの打ち出の小槌」と呼ばれることもある。裁判上で和解したフリーライターのなかには年収の数倍の和解金を勝ち取ったものもいる。実質的な利益供与と見る向きもある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[関東地方|東]]の武富士、[[近畿地方|西]]のアイフルと呼ばれるほど、破壊的・攻撃的な営業体質であるためか、ほとんどの週刊誌からバッシングされている。また、かつては「あなたの夢が 動き出す」というキャッチコピーで[[CM]]を放送していたが、これは間違いであり、[[貸金業]]に夢なんか一塊もない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[武富士弘前支店強盗殺人・放火事件|強盗殺人事件]]が起こるなど、不祥事・トラブルも多い傾向がある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
当時武富士会長を務めていた武井保雄がジャーナリストの[[山岡俊介]]自宅および[[高尾昌司]]の事務所の電話に盗聴器を仕掛けるよう指示し逮捕されたことでも有名である。その後、武井は会長を辞任したのみならず、一族として保有株式の多くを売却する方針を示している。これは、[[貸金業]]登録取消しを回避するためのみならず、武井一族として暴力団等との関係を断ち切りたい思惑もあるようである。 武井保雄の次男である武井健晃は役員（2008年現在；代表取締役兼副社長執行役員）として所属している&amp;lt;ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
[http://www.takefuji.co.jp/corp/cinfo/pdf/al-08_19.pdf]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
武井の発言として「'''右翼は暴力団に弱い。暴力団は警察に弱い。警察は右翼に弱い。この三つをうまく使って物事を収めろ'''」や「'''3倍遊ぶために3倍働け'''」がある。これらを合言葉に武井は武富士を消費者金融業界トップに育てた。しかし、武富士自身も暴力団的な経営を行っていたため、暴力団は武富士自身であるという疑惑や指摘もある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==年表==&lt;br /&gt;
*[[1966年]]1月 - 個人事業「富士商事」創業&lt;br /&gt;
*[[1968年]]6月 - 「有限会社武富士商事」設立&lt;br /&gt;
*[[1974年]]12月 - 「株式会社武富士」に改組&lt;br /&gt;
*[[1991年]] - 元[[警視総監]][[福田勝一]]を非常勤顧問として迎え、警察人脈を広げる。&lt;br /&gt;
*[[1996年]]8月 - 店頭（JASDAQ、現在の[[ジャスダック証券取引所]]）市場公開&lt;br /&gt;
*[[1998年]]12月 - [[東京証券取引所]]第1部に[[上場]]&lt;br /&gt;
*[[2000年]]3月 - [[ロンドン証券取引所]]上場&lt;br /&gt;
*[[2001年]]5月 - 青森県内の弘前支店で[[武富士弘前支店強盗殺人・放火事件|強盗放火殺人事件]]が発生。5名死亡。翌年3月に犯人[[逮捕]]。&lt;br /&gt;
*[[2002年]]11月 - [[日本経済団体連合会]]へ加盟&lt;br /&gt;
*[[2003年]]1月 - [[労働基準法]]違反（割増賃金不払い）の容疑で東京[[労働局]]と大阪労働局が本社及び大阪府内の数店舗を強制捜査。後に武富士は割増賃金を遡及して支払い、刑事事件としては起訴猶予となる。&lt;br /&gt;
*2003年12月 - 電気通信事業法違反（盗聴）容疑で武井保雄逮捕。会長を辞任。この逮捕以降、CMは自粛されることになる。&lt;br /&gt;
*[[2004年]]11月 - 武井保雄に懲役3年・執行猶予4年、また法人としての武富士に罰金100万円の判決。&lt;br /&gt;
*[[2005年]]3月 - [[2000年]]6月から翌年春にかけて[[週刊朝日]]へ武富士から「連載企画の編集協力費」として5000万円が受け渡されていたことが発覚。&lt;br /&gt;
*[[2006年]]9月 - [[週刊金曜日]]の[[名誉毀損]]反訴で敗訴。法人の武富士と武井前会長に賠償命令。&lt;br /&gt;
*2009年12月 - 資金繰り悪化により貸し付けがほとんど停止。&lt;br /&gt;
*2010年5月25日 - 債権を「富士クレジット」に譲渡。さらに富士クレジットから日本振興銀行に譲渡。振興銀は5月27日に業務停止処分となった。&lt;br /&gt;
*2010年9月28日 - 取締役会で会社更生手続きを行う事を決定。負債額は約4336億円。代表取締役社長執行役員・清川昭、および創業家出身で代表取締役副社長執行役員・武井健晃が退任。同社出身の吉田純一が代表取締役社長に就任した。東証1部を同年10月29日付で上場廃止することが決まった。&lt;br /&gt;
*2010年（平成22年）11月12日 - ロンドン証券取引所から上場廃止。&lt;br /&gt;
*2011年（平成23年）4月9日 - 韓国の消費者金融業界1位のA&amp;amp;Pファイナンシャル（「ラッシュ・アンド・キャッシュ」ブランドを運営）が武富士を買収することが明らかになる。&lt;br /&gt;
*2010年（平成22年）10月5日 - 会社が、創業家等に対して、152億円の損害賠償等を請求する訴訟を提起。&lt;br /&gt;
*2011年（平成23年）10月31日 - 東京地方裁判所が会社更生計画の認可決定。同日付で発行済みの自社株式すべてを無償取得し、100%減資（株式消却）を実施。&lt;br /&gt;
*2011年（平成23年）12月5日 - 旧経営陣が元利用者に55億円の賠償を求め提訴された。&lt;br /&gt;
*2012年（平成24年）3月1日 - Jトラスト子会社のロプロに事業譲渡。同時に事業譲渡後の旧法人はTFKに商号変更し、会社更生手続きや弁済手続きに専念する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==武富士関連の事柄==&lt;br /&gt;
*[[武富士弘前支店強盗殺人・放火事件]]&lt;br /&gt;
*[[ジャーナリスト]]宅など[[盗聴]]事件（この事件で武井保雄元会長が逮捕された。）&lt;br /&gt;
*[[武富士バンブー]]&lt;br /&gt;
==CM出演==&lt;br /&gt;
===過去===&lt;br /&gt;
*[[武富士ダンサーズ]]&lt;br /&gt;
**女性が集団で[[ジョー・リノイエ]](元はROmantic Modeのメンバー)の「シンクロナイズド・ラブ(Synchronized Love)」の曲でダンスをする[[テレビCM]]が有名（武井保雄元会長逮捕以降自粛され、ダンスCMも行わなくなった）。&lt;br /&gt;
===現在===&lt;br /&gt;
*[[内田有紀]]&lt;br /&gt;
==外部リンク==&lt;br /&gt;
*[http://www.takefuji.co.jp/main.html 武富士]&lt;br /&gt;
*[http://www.kinyobi.co.jp/takefuji 週刊金曜日: 同時ルポ 武富士裁判]&lt;br /&gt;
{{Wikipedia/Ja}}&lt;br /&gt;
{{company-stub}}&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:たけうじ}}&lt;br /&gt;
[[Category:日本の貸金業者]]&lt;br /&gt;
[[Category:東京都の企業]]&lt;br /&gt;
[[Category:蛆虫]]&lt;br /&gt;
[[Category:鬼畜]]&lt;br /&gt;
[[en:Takefuji]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Minagoroshida</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%83%E3%82%AF%E4%BC%81%E6%A5%AD%E3%81%AE%E4%B8%80%E8%A6%A7&amp;diff=186895</id>
		<title>ブラック企業の一覧</title>
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				<updated>2013-05-11T17:04:25Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Minagoroshida: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{OTEHRUSES|従業員を奴隷のごとく扱う企業|&amp;lt;br /&amp;gt;詐欺を行う企業の一覧|悪徳企業の一覧}}&lt;br /&gt;
ここに書いた後、ぜひ[[労基署]]にも行くべし。&lt;br /&gt;
'''ブラック企業の一覧'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 全国区 ==&lt;br /&gt;
* [[キヤノン]] - 各地の事業所で派遣切り&lt;br /&gt;
* [[いすゞ]] - 同上、その一方で期間工大量募集&lt;br /&gt;
* [[トヨタ]] - 社是は「乾いた雑巾から搾りとれ」&lt;br /&gt;
* [[電通]] - テレビ・新聞を支配する自民党の代理人&lt;br /&gt;
* [[幸福の科学]] - 職員はエルカンターレと一般信者の奴隷状態&lt;br /&gt;
* 光通信&lt;br /&gt;
* [[ミュージックレイン]] - 音楽レーベルの鼻つまみ。同社の乱脈経営はつとに有名。&lt;br /&gt;
* スカイマーク - 意志疎通の不全、独裁的体制が不祥事を招いた。&lt;br /&gt;
* トナミ運輸 - 内部告発した社員を長期間にわたって不当に扱った。&lt;br /&gt;
* オリンパス - 内部告発した社員を長期間にわたって不当に扱った。&lt;br /&gt;
* プラダジャパン - パワーハラスメントの末に解雇して訴えられた。&lt;br /&gt;
* ZENRIN - 住宅地図の調査員を請負にし逆らう者は取引停止に&lt;br /&gt;
* [[ラディアホールディングス]]&lt;br /&gt;
* [[和民]] - 不祥事が絶えない飲食会社&lt;br /&gt;
* [[セブンアイ]] -　社員＜＜＜＜＜＜＜＜＜＜＜＜＜電通&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 地域別 ==&lt;br /&gt;
=== [[関東地方|関東]] ===&lt;br /&gt;
; [[茨城県]]&lt;br /&gt;
* アカス紙器 - 知的障害を抱える従業員を日常的に虐待。&lt;br /&gt;
; [[群馬県]]&lt;br /&gt;
* 杏林舎高崎出張所（入力センター） - 会社の支配者は強権的なお局様だった。彼女に目をつけられた新入社員はことごとく退職させられた（杏林舎は、現在は群馬から撤退したもよう）。&lt;br /&gt;
; [[東京都]]&lt;br /&gt;
* ソフトウエア興業&lt;br /&gt;
* フィット産業&lt;br /&gt;
* [[Hermate]] - ぼったくりコスプレ喫茶。[[在日韓国・朝鮮人|在日韓国人]]の[[甘噛 S.らむね]]をメイドとして雇っている。らむねの彼氏で同店常連の[[アルクル]]も在日韓国人。&lt;br /&gt;
* [[萌えコン]] - ぼったくりメイド喫茶・萌えコン＠カフェを経営。2chでのステマがウザイ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== [[中部地方|中部]]===&lt;br /&gt;
* [[中部電力]] - 市場で倒産会社の扱い。株は投機筋のオモチャ。離職率85%以上。幹部（特にNやK）は毎晩錦の無認可風俗をハシゴ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== [[近畿地方|関西]] ===&lt;br /&gt;
; [[大阪府]]&lt;br /&gt;
* 永和信用金庫 - &lt;br /&gt;
* [[西日本旅客鉄道]] - 尼崎事故の教訓を生かし切れてない?&lt;br /&gt;
* [[めいどりぃむ]] - ぼったくりメイド喫茶&lt;br /&gt;
; [[奈良県]]&lt;br /&gt;
* '''[[液クロサイエンス]]''' - 宗教強要（カルト系） - 社員へ[[天理教]]強要、残業月80時間以上、未払い[[残業手当]]、[[不当解雇]]、[[退職強要]]、[[パワーハラスメント]]、[[同族企業]]、ハローワークの求人内容と大幅に異なる実際の労働条件&lt;br /&gt;
* マルフジチップ - 退職強要&lt;br /&gt;
* 高橋工業 - パワーハラスメント、同族企業、不法投棄&lt;br /&gt;
* ドラゴンボール - 幹部による従業員への暴力&lt;br /&gt;
* 大阪矢吹プラスチック - 補欠要員を確保するため求人を募る&lt;br /&gt;
* 葛城工業 - 強アルカリ性の廃液を河川に投棄&lt;br /&gt;
* 豊新産業 - 長時間労働（実働11.5時間）、中国人研修生による新人教育&lt;br /&gt;
* 東海サンダー工業 - エリア担当部長による従業員への暴力、技術がない従業員を班長にし工事を任せる&lt;br /&gt;
* 株式会社日本ソフト工業 - 正社員を派遣切りしたうえ、寮をでなかった退職者に暴行、解雇2日後に寮で首吊り自殺があったことを隠蔽化、代表の望月俊博セクハラ疑惑&lt;br /&gt;
* 奈良低温 - 時給900円のはずが説明なく時給680円（研修80時間）、賃金の深夜割増なし、商品に欠損があった場合は自己負担、事故に伴う修理費の一部自己負担&lt;br /&gt;
* 鈴木プラスチック - 初日からベテラン並の仕事量を要求するため仕事量の調整を願うと退職を強要&lt;br /&gt;
* 株式会社エコ配達 - ハローワークの求人内容と大幅に異なる労働時間。月残業は30時間と表示されていたが真っ赤な嘘で、1日の拘束時間労働時間含め13～15時間が大幅に異なる。ハローワークでのうたい文句が土日祝日休み、週休2日労働時間平均10時間。残業は強制参加&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== [[中国地方|中国]] ===&lt;br /&gt;
; [[鳥取県]]&lt;br /&gt;
*リコーマイクロエレクトロニクス - &lt;br /&gt;
; [[岡山県]]&lt;br /&gt;
* [[橋本岳]]事務所 - 無能なバカボン岳にセクハラやパワハラをされ、スタッフは精神を病みそうになっている。&lt;br /&gt;
* [[祝部LB]] - 従業員をただ働きさせる。&lt;br /&gt;
* [[芳井運送]] - 社長のニックネームは[[金正日]]&lt;br /&gt;
* [[道廣機工]] - JFE水島構内で便所掃除のサービス残業が日常化&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 架空の企業 ==&lt;br /&gt;
* エターナル社・[[ナイトメア社]] - [[プリキュア]]の中のブラック企業&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連事項 ==&lt;br /&gt;
* [[ブラック企業]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{蛆虫}}&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:ふらつくききよう}}&lt;br /&gt;
[[Category:悪徳商法]]&lt;br /&gt;
[[Category:蛆虫]]&lt;br /&gt;
[[Category:一覧]]&lt;br /&gt;
[[Category:ブラック企業|*いちらん]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Minagoroshida</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%83%E3%82%AF%E4%BC%81%E6%A5%AD%E5%B0%B1%E8%81%B7%E5%81%8F%E5%B7%AE%E5%80%A4%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%AD%E3%83%B3%E3%82%B0&amp;diff=186894</id>
		<title>ブラック企業就職偏差値ランキング</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%83%E3%82%AF%E4%BC%81%E6%A5%AD%E5%B0%B1%E8%81%B7%E5%81%8F%E5%B7%AE%E5%80%A4%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%AD%E3%83%B3%E3%82%B0&amp;diff=186894"/>
				<updated>2013-05-11T16:28:11Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Minagoroshida: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''ブラック企業就職偏差値ランキング '''とは、いわゆるブラック企業のブラック偏差値（＝ブラック度）を格付けしたランキング。学業における偏差値とは何の関係もない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 概要 ==&lt;br /&gt;
[[2ch]]において、[[1999年]]から、実際のブラック現役社員・ブラック脱出者・世間的な噂を吟味に吟味して決められたもの。[[2ch]]にしては珍しく、真実度が相当に高い。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
特に明確な基準はなく、偏差値はおおよその値だが、吟味する人の眼は厳しく、ランク入りするときは皆で情報を集め、充分に吟味してから決められる。自分が落ちた企業へのあてつけ、クビになった企業への当てつけ等でランキング入りした企業は即排除される。よって、ランクに載っている企業は激務・薄給・超高ノルマ・体育会系・社風が異常・暴力・休み無し・異常な回数の転勤・クビ切り等、何らかの異常な体質がある離職率の高い会社である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なお、『社員』にとって悪い企業であって、『社会』にとって悪い企業のことではない。後者は[[悪徳企業]]に分類される。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== ブラック偏差値 ==&lt;br /&gt;
=== 殿堂(倒産済) ===&lt;br /&gt;
[[NOVA]]・[[ダイナシティ]]・[[SFCG]](商工ファンド)・[[エスグラントコーポレーション]]・[[ロプロ]](日栄)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 偏差値80 ===&lt;br /&gt;
[[大庄]]・[[やずや]]・[[大東建託]] &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 偏差値75 === &lt;br /&gt;
[[日立製作所]]・[[モンテローザ]]・[[和民]]・[[ゼンショー]]・[[IEグループ]]([[光通信]]・[[ファーストチャージ]]・[[ニュートン]]・[[セプテーニ]]等)・[[東京コンピューターサービス]](TCS)・[[アドバンテージ]] &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 偏差値74 === &lt;br /&gt;
[[オンテックス]]・[[商品先物取引]]([[外為証拠金取引]])業界・[[浄水器]]販売会社([[OSGコーポレーション]]等)・[[佐川急便]]・[[サニックス]] &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 偏差値73 === &lt;br /&gt;
[[SEL&amp;amp;MST]]・[[SMG]]・[[大創産業]]・[[中央出版]]系列([[大成社]]・[[ELBEC]]等)・[[丸八真綿]]・[[東横ｲﾝ]]・[[ファイブフォックス]](コムサ)・[[人財開発]]([[東京コンサルティンググループ]])・[[ジャステック]]・[[セレモアつくば]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 偏差値72 ===&lt;br /&gt;
[[大塚商会]]・[[アビバ]]・[[パチンコ]]業界・[[ウィルプラウド]]・[[ベンチャーセーフネット]](VSN)・[[フォーラムエンジニアリング]]・中小警備会社・[[消費者金融]]・[[セブンイレブン]]・TV番組制作会社・零細出版社・編集プロダクション・[[アドービジネス]]・[[東建コーポレーション]] &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 偏差値71 ===&lt;br /&gt;
[[楽天]]・[[リクシル]]・[[再春館製薬所]]・モンテ以外の外食産業・[[ソフトバンクBB]](販売職)・[[アルプス技研]]・[[富士火災]]・[[フルキャスト]]・[[マイナビ]]・[[富士ソフト]](FSI)・[[LEC]]・[[大王製紙]]・[[テイケイ(帝国警備保障)]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 偏差値70 ===&lt;br /&gt;
証券リテール営業・[[アールビバン]]・[[ジェムケリー]]・家電小売業界(ヤマダ等)・引越業界(サカイ等)・[[セントラル警備保障]](CSP)・[[綜合警備保障]](ALSOK)・[[MKタクシー]]・[[船井電機]] &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 偏差値69 ===&lt;br /&gt;
[[JTB]]・生保営業・[[大正製薬]]・[[レオパレス]]・[[大和冷機工業]]・着物販売会社・[[トランスコスモス]]・人材派遣・業務請負業界・[[日本電産]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 偏差値68 ===&lt;br /&gt;
宝飾業界(ｼﾞｪﾑｹﾘｰ別格)・[[アパレル]]販売(外資除外)・小売(流通)コンビニ業界・[[ソフトウエア興業]]・[[オービック]](OBC)・[[コア]]・陸運業界 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 偏差値67 ===&lt;br /&gt;
[[メイテック]](MEITEC)・[[自動車販売会社]]・OA系販売会社・[[HIS]]・[[富士薬品]]・[[伯東]]・[[ニチコン]] &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 偏差値66 ===&lt;br /&gt;
マンションデベロッパー・人材業界 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 偏差値65 ===&lt;br /&gt;
旅行代理店(HIS別格)・[[日本食研]]・[[USEN]]・[[伊藤園]]・[[メノガイア]]・[[セコム]](SECOM) &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 偏差値64 ===&lt;br /&gt;
[[早稲田アカデミー]]・[[ベンディング]]会社・[[SBR]]・[[TOKAI]](ｻﾞ･ﾄｰｶｲ)・[[インテリジェンス]]・[[エンジャパン]] &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 偏差値63 ===&lt;br /&gt;
[[サイバーエージェント]]・印刷業界・[[FIT産業]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 偏差値62 ===&lt;br /&gt;
[[OTC-MR]]・[[受験産業]](塾・予備校・通信教育等/中央出版系列・早稲ｱｶ別格)・[[MR]](中堅以下) &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 偏差値61 ===&lt;br /&gt;
[[京セラ]]・[[ローム]]・[[丸井]]・住宅販売会社(積水ﾊｳｽ・大和ﾊｳｽ工業等)・交通ﾊﾞｽ業界 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 偏差値60 ===&lt;br /&gt;
[[ノエビア]]・ホテル業界・下位リース業界&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== ブラック企業コメント ==&lt;br /&gt;
* [[モンテローザ]]…超激務・超薄給・スキルもつかない上に[[創価]]系。[[共産]]系の[[労組]]は機能しているが… &lt;br /&gt;
* [[ＩＥグループ]]…飛び込み・体育会系。不正を犯し社会問題になった企業 &lt;br /&gt;
* [[オンテックス]]…超激務・[[リフォーム]][[詐欺]]・社長が同志社の学生 &lt;br /&gt;
* [[商品先物]]…超激務・詐欺営業・人格否定・客に刺し殺された社員も（しかも裁判負けた）。 &lt;br /&gt;
* [[浄水器]]販売…主婦を騙して高価な浄水器を販売する仕事。明らかに法に触れてます。豚箱予備軍。 &lt;br /&gt;
* [[日立製作所]]…超激務・長時間労働・労働組合あるも、違反ギリギリの生活・人格否定・裏取引&lt;br /&gt;
* [[佐川急便]]…社員[[ＤＱＮ]]だらけ・佐川ダッシュ・本社京都。ただし高給。また、こんなサイトもあるhttp://naokids.co.jp/sgw_71.html &lt;br /&gt;
* [[サニックス]]…体育会系・シロアリ退治で砒素中毒、軒下に自らシロアリを仕掛けて（詐欺） &lt;br /&gt;
* [[ＳＥＬ＆ＭＳＴ]]…特許詐欺・脱税・書類捏造・子会社経営危機 &lt;br /&gt;
* [[大創産業]]…薄給激務・肉体労働。幹部にはなれません。 &lt;br /&gt;
* [[中央出版]]…飛び込みで客をだまし高価（40万）な教材を購入させる。超ノルマ主義。出版社ではない &lt;br /&gt;
* [[消費者金融]]業界…利息過払い請求の急増により独立系最大手の[[武富士]]破綻。ノルマ至上主義。達成できないと泣くまで詰められる。しかも薄給激務。 &lt;br /&gt;
* [[セブンイレブン]]…超激務のルート営業・統一教会、自爆買い有り。 &lt;br /&gt;
* [[ＴＶ番組制作会社]]…最高レベルの激務。1週間で睡眠時間7時間、3日徹夜なんて当たり前 &lt;br /&gt;
* [[東京コンピューターサービス]]…超薄給、実質昇給無し、ボーナス他社の半額以下、上司の好みで額決定。 &lt;br /&gt;
* [[再春館製薬所]]…無料化粧品で釣って、実際は購入の勧誘しまくり。かなり高い。（TVでは勧誘はしないと言い切っている） &lt;br /&gt;
* [[外食産業]]…長時間労働・薄給・深夜労働。調理の汚い裏側を見るので外食店に行けなくなる。 &lt;br /&gt;
* [[ソフトバンクＢＢ]](販売職)…人だけたくさん雇ってモデムの売り子。こんな職でいいのか？ &lt;br /&gt;
* [[アルプス技研]]…残業地獄。 &lt;br /&gt;
* [[富士火災]]…高齢社員の給料を5万円にした。 &lt;br /&gt;
* [[証券]]リテール営業…証券会社のソルジャー。ノルマに追われて違法行為・反社会行為も。達成できなきゃ人格否定。出世無理。 &lt;br /&gt;
* [[アールビバン]]…無価値な絵を騙して100万で買わせる。 &lt;br /&gt;
* [[ジェムケリー]]…宝石の販売。半分詐欺 &lt;br /&gt;
* [[家電]][[小売]]業界…体育会系・軍隊（立ち位置までマニュアルで指定）・薄給・超激務（23時間40分という例あり）。 &lt;br /&gt;
* [[引越]]業界…体育会系・軍隊・高卒不良の巣窟 &lt;br /&gt;
* [[ＪＴＢ]]…旅行業界最大手で人気があり、一見優良企業に思うが、超激務。基本的に旅行業は超激務。 &lt;br /&gt;
* [[丸井]]…丸井カード加入の高ノルマ。ボーナス現物支給も有り。 &lt;br /&gt;
* [[レオパレス21]]…体育会系・高ノルマ営業 &lt;br /&gt;
* [[大和冷機工業]]…飛び込み営業・鬼激務・超薄給 &lt;br /&gt;
* 着物販売会社…知人友人をなくす押し売り営業。ここに限らず、一般に個人相手の営業で辛くないのは医者だけ。 &lt;br /&gt;
* 郊外型紳士服チェーン店…仕事内容はまさにブルーカラー。寝て起きて仕事してしかできなくなる。 &lt;br /&gt;
* [[日本電産]]…京都系。長時間労働・薄給。京都人なら偏差値-10。 &lt;br /&gt;
* [[セコム]]…地獄 &lt;br /&gt;
* [[綜合警備保障]]…地獄 創価？ &lt;br /&gt;
* [[宝飾業界]]…連日の高級住宅街廻り。日曜祝日なし。50代のオバサンと寝たい人にはお薦め。 &lt;br /&gt;
* [[アパレル]]販売(外資除外)…販売ノルマに追われる日々。固定客を掴める勝ち組は極一部。売り場リーダークラスにならないと悲惨な給料 &lt;br /&gt;
* [[宅急便]]業界(ルート営業)…良くも悪くも引越し業界と似たり寄ったり。 &lt;br /&gt;
* ビル管理業界…二交代制夜間勤務が常態化する劣悪労働条件。低賃金も影響し離職率高し。 &lt;br /&gt;
* [[大庄]]…新人の基本給に残業代80時間込みのブラック企業 &lt;br /&gt;
* [[製薬会社]][[MR]]…わがままな医師を相手にする男芸者的才能が必要。ゴルフ飲み会等の休日出勤実に多し。但し給料は結構高い。 &lt;br /&gt;
* [[大塚商会]]…言わずと知れたブラック企業の老舗的存在。軍隊調社風と相まって飛び込みコピー営業でノルマきつし。一部上場財務内容良し。 &lt;br /&gt;
* [[パチンコ]]業界…人によって極端に評価が分かれる不思議な業界。世間体を気にするなら避けるべし。利益率高く不況に強い。 &lt;br /&gt;
* [[JA]](農協系金融機関)…農林中金を除くと上位農協でも零細の域を出ない。エリア営業メインで信用金庫業界と営業手法が似ている。 &lt;br /&gt;
* [[シャープ]]…薄給・僻地勤務・パワハラ。上司の好みで査定が決まる。姻族経営。自殺者年間30人。営業では怒号訓練あり。 &lt;br /&gt;
* [[やずや]]…[[YOUTUBE]]を利用した再チャレンジ制度で誤解を招き苦戦中。信用回復がカギ。 &lt;br /&gt;
* [[王将フード]]…強引かつ非情な新人研修風景がTVで紹介されブラック色が露呈。急成長に陰りが出て採用戦略に影響も。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 現役ブラック企業社長が、社員を安くこき使う華麗な手口を暴露 ==&lt;br /&gt;
給与、勤務時間、休日など労働条件が労働法に違反している、もしくはその企業が行っている事業そのものがなんらかの法令に違反しているなど、決して他人に入社を勧められない企業のことを「ブラック企業」という。そんなブラック企業の実態に迫ってみた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 入社して、この会社おかしいと思ったなら？ ===&lt;br /&gt;
どのような会社でも、入社前、外からでは、その内情をうかがい知ることはできない。では、もしブラック企業に入社してしまった場合は、どうすればいいのだろうか。できるだけ早く、まっとうな企業に転職するしかないだろう。決して我慢して長く勤めようと考えてはいけない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なぜなら、そもそもブラック企業の経営者は、社員の人生を背負っているという発想がないのだ。労働の対価である給与もできるだけ安く抑え、なんだかんだ理由をつけて、踏み倒すことさえ厭わない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
事実、従業員30名程度を擁するあるIT企業経営者のA氏は、自らをブラック企業経営者と認めたうえで、「従業員は敵だと思っている。いかに安くこき使い。文句を言わせず、上手に辞めさせるかだ」と言い切る。従業員サイドに立ってみれば、こんな企業に長居し、忠誠を誓ったところで人生を空費するだけだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
A氏は採用時、労働時間、待遇などに文句を言わず、黙々と働きそうな「使い勝手のいい人材」のみを採用するという。A氏に詳しく話を聞いてみた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 使い勝手のいい人間を採用して、こき使う ===&lt;br /&gt;
「使い勝手のいい人材」の基準というか、見分け方は？&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
A氏「人の上に立とうとか、そういう野心がない人間。人に使われるしか能のない人間だ。学歴はあまり関係ない。真面目で、人を疑うことを知らず、そこそこ育ちがよくて、素直に人の言うことを聞く、それでいて責任感が強いかどうかだ。」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
御社における社員の待遇は？　給与や、勤務時間、休日などを教えてください。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
A氏「給与は月に13万5000円。残業代はない。勤務時間は一応、朝9時から夕方5時まで。昼休みも1時間ある。しかし社員はみんな、自発的に朝は8時には会社に来ている。夜も自発的に終電に乗れるまでは働いている。泊まり込みも自発的に行ってくれている。月2回は土曜日も出勤。そうしないと仕事が回らないからね。」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
本当に、それだけの勤務時間を要するほどの仕事があるんですか？&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
A氏「ない。意図的に「仕事のための仕事」をつくって、長時間働かせているだけだ。」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なぜ、そのようなことを？&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
A氏「長時間働かせ、ピリピリした社内の空気に長く触れさせることで、余計なことを考えさせないようにするためだ。今の言葉でいえば「社畜」というのかな。そうすることが目的だな。」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それにしても、条件面ではかなり厳しいですよ。社員の方は文句を言わないですか？&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
A氏「文句を言うような人間は採用していない。文句や不満を言わせないよう、社内の雰囲気を日頃からつくっている。また最初にガツンとやっているので、社員から不満だの文句だの出ない。」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
最初にガツンとやるとは、どういうことをやるのですか？&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
A氏「仕事でミスがなくても、些細なことで厳しく叱責する。そしてそれをしばらく続け「このような仕事ぶりでは給与は払えない」と言う。「お前はこんなにミスが多いが、それでも給料を払ってやってる」と刷り込む。つまり経営者である私を怖いと思わせることだね。」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ミスは徹底的に責めるというわけですね？&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
A氏「ミスに限らない。勤務時間中の私用メールや電話、新聞など読んでいても「私用」としてどやしあげる。これで社員へのにらみは利く。もっとも、褒めるときには褒める。「アメとムチの使い分け」も重要だ。」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 劣悪な環境に慣れさせて、たまに優しくする ===&lt;br /&gt;
このIT企業経営者がいう「アメとムチ」は、劣悪な環境、雰囲気に慣れさせ、たまに優しくすることで、社員の喜びをくすぐるというものである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
例えば、この企業では、[[労働基準法]]で定められた休暇の取得すら、一切認めていない。休暇が認められるのは、風邪をひいたなどの病欠時のみだ。この部分がムチである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ただし、たまに仕事量が少なくないとき、1000円程度の昼食をおごる、3000円程度の夕食をおごり、早めに帰す……これがアメだという。A氏は、「日頃から厳しくしている分、たまにある『アメ』の部分で、社員は自分が認められていると思い込む。その心理につけ込むというわけ。これで社員は私の言うことを聞く」という。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
引き続き、話を聞いてみよう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
もし社員が、労働基準監督署にでも告発したら？&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
A氏「そういうことを考えさせないために、仕事を増やし、拘束時間を長くし、にらみを利かせてプレッシャーをかけている。」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 社員が定着しないための環境づくり ===&lt;br /&gt;
長くいる社員の方は、やはりその方が定年を迎えるその日まで、大事にされるおつもりですか？&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
A氏「それはない。年齢が高くなれば、それだけ給料も上げなければならない。長くてもせいぜい5年、できれば3年くらいで出て行ってもらいたい。」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
誰しも、せっかく就職した会社を3年から5年で退職したいとは思わないでしょう？&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
A氏「それは居心地がいいところなら、それでもいい。しかしうちは、まだまだそんな居心地のいい会社にできる余裕もなければ、するつもりもない。3年から5年で自発的に辞めてもらう。」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
皆さん、そのくらいの期間で都合よく辞めてくれるものですか？&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
A氏「1年目、2年目で、とにかくどやしつける。ただし、少し仕事を覚えてきたら褒める。この頃が一番使い勝手がいい。でも、仕事の振り分けで、うちに長居しても同業他社で通用しそうなスキルなどは絶対に身につけさせないようにしている。それに本人が気づいて、休暇も認めていないので、転職するにはうちを退職するしかないと気づかせるのです。もちろん自発的に退職するときには、盛大な送別会はする。それが退職金代わりになるというわけだ。」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
古株で、仕事を覚えているような方の場合は、どうやって辞めさせるのですか？&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
A氏「仕事の面で無視する。使い勝手がよくなると、ある程度権限を与えて、新人の指導もさせているが、些細なきっかけでいいので、新人の前で叱りつけ、それまでの権限を取り上げる。これで普通は辞めていく。」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
起業家として、そうした経営に思うところはありませんか？&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
A氏「まったくない。今は一人一人が経営者という時代だ。社会保険料まで、こちらが支払って、その恩恵を受けているのだから、それで十分だろう。嫌なら自分が経営者になればいい。企業経営とは、従業員をいかに効率よく働かせるかだ。もっともそれは社員のためではなく、私の会社のためだ。そこを履き違えてはいけない。」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== さっさと見切りをつけるにしても ===&lt;br /&gt;
これでは、とても企業として発展するとは思えないのだが、ある経営コンサルタントは、こうした経営姿勢について「確かに発展はしない。しかし経営を維持するという面では、あながち間違いではない」という。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、こうしたブラック企業、経営者の下で働いた経験のある人は、「少ないながらも貯金ができて、退職し、失業保険で食いつなぎつつ、再就職に向けた活動を行うと、労働基準監督署に告発しようという気もうせた」と話す。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
もしブラック企業に入社してしまった場合、さっさと見切りをつけて退職したほうがよさそうだが、一歩間違えればドツボにハマる可能性があるという。ある労働基準監督官は、次のような本音を漏らす。　&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「早期退職で、きちんと仕事をしていない……、ゆえに会社に迷惑をかけたなどの理由で給与の支払いを拒んだり、逆に違約金を支払えという企業もある。あまりに労働者側に立った労働基準監督行政を行い、企業を閉鎖、倒産に追い込むと、それはそれで問題となり、我々もそうしたことを嫌う傾向がある。どのような仕事でも、給料をもらえる仕事をしている以上、従業員側が耐えてもらいたいというのが本音」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 精神をやられやすい男性の職業 ==&lt;br /&gt;
=== 1位　ブラウザゲーム・スマートフォンアプリのプログラマー ===&lt;br /&gt;
現代の“花形職業”のひとつですが、そのぶん納期も厳しく、毎日終電などということも珍しくありません。また、新興のベンチャー企業が多いせいか、賃金が安かったり社会保険などの福利厚生が整っていなかったりと、悪い条件が重なっています。離職率が高い職種のひとつに挙げられているほど定着率も低く、うつなどの精神的な病を患って退職していく人が後を絶ちません。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 2位　クライアント常駐型SE（システム・エンジニア） ===&lt;br /&gt;
“IT系ブラック企業”と呼ばれている会社も多いSE派遣業界。基本給が低いうえに残業代が支給されなかったり、就業時間終了後に会議が始まったり、残業で会社を出るのが終電ギリギリならば早い方だったりと、過酷な環境を強いられている場合がほとんどです。就活サイトや求人誌にいつも求人広告を載せていたりするような会社の場合は要注意です。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 3位　パチンコ店社員 ===&lt;br /&gt;
最近は環境改善が進んできたとはいえ、あの騒音とたばこの煙の中で終日過ごしているわけですから、楽な仕事ではありません。給与相場もピーク時より下がっているので、“稼げる”というイメージも陰りつつあります。アルバイトならば勤務日数や日勤・夜勤のシフトが選べる可能性がありますが、社員はほぼ例外なく昼夜2交代制で、休みは週1回程度です。勤続年数が長ければ出世できる可能性が高い業種と言えますが、そのぶん上司に粗暴な人が多かったり、経営者が裏社会関係者だったりと、気の休まるような職場とは言えません。終日重たいパチンコ玉やメダルを運んでいるので、腰痛を患う人も多いようです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 4位　コールセンター管理者 ===&lt;br /&gt;
顧客からの高度な質問やクレーム対応など、職務内容そのものもメンタルにダメージの出やすい仕事ですが、コールセンターの管理者の場合はそれ以上に、“職場の女性比率が高い”ことがなおさら彼らの精神をむしばんでいきます。女性スタッフ同士の派閥争いをなだめたり、言われなき噂に耐えたりするのは日常茶飯事。マトモな神経を持っている男性は例外なく体調を崩します。平然としていられる男性管理者は、よっぽどタフか鈍感か、というところです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 5位　外食系チェーン正社員 ===&lt;br /&gt;
もちろん一概には言えませんが、某居酒屋チェーン店では過労死も発生したほど、職場環境はおおむね劣悪の極みです。料理や飲み物を低価格で提供するために人件費をカットし、その分従業員を酷使したりするので、フィジカルはもとよりメンタルをやられてしまう人が続出しています。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 6位　家電量販店 ===&lt;br /&gt;
外食チェーンと異なり、正社員だけでなく派遣社員でもかなり厳しい職場です。従業員を使い捨てるようなこともしばしば。体育会系色が根強く、脳味噌まで筋肉でできているような頭の固い中高年層が幅を利かせていることも多いので、若い男性にとっては特に苦痛の絶えない業種です。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 7位　小学校・中学校教師 ===&lt;br /&gt;
子供の多様化やモンスター・ペアレントと呼ばれる常軌を逸した保護者への対応に追われ、気づかないうちに精神を病んでしまう教師は少なくありません。最近、大津市の中学校で発生したいじめ問題が連日のように報道で取り上げられていますが、教育委員会という旧態依然とした組織にも大きな問題があり、現場の教師への圧力となっていると言えます。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 8位　自営業・個人事業主・零細企業の社長や代表 ===&lt;br /&gt;
いずれも、この不況下でやりくりに七転八倒している人々です。明日をも知れない日々を送っているので、精神的には相当きつい状態です。リーマンショック以降に独立した人よりも、それ以前の好景気を知っていて今苦しんでいる人のほうが、“よい時代”を知っている分だけダメージは大きいと言えるでしょう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 9位　自衛隊員 ===&lt;br /&gt;
いざという時には私たちを守ってくれる存在ですから、それだけに日々の訓練は相当に厳しいものです。鍛え上げられた隊員はもちろんタフな人たちですが、タフになる前に肉体的・精神的に参ってしまう人も少なくありません。世代が若くなるに連れてその傾向は増すようです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 10位　原発作業員 ===&lt;br /&gt;
今、世界で最も過酷で恐ろしい環境下で仕事をしている人たちではないかと思います。彼らは放射能という見えない恐怖を感じながら、日々の作業を行っているのです。しかも、多くの作業員は日雇いや下請け会社などの方々で、原子力の専門家でさえありません。危険な環境下で働いているにも関わらず、給与はそれほど得られていないという証言も出ています。現職の作業員のみならず退職した人たちにも、カウンセリングなどの心のケアが必要だと言われています。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:ふらつくききようへんさちしゆうしよくらんきんく}}&lt;br /&gt;
[[Category:就職板]]&lt;br /&gt;
[[Category:労働]]&lt;br /&gt;
[[Category:労働問題]]&lt;br /&gt;
[[Category:企業]]&lt;br /&gt;
[[Category:就職活動]]&lt;br /&gt;
[[Category:ブラック企業]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Minagoroshida</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=MURMUR4040&amp;diff=185807</id>
		<title>MURMUR4040</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=MURMUR4040&amp;diff=185807"/>
				<updated>2013-04-27T12:55:40Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Minagoroshida: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;[[MURMUR4040]]とは、[[ウィキペディア]]の勘違いユーザーである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
編集履歴はコレ。&lt;br /&gt;
http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E7%89%B9%E5%88%A5:%E6%8A%95%E7%A8%BF%E8%A8%98%E9%8C%B2/MURMUR4040&amp;amp;dir=prev&amp;amp;offset=20081027220735&amp;amp;limit=500&amp;amp;target=MURMUR4040&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==概要==&lt;br /&gt;
*「ここ数年間北米に在住していましたが、現在は日本に帰ってきています」とのこと。&lt;br /&gt;
**[[ネブラスカ大学リンカーン校]]のページを頻繁に更新しているのは、おそらくここに留学していたためだろう。&lt;br /&gt;
***なお、[[専修大学]]と協定を結んでいるとのことなので、おそらくここの生徒で、交換留学にでも行っていた説が農耕。&lt;br /&gt;
**「最近は映画関連の記事を執筆することが多いです」なるほど、留学中も遊びほうけていたバカ大学生か。&lt;br /&gt;
*以前は大阪府出身だと言っていたが[[http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85:MURMUR4040&amp;amp;diff=prev&amp;amp;oldid=25550722]]、記述を消している。都合悪いことを隠したのか。&lt;br /&gt;
*「豊臣政権に興味があります」と書いているが間違い。&lt;br /&gt;
**実際は「豊臣政権の信者です！それもかなりイタい！秀吉の事績は何がなんでも肯定したいです！たとえ捏造してでも！そのためなら手段は問いません！」&lt;br /&gt;
**そこまでするくせに、歴史に興味があるわけではない。勉強もしていない。秀吉の項目に関してすら、ほとんど編集せず、他人の編集の邪魔ばかりしている。&lt;br /&gt;
*総じてクズ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==特徴==&lt;br /&gt;
*日本語力がない。&lt;br /&gt;
*他人の意見は聞かない。&lt;br /&gt;
*秀吉信者。イタい。大阪人ってこんなんばっか。&lt;br /&gt;
*何の知識もないのに「研究者が～」などと法螺を吹く。&lt;br /&gt;
**持ち出す本は2種類。1980年以前の古い本か、最近の簡単に手に入る本。つまり本屋と図書館がコイツの情報ソース。その程度の知識でこの俺の編集に口を出そうとは、片腹痛い。&lt;br /&gt;
**「2005年8月にWikipediaの登録利用者となりました。 以前は別の利用者名でしたが、2009年4月から現在の利用者名に変更しました」おそらくこの時も同じノリでなにかしでかしたのだろう。&lt;br /&gt;
*朝鮮出兵を「侵略」と編集しているあたり、在日の疑いあり。[[http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E8%B1%8A%E8%87%A3%E7%A7%80%E5%90%89&amp;amp;diff=prev&amp;amp;oldid=13467083]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Minagoroshida</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=MURMUR4040&amp;diff=185806</id>
		<title>MURMUR4040</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=MURMUR4040&amp;diff=185806"/>
				<updated>2013-04-27T12:52:31Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Minagoroshida: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;[[MURMUR4040]]とは、[[ウィキペディア]]の勘違いユーザーである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
編集履歴はコレ。&lt;br /&gt;
http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E7%89%B9%E5%88%A5:%E6%8A%95%E7%A8%BF%E8%A8%98%E9%8C%B2/MURMUR4040&amp;amp;dir=prev&amp;amp;offset=20081027220735&amp;amp;limit=500&amp;amp;target=MURMUR4040&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==概要==&lt;br /&gt;
*「ここ数年間北米に在住していましたが、現在は日本に帰ってきています」とのこと。&lt;br /&gt;
**[[ネブラスカ大学リンカーン校]]のページを頻繁に更新しているのは、おそらくここに留学していたためだろう。&lt;br /&gt;
***なお、[[専修大学]]と協定を結んでいるとのことなので、おそらくここの生徒で、交換留学にでも行っていた説が農耕。&lt;br /&gt;
**「最近は映画関連の記事を執筆することが多いです」なるほど、留学中も遊びほうけていたバカ大学生か。&lt;br /&gt;
*以前は大阪府出身だと言っていたが[[http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85:MURMUR4040&amp;amp;diff=prev&amp;amp;oldid=25550722]]、記述を消している。都合悪いことを隠したのか。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==特徴==&lt;br /&gt;
*秀吉信者。イタい。大阪人ってこんなんばっか。&lt;br /&gt;
*何の知識もないのに「研究者が～」などと法螺を吹く。&lt;br /&gt;
**持ち出す本は2種類。1980年以前の古い本か、最近の簡単に手に入る本。つまり本屋と図書館がコイツの情報ソース。その程度の知識でこの俺の編集に口を出そうとは、片腹痛い。&lt;br /&gt;
**「2005年8月にWikipediaの登録利用者となりました。 以前は別の利用者名でしたが、2009年4月から現在の利用者名に変更しました」おそらくこの時も同じノリでなにかしでかしたのだろう。&lt;br /&gt;
*朝鮮出兵を「侵略」と編集しているあたり、在日の疑いあり。[[http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E8%B1%8A%E8%87%A3%E7%A7%80%E5%90%89&amp;amp;diff=prev&amp;amp;oldid=13467083]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Minagoroshida</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E3%83%A9%E3%82%AF%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%B3&amp;diff=185779</id>
		<title>ラクス・クライン</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E3%83%A9%E3%82%AF%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%B3&amp;diff=185779"/>
				<updated>2013-04-27T09:56:53Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Minagoroshida: /* 最高評議会議長に */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''ラクス・クライン''' (らくすくらいん、[[コズミック・イラ|C.E.]]55年2月5日～) は、プラントの政治家。現・プラント最高評議会議長。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 個人データ ==&lt;br /&gt;
*国籍：プラント→不明（DESTINY時。公的にはプラントのままと思われる）&lt;br /&gt;
*出身：プラント アプリリウス市&lt;br /&gt;
*人種：二世代目[[コーディネイター]]（SEEDを持っている可能性あり）&lt;br /&gt;
*生年月日：[[コズミック・イラ|C.E.]]55年2月5日&lt;br /&gt;
*年齢：16歳→18歳&lt;br /&gt;
*血液型：B型&lt;br /&gt;
*身長：158cm→160cm&lt;br /&gt;
*体重：53kg→46kg&lt;br /&gt;
*髪色：桃&lt;br /&gt;
*瞳：水色&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
※矢印右はC.E.73年時のデータ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 人生 ==&lt;br /&gt;
=== 出生 ===&lt;br /&gt;
C.E.55年2月5日、プラントのアプリリウス市で、プラント最高評議会議長シーゲル・クラインの娘として生まれる。母親は不明&amp;lt;ref&amp;gt;母親は幼少期のラクスに「世界はあなたのもの、あなたは世界のもの」と教えを説いたという。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
学歴については全く明らかになっていないが、少なくとも公的には何の問題もなく過ごしていたようだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
65年、プラント最高評議会の政権与党、黄道同盟（父シーゲルが所属）が自由条約黄道同盟ZAFT（[[ザフト]]）と改名。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
68年、シーゲル・クラインがプラント最高評議会議長に就任。この年、パトリック・ザラの息子アスラン・ザラがプラントに移住してくる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
69年、シーゲル・クラインの指示により、プラントはユニウス市の7〜10区（ユニウスセブン〜10コロニー）を穀物生産プラントに改装し、食料生産を開始。これに対しプラント理事国は実力を行使してもこれを排除すると勧告しプラントに対し威嚇行動に出る。ザフトはこれに対抗する形で史上初の戦闘用MSジンを実戦投入する。圧倒的少数でありながらプラント理事国のMA部隊を圧倒し、L5宙域に駐留していたプラント理事国の宇宙軍を排除。以降、L5宙域はザフトを有するプラントが実効支配する事になった。 これ以降、プラント―プラント理事国の間の緊張は急激に高まっていく。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なお、ラクスとアスランは遅くともこの69年のうちには婚約したと思われる&amp;lt;ref&amp;gt;70年2月21日にアスランはZAFTに入隊し、メカの自作どころではなくなるのだが、『アスランはラクスの誕生日に自作ロボット（ハロと命名）をプレゼントした事がある（ウィキペディア）』ため、それ以前にラクスに自作メカを誕生日プレゼントとして贈れる年が存在していなければならない。このため少なくとも70年2月5日以前には婚約していた事になるが、ラクスがアスランから贈られた自作メカは十数個もあるため、2月5日よりかなり前から付き合いがあったはずである。&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
。なお、婚約はラクスとアスランの意志では全くなく（面識もなかった）、シーゲルとパトリック、親同士が決定した事というのが通説である。もっとも2人ともそれなりに好感を持っていたようだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
70年2月5日、ラクス15歳の誕生日、プラントとプラント理事国の間で交渉がもたれる事になっていた（月面会議）が、爆弾テロにより会議参加予定の地球側理事国の代表者と、国際連合事務総長を含む国際連合首脳陣が死亡。シーゲルはシャトルの故障により到着が遅れていたため難を逃れた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
70年2月11日、プラントは地球連合に宣戦布告（[[ヤキン・ドゥーエ戦役]]）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
C.E.71年1月25日、ザフトはガンダム奪取作戦を決行。実行部隊であるクルーゼ隊は、奪取目標5機のうち4機を奪取するが、残り1機の捕獲には失敗。さらに破壊にも失敗し、戦闘母艦のアークエンジェルと共に取り逃がしてしまう。この「アークエンジェル」がラクスの運命を大きく変えていく事になる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この時点でラクスは歌手活動やユニウスセブン追悼慰霊団の代表など、公的行事に参加していた。[[プラント (ガンダムシリーズ)#ザフト|自由条約黄道同盟ZAFT]]の広告塔として歌やメッセージをプラント国民に送っていたが、彼女自身は自分は「ZAFTではない」と述べている。学校に通っていた形跡はないので、既に卒業していたのだろう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ヤキン・ドゥーエ戦役 ===&lt;br /&gt;
==== 人質事件 ====&lt;br /&gt;
コズミック・イラ2月2日、ラクスは血のバレンタイン事件の犠牲者の追悼式典の準備のため、視察団の代表として民間船シルバーウィンドでユニウスセブンの残骸を視察していた。が、そこで地球連合軍と遭遇。視察団はラクスを緊急避難ポッドで脱出させ、シルバーウィンドは撃沈される。ラクスは連合軍に発見されないまま、ポッドで漂流する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2月3日、月へと航路を取るアークエンジェルはこの宙域を航行していたが、物資不足を懸念してユニウスセブンから物資を調達する。一方ザフトも捜索部隊が船団を捜索に来ていた。ここで哨戒していたストライクが、追悼船団を捜索しにきた強行偵察型ジンを発見。ストライクはやり過ごそうとしたが、ジンが調達作業中のポッドを発見したため、撃墜。直後にストライクがラクスのポッドを発見し、回収。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ラクスはアークエンジェルの個室に軟禁されることになる。一方、いまだラクスを発見できないザフトでは、クルーゼ隊を動員してラクスの救助を行おうとする。クルーゼ隊が動員されたのは隊員にアスラン・ザラがおり、パトリック・ザラがプロパガンダとしてこの事件を利用しようとしたからだと言われる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
アークエンジェルはクルーゼ隊に発見され、戦闘で撃沈寸前の危機に陥るが、同艦のクルーは彼女を人質としてクルーゼ隊を恫喝し、攻撃を中止させる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2月7日、アークエンジェルは地球連合軍第8艦隊の先遣隊と合流するが、クルーゼ隊が襲来。アークエンジェルはラクスを乗せたまま戦闘を行う。結果、先遣隊は壊滅するが、アークエンジェルは辛くも逃れる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2月8日、ラクスを人質とした事に不満を抱いたストライクのパイロット（非公式）[[キラ・ヤマト]]が、独断で彼女を連れアークエンジェルを脱し、クルーゼ隊に彼女を引き渡す。クルーゼは引き渡しにきたストライクを攻撃したが、ラクスの説得により中断。ラクスはクルーゼ隊と別れ、プラントへと帰還した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この事件が彼女の精神面に大きく影響を与えたと言われる。アークエンジェル内部での彼女の扱われ方は、条約にのっとったものだったと言われるが、クルーからはコーディネーター蔑視の発言もあったとされており、これが初めての連合側との接触だったラクスは、彼らに強い印象を抱いた事だろう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なお、キラはこの件で艦内における軍事法廷に処されたが、当時は軍法上の軍人ではないとの理由で不問に付されている。アークエンジェルの士官達も軍法上の訴追及び緊急避難的措置は法的に正しかったとしながらも、その負い目から処罰は全く考えていなかったようであり、軍法会議は形骸的なものに過ぎなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== プラントからの離反～三隻同盟 ====&lt;br /&gt;
2月14日、ラクスはプラントで血のバレンタイン追悼式典に出席する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2月22日、ラクスは自宅でアスランの訪問を受ける。アスランによれば、特別変わった様子は見られなかったという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
4月21日、地球での戦闘で負傷したキラがクライン邸に運ばれてくる。この時点でラクスがどれほどキラの情報を知っていたかは定かではないが、この時すでに後の行動に至るための思想的変化があった事は疑いようがない。ちなみにキラを運ぶよう手配したマルキオ導師なる人物の素性は不明である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
5月5日、ラクスは回復したキラと共にザフト軍工廠に侵入し、[[フリーダムガンダム|フリーダム]]を奪取。しかしその引き渡す様子を政府に知られ、5月12日に父シーゲルともども国家反逆罪で指名手配され、議会にいたクライン派の議員たちは身柄を拘束あるいは追放され、議会はわずかな中立派を除いてザラ派一色となる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
国家の敵となったラクスだったが、逃亡生活をしつつ、クライン派の協力によって国民に反戦メッセージを送りつつ逃亡生活を続ける。別行動をとっていた父は警察の襲撃を受け、死亡。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なお、この逃亡生活の最中、アスランがラクスと接触したという。アスランがザフトから離反した理由も、この時にラクスから思想的影響を受けたことが主な要因とされる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
7月1日、ラクスはザフトからの離反を決意したアスランをパトリックから救い出しつつ、ザフト軍の新造宇宙戦艦・エターナルでプラントを脱出&amp;lt;ref&amp;gt;エターナルの艦長[[アンドリュー・バルトフェルド]]は、クライン派の部下[[マーチン・ダコスタ]]によって説得されていた。&amp;lt;/ref&amp;gt;。ヤキン・ドゥーエ防衛軍に追撃されるが、フリーダムを駆るキラに救われる。なお、このエターナルは初めからラクス一派が使うために作られていたという説もある（カラーリングのため）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
7月5日、そのままアークエンジェル、クサナギと合流（[[三隻同盟]]）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 連合・プラントとの戦闘～終戦 ====&lt;br /&gt;
三隻同盟結成以降、ラクスはエターナルの艦長を務め、三隻同盟の盟主的立場にあった。ただし艦長については形式的なもので、戦術レベルの話や戦闘指揮についてはバルトフェルドに一任していた。盟主としては、意見を述べる事こそ少なかったが、周囲の人間は常にラクスの意向を最大限に尊重し、実質的な指導者の地位にあったと複数の当事者が述べている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
7月12日、三隻同盟はドミニオン隊、およびエターナルを追ってきたクルーゼ隊と戦闘（[[メンデルの戦い]]）。戦闘を無事終えるも、この戦いの最中でNジャマーキャンセラーのデータが地球連合軍の手に渡る。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これ以降、宇宙での戦闘は2ヶ月ほど小康状態となる。この間エターナルは、7月16日にジャンク屋の所有する違法船リ・ホームから補給を受けている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
9月11日、地球連合軍司令部はプラント本国攻撃を最終目標とした「エルビス作戦」を発動。極秘裏に各方面より戦力を結集させ、9月23日に宇宙要塞ボアズ（旧東アジア共和国資源衛星 新星）を攻略しようとする。核攻撃部隊・ピースメーカー隊の核攻撃によってボアズは壊滅。ザフト残存部隊はヤキン・ドゥーエへ撤退した。ラクスらがボアズ陥落の報、および連合の核使用を知ったのは9月26日、再度エターナルの補給にきたジャンク屋らによってであった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この核攻撃に激怒したパトリック・ザラは、極秘裏に建造された最終兵器ジェネシスの使用を決断する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
9月26日、地球軍は核攻撃部隊ピースメーカー隊がプラント本国へ核ミサイル攻撃を行うも、ラクス・クラインら三隻同盟とイザーク・ジュール率いるジュール隊に阻止される（プラントの被害はゼロ）。その直後、ミラージュコロイドで隠匿されていたジェネシスの第1射で地球軍はプラント攻略部隊総旗艦「ワシントン」を含む戦力の40%以上を撃破される大打撃を受け、デブリベルトに一時後退を余儀なくされた。また連合軍は、ザフトの追撃で更に多くの艦船とモビルスーツを失った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ブルーコスモスの盟主ムルタ・アズラエルはジェネシスの威力を恐れ再度の総攻撃を指示。残存戦力の再編後地球軍は再度の進行を開始。 翌9月27日のジェネシスの2射目で、補給を兼ねた第2陣諸共プトレマイオス基地が消滅。連合軍は再度ピースメーカー隊にプラントを核攻撃させたが、三隻同盟が発射された核ミサイル、ピースメーカー隊、および母艦「ドゥーリットル」を全て撃墜。地球連合を実質指導していたアズラエルもアークエンジェルのローエングリンによりドミニオンを撃沈され死亡。この時点で地球連合軍の勝利する可能性はほぼゼロとなった。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
だが、ザフトの勝利が決まってもパトリック・ザラはジェネシスによる攻撃を中止しようとはせず、地球の大西洋連邦首都ワシントンD.C.へ撃とうとしたが、三隻同盟のMS部隊によってジェネシスは発射とほぼ同時に破壊された（厳密には発射よりわずかに後とされる）。なお、パトリックはこのジェネシス発射に疑問を持ったザフト兵レイ・ユウキによって射殺され、これにより戦意を喪失したザフト兵達はヤキン・ドゥーエを放棄。直後にヤキン・ドゥーエは大爆発を起こし大破。これについては三隻同盟の工作員が行ったとも、錯乱した兵が作動させたとも、一説には死にかけたパトリックが自ら作動させたとも言われる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この戦闘の最中、レジスタンスによって[[アイリーン・カナーバ]]ら旧クライン派が救出され、プラント臨時評議会として戦闘終了後に地球連合に停戦を申し込み、連合側もこれを受諾。終戦に向けて講和会議が開催されることとなった（ナイロビ講和会議）。停戦後、三隻同盟はディアッカ・エルスマンなど少数の例外を除き、フリーダムやアークエンジェルなどの戦力を保持したまま、密かにプラントへと亡命した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ナイロビ会議はその後数ヶ月に及び、その間に南アメリカ独立戦争が勃発するも、3月10日、ついに地球連合とプラント間に停戦条約（ユニウス条約）が締結された。アイリーン・カナーバら臨時評議会は総辞職し、ギルバート・デュランダルを議長とする新評議会が発足している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
戦後、ラクスの国家反逆罪容疑は取り消されたが、彼らはプラントには戻らず、代表になったカガリの黙認のもと、秘密裏にオーブに居住し続けた。三隻同盟のメンバーの大半は彼女と行動を共にした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ユニウス戦役 ===&lt;br /&gt;
==== 開戦前 ====&lt;br /&gt;
C.E.73年10月2日、プラント「アーモリーワン」で、3機のセカンドステージシリーズMS（カオス、ガイア、アビス）が地球連合軍第81独立機動軍ファントムペインによって強奪されるという事件が発生。カガリ・ユラ・アスハ、アスラン・ザラ（アレックス・ディノ）は、ザフトが亡命オーブ人技術者を兵器開発に登用している事に抗議すべく、アーモリーワンを極秘に訪問していたため、戦闘に巻き込まれ、プラントの新造戦艦ミネルバに搭乗して避難することになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
さらに翌日の10月3日、ザフト脱走兵がユニウスセブンの地球に落下させるというテロが起こる（ブレイク・ザ・ワールド）&amp;lt;ref&amp;gt;デュランダル議長はテロリストの行動を把握しており、あえて見逃していたという説もある。&amp;lt;/ref&amp;gt;。ザフトは軍を出動させ、実行犯であるテロリスト達全員を死亡させたものの、地球各地（特に赤道付近）では津波が起きるなどの大被害を出した。ラクスらは地下シェルターに避難し、難を逃れた。なお、先述のミネルバは成り行き上この戦闘に参加し、アスランは特例としてザフトのMSに乗って出撃し、作戦に協力している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
地球に落下する破片を破壊するという作戦の都合上、ミネルバは地球に降下し、オーブのオノゴロ島に入国。ラクスと接触したアスランはMS強奪やユニウスセブン落下についての情報を提供した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
後日、ユニウスセブンでの戦闘（ザフトMSによる破砕作業の妨害）の映像が公表され、プラントもこれを大筋で事実と認めた為、地球の反コーディネイター感情が再発。さらにユニウスセブン落下に呼応したコーディネイターによるテロが多発し、地球-プラント間の緊張が高まった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
地球連合側は、「ユニウスセブン落下テロ事件に関与したテロリストは全員死亡した」というプラント側の報告を一度は受け入れたものの、それを撤回して「テログループの引き渡し」「賠償金」「プラントの武装解除」「プラント現政権の解体」など、まともな国家なら到底受け入れられないと言える要求をプラント側にした。当然ながらプラントは拒否。地球連合はプラントの態度を不服として、宣戦布告した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 開戦 ====&lt;br /&gt;
地球連合軍は宣戦布告の直後、プラントに核攻撃を敢行。しかしザフト軍によって阻止され、プラントに被害は出なかった。作戦と同時にカーペンタリアやジブラルタルに攻め込む手筈だった連合地上軍は攻撃を中止した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
プラント最高評議会議長ギルバート・デュランダルはラクスの影武者を使用し、プロパガンダ放送を流す&amp;lt;ref&amp;gt;この時点でプラントには、デュランダル以外に影武者である事を知る者はいなかったと思われる。&amp;lt;/ref&amp;gt;。デュランダルは積極的自衛権の行使を主張し、地球降下作戦「オペレーション・スピア・オブ・トワイライト」を発動。地球各地に侵攻する準備を始めた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この時アスラン・ザラは影武者と接触し、影武者である事実に気づいていたにも関わらず、その事実を公表しようとはしなかった。それどころか、デュランダルに勧められるままザフト軍特務隊・FAITHに入隊。ラクスから離れ、本格的にザフトに復帰したのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
他方、オーブではこの戦争にどう対峙するかが話し合われていたが、連合側の諸国と同盟を結ぶことが決定される。代表のカガリは中立派だったが、決定を覆すことはできなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
こうして旧・三隻同盟のメンバーのうち政治力を持った2人、アスランはラクスから離れ、カガリはその影響力をほぼ失った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== ラクス暗殺未遂事件 ====&lt;br /&gt;
影武者を使い出したことでラクスの存在が邪魔になったデュランダルは、彼女に暗殺部隊（コーディネーター）を差し向けるが、ラクスらはなんとかこれを撃退。しかしMSまで使った戦闘になったためにラクスたちがオーブに居住が公になってしまう。ラクスは隠しておいた戦艦アークエンジェルに乗りこみ、カガリをさらいつつオーブを脱出した。アークエンジェルはこの2年のうちに潜水可能なように改造されており、これを利用して海中に潜伏した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
以降、ラクスらはスカンジナビア王国の保護を受けながら、各地でザフトと連合軍の戦闘に介入しつつ、プロパガンダ放送を行った。ラクスは密かにアスラン・ザラと接触。暗殺されそうになった事を知らせた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 宇宙へ ====&lt;br /&gt;
予断を許さぬ状況の中、ラクスはプラントの情勢を探る必要性を感じ、宇宙へと上がる。その方法は影武者が使用する予定だったシャトルをジャックするという大胆なものであった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一方、ラクス暗殺失敗とアークエンジェルの軍事介入に業を煮やしたザフトは、アークエンジェルを標的にした「エンジェルダウン作戦」を発動。東ヨーロッパにいたアークエンジェルはザフト軍から攻撃を受ける。アークエンジェルは降伏勧告を受けるも、これを拒否。結果、フリーダムを撃墜されるという痛い損害を受けるが、辛くも撤退する。その後はオーブへと向かう。なお、この作戦とフリーダム撃墜を知ったアスラン・ザラはMSグフを奪ってザフト軍を脱走。追跡者によって撃墜されたところを、アークエンジェルのクルーが密かに収容した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
宇宙へ上がったラクスは、前大戦時にザフト軍から奪取し、秘匿していた高速戦艦エターナルを拠点として活動する。ラクスは「ファクトリー」「ターミナル」といったクライン派関連組織の協力の元にMS[[フリーダムガンダム#ストライクフリーダムガンダム|ストライクフリーダム]]などのMS開発を指揮。また、入手する情報から、デュランダルが新しい世界秩序を構築しようとしているのではないかと考えるに至る。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
後にザフト軍のオペレーション・フューリーによって戦場となったオーブに[[ジャスティスガンダム#インフィニットジャスティスガンダム|インフィニットジャスティス]]に搭乗して降下し、オーブを支援。ザフト軍の撤退後、全世界に向けた放送において、ミーアはラクスを演じる偽者で、自分が真のラクス・クラインであること、デュランダルと軍産複合体の盟主ジブリールの考えには賛同出来ない事を表明した後、デュランダルの思惑を阻止することを目指し再び宇宙に上がる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その後ミーアと邂逅するが間もなく彼女の死に直面し、彼女の遺した日記からその純粋な歌への思いに涙した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ついにデュランダルはアルザッヘル基地に向けて大量破壊兵器レクイエムを使う、ラクスはデュランダルと戦う事を決意し、エターナルに乗りオーブ、ザフト軍及びクライン派による連合艦隊と共闘、終戦までその指揮を執り仲間たちと戦い抜き生存した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===最高評議会議長に===&lt;br /&gt;
[[ファイル:99.png|300px|thumb|プライベートで評議会への不満をぶちまけるラクス。&amp;lt;br /&amp;gt;彼女が人前で感情を露わにすることは珍しい]] &lt;br /&gt;
オーブの慰霊碑前でキラ・ヤマトと[[シン・アスカ]]の会話を横で見守る。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
メサイア陥落後オーブ、プラント両国間を仲介、停戦協議合意後プラント最高評議会の招聘を受けてプラントに戻り、[[イザーク・ジュール]]らと共に最高評議会議長としてプラント最高評議会に臨む。（50話の後ゴンドワナへの通信の後、字幕で議長と出ている。）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 備考 ==&lt;br /&gt;
活躍から「救国の歌姫」という英雄像が実際のラクス本人の姿から一人歩きしてしまっているとされ、ラクスのそのことの認識も描かれた。ほぼ完全に偶像崇拝と化しているために、終盤でステーションワンの防衛艦隊旗艦の艦長はアークエンジェルとエターナルをロゴスと断定した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 脚注 ==&lt;br /&gt;
&amp;lt;references/&amp;gt;&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Minagoroshida</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:99.png&amp;diff=185778</id>
		<title>ファイル:99.png</title>
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				<updated>2013-04-27T09:48:56Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Minagoroshida: これならいけるか&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;これならいけるか&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Minagoroshida</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:8756383.jpg&amp;diff=185777</id>
		<title>ファイル:8756383.jpg</title>
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				<updated>2013-04-27T09:42:17Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Minagoroshida: テスト&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;テスト&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Minagoroshida</name></author>	</entry>

	<entry>
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		<title>ファイル:ラクス激怒.jpg</title>
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				<updated>2013-04-27T09:21:33Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Minagoroshida: 「ファイル:ラクス激怒.jpg」の新しい版をアップロードしました: なんかアップできてないようなので&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Minagoroshida</name></author>	</entry>

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		<title>ファイル:ラクス激怒.jpg</title>
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				<updated>2013-04-26T15:36:50Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Minagoroshida: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Minagoroshida</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E3%81%94%E3%81%BF&amp;diff=185703</id>
		<title>ごみ</title>
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				<updated>2013-04-25T08:58:07Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Minagoroshida: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{Otheruses|[[普通|一般的]]な「ごみ」(廃棄物)|[[プログラミング (コンピュータ)|プログラミング]]の「ごみ」|ごみ (プログラミング)|[[サッカー選手]]の「ゴミ (Gomis)」|バフェタンビ・ゴミ}}&lt;br /&gt;
'''ごみ'''（ゴミ、芥、塵、埖、{{lang-en-short|refuse}}）は、役に立たなくなった不要なものをいう。「[[くず]]」や「[[かす]]」もほぼ同様である。最初から誰にとっても価値を生じない物体、たとえば路傍の石などは、ごみとはされない。誰かが、何らかの理由で一度は[[所有]]し、その後価値を失った物がごみとなる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ごみは、誰がその物体をごみと考えるかに依存した相対的な定義である。ある集団にとってはごみでも、別の集団にとっては宝の山という状況が存在する。そこに含まれているものに対して[[価値]]をいかに見出すかであり、そのために必要な労働力と賃金とも密接に関係している。そのため[[リサイクル]]や[[オークション]]、[[フリーマーケット]]などにより両者の接点を設ける事がごみの減量においては重要となる。たとえば日本では、昔から原材料から液体成分を抜き取った残留物をカスとして再活用している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ごみはその主体者が何に価値を見いだし所有したかを反映するため、その主体者に関する情報源となる。[[遺跡]]の一つ[[貝塚]]は古代の人間のごみ置き場であるとも言える。[[考古学]]上貝塚（≒ごみ）は古代人の生活様式などを知る上で多くの情報を持っている。現在でも[[産業スパイ]]活動、[[犯罪捜査]]、[[軍事]]、[[諜報活動]]などにおいて、企業、犯罪被疑者、敵対する軍隊などから出てくるごみは、大変重要な情報源であると言える。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
主に[[先進国]]の、特に都市部において大量に発生するごみとその処理の問題は年々深刻になっている。いわゆる“燃えないごみ”と“燃やせないごみ”（燃やすと[[ダイオキシン]]を発生するものなど）や、処理が技術的に難しかったり、単純に埋め立てるだけでは環境に悪影響を及ぼすようなごみが出現したことが状況を悪化させている。詳細は[[ごみ問題]]を参照のこと。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「[[くず]]」や「[[かす]]」とともに他人に言う悪口として、または揶揄語として使われることがある。「このゴミ人間が！」など。『[[侮蔑#価値が低いものに例える|侮蔑]]』も参照のこと。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ごみを「護美」と当てて書くこともある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 所有権 ==&lt;br /&gt;
所有権に関しては、ごみは[[無主物先占|無主物]]であると言う解釈と、廃棄物処理業者に譲渡するまで一時的に占有を離れているだけであり、無主物ではないと言う解釈がある。道端にポイ捨てされたタバコの吸殻や少量の落ち葉などは無主物として勝手に処分しても問題ないと考えられるが、排出元が特定されなおかつ大量に投棄されている場合にはその所有権が問題となる可能性がある。元所有者が所有権を放棄している場合、ごみ（動産）は無主物となるのが原則であるが、ごみを含む廃棄物については、所有権放棄の前提として元所有者が適正に廃棄物の処理を行う責務がある（[[廃棄物の処理及び清掃に関する法律]]第2条の3、16条）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
粗大ごみ置き場から利用できそうな家具などを勝手に持ち去る行為については[[無主物先占]]として所有権が取得できるとする解釈がある&amp;lt;ref&amp;gt;「民法第2部（物権･担保物権）授業レジュメ」松岡久和（京都大学大学院法学研究科）[http://www.matsuoka.law.kyoto-u.ac.jp/Lecture2009/Sachenrecht/03Ownership02.pdf]&amp;lt;/ref&amp;gt;が、所有者が所有権を放棄していないことを主張する場合には、物権の原始取得が否定される可能性がある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
業者以外の者が無断でごみを持ち去った場合、とくに新聞紙や古紙、空き缶やペットボトルなどの資源ごみ（有価物）を無断で回収してまわる行為は[[窃盗]]罪に問われる可能性がある。また産業廃棄物の不法投棄を強制除去する法理は[[廃棄物処理法]]違反による[[行政代執行]]であり、必要な経費は物件（ここでは産業廃棄物）所有者に後日請求されることとなる。このさい処理業者に物権が譲渡されている場合は処理業者が費用負担することになるが、物権所有者が処理業者に処理を委託しているだけで、物権そのものが移転していない場合は処理業者ではなく排出者がその責を負うことになる。沿岸部などに漂着した浮遊ごみについては、オイル流出事故や貨物船の難破など発生元が特定される場合は産業廃棄物として処理することになるが、渡洋ごみや漁具ごみなどは処置が難しく、一般には各自治体の条例（環境美化条例）にもとづいて処理されることになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== ネットのゴミ ==&lt;br /&gt;
*[[2ちゃんねる]]（運営者、書き込んでる連中の大半）。掲示板自体はあってもいいがそれを運営している人間と書き込む人間は抹殺対象&lt;br /&gt;
*[[ニコニコ動画]]（同上）&lt;br /&gt;
*[[ヤフー知恵袋]]（無知な知恵を意図的にばら撒いてるゴミ）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 脚注 ==&lt;br /&gt;
&amp;lt;references /&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
*[[ごみ箱]]&lt;br /&gt;
*[[ごみ問題]]&lt;br /&gt;
*[[ごみ屋敷]]&lt;br /&gt;
*[[ごみ持ち帰り運動]]&lt;br /&gt;
;ごみの処理&lt;br /&gt;
*[[清掃工場]]&lt;br /&gt;
*[[生ごみ処理機]]&lt;br /&gt;
*[[ディスポーザー]]&lt;br /&gt;
;ごみの種類&lt;br /&gt;
*[[漂流・漂着ごみ]]&lt;br /&gt;
*[[食品廃材]]&lt;br /&gt;
*[[スペースデブリ]]&lt;br /&gt;
*[[廃棄物]]&lt;br /&gt;
**[[一般廃棄物]]&lt;br /&gt;
**[[産業廃棄物]]&lt;br /&gt;
**[[放射性廃棄物]]&lt;br /&gt;
;ごみの利用&lt;br /&gt;
*[[ジャンク・アート]]&lt;br /&gt;
*[[廃棄物発電]]&lt;br /&gt;
{{Wikipedia/Ja}}&lt;br /&gt;
[[Category:廃棄物|こみ]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Minagoroshida</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E3%82%B4%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%83%8B%E3%82%BA%E3%83%A0%E5%AE%A3%E8%A8%80&amp;diff=185613</id>
		<title>ゴーマニズム宣言</title>
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				<updated>2013-04-21T15:55:53Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Minagoroshida: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{漫画}}&lt;br /&gt;
『'''ゴーマニズム宣言'''』（'''-せんげん'''）『'''新・ゴーマニズム宣言'''』『'''ゴー宣・暫'''』（'''ごーせん・しばらく'''）は[[小林よしのり]]の主張を伴った[[漫画]]である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ちなみに'''ゴーマニズム'''とは[[傲慢]]からの作者の造語で、自分の直感と常識を頼りにあえて傲慢をつらぬく、という意味が込められている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==概要==&lt;br /&gt;
世間における問題を指摘し、最後に「'''ごーまんかましてよかですか?'''」（1巻の一部の話では、この決め台詞は無い。）というキメ台詞とともに（『ゴー宣・暫』では、「暫く暫くくしばら～く～」と小林が、[[歌舞伎]]役者の姿になって）小林の主張を読者や社会にぶつける。漫画という表現で、また、読むものを圧倒するような強い絵で訴えるため、読者の共感や反感を得やすく、論議の的になっている。評論家からは「漫画で反論されては対抗出来ない、卑怯だ」とする意見は多い。反面、[[田原総一朗]]が「年配には漫画の方が読みにくいんだよね。」と語る通り、漫画を読みなれていない世代には、活字の方が分かりやすいとする人が多い。そもそも、作品の表現力や分かりやすさは、作家の技量によって大きく違うもので、それをメディアに責任転嫁することに小林は強く反発し、「漫画にすれば、言葉を最低限に削らないとならない部分もあり、活字の方が理論を追求出来る、有利な部分もある。他人に作画を頼んでいいから、漫画を作ってみればいい。わしは漫画でも活字でも戦える。」と語り、「知識人」による漫画というメディアへの批判には厳しく反撃する。とはいえ、漫画批判の「知識人」である[[西部邁]]に同調し、西部の主張に理解を示した経緯も存在する。その後、「反米という作法」で語られた内容によれば、小林を激怒させ、ハエ叩き描写を描くに至らせた、西部の'''「漫画は家系の恥」'''という発言は、誇張して伝えられていた部分があり、実際は、西部は調子が乗らない時'''「[[じゃりン子チエ]]」'''を読むなど、漫画の力はよく理解していたが、あくまで「電車の中で、人前で読むものではない」という主張をしていたに過ぎなかったようだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 変遷 ==&lt;br /&gt;
==== 「ゴー宣」誕生 ====&lt;br /&gt;
『[[月刊宝島]]』に『[[おこっちゃまくん]]』を連載、（しかし読者から反感を買うような内容が多かった為、数話で中止）。これを元に[[1992年]]『ゴーマニズム宣言』を[[扶桑社]]の[[SPA!]]で開始（1月22日号より）。社会に切り込む内容で反響を呼んだ。その後、漫画活動の軸足をこれへと移していく。連載初期には[[差別表現]]を巡っての出版業界の安易で軟弱な姿勢から来る[[自主規制]]に対して批判を加えていた。それが後に[[部落解放同盟]]の関係者との対談等につながり、そこから『ゴーマニズム宣言・差別論スペシャル』の題名での書き下ろし本への出版に繋がる。なおこの本の出版にあたっては書き下ろし漫画の表現を巡って小林側と部落解放同盟側と対立する一幕も見られた（両者は後に[[戦争責任]]論を巡って対立関係になる）。[[天皇家]]を巡る周囲の姿勢に対して「天皇家に真の自由と敬愛を!」と批判を加えた回は当初[[SPA!]]誌での掲載を拒否され、後に[[ガロ (雑誌)|ガロ]]で掲載された。その後、[[扶桑社]]から発行された単行本には収録されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
初期の「ゴー宣」は、エッセイのつもりで描いていたと語り、政治ネタなどが現在の「ゴー宣」に比べて少なく、プロレスや演歌歌手などの芸能ネタもかなり多く、思想と言うよりは、素人の一漫画家として「ごーまんにも意見を述べてみる」という感覚で描いている部分が強く、知識人をバカにし、返り討ちにする過激な内容に進むのは、旧ゴー宣後半からである。そして現在の立ち位置とは相反する主張もしている(特に「東南アジアを植民地支配から解放した」という主張について、「泥棒を追い払って、新しい泥棒として居座っただけじゃないのか？」と語っていた)。政治・思想に本格的に向かっていったのは、「新・ゴー宣」の薬害エイズ問題終焉から、従軍慰安婦問題や、戦争論に進んで行く過程である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== オウム真理教とそのシンパとの対立 ====&lt;br /&gt;
[[1989年]]に起きた[[坂本堤弁護士一家殺害事件]]では、漫画上で当初は名指しこそしなかったものの、[[オウム真理教]]を激しく追及。これに対しオウム真理教側は自らの存在を厳しく批判する小林の存在を恐れ、様々な口実を作って自らの施設へ単独で誘い込もうと図るが小林側の警戒心は強く、遂には[[VXガス]]による暗殺を試みる実力行使に出るが失敗に終わる。これは後にオウム真理教への司法の追及が進むうちに発覚した。 それすら「世界初暗殺されかかった漫画家」とネタにしつつ被害を訴えていた（第158章参照）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1995年]]、SPA!誌上でのオウム真理教擁護の動きに対し、[[つる師一彦|靍師一彦]]編集長や[[宅八郎]]、[[松沢呉一]]らと対立。オウムへの疑念と警戒を強める小林に対しSPA本誌は宅と上祐史浩とのインタビューを載せるなど雑誌内での両者の意見の乖離が原因である。ゴーマニズム宣言によれば、小林は靍師と電話で話し「もしあなたの家族がオウムに殺されても、オウムのインタビューを載せるか」と聞いたところ、靍師は「載せる。それがジャーナリズムだ」と答えたという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これによって小林は両者の関係の修復は不可能と判断し、同誌での連載を同年8月2日号をもって終了した。宅はこの頃から小林の圧力があったと主張するが、これに対して小林側は、『SPA!』での連載継続の意思を失ったと表明して間もなく、扶桑社の幹部から「どうすれば慰留して頂けますか?」と暗に宅や靍師らの更迭を示唆する申し出があったのを敢えて断ったとして否定している。『SPA!』での最終回では本誌への厳しい批判と他社での次回連載を告知するという異例の事態となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
だが後に靍師は自身が妻と編集するクレイジー・ヤンという同人誌で、彼の妻のワタナベコウに対して[[内田春菊]]が「靍師とは離婚したほうがいい」とアドバイスしたことに激怒し、内田を連載陣から降板させている。靍師の言葉を真に受けるなら、妻との離婚をアドバイスされても掲載するのがジャーナリズムのはず。なのにあっさり連載を打ち切りにしたあたりに靍師のダブルスタンダードが垣間見える。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また小林騒動の際にＳＰＡ！編集部で靍師の側に立った編集部員は35人中の３人のみ。いかに靍師に人望がなかったかがうかがえ、一概に小林のプレッシャーに対して出版社が屈したとは言いづらいものがある。靍師は間違いなく問題児であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それとほぼ同時期にその動きを察知して小林にオファーをかけた小学館『[[SAPIO]]』で同年9月27日号より『新・ゴーマニズム宣言』を開始する（その連載開始前に同社の週刊誌『[[週刊ポスト]]』でオウム事件の顛末を描いた予告編的な書き下ろしを2週に分けて掲載）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その後宅は扶桑社の意向などで小林批判を自粛させられるが、[[切通理作]]を批判するなかで誹謗中傷や自宅への嫌がらせ行為、プライバシー侵害行為を受けたと切通の抗議を受けて連載が打ち切られ、宅の行為を容認していたと同時に、連載中止に反対していた、靍師も編集長を解任された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
だが当時の靍師は扶桑社の社長を怒鳴りつける、つきあいの長いライターを殴る、脱糞した尻を妻に洗わせる、スカトロ趣味を文壇バーで公言する、内縁の妻と夫婦喧嘩したことを理由に午後まで出社拒否する、など奇行癖が目立つ状態であり、一概に小林とのトラブルのみが原因で解雇されたとは言いづらい。特にその酒乱ぶりは噂の真相の一行情報で報道されるほどであった。（詳しくは「新・ゴーマニズム宣言」の一巻の7章『80年代の生き残り・オウム的[[おたく]]の終鴈』、およびＫＫベストセラーズより出版された『しみじみしあわせ夫婦の素』を参照）この一件における宅や靍師一派の態度に憤慨した小林は『SPA!』連載分の単行本版権を扶桑社から引き上げ、[[双葉社]]に移した（後に出版された文庫版は[[幻冬舎]]から）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 薬害エイズ問題を巡って ====&lt;br /&gt;
この問題では旧「ゴー宣」時代に[[薬害エイズ事件]]を取り上げた事がきっかけで、一時期「[[HIV訴訟を支える会]]」代表に就任し精力的に活動する。小林は積極的に[[朝まで生テレビ]]などのTV番組へ出演し、問題の重要性を訴えた。自らのネームバリューを生かそうと考え、[[広告塔]]であることを積極的、能動的に捉えていた。本編においても支援集会の告知をし、ほぼ同時期に[[オウム真理教|オウム]]とのトラブルを抱えながらも画面露出は抑える事なくつづけていた。[[HIV薬害感染者]]として[[カミングアウト]]した[[川田龍平]]氏を全面的に肯定。[[厚生省]]、[[製薬会社]]、[[国]]に対して対抗する案を本編で提案していた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 「[[新・ゴーマニズム宣言]]スペシャル・脱正義論」 ===&lt;br /&gt;
原告団勝訴後小林は運動に協力した学生ボランティアが日常生活に戻らず、市民活動家（もしくは偏向した思想団体の成員）になる事を危惧し、『新－』において「'''ボランティアの役目は終わった。後はプロフェッショナルの仕事であり、君達はプロになるためにもっと勉強をするべきだ'''」と学生に日常への復帰を求める主張を発表した。その途端支える会を支援していた各思想団体より「ボランティアの役目は永遠に終わらない、二度と悲劇が起こらないよう行政をボランティアの目から監視すべきだ」と批判を受ける。&lt;br /&gt;
ボランティアたちは団体の側について小林を攻撃、両者は決裂した。小林は引責と学生達に範を示すために代表を辞任する（実際は解任同然であった）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この一件以後一部の小林支持者と対立する局面がしばしば発生する事になる。HIV訴訟の代表[[川田龍平]]氏に原告団が[[民青]]などの[[左翼]]活動家に利用されていることを小林が問うと川田龍平氏は「'''知ってますよ'''」と答えた。小林にはそれが自分に対する悪意を見せたかのように感じられ、愕然としたという（P78参照）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この時期はまだ[[組織]]の恐怖を訴えるのみで、むしろ「私の連帯」を主張していたが、このシリーズ以降小林の方向性は弱者連合から弱者権力批判へ、個の連帯から公へと移行した。HIV訴訟を支える会の左翼体質への反発が原因とも関係者は言う。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「脱正義論」の中で[[西部邁]]が小林よしのりに接近する様が描かれている。西部邁が小林の事を心配して[[朝まで生テレビ]]の収録後に声を掛けたと小林は理解しているようだが、本心は西部自身しかわからない。だがこの[[対話]]が運動から離れるきっかけとなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
旧作第159章「[[帝京大学|帝京大]]・[[安部英]]と[[厚生省]]の[[倫理]]を問う」では、事務所に訪れた支える会の４人のメンバーを紹介する場面に名前、在籍する大学、趣味などが書かれてあったが「脱正義論」では在籍大学が削除されていた。作中の批判による私生活への影響を配慮してのことと思われるが、後の文庫版は単行本のままであった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
冒頭では、大学時代に、「学生活動やりかけたことがある」と描かれている。このエピソードは「ゴーマニズム宣言2巻・49章「絶対個の彼方へ」」に詳しく、すでに学生運動は下火となっていたが、'''「レーニンマン」'''とされる、左翼系のバイブル（レーニン、毛沢東、マルクスなど）を読み込んでいる男に影響され、学生運動に参加。「わけのわからんことをほざきながら、ヘルメットにタオルという、ダサい格好だけは拒否していた」と語る。結局、宗教の勧誘の方が人数を増やしている状況、運動自体が目的化し、遊んでいるような物だと感じ、社会に出て漫画家になるための勉強を選び、参加する事を辞める。漫画家になった数年後、'''「レーニンマン」'''と偶然、街で出会い、「中小企業で、ガンガン戦っている」と語る彼に、最初は呆れ半分に感心するが、資本主義を揺るがすような漫画を描くことを求められ、「個を潰して、社会のために働く気は無い」と、社会主義を明確に否定し、立ち去った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「14章問題」と言われる、'''「学生は運動をやめて日常に復帰せよ！」'''と、運動家に乗っ取られた薬害エイズ運動を批判した小林を、ボランティア、弁護士らは激しく抗議し、団体の広報誌では、小林よしのり批判の方が薬害エイズ批判よりも多くなってしまう状態となったが、読者からは驚きと好意的な反応が帰っていた。小林はこの後、読者には「良き観客でいろ」と言い、その後の様々な活動でも、読者に一定の距離を保つことを求め続け、現在に至っている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 歴史教科書問題を巡って ===&lt;br /&gt;
『[[新・ゴーマニズム宣言]]』において[[従軍慰安婦]]問題への疑問を発表した。それをきっかけに左派や人権派の激しい批判を受ける。その一方で[[自虐史観]]に対して憂えていた人達からは熱狂的支持を受ける。なお小林の反権力的意見に共感していた読者は、これを機会に離れていった。小林は後に「慰安婦問題や戦争論で左の読者が離れ、保守を批判した事で右も離れた。商売としては美味しくない。でも、わしは自分の正義を貫くだけだから。」と、本日の雑談で語る。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
『新－』以降は、ほぼ[[林房雄]]の[[大東亜戦争肯定論]]などを下敷きとした形で進む。その流れから'''[[新しい歴史教科書をつくる会]]'''に参加。当初のつくる会は、[[藤岡信勝]]の[[司馬史観]]（日露までの日本は良かった。昭和に入り、敗戦までの日本は暗黒の時代だった）で進んでいて、大東亜戦争肯定論を語る知識人を呼ばない戦略を立てていた。そして[[渡部昇一]]、[[中村粲]]、[[小堀桂一郎]]ら、[[右翼]]のレッテルを貼られている人間を外した。しかし小林は「戦争論」執筆の際、[[渡部昇一]]、[[中村粲]]に会い、[[名越二荒之助]]の本も読み、著書や意見を参考にし、[[司馬史観]]を飛び越え、[[大東亜戦争肯定論]]を描いた。そして、戦争論がヒットした事で、つくる会がそれに追従する形となる。自らも教科書の内容を執筆し、漫画でも克明に作業ややりとりについて記した。しかし会の運営や理論姿勢等について内部で行き違いが発生、小林は一部支持者の親米主義に批判的態度を強めて行き、遂には脱会する。小林脱会後のつくる会では大東亜戦争に批判的な意見も少なからず挙がっており、小林はそのことをとらえて、脱会後の会を「[[ポチ保守]]」として攻撃している。（参考文献　わしズムVol.7）&lt;br /&gt;
&amp;lt;!---つくる会が宗教団体「[[キリストの幕屋]]」と密接な関係にありその活動が宗教活動に及びだした、と言う説に関しては確固たるソースをお願いします---&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 『新ゴーマニズム宣言スペシャル・戦争論』シリーズ===&lt;br /&gt;
『'''[[新・ゴーマニズム宣言SPECIAL 戦争論]]'''』において、元日本兵の弁護のため、小林は[[大東亜戦争]]における日本の軍事行動を自存自衛として肯定、[[大東亜共栄圏]]を意義を肯定、[[南京大虐殺]]についても否定論を展開して論争を巻き起こした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
つづく『'''戦争論2'''』では[[アメリカ同時多発テロ事件|同時多発テロ]]を非難するならばアメリカの空爆も非難されるべきだと問題提起。それまで小林の言動を支持していた[[親米保守]]派の中から、一転批判に転じる者もあった。小林も親米保守派を[[ポチ保守]]と批判し、これ以降「[[真正保守]]」の立場から[[反米]]の立場を取る。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[イラク戦争]]後に発売された『'''戦争論3'''』では、さらに反米色を強め、[[アングロサクソン]]の歴史的残虐性を指摘。日本とアメリカの対決は運命であったと主張。戦争論シリーズはこの3をもって完結。&lt;br /&gt;
[[イラク戦争]]に関しては、アメリカ追従の言論人を批判し、独立自尊の精神を持てと主張している。それにより親米派が大半である保守系右派の言論人と袂を分かち、手厳しく批判している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 『新ゴーマニズム宣言スペシャル・台湾論』===&lt;br /&gt;
前台湾総統[[李登輝]]の招きによる台湾訪問を一部始終『新－』本編に描き、その後現総統[[陳水扁]]らとの対談、書き下ろしなどを加えて『'''新ゴーマニズム宣言スペシャル・台湾論'''』として出版した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
日本統治・支配を完全に肯定してはいない。日本人に比べ、台湾人が第二国民として差別されていたのを認めている。だが[[外省人]]よりは[[日本軍]]の方が紳士的であったとし、戦前はどちらかと言えば反日だった者が、戦後の国民党支配の過酷さに親日に転じた例も少なくないと言う。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
本書は[[台湾]]においても出版された。日本統治時代の体験を持つ[[本省人]]を主とした年配者層には好意的に受け止められたとされるが、[[外省人]]からは強く批判され、[[2001年]]には、小林の台湾入国禁止処分にまで及んだ（しかしその処分は台湾国内から猛反発を受け、[[陳水扁]]総統や[[中華民国]]総統府国策顧問[[金美齢]]らの抗議声明にまで発展。小林の入境禁止処分は約20日間で解かれた）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 『新ゴーマニズム宣言スペシャル・沖縄論』 ===&lt;br /&gt;
　[[2005年]]6月に刊行した本書では[[沖縄]][[米軍基地]]問題を描き、[[沖縄]]に関心を持とうとしない本土の人間の無関心さを批判した。「左翼勢力が強い」[[沖縄]]では、作家・[[目取真俊]]など、小林の見方を批判する評論が多いが、「自称保守派に対しても、手厳しく批判の姿勢を緩めない」小林の主張に共感を寄せる県民も、少なからずいるようで、本土での売り上げは、同時期に発売された『新ゴーマニズム宣言スペシャル・靖国論』に及ばなかったが、[[沖縄]]ではベストセラーとなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*日本沖縄同祖論が[[DNA鑑定]]により、立証されたと主張。&lt;br /&gt;
*日本古来の[[神道]]が純粋な形で現在もまだ残存していると主張。&lt;br /&gt;
*[[按司]]を中心とした[[古代]][[琉球]]の成立過程を詳細に示し、古代沖縄が独立国家であったことを小林は強意する。&lt;br /&gt;
*[[元]]崩壊後の[[尚王朝]]成立過程を詳らかにする（一時期沖縄＝琉球は元支配下にあったらしい）。&lt;br /&gt;
*[[江戸幕府]]の支持、認可を得て沖縄を公認に支配したとするが、実際は認められたのは、[[奄美諸島]]までであり、それ以南の支配は隠匿されていた。[[幕府]]禁制の[[密貿易]]を島津が貪るためである。独立国を江戸幕府に偽るために[[朝鮮通信使]]を模倣した[[琉球通信使]]を敢えて中国風に装させ、[[将軍]]代替わりの度に[[江戸]]へ下向させた。&lt;br /&gt;
*大戦中[[沖縄戦]]での多大な死傷者の上に現代の日本の繁栄があると、沖縄へ同情を寄せているが、集団自決の強制論には否定的であり、自主的であったと主張。&lt;br /&gt;
*しかし、2006年のわしズム秋号において、日本軍が沖縄の住民を壕から追い出した事例はあったと語り、「自分の命を第一にし、住民を見殺しにした兵隊は兵隊ではない」と、その時の日本軍にも批判を向けた。&lt;br /&gt;
*[[アメリカ|米国]]の占領統治は見せ掛けの[[民主主義]]であり、沖縄支配は[[イラク]]、[[アフガニスタン]]などへの先鞭であったと主張。&lt;br /&gt;
*実際土地の強制収用が、[[米軍]]により予告なくなされ、農地を県民は奪われた。基地問題の端緒はそこにあるという。&lt;br /&gt;
*[[サンフランシスコ平和条約]]([[1951年]])により、'''沖縄'''は、日本から見捨てられたと、小林は怒りを露にする。&lt;br /&gt;
*サンフランシスコ平和条約以後も、[[軍政]]から、民政に移管されたが、高等弁務官による米国支配であり、見せ掛けの民主主義、[[自治政府]]であると主張。&lt;br /&gt;
*沖縄の呼称をやめさせ、琉球を奨励したのは[[マッカーサー]]将軍であるとする。沖縄独立による米軍統治存続を望んでいたのではと推測。&lt;br /&gt;
*米軍による今でも続くレイプ、犯罪を激しく責める。&lt;br /&gt;
*[[コザ騒動]]を紹介。&lt;br /&gt;
*いま尚残存する基地問題を[[本土]]も含めた問題であると主張。&lt;br /&gt;
*最終章において祖国防衛戦争は肯定するが、[[侵略戦争]]は徹底批判している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*2005年8月14日、[[宜野湾市]]の[[沖縄コンベンションセンター]]で、[[小林よしのり]]の[[沖縄論講演会]]が開かれたが、[[那覇市]]では、同時刻に[[石川元平]]（普天間基地爆音訴訟原告）、[[目取真俊]]（小説家）、[[安里英子]]（ライター）。コーディネーターに、[[沖縄大学]]助教授の[[屋嘉比収]]を迎え、[[日本の潮流と沖縄の戦後六十年]]というシンポジウムが開かれ、'''「小林氏の主張は見極めないとならない」'''と、明確に対抗意識を表明されるが、沖縄論講演会は'''1200人'''が参加、日本の潮流と沖縄の戦後六十年は'''100人'''と、明暗が分かれた。講演では、現在の沖縄の[[同調圧力]]の強さ、[[中国共産党]]による、[[チベット]]への侵略、[[台湾]]への[[恫喝]]などを語り、'''「自国内で平和平和と言ってて、それで平和が来ますか？」'''と問いかけた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 『新ゴーマニズム宣言スペシャル・靖国論』 ===&lt;br /&gt;
[[2005年]]8月にこれまでの[[靖国神社]]に関する章をまとめ、書き下ろしを加えて出版。戦後60周年の首相公式参拝をめぐる議論に加わった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*[[中曽根康弘]]の簡略化参拝を批判。儀礼への侮蔑と小林は言い、それを咎めた[[松平永芳]]を毅然とした立派な存在と描いている。&lt;br /&gt;
*[[天皇親拝]]が廃された理由を[[三木武夫]]の[[私人参拝]]発言としている。&lt;br /&gt;
*戦死者を犠牲者と見なしている小泉首相の参拝姿勢に対しては「国難に立ち向かった戦死者を奉る靖国神社の存在意義を冒涜している」と批判。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 『本日の雑談』シリーズ===&lt;br /&gt;
ゴーマニズム宣言を通じて友好を深めた、知識人であり[[評論家]]、[[西部邁]]との対談本は数多く出版されている。本書は、西部邁の「僕の文章は、論理的過ぎて分かりにくいと言われる」ため、「大胆で、雑談相手である小林さんが、相手をしてくれればなあ」と提案され、ゴー宣の発刊ペースでは時事を追いきれない[[小林よしのり]]も同意、[[2004年]]4月より約3カ月おきのペースで対談本シリーズとして刊行した。これは政治や経済からスポーツや芸能にいたるまでの幅広い時事問題を2人が雑談形式でざっくばらんに話したものである。2005年11月刊行の第8巻で終了（第9巻からは第Ⅱ期として、[[西部邁]]と、[[漫画家]]･[[弘兼憲史]]の対談となった）。これは一部で噂されている小林と西部の反目が原因ではないか、との憶測も飛び交っている。なお[[西部邁]]は、本日の雑談10巻で、「[[小林よしのり]]さんと'''付き合いがあった頃'''にも思ったけど、漫画の世界は非常に嫉妬とかをしない、男らしい世界なんでしょうね」という言葉を発している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 番外編シリーズについて ===&lt;br /&gt;
*旧ゴー宣時代に当時の政治家や有名人との対談を漫画形式で描いた番外編を掲載。勝新太郎との分に関しては後の新ゴー宣単行本に掲載。&lt;br /&gt;
*『[[噂の眞相]]』と対決姿勢をとっていた頃、同誌に連載を持っていながらも小林に対しては同情的であった[[本多勝一]]が編集委員を務める『[[週刊金曜日]]』に「よしりん仮面」と題して短期連載。日本の左翼の中でも過激な者が多い読者層だけあって抗議も殺到。後に本多とは[[南京大虐殺]]を巡る主張や態度などから敵対する事になる。これらの作品は後に刊行された単行本に収録。&lt;br /&gt;
*『[[わしズム]]』へ掲載している番外編は「ゴーマニズム宣言EXTRA」の題名で掲載。同誌の特集等に合わせた内容の読み切り形式となっている事が多い。&lt;br /&gt;
*新ゴー宣に日本の寺社にまつわる話を取材を交えて描いたシリーズを掲載していたが、親米保守批判を優先させる為か、現在中断されている。但し、本編では今でも[[伊勢神宮]]や[[出雲大社]]、[[宗像大社]]など、日本の国柄を強く表している土地への取材を行って描いた回を時折掲載している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 小林の理論姿勢について ==&lt;br /&gt;
*「昔の自分は薄甘いサヨクであり、初期のゴー宣もそのスタンスから描いていたが、上記の件をきっかけに日本史等を改めて勉強し直して行くうちに自分の無知さを思い知らされて行き、次第に考えを改めて行くに至った」との趣旨の発言を作中で行っている。「サヨク」とは、小林によると、日本の伝統を破壊する者を指すと同時に資本主義を肯定しながらも人権と自由と反戦を叫ぶ者たちらしく、具体的には『[[朝日新聞]]』や、一部の[[市民団体]]辺りを指すらしい。&lt;br /&gt;
*実際、昔と今のゴー宣を比べると明らかに180度主張が異なる回があるが、この考えを改めるに至った経緯についても連載分や単行本向けの書き下ろし等で克明に説明している。&lt;br /&gt;
*その為か、安易に考えをコロコロ変える人間に対しては、たとえ意見は同じでも、その人間性に対して徹底的な軽蔑ぶりを見せ、逆に相反する意見の持ち主でも評価する所は評価する姿勢を見せる。その姿勢は個人的に親しい人間に対しても例外でなく、かつて対談して評価した事もある[[石原慎太郎]]の親米主義に対して最近では石原に対して批判的な姿勢を見せるほど、安易な馴れ合いを拒んでその相手との絶縁覚悟の主張を行う事も度々である。一方かつては批判の対象としていた西部とは再び接近している。&lt;br /&gt;
*[[従軍慰安婦]]問題がきっかけで左翼と人権団体への激しい批判を行う事がしばしであったが、その側の人間に日本の伝統文化を守ろうとする者が多い事実も認めており（日本では一部の過激派を除いて''真性の左翼思想''が完全には浸透していないが故の見方もある）、その破壊を加速させているアメリカニズムに肯定的な[[親米保守]]に対する批判を強める要因となっている。&lt;br /&gt;
*[[大東亜戦争]]に関しては、一貫して[[白人]]や[[中国人]]の残虐性を強調し、日本は[[八紘一宇]]の精神によって戦争を行ったと主張している。そして[[南京大虐殺]]など日本が行ったとされる虐殺事件を全面的に否定し、日本は[[植民地]]であった[[アジア]]諸国を独立させたと主張している。これに対して、保守派の中にも[[日本軍]]の物資不足、軍紀の荒廃、責任の所在の不明確さ、作戦能力の欠如、精神主義、私的制裁の横行などの問題点を無視して日本軍を美化したものだという批判がある。&lt;br /&gt;
*[[アメリカ同時多発テロ事件]]以降、[[反米]]姿勢を前面に押し出し（元々、[[湾岸戦争]]の時から、反米的な態度も少しはあったが。）、[[アメリカのアフガニスタン侵攻]]や[[イラク戦争]]に関連して[[ターリバーン]]政権や[[サッダーム・フセイン]]政権を擁護しアメリカを批判する主張を繰り返し、日本の外交政策についてもアメリカへの追従であると糾弾している。&lt;br /&gt;
*[[構造改革]]に対しても日本人の勤勉さや日本の伝統的な慣習を否定し、外資への[[売国]]行為として極めて批判的であり、昨今の社会的弱者切り捨てとも言える政策に対する警鐘を鳴らしている。とりわけ小泉政権下での「[[聖域なき構造改革]]」には、「アメリカとの心中」と断罪を下し、完全否定の姿勢をとっている。[[ライブドア]]をめぐる騒動の発生後には、一連の騒動の背景として小泉政権下の構造改革を挙げ、激しく攻撃しているが、当の小林が反対意見の根拠や具体的な対応策、さらには「反小泉改革」のための具体策が「旧来日本の保守」でしかないとする声もある。&lt;br /&gt;
*一方、小林が構造改革によって破壊されつつある伝統の一例として引き合いに出している[[終身雇用]]などの日本の雇用慣行は実際には戦時の国家総動員体制に端を発する慣行であるとする意見もあるが、小林は、江戸時代の制度がそのまま移行した、とする仮説を語り、アメリカにも終身雇用はあると語る。「小林は終身雇用の破壊が若年層の失業問題の原因であるように論じている」とする意見もあるが、終身雇用はかえって若年層の新規採用に負の影響を及ぼすという指摘もある。 &lt;br /&gt;
*アメリカのイスラム圏への民主化要求、GHQによる日本占領下での憲法制定、現代日本の社会的弱者の切捨て政策などを引き合いに出し、アメリカは[[自由主義]]や[[民主主義]]を強調し伝統を軽んじる点で[[左翼]]国家であると批判している。さらに、自由主義や民主主義を強調し伝統を軽んじる姿勢そのものを批判し、[[親米保守]]派もサヨクであると糾弾する。このことや、（後に述べる）[[古賀誠]]との関係や[[人権擁護法案]]・[[イラク日本人人質事件]]での小林の姿勢から、保守派の中には小林こそ反米左翼と変わりがなく、「自由主義や民主主義の価値観を軽んじる姿勢」とし[[共産主義]]と変わりがないのではないかという批判する者もいる。また、イラク戦争への反対、小泉改革への批判などの点で、左翼と奇しくも意見が一致している部分も多くなったが、小泉首相の8月15日参拝を全面的に評価し、戦争の評価や、左翼運動家の「生命至上主義」批判に、変化はない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*肯定的な人物（とりわけ小林よしのり自身）などはしっかりと精緻な美しさで描き、否定的な者に対して（たとえば小林に対する批判など）は醜く歪めて描く傾向にある。（場合によっては全面黒塗りにし、邪悪さを際立たせる）この手法については「マンガの表現の一つである」や「差別的に描いている」など賛否両論である。&amp;lt;!--「無私を[[道徳]]の柱にしながら、[[自己美化]]は完全に自己撞着である」との意見もある。←そもそも作中で、「自分自身はアメリカ的な強者になれるが、日本的を守るべく警告している」と断言している以上、公と私を無視した批判を置くのは読解力の低さを晒すだけでしょう。（Dash）--&amp;gt;だが、'''タイトルを見てわかるとおり自ら、作中では傲慢な人間と振舞っているのでそのような意見はしても馬耳東風だろう。'''小林自身は「自分以外の男は、相当ヘンに描くよ。でも女性は美を引き出して描く。それがゴー宣の原理だからね」と語り、女性に関しては、意見が対立していても表現が緩和される傾向があり、敵対時の香山リカ、江川紹子なども、それほど醜い顔にはならなかった。しかし男性には容赦なく、意見が共通している人間でも、大抵の場合、小林自身より美形には描かれない。同じ人物でも、その時の言論状況によって描き方が変化している。あくまで似顔絵は「作者の印象」であり、「意見主張マンガ」である故の表現と言えるだろう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*[[ノンフィクション]]では無いが、実在の人物で構成され、現実社会に意見を主張する内容のため、かつての『[[おぼっちゃまくん]]』、『[[東大一直線]]』、そして一般的な漫画のように、[[現実]]と一線を画した[[仮想世界]]を、[[架空]]の[[人物]]を通して描く[[フィクション]]、[[物語]]でもない。時折、小林は作中で「'''早く物語の世界に帰りたい！'''」と叫ぶ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*[[新しい歴史教科書をつくる会]]を脱会したとはいえ、[[大東亜戦争肯定論]]は依然として主張しており、むしろ大東亜戦争（太平洋戦争）をめぐる歴史認識に関しては、保守的と見られるいわゆる司馬史観に対しても[[自虐史観]]とし、「真の保守は反米保守である」と西部と共に主張していた。保守派と言われる人々の中にも[[秦郁彦]]や[[山本七平]]など、小林とは大きく異なる認識を持つ者は少なからず存在する。&lt;br /&gt;
*左翼（サヨク）の概念が曖昧であり、ただ自説に不利な資料を提供している者をサヨク呼ばわりしている面もある。また9.11以降は、小林言うところの'''親米ポチ保守'''もサヨクと変わらないと言うが、西部邁による所の「本来、フランスで生まれた革新派が左翼の原点と考えれば、自由と民主主義を掲げるアメリカは左翼国家であり、冷戦は左翼同士の対立であった」という説に従ったと思われる。&lt;br /&gt;
*一方、イラク戦争以降はアメリカやその指導原理であると、小林が認識する新自由主義を激しく攻撃する一方で、中国や韓国の反日については取り上げる回は減少しているが、それらに対しては依然として厳しく批判する姿勢を崩していない。自主防衛を主張するが、それは現実的でないという批判を親米保守派が行っている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*[[論]]と付いたスペシャル版に於いても、基本的には物語に近いため、果たしてこの言葉が適当か、という意見もある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==小林と著作権法==&lt;br /&gt;
*[[上杉聰]]が執筆した『脱ゴーマニズム宣言』の題名で出版された「ゴー宣」批判本で小林の絵を57点73コマ、大量「無断引用」したとして、小林は上杉を作中で批判するだけでなく、著作権法違反および不正競争行為として民事訴訟を起こした。小林によれば、自分自身への批判は問題ではなく、本編の内容である従軍慰安婦議論も、「一発で崩れるレベルの低い論」と評したが、自分の絵を許可無く使用された事を問題視して訴訟へ踏み切ったとの事である。   &lt;br /&gt;
:上杉は「脱ゴー宣」で引用した小林の絵の中で、『醜く描かれた人物をそのままで引用したのでは、引用した書物も[[名誉毀損]]になる可能性がある』としてそれらの人物描写の一部に墨塗りを行った。小林は墨塗りを改竄と批判したが、上杉は『これ以上自分自身を醜く描けば名誉毀損で訴える』と宣言。これに対して、小林は上杉を全てベタ塗りで描くようになった。   &lt;br /&gt;
:引用を巡る訴訟は一審は上杉のほぼ全面勝訴となった（但し、小林の主張によると、悪質で、一方的なこじつけ裁判だと言っている、この主張の詳細と裁判の詳しい様子は「新・ゴー宣」8巻参照のこと。）。二審では必要以上に改変された箇所があるとして一部小林の主張が認められたが、その他出版や引用自体の差し止めなどは棄却となり（墨塗りも止むを得ない改変であり、合法との判断）、まだまだ全体的に上杉の主張寄りの判決自体には少なからず不満を示すも『一応目的は果たした』と表明。その後、上杉のみ上告したが、棄却され判決が確定する。[http://www.courts.go.jp/hanrei/pdf/9080B34D1A37B16F49256A77000EC329.pdf]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:高裁判決後、上杉は小林に対して名誉毀損（作中で『ドロボー』呼ばわりされた事なども加えて）を理由に民事訴訟を起こしたが、二転三転の末に最高裁で小林勝訴が確定した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:判決は、「本件漫画（小林のゴーマニズム宣言）においては，被上告人（上杉）の主張を正確に引用した上で，本件採録の違法性の有無が裁判所において判断されるべき問題である旨を記載していること，他方，被上告人（上杉）は，上告人小林を被上告人著作中で厳しく批判しており，その中には，上告人小林をひぼうし，やゆするような表現が多数見られることなどの諸点に照らすと，上告人小林がした本件各表現は，被上告人著作中の被上告人（上杉）の意見に対する反論等として，意見ないし論評の域を逸脱したものということはできない。 」とあり、&amp;lt;!--上杉の「脱ゴーマニズム宣言」で、数多くの誹謗中傷が行われている事から、主張を正確に引用し、←判決文には「ひぼう」「やゆ」についての言及はあるが、中傷についての言及はない。誹謗中傷という表現は不適当。ちなみに、誹謗や揶揄はギャグ漫画の手法を用いる小林も以前から非常に多用しているものである。--&amp;gt;反論した小林の行為は、「論評の域を超えるものではない」とされ、小林勝訴となった&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.jca.apc.org/datu-gomanism/saikousaihanketu.html 最高裁判決文]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
::なお、旧ゴーマニズム宣言67章「自主規制というファシズム」（差別論にも収録）において、自主規制でセリフが変更された例として、[[カムイ外伝]]の2巻（作中ではタイトルのみ）の1コマを説明する際、カムイ外伝のタイトルのみしか示さず、要点のみに縮め描写した点、また、表現規制に関する議論で[[少年チャンピオン]]の漫画、[[覚悟のススメ]]（作中ではタイトル表記なし）の転載を行なった二件を挙げ、小林に著作権法上の問題があると指摘する声もある。この二点については、現在もそのまま文庫本に収録されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==小林の立場の変化==  &lt;br /&gt;
*『[[新・ゴーマニズム宣言SPECIAL 戦争論]]』で、[[大東亜戦争]]を肯定的に描いた小林だが、元々そうだったわけではなく、『ゴー宣』連載当時は、これを全否定する「サヨク」だったと語っている。初期の『ゴー宣』にもしばしばそういった言動が見受けられるが、最も鮮烈なのは、第81章「大それたことに戦争責任」（[[幻冬舎]]文庫『[[ゴーマニズム宣言]]』第4巻収録）である。徹底した大東亜戦争批判をしており、政府に向けて「謝罪くらいしておけ」と言うなど、現在では考えられない内容となっている。そのため、幻冬舎より発売された文庫版『ゴー宣』では、この章の始めと終わりに、当時の自身を反省する内容の簡単な描き下ろしを加えた。   &lt;br /&gt;
*相手との論戦において、非常に厳しい攻撃を漫画の絵で表現することが多い。ロフトブックス編『教科書が教えない小林よしのり』は、醜く描かれた側からの反論の一例である。『教科書が教えない小林よしのり』では、玄田生（[[山本夜羽音]]）による[[パロディ]]漫画「逆ゴーマニズム宣言」で、小林の手法をそっくりそのまま反転させた。   &lt;br /&gt;
:逆ゴーマニズム宣言では、小林は美男子ではなく、注射を打たれた病人として描かれ、とりわけの美女に小林には画かれている'''カナモリ'''女史は、玄田筆によると、眉だけの高慢の女として画かれる。…玄田氏に掛かると、新しい歴史教科書をつくる会の面々が「知的[[ルサンチマン]]」とされ、妖怪じみた物に描かれる。   &lt;br /&gt;
*かつて、[[柳美里]]との論戦において、小林は柳を裸の（女）王様のイラストで描いて批判する。これに対し、柳は小林を「言論猿」、「大して頭の良くない人」などと批判し泥仕合に発展。これが原因かどうかはともかく、[[神戸連続児童殺傷事件]]を巡って他の学者とも泥仕合を繰り広げた挙句、柳は言論界から距離を置く結果に。   &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*最近では親米保守派の言論人を猿に描き（[[西尾幹二]]等）、「ウキャー　民主主義ダー」などのセリフを語らせて批判。これに対してモデルとされる言論人等が月刊誌などで小林を激しく批判、またしても泥仕合になる。以後、小林は特定の人物達を先の上杉同様にベタ塗りで描くと宣言。そして、ベタ塗りの対象とされたのは[[西尾幹二]]と[[石井英夫]]だが、上杉側が名誉毀損の証拠として、両者の小林批判を、裁判所に提出したためであると、「新･ゴーマニズム宣言14巻」で明らかにしている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*[[衆議院議員]]で[[自由民主党 (日本)|自民党]]前幹事長の[[古賀誠]]を、「真の[[保守]]政治家」として支持。[[2003年]]刊行の『[[わしズム]]』Vol.5で対談を行なったのを皮切りに、[[シンポジウム]]や[[講演会]]などでたびたび席を共にしている。ちなみに、古賀は[[2005年]]の第162回通常国会で提出が断念された[[人権擁護法|人権擁護法案]]推進派の中心人物であったことから、「小林が人権擁護法案について言及しないのは、古賀に遠慮しているからだ」などと批判を受けた。但し、小林が編集長を務める『わしズム』でこの法案を厳しく批判した[[業田良家]]の漫画（「緊急提言 ゴーダは人権擁護法案に反対します!」『わしズム』Vol.15）が掲載されたことをもって同法案に否定的である、と小林を擁護する声があったほか、最近の『SAPIO』連載分の欄外コメントでは古賀の事は一定の評価を示しながらも同法には反対を表明し、そのことを偶然、同じ飛行機に乗り合わせた古賀にも伝えたと述べている（但し、その一方で『本日の雑談』のなかで、古賀が人権擁護法案にこだわるのは、自分の外面がいかにもダーティな印象を与えるので、[[死刑廃止]]にこだわる[[亀井静香]]と同様、こういう法案を推進していることでヒューマンな部分を強調したいのではないか、という趣旨で古賀を擁護するとも取れる発言をしている）。しかし、人権擁護法案の件にかぎらず、歴史観や思想面で真正保守とはいいがたく、「自民党内社民党員」と揶揄される古賀を「真の保守政治家」と絶賛し支持する小林の姿勢を疑問視する者も多い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*2004年に起こった[[イラク日本人人質事件]]に対してマスコミやネット等からの、当の人質となった人間や家族の言動に対する激しいバッシングが沸き起こった一件に対して、『わしズム』vol.11に掲載されたよしりん企画社員の[[時浦兼]]との対談において日本本来の国民性を損ねる行為であるとして厳しく批判し、その後、わしズム掲載分の対談に新たな語りおろしを加えた対談本『ゴー外!! 1』（[[アスコム]]刊）を緊急出版した。問題の人質関係者や左翼と呼ばれる（それを自称する）人間の主張にも批判も行いながらも一面理解を示すなど、思考の柔軟性を損ねて事の本質を見誤る危険性に対する警鐘を鳴らした。   &lt;br /&gt;
*『[[SAPIO]]』[[9月27日]]号（何年？）で、今までネットを激しく批判してきた立場を翻し、[[インターネット]]上のいわゆる「ネット保守（ネット右翼）」に共闘をもちかける。NHKの『日本の、これから』や、テレビ朝日の『サンデープロジェクト』などの番組で、サンフランシスコ講和条約・第11条を「諸判決」ではなく「裁判」と訳し、東京裁判史観を押し付けるマスコミの報道姿勢を批判し、「'''わしのゴー宣は、描き始めてから発表に3週間かかる。あえて批判してきたネット保守に共闘をもちかけたい。今後、同調圧力をかけるマスコミがいたら、直ちに批判してくれ！わしの力の限界を超えてくれ！'''」、と、「ネット保守」に共闘を呼びかけているが、それまでネットを厳しく批判していた小林の急激すぎる変化に、不信や疑問の声が上がっている。一方、「共通の敵」（主に日本のサヨク・中国・韓国の反日）と戦うと言う名目で、共闘に賛成する意見もある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;!---*一時期、よしりん企画に二人の女性アシスタントが入社したが、一方は実力不足を理由に解雇（『SAPIO』連載時には「へなへな祥ちゃん」と呼ばれていたが、後の単行本では「Sちゃん」に書き換えられた上に、彼女の描写がそっくり消されているコマが一部存在する）、もう一方の[[畠奈津子]]は[[自由主義史観]]者の父親の半ば強引な希望に会社側が応じる形で入社したが、憂国漫画以外の作品にも対応出来る事を要求する会社側との溝が大きかったせいか、一年半ほどで退社に。その後、前秘書の金森と入れ替わりに入社した現秘書の岸端以外に、新たに入退社したよしりん企画社員の存在は描かれていない。新たに宇都氏という手伝いの存在が描かれているが、現在、特にエピソードは描かれていない。---&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 書籍 ==&lt;br /&gt;
* ゴーマニズム宣言 全9巻 （[[幻冬舎]]文庫）&lt;br /&gt;
* 新・ゴーマニズム宣言 全15巻 （[[小学館]]）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*『ゴーマニズム宣言EXTRA 1』（2004年・幻冬舎） ISBN 4344006593 &lt;br /&gt;
*『ゴーマニズム宣言EXTRA 挑戦的平和論 上巻』（2005年・幻冬舎） ISBN 434401085X&lt;br /&gt;
*『ゴーマニズム宣言EXTRA 挑戦的平和論 下巻』（2005年・幻冬舎） ISBN 4344010868&lt;br /&gt;
*『ゴー外!! 1』（2004年・[[アスコム]]） ISBN 4776201887 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*『ゴーマニズム宣言 差別論スペシャル』&lt;br /&gt;
**（1995年・[[部落解放同盟|解放出版社]]） ISBN 4759260315／（1998年・幻冬舎文庫） ISBN 4877286225&lt;br /&gt;
*『新・ゴーマニズム宣言スペシャル 脱正義論』（1996年・幻冬舎） ISBN 4877281282&lt;br /&gt;
*『新・ゴーマニズム宣言SPECIAL 戦争論』（1998年・幻冬舎） ISBN 4877282432&lt;br /&gt;
*『新・ゴーマニズム宣言SPECIAL 「個と公」論』（2000年・幻冬舎） ISBN 4877289550&lt;br /&gt;
*『新・ゴーマニズム宣言SPECIAL 台湾論』（2000年・小学館） ISBN 409389051X&lt;br /&gt;
*『新・ゴーマニズム宣言SPECIAL 戦争論2』（2001年・幻冬舎） ISBN 4344001311&lt;br /&gt;
*『新・ゴーマニズム宣言SPECIAL 戦争論3』（2003年・幻冬舎） ISBN 434400356X&lt;br /&gt;
*『ゴーマニズム宣言SPECIAL よしりん戦記』（2003年・小学館） ISBN 4093890544&lt;br /&gt;
*『新・ゴーマニズム宣言SPECIAL 沖縄論』（2005年・小学館） ISBN 4093890552&lt;br /&gt;
*『新・ゴーマニズム宣言SPECIAL 靖国論』（2005年・幻冬舎） ISBN 434401023X&lt;br /&gt;
*『ゴ－宣SPECIAL いわゆるA級戦犯』（2006年・幻冬舎） ISBN 4344011910&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==脚注==&lt;br /&gt;
&amp;lt;references/&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==関連項目==&lt;br /&gt;
*[[SPA!]]&lt;br /&gt;
*[[SAPIO]]&lt;br /&gt;
*[[扶桑社]]&lt;br /&gt;
*[[小学館]]&lt;br /&gt;
*[[朝まで生テレビ]]&lt;br /&gt;
*[[幻冬舎]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Category:漫画作品 こ|おまにすむせんけん]]&lt;br /&gt;
[[Category:一般雑誌掲載漫画作品|こおまにすむせんけん]]&lt;br /&gt;
[[Category:ガロ|こおまにすむせんけん]]&lt;br /&gt;
[[category:新しい歴史教科書をつくる会|こおまにすむせんけん]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[en:Gomanism]]&lt;br /&gt;
*[[wiki:ゴーマニズム宣言]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Minagoroshida</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=Yourpedia:%E8%8D%92%E3%82%89%E3%81%97%E5%A0%B1%E5%91%8A%E3%83%BB%E6%8A%95%E7%A8%BF%E3%83%96%E3%83%AD%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%BB%E4%BF%9D%E8%AD%B7%E4%BE%9D%E9%A0%BC&amp;diff=185547</id>
		<title>Yourpedia:荒らし報告・投稿ブロック・保護依頼</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=Yourpedia:%E8%8D%92%E3%82%89%E3%81%97%E5%A0%B1%E5%91%8A%E3%83%BB%E6%8A%95%E7%A8%BF%E3%83%96%E3%83%AD%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%BB%E4%BF%9D%E8%AD%B7%E4%BE%9D%E9%A0%BC&amp;diff=185547"/>
				<updated>2013-04-19T13:35:56Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Minagoroshida: /* 東海大学ローバースカウト隊　のページの保護を依頼したいです */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{基本方針とガイドライン 簡易版‎}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 過去ログ ==&lt;br /&gt;
* [[Yourpedia:荒らし報告・投稿ブロック・保護依頼/過去ログ2007年5月]]&lt;br /&gt;
* [[Yourpedia:荒らし報告・投稿ブロック・保護依頼/過去ログ2007年7月 - 2008年5月]]&lt;br /&gt;
* [[Yourpedia:荒らし報告・投稿ブロック・保護依頼/過去ログ2008年5月 - 2009年3月]]&lt;br /&gt;
* [[Yourpedia:荒らし報告・投稿ブロック・保護依頼/過去ログ2009年5月 - 2011年8月]]&lt;br /&gt;
* [[Yourpedia:荒らし報告・投稿ブロック・保護依頼/過去ログ2011年9月 - 2012年9月]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 荒らし報告・投稿ブロック依頼 ==&lt;br /&gt;
== 投稿ブロック依頼/{{User|Fromm撲滅委員会}} ==&lt;br /&gt;
[http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E6%9D%BE%E8%91%89%E8%A3%95%E5%AD%90&amp;amp;curid=58155&amp;amp;diff=170266&amp;amp;oldid=170265 ここ]で、既に先編集権が主張されている記事を移動させ、新たに自ら先編集権を主張しました。--[[利用者:あんだあすろう|あんだあすろう]] 2012年9月28日 (金) 05:57 (UTC)&lt;br /&gt;
いや、こいつに限らず、自分以外の「○○撲滅委員会」は、「不適切な名前」として、無期ブロックしてやってもいいんじゃないか?--[[利用者:スパイ撲滅委員会|スパイ撲滅委員会]] 2012年9月29日 (土) 14:05 (UTC)&lt;br /&gt;
: いや、ブロックするなら{{User|スパイ撲滅委員会}}さんを含めて全ての「○○撲滅委員会」をブロックするべきでしょう。あまりにも挑発的な利用者名です。スパイ撲滅委員会さんはもっと適切な名前で活動を続けて下さい。--[[利用者:ウーソキカス|ウーソキカス]] 2012年10月9日 (火) 06:22 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== {{User2|Kawakita}}の投稿ブロック依頼 ==&lt;br /&gt;
すでに警告、宣言したとおり、この人物を含め名誉毀損で兵庫県警に刑事告訴しました。岡部健関連の執拗な違法な公開および、写真画像の肖像権、著作権侵害。--[[利用者:Kenokabe|Kenokabe]] 2012年9月30日 (日) 08:58 (UTC)&lt;br /&gt;
: その割には誰も逮捕・起訴されていませんが?--[[利用者:ウーソキカス|ウーソキカス]] 2012年10月9日 (火) 06:22 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== {{User2|松葉裕子}}氏の投稿ブロック依頼 ==&lt;br /&gt;
「自分のサブアカウント」などという即座に露呈する虚偽記述をし、他人の利用者ページを編集した為。編集されたのは私の利用者ページです。管理者を騙す非常に悪質な手口です。ーー[[利用者:Nodakenta|Nodakenta]] 2012年10月24日 (水) 20:37 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* Nodakentaさん、あなたこそ[[Yourpedia の利用者]]における[http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=Yourpedia_%E3%81%AE%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85&amp;amp;action=historysubmit&amp;amp;diff=170249&amp;amp;oldid=170246 この編集]で私の事を「松葉裕子のソックパペット」等という「即座に露呈する虚偽記述」をしていますね。松葉裕子さんがNodakentaさんを「自分のサブアカウント」と決め付けるのはNodakentaさんが私を松葉さんの靴下と決め付けるのと全く同じ態度です。という事は、Nodakentaさんにとっては松葉さんの行為に苦痛を感じてる、という事ですね!!!!　自分を悪く書かれると、どういう気分になるか、痛いほど判った筈です。あなたが松葉さんの編集を「管理者を騙す非常に悪質な手口」として松葉さんの投稿ブロックを求めるなら私もNodakentaさんの編集は「管理者を騙す非常に悪質な手口」と考えられるのであなたの投稿ブロックを要求します。--[[利用者:ウーソキカス|ウーソキカス]] 2012年10月24日 (水) 14:50 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== {{User2|Mikomaid}}氏の投稿ブロック依頼 ==&lt;br /&gt;
{{User2|Mikomaid}}氏は[[利用者・トーク:Sysop]]の[http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%E3%83%BB%E3%83%88%E3%83%BC%E3%82%AF:Sysop&amp;amp;diff=prev&amp;amp;oldid=172501 この書き込み]において、「Sysop様に恨みを持ち、削除依頼が通らないのであれば策を弄してでもYPを潰そうと思ってるのは'''私だけではない'''」や「現在、私は、YPの動作を少々重くする為の工作を行っております」と明記。Mikomaid氏は[[Yourpedia:投稿ブロック（アクセス制限）についての方針]]の「Yourpediaに対する攻撃行為」を行っていることを認めています。--[[利用者:織田信長|織田信長]] 2012年11月18日 (日) 02:41 (UTC)&lt;br /&gt;
:それは{{User2|アイザール}}が私に対する誹謗中傷・個人攻撃をやめず、Sysop様も、'''4年間以上の再三に亘る削除依頼等'''に応じてくれない事から、私に対する誤解が広まる事を阻止する為に最終手段としてやむを得ず行ってるものであり、私の要求を受け入れて下されば工作を取りやめる事を約束します。只、同様の工作をしてる者は私だけではない、という事も頭に入れておいて下さい。もし、織田様が誹謗中傷され、個人情報がYPにさらされた(而も織田様が貧乏・貧困の)場合、どうされるお積もりでしょうか？私と{{User2|アイザール}}の、どちらが狂暴・狡猾・陰湿か、という事を公平公正に審査頂ければ、ブロックされるべきは、どちらか、という事がお判り頂ける筈です。そもそも、いじめをやめてくれない、先生や学校も教育委員会もいじめをやめさせてくれない、窮地に追い込まれた、じゃあ、どうすれば良いか、'''学校そのものを無くしてしまえば良い'''、と考えた事がある人も少なくない筈です。それと同じです。何れにしろ、'''この様な依頼は却下されるべき'''です。[[利用者:Mikomaid|Mikomaid]] 2012年11月18日 (日) 10:53 (UTC)&lt;br /&gt;
::己の利益の為なら「やむを得ず」法律、規則を破ってもかまわないとMikomaid氏の主張は社会常識を逸脱した主張です。これまでのMikomaid氏の主張はユアペディアの方針に則ったものではなく、論理性もない主張であることで管理者から却下されたものです。事実でないなら事実でないとの具体的な反証を証拠を以て示さず、只、事実でないと主張するだけに留まることで管理者から見限られているものです。ユアペディアの編集方針を理解できないのであれば、ユアペディアの編集から撤退し、自身でwikiサイトでも創設して、そこで編集活動をするべきでしょう。ITの知識だけはあると主張するMikomaid氏が、それが出来ないのが不思議でなりません。ユアペディアに対する攻撃行為は他編集者への迷惑行為に他なりません。ウィキペディアで無期限ブロックとなった事実に加え、その後の本人に反省と復帰の意思の表示もみられないことから、自身の編集姿勢は改める姿勢はないと判断せざるを得ません。ユアペディアでもコミュニティを疲弊させる人物として無期限ブロックが相当かと思われます。--[[利用者:大野慶吾|大野慶吾]] 2012年11月23日 (金) 02:23 (UTC)&lt;br /&gt;
:::{{User2|大野慶吾}}(={{User2|アイザール}}?)の方こそ、YPのルールさえ守れば他者の人権を平気で踏みにじる事が出来る社会常識を逸脱した陰湿・冷酷・狂暴なゾンビ・キョンシー・魔獣であり、上記は私に対する誹謗中傷を正当化・合理化したいが為の詭弁・言い訳に過ぎません。私のこれまでの主張は以前にも書かせて頂いた通りであり、'''依頼内容に不備や疑問点がある、と言うのであれば、その点に就いて質問すれば済む事'''、却下するなら「却下する」の一言を書けば済む事であって、無視しておいて筋が通る、と思ったら大間違いです。4年以上に亙って削除依頼のメール等を100回以上出し、警察や無断転載元の権利者、著作権関係の団体等にも通報を重ね、合法的で金が掛からない手段を、ほぼ尽くした、その上での、最終行動です。他にも合法的で金が掛からない方法が有る、と言うのなら公平・公正で良心的な方のアドバイスをお願いします。私の主張を御覧頂く為に現在工作はお休みしておりますが、私に関する項目の加筆が再開された場合には工作を再開します。その場合、少々重くなる程度、では済まない可能性がある事を覚悟して下さい。そもそもYPには私関連以外にも数多くの誹謗中傷項目、著作権侵害(フリーでない画像の無断転載、等)、等があり、このような違法状態を放置するサイトが正当性を主張するという事自体、筋が通る、とでも思ってるのでしょうか？その事は、私が工作を休んでる間にも少々重くなる、という事が雄弁に物語っております。[[利用者:Mikomaid|Mikomaid]] 2012年11月23日 (金) 11:44 (UTC)&lt;br /&gt;
:::この依頼が通って私がブロックされた場合、「YP=悪魔の百科事典」という事を管理者が自ら認める事になる筈です。もし、「YP≠悪魔の百科事典」とされたいなら、私の主張にも耳を傾けて頂きたいものです。他編集者の中にも「YPが無くなれば良い」と考える者は少なくない、という事を頭の中に、よ～～～～く叩き込んでおいて下さい。[[利用者:Mikomaid|Mikomaid]] 2012年11月23日 (金) 11:44 (UTC)&lt;br /&gt;
::::警察や無断転載元の権利者、著作権関係の団体等にも通報を重ねても、公的機関や関係者から相手にもされなかったことは如何にMikomaid氏の主張が矛盾に満ちたものであるかの証明に他なりません。そのことに気付かないMikomaid氏とは、これ以上の対話不可能と思われます。今後は、更に感情的になり、ユアペディアの破壊工作に拍車がかかる懸念もあり、早急な無期限投稿ブロック処分を行わなければユアペディアの崩壊につながる可能性があると思います。--[[利用者:大野慶吾|大野慶吾]] 2012年11月23日 (金) 14:08 (UTC)&lt;br /&gt;
:::::{{User2|大野慶吾}}(={{User2|アイザール}}?)(&amp;amp;Sysop氏)の方こそ誹謗中傷項目を1000回以上・300KB以上編集する、という常軌を逸した人物で対話不可能であり、こちらこそブロックされるべきです。私が行ってる工作はYPにアクセス可能である事を利用して行ってるものであり、私がブロックされたとしても工作の手を緩める事は有りません。そもそも私がYPに来るのは編集目的ではなく、私に対する誹謗中傷をやめさせる事であり、それが実現するまで工作を止める積もりは有りません。その代わり、もし、私の要求を通して頂けるなら、それ以降、一切の工作を行わない事を約束します。尚、この様な応酬は過去にも{{User2|YANCHARIKA}}・{{User2|アイザール}}名義でも行われており、その事からも相手の執念深さが伺えます。[[利用者:Mikomaid|Mikomaid]] 2012年11月24日 (土) 12:04 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== {{User2|アイザール}}その他の投稿ブロック依頼 ==&lt;br /&gt;
以下のユーザー(これらは{{User2|アイザール}}(ブロック期間終了)と同一人物の可能性が高い)は極めて凶暴・陰湿・狡猾で私に対する悪意しか持っておらず、著作権侵害やプライバシー抵触、SPAM、編集合戦、等を行う一方で建設的編集を行う意志が全く無く、話し合いによる解決も不可能な事から、無期限ブロックもお願いします。[[利用者:Mikomaid|Mikomaid]] 2012年11月18日 (日) 10:53 (UTC)&lt;br /&gt;
*{{User2|アイザール}}～～ブロック明け後直ちに編集再開&lt;br /&gt;
*{{User2|Jesudonbay}}&lt;br /&gt;
*{{User2|Mizusumashi}}～～{{User2|アイザール}}のブロック破り？&lt;br /&gt;
*{{User2|Polaris}}&lt;br /&gt;
*{{User2|YANCHARIKA}}先編集権違反&lt;br /&gt;
*{{User2|海燕}}&lt;br /&gt;
*{{User2|大野晋吾}}～～{{User2|アイザール}}のブロック破り？&lt;br /&gt;
*{{User2|大野慶吾}}&lt;br /&gt;
*{{User2|大野晴江}}&lt;br /&gt;
*{{User2|大野将希}}&lt;br /&gt;
*{{User2|大野久美子}}～～{{User2|アイザール}}のブロック破り？&lt;br /&gt;
*{{User2|富岡市民}}著作権侵害(無断転載)&lt;br /&gt;
:上記の内、「大野※※」は私と同地域の人物(私とは別人)、及び、その家族と見られる、等、実在の人物名の可能性がありますが、これらのアカウントでも「悪意の編集」が行われてる事から私だけではなく、「混同の対象」にも激烈な恨みを持つものと思われます。[[利用者:Mikomaid|Mikomaid]] 2012年11月18日 (日) 10:53 (UTC)&lt;br /&gt;
:尚、{{User2|アイザール}}は１年間のブロック直後に狂暴な編集を再開した事から改めて無期限ブロックすることが望ましいものと思われます。&lt;br /&gt;
これらは「虚位」という言葉を使ったり、異様に長い文章になったりする、等、共通・類似点が多い様です。[[利用者:Mikomaid|Mikomaid]] 2012年11月18日 (日) 10:53 (UTC)&lt;br /&gt;
:アイザールは無期限ブロックにしろ！--[[利用者:スパイ撲滅委員会|スパイ撲滅委員会]] 2012年11月18日 (日) 11:34 (UTC)&lt;br /&gt;
== {{User2|スパイ撲滅委員会}}の投稿ブロック依頼 ==&lt;br /&gt;
再三の先編集権違反、他者の利用者ページの編集、他編集者への暴言と管理者からの複数回の警告を無視し、その行為を反省し、改めるそぶりはありません。コミュニティを疲弊させる行為でユアペディアの編集者にふさわしくなく、無期限ブロックが相当かと思われます。--[[利用者:大野慶吾|大野慶吾]] 2012年11月23日 (金) 01:59 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:もうやんねぇよ。許してくれや。ブロックするとしても、最大で1時間位にしてほしい。--[[利用者:スパイ撲滅委員会|スパイ撲滅委員会]] 2012年11月23日 (金) 02:07 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== {{User2|揖保川の水兵さん}}・{{User2|泊優稀撲滅委員会}}・{{User2|小原フル}}の投稿ブロック依頼 ==&lt;br /&gt;
この3人（泊優稀撲滅と小原は同一人物）は、わしのことを一方的に中傷するDQN若造どもです。1日も早い無期限ブロックをしてほしい。--[[利用者:スパイ撲滅委員会|スパイ撲滅委員会]] 2012年11月23日 (金) 13:21 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== {{User2|泊優稀}}関連のCheckuser依頼 ==&lt;br /&gt;
{{User2|スパイ撲滅委員会}}が{{User2|泊優稀}}のブロック逃れの疑いが強いので、同一IPかどうか調査を依頼。&lt;br /&gt;
* 調査対象&lt;br /&gt;
** {{User2|泊優稀}}&lt;br /&gt;
** {{User2|スパイ撲滅委員会}}&lt;br /&gt;
* 依頼に先立つ議論・情報へのリンク &lt;br /&gt;
**[[泊優稀]]&lt;br /&gt;
**[[本当の泊優稀]]&lt;br /&gt;
* チェック後の対処方法&lt;br /&gt;
** 調査対象が[[ソックパペット]]と認められた場合は、期限を定めない「即時投稿ブロック」にて対処。&lt;br /&gt;
** ブロック逃れに用いられたと認められたアカウントについては、期限を定めない「即時投稿ブロック」にて対処。&lt;br /&gt;
** 調査対象がブロック期間中にIPによるブロック破りを行ったか結果報告をしてほしい。&lt;br /&gt;
** 同一ISP等から接続している場合は、公開可能な範囲で結果報告をしてほしい。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*別人だと言うてるだろ？何回言えばわかるん？これ以上、わしや泊君に中傷したら、ぶっ飛ばすぞ！--[[利用者:スパイ撲滅委員会|スパイ撲滅委員会]] 2012年11月26日 (月) 14:22 (UTC)&lt;br /&gt;
**お前が泊な事は投稿記録から分かってんだよ！これ以上暴れんな！--[[利用者:泊優稀撲滅委員会|泊優稀撲滅委員会]] 2012年11月27日 (火) 08:19 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=={{User2|スパイ撲滅委員会}}氏の投稿ブロック依頼==&lt;br /&gt;
[http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85:%E5%B0%8F%E5%8E%9F%E3%83%95%E3%83%AB&amp;amp;oldid=172936 ここ]で、{{User2|スパイ撲滅委員会}}氏が他人の利用者ページを勝手に編集しています。--[[利用者:織田信長|織田信長]] 2012年11月28日 (水) 06:11 (UTC)&lt;br /&gt;
:反対。--[[利用者:スパイ撲滅委員会|スパイ撲滅委員会]] 2012年11月28日 (水) 13:15 (UTC)&lt;br /&gt;
::大変心苦しいのですが、他人の利用者ページ編集と、冷却期間、として、双方を3カ月ブロックとしました。その間に冷静になって頂ければ幸いです。[[利用者:Abcdefgh|Abcdefgh]] 2012年11月29日 (木) 00:07 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=={{User2|泊優稀撲滅委員会}}氏の投稿ブロック依頼==&lt;br /&gt;
[http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85:%E5%B0%8F%E5%8E%9F%E3%83%95%E3%83%AB&amp;amp;diff=next&amp;amp;oldid=172936 ここ]で、{{User2|泊優稀撲滅委員会}}氏が他人の利用者ページを勝手に編集しています。--[[利用者:織田信長|織田信長]] 2012年11月28日 (水) 06:11 (UTC)&lt;br /&gt;
:賛成。しかも、無期限希望。--[[利用者:スパイ撲滅委員会|スパイ撲滅委員会]] 2012年11月28日 (水) 13:15 (UTC)&lt;br /&gt;
::大変心苦しいのですが、他人の利用者ページ編集と、冷却期間、として、双方を3カ月ブロックとしました。その間に冷静になって頂ければ幸いです。[[利用者:Abcdefgh|Abcdefgh]] 2012年11月29日 (木) 00:07 (UTC)&lt;br /&gt;
:{{User2|泊優稀撲滅委員会の無罪を主張する会}}&lt;br /&gt;
::泊優稀撲滅委員会の実兄を名乗っていることから、靴下（ブロック破り）だと思われます。--[[利用者:揖保川の水兵さん|揖保川の水兵さん]] 2012年12月1日 (土) 00:14 (UTC)&lt;br /&gt;
:::実兄を名乗っていることからこのアカウントは2chスレに現れた偽者だと思われます。--[[利用者:泊優稀に恨みを持つ名無し|泊優稀に恨みを持つ名無し]] 2012年12月1日 (土) 00:47 (UTC)&lt;br /&gt;
::::私は、あくまでも実兄です。弟と同じPCから投稿していますが、ブロック破りではありません。--[[利用者:泊優稀撲滅委員会の無罪を主張する会|泊優稀撲滅委員会の無罪を主張する会]] 2012年12月2日 (日) 13:52 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=={{User2|泊優稀撲滅委員会}}の投稿ブロック解除依頼==&lt;br /&gt;
私は、{{User2|泊優稀撲滅委員会}}の実兄です。弟は、[[利用者:小原フル]]の誤った転送先を変更しただけで、3カ月もの長い投稿ブロックになりました。{{User2|スパイ撲滅委員会}}が初めて利用者ページを編集したときは、1週間の短いブロックで済み、なおかつその編集内容は、「移動」を含む荒らし以外の何物でもないものでした。{{User2|Abcdefgh}}さんは、弟のブロック期間を1カ月に短縮すると言っていたが、私が望んでいるのは、短縮ではなく解除です。弟は聞き分けのいい子なので、私がいけないことを注意したら、それ以降は繰り返しません。ユアペディアの決まりで、利用者ページの編集が禁止されていることは、私も知っています。なぜ、あの時、注意のみにしてくれなかったんですか？どうか、よろしくお願いします。--[[利用者:泊優稀撲滅委員会の無罪を主張する会|泊優稀撲滅委員会の無罪を主張する会]] 2012年12月2日 (日) 13:52 (UTC)&lt;br /&gt;
:ブロック期間を１週間に短縮しました。今後は穏健な編集をして下さる事を期待します。[[利用者:Abcdefgh|Abcdefgh]] 2012年12月3日 (月) 01:09 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=={{User2|スパイ撲滅委員会}}の無期限投稿ブロック依頼==&lt;br /&gt;
弟と同時に同期間ブロックとなった{{User2|スパイ撲滅委員会}}についてですが、3回目のブロックのようではないですか。さらに、弟など大勢の人のことを中傷している投稿も見受けられます。人間としてあり得ないです。さらに、利用者ページの編集と同じく禁じられている、先編集権違反もしているそうではないですか。このような凶悪な[[DQN]]に対しての3カ月は、非常に短いものです。無期限に延長することを望みます。それが無理でも、1年以上の投稿ブロックが必要です。どうか、よろしくお願いします。--[[利用者:泊優稀撲滅委員会の無罪を主張する会|泊優稀撲滅委員会の無罪を主張する会]] 2012年12月2日 (日) 13:52 (UTC)&lt;br /&gt;
:付け忘れましたが、スパイ撲滅委員会は、過去に無期限ブロックとなった{{User2|泊優稀}}のソックパペットではないかと、弟は言っています。もしこれが本当なら、ブロック破りということになりますので、絶対に無期限にすべきです。--[[利用者:泊優稀撲滅委員会の無罪を主張する会|泊優稀撲滅委員会の無罪を主張する会]] 2012年12月2日 (日) 13:56 (UTC)&lt;br /&gt;
::ブロック期間を無期限に変更しました。[[利用者:Abcdefgh|Abcdefgh]] 2012年12月3日 (月) 01:09 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=={{User2|泊優稀撲滅委員会の無罪を主張する会}}氏の投稿ブロック依頼==&lt;br /&gt;
[http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%E3%83%BB%E3%83%88%E3%83%BC%E3%82%AF:%E6%B3%8A%E5%84%AA%E7%A8%80%E6%92%B2%E6%BB%85%E5%A7%94%E5%93%A1%E4%BC%9A&amp;amp;curid=54781&amp;amp;diff=173922&amp;amp;oldid=173715 ここ]で、{{User2|泊優稀撲滅委員会の無罪を主張する会}}氏が、{{User2|泊優稀撲滅委員会}}氏の兄でもないのに兄に成りすましていたことを明記しています。これは[[Yourpedia:投稿ブロック（アクセス制限）についての方針]]の「成り済まし」に該当します。--[[利用者:織田信長|織田信長]] 2012年12月10日 (月) 19:39 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=={{User2|国長直子}}の投稿ブロック依頼==&lt;br /&gt;
[[カッコ良すぎる姐の一覧]]という記事を、「○○はブサイク」などと中傷して、荒らしていました。一応、僕の方で、国長の編集をすべて差し戻しました。また、その記事は、{{User2|スパイ撲滅委員会}}も荒らしているため、ひょっとしてソックパペットではないかと思ってしまうんですが。--[[利用者:池田製麺|池田製麺]] 2012年12月13日 (木) 13:55 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=={{User2|池田製麺}}・{{User2|あんだあすろう}}・{{User2|白憂希}}の投稿ブロック依頼==&lt;br /&gt;
これらのアカウントは、僕の所有しているアカウントです。もう僕は、ユアペディアと縁を切りたいので、全て無期限ブロックにしてください。--[[利用者:池田製麺|池田製麺]] 2012年12月24日 (月) 11:31 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=={{User2|あいこ好きの勇者プクリン}}氏の投稿ブロック依頼==&lt;br /&gt;
[http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85:%E5%8B%87%E8%80%85%E3%83%97%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%83%B3&amp;amp;action=history ここ]で、{{User2|あいこ好きの勇者プクリン}}氏が他人の利用者ページを勝手に編集しています。--[[利用者:織田信長|織田信長]] 2012年12月27日 (木) 09:29 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=={{User2|大野優稀}}氏の投稿ブロック依頼==&lt;br /&gt;
[http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85:Kawakita&amp;amp;curid=57619&amp;amp;diff=175661&amp;amp;oldid=175652 ここ]と[http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85:%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%82%B6%E3%83%BC%E3%83%AB&amp;amp;curid=48959&amp;amp;diff=175658&amp;amp;oldid=175650 ここ]と[http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85:%E5%A4%A7%E9%87%8E%E5%BF%A0%E6%98%AD&amp;amp;curid=61026&amp;amp;diff=175659&amp;amp;oldid=175649 ここ]&lt;br /&gt;
で、{{User2|大野優稀}}氏が他人の利用者ページを勝手に編集しています。--[[利用者:織田信長|織田信長]] 2013年1月1日 (火) 10:37 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=={{User2|Kenokabe}}氏の投稿ブロック依頼==&lt;br /&gt;
2013年1月2日 (水) 06:33などを筆頭に、機械的作業（1分以内で複数の編集を完了している）にて複数の記事を空白化または自身が演説するページへとリダイレクト化する行為を繰り返しております。&lt;br /&gt;
また、Yourpedia:削除依頼や *''[[Yourpedia:荒らし報告・投稿ブロック・保護依頼/過去ログ2011年9月 - 2012年9月]]''にも投稿しており、そこで「刑事告訴をした」としつつも、編集行為を続行しております。刑事告訴をしたのにそれに関連する記事を編集するという行為は通常有り得ないため、脅しであることは明白ですが、このような行為をチラつかせつつ、記事を意のままにしようとする了見は看過できません。厳しい対処を望みます。 --[[利用者:ベケンオカ|ベケンオカ]] 2013年1月2日 (水) 00:57 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=={{User2|大野大吾}}氏の投稿ブロック依頼==&lt;br /&gt;
[http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85:%E7%B9%94%E7%94%B0%E4%BF%A1%E9%95%B7&amp;amp;diff=prev&amp;amp;oldid=175778 ここ]で、{{User2|大野大吾}}氏が、私{{User2|織田信長}}でもないのに、「[[利用者:織田信長|織田信長]]のサブアカウントです。[[利用者:大野優稀|大野優稀]]には気を付けて下さい。」と私に成りすましています。これは[[Yourpedia:投稿ブロック（アクセス制限）についての方針]]の「成り済まし」に該当します。--[[利用者:織田信長|織田信長]] 2013年1月2日 (水) 05:16 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=={{User2|Turboranger40}}氏の投稿ブロック依頼==&lt;br /&gt;
2012年6月5日に僕の利用者ページを荒らし、トークページにも暴言などを書き込み、色々と暴れております。それ以降暴れていませんが、管理者の方々に依頼させていただきました。--[[利用者:MAC-BB|MAC-BB]] 2013年2月11日 (月) 17:48 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=={{User2|池田製麺}}氏・{{User2|揖保川の水兵さん}}氏の投稿ブロック依頼==&lt;br /&gt;
両者の編集競合が続いております。池田製麺氏は以前{{User2|スパイ撲滅委員会}}というアカウントで活動していたので無期限ブロック、揖保川の水兵さん氏は前科が無いので{{User2|泊優稀撲滅委員会}}同様1週間ブロックでお願いします。--[[利用者:雪彦山|雪彦山]] 2013年2月13日 (水) 08:59 (UTC)&lt;br /&gt;
:だからさ、僕がスパイ撲滅委員会のソックパペットという根拠がどこにあるのか？ただ単に、亀岡事故関連に投稿してるからか？--[[利用者:池田製麺|池田製麺]] 2013年2月13日 (水) 12:03 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=={{User2|Kenokabe}}の投稿ブロック依頼==&lt;br /&gt;
たび重なる先編集権無視の記事破壊。--[[利用者:Kawakita|Kawakita]] 2013年2月22日 (金) 23:12 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=={{User2|織田信長}}の投稿ブロック解除依頼==&lt;br /&gt;
織田さんは、現在無期限の投稿ブロックになっていますが、荒らしの対処に貢献して、ユアペディアンの模範となる投稿をされていたと思います。なので、一日も早い復帰が望ましいと思います。--[[利用者:日本国総理大臣|日本国総理大臣]] 2013年2月24日 (日) 13:51 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== {{User2|Kenokabe}}・{{User2|Kawakita}}・{{User2|Fromm}}・{{User2|あんだあすろう}}・{{User2|Nodakenta}}５氏の投稿ブロック依頼 ==&lt;br /&gt;
{{User2|Kenokabe}}・{{User2|Kawakita}}・{{User2|Fromm}}・{{User2|あんだあすろう}}・{{User2|Nodakenta}}以上5氏の投稿ブロックを依頼します。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ブロックの理由は次のとおりです。&lt;br /&gt;
* [[利用者:Kenokabe|Kenokabe]]・[[利用者:Kawakita|Kawakita]] - 異常なまでの編集合戦&lt;br /&gt;
* [[利用者:Fromm|Fromm]] - 異常なまでの画像アップロード、対話拒否&lt;br /&gt;
* [[利用者:あんだあすろう|あんだあすろう]]・[[利用者・トーク:Nodakenta|Nodakenta]] - 異常なまでの他ユーザーへの誹謗中傷&lt;br /&gt;
どうか宜しくお願い致します。--[[利用者:ウーソキカス|ウーソキカス]] 2013年3月2日 (土) 03:49 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{User2|Kenokabe}} にある通り、私＝岡部健について、執拗な誹謗中傷が本サイトで続いており、Twitter、2chと連携して行われている。&lt;br /&gt;
2012年から2013年初頭にかけて、兵庫県警に複数のTwitterユーザー、野田憲太郎を刑事告訴し、共犯として事件統合された上捜査中。&lt;br /&gt;
管理者、運営者にいたっては、この行為を幇助した場合、共犯として同様に告訴します。--[[利用者:Kenokabe|Kenokabe]] 2013年3月2日 (土) 03:56 (UTC)&lt;br /&gt;
:私の意見として、あんだあすろうは無期限にした方がいいです。--[[利用者:都市伝説マン|都市伝説マン]] 2013年3月2日 (土) 03:59 (UTC)&lt;br /&gt;
:Kawakita　は、編集傾向として、野田憲太郎--[[利用者:Kenokabe|Kenokabe]] 2013年3月2日 (土) 04:02 (UTC)&lt;br /&gt;
というか、さっさとKawakitaブロックしたらいいだろう？野田憲太郎なんだし。こっちは実名で誹謗中傷されて刑訴までしてる記事を差し戻してるだけなんだ。証拠云々は、履歴にあるので、関係ない。--[[利用者:Kenokabe|Kenokabe]] 2013年3月2日 (土) 04:21 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==岡部健関連の記事の保護依頼==&lt;br /&gt;
*[[FXST]]&lt;br /&gt;
*[[コベコベ髪‎]]&lt;br /&gt;
*[[岡部健 (荒らし)‎]]&lt;br /&gt;
*[[毛の壁‎]]&lt;br /&gt;
*[[岡部健 (俳優)]]&lt;br /&gt;
*[[岡部健]]&lt;br /&gt;
*[[岡部健(荒らし)]]&lt;br /&gt;
度重なる編集合戦のため全保護希望。--[[利用者:泊優稀撲滅委員会|泊優稀撲滅委員会]] 2013年3月9日 (土) 09:50 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=={{User2|あんだあすろう}}の投稿ブロック依頼==&lt;br /&gt;
俺の利用者ページを無断で編集したので、無期限ブロックにしてくれ。--[[利用者:アンチ泊優稀撲滅委員会|アンチ泊優稀撲滅委員会]] 2013年3月14日 (木) 14:08 (UTC)&lt;br /&gt;
:（解除依頼）それ以前に、貴方は無断で{{User|あんだあすろう}}のサブアカウントを名乗っていましたね[http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85:%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%81%E6%B3%8A%E5%84%AA%E7%A8%80%E6%92%B2%E6%BB%85%E5%A7%94%E5%93%A1%E4%BC%9A&amp;amp;oldid=167220 参照]。だから彼はそれを否定して貴方の利用者ページを編集したんです。悪いのは貴方の方です。--[[利用者:揖保川の水兵さん|揖保川の水兵さん]] 2013年3月15日 (金) 09:05 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==東海大学ローバースカウト隊　のページの保護を依頼したいです==&lt;br /&gt;
どうも、利用者:Minagoroshidaです。実は何者かが私のアカウントを使って、私の作成した東海大学ローバースカウト隊のページを白紙化したようなのです。&lt;br /&gt;
一体どうやったのか分かりませんが、とりあえず、東海大学ローバースカウト隊のページを編集できないよう、保護していただけないでしょうか？&lt;br /&gt;
できれば、誰が私のアカウントを使用したのか、という事についても調査をしていただければ幸いです。&lt;br /&gt;
[[利用者:Minagoroshida|Minagoroshida]] 2013年4月18日 (木) 04:29 (UTC)&lt;br /&gt;
:これはパスワードクラックではなく「成り済まし」ですね。成り済まし側はアカウント名の２文字目が大文字の「I」に成ってます。「成り済まし」、及び同一人物の可能性が高いこれらのアカウントはブロックしておきました。パスワードが盗まれた訳ではないのでご安心下さい(でも念のためパスワードを変えておく事をお勧めします)。あと、他人の利用者ページの編集は禁止されております。今回は警告のみとしておきますが、次回編集された場合はブロック処分の対象となりますのでご注意下さい。[[利用者:Abcdefgh|Abcdefgh]] 2013年4月18日 (木) 23:26 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:ありがとうございました。他人の利用者ページの編集はやめます。[[利用者:Minagoroshida|Minagoroshida]] 2013年4月19日 (金) 13:35 (UTC)&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Minagoroshida</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85:Minagoroshida&amp;diff=185522</id>
		<title>利用者:Minagoroshida</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85:Minagoroshida&amp;diff=185522"/>
				<updated>2013-04-18T15:20:36Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Minagoroshida: 判別できるか&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;あああああ&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Minagoroshida</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=Yourpedia:%E8%8D%92%E3%82%89%E3%81%97%E5%A0%B1%E5%91%8A%E3%83%BB%E6%8A%95%E7%A8%BF%E3%83%96%E3%83%AD%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%BB%E4%BF%9D%E8%AD%B7%E4%BE%9D%E9%A0%BC&amp;diff=185508</id>
		<title>Yourpedia:荒らし報告・投稿ブロック・保護依頼</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=Yourpedia:%E8%8D%92%E3%82%89%E3%81%97%E5%A0%B1%E5%91%8A%E3%83%BB%E6%8A%95%E7%A8%BF%E3%83%96%E3%83%AD%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%BB%E4%BF%9D%E8%AD%B7%E4%BE%9D%E9%A0%BC&amp;diff=185508"/>
				<updated>2013-04-18T04:29:50Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Minagoroshida: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{基本方針とガイドライン 簡易版‎}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 過去ログ ==&lt;br /&gt;
* [[Yourpedia:荒らし報告・投稿ブロック・保護依頼/過去ログ2007年5月]]&lt;br /&gt;
* [[Yourpedia:荒らし報告・投稿ブロック・保護依頼/過去ログ2007年7月 - 2008年5月]]&lt;br /&gt;
* [[Yourpedia:荒らし報告・投稿ブロック・保護依頼/過去ログ2008年5月 - 2009年3月]]&lt;br /&gt;
* [[Yourpedia:荒らし報告・投稿ブロック・保護依頼/過去ログ2009年5月 - 2011年8月]]&lt;br /&gt;
* [[Yourpedia:荒らし報告・投稿ブロック・保護依頼/過去ログ2011年9月 - 2012年9月]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 荒らし報告・投稿ブロック依頼 ==&lt;br /&gt;
== 投稿ブロック依頼/{{User|Fromm撲滅委員会}} ==&lt;br /&gt;
[http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E6%9D%BE%E8%91%89%E8%A3%95%E5%AD%90&amp;amp;curid=58155&amp;amp;diff=170266&amp;amp;oldid=170265 ここ]で、既に先編集権が主張されている記事を移動させ、新たに自ら先編集権を主張しました。--[[利用者:あんだあすろう|あんだあすろう]] 2012年9月28日 (金) 05:57 (UTC)&lt;br /&gt;
いや、こいつに限らず、自分以外の「○○撲滅委員会」は、「不適切な名前」として、無期ブロックしてやってもいいんじゃないか?--[[利用者:スパイ撲滅委員会|スパイ撲滅委員会]] 2012年9月29日 (土) 14:05 (UTC)&lt;br /&gt;
: いや、ブロックするなら{{User|スパイ撲滅委員会}}さんを含めて全ての「○○撲滅委員会」をブロックするべきでしょう。あまりにも挑発的な利用者名です。スパイ撲滅委員会さんはもっと適切な名前で活動を続けて下さい。--[[利用者:ウーソキカス|ウーソキカス]] 2012年10月9日 (火) 06:22 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== {{User2|Kawakita}}の投稿ブロック依頼 ==&lt;br /&gt;
すでに警告、宣言したとおり、この人物を含め名誉毀損で兵庫県警に刑事告訴しました。岡部健関連の執拗な違法な公開および、写真画像の肖像権、著作権侵害。--[[利用者:Kenokabe|Kenokabe]] 2012年9月30日 (日) 08:58 (UTC)&lt;br /&gt;
: その割には誰も逮捕・起訴されていませんが?--[[利用者:ウーソキカス|ウーソキカス]] 2012年10月9日 (火) 06:22 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== {{User2|松葉裕子}}氏の投稿ブロック依頼 ==&lt;br /&gt;
「自分のサブアカウント」などという即座に露呈する虚偽記述をし、他人の利用者ページを編集した為。編集されたのは私の利用者ページです。管理者を騙す非常に悪質な手口です。ーー[[利用者:Nodakenta|Nodakenta]] 2012年10月24日 (水) 20:37 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* Nodakentaさん、あなたこそ[[Yourpedia の利用者]]における[http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=Yourpedia_%E3%81%AE%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85&amp;amp;action=historysubmit&amp;amp;diff=170249&amp;amp;oldid=170246 この編集]で私の事を「松葉裕子のソックパペット」等という「即座に露呈する虚偽記述」をしていますね。松葉裕子さんがNodakentaさんを「自分のサブアカウント」と決め付けるのはNodakentaさんが私を松葉さんの靴下と決め付けるのと全く同じ態度です。という事は、Nodakentaさんにとっては松葉さんの行為に苦痛を感じてる、という事ですね!!!!　自分を悪く書かれると、どういう気分になるか、痛いほど判った筈です。あなたが松葉さんの編集を「管理者を騙す非常に悪質な手口」として松葉さんの投稿ブロックを求めるなら私もNodakentaさんの編集は「管理者を騙す非常に悪質な手口」と考えられるのであなたの投稿ブロックを要求します。--[[利用者:ウーソキカス|ウーソキカス]] 2012年10月24日 (水) 14:50 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== {{User2|Mikomaid}}氏の投稿ブロック依頼 ==&lt;br /&gt;
{{User2|Mikomaid}}氏は[[利用者・トーク:Sysop]]の[http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%E3%83%BB%E3%83%88%E3%83%BC%E3%82%AF:Sysop&amp;amp;diff=prev&amp;amp;oldid=172501 この書き込み]において、「Sysop様に恨みを持ち、削除依頼が通らないのであれば策を弄してでもYPを潰そうと思ってるのは'''私だけではない'''」や「現在、私は、YPの動作を少々重くする為の工作を行っております」と明記。Mikomaid氏は[[Yourpedia:投稿ブロック（アクセス制限）についての方針]]の「Yourpediaに対する攻撃行為」を行っていることを認めています。--[[利用者:織田信長|織田信長]] 2012年11月18日 (日) 02:41 (UTC)&lt;br /&gt;
:それは{{User2|アイザール}}が私に対する誹謗中傷・個人攻撃をやめず、Sysop様も、'''4年間以上の再三に亘る削除依頼等'''に応じてくれない事から、私に対する誤解が広まる事を阻止する為に最終手段としてやむを得ず行ってるものであり、私の要求を受け入れて下されば工作を取りやめる事を約束します。只、同様の工作をしてる者は私だけではない、という事も頭に入れておいて下さい。もし、織田様が誹謗中傷され、個人情報がYPにさらされた(而も織田様が貧乏・貧困の)場合、どうされるお積もりでしょうか？私と{{User2|アイザール}}の、どちらが狂暴・狡猾・陰湿か、という事を公平公正に審査頂ければ、ブロックされるべきは、どちらか、という事がお判り頂ける筈です。そもそも、いじめをやめてくれない、先生や学校も教育委員会もいじめをやめさせてくれない、窮地に追い込まれた、じゃあ、どうすれば良いか、'''学校そのものを無くしてしまえば良い'''、と考えた事がある人も少なくない筈です。それと同じです。何れにしろ、'''この様な依頼は却下されるべき'''です。[[利用者:Mikomaid|Mikomaid]] 2012年11月18日 (日) 10:53 (UTC)&lt;br /&gt;
::己の利益の為なら「やむを得ず」法律、規則を破ってもかまわないとMikomaid氏の主張は社会常識を逸脱した主張です。これまでのMikomaid氏の主張はユアペディアの方針に則ったものではなく、論理性もない主張であることで管理者から却下されたものです。事実でないなら事実でないとの具体的な反証を証拠を以て示さず、只、事実でないと主張するだけに留まることで管理者から見限られているものです。ユアペディアの編集方針を理解できないのであれば、ユアペディアの編集から撤退し、自身でwikiサイトでも創設して、そこで編集活動をするべきでしょう。ITの知識だけはあると主張するMikomaid氏が、それが出来ないのが不思議でなりません。ユアペディアに対する攻撃行為は他編集者への迷惑行為に他なりません。ウィキペディアで無期限ブロックとなった事実に加え、その後の本人に反省と復帰の意思の表示もみられないことから、自身の編集姿勢は改める姿勢はないと判断せざるを得ません。ユアペディアでもコミュニティを疲弊させる人物として無期限ブロックが相当かと思われます。--[[利用者:大野慶吾|大野慶吾]] 2012年11月23日 (金) 02:23 (UTC)&lt;br /&gt;
:::{{User2|大野慶吾}}(={{User2|アイザール}}?)の方こそ、YPのルールさえ守れば他者の人権を平気で踏みにじる事が出来る社会常識を逸脱した陰湿・冷酷・狂暴なゾンビ・キョンシー・魔獣であり、上記は私に対する誹謗中傷を正当化・合理化したいが為の詭弁・言い訳に過ぎません。私のこれまでの主張は以前にも書かせて頂いた通りであり、'''依頼内容に不備や疑問点がある、と言うのであれば、その点に就いて質問すれば済む事'''、却下するなら「却下する」の一言を書けば済む事であって、無視しておいて筋が通る、と思ったら大間違いです。4年以上に亙って削除依頼のメール等を100回以上出し、警察や無断転載元の権利者、著作権関係の団体等にも通報を重ね、合法的で金が掛からない手段を、ほぼ尽くした、その上での、最終行動です。他にも合法的で金が掛からない方法が有る、と言うのなら公平・公正で良心的な方のアドバイスをお願いします。私の主張を御覧頂く為に現在工作はお休みしておりますが、私に関する項目の加筆が再開された場合には工作を再開します。その場合、少々重くなる程度、では済まない可能性がある事を覚悟して下さい。そもそもYPには私関連以外にも数多くの誹謗中傷項目、著作権侵害(フリーでない画像の無断転載、等)、等があり、このような違法状態を放置するサイトが正当性を主張するという事自体、筋が通る、とでも思ってるのでしょうか？その事は、私が工作を休んでる間にも少々重くなる、という事が雄弁に物語っております。[[利用者:Mikomaid|Mikomaid]] 2012年11月23日 (金) 11:44 (UTC)&lt;br /&gt;
:::この依頼が通って私がブロックされた場合、「YP=悪魔の百科事典」という事を管理者が自ら認める事になる筈です。もし、「YP≠悪魔の百科事典」とされたいなら、私の主張にも耳を傾けて頂きたいものです。他編集者の中にも「YPが無くなれば良い」と考える者は少なくない、という事を頭の中に、よ～～～～く叩き込んでおいて下さい。[[利用者:Mikomaid|Mikomaid]] 2012年11月23日 (金) 11:44 (UTC)&lt;br /&gt;
::::警察や無断転載元の権利者、著作権関係の団体等にも通報を重ねても、公的機関や関係者から相手にもされなかったことは如何にMikomaid氏の主張が矛盾に満ちたものであるかの証明に他なりません。そのことに気付かないMikomaid氏とは、これ以上の対話不可能と思われます。今後は、更に感情的になり、ユアペディアの破壊工作に拍車がかかる懸念もあり、早急な無期限投稿ブロック処分を行わなければユアペディアの崩壊につながる可能性があると思います。--[[利用者:大野慶吾|大野慶吾]] 2012年11月23日 (金) 14:08 (UTC)&lt;br /&gt;
:::::{{User2|大野慶吾}}(={{User2|アイザール}}?)(&amp;amp;Sysop氏)の方こそ誹謗中傷項目を1000回以上・300KB以上編集する、という常軌を逸した人物で対話不可能であり、こちらこそブロックされるべきです。私が行ってる工作はYPにアクセス可能である事を利用して行ってるものであり、私がブロックされたとしても工作の手を緩める事は有りません。そもそも私がYPに来るのは編集目的ではなく、私に対する誹謗中傷をやめさせる事であり、それが実現するまで工作を止める積もりは有りません。その代わり、もし、私の要求を通して頂けるなら、それ以降、一切の工作を行わない事を約束します。尚、この様な応酬は過去にも{{User2|YANCHARIKA}}・{{User2|アイザール}}名義でも行われており、その事からも相手の執念深さが伺えます。[[利用者:Mikomaid|Mikomaid]] 2012年11月24日 (土) 12:04 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== {{User2|アイザール}}その他の投稿ブロック依頼 ==&lt;br /&gt;
以下のユーザー(これらは{{User2|アイザール}}(ブロック期間終了)と同一人物の可能性が高い)は極めて凶暴・陰湿・狡猾で私に対する悪意しか持っておらず、著作権侵害やプライバシー抵触、SPAM、編集合戦、等を行う一方で建設的編集を行う意志が全く無く、話し合いによる解決も不可能な事から、無期限ブロックもお願いします。[[利用者:Mikomaid|Mikomaid]] 2012年11月18日 (日) 10:53 (UTC)&lt;br /&gt;
*{{User2|アイザール}}～～ブロック明け後直ちに編集再開&lt;br /&gt;
*{{User2|Jesudonbay}}&lt;br /&gt;
*{{User2|Mizusumashi}}～～{{User2|アイザール}}のブロック破り？&lt;br /&gt;
*{{User2|Polaris}}&lt;br /&gt;
*{{User2|YANCHARIKA}}先編集権違反&lt;br /&gt;
*{{User2|海燕}}&lt;br /&gt;
*{{User2|大野晋吾}}～～{{User2|アイザール}}のブロック破り？&lt;br /&gt;
*{{User2|大野慶吾}}&lt;br /&gt;
*{{User2|大野晴江}}&lt;br /&gt;
*{{User2|大野将希}}&lt;br /&gt;
*{{User2|大野久美子}}～～{{User2|アイザール}}のブロック破り？&lt;br /&gt;
*{{User2|富岡市民}}著作権侵害(無断転載)&lt;br /&gt;
:上記の内、「大野※※」は私と同地域の人物(私とは別人)、及び、その家族と見られる、等、実在の人物名の可能性がありますが、これらのアカウントでも「悪意の編集」が行われてる事から私だけではなく、「混同の対象」にも激烈な恨みを持つものと思われます。[[利用者:Mikomaid|Mikomaid]] 2012年11月18日 (日) 10:53 (UTC)&lt;br /&gt;
:尚、{{User2|アイザール}}は１年間のブロック直後に狂暴な編集を再開した事から改めて無期限ブロックすることが望ましいものと思われます。&lt;br /&gt;
これらは「虚位」という言葉を使ったり、異様に長い文章になったりする、等、共通・類似点が多い様です。[[利用者:Mikomaid|Mikomaid]] 2012年11月18日 (日) 10:53 (UTC)&lt;br /&gt;
:アイザールは無期限ブロックにしろ！--[[利用者:スパイ撲滅委員会|スパイ撲滅委員会]] 2012年11月18日 (日) 11:34 (UTC)&lt;br /&gt;
== {{User2|スパイ撲滅委員会}}の投稿ブロック依頼 ==&lt;br /&gt;
再三の先編集権違反、他者の利用者ページの編集、他編集者への暴言と管理者からの複数回の警告を無視し、その行為を反省し、改めるそぶりはありません。コミュニティを疲弊させる行為でユアペディアの編集者にふさわしくなく、無期限ブロックが相当かと思われます。--[[利用者:大野慶吾|大野慶吾]] 2012年11月23日 (金) 01:59 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:もうやんねぇよ。許してくれや。ブロックするとしても、最大で1時間位にしてほしい。--[[利用者:スパイ撲滅委員会|スパイ撲滅委員会]] 2012年11月23日 (金) 02:07 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== {{User2|揖保川の水兵さん}}・{{User2|泊優稀撲滅委員会}}・{{User2|小原フル}}の投稿ブロック依頼 ==&lt;br /&gt;
この3人（泊優稀撲滅と小原は同一人物）は、わしのことを一方的に中傷するDQN若造どもです。1日も早い無期限ブロックをしてほしい。--[[利用者:スパイ撲滅委員会|スパイ撲滅委員会]] 2012年11月23日 (金) 13:21 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== {{User2|泊優稀}}関連のCheckuser依頼 ==&lt;br /&gt;
{{User2|スパイ撲滅委員会}}が{{User2|泊優稀}}のブロック逃れの疑いが強いので、同一IPかどうか調査を依頼。&lt;br /&gt;
* 調査対象&lt;br /&gt;
** {{User2|泊優稀}}&lt;br /&gt;
** {{User2|スパイ撲滅委員会}}&lt;br /&gt;
* 依頼に先立つ議論・情報へのリンク &lt;br /&gt;
**[[泊優稀]]&lt;br /&gt;
**[[本当の泊優稀]]&lt;br /&gt;
* チェック後の対処方法&lt;br /&gt;
** 調査対象が[[ソックパペット]]と認められた場合は、期限を定めない「即時投稿ブロック」にて対処。&lt;br /&gt;
** ブロック逃れに用いられたと認められたアカウントについては、期限を定めない「即時投稿ブロック」にて対処。&lt;br /&gt;
** 調査対象がブロック期間中にIPによるブロック破りを行ったか結果報告をしてほしい。&lt;br /&gt;
** 同一ISP等から接続している場合は、公開可能な範囲で結果報告をしてほしい。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*別人だと言うてるだろ？何回言えばわかるん？これ以上、わしや泊君に中傷したら、ぶっ飛ばすぞ！--[[利用者:スパイ撲滅委員会|スパイ撲滅委員会]] 2012年11月26日 (月) 14:22 (UTC)&lt;br /&gt;
**お前が泊な事は投稿記録から分かってんだよ！これ以上暴れんな！--[[利用者:泊優稀撲滅委員会|泊優稀撲滅委員会]] 2012年11月27日 (火) 08:19 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=={{User2|スパイ撲滅委員会}}氏の投稿ブロック依頼==&lt;br /&gt;
[http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85:%E5%B0%8F%E5%8E%9F%E3%83%95%E3%83%AB&amp;amp;oldid=172936 ここ]で、{{User2|スパイ撲滅委員会}}氏が他人の利用者ページを勝手に編集しています。--[[利用者:織田信長|織田信長]] 2012年11月28日 (水) 06:11 (UTC)&lt;br /&gt;
:反対。--[[利用者:スパイ撲滅委員会|スパイ撲滅委員会]] 2012年11月28日 (水) 13:15 (UTC)&lt;br /&gt;
::大変心苦しいのですが、他人の利用者ページ編集と、冷却期間、として、双方を3カ月ブロックとしました。その間に冷静になって頂ければ幸いです。[[利用者:Abcdefgh|Abcdefgh]] 2012年11月29日 (木) 00:07 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=={{User2|泊優稀撲滅委員会}}氏の投稿ブロック依頼==&lt;br /&gt;
[http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85:%E5%B0%8F%E5%8E%9F%E3%83%95%E3%83%AB&amp;amp;diff=next&amp;amp;oldid=172936 ここ]で、{{User2|泊優稀撲滅委員会}}氏が他人の利用者ページを勝手に編集しています。--[[利用者:織田信長|織田信長]] 2012年11月28日 (水) 06:11 (UTC)&lt;br /&gt;
:賛成。しかも、無期限希望。--[[利用者:スパイ撲滅委員会|スパイ撲滅委員会]] 2012年11月28日 (水) 13:15 (UTC)&lt;br /&gt;
::大変心苦しいのですが、他人の利用者ページ編集と、冷却期間、として、双方を3カ月ブロックとしました。その間に冷静になって頂ければ幸いです。[[利用者:Abcdefgh|Abcdefgh]] 2012年11月29日 (木) 00:07 (UTC)&lt;br /&gt;
:{{User2|泊優稀撲滅委員会の無罪を主張する会}}&lt;br /&gt;
::泊優稀撲滅委員会の実兄を名乗っていることから、靴下（ブロック破り）だと思われます。--[[利用者:揖保川の水兵さん|揖保川の水兵さん]] 2012年12月1日 (土) 00:14 (UTC)&lt;br /&gt;
:::実兄を名乗っていることからこのアカウントは2chスレに現れた偽者だと思われます。--[[利用者:泊優稀に恨みを持つ名無し|泊優稀に恨みを持つ名無し]] 2012年12月1日 (土) 00:47 (UTC)&lt;br /&gt;
::::私は、あくまでも実兄です。弟と同じPCから投稿していますが、ブロック破りではありません。--[[利用者:泊優稀撲滅委員会の無罪を主張する会|泊優稀撲滅委員会の無罪を主張する会]] 2012年12月2日 (日) 13:52 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=={{User2|泊優稀撲滅委員会}}の投稿ブロック解除依頼==&lt;br /&gt;
私は、{{User2|泊優稀撲滅委員会}}の実兄です。弟は、[[利用者:小原フル]]の誤った転送先を変更しただけで、3カ月もの長い投稿ブロックになりました。{{User2|スパイ撲滅委員会}}が初めて利用者ページを編集したときは、1週間の短いブロックで済み、なおかつその編集内容は、「移動」を含む荒らし以外の何物でもないものでした。{{User2|Abcdefgh}}さんは、弟のブロック期間を1カ月に短縮すると言っていたが、私が望んでいるのは、短縮ではなく解除です。弟は聞き分けのいい子なので、私がいけないことを注意したら、それ以降は繰り返しません。ユアペディアの決まりで、利用者ページの編集が禁止されていることは、私も知っています。なぜ、あの時、注意のみにしてくれなかったんですか？どうか、よろしくお願いします。--[[利用者:泊優稀撲滅委員会の無罪を主張する会|泊優稀撲滅委員会の無罪を主張する会]] 2012年12月2日 (日) 13:52 (UTC)&lt;br /&gt;
:ブロック期間を１週間に短縮しました。今後は穏健な編集をして下さる事を期待します。[[利用者:Abcdefgh|Abcdefgh]] 2012年12月3日 (月) 01:09 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=={{User2|スパイ撲滅委員会}}の無期限投稿ブロック依頼==&lt;br /&gt;
弟と同時に同期間ブロックとなった{{User2|スパイ撲滅委員会}}についてですが、3回目のブロックのようではないですか。さらに、弟など大勢の人のことを中傷している投稿も見受けられます。人間としてあり得ないです。さらに、利用者ページの編集と同じく禁じられている、先編集権違反もしているそうではないですか。このような凶悪な[[DQN]]に対しての3カ月は、非常に短いものです。無期限に延長することを望みます。それが無理でも、1年以上の投稿ブロックが必要です。どうか、よろしくお願いします。--[[利用者:泊優稀撲滅委員会の無罪を主張する会|泊優稀撲滅委員会の無罪を主張する会]] 2012年12月2日 (日) 13:52 (UTC)&lt;br /&gt;
:付け忘れましたが、スパイ撲滅委員会は、過去に無期限ブロックとなった{{User2|泊優稀}}のソックパペットではないかと、弟は言っています。もしこれが本当なら、ブロック破りということになりますので、絶対に無期限にすべきです。--[[利用者:泊優稀撲滅委員会の無罪を主張する会|泊優稀撲滅委員会の無罪を主張する会]] 2012年12月2日 (日) 13:56 (UTC)&lt;br /&gt;
::ブロック期間を無期限に変更しました。[[利用者:Abcdefgh|Abcdefgh]] 2012年12月3日 (月) 01:09 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=={{User2|泊優稀撲滅委員会の無罪を主張する会}}氏の投稿ブロック依頼==&lt;br /&gt;
[http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%E3%83%BB%E3%83%88%E3%83%BC%E3%82%AF:%E6%B3%8A%E5%84%AA%E7%A8%80%E6%92%B2%E6%BB%85%E5%A7%94%E5%93%A1%E4%BC%9A&amp;amp;curid=54781&amp;amp;diff=173922&amp;amp;oldid=173715 ここ]で、{{User2|泊優稀撲滅委員会の無罪を主張する会}}氏が、{{User2|泊優稀撲滅委員会}}氏の兄でもないのに兄に成りすましていたことを明記しています。これは[[Yourpedia:投稿ブロック（アクセス制限）についての方針]]の「成り済まし」に該当します。--[[利用者:織田信長|織田信長]] 2012年12月10日 (月) 19:39 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=={{User2|国長直子}}の投稿ブロック依頼==&lt;br /&gt;
[[カッコ良すぎる姐の一覧]]という記事を、「○○はブサイク」などと中傷して、荒らしていました。一応、僕の方で、国長の編集をすべて差し戻しました。また、その記事は、{{User2|スパイ撲滅委員会}}も荒らしているため、ひょっとしてソックパペットではないかと思ってしまうんですが。--[[利用者:池田製麺|池田製麺]] 2012年12月13日 (木) 13:55 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=={{User2|池田製麺}}・{{User2|あんだあすろう}}・{{User2|白憂希}}の投稿ブロック依頼==&lt;br /&gt;
これらのアカウントは、僕の所有しているアカウントです。もう僕は、ユアペディアと縁を切りたいので、全て無期限ブロックにしてください。--[[利用者:池田製麺|池田製麺]] 2012年12月24日 (月) 11:31 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=={{User2|あいこ好きの勇者プクリン}}氏の投稿ブロック依頼==&lt;br /&gt;
[http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85:%E5%8B%87%E8%80%85%E3%83%97%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%83%B3&amp;amp;action=history ここ]で、{{User2|あいこ好きの勇者プクリン}}氏が他人の利用者ページを勝手に編集しています。--[[利用者:織田信長|織田信長]] 2012年12月27日 (木) 09:29 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=={{User2|大野優稀}}氏の投稿ブロック依頼==&lt;br /&gt;
[http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85:Kawakita&amp;amp;curid=57619&amp;amp;diff=175661&amp;amp;oldid=175652 ここ]と[http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85:%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%82%B6%E3%83%BC%E3%83%AB&amp;amp;curid=48959&amp;amp;diff=175658&amp;amp;oldid=175650 ここ]と[http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85:%E5%A4%A7%E9%87%8E%E5%BF%A0%E6%98%AD&amp;amp;curid=61026&amp;amp;diff=175659&amp;amp;oldid=175649 ここ]&lt;br /&gt;
で、{{User2|大野優稀}}氏が他人の利用者ページを勝手に編集しています。--[[利用者:織田信長|織田信長]] 2013年1月1日 (火) 10:37 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=={{User2|Kenokabe}}氏の投稿ブロック依頼==&lt;br /&gt;
2013年1月2日 (水) 06:33などを筆頭に、機械的作業（1分以内で複数の編集を完了している）にて複数の記事を空白化または自身が演説するページへとリダイレクト化する行為を繰り返しております。&lt;br /&gt;
また、Yourpedia:削除依頼や *''[[Yourpedia:荒らし報告・投稿ブロック・保護依頼/過去ログ2011年9月 - 2012年9月]]''にも投稿しており、そこで「刑事告訴をした」としつつも、編集行為を続行しております。刑事告訴をしたのにそれに関連する記事を編集するという行為は通常有り得ないため、脅しであることは明白ですが、このような行為をチラつかせつつ、記事を意のままにしようとする了見は看過できません。厳しい対処を望みます。 --[[利用者:ベケンオカ|ベケンオカ]] 2013年1月2日 (水) 00:57 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=={{User2|大野大吾}}氏の投稿ブロック依頼==&lt;br /&gt;
[http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85:%E7%B9%94%E7%94%B0%E4%BF%A1%E9%95%B7&amp;amp;diff=prev&amp;amp;oldid=175778 ここ]で、{{User2|大野大吾}}氏が、私{{User2|織田信長}}でもないのに、「[[利用者:織田信長|織田信長]]のサブアカウントです。[[利用者:大野優稀|大野優稀]]には気を付けて下さい。」と私に成りすましています。これは[[Yourpedia:投稿ブロック（アクセス制限）についての方針]]の「成り済まし」に該当します。--[[利用者:織田信長|織田信長]] 2013年1月2日 (水) 05:16 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=={{User2|Turboranger40}}氏の投稿ブロック依頼==&lt;br /&gt;
2012年6月5日に僕の利用者ページを荒らし、トークページにも暴言などを書き込み、色々と暴れております。それ以降暴れていませんが、管理者の方々に依頼させていただきました。--[[利用者:MAC-BB|MAC-BB]] 2013年2月11日 (月) 17:48 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=={{User2|池田製麺}}氏・{{User2|揖保川の水兵さん}}氏の投稿ブロック依頼==&lt;br /&gt;
両者の編集競合が続いております。池田製麺氏は以前{{User2|スパイ撲滅委員会}}というアカウントで活動していたので無期限ブロック、揖保川の水兵さん氏は前科が無いので{{User2|泊優稀撲滅委員会}}同様1週間ブロックでお願いします。--[[利用者:雪彦山|雪彦山]] 2013年2月13日 (水) 08:59 (UTC)&lt;br /&gt;
:だからさ、僕がスパイ撲滅委員会のソックパペットという根拠がどこにあるのか？ただ単に、亀岡事故関連に投稿してるからか？--[[利用者:池田製麺|池田製麺]] 2013年2月13日 (水) 12:03 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=={{User2|Kenokabe}}の投稿ブロック依頼==&lt;br /&gt;
たび重なる先編集権無視の記事破壊。--[[利用者:Kawakita|Kawakita]] 2013年2月22日 (金) 23:12 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=={{User2|織田信長}}の投稿ブロック解除依頼==&lt;br /&gt;
織田さんは、現在無期限の投稿ブロックになっていますが、荒らしの対処に貢献して、ユアペディアンの模範となる投稿をされていたと思います。なので、一日も早い復帰が望ましいと思います。--[[利用者:日本国総理大臣|日本国総理大臣]] 2013年2月24日 (日) 13:51 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== {{User2|Kenokabe}}・{{User2|Kawakita}}・{{User2|Fromm}}・{{User2|あんだあすろう}}・{{User2|Nodakenta}}５氏の投稿ブロック依頼 ==&lt;br /&gt;
{{User2|Kenokabe}}・{{User2|Kawakita}}・{{User2|Fromm}}・{{User2|あんだあすろう}}・{{User2|Nodakenta}}以上5氏の投稿ブロックを依頼します。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ブロックの理由は次のとおりです。&lt;br /&gt;
* [[利用者:Kenokabe|Kenokabe]]・[[利用者:Kawakita|Kawakita]] - 異常なまでの編集合戦&lt;br /&gt;
* [[利用者:Fromm|Fromm]] - 異常なまでの画像アップロード、対話拒否&lt;br /&gt;
* [[利用者:あんだあすろう|あんだあすろう]]・[[利用者・トーク:Nodakenta|Nodakenta]] - 異常なまでの他ユーザーへの誹謗中傷&lt;br /&gt;
どうか宜しくお願い致します。--[[利用者:ウーソキカス|ウーソキカス]] 2013年3月2日 (土) 03:49 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{User2|Kenokabe}} にある通り、私＝岡部健について、執拗な誹謗中傷が本サイトで続いており、Twitter、2chと連携して行われている。&lt;br /&gt;
2012年から2013年初頭にかけて、兵庫県警に複数のTwitterユーザー、野田憲太郎を刑事告訴し、共犯として事件統合された上捜査中。&lt;br /&gt;
管理者、運営者にいたっては、この行為を幇助した場合、共犯として同様に告訴します。--[[利用者:Kenokabe|Kenokabe]] 2013年3月2日 (土) 03:56 (UTC)&lt;br /&gt;
:私の意見として、あんだあすろうは無期限にした方がいいです。--[[利用者:都市伝説マン|都市伝説マン]] 2013年3月2日 (土) 03:59 (UTC)&lt;br /&gt;
:Kawakita　は、編集傾向として、野田憲太郎--[[利用者:Kenokabe|Kenokabe]] 2013年3月2日 (土) 04:02 (UTC)&lt;br /&gt;
というか、さっさとKawakitaブロックしたらいいだろう？野田憲太郎なんだし。こっちは実名で誹謗中傷されて刑訴までしてる記事を差し戻してるだけなんだ。証拠云々は、履歴にあるので、関係ない。--[[利用者:Kenokabe|Kenokabe]] 2013年3月2日 (土) 04:21 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==岡部健関連の記事の保護依頼==&lt;br /&gt;
*[[FXST]]&lt;br /&gt;
*[[コベコベ髪‎]]&lt;br /&gt;
*[[岡部健 (荒らし)‎]]&lt;br /&gt;
*[[毛の壁‎]]&lt;br /&gt;
*[[岡部健 (俳優)]]&lt;br /&gt;
*[[岡部健]]&lt;br /&gt;
*[[岡部健(荒らし)]]&lt;br /&gt;
度重なる編集合戦のため全保護希望。--[[利用者:泊優稀撲滅委員会|泊優稀撲滅委員会]] 2013年3月9日 (土) 09:50 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=={{User2|あんだあすろう}}の投稿ブロック依頼==&lt;br /&gt;
俺の利用者ページを無断で編集したので、無期限ブロックにしてくれ。--[[利用者:アンチ泊優稀撲滅委員会|アンチ泊優稀撲滅委員会]] 2013年3月14日 (木) 14:08 (UTC)&lt;br /&gt;
:（解除依頼）それ以前に、貴方は無断で{{User|あんだあすろう}}のサブアカウントを名乗っていましたね[http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85:%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%81%E6%B3%8A%E5%84%AA%E7%A8%80%E6%92%B2%E6%BB%85%E5%A7%94%E5%93%A1%E4%BC%9A&amp;amp;oldid=167220 参照]。だから彼はそれを否定して貴方の利用者ページを編集したんです。悪いのは貴方の方です。--[[利用者:揖保川の水兵さん|揖保川の水兵さん]] 2013年3月15日 (金) 09:05 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==東海大学ローバースカウト隊　のページの保護を依頼したいです==&lt;br /&gt;
どうも、利用者:Minagoroshidaです。実は何者かが私のアカウントを使って、私の作成した東海大学ローバースカウト隊のページを白紙化したようなのです。&lt;br /&gt;
一体どうやったのか分かりませんが、とりあえず、東海大学ローバースカウト隊のページを編集できないよう、保護していただけないでしょうか？&lt;br /&gt;
できれば、誰が私のアカウントを使用したのか、という事についても調査をしていただければ幸いです。&lt;br /&gt;
[[利用者:Minagoroshida|Minagoroshida]] 2013年4月18日 (木) 04:29 (UTC)&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Minagoroshida</name></author>	</entry>

	<entry>
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		<title>東海大学ローバースカウト隊</title>
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				<updated>2013-04-18T04:25:47Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Minagoroshida: 2013年4月18日 (木) 09:40 の2つの投稿は何者かが私のアカウントを乗っ取って行った先編集権侵害です！調査をお願いします&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;東海大学ローバースカウト隊とは、クズ集団である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== クズ共 ==&lt;br /&gt;
*中根 由尚（なかね　よしたか）&lt;br /&gt;
:典型的なDQN。&lt;br /&gt;
:強い者に媚びへつらい、弱い者いじめ大好き。&lt;br /&gt;
:女子にセクハラは日常茶飯事。内容もむりやり胸を揉むなど直接的。いつ訴えられてもおかしくない状態だった。&lt;br /&gt;
:授業には行かず、女と同棲し、パチンコ・麻雀ざんまい。全く単位が取れず5年目が確定したため、親元に召還され、退学。&lt;br /&gt;
:しかし地元（[[名古屋]]）に戻った途端、金髪のヤンキーファッションに身を固める。何考えてんだコイツ。&lt;br /&gt;
:ある日、後輩たちがアルバイト談義をしていると唐突に「お前、楽する事ばっか考えてるだろ！んなんじゃどこも雇ってくれねぇよ！」と怒鳴る。&lt;br /&gt;
:誰がいつ楽をする事の話などしたのか。というか、それまんまアナタの事じゃないですか。&lt;br /&gt;
:自分では有能な人間だと思ってるらしい。&lt;br /&gt;
:卑怯で、非道で、ズル賢い事をやらせたら右に出る者はいない。&lt;br /&gt;
:資格も専門知識もな～んもありゃしません。&lt;br /&gt;
:世渡りの上手さだけは感じる。[[金正日]]みたい。&lt;br /&gt;
:本人いわく「（新人は）叩いて潰す」ことが教育らしい。何様だお前は。&lt;br /&gt;
:そもそもボーイスカウト自体が未熟者や社会のゴミに人間を教育させる勘違い団体なのだが、それにしてもこんなカスが他人を教育しようとしているから始末におえない。&lt;br /&gt;
:この人間が役に立つ方法はただ1つ、死んでこの世からいなくなる事である。&lt;br /&gt;
:締めるところは締める、がモットー。全部締めろや！&lt;br /&gt;
:礼儀を守れ、が口癖。だが自分は守らない。&lt;br /&gt;
:人の陰口を叩くのが趣味。だが自分が陰口を叩かれたと知るや激怒。&lt;br /&gt;
:立場の弱い者は大勢の前で罵倒するのがこれまた趣味。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*窪田 肇（くぼた　はじめ）&lt;br /&gt;
:偽善者。独善者。そしてDQN。&lt;br /&gt;
:コミュ障。人に分かるように会話するという事ができない。&lt;br /&gt;
:暴力。&lt;br /&gt;
:自分を正義の味方だと勘違いしている。&lt;br /&gt;
:ホモ顔。&lt;br /&gt;
:なぜか自分は頭がいいと思い込んでいる。&lt;br /&gt;
:コネ以外に自慢できるものがない。まあこれも自慢できるようなものじゃないが・・・&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*泉 紀子（いずみ　のりこ）&lt;br /&gt;
:偽善者。人の善意につけこんで悪事を働くのがうまい。&lt;br /&gt;
:関西人（滋賀県）。なんか関西ってこんなんばっかだな･･･&lt;br /&gt;
:結婚したらしい。よくこの女が結婚できたものだと感動さえする。イヤミぬきで。&lt;br /&gt;
:「日本人は時間に正確」が持論。が、人の遅刻はしつこく罵るくせに、自分が遅刻した場合は謝罪なし。どうなってんだ？&lt;br /&gt;
:全体主義者。&lt;br /&gt;
:自己中心主義者。自分の意見は絶対である。&lt;br /&gt;
:自分の責任逃れのためならどんな卑怯な手でも使う。自分が言い出したことでもみんなの責任だとか言い出す。旧日本軍の軍部と同じ手。&lt;br /&gt;
:頭は悪い。しかし自分では頭がいいと思っている。&lt;br /&gt;
:貧乏性。安く物を買うと自慢する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==ボーイスカウトで学べること==&lt;br /&gt;
*他人を見下すこと&lt;br /&gt;
*悪口を言うこと&lt;br /&gt;
*善良な人の心を傷つけること&lt;br /&gt;
*責任逃れ&lt;br /&gt;
*他人に責任を押し付けること&lt;br /&gt;
*他人を体良く利用すること&lt;br /&gt;
*自分の体面だけは取り繕うこと&lt;br /&gt;
*綺麗ごとを言うこと&lt;br /&gt;
*偽善行為を働くこと&lt;br /&gt;
*表面上だけは礼儀を守ること&lt;br /&gt;
*金に汚いこと&lt;br /&gt;
*時間を守ること&lt;br /&gt;
*約束を破ること&lt;br /&gt;
*わがままを言うこと&lt;br /&gt;
*感情的になること&lt;br /&gt;
*世の中、立ち回りや口のうまさ、コネが全てだということ&lt;br /&gt;
*真面目に努力するのはバカらしいということ&lt;br /&gt;
*正直に生きるのはバカだけということ&lt;br /&gt;
*社会のために働くのはバカだけということ&lt;br /&gt;
*何を言っても責任は取る必要はないということ&lt;br /&gt;
*取るハメになりそうになったら無関係の他人に押し付けて逃げる、もしくは道連れにして自分の罪を軽減すればいいということ&lt;br /&gt;
*人をどれほど侮辱・中傷・罵倒しても罪には問われないということ&lt;br /&gt;
*何が正しいかなどどうでもよく周囲の人間の言うことが正しいとされるいうこと（そして大きな間違いを犯す）&lt;br /&gt;
*結局のところ、うるさい人間が勝つということ&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Minagoroshida</name></author>	</entry>

	<entry>
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		<title>東海大学ローバースカウト隊</title>
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				<updated>2013-04-18T04:13:55Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Minagoroshida: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;東海大学ローバースカウト隊とは、クズ集団である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== クズ共 ==&lt;br /&gt;
*中根 由尚（なかね　よしたか）&lt;br /&gt;
:典型的なDQN。&lt;br /&gt;
:強い者に媚びへつらい、弱い者いじめ大好き。&lt;br /&gt;
:女子にセクハラは日常茶飯事。内容もむりやり胸を揉むなど直接的。いつ訴えられてもおかしくない状態だった。&lt;br /&gt;
:授業には行かず、女と同棲し、パチンコ・麻雀ざんまい。全く単位が取れず5年目が確定したため、親元に召還され、退学。&lt;br /&gt;
:しかし地元（[[名古屋]]）に戻った途端、金髪のヤンキーファッションに身を固める。何考えてんだコイツ。&lt;br /&gt;
:ある日、後輩たちがアルバイト談義をしていると唐突に「お前、楽する事ばっか考えてるだろ！んなんじゃどこも雇ってくれねぇよ！」と怒鳴る。&lt;br /&gt;
:誰がいつ楽をする事の話などしたのか。というか、それまんまアナタの事じゃないですか。&lt;br /&gt;
:自分では有能な人間だと思ってるらしい。&lt;br /&gt;
:卑怯で、非道で、ズル賢い事をやらせたら右に出る者はいない。&lt;br /&gt;
:資格も専門知識もな～んもありゃしません。&lt;br /&gt;
:世渡りの上手さだけは感じる。[[金正日]]みたい。&lt;br /&gt;
:本人いわく「（新人は）叩いて潰す」ことが教育らしい。何様だお前は。&lt;br /&gt;
:そもそもボーイスカウト自体が未熟者や社会のゴミに人間を教育させる勘違い団体なのだが、それにしてもこんなカスが他人を教育しようとしているから始末におえない。&lt;br /&gt;
:この人間が役に立つ方法はただ1つ、死んでこの世からいなくなる事である。&lt;br /&gt;
:締めるところは締める、がモットー。全部締めろや！&lt;br /&gt;
:礼儀を守れ、が口癖。だが自分は守らない。&lt;br /&gt;
:人の陰口を叩くのが趣味。だが自分が陰口を叩かれたと知るや激怒。&lt;br /&gt;
:立場の弱い者は大勢の前で罵倒するのがこれまた趣味。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*窪田 肇（くぼた　はじめ）&lt;br /&gt;
:偽善者。独善者。そしてDQN。&lt;br /&gt;
:コミュ障。人に分かるように会話するという事ができない。&lt;br /&gt;
:暴力。&lt;br /&gt;
:自分を正義の味方だと勘違いしている。&lt;br /&gt;
:ホモ顔。&lt;br /&gt;
:なぜか自分は頭がいいと思い込んでいる。&lt;br /&gt;
:コネ以外に自慢できるものがない。まあこれも自慢できるようなものじゃないが・・・&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*泉 紀子（いずみ　のりこ）&lt;br /&gt;
:偽善者。人の善意につけこんで悪事を働くのがうまい。&lt;br /&gt;
:関西人（滋賀県）。なんか関西ってこんなんばっかだな･･･&lt;br /&gt;
:結婚したらしい。よくこの女が結婚できたものだと感動さえする。イヤミぬきで。&lt;br /&gt;
:「日本人は時間に正確」が持論。が、人の遅刻はしつこく罵るくせに、自分が遅刻した場合は謝罪なし。どうなってんだ？&lt;br /&gt;
:全体主義者。&lt;br /&gt;
:自己中心主義者。自分の意見は絶対である。&lt;br /&gt;
:自分の責任逃れのためならどんな卑怯な手でも使う。自分が言い出したことでもみんなの責任だとか言い出す。旧日本軍の軍部と同じ手。&lt;br /&gt;
:頭は悪い。しかし自分では頭がいいと思っている。&lt;br /&gt;
:貧乏性。安く物を買うと自慢する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==ボーイスカウトで学べること==&lt;br /&gt;
*他人を見下すこと&lt;br /&gt;
*悪口を言うこと&lt;br /&gt;
*善良な人の心を傷つけること&lt;br /&gt;
*責任逃れ&lt;br /&gt;
*他人に責任を押し付けること&lt;br /&gt;
*他人を体良く利用すること&lt;br /&gt;
*自分の体面だけは取り繕うこと&lt;br /&gt;
*綺麗ごとを言うこと&lt;br /&gt;
*偽善行為を働くこと&lt;br /&gt;
*表面上だけは礼儀を守ること&lt;br /&gt;
*金に汚いこと&lt;br /&gt;
*時間を守ること&lt;br /&gt;
*約束を破ること&lt;br /&gt;
*わがままを言うこと&lt;br /&gt;
*感情的になること&lt;br /&gt;
*世の中、立ち回りや口のうまさ、コネが全てだということ&lt;br /&gt;
*真面目に努力するのはバカらしいということ&lt;br /&gt;
*正直に生きるのはバカだけということ&lt;br /&gt;
*社会のために働くのはバカだけということ&lt;br /&gt;
*何を言っても責任は取る必要はないということ&lt;br /&gt;
*取るハメになりそうになったら無関係の他人に押し付けて逃げる、もしくは道連れにして自分の罪を軽減すればいいということ&lt;br /&gt;
*人をどれほど侮辱・中傷・罵倒しても罪には問われないということ&lt;br /&gt;
*何が正しいかなどどうでもよく周囲の人間の言うことが正しいとされるいうこと（そして大きな間違いを犯す）&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Minagoroshida</name></author>	</entry>

	<entry>
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		<title>利用者:時を刻む少女</title>
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				<updated>2013-04-17T12:22:00Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Minagoroshida: ページの作成：「東海大学ローバースカウト隊とは、クズ集団である。  == クズ共 == *中根 由尚（なかね　よしたか） :典型的なDQN。 :強い者に媚...」&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;東海大学ローバースカウト隊とは、クズ集団である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== クズ共 ==&lt;br /&gt;
*中根 由尚（なかね　よしたか）&lt;br /&gt;
:典型的なDQN。&lt;br /&gt;
:強い者に媚びへつらい、弱い者いじめ大好き。&lt;br /&gt;
:女子にセクハラは日常茶飯事。内容もむりやり胸を揉むなど直接的。いつ訴えられてもおかしくない状態だった。&lt;br /&gt;
:授業には行かず、女と同棲し、パチンコ・麻雀ざんまい。全く単位が取れず5年目が確定したため、親元に召還され、退学。&lt;br /&gt;
:しかし地元（[[名古屋]]）に戻った途端、金髪のヤンキーファッションに身を固める。何考えてんだコイツ。&lt;br /&gt;
:ある日、後輩たちがアルバイト談義をしていると唐突に「お前、楽する事ばっか考えてるだろ！んなんじゃどこも雇ってくれねぇよ！」と怒鳴る。&lt;br /&gt;
:誰がいつ楽をする事の話などしたのか。というか、それまんまアナタの事じゃないですか。&lt;br /&gt;
:自分では有能な人間だと思ってるらしい。&lt;br /&gt;
:卑怯で、非道で、ズル賢い事をやらせたら右に出る者はいない。&lt;br /&gt;
:資格も専門知識もな～んもありゃしません。&lt;br /&gt;
:世渡りの上手さだけは感じる。[[金正日]]みたい。&lt;br /&gt;
:本人いわく「（新人は）叩いて潰す」ことが教育らしい。何様だお前は。&lt;br /&gt;
:そもそもボーイスカウト自体が未熟者や社会のゴミに人間を教育させる勘違い団体なのだが、それにしてもこんなカスが他人を教育しようとしているから始末におえない。&lt;br /&gt;
:この人間が役に立つ方法はただ1つ、死んでこの世からいなくなる事である。&lt;br /&gt;
:締めるところは締める、がモットー。全部締めろや！&lt;br /&gt;
:礼儀を守れ、が口癖。だが自分は守らない。&lt;br /&gt;
:人の陰口を叩くのが趣味。だが自分が陰口を叩かれたと知るや激怒。&lt;br /&gt;
:立場の弱い者は大勢の前で罵倒するのがこれまた趣味。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*窪田 肇（くぼた　はじめ）&lt;br /&gt;
:偽善者。独善者。そしてDQN。&lt;br /&gt;
:コミュ障。人に分かるように会話するという事ができない。&lt;br /&gt;
:暴力。&lt;br /&gt;
:自分を正義の味方だと勘違いしている。&lt;br /&gt;
:ホモ顔。&lt;br /&gt;
:なぜか自分は頭がいいと思い込んでいる。&lt;br /&gt;
:コネ以外に自慢できるものがない。まあこれも自慢できるようなものじゃないが・・・&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*泉 紀子（いずみ　のりこ）&lt;br /&gt;
:偽善者。人の善意につけこんで悪事を働くのがうまい。&lt;br /&gt;
:関西人（滋賀県）。なんか関西ってこんなんばっかだな･･･&lt;br /&gt;
:結婚したらしい。よくこの女が結婚できたものだと感動さえする。イヤミぬきで。&lt;br /&gt;
:「日本人は時間に正確」が持論。が、人の遅刻はしつこく罵るくせに、自分が遅刻した場合は謝罪なし。どうなってんだ？&lt;br /&gt;
:全体主義者。&lt;br /&gt;
:自己中心主義者。自分の意見は絶対である。&lt;br /&gt;
:自分の責任逃れのためならどんな卑怯な手でも使う。自分が言い出したことでもみんなの責任だとか言い出す。旧日本軍の軍部と同じ手。&lt;br /&gt;
:頭は悪い。しかし自分では頭がいいと思っている。&lt;br /&gt;
:貧乏性。安く物を買うと自慢する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==ボーイスカウトで学べること==&lt;br /&gt;
*他人を見下すこと&lt;br /&gt;
*悪口を言うこと&lt;br /&gt;
*善良な人の心を傷つけること&lt;br /&gt;
*責任逃れ&lt;br /&gt;
*他人に責任を押し付けること&lt;br /&gt;
*他人を体良く利用すること&lt;br /&gt;
*自分の体面だけは取り繕うこと&lt;br /&gt;
*綺麗ごとを言うこと&lt;br /&gt;
*偽善行為を働くこと&lt;br /&gt;
*表面上だけは礼儀を守ること&lt;br /&gt;
*金に汚いこと&lt;br /&gt;
*時間を守ること&lt;br /&gt;
*約束を破ること&lt;br /&gt;
*わがままを言うこと&lt;br /&gt;
*感情的になること&lt;br /&gt;
*世の中、立ち回りや口のうまさ、コネが全てだということ&lt;br /&gt;
*真面目に努力するのはバカらしいということ&lt;br /&gt;
*正直に生きるのはバカだけということ&lt;br /&gt;
*社会のために働くのはバカだけということ&lt;br /&gt;
*何を言っても責任は取る必要はないということ&lt;br /&gt;
*取るハメになりそうになったら無関係の他人に押し付けて逃げる、もしくは道連れにして自分の罪を軽減すればいいということ&lt;br /&gt;
*人をどれほど侮辱・中傷・罵倒しても罪には問われないということ&lt;br /&gt;
*何が正しいかなどどうでもよく周囲の人間の言うことが正しいとされるいうこと（そして大きな間違いを犯す）&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Minagoroshida</name></author>	</entry>

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		<title>東海大学ローバースカウト隊</title>
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		<summary type="html">&lt;p&gt;Minagoroshida: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;東海大学ローバースカウト隊とは、クズ集団である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== クズ共 ==&lt;br /&gt;
*中根 由尚（なかね　よしたか）&lt;br /&gt;
:典型的なDQN。&lt;br /&gt;
:強い者に媚びへつらい、弱い者いじめ大好き。&lt;br /&gt;
:女子にセクハラは日常茶飯事。内容もむりやり胸を揉むなど直接的。いつ訴えられてもおかしくない状態だった。&lt;br /&gt;
:授業には行かず、女と同棲し、パチンコ・麻雀ざんまい。全く単位が取れず5年目が確定したため、親元に召還され、退学。&lt;br /&gt;
:しかし地元（[[名古屋]]）に戻った途端、金髪のヤンキーファッションに身を固める。何考えてんだコイツ。&lt;br /&gt;
:ある日、後輩たちがアルバイト談義をしていると唐突に「お前、楽する事ばっか考えてるだろ！んなんじゃどこも雇ってくれねぇよ！」と怒鳴る。&lt;br /&gt;
:誰がいつ楽をする事の話などしたのか。というか、それまんまアナタの事じゃないですか。&lt;br /&gt;
:自分では有能な人間だと思ってるらしい。&lt;br /&gt;
:卑怯で、非道で、ズル賢い事をやらせたら右に出る者はいない。&lt;br /&gt;
:資格も専門知識もな～んもありゃしません。&lt;br /&gt;
:世渡りの上手さだけは感じる。[[金正日]]みたい。&lt;br /&gt;
:本人いわく「（新人は）叩いて潰す」ことが教育らしい。何様だお前は。&lt;br /&gt;
:そもそもボーイスカウト自体が未熟者や社会のゴミに人間を教育させる勘違い団体なのだが、それにしてもこんなカスが他人を教育しようとしているから始末におえない。&lt;br /&gt;
:この人間が役に立つ方法はただ1つ、死んでこの世からいなくなる事である。&lt;br /&gt;
:締めるところは締める、がモットー。全部締めろや！&lt;br /&gt;
:礼儀を守れ、が口癖。だが自分は守らない。&lt;br /&gt;
:人の陰口を叩くのが趣味。だが自分が陰口を叩かれたと知るや激怒。&lt;br /&gt;
:立場の弱い者は大勢の前で罵倒するのがこれまた趣味。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*窪田 肇（くぼた　はじめ）&lt;br /&gt;
:偽善者。独善者。そしてDQN。&lt;br /&gt;
:コミュ障。人に分かるように会話するという事ができない。&lt;br /&gt;
:暴力。&lt;br /&gt;
:自分を正義の味方だと勘違いしている。&lt;br /&gt;
:ホモ顔。&lt;br /&gt;
:なぜか自分は頭がいいと思い込んでいる。&lt;br /&gt;
:コネ以外に自慢できるものがない。まあこれも自慢できるようなものじゃないが・・・&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*泉 紀子（いずみ　のりこ）&lt;br /&gt;
:偽善者。人の善意につけこんで悪事を働くのがうまい。&lt;br /&gt;
:関西人（滋賀県）。なんか関西ってこんなんばっかだな･･･&lt;br /&gt;
:結婚したらしい。よくこの女が結婚できたものだと感動さえする。イヤミぬきで。&lt;br /&gt;
:「日本人は時間に正確」が持論。が、人の遅刻はしつこく罵るくせに、自分が遅刻した場合は謝罪なし。どうなってんだ？&lt;br /&gt;
:全体主義者。&lt;br /&gt;
:自己中心主義者。自分の意見は絶対である。&lt;br /&gt;
:自分の責任逃れのためならどんな卑怯な手でも使う。自分が言い出したことでもみんなの責任だとか言い出す。旧日本軍の軍部と同じ手。&lt;br /&gt;
:頭は悪い。しかし自分では頭がいいと思っている。&lt;br /&gt;
:貧乏性。安く物を買うと自慢する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==ボーイスカウトで学べること==&lt;br /&gt;
*他人を見下すこと&lt;br /&gt;
*悪口を言うこと&lt;br /&gt;
*善良な人の心を傷つけること&lt;br /&gt;
*責任逃れ&lt;br /&gt;
*他人に責任を押し付けること&lt;br /&gt;
*他人を体良く利用すること&lt;br /&gt;
*自分の体面だけは取り繕うこと&lt;br /&gt;
*綺麗ごとを言うこと&lt;br /&gt;
*偽善行為を働くこと&lt;br /&gt;
*表面上だけは礼儀を守ること&lt;br /&gt;
*金に汚いこと&lt;br /&gt;
*時間を守ること&lt;br /&gt;
*約束を破ること&lt;br /&gt;
*わがままを言うこと&lt;br /&gt;
*感情的になること&lt;br /&gt;
*世の中、立ち回りや口のうまさ、コネが全てだということ&lt;br /&gt;
*真面目に努力するのはバカらしいということ&lt;br /&gt;
*正直に生きるのはバカだけということ&lt;br /&gt;
*社会のために働くのはバカだけということ&lt;br /&gt;
*何を言っても責任は取る必要はないということ&lt;br /&gt;
*取るハメになりそうになったら無関係の他人に押し付けて逃げる、もしくは道連れにして自分の罪を軽減すればいいということ&lt;br /&gt;
*人をどれほど侮辱・中傷・罵倒しても罪には問われないということ&lt;br /&gt;
*何が正しいかなどどうでもよく周囲の人間の言うことが正しいとされるいうこと（そして大きな間違いを犯す）&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Minagoroshida</name></author>	</entry>

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		<title>東海大学ローバースカウト隊</title>
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				<updated>2013-04-07T09:29:58Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Minagoroshida: 先編集権を主張します。&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;東海大学ローバースカウト隊とは、クズ集団である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== クズ共 ==&lt;br /&gt;
*中根 由尚（なかね　よしたか）&lt;br /&gt;
:典型的なDQN。&lt;br /&gt;
:強い者に媚びへつらい、弱い者いじめ大好き。&lt;br /&gt;
:女子にセクハラは日常茶飯事。内容もむりやり胸を揉むなど直接的。いつ訴えられてもおかしくない状態だった。&lt;br /&gt;
:授業には行かず、女と同棲し、パチンコ・麻雀ざんまい。全く単位が取れず5年目が確定したため、親元に召還され、退学。&lt;br /&gt;
:しかし地元（[[名古屋]]）に戻った途端、金髪のヤンキーファッションに身を固める。何考えてんだコイツ。&lt;br /&gt;
:ある日、後輩たちがアルバイト談義をしていると唐突に「お前、楽する事ばっか考えてるだろ！んなんじゃどこも雇ってくれねぇよ！」と怒鳴る。&lt;br /&gt;
:誰がいつ楽をする事の話などしたのか。というか、それまんまアナタの事じゃないですか。&lt;br /&gt;
:自分では有能な人間だと思ってるらしい。&lt;br /&gt;
:卑怯で、非道で、ズル賢い事をやらせたら右に出る者はいない。&lt;br /&gt;
:資格も専門知識もな～んもありゃしません。&lt;br /&gt;
:世渡りの上手さだけは感じる。[[金正日]]みたい。&lt;br /&gt;
:本人いわく「（新人は）叩いて潰す」ことが教育らしい。何様だお前は。&lt;br /&gt;
:そもそもボーイスカウト自体が未熟者や社会のゴミに人間を教育させる勘違い団体なのだが、それにしてもこんなカスが他人を教育しようとしているから始末におえない。&lt;br /&gt;
:この人間が役に立つ方法はただ1つ、死んでこの世からいなくなる事である。&lt;br /&gt;
:締めるところは締める、がモットー。全部締めろや！&lt;br /&gt;
:礼儀を守れ、が口癖。だが自分は守らない。&lt;br /&gt;
:人の陰口を叩くのが趣味。だが自分が陰口を叩かれたと知るや激怒。&lt;br /&gt;
:立場の弱い者は大勢の前で罵倒するのがこれまた趣味。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*窪田 肇（くぼた　はじめ）&lt;br /&gt;
:偽善者。独善者。そしてDQN。&lt;br /&gt;
:コミュ障。人に分かるように会話するという事ができない。&lt;br /&gt;
:暴力。&lt;br /&gt;
:自分を正義の味方だと勘違いしている。&lt;br /&gt;
:ホモ顔。&lt;br /&gt;
:なぜか自分は頭がいいと思い込んでいる。&lt;br /&gt;
:コネ以外に自慢できるものがない。まあこれも自慢できるようなものじゃないが・・・&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*泉 紀子（いずみ　のりこ）&lt;br /&gt;
:偽善者。人の善意につけこんで悪事を働くのがうまい。&lt;br /&gt;
:関西人（滋賀県）。なんか関西ってこんなんばっかだな･･･&lt;br /&gt;
:結婚したらしい。よくこの女が結婚できたものだと感動さえする。イヤミぬきで。&lt;br /&gt;
:「日本人は時間に正確」が持論。が、人の遅刻はしつこく罵るくせに、自分が遅刻した場合は謝罪なし。どうなってんだ？&lt;br /&gt;
:全体主義者。&lt;br /&gt;
:自己中心主義者。自分の意見は絶対である。&lt;br /&gt;
:自分の責任逃れのためならどんな卑怯な手でも使う。自分が言い出したことでもみんなの責任だとか言い出す。旧日本軍の軍部と同じ手。&lt;br /&gt;
:頭は悪い。しかし自分では頭がいいと思っている。&lt;br /&gt;
:貧乏性。安く物を買うと自慢する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==ボーイスカウトで学べること==&lt;br /&gt;
*他人を見下すこと&lt;br /&gt;
*悪口を言うこと&lt;br /&gt;
*善良な人の心を傷つけること&lt;br /&gt;
*責任逃れ&lt;br /&gt;
*他人に責任を押し付けること&lt;br /&gt;
*他人を体良く利用すること&lt;br /&gt;
*自分の体面だけは取り繕うこと&lt;br /&gt;
*綺麗ごとを言うこと&lt;br /&gt;
*偽善行為を働くこと&lt;br /&gt;
*表面上だけは礼儀を守ること&lt;br /&gt;
*金に汚いこと&lt;br /&gt;
*時間を守ること&lt;br /&gt;
*約束を破ること&lt;br /&gt;
*わがままを言うこと&lt;br /&gt;
*感情的になること&lt;br /&gt;
*世の中、立ち回りや口のうまさ、コネが全てだということ&lt;br /&gt;
*真面目に努力するのはバカらしいということ&lt;br /&gt;
*正直に生きるのはバカだけということ&lt;br /&gt;
*社会のために働くのはバカだけということ&lt;br /&gt;
*何を言っても責任は取る必要はないということ&lt;br /&gt;
*取るハメになりそうになったら無関係の他人に押し付けて逃げる、もしくは道連れにして自分の罪を軽減すればいいということ&lt;br /&gt;
*人をどれほど侮辱・中傷・罵倒しても罪には問われないということ&lt;br /&gt;
*何が正しいかなどどうでもよく周囲の人間の言うことが正しいとされるいうこと（そして大きな間違いを犯す）&lt;/div&gt;</summary>
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				<updated>2013-03-25T11:42:07Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Minagoroshida: /* クズ共 */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;東海大学ローバースカウト隊とは、クズ集団である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== クズ共 ==&lt;br /&gt;
*中根 由尚（なかね　よしたか）&lt;br /&gt;
:典型的なDQN。&lt;br /&gt;
:強い者に媚びへつらい、弱い者いじめ大好き。&lt;br /&gt;
:女子にセクハラは日常茶飯事。内容もむりやり胸を揉むなど直接的。いつ訴えられてもおかしくない状態だった。&lt;br /&gt;
:授業には行かず、女と同棲し、パチンコ・麻雀ざんまい。全く単位が取れず5年目が確定したため、親元に召還され、退学。&lt;br /&gt;
:しかし地元（[[名古屋]]）に戻った途端、金髪のヤンキーファッションに身を固める。何考えてんだコイツ。&lt;br /&gt;
:ある日、後輩たちがアルバイト談義をしていると唐突に「お前、楽する事ばっか考えてるだろ！んなんじゃどこも雇ってくれねぇよ！」と怒鳴る。&lt;br /&gt;
:誰がいつ楽をする事の話などしたのか。というか、それまんまアナタの事じゃないですか。&lt;br /&gt;
:自分では有能な人間だと思ってるらしい。&lt;br /&gt;
:卑怯で、非道で、ズル賢い事をやらせたら右に出る者はいない。&lt;br /&gt;
:資格も専門知識もな～んもありゃしません。&lt;br /&gt;
:世渡りの上手さだけは感じる。[[金正日]]みたい。&lt;br /&gt;
:本人いわく「（新人は）叩いて潰す」ことが教育らしい。何様だお前は。&lt;br /&gt;
:そもそもボーイスカウト自体が未熟者や社会のゴミに人間を教育させる勘違い団体なのだが、それにしてもこんなカスが他人を教育しようとしているから始末におえない。&lt;br /&gt;
:この人間が役に立つ方法はただ1つ、死んでこの世からいなくなる事である。&lt;br /&gt;
:締めるところは締める、がモットー。全部締めろや！&lt;br /&gt;
:礼儀を守れ、が口癖。だが自分は守らない。&lt;br /&gt;
:人の陰口を叩くのが趣味。だが自分が陰口を叩かれたと知るや激怒。&lt;br /&gt;
:立場の弱い者は大勢の前で罵倒するのがこれまた趣味。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*窪田 肇（くぼた　はじめ）&lt;br /&gt;
:偽善者。独善者。そしてDQN。&lt;br /&gt;
:コミュ障。人に分かるように会話するという事ができない。&lt;br /&gt;
:暴力。&lt;br /&gt;
:自分を正義の味方だと勘違いしている。&lt;br /&gt;
:ホモ顔。&lt;br /&gt;
:なぜか自分は頭がいいと思い込んでいる。&lt;br /&gt;
:コネ以外に自慢できるものがない。まあこれも自慢できるようなものじゃないが・・・&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*泉 紀子（いずみ　のりこ）&lt;br /&gt;
:偽善者。人の善意につけこんで悪事を働くのがうまい。&lt;br /&gt;
:関西人（滋賀県）。なんか関西ってこんなんばっかだな･･･&lt;br /&gt;
:結婚したらしい。よくこの女が結婚できたものだと感動さえする。イヤミぬきで。&lt;br /&gt;
:「日本人は時間に正確」が持論。が、人の遅刻はしつこく罵るくせに、自分が遅刻した場合は謝罪なし。どうなってんだ？&lt;br /&gt;
:全体主義者。&lt;br /&gt;
:自己中心主義者。自分の意見は絶対である。&lt;br /&gt;
:自分の責任逃れのためならどんな卑怯な手でも使う。自分が言い出したことでもみんなの責任だとか言い出す。旧日本軍の軍部と同じ手。&lt;br /&gt;
:頭は悪い。しかし自分では頭がいいと思っている。&lt;br /&gt;
:貧乏性。安く物を買うと自慢する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==ボーイスカウトで学べること==&lt;br /&gt;
*他人を見下すこと&lt;br /&gt;
*悪口を言うこと&lt;br /&gt;
*善良な人の心を傷つけること&lt;br /&gt;
*責任逃れ&lt;br /&gt;
*他人に責任を押し付けること&lt;br /&gt;
*他人を体良く利用すること&lt;br /&gt;
*自分の体面だけは取り繕うこと&lt;br /&gt;
*綺麗ごとを言うこと&lt;br /&gt;
*偽善行為を働くこと&lt;br /&gt;
*表面上だけは礼儀を守ること&lt;br /&gt;
*金に汚いこと&lt;br /&gt;
*時間を守ること&lt;br /&gt;
*約束を破ること&lt;br /&gt;
*わがままを言うこと&lt;br /&gt;
*感情的になること&lt;br /&gt;
*世の中、立ち回りや口のうまさ、コネが全てだということ&lt;br /&gt;
*真面目に努力するのはバカらしいということ&lt;br /&gt;
*正直に生きるのはバカだけということ&lt;br /&gt;
*社会のために働くのはバカだけということ&lt;br /&gt;
*何を言っても責任は取る必要はないということ&lt;br /&gt;
*取るハメになりそうになったら無関係の他人に押し付けて逃げる、もしくは道連れにして自分の罪を軽減すればいいということ&lt;br /&gt;
*人をどれほど侮辱・中傷・罵倒しても罪には問われないということ&lt;br /&gt;
*何が正しいかなどどうでもよく周囲の人間の言うことが正しいとされるいうこと（そして大きな間違いを犯す）&lt;/div&gt;</summary>
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		<summary type="html">&lt;p&gt;Minagoroshida: ふざけんな☆&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;東海大学ローバースカウト隊とは、クズ集団である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== クズ共 ==&lt;br /&gt;
*中根 由尚（なかね　よしたか）&lt;br /&gt;
:典型的なDQN。&lt;br /&gt;
:強い者に媚びへつらい、弱い者いじめ大好き。&lt;br /&gt;
:女子にセクハラは日常茶飯事。内容もむりやり胸を揉むなど直接的。いつ訴えられてもおかしくない状態だった。&lt;br /&gt;
:授業には行かず、女と同棲し、パチンコ・麻雀ざんまい。全く単位が取れず5年目が確定したため、親元に召還され、退学。&lt;br /&gt;
:しかし地元（[[名古屋]]）に戻った途端、金髪のヤンキーファッションに身を固める。何考えてんだコイツ。&lt;br /&gt;
:ある日、後輩たちがアルバイト談義をしていると唐突に「お前、楽する事ばっか考えてるだろ！んなんじゃどこも雇ってくれねぇよ！」と怒鳴る。&lt;br /&gt;
:誰がいつ楽をする事の話などしたのか。というか、それまんまアナタの事じゃないですか。&lt;br /&gt;
:自分では有能な人間だと思ってるらしい。&lt;br /&gt;
:卑怯で、非道で、ズル賢い事をやらせたら右に出る者はいない。&lt;br /&gt;
:資格も専門知識もな～んもありゃしません。&lt;br /&gt;
:世渡りの上手さだけは感じる。[[金正日]]みたい。&lt;br /&gt;
:本人いわく「（新人は）叩いて潰す」ことが教育らしい。何様だお前は。&lt;br /&gt;
:そもそもボーイスカウト自体が未熟者や社会のゴミに人間を教育させる勘違い団体なのだが、それにしてもこんなカスが他人を教育しようとしているから始末におえない。&lt;br /&gt;
:この人間が役に立つ方法はただ1つ、死んでこの世からいなくなる事である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*窪田 肇（くぼた　はじめ）&lt;br /&gt;
:偽善者。独善者。そしてDQN。&lt;br /&gt;
:コミュ障。人に分かるように会話するという事ができない。&lt;br /&gt;
:暴力。&lt;br /&gt;
:自分を正義の味方だと勘違いしている。&lt;br /&gt;
:ホモ顔。&lt;br /&gt;
:なぜか自分は頭がいいと思い込んでいる。&lt;br /&gt;
:コネ以外に自慢できるものがない。まあこれも自慢できるようなものじゃないが・・・&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*泉 紀子（いずみ　のりこ）&lt;br /&gt;
:偽善者。人の善意につけこんで悪事を働くのがうまい。&lt;br /&gt;
:関西人（滋賀県）。なんか関西ってこんなんばっかだな･･･&lt;br /&gt;
:結婚したらしい。よくこの女が結婚できたものだと感動さえする。イヤミぬきで。&lt;br /&gt;
:「日本人は時間に正確」が持論。が、人の遅刻はしつこく罵るくせに、自分が遅刻した場合は謝罪なし。どうなってんだ？&lt;br /&gt;
:全体主義者。&lt;br /&gt;
:自己中心主義者。自分の意見は絶対である。&lt;br /&gt;
:自分の責任逃れのためならどんな卑怯な手でも使う。自分が言い出したことでもみんなの責任だとか言い出す。旧日本軍の軍部と同じ手。&lt;br /&gt;
:頭は悪い。しかし自分では頭がいいと思っている。&lt;br /&gt;
:貧乏性。安く物を買うと自慢する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==ボーイスカウトで学べること==&lt;br /&gt;
*他人を見下すこと&lt;br /&gt;
*悪口を言うこと&lt;br /&gt;
*善良な人の心を傷つけること&lt;br /&gt;
*責任逃れ&lt;br /&gt;
*他人に責任を押し付けること&lt;br /&gt;
*他人を体良く利用すること&lt;br /&gt;
*自分の体面だけは取り繕うこと&lt;br /&gt;
*綺麗ごとを言うこと&lt;br /&gt;
*偽善行為を働くこと&lt;br /&gt;
*表面上だけは礼儀を守ること&lt;br /&gt;
*金に汚いこと&lt;br /&gt;
*時間を守ること&lt;br /&gt;
*約束を破ること&lt;br /&gt;
*わがままを言うこと&lt;br /&gt;
*感情的になること&lt;br /&gt;
*世の中、立ち回りや口のうまさ、コネが全てだということ&lt;br /&gt;
*真面目に努力するのはバカらしいということ&lt;br /&gt;
*正直に生きるのはバカだけということ&lt;br /&gt;
*社会のために働くのはバカだけということ&lt;br /&gt;
*何を言っても責任は取る必要はないということ&lt;br /&gt;
*取るハメになりそうになったら無関係の他人に押し付けて逃げる、もしくは道連れにして自分の罪を軽減すればいいということ&lt;br /&gt;
*人をどれほど侮辱・中傷・罵倒しても罪には問われないということ&lt;br /&gt;
*何が正しいかなどどうでもよく周囲の人間の言うことが正しいとされるいうこと（そして大きな間違いを犯す）&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Minagoroshida</name></author>	</entry>

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		<summary type="html">&lt;p&gt;Minagoroshida: /* ボーイスカウトで学べること */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;東海大学ローバースカウト隊とは、クズ集団である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== クズ共 ==&lt;br /&gt;
*中根 由尚（なかね　よしたか）&lt;br /&gt;
:典型的なDQN。&lt;br /&gt;
:強い者に媚びへつらい、弱い者いじめ大好き。&lt;br /&gt;
:女子にセクハラは日常茶飯事。内容もむりやり胸を揉むなど直接的。いつ訴えられてもおかしくない状態だった。&lt;br /&gt;
:授業には行かず、女と同棲し、パチンコ・麻雀ざんまい。全く単位が取れず5年目が確定したため、親元に召還され、退学。&lt;br /&gt;
:しかし地元（[[名古屋]]）に戻った途端、金髪のヤンキーファッションに身を固める。何考えてんだコイツ。&lt;br /&gt;
:ある日、後輩たちがアルバイト談義をしていると唐突に「お前、楽する事ばっか考えてるだろ！んなんじゃどこも雇ってくれねぇよ！」と怒鳴る。&lt;br /&gt;
:誰がいつ楽をする事の話などしたのか。というか、それまんまアナタの事じゃないですか。&lt;br /&gt;
:自分では有能な人間だと思ってるらしい。&lt;br /&gt;
:卑怯で、非道で、ズル賢い事をやらせたら右に出る者はいない。&lt;br /&gt;
:資格も専門知識もな～んもありゃしません。&lt;br /&gt;
:世渡りの上手さだけは感じる。[[金正日]]みたい。&lt;br /&gt;
:本人いわく「（新人は）叩いて潰す」ことが教育らしい。何様だお前は。&lt;br /&gt;
:そもそもボーイスカウト自体が未熟者や社会のゴミに人間を教育させる勘違い団体なのだが、それにしてもこんなカスが他人を教育しようとしているから始末におえない。&lt;br /&gt;
:この人間が役に立つ方法はただ1つ、死んでこの世からいなくなる事である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*窪田 肇（くぼた　はじめ）&lt;br /&gt;
:偽善者。独善者。そしてDQN。&lt;br /&gt;
:コミュ障。人に分かるように会話するという事ができない。&lt;br /&gt;
:暴力。&lt;br /&gt;
:自分を正義の味方だと勘違いしている。&lt;br /&gt;
:ホモ顔。&lt;br /&gt;
:なぜか自分は頭がいいと思い込んでいる。&lt;br /&gt;
:コネ以外に自慢できるものがない。まあこれも自慢できるようなものじゃないが・・・&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*泉 紀子（いずみ　のりこ）&lt;br /&gt;
:偽善者。人の善意につけこんで悪事を働くのがうまい。&lt;br /&gt;
:関西人（滋賀県）。なんか関西ってこんなんばっかだな･･･&lt;br /&gt;
:結婚したらしい。よくこの女が結婚できたものだと感動さえする。イヤミぬきで。&lt;br /&gt;
:「日本人は時間に正確」が持論。が、人の遅刻はしつこく罵るくせに、自分が遅刻した場合は謝罪なし。どうなってんだ？&lt;br /&gt;
:全体主義者。&lt;br /&gt;
:自己中心主義者。自分の意見は絶対である。&lt;br /&gt;
:自分の責任逃れのためならどんな卑怯な手でも使う。自分が言い出したことでもみんなの責任だとか言い出す。旧日本軍の軍部と同じ手。&lt;br /&gt;
:頭は悪い。しかし自分では頭がいいと思っている。&lt;br /&gt;
:貧乏性。安く物を買うと自慢する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==ボーイスカウトで学べること==&lt;br /&gt;
*他人を見下すこと&lt;br /&gt;
*悪口を言うこと&lt;br /&gt;
*善良な人の心を傷つけること&lt;br /&gt;
*責任逃れ&lt;br /&gt;
*他人に責任を押し付けること&lt;br /&gt;
*他人を体良く利用すること&lt;br /&gt;
*自分の体面だけは取り繕うこと&lt;br /&gt;
*綺麗ごとを言うこと&lt;br /&gt;
*偽善行為を働くこと&lt;br /&gt;
*表面上だけは礼儀を守ること&lt;br /&gt;
*金に汚いこと&lt;br /&gt;
*時間を守ること&lt;br /&gt;
*約束を破ること&lt;br /&gt;
*わがままを言うこと&lt;br /&gt;
*感情的になること&lt;br /&gt;
*世の中、立ち回りや口のうまさ、コネが全てだということ&lt;br /&gt;
*真面目に努力するのはバカらしいということ&lt;br /&gt;
*正直に生きるのはバカだけということ&lt;br /&gt;
*社会のために働くのはバカだけということ&lt;br /&gt;
*何を言っても責任は取る必要はないということ&lt;br /&gt;
*取るハメになりそうになったら無関係の他人に押し付けて逃げる、もしくは道連れにして自分の罪を軽減すればいいということ&lt;br /&gt;
*人をどれほど侮辱・中傷・罵倒しても罪には問われないということ&lt;br /&gt;
*何が正しいかなどどうでもよく周囲の人間の言うことが正しいとされるいうこと（そして大きな間違いを犯す）&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Minagoroshida</name></author>	</entry>

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		<id>http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E6%9D%B1%E6%B5%B7%E5%A4%A7%E5%AD%A6%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%90%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%82%AB%E3%82%A6%E3%83%88%E9%9A%8A&amp;diff=176780</id>
		<title>東海大学ローバースカウト隊</title>
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				<updated>2013-01-19T03:14:06Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Minagoroshida: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;東海大学ローバースカウト隊とは、クズ集団である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== クズ共 ==&lt;br /&gt;
*中根 由尚（なかね　よしたか）&lt;br /&gt;
:典型的なDQN。&lt;br /&gt;
:強い者に媚びへつらい、弱い者いじめ大好き。&lt;br /&gt;
:女子にセクハラは日常茶飯事。内容もむりやり胸を揉むなど直接的。いつ訴えられてもおかしくない状態だった。&lt;br /&gt;
:授業には行かず、女と同棲し、パチンコ・麻雀ざんまい。全く単位が取れず5年目が確定したため、親元に召還され、退学。&lt;br /&gt;
:しかし地元（[[名古屋]]）に戻った途端、金髪のヤンキーファッションに身を固める。何考えてんだコイツ。&lt;br /&gt;
:ある日、後輩たちがアルバイト談義をしていると唐突に「お前、楽する事ばっか考えてるだろ！んなんじゃどこも雇ってくれねぇよ！」と怒鳴る。&lt;br /&gt;
:誰がいつ楽をする事の話などしたのか。というか、それまんまアナタの事じゃないですか。&lt;br /&gt;
:自分では有能な人間だと思ってるらしい。&lt;br /&gt;
:卑怯で、非道で、ズル賢い事をやらせたら右に出る者はいない。&lt;br /&gt;
:資格も専門知識もな～んもありゃしません。&lt;br /&gt;
:世渡りの上手さだけは感じる。[[金正日]]みたい。&lt;br /&gt;
:本人いわく「（新人は）叩いて潰す」ことが教育らしい。何様だお前は。&lt;br /&gt;
:そもそもボーイスカウト自体が未熟者や社会のゴミに人間を教育させる勘違い団体なのだが、それにしてもこんなカスが他人を教育しようとしているから始末におえない。&lt;br /&gt;
:この人間が役に立つ方法はただ1つ、死んでこの世からいなくなる事である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*窪田 肇（くぼた　はじめ）&lt;br /&gt;
:偽善者。独善者。そしてDQN。&lt;br /&gt;
:コミュ障。人に分かるように会話するという事ができない。&lt;br /&gt;
:暴力。&lt;br /&gt;
:自分を正義の味方だと勘違いしている。&lt;br /&gt;
:ホモ顔。&lt;br /&gt;
:なぜか自分は頭がいいと思い込んでいる。&lt;br /&gt;
:コネ以外に自慢できるものがない。まあこれも自慢できるようなものじゃないが・・・&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*泉 紀子（いずみ　のりこ）&lt;br /&gt;
:偽善者。人の善意につけこんで悪事を働くのがうまい。&lt;br /&gt;
:関西人（滋賀県）。なんか関西ってこんなんばっかだな･･･&lt;br /&gt;
:結婚したらしい。よくこの女が結婚できたものだと感動さえする。イヤミぬきで。&lt;br /&gt;
:「日本人は時間に正確」が持論。が、人の遅刻はしつこく罵るくせに、自分が遅刻した場合は謝罪なし。どうなってんだ？&lt;br /&gt;
:全体主義者。&lt;br /&gt;
:自己中心主義者。自分の意見は絶対である。&lt;br /&gt;
:自分の責任逃れのためならどんな卑怯な手でも使う。自分が言い出したことでもみんなの責任だとか言い出す。旧日本軍の軍部と同じ手。&lt;br /&gt;
:頭は悪い。しかし自分では頭がいいと思っている。&lt;br /&gt;
:貧乏性。安く物を買うと自慢する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==ボーイスカウトで学べること==&lt;br /&gt;
*他人を見下すこと&lt;br /&gt;
*悪口を言うこと&lt;br /&gt;
*善良な人の心を傷つけること&lt;br /&gt;
*責任逃れ&lt;br /&gt;
*他人に責任を押し付けること&lt;br /&gt;
*他人を体良く利用すること&lt;br /&gt;
*自分の体面だけは取り繕うこと&lt;br /&gt;
*綺麗ごとを言うこと&lt;br /&gt;
*偽善行為を働くこと&lt;br /&gt;
*表面上だけは礼儀を守ること&lt;br /&gt;
*金に汚いこと&lt;br /&gt;
*時間を守ること&lt;br /&gt;
*約束を破ること&lt;br /&gt;
*わがままを言うこと&lt;br /&gt;
*感情的になること&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Minagoroshida</name></author>	</entry>

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		<title>ニコニコ大百科</title>
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				<updated>2013-01-08T07:30:17Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Minagoroshida: Fromm（トーク）による第166918版を取り消し&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''ニコニコ大百科'''とは未来検索ブラジルが運営するオンライン百科事典である。西村博之がかかわっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 概要 ==&lt;br /&gt;
ニコニコ動画に関連する用語をはじめ、あらゆる情報についてユーザーが記事を編集できるサイトである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ニコニコ動画のアカウントを持ち、なおかつプレミアム会員でなければ編集ができない。このため記事の内容は非常に偏っている。一般会員も編集できるようになって欲しいとの声が上がっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この大百科の「ユアペディア」の項目には「ユアペディアはウィキペディアやアンサイクロペディア、チャクウィキのユーザーや、著名人の”誹謗中傷”記事が多い」と記されている。まあ、そのとおりである。アンサイクロペディアはもっと多く、ウィキはウィキで編集者同士が同じくらいの酷さで誹謗中傷合戦を繰り広げているがね。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2ちゃんねるなどに比べれば雰囲気は緩めだが、もちろん荒れている場所もある。人が少ない分、よりタチの悪い人間だって存在する。少数ながら問題を起こすユーザーもいないわけではない。例→[[スッス]]。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連サイト ==&lt;br /&gt;
*[http://dic.nicovideo.jp/ ニコニコ大百科]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Minagoroshida</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85:%E3%81%8B%E3%82%8F%E3%81%84%E3%81%9D%E3%81%86%E3%81%AA%E3%82%84%E3%81%A4%EF%BC%9F&amp;diff=176440</id>
		<title>利用者:かわいそうなやつ？</title>
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		<summary type="html">&lt;p&gt;Minagoroshida: ページの作成：「東海大学ローバースカウト隊とは、クズ集団である。  == クズ共 == *中根 由尚（なかね　よしたか） :典型的なDQN。 :強い者に媚...」&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;東海大学ローバースカウト隊とは、クズ集団である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== クズ共 ==&lt;br /&gt;
*中根 由尚（なかね　よしたか）&lt;br /&gt;
:典型的なDQN。&lt;br /&gt;
:強い者に媚びへつらい、弱い者いじめ大好き。&lt;br /&gt;
:女子にセクハラは日常茶飯事。内容もむりやり胸を揉むなど直接的。いつ訴えられてもおかしくない状態だった。&lt;br /&gt;
:授業には行かず、女と同棲し、パチンコ・麻雀ざんまい。全く単位が取れず5年目が確定したため、親元に召還され、退学。&lt;br /&gt;
:しかし地元（[[名古屋]]）に戻った途端、金髪のヤンキーファッションに身を固める。何考えてんだコイツ。&lt;br /&gt;
:ある日、後輩たちがアルバイト談義をしていると唐突に「お前、楽する事ばっか考えてるだろ！んなんじゃどこも雇ってくれねぇよ！」と怒鳴る。&lt;br /&gt;
:誰がいつ楽をする事の話などしたのか。というか、それまんまアナタの事じゃないですか。&lt;br /&gt;
:自分では有能な人間だと思ってるらしい。&lt;br /&gt;
:卑怯で、非道で、ズル賢い事をやらせたら右に出る者はいない。&lt;br /&gt;
:資格も専門知識もな～んもありゃしません。&lt;br /&gt;
:世渡りの上手さだけは感じる。[[金正日]]みたい。&lt;br /&gt;
:本人いわく「（新人は）叩いて潰す」ことが教育らしい。何様だお前は。&lt;br /&gt;
:そもそもボーイスカウト自体が未熟者や社会のゴミに人間を教育させる勘違い団体なのだが、それにしてもこんなカスが他人を教育しようとしているから始末におえない。&lt;br /&gt;
:この人間が役に立つ方法はただ1つ、死んでこの世からいなくなる事である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*窪田 肇（くぼた　はじめ）&lt;br /&gt;
:偽善者。独善者。そしてDQN。&lt;br /&gt;
:コミュ障。人に分かるように会話するという事ができない。&lt;br /&gt;
:暴力。&lt;br /&gt;
:自分を正義の味方だと勘違いしている。&lt;br /&gt;
:ホモ顔。&lt;br /&gt;
:なぜか自分は頭がいいと思い込んでいる。&lt;br /&gt;
:コネ以外に自慢できるものがない。まあこれも自慢できるようなものじゃないが・・・&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*泉 紀子（いずみ　のりこ）&lt;br /&gt;
:偽善者。人の善意につけこんで悪事を働くのがうまい。&lt;br /&gt;
:関西人（滋賀県）。なんか関西ってこんなんばっかだな･･･&lt;br /&gt;
:結婚したらしい。よくこの女が結婚できたものだと感動さえする。イヤミぬきで。&lt;br /&gt;
:「日本人は時間に正確」が持論。が、人の遅刻はしつこく罵るくせに、自分が遅刻した場合は謝罪なし。どうなってんだ？&lt;br /&gt;
:全体主義者。&lt;br /&gt;
:自己中心主義者。自分の意見は絶対である。&lt;br /&gt;
:自分の責任逃れのためならどんな卑怯な手でも使う。自分が言い出したことでもみんなの責任だとか言い出す。旧日本軍の軍部と同じ手。&lt;br /&gt;
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		<author><name>Minagoroshida</name></author>	</entry>

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		<summary type="html">&lt;p&gt;Minagoroshida: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;東海大学ローバースカウト隊とは、クズ集団である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== クズ共 ==&lt;br /&gt;
*中根 由尚（なかね　よしたか）&lt;br /&gt;
:典型的なDQN。&lt;br /&gt;
:強い者に媚びへつらい、弱い者いじめ大好き。&lt;br /&gt;
:女子にセクハラは日常茶飯事。内容もむりやり胸を揉むなど直接的。いつ訴えられてもおかしくない状態だった。&lt;br /&gt;
:授業には行かず、女と同棲し、パチンコ・麻雀ざんまい。全く単位が取れず5年目が確定したため、親元に召還され、退学。&lt;br /&gt;
:しかし地元（[[名古屋]]）に戻った途端、金髪のヤンキーファッションに身を固める。何考えてんだコイツ。&lt;br /&gt;
:ある日、後輩たちがアルバイト談義をしていると唐突に「お前、楽する事ばっか考えてるだろ！んなんじゃどこも雇ってくれねぇよ！」と怒鳴る。&lt;br /&gt;
:誰がいつ楽をする事の話などしたのか。というか、それまんまアナタの事じゃないですか。&lt;br /&gt;
:自分では有能な人間だと思ってるらしい。&lt;br /&gt;
:卑怯で、非道で、ズル賢い事をやらせたら右に出る者はいない。&lt;br /&gt;
:資格も専門知識もな～んもありゃしません。&lt;br /&gt;
:世渡りの上手さだけは感じる。[[金正日]]みたい。&lt;br /&gt;
:本人いわく「（新人は）叩いて潰す」ことが教育らしい。何様だお前は。&lt;br /&gt;
:そもそもボーイスカウト自体が未熟者や社会のゴミに人間を教育させる勘違い団体なのだが、それにしてもこんなカスが他人を教育しようとしているから始末におえない。&lt;br /&gt;
:この人間が役に立つ方法はただ1つ、死んでこの世からいなくなる事である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*窪田 肇（くぼた　はじめ）&lt;br /&gt;
:偽善者。独善者。そしてDQN。&lt;br /&gt;
:コミュ障。人に分かるように会話するという事ができない。&lt;br /&gt;
:暴力。&lt;br /&gt;
:自分を正義の味方だと勘違いしている。&lt;br /&gt;
:ホモ顔。&lt;br /&gt;
:なぜか自分は頭がいいと思い込んでいる。&lt;br /&gt;
:コネ以外に自慢できるものがない。まあこれも自慢できるようなものじゃないが・・・&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*泉 紀子（いずみ　のりこ）&lt;br /&gt;
:偽善者。人の善意につけこんで悪事を働くのがうまい。&lt;br /&gt;
:関西人（滋賀県）。なんか関西ってこんなんばっかだな･･･&lt;br /&gt;
:結婚したらしい。よくこの女が結婚できたものだと感動さえする。イヤミぬきで。&lt;br /&gt;
:「日本人は時間に正確」が持論。が、人の遅刻はしつこく罵るくせに、自分が遅刻した場合は謝罪なし。どうなってんだ？&lt;br /&gt;
:全体主義者。&lt;br /&gt;
:自己中心主義者。自分の意見は絶対である。&lt;br /&gt;
:自分の責任逃れのためならどんな卑怯な手でも使う。自分が言い出したことでもみんなの責任だとか言い出す。旧日本軍の軍部と同じ手。&lt;br /&gt;
:頭は悪い。しかし自分では頭がいいと思っている。&lt;br /&gt;
:貧乏性。安く物を買うと自慢する。&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Minagoroshida</name></author>	</entry>

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&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;東海大学ローバースカウト隊とは、クズ集団である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== クズ共 ==&lt;br /&gt;
*中根 由尚（なかね　よしたか）&lt;br /&gt;
:典型的なDQN。&lt;br /&gt;
:強い者に媚びへつらい、弱い者いじめ大好き。&lt;br /&gt;
:女子にセクハラは日常茶飯事。内容もむりやり胸を揉むなど直接的。いつ訴えられてもおかしくない状態だった。&lt;br /&gt;
:授業には行かず、女と同棲し、パチンコ・麻雀ざんまい。全く単位が取れず5年目が確定したため、親元に召還され、退学。&lt;br /&gt;
:しかし地元（[[名古屋]]）に戻った途端、金髪のヤンキーファッションに身を固める。何考えてんだコイツ。&lt;br /&gt;
:ある日、後輩たちがアルバイト談義をしていると唐突に「お前、楽する事ばっか考えてるだろ！んなんじゃどこも雇ってくれねぇよ！」と怒鳴る。&lt;br /&gt;
:誰がいつ楽をする事の話などしたのか。というか、それまんまアナタの事じゃないですか。&lt;br /&gt;
:自分では有能な人間だと思ってるらしい。&lt;br /&gt;
:卑怯で、非道で、ズル賢い事をやらせたら右に出る者はいない。&lt;br /&gt;
:資格も専門知識もな～んもありゃしません。&lt;br /&gt;
:世渡りの上手さだけは感じる。[[金正日]]みたい。&lt;br /&gt;
:本人いわく「（新人は）叩いて潰す」ことが教育らしい。何様だお前は。&lt;br /&gt;
:そもそもボーイスカウト自体が未熟者や社会のゴミに人間を教育させる勘違い団体なのだが、それにしてもこんなカスが他人を教育しようとしているから始末におえない。&lt;br /&gt;
:この人間が役に立つ方法はただ1つ、死んでこの世からいなくなる事である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*窪田 肇（くぼた　はじめ）&lt;br /&gt;
:偽善者。独善者。そしてDQN。&lt;br /&gt;
:コミュ障。人に分かるように会話するという事ができない。&lt;br /&gt;
:暴力。&lt;br /&gt;
:自分を正義の味方だと勘違いしている。&lt;br /&gt;
:ホモ顔。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*泉 紀子（いずみ　のりこ）&lt;br /&gt;
:偽善者。人の善意につけこんで悪事を働くのがうまい。&lt;br /&gt;
:関西人（滋賀県）。なんか関西ってこんなんばっかだな･･･&lt;br /&gt;
:結婚したらしい。よくこの女が結婚できたものだと感動さえする。イヤミぬきで。&lt;br /&gt;
:「日本人は時間に正確」が持論。が、人の遅刻はしつこく罵るくせに、自分が遅刻した場合は謝罪なし。どうなってんだ？&lt;br /&gt;
:全体主義者。&lt;br /&gt;
:自己中心主義者。自分の意見は絶対である。&lt;br /&gt;
:自分の責任逃れのためならどんな卑怯な手でも使う。&lt;br /&gt;
:頭は悪い。しかし自分では頭がいいと思っている。&lt;br /&gt;
:貧乏性。安く物を買うと自慢する。&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Minagoroshida</name></author>	</entry>

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		<title>東海大学ローバースカウト隊</title>
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				<updated>2012-11-13T07:31:25Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Minagoroshida: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;東海大学ローバースカウト隊とは、クズ集団である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== クズ共 ==&lt;br /&gt;
*中根 由尚（なかね　よしたか）&lt;br /&gt;
:典型的なDQN。&lt;br /&gt;
:強い者に媚びへつらい、弱い者いじめ大好き。&lt;br /&gt;
:女子にセクハラは日常茶飯事。内容もむりやり胸を揉むなど直接的。いつ訴えられてもおかしくない状態だった。&lt;br /&gt;
:授業には行かず、女と同棲し、パチンコ・麻雀ざんまい。全く単位が取れず5年目が確定したため、親元に召還され、退学。&lt;br /&gt;
:しかし地元（[[名古屋]]）に戻った途端、金髪のヤンキーファッションに身を固める。何考えてんだコイツ。&lt;br /&gt;
:ある日、後輩たちがアルバイト談義をしていると唐突に「お前、楽する事ばっか考えてるだろ！んなんじゃどこも雇ってくれねぇよ！」と怒鳴る。&lt;br /&gt;
:誰がいつ楽をする事の話などしたのか。というか、それまんまアナタの事じゃないですか。&lt;br /&gt;
:自分では有能な人間だと思ってるらしい。&lt;br /&gt;
:卑怯で、非道で、ズル賢い事をやらせたら右に出る者はいない。&lt;br /&gt;
:資格も専門知識もな～んもありゃしません。&lt;br /&gt;
:世渡りの上手さだけは感じる。[[金正日]]みたい。&lt;br /&gt;
:本人いわく「（新人は）叩いて潰す」ことが教育らしい。何様だお前は。&lt;br /&gt;
:そもそもボーイスカウト自体が未熟者や社会のゴミに人間を教育させる勘違い団体なのだが、それにしてもこんなカスが他人を教育しようとしているから始末におえない。&lt;br /&gt;
:この人間が役に立つ方法はただ1つ、死んでこの世からいなくなる事である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*窪田 肇（くぼた　はじめ）&lt;br /&gt;
:偽善者。独善者。そしてDQN。&lt;br /&gt;
:コミュ障。人に分かるように会話するという事ができない。&lt;br /&gt;
:暴力。&lt;br /&gt;
:自分を正義の味方だと勘違いしている。&lt;br /&gt;
:ホモ顔。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*泉 紀子（いずみ　のりこ）&lt;br /&gt;
:偽善者。人の善意につけこんで悪事を働くのがうまい。&lt;br /&gt;
:関西人（滋賀県）。なんか関西ってこんなんばっかだな･･･&lt;br /&gt;
:結婚したらしい。よくこの女が結婚できたものだと感動さえする。イヤミぬきで。&lt;br /&gt;
:「日本人は時間に正確」が持論。が、人の遅刻はしつこく罵るくせに、自分が遅刻した場合は謝罪なし。どうなってんだ？&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Minagoroshida</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%B9%94%E7%94%B0%E4%BF%A1%E9%95%B7&amp;diff=162224</id>
		<title>織田信長</title>
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				<updated>2012-06-27T14:40:33Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Minagoroshida: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{良質}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''織田 信長'''（おだ のぶなが）は、[[日本]]の[[戦国時代]]の人物。戦争と混乱に満ちた16世紀の日本を統一へと導いた。日本の政治上・軍事上最大の天才とも言われる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==概要==&lt;br /&gt;
平安時代、朝廷の軍事力の著しい低下によって日本全国の治安が非常に悪化したため、庶民は武装して身を守った。このために延々と内乱が続き、国は乱れに乱れていた。この戦乱を終わらせる事業の大変を行ったのが織田信長である。彼は日本全国を統治する前に死んでしまったものの、実質的には彼が戦乱を終わらせたと言える。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==信長の計画==&lt;br /&gt;
まずは地盤を固める&lt;br /&gt;
↓&lt;br /&gt;
幕府あるいは朝廷という既存の権威を利用し、また隠れ蓑にもしつつ改革を行う&lt;br /&gt;
↓&lt;br /&gt;
自身の権威がそれらを越え次第、自身を神格化し、名実ともに日本の頂点に立つ&lt;br /&gt;
↓&lt;br /&gt;
余剰の軍事力は海外に向ける&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 生涯 ==&lt;br /&gt;
&amp;lt;small&amp;gt;※日付は[[和暦]]による[[旧暦]]。[[西暦]]表記の部分は[[ユリウス暦]]とする。&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 少年期 ===&lt;br /&gt;
[[天文 (元号)|天文]]3年（[[1534年]]）5月12日、[[尾張国]]の[[戦国大名]]・[[織田信秀]]の[[嫡男]]として、[[那古野城]]&amp;lt;ref&amp;gt;『[[国史大辞典 (昭和時代)|国史大辞典]]』　織田信長の項目　[[吉川弘文館]]。一般的には那古野城生まれを定説とするが、織田信秀の那古野城奪取をめぐって異説も存在する。&amp;lt;/ref&amp;gt;（現在の[[名古屋市]][[中区 (名古屋市)|中区]]）（[[勝幡城]]説もある&amp;lt;ref&amp;gt;『[[尾州古城志]]』&amp;lt;/ref&amp;gt;）で生誕。幼名は'''吉法師'''。なお、信長の生まれた「織田弾正忠家」は、尾張国の[[守護大名]]・[[斯波氏]]の[[被官]]で下四郡（海東郡・海西郡・愛知郡・知多郡）の[[守護代]]に補任された織田大和守家（清洲織田家）の家臣にして分家であり、[[清洲三奉行]]・古渡城主という家柄であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
母・[[土田御前]]が信秀の[[正室]]であったため嫡男となり、2歳にして那古野城主となる。幼少から青年時にかけて奇妙な行動が多く、周囲から'''尾張の大うつけ'''と称されていた。日本へ伝わった[[種子島銃]]に関心を持った挿話などが知られる。また、身分にこだわらず、民と同じように町の若者とも戯れていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
まだ世子であった頃、表面的に家臣としての立場を守り潜在的な緊張関係を保ってきた主筋の「織田大和守家」の支配する[[清洲城]]下に数騎で火を放つなど、父・信秀も寝耳に水の行動をとり、豪胆さを早くから見せた。また、[[今川氏]]へ人質として護送される途中で[[松平氏]]家中の[[戸田康光]]の裏切りにより[[織田氏]]に護送されてきた松平竹千代（後の[[徳川家康]]）と幼少期を共に過ごし、後に両者は固い盟約関係を結ぶこととなる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
天文15年（[[1546年]]）、[[古渡城]]にて[[元服]]し、'''上総介信長'''と称する。天文17年（[[1548年]]）、父・信秀と敵対していた[[美濃国]]の[[戦国大名]]・[[斎藤道三]]との和睦が成立すると、道三の娘・[[濃姫]]と政略結婚した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
天文18年（[[1549年]]）（異説では天文22年（[[1553年]]））に信長は[[聖徳寺 (名古屋市)|正徳寺]]で道三と会見し、その際に道三はうつけ者と呼ばれていた信長の器量を見抜いたとの逸話がある。また同年には、近江の[[国友|国友村]]に火縄銃500丁を注文したという&amp;lt;ref&amp;gt;「国友鉄砲記」より。正徳寺での会見には、兵に鉄砲500丁を持たせていったと「信長公記」にあり、これが国友村から購入した鉄砲だという可能性もある。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
天文20年（[[1551年]]）、父・信秀が没した為、家督を継ぐ&amp;lt;ref&amp;gt;信秀の葬儀において祭壇に[[抹香]]を投げつけたというエピソードが残っている。このような行為におよんだ理由は、うつけ者を装うため、葬儀を政治的に利用した信勝への抗議など諸説あるが、いずれも推測の域を出ていない。後年の創作という意見もあるが、1次史料である信長公記にまで書かれているため、全くの創作とは考えにくい。&amp;lt;/ref&amp;gt;。天文22年（[[1553年]]）、信長の教育係であった[[平手政秀]]が自害。これは諌死であったとも、息子・五郎右衛門と信長の確執のためともされる。信長は嘆き悲しみ、師匠の[[沢彦]]和尚を開山として[[政秀寺]]を建立し、政秀の霊を弔った。天文23年（[[1554年]]）には、[[村木砦の戦い]]で今川勢を破っている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 家督争いから尾張統一・上洛 ===&lt;br /&gt;
当時、尾張国は[[今川氏]]の尾張侵攻により[[守護]]の[[斯波氏]]の力が衰え、尾張下四郡を支配した[[守護代]]であった「織田大和守家」当主で[[清洲城]]主の[[織田信友]]が実権を掌握していた。信長の父・信秀はその信友に仕える三奉行の一人に過ぎなかったにも関わらず、その智勇をもって尾張中西部に支配権を拡大した。信秀の死後、信長が跡を継ぐと、信友は信長の弟・[[織田信行]]（信勝）の家督相続を支持して信長と敵対し、信長謀殺計画を企てるが、信友により傀儡にされていた[[守護]]・[[斯波義統]]が、計画を信長に密告した。これに激怒した織田信友は斯波義統の嫡子・[[斯波義銀|義銀]]が手勢を率いて川狩に出た隙に義統を殺害する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
斯波義銀が落ち延びてくると、信長は叔父の[[守山城 (尾張国)|守山城]]主・[[織田信光]]と協力し、信友を主君を殺した謀反人として殺害する。こうして「織田大和守家」は滅び、信長は那古野城から清洲城へ本拠を移し、尾張国の[[守護所]]を手中に収めた。これにより、織田氏の[[庶家]]の生まれであった信長が名実共に織田氏の頭領となった。なお信光も死亡しているが、死因は不明である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[弘治 (日本)|弘治]]2年（[[1556年]]）4月、義父・斎藤道三が子の[[斎藤義龍]]との戦いに敗れて戦死（[[長良川の戦い]]）。信長は道三救援のため、木曽川を越え美濃の大浦まで出陣するも、道三を討ち取り勢いに乗った義龍軍に苦戦し、道三敗死の知らせにより退却した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
こうした中、信長の当主としての器量を疑問視した重臣の[[林秀貞]]（通勝）・[[林通具]]・[[柴田勝家]]らは、信長を廃して聡明で知られた弟・信勝（信行）を擁立しようとした。これに対して信長には[[森可成]]・[[佐久間盛重]]・[[佐久間信盛]]らが味方し、両派は対立する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
道三の死去を好機と見た信勝派は、同年[[8月24日]]に挙兵して戦うも敗北（[[稲生の戦い]]）。その後、[[末盛城]]に籠もった信勝を包囲するが、生母・土田御前の仲介により、信勝・勝家らを赦免した。更に同年中に庶兄の信広も斎藤義龍と結んで清洲城の簒奪を企てたが、これは事前に情報を掴んだ為に未遂に終わり、信広は程なくして降伏し、赦免されている。しかし、弘治3年（[[1557年]]）に信勝は再び謀反を企てる。この時、稲生の戦いの後より信長に通じていた柴田勝家の密告があり、事態を悟った信長は病と称して信勝を清洲城に誘い出し殺害した。直接手を下したのは[[河尻秀隆]]とされている&amp;lt;ref&amp;gt;信長公記では、河尻と青貝という2人の家臣が、フロイス日本史では信長が直接殺したことになっている。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
さらに信長は、同族の[[犬山城]]主・[[織田信清]]と協力し、旧主「織田大和守家」の宿敵で織田一門の[[宗家]]であった尾張上四郡（丹羽郡・葉栗郡・中島郡・春日井郡）の守護代「織田伊勢守家」（岩倉織田家）の[[岩倉城 (尾張国)|岩倉城]]主・[[織田信賢]]を破って（[[浮野の戦い]]）これを追放。新たに守護として擁立した斯波義銀が斯波一族の[[石橋氏]]・[[吉良氏]]と通じて信長の追放を画策していることが発覚すると、義銀を尾張から追放した。こうして、[[永禄]]2年（[[1559年]]）までには尾張国の支配権を確立し、信長は尾張の国主となった。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
永禄2年（[[1559年]]）2月2日、信長は100名ほどの軍勢を引き連れて[[上洛]]し、[[室町幕府]]13代[[征夷大将軍|将軍]]・[[足利義輝]]に謁見した。当時、義輝は尾張守護・斯波家（武衛家）の邸宅を改修して住しており、信長はそこへ出仕した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 桶狭間の戦いから清洲同盟へ ===&lt;br /&gt;
1560（永禄3）年5月、[[今川義元]]が尾張国へ侵攻。[[駿河国|駿河]]・[[遠江国|遠江]]の本国に加え[[三河国|三河]]を分国として支配する今川氏の軍勢は、2万人以上の大軍であった。兵力で劣る織田軍は苦戦を強いられた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
永禄3年（[[1560年]]）5月19日午後1時頃、信長は[[幸若舞]]『[[敦盛 (幸若舞)|敦盛]]』を舞った後&amp;lt;ref name=&amp;quot;atsumori&amp;quot;&amp;gt;'''幸若舞'''の敦盛は口伝で伝えられていたために、長らく節回しや詳細な振り付けが不明となっていた。そのため、映像作品などでは'''謡曲'''の敦盛で代用されていた。しかし、近年になって幸若舞の敦盛も復刻されている。（詳細は[[敦盛 (幸若舞)]]を参照）&amp;lt;/ref&amp;gt;、昆布と勝ち栗を前に置き、立ったまま[[湯漬け]]（出陣前に、米飯に熱めの湯をかけて食べるのが武士の慣わし）を食べ、出陣した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
信長はまず[[熱田神宮]]に参拝。その後、[[善照寺砦]]で2000人の軍勢を整えて出撃。今川軍の陣中に強襲をかけ今川氏の前当主で隠居の義元を討ち取った。総大将を失った今川軍は、当主・氏真の命で本国駿河国に退却した（'''桶狭間の戦い'''）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
桶狭間の戦いの後、今川氏は三河の松平氏の離反等により、急激に衰退した。これを機に、信長は徳川家康（この頃、松平元康より改名）と手を結ぶことになる。それまで織田家と松平家は敵対関係にあり、幾度も戦っていたが、信長は美濃国の[[斎藤氏]]攻略のため、家康も駿河国の[[今川氏真]]らに対抗する必要があった為、こちらの利害関係を優先させたものと思われる。両者は永禄5年（[[1562年]]）、同盟を結んで互いに背後を固めた（'''清洲同盟'''）。この同盟は信長死後まで維持された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 美濃攻略と天下布武 ===&lt;br /&gt;
斎藤道三亡き後、信長と斎藤氏との関係は険悪なものとなっていた。桶狭間の戦いと前後して両者の攻防は一進一退の様相を呈していた。しかし、永禄4年（[[1561年]]）に斎藤義龍が急死し、嫡男・[[斎藤龍興]]が後を継ぐと、信長は美濃に出兵し勝利（[[森部の戦い]]）。織田家は優位に立ち、斎藤氏は家中で分裂が始まる。永禄7年（[[1564年]]）には北[[近江国]]の[[浅井長政]]と同盟を結び、斎藤氏への牽制を強化している。その際、信長は妹・[[お市の方|お市]]を輿入れさせた。一方で、信長は永禄8年（[[1565年]]）より[[滝川一益]]の援軍依頼により伊勢方面にも進出し、[[神戸具盛 (7代目当主)|神戸具盛]]など当地の諸氏とも戦っている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
永禄9年（[[1564年]]から[[1565年]]）、[[竹中重治]]と[[安藤守就]]が[[岐阜城]]を占拠後、[[加治田城]]主の[[佐藤忠能]]を味方にして[[中濃]]の諸城を手に入れ（[[中濃攻略戦]]）、さらに[[西美濃三人衆]]（[[稲葉良通]]・[[氏家直元]]・[[安藤守就]]）などを味方につけた信長は、ついに永禄10年（[[1567年]]）、斎藤龍興を[[伊勢国|伊勢]][[長島町 (三重県)|長島]]に敗走させ、尾張・美濃の2ヶ国を領する大名になった（[[稲葉山城の戦い]]）。ときに信長33歳。このとき、井ノ口を[[岐阜市|岐阜]]と改称している&amp;lt;ref&amp;gt;出典：『[[信長公記]]』&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
同年11月には僧・沢彦から与えられた印文「'''天下布武'''」の朱印を信長は使用しはじめており&amp;lt;ref&amp;gt;林屋辰三郎『天下一統』中公文庫、105頁&amp;lt;/ref&amp;gt;、本格的に[[天下統一]]を目指すようになったとみられる。11月9日、[[正親町天皇]]は信長を「古今無双の名将」を褒めつつ、[[御料所]]の回復・[[誠仁親王]]の元服費用の拠出を求めたが、&amp;lt;ref&amp;gt;前者は[[綸旨]]、後者は[[女房奉書]]によって伝えられた。なお、天皇・朝廷のこうした動きは各地の大名に対して行われており、この時点では正親町天皇はさほど信長を特別視していたわけではなかったと思われる。[[藤井譲治]]「天皇と天下人」より&amp;lt;/ref&amp;gt;、信長は丁重に「まずもって心得存じ候」と返答したのみであった&amp;lt;ref&amp;gt;[[藤井譲治]]「天皇と天下人」より&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===1568（永禄11）年===&lt;br /&gt;
==== 上洛 ====&lt;br /&gt;
中央では、永禄8年（[[1565年]]）、かねて[[京都|京]]を中心に[[畿内]]で権勢を誇っていた[[三好氏]]の有力者[[三好三人衆]]（[[三好長逸]]・[[三好政康]]・[[岩成友通]]）と[[松永久秀]]が、幕府権力の復活を目指して三好氏と対立を深めていた将軍･足利義輝を暗殺し、第14代将軍として義輝の従弟・[[足利義栄]]を傀儡として擁立する（[[永禄の変]]）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
久秀らはさらに義輝の弟で僧籍にあった一乗院覚慶（[[足利義昭]]）の暗殺も謀ったが、義昭は[[一色藤長]]・[[和田惟政]]ら幕臣の支援を受けて奈良から脱出し、[[越前国]]の[[朝倉義景]]のもとに身を寄せていた。しかし、義景が三好氏追討の動きを見せなかったため、永禄11年（[[1568年]]）7月には美濃国の信長へ接近を図ってきた。信長は義昭の三好氏追討要請を応諾した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
====武田氏との外交====&lt;br /&gt;
美濃国において領国を接する[[甲斐国]]の[[武田信玄]]とは信玄の四男・諏訪勝頼（[[武田勝頼]]）に養女（[[遠山夫人]]）を娶らせることで同盟を結んだが、遠山夫人は永禄10年（1567年）11月、[[武田信勝]]を出産した直後に早世したため、同年末には信長の嫡男・信忠と信玄の六女・[[信松尼|松姫]]との婚姻を模索し友好的関係を持続させるなど、周囲の勢力と同盟を結んで国内外を固めた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 足利義昭上洛の警護 ====&lt;br /&gt;
永禄11年（1568年）9月、信長は他国侵攻の大義名分として将軍家嫡流の足利義昭を奉戴し、[[上洛]]を開始した。これに対して抵抗した南近江の[[六角義賢]]・[[六角義治|義治]]父子は織田軍の猛攻を受け、[[観音寺城]]が落城する（[[観音寺城の戦い]]）。六角父子は[[甲賀郡]]に後退、以降はゲリラ戦を展開した&amp;lt;ref&amp;gt;ただし、[[六角氏]]嫡流は別にあり、嫡流の[[六角義秀]]・[[六角義郷]]は信長に庇護されたとする異説もある。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
信長が上洛すると、[[三好長慶]]死後の内輪揉めにより崩壊しつつあった[[三好義継]]・松永久秀らは信長の実力を悟って臣従し、三好三人衆に属した他の勢力の多くは[[阿波国]]へ逃亡する。唯一抵抗していた[[池田勝正]]も信長に降伏した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
足利義昭を第15代将軍に擁立した信長は、[[和泉国|和泉]]一国の恩賞だけを賜り尾張へ帰国。この時、信長は義昭から管領・斯波家の家督継承もしくは管領代・[[副将軍]]の地位等を勧められたが、桐紋と斯波家並の礼遇だけを賜り遠慮したとされる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===1569（永禄12）年===&lt;br /&gt;
1月、信長率いる織田軍主力が美濃国に帰還した隙を突いて、三好三人衆と斎藤龍興ら浪人衆が共謀し、足利義昭の[[御所]]である[[六条通|六条]][[本圀寺]]を攻撃した（[[六条合戦]]）。しかし、信長は豪雪の中をわずか2日で援軍に駆けつけるという機動力を見せた&amp;lt;ref&amp;gt;信長公記によれば、当時、岐阜から[[京都]]までは3日はかかったという。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
もっとも、浅井長政や池田勝正の援軍と[[明智光秀]]の奮戦により、三好・斎藤軍は信長の到着を待たず敗退していた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1月10日には三好軍と共同して決起した[[高槻城]]の[[入江春景]]を攻めた。春景は降伏したが、信長は再度の離反を許さず処刑し、和田惟政を高槻に入城させ、[[摂津国]]を守護・池田勝正を筆頭とし[[伊丹氏]]と惟政の3人に統治させた（[[摂津三守護]]）。同日、信長は三好三人衆に協力していた[[堺]]に2万貫の矢銭と服属を要求し、支払わせた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 伊勢侵攻 ====&lt;br /&gt;
同時期に[[伊勢国]]への侵攻も大詰めを迎える。伊勢は南朝以来の[[国司]]である[[北畠氏]]が最大勢力を誇っていたが、まず永禄11年（[[1568年]]）北伊勢の神戸具盛と講和し、三男の[[織田信孝]]を[[神戸氏]]の養子として送り込んだ。更に[[北畠具教]]の次男・[[長野具藤]]を内応により追放し、弟・[[織田信包]]を長野家当主とした。そして翌・永禄12年（[[1569年]]）8月20日、滝川一益の調略によって具教の実弟・[[木造具政]]が信長側に転じると、信長はその日の内に岐阜を出陣し南伊勢に進攻、北畠家の[[大河内城]]を大軍を率いて包囲、篭城戦の末10月3日に和睦し、次男・[[織田信雄]]を養嗣子として送り込んだ。後に北畠具教は幽閉され、[[天正]]4年（[[1576年]]）に信雄により殺害される。こうして信長は、養子戦略により北伊勢攻略を終える。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 第一次信長包囲網 ====&lt;br /&gt;
信長は足利義昭の将軍としての権力を制限するため、『[[殿中御掟]]』9ヶ条の掟書、のちには追加7ヶ条を発令し、これを義昭に認めさせた。これによって義昭と信長の対立は決定的なものになったわけではなく、両者はお互いを利用し合う関係であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
3月、正親町天皇から「信長を副将軍に任命したい」という意向が伝えられたが、信長は何の返答もせず、事実上無視した&amp;lt;ref&amp;gt;藤井譲治「天皇と天下人」より&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===1570（[[元亀]]1）年===&lt;br /&gt;
4月、信長は度重なる上洛命令を無視する朝倉義景を討伐するため、[[浅井氏]]との盟約を反故にし、盟友の徳川家康の軍勢とともに越前国へ進軍。織田・徳川連合軍は[[朝倉氏]]の諸城を次々と攻略していくが、[[金ヶ崎城|金ヶ崎]]で浅井氏離反の報告を受ける。挟撃される危機に陥った織田・徳川連合軍はただちに撤退を開始し、[[殿 (軍事用語)|殿]]を務めた池田勝正・[[明智光秀]]・[[豊臣秀吉|木下秀吉]]らの働きもあり、京に逃れた（[[金ヶ崎の戦い]]）。信長は先頭に立って真っ先に撤退し、僅か10名の共と一緒に京に到着したという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
同年6月、信長は浅井氏を討つべく、近江国[[姉川]]河原で徳川軍とともに浅井・朝倉連合軍と対峙。並行して浅井方の横山城を陥落させつつ、織田・徳川連合軍は勝利した（'''[[姉川の戦い]]'''）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
8月、信長は摂津国で挙兵した三好三人衆を討つべく出陣するが、その隙をついて石山本願寺が信長に対して挙兵した（[[野田城・福島城の戦い]]）。しかも、織田軍本隊が摂津国に対陣している間に軍勢を立て直した浅井・朝倉・延暦寺などの連合軍3万が近江国・[[坂本 (大津市)|坂本]]に侵攻する。織田軍は劣勢の中、重臣・森可成と信長の実弟・[[織田信治]]を喪った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
9月23日未明、信長は本隊を率いて摂津国から近江国へと帰還。慌てた浅井・朝倉連合軍は比叡山に立て籠もって抵抗した。信長はこれを受け、近江国・[[宇佐山城]]において浅井・朝倉連合軍と対峙する（[[志賀の陣]]）。しかし、その間に石山本願寺の[[法主]]・[[顕如]]の命を受けた伊勢の門徒が一揆を起こし（[[長島一向一揆]]）、信長の実弟・[[織田信興]]を自害に追い込んだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
11月21日、信長は六角義賢・義治父子と和睦し、ついで阿波から来た[[篠原長房]]と講和した&amp;lt;ref&amp;gt;林屋辰三郎『天下一統』中公文庫、143頁&amp;lt;/ref&amp;gt;。さらに足利義昭に朝倉氏との和睦の調停を依頼し、義昭は関白[[二条晴良]]に調停を要請した。そして正親町天皇に奏聞して[[勅命]]を仰ぎ、12月13日、勅命をもって浅井氏・朝倉氏との和睦に成功&amp;lt;ref&amp;gt;[[大久保忠教]]の記した『[[三河物語]]』によると、このとき信長は義景に対し「天下は朝倉殿が持ち給え。我は二度と望み無し」とまで言ったという。&amp;lt;/ref&amp;gt;。窮地を脱した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===1571（元亀2）年===&lt;br /&gt;
==== 第二次信長包囲網 ====&lt;br /&gt;
信長は朝倉・浅井に味方した延暦寺を攻めた（'''[[比叡山焼き討ち (1571年)|比叡山焼き討ち]]'''）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一方この頃、甲斐国の武田信玄が信長への事前通告なしに徳川領へ侵攻&amp;lt;ref&amp;gt;近年では元亀2年の信玄による三河侵攻は根拠となる文書群の年代比定の誤りが指摘され、これは勝頼期の天正3年の出来事であった可能性も考えられている（鴨川達夫『武田信玄と勝頼』（岩波新書、2009）、柴裕之「戦国大名武田氏の遠江・三河侵攻再考」『武田氏研究』第37号、2007）。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===1572（元亀3）年===&lt;br /&gt;
石山本願寺が信長と和睦したものの、三好義継・松永久秀らが共謀して信長に謀反を起こした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
7月、信長は近江に出陣（[[虎御前山の戦い]]）。嫡男・奇妙丸（後の[[織田信忠]]）の[[初陣]]でもあった。戦況は織田軍有利に展開し、8月には朝倉義景に不満を抱いていた朝倉軍の[[前波吉継]]・[[富田長繁]]・[[毛屋猪介]]・[[戸田与次郞]]らが信長に寝返った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
9月、信長は足利義昭に対して17条の意見書を提出。信長と義昭の関係は決定的に悪化した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
11月、武田氏の秋山虎繁（信友）が、東美濃の[[岩村城]]を攻めたが、織田軍に敗退し、岩村城近辺の城はみな織田のものとなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
徳川領においては徳川軍が[[一言坂の戦い]]で武田軍に大敗し、さらに遠江国の要である[[二俣城]]が開城・降伏により不利な戦況となる（[[二俣城の戦い]]）。これに対して信長は、家康に佐久間信盛・[[平手汎秀]]ら3,000人の援軍を送ったが、12月の'''[[三方ヶ原の戦い]]'''で織田・徳川連合軍は武田軍に敗退。汎秀が討死した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===1573（元亀4、天正1）年===&lt;br /&gt;
武田軍は三河に侵攻し、2月に[[野田城 (三河国)|野田城]]を攻略した（[[野田城の戦い]]）。これに呼応して京の足利義昭が信長に対して挙兵したため、信長は岐阜から京都に向かって進軍した。信長が京都に着陣すると幕臣であった[[細川幽斎|細川藤孝]]や[[荒木村重]]らは義昭を見限り信長についた。信長は上京を焼打ちして義昭に脅しをかけてから義昭と和睦しようとした。義昭は初めこれを拒否していたが、正親町天皇からの勅命が出され、4月5日に義昭と信長はこれを受け入れて和睦した。4月12日、武田信玄は病死し、武田軍は甲斐国へ帰国した&amp;lt;ref&amp;gt;元亀年間に行われた武田氏の遠江・三河への侵攻や信長との対立は「[[西上作戦]]」と通称され、信玄は上洛を目指していたされてきたが、近年ではその実態や意図に疑問が呈されている（鴨川達夫『武田信玄と勝頼』（岩波新書、2007年）、柴裕之「戦国大名武田氏の遠江・三河侵攻再考」『武田氏研究』第37号、2007、柴辻俊六「武田信玄の上洛戦略と織田信長」『武田氏研究』第40号、2009　など&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
7月には再び抵抗の意思を示した足利義昭が[[二条城|二条御所]]や山城守護所（[[槇島城]]）に立て籠もったが、信長は義昭を破り追放し、これをもって室町幕府の勢力は京都から消滅した&amp;lt;ref&amp;gt;室町幕府の滅亡により、[[室町将軍]]は天皇王権を擁し、京都を中心とする周辺領域を支配し地方の諸大名を従属下におき紛争などを調停する「[[天下]]」主催者たる地位を喪失。信長が「天下」主催者としての地位を継承し、以降は諸大名を従属・統制下におく立場であったことが指摘されている（[[神田千里]]「織田政権の支配の論理に関する一考察」『東洋大学文学部紀要』2002、同『戦国乱世を生きる力』中央公論社、2002）。&amp;lt;/ref&amp;gt;。加えて7月28日には[[元号]]を元亀から[[天正]]へと改めることを[[朝廷]]に奏上し、これを実現させた&amp;lt;ref&amp;gt;ただし、朝廷では既に元亀3年の段階で改元を決定しており、同年3月29日には信長と義昭の下に使者を送っている（『御湯殿上日記』）。だが、義昭は改元に消極的であり、信長の17か条の詰問状でも批判の1つに挙げられている。信長は改元を支持することで、消極的な態度を見せる義昭排除の正当性を得るとともに、朝廷の望む改元を実現させることによって自己を室町幕府に代わる武家政権のトップとして朝廷に認めさせたとする評価がある（[[神田裕理]]「織豊期の改元」『戦国・織豊期の朝廷と公家社会』校倉書房、2011年）。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
8月、信長は細川藤孝に命じて、[[淀古城|淀城]]に立て籠もる三好三人衆の一人・[[岩成友通]]を討伐した（第二次淀古城の戦い）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
同月、信長は3万人の軍勢を率いて越前国に侵攻。[[一乗谷城の戦い#刀根坂の戦い|刀根坂の戦い]]で朝倉軍を破り、朝倉義景は自刃した。9月、[[小谷城]]を攻略して浅井氏に勝利し、[[浅井久政]]・長政父子は自害し、長政の母・[[小野殿]]（阿古御料人）の指を一日一本ずつ切り落とした上で殺害した（執行を担当したのは秀吉であり、処刑方法が信長本人の意向か秀吉のものであるかは不明である）。なお、長政に嫁いでいた妹・お市らは落城前に落ち延びて信長が引き取った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
9月24日、信長は尾張・美濃・伊勢の軍勢を中心とした3万人の軍勢を率いて、伊勢長島に行軍した。織田軍は滝川一益らの活躍で半月ほどの間に長島周辺の敵城を次々と落とした。しかし撤退戦で[[林通政#林通政 (新次郎)|林通政]]が討死した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
11月、[[河内国]]の三好義継が足利義昭に同調して反乱を起こした。信長は佐久間信盛を総大将とした軍勢を河内国に送り込む。しかし、信長の実力を怖れた義継の家老・[[若江三人衆]]らによる裏切りで義継は11月16日に自害し、三好氏もここに滅亡した。12月26日、[[大和国]]の松永久秀も[[多聞山城]]を明け渡し、信長に降伏した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===1574（天正2）年===&lt;br /&gt;
==== 長島一向一揆の制圧 ====&lt;br /&gt;
1月、越前で[[地侍]]と[[本願寺]][[門徒]]による反乱が起こり、守護代の[[前波吉継|桂田長俊]]が殺された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ほぼ同時期、武田勝頼が東美濃の[[明知城]]に侵攻。信長は迎撃に向かったが、到着前に明知城が落城。信長は撤退した。城の位置関係からして、この時は岩村城が武田方に同心していたようである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
3月、信長は上洛して[[従三位]][[参議]]に叙任された。このとき、信長は[[正親町天皇]]に対して「[[蘭奢待]]の切り取り」を奏請し、[[天皇]]はこれを[[勅命]]をもって了承した&amp;lt;ref&amp;gt;これは、信長が正親町天皇と密接な関係にあるということを諸国に知らしめるためであったといわれているがこれを契機に、信長の実力が[[朝廷]]からも認められていることを知った諸[[大名]]、特に[[奥州]]からは信長に対して誼を通じる使者が増えたと言われている。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
7月、信長は数万人の大軍で伊勢の[[長島一向一揆]]を殲滅、伊勢を完全に平定した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===1575（天正3）年===&lt;br /&gt;
3月、荒木村重が[[大和田城]]を占領したのをきっかけに、織田信長は石山本願寺・[[高屋城]]周辺に10万兵の大軍で攻撃し、三好康長を降伏させた（[[高屋城の戦い]]）。高屋城を含む河内国の城は[[破城]]となり、[[松井友閑]]と三好康長の仲介のもと石山本願寺と一時的な和睦が成立した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 長篠の戦い ====&lt;br /&gt;
1575（天正3）年4月、三河・長篠城の[[奥平信昌|奥平貞昌]]が武田から徳川に寝返った。武田勝頼はこれを討つため、15000人の軍勢で[[長篠城]]に攻め寄せたが、織田・徳川連合軍38000人に大敗（'''[[長篠の戦い]]'''）。武田軍に圧勝する&amp;lt;ref&amp;gt;この戦いで武田氏の大軍から長篠城を防衛した奥平貞昌は、信長より[[偏諱]]を賜り信昌と改名している。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
6月27日、[[相国寺]]に上洛した信長は天台宗と真言宗の争論の事を知り、公家の中から5人の奉行を任命して問題の解決に当たらせた（[[絹衣相論]]を参照）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
7月3日、正親町天皇は信長に官位を与えようとしたが、信長はこれを受けず、家臣たちに官位や姓を与えてくれるよう申し出た。天皇はこれを認め、信長の申し出通りに、松井友閑に宮内卿法印、武井夕庵に二位法印、明智光秀に惟任日向守、[[簗田広正]]に別喜右近、塙直政に原田備中守、丹羽長秀に惟住、の官位と姓を与えた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 越前侵攻 ====&lt;br /&gt;
この頃、前年に信長から越前国を任されていた守護代・桂田長俊を殺害して越前国を奪った本願寺門徒では、内部分裂が起こっていた。門徒達は天正3年（1575年）1月、桂田長俊殺害に協力した富田長繁ら地侍も罰し、越前国を[[一揆]]の持ちたる国とした。顕如の命で守護代として[[下間頼照]]が派遣されるが、前領主以上の悪政を敷いたため、一揆の内部分裂が進んでいた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これを好機と見た信長は長篠の戦いが終わった直後の8月、越前国に行軍した。内部分裂していた一揆衆は協力して迎撃することができず、下間頼照や[[朝倉景健]]らを始め、12,250人を数える越前国・[[加賀国]]の門徒が織田軍によって討伐された&amp;lt;ref&amp;gt;このとき、信長は[[村井貞勝]]に対して、越前府中の凄惨なありさまを書状で「府中は死骸ばかりにて一円空き所無く候 見せたく候」と書き記している。&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;このとき従軍した[[前田利家]]の所業を記した石版も残っている。「一揆おこり そのまま前田又左衛門殿一揆千人ばかり生け捕りさせ候なり 御成敗は はっつけ 釜煎られ あぶられ候 かくのごとくに候 一筆書きとめ候」。&amp;lt;/ref&amp;gt;。越前国は再び織田領となり、信長は国掟を出した上で、越前八郡を柴田勝家に与えた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 右近衛大将就任および安土城築城====&lt;br /&gt;
11月4日、信長は[[権大納言]]に叙任される、また、11月7日にはさらに[[近衛大将|右近衛大将]]（征夷大将軍に匹敵する官職で武家では武門の棟梁のみに許される）に叙任する。信長はこの就任にあたり、御所にて公卿を集め、室町将軍家の将軍就任式（[[陣座]]）の儀礼を挙行させた。以後、信長のよび名は「上様」となり将軍と同等とみなされた（足利義昭は近衛大将への昇進を望むも未だ近衛中将のままであったので内裏の近衛府の庁舎内では信長が上司ということになる）。同日、嫡子の信忠は[[秋田城介]]（[[鎮守府将軍]]になるための前官）に、次男の信雄は左近衛中将に叙任している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
11月28日、信長は1週間前に東美濃の要・岩村城を陥落させた嫡男・信忠に一大名家としての織田家の家督ならびに美濃・尾張などの織田家の領国（織田直割領）を譲った。しかし、引き続き信長は織田政権の政治・全軍を総括する立場にあった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===1576（天正4年）===&lt;br /&gt;
1月、信長自身の指揮のもと[[琵琶湖]]湖岸に[[安土城]]の築城を開始する&amp;lt;ref&amp;gt;「安土」という地名は信長が命名したとも（「細川家記」）、元々あった地名だとも言われる。&amp;lt;/ref&amp;gt;。安土城は天正7年（[[1579年]]）に五層七重の豪華絢爛な城として完成した。[[天守]]内部は吹き抜けとなっていたと言われている。[[イエズス会]]の[[宣教師]]は「その構造と堅固さ、財宝と華麗さにおいて、それら（城内の邸宅も含めている）はヨーロッパの最も壮大な城に比肩しうるものである」と母国に驚嘆の手紙を送っている。信長は[[岐阜城]]を信忠に譲り、完成した安土城に移り住んだ。信長はここを拠点に[[天下統一]]に邁進することとなる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 第三次信長包囲網 ====&lt;br /&gt;
天正4年（1576年）1月、信長に誼を通じていた[[丹波国]]の[[波多野秀治]]が叛旗を翻した。さらに石山本願寺も再挙兵するなど、再び反信長の動きが強まり始める。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
信長は4月、明智光秀・荒木村重・[[塙直政]]を大将とした3万人の軍勢を[[大坂]]に派遣し、砦を構築させた。このうち塙が伏兵の襲撃に遭って大敗を喫し、直政を始め1,000人以上が戦死した。織田軍は本願寺軍の攻勢に窮し[[天王寺]]砦に立て籠もるが、本願寺軍はこれを包囲し、天王寺で織田軍は窮地に陥った。5月5日、信長は若江城に入り動員令を出したが、集まったのは3,000人ほどであった。5月7日早朝、その軍勢を率いて自ら先頭に立ち、天王寺砦を包囲する本願寺軍1万5,000人に攻め入り、信長自身も銃撃され負傷する激戦となった。信長自らの出陣で士気が高揚した織田軍は、光秀率いる天王寺砦の軍勢7,000人との連携に成功。本願寺軍を挟撃し、これを撃破した（[[天王寺砦の戦い]]）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その後、織田軍は石山本願寺を水陸から包囲し兵糧攻めにした。ところが7月13日、石山本願寺の援軍に現れた[[毛利水軍]]800隻の前に、織田水軍は敗れ、毛利軍により石山本願寺に[[兵糧]]・[[弾薬]]が運び込まれた（[[第一次木津川口の戦い]]）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この頃、越後守護で[[関東管領]]の上杉輝虎（[[上杉謙信]]）と信長との関係は悪化し&amp;lt;ref&amp;gt;信長は武田信玄の要請で武田と上杉謙信との和睦を仲介していたが（甲越和与）、[[元亀]]3年（[[1572年]]）10月信玄は信長への事前通告なしに織田・徳川氏領へ侵攻し、信長と武田氏は手切となり、上杉氏との共闘をもちかけている。謙信はこれに応じているが積極的に連携することはなく、武田氏で勝頼への当主交代が起こると和睦をもちかけている。&amp;lt;/ref&amp;gt;、謙信は天正4年（1576年）に石山本願寺と和睦し、信長との対立を明らかにした。謙信を盟主として、毛利輝元・石山本願寺・波多野秀治・[[紀伊国|紀州]][[雑賀衆]]などが反信長に同調し結託した。このような事情の中、11月21日に信長は正三位・内大臣に昇進している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===1577（天正5）年===&lt;br /&gt;
2月、信長は、雑賀衆を討伐するために大軍を率いて出陣（[[紀州征伐#信長の紀州攻め|紀州攻め]]）するが、毛利水軍による背後援助や上杉軍の[[能登国]]侵攻などもあったため、3月に入ると雑賀衆の頭領・[[鈴木孫一]]らを降伏させ&amp;lt;ref&amp;gt;本願寺攻めに協力する誓紙を出させたが、人質の提供は無かった&amp;lt;/ref&amp;gt;、形式的な和睦を行ない、紀伊国から撤兵した。この頃、北陸戦線では織田軍の柴田勝家が、[[加賀国]]の[[手取川]]を越えて焼き討ちを行っている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
大和国の松永久秀がまたも信長を裏切り挙兵すると、信長は織田信忠を[[総大将]]とした大軍を[[信貴山城]]に派遣し、10月に松永を討ち取った（[[信貴山城の戦い]]）。久秀を討った10月、信長に抵抗していた[[亀山城 (丹波国)|丹波亀山城]]の[[内藤定政]]（丹波守護代）が病死する。織田軍はこの機を逃さず亀山城・[[籾井城]]・[[笹山城]]などの丹波国の諸城を攻略。同年、姉妹の[[お犬の方]]を丹波守護で[[管領]]を世襲する細川京兆家当主・[[細川信良|細川昭元]]の正室とすることに成功し丹波を掌握した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
11月、能登・加賀北部を攻略した上杉軍が加賀南部へ侵攻&amp;lt;ref&amp;gt;織田軍は手取川において1,000人余が討死し渡河の際にも多数の行方不明者を出した（[[手取川の戦い]]）というが、戦果を喧伝した謙信の書状以外に史料がなく、戦いが起こったかどうかは不明である。&amp;lt;/ref&amp;gt;。その結果、加賀南部は上杉家の領国に組み込まれ、北陸では上杉側が優位に立った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
11月20日、正親町天皇は信長を従二位・右大臣に昇進させた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===1578（天正6）年===&lt;br /&gt;
1月にはさらに正二位に位を上げている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
3月13日、上杉謙信が急死。謙信には実子がなく、後継者を定めなかったため、[[養子]]の[[上杉景勝]]と[[上杉景虎]]が後継ぎ争いを始めた（[[御館の乱]]）。この好機を活かし信長は[[斎藤利治]]を総大将に、[[飛騨国]]から[[越中国]]に侵攻（[[月岡野の戦い]]）、上杉軍に勝利し優位に立った。その後、柴田勝家軍が上杉領の能登・加賀を攻略、越中国にも侵攻する勢いを見せた。かくしてまたも信長包囲網は崩壊した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 織田方面軍団の編成 ====&lt;br /&gt;
天正期に入ると、同時多方面に勢力を伸ばせるだけの兵力と財力が織田氏に具わっていた。信長は部下の武将に[[大名]]級の[[所領]]を与え、自由度の高い統治をさせ、周辺の攻略に当たらせた。研究者の間では、これら信長配下の新設大名を「[[軍団]]」「[[方面軍]]」と呼称し&amp;lt;ref&amp;gt;無論当時にはそのような名称は無かった。&amp;lt;/ref&amp;gt;、または信長軍・信長機動隊ともいう&amp;lt;ref name=&amp;quot;hujiki40&amp;quot;&amp;gt;藤木久志「天下統一と朝鮮侵略」講談社学術文庫、40頁&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
尾張の兵を弓衆・鉄砲衆・馬廻衆・小姓衆・小身衆など機動性を持った直属の軍団に編成し、天正4年（1576年）にはこれらを安土に結集させた&amp;lt;ref name=&amp;quot;hujiki40&amp;quot;/&amp;gt;。既に織田家には直属の指揮班である宿老衆や先手衆などがおり、これらと新編成軍との連携などを訓練した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
上杉景勝に対しては柴田勝家・[[前田利家]]・[[佐々成政]]らを、武田勝頼に対しては滝川一益・織田信忠らを、波多野秀治に対しては明智光秀・細川藤孝らを、毛利輝元に対しては羽柴秀吉を、石山本願寺に対しては佐久間信盛を配備した。&lt;br /&gt;
* 美濃・尾張・飛騨の抑え・[[織田信忠]]・[[斎藤利治]]・[[姉小路頼綱]]&lt;br /&gt;
* 対武田方面・[[滝川一益]]・[[織田信忠]]軍団（天正元年結成）&lt;br /&gt;
* 対本願寺方面・[[佐久間信盛]]軍団（天正4年結成 - 天正8年消滅）&lt;br /&gt;
* 北陸方面・[[柴田勝家]]軍団（天正4年昇格）&lt;br /&gt;
* 近畿方面・[[明智光秀]]軍団（天正8年昇格）&lt;br /&gt;
* 山陰・山陽方面・[[羽柴秀吉]]軍団（天正8年昇格）&lt;br /&gt;
* 関東方面・滝川一益軍団（天正10年結成）&lt;br /&gt;
* 四国方面・[[織田信孝]]・[[津田信澄]]・[[丹羽長秀]]・[[蜂屋頼隆]]軍団（天正10年結成）&lt;br /&gt;
* 東海道の抑え・[[徳川家康]]（形式的には同盟国であり織田軍団の一部ではない）&lt;br /&gt;
* 伊勢・伊賀方面の抑え・[[織田信雄]]・[[織田信包]]&lt;br /&gt;
*（紀伊方面の抑え・[[織田信張]]）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===1578（天正6年）===&lt;br /&gt;
====中国侵攻====&lt;br /&gt;
3月、[[播磨国]]の[[別所長治]]の謀反（[[三木合戦]]）が起こる、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
4月、突如として信長は右大臣・右近衛大将を辞職した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
7月、毛利軍が[[上月城]]を攻略し、信長の命により放置された[[山中幸盛]]ら[[尼子氏]]再興軍は処刑される（[[上月城の戦い]]）。10月には摂津国の荒木村重が[[有岡城]]に籠って信長から離反し（[[有岡城の戦い]]）、足利義昭・毛利氏・本願寺と手を結んで信長に抵抗する。一方、村重の[[与力]]であり東摂津に所領を持つ[[中川清秀]]・[[高山右近]]は村重にはつかなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
11月6日、信長は九鬼嘉隆の考案した[[鉄甲船]]を採用、6隻を建造し毛利水軍を撃破（[[第二次木津川口の戦い]]）。これにより石山本願寺と荒木は毛利軍の援助を受けられず孤立し、この頃から織田軍は優位に立つ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===1579（天正7）年===&lt;br /&gt;
夏までに波多野秀治を降伏させ、処刑。同年9月、荒木村重が妻子を置き去りにして逃亡すると有岡城は落城し、荒木一族は処刑された。次いで10月、それまで毛利方であった[[備前国]]の[[宇喜多直家]]が服属すると、織田軍と毛利軍の優劣は完全に逆転する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
11月、信長は織田家の京屋敷・[[二条城#織田信長・誠仁親王の「二条新御所」|二条新御所]]を、[[皇太子]]である[[誠仁親王]]に進上した。同時に、信長は誠仁親王の五男・[[邦慶親王]]を[[猶子]]として、この邦慶親王も二条新御所に移っている&amp;lt;ref&amp;gt;「多聞院日記」より。なお多聞院日記によると、信長が御所を進上した相手は誠仁親王ではなく、猶子の邦慶親王の方だったようである。（藤井譲治『天皇と天下人』より）&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この年、信長は徳川家康の嫡男・[[松平信康]]に対し切腹を命じたとされる。表向きの理由は信康の12か条の乱行、築山殿の武田氏への内通などである。徳川家臣団は信長恭順派と反信長派に分かれて激しい議論を繰り広げたが、最終的に家康は築山殿を殺害し、信康に切腹させた（ただし、これに関しては、家康・信康父子の対立が原因で、信長は娘婿信康の処断について家康から了承を求められただけだとする説もある。詳細は[[松平信康#信康自刃事件について]]を参照）。また伊勢国の出城構築を[[伊賀国]]の[[国人]]に妨害されて立腹した織田信雄が、独断で伊賀国に侵攻し大敗を喫した。信長は信雄を厳しく叱責した（[[伊賀流#天正伊賀の乱|第一次天正伊賀の乱]]）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===1580（天正8）年===&lt;br /&gt;
1月、別所長治が切腹し、三木城が開城。4月には正親町天皇の勅命のもと本願寺軍も織田軍に有利な条件を呑んで和睦し、大坂から退去した。同年には播磨国、[[但馬国]]をも攻略した。8月、信長は[[譜代]]の老臣・佐久間信盛とその嫡男・[[佐久間信栄]]に対して折檻状を送り付け、本願寺との戦に係る不手際などを理由に、高野山への追放か討ち死に覚悟で働くかを迫った。佐久間親子は高野山行きを選んだ。さらに、古参の林秀貞と[[安藤守就]]も、かつてあった謀反の企てや一族が敵と内通したことなどを蒸し返して、これを理由に追放した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===1581（天正9）年===&lt;br /&gt;
[[鳥取城]]を兵糧攻めで落とし[[因幡国]]を攻略、さらには[[岩屋城]]を落として[[淡路国]]を攻略した。同年、信雄を総大将とする4万人の軍勢が伊賀国を攻略。伊賀国は織田氏の領地となった（第二次天正伊賀の乱）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 京都御馬揃え～左大臣推任 ====&lt;br /&gt;
天正9年（1581年）、信長は絶頂期にあった。2月28日には京都の[[内裏]]東の馬場にて大々的なデモンストレーションを行なっている。いわゆる[[京都御馬揃え]]であるが、これには信長はじめ織田一門のほか、[[丹羽長秀]]ら織田軍団の武威を示すものであった&amp;lt;ref&amp;gt;「貴賎群衆の輩 かかるめでたき御代に生まれ合わせ …（中略）… あり難き次第にて上古 末代の見物なり」（[[信長公記]]）&amp;lt;/ref&amp;gt;。このときの馬揃えには正親町天皇を招待している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
3月7日、天皇は信長を左大臣に推任。9日にこの意向が信長に伝えられ、信長は「正親町天皇が譲位し、誠仁親王が即位した際にお受けしたい」と返答した。朝廷はこの件について話し合い、信長に朝廷の意向が伝えられた。24日、信長からの返事が届き、朝廷はこれに満足した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし4月1日、信長は突然「今年は[[金神]]の年なので譲位には不都合」と言い出した。譲位と信長の左大臣就任は延期されることになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 高野山包囲 ====&lt;br /&gt;
[[高野山]]が[[荒木村重]]の残党を匿ったり、足利義昭と通じるなど、信長と敵対する動きを見せる。『信長公記』によれば、信長は使者十数人を差し向けたが、高野山が使者を全て殺害した。一方、『高野春秋』では荒木村重探索の松井友閑の兵32名が高野山の領民に乱暴狼藉を働いたために高野山側がこれを殺害したと記している。いずれにしても、この行動に激怒した信長は、織田領における[[高野聖]]数百人を捕らえる（高野聖は[[諜報活動]]を行っていたともいう）と共に、[[河内国]]や[[大和国]]の諸大名に命じて高野山を包囲させた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
5月に越中国を守っていた上杉氏の武将・[[河田長親]]が急死した隙を突いて織田軍は越中に侵攻、同国の過半を支配下に置いた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
3月23日には[[高天神城]]を奪回し、武田氏を追い詰めた。紀州では雑賀党が内部分裂し、信長支持派の鈴木孫一が反信長派の[[土橋平次]]らと争うなどして勢力を減退させた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===1582（天正10）年===&lt;br /&gt;
==== 武田征伐 ====&lt;br /&gt;
長篠合戦の敗退後、武田勝頼は越後上杉氏との[[甲越同盟]]の締結や[[新府城]]築城などで領国再建を図る一方、人質であった[[織田勝長]]（信房）を返還することで信長との和睦（甲江和与）を模索したが進まず、新府城築城のための普請増大などで却って国人衆には不満が増大していた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2月1日、武田信玄の娘婿であった[[木曾義昌]]が信長に寝返る。2月3日に信長は武田領国への本格的侵攻を行うための大動員令を信忠に発令。駿河国から家康、相模国から[[北条氏直]]、[[飛騨国]]から[[金森長近]]、[[木曽地域|木曽]]から織田信忠が、それぞれ武田領攻略を開始した。信忠軍は軍監・[[滝川一益]]と信忠の譜代衆となる河尻秀隆・[[森長可]]・[[毛利秀頼|毛利長秀]]等で構成され、この連合軍の兵数は10万人余に上った。武田軍は、[[伊那城]]の城兵が城将・[[下条信氏]]を追い出して織田軍に降伏。さらに[[信濃国]]の[[松尾城 (信濃国伊那郡)|松尾城]]主・[[小笠原信嶺]]、[[江尻城]]主・[[穴山信君]]らも先を争うように連合軍に降伏し、武田軍は組織的な抵抗が出来ず済し崩し的に敗北する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
信忠軍は猛烈な勢いで武田領に侵攻し武田側の城を次々に占領していき、信長が武田征伐に出陣した3月8日に信忠は武田領国の本拠である[[甲府]]を占領し、3月11日には甲斐都留郡の田野において滝川一益が武田勝頼・信勝父子を討ち取り、ここに武田氏は滅亡した&amp;lt;ref&amp;gt;俗説ではあるが、最後の武田攻めの際、明智光秀が「ここまで来られて、我々も骨を負った甲斐があった」と語ったところ、信長の逆鱗に触れ、光秀は欄干に頭を打ち付けられたともいわれている。&amp;lt;/ref&amp;gt;。また駿河国を徳川家康に、[[上野国]]を滝川一益に与え、旧武田領の監督を命じ、甲斐国を河尻秀隆、北信濃を森長可、南信濃を毛利長秀に与え一益の与力に付けて、北条氏直への抑えとしつつも同盟関係を保った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 三職推任 ====&lt;br /&gt;
4月、正親町天皇は信長を太政大臣・関白・征夷大将軍のいずれかに任じたいという意向を示し、5月に信長に伝えられた（[[三職推任問題]]）。しかし信長は使者に対して何も返答しないままだった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 本能寺の変 ====&lt;br /&gt;
信長は[[四国]]の[[長宗我部元親]]攻略に向け、三男の神戸信孝、重臣の丹羽長秀・[[蜂屋頼隆]]・[[津田信澄]]の軍団を派遣する準備を進めていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また北陸方面では柴田勝家が富山城、魚津城を攻撃（[[魚津城の戦い]]）。上杉氏は北の[[新発田重家の乱]]に加え、北信濃方面から森長可、上野方面から滝川一益の進攻を受け、東西南北の全方面で守勢に立たされていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
5月15日、駿河国加増の礼と武田征伐の戦勝祝いのため、徳川家康が安土城を訪れた。そこで信長は明智光秀に接待役を命じる。光秀は15日から17日にわたって家康を手厚くもてなした。家康接待が続く中、信長は[[備中高松城]]攻めを行なっている羽柴秀吉の使者より援軍の依頼を受けた。信長は光秀の接待役の任を解き、秀吉への援軍に向かうよう命じた。後世、『[[明智軍記]]』などによって[[江戸時代]]以降流布される俗説では、この時、光秀の接待内容に不満を覚えた信長は[[小姓]]の[[森成利]]（蘭丸）に命じて光秀の頭をはたかせた、としている&amp;lt;ref&amp;gt;この時の[[献立]]は「天正十年安土御献立」『[[続群書類従]]』に記録されているが、この時の献立は前年の家康接待（饗応役は不明）の際の献立（「御献立集」）のと比べて遜色の無い点が指摘される（[[江後迪子]]『信長のおもてなし』2007）&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
5月29日、信長は[[中国地方|中国]]遠征の出兵準備のために上洛し、[[本能寺]]に逗留していた。ところが、秀吉への援軍を命じていたはずの明智軍が突然京都に進軍し、[[6月2日 (旧暦)|6月2日]]に本能寺を襲撃。この際に光秀は、標的が信長であることを伏せていたことが[[本城惣右衛門覚書]]から判明している。100人ほどの手勢しか率いていなかった信長は、自ら弓・[[槍]]を手に奮闘した。しかし圧倒的多数の明智軍には敵わず、居間に戻った信長は自ら火を放ち、燃え盛る炎の中で自害したという。[[享年]]49（満48歳没）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
光秀の娘婿・[[明智秀満]]が信長の遺体を探したが見つからず、現在まで全く確認されていない。なお、最後まで信長に付き従っていた者の中に[[黒人]]の家来・[[弥助]]がいた。弥助は、光秀に捕らえられたものの後に放免となっている。それ以降、弥助の動向については不明である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[平成]]19年（[[2007年]]）に行われた本能寺跡の発掘調査では、本能寺の変と同時期にあったとされる堀跡や大量の焼け瓦が発見された。これにより、城塞としての機能や謀反に備えていた可能性が指摘されており、現在も調査が続いている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==人物像==&lt;br /&gt;
===身体的特徴===&lt;br /&gt;
*「中くらいの背丈、華奢な体躯、ヒゲは少なく」「彼は少しく憂鬱な面影を有し」「はなはだ声は快調」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*「極度に戦を好み、軍事的修練にいそしみ」「戦術に極めて老練」&lt;br /&gt;
*「名誉心に富み、正義において厳格」「自らに加えられた侮辱に対しては懲罰せずにはおかなかった」。一方で「いくつかの事では人情味と慈愛を示した」&lt;br /&gt;
「彼の睡眠時間は短く早朝に起床した」「酒を飲まず、食を節し」&lt;br /&gt;
「彼は自邸においてきわめて清潔であり、自己のあらゆることをすこぶる丹念に仕上げ」&lt;br /&gt;
「なんぴとも武器を携えて彼の前に罷り出ることを許さなかった」&lt;br /&gt;
*「貪欲でなく」&lt;br /&gt;
** 「彼は贈物のなかで気に入ったものだけを受け取っており、他の人たちに対する場合でも常にそうであった&amp;lt;ref&amp;gt;完訳フロイス日本史2　34章（本来の第1部85章）&amp;lt;/ref&amp;gt;」&lt;br /&gt;
*「はなはだ決断を秘め」&lt;br /&gt;
*「非常に性急であり」「対談の際、遷延することや、だらだらした前置きを嫌い」&lt;br /&gt;
*「激昂はするが、平素はそうでもなかった」彼は戦運が己に背いても心気広闊、忍耐強かった」「自らの見解に尊大であった」「困難な企てに着手するに当たっては甚だ大胆不敵」&lt;br /&gt;
*「人の扱いにはきわめて率直で」「彼はわずかしか、またはほとんど全く家臣の忠言に従わず」「彼は日本のすべての王侯を軽蔑し、下僚に対するように肩の上から彼らに話をした」「ごく卑賎の家来とも親しく話をした」「信長はほとんど全ての人を『[[貴様]]』と呼んだ&amp;lt;ref&amp;gt;完訳フロイス日本史2　36章（本来の第1部87章）&amp;lt;/ref&amp;gt;」&lt;br /&gt;
*神および仏の一切の礼拝、尊崇、並びにあらゆる異教的占卜や迷信的慣習の軽蔑者であった。形だけは当初[[法華宗]]に属しているような態度を示したが、顕位に就いて後は尊大に全ての偶像を見下げ、若干の点、[[禅宗]]の見解に従い、霊魂の不滅、来世の賞罰などはないと見なした。&lt;br /&gt;
*彼が格別愛好したのは著名な茶の湯の器、良馬、刀剣、[[鷹狩り]]であり、目前で身分の高い者も低い者も裸体で&amp;lt;RUBY&amp;gt;&amp;lt;RB&amp;gt;[[相撲]]&amp;lt;/RB&amp;gt;&amp;lt;RT&amp;gt;ルタール&amp;lt;/RT&amp;gt;&amp;lt;/RUBY&amp;gt;をとらせることをはなはだ好んだ。&lt;br /&gt;
*「一同からきわめて畏敬されていた」「人々は彼に[[絶対君主]]に対するように服従した」「万事において人々は彼の言葉に服従した」&lt;br /&gt;
*「彼は善き理性と明晰な判断力を有し」「彼がきわめて稀に見る優秀な人物であり、非凡の著名な&amp;lt;RUBY&amp;gt;&amp;lt;RB&amp;gt;司令官&amp;lt;/RB&amp;gt;&amp;lt;RT&amp;gt;カピタン&amp;lt;/RT&amp;gt;&amp;lt;/RUBY&amp;gt;として、大いなる賢明さをもって&amp;lt;RUBY&amp;gt;&amp;lt;RB&amp;gt;天下&amp;lt;/RB&amp;gt;&amp;lt;RT&amp;gt;テンカ&amp;lt;/RT&amp;gt;&amp;lt;/RUBY&amp;gt;を統治した者であったことは否定し得ない&amp;lt;ref&amp;gt;完訳フロイス日本史3　58章（本来の第2部43章）&amp;lt;/ref&amp;gt;」&lt;br /&gt;
&amp;lt;ref&amp;gt;完訳フロイス日本史2　32章（本来の第1部83章）&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
* 尾張の僧侶・[[天沢]]は、甲斐を訪れた際に武田信玄に信長の日常の様子を尋ねられ「信長公は毎朝馬に乗られ鷹狩りにもしばしば行きます。また鉄砲を[[橋本一巴]]、弓を[[市川大介]]、兵法を[[平田三位]]に学ばれ稽古をされる。趣味は舞と小唄。清洲の町衆[[松井友閑]]をお召しになり、ご自身でお舞になりますが、敦盛一番の外はお舞にならず“人間五十年、下天の内をくらぶれば夢幻のごとくなり”の節をうたいなれた口つきで舞われます&amp;lt;ref name=&amp;quot;atsumori&amp;quot;/&amp;gt;。“死のうは一定、しのび草には何をしよぞ、一定かたりをこすよの”の小唄の一節を口ずさまれる」と答えた。（信長公記・首巻）&lt;br /&gt;
* 天正元年（[[1573年]]）11月、[[足利義昭]]の帰洛交渉のため、[[毛利輝元]]から信長の元に派遣された[[毛利氏]]の家臣・[[安国寺恵瓊]]は「信長の代、五年三年は持たるべく候、来年あたりは、[[公家]]などに成らる可しと見及び候、左候て後、高転びに転ばれ候ずると見申し候、秀吉さりとてはのものにて候」と国許へ書状を送っている。&lt;br /&gt;
* [[浅井久政]]・[[浅井長政|長政]]父子と[[朝倉義景]]の3人の[[頭蓋骨]]を薄濃（はくだみ。[[漆]]でかためて[[金箔]]などを張る事とされる）にし、「他国衆退出の已後 御馬廻ばかり」の酒宴の[[肴]]として披露した（[[信長公記]]）。これは後世、髑髏を[[杯]]にして家臣に飲ませたという話になっているが、こちらは一次史料にはない（「フロイス日本史」によれば信長は酒を好まなかったという）。[[髑髏]]を薄濃にするというのは、死者への敬意を表すものであるとされる。&lt;br /&gt;
* 弟・信勝の暗殺や叔母・おつやの方の処刑により、身内にも厳しいともされる。一方、反乱を計画した兄・信広を赦免後には重用したり、信勝も一度は許している上に彼の遺児（[[津田信澄]]）の養育を手配している。叔母の処刑も自身が降伏しただけでなく信長の実子までも武田に差し出した行為の怒りからとも推測できる。自分の弟が戦死した場合には相手を徹底的に攻撃する（[[比叡山焼き討ち (1571年)|比叡山焼き討ち]]、[[長島一向一揆]]殲滅）、信長の親族と婚姻した家とは自身から直接的な敵対行動をとらない（武田・浅井共に、先に敵対行動をとったのは相手側である）など、身内に手厚いともされる。&lt;br /&gt;
* 非常に律儀な性格であり、信長の側から盟約・和睦を破った事は一度も無い。一時は和睦しながら再び信長と敵対した勢力は数多いが、それら勢力は自ら先んじて信長との盟約・和睦を反古にしている。例外として不戦の盟約を破って朝倉氏を攻撃した事例があるが、この盟約は浅井氏と交わしたものであって、直接朝倉氏と不戦の盟約を交わした訳ではない。&lt;br /&gt;
* 信長は自信家でありながらも世間の評判を重視しており、常に正しい戦いであると主張することに腐心していたとされる(京都[[公家]]の日記などから）。&lt;br /&gt;
* 長女の[[徳姫]]を除くと生前に縁組させた[[冬姫]]らの娘達は個人的にも親交のある家臣である[[前田家]]、[[丹羽家]]、若しくは少年時代から面倒を見てきた[[蒲生氏郷]]に嫁入りさせており、信長の死後も夫から大事にされ続けている。このことから、「娘を大事にしてくれそうな婿を厳選する」甘い父親とも評されることもある。また、織田家関連の女性には実名が判明している女性が多いため、当時の人間としては女性を重視していたとする見方もある。&lt;br /&gt;
* 尾張から岐阜に単身赴任した部下を叱る、[[豊臣秀吉|羽柴秀吉]]夫妻の夫婦喧嘩を仲裁する等家庭内での妻の役割を重視した言動が残されている。&lt;br /&gt;
* 『信長公記』に次の様な逸話がある。美濃と近江の国境近くの山中という所（現在の[[関ヶ原町]]山中）に「山中の猿」と呼ばれる体に障害のある男が街道沿いで[[乞食]]をしていた。岐阜と京都を頻繁に行き来する信長はこれを度々観て哀れに思っていた。天正三年（[[1575年]]）6月、信長は上洛の途上、山中の人々を集め、木綿二十反を山中の猿に与え、「これを金に換え、この者に小屋を建ててやれ。また毎年麦や米を施してくれれば、自分はとても嬉しい」と言った。人々は感涙したという。こうした行為から、信長は自分の家臣たちには厳しいが、自分に反抗する恐れのない者、特に立場の弱い庶民たちには寛大な所があったと見ることもできる。&lt;br /&gt;
* [[長篠の戦い]]の時には、身分の低い[[足軽]]でありながらも自分の命を犠牲にして[[長篠城]]を落城の危機から救った[[鳥居強右衛門]]の勇敢な行為を称え、強右衛門の忠義心に報いるために自ら指揮して立派な墓を建立させたと伝えられる。その墓は現在も[[愛知県]][[新城市]]作手の甘泉寺に残っている。&lt;br /&gt;
* [[荒木村重]]の説得に向かった[[黒田孝高]]（官兵衛）が帰還せず同時期に孝高の主君・[[小寺政職]]が離反したために同調して裏切ったと判断し、息子・松壽丸（後の[[黒田長政]]）の処刑命令を出したものの、後に孝高が牢に監禁されていた事が判明した時には｢官兵衛に合せる顔が無い｣と深く恥じ入っている。その後、松壽丸が[[竹中重治]]（半兵衛）に匿われていた事が分かった時には狂喜し、重治の命令違反を不問にした。自分の間違いが明らかになった場合には素直に認めて反省する一面もあった。&lt;br /&gt;
* 信長公記などのエピソードによると、身分に拘らず、庶民とも分け隔てなく付き合い、仲が良かった様子が散見される。実際、庶民と共に踊ってその汗を拭いてやったり、工事の音頭をとる際等にはその姿を庶民の前に晒している。天正9年7月15日のお盆では安土城の至る所に明かりをつけ、城下町の住人の目を楽しませるといった行動をとっており「言語道断面白き有様」と記述され、相撲のエピソードなどからも祭り好きだと考えられ、自身が参加・主催することを好んだようである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 苛烈と云われる所業 ===&lt;br /&gt;
* 赤ん坊の頃は非常に癇が強く、何人もの[[乳母]]の[[乳房]]を噛み切ったという逸話がある。家中では乳母捜しに大変苦労したという。なお「生まれた時から歯が生えていた」といった説話は、偉人伝でしばしば見られる。&lt;br /&gt;
* 比叡山焼き討ちなど仏教勢力に対する軍事行動が目立つ。当時の寺院が世俗の権力と一体化して宗教としての意義を忘れていたことや僧侶の腐敗ぶりを批判した。[[新井白石]]は「そのことは残忍なりといえども 長く僧侶の凶悪を除けり これもまた 天下の功有事の一つと成すべし」と評価している。信長と同時代の史料でも「ちか比（ごろ）ことのはもなき事にて、天下のため笑止なること、筆にもつくしかたき事なり」といった記述が『[[御湯殿上日記]]』にある程度で、それほど批判はない。また、仏を信仰することは禁止していない。&lt;br /&gt;
* [[茶坊主]]に不手際があり、信長が激怒した。茶坊主は怒りを怖れて棚の下に隠れたが、信長は棚の下に刀を差し入れて、押し切る様に茶坊主を斬り殺したという逸話がある。そのときの刀は切れ味の良さから「[[圧し切り長谷部]]（へしきりはせべ）」と名づけられたという。&lt;br /&gt;
* [[元亀]]元年（[[1570年]]）5月6日、[[杉谷善住坊]]という鉄砲の名手が信長を暗殺しようとしたことがあったが未遂に終わり、[[天正]]元年（1573年）に善住坊は捕らえられた。信長は善住坊の首から下を土に生き埋めにし、切れ味の悪い竹製の[[鋸]]で首を挽かせ、長期間激痛を与え続ける[[拷問]]を科した。これは信長だけでなく、秀吉が女房衆の1人に&amp;lt;ref&amp;gt;フロイス日本史より&amp;lt;/ref&amp;gt;、[[徳川家康]]も家臣の[[大賀弥四郎]]に対して行っており、[[江戸時代]]の[[公事方御定書]]には極刑の一つとして紹介されている（[[鋸挽き]]）。&lt;br /&gt;
* 天正2年（[[1574年]]）の長島一向一揆で、信長が長島城の一揆衆を「偽装和睦で」討った、とする書籍があるが、これは誤訳である。&amp;lt;ref&amp;gt;「御侘言申し、長島明け退き候」とあるだけで、許したとは書いていない（他の箇所の「侘言」に対しては許した旨が書いてある）。またそれ以前に、降伏する場合は「（信長に対して）忠節を尽くす」と書いてあり、この「侘言」が降伏に当たるかどうかも怪しい。&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
* 天正6年（[[1578年]]）、[[畿内]]の[[高野聖]]1,383人を捕え殺害した。高野山が荒木村重の残党を匿ったり、足利義昭と通じるなど、信長と敵対する動きを見せたことへの報復であったという。また、高野聖に成り済まし密偵活動を行う者がおり、これに手を焼いた末の行動でもあったとも云われている。&lt;br /&gt;
* 天正6年（1578年）12月13日、[[尼崎]]近くの七松で、謀反を起こした[[荒木村重]]の一族郎党の婦女子122人を[[磔]]、鉄砲、槍・長刀などで処刑した。さらに女388人男124人を4つの家に押し込め、周囲に草を積んで焼き殺した。『[[信長公記]]』ではその様を「魚をのけぞるように上を下へと波のように動き焦熱、大焦地獄そのままに炎にむせんで踊り上がり飛び上がった」と記している。これは当の荒木村重が家臣数名とともに城を脱出し、その後に村重の説得にあたった村重の家臣らが信長との約束に背いて、人質を見捨てて出奔してしまった事による、言わば「制裁」であった。&lt;br /&gt;
* 天正10年（[[1582年]]）4月10日、信長は[[琵琶湖]]の[[竹生島]]参詣のために[[安土城]]を発った。信長は翌日まで帰って来ないと思い込んだ侍女たちは&amp;lt;ref&amp;gt;安土城と竹生島の間は往復で約30里（約120km）の距離がある&amp;lt;/ref&amp;gt;、[[桑実寺]]に参詣に行ったり、[[城下町]]で買い物をしたりと勝手に城を空けた。ところが、信長は当日のうちに帰還。侍女たちの無断外出を知った信長は激怒し、侍女たちを縛り上げた上で、全て殺したとされる。また、侍女たちの助命嘆願を行った桑実寺の長老も、同じく殺されたという。ただし、桑実寺の長老に関する記録が[[本能寺の変]]以降も残っているため、実際には長老は殺されていないと桑実寺の側は主張している。また、この逸話の原典となっている『[[信長公記]]』には、信長が侍女たちと長老を「成敗した」とはあるが、「殺した」とは書かれていない。当時、「成敗」とは必ずしも死刑のみを意味するものではなく、縄目を受ける程度の軽い成敗（処罰）の方法もあったことから、何らかの処罰はあったものの死刑にまでは至っていないとする説もある。ちなみにフロイス日本史には年代不明ながらこれと良く似た事件が書かれているが、こちらでは「彼女たちを厳罰に処した後、そのうち1人か2人は寺に逃げ込んだので、彼女らを受け入れた寺の僧侶らは殺された」とある。&amp;lt;ref&amp;gt;「かつて信長は、政庁の数名の召使の女、または夫人たちに対してひどい癇癪を起こし、彼女たちを厳罰に処した。そのうちの1人か2人は処罰されたあと、ある山の真中にあり、城から3、4の射程距離にある一仏寺に逃れた。このことが信長の耳に入ると、彼は、聖霊降臨の祝日の前夜のことであったが、その寺の全僧侶を捕縛させ、翌日には1人も生かしておくことなく全員を殺させたが、その数はおびただしかった。」（『完訳フロイス日本史2　信長とフロイス』第32章より）&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
* 比叡山焼き討ちなど仏教勢力に対する軍事行動についても、当時は仏教勢力自らが軍事力を持ち、敵対勢力に対して軍事行動を行っていた時代である事も考慮すべきである（例えば当の比叡山延暦寺も、[[本願寺]]を焼き討ちするなどの行動をしている）。&lt;br /&gt;
* 信長の敵勢力に対する行為の大半は、当時の戦国大名の間では当たり前に行われていたもので、信長だけが取り立てて残虐非道であったわけではない。[[豊臣秀吉]]が天正5年（[[1577年]]）に、[[毛利氏]]への見せしめとして、[[備前国]]・[[美作国]]・[[播磨国]]の国境付近で女・子供200人以上を処刑（子供は[[串刺し]]、女は[[磔]]）した行為&amp;lt;ref&amp;gt;同年12月5日の羽柴秀吉書状&amp;lt;/ref&amp;gt;、[[武田信玄]]・[[上杉謙信]]等の戦費確保や自軍への報酬として、敵を[[奴隷]]として売却すること（[[ルイス・ソテロ]]等の日記）や敵方の女性を[[競売]]にかけたり（[[小田井原の戦い]]）といった行為等もことさら珍しいことではなかった。このように当時の状況や道徳の違いを考慮してその行動を評価する必要がある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 交友関係 ===&lt;br /&gt;
* 上洛以来、朝廷等の貴族階級の財政状態を改善したことから、公家とも親交が深かった。特に[[近衛前久]]とは最初は敵対していたにも拘らず、[[鷹狩り]]という趣味の一致などと相まって特に仲が良かったようである。&lt;br /&gt;
* 戦国武将に両性愛者が多いという説により信長もそうだと見られがちだが、直接的証拠は無い｡主に[[森成利]]（蘭丸）の逸話によるが、元々織田家は譜代の武将の子を年少より付随させ家臣団の結束を図っていたので、森成利が特別な訳ではない。森成利の親である森可成は信長がもっとも苦戦した時期に戦死しているので、その息子に目をかけていても不思議ではなく、それ以上の関係は証明されていない。後の史料である[[加賀藩]]編纂『亜相公御夜話』では、[[前田利家]]との関係が「鶴の汁の話（信長が若い頃は利家と愛人関係であったことを武功の宴会で披露し、利家が同僚達に羨ましがられたという逸話）」として残されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 南蛮への関心 ===&lt;br /&gt;
* 南蛮品を好み、[[正親町天皇]]を招き開催した「[[京都御馬揃え]]」に[[ベルベット|ビロード]]のマント、西洋帽子を着用し参加した。晩年は戦場に赴くときも、[[南蛮胴]]を身に付けていた。[[アレッサンドロ・ヴァリニャーノ]]の使用人であった黒人に興味を示して譲り受け、[[弥助]]と名付け側近にした。&lt;br /&gt;
* [[イエズス会]]の献上した[[地球儀]]・[[時計]]・[[地図]]などをよく理解したと言われる（当時はこの世界が丸い物体であることを知る日本人はおらず、地球儀献上の際も家臣の誰もがその説明を理解できなかったが、信長は「理にかなっている」と言い、理解した）。好奇心が強く、鉄砲が一般的でない頃から[[火縄銃]]を用いていた。奇抜な性格で知られるが、[[ルイス・フロイス]]には日常生活は普通に見えたようである。[[ローマ教皇]][[グレゴリウス13世 (ローマ教皇)|グレゴリウス13世]]に安土城の屏風絵を贈っていたが、実際に届いたのは信長の死後の[[1585年]]（天正13年）であったとされる。なお、この屏風絵は紛失している。&lt;br /&gt;
* ルイス・フロイスに南蛮の目覚まし時計を献上された際は、扱いや修理が難しかろうという理由で残念そうに返したという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 文化への関心 ===&lt;br /&gt;
* [[囲碁]]の「[[名人]]」という言葉は信長発祥と言われている。（[[本因坊算砂]]の項を参照）&lt;br /&gt;
* 幸若舞『[[敦盛]]』の「''人間五十年、下天の内を較ぶれば、夢幻の如く也。一度生を稟け、滅せぬ物の有る可き乎。''」という一節をよく舞った&amp;lt;ref name=&amp;quot;atsumori&amp;quot;/&amp;gt;。一方で、[[猿楽]]（[[能]]）を嫌った{{要出典|date=2012年1月}}。&lt;br /&gt;
* 大の[[相撲]]好きで、安土城などで大規模な相撲大会をたびたび開催していた。相撲大会は武士・庶民の身分を問わず参加が可能で、庶民であっても成績の優秀な者は褒美を与えられ、また織田家の家来として正式に採用されることもあったという。また信長は[[土俵]]の原型を作ったともいう{{要出典|date=2012年1月}}。&lt;br /&gt;
* 上京した際に連歌師の[[里村紹巴]]から試され下の句を詠まれた時、即座に上の句を詠んで周囲を感嘆させた（『信長記』）。&lt;br /&gt;
* [[茶の湯]]にも大きな関心を示した。これについて、堺の商人との交渉を有利にするため、茶器を家臣の恩賞として利用するためという説があるが、信忠に家督を譲った際に茶器だけを持って家臣の家に移っている&amp;lt;ref&amp;gt;信長公記より。&amp;lt;/ref&amp;gt;ことから、純粋に好んでいたようである。&lt;br /&gt;
* [[三好義継]]が敗死したとき、坪内某という三好家の料理人が織田家の捕虜となった。信長は坪内に対して料理を命じ、「料理がうまければお前を赦免し、織田家の料理人として雇う」と約束した。翌日、坪内が作った料理を信長が食した時、「料理が水っぽい」として怒り、坪内を処刑しようとした。しかし坪内はもう一度だけ機会が欲しいと頼んだ。二度目に出された料理を信長は褒め、坪内の採用を決めたという。後に、坪内が他の家臣から「最初から二度目の料理を出していたら良かったのではないか」と尋ねられると、坪内は「私は最初、京風の上品な薄味の料理を作ったのですが、信長公はこれを少しもお気に召さなかったので、次に濃い味付けの田舎料理を作ったところ、今度は大層お気に召されました。しょせん信長公は京風の上品な味が分からない田舎者ということですよ」と答えた&amp;lt;ref&amp;gt;『武辺咄聞書』より。『常山紀談』にも同様の記事が見られる。&amp;lt;/ref&amp;gt;。ただし、この時期にはすでに信長が上洛して何年も経っていたため、当時の信長が京風の味付けを全く知らなかったかは疑問が残る。また医学的に見れば、武士である信長は若い頃から戦場で多くの汗を流し、平時にも武術の訓練を欠かさなかったため、体力をほとんど使わない京の公家よりも多くの塩分を必要とする体質になっており、必然的に味付けの濃い料理を好む傾向が強かったとも考えられる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* ''「なかぬなら 殺してしまへ 時鳥（[[ホトトギス]]）」'' という歌が信長の人柄を表すとして有名であるが、しかしこれは信長作でなく[[松浦清|松浦静山]]『[[甲子夜話]]』に収録された当時詠み人知らずで伝わった歌の引用である&amp;lt;ref&amp;gt;[[q:時鳥#川柳]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。また、この歌の続きには「鳥屋にやれよ…」とあり、戦国時代の武将達に比して江戸の将軍は気骨が無いと批判するもので、信長の性格というよりもその自他を含めた生死を見極める決断力や気概を評価した歌であったようである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「怒りっぽかった」という記録ははっきり言って当てにならない。中世の記録はたいがいこうやって脚色してあるものだからである。考えてみたまえ。庶民が法を犯すたびに怒る統治者など存在するわけがない。まあ短気ではあっただろう。即断即決でなければ生きていけない世の中だったのだから。しかし判断が早いというのと、感情が動き易いということとは全く違う。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==脚注==&lt;br /&gt;
&amp;lt;references/&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* ''「なかぬなら 殺してしまへ 時鳥（[[ホトトギス]]）」'' という歌が信長の人柄を表すとして有名であるが、しかしこれは信長作でなく[[松浦清|松浦静山]]『[[甲子夜話]]』に収録された当時詠み人知らずで伝わった歌の引用である&amp;lt;ref&amp;gt;[[q:時鳥#川柳]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。また、この歌の続きには「鳥屋にやれよ…」とあり、戦国時代の武将達に比して江戸の将軍は気骨が無いと批判するもので、信長の性格というよりもその自他を含めた生死を見極める決断力や気概を評価した歌であったようである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==アホ学者の通説を斬る！==&lt;br /&gt;
立花京子&lt;br /&gt;
*『天皇は武力によって君臨しているわけではないから、武力による脅しは無意味』（by「黄金太閤」）&lt;br /&gt;
**？？？天皇が何の正当性をもって君臨しているかという事と、天皇に武力による脅しが通じるかという事に、いったい何の関係があるんだ？天皇だって人の子だ。刀をつきつけて「譲位しろ」と脅せば、ビビって「はい」と言ってしまうことだってあるだろう。過去に毒殺された親王だっている。もし「信長が天皇から武力を奪おうとした」という事実があって、それへの反論としてこう言うなら分かるのだが。どうもこのへんの歴史学者というのはいまだに天皇を崇拝しているようで困る。&lt;br /&gt;
**まあ馬揃えはどうでもいいんだけどね。ちなみに天皇が馬揃えを見たがったのは、自分の方が信長より上位であるという関係を民衆に見せたかったから。それ以外にあるわけないじゃんｗ　天皇の言葉をそのまま受け取ってしまうようじゃあ政治は語れないのである。&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Minagoroshida</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E3%83%88%E3%83%BC%E3%82%AF:%E7%B9%94%E7%94%B0%E4%BF%A1%E9%95%B7&amp;diff=162222</id>
		<title>トーク:織田信長</title>
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				<updated>2012-06-27T14:37:23Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Minagoroshida: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;この記事を正式に、秀逸な記事として選考します。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
票の書式は以下のようにしてください&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1.--[[利用者:ユーザー名|ユーザー名]] 2012年4月6日 (金) 19:10 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===賛成票===&lt;br /&gt;
1.--[[利用者:User02|User02]] 2012年4月6日 (金) 19:12 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2.--[[User:Super Lemon|Super Lemon]] 2012年4月7日 (土) 21:49 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
3.--[[利用者:泊優稀|Tomari]] 2012年4月15日 (日) 05:09 (UTC)&lt;br /&gt;
===反対票===&lt;br /&gt;
1,正直邪魔なんですけど。私の作ったページにあれこれ口出ししないでください。先編集権とやらを使わせてもらいますよ？[[利用者:Minagoroshida|Minagoroshida]] 2012年6月27日 (水) 14:37 (UTC)&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Minagoroshida</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E6%9D%BF%E5%80%89%E4%B8%88%E6%B5%A9&amp;diff=156041</id>
		<title>板倉丈浩</title>
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				<updated>2012-04-01T05:51:35Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Minagoroshida: /* 信長について */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;板倉丈浩とは、インターネット上に出没する痛い知ったか歴史ヲタである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==板倉丈浩の珍言集==&lt;br /&gt;
===信長について===&lt;br /&gt;
*問題の信長発言ですが、「内裏」も天皇のことなんで、「王（皇）」の解釈がどちらであっても信長が自分は天皇だといったのは間違いないと思われます。この発言の背景ですが、当時の天皇は宣教師追放の綸旨を出すなど宗教統制権を保持しており、宣教師たちは天皇による布教許可にこだわっていたということがあります。&lt;br /&gt;
いくら信長といえども叡慮には敬意を払わざるを得ないため、キリシタンに好意的でない天皇と宣教師を会わせたら面倒なことになる、という現実的な問題から出てきた遁辞であって、あまり深い意味はないのかなあ･･･というのが私の印象です。&lt;br /&gt;
**信長以前にも三好や足利によって綸旨が無視されるなど、天皇には正当性しかなく、実力はなかった。こんなもん改めて説明するまでもあるまい。そして信長も天皇の綸旨を無視している。比叡山再興の綸旨を差し押さえてしまったのは有名な話。&lt;br /&gt;
**「布教許可」ではない。宣教師は天皇を日本の宗教の長と見ていた。そして日本人はどの宗教を信じるかについて、権力者にならう習慣があった。要するに天皇に神道仏教は誤りである事を説明し、改宗させるのが目的である。&lt;br /&gt;
**会わせたくないなら「考えておく」「多忙でその余裕がない」など、ごまかしようはいくらでもある。&lt;br /&gt;
**信長とフロイスの最初の出会いを思い出していただきたい。あれほど慎重な信長が「国の正当な元首は自分だ」と言っているのに、「深い意味がない」わけがない。&lt;br /&gt;
**宣教師は「信長は自分が皇であり内裏であると言っている」と他人に口外することができた。もし遁辞でこんな事を言っているのが知れ渡ったらただではすまない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*＞宣教師追放の綸旨　これは将軍義輝暗殺直後の永禄8年7月にも出されていて、宣教師は実際に京都を追い出され&lt;br /&gt;
**なにが「実際に」なんだか。宣教師を追い出したのは「松永久秀と三好三人衆（うち2人）」である。そもそもこの綸旨は松永久秀が「出させた」もの。しかも動機は法華宗の坊主に金を渡されてという、なんともアレな理由である。綸旨の価値などこの程度。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*信長が宣教師に「気にするな」と言ったのは事実でしょうが、その少し前で、信長は日乗に対して「全ては全日本の君である内裏に御一任する」と回答したとされていますから（フロイス日本史）、明確に綸旨を否定するというより、うまくごまかしたという感じです。&lt;br /&gt;
**事実「でしょうが」ではない。「で　す　が」だ。&lt;br /&gt;
**信長が「内裏に一任する」と言ったのは綸旨に対してではない。その後の「（フロイスいわく）数ヵ条」が届けられた時である。その動機は「信長は内裏に対して礼を失したくなかったので、この件では折り合うことを考え」、前述のように言ったのである。ちなみにこの時、足利義昭が真っ向からこの綸旨を否定している。信長の態度は義昭との微妙な関係を考慮したものだろう。つまり、後に朝廷を利用して義昭の上に立つことを考えていた予兆がここからも読み取れるのである。&lt;br /&gt;
**京にセミナリヨの建築許可を出したのは'''信長の家臣の'''村井貞勝である。明確に綸旨を否定している。「感じ」などというあいまいな感情でものを語ってもらっては困るな。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*＞外国人の目から客観的に見て、天皇の影響力は絶大であるという意識があったのだと思います。&lt;br /&gt;
**アホかｗｗｗ　フロイスは「天皇は日本の正当な君主ではあるものの、ほぼ何の権力もない」と書いとるわｗｗｗｗｗ&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*＞信長のその後のキリシタン保護政策の展開　仰るとおりなんですが&lt;br /&gt;
**はいそうです。桐野氏のおっしゃる通りです。神道否定してる連中の件をウヤムヤとかｗできるわけないだろｗ　信長が遁辞なんて使う理由もないしな。&lt;br /&gt;
**ってか、遁辞使ってるのはお前じゃんｗｗｗ&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*＞神秘的な存在に漠然とした興味を抱いて　興味本位というのはどうでしょう？実際に信長の機嫌を損ねていますし、ヴァリニャーノにしてはちょっと軽率すぎる気がしますが…。&lt;br /&gt;
**いつ信長の機嫌を損ねたんですか？？？妄想で語られても困ります。宣教師が積極的に説法・宗論をしたがるのは当然のことなんだが。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*＞絹衣相論　むしろこういう案件は朝廷で処理すべきという一般的認識があったからこそ、当初は朝廷に解決が求められたのであり、イレギュラーな事例だと思います。&lt;br /&gt;
**いや実際の権力のこと話してんだけど。「持ち込まれたのが朝廷」ってのが問題じゃないの。朝廷が解決できたかどうかが論点なの。わかる？&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===いまの政治について===&lt;br /&gt;
http://app.m-cocolog.jp/t/typecast/76132/71618/21892460/list_comments&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
おはようございます。&lt;br /&gt;
今の世の中、あまり馬●と言ってはいけないようなんですが(^^;&lt;br /&gt;
証人喚問で追求しようと言う相手に、電話で情報提供をお願いする民主党は●鹿としかいいようがないですねえ。&lt;br /&gt;
読売のインタビュー記事には、さすがにショックを受けているようですが、後の祭り。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
＞「『言え』って話だから」という前次官の言葉は、何を意味しているのであろうか。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これは証人喚問の時の次のやりとりを指すのではないでしょうか。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
浅尾氏「証言のなかで、何事も包み隠さずと言った。政治家の不正確なら、誰々だと思うとつけて結構なので２人の名前を挙げてください」&lt;br /&gt;
守屋氏「まあ、あの私の記憶が間違っていたら大変なご迷惑をおかけするので、わたしの気持ちとしては、軽々に申し上げられない」&lt;br /&gt;
浅尾氏「包み隠さずという宣誓と異なるのでは」&lt;br /&gt;
守屋氏「それでは申し上げますが、久間先生と、あの、額賀先生ではなかったかと思っております」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
後は、あのメール問題の時と同じで、さも確証があるかのように国会で追求してしまったので引くに引けず、「証人喚問さえ決めればタレコミ情報があるだろう」という淡い期待にすがっているのが現状ではないかと。&lt;br /&gt;
まさに、突撃すれば神佑天助があると考えていたインパール作戦そのものですね･･･。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
Nov 30, 2007&lt;br /&gt;
板倉丈浩&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
--------------------------------------------------------------------------------&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==キモい趣味==&lt;br /&gt;
===アニメ===&lt;br /&gt;
風光さん、こんばんは。&lt;br /&gt;
http://takaseyuka.moe-nifty.com/takaseyuka/2006/01/shuffle24_4526.html&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
＞製作側の考えまでそう決め付けるのはどうかと。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
むしろ制作者側の意欲が非常に感じられる作品でしたね。&lt;br /&gt;
脚本も演出も作監も存分に腕を振るっていたというか･･･。&lt;br /&gt;
一昔前のアニメはこういう作品が多かったんですけどね。&lt;br /&gt;
毎回テレビの前で「今日は何を見せてくれるんだろう」とワクワクしたものです。&lt;br /&gt;
私にとっての「SHUFFLE!」もそういう雰囲気を持った作品でした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
＞Bパートは完全に監督の趣味で作られたんですよ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そうですね。&lt;br /&gt;
キャラをデフォルメしまくり動かしまくり。&lt;br /&gt;
監督の「これがアニメーションなんだ！」という思いが感じられます。&lt;br /&gt;
最終回Ｂパートの「作画が悪い」という評判をちらほら見かけますが、私は決してそうは思いませんでした。&lt;br /&gt;
「ＡパートとＢパートであんなに作画が違うのはどうよ」とは思いましたが･･･。&lt;br /&gt;
でも、このことは作品全体についてもいえることで、意欲的挑戦的であるがゆえに、完成度という点では若干マイナスに働いたような気がします。&lt;br /&gt;
でもまあ、ストーリーを上手くまとめていたので、基本的に評価は高いです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
＞エンディングでのキキョウと楓のからみなどはあとのDVD最終巻に収録される内容の先出しというファンサービスですし&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ＤＶＤでエピローグ追加ですか！&lt;br /&gt;
それは朗報です。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
投稿： 板倉丈浩 | 2006.01.17 00:13&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*こんなクソアニメ見てるのかよｗ&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
Ｃ．Ｍａｙａさん、こんにちは。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
＞ネットでの私は、全てニフティのフォーラムで育てて貰ってたりします。&lt;br /&gt;
＞まあ、そんなことはどうでもいいのですが…(^^;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
いや、とてもいい話ですよ～。&lt;br /&gt;
私もパソコン通信時代のフォーラムから学ぶことは多かったです。&lt;br /&gt;
（アニメ以外の部屋が多かったのですが）&lt;br /&gt;
知らないことを教えてもらうだけではなく、いろんな人のいろんな考え方に触れることができて楽しかったです。&lt;br /&gt;
レスに感謝する気持ちって大切なんですよね･･･。自戒自戒(^^;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
まあ件の方に理解していただけないのは非常に残念ですが、別にここでケンカするつもりは全くありませんので、ご安心を。&lt;br /&gt;
よりによってＣ．ＭａｙａさんのＨＰで、あんな発言をする人がいるとは思いもしなかったので、ちょっと感情的になってしまったのかもしれません。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
投稿： 板倉丈浩 | 2006.01.12 15:33&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
軟骨さん&lt;br /&gt;
＞あなたもニフティ会員の恥にならないように、もう少し頑張ったらいかがですか。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ずいぶん偉そうな物言いに聞こえてしまいますが、私の気のせいでしょうか。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
＞「相手を納得させるつもりが無い」なんてのは、発言者として嘘ですよ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
嘘じゃありません。&lt;br /&gt;
物事の認識なんて人の数だけあるのだからと割り切っていますので。&lt;br /&gt;
だいたい、私の解釈や作品の楽しみ方が納得できないなら、それだけ書けばいいことです。&lt;br /&gt;
お説教やフォーラム批判は筋違いもいいところです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
投稿： 板倉丈浩 | 2006.01.12 14:28&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*腹いてーｗ&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ｳﾞｧﾝﾁ さん、こんにちは。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
親衛隊が結成されたり、バーベナ学園内ではシア・ネリネ・楓が３大プリンセスだというのは間違いありませんが･･･。&lt;br /&gt;
私はシア・ネリネ・楓がメインで、亜沙・プリムラがサブとは最初から思いませんでした。&lt;br /&gt;
ＯＰやＥＤの映像で５人は対等な扱いを受けていましたから。&lt;br /&gt;
出てくる順番は微妙に違いますが。&lt;br /&gt;
今から考えると、ＥＤ映像で亜沙が一番に映し出されるというのは、ラストを暗示していたんでしょうね。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
エンディングクレジットで筆頭の女の子が選ばれるというのはアニメの「王道」（お約束？）かもしれませんけど、作品としての評価は別のような気がします。&lt;br /&gt;
このアニメのシリーズ後半は稟の初恋物語でもあるわけで、最終回のクライマックスに向けて、直球勝負というか、筋は通していると思いました。&lt;br /&gt;
まあ、一夫多妻制という救済措置がある世界ですから、主人公の争奪戦にしても盛り上がりようがなかったので、こうしたんでしょうね。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
あと、プリムラ＝ニコリス編では稟は頑張っていたと思います。&lt;br /&gt;
キキョウの扱いについては、私も同感です。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
投稿： 板倉丈浩 | 2006.01.12 11:52&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
軟骨さん&lt;br /&gt;
＞なんか、ニフティのフォーラムが縮小されるのが分かるような…。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私は今でもそれほどアクティブじゃないのですが、&lt;br /&gt;
ここの管理人のＣ．Ｍａｙａさんなどは昔は非常に熱心に活動されておりました。&lt;br /&gt;
今でも会員の方はそれぞれ頑張って発言しておられます。&lt;br /&gt;
一部だけ見て全体を否定する、そういう決めつけは会員の皆さんに失礼だと思います。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私はあなたを納得させようなんて全く思っていませんので、そのへん誤解無きよう。&lt;br /&gt;
この作品を見て私はこう思いましたと書いているだけです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
投稿： 板倉丈浩 | 2006.01.12 09:35&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
Ｃ．Ｍａｙａさん&lt;br /&gt;
＞キャラクター同士の関わりは、うまくリンクさせて欲しかったかなあ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それは私も感じました。&lt;br /&gt;
マルチエンディングゲームが原作だと、&lt;br /&gt;
特定キャラのルートに入らないと抱えていた設定が吐き出されないから、&lt;br /&gt;
どうしても横軸のエピソードが不足するんですよね。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・ニコリスの墓に語りかけるネリネ&lt;br /&gt;
・親子のように仲良くなった神王・魔王・プリムラ&lt;br /&gt;
・綺麗になろうと努力する楓とシア／キキョウ（共同戦線？）&lt;br /&gt;
・もう耳を隠さなくてもよくなった亜麻と語り合う亜沙&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それを補完するためにも、エンディングでさらっと流れた上記のような場面は、&lt;br /&gt;
丁寧にエピローグとして描いて欲しかったと思いました。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
軟骨さん&lt;br /&gt;
＞オブラートにくるむ必要がどこにあるのでしょう？&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「SHUFFLE!」という題名が示すとおり、&lt;br /&gt;
神界・魔界・人間界がごちゃまぜになった、にぎやかで楽しい世界ですから、&lt;br /&gt;
作品世界の持つそういう雰囲気（テーマじゃないですよ）を&lt;br /&gt;
ギリギリのところで壊さないようにするためでしょうね。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
＞どうして21話や23話で人を不快にさせるのでしょうか？&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
うーん。私は楓編は不快じゃなかったですけどね。&lt;br /&gt;
恐怖を煽る演出がされていましたが、それはあくまでも演出であって、&lt;br /&gt;
本筋としてはテーマに沿ったストーリー展開がされていたと思います。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
亜沙も途中まで「わがままかなあ」とは思いましたが、不快じゃなかったです。&lt;br /&gt;
だって、この作品の稟というキャラクターが、他人の事情はわからなくても、&lt;br /&gt;
心の痛みはわかる人間として描かれていましたから。&lt;br /&gt;
心の痛みがわかるから、表に出た行動だけでわがままだといって責めることは絶対しない。&lt;br /&gt;
まあ私は一般人ですから、「何が彼女をそうさせたか」と気になってしまうわけですが（笑）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
＞板倉さんがそういう人を相手に頭を使って文章を考える手間をかけさせられている&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
いやいや、私、本を読んだり映像作品を見たりしていろいろ考えるのが好きなんで、&lt;br /&gt;
１から１０まで説明してくれなきゃ感情移入できないなんてことはないんです。&lt;br /&gt;
もちろん、設定をしっかりと考えて作ってくれていることが前提ですけどね。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
投稿： 板倉丈浩 | 2006.01.11 23:34&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
軟骨さん、Ｃ．Ｍａｙａさん、こんばんは。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
このアニメ、設定が非常に凝っているんですけど、オブラートにくるんでわかりにくくしているんですよね。&lt;br /&gt;
何回か見直して「実はこのシーンはあんな意味があったんだ」ということがわかるみたいな･･･。&lt;br /&gt;
受け止め方は人それぞれだと思いますが、私はそういう作品は嫌いじゃないです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
でも、作品全体のテーマは非常に明快ですよね。&lt;br /&gt;
「大切なのは一歩前に踏み出すこと」&lt;br /&gt;
最終回のラストが稟がいる場所に向かって楓が走っていくシーン（プリムラに手を引かれながらですが）というのは非常に象徴的で、テーマに沿ったいいラストシーンだと私は思いました。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
＞この作品、人の心の“軋み”や“痛み”に対する認識が決定的に欠如していると思います。&lt;br /&gt;
＞19話、20話での楓の壊れっぷりがそれを表現したものであるならば評価出来るのですが、21話でそれを完全に無視しているので&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これなんですが、楓の狂気の振る舞いを無視したのは、他ならない稟なんですよね。&lt;br /&gt;
楓の心の痛みを誰よりもわかっているからこそ、絶対に楓を責めないのだ･･･と私は受け止めました。&lt;br /&gt;
むしろ稟は「楓を傷つける方法でしか楓の背中を押してやることができない」と言って自分を責めているわけです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「綺麗事」と言ってしまえばそれまでですが、誰もが他人のせいにして責任を押しつけ合うこの現代日本で、このアニメくらいは一服の清涼剤になってもいいんじゃないでしょうか？&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
投稿： 板倉丈浩 | 2006.01.11 00:49&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
軟骨さん、こんにちは。&lt;br /&gt;
ニフティのトップページからたどり着くのは難しいかもしれませんので、&lt;br /&gt;
ＵＲＬ張って置きますね（セミオープンなので、誰でも閲覧できます）。&lt;br /&gt;
下記会議室の2220番発言です。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「@nifty：アニメフォーラム：掲示板：テレビ　：テレビアニメの話題と感想」&lt;br /&gt;
http://bbs.com.nifty.com/mes/cf_wrent/FANIME_B002&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
投稿： 板倉丈浩 | 2006.01.09 18:19&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
Ｃ．Ｍａｙａさん、こんにちは。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
＞テレビアニメ会議室、見ましたよ(^^)。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ありがとうございます。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
＞最初、何処にあるのかが分からず、GO FANTVA MESなんて、コマンドを打ち込みたくなっちゃいました。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ＧＯコマンド、懐かしいですねー。&lt;br /&gt;
今じゃフォーラムも片隅に追いやられてヒドイ扱いです(^^&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
＞魔王や神王が越して来た街に今も留まり続けているのは、（亜沙先輩の）お父さんとの思い出の街、だからなのでしょうか。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それもあると思いますが、亜麻は亜沙が第一ですから、&lt;br /&gt;
亜沙が稟を好きなことに薄々気づいており、&lt;br /&gt;
自分が連れ戻されることはある程度覚悟の上で、&lt;br /&gt;
娘が好きな男の子と離ればなれにしたくなかったというのが&lt;br /&gt;
理由としては大きかったではないでしょうか。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
最終話Ｂパートで亜沙が稟の腕に抱きつくシーンがありましたが、&lt;br /&gt;
これは第１話でも全く同じ構図のシーンがあったことから、&lt;br /&gt;
亜沙は実は最初から（魔王や神王が来る前から）稟のことを好きだった&lt;br /&gt;
ということを暗示しているものと思われます。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
＞それは亜沙先輩じゃ無くって稟に伝えて欲しかったんですよね。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
亜沙には「死んじゃえばいいんだ」という決定的な言葉をぶつけていますので、&lt;br /&gt;
あそこで互いに許し合うというのが、ストーリー上不可欠だったんでしょうね。&lt;br /&gt;
（楓を見舞おうとするシーンを見る限り、亜沙は楓のあのセリフを聞く前に意識を失った可能性が高いと思われますが）&lt;br /&gt;
最終話で楓が「亜沙先輩の許しをいただいていますから」と言っていることから、&lt;br /&gt;
「先輩の許し」が楓の新しい心の拠り所になったということなんじゃないかと。&lt;br /&gt;
まあ思いこみの強い楓のことですから、「見ているだけでいい」なんてことには絶対ならず、とことんまで突っ走るでしょうけどね。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そんなことを考えさせられる最終回でした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
投稿： 板倉丈浩 | 2006.01.09 16:00&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
Ｃ．Ｍａｙａさん、板倉と申します。初めまして。&lt;br /&gt;
いつも楽しく拝見させていただいています。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
さて、最終回Ａパートについてですが･･･。&lt;br /&gt;
やるなやるなと思っていましたが、&lt;br /&gt;
いざアレを見せられると心臓に悪いですね。&lt;br /&gt;
あれだけ血がどくどく出るのだから動脈をザックリ切っている。&lt;br /&gt;
傷は神経に達しているだろうから半端な痛さではないはず。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
まあ、稟はもともと顔にカッターを投げつける幼なじみを&lt;br /&gt;
むしろ気づかい守ろうとするような人ですので、&lt;br /&gt;
大切な人のためなら全身切り刻まれても笑っていそうです。&lt;br /&gt;
（カッター攻撃はあれ１回だけとはとても思えない･･･）&lt;br /&gt;
だから、ヒロインたちの中で稟の行為に一番驚かなかったのは、&lt;br /&gt;
実は楓だったんじゃなかったかなと思っています。&lt;br /&gt;
（楓と稟の過去話は最終話に向けた伏線だったのかもしれません）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
亜沙の魔法嫌いについては、こう解釈しています。&lt;br /&gt;
SHUFFLE!の登場人物は何でも自分で抱え込む傾向があります。&lt;br /&gt;
人工生命体である亜麻は実験施設に戻されることを恐れており、&lt;br /&gt;
過剰なまでに（家族を守るため）人間であろうとしていた。&lt;br /&gt;
そして亜沙は亜麻の過去について詳しくは知らされていないため、&lt;br /&gt;
（人工生命体ではなく、普通の魔族だと思っている）&lt;br /&gt;
尊敬する母の生き様を見て、その事情を誤解し、&lt;br /&gt;
魔法を徹底的に拒否するようになったのではないか･･･と。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ちなみに楓エンドについては、原作ゲームシステムでは、&lt;br /&gt;
他ヒロインの誰ともうまくいかない場合に楓とくっつくという、&lt;br /&gt;
バッドエンドの代わりみたいな扱いらしいです。&lt;br /&gt;
となると、アニメ化して一見悪そうに見える楓の扱いも、&lt;br /&gt;
実はそんなに悪くはないのかな･･･とも思えます。&lt;br /&gt;
過去に捕らわれていた楓の姿勢も前向きになりましたし。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「SHUFFLE!」全体の感想については、&lt;br /&gt;
ニフティのテレビアニメ会議室で書きましたので、&lt;br /&gt;
よかったら読んでください&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
投稿： 板倉丈浩 | 2006.01.08 23:36&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===特撮===&lt;br /&gt;
http://app.m-cocolog.jp/t/typecast/144116/128116/15333445/list_comments&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
こんばんは。&lt;br /&gt;
メビウスは毎回見ているわけではないですが、この回はたまたま視聴しました。面白かったです。&lt;br /&gt;
レオはかっこいいですよね。造型とかスタイルとか。&lt;br /&gt;
でも視聴率的には苦戦したようで、途中から「日本昔話シリーズ」とか迷走ぶりも甚だしく、あまり見なくなってしまいましたが（ＭＡＣが全滅したことも知りませんでした）、初期の頃のおおとりゲンの特訓シーン（＝モロボシ・ダンのしごき）は今から思い出しても凄まじいもので、強烈な印象が残っています。&lt;br /&gt;
初期の「獅子の瞳が輝いて･･･」という主題歌もシリーズ屈指の名曲だと思います。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ただ、ゲンは渋くなりすぎて（何で旅僧姿なんだろう？）、「兄さん」というよりは「父さん」という感じでした(^^&lt;br /&gt;
次は篠田三郎さん演じる東光太郎のゲスト出演に期待したいところですね。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2006/11/29&lt;br /&gt;
板倉丈浩&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Minagoroshida</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E6%9D%BF%E5%80%89%E4%B8%88%E6%B5%A9&amp;diff=155970</id>
		<title>板倉丈浩</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E6%9D%BF%E5%80%89%E4%B8%88%E6%B5%A9&amp;diff=155970"/>
				<updated>2012-03-31T15:10:26Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Minagoroshida: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;板倉丈浩とは、インターネット上に出没する痛い知ったか歴史ヲタである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==板倉丈浩の珍言集==&lt;br /&gt;
===信長について===&lt;br /&gt;
*はじめまして。板倉と申します。&lt;br /&gt;
王権論は私も感心があってちょっと調べたことがあるのですが、確かにヨーロッパのキリスト教と封建国家の分析には有用なんでしょうけど、これを日本に適用しようとすると、各論者が言っていることがバラバラすぎますし、あまりうまくいっていないような気がします。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
さて、問題の信長発言ですが、「内裏」も天皇のことなんで、「王（皇）」の解釈がどちらであっても信長が自分は天皇だといったのは間違いないと思われます。&lt;br /&gt;
この発言の背景ですが、当時の天皇は宣教師追放の綸旨を出すなど宗教統制権を保持しており、宣教師たちは天皇による布教許可にこだわっていたということがあります。&lt;br /&gt;
いくら信長といえども叡慮には敬意を払わざるを得ないため、キリシタンに好意的でない天皇と宣教師を会わせたら面倒なことになる、という現実的な問題から出てきた遁辞であって、あまり深い意味はないのかなあ･･･というのが私の印象です。&lt;br /&gt;
2006/11/29(Wed) 21:19 | URL  | 板倉丈浩&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
**信長以前に三好や足利によって綸旨が無視されるなど、天皇に宗教的統制権はなかった。そして信長も天皇の綸旨を無視している。会わせたくないなら「天皇は会わないと言っている」と言えばいいだけのこと。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*＞宣教師追放の綸旨&lt;br /&gt;
これは将軍義輝暗殺直後の永禄8年7月にも出されていて、宣教師は実際に京都を追い出され、堺に逃れています。その後、永禄12年4月に義昭・信長から相次いで京都居住の許可が出された後に、ご指摘の追放綸旨が発せられたのです。&lt;br /&gt;
また、信長が宣教師に「気にするな」と言ったのは事実でしょうが、その少し前で、信長は日乗に対して「全ては全日本の君である内裏に御一任する」と回答したとされていますから（フロイス日本史）、明確に綸旨を否定するというより、うまくごまかしたという感じです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
**なにが「実際に」なんだか。宣教師を追い出したのは「松永久秀と三好三人衆（うち2人）」である。信長が「内裏に一任する」と言ったのは綸旨に対してではない。その後の「（フロイスいわく）数ヵ条」が届けられた時である。そこで「信長は内裏に対して礼を失したくなかったので、この件では折り合うことを考え」、前述のように言ったのである。ちなみにこの時、足利義昭が真っ向からこの綸旨を否定している。信長の態度は義昭との微妙な関係を考慮したものだろう。つまり、後に朝廷を利用して義昭の上に立つことを考えていた予兆がここからも読み取れるのである。だいたい統制権があるなら京に建てられたセミナリヨの事をどう言い訳するのか。しかもセミナリヨの建築許可を出したのは'''信長の家臣の'''村井貞勝なのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*＞外国人の目から客観的に見て、天皇の影響力は絶大であるという意識があったのだと思います。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
**アホかｗｗｗ　フロイスは「天皇は日本の正当な君主ではあるものの、ほぼ何の権力もない」と書いとるわｗｗｗｗｗ&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*＞信長のその後のキリシタン保護政策の展開&lt;br /&gt;
仰るとおりなんですが、ただ「既成事実化」や「朝廷の体面に配慮」ということからして、この問題をウヤムヤにしたい、棚上げにしたいという信長の政治的意図があり、その延長線上で「予が天皇」という遁辞を弄するに至ったのではないでしょうか。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
**はいはい、論点ずらし論点ずらし。既成事実化は桐野氏が便宜的に用いている単語。朝廷の体面への配慮は義昭との対立。神道否定してる連中の件をウヤムヤとかｗできるわけないだろｗ　信長が遁辞なんて使う理由もないしな。ってか、遁辞使ってるのはお前じゃんｗｗｗ&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*＞神秘的な存在に漠然とした興味を抱いて&lt;br /&gt;
興味本位というのはどうでしょう？&lt;br /&gt;
実際に信長の機嫌を損ねていますし、ヴァリニャーノにしてはちょっと軽率すぎる気がしますが…。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
**いつ信長の機嫌を損ねたんですか？？？妄想で語られても困ります。宣教師が積極的に説法・宗論をしたがるのは当然のことなんだが。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*＞絹衣相論&lt;br /&gt;
むしろこういう案件は朝廷で処理すべきという一般的認識があったからこそ、当初は朝廷に解決が求められたのであり、イレギュラーな事例だと思います。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
**いや実際の権力のこと話してんだけど。「持ち込まれたのが朝廷」ってのが問題じゃないの。朝廷が解決できたかどうかが論点なの。わかる？&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===いまの政治について===&lt;br /&gt;
http://app.m-cocolog.jp/t/typecast/76132/71618/21892460/list_comments&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
おはようございます。&lt;br /&gt;
今の世の中、あまり馬●と言ってはいけないようなんですが(^^;&lt;br /&gt;
証人喚問で追求しようと言う相手に、電話で情報提供をお願いする民主党は●鹿としかいいようがないですねえ。&lt;br /&gt;
読売のインタビュー記事には、さすがにショックを受けているようですが、後の祭り。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
＞「『言え』って話だから」という前次官の言葉は、何を意味しているのであろうか。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これは証人喚問の時の次のやりとりを指すのではないでしょうか。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
浅尾氏「証言のなかで、何事も包み隠さずと言った。政治家の不正確なら、誰々だと思うとつけて結構なので２人の名前を挙げてください」&lt;br /&gt;
守屋氏「まあ、あの私の記憶が間違っていたら大変なご迷惑をおかけするので、わたしの気持ちとしては、軽々に申し上げられない」&lt;br /&gt;
浅尾氏「包み隠さずという宣誓と異なるのでは」&lt;br /&gt;
守屋氏「それでは申し上げますが、久間先生と、あの、額賀先生ではなかったかと思っております」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
後は、あのメール問題の時と同じで、さも確証があるかのように国会で追求してしまったので引くに引けず、「証人喚問さえ決めればタレコミ情報があるだろう」という淡い期待にすがっているのが現状ではないかと。&lt;br /&gt;
まさに、突撃すれば神佑天助があると考えていたインパール作戦そのものですね･･･。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
Nov 30, 2007&lt;br /&gt;
板倉丈浩&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
--------------------------------------------------------------------------------&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==キモい趣味==&lt;br /&gt;
===アニメ===&lt;br /&gt;
風光さん、こんばんは。&lt;br /&gt;
http://takaseyuka.moe-nifty.com/takaseyuka/2006/01/shuffle24_4526.html&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
＞製作側の考えまでそう決め付けるのはどうかと。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
むしろ制作者側の意欲が非常に感じられる作品でしたね。&lt;br /&gt;
脚本も演出も作監も存分に腕を振るっていたというか･･･。&lt;br /&gt;
一昔前のアニメはこういう作品が多かったんですけどね。&lt;br /&gt;
毎回テレビの前で「今日は何を見せてくれるんだろう」とワクワクしたものです。&lt;br /&gt;
私にとっての「SHUFFLE!」もそういう雰囲気を持った作品でした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
＞Bパートは完全に監督の趣味で作られたんですよ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そうですね。&lt;br /&gt;
キャラをデフォルメしまくり動かしまくり。&lt;br /&gt;
監督の「これがアニメーションなんだ！」という思いが感じられます。&lt;br /&gt;
最終回Ｂパートの「作画が悪い」という評判をちらほら見かけますが、私は決してそうは思いませんでした。&lt;br /&gt;
「ＡパートとＢパートであんなに作画が違うのはどうよ」とは思いましたが･･･。&lt;br /&gt;
でも、このことは作品全体についてもいえることで、意欲的挑戦的であるがゆえに、完成度という点では若干マイナスに働いたような気がします。&lt;br /&gt;
でもまあ、ストーリーを上手くまとめていたので、基本的に評価は高いです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
＞エンディングでのキキョウと楓のからみなどはあとのDVD最終巻に収録される内容の先出しというファンサービスですし&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ＤＶＤでエピローグ追加ですか！&lt;br /&gt;
それは朗報です。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
投稿： 板倉丈浩 | 2006.01.17 00:13&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*こんなクソアニメ見てるのかよｗ&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
Ｃ．Ｍａｙａさん、こんにちは。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
＞ネットでの私は、全てニフティのフォーラムで育てて貰ってたりします。&lt;br /&gt;
＞まあ、そんなことはどうでもいいのですが…(^^;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
いや、とてもいい話ですよ～。&lt;br /&gt;
私もパソコン通信時代のフォーラムから学ぶことは多かったです。&lt;br /&gt;
（アニメ以外の部屋が多かったのですが）&lt;br /&gt;
知らないことを教えてもらうだけではなく、いろんな人のいろんな考え方に触れることができて楽しかったです。&lt;br /&gt;
レスに感謝する気持ちって大切なんですよね･･･。自戒自戒(^^;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
まあ件の方に理解していただけないのは非常に残念ですが、別にここでケンカするつもりは全くありませんので、ご安心を。&lt;br /&gt;
よりによってＣ．ＭａｙａさんのＨＰで、あんな発言をする人がいるとは思いもしなかったので、ちょっと感情的になってしまったのかもしれません。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
投稿： 板倉丈浩 | 2006.01.12 15:33&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
軟骨さん&lt;br /&gt;
＞あなたもニフティ会員の恥にならないように、もう少し頑張ったらいかがですか。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ずいぶん偉そうな物言いに聞こえてしまいますが、私の気のせいでしょうか。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
＞「相手を納得させるつもりが無い」なんてのは、発言者として嘘ですよ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
嘘じゃありません。&lt;br /&gt;
物事の認識なんて人の数だけあるのだからと割り切っていますので。&lt;br /&gt;
だいたい、私の解釈や作品の楽しみ方が納得できないなら、それだけ書けばいいことです。&lt;br /&gt;
お説教やフォーラム批判は筋違いもいいところです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
投稿： 板倉丈浩 | 2006.01.12 14:28&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*腹いてーｗ&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ｳﾞｧﾝﾁ さん、こんにちは。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
親衛隊が結成されたり、バーベナ学園内ではシア・ネリネ・楓が３大プリンセスだというのは間違いありませんが･･･。&lt;br /&gt;
私はシア・ネリネ・楓がメインで、亜沙・プリムラがサブとは最初から思いませんでした。&lt;br /&gt;
ＯＰやＥＤの映像で５人は対等な扱いを受けていましたから。&lt;br /&gt;
出てくる順番は微妙に違いますが。&lt;br /&gt;
今から考えると、ＥＤ映像で亜沙が一番に映し出されるというのは、ラストを暗示していたんでしょうね。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
エンディングクレジットで筆頭の女の子が選ばれるというのはアニメの「王道」（お約束？）かもしれませんけど、作品としての評価は別のような気がします。&lt;br /&gt;
このアニメのシリーズ後半は稟の初恋物語でもあるわけで、最終回のクライマックスに向けて、直球勝負というか、筋は通していると思いました。&lt;br /&gt;
まあ、一夫多妻制という救済措置がある世界ですから、主人公の争奪戦にしても盛り上がりようがなかったので、こうしたんでしょうね。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
あと、プリムラ＝ニコリス編では稟は頑張っていたと思います。&lt;br /&gt;
キキョウの扱いについては、私も同感です。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
投稿： 板倉丈浩 | 2006.01.12 11:52&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
軟骨さん&lt;br /&gt;
＞なんか、ニフティのフォーラムが縮小されるのが分かるような…。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私は今でもそれほどアクティブじゃないのですが、&lt;br /&gt;
ここの管理人のＣ．Ｍａｙａさんなどは昔は非常に熱心に活動されておりました。&lt;br /&gt;
今でも会員の方はそれぞれ頑張って発言しておられます。&lt;br /&gt;
一部だけ見て全体を否定する、そういう決めつけは会員の皆さんに失礼だと思います。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私はあなたを納得させようなんて全く思っていませんので、そのへん誤解無きよう。&lt;br /&gt;
この作品を見て私はこう思いましたと書いているだけです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
投稿： 板倉丈浩 | 2006.01.12 09:35&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
Ｃ．Ｍａｙａさん&lt;br /&gt;
＞キャラクター同士の関わりは、うまくリンクさせて欲しかったかなあ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それは私も感じました。&lt;br /&gt;
マルチエンディングゲームが原作だと、&lt;br /&gt;
特定キャラのルートに入らないと抱えていた設定が吐き出されないから、&lt;br /&gt;
どうしても横軸のエピソードが不足するんですよね。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・ニコリスの墓に語りかけるネリネ&lt;br /&gt;
・親子のように仲良くなった神王・魔王・プリムラ&lt;br /&gt;
・綺麗になろうと努力する楓とシア／キキョウ（共同戦線？）&lt;br /&gt;
・もう耳を隠さなくてもよくなった亜麻と語り合う亜沙&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それを補完するためにも、エンディングでさらっと流れた上記のような場面は、&lt;br /&gt;
丁寧にエピローグとして描いて欲しかったと思いました。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
軟骨さん&lt;br /&gt;
＞オブラートにくるむ必要がどこにあるのでしょう？&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「SHUFFLE!」という題名が示すとおり、&lt;br /&gt;
神界・魔界・人間界がごちゃまぜになった、にぎやかで楽しい世界ですから、&lt;br /&gt;
作品世界の持つそういう雰囲気（テーマじゃないですよ）を&lt;br /&gt;
ギリギリのところで壊さないようにするためでしょうね。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
＞どうして21話や23話で人を不快にさせるのでしょうか？&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
うーん。私は楓編は不快じゃなかったですけどね。&lt;br /&gt;
恐怖を煽る演出がされていましたが、それはあくまでも演出であって、&lt;br /&gt;
本筋としてはテーマに沿ったストーリー展開がされていたと思います。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
亜沙も途中まで「わがままかなあ」とは思いましたが、不快じゃなかったです。&lt;br /&gt;
だって、この作品の稟というキャラクターが、他人の事情はわからなくても、&lt;br /&gt;
心の痛みはわかる人間として描かれていましたから。&lt;br /&gt;
心の痛みがわかるから、表に出た行動だけでわがままだといって責めることは絶対しない。&lt;br /&gt;
まあ私は一般人ですから、「何が彼女をそうさせたか」と気になってしまうわけですが（笑）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
＞板倉さんがそういう人を相手に頭を使って文章を考える手間をかけさせられている&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
いやいや、私、本を読んだり映像作品を見たりしていろいろ考えるのが好きなんで、&lt;br /&gt;
１から１０まで説明してくれなきゃ感情移入できないなんてことはないんです。&lt;br /&gt;
もちろん、設定をしっかりと考えて作ってくれていることが前提ですけどね。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
投稿： 板倉丈浩 | 2006.01.11 23:34&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
軟骨さん、Ｃ．Ｍａｙａさん、こんばんは。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
このアニメ、設定が非常に凝っているんですけど、オブラートにくるんでわかりにくくしているんですよね。&lt;br /&gt;
何回か見直して「実はこのシーンはあんな意味があったんだ」ということがわかるみたいな･･･。&lt;br /&gt;
受け止め方は人それぞれだと思いますが、私はそういう作品は嫌いじゃないです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
でも、作品全体のテーマは非常に明快ですよね。&lt;br /&gt;
「大切なのは一歩前に踏み出すこと」&lt;br /&gt;
最終回のラストが稟がいる場所に向かって楓が走っていくシーン（プリムラに手を引かれながらですが）というのは非常に象徴的で、テーマに沿ったいいラストシーンだと私は思いました。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
＞この作品、人の心の“軋み”や“痛み”に対する認識が決定的に欠如していると思います。&lt;br /&gt;
＞19話、20話での楓の壊れっぷりがそれを表現したものであるならば評価出来るのですが、21話でそれを完全に無視しているので&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これなんですが、楓の狂気の振る舞いを無視したのは、他ならない稟なんですよね。&lt;br /&gt;
楓の心の痛みを誰よりもわかっているからこそ、絶対に楓を責めないのだ･･･と私は受け止めました。&lt;br /&gt;
むしろ稟は「楓を傷つける方法でしか楓の背中を押してやることができない」と言って自分を責めているわけです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「綺麗事」と言ってしまえばそれまでですが、誰もが他人のせいにして責任を押しつけ合うこの現代日本で、このアニメくらいは一服の清涼剤になってもいいんじゃないでしょうか？&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
投稿： 板倉丈浩 | 2006.01.11 00:49&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
軟骨さん、こんにちは。&lt;br /&gt;
ニフティのトップページからたどり着くのは難しいかもしれませんので、&lt;br /&gt;
ＵＲＬ張って置きますね（セミオープンなので、誰でも閲覧できます）。&lt;br /&gt;
下記会議室の2220番発言です。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「@nifty：アニメフォーラム：掲示板：テレビ　：テレビアニメの話題と感想」&lt;br /&gt;
http://bbs.com.nifty.com/mes/cf_wrent/FANIME_B002&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
投稿： 板倉丈浩 | 2006.01.09 18:19&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
Ｃ．Ｍａｙａさん、こんにちは。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
＞テレビアニメ会議室、見ましたよ(^^)。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ありがとうございます。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
＞最初、何処にあるのかが分からず、GO FANTVA MESなんて、コマンドを打ち込みたくなっちゃいました。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ＧＯコマンド、懐かしいですねー。&lt;br /&gt;
今じゃフォーラムも片隅に追いやられてヒドイ扱いです(^^&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
＞魔王や神王が越して来た街に今も留まり続けているのは、（亜沙先輩の）お父さんとの思い出の街、だからなのでしょうか。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それもあると思いますが、亜麻は亜沙が第一ですから、&lt;br /&gt;
亜沙が稟を好きなことに薄々気づいており、&lt;br /&gt;
自分が連れ戻されることはある程度覚悟の上で、&lt;br /&gt;
娘が好きな男の子と離ればなれにしたくなかったというのが&lt;br /&gt;
理由としては大きかったではないでしょうか。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
最終話Ｂパートで亜沙が稟の腕に抱きつくシーンがありましたが、&lt;br /&gt;
これは第１話でも全く同じ構図のシーンがあったことから、&lt;br /&gt;
亜沙は実は最初から（魔王や神王が来る前から）稟のことを好きだった&lt;br /&gt;
ということを暗示しているものと思われます。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
＞それは亜沙先輩じゃ無くって稟に伝えて欲しかったんですよね。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
亜沙には「死んじゃえばいいんだ」という決定的な言葉をぶつけていますので、&lt;br /&gt;
あそこで互いに許し合うというのが、ストーリー上不可欠だったんでしょうね。&lt;br /&gt;
（楓を見舞おうとするシーンを見る限り、亜沙は楓のあのセリフを聞く前に意識を失った可能性が高いと思われますが）&lt;br /&gt;
最終話で楓が「亜沙先輩の許しをいただいていますから」と言っていることから、&lt;br /&gt;
「先輩の許し」が楓の新しい心の拠り所になったということなんじゃないかと。&lt;br /&gt;
まあ思いこみの強い楓のことですから、「見ているだけでいい」なんてことには絶対ならず、とことんまで突っ走るでしょうけどね。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そんなことを考えさせられる最終回でした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
投稿： 板倉丈浩 | 2006.01.09 16:00&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
Ｃ．Ｍａｙａさん、板倉と申します。初めまして。&lt;br /&gt;
いつも楽しく拝見させていただいています。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
さて、最終回Ａパートについてですが･･･。&lt;br /&gt;
やるなやるなと思っていましたが、&lt;br /&gt;
いざアレを見せられると心臓に悪いですね。&lt;br /&gt;
あれだけ血がどくどく出るのだから動脈をザックリ切っている。&lt;br /&gt;
傷は神経に達しているだろうから半端な痛さではないはず。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
まあ、稟はもともと顔にカッターを投げつける幼なじみを&lt;br /&gt;
むしろ気づかい守ろうとするような人ですので、&lt;br /&gt;
大切な人のためなら全身切り刻まれても笑っていそうです。&lt;br /&gt;
（カッター攻撃はあれ１回だけとはとても思えない･･･）&lt;br /&gt;
だから、ヒロインたちの中で稟の行為に一番驚かなかったのは、&lt;br /&gt;
実は楓だったんじゃなかったかなと思っています。&lt;br /&gt;
（楓と稟の過去話は最終話に向けた伏線だったのかもしれません）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
亜沙の魔法嫌いについては、こう解釈しています。&lt;br /&gt;
SHUFFLE!の登場人物は何でも自分で抱え込む傾向があります。&lt;br /&gt;
人工生命体である亜麻は実験施設に戻されることを恐れており、&lt;br /&gt;
過剰なまでに（家族を守るため）人間であろうとしていた。&lt;br /&gt;
そして亜沙は亜麻の過去について詳しくは知らされていないため、&lt;br /&gt;
（人工生命体ではなく、普通の魔族だと思っている）&lt;br /&gt;
尊敬する母の生き様を見て、その事情を誤解し、&lt;br /&gt;
魔法を徹底的に拒否するようになったのではないか･･･と。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ちなみに楓エンドについては、原作ゲームシステムでは、&lt;br /&gt;
他ヒロインの誰ともうまくいかない場合に楓とくっつくという、&lt;br /&gt;
バッドエンドの代わりみたいな扱いらしいです。&lt;br /&gt;
となると、アニメ化して一見悪そうに見える楓の扱いも、&lt;br /&gt;
実はそんなに悪くはないのかな･･･とも思えます。&lt;br /&gt;
過去に捕らわれていた楓の姿勢も前向きになりましたし。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「SHUFFLE!」全体の感想については、&lt;br /&gt;
ニフティのテレビアニメ会議室で書きましたので、&lt;br /&gt;
よかったら読んでください&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
投稿： 板倉丈浩 | 2006.01.08 23:36&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===特撮===&lt;br /&gt;
http://app.m-cocolog.jp/t/typecast/144116/128116/15333445/list_comments&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
こんばんは。&lt;br /&gt;
メビウスは毎回見ているわけではないですが、この回はたまたま視聴しました。面白かったです。&lt;br /&gt;
レオはかっこいいですよね。造型とかスタイルとか。&lt;br /&gt;
でも視聴率的には苦戦したようで、途中から「日本昔話シリーズ」とか迷走ぶりも甚だしく、あまり見なくなってしまいましたが（ＭＡＣが全滅したことも知りませんでした）、初期の頃のおおとりゲンの特訓シーン（＝モロボシ・ダンのしごき）は今から思い出しても凄まじいもので、強烈な印象が残っています。&lt;br /&gt;
初期の「獅子の瞳が輝いて･･･」という主題歌もシリーズ屈指の名曲だと思います。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ただ、ゲンは渋くなりすぎて（何で旅僧姿なんだろう？）、「兄さん」というよりは「父さん」という感じでした(^^&lt;br /&gt;
次は篠田三郎さん演じる東光太郎のゲスト出演に期待したいところですね。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2006/11/29&lt;br /&gt;
板倉丈浩&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Minagoroshida</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E6%9D%BF%E5%80%89%E4%B8%88%E6%B5%A9&amp;diff=155966</id>
		<title>板倉丈浩</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E6%9D%BF%E5%80%89%E4%B8%88%E6%B5%A9&amp;diff=155966"/>
				<updated>2012-03-31T15:04:15Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Minagoroshida: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;板倉丈浩とは、インターネット上に出没する痛い知ったか歴史ヲタである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==板倉丈浩の珍言集==&lt;br /&gt;
*はじめまして。板倉と申します。&lt;br /&gt;
王権論は私も感心があってちょっと調べたことがあるのですが、確かにヨーロッパのキリスト教と封建国家の分析には有用なんでしょうけど、これを日本に適用しようとすると、各論者が言っていることがバラバラすぎますし、あまりうまくいっていないような気がします。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
さて、問題の信長発言ですが、「内裏」も天皇のことなんで、「王（皇）」の解釈がどちらであっても信長が自分は天皇だといったのは間違いないと思われます。&lt;br /&gt;
この発言の背景ですが、当時の天皇は宣教師追放の綸旨を出すなど宗教統制権を保持しており、宣教師たちは天皇による布教許可にこだわっていたということがあります。&lt;br /&gt;
いくら信長といえども叡慮には敬意を払わざるを得ないため、キリシタンに好意的でない天皇と宣教師を会わせたら面倒なことになる、という現実的な問題から出てきた遁辞であって、あまり深い意味はないのかなあ･･･というのが私の印象です。&lt;br /&gt;
2006/11/29(Wed) 21:19 | URL  | 板倉丈浩&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
**信長以前に三好や足利によって綸旨が無視されるなど、天皇に宗教的統制権はなかった。そして信長も天皇の綸旨を無視している。会わせたくないなら「天皇は会わないと言っている」と言えばいいだけのこと。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*＞宣教師追放の綸旨&lt;br /&gt;
これは将軍義輝暗殺直後の永禄8年7月にも出されていて、宣教師は実際に京都を追い出され、堺に逃れています。その後、永禄12年4月に義昭・信長から相次いで京都居住の許可が出された後に、ご指摘の追放綸旨が発せられたのです。&lt;br /&gt;
また、信長が宣教師に「気にするな」と言ったのは事実でしょうが、その少し前で、信長は日乗に対して「全ては全日本の君である内裏に御一任する」と回答したとされていますから（フロイス日本史）、明確に綸旨を否定するというより、うまくごまかしたという感じです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
**なにが「実際に」なんだか。宣教師を追い出したのは「松永久秀と三好三人衆（うち2人）」である。信長が「内裏に一任する」と言ったのは綸旨に対してではない。その後の「（フロイスいわく）数ヵ条」が届けられた時である。そこで「信長は内裏に対して礼を失したくなかったので、この件では折り合うことを考え」、前述のように言ったのである。ちなみにこの時、足利義昭が真っ向からこの綸旨を否定している。信長の態度は義昭との微妙な関係を考慮したものだろう。つまり、後に朝廷を利用して義昭の上に立つことを考えていた予兆がここからも読み取れるのである。だいたい統制権があるなら京に建てられたセミナリヨの事をどう言い訳するのか。しかもセミナリヨの建築許可を出したのは'''信長の家臣の'''村井貞勝なのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*＞外国人の目から客観的に見て、天皇の影響力は絶大であるという意識があったのだと思います。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
**アホかｗｗｗ　フロイスは「天皇は日本の正当な君主ではあるものの、ほぼ何の権力もない」と書いとるわｗｗｗｗｗ&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*＞信長のその後のキリシタン保護政策の展開&lt;br /&gt;
仰るとおりなんですが、ただ「既成事実化」や「朝廷の体面に配慮」ということからして、この問題をウヤムヤにしたい、棚上げにしたいという信長の政治的意図があり、その延長線上で「予が天皇」という遁辞を弄するに至ったのではないでしょうか。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
**はいはい、論点ずらし論点ずらし。既成事実化は桐野氏が便宜的に用いている単語。朝廷の体面への配慮は義昭との対立。神道否定してる連中の件をウヤムヤとかｗできるわけないだろｗ　信長が遁辞なんて使う理由もないしな。ってか、遁辞使ってるのはお前じゃんｗｗｗ&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*＞神秘的な存在に漠然とした興味を抱いて&lt;br /&gt;
興味本位というのはどうでしょう？&lt;br /&gt;
実際に信長の機嫌を損ねていますし、ヴァリニャーノにしてはちょっと軽率すぎる気がしますが…。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
**いつ信長の機嫌を損ねたんですか？？？妄想で語られても困ります。宣教師が積極的に説法・宗論をしたがるのは当然のことなんだが。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*＞絹衣相論&lt;br /&gt;
むしろこういう案件は朝廷で処理すべきという一般的認識があったからこそ、当初は朝廷に解決が求められたのであり、イレギュラーな事例だと思います。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
**いや実際の権力のこと話してんだけど。「持ち込まれたのが朝廷」ってのが問題じゃないの。朝廷が解決できたかどうかが論点なの。わかる？&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==キモい趣味==&lt;br /&gt;
風光さん、こんばんは。&lt;br /&gt;
http://takaseyuka.moe-nifty.com/takaseyuka/2006/01/shuffle24_4526.html&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
＞製作側の考えまでそう決め付けるのはどうかと。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
むしろ制作者側の意欲が非常に感じられる作品でしたね。&lt;br /&gt;
脚本も演出も作監も存分に腕を振るっていたというか･･･。&lt;br /&gt;
一昔前のアニメはこういう作品が多かったんですけどね。&lt;br /&gt;
毎回テレビの前で「今日は何を見せてくれるんだろう」とワクワクしたものです。&lt;br /&gt;
私にとっての「SHUFFLE!」もそういう雰囲気を持った作品でした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
＞Bパートは完全に監督の趣味で作られたんですよ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そうですね。&lt;br /&gt;
キャラをデフォルメしまくり動かしまくり。&lt;br /&gt;
監督の「これがアニメーションなんだ！」という思いが感じられます。&lt;br /&gt;
最終回Ｂパートの「作画が悪い」という評判をちらほら見かけますが、私は決してそうは思いませんでした。&lt;br /&gt;
「ＡパートとＢパートであんなに作画が違うのはどうよ」とは思いましたが･･･。&lt;br /&gt;
でも、このことは作品全体についてもいえることで、意欲的挑戦的であるがゆえに、完成度という点では若干マイナスに働いたような気がします。&lt;br /&gt;
でもまあ、ストーリーを上手くまとめていたので、基本的に評価は高いです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
＞エンディングでのキキョウと楓のからみなどはあとのDVD最終巻に収録される内容の先出しというファンサービスですし&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ＤＶＤでエピローグ追加ですか！&lt;br /&gt;
それは朗報です。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
投稿： 板倉丈浩 | 2006.01.17 00:13&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*こんなクソアニメ見てるのかよｗ&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
Ｃ．Ｍａｙａさん、こんにちは。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
＞ネットでの私は、全てニフティのフォーラムで育てて貰ってたりします。&lt;br /&gt;
＞まあ、そんなことはどうでもいいのですが…(^^;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
いや、とてもいい話ですよ～。&lt;br /&gt;
私もパソコン通信時代のフォーラムから学ぶことは多かったです。&lt;br /&gt;
（アニメ以外の部屋が多かったのですが）&lt;br /&gt;
知らないことを教えてもらうだけではなく、いろんな人のいろんな考え方に触れることができて楽しかったです。&lt;br /&gt;
レスに感謝する気持ちって大切なんですよね･･･。自戒自戒(^^;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
まあ件の方に理解していただけないのは非常に残念ですが、別にここでケンカするつもりは全くありませんので、ご安心を。&lt;br /&gt;
よりによってＣ．ＭａｙａさんのＨＰで、あんな発言をする人がいるとは思いもしなかったので、ちょっと感情的になってしまったのかもしれません。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
投稿： 板倉丈浩 | 2006.01.12 15:33&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
軟骨さん&lt;br /&gt;
＞あなたもニフティ会員の恥にならないように、もう少し頑張ったらいかがですか。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ずいぶん偉そうな物言いに聞こえてしまいますが、私の気のせいでしょうか。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
＞「相手を納得させるつもりが無い」なんてのは、発言者として嘘ですよ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
嘘じゃありません。&lt;br /&gt;
物事の認識なんて人の数だけあるのだからと割り切っていますので。&lt;br /&gt;
だいたい、私の解釈や作品の楽しみ方が納得できないなら、それだけ書けばいいことです。&lt;br /&gt;
お説教やフォーラム批判は筋違いもいいところです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
投稿： 板倉丈浩 | 2006.01.12 14:28&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*腹いてーｗ&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ｳﾞｧﾝﾁ さん、こんにちは。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
親衛隊が結成されたり、バーベナ学園内ではシア・ネリネ・楓が３大プリンセスだというのは間違いありませんが･･･。&lt;br /&gt;
私はシア・ネリネ・楓がメインで、亜沙・プリムラがサブとは最初から思いませんでした。&lt;br /&gt;
ＯＰやＥＤの映像で５人は対等な扱いを受けていましたから。&lt;br /&gt;
出てくる順番は微妙に違いますが。&lt;br /&gt;
今から考えると、ＥＤ映像で亜沙が一番に映し出されるというのは、ラストを暗示していたんでしょうね。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
エンディングクレジットで筆頭の女の子が選ばれるというのはアニメの「王道」（お約束？）かもしれませんけど、作品としての評価は別のような気がします。&lt;br /&gt;
このアニメのシリーズ後半は稟の初恋物語でもあるわけで、最終回のクライマックスに向けて、直球勝負というか、筋は通していると思いました。&lt;br /&gt;
まあ、一夫多妻制という救済措置がある世界ですから、主人公の争奪戦にしても盛り上がりようがなかったので、こうしたんでしょうね。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
あと、プリムラ＝ニコリス編では稟は頑張っていたと思います。&lt;br /&gt;
キキョウの扱いについては、私も同感です。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
投稿： 板倉丈浩 | 2006.01.12 11:52&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
軟骨さん&lt;br /&gt;
＞なんか、ニフティのフォーラムが縮小されるのが分かるような…。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私は今でもそれほどアクティブじゃないのですが、&lt;br /&gt;
ここの管理人のＣ．Ｍａｙａさんなどは昔は非常に熱心に活動されておりました。&lt;br /&gt;
今でも会員の方はそれぞれ頑張って発言しておられます。&lt;br /&gt;
一部だけ見て全体を否定する、そういう決めつけは会員の皆さんに失礼だと思います。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私はあなたを納得させようなんて全く思っていませんので、そのへん誤解無きよう。&lt;br /&gt;
この作品を見て私はこう思いましたと書いているだけです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
投稿： 板倉丈浩 | 2006.01.12 09:35&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
Ｃ．Ｍａｙａさん&lt;br /&gt;
＞キャラクター同士の関わりは、うまくリンクさせて欲しかったかなあ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それは私も感じました。&lt;br /&gt;
マルチエンディングゲームが原作だと、&lt;br /&gt;
特定キャラのルートに入らないと抱えていた設定が吐き出されないから、&lt;br /&gt;
どうしても横軸のエピソードが不足するんですよね。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・ニコリスの墓に語りかけるネリネ&lt;br /&gt;
・親子のように仲良くなった神王・魔王・プリムラ&lt;br /&gt;
・綺麗になろうと努力する楓とシア／キキョウ（共同戦線？）&lt;br /&gt;
・もう耳を隠さなくてもよくなった亜麻と語り合う亜沙&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それを補完するためにも、エンディングでさらっと流れた上記のような場面は、&lt;br /&gt;
丁寧にエピローグとして描いて欲しかったと思いました。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
軟骨さん&lt;br /&gt;
＞オブラートにくるむ必要がどこにあるのでしょう？&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「SHUFFLE!」という題名が示すとおり、&lt;br /&gt;
神界・魔界・人間界がごちゃまぜになった、にぎやかで楽しい世界ですから、&lt;br /&gt;
作品世界の持つそういう雰囲気（テーマじゃないですよ）を&lt;br /&gt;
ギリギリのところで壊さないようにするためでしょうね。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
＞どうして21話や23話で人を不快にさせるのでしょうか？&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
うーん。私は楓編は不快じゃなかったですけどね。&lt;br /&gt;
恐怖を煽る演出がされていましたが、それはあくまでも演出であって、&lt;br /&gt;
本筋としてはテーマに沿ったストーリー展開がされていたと思います。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
亜沙も途中まで「わがままかなあ」とは思いましたが、不快じゃなかったです。&lt;br /&gt;
だって、この作品の稟というキャラクターが、他人の事情はわからなくても、&lt;br /&gt;
心の痛みはわかる人間として描かれていましたから。&lt;br /&gt;
心の痛みがわかるから、表に出た行動だけでわがままだといって責めることは絶対しない。&lt;br /&gt;
まあ私は一般人ですから、「何が彼女をそうさせたか」と気になってしまうわけですが（笑）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
＞板倉さんがそういう人を相手に頭を使って文章を考える手間をかけさせられている&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
いやいや、私、本を読んだり映像作品を見たりしていろいろ考えるのが好きなんで、&lt;br /&gt;
１から１０まで説明してくれなきゃ感情移入できないなんてことはないんです。&lt;br /&gt;
もちろん、設定をしっかりと考えて作ってくれていることが前提ですけどね。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
投稿： 板倉丈浩 | 2006.01.11 23:34&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
軟骨さん、Ｃ．Ｍａｙａさん、こんばんは。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
このアニメ、設定が非常に凝っているんですけど、オブラートにくるんでわかりにくくしているんですよね。&lt;br /&gt;
何回か見直して「実はこのシーンはあんな意味があったんだ」ということがわかるみたいな･･･。&lt;br /&gt;
受け止め方は人それぞれだと思いますが、私はそういう作品は嫌いじゃないです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
でも、作品全体のテーマは非常に明快ですよね。&lt;br /&gt;
「大切なのは一歩前に踏み出すこと」&lt;br /&gt;
最終回のラストが稟がいる場所に向かって楓が走っていくシーン（プリムラに手を引かれながらですが）というのは非常に象徴的で、テーマに沿ったいいラストシーンだと私は思いました。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
＞この作品、人の心の“軋み”や“痛み”に対する認識が決定的に欠如していると思います。&lt;br /&gt;
＞19話、20話での楓の壊れっぷりがそれを表現したものであるならば評価出来るのですが、21話でそれを完全に無視しているので&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これなんですが、楓の狂気の振る舞いを無視したのは、他ならない稟なんですよね。&lt;br /&gt;
楓の心の痛みを誰よりもわかっているからこそ、絶対に楓を責めないのだ･･･と私は受け止めました。&lt;br /&gt;
むしろ稟は「楓を傷つける方法でしか楓の背中を押してやることができない」と言って自分を責めているわけです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「綺麗事」と言ってしまえばそれまでですが、誰もが他人のせいにして責任を押しつけ合うこの現代日本で、このアニメくらいは一服の清涼剤になってもいいんじゃないでしょうか？&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
投稿： 板倉丈浩 | 2006.01.11 00:49&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
軟骨さん、こんにちは。&lt;br /&gt;
ニフティのトップページからたどり着くのは難しいかもしれませんので、&lt;br /&gt;
ＵＲＬ張って置きますね（セミオープンなので、誰でも閲覧できます）。&lt;br /&gt;
下記会議室の2220番発言です。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「@nifty：アニメフォーラム：掲示板：テレビ　：テレビアニメの話題と感想」&lt;br /&gt;
http://bbs.com.nifty.com/mes/cf_wrent/FANIME_B002&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
投稿： 板倉丈浩 | 2006.01.09 18:19&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
Ｃ．Ｍａｙａさん、こんにちは。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
＞テレビアニメ会議室、見ましたよ(^^)。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ありがとうございます。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
＞最初、何処にあるのかが分からず、GO FANTVA MESなんて、コマンドを打ち込みたくなっちゃいました。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ＧＯコマンド、懐かしいですねー。&lt;br /&gt;
今じゃフォーラムも片隅に追いやられてヒドイ扱いです(^^&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
＞魔王や神王が越して来た街に今も留まり続けているのは、（亜沙先輩の）お父さんとの思い出の街、だからなのでしょうか。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それもあると思いますが、亜麻は亜沙が第一ですから、&lt;br /&gt;
亜沙が稟を好きなことに薄々気づいており、&lt;br /&gt;
自分が連れ戻されることはある程度覚悟の上で、&lt;br /&gt;
娘が好きな男の子と離ればなれにしたくなかったというのが&lt;br /&gt;
理由としては大きかったではないでしょうか。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
最終話Ｂパートで亜沙が稟の腕に抱きつくシーンがありましたが、&lt;br /&gt;
これは第１話でも全く同じ構図のシーンがあったことから、&lt;br /&gt;
亜沙は実は最初から（魔王や神王が来る前から）稟のことを好きだった&lt;br /&gt;
ということを暗示しているものと思われます。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
＞それは亜沙先輩じゃ無くって稟に伝えて欲しかったんですよね。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
亜沙には「死んじゃえばいいんだ」という決定的な言葉をぶつけていますので、&lt;br /&gt;
あそこで互いに許し合うというのが、ストーリー上不可欠だったんでしょうね。&lt;br /&gt;
（楓を見舞おうとするシーンを見る限り、亜沙は楓のあのセリフを聞く前に意識を失った可能性が高いと思われますが）&lt;br /&gt;
最終話で楓が「亜沙先輩の許しをいただいていますから」と言っていることから、&lt;br /&gt;
「先輩の許し」が楓の新しい心の拠り所になったということなんじゃないかと。&lt;br /&gt;
まあ思いこみの強い楓のことですから、「見ているだけでいい」なんてことには絶対ならず、とことんまで突っ走るでしょうけどね。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そんなことを考えさせられる最終回でした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
投稿： 板倉丈浩 | 2006.01.09 16:00&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
Ｃ．Ｍａｙａさん、板倉と申します。初めまして。&lt;br /&gt;
いつも楽しく拝見させていただいています。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
さて、最終回Ａパートについてですが･･･。&lt;br /&gt;
やるなやるなと思っていましたが、&lt;br /&gt;
いざアレを見せられると心臓に悪いですね。&lt;br /&gt;
あれだけ血がどくどく出るのだから動脈をザックリ切っている。&lt;br /&gt;
傷は神経に達しているだろうから半端な痛さではないはず。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
まあ、稟はもともと顔にカッターを投げつける幼なじみを&lt;br /&gt;
むしろ気づかい守ろうとするような人ですので、&lt;br /&gt;
大切な人のためなら全身切り刻まれても笑っていそうです。&lt;br /&gt;
（カッター攻撃はあれ１回だけとはとても思えない･･･）&lt;br /&gt;
だから、ヒロインたちの中で稟の行為に一番驚かなかったのは、&lt;br /&gt;
実は楓だったんじゃなかったかなと思っています。&lt;br /&gt;
（楓と稟の過去話は最終話に向けた伏線だったのかもしれません）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
亜沙の魔法嫌いについては、こう解釈しています。&lt;br /&gt;
SHUFFLE!の登場人物は何でも自分で抱え込む傾向があります。&lt;br /&gt;
人工生命体である亜麻は実験施設に戻されることを恐れており、&lt;br /&gt;
過剰なまでに（家族を守るため）人間であろうとしていた。&lt;br /&gt;
そして亜沙は亜麻の過去について詳しくは知らされていないため、&lt;br /&gt;
（人工生命体ではなく、普通の魔族だと思っている）&lt;br /&gt;
尊敬する母の生き様を見て、その事情を誤解し、&lt;br /&gt;
魔法を徹底的に拒否するようになったのではないか･･･と。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ちなみに楓エンドについては、原作ゲームシステムでは、&lt;br /&gt;
他ヒロインの誰ともうまくいかない場合に楓とくっつくという、&lt;br /&gt;
バッドエンドの代わりみたいな扱いらしいです。&lt;br /&gt;
となると、アニメ化して一見悪そうに見える楓の扱いも、&lt;br /&gt;
実はそんなに悪くはないのかな･･･とも思えます。&lt;br /&gt;
過去に捕らわれていた楓の姿勢も前向きになりましたし。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「SHUFFLE!」全体の感想については、&lt;br /&gt;
ニフティのテレビアニメ会議室で書きましたので、&lt;br /&gt;
よかったら読んでください&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
投稿： 板倉丈浩 | 2006.01.08 23:36&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Minagoroshida</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E6%9D%BF%E5%80%89%E4%B8%88%E6%B5%A9&amp;diff=155964</id>
		<title>板倉丈浩</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E6%9D%BF%E5%80%89%E4%B8%88%E6%B5%A9&amp;diff=155964"/>
				<updated>2012-03-31T14:56:14Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Minagoroshida: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;板倉丈浩とは、インターネット上に出没する痛い知ったか歴史ヲタである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==板倉丈浩の珍言集==&lt;br /&gt;
*はじめまして。板倉と申します。&lt;br /&gt;
王権論は私も感心があってちょっと調べたことがあるのですが、確かにヨーロッパのキリスト教と封建国家の分析には有用なんでしょうけど、これを日本に適用しようとすると、各論者が言っていることがバラバラすぎますし、あまりうまくいっていないような気がします。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
さて、問題の信長発言ですが、「内裏」も天皇のことなんで、「王（皇）」の解釈がどちらであっても信長が自分は天皇だといったのは間違いないと思われます。&lt;br /&gt;
この発言の背景ですが、当時の天皇は宣教師追放の綸旨を出すなど宗教統制権を保持しており、宣教師たちは天皇による布教許可にこだわっていたということがあります。&lt;br /&gt;
いくら信長といえども叡慮には敬意を払わざるを得ないため、キリシタンに好意的でない天皇と宣教師を会わせたら面倒なことになる、という現実的な問題から出てきた遁辞であって、あまり深い意味はないのかなあ･･･というのが私の印象です。&lt;br /&gt;
2006/11/29(Wed) 21:19 | URL  | 板倉丈浩&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
**信長以前に三好や足利によって綸旨が無視されるなど、天皇に宗教的統制権はなかった。そして信長も天皇の綸旨を無視している。会わせたくないなら「天皇は会わないと言っている」と言えばいいだけのこと。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*＞宣教師追放の綸旨&lt;br /&gt;
これは将軍義輝暗殺直後の永禄8年7月にも出されていて、宣教師は実際に京都を追い出され、堺に逃れています。その後、永禄12年4月に義昭・信長から相次いで京都居住の許可が出された後に、ご指摘の追放綸旨が発せられたのです。&lt;br /&gt;
また、信長が宣教師に「気にするな」と言ったのは事実でしょうが、その少し前で、信長は日乗に対して「全ては全日本の君である内裏に御一任する」と回答したとされていますから（フロイス日本史）、明確に綸旨を否定するというより、うまくごまかしたという感じです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
**なにが「実際に」なんだか。宣教師を追い出したのは「松永久秀と三好三人衆（うち2人）」である。信長が「内裏に一任する」と言ったのは綸旨に対してではない。その後の「（フロイスいわく）数ヵ条」が届けられた時である。そこで「信長は内裏に対して礼を失したくなかったので、この件では折り合うことを考え」、前述のように言ったのである。ちなみにこの時、足利義昭が真っ向からこの綸旨を否定している。信長の態度は義昭との微妙な関係を考慮したものだろう。つまり、後に朝廷を利用して義昭の上に立つことを考えていた予兆がここからも読み取れるのである。だいたい統制権があるなら京に建てられたセミナリヨの事をどう言い訳するのか。しかもセミナリヨの建築許可を出したのは'''信長の家臣の'''村井貞勝なのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*＞外国人の目から客観的に見て、天皇の影響力は絶大であるという意識があったのだと思います。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
**アホかｗｗｗ　フロイスは「天皇は日本の正当な君主ではあるものの、ほぼ何の権力もない」と書いとるわｗｗｗｗｗ&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*＞信長のその後のキリシタン保護政策の展開&lt;br /&gt;
仰るとおりなんですが、ただ「既成事実化」や「朝廷の体面に配慮」ということからして、この問題をウヤムヤにしたい、棚上げにしたいという信長の政治的意図があり、その延長線上で「予が天皇」という遁辞を弄するに至ったのではないでしょうか。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
**はいはい、論点ずらし論点ずらし。既成事実化は桐野氏が便宜的に用いている単語。朝廷の体面への配慮は義昭との対立。神道否定してる連中の件をウヤムヤとかｗできるわけないだろｗ　信長が遁辞なんて使う理由もないしな。ってか、遁辞使ってるのはお前じゃんｗｗｗ&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*＞神秘的な存在に漠然とした興味を抱いて&lt;br /&gt;
興味本位というのはどうでしょう？&lt;br /&gt;
実際に信長の機嫌を損ねていますし、ヴァリニャーノにしてはちょっと軽率すぎる気がしますが…。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
**いつ信長の機嫌を損ねたんですか？？？妄想で語られても困ります。宣教師が積極的に説法・宗論をしたがるのは当然のことなんだが。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*＞絹衣相論&lt;br /&gt;
むしろこういう案件は朝廷で処理すべきという一般的認識があったからこそ、当初は朝廷に解決が求められたのであり、イレギュラーな事例だと思います。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
**いや実際の権力のこと話してんだけど。「持ち込まれたのが朝廷」ってのが問題じゃないの。朝廷が解決できたかどうかが論点なの。わかる？&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Minagoroshida</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E6%9D%BF%E5%80%89%E4%B8%88%E6%B5%A9&amp;diff=155962</id>
		<title>板倉丈浩</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E6%9D%BF%E5%80%89%E4%B8%88%E6%B5%A9&amp;diff=155962"/>
				<updated>2012-03-31T14:27:08Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Minagoroshida: ページの作成：「板倉丈浩とは、インターネット上に出没する痛い知ったか歴史ヲタである。」&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;板倉丈浩とは、インターネット上に出没する痛い知ったか歴史ヲタである。&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Minagoroshida</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E6%9C%AC%E8%83%BD%E5%AF%BA%E3%81%AE%E5%A4%89&amp;diff=155771</id>
		<title>本能寺の変</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E6%9C%AC%E8%83%BD%E5%AF%BA%E3%81%AE%E5%A4%89&amp;diff=155771"/>
				<updated>2012-03-30T12:22:28Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Minagoroshida: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''本能寺の変'''（ほんのうじのへん）は、[[天正]]10年[[6月2日 (旧暦)|6月2日]]（[[1582年]][[6月21日]]）、[[織田信長]]の重臣[[明智光秀]]が[[謀反]]を起こし、[[京都]]の[[本能寺]]に宿泊していた主君信長を攻め、自刃させた事件&amp;lt;ref&amp;gt;信長の死の目撃者がいないか、いたとしても死亡しているため、自刃か焼死かは不明。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
光秀が反旗を翻した原因については定説がない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 情勢 ==&lt;br /&gt;
天正10年（1582年）5月までに信長は東は信濃、西は播磨あたりに至るまで広大な領土を手にし、順調に進めば天下は信長のものになると思われる情勢であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 経緯 ==&lt;br /&gt;
5月15日から、[[明智光秀]]は安土城で[[徳川家康]]の接待役を務めていた。羽柴秀吉から応援の要請が届いたため、5月17日に信長は光秀に出撃を命じた。26日、光秀は丹波の[[亀山城 (丹波国)|丹波亀山城]]に移り、出陣の準備を進めた。[[愛宕神社 (京都市)|愛宕大権現]]に参篭し、5月28日・29日に「時は今　天が下なる　五月哉」の発句で知られる[[連歌]]の会を催した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
5月29日、信長も秀吉の応援に出陣するため、小姓を中心とするわずかの供回りを連れ安土を発ち、京都・本能寺に入り、ここで軍勢の集結を待った。同時に、信長の嫡男[[織田信忠|信忠]]は妙覚寺に入った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
翌6月1日、信長は本能寺で茶会を開いていた。一方、光秀は1万3000の手勢を率いて丹波亀山城を出陣し、「信長の閲兵を受けるのだ」と称し京都に向かった。光秀は桂川手前に1万の兵を残し、3000を率いて京に入った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 本能寺の変 ==&lt;br /&gt;
6月2日未明、明智軍3000は本能寺を包囲した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
物音に目覚めた信長は、家来の喧嘩だと思い、近習に様子を探らせた。すると「本能寺は軍勢に囲まれており、紋は桔梗（明智光秀の家紋）である」と報告された。信長は「是非に及ばず」と言い、弓を持ち表で戦ったが、弦が切れたので次に槍を取り敵を突き伏せた。しかし槍傷を受けたため、それ以上の防戦を断念、奥に篭り、信長の小姓であった[[森蘭丸]]に火を放たせ、自刃したとされる（信長の家臣[[太田牛一]]の著作『[[信長公記]]』による）。信長の遺骸は発見されなかった。一説には、信長が帰依していた阿弥陀寺（上立売大宮）の住職清玉が密かに運び出し荼毘に付したと伝える。この縁で阿弥陀寺（上京区鶴山町に移転）には、「織田信長公本廟」が現存する。自害の際に信長が本能寺の地下の火薬庫に火をつけて自爆したため、信長の遺体は発見されなかったという説もある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一方、[[ルイス・フロイス]]の『日本史』（Historia de Iapan）では、「（午前3時頃と言われる）明智の（少数の）兵たちは怪しまれること無く難なく寺に侵入して（6月2日に御所前で[[馬揃え]]をする予定であったのを織田の門番たちは知っていたので油断したと思われる）、信長が[[厠]]から出て手と顔を清めていたところを背後から弓矢を放って背中に命中させた。直後に信長は[[小姓]]たちを呼び、鎌のような武器（[[薙刀]]）を振り回しながら明智の兵達に対して応戦していたが、明智の[[鉄砲]]隊が放った弾が左肩に命中した。直後に障子の戸を閉じた（火を放ち自害した）」という内容になっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
明智謀反の報を受けた信忠は、妙覚寺を出た。そこで京都の行政担当者である[[村井貞勝]]に会った。村井は「すでに本能寺は焼け落ちているので、[[二条城]]（二条新造御所）に立て篭もるべき」と進言し、信忠はこれを容れた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
明智勢は続いて二条城を包囲した。二条城に住んでいた誠仁親王は光秀に使者を送り「自分はどうすべきか。切腹すべきか」と問うた。光秀は親王に手出しするつもりはないといい、これを逃がした。その後、信忠らとその馬廻が明智勢と戦闘を行ったが、守りきれず自刃。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*なお、妙覚寺には、信忠とともに、信長の弟である[[織田長益]]（のちの[[織田有楽斎]]）も滞在していたと言われ、信忠とともに二条城に移ったが、二条城の落城前に逃げ出して、安土城を経て[[岐阜]]へと逃れ、無事であった。信忠が長益の勧めに従い自害したのに対し、長益は自害せずに逃げ出したため、そのことを京の民衆に「織田の源五は人ではないよ　お腹召せ召せ召させておいて　われは安土へ逃げる源五　6月2日に大水出て　織田の源なる名を流す」と皮肉られたと言われている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*また、信忠が二条城で奮戦した際、黒人の家臣[[ヤスケ]]も戦ったという。ヤスケはもともと、宣教師との謁見の際に信長の要望で献上された黒人の奴隷である。ヤスケは、この戦いの後捕まったものの殺されずに生き延びたが、その後の消息は不明である。本能寺の変に触れるドラマの中には、ヤスケが信長に殉じて討ち死にする描かれ方をされることもある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 謀叛の動機 ==&lt;br /&gt;
光秀の挙兵の動機には怨恨、天下取りの野望、朝廷守護など数多くの説があり、意見の一致をみていない。いずれも決定力に欠け、今後も定説をみることはないであろう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一般に知られる怨恨説によると、[[徳川家康]]の接待役を解任されて面目を失った、[[出雲国|出雲]]・[[伯耆国|伯耆]]もしくは[[石見]]に国替えを命ぜられた、母を信長のために死なせてしまったなど、江戸時代以降さまざまな[[講談]]話がおもしろおかしく創作された。しかしこれらにはいずれも明確な裏付けはない。&lt;br /&gt;
むしろ本能寺の変前年に光秀が記した『明智家法』によれば『自分は石ころのような身分から信長様にお引き立て頂き、過分の御恩を頂いた。一族家臣は子孫に至るまで信長様への御奉公を忘れてはならない』という趣旨の文を書いており、信長に対しては尊崇の念を抱いている。&lt;br /&gt;
そのため、怨恨ではない別の動機を求める説も支持されており、特に光秀以外の黒幕の存在を想定する説が多く行われている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 首謀者 ==&lt;br /&gt;
光秀自身の動機ではなく、何らかの黒幕の存在を想定する説には以下のようなものがある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 足利義昭説（藤田達生） ===&lt;br /&gt;
自分を追放し、室町幕府を滅亡に追いやった信長に恨みを抱く[[足利義昭]]が、その権力を奪い返すために光秀をそそのかしたとする説である。&lt;br /&gt;
信長に仕えるようになる前からの光秀と義昭のつながりや、打倒信長のために諸大名の同盟を呼びかけた義昭の過去の行動などから導かれた説であろう。&lt;br /&gt;
しかしこの説では、義昭を庇護していた[[毛利氏]]が（定説によれば）本能寺の変を知らなかった事の説明が付かない。仮に義昭が黒幕であれば当然毛利氏も知っているはずと考えられる。この辺で説得力に欠けると言われている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[太閤記]]や[[佐久間軍記]]などでは和議の時点ですでに事変を知っていたことが描かれており、[[小早川隆景]]が「信長に代わって天下を治めるのは秀吉であるから、今のうちに恩を売るべきである」として和議を支持する進言をしている。仮にこれが事実だとすれば、義昭説とも矛盾はしないことになるが、この時点で秀吉が天下を取ることを予想できた者など当の秀吉くらいしかおらず、これは考え過ぎであろう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 朝廷説 ===&lt;br /&gt;
朝廷黒幕説も、黒幕は[[正親町天皇]]なのか、[[誠仁親王]]なのか、あるいは[[近衛前久]]等の公家衆主体なのかで意見が分かれる。背景としては「[[三職推任問題]]」での信長の対応が、朝廷を滅ぼす意思を持っているのではないかという恐れがあるというのが朝廷黒幕説の根拠の一つに挙げられる。事実光秀は信長・信忠を討った後朝廷に参内し、金品を下賜されている。また、[[山崎の戦い]]の後、[[織田信孝]]が近衛前久に対し追討令を出して執拗に行方を捜した事、[[吉田兼見]]が事情聴取を受けている事、更に兼見の日記で当時の一級史料でもある『[[兼見卿記]]』原本の内容が本能寺の変の前後一ヶ月が欠けており、あまつさえ再度天正10年の項目を新たに書き直したという事実も、朝廷黒幕説を匂わせているが、確たる証拠となるものに欠けている。加えて、「三職推任問題」自体が本能寺の変の直前の出来事であり、その性質上即答可能な問題ではなくむしろ京都立ち寄りの理由の一つにその返答があったと考えられている（逆に信長が返答することを阻止するためにこの日程で本能寺を襲ったと解する事は可能ではある）。更に黒幕として名前が挙げられている近衛前久に対しては本能寺の変の当日に出家しており(数日後とも）、これは[[細川藤孝]]の出家と同様に信長に殉じたと解釈するのが適切である事や後々まで信長の死を惜しんだ和歌を残している事などの反証が挙げられている。また、正親町天皇や誠仁親王に関しても具体的な証拠があるわけではなくこれも仮説の域を出ない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== その他 ===&lt;br /&gt;
*[[イエズス会]]説（立花京子） - 日本の政権交代をもくろんだもの、とする説&lt;br /&gt;
*羽柴秀吉説{{要出典}}&lt;br /&gt;
*[[毛利輝元]]（あるいは小早川隆景）説{{要出典}}&lt;br /&gt;
*[[長宗我部元親]]説 - 元親の妻が明智家臣斎藤利三の娘であったことから（[[井沢元彦]]著『[[逆説の日本史]]』より）&lt;br /&gt;
*朝廷と羽柴秀吉の共謀説{{要出典}}&lt;br /&gt;
*徳川家康説{{要出典}}&lt;br /&gt;
&amp;lt;!-- 説を追加する場合は、出典を明記してください。また、前後の記述のスタイルに合わせてください。--&amp;gt;&lt;br /&gt;
&amp;lt;!--&lt;br /&gt;
*朝廷＆秀吉共謀、実行役光秀は口封じに消された説&lt;br /&gt;
本能寺の変が発生した1582年6月2日、大軍の指揮権を与えられた明智光秀と少数の手勢のみで本能寺に滞在する織田信長―――この日の京都には信長に積年の恨みを抱く光秀が謀反を起こすにこの上ない最高の舞台が整っていたのだが、ではこの舞台は誰が演出したのか・・・秀吉が主君信長に援軍を要請した時期と、朝廷が三官推任を行って信長を単身で京都へ召還した時期とが余りにも絶妙すぎるのである。&lt;br /&gt;
また本能寺の変から毛利軍との和睦成立・中国大返し・天王山の合戦へ至るまでの秀吉の凄まじい行動力は明らかに常軌を逸しており、事前に秀吉が何らかの形で光秀の行動を把握していた可能性が指摘されている。&lt;br /&gt;
これらの事から信長暗殺は朝廷＆秀吉が共謀して仕組んだものであり、実行役光秀はこの共謀を漏らす危険性があるとの理由で電撃的に消された・・・とする説である。&lt;br /&gt;
--&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 動機と首謀者に関するその他の考察 ==&lt;br /&gt;
*光秀がいつごろから謀反を決意していたかは明らかではないが、亀山城出陣を前にして、愛宕権現での連歌の会で光秀が詠んだ発句、'''「時は今　天が下知る　五月哉」'''は、「時（とき）」は源氏の流れをくむ[[土岐氏]]の一族である光秀自身を示し、「天が下知る」は、「天（あめ）が下（した）治る（しる）」、すなわち天下を治めることを暗示していると解し、この時点で謀反の決意を固めていたのだとする説もあるが、これは間違いで、本当は「時は今　雨が下'''な'''る　五月哉」と詠んでいた。前述の改変は秀吉が「天正記」で広めたものである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 本能寺の変後の諸将の動向 ==&lt;br /&gt;
=== 明智光秀 ===&lt;br /&gt;
光秀は3～4日、諸将に書状を送り協力を求め、5日に安土城に入り、そこにあった財産を分配した。9日、上洛し朝廷工作を開始するが、秀吉の大返しの報を受けて山崎に出陣。13日の[[山崎の戦い]]に敗れ、同日深夜、小栗栖（[[京都市]][[伏見区]]）で土民に討たれた。[[三日天下]]と呼ばれた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
期待していた[[細川忠興]]、[[筒井順慶]]ら近畿の有力大名の支持を得られなかったことが戦力不足につながり、敗因の一つであったが、総合的に見て、もともと勝算はほとんど無かったと言える。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 羽柴秀吉 ===&lt;br /&gt;
秀吉は[[清水宗治]]の篭る[[備中高松城]]を包囲して毛利氏と対陣していた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
早くも6月3日には信長横死の報を受け、急遽毛利との和平を取りまとめた。6日に毛利軍が引き払ったのを見て軍を帰し、12日には[[摂津国|摂津]]まで進んだ。ここで摂津の武将[[中川清秀]]・[[池田恒興]]と合流し、さらに四国出兵のため[[堺市|堺]]にいた[[織田信孝]]・[[丹羽長秀]]と合流した。これらの諸軍勢とともに都に向かい、13日の[[山崎の戦い]]([[天王山の戦い]]）で光秀を破った。この非常に短い期間での中国からの移動を'''中国大返し'''と呼ぶ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
以後、秀吉は下克上を狙って活動する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
信長の死の報をいち早く入手した事、[[兵糧攻め]]によりほとんど戦力を失っていなかった事など、秀吉はあまりに都合の良い状況で光秀と戦って勝利を収めたこと、本能寺の変をきっかけに秀吉が天下人となり、結果的に一番利益を得ていること。これらの経緯から、秀吉こそが本能寺の変の黒幕だとする意見もあるが、その場合、光秀だけがリスクを負いすぎていることが指摘される。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 柴田勝家 ===&lt;br /&gt;
勝家は[[佐々成政]]・[[前田利家]]とともに、6月3日上杉氏の[[越中国]][[魚津城]]を3ヶ月の攻城戦の末攻略に成功。しかしその頃信長は既に亡かった。変報が届くと、[[上杉景勝]]の反撃や地侍の蜂起によって秀吉のように軍を迅速に京へ返す事ができなかった。ようやく勝家が軍を率いて江北に着いた頃、既に明智光秀は討たれていた。その後[[清洲会議]]で秀吉と対立し、[[賤ヶ岳の戦い]]で敗北、自害した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 徳川家康 ===&lt;br /&gt;
家康は、信長の招きで5月に安土城を訪れた後、家臣30余名とともに堺に滞在した。6月2日朝、返礼のため長尾街道を京へ向かっていたところ、四条畷付近で京から駆けつけた茶屋四郎次郎に会い、本能寺の変を知る。家康はうろたえ、一時は京に行き本能寺で信長に殉じるとまで言ったが、家臣に説得され帰国を図る。[[山城国|山城]]綴喜・[[近江国|近江]]・加太峠・[[伊賀国|伊賀]]の山中を通って[[伊勢国|伊勢]]へ抜け、[[伊勢湾]]を渡って本国[[三河国|三河]]に戻った。後に「'''神君伊賀越え'''」と称される。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
後年、「神君のご艱難」と称される家康最大の危機であった。実際、堺まで同行しながら伊賀越えで別行動を取った[[穴山信君]]は、山城綴喜の河原の渡しで土豪の襲撃を受けて死んでいる。この時、家康の苦難の伊賀越えに協力したのが伊賀衆であり、その際の伊賀の棟梁、[[服部半蔵]]の功で江戸城に「半蔵門」が作られる。なお、[[堺]]で討たれたと言う伝説も存在し、[[堺]]市内の[[南宗寺]]には彼の名前が刻まれた墓が現存するが、実はこれは後の[[大坂の陣]]の際に生まれた伝説である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
三河に帰り光秀を討とうと出陣し、熱田神宮まで来たが山崎の戦いの報を聞き、引き返した。一説によると[[酒井忠次]]は北伊勢まで進軍していたと言う。もし、これが事実なら家康は美濃～京へ進軍する方と、伊勢～京に進軍する二手に分かれることになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その後、家康は天正壬午の乱を経て領土を増やした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 織田信雄 ===&lt;br /&gt;
信長の次男・[[織田信雄]]は領国の伊勢にいた。本能寺の変の後[[明智光秀]]を討とうと近江の土山へ進軍したが、そこで光秀の死を知り、帰還した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[清洲会議]]では織田家の跡継ぎにならなかった。これを不服として一時家康と共に秀吉と相対するが、結局講和して秀吉の下に下った（[[小牧・長久手の戦い]]）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 滝川一益 ===&lt;br /&gt;
[[滝川一益]]は関東の上野国厩橋城にいた。本能寺の変の報を聞いた小田原の北条氏直が上野国奪取を目指して進出してきた。一益はこれを迎撃しようとしたが敗北し、領国の伊勢長島城へ帰還した（[[神流川の戦い]]）。帰還した時、すでに[[清洲会議]]は終わっていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 織田信孝・丹羽長秀 ===&lt;br /&gt;
[[織田信孝]]は[[丹羽長秀]]、信長の甥・[[津田信澄]]（父は[[織田信勝|織田信勝（信行）]]）らとともに[[大坂]]にて[[四国]]の[[長宗我部元親]]討伐の準備を進めていた。本能寺の変の報が伝わると、すぐさま丹羽長秀は信孝の指示に従って信澄を殺害した。その後、丹羽長秀は信孝とともに京都に向かう羽柴軍に合流した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
信澄殺害は、信澄の父・信勝がかつて信長に謀反を企てて殺されている事や彼が光秀の娘婿であった事から光秀と通じていると見なされた事による。しかしながら、「父信長だけでなく兄信忠も死んだ事を知った信孝が、予想される織田氏の家督争いの有力者の一人になる可能性のある信澄を言いがかりをつけて殺害した」とする見方もある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 長宗我部元親 ===&lt;br /&gt;
長宗我部元親は信長の[[四国征伐]]の影響もあり、兵を[[白地城]]に休ませていたが、信長横死を知るや、兵を[[阿波]]・[[讃岐]]に兵を出し、完全に勢力下に入れた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 脚注 ==&lt;br /&gt;
&amp;lt;references/&amp;gt; &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連事項 ==&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Minagoroshida</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E6%9C%AC%E8%83%BD%E5%AF%BA%E3%81%AE%E5%A4%89&amp;diff=155769</id>
		<title>本能寺の変</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E6%9C%AC%E8%83%BD%E5%AF%BA%E3%81%AE%E5%A4%89&amp;diff=155769"/>
				<updated>2012-03-30T12:21:16Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Minagoroshida: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''本能寺の変'''（ほんのうじのへん）は、[[天正]]10年[[6月2日 (旧暦)|6月2日]]（[[1582年]][[6月21日]]）、[[織田信長]]の重臣[[明智光秀]]が[[謀反]]を起こし、[[京都]]の[[本能寺]]に宿泊していた主君信長を攻め、自刃させた事件&amp;lt;ref&amp;gt;信長の死の目撃者がいないか、いたとしても死亡しているため、自刃か焼死かは不明。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
光秀が反旗を翻した原因については定説がない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 情勢 ==&lt;br /&gt;
天正10年（1582年）5月までに信長は東は信濃、西は播磨あたりに至るまで広大な領土を手にし、順調に進めば天下は信長のものになると思われる情勢であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 経緯 ==&lt;br /&gt;
5月15日から、[[明智光秀]]は安土城で[[徳川家康]]の接待役を務めていた。羽柴秀吉から応援の要請が届いたため、5月17日に信長は光秀に出撃を命じた。26日、光秀は丹波の[[亀山城 (丹波国)|丹波亀山城]]に移り、出陣の準備を進めた。[[愛宕神社 (京都市)|愛宕大権現]]に参篭し、5月28日・29日に「時は今　天が下なる　五月哉」の発句で知られる[[連歌]]の会を催した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
5月29日、信長も秀吉の応援に出陣するため、小姓を中心とするわずかの供回りを連れ安土を発ち、京都・本能寺に入り、ここで軍勢の集結を待った。同時に、信長の嫡男[[織田信忠|信忠]]は妙覚寺に入った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
翌6月1日、信長は本能寺で茶会を開いていた。一方、光秀は1万3000の手勢を率いて丹波亀山城を出陣し、「信長の閲兵を受けるのだ」と称し京都に向かった。光秀は桂川手前に1万の兵を残し、3000を率いて京に入った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 本能寺の変 ==&lt;br /&gt;
6月2日未明、明智軍3000は本能寺を包囲した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
物音に目覚めた信長は、家来の喧嘩だと思い、近習に様子を探らせた。すると「本能寺は軍勢に囲まれており、紋は桔梗（明智光秀の家紋）である」と報告された。信長は「是非に及ばず」と言い、弓を持ち表で戦ったが、弦が切れたので次に槍を取り敵を突き伏せた。しかし槍傷を受けたため、それ以上の防戦を断念、奥に篭り、信長の小姓であった[[森蘭丸]]に火を放たせ、自刃したとされる（信長の家臣[[太田牛一]]の著作『[[信長公記]]』による）。信長の遺骸は発見されなかった。一説には、信長が帰依していた阿弥陀寺（上立売大宮）の住職清玉が密かに運び出し荼毘に付したと伝える。この縁で阿弥陀寺（上京区鶴山町に移転）には、「織田信長公本廟」が現存する。自害の際に信長が本能寺の地下の火薬庫に火をつけて自爆したため、信長の遺体は発見されなかったという説もある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一方、[[ルイス・フロイス]]の『日本史』（Historia de Iapan）では、「（午前3時頃と言われる）明智の（少数の）兵たちは怪しまれること無く難なく寺に侵入して（6月2日に御所前で[[馬揃え]]をする予定であったのを織田の門番たちは知っていたので油断したと思われる）、信長が[[厠]]から出て手と顔を清めていたところを背後から弓矢を放って背中に命中させた。直後に信長は[[小姓]]たちを呼び、鎌のような武器（[[薙刀]]）を振り回しながら明智の兵達に対して応戦していたが、明智の[[鉄砲]]隊が放った弾が左肩に命中した。直後に障子の戸を閉じた（火を放ち自害した）」という内容になっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
明智謀反の報を受けた信忠は、妙覚寺を出た。そこで京都の行政担当者である[[村井貞勝]]に会った。村井は「すでに本能寺は焼け落ちているので、[[二条城]]（二条新造御所）に立て篭もるべき」と進言し、信忠はこれを容れた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
明智勢は続いて二条城を包囲した。二条城に住んでいた誠仁親王は光秀に使者を送り「自分はどうすべきか。切腹すべきか」と問うた。光秀は親王に手出しするつもりはないといい、これを逃がした。その後、信忠らとその馬廻が明智勢と戦闘を行ったが、守りきれず自刃。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*なお、妙覚寺には、信忠とともに、信長の弟である[[織田長益]]（のちの[[織田有楽斎]]）も滞在していたと言われ、信忠とともに二条城に移ったが、二条城の落城前に逃げ出して、安土城を経て[[岐阜]]へと逃れ、無事であった。信忠が長益の勧めに従い自害したのに対し、長益は自害せずに逃げ出したため、そのことを京の民衆に「織田の源五は人ではないよ　お腹召せ召せ召させておいて　われは安土へ逃げる源五　6月2日に大水出て　織田の源なる名を流す」と皮肉られたと言われている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*また、信忠が二条城で奮戦した際、黒人の家臣[[ヤスケ]]も戦ったという。ヤスケはもともと、宣教師との謁見の際に信長の要望で献上された黒人の奴隷である。ヤスケは、この戦いの後捕まったものの殺されずに生き延びたが、その後の消息は不明である。本能寺の変に触れるドラマの中には、ヤスケが信長に殉じて討ち死にする描かれ方をされることもある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 謀叛の動機 ==&lt;br /&gt;
光秀の挙兵の動機には怨恨、天下取りの野望、朝廷守護など数多くの説があり、意見の一致をみていない。いずれも決定力に欠け、今後も定説をみることはないであろう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一般に知られる怨恨説によると、[[徳川家康]]の接待役を解任されて面目を失った、[[出雲国|出雲]]・[[伯耆国|伯耆]]もしくは[[石見]]に国替えを命ぜられた、母を信長のために死なせてしまったなど、江戸時代以降さまざまな[[講談]]話がおもしろおかしく創作された。しかしこれらにはいずれも明確な裏付けはない。&lt;br /&gt;
むしろ本能寺の変前年に光秀が記した『明智家法』によれば『自分は石ころのような身分から信長様にお引き立て頂き、過分の御恩を頂いた。一族家臣は子孫に至るまで信長様への御奉公を忘れてはならない』という趣旨の文を書いており、信長に対しては尊崇の念を抱いている。&lt;br /&gt;
そのため、怨恨ではない別の動機を求める説も支持されており、特に光秀以外の黒幕の存在を想定する説が多く行われている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 首謀者 ==&lt;br /&gt;
光秀自身の動機ではなく、何らかの黒幕の存在を想定する説には以下のようなものがある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 足利義昭説（藤田達生） ===&lt;br /&gt;
自分を追放し、室町幕府を滅亡に追いやった信長に恨みを抱く[[足利義昭]]が、その権力を奪い返すために光秀をそそのかしたとする説である。&lt;br /&gt;
信長に仕えるようになる前からの光秀と義昭のつながりや、打倒信長のために諸大名の同盟を呼びかけた義昭の過去の行動などから導かれた説であろう。&lt;br /&gt;
しかしこの説では、義昭を庇護していた[[毛利氏]]が（定説によれば）本能寺の変を知らなかった事の説明が付かない。仮に義昭が黒幕であれば当然毛利氏も知っているはずと考えられる。この辺で説得力に欠けると言われている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[太閤記]]や[[佐久間軍記]]などでは和議の時点ですでに事変を知っていたことが描かれており、[[小早川隆景]]が「信長に代わって天下を治めるのは秀吉であるから、今のうちに恩を売るべきである」として和議を支持する進言をしている。仮にこれが事実だとすれば、義昭説とも矛盾はしないことになるが、この時点で秀吉が天下を取ることを予想できた者など当の秀吉くらいしかおらず、これは考え過ぎであろう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 朝廷説 ===&lt;br /&gt;
朝廷黒幕説も、黒幕は[[正親町天皇]]なのか、[[誠仁親王]]なのか、あるいは[[近衛前久]]等の公家衆主体なのかで意見が分かれる。背景としては「[[三職推任問題]]」での信長の対応が、朝廷を滅ぼす意思を持っているのではないかという恐れがあるというのが朝廷黒幕説の根拠の一つに挙げられる。事実光秀は信長・信忠を討った後朝廷に参内し、金品を下賜されている。また、[[山崎の戦い]]の後、[[織田信孝]]が近衛前久に対し追討令を出して執拗に行方を捜した事、[[吉田兼見]]が事情聴取を受けている事、更に兼見の日記で当時の一級史料でもある『[[兼見卿記]]』原本の内容が本能寺の変の前後一ヶ月が欠けており、あまつさえ再度天正10年の項目を新たに書き直したという事実も、朝廷黒幕説を匂わせているが、確たる証拠となるものに欠けている。加えて、「三職推任問題」自体が本能寺の変の直前の出来事であり、その性質上即答可能な問題ではなくむしろ京都立ち寄りの理由の一つにその返答があったと考えられている（逆に信長が返答することを阻止するためにこの日程で本能寺を襲ったと解する事は可能ではある）。更に黒幕として名前が挙げられている近衛前久に対しては本能寺の変の当日に出家しており(数日後とも）、これは[[細川藤孝]]の出家と同様に信長に殉じたと解釈するのが適切である事や後々まで信長の死を惜しんだ和歌を残している事などの反証が挙げられている。また、正親町天皇や誠仁親王に関しても具体的な証拠があるわけではなくこれも仮説の域を出ない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== その他 ===&lt;br /&gt;
*[[イエズス会]]説（立花京子） - 日本の政権交代をもくろんだもの、とする説&lt;br /&gt;
*羽柴秀吉説{{要出典}}&lt;br /&gt;
*[[毛利輝元]]（あるいは小早川隆景）説{{要出典}}&lt;br /&gt;
*[[長宗我部元親]]説 - 元親の妻が明智家臣斎藤利三の娘であったことから（[[井沢元彦]]著『[[逆説の日本史]]』より）&lt;br /&gt;
*朝廷と羽柴秀吉の共謀説{{要出典}}&lt;br /&gt;
*徳川家康説{{要出典}}&lt;br /&gt;
&amp;lt;!-- 説を追加する場合は、出典を明記してください。また、前後の記述のスタイルに合わせてください。--&amp;gt;&lt;br /&gt;
&amp;lt;!--&lt;br /&gt;
*朝廷＆秀吉共謀、実行役光秀は口封じに消された説&lt;br /&gt;
本能寺の変が発生した1582年6月2日、大軍の指揮権を与えられた明智光秀と少数の手勢のみで本能寺に滞在する織田信長―――この日の京都には信長に積年の恨みを抱く光秀が謀反を起こすにこの上ない最高の舞台が整っていたのだが、ではこの舞台は誰が演出したのか・・・秀吉が主君信長に援軍を要請した時期と、朝廷が三官推任を行って信長を単身で京都へ召還した時期とが余りにも絶妙すぎるのである。&lt;br /&gt;
また本能寺の変から毛利軍との和睦成立・中国大返し・天王山の合戦へ至るまでの秀吉の凄まじい行動力は明らかに常軌を逸しており、事前に秀吉が何らかの形で光秀の行動を把握していた可能性が指摘されている。&lt;br /&gt;
これらの事から信長暗殺は朝廷＆秀吉が共謀して仕組んだものであり、実行役光秀はこの共謀を漏らす危険性があるとの理由で電撃的に消された・・・とする説である。&lt;br /&gt;
--&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 動機と首謀者に関するその他の考察 ==&lt;br /&gt;
*光秀がいつごろから謀反を決意していたかは明らかではないが、亀山城出陣を前にして、愛宕権現での連歌の会で光秀が詠んだ発句、'''「時は今　天が下知る　五月哉」'''は、「時（とき）」は源氏の流れをくむ[[土岐氏]]の一族である光秀自身を示し、「天が下知る」は、「天（あめ）が下（した）治る（しる）」、すなわち天下を治めることを暗示していると解し、この時点で謀反の決意を固めていたのだとする説もあるが、これは間違いで、本当は「時は今　雨が下'''な'''る　五月哉」と詠んでいた。前述の改変は秀吉が「天正記」で広めたものである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 本能寺の変後の諸将の動向 ==&lt;br /&gt;
=== 明智光秀 ===&lt;br /&gt;
光秀は3～4日、諸将に書状を送り協力を求め、5日に安土城に入り、そこにあった財産を分配した。9日、上洛し朝廷工作を開始するが、秀吉の大返しの報を受けて山崎に出陣。13日の[[山崎の戦い]]に敗れ、同日深夜、小栗栖（[[京都市]][[伏見区]]）で土民に討たれた。[[三日天下]]と呼ばれた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
期待していた[[細川忠興]]、[[筒井順慶]]ら近畿の有力大名の支持を得られなかったことが戦力不足につながり、敗因の一つであったが、総合的に見て、もともと勝算はほとんど無かったと言える。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 羽柴秀吉 ===&lt;br /&gt;
秀吉は[[清水宗治]]の篭る[[備中高松城]]を包囲して毛利氏と対陣していた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
早くも6月3日には信長横死の報を受け、急遽毛利との和平を取りまとめた。6日に毛利軍が引き払ったのを見て軍を帰し、12日には[[摂津国|摂津]]まで進んだ。ここで摂津の武将[[中川清秀]]・[[池田恒興]]と合流し、さらに四国出兵のため[[堺市|堺]]にいた[[織田信孝]]・[[丹羽長秀]]と合流した。これらの諸軍勢とともに都に向かい、13日の[[山崎の戦い]]([[天王山の戦い]]）で光秀を破った。この非常に短い期間での中国からの移動を'''中国大返し'''と呼ぶ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
以後、秀吉は下克上を狙って活動する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
信長の死の報をいち早く入手した事、[[兵糧攻め]]によりほとんど戦力を失っていなかった事など、秀吉はあまりに都合の良い状況で光秀と戦って勝利を収めたこと、本能寺の変をきっかけに秀吉が天下人となり、結果的に一番利益を得ていること。これらの経緯から、秀吉こそが本能寺の変の黒幕だとする意見もあるが、その場合、光秀だけがリスクを負いすぎていることが指摘される。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 柴田勝家 ===&lt;br /&gt;
勝家は[[佐々成政]]・[[前田利家]]とともに、6月3日上杉氏の[[越中国]][[魚津城]]を3ヶ月の攻城戦の末攻略に成功。しかしその頃信長は既に亡かった。変報が届くと、[[上杉景勝]]の反撃や地侍の蜂起によって秀吉のように軍を迅速に京へ返す事ができなかった。ようやく勝家が軍を率いて江北に着いた頃、既に明智光秀は討たれていた。その後[[清洲会議]]で秀吉と対立し、[[賤ヶ岳の戦い]]で敗北、自害した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 徳川家康 ===&lt;br /&gt;
家康は、信長の招きで5月に安土城を訪れた後、家臣30余名とともに堺に滞在した。6月2日朝、返礼のため長尾街道を京へ向かっていたところ、四条畷付近で京から駆けつけた茶屋四郎次郎に会い、本能寺の変を知る。家康はうろたえ、一時は京に行き本能寺で信長に殉じるとまで言ったが、家臣に説得され帰国を図る。[[山城国|山城]]綴喜・[[近江国|近江]]・加太峠・[[伊賀国|伊賀]]の山中を通って[[伊勢国|伊勢]]へ抜け、[[伊勢湾]]を渡って本国[[三河国|三河]]に戻った。後に「'''神君伊賀越え'''」と称される。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
後年、「神君のご艱難」と称される家康最大の危機であった。実際、堺まで同行しながら伊賀越えで別行動を取った[[穴山信君]]は、山城綴喜の河原の渡しで土豪の襲撃を受けて死んでいる。この時、家康の苦難の伊賀越えに協力したのが伊賀衆であり、その際の伊賀の棟梁、[[服部半蔵]]の功で江戸城に「半蔵門」が作られる。なお、[[堺]]で討たれたと言う伝説も存在し、[[堺]]市内の[[南宗寺]]には彼の名前が刻まれた墓が現存するが、実はこれは後の[[大坂の陣]]の際に生まれた伝説である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
三河に帰り光秀を討とうと出陣し、熱田神宮まで来たが山崎の戦いの報を聞き、引き返した。一説によると[[酒井忠次]]は北伊勢まで進軍していたと言う。もし、これが事実なら家康は美濃～京へ進軍する方と、伊勢～京に進軍する二手に分かれることになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その後、家康は天正壬午の乱を経て領土を増やした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 織田信雄 ===&lt;br /&gt;
信長の次男・[[織田信雄]]は領国の伊勢にいた。本能寺の変の後[[明智光秀]]を討とうと近江の土山へ進軍したが、そこで光秀の死を知り、帰還した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[清洲会議]]では織田家の跡継ぎにならなかった。これを不服として一時家康と共に秀吉と相対するが、結局講和して秀吉の下に下った（[[小牧・長久手の戦い]]）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 滝川一益 ===&lt;br /&gt;
[[滝川一益]]は関東の上野国厩橋城にいた。本能寺の変の報を聞いた小田原の北条氏直が上野国奪取を目指して進出してきた。一益はこれを迎撃しようとしたが敗北し、領国の伊勢長島城へ帰還した（[[神流川の戦い]]）。帰還した時、すでに[[清洲会議]]は終わっていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 織田信孝・丹羽長秀 ===&lt;br /&gt;
[[織田信孝]]は[[丹羽長秀]]、信長の甥・[[津田信澄]]（父は[[織田信勝|織田信勝（信行）]]）らとともに[[大坂]]にて[[四国]]の[[長宗我部元親]]討伐の準備を進めていた。本能寺の変の報が伝わると、すぐさま丹羽長秀は信孝の指示に従って信澄を殺害した。その後、丹羽長秀は信孝とともに京都に向かう羽柴軍に合流した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
信澄殺害は、信澄の父・信勝がかつて信長に謀反を企てて殺されている事や彼が光秀の娘婿であった事から光秀と通じていると見なされた事による。しかしながら、「父信長だけでなく兄信忠も死んだ事を知った信孝が、予想される織田氏の家督争いの有力者の一人になる可能性のある信澄を言いがかりをつけて殺害した」とする見方もある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 長宗我部元親 ===&lt;br /&gt;
長宗我部元親は信長の[[四国征伐]]の影響もあり、兵を[[白地城]]に休ませていたが、信長横死を知るや、兵を[[阿波]]・[[讃岐]]に兵を出し、完全に勢力下に入れた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連事項 ==&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Minagoroshida</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%B9%94%E7%94%B0%E4%BF%A1%E9%95%B7&amp;diff=155767</id>
		<title>織田信長</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%B9%94%E7%94%B0%E4%BF%A1%E9%95%B7&amp;diff=155767"/>
				<updated>2012-03-30T07:21:14Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Minagoroshida: /* 人物像 */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''織田 信長'''（おだ のぶなが）は、[[日本]]の[[戦国時代]]の人物。戦争と混乱に満ちた16世紀の日本を統一へと導いた。日本の政治上・軍事上最大の天才とも言われる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==概要==&lt;br /&gt;
平安時代、朝廷の軍事力の著しい低下によって日本全国の治安が非常に悪化したため、庶民は武装して身を守った。このために延々と内乱が続き、国は乱れに乱れていた。この戦乱を終わらせる終わらせる事業の大変を行ったのが織田信長である。彼は日本全国を統治する前に死んでしまったものの、実質的には彼が戦乱を終わらせたと言える。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==信長の計画==&lt;br /&gt;
まずは地盤を固める&lt;br /&gt;
↓&lt;br /&gt;
幕府あるいは朝廷という既存の権威を利用し、また隠れ蓑にもしつつ改革を行う&lt;br /&gt;
↓&lt;br /&gt;
自身の権威がそれらを越え次第、自身を神格化し、名実ともに日本の頂点に立つ&lt;br /&gt;
↓&lt;br /&gt;
余剰の軍事力は海外に向ける&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 生涯 ==&lt;br /&gt;
&amp;lt;small&amp;gt;※日付は[[和暦]]による[[旧暦]]。[[西暦]]表記の部分は[[ユリウス暦]]とする。&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 少年期 ===&lt;br /&gt;
[[天文 (元号)|天文]]3年（[[1534年]]）5月12日、[[尾張国]]の[[戦国大名]]・[[織田信秀]]の[[嫡男]]として、[[那古野城]]&amp;lt;ref&amp;gt;『[[国史大辞典 (昭和時代)|国史大辞典]]』　織田信長の項目　[[吉川弘文館]]。一般的には那古野城生まれを定説とするが、織田信秀の那古野城奪取をめぐって異説も存在する。&amp;lt;/ref&amp;gt;（現在の[[名古屋市]][[中区 (名古屋市)|中区]]）（[[勝幡城]]説もある&amp;lt;ref&amp;gt;『[[尾州古城志]]』&amp;lt;/ref&amp;gt;）で生誕。幼名は'''吉法師'''。なお、信長の生まれた「織田弾正忠家」は、尾張国の[[守護大名]]・[[斯波氏]]の[[被官]]で下四郡（海東郡・海西郡・愛知郡・知多郡）の[[守護代]]に補任された織田大和守家（清洲織田家）の家臣にして分家であり、[[清洲三奉行]]・古渡城主という家柄であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
母・[[土田御前]]が信秀の[[正室]]であったため嫡男となり、2歳にして那古野城主となる。幼少から青年時にかけて奇妙な行動が多く、周囲から'''尾張の大うつけ'''と称されていた。日本へ伝わった[[種子島銃]]に関心を持った挿話などが知られる。また、身分にこだわらず、民と同じように町の若者とも戯れていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
まだ世子であった頃、表面的に家臣としての立場を守り潜在的な緊張関係を保ってきた主筋の「織田大和守家」の支配する[[清洲城]]下に数騎で火を放つなど、父・信秀も寝耳に水の行動をとり、豪胆さを早くから見せた。また、[[今川氏]]へ人質として護送される途中で[[松平氏]]家中の[[戸田康光]]の裏切りにより[[織田氏]]に護送されてきた松平竹千代（後の[[徳川家康]]）と幼少期を共に過ごし、後に両者は固い盟約関係を結ぶこととなる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
天文15年（[[1546年]]）、[[古渡城]]にて[[元服]]し、'''上総介信長'''と称する。天文17年（[[1548年]]）、父・信秀と敵対していた[[美濃国]]の[[戦国大名]]・[[斎藤道三]]との和睦が成立すると、道三の娘・[[濃姫]]と政略結婚した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
天文18年（[[1549年]]）（異説では天文22年（[[1553年]]））に信長は[[聖徳寺 (名古屋市)|正徳寺]]で道三と会見し、その際に道三はうつけ者と呼ばれていた信長の器量を見抜いたとの逸話がある。また同年には、近江の[[国友|国友村]]に火縄銃500丁を注文したという&amp;lt;ref&amp;gt;「国友鉄砲記」より。正徳寺での会見には、兵に鉄砲500丁を持たせていったと「信長公記」にあり、これが国友村から購入した鉄砲だという可能性もある。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
天文20年（[[1551年]]）、父・信秀が没した為、家督を継ぐ&amp;lt;ref&amp;gt;信秀の葬儀において祭壇に[[抹香]]を投げつけたというエピソードが残っている。このような行為におよんだ理由は、うつけ者を装うため、葬儀を政治的に利用した信勝への抗議など諸説あるが、いずれも推測の域を出ていない。後年の創作という意見もあるが、1次史料である信長公記にまで書かれているため、全くの創作とは考えにくい。&amp;lt;/ref&amp;gt;。天文22年（[[1553年]]）、信長の教育係であった[[平手政秀]]が自害。これは諌死であったとも、息子・五郎右衛門と信長の確執のためともされる。信長は嘆き悲しみ、師匠の[[沢彦]]和尚を開山として[[政秀寺]]を建立し、政秀の霊を弔った。天文23年（[[1554年]]）には、[[村木砦の戦い]]で今川勢を破っている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 家督争いから尾張統一・上洛 ===&lt;br /&gt;
当時、尾張国は[[今川氏]]の尾張侵攻により[[守護]]の[[斯波氏]]の力が衰え、尾張下四郡を支配した[[守護代]]であった「織田大和守家」当主で[[清洲城]]主の[[織田信友]]が実権を掌握していた。信長の父・信秀はその信友に仕える三奉行の一人に過ぎなかったにも関わらず、その智勇をもって尾張中西部に支配権を拡大した。信秀の死後、信長が跡を継ぐと、信友は信長の弟・[[織田信行]]（信勝）の家督相続を支持して信長と敵対し、信長謀殺計画を企てるが、信友により傀儡にされていた[[守護]]・[[斯波義統]]が、計画を信長に密告した。これに激怒した織田信友は斯波義統の嫡子・[[斯波義銀|義銀]]が手勢を率いて川狩に出た隙に義統を殺害する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
斯波義銀が落ち延びてくると、信長は叔父の[[守山城 (尾張国)|守山城]]主・[[織田信光]]と協力し、信友を主君を殺した謀反人として殺害する。こうして「織田大和守家」は滅び、信長は那古野城から清洲城へ本拠を移し、尾張国の[[守護所]]を手中に収めた。これにより、織田氏の[[庶家]]の生まれであった信長が名実共に織田氏の頭領となった。なお信光も死亡しているが、死因は不明である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[弘治 (日本)|弘治]]2年（[[1556年]]）4月、義父・斎藤道三が子の[[斎藤義龍]]との戦いに敗れて戦死（[[長良川の戦い]]）。信長は道三救援のため、木曽川を越え美濃の大浦まで出陣するも、道三を討ち取り勢いに乗った義龍軍に苦戦し、道三敗死の知らせにより退却した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
こうした中、信長の当主としての器量を疑問視した重臣の[[林秀貞]]（通勝）・[[林通具]]・[[柴田勝家]]らは、信長を廃して聡明で知られた弟・信勝（信行）を擁立しようとした。これに対して信長には[[森可成]]・[[佐久間盛重]]・[[佐久間信盛]]らが味方し、両派は対立する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
道三の死去を好機と見た信勝派は、同年[[8月24日]]に挙兵して戦うも敗北（[[稲生の戦い]]）。その後、[[末盛城]]に籠もった信勝を包囲するが、生母・土田御前の仲介により、信勝・勝家らを赦免した。更に同年中に庶兄の信広も斎藤義龍と結んで清洲城の簒奪を企てたが、これは事前に情報を掴んだ為に未遂に終わり、信広は程なくして降伏し、赦免されている。しかし、弘治3年（[[1557年]]）に信勝は再び謀反を企てる。この時、稲生の戦いの後より信長に通じていた柴田勝家の密告があり、事態を悟った信長は病と称して信勝を清洲城に誘い出し殺害した。直接手を下したのは[[河尻秀隆]]とされている&amp;lt;ref&amp;gt;信長公記では、河尻と青貝という2人の家臣が、フロイス日本史では信長が直接殺したことになっている。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
さらに信長は、同族の[[犬山城]]主・[[織田信清]]と協力し、旧主「織田大和守家」の宿敵で織田一門の[[宗家]]であった尾張上四郡（丹羽郡・葉栗郡・中島郡・春日井郡）の守護代「織田伊勢守家」（岩倉織田家）の[[岩倉城 (尾張国)|岩倉城]]主・[[織田信賢]]を破って（[[浮野の戦い]]）これを追放。新たに守護として擁立した斯波義銀が斯波一族の[[石橋氏]]・[[吉良氏]]と通じて信長の追放を画策していることが発覚すると、義銀を尾張から追放した。こうして、[[永禄]]2年（[[1559年]]）までには尾張国の支配権を確立し、信長は尾張の国主となった。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
永禄2年（[[1559年]]）2月2日、信長は100名ほどの軍勢を引き連れて[[上洛]]し、[[室町幕府]]13代[[征夷大将軍|将軍]]・[[足利義輝]]に謁見した。当時、義輝は尾張守護・斯波家（武衛家）の邸宅を改修して住しており、信長はそこへ出仕した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 桶狭間の戦いから清洲同盟へ ===&lt;br /&gt;
1560（永禄3）年5月、[[今川義元]]が尾張国へ侵攻。[[駿河国|駿河]]・[[遠江国|遠江]]の本国に加え[[三河国|三河]]を分国として支配する今川氏の軍勢は、2万人以上の大軍であった。兵力で劣る織田軍は苦戦を強いられた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
永禄3年（[[1560年]]）5月19日午後1時頃、信長は[[幸若舞]]『[[敦盛 (幸若舞)|敦盛]]』を舞った後&amp;lt;ref name=&amp;quot;atsumori&amp;quot;&amp;gt;'''幸若舞'''の敦盛は口伝で伝えられていたために、長らく節回しや詳細な振り付けが不明となっていた。そのため、映像作品などでは'''謡曲'''の敦盛で代用されていた。しかし、近年になって幸若舞の敦盛も復刻されている。（詳細は[[敦盛 (幸若舞)]]を参照）&amp;lt;/ref&amp;gt;、昆布と勝ち栗を前に置き、立ったまま[[湯漬け]]（出陣前に、米飯に熱めの湯をかけて食べるのが武士の慣わし）を食べ、出陣した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
信長はまず[[熱田神宮]]に参拝。その後、[[善照寺砦]]で2000人の軍勢を整えて出撃。今川軍の陣中に強襲をかけ今川氏の前当主で隠居の義元を討ち取った。総大将を失った今川軍は、当主・氏真の命で本国駿河国に退却した（'''桶狭間の戦い'''）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
桶狭間の戦いの後、今川氏は三河の松平氏の離反等により、急激に衰退した。これを機に、信長は徳川家康（この頃、松平元康より改名）と手を結ぶことになる。それまで織田家と松平家は敵対関係にあり、幾度も戦っていたが、信長は美濃国の[[斎藤氏]]攻略のため、家康も駿河国の[[今川氏真]]らに対抗する必要があった為、こちらの利害関係を優先させたものと思われる。両者は永禄5年（[[1562年]]）、同盟を結んで互いに背後を固めた（'''清洲同盟'''）。この同盟は信長死後まで維持された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 美濃攻略と天下布武 ===&lt;br /&gt;
斎藤道三亡き後、信長と斎藤氏との関係は険悪なものとなっていた。桶狭間の戦いと前後して両者の攻防は一進一退の様相を呈していた。しかし、永禄4年（[[1561年]]）に斎藤義龍が急死し、嫡男・[[斎藤龍興]]が後を継ぐと、信長は美濃に出兵し勝利（[[森部の戦い]]）。織田家は優位に立ち、斎藤氏は家中で分裂が始まる。永禄7年（[[1564年]]）には北[[近江国]]の[[浅井長政]]と同盟を結び、斎藤氏への牽制を強化している。その際、信長は妹・[[お市の方|お市]]を輿入れさせた。一方で、信長は永禄8年（[[1565年]]）より[[滝川一益]]の援軍依頼により伊勢方面にも進出し、[[神戸具盛 (7代目当主)|神戸具盛]]など当地の諸氏とも戦っている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
永禄9年（[[1564年]]から[[1565年]]）、[[竹中重治]]と[[安藤守就]]が[[岐阜城]]を占拠後、[[加治田城]]主の[[佐藤忠能]]を味方にして[[中濃]]の諸城を手に入れ（[[中濃攻略戦]]）、さらに[[西美濃三人衆]]（[[稲葉良通]]・[[氏家直元]]・[[安藤守就]]）などを味方につけた信長は、ついに永禄10年（[[1567年]]）、斎藤龍興を[[伊勢国|伊勢]][[長島町 (三重県)|長島]]に敗走させ、尾張・美濃の2ヶ国を領する大名になった（[[稲葉山城の戦い]]）。ときに信長33歳。このとき、井ノ口を[[岐阜市|岐阜]]と改称している&amp;lt;ref&amp;gt;出典：『[[信長公記]]』&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
同年11月には僧・沢彦から与えられた印文「'''天下布武'''」の朱印を信長は使用しはじめており&amp;lt;ref&amp;gt;林屋辰三郎『天下一統』中公文庫、105頁&amp;lt;/ref&amp;gt;、本格的に[[天下統一]]を目指すようになったとみられる。11月9日、[[正親町天皇]]は信長を「古今無双の名将」を褒めつつ、[[御料所]]の回復・[[誠仁親王]]の元服費用の拠出を求めたが、&amp;lt;ref&amp;gt;前者は[[綸旨]]、後者は[[女房奉書]]によって伝えられた。なお、天皇・朝廷のこうした動きは各地の大名に対して行われており、この時点では正親町天皇はさほど信長を特別視していたわけではなかったと思われる。[[藤井譲治]]「天皇と天下人」より&amp;lt;/ref&amp;gt;、信長は丁重に「まずもって心得存じ候」と返答したのみであった&amp;lt;ref&amp;gt;[[藤井譲治]]「天皇と天下人」より&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===1568（永禄11）年===&lt;br /&gt;
==== 上洛 ====&lt;br /&gt;
中央では、永禄8年（[[1565年]]）、かねて[[京都|京]]を中心に[[畿内]]で権勢を誇っていた[[三好氏]]の有力者[[三好三人衆]]（[[三好長逸]]・[[三好政康]]・[[岩成友通]]）と[[松永久秀]]が、幕府権力の復活を目指して三好氏と対立を深めていた将軍･足利義輝を暗殺し、第14代将軍として義輝の従弟・[[足利義栄]]を傀儡として擁立する（[[永禄の変]]）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
久秀らはさらに義輝の弟で僧籍にあった一乗院覚慶（[[足利義昭]]）の暗殺も謀ったが、義昭は[[一色藤長]]・[[和田惟政]]ら幕臣の支援を受けて奈良から脱出し、[[越前国]]の[[朝倉義景]]のもとに身を寄せていた。しかし、義景が三好氏追討の動きを見せなかったため、永禄11年（[[1568年]]）7月には美濃国の信長へ接近を図ってきた。信長は義昭の三好氏追討要請を応諾した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
====武田氏との外交====&lt;br /&gt;
美濃国において領国を接する[[甲斐国]]の[[武田信玄]]とは信玄の四男・諏訪勝頼（[[武田勝頼]]）に養女（[[遠山夫人]]）を娶らせることで同盟を結んだが、遠山夫人は永禄10年（1567年）11月、[[武田信勝]]を出産した直後に早世したため、同年末には信長の嫡男・信忠と信玄の六女・[[信松尼|松姫]]との婚姻を模索し友好的関係を持続させるなど、周囲の勢力と同盟を結んで国内外を固めた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 足利義昭上洛の警護 ====&lt;br /&gt;
永禄11年（1568年）9月、信長は他国侵攻の大義名分として将軍家嫡流の足利義昭を奉戴し、[[上洛]]を開始した。これに対して抵抗した南近江の[[六角義賢]]・[[六角義治|義治]]父子は織田軍の猛攻を受け、[[観音寺城]]が落城する（[[観音寺城の戦い]]）。六角父子は[[甲賀郡]]に後退、以降はゲリラ戦を展開した&amp;lt;ref&amp;gt;ただし、[[六角氏]]嫡流は別にあり、嫡流の[[六角義秀]]・[[六角義郷]]は信長に庇護されたとする異説もある。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
信長が上洛すると、[[三好長慶]]死後の内輪揉めにより崩壊しつつあった[[三好義継]]・松永久秀らは信長の実力を悟って臣従し、三好三人衆に属した他の勢力の多くは[[阿波国]]へ逃亡する。唯一抵抗していた[[池田勝正]]も信長に降伏した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
足利義昭を第15代将軍に擁立した信長は、[[和泉国|和泉]]一国の恩賞だけを賜り尾張へ帰国。この時、信長は義昭から管領・斯波家の家督継承もしくは管領代・[[副将軍]]の地位等を勧められたが、桐紋と斯波家並の礼遇だけを賜り遠慮したとされる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===1569（永禄12）年===&lt;br /&gt;
1月、信長率いる織田軍主力が美濃国に帰還した隙を突いて、三好三人衆と斎藤龍興ら浪人衆が共謀し、足利義昭の[[御所]]である[[六条通|六条]][[本圀寺]]を攻撃した（[[六条合戦]]）。しかし、信長は豪雪の中をわずか2日で援軍に駆けつけるという機動力を見せた&amp;lt;ref&amp;gt;信長公記によれば、当時、岐阜から[[京都]]までは3日はかかったという。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
もっとも、浅井長政や池田勝正の援軍と[[明智光秀]]の奮戦により、三好・斎藤軍は信長の到着を待たず敗退していた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1月10日には三好軍と共同して決起した[[高槻城]]の[[入江春景]]を攻めた。春景は降伏したが、信長は再度の離反を許さず処刑し、和田惟政を高槻に入城させ、[[摂津国]]を守護・池田勝正を筆頭とし[[伊丹氏]]と惟政の3人に統治させた（[[摂津三守護]]）。同日、信長は三好三人衆に協力していた[[堺]]に2万貫の矢銭と服属を要求し、支払わせた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 伊勢侵攻 ====&lt;br /&gt;
同時期に[[伊勢国]]への侵攻も大詰めを迎える。伊勢は南朝以来の[[国司]]である[[北畠氏]]が最大勢力を誇っていたが、まず永禄11年（[[1568年]]）北伊勢の神戸具盛と講和し、三男の[[織田信孝]]を[[神戸氏]]の養子として送り込んだ。更に[[北畠具教]]の次男・[[長野具藤]]を内応により追放し、弟・[[織田信包]]を長野家当主とした。そして翌・永禄12年（[[1569年]]）8月20日、滝川一益の調略によって具教の実弟・[[木造具政]]が信長側に転じると、信長はその日の内に岐阜を出陣し南伊勢に進攻、北畠家の[[大河内城]]を大軍を率いて包囲、篭城戦の末10月3日に和睦し、次男・[[織田信雄]]を養嗣子として送り込んだ。後に北畠具教は幽閉され、[[天正]]4年（[[1576年]]）に信雄により殺害される。こうして信長は、養子戦略により北伊勢攻略を終える。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 第一次信長包囲網 ====&lt;br /&gt;
信長は足利義昭の将軍としての権力を制限するため、『[[殿中御掟]]』9ヶ条の掟書、のちには追加7ヶ条を発令し、これを義昭に認めさせた。これによって義昭と信長の対立は決定的なものになったわけではなく、両者はお互いを利用し合う関係であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
3月、正親町天皇から「信長を副将軍に任命したい」という意向が伝えられたが、信長は何の返答もせず、事実上無視した&amp;lt;ref&amp;gt;藤井譲治「天皇と天下人」より&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===1570（[[元亀]]1）年===&lt;br /&gt;
4月、信長は度重なる上洛命令を無視する朝倉義景を討伐するため、[[浅井氏]]との盟約を反故にし、盟友の徳川家康の軍勢とともに越前国へ進軍。織田・徳川連合軍は[[朝倉氏]]の諸城を次々と攻略していくが、[[金ヶ崎城|金ヶ崎]]で浅井氏離反の報告を受ける。挟撃される危機に陥った織田・徳川連合軍はただちに撤退を開始し、[[殿 (軍事用語)|殿]]を務めた池田勝正・[[明智光秀]]・[[豊臣秀吉|木下秀吉]]らの働きもあり、京に逃れた（[[金ヶ崎の戦い]]）。信長は先頭に立って真っ先に撤退し、僅か10名の共と一緒に京に到着したという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
同年6月、信長は浅井氏を討つべく、近江国[[姉川]]河原で徳川軍とともに浅井・朝倉連合軍と対峙。並行して浅井方の横山城を陥落させつつ、織田・徳川連合軍は勝利した（'''[[姉川の戦い]]'''）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
8月、信長は摂津国で挙兵した三好三人衆を討つべく出陣するが、その隙をついて石山本願寺が信長に対して挙兵した（[[野田城・福島城の戦い]]）。しかも、織田軍本隊が摂津国に対陣している間に軍勢を立て直した浅井・朝倉・延暦寺などの連合軍3万が近江国・[[坂本 (大津市)|坂本]]に侵攻する。織田軍は劣勢の中、重臣・森可成と信長の実弟・[[織田信治]]を喪った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
9月23日未明、信長は本隊を率いて摂津国から近江国へと帰還。慌てた浅井・朝倉連合軍は比叡山に立て籠もって抵抗した。信長はこれを受け、近江国・[[宇佐山城]]において浅井・朝倉連合軍と対峙する（[[志賀の陣]]）。しかし、その間に石山本願寺の[[法主]]・[[顕如]]の命を受けた伊勢の門徒が一揆を起こし（[[長島一向一揆]]）、信長の実弟・[[織田信興]]を自害に追い込んだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
11月21日、信長は六角義賢・義治父子と和睦し、ついで阿波から来た[[篠原長房]]と講和した&amp;lt;ref&amp;gt;林屋辰三郎『天下一統』中公文庫、143頁&amp;lt;/ref&amp;gt;。さらに足利義昭に朝倉氏との和睦の調停を依頼し、義昭は関白[[二条晴良]]に調停を要請した。そして正親町天皇に奏聞して[[勅命]]を仰ぎ、12月13日、勅命をもって浅井氏・朝倉氏との和睦に成功&amp;lt;ref&amp;gt;[[大久保忠教]]の記した『[[三河物語]]』によると、このとき信長は義景に対し「天下は朝倉殿が持ち給え。我は二度と望み無し」とまで言ったという。&amp;lt;/ref&amp;gt;。窮地を脱した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===1571（元亀2）年===&lt;br /&gt;
==== 第二次信長包囲網 ====&lt;br /&gt;
信長は朝倉・浅井に味方した延暦寺を攻めた（'''[[比叡山焼き討ち (1571年)|比叡山焼き討ち]]'''）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一方この頃、甲斐国の武田信玄が信長への事前通告なしに徳川領へ侵攻&amp;lt;ref&amp;gt;近年では元亀2年の信玄による三河侵攻は根拠となる文書群の年代比定の誤りが指摘され、これは勝頼期の天正3年の出来事であった可能性も考えられている（鴨川達夫『武田信玄と勝頼』（岩波新書、2009）、柴裕之「戦国大名武田氏の遠江・三河侵攻再考」『武田氏研究』第37号、2007）。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===1572（元亀3）年===&lt;br /&gt;
石山本願寺が信長と和睦したものの、三好義継・松永久秀らが共謀して信長に謀反を起こした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
7月、信長は近江に出陣（[[虎御前山の戦い]]）。嫡男・奇妙丸（後の[[織田信忠]]）の[[初陣]]でもあった。戦況は織田軍有利に展開し、8月には朝倉義景に不満を抱いていた朝倉軍の[[前波吉継]]・[[富田長繁]]・[[毛屋猪介]]・[[戸田与次郞]]らが信長に寝返った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
9月、信長は足利義昭に対して17条の意見書を提出。信長と義昭の関係は決定的に悪化した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
11月、武田氏の秋山虎繁（信友）が、東美濃の[[岩村城]]を攻めたが、織田軍に敗退し、岩村城近辺の城はみな織田のものとなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
徳川領においては徳川軍が[[一言坂の戦い]]で武田軍に大敗し、さらに遠江国の要である[[二俣城]]が開城・降伏により不利な戦況となる（[[二俣城の戦い]]）。これに対して信長は、家康に佐久間信盛・[[平手汎秀]]ら3,000人の援軍を送ったが、12月の'''[[三方ヶ原の戦い]]'''で織田・徳川連合軍は武田軍に敗退。汎秀が討死した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===1573（元亀4、天正1）年===&lt;br /&gt;
武田軍は三河に侵攻し、2月に[[野田城 (三河国)|野田城]]を攻略した（[[野田城の戦い]]）。これに呼応して京の足利義昭が信長に対して挙兵したため、信長は岐阜から京都に向かって進軍した。信長が京都に着陣すると幕臣であった[[細川幽斎|細川藤孝]]や[[荒木村重]]らは義昭を見限り信長についた。信長は上京を焼打ちして義昭に脅しをかけてから義昭と和睦しようとした。義昭は初めこれを拒否していたが、正親町天皇からの勅命が出され、4月5日に義昭と信長はこれを受け入れて和睦した。4月12日、武田信玄は病死し、武田軍は甲斐国へ帰国した&amp;lt;ref&amp;gt;元亀年間に行われた武田氏の遠江・三河への侵攻や信長との対立は「[[西上作戦]]」と通称され、信玄は上洛を目指していたされてきたが、近年ではその実態や意図に疑問が呈されている（鴨川達夫『武田信玄と勝頼』（岩波新書、2007年）、柴裕之「戦国大名武田氏の遠江・三河侵攻再考」『武田氏研究』第37号、2007、柴辻俊六「武田信玄の上洛戦略と織田信長」『武田氏研究』第40号、2009　など&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
7月には再び抵抗の意思を示した足利義昭が[[二条城|二条御所]]や山城守護所（[[槇島城]]）に立て籠もったが、信長は義昭を破り追放し、これをもって室町幕府の勢力は京都から消滅した&amp;lt;ref&amp;gt;室町幕府の滅亡により、[[室町将軍]]は天皇王権を擁し、京都を中心とする周辺領域を支配し地方の諸大名を従属下におき紛争などを調停する「[[天下]]」主催者たる地位を喪失。信長が「天下」主催者としての地位を継承し、以降は諸大名を従属・統制下におく立場であったことが指摘されている（[[神田千里]]「織田政権の支配の論理に関する一考察」『東洋大学文学部紀要』2002、同『戦国乱世を生きる力』中央公論社、2002）。&amp;lt;/ref&amp;gt;。加えて7月28日には[[元号]]を元亀から[[天正]]へと改めることを[[朝廷]]に奏上し、これを実現させた&amp;lt;ref&amp;gt;ただし、朝廷では既に元亀3年の段階で改元を決定しており、同年3月29日には信長と義昭の下に使者を送っている（『御湯殿上日記』）。だが、義昭は改元に消極的であり、信長の17か条の詰問状でも批判の1つに挙げられている。信長は改元を支持することで、消極的な態度を見せる義昭排除の正当性を得るとともに、朝廷の望む改元を実現させることによって自己を室町幕府に代わる武家政権のトップとして朝廷に認めさせたとする評価がある（[[神田裕理]]「織豊期の改元」『戦国・織豊期の朝廷と公家社会』校倉書房、2011年）。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
8月、信長は細川藤孝に命じて、[[淀古城|淀城]]に立て籠もる三好三人衆の一人・[[岩成友通]]を討伐した（第二次淀古城の戦い）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
同月、信長は3万人の軍勢を率いて越前国に侵攻。[[一乗谷城の戦い#刀根坂の戦い|刀根坂の戦い]]で朝倉軍を破り、朝倉義景は自刃した。9月、[[小谷城]]を攻略して浅井氏に勝利し、[[浅井久政]]・長政父子は自害し、長政の母・[[小野殿]]（阿古御料人）の指を一日一本ずつ切り落とした上で殺害した（執行を担当したのは秀吉であり、処刑方法が信長本人の意向か秀吉のものであるかは不明である）。なお、長政に嫁いでいた妹・お市らは落城前に落ち延びて信長が引き取った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
9月24日、信長は尾張・美濃・伊勢の軍勢を中心とした3万人の軍勢を率いて、伊勢長島に行軍した。織田軍は滝川一益らの活躍で半月ほどの間に長島周辺の敵城を次々と落とした。しかし撤退戦で[[林通政#林通政 (新次郎)|林通政]]が討死した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
11月、[[河内国]]の三好義継が足利義昭に同調して反乱を起こした。信長は佐久間信盛を総大将とした軍勢を河内国に送り込む。しかし、信長の実力を怖れた義継の家老・[[若江三人衆]]らによる裏切りで義継は11月16日に自害し、三好氏もここに滅亡した。12月26日、[[大和国]]の松永久秀も[[多聞山城]]を明け渡し、信長に降伏した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===1574（天正2）年===&lt;br /&gt;
==== 長島一向一揆の制圧 ====&lt;br /&gt;
1月、越前で[[地侍]]と[[本願寺]][[門徒]]による反乱が起こり、守護代の[[前波吉継|桂田長俊]]が殺された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ほぼ同時期、武田勝頼が東美濃の[[明知城]]に侵攻。信長は迎撃に向かったが、到着前に明知城が落城。信長は撤退した。城の位置関係からして、この時は岩村城が武田方に同心していたようである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
3月、信長は上洛して[[従三位]][[参議]]に叙任された。このとき、信長は[[正親町天皇]]に対して「[[蘭奢待]]の切り取り」を奏請し、[[天皇]]はこれを[[勅命]]をもって了承した&amp;lt;ref&amp;gt;これは、信長が正親町天皇と密接な関係にあるということを諸国に知らしめるためであったといわれているがこれを契機に、信長の実力が[[朝廷]]からも認められていることを知った諸[[大名]]、特に[[奥州]]からは信長に対して誼を通じる使者が増えたと言われている。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
7月、信長は数万人の大軍で伊勢の[[長島一向一揆]]を殲滅、伊勢を完全に平定した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===1575（天正3）年===&lt;br /&gt;
3月、荒木村重が[[大和田城]]を占領したのをきっかけに、織田信長は石山本願寺・[[高屋城]]周辺に10万兵の大軍で攻撃し、三好康長を降伏させた（[[高屋城の戦い]]）。高屋城を含む河内国の城は[[破城]]となり、[[松井友閑]]と三好康長の仲介のもと石山本願寺と一時的な和睦が成立した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 長篠の戦い ====&lt;br /&gt;
1575（天正3）年4月、三河・長篠城の[[奥平信昌|奥平貞昌]]が武田から徳川に寝返った。武田勝頼はこれを討つため、15000人の軍勢で[[長篠城]]に攻め寄せたが、織田・徳川連合軍38000人に大敗（'''[[長篠の戦い]]'''）。武田軍に圧勝する&amp;lt;ref&amp;gt;この戦いで武田氏の大軍から長篠城を防衛した奥平貞昌は、信長より[[偏諱]]を賜り信昌と改名している。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
6月27日、[[相国寺]]に上洛した信長は天台宗と真言宗の争論の事を知り、公家の中から5人の奉行を任命して問題の解決に当たらせた（[[絹衣相論]]を参照）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
7月3日、正親町天皇は信長に官位を与えようとしたが、信長はこれを受けず、家臣たちに官位や姓を与えてくれるよう申し出た。天皇はこれを認め、信長の申し出通りに、松井友閑に宮内卿法印、武井夕庵に二位法印、明智光秀に惟任日向守、[[簗田広正]]に別喜右近、塙直政に原田備中守、丹羽長秀に惟住、の官位と姓を与えた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 越前侵攻 ====&lt;br /&gt;
この頃、前年に信長から越前国を任されていた守護代・桂田長俊を殺害して越前国を奪った本願寺門徒では、内部分裂が起こっていた。門徒達は天正3年（1575年）1月、桂田長俊殺害に協力した富田長繁ら地侍も罰し、越前国を[[一揆]]の持ちたる国とした。顕如の命で守護代として[[下間頼照]]が派遣されるが、前領主以上の悪政を敷いたため、一揆の内部分裂が進んでいた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これを好機と見た信長は長篠の戦いが終わった直後の8月、越前国に行軍した。内部分裂していた一揆衆は協力して迎撃することができず、下間頼照や[[朝倉景健]]らを始め、12,250人を数える越前国・[[加賀国]]の門徒が織田軍によって討伐された&amp;lt;ref&amp;gt;このとき、信長は[[村井貞勝]]に対して、越前府中の凄惨なありさまを書状で「府中は死骸ばかりにて一円空き所無く候 見せたく候」と書き記している。&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;このとき従軍した[[前田利家]]の所業を記した石版も残っている。「一揆おこり そのまま前田又左衛門殿一揆千人ばかり生け捕りさせ候なり 御成敗は はっつけ 釜煎られ あぶられ候 かくのごとくに候 一筆書きとめ候」。&amp;lt;/ref&amp;gt;。越前国は再び織田領となり、信長は国掟を出した上で、越前八郡を柴田勝家に与えた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 右近衛大将就任および安土城築城====&lt;br /&gt;
11月4日、信長は[[権大納言]]に叙任される、また、11月7日にはさらに[[近衛大将|右近衛大将]]（征夷大将軍に匹敵する官職で武家では武門の棟梁のみに許される）に叙任する。信長はこの就任にあたり、御所にて公卿を集め、室町将軍家の将軍就任式（[[陣座]]）の儀礼を挙行させた。以後、信長のよび名は「上様」となり将軍と同等とみなされた（足利義昭は近衛大将への昇進を望むも未だ近衛中将のままであったので内裏の近衛府の庁舎内では信長が上司ということになる）。同日、嫡子の信忠は[[秋田城介]]（[[鎮守府将軍]]になるための前官）に、次男の信雄は左近衛中将に叙任している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
11月28日、信長は1週間前に東美濃の要・岩村城を陥落させた嫡男・信忠に一大名家としての織田家の家督ならびに美濃・尾張などの織田家の領国（織田直割領）を譲った。しかし、引き続き信長は織田政権の政治・全軍を総括する立場にあった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===1576（天正4年）===&lt;br /&gt;
1月、信長自身の指揮のもと[[琵琶湖]]湖岸に[[安土城]]の築城を開始する&amp;lt;ref&amp;gt;「安土」という地名は信長が命名したとも（「細川家記」）、元々あった地名だとも言われる。&amp;lt;/ref&amp;gt;。安土城は天正7年（[[1579年]]）に五層七重の豪華絢爛な城として完成した。[[天守]]内部は吹き抜けとなっていたと言われている。[[イエズス会]]の[[宣教師]]は「その構造と堅固さ、財宝と華麗さにおいて、それら（城内の邸宅も含めている）はヨーロッパの最も壮大な城に比肩しうるものである」と母国に驚嘆の手紙を送っている。信長は[[岐阜城]]を信忠に譲り、完成した安土城に移り住んだ。信長はここを拠点に[[天下統一]]に邁進することとなる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 第三次信長包囲網 ====&lt;br /&gt;
天正4年（1576年）1月、信長に誼を通じていた[[丹波国]]の[[波多野秀治]]が叛旗を翻した。さらに石山本願寺も再挙兵するなど、再び反信長の動きが強まり始める。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
信長は4月、明智光秀・荒木村重・[[塙直政]]を大将とした3万人の軍勢を[[大坂]]に派遣し、砦を構築させた。このうち塙が伏兵の襲撃に遭って大敗を喫し、直政を始め1,000人以上が戦死した。織田軍は本願寺軍の攻勢に窮し[[天王寺]]砦に立て籠もるが、本願寺軍はこれを包囲し、天王寺で織田軍は窮地に陥った。5月5日、信長は若江城に入り動員令を出したが、集まったのは3,000人ほどであった。5月7日早朝、その軍勢を率いて自ら先頭に立ち、天王寺砦を包囲する本願寺軍1万5,000人に攻め入り、信長自身も銃撃され負傷する激戦となった。信長自らの出陣で士気が高揚した織田軍は、光秀率いる天王寺砦の軍勢7,000人との連携に成功。本願寺軍を挟撃し、これを撃破した（[[天王寺砦の戦い]]）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その後、織田軍は石山本願寺を水陸から包囲し兵糧攻めにした。ところが7月13日、石山本願寺の援軍に現れた[[毛利水軍]]800隻の前に、織田水軍は敗れ、毛利軍により石山本願寺に[[兵糧]]・[[弾薬]]が運び込まれた（[[第一次木津川口の戦い]]）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この頃、越後守護で[[関東管領]]の上杉輝虎（[[上杉謙信]]）と信長との関係は悪化し&amp;lt;ref&amp;gt;信長は武田信玄の要請で武田と上杉謙信との和睦を仲介していたが（甲越和与）、[[元亀]]3年（[[1572年]]）10月信玄は信長への事前通告なしに織田・徳川氏領へ侵攻し、信長と武田氏は手切となり、上杉氏との共闘をもちかけている。謙信はこれに応じているが積極的に連携することはなく、武田氏で勝頼への当主交代が起こると和睦をもちかけている。&amp;lt;/ref&amp;gt;、謙信は天正4年（1576年）に石山本願寺と和睦し、信長との対立を明らかにした。謙信を盟主として、毛利輝元・石山本願寺・波多野秀治・[[紀伊国|紀州]][[雑賀衆]]などが反信長に同調し結託した。このような事情の中、11月21日に信長は正三位・内大臣に昇進している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===1577（天正5）年===&lt;br /&gt;
2月、信長は、雑賀衆を討伐するために大軍を率いて出陣（[[紀州征伐#信長の紀州攻め|紀州攻め]]）するが、毛利水軍による背後援助や上杉軍の[[能登国]]侵攻などもあったため、3月に入ると雑賀衆の頭領・[[鈴木孫一]]らを降伏させ&amp;lt;ref&amp;gt;本願寺攻めに協力する誓紙を出させたが、人質の提供は無かった&amp;lt;/ref&amp;gt;、形式的な和睦を行ない、紀伊国から撤兵した。この頃、北陸戦線では織田軍の柴田勝家が、[[加賀国]]の[[手取川]]を越えて焼き討ちを行っている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
大和国の松永久秀がまたも信長を裏切り挙兵すると、信長は織田信忠を[[総大将]]とした大軍を[[信貴山城]]に派遣し、10月に松永を討ち取った（[[信貴山城の戦い]]）。久秀を討った10月、信長に抵抗していた[[亀山城 (丹波国)|丹波亀山城]]の[[内藤定政]]（丹波守護代）が病死する。織田軍はこの機を逃さず亀山城・[[籾井城]]・[[笹山城]]などの丹波国の諸城を攻略。同年、姉妹の[[お犬の方]]を丹波守護で[[管領]]を世襲する細川京兆家当主・[[細川信良|細川昭元]]の正室とすることに成功し丹波を掌握した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
11月、能登・加賀北部を攻略した上杉軍が加賀南部へ侵攻&amp;lt;ref&amp;gt;織田軍は手取川において1,000人余が討死し渡河の際にも多数の行方不明者を出した（[[手取川の戦い]]）というが、戦果を喧伝した謙信の書状以外に史料がなく、戦いが起こったかどうかは不明である。&amp;lt;/ref&amp;gt;。その結果、加賀南部は上杉家の領国に組み込まれ、北陸では上杉側が優位に立った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
11月20日、正親町天皇は信長を従二位・右大臣に昇進させた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===1578（天正6）年===&lt;br /&gt;
1月にはさらに正二位に位を上げている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
3月13日、上杉謙信が急死。謙信には実子がなく、後継者を定めなかったため、[[養子]]の[[上杉景勝]]と[[上杉景虎]]が後継ぎ争いを始めた（[[御館の乱]]）。この好機を活かし信長は[[斎藤利治]]を総大将に、[[飛騨国]]から[[越中国]]に侵攻（[[月岡野の戦い]]）、上杉軍に勝利し優位に立った。その後、柴田勝家軍が上杉領の能登・加賀を攻略、越中国にも侵攻する勢いを見せた。かくしてまたも信長包囲網は崩壊した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 織田方面軍団の編成 ====&lt;br /&gt;
天正期に入ると、同時多方面に勢力を伸ばせるだけの兵力と財力が織田氏に具わっていた。信長は部下の武将に[[大名]]級の[[所領]]を与え、自由度の高い統治をさせ、周辺の攻略に当たらせた。研究者の間では、これら信長配下の新設大名を「[[軍団]]」「[[方面軍]]」と呼称し&amp;lt;ref&amp;gt;無論当時にはそのような名称は無かった。&amp;lt;/ref&amp;gt;、または信長軍・信長機動隊ともいう&amp;lt;ref name=&amp;quot;hujiki40&amp;quot;&amp;gt;藤木久志「天下統一と朝鮮侵略」講談社学術文庫、40頁&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
尾張の兵を弓衆・鉄砲衆・馬廻衆・小姓衆・小身衆など機動性を持った直属の軍団に編成し、天正4年（1576年）にはこれらを安土に結集させた&amp;lt;ref name=&amp;quot;hujiki40&amp;quot;/&amp;gt;。既に織田家には直属の指揮班である宿老衆や先手衆などがおり、これらと新編成軍との連携などを訓練した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
上杉景勝に対しては柴田勝家・[[前田利家]]・[[佐々成政]]らを、武田勝頼に対しては滝川一益・織田信忠らを、波多野秀治に対しては明智光秀・細川藤孝らを、毛利輝元に対しては羽柴秀吉を、石山本願寺に対しては佐久間信盛を配備した。&lt;br /&gt;
* 美濃・尾張・飛騨の抑え・[[織田信忠]]・[[斎藤利治]]・[[姉小路頼綱]]&lt;br /&gt;
* 対武田方面・[[滝川一益]]・[[織田信忠]]軍団（天正元年結成）&lt;br /&gt;
* 対本願寺方面・[[佐久間信盛]]軍団（天正4年結成 - 天正8年消滅）&lt;br /&gt;
* 北陸方面・[[柴田勝家]]軍団（天正4年昇格）&lt;br /&gt;
* 近畿方面・[[明智光秀]]軍団（天正8年昇格）&lt;br /&gt;
* 山陰・山陽方面・[[羽柴秀吉]]軍団（天正8年昇格）&lt;br /&gt;
* 関東方面・滝川一益軍団（天正10年結成）&lt;br /&gt;
* 四国方面・[[織田信孝]]・[[津田信澄]]・[[丹羽長秀]]・[[蜂屋頼隆]]軍団（天正10年結成）&lt;br /&gt;
* 東海道の抑え・[[徳川家康]]（形式的には同盟国であり織田軍団の一部ではない）&lt;br /&gt;
* 伊勢・伊賀方面の抑え・[[織田信雄]]・[[織田信包]]&lt;br /&gt;
*（紀伊方面の抑え・[[織田信張]]）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===1578（天正6年）===&lt;br /&gt;
====中国侵攻====&lt;br /&gt;
3月、[[播磨国]]の[[別所長治]]の謀反（[[三木合戦]]）が起こる、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
4月、突如として信長は右大臣・右近衛大将を辞職した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
7月、毛利軍が[[上月城]]を攻略し、信長の命により放置された[[山中幸盛]]ら[[尼子氏]]再興軍は処刑される（[[上月城の戦い]]）。10月には摂津国の荒木村重が[[有岡城]]に籠って信長から離反し（[[有岡城の戦い]]）、足利義昭・毛利氏・本願寺と手を結んで信長に抵抗する。一方、村重の[[与力]]であり東摂津に所領を持つ[[中川清秀]]・[[高山右近]]は村重にはつかなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
11月6日、信長は九鬼嘉隆の考案した[[鉄甲船]]を採用、6隻を建造し毛利水軍を撃破（[[第二次木津川口の戦い]]）。これにより石山本願寺と荒木は毛利軍の援助を受けられず孤立し、この頃から織田軍は優位に立つ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===1579（天正7）年===&lt;br /&gt;
夏までに波多野秀治を降伏させ、処刑。同年9月、荒木村重が妻子を置き去りにして逃亡すると有岡城は落城し、荒木一族は処刑された。次いで10月、それまで毛利方であった[[備前国]]の[[宇喜多直家]]が服属すると、織田軍と毛利軍の優劣は完全に逆転する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
11月、信長は織田家の京屋敷・[[二条城#織田信長・誠仁親王の「二条新御所」|二条新御所]]を、[[皇太子]]である[[誠仁親王]]に進上した。同時に、信長は誠仁親王の五男・[[邦慶親王]]を[[猶子]]として、この邦慶親王も二条新御所に移っている&amp;lt;ref&amp;gt;「多聞院日記」より。なお多聞院日記によると、信長が御所を進上した相手は誠仁親王ではなく、猶子の邦慶親王の方だったようである。（藤井譲治『天皇と天下人』より）&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この年、信長は徳川家康の嫡男・[[松平信康]]に対し切腹を命じたとされる。表向きの理由は信康の12か条の乱行、築山殿の武田氏への内通などである。徳川家臣団は信長恭順派と反信長派に分かれて激しい議論を繰り広げたが、最終的に家康は築山殿を殺害し、信康に切腹させた（ただし、これに関しては、家康・信康父子の対立が原因で、信長は娘婿信康の処断について家康から了承を求められただけだとする説もある。詳細は[[松平信康#信康自刃事件について]]を参照）。また伊勢国の出城構築を[[伊賀国]]の[[国人]]に妨害されて立腹した織田信雄が、独断で伊賀国に侵攻し大敗を喫した。信長は信雄を厳しく叱責した（[[伊賀流#天正伊賀の乱|第一次天正伊賀の乱]]）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===1580（天正8）年===&lt;br /&gt;
1月、別所長治が切腹し、三木城が開城。4月には正親町天皇の勅命のもと本願寺軍も織田軍に有利な条件を呑んで和睦し、大坂から退去した。同年には播磨国、[[但馬国]]をも攻略した。8月、信長は[[譜代]]の老臣・佐久間信盛とその嫡男・[[佐久間信栄]]に対して折檻状を送り付け、本願寺との戦に係る不手際などを理由に、高野山への追放か討ち死に覚悟で働くかを迫った。佐久間親子は高野山行きを選んだ。さらに、古参の林秀貞と[[安藤守就]]も、かつてあった謀反の企てや一族が敵と内通したことなどを蒸し返して、これを理由に追放した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===1581（天正9）年===&lt;br /&gt;
[[鳥取城]]を兵糧攻めで落とし[[因幡国]]を攻略、さらには[[岩屋城]]を落として[[淡路国]]を攻略した。同年、信雄を総大将とする4万人の軍勢が伊賀国を攻略。伊賀国は織田氏の領地となった（第二次天正伊賀の乱）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 京都御馬揃え～左大臣推任 ====&lt;br /&gt;
天正9年（1581年）、信長は絶頂期にあった。2月28日には京都の[[内裏]]東の馬場にて大々的なデモンストレーションを行なっている。いわゆる[[京都御馬揃え]]であるが、これには信長はじめ織田一門のほか、[[丹羽長秀]]ら織田軍団の武威を示すものであった&amp;lt;ref&amp;gt;「貴賎群衆の輩 かかるめでたき御代に生まれ合わせ …（中略）… あり難き次第にて上古 末代の見物なり」（[[信長公記]]）&amp;lt;/ref&amp;gt;。このときの馬揃えには正親町天皇を招待している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
3月7日、天皇は信長を左大臣に推任。9日にこの意向が信長に伝えられ、信長は「正親町天皇が譲位し、誠仁親王が即位した際にお受けしたい」と返答した。朝廷はこの件について話し合い、信長に朝廷の意向が伝えられた。24日、信長からの返事が届き、朝廷はこれに満足した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし4月1日、信長は突然「今年は[[金神]]の年なので譲位には不都合」と言い出した。譲位と信長の左大臣就任は延期されることになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 高野山包囲 ====&lt;br /&gt;
[[高野山]]が[[荒木村重]]の残党を匿ったり、足利義昭と通じるなど、信長と敵対する動きを見せる。『信長公記』によれば、信長は使者十数人を差し向けたが、高野山が使者を全て殺害した。一方、『高野春秋』では荒木村重探索の松井友閑の兵32名が高野山の領民に乱暴狼藉を働いたために高野山側がこれを殺害したと記している。いずれにしても、この行動に激怒した信長は、織田領における[[高野聖]]数百人を捕らえる（高野聖は[[諜報活動]]を行っていたともいう）と共に、[[河内国]]や[[大和国]]の諸大名に命じて高野山を包囲させた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
5月に越中国を守っていた上杉氏の武将・[[河田長親]]が急死した隙を突いて織田軍は越中に侵攻、同国の過半を支配下に置いた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
3月23日には[[高天神城]]を奪回し、武田氏を追い詰めた。紀州では雑賀党が内部分裂し、信長支持派の鈴木孫一が反信長派の[[土橋平次]]らと争うなどして勢力を減退させた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===1582（天正10）年===&lt;br /&gt;
==== 武田征伐 ====&lt;br /&gt;
長篠合戦の敗退後、武田勝頼は越後上杉氏との[[甲越同盟]]の締結や[[新府城]]築城などで領国再建を図る一方、人質であった[[織田勝長]]（信房）を返還することで信長との和睦（甲江和与）を模索したが進まず、新府城築城のための普請増大などで却って国人衆には不満が増大していた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2月1日、武田信玄の娘婿であった[[木曾義昌]]が信長に寝返る。2月3日に信長は武田領国への本格的侵攻を行うための大動員令を信忠に発令。駿河国から家康、相模国から[[北条氏直]]、[[飛騨国]]から[[金森長近]]、[[木曽地域|木曽]]から織田信忠が、それぞれ武田領攻略を開始した。信忠軍は軍監・[[滝川一益]]と信忠の譜代衆となる河尻秀隆・[[森長可]]・[[毛利秀頼|毛利長秀]]等で構成され、この連合軍の兵数は10万人余に上った。武田軍は、[[伊那城]]の城兵が城将・[[下条信氏]]を追い出して織田軍に降伏。さらに[[信濃国]]の[[松尾城 (信濃国伊那郡)|松尾城]]主・[[小笠原信嶺]]、[[江尻城]]主・[[穴山信君]]らも先を争うように連合軍に降伏し、武田軍は組織的な抵抗が出来ず済し崩し的に敗北する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
信忠軍は猛烈な勢いで武田領に侵攻し武田側の城を次々に占領していき、信長が武田征伐に出陣した3月8日に信忠は武田領国の本拠である[[甲府]]を占領し、3月11日には甲斐都留郡の田野において滝川一益が武田勝頼・信勝父子を討ち取り、ここに武田氏は滅亡した&amp;lt;ref&amp;gt;俗説ではあるが、最後の武田攻めの際、明智光秀が「ここまで来られて、我々も骨を負った甲斐があった」と語ったところ、信長の逆鱗に触れ、光秀は欄干に頭を打ち付けられたともいわれている。&amp;lt;/ref&amp;gt;。また駿河国を徳川家康に、[[上野国]]を滝川一益に与え、旧武田領の監督を命じ、甲斐国を河尻秀隆、北信濃を森長可、南信濃を毛利長秀に与え一益の与力に付けて、北条氏直への抑えとしつつも同盟関係を保った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 三職推任 ====&lt;br /&gt;
4月、正親町天皇は信長を太政大臣・関白・征夷大将軍のいずれかに任じたいという意向を示し、5月に信長に伝えられた（[[三職推任問題]]）。しかし信長は使者に対して何も返答しないままだった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 本能寺の変 ====&lt;br /&gt;
信長は[[四国]]の[[長宗我部元親]]攻略に向け、三男の神戸信孝、重臣の丹羽長秀・[[蜂屋頼隆]]・[[津田信澄]]の軍団を派遣する準備を進めていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また北陸方面では柴田勝家が富山城、魚津城を攻撃（[[魚津城の戦い]]）。上杉氏は北の[[新発田重家の乱]]に加え、北信濃方面から森長可、上野方面から滝川一益の進攻を受け、東西南北の全方面で守勢に立たされていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
5月15日、駿河国加増の礼と武田征伐の戦勝祝いのため、徳川家康が安土城を訪れた。そこで信長は明智光秀に接待役を命じる。光秀は15日から17日にわたって家康を手厚くもてなした。家康接待が続く中、信長は[[備中高松城]]攻めを行なっている羽柴秀吉の使者より援軍の依頼を受けた。信長は光秀の接待役の任を解き、秀吉への援軍に向かうよう命じた。後世、『[[明智軍記]]』などによって[[江戸時代]]以降流布される俗説では、この時、光秀の接待内容に不満を覚えた信長は[[小姓]]の[[森成利]]（蘭丸）に命じて光秀の頭をはたかせた、としている&amp;lt;ref&amp;gt;この時の[[献立]]は「天正十年安土御献立」『[[続群書類従]]』に記録されているが、この時の献立は前年の家康接待（饗応役は不明）の際の献立（「御献立集」）のと比べて遜色の無い点が指摘される（[[江後迪子]]『信長のおもてなし』2007）&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
5月29日、信長は[[中国地方|中国]]遠征の出兵準備のために上洛し、[[本能寺]]に逗留していた。ところが、秀吉への援軍を命じていたはずの明智軍が突然京都に進軍し、[[6月2日 (旧暦)|6月2日]]に本能寺を襲撃。この際に光秀は、標的が信長であることを伏せていたことが[[本城惣右衛門覚書]]から判明している。100人ほどの手勢しか率いていなかった信長は、自ら弓・[[槍]]を手に奮闘した。しかし圧倒的多数の明智軍には敵わず、居間に戻った信長は自ら火を放ち、燃え盛る炎の中で自害したという。[[享年]]49（満48歳没）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
光秀の娘婿・[[明智秀満]]が信長の遺体を探したが見つからず、現在まで全く確認されていない。なお、最後まで信長に付き従っていた者の中に[[黒人]]の家来・[[弥助]]がいた。弥助は、光秀に捕らえられたものの後に放免となっている。それ以降、弥助の動向については不明である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[平成]]19年（[[2007年]]）に行われた本能寺跡の発掘調査では、本能寺の変と同時期にあったとされる堀跡や大量の焼け瓦が発見された。これにより、城塞としての機能や謀反に備えていた可能性が指摘されており、現在も調査が続いている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==人物像==&lt;br /&gt;
===身体的特徴===&lt;br /&gt;
*「中くらいの背丈、華奢な体躯、ヒゲは少なく」「彼は少しく憂鬱な面影を有し」「はなはだ声は快調」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*「極度に戦を好み、軍事的修練にいそしみ」「戦術に極めて老練」&lt;br /&gt;
*「名誉心に富み、正義において厳格」「自らに加えられた侮辱に対しては懲罰せずにはおかなかった」。一方で「いくつかの事では人情味と慈愛を示した」&lt;br /&gt;
「彼の睡眠時間は短く早朝に起床した」「酒を飲まず、食を節し」&lt;br /&gt;
「彼は自邸においてきわめて清潔であり、自己のあらゆることをすこぶる丹念に仕上げ」&lt;br /&gt;
「なんぴとも武器を携えて彼の前に罷り出ることを許さなかった」&lt;br /&gt;
*「貪欲でなく」&lt;br /&gt;
** 「彼は贈物のなかで気に入ったものだけを受け取っており、他の人たちに対する場合でも常にそうであった&amp;lt;ref&amp;gt;完訳フロイス日本史2　34章（本来の第1部85章）&amp;lt;/ref&amp;gt;」&lt;br /&gt;
*「はなはだ決断を秘め」&lt;br /&gt;
*「非常に性急であり」「対談の際、遷延することや、だらだらした前置きを嫌い」&lt;br /&gt;
*「激昂はするが、平素はそうでもなかった」彼は戦運が己に背いても心気広闊、忍耐強かった」「自らの見解に尊大であった」「困難な企てに着手するに当たっては甚だ大胆不敵」&lt;br /&gt;
*「人の扱いにはきわめて率直で」「彼はわずかしか、またはほとんど全く家臣の忠言に従わず」「彼は日本のすべての王侯を軽蔑し、下僚に対するように肩の上から彼らに話をした」「ごく卑賎の家来とも親しく話をした」「信長はほとんど全ての人を『[[貴様]]』と呼んだ&amp;lt;ref&amp;gt;完訳フロイス日本史2　36章（本来の第1部87章）&amp;lt;/ref&amp;gt;」&lt;br /&gt;
*神および仏の一切の礼拝、尊崇、並びにあらゆる異教的占卜や迷信的慣習の軽蔑者であった。形だけは当初[[法華宗]]に属しているような態度を示したが、顕位に就いて後は尊大に全ての偶像を見下げ、若干の点、[[禅宗]]の見解に従い、霊魂の不滅、来世の賞罰などはないと見なした。&lt;br /&gt;
*彼が格別愛好したのは著名な茶の湯の器、良馬、刀剣、[[鷹狩り]]であり、目前で身分の高い者も低い者も裸体で&amp;lt;RUBY&amp;gt;&amp;lt;RB&amp;gt;[[相撲]]&amp;lt;/RB&amp;gt;&amp;lt;RT&amp;gt;ルタール&amp;lt;/RT&amp;gt;&amp;lt;/RUBY&amp;gt;をとらせることをはなはだ好んだ。&lt;br /&gt;
*「一同からきわめて畏敬されていた」「人々は彼に[[絶対君主]]に対するように服従した」「万事において人々は彼の言葉に服従した」&lt;br /&gt;
*「彼は善き理性と明晰な判断力を有し」「彼がきわめて稀に見る優秀な人物であり、非凡の著名な&amp;lt;RUBY&amp;gt;&amp;lt;RB&amp;gt;司令官&amp;lt;/RB&amp;gt;&amp;lt;RT&amp;gt;カピタン&amp;lt;/RT&amp;gt;&amp;lt;/RUBY&amp;gt;として、大いなる賢明さをもって&amp;lt;RUBY&amp;gt;&amp;lt;RB&amp;gt;天下&amp;lt;/RB&amp;gt;&amp;lt;RT&amp;gt;テンカ&amp;lt;/RT&amp;gt;&amp;lt;/RUBY&amp;gt;を統治した者であったことは否定し得ない&amp;lt;ref&amp;gt;完訳フロイス日本史3　58章（本来の第2部43章）&amp;lt;/ref&amp;gt;」&lt;br /&gt;
&amp;lt;ref&amp;gt;完訳フロイス日本史2　32章（本来の第1部83章）&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
* 尾張の僧侶・[[天沢]]は、甲斐を訪れた際に武田信玄に信長の日常の様子を尋ねられ「信長公は毎朝馬に乗られ鷹狩りにもしばしば行きます。また鉄砲を[[橋本一巴]]、弓を[[市川大介]]、兵法を[[平田三位]]に学ばれ稽古をされる。趣味は舞と小唄。清洲の町衆[[松井友閑]]をお召しになり、ご自身でお舞になりますが、敦盛一番の外はお舞にならず“人間五十年、下天の内をくらぶれば夢幻のごとくなり”の節をうたいなれた口つきで舞われます&amp;lt;ref name=&amp;quot;atsumori&amp;quot;/&amp;gt;。“死のうは一定、しのび草には何をしよぞ、一定かたりをこすよの”の小唄の一節を口ずさまれる」と答えた。（信長公記・首巻）&lt;br /&gt;
* 天正元年（[[1573年]]）11月、[[足利義昭]]の帰洛交渉のため、[[毛利輝元]]から信長の元に派遣された[[毛利氏]]の家臣・[[安国寺恵瓊]]は「信長の代、五年三年は持たるべく候、来年あたりは、[[公家]]などに成らる可しと見及び候、左候て後、高転びに転ばれ候ずると見申し候、秀吉さりとてはのものにて候」と国許へ書状を送っている。&lt;br /&gt;
* [[浅井久政]]・[[浅井長政|長政]]父子と[[朝倉義景]]の3人の[[頭蓋骨]]を薄濃（はくだみ。[[漆]]でかためて[[金箔]]などを張る事とされる）にし、「他国衆退出の已後 御馬廻ばかり」の酒宴の[[肴]]として披露した（[[信長公記]]）。これは後世、髑髏を[[杯]]にして家臣に飲ませたという話になっているが、こちらは一次史料にはない（「フロイス日本史」によれば信長は酒を好まなかったという）。[[髑髏]]を薄濃にするというのは、死者への敬意を表すものであるとされる。&lt;br /&gt;
* 弟・信勝の暗殺や叔母・おつやの方の処刑により、身内にも厳しいともされる。一方、反乱を計画した兄・信広を赦免後には重用したり、信勝も一度は許している上に彼の遺児（[[津田信澄]]）の養育を手配している。叔母の処刑も自身が降伏しただけでなく信長の実子までも武田に差し出した行為の怒りからとも推測できる。自分の弟が戦死した場合には相手を徹底的に攻撃する（[[比叡山焼き討ち (1571年)|比叡山焼き討ち]]、[[長島一向一揆]]殲滅）、信長の親族と婚姻した家とは自身から直接的な敵対行動をとらない（武田・浅井共に、先に敵対行動をとったのは相手側である）など、身内に手厚いともされる。&lt;br /&gt;
* 非常に律儀な性格であり、信長の側から盟約・和睦を破った事は一度も無い。一時は和睦しながら再び信長と敵対した勢力は数多いが、それら勢力は自ら先んじて信長との盟約・和睦を反古にしている。例外として不戦の盟約を破って朝倉氏を攻撃した事例があるが、この盟約は浅井氏と交わしたものであって、直接朝倉氏と不戦の盟約を交わした訳ではない。&lt;br /&gt;
* 信長は自信家でありながらも世間の評判を重視しており、常に正しい戦いであると主張することに腐心していたとされる(京都[[公家]]の日記などから）。&lt;br /&gt;
* 長女の[[徳姫]]を除くと生前に縁組させた[[冬姫]]らの娘達は個人的にも親交のある家臣である[[前田家]]、[[丹羽家]]、若しくは少年時代から面倒を見てきた[[蒲生氏郷]]に嫁入りさせており、信長の死後も夫から大事にされ続けている。このことから、「娘を大事にしてくれそうな婿を厳選する」甘い父親とも評されることもある。また、織田家関連の女性には実名が判明している女性が多いため、当時の人間としては女性を重視していたとする見方もある。&lt;br /&gt;
* 尾張から岐阜に単身赴任した部下を叱る、[[豊臣秀吉|羽柴秀吉]]夫妻の夫婦喧嘩を仲裁する等家庭内での妻の役割を重視した言動が残されている。&lt;br /&gt;
* 『信長公記』に次の様な逸話がある。美濃と近江の国境近くの山中という所（現在の[[関ヶ原町]]山中）に「山中の猿」と呼ばれる体に障害のある男が街道沿いで[[乞食]]をしていた。岐阜と京都を頻繁に行き来する信長はこれを度々観て哀れに思っていた。天正三年（[[1575年]]）6月、信長は上洛の途上、山中の人々を集め、木綿二十反を山中の猿に与え、「これを金に換え、この者に小屋を建ててやれ。また毎年麦や米を施してくれれば、自分はとても嬉しい」と言った。人々は感涙したという。こうした行為から、信長は自分の家臣たちには厳しいが、自分に反抗する恐れのない者、特に立場の弱い庶民たちには寛大な所があったと見ることもできる。&lt;br /&gt;
* [[長篠の戦い]]の時には、身分の低い[[足軽]]でありながらも自分の命を犠牲にして[[長篠城]]を落城の危機から救った[[鳥居強右衛門]]の勇敢な行為を称え、強右衛門の忠義心に報いるために自ら指揮して立派な墓を建立させたと伝えられる。その墓は現在も[[愛知県]][[新城市]]作手の甘泉寺に残っている。&lt;br /&gt;
* [[荒木村重]]の説得に向かった[[黒田孝高]]（官兵衛）が帰還せず同時期に孝高の主君・[[小寺政職]]が離反したために同調して裏切ったと判断し、息子・松壽丸（後の[[黒田長政]]）の処刑命令を出したものの、後に孝高が牢に監禁されていた事が判明した時には｢官兵衛に合せる顔が無い｣と深く恥じ入っている。その後、松壽丸が[[竹中重治]]（半兵衛）に匿われていた事が分かった時には狂喜し、重治の命令違反を不問にした。自分の間違いが明らかになった場合には素直に認めて反省する一面もあった。&lt;br /&gt;
* 信長公記などのエピソードによると、身分に拘らず、庶民とも分け隔てなく付き合い、仲が良かった様子が散見される。実際、庶民と共に踊ってその汗を拭いてやったり、工事の音頭をとる際等にはその姿を庶民の前に晒している。天正9年7月15日のお盆では安土城の至る所に明かりをつけ、城下町の住人の目を楽しませるといった行動をとっており「言語道断面白き有様」と記述され、相撲のエピソードなどからも祭り好きだと考えられ、自身が参加・主催することを好んだようである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 苛烈と云われる所業 ===&lt;br /&gt;
* 赤ん坊の頃は非常に癇が強く、何人もの[[乳母]]の[[乳房]]を噛み切ったという逸話がある。家中では乳母捜しに大変苦労したという。なお「生まれた時から歯が生えていた」といった説話は、偉人伝でしばしば見られる。&lt;br /&gt;
* 比叡山焼き討ちなど仏教勢力に対する軍事行動が目立つ。当時の寺院が世俗の権力と一体化して宗教としての意義を忘れていたことや僧侶の腐敗ぶりを批判した。[[新井白石]]は「そのことは残忍なりといえども 長く僧侶の凶悪を除けり これもまた 天下の功有事の一つと成すべし」と評価している。信長と同時代の史料でも「ちか比（ごろ）ことのはもなき事にて、天下のため笑止なること、筆にもつくしかたき事なり」といった記述が『[[御湯殿上日記]]』にある程度で、それほど批判はない。また、仏を信仰することは禁止していない。&lt;br /&gt;
* [[茶坊主]]に不手際があり、信長が激怒した。茶坊主は怒りを怖れて棚の下に隠れたが、信長は棚の下に刀を差し入れて、押し切る様に茶坊主を斬り殺したという逸話がある。そのときの刀は切れ味の良さから「[[圧し切り長谷部]]（へしきりはせべ）」と名づけられたという。&lt;br /&gt;
* [[元亀]]元年（[[1570年]]）5月6日、[[杉谷善住坊]]という鉄砲の名手が信長を暗殺しようとしたことがあったが未遂に終わり、[[天正]]元年（1573年）に善住坊は捕らえられた。信長は善住坊の首から下を土に生き埋めにし、切れ味の悪い竹製の[[鋸]]で首を挽かせ、長期間激痛を与え続ける[[拷問]]を科した。これは信長だけでなく、秀吉が女房衆の1人に&amp;lt;ref&amp;gt;フロイス日本史より&amp;lt;/ref&amp;gt;、[[徳川家康]]も家臣の[[大賀弥四郎]]に対して行っており、[[江戸時代]]の[[公事方御定書]]には極刑の一つとして紹介されている（[[鋸挽き]]）。&lt;br /&gt;
* 天正2年（[[1574年]]）の長島一向一揆で、信長が長島城の一揆衆を「偽装和睦で」討った、とする書籍があるが、これは誤訳である。&amp;lt;ref&amp;gt;「御侘言申し、長島明け退き候」とあるだけで、許したとは書いていない（他の箇所の「侘言」に対しては許した旨が書いてある）。またそれ以前に、降伏する場合は「（信長に対して）忠節を尽くす」と書いてあり、この「侘言」が降伏に当たるかどうかも怪しい。&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
* 天正6年（[[1578年]]）、[[畿内]]の[[高野聖]]1,383人を捕え殺害した。高野山が荒木村重の残党を匿ったり、足利義昭と通じるなど、信長と敵対する動きを見せたことへの報復であったという。また、高野聖に成り済まし密偵活動を行う者がおり、これに手を焼いた末の行動でもあったとも云われている。&lt;br /&gt;
* 天正6年（1578年）12月13日、[[尼崎]]近くの七松で、謀反を起こした[[荒木村重]]の一族郎党の婦女子122人を[[磔]]、鉄砲、槍・長刀などで処刑した。さらに女388人男124人を4つの家に押し込め、周囲に草を積んで焼き殺した。『[[信長公記]]』ではその様を「魚をのけぞるように上を下へと波のように動き焦熱、大焦地獄そのままに炎にむせんで踊り上がり飛び上がった」と記している。これは当の荒木村重が家臣数名とともに城を脱出し、その後に村重の説得にあたった村重の家臣らが信長との約束に背いて、人質を見捨てて出奔してしまった事による、言わば「制裁」であった。&lt;br /&gt;
* 天正10年（[[1582年]]）4月10日、信長は[[琵琶湖]]の[[竹生島]]参詣のために[[安土城]]を発った。信長は翌日まで帰って来ないと思い込んだ侍女たちは&amp;lt;ref&amp;gt;安土城と竹生島の間は往復で約30里（約120km）の距離がある&amp;lt;/ref&amp;gt;、[[桑実寺]]に参詣に行ったり、[[城下町]]で買い物をしたりと勝手に城を空けた。ところが、信長は当日のうちに帰還。侍女たちの無断外出を知った信長は激怒し、侍女たちを縛り上げた上で、全て殺したとされる。また、侍女たちの助命嘆願を行った桑実寺の長老も、同じく殺されたという。ただし、桑実寺の長老に関する記録が[[本能寺の変]]以降も残っているため、実際には長老は殺されていないと桑実寺の側は主張している。また、この逸話の原典となっている『[[信長公記]]』には、信長が侍女たちと長老を「成敗した」とはあるが、「殺した」とは書かれていない。当時、「成敗」とは必ずしも死刑のみを意味するものではなく、縄目を受ける程度の軽い成敗（処罰）の方法もあったことから、何らかの処罰はあったものの死刑にまでは至っていないとする説もある。ちなみにフロイス日本史には年代不明ながらこれと良く似た事件が書かれているが、こちらでは「彼女たちを厳罰に処した後、そのうち1人か2人は寺に逃げ込んだので、彼女らを受け入れた寺の僧侶らは殺された」とある。&amp;lt;ref&amp;gt;「かつて信長は、政庁の数名の召使の女、または夫人たちに対してひどい癇癪を起こし、彼女たちを厳罰に処した。そのうちの1人か2人は処罰されたあと、ある山の真中にあり、城から3、4の射程距離にある一仏寺に逃れた。このことが信長の耳に入ると、彼は、聖霊降臨の祝日の前夜のことであったが、その寺の全僧侶を捕縛させ、翌日には1人も生かしておくことなく全員を殺させたが、その数はおびただしかった。」（『完訳フロイス日本史2　信長とフロイス』第32章より）&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
* 比叡山焼き討ちなど仏教勢力に対する軍事行動についても、当時は仏教勢力自らが軍事力を持ち、敵対勢力に対して軍事行動を行っていた時代である事も考慮すべきである（例えば当の比叡山延暦寺も、[[本願寺]]を焼き討ちするなどの行動をしている）。&lt;br /&gt;
* 信長の敵勢力に対する行為の大半は、当時の戦国大名の間では当たり前に行われていたもので、信長だけが取り立てて残虐非道であったわけではない。[[豊臣秀吉]]が天正5年（[[1577年]]）に、[[毛利氏]]への見せしめとして、[[備前国]]・[[美作国]]・[[播磨国]]の国境付近で女・子供200人以上を処刑（子供は[[串刺し]]、女は[[磔]]）した行為&amp;lt;ref&amp;gt;同年12月5日の羽柴秀吉書状&amp;lt;/ref&amp;gt;、[[武田信玄]]・[[上杉謙信]]等の戦費確保や自軍への報酬として、敵を[[奴隷]]として売却すること（[[ルイス・ソテロ]]等の日記）や敵方の女性を[[競売]]にかけたり（[[小田井原の戦い]]）といった行為等もことさら珍しいことではなかった。このように当時の状況や道徳の違いを考慮してその行動を評価する必要がある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 交友関係 ===&lt;br /&gt;
* 上洛以来、朝廷等の貴族階級の財政状態を改善したことから、公家とも親交が深かった。特に[[近衛前久]]とは最初は敵対していたにも拘らず、[[鷹狩り]]という趣味の一致などと相まって特に仲が良かったようである。&lt;br /&gt;
* 戦国武将に両性愛者が多いという説により信長もそうだと見られがちだが、直接的証拠は無い｡主に[[森成利]]（蘭丸）の逸話によるが、元々織田家は譜代の武将の子を年少より付随させ家臣団の結束を図っていたので、森成利が特別な訳ではない。森成利の親である森可成は信長がもっとも苦戦した時期に戦死しているので、その息子に目をかけていても不思議ではなく、それ以上の関係は証明されていない。後の史料である[[加賀藩]]編纂『亜相公御夜話』では、[[前田利家]]との関係が「鶴の汁の話（信長が若い頃は利家と愛人関係であったことを武功の宴会で披露し、利家が同僚達に羨ましがられたという逸話）」として残されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 南蛮への関心 ===&lt;br /&gt;
* 南蛮品を好み、[[正親町天皇]]を招き開催した「[[京都御馬揃え]]」に[[ベルベット|ビロード]]のマント、西洋帽子を着用し参加した。晩年は戦場に赴くときも、[[南蛮胴]]を身に付けていた。[[アレッサンドロ・ヴァリニャーノ]]の使用人であった黒人に興味を示して譲り受け、[[弥助]]と名付け側近にした。&lt;br /&gt;
* [[イエズス会]]の献上した[[地球儀]]・[[時計]]・[[地図]]などをよく理解したと言われる（当時はこの世界が丸い物体であることを知る日本人はおらず、地球儀献上の際も家臣の誰もがその説明を理解できなかったが、信長は「理にかなっている」と言い、理解した）。好奇心が強く、鉄砲が一般的でない頃から[[火縄銃]]を用いていた。奇抜な性格で知られるが、[[ルイス・フロイス]]には日常生活は普通に見えたようである。[[ローマ教皇]][[グレゴリウス13世 (ローマ教皇)|グレゴリウス13世]]に安土城の屏風絵を贈っていたが、実際に届いたのは信長の死後の[[1585年]]（天正13年）であったとされる。なお、この屏風絵は紛失している。&lt;br /&gt;
* ルイス・フロイスに南蛮の目覚まし時計を献上された際は、扱いや修理が難しかろうという理由で残念そうに返したという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 文化への関心 ===&lt;br /&gt;
* [[囲碁]]の「[[名人]]」という言葉は信長発祥と言われている。（[[本因坊算砂]]の項を参照）&lt;br /&gt;
* 幸若舞『[[敦盛]]』の「''人間五十年、下天の内を較ぶれば、夢幻の如く也。一度生を稟け、滅せぬ物の有る可き乎。''」という一節をよく舞った&amp;lt;ref name=&amp;quot;atsumori&amp;quot;/&amp;gt;。一方で、[[猿楽]]（[[能]]）を嫌った{{要出典|date=2012年1月}}。&lt;br /&gt;
* 大の[[相撲]]好きで、安土城などで大規模な相撲大会をたびたび開催していた。相撲大会は武士・庶民の身分を問わず参加が可能で、庶民であっても成績の優秀な者は褒美を与えられ、また織田家の家来として正式に採用されることもあったという。また信長は[[土俵]]の原型を作ったともいう{{要出典|date=2012年1月}}。&lt;br /&gt;
* 上京した際に連歌師の[[里村紹巴]]から試され下の句を詠まれた時、即座に上の句を詠んで周囲を感嘆させた（『信長記』）。&lt;br /&gt;
* [[茶の湯]]にも大きな関心を示した。これについて、堺の商人との交渉を有利にするため、茶器を家臣の恩賞として利用するためという説があるが、信忠に家督を譲った際に茶器だけを持って家臣の家に移っている&amp;lt;ref&amp;gt;信長公記より。&amp;lt;/ref&amp;gt;ことから、純粋に好んでいたようである。&lt;br /&gt;
* [[三好義継]]が敗死したとき、坪内某という三好家の料理人が織田家の捕虜となった。信長は坪内に対して料理を命じ、「料理がうまければお前を赦免し、織田家の料理人として雇う」と約束した。翌日、坪内が作った料理を信長が食した時、「料理が水っぽい」として怒り、坪内を処刑しようとした。しかし坪内はもう一度だけ機会が欲しいと頼んだ。二度目に出された料理を信長は褒め、坪内の採用を決めたという。後に、坪内が他の家臣から「最初から二度目の料理を出していたら良かったのではないか」と尋ねられると、坪内は「私は最初、京風の上品な薄味の料理を作ったのですが、信長公はこれを少しもお気に召さなかったので、次に濃い味付けの田舎料理を作ったところ、今度は大層お気に召されました。しょせん信長公は京風の上品な味が分からない田舎者ということですよ」と答えた&amp;lt;ref&amp;gt;『武辺咄聞書』より。『常山紀談』にも同様の記事が見られる。&amp;lt;/ref&amp;gt;。ただし、この時期にはすでに信長が上洛して何年も経っていたため、当時の信長が京風の味付けを全く知らなかったかは疑問が残る。また医学的に見れば、武士である信長は若い頃から戦場で多くの汗を流し、平時にも武術の訓練を欠かさなかったため、体力をほとんど使わない京の公家よりも多くの塩分を必要とする体質になっており、必然的に味付けの濃い料理を好む傾向が強かったとも考えられる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* ''「なかぬなら 殺してしまへ 時鳥（[[ホトトギス]]）」'' という歌が信長の人柄を表すとして有名であるが、しかしこれは信長作でなく[[松浦清|松浦静山]]『[[甲子夜話]]』に収録された当時詠み人知らずで伝わった歌の引用である&amp;lt;ref&amp;gt;[[q:時鳥#川柳]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。また、この歌の続きには「鳥屋にやれよ…」とあり、戦国時代の武将達に比して江戸の将軍は気骨が無いと批判するもので、信長の性格というよりもその自他を含めた生死を見極める決断力や気概を評価した歌であったようである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「怒りっぽかった」という記録ははっきり言って当てにならない。中世の記録はたいがいこうやって脚色してあるものだからである。考えてみたまえ。庶民が法を犯すたびに怒る統治者など存在するわけがない。まあ短気ではあっただろう。即断即決でなければ生きていけない世の中だったのだから。しかし判断が早いというのと、感情が動き易いということとは全く違う。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==脚注==&lt;br /&gt;
&amp;lt;references/&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==アホ学者の通説を斬る！==&lt;br /&gt;
立花京子&lt;br /&gt;
*『天皇は武力によって君臨しているわけではないから、武力による脅しは無意味』（by「黄金太閤」）&lt;br /&gt;
**？？？天皇が何の正当性をもって君臨しているかという事と、天皇に武力による脅しが通じるかという事に、いったい何の関係があるんだ？天皇だって人の子だ。刀をつきつけて「譲位しろ」と脅せば、ビビって「はい」と言ってしまうことだってあるだろう。過去に毒殺された親王だっている。もし「信長が天皇から武力を奪おうとした」という事実があって、それへの反論としてこう言うなら分かるのだが。どうもこのへんの歴史学者というのはいまだに天皇を崇拝しているようで困る。&lt;br /&gt;
**まあ馬揃えはどうでもいいんだけどね。ちなみに天皇が馬揃えを見たがったのは、自分の方が信長より上位であるという関係を民衆に見せたかったから。それ以外にあるわけないじゃんｗ　天皇の言葉をそのまま受け取ってしまうようじゃあ政治は語れないのである。&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Minagoroshida</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%B9%94%E7%94%B0%E4%BF%A1%E9%95%B7&amp;diff=155671</id>
		<title>織田信長</title>
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				<updated>2012-03-26T10:37:54Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Minagoroshida: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''織田 信長'''（おだ のぶなが）は、[[日本]]の[[戦国時代]]の人物。戦争と混乱に満ちた16世紀の日本を統一へと導いた。日本の政治上・軍事上最大の天才とも言われる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==概要==&lt;br /&gt;
平安時代、朝廷の軍事力の著しい低下によって日本全国の治安が非常に悪化したため、庶民は武装して身を守った。このために延々と内乱が続き、国は乱れに乱れていた。この戦乱を終わらせる終わらせる事業の大変を行ったのが織田信長である。彼は日本全国を統治する前に死んでしまったものの、実質的には彼が戦乱を終わらせたと言える。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==信長の計画==&lt;br /&gt;
まずは地盤を固める&lt;br /&gt;
↓&lt;br /&gt;
幕府あるいは朝廷という既存の権威を利用し、また隠れ蓑にもしつつ改革を行う&lt;br /&gt;
↓&lt;br /&gt;
自身の権威がそれらを越え次第、自身を神格化し、名実ともに日本の頂点に立つ&lt;br /&gt;
↓&lt;br /&gt;
余剰の軍事力は海外に向ける&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 生涯 ==&lt;br /&gt;
&amp;lt;small&amp;gt;※日付は[[和暦]]による[[旧暦]]。[[西暦]]表記の部分は[[ユリウス暦]]とする。&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 少年期 ===&lt;br /&gt;
[[天文 (元号)|天文]]3年（[[1534年]]）5月12日、[[尾張国]]の[[戦国大名]]・[[織田信秀]]の[[嫡男]]として、[[那古野城]]&amp;lt;ref&amp;gt;『[[国史大辞典 (昭和時代)|国史大辞典]]』　織田信長の項目　[[吉川弘文館]]。一般的には那古野城生まれを定説とするが、織田信秀の那古野城奪取をめぐって異説も存在する。&amp;lt;/ref&amp;gt;（現在の[[名古屋市]][[中区 (名古屋市)|中区]]）（[[勝幡城]]説もある&amp;lt;ref&amp;gt;『[[尾州古城志]]』&amp;lt;/ref&amp;gt;）で生誕。幼名は'''吉法師'''。なお、信長の生まれた「織田弾正忠家」は、尾張国の[[守護大名]]・[[斯波氏]]の[[被官]]で下四郡（海東郡・海西郡・愛知郡・知多郡）の[[守護代]]に補任された織田大和守家（清洲織田家）の家臣にして分家であり、[[清洲三奉行]]・古渡城主という家柄であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
母・[[土田御前]]が信秀の[[正室]]であったため嫡男となり、2歳にして那古野城主となる。幼少から青年時にかけて奇妙な行動が多く、周囲から'''尾張の大うつけ'''と称されていた。日本へ伝わった[[種子島銃]]に関心を持った挿話などが知られる。また、身分にこだわらず、民と同じように町の若者とも戯れていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
まだ世子であった頃、表面的に家臣としての立場を守り潜在的な緊張関係を保ってきた主筋の「織田大和守家」の支配する[[清洲城]]下に数騎で火を放つなど、父・信秀も寝耳に水の行動をとり、豪胆さを早くから見せた。また、[[今川氏]]へ人質として護送される途中で[[松平氏]]家中の[[戸田康光]]の裏切りにより[[織田氏]]に護送されてきた松平竹千代（後の[[徳川家康]]）と幼少期を共に過ごし、後に両者は固い盟約関係を結ぶこととなる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
天文15年（[[1546年]]）、[[古渡城]]にて[[元服]]し、'''上総介信長'''と称する。天文17年（[[1548年]]）、父・信秀と敵対していた[[美濃国]]の[[戦国大名]]・[[斎藤道三]]との和睦が成立すると、道三の娘・[[濃姫]]と政略結婚した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
天文18年（[[1549年]]）（異説では天文22年（[[1553年]]））に信長は[[聖徳寺 (名古屋市)|正徳寺]]で道三と会見し、その際に道三はうつけ者と呼ばれていた信長の器量を見抜いたとの逸話がある。また同年には、近江の[[国友|国友村]]に火縄銃500丁を注文したという&amp;lt;ref&amp;gt;「国友鉄砲記」より。正徳寺での会見には、兵に鉄砲500丁を持たせていったと「信長公記」にあり、これが国友村から購入した鉄砲だという可能性もある。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
天文20年（[[1551年]]）、父・信秀が没した為、家督を継ぐ&amp;lt;ref&amp;gt;信秀の葬儀において祭壇に[[抹香]]を投げつけたというエピソードが残っている。このような行為におよんだ理由は、うつけ者を装うため、葬儀を政治的に利用した信勝への抗議など諸説あるが、いずれも推測の域を出ていない。後年の創作という意見もあるが、1次史料である信長公記にまで書かれているため、全くの創作とは考えにくい。&amp;lt;/ref&amp;gt;。天文22年（[[1553年]]）、信長の教育係であった[[平手政秀]]が自害。これは諌死であったとも、息子・五郎右衛門と信長の確執のためともされる。信長は嘆き悲しみ、師匠の[[沢彦]]和尚を開山として[[政秀寺]]を建立し、政秀の霊を弔った。天文23年（[[1554年]]）には、[[村木砦の戦い]]で今川勢を破っている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 家督争いから尾張統一・上洛 ===&lt;br /&gt;
当時、尾張国は[[今川氏]]の尾張侵攻により[[守護]]の[[斯波氏]]の力が衰え、尾張下四郡を支配した[[守護代]]であった「織田大和守家」当主で[[清洲城]]主の[[織田信友]]が実権を掌握していた。信長の父・信秀はその信友に仕える三奉行の一人に過ぎなかったにも関わらず、その智勇をもって尾張中西部に支配権を拡大した。信秀の死後、信長が跡を継ぐと、信友は信長の弟・[[織田信行]]（信勝）の家督相続を支持して信長と敵対し、信長謀殺計画を企てるが、信友により傀儡にされていた[[守護]]・[[斯波義統]]が、計画を信長に密告した。これに激怒した織田信友は斯波義統の嫡子・[[斯波義銀|義銀]]が手勢を率いて川狩に出た隙に義統を殺害する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
斯波義銀が落ち延びてくると、信長は叔父の[[守山城 (尾張国)|守山城]]主・[[織田信光]]と協力し、信友を主君を殺した謀反人として殺害する。こうして「織田大和守家」は滅び、信長は那古野城から清洲城へ本拠を移し、尾張国の[[守護所]]を手中に収めた。これにより、織田氏の[[庶家]]の生まれであった信長が名実共に織田氏の頭領となった。なお信光も死亡しているが、死因は不明である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[弘治 (日本)|弘治]]2年（[[1556年]]）4月、義父・斎藤道三が子の[[斎藤義龍]]との戦いに敗れて戦死（[[長良川の戦い]]）。信長は道三救援のため、木曽川を越え美濃の大浦まで出陣するも、道三を討ち取り勢いに乗った義龍軍に苦戦し、道三敗死の知らせにより退却した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
こうした中、信長の当主としての器量を疑問視した重臣の[[林秀貞]]（通勝）・[[林通具]]・[[柴田勝家]]らは、信長を廃して聡明で知られた弟・信勝（信行）を擁立しようとした。これに対して信長には[[森可成]]・[[佐久間盛重]]・[[佐久間信盛]]らが味方し、両派は対立する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
道三の死去を好機と見た信勝派は、同年[[8月24日]]に挙兵して戦うも敗北（[[稲生の戦い]]）。その後、[[末盛城]]に籠もった信勝を包囲するが、生母・土田御前の仲介により、信勝・勝家らを赦免した。更に同年中に庶兄の信広も斎藤義龍と結んで清洲城の簒奪を企てたが、これは事前に情報を掴んだ為に未遂に終わり、信広は程なくして降伏し、赦免されている。しかし、弘治3年（[[1557年]]）に信勝は再び謀反を企てる。この時、稲生の戦いの後より信長に通じていた柴田勝家の密告があり、事態を悟った信長は病と称して信勝を清洲城に誘い出し殺害した。直接手を下したのは[[河尻秀隆]]とされている&amp;lt;ref&amp;gt;信長公記では、河尻と青貝という2人の家臣が、フロイス日本史では信長が直接殺したことになっている。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
さらに信長は、同族の[[犬山城]]主・[[織田信清]]と協力し、旧主「織田大和守家」の宿敵で織田一門の[[宗家]]であった尾張上四郡（丹羽郡・葉栗郡・中島郡・春日井郡）の守護代「織田伊勢守家」（岩倉織田家）の[[岩倉城 (尾張国)|岩倉城]]主・[[織田信賢]]を破って（[[浮野の戦い]]）これを追放。新たに守護として擁立した斯波義銀が斯波一族の[[石橋氏]]・[[吉良氏]]と通じて信長の追放を画策していることが発覚すると、義銀を尾張から追放した。こうして、[[永禄]]2年（[[1559年]]）までには尾張国の支配権を確立し、信長は尾張の国主となった。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
永禄2年（[[1559年]]）2月2日、信長は100名ほどの軍勢を引き連れて[[上洛]]し、[[室町幕府]]13代[[征夷大将軍|将軍]]・[[足利義輝]]に謁見した。当時、義輝は尾張守護・斯波家（武衛家）の邸宅を改修して住しており、信長はそこへ出仕した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 桶狭間の戦いから清洲同盟へ ===&lt;br /&gt;
1560（永禄3）年5月、[[今川義元]]が尾張国へ侵攻。[[駿河国|駿河]]・[[遠江国|遠江]]の本国に加え[[三河国|三河]]を分国として支配する今川氏の軍勢は、2万人以上の大軍であった。兵力で劣る織田軍は苦戦を強いられた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
永禄3年（[[1560年]]）5月19日午後1時頃、信長は[[幸若舞]]『[[敦盛 (幸若舞)|敦盛]]』を舞った後&amp;lt;ref name=&amp;quot;atsumori&amp;quot;&amp;gt;'''幸若舞'''の敦盛は口伝で伝えられていたために、長らく節回しや詳細な振り付けが不明となっていた。そのため、映像作品などでは'''謡曲'''の敦盛で代用されていた。しかし、近年になって幸若舞の敦盛も復刻されている。（詳細は[[敦盛 (幸若舞)]]を参照）&amp;lt;/ref&amp;gt;、昆布と勝ち栗を前に置き、立ったまま[[湯漬け]]（出陣前に、米飯に熱めの湯をかけて食べるのが武士の慣わし）を食べ、出陣した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
信長はまず[[熱田神宮]]に参拝。その後、[[善照寺砦]]で2000人の軍勢を整えて出撃。今川軍の陣中に強襲をかけ今川氏の前当主で隠居の義元を討ち取った。総大将を失った今川軍は、当主・氏真の命で本国駿河国に退却した（'''桶狭間の戦い'''）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
桶狭間の戦いの後、今川氏は三河の松平氏の離反等により、急激に衰退した。これを機に、信長は徳川家康（この頃、松平元康より改名）と手を結ぶことになる。それまで織田家と松平家は敵対関係にあり、幾度も戦っていたが、信長は美濃国の[[斎藤氏]]攻略のため、家康も駿河国の[[今川氏真]]らに対抗する必要があった為、こちらの利害関係を優先させたものと思われる。両者は永禄5年（[[1562年]]）、同盟を結んで互いに背後を固めた（'''清洲同盟'''）。この同盟は信長死後まで維持された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 美濃攻略と天下布武 ===&lt;br /&gt;
斎藤道三亡き後、信長と斎藤氏との関係は険悪なものとなっていた。桶狭間の戦いと前後して両者の攻防は一進一退の様相を呈していた。しかし、永禄4年（[[1561年]]）に斎藤義龍が急死し、嫡男・[[斎藤龍興]]が後を継ぐと、信長は美濃に出兵し勝利（[[森部の戦い]]）。織田家は優位に立ち、斎藤氏は家中で分裂が始まる。永禄7年（[[1564年]]）には北[[近江国]]の[[浅井長政]]と同盟を結び、斎藤氏への牽制を強化している。その際、信長は妹・[[お市の方|お市]]を輿入れさせた。一方で、信長は永禄8年（[[1565年]]）より[[滝川一益]]の援軍依頼により伊勢方面にも進出し、[[神戸具盛 (7代目当主)|神戸具盛]]など当地の諸氏とも戦っている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
永禄9年（[[1564年]]から[[1565年]]）、[[竹中重治]]と[[安藤守就]]が[[岐阜城]]を占拠後、[[加治田城]]主の[[佐藤忠能]]を味方にして[[中濃]]の諸城を手に入れ（[[中濃攻略戦]]）、さらに[[西美濃三人衆]]（[[稲葉良通]]・[[氏家直元]]・[[安藤守就]]）などを味方につけた信長は、ついに永禄10年（[[1567年]]）、斎藤龍興を[[伊勢国|伊勢]][[長島町 (三重県)|長島]]に敗走させ、尾張・美濃の2ヶ国を領する大名になった（[[稲葉山城の戦い]]）。ときに信長33歳。このとき、井ノ口を[[岐阜市|岐阜]]と改称している&amp;lt;ref&amp;gt;出典：『[[信長公記]]』&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
同年11月には僧・沢彦から与えられた印文「'''天下布武'''」の朱印を信長は使用しはじめており&amp;lt;ref&amp;gt;林屋辰三郎『天下一統』中公文庫、105頁&amp;lt;/ref&amp;gt;、本格的に[[天下統一]]を目指すようになったとみられる。11月9日、[[正親町天皇]]は信長を「古今無双の名将」を褒めつつ、[[御料所]]の回復・[[誠仁親王]]の元服費用の拠出を求めたが、&amp;lt;ref&amp;gt;前者は[[綸旨]]、後者は[[女房奉書]]によって伝えられた。なお、天皇・朝廷のこうした動きは各地の大名に対して行われており、この時点では正親町天皇はさほど信長を特別視していたわけではなかったと思われる。[[藤井譲治]]「天皇と天下人」より&amp;lt;/ref&amp;gt;、信長は丁重に「まずもって心得存じ候」と返答したのみであった&amp;lt;ref&amp;gt;[[藤井譲治]]「天皇と天下人」より&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===1568（永禄11）年===&lt;br /&gt;
==== 上洛 ====&lt;br /&gt;
中央では、永禄8年（[[1565年]]）、かねて[[京都|京]]を中心に[[畿内]]で権勢を誇っていた[[三好氏]]の有力者[[三好三人衆]]（[[三好長逸]]・[[三好政康]]・[[岩成友通]]）と[[松永久秀]]が、幕府権力の復活を目指して三好氏と対立を深めていた将軍･足利義輝を暗殺し、第14代将軍として義輝の従弟・[[足利義栄]]を傀儡として擁立する（[[永禄の変]]）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
久秀らはさらに義輝の弟で僧籍にあった一乗院覚慶（[[足利義昭]]）の暗殺も謀ったが、義昭は[[一色藤長]]・[[和田惟政]]ら幕臣の支援を受けて奈良から脱出し、[[越前国]]の[[朝倉義景]]のもとに身を寄せていた。しかし、義景が三好氏追討の動きを見せなかったため、永禄11年（[[1568年]]）7月には美濃国の信長へ接近を図ってきた。信長は義昭の三好氏追討要請を応諾した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
====武田氏との外交====&lt;br /&gt;
美濃国において領国を接する[[甲斐国]]の[[武田信玄]]とは信玄の四男・諏訪勝頼（[[武田勝頼]]）に養女（[[遠山夫人]]）を娶らせることで同盟を結んだが、遠山夫人は永禄10年（1567年）11月、[[武田信勝]]を出産した直後に早世したため、同年末には信長の嫡男・信忠と信玄の六女・[[信松尼|松姫]]との婚姻を模索し友好的関係を持続させるなど、周囲の勢力と同盟を結んで国内外を固めた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 足利義昭上洛の警護 ====&lt;br /&gt;
永禄11年（1568年）9月、信長は他国侵攻の大義名分として将軍家嫡流の足利義昭を奉戴し、[[上洛]]を開始した。これに対して抵抗した南近江の[[六角義賢]]・[[六角義治|義治]]父子は織田軍の猛攻を受け、[[観音寺城]]が落城する（[[観音寺城の戦い]]）。六角父子は[[甲賀郡]]に後退、以降はゲリラ戦を展開した&amp;lt;ref&amp;gt;ただし、[[六角氏]]嫡流は別にあり、嫡流の[[六角義秀]]・[[六角義郷]]は信長に庇護されたとする異説もある。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
信長が上洛すると、[[三好長慶]]死後の内輪揉めにより崩壊しつつあった[[三好義継]]・松永久秀らは信長の実力を悟って臣従し、三好三人衆に属した他の勢力の多くは[[阿波国]]へ逃亡する。唯一抵抗していた[[池田勝正]]も信長に降伏した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
足利義昭を第15代将軍に擁立した信長は、[[和泉国|和泉]]一国の恩賞だけを賜り尾張へ帰国。この時、信長は義昭から管領・斯波家の家督継承もしくは管領代・[[副将軍]]の地位等を勧められたが、桐紋と斯波家並の礼遇だけを賜り遠慮したとされる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===1569（永禄12）年===&lt;br /&gt;
1月、信長率いる織田軍主力が美濃国に帰還した隙を突いて、三好三人衆と斎藤龍興ら浪人衆が共謀し、足利義昭の[[御所]]である[[六条通|六条]][[本圀寺]]を攻撃した（[[六条合戦]]）。しかし、信長は豪雪の中をわずか2日で援軍に駆けつけるという機動力を見せた&amp;lt;ref&amp;gt;信長公記によれば、当時、岐阜から[[京都]]までは3日はかかったという。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
もっとも、浅井長政や池田勝正の援軍と[[明智光秀]]の奮戦により、三好・斎藤軍は信長の到着を待たず敗退していた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1月10日には三好軍と共同して決起した[[高槻城]]の[[入江春景]]を攻めた。春景は降伏したが、信長は再度の離反を許さず処刑し、和田惟政を高槻に入城させ、[[摂津国]]を守護・池田勝正を筆頭とし[[伊丹氏]]と惟政の3人に統治させた（[[摂津三守護]]）。同日、信長は三好三人衆に協力していた[[堺]]に2万貫の矢銭と服属を要求し、支払わせた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 伊勢侵攻 ====&lt;br /&gt;
同時期に[[伊勢国]]への侵攻も大詰めを迎える。伊勢は南朝以来の[[国司]]である[[北畠氏]]が最大勢力を誇っていたが、まず永禄11年（[[1568年]]）北伊勢の神戸具盛と講和し、三男の[[織田信孝]]を[[神戸氏]]の養子として送り込んだ。更に[[北畠具教]]の次男・[[長野具藤]]を内応により追放し、弟・[[織田信包]]を長野家当主とした。そして翌・永禄12年（[[1569年]]）8月20日、滝川一益の調略によって具教の実弟・[[木造具政]]が信長側に転じると、信長はその日の内に岐阜を出陣し南伊勢に進攻、北畠家の[[大河内城]]を大軍を率いて包囲、篭城戦の末10月3日に和睦し、次男・[[織田信雄]]を養嗣子として送り込んだ。後に北畠具教は幽閉され、[[天正]]4年（[[1576年]]）に信雄により殺害される。こうして信長は、養子戦略により北伊勢攻略を終える。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 第一次信長包囲網 ====&lt;br /&gt;
信長は足利義昭の将軍としての権力を制限するため、『[[殿中御掟]]』9ヶ条の掟書、のちには追加7ヶ条を発令し、これを義昭に認めさせた。これによって義昭と信長の対立は決定的なものになったわけではなく、両者はお互いを利用し合う関係であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
3月、正親町天皇から「信長を副将軍に任命したい」という意向が伝えられたが、信長は何の返答もせず、事実上無視した&amp;lt;ref&amp;gt;藤井譲治「天皇と天下人」より&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===1570（[[元亀]]1）年===&lt;br /&gt;
4月、信長は度重なる上洛命令を無視する朝倉義景を討伐するため、[[浅井氏]]との盟約を反故にし、盟友の徳川家康の軍勢とともに越前国へ進軍。織田・徳川連合軍は[[朝倉氏]]の諸城を次々と攻略していくが、[[金ヶ崎城|金ヶ崎]]で浅井氏離反の報告を受ける。挟撃される危機に陥った織田・徳川連合軍はただちに撤退を開始し、[[殿 (軍事用語)|殿]]を務めた池田勝正・[[明智光秀]]・[[豊臣秀吉|木下秀吉]]らの働きもあり、京に逃れた（[[金ヶ崎の戦い]]）。信長は先頭に立って真っ先に撤退し、僅か10名の共と一緒に京に到着したという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
同年6月、信長は浅井氏を討つべく、近江国[[姉川]]河原で徳川軍とともに浅井・朝倉連合軍と対峙。並行して浅井方の横山城を陥落させつつ、織田・徳川連合軍は勝利した（'''[[姉川の戦い]]'''）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
8月、信長は摂津国で挙兵した三好三人衆を討つべく出陣するが、その隙をついて石山本願寺が信長に対して挙兵した（[[野田城・福島城の戦い]]）。しかも、織田軍本隊が摂津国に対陣している間に軍勢を立て直した浅井・朝倉・延暦寺などの連合軍3万が近江国・[[坂本 (大津市)|坂本]]に侵攻する。織田軍は劣勢の中、重臣・森可成と信長の実弟・[[織田信治]]を喪った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
9月23日未明、信長は本隊を率いて摂津国から近江国へと帰還。慌てた浅井・朝倉連合軍は比叡山に立て籠もって抵抗した。信長はこれを受け、近江国・[[宇佐山城]]において浅井・朝倉連合軍と対峙する（[[志賀の陣]]）。しかし、その間に石山本願寺の[[法主]]・[[顕如]]の命を受けた伊勢の門徒が一揆を起こし（[[長島一向一揆]]）、信長の実弟・[[織田信興]]を自害に追い込んだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
11月21日、信長は六角義賢・義治父子と和睦し、ついで阿波から来た[[篠原長房]]と講和した&amp;lt;ref&amp;gt;林屋辰三郎『天下一統』中公文庫、143頁&amp;lt;/ref&amp;gt;。さらに足利義昭に朝倉氏との和睦の調停を依頼し、義昭は関白[[二条晴良]]に調停を要請した。そして正親町天皇に奏聞して[[勅命]]を仰ぎ、12月13日、勅命をもって浅井氏・朝倉氏との和睦に成功&amp;lt;ref&amp;gt;[[大久保忠教]]の記した『[[三河物語]]』によると、このとき信長は義景に対し「天下は朝倉殿が持ち給え。我は二度と望み無し」とまで言ったという。&amp;lt;/ref&amp;gt;。窮地を脱した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===1571（元亀2）年===&lt;br /&gt;
==== 第二次信長包囲網 ====&lt;br /&gt;
信長は朝倉・浅井に味方した延暦寺を攻めた（'''[[比叡山焼き討ち (1571年)|比叡山焼き討ち]]'''）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一方この頃、甲斐国の武田信玄が信長への事前通告なしに徳川領へ侵攻&amp;lt;ref&amp;gt;近年では元亀2年の信玄による三河侵攻は根拠となる文書群の年代比定の誤りが指摘され、これは勝頼期の天正3年の出来事であった可能性も考えられている（鴨川達夫『武田信玄と勝頼』（岩波新書、2009）、柴裕之「戦国大名武田氏の遠江・三河侵攻再考」『武田氏研究』第37号、2007）。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===1572（元亀3）年===&lt;br /&gt;
石山本願寺が信長と和睦したものの、三好義継・松永久秀らが共謀して信長に謀反を起こした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
7月、信長は近江に出陣（[[虎御前山の戦い]]）。嫡男・奇妙丸（後の[[織田信忠]]）の[[初陣]]でもあった。戦況は織田軍有利に展開し、8月には朝倉義景に不満を抱いていた朝倉軍の[[前波吉継]]・[[富田長繁]]・[[毛屋猪介]]・[[戸田与次郞]]らが信長に寝返った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
9月、信長は足利義昭に対して17条の意見書を提出。信長と義昭の関係は決定的に悪化した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
11月、武田氏の秋山虎繁（信友）が、東美濃の[[岩村城]]を攻めたが、織田軍に敗退し、岩村城近辺の城はみな織田のものとなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
徳川領においては徳川軍が[[一言坂の戦い]]で武田軍に大敗し、さらに遠江国の要である[[二俣城]]が開城・降伏により不利な戦況となる（[[二俣城の戦い]]）。これに対して信長は、家康に佐久間信盛・[[平手汎秀]]ら3,000人の援軍を送ったが、12月の'''[[三方ヶ原の戦い]]'''で織田・徳川連合軍は武田軍に敗退。汎秀が討死した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===1573（元亀4、天正1）年===&lt;br /&gt;
武田軍は三河に侵攻し、2月に[[野田城 (三河国)|野田城]]を攻略した（[[野田城の戦い]]）。これに呼応して京の足利義昭が信長に対して挙兵したため、信長は岐阜から京都に向かって進軍した。信長が京都に着陣すると幕臣であった[[細川幽斎|細川藤孝]]や[[荒木村重]]らは義昭を見限り信長についた。信長は上京を焼打ちして義昭に脅しをかけてから義昭と和睦しようとした。義昭は初めこれを拒否していたが、正親町天皇からの勅命が出され、4月5日に義昭と信長はこれを受け入れて和睦した。4月12日、武田信玄は病死し、武田軍は甲斐国へ帰国した&amp;lt;ref&amp;gt;元亀年間に行われた武田氏の遠江・三河への侵攻や信長との対立は「[[西上作戦]]」と通称され、信玄は上洛を目指していたされてきたが、近年ではその実態や意図に疑問が呈されている（鴨川達夫『武田信玄と勝頼』（岩波新書、2007年）、柴裕之「戦国大名武田氏の遠江・三河侵攻再考」『武田氏研究』第37号、2007、柴辻俊六「武田信玄の上洛戦略と織田信長」『武田氏研究』第40号、2009　など&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
7月には再び抵抗の意思を示した足利義昭が[[二条城|二条御所]]や山城守護所（[[槇島城]]）に立て籠もったが、信長は義昭を破り追放し、これをもって室町幕府の勢力は京都から消滅した&amp;lt;ref&amp;gt;室町幕府の滅亡により、[[室町将軍]]は天皇王権を擁し、京都を中心とする周辺領域を支配し地方の諸大名を従属下におき紛争などを調停する「[[天下]]」主催者たる地位を喪失。信長が「天下」主催者としての地位を継承し、以降は諸大名を従属・統制下におく立場であったことが指摘されている（[[神田千里]]「織田政権の支配の論理に関する一考察」『東洋大学文学部紀要』2002、同『戦国乱世を生きる力』中央公論社、2002）。&amp;lt;/ref&amp;gt;。加えて7月28日には[[元号]]を元亀から[[天正]]へと改めることを[[朝廷]]に奏上し、これを実現させた&amp;lt;ref&amp;gt;ただし、朝廷では既に元亀3年の段階で改元を決定しており、同年3月29日には信長と義昭の下に使者を送っている（『御湯殿上日記』）。だが、義昭は改元に消極的であり、信長の17か条の詰問状でも批判の1つに挙げられている。信長は改元を支持することで、消極的な態度を見せる義昭排除の正当性を得るとともに、朝廷の望む改元を実現させることによって自己を室町幕府に代わる武家政権のトップとして朝廷に認めさせたとする評価がある（[[神田裕理]]「織豊期の改元」『戦国・織豊期の朝廷と公家社会』校倉書房、2011年）。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
8月、信長は細川藤孝に命じて、[[淀古城|淀城]]に立て籠もる三好三人衆の一人・[[岩成友通]]を討伐した（第二次淀古城の戦い）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
同月、信長は3万人の軍勢を率いて越前国に侵攻。[[一乗谷城の戦い#刀根坂の戦い|刀根坂の戦い]]で朝倉軍を破り、朝倉義景は自刃した。9月、[[小谷城]]を攻略して浅井氏に勝利し、[[浅井久政]]・長政父子は自害し、長政の母・[[小野殿]]（阿古御料人）の指を一日一本ずつ切り落とした上で殺害した（執行を担当したのは秀吉であり、処刑方法が信長本人の意向か秀吉のものであるかは不明である）。なお、長政に嫁いでいた妹・お市らは落城前に落ち延びて信長が引き取った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
9月24日、信長は尾張・美濃・伊勢の軍勢を中心とした3万人の軍勢を率いて、伊勢長島に行軍した。織田軍は滝川一益らの活躍で半月ほどの間に長島周辺の敵城を次々と落とした。しかし撤退戦で[[林通政#林通政 (新次郎)|林通政]]が討死した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
11月、[[河内国]]の三好義継が足利義昭に同調して反乱を起こした。信長は佐久間信盛を総大将とした軍勢を河内国に送り込む。しかし、信長の実力を怖れた義継の家老・[[若江三人衆]]らによる裏切りで義継は11月16日に自害し、三好氏もここに滅亡した。12月26日、[[大和国]]の松永久秀も[[多聞山城]]を明け渡し、信長に降伏した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===1574（天正2）年===&lt;br /&gt;
==== 長島一向一揆の制圧 ====&lt;br /&gt;
1月、越前で[[地侍]]と[[本願寺]][[門徒]]による反乱が起こり、守護代の[[前波吉継|桂田長俊]]が殺された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ほぼ同時期、武田勝頼が東美濃の[[明知城]]に侵攻。信長は迎撃に向かったが、到着前に明知城が落城。信長は撤退した。城の位置関係からして、この時は岩村城が武田方に同心していたようである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
3月、信長は上洛して[[従三位]][[参議]]に叙任された。このとき、信長は[[正親町天皇]]に対して「[[蘭奢待]]の切り取り」を奏請し、[[天皇]]はこれを[[勅命]]をもって了承した&amp;lt;ref&amp;gt;これは、信長が正親町天皇と密接な関係にあるということを諸国に知らしめるためであったといわれているがこれを契機に、信長の実力が[[朝廷]]からも認められていることを知った諸[[大名]]、特に[[奥州]]からは信長に対して誼を通じる使者が増えたと言われている。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
7月、信長は数万人の大軍で伊勢の[[長島一向一揆]]を殲滅、伊勢を完全に平定した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===1575（天正3）年===&lt;br /&gt;
3月、荒木村重が[[大和田城]]を占領したのをきっかけに、織田信長は石山本願寺・[[高屋城]]周辺に10万兵の大軍で攻撃し、三好康長を降伏させた（[[高屋城の戦い]]）。高屋城を含む河内国の城は[[破城]]となり、[[松井友閑]]と三好康長の仲介のもと石山本願寺と一時的な和睦が成立した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 長篠の戦い ====&lt;br /&gt;
1575（天正3）年4月、三河・長篠城の[[奥平信昌|奥平貞昌]]が武田から徳川に寝返った。武田勝頼はこれを討つため、15000人の軍勢で[[長篠城]]に攻め寄せたが、織田・徳川連合軍38000人に大敗（'''[[長篠の戦い]]'''）。武田軍に圧勝する&amp;lt;ref&amp;gt;この戦いで武田氏の大軍から長篠城を防衛した奥平貞昌は、信長より[[偏諱]]を賜り信昌と改名している。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
6月27日、[[相国寺]]に上洛した信長は天台宗と真言宗の争論の事を知り、公家の中から5人の奉行を任命して問題の解決に当たらせた（[[絹衣相論]]を参照）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
7月3日、正親町天皇は信長に官位を与えようとしたが、信長はこれを受けず、家臣たちに官位や姓を与えてくれるよう申し出た。天皇はこれを認め、信長の申し出通りに、松井友閑に宮内卿法印、武井夕庵に二位法印、明智光秀に惟任日向守、[[簗田広正]]に別喜右近、塙直政に原田備中守、丹羽長秀に惟住、の官位と姓を与えた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 越前侵攻 ====&lt;br /&gt;
この頃、前年に信長から越前国を任されていた守護代・桂田長俊を殺害して越前国を奪った本願寺門徒では、内部分裂が起こっていた。門徒達は天正3年（1575年）1月、桂田長俊殺害に協力した富田長繁ら地侍も罰し、越前国を[[一揆]]の持ちたる国とした。顕如の命で守護代として[[下間頼照]]が派遣されるが、前領主以上の悪政を敷いたため、一揆の内部分裂が進んでいた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これを好機と見た信長は長篠の戦いが終わった直後の8月、越前国に行軍した。内部分裂していた一揆衆は協力して迎撃することができず、下間頼照や[[朝倉景健]]らを始め、12,250人を数える越前国・[[加賀国]]の門徒が織田軍によって討伐された&amp;lt;ref&amp;gt;このとき、信長は[[村井貞勝]]に対して、越前府中の凄惨なありさまを書状で「府中は死骸ばかりにて一円空き所無く候 見せたく候」と書き記している。&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;このとき従軍した[[前田利家]]の所業を記した石版も残っている。「一揆おこり そのまま前田又左衛門殿一揆千人ばかり生け捕りさせ候なり 御成敗は はっつけ 釜煎られ あぶられ候 かくのごとくに候 一筆書きとめ候」。&amp;lt;/ref&amp;gt;。越前国は再び織田領となり、信長は国掟を出した上で、越前八郡を柴田勝家に与えた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 右近衛大将就任および安土城築城====&lt;br /&gt;
11月4日、信長は[[権大納言]]に叙任される、また、11月7日にはさらに[[近衛大将|右近衛大将]]（征夷大将軍に匹敵する官職で武家では武門の棟梁のみに許される）に叙任する。信長はこの就任にあたり、御所にて公卿を集め、室町将軍家の将軍就任式（[[陣座]]）の儀礼を挙行させた。以後、信長のよび名は「上様」となり将軍と同等とみなされた（足利義昭は近衛大将への昇進を望むも未だ近衛中将のままであったので内裏の近衛府の庁舎内では信長が上司ということになる）。同日、嫡子の信忠は[[秋田城介]]（[[鎮守府将軍]]になるための前官）に、次男の信雄は左近衛中将に叙任している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
11月28日、信長は1週間前に東美濃の要・岩村城を陥落させた嫡男・信忠に一大名家としての織田家の家督ならびに美濃・尾張などの織田家の領国（織田直割領）を譲った。しかし、引き続き信長は織田政権の政治・全軍を総括する立場にあった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===1576（天正4年）===&lt;br /&gt;
1月、信長自身の指揮のもと[[琵琶湖]]湖岸に[[安土城]]の築城を開始する&amp;lt;ref&amp;gt;「安土」という地名は信長が命名したとも（「細川家記」）、元々あった地名だとも言われる。&amp;lt;/ref&amp;gt;。安土城は天正7年（[[1579年]]）に五層七重の豪華絢爛な城として完成した。[[天守]]内部は吹き抜けとなっていたと言われている。[[イエズス会]]の[[宣教師]]は「その構造と堅固さ、財宝と華麗さにおいて、それら（城内の邸宅も含めている）はヨーロッパの最も壮大な城に比肩しうるものである」と母国に驚嘆の手紙を送っている。信長は[[岐阜城]]を信忠に譲り、完成した安土城に移り住んだ。信長はここを拠点に[[天下統一]]に邁進することとなる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 第三次信長包囲網 ====&lt;br /&gt;
天正4年（1576年）1月、信長に誼を通じていた[[丹波国]]の[[波多野秀治]]が叛旗を翻した。さらに石山本願寺も再挙兵するなど、再び反信長の動きが強まり始める。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
信長は4月、明智光秀・荒木村重・[[塙直政]]を大将とした3万人の軍勢を[[大坂]]に派遣し、砦を構築させた。このうち塙が伏兵の襲撃に遭って大敗を喫し、直政を始め1,000人以上が戦死した。織田軍は本願寺軍の攻勢に窮し[[天王寺]]砦に立て籠もるが、本願寺軍はこれを包囲し、天王寺で織田軍は窮地に陥った。5月5日、信長は若江城に入り動員令を出したが、集まったのは3,000人ほどであった。5月7日早朝、その軍勢を率いて自ら先頭に立ち、天王寺砦を包囲する本願寺軍1万5,000人に攻め入り、信長自身も銃撃され負傷する激戦となった。信長自らの出陣で士気が高揚した織田軍は、光秀率いる天王寺砦の軍勢7,000人との連携に成功。本願寺軍を挟撃し、これを撃破した（[[天王寺砦の戦い]]）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その後、織田軍は石山本願寺を水陸から包囲し兵糧攻めにした。ところが7月13日、石山本願寺の援軍に現れた[[毛利水軍]]800隻の前に、織田水軍は敗れ、毛利軍により石山本願寺に[[兵糧]]・[[弾薬]]が運び込まれた（[[第一次木津川口の戦い]]）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この頃、越後守護で[[関東管領]]の上杉輝虎（[[上杉謙信]]）と信長との関係は悪化し&amp;lt;ref&amp;gt;信長は武田信玄の要請で武田と上杉謙信との和睦を仲介していたが（甲越和与）、[[元亀]]3年（[[1572年]]）10月信玄は信長への事前通告なしに織田・徳川氏領へ侵攻し、信長と武田氏は手切となり、上杉氏との共闘をもちかけている。謙信はこれに応じているが積極的に連携することはなく、武田氏で勝頼への当主交代が起こると和睦をもちかけている。&amp;lt;/ref&amp;gt;、謙信は天正4年（1576年）に石山本願寺と和睦し、信長との対立を明らかにした。謙信を盟主として、毛利輝元・石山本願寺・波多野秀治・[[紀伊国|紀州]][[雑賀衆]]などが反信長に同調し結託した。このような事情の中、11月21日に信長は正三位・内大臣に昇進している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===1577（天正5）年===&lt;br /&gt;
2月、信長は、雑賀衆を討伐するために大軍を率いて出陣（[[紀州征伐#信長の紀州攻め|紀州攻め]]）するが、毛利水軍による背後援助や上杉軍の[[能登国]]侵攻などもあったため、3月に入ると雑賀衆の頭領・[[鈴木孫一]]らを降伏させ&amp;lt;ref&amp;gt;本願寺攻めに協力する誓紙を出させたが、人質の提供は無かった&amp;lt;/ref&amp;gt;、形式的な和睦を行ない、紀伊国から撤兵した。この頃、北陸戦線では織田軍の柴田勝家が、[[加賀国]]の[[手取川]]を越えて焼き討ちを行っている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
大和国の松永久秀がまたも信長を裏切り挙兵すると、信長は織田信忠を[[総大将]]とした大軍を[[信貴山城]]に派遣し、10月に松永を討ち取った（[[信貴山城の戦い]]）。久秀を討った10月、信長に抵抗していた[[亀山城 (丹波国)|丹波亀山城]]の[[内藤定政]]（丹波守護代）が病死する。織田軍はこの機を逃さず亀山城・[[籾井城]]・[[笹山城]]などの丹波国の諸城を攻略。同年、姉妹の[[お犬の方]]を丹波守護で[[管領]]を世襲する細川京兆家当主・[[細川信良|細川昭元]]の正室とすることに成功し丹波を掌握した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
11月、能登・加賀北部を攻略した上杉軍が加賀南部へ侵攻&amp;lt;ref&amp;gt;織田軍は手取川において1,000人余が討死し渡河の際にも多数の行方不明者を出した（[[手取川の戦い]]）というが、戦果を喧伝した謙信の書状以外に史料がなく、戦いが起こったかどうかは不明である。&amp;lt;/ref&amp;gt;。その結果、加賀南部は上杉家の領国に組み込まれ、北陸では上杉側が優位に立った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
11月20日、正親町天皇は信長を従二位・右大臣に昇進させた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===1578（天正6）年===&lt;br /&gt;
1月にはさらに正二位に位を上げている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
3月13日、上杉謙信が急死。謙信には実子がなく、後継者を定めなかったため、[[養子]]の[[上杉景勝]]と[[上杉景虎]]が後継ぎ争いを始めた（[[御館の乱]]）。この好機を活かし信長は[[斎藤利治]]を総大将に、[[飛騨国]]から[[越中国]]に侵攻（[[月岡野の戦い]]）、上杉軍に勝利し優位に立った。その後、柴田勝家軍が上杉領の能登・加賀を攻略、越中国にも侵攻する勢いを見せた。かくしてまたも信長包囲網は崩壊した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 織田方面軍団の編成 ====&lt;br /&gt;
天正期に入ると、同時多方面に勢力を伸ばせるだけの兵力と財力が織田氏に具わっていた。信長は部下の武将に[[大名]]級の[[所領]]を与え、自由度の高い統治をさせ、周辺の攻略に当たらせた。研究者の間では、これら信長配下の新設大名を「[[軍団]]」「[[方面軍]]」と呼称し&amp;lt;ref&amp;gt;無論当時にはそのような名称は無かった。&amp;lt;/ref&amp;gt;、または信長軍・信長機動隊ともいう&amp;lt;ref name=&amp;quot;hujiki40&amp;quot;&amp;gt;藤木久志「天下統一と朝鮮侵略」講談社学術文庫、40頁&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
尾張の兵を弓衆・鉄砲衆・馬廻衆・小姓衆・小身衆など機動性を持った直属の軍団に編成し、天正4年（1576年）にはこれらを安土に結集させた&amp;lt;ref name=&amp;quot;hujiki40&amp;quot;/&amp;gt;。既に織田家には直属の指揮班である宿老衆や先手衆などがおり、これらと新編成軍との連携などを訓練した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
上杉景勝に対しては柴田勝家・[[前田利家]]・[[佐々成政]]らを、武田勝頼に対しては滝川一益・織田信忠らを、波多野秀治に対しては明智光秀・細川藤孝らを、毛利輝元に対しては羽柴秀吉を、石山本願寺に対しては佐久間信盛を配備した。&lt;br /&gt;
* 美濃・尾張・飛騨の抑え・[[織田信忠]]・[[斎藤利治]]・[[姉小路頼綱]]&lt;br /&gt;
* 対武田方面・[[滝川一益]]・[[織田信忠]]軍団（天正元年結成）&lt;br /&gt;
* 対本願寺方面・[[佐久間信盛]]軍団（天正4年結成 - 天正8年消滅）&lt;br /&gt;
* 北陸方面・[[柴田勝家]]軍団（天正4年昇格）&lt;br /&gt;
* 近畿方面・[[明智光秀]]軍団（天正8年昇格）&lt;br /&gt;
* 山陰・山陽方面・[[羽柴秀吉]]軍団（天正8年昇格）&lt;br /&gt;
* 関東方面・滝川一益軍団（天正10年結成）&lt;br /&gt;
* 四国方面・[[織田信孝]]・[[津田信澄]]・[[丹羽長秀]]・[[蜂屋頼隆]]軍団（天正10年結成）&lt;br /&gt;
* 東海道の抑え・[[徳川家康]]（形式的には同盟国であり織田軍団の一部ではない）&lt;br /&gt;
* 伊勢・伊賀方面の抑え・[[織田信雄]]・[[織田信包]]&lt;br /&gt;
*（紀伊方面の抑え・[[織田信張]]）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===1578（天正6年）===&lt;br /&gt;
====中国侵攻====&lt;br /&gt;
3月、[[播磨国]]の[[別所長治]]の謀反（[[三木合戦]]）が起こる、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
4月、突如として信長は右大臣・右近衛大将を辞職した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
7月、毛利軍が[[上月城]]を攻略し、信長の命により放置された[[山中幸盛]]ら[[尼子氏]]再興軍は処刑される（[[上月城の戦い]]）。10月には摂津国の荒木村重が[[有岡城]]に籠って信長から離反し（[[有岡城の戦い]]）、足利義昭・毛利氏・本願寺と手を結んで信長に抵抗する。一方、村重の[[与力]]であり東摂津に所領を持つ[[中川清秀]]・[[高山右近]]は村重にはつかなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
11月6日、信長は九鬼嘉隆の考案した[[鉄甲船]]を採用、6隻を建造し毛利水軍を撃破（[[第二次木津川口の戦い]]）。これにより石山本願寺と荒木は毛利軍の援助を受けられず孤立し、この頃から織田軍は優位に立つ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===1579（天正7）年===&lt;br /&gt;
夏までに波多野秀治を降伏させ、処刑。同年9月、荒木村重が妻子を置き去りにして逃亡すると有岡城は落城し、荒木一族は処刑された。次いで10月、それまで毛利方であった[[備前国]]の[[宇喜多直家]]が服属すると、織田軍と毛利軍の優劣は完全に逆転する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
11月、信長は織田家の京屋敷・[[二条城#織田信長・誠仁親王の「二条新御所」|二条新御所]]を、[[皇太子]]である[[誠仁親王]]に進上した。同時に、信長は誠仁親王の五男・[[邦慶親王]]を[[猶子]]として、この邦慶親王も二条新御所に移っている&amp;lt;ref&amp;gt;「多聞院日記」より。なお多聞院日記によると、信長が御所を進上した相手は誠仁親王ではなく、猶子の邦慶親王の方だったようである。（藤井譲治『天皇と天下人』より）&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この年、信長は徳川家康の嫡男・[[松平信康]]に対し切腹を命じたとされる。表向きの理由は信康の12か条の乱行、築山殿の武田氏への内通などである。徳川家臣団は信長恭順派と反信長派に分かれて激しい議論を繰り広げたが、最終的に家康は築山殿を殺害し、信康に切腹させた（ただし、これに関しては、家康・信康父子の対立が原因で、信長は娘婿信康の処断について家康から了承を求められただけだとする説もある。詳細は[[松平信康#信康自刃事件について]]を参照）。また伊勢国の出城構築を[[伊賀国]]の[[国人]]に妨害されて立腹した織田信雄が、独断で伊賀国に侵攻し大敗を喫した。信長は信雄を厳しく叱責した（[[伊賀流#天正伊賀の乱|第一次天正伊賀の乱]]）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===1580（天正8）年===&lt;br /&gt;
1月、別所長治が切腹し、三木城が開城。4月には正親町天皇の勅命のもと本願寺軍も織田軍に有利な条件を呑んで和睦し、大坂から退去した。同年には播磨国、[[但馬国]]をも攻略した。8月、信長は[[譜代]]の老臣・佐久間信盛とその嫡男・[[佐久間信栄]]に対して折檻状を送り付け、本願寺との戦に係る不手際などを理由に、高野山への追放か討ち死に覚悟で働くかを迫った。佐久間親子は高野山行きを選んだ。さらに、古参の林秀貞と[[安藤守就]]も、かつてあった謀反の企てや一族が敵と内通したことなどを蒸し返して、これを理由に追放した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===1581（天正9）年===&lt;br /&gt;
[[鳥取城]]を兵糧攻めで落とし[[因幡国]]を攻略、さらには[[岩屋城]]を落として[[淡路国]]を攻略した。同年、信雄を総大将とする4万人の軍勢が伊賀国を攻略。伊賀国は織田氏の領地となった（第二次天正伊賀の乱）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 京都御馬揃え～左大臣推任 ====&lt;br /&gt;
天正9年（1581年）、信長は絶頂期にあった。2月28日には京都の[[内裏]]東の馬場にて大々的なデモンストレーションを行なっている。いわゆる[[京都御馬揃え]]であるが、これには信長はじめ織田一門のほか、[[丹羽長秀]]ら織田軍団の武威を示すものであった&amp;lt;ref&amp;gt;「貴賎群衆の輩 かかるめでたき御代に生まれ合わせ …（中略）… あり難き次第にて上古 末代の見物なり」（[[信長公記]]）&amp;lt;/ref&amp;gt;。このときの馬揃えには正親町天皇を招待している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
3月7日、天皇は信長を左大臣に推任。9日にこの意向が信長に伝えられ、信長は「正親町天皇が譲位し、誠仁親王が即位した際にお受けしたい」と返答した。朝廷はこの件について話し合い、信長に朝廷の意向が伝えられた。24日、信長からの返事が届き、朝廷はこれに満足した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし4月1日、信長は突然「今年は[[金神]]の年なので譲位には不都合」と言い出した。譲位と信長の左大臣就任は延期されることになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 高野山包囲 ====&lt;br /&gt;
[[高野山]]が[[荒木村重]]の残党を匿ったり、足利義昭と通じるなど、信長と敵対する動きを見せる。『信長公記』によれば、信長は使者十数人を差し向けたが、高野山が使者を全て殺害した。一方、『高野春秋』では荒木村重探索の松井友閑の兵32名が高野山の領民に乱暴狼藉を働いたために高野山側がこれを殺害したと記している。いずれにしても、この行動に激怒した信長は、織田領における[[高野聖]]数百人を捕らえる（高野聖は[[諜報活動]]を行っていたともいう）と共に、[[河内国]]や[[大和国]]の諸大名に命じて高野山を包囲させた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
5月に越中国を守っていた上杉氏の武将・[[河田長親]]が急死した隙を突いて織田軍は越中に侵攻、同国の過半を支配下に置いた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
3月23日には[[高天神城]]を奪回し、武田氏を追い詰めた。紀州では雑賀党が内部分裂し、信長支持派の鈴木孫一が反信長派の[[土橋平次]]らと争うなどして勢力を減退させた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===1582（天正10）年===&lt;br /&gt;
==== 武田征伐 ====&lt;br /&gt;
長篠合戦の敗退後、武田勝頼は越後上杉氏との[[甲越同盟]]の締結や[[新府城]]築城などで領国再建を図る一方、人質であった[[織田勝長]]（信房）を返還することで信長との和睦（甲江和与）を模索したが進まず、新府城築城のための普請増大などで却って国人衆には不満が増大していた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2月1日、武田信玄の娘婿であった[[木曾義昌]]が信長に寝返る。2月3日に信長は武田領国への本格的侵攻を行うための大動員令を信忠に発令。駿河国から家康、相模国から[[北条氏直]]、[[飛騨国]]から[[金森長近]]、[[木曽地域|木曽]]から織田信忠が、それぞれ武田領攻略を開始した。信忠軍は軍監・[[滝川一益]]と信忠の譜代衆となる河尻秀隆・[[森長可]]・[[毛利秀頼|毛利長秀]]等で構成され、この連合軍の兵数は10万人余に上った。武田軍は、[[伊那城]]の城兵が城将・[[下条信氏]]を追い出して織田軍に降伏。さらに[[信濃国]]の[[松尾城 (信濃国伊那郡)|松尾城]]主・[[小笠原信嶺]]、[[江尻城]]主・[[穴山信君]]らも先を争うように連合軍に降伏し、武田軍は組織的な抵抗が出来ず済し崩し的に敗北する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
信忠軍は猛烈な勢いで武田領に侵攻し武田側の城を次々に占領していき、信長が武田征伐に出陣した3月8日に信忠は武田領国の本拠である[[甲府]]を占領し、3月11日には甲斐都留郡の田野において滝川一益が武田勝頼・信勝父子を討ち取り、ここに武田氏は滅亡した&amp;lt;ref&amp;gt;俗説ではあるが、最後の武田攻めの際、明智光秀が「ここまで来られて、我々も骨を負った甲斐があった」と語ったところ、信長の逆鱗に触れ、光秀は欄干に頭を打ち付けられたともいわれている。&amp;lt;/ref&amp;gt;。また駿河国を徳川家康に、[[上野国]]を滝川一益に与え、旧武田領の監督を命じ、甲斐国を河尻秀隆、北信濃を森長可、南信濃を毛利長秀に与え一益の与力に付けて、北条氏直への抑えとしつつも同盟関係を保った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 三職推任 ====&lt;br /&gt;
4月、正親町天皇は信長を太政大臣・関白・征夷大将軍のいずれかに任じたいという意向を示し、5月に信長に伝えられた（[[三職推任問題]]）。しかし信長は使者に対して何も返答しないままだった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 本能寺の変 ====&lt;br /&gt;
信長は[[四国]]の[[長宗我部元親]]攻略に向け、三男の神戸信孝、重臣の丹羽長秀・[[蜂屋頼隆]]・[[津田信澄]]の軍団を派遣する準備を進めていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また北陸方面では柴田勝家が富山城、魚津城を攻撃（[[魚津城の戦い]]）。上杉氏は北の[[新発田重家の乱]]に加え、北信濃方面から森長可、上野方面から滝川一益の進攻を受け、東西南北の全方面で守勢に立たされていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
5月15日、駿河国加増の礼と武田征伐の戦勝祝いのため、徳川家康が安土城を訪れた。そこで信長は明智光秀に接待役を命じる。光秀は15日から17日にわたって家康を手厚くもてなした。家康接待が続く中、信長は[[備中高松城]]攻めを行なっている羽柴秀吉の使者より援軍の依頼を受けた。信長は光秀の接待役の任を解き、秀吉への援軍に向かうよう命じた。後世、『[[明智軍記]]』などによって[[江戸時代]]以降流布される俗説では、この時、光秀の接待内容に不満を覚えた信長は[[小姓]]の[[森成利]]（蘭丸）に命じて光秀の頭をはたかせた、としている&amp;lt;ref&amp;gt;この時の[[献立]]は「天正十年安土御献立」『[[続群書類従]]』に記録されているが、この時の献立は前年の家康接待（饗応役は不明）の際の献立（「御献立集」）のと比べて遜色の無い点が指摘される（[[江後迪子]]『信長のおもてなし』2007）&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
5月29日、信長は[[中国地方|中国]]遠征の出兵準備のために上洛し、[[本能寺]]に逗留していた。ところが、秀吉への援軍を命じていたはずの明智軍が突然京都に進軍し、[[6月2日 (旧暦)|6月2日]]に本能寺を襲撃。この際に光秀は、標的が信長であることを伏せていたことが[[本城惣右衛門覚書]]から判明している。100人ほどの手勢しか率いていなかった信長は、自ら弓・[[槍]]を手に奮闘した。しかし圧倒的多数の明智軍には敵わず、居間に戻った信長は自ら火を放ち、燃え盛る炎の中で自害したという。[[享年]]49（満48歳没）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
光秀の娘婿・[[明智秀満]]が信長の遺体を探したが見つからず、現在まで全く確認されていない。なお、最後まで信長に付き従っていた者の中に[[黒人]]の家来・[[弥助]]がいた。弥助は、光秀に捕らえられたものの後に放免となっている。それ以降、弥助の動向については不明である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[平成]]19年（[[2007年]]）に行われた本能寺跡の発掘調査では、本能寺の変と同時期にあったとされる堀跡や大量の焼け瓦が発見された。これにより、城塞としての機能や謀反に備えていた可能性が指摘されており、現在も調査が続いている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==人物像==&lt;br /&gt;
「怒りっぽかった」という記録ははっきり言って当てにならない。中世の記録はたいがいこうやって脚色してあるものだからである。考えてみたまえ。庶民が法を犯すたびに怒る統治者など存在するわけがない。まあ短気ではあっただろう。即断即決でなければ生きていけない世の中だったのだから。しかし判断が早いというのと、感情が動き易いということとは全く違う。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==脚注==&lt;br /&gt;
&amp;lt;references/&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==アホ学者の通説を斬る！==&lt;br /&gt;
立花京子&lt;br /&gt;
*『天皇は武力によって君臨しているわけではないから、武力による脅しは無意味』（by「黄金太閤」）&lt;br /&gt;
**？？？天皇が何の正当性をもって君臨しているかという事と、天皇に武力による脅しが通じるかという事に、いったい何の関係があるんだ？天皇だって人の子だ。刀をつきつけて「譲位しろ」と脅せば、ビビって「はい」と言ってしまうことだってあるだろう。過去に毒殺された親王だっている。もし「信長が天皇から武力を奪おうとした」という事実があって、それへの反論としてこう言うなら分かるのだが。どうもこのへんの歴史学者というのはいまだに天皇を崇拝しているようで困る。&lt;br /&gt;
**まあ馬揃えはどうでもいいんだけどね。ちなみに天皇が馬揃えを見たがったのは、自分の方が信長より上位であるという関係を民衆に見せたかったから。それ以外にあるわけないじゃんｗ　天皇の言葉をそのまま受け取ってしまうようじゃあ政治は語れないのである。&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Minagoroshida</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%B9%94%E7%94%B0%E4%BF%A1%E9%95%B7&amp;diff=155616</id>
		<title>織田信長</title>
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				<updated>2012-03-25T19:00:52Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Minagoroshida: /* 生涯 */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''織田 信長'''（おだ のぶなが）は、[[日本]]の[[戦国時代]]の人物。戦争と混乱に満ちた16世紀の日本を統一へと導いた。日本の政治上・軍事上最大の天才とも言われる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==概要==&lt;br /&gt;
平安時代、朝廷の軍事力の著しい低下によって日本全国の治安が非常に悪化したため、庶民は武装して身を守った。このために延々と内乱が続き、国は乱れに乱れていた。この戦乱を終わらせる終わらせる事業の大変を行ったのが織田信長である。彼は日本全国を統治する前に死んでしまったものの、実質的には彼が戦乱を終わらせたと言える。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==信長の計画==&lt;br /&gt;
まずは地盤を固める&lt;br /&gt;
↓&lt;br /&gt;
幕府あるいは朝廷という既存の権威を利用し、また隠れ蓑にもしつつ改革を行う&lt;br /&gt;
↓&lt;br /&gt;
自身の権威がそれらを越え次第、自身を神格化し、名実ともに日本の頂点に立つ&lt;br /&gt;
↓&lt;br /&gt;
余剰の軍事力は海外に向ける&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 生涯 ==&lt;br /&gt;
&amp;lt;small&amp;gt;※日付は[[和暦]]による[[旧暦]]。[[西暦]]表記の部分は[[ユリウス暦]]とする。&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 少年期 ===&lt;br /&gt;
[[天文 (元号)|天文]]3年（[[1534年]]）5月12日、[[尾張国]]の[[戦国大名]]・[[織田信秀]]の[[嫡男]]として、[[那古野城]]&amp;lt;ref&amp;gt;『[[国史大辞典 (昭和時代)|国史大辞典]]』　織田信長の項目　[[吉川弘文館]]。一般的には那古野城生まれを定説とするが、織田信秀の那古野城奪取をめぐって異説も存在する。&amp;lt;/ref&amp;gt;（現在の[[名古屋市]][[中区 (名古屋市)|中区]]）（[[勝幡城]]説もある&amp;lt;ref&amp;gt;『[[尾州古城志]]』&amp;lt;/ref&amp;gt;）で生誕。幼名は'''吉法師'''。なお、信長の生まれた「織田弾正忠家」は、尾張国の[[守護大名]]・[[斯波氏]]の[[被官]]で下四郡（海東郡・海西郡・愛知郡・知多郡）の[[守護代]]に補任された織田大和守家（清洲織田家）の家臣にして分家であり、[[清洲三奉行]]・古渡城主という家柄であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
母・[[土田御前]]が信秀の[[正室]]であったため嫡男となり、2歳にして那古野城主となる。幼少から青年時にかけて奇妙な行動が多く、周囲から'''尾張の大うつけ'''と称されていた。日本へ伝わった[[種子島銃]]に関心を持った挿話などが知られる。また、身分にこだわらず、民と同じように町の若者とも戯れていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
まだ世子であった頃、表面的に家臣としての立場を守り潜在的な緊張関係を保ってきた主筋の「織田大和守家」の支配する[[清洲城]]下に数騎で火を放つなど、父・信秀も寝耳に水の行動をとり、豪胆さを早くから見せた。また、[[今川氏]]へ人質として護送される途中で[[松平氏]]家中の[[戸田康光]]の裏切りにより[[織田氏]]に護送されてきた松平竹千代（後の[[徳川家康]]）と幼少期を共に過ごし、後に両者は固い盟約関係を結ぶこととなる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
天文15年（[[1546年]]）、[[古渡城]]にて[[元服]]し、'''上総介信長'''と称する。天文17年（[[1548年]]）、父・信秀と敵対していた[[美濃国]]の[[戦国大名]]・[[斎藤道三]]との和睦が成立すると、道三の娘・[[濃姫]]と政略結婚した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
天文18年（[[1549年]]）（異説では天文22年（[[1553年]]））に信長は[[聖徳寺 (名古屋市)|正徳寺]]で道三と会見し、その際に道三はうつけ者と呼ばれていた信長の器量を見抜いたとの逸話がある。また同年には、近江の[[国友|国友村]]に火縄銃500丁を注文したという&amp;lt;ref&amp;gt;「国友鉄砲記」より。正徳寺での会見には、兵に鉄砲500丁を持たせていったと「信長公記」にあり、これが国友村から購入した鉄砲だという可能性もある。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
天文20年（[[1551年]]）、父・信秀が没した為、家督を継ぐ&amp;lt;ref&amp;gt;信秀の葬儀において祭壇に[[抹香]]を投げつけたというエピソードが残っている。このような行為におよんだ理由は、うつけ者を装うため、葬儀を政治的に利用した信勝への抗議など諸説あるが、いずれも推測の域を出ていない。後年の創作という意見もあるが、1次史料である信長公記にまで書かれているため、全くの創作とは考えにくい。&amp;lt;/ref&amp;gt;。天文22年（[[1553年]]）、信長の教育係であった[[平手政秀]]が自害。これは諌死であったとも、息子・五郎右衛門と信長の確執のためともされる。信長は嘆き悲しみ、師匠の[[沢彦]]和尚を開山として[[政秀寺]]を建立し、政秀の霊を弔った。天文23年（[[1554年]]）には、[[村木砦の戦い]]で今川勢を破っている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 家督争いから尾張統一・上洛 ===&lt;br /&gt;
当時、尾張国は[[今川氏]]の尾張侵攻により[[守護]]の[[斯波氏]]の力が衰え、尾張下四郡を支配した[[守護代]]であった「織田大和守家」当主で[[清洲城]]主の[[織田信友]]が実権を掌握していた。信長の父・信秀はその信友に仕える三奉行の一人に過ぎなかったにも関わらず、その智勇をもって尾張中西部に支配権を拡大した。信秀の死後、信長が跡を継ぐと、信友は信長の弟・[[織田信行]]（信勝）の家督相続を支持して信長と敵対し、信長謀殺計画を企てるが、信友により傀儡にされていた[[守護]]・[[斯波義統]]が、計画を信長に密告した。これに激怒した織田信友は斯波義統の嫡子・[[斯波義銀|義銀]]が手勢を率いて川狩に出た隙に義統を殺害する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
斯波義銀が落ち延びてくると、信長は叔父の[[守山城 (尾張国)|守山城]]主・[[織田信光]]と協力し、信友を主君を殺した謀反人として殺害する。こうして「織田大和守家」は滅び、信長は那古野城から清洲城へ本拠を移し、尾張国の[[守護所]]を手中に収めた。これにより、織田氏の[[庶家]]の生まれであった信長が名実共に織田氏の頭領となった。なお信光も死亡しているが、死因は不明である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[弘治 (日本)|弘治]]2年（[[1556年]]）4月、義父・斎藤道三が子の[[斎藤義龍]]との戦いに敗れて戦死（[[長良川の戦い]]）。信長は道三救援のため、木曽川を越え美濃の大浦まで出陣するも、道三を討ち取り勢いに乗った義龍軍に苦戦し、道三敗死の知らせにより退却した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
こうした中、信長の当主としての器量を疑問視した重臣の[[林秀貞]]（通勝）・[[林通具]]・[[柴田勝家]]らは、信長を廃して聡明で知られた弟・信勝（信行）を擁立しようとした。これに対して信長には[[森可成]]・[[佐久間盛重]]・[[佐久間信盛]]らが味方し、両派は対立する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
道三の死去を好機と見た信勝派は、同年[[8月24日]]に挙兵して戦うも敗北（[[稲生の戦い]]）。その後、[[末盛城]]に籠もった信勝を包囲するが、生母・土田御前の仲介により、信勝・勝家らを赦免した。更に同年中に庶兄の信広も斎藤義龍と結んで清洲城の簒奪を企てたが、これは事前に情報を掴んだ為に未遂に終わり、信広は程なくして降伏し、赦免されている。しかし、弘治3年（[[1557年]]）に信勝は再び謀反を企てる。この時、稲生の戦いの後より信長に通じていた柴田勝家の密告があり、事態を悟った信長は病と称して信勝を清洲城に誘い出し殺害した。直接手を下したのは[[河尻秀隆]]とされている&amp;lt;ref&amp;gt;信長公記では、河尻と青貝という2人の家臣が、フロイス日本史では信長が直接殺したことになっている。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
さらに信長は、同族の[[犬山城]]主・[[織田信清]]と協力し、旧主「織田大和守家」の宿敵で織田一門の[[宗家]]であった尾張上四郡（丹羽郡・葉栗郡・中島郡・春日井郡）の守護代「織田伊勢守家」（岩倉織田家）の[[岩倉城 (尾張国)|岩倉城]]主・[[織田信賢]]を破って（[[浮野の戦い]]）これを追放。新たに守護として擁立した斯波義銀が斯波一族の[[石橋氏]]・[[吉良氏]]と通じて信長の追放を画策していることが発覚すると、義銀を尾張から追放した。こうして、[[永禄]]2年（[[1559年]]）までには尾張国の支配権を確立し、信長は尾張の国主となった。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
永禄2年（[[1559年]]）2月2日、信長は100名ほどの軍勢を引き連れて[[上洛]]し、[[室町幕府]]13代[[征夷大将軍|将軍]]・[[足利義輝]]に謁見した。当時、義輝は尾張守護・斯波家（武衛家）の邸宅を改修して住しており、信長はそこへ出仕した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 桶狭間の戦いから清洲同盟へ ===&lt;br /&gt;
1560（永禄3）年5月、[[今川義元]]が尾張国へ侵攻。[[駿河国|駿河]]・[[遠江国|遠江]]の本国に加え[[三河国|三河]]を分国として支配する今川氏の軍勢は、2万人以上の大軍であった。兵力で劣る織田軍は苦戦を強いられた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
永禄3年（[[1560年]]）5月19日午後1時頃、信長は[[幸若舞]]『[[敦盛 (幸若舞)|敦盛]]』を舞った後&amp;lt;ref name=&amp;quot;atsumori&amp;quot;&amp;gt;'''幸若舞'''の敦盛は口伝で伝えられていたために、長らく節回しや詳細な振り付けが不明となっていた。そのため、映像作品などでは'''謡曲'''の敦盛で代用されていた。しかし、近年になって幸若舞の敦盛も復刻されている。（詳細は[[敦盛 (幸若舞)]]を参照）&amp;lt;/ref&amp;gt;、昆布と勝ち栗を前に置き、立ったまま[[湯漬け]]（出陣前に、米飯に熱めの湯をかけて食べるのが武士の慣わし）を食べ、出陣した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
信長はまず[[熱田神宮]]に参拝。その後、[[善照寺砦]]で2000人の軍勢を整えて出撃。今川軍の陣中に強襲をかけ今川氏の前当主で隠居の義元を討ち取った。総大将を失った今川軍は、当主・氏真の命で本国駿河国に退却した（'''桶狭間の戦い'''）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
桶狭間の戦いの後、今川氏は三河の松平氏の離反等により、急激に衰退した。これを機に、信長は徳川家康（この頃、松平元康より改名）と手を結ぶことになる。それまで織田家と松平家は敵対関係にあり、幾度も戦っていたが、信長は美濃国の[[斎藤氏]]攻略のため、家康も駿河国の[[今川氏真]]らに対抗する必要があった為、こちらの利害関係を優先させたものと思われる。両者は永禄5年（[[1562年]]）、同盟を結んで互いに背後を固めた（'''清洲同盟'''）。この同盟は信長死後まで維持された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 美濃攻略と天下布武 ===&lt;br /&gt;
斎藤道三亡き後、信長と斎藤氏との関係は険悪なものとなっていた。桶狭間の戦いと前後して両者の攻防は一進一退の様相を呈していた。しかし、永禄4年（[[1561年]]）に斎藤義龍が急死し、嫡男・[[斎藤龍興]]が後を継ぐと、信長は美濃に出兵し勝利（[[森部の戦い]]）。織田家は優位に立ち、斎藤氏は家中で分裂が始まる。永禄7年（[[1564年]]）には北[[近江国]]の[[浅井長政]]と同盟を結び、斎藤氏への牽制を強化している。その際、信長は妹・[[お市の方|お市]]を輿入れさせた。一方で、信長は永禄8年（[[1565年]]）より[[滝川一益]]の援軍依頼により伊勢方面にも進出し、[[神戸具盛 (7代目当主)|神戸具盛]]など当地の諸氏とも戦っている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
永禄9年（[[1564年]]から[[1565年]]）、[[竹中重治]]と[[安藤守就]]が[[岐阜城]]を占拠後、[[加治田城]]主の[[佐藤忠能]]を味方にして[[中濃]]の諸城を手に入れ（[[中濃攻略戦]]）、さらに[[西美濃三人衆]]（[[稲葉良通]]・[[氏家直元]]・[[安藤守就]]）などを味方につけた信長は、ついに永禄10年（[[1567年]]）、斎藤龍興を[[伊勢国|伊勢]][[長島町 (三重県)|長島]]に敗走させ、尾張・美濃の2ヶ国を領する大名になった（[[稲葉山城の戦い]]）。ときに信長33歳。このとき、井ノ口を[[岐阜市|岐阜]]と改称している&amp;lt;ref&amp;gt;出典：『[[信長公記]]』&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
同年11月には僧・沢彦から与えられた印文「'''天下布武'''」の朱印を信長は使用しはじめており&amp;lt;ref&amp;gt;林屋辰三郎『天下一統』中公文庫、105頁&amp;lt;/ref&amp;gt;、本格的に[[天下統一]]を目指すようになったとみられる。11月9日、[[正親町天皇]]は信長を「古今無双の名将」を褒めつつ、[[御料所]]の回復・[[誠仁親王]]の元服費用の拠出を求めたが、&amp;lt;ref&amp;gt;前者は[[綸旨]]、後者は[[女房奉書]]によって伝えられた。なお、天皇・朝廷のこうした動きは各地の大名に対して行われており、この時点では正親町天皇はさほど信長を特別視していたわけではなかったと思われる。[[藤井譲治]]「天皇と天下人」より&amp;lt;/ref&amp;gt;、信長は丁重に「まずもって心得存じ候」と返答したのみであった&amp;lt;ref&amp;gt;[[藤井譲治]]「天皇と天下人」より&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===1568（永禄11）年===&lt;br /&gt;
==== 上洛 ====&lt;br /&gt;
中央では、永禄8年（[[1565年]]）、かねて[[京都|京]]を中心に[[畿内]]で権勢を誇っていた[[三好氏]]の有力者[[三好三人衆]]（[[三好長逸]]・[[三好政康]]・[[岩成友通]]）と[[松永久秀]]が、幕府権力の復活を目指して三好氏と対立を深めていた将軍･足利義輝を暗殺し、第14代将軍として義輝の従弟・[[足利義栄]]を傀儡として擁立する（[[永禄の変]]）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
久秀らはさらに義輝の弟で僧籍にあった一乗院覚慶（[[足利義昭]]）の暗殺も謀ったが、義昭は[[一色藤長]]・[[和田惟政]]ら幕臣の支援を受けて奈良から脱出し、[[越前国]]の[[朝倉義景]]のもとに身を寄せていた。しかし、義景が三好氏追討の動きを見せなかったため、永禄11年（[[1568年]]）7月には美濃国の信長へ接近を図ってきた。信長は義昭の三好氏追討要請を応諾した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
====武田氏との外交====&lt;br /&gt;
美濃国において領国を接する[[甲斐国]]の[[武田信玄]]とは信玄の四男・諏訪勝頼（[[武田勝頼]]）に養女（[[遠山夫人]]）を娶らせることで同盟を結んだが、遠山夫人は永禄10年（1567年）11月、[[武田信勝]]を出産した直後に早世したため、同年末には信長の嫡男・信忠と信玄の六女・[[信松尼|松姫]]との婚姻を模索し友好的関係を持続させるなど、周囲の勢力と同盟を結んで国内外を固めた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 足利義昭上洛の警護 ====&lt;br /&gt;
永禄11年（1568年）9月、信長は他国侵攻の大義名分として将軍家嫡流の足利義昭を奉戴し、[[上洛]]を開始した。これに対して抵抗した南近江の[[六角義賢]]・[[六角義治|義治]]父子は織田軍の猛攻を受け、[[観音寺城]]が落城する（[[観音寺城の戦い]]）。六角父子は[[甲賀郡]]に後退、以降はゲリラ戦を展開した&amp;lt;ref&amp;gt;ただし、[[六角氏]]嫡流は別にあり、嫡流の[[六角義秀]]・[[六角義郷]]は信長に庇護されたとする異説もある。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
信長が上洛すると、[[三好長慶]]死後の内輪揉めにより崩壊しつつあった[[三好義継]]・松永久秀らは信長の実力を悟って臣従し、三好三人衆に属した他の勢力の多くは[[阿波国]]へ逃亡する。唯一抵抗していた[[池田勝正]]も信長に降伏した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
足利義昭を第15代将軍に擁立した信長は、[[和泉国|和泉]]一国の恩賞だけを賜り尾張へ帰国。この時、信長は義昭から管領・斯波家の家督継承もしくは管領代・[[副将軍]]の地位等を勧められたが、桐紋と斯波家並の礼遇だけを賜り遠慮したとされる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===1569（永禄12）年===&lt;br /&gt;
1月、信長率いる織田軍主力が美濃国に帰還した隙を突いて、三好三人衆と斎藤龍興ら浪人衆が共謀し、足利義昭の[[御所]]である[[六条通|六条]][[本圀寺]]を攻撃した（[[六条合戦]]）。しかし、信長は豪雪の中をわずか2日で援軍に駆けつけるという機動力を見せた&amp;lt;ref&amp;gt;信長公記によれば、当時、岐阜から[[京都]]までは3日はかかったという。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
もっとも、浅井長政や池田勝正の援軍と[[明智光秀]]の奮戦により、三好・斎藤軍は信長の到着を待たず敗退していた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1月10日には三好軍と共同して決起した[[高槻城]]の[[入江春景]]を攻めた。春景は降伏したが、信長は再度の離反を許さず処刑し、和田惟政を高槻に入城させ、[[摂津国]]を守護・池田勝正を筆頭とし[[伊丹氏]]と惟政の3人に統治させた（[[摂津三守護]]）。同日、信長は三好三人衆に協力していた[[堺]]に2万貫の矢銭と服属を要求し、支払わせた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 伊勢侵攻 ====&lt;br /&gt;
同時期に[[伊勢国]]への侵攻も大詰めを迎える。伊勢は南朝以来の[[国司]]である[[北畠氏]]が最大勢力を誇っていたが、まず永禄11年（[[1568年]]）北伊勢の神戸具盛と講和し、三男の[[織田信孝]]を[[神戸氏]]の養子として送り込んだ。更に[[北畠具教]]の次男・[[長野具藤]]を内応により追放し、弟・[[織田信包]]を長野家当主とした。そして翌・永禄12年（[[1569年]]）8月20日、滝川一益の調略によって具教の実弟・[[木造具政]]が信長側に転じると、信長はその日の内に岐阜を出陣し南伊勢に進攻、北畠家の[[大河内城]]を大軍を率いて包囲、篭城戦の末10月3日に和睦し、次男・[[織田信雄]]を養嗣子として送り込んだ。後に北畠具教は幽閉され、[[天正]]4年（[[1576年]]）に信雄により殺害される。こうして信長は、養子戦略により北伊勢攻略を終える。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 第一次信長包囲網 ====&lt;br /&gt;
信長は足利義昭の将軍としての権力を制限するため、『[[殿中御掟]]』9ヶ条の掟書、のちには追加7ヶ条を発令し、これを義昭に認めさせた。これによって義昭と信長の対立は決定的なものになったわけではなく、両者はお互いを利用し合う関係であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
3月、正親町天皇から「信長を副将軍に任命したい」という意向が伝えられたが、信長は何の返答もせず、事実上無視した&amp;lt;ref&amp;gt;藤井譲治「天皇と天下人」より&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===1570（[[元亀]]1）年===&lt;br /&gt;
4月、信長は度重なる上洛命令を無視する朝倉義景を討伐するため、[[浅井氏]]との盟約を反故にし、盟友の徳川家康の軍勢とともに越前国へ進軍。織田・徳川連合軍は[[朝倉氏]]の諸城を次々と攻略していくが、[[金ヶ崎城|金ヶ崎]]で浅井氏離反の報告を受ける。挟撃される危機に陥った織田・徳川連合軍はただちに撤退を開始し、[[殿 (軍事用語)|殿]]を務めた池田勝正・[[明智光秀]]・[[豊臣秀吉|木下秀吉]]らの働きもあり、京に逃れた（[[金ヶ崎の戦い]]）。信長は先頭に立って真っ先に撤退し、僅か10名の共と一緒に京に到着したという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
同年6月、信長は浅井氏を討つべく、近江国[[姉川]]河原で徳川軍とともに浅井・朝倉連合軍と対峙。並行して浅井方の横山城を陥落させつつ、織田・徳川連合軍は勝利した（'''[[姉川の戦い]]'''）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
8月、信長は摂津国で挙兵した三好三人衆を討つべく出陣するが、その隙をついて石山本願寺が信長に対して挙兵した（[[野田城・福島城の戦い]]）。しかも、織田軍本隊が摂津国に対陣している間に軍勢を立て直した浅井・朝倉・延暦寺などの連合軍3万が近江国・[[坂本 (大津市)|坂本]]に侵攻する。織田軍は劣勢の中、重臣・森可成と信長の実弟・[[織田信治]]を喪った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
9月23日未明、信長は本隊を率いて摂津国から近江国へと帰還。慌てた浅井・朝倉連合軍は比叡山に立て籠もって抵抗した。信長はこれを受け、近江国・[[宇佐山城]]において浅井・朝倉連合軍と対峙する（[[志賀の陣]]）。しかし、その間に石山本願寺の[[法主]]・[[顕如]]の命を受けた伊勢の門徒が一揆を起こし（[[長島一向一揆]]）、信長の実弟・[[織田信興]]を自害に追い込んだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
11月21日、信長は六角義賢・義治父子と和睦し、ついで阿波から来た[[篠原長房]]と講和した&amp;lt;ref&amp;gt;林屋辰三郎『天下一統』中公文庫、143頁&amp;lt;/ref&amp;gt;。さらに足利義昭に朝倉氏との和睦の調停を依頼し、義昭は関白[[二条晴良]]に調停を要請した。そして正親町天皇に奏聞して[[勅命]]を仰ぎ、12月13日、勅命をもって浅井氏・朝倉氏との和睦に成功&amp;lt;ref&amp;gt;[[大久保忠教]]の記した『[[三河物語]]』によると、このとき信長は義景に対し「天下は朝倉殿が持ち給え。我は二度と望み無し」とまで言ったという。&amp;lt;/ref&amp;gt;。窮地を脱した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===1571（元亀2）年===&lt;br /&gt;
==== 第二次信長包囲網 ====&lt;br /&gt;
信長は朝倉・浅井に味方した延暦寺を攻めた（'''[[比叡山焼き討ち (1571年)|比叡山焼き討ち]]'''）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一方この頃、甲斐国の武田信玄が信長への事前通告なしに徳川領へ侵攻&amp;lt;ref&amp;gt;近年では元亀2年の信玄による三河侵攻は根拠となる文書群の年代比定の誤りが指摘され、これは勝頼期の天正3年の出来事であった可能性も考えられている（鴨川達夫『武田信玄と勝頼』（岩波新書、2009）、柴裕之「戦国大名武田氏の遠江・三河侵攻再考」『武田氏研究』第37号、2007）。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===1572（元亀3）年===&lt;br /&gt;
石山本願寺が信長と和睦したものの、三好義継・松永久秀らが共謀して信長に謀反を起こした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
7月、信長は近江に出陣（[[虎御前山の戦い]]）。嫡男・奇妙丸（後の[[織田信忠]]）の[[初陣]]でもあった。戦況は織田軍有利に展開し、8月には朝倉義景に不満を抱いていた朝倉軍の[[前波吉継]]・[[富田長繁]]・[[毛屋猪介]]・[[戸田与次郞]]らが信長に寝返った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
9月、信長は足利義昭に対して17条の意見書を提出。信長と義昭の関係は決定的に悪化した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
11月、武田氏の秋山虎繁（信友）が、東美濃の[[岩村城]]を攻めたが、織田軍に敗退し、岩村城近辺の城はみな織田のものとなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
徳川領においては徳川軍が[[一言坂の戦い]]で武田軍に大敗し、さらに遠江国の要である[[二俣城]]が開城・降伏により不利な戦況となる（[[二俣城の戦い]]）。これに対して信長は、家康に佐久間信盛・[[平手汎秀]]ら3,000人の援軍を送ったが、12月の'''[[三方ヶ原の戦い]]'''で織田・徳川連合軍は武田軍に敗退。汎秀が討死した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===1573（元亀4、天正1）年===&lt;br /&gt;
武田軍は三河に侵攻し、2月に[[野田城 (三河国)|野田城]]を攻略した（[[野田城の戦い]]）。これに呼応して京の足利義昭が信長に対して挙兵したため、信長は岐阜から京都に向かって進軍した。信長が京都に着陣すると幕臣であった[[細川幽斎|細川藤孝]]や[[荒木村重]]らは義昭を見限り信長についた。信長は上京を焼打ちして義昭に脅しをかけてから義昭と和睦しようとした。義昭は初めこれを拒否していたが、正親町天皇からの勅命が出され、4月5日に義昭と信長はこれを受け入れて和睦した。4月12日、武田信玄は病死し、武田軍は甲斐国へ帰国した&amp;lt;ref&amp;gt;元亀年間に行われた武田氏の遠江・三河への侵攻や信長との対立は「[[西上作戦]]」と通称され、信玄は上洛を目指していたされてきたが、近年ではその実態や意図に疑問が呈されている（鴨川達夫『武田信玄と勝頼』（岩波新書、2007年）、柴裕之「戦国大名武田氏の遠江・三河侵攻再考」『武田氏研究』第37号、2007、柴辻俊六「武田信玄の上洛戦略と織田信長」『武田氏研究』第40号、2009　など&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
7月には再び抵抗の意思を示した足利義昭が[[二条城|二条御所]]や山城守護所（[[槇島城]]）に立て籠もったが、信長は義昭を破り追放し、これをもって室町幕府の勢力は京都から消滅した&amp;lt;ref&amp;gt;室町幕府の滅亡により、[[室町将軍]]は天皇王権を擁し、京都を中心とする周辺領域を支配し地方の諸大名を従属下におき紛争などを調停する「[[天下]]」主催者たる地位を喪失。信長が「天下」主催者としての地位を継承し、以降は諸大名を従属・統制下におく立場であったことが指摘されている（[[神田千里]]「織田政権の支配の論理に関する一考察」『東洋大学文学部紀要』2002、同『戦国乱世を生きる力』中央公論社、2002）。&amp;lt;/ref&amp;gt;。加えて7月28日には[[元号]]を元亀から[[天正]]へと改めることを[[朝廷]]に奏上し、これを実現させた&amp;lt;ref&amp;gt;ただし、朝廷では既に元亀3年の段階で改元を決定しており、同年3月29日には信長と義昭の下に使者を送っている（『御湯殿上日記』）。だが、義昭は改元に消極的であり、信長の17か条の詰問状でも批判の1つに挙げられている。信長は改元を支持することで、消極的な態度を見せる義昭排除の正当性を得るとともに、朝廷の望む改元を実現させることによって自己を室町幕府に代わる武家政権のトップとして朝廷に認めさせたとする評価がある（[[神田裕理]]「織豊期の改元」『戦国・織豊期の朝廷と公家社会』校倉書房、2011年）。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
8月、信長は細川藤孝に命じて、[[淀古城|淀城]]に立て籠もる三好三人衆の一人・[[岩成友通]]を討伐した（第二次淀古城の戦い）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
同月、信長は3万人の軍勢を率いて越前国に侵攻。[[一乗谷城の戦い#刀根坂の戦い|刀根坂の戦い]]で朝倉軍を破り、朝倉義景は自刃した。9月、[[小谷城]]を攻略して浅井氏に勝利し、[[浅井久政]]・長政父子は自害し、長政の母・[[小野殿]]（阿古御料人）の指を一日一本ずつ切り落とした上で殺害した（執行を担当したのは秀吉であり、処刑方法が信長本人の意向か秀吉のものであるかは不明である）。なお、長政に嫁いでいた妹・お市らは落城前に落ち延びて信長が引き取った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
9月24日、信長は尾張・美濃・伊勢の軍勢を中心とした3万人の軍勢を率いて、伊勢長島に行軍した。織田軍は滝川一益らの活躍で半月ほどの間に長島周辺の敵城を次々と落とした。しかし撤退戦で[[林通政#林通政 (新次郎)|林通政]]が討死した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
11月、[[河内国]]の三好義継が足利義昭に同調して反乱を起こした。信長は佐久間信盛を総大将とした軍勢を河内国に送り込む。しかし、信長の実力を怖れた義継の家老・[[若江三人衆]]らによる裏切りで義継は11月16日に自害し、三好氏もここに滅亡した。12月26日、[[大和国]]の松永久秀も[[多聞山城]]を明け渡し、信長に降伏した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===1574（天正2）年===&lt;br /&gt;
==== 長島一向一揆の制圧 ====&lt;br /&gt;
1月、越前で[[地侍]]と[[本願寺]][[門徒]]による反乱が起こり、守護代の[[前波吉継|桂田長俊]]が殺された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ほぼ同時期、武田勝頼が東美濃の[[明知城]]に侵攻。信長は迎撃に向かったが、到着前に明知城が落城。信長は撤退した。城の位置関係からして、この時は岩村城が武田方に同心していたようである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
3月、信長は上洛して[[従三位]][[参議]]に叙任された。このとき、信長は[[正親町天皇]]に対して「[[蘭奢待]]の切り取り」を奏請し、[[天皇]]はこれを[[勅命]]をもって了承した&amp;lt;ref&amp;gt;これは、信長が正親町天皇と密接な関係にあるということを諸国に知らしめるためであったといわれているがこれを契機に、信長の実力が[[朝廷]]からも認められていることを知った諸[[大名]]、特に[[奥州]]からは信長に対して誼を通じる使者が増えたと言われている。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
7月、信長は数万人の大軍で伊勢の[[長島一向一揆]]を殲滅、伊勢を完全に平定した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===1575（天正3）年===&lt;br /&gt;
3月、荒木村重が[[大和田城]]を占領したのをきっかけに、織田信長は石山本願寺・[[高屋城]]周辺に10万兵の大軍で攻撃し、三好康長を降伏させた（[[高屋城の戦い]]）。高屋城を含む河内国の城は[[破城]]となり、[[松井友閑]]と三好康長の仲介のもと石山本願寺と一時的な和睦が成立した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 長篠の戦い ====&lt;br /&gt;
1575（天正3）年4月、三河・長篠城の[[奥平信昌|奥平貞昌]]が武田から徳川に寝返った。武田勝頼はこれを討つため、15000人の軍勢で[[長篠城]]に攻め寄せたが、織田・徳川連合軍38000人に大敗（'''[[長篠の戦い]]'''）。武田軍に圧勝する&amp;lt;ref&amp;gt;この戦いで武田氏の大軍から長篠城を防衛した奥平貞昌は、信長より[[偏諱]]を賜り信昌と改名している。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
6月27日、[[相国寺]]に上洛した信長は天台宗と真言宗の争論の事を知り、公家の中から5人の奉行を任命して問題の解決に当たらせた（[[絹衣相論]]を参照）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
7月3日、正親町天皇は信長に官位を与えようとしたが、信長はこれを受けず、家臣たちに官位や姓を与えてくれるよう申し出た。天皇はこれを認め、信長の申し出通りに、松井友閑に宮内卿法印、武井夕庵に二位法印、明智光秀に惟任日向守、[[簗田広正]]に別喜右近、塙直政に原田備中守、丹羽長秀に惟住、の官位と姓を与えた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 越前侵攻 ====&lt;br /&gt;
この頃、前年に信長から越前国を任されていた守護代・桂田長俊を殺害して越前国を奪った本願寺門徒では、内部分裂が起こっていた。門徒達は天正3年（1575年）1月、桂田長俊殺害に協力した富田長繁ら地侍も罰し、越前国を[[一揆]]の持ちたる国とした。顕如の命で守護代として[[下間頼照]]が派遣されるが、前領主以上の悪政を敷いたため、一揆の内部分裂が進んでいた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これを好機と見た信長は長篠の戦いが終わった直後の8月、越前国に行軍した。内部分裂していた一揆衆は協力して迎撃することができず、下間頼照や[[朝倉景健]]らを始め、12,250人を数える越前国・[[加賀国]]の門徒が織田軍によって討伐された&amp;lt;ref&amp;gt;このとき、信長は[[村井貞勝]]に対して、越前府中の凄惨なありさまを書状で「府中は死骸ばかりにて一円空き所無く候 見せたく候」と書き記している。&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;このとき従軍した[[前田利家]]の所業を記した石版も残っている。「一揆おこり そのまま前田又左衛門殿一揆千人ばかり生け捕りさせ候なり 御成敗は はっつけ 釜煎られ あぶられ候 かくのごとくに候 一筆書きとめ候」。&amp;lt;/ref&amp;gt;。越前国は再び織田領となり、信長は国掟を出した上で、越前八郡を柴田勝家に与えた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 右近衛大将就任および安土城築城====&lt;br /&gt;
11月4日、信長は[[権大納言]]に叙任される、また、11月7日にはさらに[[近衛大将|右近衛大将]]（征夷大将軍に匹敵する官職で武家では武門の棟梁のみに許される）に叙任する。信長はこの就任にあたり、御所にて公卿を集め、室町将軍家の将軍就任式（[[陣座]]）の儀礼を挙行させた。以後、信長のよび名は「上様」となり将軍と同等とみなされた（足利義昭は近衛大将への昇進を望むも未だ近衛中将のままであったので内裏の近衛府の庁舎内では信長が上司ということになる）。同日、嫡子の信忠は[[秋田城介]]（[[鎮守府将軍]]になるための前官）に、次男の信雄は左近衛中将に叙任している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
11月28日、信長は1週間前に東美濃の要・岩村城を陥落させた嫡男・信忠に一大名家としての織田家の家督ならびに美濃・尾張などの織田家の領国（織田直割領）を譲った。しかし、引き続き信長は織田政権の政治・全軍を総括する立場にあった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===1576（天正4年）===&lt;br /&gt;
1月、信長自身の指揮のもと[[琵琶湖]]湖岸に[[安土城]]の築城を開始する&amp;lt;ref&amp;gt;「安土」という地名は信長が命名したとも（「細川家記」）、元々あった地名だとも言われる。&amp;lt;/ref&amp;gt;。安土城は天正7年（[[1579年]]）に五層七重の豪華絢爛な城として完成した。[[天守]]内部は吹き抜けとなっていたと言われている。[[イエズス会]]の[[宣教師]]は「その構造と堅固さ、財宝と華麗さにおいて、それら（城内の邸宅も含めている）はヨーロッパの最も壮大な城に比肩しうるものである」と母国に驚嘆の手紙を送っている。信長は[[岐阜城]]を信忠に譲り、完成した安土城に移り住んだ。信長はここを拠点に[[天下統一]]に邁進することとなる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 第三次信長包囲網 ====&lt;br /&gt;
天正4年（1576年）1月、信長に誼を通じていた[[丹波国]]の[[波多野秀治]]が叛旗を翻した。さらに石山本願寺も再挙兵するなど、再び反信長の動きが強まり始める。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
信長は4月、明智光秀・荒木村重・[[塙直政]]を大将とした3万人の軍勢を[[大坂]]に派遣し、砦を構築させた。このうち塙が伏兵の襲撃に遭って大敗を喫し、直政を始め1,000人以上が戦死した。織田軍は本願寺軍の攻勢に窮し[[天王寺]]砦に立て籠もるが、本願寺軍はこれを包囲し、天王寺で織田軍は窮地に陥った。5月5日、信長は若江城に入り動員令を出したが、集まったのは3,000人ほどであった。5月7日早朝、その軍勢を率いて自ら先頭に立ち、天王寺砦を包囲する本願寺軍1万5,000人に攻め入り、信長自身も銃撃され負傷する激戦となった。信長自らの出陣で士気が高揚した織田軍は、光秀率いる天王寺砦の軍勢7,000人との連携に成功。本願寺軍を挟撃し、これを撃破した（[[天王寺砦の戦い]]）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その後、織田軍は石山本願寺を水陸から包囲し兵糧攻めにした。ところが7月13日、石山本願寺の援軍に現れた[[毛利水軍]]800隻の前に、織田水軍は敗れ、毛利軍により石山本願寺に[[兵糧]]・[[弾薬]]が運び込まれた（[[第一次木津川口の戦い]]）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この頃、越後守護で[[関東管領]]の上杉輝虎（[[上杉謙信]]）と信長との関係は悪化し&amp;lt;ref&amp;gt;信長は武田信玄の要請で武田と上杉謙信との和睦を仲介していたが（甲越和与）、[[元亀]]3年（[[1572年]]）10月信玄は信長への事前通告なしに織田・徳川氏領へ侵攻し、信長と武田氏は手切となり、上杉氏との共闘をもちかけている。謙信はこれに応じているが積極的に連携することはなく、武田氏で勝頼への当主交代が起こると和睦をもちかけている。&amp;lt;/ref&amp;gt;、謙信は天正4年（1576年）に石山本願寺と和睦し、信長との対立を明らかにした。謙信を盟主として、毛利輝元・石山本願寺・波多野秀治・[[紀伊国|紀州]][[雑賀衆]]などが反信長に同調し結託した。このような事情の中、11月21日に信長は正三位・内大臣に昇進している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===1577（天正5）年===&lt;br /&gt;
2月、信長は、雑賀衆を討伐するために大軍を率いて出陣（[[紀州征伐#信長の紀州攻め|紀州攻め]]）するが、毛利水軍による背後援助や上杉軍の[[能登国]]侵攻などもあったため、3月に入ると雑賀衆の頭領・[[鈴木孫一]]らを降伏させ&amp;lt;ref&amp;gt;本願寺攻めに協力する誓紙を出させたが、人質の提供は無かった&amp;lt;/ref&amp;gt;、形式的な和睦を行ない、紀伊国から撤兵した。この頃、北陸戦線では織田軍の柴田勝家が、[[加賀国]]の[[手取川]]を越えて焼き討ちを行っている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
大和国の松永久秀がまたも信長を裏切り挙兵すると、信長は織田信忠を[[総大将]]とした大軍を[[信貴山城]]に派遣し、10月に松永を討ち取った（[[信貴山城の戦い]]）。久秀を討った10月、信長に抵抗していた[[亀山城 (丹波国)|丹波亀山城]]の[[内藤定政]]（丹波守護代）が病死する。織田軍はこの機を逃さず亀山城・[[籾井城]]・[[笹山城]]などの丹波国の諸城を攻略。同年、姉妹の[[お犬の方]]を丹波守護で[[管領]]を世襲する細川京兆家当主・[[細川信良|細川昭元]]の正室とすることに成功し丹波を掌握した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
11月、能登・加賀北部を攻略した上杉軍が加賀南部へ侵攻&amp;lt;ref&amp;gt;織田軍は手取川において1,000人余が討死し渡河の際にも多数の行方不明者を出した（[[手取川の戦い]]）というが、戦果を喧伝した謙信の書状以外に史料がなく、戦いが起こったかどうかは不明である。&amp;lt;/ref&amp;gt;。その結果、加賀南部は上杉家の領国に組み込まれ、北陸では上杉側が優位に立った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
11月20日、正親町天皇は信長を従二位・右大臣に昇進させた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===1578（天正6）年===&lt;br /&gt;
1月にはさらに正二位に位を上げている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
3月13日、上杉謙信が急死。謙信には実子がなく、後継者を定めなかったため、[[養子]]の[[上杉景勝]]と[[上杉景虎]]が後継ぎ争いを始めた（[[御館の乱]]）。この好機を活かし信長は[[斎藤利治]]を総大将に、[[飛騨国]]から[[越中国]]に侵攻（[[月岡野の戦い]]）、上杉軍に勝利し優位に立った。その後、柴田勝家軍が上杉領の能登・加賀を攻略、越中国にも侵攻する勢いを見せた。かくしてまたも信長包囲網は崩壊した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 織田方面軍団の編成 ====&lt;br /&gt;
天正期に入ると、同時多方面に勢力を伸ばせるだけの兵力と財力が織田氏に具わっていた。信長は部下の武将に[[大名]]級の[[所領]]を与え、自由度の高い統治をさせ、周辺の攻略に当たらせた。研究者の間では、これら信長配下の新設大名を「[[軍団]]」「[[方面軍]]」と呼称し&amp;lt;ref&amp;gt;無論当時にはそのような名称は無かった。&amp;lt;/ref&amp;gt;、または信長軍・信長機動隊ともいう&amp;lt;ref name=&amp;quot;hujiki40&amp;quot;&amp;gt;藤木久志「天下統一と朝鮮侵略」講談社学術文庫、40頁&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
尾張の兵を弓衆・鉄砲衆・馬廻衆・小姓衆・小身衆など機動性を持った直属の軍団に編成し、天正4年（1576年）にはこれらを安土に結集させた&amp;lt;ref name=&amp;quot;hujiki40&amp;quot;/&amp;gt;。既に織田家には直属の指揮班である宿老衆や先手衆などがおり、これらと新編成軍との連携などを訓練した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
上杉景勝に対しては柴田勝家・[[前田利家]]・[[佐々成政]]らを、武田勝頼に対しては滝川一益・織田信忠らを、波多野秀治に対しては明智光秀・細川藤孝らを、毛利輝元に対しては羽柴秀吉を、石山本願寺に対しては佐久間信盛を配備した。&lt;br /&gt;
* 美濃・尾張・飛騨の抑え・[[織田信忠]]・[[斎藤利治]]・[[姉小路頼綱]]&lt;br /&gt;
* 対武田方面・[[滝川一益]]・[[織田信忠]]軍団（天正元年結成）&lt;br /&gt;
* 対本願寺方面・[[佐久間信盛]]軍団（天正4年結成 - 天正8年消滅）&lt;br /&gt;
* 北陸方面・[[柴田勝家]]軍団（天正4年昇格）&lt;br /&gt;
* 近畿方面・[[明智光秀]]軍団（天正8年昇格）&lt;br /&gt;
* 山陰・山陽方面・[[羽柴秀吉]]軍団（天正8年昇格）&lt;br /&gt;
* 関東方面・滝川一益軍団（天正10年結成）&lt;br /&gt;
* 四国方面・[[織田信孝]]・[[津田信澄]]・[[丹羽長秀]]・[[蜂屋頼隆]]軍団（天正10年結成）&lt;br /&gt;
* 東海道の抑え・[[徳川家康]]（形式的には同盟国であり織田軍団の一部ではない）&lt;br /&gt;
* 伊勢・伊賀方面の抑え・[[織田信雄]]・[[織田信包]]&lt;br /&gt;
*（紀伊方面の抑え・[[織田信張]]）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===1578（天正6年）===&lt;br /&gt;
====中国侵攻====&lt;br /&gt;
3月、[[播磨国]]の[[別所長治]]の謀反（[[三木合戦]]）が起こる、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
4月、突如として信長は右大臣・右近衛大将を辞職した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
7月、毛利軍が[[上月城]]を攻略し、信長の命により放置された[[山中幸盛]]ら[[尼子氏]]再興軍は処刑される（[[上月城の戦い]]）。10月には摂津国の荒木村重が[[有岡城]]に籠って信長から離反し（[[有岡城の戦い]]）、足利義昭・毛利氏・本願寺と手を結んで信長に抵抗する。一方、村重の[[与力]]であり東摂津に所領を持つ[[中川清秀]]・[[高山右近]]は村重にはつかなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
11月6日、信長は九鬼嘉隆の考案した[[鉄甲船]]を採用、6隻を建造し毛利水軍を撃破（[[第二次木津川口の戦い]]）。これにより石山本願寺と荒木は毛利軍の援助を受けられず孤立し、この頃から織田軍は優位に立つ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===1579（天正7）年===&lt;br /&gt;
夏までに波多野秀治を降伏させ、処刑。同年9月、荒木村重が妻子を置き去りにして逃亡すると有岡城は落城し、荒木一族は処刑された。次いで10月、それまで毛利方であった[[備前国]]の[[宇喜多直家]]が服属すると、織田軍と毛利軍の優劣は完全に逆転する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
11月、信長は織田家の京屋敷・[[二条城#織田信長・誠仁親王の「二条新御所」|二条新御所]]を、[[皇太子]]である[[誠仁親王]]に進上した。同時に、信長は誠仁親王の五男・[[邦慶親王]]を[[猶子]]として、この邦慶親王も二条新御所に移っている&amp;lt;ref&amp;gt;「多聞院日記」より。なお多聞院日記によると、信長が御所を進上した相手は誠仁親王ではなく、猶子の邦慶親王の方だったようである。（藤井譲治『天皇と天下人』より）&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この年、信長は徳川家康の嫡男・[[松平信康]]に対し切腹を命じたとされる。表向きの理由は信康の12か条の乱行、築山殿の武田氏への内通などである。徳川家臣団は信長恭順派と反信長派に分かれて激しい議論を繰り広げたが、最終的に家康は築山殿を殺害し、信康に切腹させた（ただし、これに関しては、家康・信康父子の対立が原因で、信長は娘婿信康の処断について家康から了承を求められただけだとする説もある。詳細は[[松平信康#信康自刃事件について]]を参照）。また伊勢国の出城構築を[[伊賀国]]の[[国人]]に妨害されて立腹した織田信雄が、独断で伊賀国に侵攻し大敗を喫した。信長は信雄を厳しく叱責した（[[伊賀流#天正伊賀の乱|第一次天正伊賀の乱]]）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===1580（天正8）年===&lt;br /&gt;
1月、別所長治が切腹し、三木城が開城。4月には正親町天皇の勅命のもと本願寺軍も織田軍に有利な条件を呑んで和睦し、大坂から退去した。同年には播磨国、[[但馬国]]をも攻略した。8月、信長は[[譜代]]の老臣・佐久間信盛とその嫡男・[[佐久間信栄]]に対して折檻状を送り付け、本願寺との戦に係る不手際などを理由に、高野山への追放か討ち死に覚悟で働くかを迫った。佐久間親子は高野山行きを選んだ。さらに、古参の林秀貞と[[安藤守就]]も、かつてあった謀反の企てや一族が敵と内通したことなどを蒸し返して、これを理由に追放した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===1581（天正9）年===&lt;br /&gt;
[[鳥取城]]を兵糧攻めで落とし[[因幡国]]を攻略、さらには[[岩屋城]]を落として[[淡路国]]を攻略した。同年、信雄を総大将とする4万人の軍勢が伊賀国を攻略。伊賀国は織田氏の領地となった（第二次天正伊賀の乱）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 京都御馬揃え～左大臣推任 ====&lt;br /&gt;
天正9年（1581年）、信長は絶頂期にあった。2月28日には京都の[[内裏]]東の馬場にて大々的なデモンストレーションを行なっている。いわゆる[[京都御馬揃え]]であるが、これには信長はじめ織田一門のほか、[[丹羽長秀]]ら織田軍団の武威を示すものであった&amp;lt;ref&amp;gt;「貴賎群衆の輩 かかるめでたき御代に生まれ合わせ …（中略）… あり難き次第にて上古 末代の見物なり」（[[信長公記]]）&amp;lt;/ref&amp;gt;。このときの馬揃えには正親町天皇を招待している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
3月7日、天皇は信長を左大臣に推任。9日にこの意向が信長に伝えられ、信長は「正親町天皇が譲位し、誠仁親王が即位した際にお受けしたい」と返答した。朝廷はこの件について話し合い、信長に朝廷の意向が伝えられた。24日、信長からの返事が届き、朝廷はこれに満足した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし4月1日、信長は突然「今年は[[金神]]の年なので譲位には不都合」と言い出した。譲位と信長の左大臣就任は延期されることになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 高野山包囲 ====&lt;br /&gt;
[[高野山]]が[[荒木村重]]の残党を匿ったり、足利義昭と通じるなど、信長と敵対する動きを見せる。『信長公記』によれば、信長は使者十数人を差し向けたが、高野山が使者を全て殺害した。一方、『高野春秋』では荒木村重探索の松井友閑の兵32名が高野山の領民に乱暴狼藉を働いたために高野山側がこれを殺害したと記している。いずれにしても、この行動に激怒した信長は、織田領における[[高野聖]]数百人を捕らえる（高野聖は[[諜報活動]]を行っていたともいう）と共に、[[河内国]]や[[大和国]]の諸大名に命じて高野山を包囲させた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
5月に越中国を守っていた上杉氏の武将・[[河田長親]]が急死した隙を突いて織田軍は越中に侵攻、同国の過半を支配下に置いた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
3月23日には[[高天神城]]を奪回し、武田氏を追い詰めた。紀州では雑賀党が内部分裂し、信長支持派の鈴木孫一が反信長派の[[土橋平次]]らと争うなどして勢力を減退させた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===1582（天正10）年===&lt;br /&gt;
==== 武田征伐 ====&lt;br /&gt;
長篠合戦の敗退後、武田勝頼は越後上杉氏との[[甲越同盟]]の締結や[[新府城]]築城などで領国再建を図る一方、人質であった[[織田勝長]]（信房）を返還することで信長との和睦（甲江和与）を模索したが進まず、新府城築城のための普請増大などで却って国人衆には不満が増大していた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2月1日、武田信玄の娘婿であった[[木曾義昌]]が信長に寝返る。2月3日に信長は武田領国への本格的侵攻を行うための大動員令を信忠に発令。駿河国から家康、相模国から[[北条氏直]]、[[飛騨国]]から[[金森長近]]、[[木曽地域|木曽]]から織田信忠が、それぞれ武田領攻略を開始した。信忠軍は軍監・[[滝川一益]]と信忠の譜代衆となる河尻秀隆・[[森長可]]・[[毛利秀頼|毛利長秀]]等で構成され、この連合軍の兵数は10万人余に上った。武田軍は、[[伊那城]]の城兵が城将・[[下条信氏]]を追い出して織田軍に降伏。さらに[[信濃国]]の[[松尾城 (信濃国伊那郡)|松尾城]]主・[[小笠原信嶺]]、[[江尻城]]主・[[穴山信君]]らも先を争うように連合軍に降伏し、武田軍は組織的な抵抗が出来ず済し崩し的に敗北する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
信忠軍は猛烈な勢いで武田領に侵攻し武田側の城を次々に占領していき、信長が武田征伐に出陣した3月8日に信忠は武田領国の本拠である[[甲府]]を占領し、3月11日には甲斐都留郡の田野において滝川一益が武田勝頼・信勝父子を討ち取り、ここに武田氏は滅亡した&amp;lt;ref&amp;gt;俗説ではあるが、最後の武田攻めの際、明智光秀が「ここまで来られて、我々も骨を負った甲斐があった」と語ったところ、信長の逆鱗に触れ、光秀は欄干に頭を打ち付けられたともいわれている。&amp;lt;/ref&amp;gt;。また駿河国を徳川家康に、[[上野国]]を滝川一益に与え、旧武田領の監督を命じ、甲斐国を河尻秀隆、北信濃を森長可、南信濃を毛利長秀に与え一益の与力に付けて、北条氏直への抑えとしつつも同盟関係を保った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 三職推任 ====&lt;br /&gt;
4月、正親町天皇は信長を太政大臣・関白・征夷大将軍のいずれかに任じたいという意向を示し、5月に信長に伝えられた（[[三職推任問題]]）。しかし信長は使者に対して何も返答しないままだった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 本能寺の変 ====&lt;br /&gt;
信長は[[四国]]の[[長宗我部元親]]攻略に向け、三男の神戸信孝、重臣の丹羽長秀・[[蜂屋頼隆]]・[[津田信澄]]の軍団を派遣する準備を進めていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また北陸方面では柴田勝家が富山城、魚津城を攻撃（[[魚津城の戦い]]）。上杉氏は北の[[新発田重家の乱]]に加え、北信濃方面から森長可、上野方面から滝川一益の進攻を受け、東西南北の全方面で守勢に立たされていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
5月15日、駿河国加増の礼と武田征伐の戦勝祝いのため、徳川家康が安土城を訪れた。そこで信長は明智光秀に接待役を命じる。光秀は15日から17日にわたって家康を手厚くもてなした。家康接待が続く中、信長は[[備中高松城]]攻めを行なっている羽柴秀吉の使者より援軍の依頼を受けた。信長は光秀の接待役の任を解き、秀吉への援軍に向かうよう命じた。後世、『[[明智軍記]]』などによって[[江戸時代]]以降流布される俗説では、この時、光秀の接待内容に不満を覚えた信長は[[小姓]]の[[森成利]]（蘭丸）に命じて光秀の頭をはたかせた、としている&amp;lt;ref&amp;gt;この時の[[献立]]は「天正十年安土御献立」『[[続群書類従]]』に記録されているが、この時の献立は前年の家康接待（饗応役は不明）の際の献立（「御献立集」）のと比べて遜色の無い点が指摘される（[[江後迪子]]『信長のおもてなし』2007）&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
5月29日、信長は[[中国地方|中国]]遠征の出兵準備のために上洛し、[[本能寺]]に逗留していた。ところが、秀吉への援軍を命じていたはずの明智軍が突然京都に進軍し、[[6月2日 (旧暦)|6月2日]]に本能寺を襲撃。この際に光秀は、標的が信長であることを伏せていたことが[[本城惣右衛門覚書]]から判明している。100人ほどの手勢しか率いていなかった信長は、自ら弓・[[槍]]を手に奮闘した。しかし圧倒的多数の明智軍には敵わず、居間に戻った信長は自ら火を放ち、燃え盛る炎の中で自害したという。[[享年]]49（満48歳没）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
光秀の娘婿・[[明智秀満]]が信長の遺体を探したが見つからず、現在まで全く確認されていない。なお、最後まで信長に付き従っていた者の中に[[黒人]]の家来・[[弥助]]がいた。弥助は、光秀に捕らえられたものの後に放免となっている。それ以降、弥助の動向については不明である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[平成]]19年（[[2007年]]）に行われた本能寺跡の発掘調査では、本能寺の変と同時期にあったとされる堀跡や大量の焼け瓦が発見された。これにより、城塞としての機能や謀反に備えていた可能性が指摘されており、現在も調査が続いている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==人物像==&lt;br /&gt;
「怒りっぽかった」という記録ははっきり言って当てにならない。中世の記録はたいがいこうやって脚色してあるものだからである。考えてみたまえ。庶民が法を犯すたびに怒る統治者など存在するわけがない。まあ短気ではあっただろう。即断即決でなければ生きていけない世の中だったのだから。しかし判断が早いというのと、感情が動き易いということとは全く違う。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==アホ学者の通説を斬る！==&lt;br /&gt;
立花京子&lt;br /&gt;
*『天皇は武力によって君臨しているわけではないから、武力による脅しは無意味』（by「黄金太閤」）&lt;br /&gt;
**？？？天皇が何の正当性をもって君臨しているかという事と、天皇に武力による脅しが通じるかという事に、いったい何の関係があるんだ？天皇だって人の子だ。刀をつきつけて「譲位しろ」と脅せば、ビビって「はい」と言ってしまうことだってあるだろう。過去に毒殺された親王だっている。もし「信長が天皇から武力を奪おうとした」という事実があって、それへの反論としてこう言うなら分かるのだが。どうもこのへんの歴史学者というのはいまだに天皇を崇拝しているようで困る。&lt;br /&gt;
**まあ馬揃えはどうでもいいんだけどね。ちなみに天皇が馬揃えを見たがったのは、自分の方が信長より上位であるという関係を民衆に見せたかったから。それ以外にあるわけないじゃんｗ　天皇の言葉をそのまま受け取ってしまうようじゃあ政治は語れないのである。&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Minagoroshida</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%B9%94%E7%94%B0%E4%BF%A1%E9%95%B7&amp;diff=155615</id>
		<title>織田信長</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%B9%94%E7%94%B0%E4%BF%A1%E9%95%B7&amp;diff=155615"/>
				<updated>2012-03-25T18:45:42Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Minagoroshida: /* 右近衛大将就任および安土城築城 */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''織田 信長'''（おだ のぶなが）は、[[日本]]の[[戦国時代]]の人物。戦争と混乱に満ちた16世紀の日本を統一へと導いた。日本の政治上・軍事上最大の天才とも言われる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==概要==&lt;br /&gt;
平安時代、朝廷の軍事力の著しい低下によって日本全国の治安が非常に悪化したため、庶民は武装して身を守った。このために延々と内乱が続き、国は乱れに乱れていた。この戦乱を終わらせる終わらせる事業の大変を行ったのが織田信長である。彼は日本全国を統治する前に死んでしまったものの、実質的には彼が戦乱を終わらせたと言える。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==信長の計画==&lt;br /&gt;
まずは地盤を固める&lt;br /&gt;
↓&lt;br /&gt;
幕府あるいは朝廷という既存の権威を利用し、また隠れ蓑にもしつつ改革を行う&lt;br /&gt;
↓&lt;br /&gt;
自身の権威がそれらを越え次第、自身を神格化し、名実ともに日本の頂点に立つ&lt;br /&gt;
↓&lt;br /&gt;
余剰の軍事力は海外に向ける&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 生涯 ==&lt;br /&gt;
&amp;lt;small&amp;gt;※日付は[[和暦]]による[[旧暦]]。[[西暦]]表記の部分は[[ユリウス暦]]とする。&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 少年期 ===&lt;br /&gt;
[[天文 (元号)|天文]]3年（[[1534年]]）5月12日、[[尾張国]]の[[戦国大名]]・[[織田信秀]]の[[嫡男]]として、[[那古野城]]&amp;lt;ref&amp;gt;『[[国史大辞典 (昭和時代)|国史大辞典]]』　織田信長の項目　[[吉川弘文館]]。一般的には那古野城生まれを定説とするが、織田信秀の那古野城奪取をめぐって異説も存在する。&amp;lt;/ref&amp;gt;（現在の[[名古屋市]][[中区 (名古屋市)|中区]]）（[[勝幡城]]説もある&amp;lt;ref&amp;gt;『[[尾州古城志]]』&amp;lt;/ref&amp;gt;）で生誕。幼名は'''吉法師'''。なお、信長の生まれた「織田弾正忠家」は、尾張国の[[守護大名]]・[[斯波氏]]の[[被官]]で下四郡（海東郡・海西郡・愛知郡・知多郡）の[[守護代]]に補任された織田大和守家（清洲織田家）の家臣にして分家であり、[[清洲三奉行]]・古渡城主という家柄であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
母・[[土田御前]]が信秀の[[正室]]であったため嫡男となり、2歳にして那古野城主となる。幼少から青年時にかけて奇妙な行動が多く、周囲から'''尾張の大うつけ'''と称されていた。日本へ伝わった[[種子島銃]]に関心を持った挿話などが知られる。また、身分にこだわらず、民と同じように町の若者とも戯れていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
まだ世子であった頃、表面的に家臣としての立場を守り潜在的な緊張関係を保ってきた主筋の「織田大和守家」の支配する[[清洲城]]下に数騎で火を放つなど、父・信秀も寝耳に水の行動をとり、豪胆さを早くから見せた。また、[[今川氏]]へ人質として護送される途中で[[松平氏]]家中の[[戸田康光]]の裏切りにより[[織田氏]]に護送されてきた松平竹千代（後の[[徳川家康]]）と幼少期を共に過ごし、後に両者は固い盟約関係を結ぶこととなる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
天文15年（[[1546年]]）、[[古渡城]]にて[[元服]]し、'''上総介信長'''と称する。天文17年（[[1548年]]）、父・信秀と敵対していた[[美濃国]]の[[戦国大名]]・[[斎藤道三]]との和睦が成立すると、道三の娘・[[濃姫]]と政略結婚した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
天文18年（[[1549年]]）（異説では天文22年（[[1553年]]））に信長は[[聖徳寺 (名古屋市)|正徳寺]]で道三と会見し、その際に道三はうつけ者と呼ばれていた信長の器量を見抜いたとの逸話がある。また同年には、近江の[[国友|国友村]]に火縄銃500丁を注文したという&amp;lt;ref&amp;gt;「国友鉄砲記」より。正徳寺での会見には、兵に鉄砲500丁を持たせていったと「信長公記」にあり、これが国友村から購入した鉄砲だという可能性もある。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
天文20年（[[1551年]]）、父・信秀が没した為、家督を継ぐ&amp;lt;ref&amp;gt;信秀の葬儀において祭壇に[[抹香]]を投げつけたというエピソードが残っている。このような行為におよんだ理由は、うつけ者を装うため、葬儀を政治的に利用した信勝への抗議など諸説あるが、いずれも推測の域を出ていない。後年の創作という意見もあるが、1次史料である信長公記にまで書かれているため、全くの創作とは考えにくい。&amp;lt;/ref&amp;gt;。天文22年（[[1553年]]）、信長の教育係であった[[平手政秀]]が自害。これは諌死であったとも、息子・五郎右衛門と信長の確執のためともされる。信長は嘆き悲しみ、師匠の[[沢彦]]和尚を開山として[[政秀寺]]を建立し、政秀の霊を弔った。天文23年（[[1554年]]）には、[[村木砦の戦い]]で今川勢を破っている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 家督争いから尾張統一・上洛 ===&lt;br /&gt;
当時、尾張国は[[今川氏]]の尾張侵攻により[[守護]]の[[斯波氏]]の力が衰え、尾張下四郡を支配した[[守護代]]であった「織田大和守家」当主で[[清洲城]]主の[[織田信友]]が実権を掌握していた。信長の父・信秀はその信友に仕える三奉行の一人に過ぎなかったにも関わらず、その智勇をもって尾張中西部に支配権を拡大した。信秀の死後、信長が跡を継ぐと、信友は信長の弟・[[織田信行]]（信勝）の家督相続を支持して信長と敵対し、信長謀殺計画を企てるが、信友により傀儡にされていた[[守護]]・[[斯波義統]]が、計画を信長に密告した。これに激怒した織田信友は斯波義統の嫡子・[[斯波義銀|義銀]]が手勢を率いて川狩に出た隙に義統を殺害する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
斯波義銀が落ち延びてくると、信長は叔父の[[守山城 (尾張国)|守山城]]主・[[織田信光]]と協力し、信友を主君を殺した謀反人として殺害する。こうして「織田大和守家」は滅び、信長は那古野城から清洲城へ本拠を移し、尾張国の[[守護所]]を手中に収めた。これにより、織田氏の[[庶家]]の生まれであった信長が名実共に織田氏の頭領となった。なお信光も死亡しているが、死因は不明である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[弘治 (日本)|弘治]]2年（[[1556年]]）4月、義父・斎藤道三が子の[[斎藤義龍]]との戦いに敗れて戦死（[[長良川の戦い]]）。信長は道三救援のため、木曽川を越え美濃の大浦まで出陣するも、道三を討ち取り勢いに乗った義龍軍に苦戦し、道三敗死の知らせにより退却した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
こうした中、信長の当主としての器量を疑問視した重臣の[[林秀貞]]（通勝）・[[林通具]]・[[柴田勝家]]らは、信長を廃して聡明で知られた弟・信勝（信行）を擁立しようとした。これに対して信長には[[森可成]]・[[佐久間盛重]]・[[佐久間信盛]]らが味方し、両派は対立する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
道三の死去を好機と見た信勝派は、同年[[8月24日]]に挙兵して戦うも敗北（[[稲生の戦い]]）。その後、[[末盛城]]に籠もった信勝を包囲するが、生母・土田御前の仲介により、信勝・勝家らを赦免した。更に同年中に庶兄の信広も斎藤義龍と結んで清洲城の簒奪を企てたが、これは事前に情報を掴んだ為に未遂に終わり、信広は程なくして降伏し、赦免されている。しかし、弘治3年（[[1557年]]）に信勝は再び謀反を企てる。この時、稲生の戦いの後より信長に通じていた柴田勝家の密告があり、事態を悟った信長は病と称して信勝を清洲城に誘い出し殺害した。直接手を下したのは[[河尻秀隆]]とされている&amp;lt;ref&amp;gt;信長公記では、河尻と青貝という2人の家臣が、フロイス日本史では信長が直接殺したことになっている。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
さらに信長は、同族の[[犬山城]]主・[[織田信清]]と協力し、旧主「織田大和守家」の宿敵で織田一門の[[宗家]]であった尾張上四郡（丹羽郡・葉栗郡・中島郡・春日井郡）の守護代「織田伊勢守家」（岩倉織田家）の[[岩倉城 (尾張国)|岩倉城]]主・[[織田信賢]]を破って（[[浮野の戦い]]）これを追放。新たに守護として擁立した斯波義銀が斯波一族の[[石橋氏]]・[[吉良氏]]と通じて信長の追放を画策していることが発覚すると、義銀を尾張から追放した。こうして、[[永禄]]2年（[[1559年]]）までには尾張国の支配権を確立し、信長は尾張の国主となった。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
永禄2年（[[1559年]]）2月2日、信長は100名ほどの軍勢を引き連れて[[上洛]]し、[[室町幕府]]13代[[征夷大将軍|将軍]]・[[足利義輝]]に謁見した。当時、義輝は尾張守護・斯波家（武衛家）の邸宅を改修して住しており、信長はそこへ出仕した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 桶狭間の戦いから清洲同盟へ ===&lt;br /&gt;
1560（永禄3）年5月、[[今川義元]]が尾張国へ侵攻。[[駿河国|駿河]]・[[遠江国|遠江]]の本国に加え[[三河国|三河]]を分国として支配する今川氏の軍勢は、2万人以上の大軍であった。兵力で劣る織田軍は苦戦を強いられた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
永禄3年（[[1560年]]）5月19日午後1時頃、信長は[[幸若舞]]『[[敦盛 (幸若舞)|敦盛]]』を舞った後&amp;lt;ref name=&amp;quot;atsumori&amp;quot;&amp;gt;'''幸若舞'''の敦盛は口伝で伝えられていたために、長らく節回しや詳細な振り付けが不明となっていた。そのため、映像作品などでは'''謡曲'''の敦盛で代用されていた。しかし、近年になって幸若舞の敦盛も復刻されている。（詳細は[[敦盛 (幸若舞)]]を参照）&amp;lt;/ref&amp;gt;、昆布と勝ち栗を前に置き、立ったまま[[湯漬け]]（出陣前に、米飯に熱めの湯をかけて食べるのが武士の慣わし）を食べ、出陣した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
信長はまず[[熱田神宮]]に参拝。その後、[[善照寺砦]]で2000人の軍勢を整えて出撃。今川軍の陣中に強襲をかけ今川氏の前当主で隠居の義元を討ち取った。総大将を失った今川軍は、当主・氏真の命で本国駿河国に退却した（'''桶狭間の戦い'''）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
桶狭間の戦いの後、今川氏は三河の松平氏の離反等により、急激に衰退した。これを機に、信長は徳川家康（この頃、松平元康より改名）と手を結ぶことになる。それまで織田家と松平家は敵対関係にあり、幾度も戦っていたが、信長は美濃国の[[斎藤氏]]攻略のため、家康も駿河国の[[今川氏真]]らに対抗する必要があった為、こちらの利害関係を優先させたものと思われる。両者は永禄5年（[[1562年]]）、同盟を結んで互いに背後を固めた（'''清洲同盟'''）。この同盟は信長死後まで維持された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 美濃攻略と天下布武 ===&lt;br /&gt;
斎藤道三亡き後、信長と斎藤氏との関係は険悪なものとなっていた。桶狭間の戦いと前後して両者の攻防は一進一退の様相を呈していた。しかし、永禄4年（[[1561年]]）に斎藤義龍が急死し、嫡男・[[斎藤龍興]]が後を継ぐと、信長は美濃に出兵し勝利（[[森部の戦い]]）。織田家は優位に立ち、斎藤氏は家中で分裂が始まる。永禄7年（[[1564年]]）には北[[近江国]]の[[浅井長政]]と同盟を結び、斎藤氏への牽制を強化している。その際、信長は妹・[[お市の方|お市]]を輿入れさせた。一方で、信長は永禄8年（[[1565年]]）より[[滝川一益]]の援軍依頼により伊勢方面にも進出し、[[神戸具盛 (7代目当主)|神戸具盛]]など当地の諸氏とも戦っている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
永禄9年（[[1564年]]から[[1565年]]）、[[竹中重治]]と[[安藤守就]]が[[岐阜城]]を占拠後、[[加治田城]]主の[[佐藤忠能]]を味方にして[[中濃]]の諸城を手に入れ（[[中濃攻略戦]]）、さらに[[西美濃三人衆]]（[[稲葉良通]]・[[氏家直元]]・[[安藤守就]]）などを味方につけた信長は、ついに永禄10年（[[1567年]]）、斎藤龍興を[[伊勢国|伊勢]][[長島町 (三重県)|長島]]に敗走させ、尾張・美濃の2ヶ国を領する大名になった（[[稲葉山城の戦い]]）。ときに信長33歳。このとき、井ノ口を[[岐阜市|岐阜]]と改称している&amp;lt;ref&amp;gt;出典：『[[信長公記]]』&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
同年11月には僧・沢彦から与えられた印文「'''天下布武'''」の朱印を信長は使用しはじめており&amp;lt;ref&amp;gt;林屋辰三郎『天下一統』中公文庫、105頁&amp;lt;/ref&amp;gt;、本格的に[[天下統一]]を目指すようになったとみられる。11月9日、[[正親町天皇]]は信長を「古今無双の名将」を褒めつつ、[[御料所]]の回復・[[誠仁親王]]の元服費用の拠出を求めたが、&amp;lt;ref&amp;gt;前者は[[綸旨]]、後者は[[女房奉書]]によって伝えられた。なお、天皇・朝廷のこうした動きは各地の大名に対して行われており、この時点では正親町天皇はさほど信長を特別視していたわけではなかったと思われる。[[藤井譲治]]「天皇と天下人」より&amp;lt;/ref&amp;gt;、信長は丁重に「まずもって心得存じ候」と返答したのみであった&amp;lt;ref&amp;gt;[[藤井譲治]]「天皇と天下人」より&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 上洛 ===&lt;br /&gt;
====中央幕府の情勢====&lt;br /&gt;
中央では、永禄8年（[[1565年]]）、かねて[[京都|京]]を中心に[[畿内]]で権勢を誇っていた[[三好氏]]の有力者[[三好三人衆]]（[[三好長逸]]・[[三好政康]]・[[岩成友通]]）と[[松永久秀]]が、幕府権力の復活を目指して三好氏と対立を深めていた将軍･足利義輝を暗殺し、第14代将軍として義輝の従弟・[[足利義栄]]を傀儡として擁立する（[[永禄の変]]）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
久秀らはさらに義輝の弟で僧籍にあった一乗院覚慶（[[足利義昭]]）の暗殺も謀ったが、義昭は[[一色藤長]]・[[和田惟政]]ら幕臣の支援を受けて奈良から脱出し、[[越前国]]の[[朝倉義景]]のもとに身を寄せていた。しかし、義景が三好氏追討の動きを見せなかったため、永禄11年（[[1568年]]）7月には美濃国の信長へ接近を図ってきた。信長は義昭の三好氏追討要請を応諾した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
====武田氏との外交====&lt;br /&gt;
美濃国において領国を接する[[甲斐国]]の[[武田信玄]]とは信玄の四男・諏訪勝頼（[[武田勝頼]]）に養女（[[遠山夫人]]）を娶らせることで同盟を結んだが、遠山夫人は永禄10年（1567年）11月、[[武田信勝]]を出産した直後に早世したため、同年末には信長の嫡男・信忠と信玄の六女・[[信松尼|松姫]]との婚姻を模索し友好的関係を持続させるなど、周囲の勢力と同盟を結んで国内外を固めた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 足利義昭上洛の警護 ====&lt;br /&gt;
永禄11年（1568年）9月、信長は他国侵攻の大義名分として将軍家嫡流の足利義昭を奉戴し、[[上洛]]を開始した。これに対して抵抗した南近江の[[六角義賢]]・[[六角義治|義治]]父子は織田軍の猛攻を受け、[[観音寺城]]が落城する（[[観音寺城の戦い]]）。六角父子は[[甲賀郡]]に後退、以降はゲリラ戦を展開した&amp;lt;ref&amp;gt;ただし、[[六角氏]]嫡流は別にあり、嫡流の[[六角義秀]]・[[六角義郷]]は信長に庇護されたとする異説もある。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
信長が上洛すると、[[三好長慶]]死後の内輪揉めにより崩壊しつつあった[[三好義継]]・松永久秀らは信長の実力を悟って臣従し、三好三人衆に属した他の勢力の多くは[[阿波国]]へ逃亡する。唯一抵抗していた[[池田勝正]]も信長に降伏した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
足利義昭を第15代将軍に擁立した信長は、[[和泉国|和泉]]一国の恩賞だけを賜り尾張へ帰国。この時、信長は義昭から管領・斯波家の家督継承もしくは管領代・[[副将軍]]の地位等を勧められたが、桐紋と斯波家並の礼遇だけを賜り遠慮したとされる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
永禄12年（[[1569年]]）1月、信長率いる織田軍主力が美濃国に帰還した隙を突いて、三好三人衆と斎藤龍興ら浪人衆が共謀し、足利義昭の[[御所]]である[[六条通|六条]][[本圀寺]]を攻撃した（[[六条合戦]]）。しかし、信長は豪雪の中をわずか2日で援軍に駆けつけるという機動力を見せた&amp;lt;ref&amp;gt;信長公記によれば、当時、岐阜から[[京都]]までは3日はかかったという。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
もっとも、浅井長政や池田勝正の援軍と[[明智光秀]]の奮戦により、三好・斎藤軍は信長の到着を待たず敗退していた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1月10日には三好軍と共同して決起した[[高槻城]]の[[入江春景]]を攻めた。春景は降伏したが、信長は再度の離反を許さず処刑し、和田惟政を高槻に入城させ、[[摂津国]]を守護・池田勝正を筆頭とし[[伊丹氏]]と惟政の3人に統治させた（[[摂津三守護]]）。同日、信長は三好三人衆に協力していた[[堺]]に2万貫の矢銭と服属を要求し、支払わせた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 伊勢侵攻 ===&lt;br /&gt;
同時期に[[伊勢国]]への侵攻も大詰めを迎える。伊勢は南朝以来の[[国司]]である[[北畠氏]]が最大勢力を誇っていたが、まず永禄11年（[[1568年]]）北伊勢の神戸具盛と講和し、三男の[[織田信孝]]を[[神戸氏]]の養子として送り込んだ。更に[[北畠具教]]の次男・[[長野具藤]]を内応により追放し、弟・[[織田信包]]を長野家当主とした。そして翌・永禄12年（[[1569年]]）8月20日、滝川一益の調略によって具教の実弟・[[木造具政]]が信長側に転じると、信長はその日の内に岐阜を出陣し南伊勢に進攻、北畠家の[[大河内城]]を大軍を率いて包囲、篭城戦の末10月3日に和睦し、次男・[[織田信雄]]を養嗣子として送り込んだ。後に北畠具教は幽閉され、[[天正]]4年（[[1576年]]）に信雄により殺害される。こうして信長は、養子戦略により北伊勢攻略を終える。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 第一次信長包囲網 ===&lt;br /&gt;
永禄12年（1569年）、信長は足利義昭の将軍としての権力を制限するため、『[[殿中御掟]]』9ヶ条の掟書、のちには追加7ヶ条を発令し、これを義昭に認めさせた。これによって義昭と信長の対立は決定的なものになったわけではなく、両者はお互いを利用し合う関係であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
3月、正親町天皇から「信長を副将軍に任命したい」という意向が伝えられたが、信長は何の返答もせず、事実上無視した&amp;lt;ref&amp;gt;藤井譲治「天皇と天下人」より&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[元亀]]元年（[[1570年]]）4月、信長は度重なる上洛命令を無視する朝倉義景を討伐するため、[[浅井氏]]との盟約を反故にし、盟友の徳川家康の軍勢とともに越前国へ進軍。織田・徳川連合軍は[[朝倉氏]]の諸城を次々と攻略していくが、[[金ヶ崎城|金ヶ崎]]で浅井氏離反の報告を受ける。挟撃される危機に陥った織田・徳川連合軍はただちに撤退を開始し、[[殿 (軍事用語)|殿]]を務めた池田勝正・[[明智光秀]]・[[豊臣秀吉|木下秀吉]]らの働きもあり、京に逃れた（[[金ヶ崎の戦い]]）。信長は先頭に立って真っ先に撤退し、僅か10名の共と一緒に京に到着したという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
同年6月、信長は浅井氏を討つべく、近江国[[姉川]]河原で徳川軍とともに浅井・朝倉連合軍と対峙。並行して浅井方の横山城を陥落させつつ、織田・徳川連合軍は勝利した（'''[[姉川の戦い]]'''）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
8月、信長は摂津国で挙兵した三好三人衆を討つべく出陣するが、その隙をついて石山本願寺が信長に対して挙兵した（[[野田城・福島城の戦い]]）。しかも、織田軍本隊が摂津国に対陣している間に軍勢を立て直した浅井・朝倉・延暦寺などの連合軍3万が近江国・[[坂本 (大津市)|坂本]]に侵攻する。織田軍は劣勢の中、重臣・森可成と信長の実弟・[[織田信治]]を喪った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
9月23日未明、信長は本隊を率いて摂津国から近江国へと帰還。慌てた浅井・朝倉連合軍は比叡山に立て籠もって抵抗した。信長はこれを受け、近江国・[[宇佐山城]]において浅井・朝倉連合軍と対峙する（[[志賀の陣]]）。しかし、その間に石山本願寺の[[法主]]・[[顕如]]の命を受けた伊勢の門徒が一揆を起こし（[[長島一向一揆]]）、信長の実弟・[[織田信興]]を自害に追い込んだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
11月21日、信長は六角義賢・義治父子と和睦し、ついで阿波から来た[[篠原長房]]と講和した&amp;lt;ref&amp;gt;林屋辰三郎『天下一統』中公文庫、143頁&amp;lt;/ref&amp;gt;。さらに足利義昭に朝倉氏との和睦の調停を依頼し、義昭は関白[[二条晴良]]に調停を要請した。そして正親町天皇に奏聞して[[勅命]]を仰ぎ、12月13日、勅命をもって浅井氏・朝倉氏との和睦に成功&amp;lt;ref&amp;gt;[[大久保忠教]]の記した『[[三河物語]]』によると、このとき信長は義景に対し「天下は朝倉殿が持ち給え。我は二度と望み無し」とまで言ったという。&amp;lt;/ref&amp;gt;。窮地を脱した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 第二次信長包囲網 ===&lt;br /&gt;
元亀2年（[[1571年]]）、信長は朝倉・浅井に味方した延暦寺を攻めた（'''[[比叡山焼き討ち (1571年)|比叡山焼き討ち]]'''）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一方この頃、甲斐国の武田信玄が信長への事前通告なしに徳川領へ侵攻&amp;lt;ref&amp;gt;近年では元亀2年の信玄による三河侵攻は根拠となる文書群の年代比定の誤りが指摘され、これは勝頼期の天正3年の出来事であった可能性も考えられている（鴨川達夫『武田信玄と勝頼』（岩波新書、2009）、柴裕之「戦国大名武田氏の遠江・三河侵攻再考」『武田氏研究』第37号、2007）。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
元亀3年（[[1572年]]）、石山本願寺が信長と和睦したものの、三好義継・松永久秀らが共謀して信長に謀反を起こした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
7月、信長は近江に出陣（[[虎御前山の戦い]]）。嫡男・奇妙丸（後の[[織田信忠]]）の[[初陣]]でもあった。戦況は織田軍有利に展開し、8月には朝倉義景に不満を抱いていた朝倉軍の[[前波吉継]]・[[富田長繁]]・[[毛屋猪介]]・[[戸田与次郞]]らが信長に寝返った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
9月、信長は足利義昭に対して17条の意見書を提出。信長と義昭の関係は決定的に悪化した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
11月、武田氏の秋山虎繁（信友）が、東美濃の[[岩村城]]を攻めたが、織田軍に敗退し、岩村城近辺の城はみな織田のものとなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
徳川領においては徳川軍が[[一言坂の戦い]]で武田軍に大敗し、さらに遠江国の要である[[二俣城]]が開城・降伏により不利な戦況となる（[[二俣城の戦い]]）。これに対して信長は、家康に佐久間信盛・[[平手汎秀]]ら3,000人の援軍を送ったが、12月の'''[[三方ヶ原の戦い]]'''で織田・徳川連合軍は武田軍に敗退。汎秀が討死した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1573（元亀4）年に入ると、武田軍は三河に侵攻し、2月に[[野田城 (三河国)|野田城]]を攻略した（[[野田城の戦い]]）。これに呼応して京の足利義昭が信長に対して挙兵したため、信長は岐阜から京都に向かって進軍した。信長が京都に着陣すると幕臣であった[[細川幽斎|細川藤孝]]や[[荒木村重]]らは義昭を見限り信長についた。信長は上京を焼打ちして義昭に脅しをかけてから義昭と和睦しようとした。義昭は初めこれを拒否していたが、正親町天皇からの勅命が出され、4月5日に義昭と信長はこれを受け入れて和睦した。4月12日、武田信玄は病死し、武田軍は甲斐国へ帰国した&amp;lt;ref&amp;gt;元亀年間に行われた武田氏の遠江・三河への侵攻や信長との対立は「[[西上作戦]]」と通称され、信玄は上洛を目指していたされてきたが、近年ではその実態や意図に疑問が呈されている（鴨川達夫『武田信玄と勝頼』（岩波新書、2007年）、柴裕之「戦国大名武田氏の遠江・三河侵攻再考」『武田氏研究』第37号、2007、柴辻俊六「武田信玄の上洛戦略と織田信長」『武田氏研究』第40号、2009　など&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
7月には再び抵抗の意思を示した足利義昭が[[二条城|二条御所]]や山城守護所（[[槇島城]]）に立て籠もったが、信長は義昭を破り追放し、これをもって室町幕府の勢力は京都から消滅した&amp;lt;ref&amp;gt;室町幕府の滅亡により、[[室町将軍]]は天皇王権を擁し、京都を中心とする周辺領域を支配し地方の諸大名を従属下におき紛争などを調停する「[[天下]]」主催者たる地位を喪失。信長が「天下」主催者としての地位を継承し、以降は諸大名を従属・統制下におく立場であったことが指摘されている（[[神田千里]]「織田政権の支配の論理に関する一考察」『東洋大学文学部紀要』2002、同『戦国乱世を生きる力』中央公論社、2002）。&amp;lt;/ref&amp;gt;。加えて7月28日には[[元号]]を元亀から[[天正]]へと改めることを[[朝廷]]に奏上し、これを実現させた&amp;lt;ref&amp;gt;ただし、朝廷では既に元亀3年の段階で改元を決定しており、同年3月29日には信長と義昭の下に使者を送っている（『御湯殿上日記』）。だが、義昭は改元に消極的であり、信長の17か条の詰問状でも批判の1つに挙げられている。信長は改元を支持することで、消極的な態度を見せる義昭排除の正当性を得るとともに、朝廷の望む改元を実現させることによって自己を室町幕府に代わる武家政権のトップとして朝廷に認めさせたとする評価がある（[[神田裕理]]「織豊期の改元」『戦国・織豊期の朝廷と公家社会』校倉書房、2011年）。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1573（天正1）年8月、信長は細川藤孝に命じて、[[淀古城|淀城]]に立て籠もる三好三人衆の一人・[[岩成友通]]を討伐した（第二次淀古城の戦い）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
同月、信長は3万人の軍勢を率いて越前国に侵攻。[[一乗谷城の戦い#刀根坂の戦い|刀根坂の戦い]]で朝倉軍を破り、朝倉義景は自刃した。9月、[[小谷城]]を攻略して浅井氏に勝利し、[[浅井久政]]・長政父子は自害し、長政の母・[[小野殿]]（阿古御料人）の指を一日一本ずつ切り落とした上で殺害した（執行を担当したのは秀吉であり、処刑方法が信長本人の意向か秀吉のものであるかは不明である）。なお、長政に嫁いでいた妹・お市らは落城前に落ち延びて信長が引き取った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
9月24日、信長は尾張・美濃・伊勢の軍勢を中心とした3万人の軍勢を率いて、伊勢長島に行軍した。織田軍は滝川一益らの活躍で半月ほどの間に長島周辺の敵城を次々と落とした。しかし撤退戦で[[林通政#林通政 (新次郎)|林通政]]が討死した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
11月、[[河内国]]の三好義継が足利義昭に同調して反乱を起こした。信長は佐久間信盛を総大将とした軍勢を河内国に送り込む。しかし、信長の実力を怖れた義継の家老・[[若江三人衆]]らによる裏切りで義継は11月16日に自害し、三好氏もここに滅亡した。12月26日、[[大和国]]の松永久秀も[[多聞山城]]を明け渡し、信長に降伏した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 長島一向一揆の制圧 ===&lt;br /&gt;
1574（天正2）年1月、越前で[[地侍]]と[[本願寺]][[門徒]]による反乱が起こり、守護代の[[前波吉継|桂田長俊]]が殺された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ほぼ同時期、武田勝頼が東美濃の[[明知城]]に侵攻。信長は迎撃に向かったが、到着前に明知城が落城。信長は撤退した。城の位置関係からして、この時は岩村城が武田方に同心していたようである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
3月、信長は上洛して[[従三位]][[参議]]に叙任された。このとき、信長は[[正親町天皇]]に対して「[[蘭奢待]]の切り取り」を奏請し、[[天皇]]はこれを[[勅命]]をもって了承した&amp;lt;ref&amp;gt;これは、信長が正親町天皇と密接な関係にあるということを諸国に知らしめるためであったといわれているがこれを契機に、信長の実力が[[朝廷]]からも認められていることを知った諸[[大名]]、特に[[奥州]]からは信長に対して誼を通じる使者が増えたと言われている。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
7月、信長は数万人の大軍で伊勢の[[長島一向一揆]]を殲滅、伊勢を完全に平定した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
翌天正3年（[[1575年]]）3月、荒木村重が[[大和田城]]を占領したのをきっかけに、織田信長は石山本願寺・[[高屋城]]周辺に10万兵の大軍で攻撃し、三好康長を降伏させた（[[高屋城の戦い]]）。高屋城を含む河内国の城は[[破城]]となり、[[松井友閑]]と三好康長の仲介のもと石山本願寺と一時的な和睦が成立した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 長篠の戦い ===&lt;br /&gt;
1575（天正3）年4月、三河・長篠城の[[奥平信昌|奥平貞昌]]が武田から徳川に寝返った。武田勝頼はこれを討つため、15000人の軍勢で[[長篠城]]に攻め寄せたが、織田・徳川連合軍38000人に大敗（'''[[長篠の戦い]]'''）。武田軍に圧勝する&amp;lt;ref&amp;gt;この戦いで武田氏の大軍から長篠城を防衛した奥平貞昌は、信長より[[偏諱]]を賜り信昌と改名している。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
6月27日、[[相国寺]]に上洛した信長は天台宗と真言宗の争論の事を知り、公家の中から5人の奉行を任命して問題の解決に当たらせた（[[絹衣相論]]を参照）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
7月3日、正親町天皇は信長に官位を与えようとしたが、信長はこれを受けず、家臣たちに官位や姓を与えてくれるよう申し出た。天皇はこれを認め、信長の申し出通りに、松井友閑に宮内卿法印、武井夕庵に二位法印、明智光秀に惟任日向守、[[簗田広正]]に別喜右近、塙直政に原田備中守、丹羽長秀に惟住、の官位と姓を与えた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 越前侵攻 ===&lt;br /&gt;
この頃、前年に信長から越前国を任されていた守護代・桂田長俊を殺害して越前国を奪った本願寺門徒では、内部分裂が起こっていた。門徒達は天正3年（1575年）1月、桂田長俊殺害に協力した富田長繁ら地侍も罰し、越前国を[[一揆]]の持ちたる国とした。顕如の命で守護代として[[下間頼照]]が派遣されるが、前領主以上の悪政を敷いたため、一揆の内部分裂が進んでいた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これを好機と見た信長は長篠の戦いが終わった直後の8月、越前国に行軍した。内部分裂していた一揆衆は協力して迎撃することができず、下間頼照や[[朝倉景健]]らを始め、12,250人を数える越前国・[[加賀国]]の門徒が織田軍によって討伐された&amp;lt;ref&amp;gt;このとき、信長は[[村井貞勝]]に対して、越前府中の凄惨なありさまを書状で「府中は死骸ばかりにて一円空き所無く候 見せたく候」と書き記している。&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;このとき従軍した[[前田利家]]の所業を記した石版も残っている。「一揆おこり そのまま前田又左衛門殿一揆千人ばかり生け捕りさせ候なり 御成敗は はっつけ 釜煎られ あぶられ候 かくのごとくに候 一筆書きとめ候」。&amp;lt;/ref&amp;gt;。越前国は再び織田領となり、信長は国掟を出した上で、越前八郡を柴田勝家に与えた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 右近衛大将就任および安土城築城===&lt;br /&gt;
1575（天正3）年11月4日、信長は[[権大納言]]に叙任される、また、11月7日にはさらに[[近衛大将|右近衛大将]]（征夷大将軍に匹敵する官職で武家では武門の棟梁のみに許される）に叙任する。信長はこの就任にあたり、御所にて公卿を集め、室町将軍家の将軍就任式（[[陣座]]）の儀礼を挙行させた。以後、信長のよび名は「上様」となり将軍と同等とみなされた（足利義昭は近衛大将への昇進を望むも未だ近衛中将のままであったので内裏の近衛府の庁舎内では信長が上司ということになる）。同日、嫡子の信忠は[[秋田城介]]（[[鎮守府将軍]]になるための前官）に、次男の信雄は左近衛中将に叙任している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
11月28日、信長は1週間前に東美濃の要・岩村城を陥落させた嫡男・信忠に一大名家としての織田家の家督ならびに美濃・尾張などの織田家の領国（織田直割領）を譲った。しかし、引き続き信長は織田政権の政治・全軍を総括する立場にあった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
天正4年（[[1576年]]）1月、信長自身の指揮のもと[[琵琶湖]]湖岸に[[安土城]]の築城を開始する&amp;lt;ref&amp;gt;「安土」という地名は信長が命名したとも（「細川家記」）、元々あった地名だとも言われる。&amp;lt;/ref&amp;gt;。安土城は天正7年（[[1579年]]）に五層七重の豪華絢爛な城として完成した。[[天守]]内部は吹き抜けとなっていたと言われている。[[イエズス会]]の[[宣教師]]は「その構造と堅固さ、財宝と華麗さにおいて、それら（城内の邸宅も含めている）はヨーロッパの最も壮大な城に比肩しうるものである」と母国に驚嘆の手紙を送っている。信長は[[岐阜城]]を信忠に譲り、完成した安土城に移り住んだ。信長はここを拠点に[[天下統一]]に邁進することとなる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 第三次信長包囲網 ===&lt;br /&gt;
{{Main|信長包囲網#第三次包囲網}}&lt;br /&gt;
天正4年（1576年）1月、信長に誼を通じていた[[丹波国]]の[[波多野秀治]]が叛旗を翻した。さらに石山本願寺も再挙兵するなど、再び反信長の動きが強まり始める。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
信長は4月、明智光秀・荒木村重・[[塙直政]]を大将とした3万人の軍勢を[[大坂]]に派遣し、砦を構築させた。このうち塙が伏兵の襲撃に遭って大敗を喫し、直政を始め1,000人以上が戦死した。織田軍は本願寺軍の攻勢に窮し[[天王寺]]砦に立て籠もるが、本願寺軍はこれを包囲し、天王寺で織田軍は窮地に陥った。5月5日、信長は若江城に入り動員令を出したが、集まったのは3,000人ほどであった。5月7日早朝、その軍勢を率いて自ら先頭に立ち、天王寺砦を包囲する本願寺軍1万5,000人に攻め入り、信長自身も銃撃され負傷する激戦となった。信長自らの出陣で士気が高揚した織田軍は、光秀率いる天王寺砦の軍勢7,000人との連携に成功。本願寺軍を挟撃し、これを撃破した（[[天王寺砦の戦い]]）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その後、織田軍は石山本願寺を水陸から包囲し兵糧攻めにした。ところが7月13日、石山本願寺の援軍に現れた[[毛利水軍]]800隻の前に、織田水軍は敗れ、毛利軍により石山本願寺に[[兵糧]]・[[弾薬]]が運び込まれた（[[第一次木津川口の戦い]]）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この頃、越後守護で[[関東管領]]の上杉輝虎（[[上杉謙信]]）と信長との関係は悪化し&amp;lt;ref&amp;gt;信長は武田信玄の要請で武田と上杉謙信との和睦を仲介していたが（甲越和与）、[[元亀]]3年（[[1572年]]）10月信玄は信長への事前通告なしに織田・徳川氏領へ侵攻し、信長と武田氏は手切となり、上杉氏との共闘をもちかけている。謙信はこれに応じているが積極的に連携することはなく、武田氏で勝頼への当主交代が起こると和睦をもちかけている。&amp;lt;/ref&amp;gt;、謙信は天正4年（1576年）に石山本願寺と和睦し、信長との対立を明らかにした。謙信を盟主として、毛利輝元・石山本願寺・波多野秀治・[[紀伊国|紀州]][[雑賀衆]]などが反信長に同調し結託した。このような事情の中、11月21日に信長は正三位・内大臣に昇進している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 織田右府 ===&lt;br /&gt;
天正5年（[[1577年]]）2月、信長は、雑賀衆を討伐するために大軍を率いて出陣（[[紀州征伐#信長の紀州攻め|紀州攻め]]）するが、毛利水軍による背後援助や上杉軍の[[能登国]]侵攻などもあったため、3月に入ると雑賀衆の頭領・[[鈴木孫一]]らを降伏させ&amp;lt;ref&amp;gt;本願寺攻めに協力する誓紙を出させたが、人質の提供は無かった&amp;lt;/ref&amp;gt;、形式的な和睦を行ない、紀伊国から撤兵した。この頃、北陸戦線では織田軍の柴田勝家が、[[加賀国]]の[[手取川]]を越えて焼き討ちを行っている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
大和国の松永久秀がまたも信長を裏切り挙兵すると、信長は織田信忠を[[総大将]]とした大軍を[[信貴山城]]に派遣し、10月に松永を討ち取った（[[信貴山城の戦い]]）。久秀を討った10月、信長に抵抗していた[[亀山城 (丹波国)|丹波亀山城]]の[[内藤定政]]（丹波守護代）が病死する。織田軍はこの機を逃さず亀山城・[[籾井城]]・[[笹山城]]などの丹波国の諸城を攻略。同年、姉妹の[[お犬の方]]を丹波守護で[[管領]]を世襲する細川京兆家当主・[[細川信良|細川昭元]]の正室とすることに成功し丹波を掌握した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
11月、能登・加賀北部を攻略した上杉軍が加賀南部へ侵攻&amp;lt;ref&amp;gt;織田軍は手取川において1,000人余が討死し渡河の際にも多数の行方不明者を出した（[[手取川の戦い]]）というが、戦果を喧伝した謙信の書状以外に史料がなく、戦いが起こったかどうかは不明である。&amp;lt;/ref&amp;gt;。その結果、加賀南部は上杉家の領国に組み込まれ、北陸では上杉側が優位に立った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
11月20日、正親町天皇は信長を従二位・右大臣に昇進させた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
天正6年（[[1578年]]）1月にはさらに正二位に位を上げている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
3月13日、上杉謙信が急死。謙信には実子がなく、後継者を定めなかったため、[[養子]]の[[上杉景勝]]と[[上杉景虎]]が後継ぎ争いを始めた（[[御館の乱]]）。この好機を活かし信長は[[斎藤利治]]を総大将に、[[飛騨国]]から[[越中国]]に侵攻（[[月岡野の戦い]]）、上杉軍に勝利し優位に立った。その後、柴田勝家軍が上杉領の能登・加賀を攻略、越中国にも侵攻する勢いを見せた。かくしてまたも信長包囲網は崩壊した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 織田方面軍団の編成 ===&lt;br /&gt;
天正期に入ると、同時多方面に勢力を伸ばせるだけの兵力と財力が織田氏に具わっていた。信長は部下の武将に[[大名]]級の[[所領]]を与え、自由度の高い統治をさせ、周辺の攻略に当たらせた。研究者の間では、これら信長配下の新設大名を「[[軍団]]」「[[方面軍]]」と呼称し&amp;lt;ref&amp;gt;無論当時にはそのような名称は無かった。&amp;lt;/ref&amp;gt;、または信長軍・信長機動隊ともいう&amp;lt;ref name=&amp;quot;hujiki40&amp;quot;&amp;gt;藤木久志「天下統一と朝鮮侵略」講談社学術文庫、40頁&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
尾張の兵を弓衆・鉄砲衆・馬廻衆・小姓衆・小身衆など機動性を持った直属の軍団に編成し、天正4年（1576年）にはこれらを安土に結集させた&amp;lt;ref name=&amp;quot;hujiki40&amp;quot;/&amp;gt;。既に織田家には直属の指揮班である宿老衆や先手衆などがおり、これらと新編成軍との連携などを訓練した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
上杉景勝に対しては柴田勝家・[[前田利家]]・[[佐々成政]]らを、武田勝頼に対しては滝川一益・織田信忠らを、波多野秀治に対しては明智光秀・細川藤孝らを、毛利輝元に対しては羽柴秀吉を、石山本願寺に対しては佐久間信盛を配備した。&lt;br /&gt;
* 美濃・尾張・飛騨の抑え・[[織田信忠]]・[[斎藤利治]]・[[姉小路頼綱]]&lt;br /&gt;
* 対武田方面・[[滝川一益]]・[[織田信忠]]軍団（天正元年結成）&lt;br /&gt;
* 対本願寺方面・[[佐久間信盛]]軍団（天正4年結成 - 天正8年消滅）&lt;br /&gt;
* 北陸方面・[[柴田勝家]]軍団（天正4年昇格）&lt;br /&gt;
* 近畿方面・[[明智光秀]]軍団（天正8年昇格）&lt;br /&gt;
* 山陰・山陽方面・[[羽柴秀吉]]軍団（天正8年昇格）&lt;br /&gt;
* 関東方面・滝川一益軍団（天正10年結成）&lt;br /&gt;
* 四国方面・[[織田信孝]]・[[津田信澄]]・[[丹羽長秀]]・[[蜂屋頼隆]]軍団（天正10年結成）&lt;br /&gt;
* 東海道の抑え・[[徳川家康]]（形式的には同盟国であり織田軍団の一部ではない）&lt;br /&gt;
* 伊勢・伊賀方面の抑え・[[織田信雄]]・[[織田信包]]&lt;br /&gt;
*（紀伊方面の抑え・[[織田信張]]）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===中国侵攻===&lt;br /&gt;
天正6年（[[1578年]]）3月、[[播磨国]]の[[別所長治]]の謀反（[[三木合戦]]）が起こる、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
4月、突如として信長は右大臣・右近衛大将を辞職した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
7月、毛利軍が[[上月城]]を攻略し、信長の命により放置された[[山中幸盛]]ら[[尼子氏]]再興軍は処刑される（[[上月城の戦い]]）。10月には摂津国の荒木村重が[[有岡城]]に籠って信長から離反し（[[有岡城の戦い]]）、足利義昭・毛利氏・本願寺と手を結んで信長に抵抗する。一方、村重の[[与力]]であり東摂津に所領を持つ[[中川清秀]]・[[高山右近]]は村重にはつかなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
同年11月6日、信長は九鬼嘉隆の考案した[[鉄甲船]]を採用、6隻を建造し毛利水軍を撃破（[[第二次木津川口の戦い]]）。これにより石山本願寺と荒木は毛利軍の援助を受けられず孤立し、この頃から織田軍は優位に立つ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
天正7年（[[1579年]]）夏までに波多野秀治を降伏させ、処刑。同年9月、荒木村重が妻子を置き去りにして逃亡すると有岡城は落城し、荒木一族は処刑された。次いで10月、それまで毛利方であった[[備前国]]の[[宇喜多直家]]が服属すると、織田軍と毛利軍の優劣は完全に逆転する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
11月、信長は織田家の京屋敷・[[二条城#織田信長・誠仁親王の「二条新御所」|二条新御所]]を、[[皇太子]]である[[誠仁親王]]に進上した。同時に、信長は誠仁親王の五男・[[邦慶親王]]を[[猶子]]として、この邦慶親王も二条新御所に移っている&amp;lt;ref&amp;gt;「多聞院日記」より。なお多聞院日記によると、信長が御所を進上した相手は誠仁親王ではなく、猶子の邦慶親王の方だったようである。（藤井譲治『天皇と天下人』より）&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この年、信長は徳川家康の嫡男・[[松平信康]]に対し切腹を命じたとされる。表向きの理由は信康の12か条の乱行、築山殿の武田氏への内通などである。徳川家臣団は信長恭順派と反信長派に分かれて激しい議論を繰り広げたが、最終的に家康は築山殿を殺害し、信康に切腹させた（ただし、これに関しては、家康・信康父子の対立が原因で、信長は娘婿信康の処断について家康から了承を求められただけだとする説もある。詳細は[[松平信康#信康自刃事件について]]を参照）。また伊勢国の出城構築を[[伊賀国]]の[[国人]]に妨害されて立腹した織田信雄が、独断で伊賀国に侵攻し大敗を喫した。信長は信雄を厳しく叱責した（[[伊賀流#天正伊賀の乱|第一次天正伊賀の乱]]）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
天正8年（[[1580年]]）1月、別所長治が切腹し、三木城が開城。4月には正親町天皇の勅命のもと本願寺軍も織田軍に有利な条件を呑んで和睦し、大坂から退去した。同年には播磨国、[[但馬国]]をも攻略した。8月、信長は[[譜代]]の老臣・佐久間信盛とその嫡男・[[佐久間信栄]]に対して折檻状を送り付け、本願寺との戦に係る不手際などを理由に、高野山への追放か討ち死に覚悟で働くかを迫った。佐久間親子は高野山行きを選んだ。さらに、古参の林秀貞と[[安藤守就]]も、かつてあった謀反の企てや一族が敵と内通したことなどを蒸し返して、これを理由に追放した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
天正9年（[[1581年]]）には[[鳥取城]]を兵糧攻めで落とし[[因幡国]]を攻略、さらには[[岩屋城]]を落として[[淡路国]]を攻略した。同年、信雄を総大将とする4万人の軍勢が伊賀国を攻略。伊賀国は織田氏の領地となった（第二次天正伊賀の乱）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 京都御馬揃え～左大臣推任 ===&lt;br /&gt;
天正9年（1581年）、信長は絶頂期にあった。2月28日には京都の[[内裏]]東の馬場にて大々的なデモンストレーションを行なっている。いわゆる[[京都御馬揃え]]であるが、これには信長はじめ織田一門のほか、[[丹羽長秀]]ら織田軍団の武威を示すものであった&amp;lt;ref&amp;gt;「貴賎群衆の輩 かかるめでたき御代に生まれ合わせ …（中略）… あり難き次第にて上古 末代の見物なり」（[[信長公記]]）&amp;lt;/ref&amp;gt;。このときの馬揃えには正親町天皇を招待している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
3月7日、天皇は信長を左大臣に推任。9日にこの意向が信長に伝えられ、信長は「正親町天皇が譲位し、誠仁親王が即位した際にお受けしたい」と返答した。朝廷はこの件について話し合い、信長に朝廷の意向が伝えられた。24日、信長からの返事が届き、朝廷はこれに満足した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし4月1日、信長は突然「今年は[[金神]]の年なので譲位には不都合」と言い出した。譲位と信長の左大臣就任は延期されることになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 高野山包囲 ===&lt;br /&gt;
同・天正9年（1581年）、[[高野山]]が[[荒木村重]]の残党を匿ったり、足利義昭と通じるなど、信長と敵対する動きを見せる。『信長公記』によれば、信長は使者十数人を差し向けたが、高野山が使者を全て殺害した。一方、『高野春秋』では荒木村重探索の松井友閑の兵32名が高野山の領民に乱暴狼藉を働いたために高野山側がこれを殺害したと記している。いずれにしても、この行動に激怒した信長は、織田領における[[高野聖]]数百人を捕らえる（高野聖は[[諜報活動]]を行っていたともいう）と共に、[[河内国]]や[[大和国]]の諸大名に命じて高野山を包囲させた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
5月に越中国を守っていた上杉氏の武将・[[河田長親]]が急死した隙を突いて織田軍は越中に侵攻、同国の過半を支配下に置いた。3月23日には[[高天神城]]を奪回し、武田氏を追い詰めた。紀州では雑賀党が内部分裂し、信長支持派の鈴木孫一が反信長派の[[土橋平次]]らと争うなどして勢力を減退させた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 武田征伐 ===&lt;br /&gt;
{{Main|武田征伐}}&lt;br /&gt;
長篠合戦の敗退後、武田勝頼は越後上杉氏との[[甲越同盟]]の締結や[[新府城]]築城などで領国再建を図る一方、人質であった[[織田勝長]]（信房）を返還することで信長との和睦（甲江和与）を模索したが進まず、新府城築城のための普請増大などで却って国人衆には不満が増大していた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
天正10年（[[1582年]]）2月1日、武田信玄の娘婿であった[[木曾義昌]]が信長に寝返る。2月3日に信長は武田領国への本格的侵攻を行うための大動員令を信忠に発令。駿河国から家康、相模国から[[北条氏直]]、[[飛騨国]]から[[金森長近]]、[[木曽地域|木曽]]から織田信忠が、それぞれ武田領攻略を開始した。信忠軍は軍監・[[滝川一益]]と信忠の譜代衆となる河尻秀隆・[[森長可]]・[[毛利秀頼|毛利長秀]]等で構成され、この連合軍の兵数は10万人余に上った。武田軍は、[[伊那城]]の城兵が城将・[[下条信氏]]を追い出して織田軍に降伏。さらに[[信濃国]]の[[松尾城 (信濃国伊那郡)|松尾城]]主・[[小笠原信嶺]]、[[江尻城]]主・[[穴山信君]]らも先を争うように連合軍に降伏し、武田軍は組織的な抵抗が出来ず済し崩し的に敗北する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
信忠軍は猛烈な勢いで武田領に侵攻し武田側の城を次々に占領していき、信長が武田征伐に出陣した3月8日に信忠は武田領国の本拠である[[甲府]]を占領し、3月11日には甲斐都留郡の田野において滝川一益が武田勝頼・信勝父子を討ち取り、ここに武田氏は滅亡した&amp;lt;ref&amp;gt;俗説ではあるが、最後の武田攻めの際、明智光秀が「ここまで来られて、我々も骨を負った甲斐があった」と語ったところ、信長の逆鱗に触れ、光秀は欄干に頭を打ち付けられたともいわれている。&amp;lt;/ref&amp;gt;。また駿河国を徳川家康に、[[上野国]]を滝川一益に与え、旧武田領の監督を命じ、甲斐国を河尻秀隆、北信濃を森長可、南信濃を毛利長秀に与え一益の与力に付けて、北条氏直への抑えとしつつも同盟関係を保った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 三職推任 ===&lt;br /&gt;
4月、正親町天皇は信長を太政大臣・関白・征夷大将軍のいずれかに任じたいという意向を示し、5月に信長に伝えられた（[[三職推任問題]]）。しかし信長は使者に対して何も返答しないままだった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 本能寺の変 ===&lt;br /&gt;
[[ファイル:Honnoj.jpg|thumb|280px|『本能寺焼討之図』 [[楊斎延一]]（ようさい のぶかず）画（[[明治]]時代作成の[[武者絵]]。[[名古屋市]]所蔵）]]&lt;br /&gt;
{{Main|本能寺の変}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
信長は[[四国]]の[[長宗我部元親]]攻略に向け、三男の神戸信孝、重臣の丹羽長秀・[[蜂屋頼隆]]・[[津田信澄]]の軍団を派遣する準備を進めていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また北陸方面では柴田勝家が富山城、魚津城を攻撃（[[魚津城の戦い]]）。上杉氏は北の[[新発田重家の乱]]に加え、北信濃方面から森長可、上野方面から滝川一益の進攻を受け、東西南北の全方面で守勢に立たされていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
5月15日、駿河国加増の礼と武田征伐の戦勝祝いのため、徳川家康が安土城を訪れた。そこで信長は明智光秀に接待役を命じる。光秀は15日から17日にわたって家康を手厚くもてなした。家康接待が続く中、信長は[[備中高松城]]攻めを行なっている羽柴秀吉の使者より援軍の依頼を受けた。信長は光秀の接待役の任を解き、秀吉への援軍に向かうよう命じた。後世、『[[明智軍記]]』などによって[[江戸時代]]以降流布される俗説では、この時、光秀の接待内容に不満を覚えた信長は[[小姓]]の[[森成利]]（蘭丸）に命じて光秀の頭をはたかせた、としている&amp;lt;ref&amp;gt;この時の[[献立]]は「天正十年安土御献立」『[[続群書類従]]』に記録されているが、この時の献立は前年の家康接待（饗応役は不明）の際の献立（「御献立集」）のと比べて遜色の無い点が指摘される（[[江後迪子]]『信長のおもてなし』2007）&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
5月29日、信長は[[中国地方|中国]]遠征の出兵準備のために上洛し、[[本能寺]]に逗留していた。ところが、秀吉への援軍を命じていたはずの明智軍が突然京都に進軍し、[[6月2日 (旧暦)|6月2日]]に本能寺を襲撃する。この際に光秀は部下の信長に寄せる忠誠の篤きを考慮し、現に光秀への忠誠を誓う者が少なかったため、侵攻にあたっては標的が信長であることを伏せていたことが[[本城惣右衛門覚書]]からもうかがえる。100人ほどの手勢しか率いていなかった信長であったが、初めは自ら[[槍]]を手に奮闘した。しかし圧倒的多数の明智軍には敵わず、居間に戻った信長は自ら火を放ち、燃え盛る炎の中で自害した。[[享年]]49（満48歳没）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
光秀の娘婿・[[明智秀満]]が信長の遺体を探したが見つからなかった。当時の本能寺は織田勢の補給基地的に使われていたため、火薬が備蓄されており、信長の遺体が爆散してしまったためと考えられる。しかしながら、密かに脱出し別の場所で自害したという説や、信長を慕う僧侶と配下によって人知れず埋葬されたという説もある。なお、最後まで信長に付き従っていた者の中に[[黒人]]の家来・[[弥助]]がいた。弥助は、光秀に捕らえられたものの後に放免となっている。それ以降、弥助の動向については不明である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[平成]]19年（[[2007年]]）に行われた本能寺跡の発掘調査では、本能寺の変と同時期にあったとされる堀跡や大量の焼け瓦が発見された。これにより、城塞としての機能や謀反に備えていた可能性が指摘されており、現在も調査が続いている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==人物像==&lt;br /&gt;
「怒りっぽかった」という記録ははっきり言って当てにならない。中世の記録はたいがいこうやって脚色してあるものだからである。考えてみたまえ。庶民が法を犯すたびに怒る統治者など存在するわけがない。まあ短気ではあっただろう。即断即決でなければ生きていけない世の中だったのだから。しかし判断が早いというのと、感情が動き易いということとは全く違う。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==アホ学者の通説を斬る！==&lt;br /&gt;
立花京子&lt;br /&gt;
*『天皇は武力によって君臨しているわけではないから、武力による脅しは無意味』（by「黄金太閤」）&lt;br /&gt;
**？？？天皇が何の正当性をもって君臨しているかという事と、天皇に武力による脅しが通じるかという事に、いったい何の関係があるんだ？天皇だって人の子だ。刀をつきつけて「譲位しろ」と脅せば、ビビって「はい」と言ってしまうことだってあるだろう。過去に毒殺された親王だっている。もし「信長が天皇から武力を奪おうとした」という事実があって、それへの反論としてこう言うなら分かるのだが。どうもこのへんの歴史学者というのはいまだに天皇を崇拝しているようで困る。&lt;br /&gt;
**まあ馬揃えはどうでもいいんだけどね。ちなみに天皇が馬揃えを見たがったのは、自分の方が信長より上位であるという関係を民衆に見せたかったから。それ以外にあるわけないじゃんｗ　天皇の言葉をそのまま受け取ってしまうようじゃあ政治は語れないのである。&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Minagoroshida</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%B9%94%E7%94%B0%E4%BF%A1%E9%95%B7&amp;diff=155614</id>
		<title>織田信長</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%B9%94%E7%94%B0%E4%BF%A1%E9%95%B7&amp;diff=155614"/>
				<updated>2012-03-25T18:44:59Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Minagoroshida: /* 長篠の戦い */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''織田 信長'''（おだ のぶなが）は、[[日本]]の[[戦国時代]]の人物。戦争と混乱に満ちた16世紀の日本を統一へと導いた。日本の政治上・軍事上最大の天才とも言われる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==概要==&lt;br /&gt;
平安時代、朝廷の軍事力の著しい低下によって日本全国の治安が非常に悪化したため、庶民は武装して身を守った。このために延々と内乱が続き、国は乱れに乱れていた。この戦乱を終わらせる終わらせる事業の大変を行ったのが織田信長である。彼は日本全国を統治する前に死んでしまったものの、実質的には彼が戦乱を終わらせたと言える。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==信長の計画==&lt;br /&gt;
まずは地盤を固める&lt;br /&gt;
↓&lt;br /&gt;
幕府あるいは朝廷という既存の権威を利用し、また隠れ蓑にもしつつ改革を行う&lt;br /&gt;
↓&lt;br /&gt;
自身の権威がそれらを越え次第、自身を神格化し、名実ともに日本の頂点に立つ&lt;br /&gt;
↓&lt;br /&gt;
余剰の軍事力は海外に向ける&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 生涯 ==&lt;br /&gt;
&amp;lt;small&amp;gt;※日付は[[和暦]]による[[旧暦]]。[[西暦]]表記の部分は[[ユリウス暦]]とする。&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 少年期 ===&lt;br /&gt;
[[天文 (元号)|天文]]3年（[[1534年]]）5月12日、[[尾張国]]の[[戦国大名]]・[[織田信秀]]の[[嫡男]]として、[[那古野城]]&amp;lt;ref&amp;gt;『[[国史大辞典 (昭和時代)|国史大辞典]]』　織田信長の項目　[[吉川弘文館]]。一般的には那古野城生まれを定説とするが、織田信秀の那古野城奪取をめぐって異説も存在する。&amp;lt;/ref&amp;gt;（現在の[[名古屋市]][[中区 (名古屋市)|中区]]）（[[勝幡城]]説もある&amp;lt;ref&amp;gt;『[[尾州古城志]]』&amp;lt;/ref&amp;gt;）で生誕。幼名は'''吉法師'''。なお、信長の生まれた「織田弾正忠家」は、尾張国の[[守護大名]]・[[斯波氏]]の[[被官]]で下四郡（海東郡・海西郡・愛知郡・知多郡）の[[守護代]]に補任された織田大和守家（清洲織田家）の家臣にして分家であり、[[清洲三奉行]]・古渡城主という家柄であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
母・[[土田御前]]が信秀の[[正室]]であったため嫡男となり、2歳にして那古野城主となる。幼少から青年時にかけて奇妙な行動が多く、周囲から'''尾張の大うつけ'''と称されていた。日本へ伝わった[[種子島銃]]に関心を持った挿話などが知られる。また、身分にこだわらず、民と同じように町の若者とも戯れていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
まだ世子であった頃、表面的に家臣としての立場を守り潜在的な緊張関係を保ってきた主筋の「織田大和守家」の支配する[[清洲城]]下に数騎で火を放つなど、父・信秀も寝耳に水の行動をとり、豪胆さを早くから見せた。また、[[今川氏]]へ人質として護送される途中で[[松平氏]]家中の[[戸田康光]]の裏切りにより[[織田氏]]に護送されてきた松平竹千代（後の[[徳川家康]]）と幼少期を共に過ごし、後に両者は固い盟約関係を結ぶこととなる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
天文15年（[[1546年]]）、[[古渡城]]にて[[元服]]し、'''上総介信長'''と称する。天文17年（[[1548年]]）、父・信秀と敵対していた[[美濃国]]の[[戦国大名]]・[[斎藤道三]]との和睦が成立すると、道三の娘・[[濃姫]]と政略結婚した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
天文18年（[[1549年]]）（異説では天文22年（[[1553年]]））に信長は[[聖徳寺 (名古屋市)|正徳寺]]で道三と会見し、その際に道三はうつけ者と呼ばれていた信長の器量を見抜いたとの逸話がある。また同年には、近江の[[国友|国友村]]に火縄銃500丁を注文したという&amp;lt;ref&amp;gt;「国友鉄砲記」より。正徳寺での会見には、兵に鉄砲500丁を持たせていったと「信長公記」にあり、これが国友村から購入した鉄砲だという可能性もある。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
天文20年（[[1551年]]）、父・信秀が没した為、家督を継ぐ&amp;lt;ref&amp;gt;信秀の葬儀において祭壇に[[抹香]]を投げつけたというエピソードが残っている。このような行為におよんだ理由は、うつけ者を装うため、葬儀を政治的に利用した信勝への抗議など諸説あるが、いずれも推測の域を出ていない。後年の創作という意見もあるが、1次史料である信長公記にまで書かれているため、全くの創作とは考えにくい。&amp;lt;/ref&amp;gt;。天文22年（[[1553年]]）、信長の教育係であった[[平手政秀]]が自害。これは諌死であったとも、息子・五郎右衛門と信長の確執のためともされる。信長は嘆き悲しみ、師匠の[[沢彦]]和尚を開山として[[政秀寺]]を建立し、政秀の霊を弔った。天文23年（[[1554年]]）には、[[村木砦の戦い]]で今川勢を破っている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 家督争いから尾張統一・上洛 ===&lt;br /&gt;
当時、尾張国は[[今川氏]]の尾張侵攻により[[守護]]の[[斯波氏]]の力が衰え、尾張下四郡を支配した[[守護代]]であった「織田大和守家」当主で[[清洲城]]主の[[織田信友]]が実権を掌握していた。信長の父・信秀はその信友に仕える三奉行の一人に過ぎなかったにも関わらず、その智勇をもって尾張中西部に支配権を拡大した。信秀の死後、信長が跡を継ぐと、信友は信長の弟・[[織田信行]]（信勝）の家督相続を支持して信長と敵対し、信長謀殺計画を企てるが、信友により傀儡にされていた[[守護]]・[[斯波義統]]が、計画を信長に密告した。これに激怒した織田信友は斯波義統の嫡子・[[斯波義銀|義銀]]が手勢を率いて川狩に出た隙に義統を殺害する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
斯波義銀が落ち延びてくると、信長は叔父の[[守山城 (尾張国)|守山城]]主・[[織田信光]]と協力し、信友を主君を殺した謀反人として殺害する。こうして「織田大和守家」は滅び、信長は那古野城から清洲城へ本拠を移し、尾張国の[[守護所]]を手中に収めた。これにより、織田氏の[[庶家]]の生まれであった信長が名実共に織田氏の頭領となった。なお信光も死亡しているが、死因は不明である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[弘治 (日本)|弘治]]2年（[[1556年]]）4月、義父・斎藤道三が子の[[斎藤義龍]]との戦いに敗れて戦死（[[長良川の戦い]]）。信長は道三救援のため、木曽川を越え美濃の大浦まで出陣するも、道三を討ち取り勢いに乗った義龍軍に苦戦し、道三敗死の知らせにより退却した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
こうした中、信長の当主としての器量を疑問視した重臣の[[林秀貞]]（通勝）・[[林通具]]・[[柴田勝家]]らは、信長を廃して聡明で知られた弟・信勝（信行）を擁立しようとした。これに対して信長には[[森可成]]・[[佐久間盛重]]・[[佐久間信盛]]らが味方し、両派は対立する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
道三の死去を好機と見た信勝派は、同年[[8月24日]]に挙兵して戦うも敗北（[[稲生の戦い]]）。その後、[[末盛城]]に籠もった信勝を包囲するが、生母・土田御前の仲介により、信勝・勝家らを赦免した。更に同年中に庶兄の信広も斎藤義龍と結んで清洲城の簒奪を企てたが、これは事前に情報を掴んだ為に未遂に終わり、信広は程なくして降伏し、赦免されている。しかし、弘治3年（[[1557年]]）に信勝は再び謀反を企てる。この時、稲生の戦いの後より信長に通じていた柴田勝家の密告があり、事態を悟った信長は病と称して信勝を清洲城に誘い出し殺害した。直接手を下したのは[[河尻秀隆]]とされている&amp;lt;ref&amp;gt;信長公記では、河尻と青貝という2人の家臣が、フロイス日本史では信長が直接殺したことになっている。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
さらに信長は、同族の[[犬山城]]主・[[織田信清]]と協力し、旧主「織田大和守家」の宿敵で織田一門の[[宗家]]であった尾張上四郡（丹羽郡・葉栗郡・中島郡・春日井郡）の守護代「織田伊勢守家」（岩倉織田家）の[[岩倉城 (尾張国)|岩倉城]]主・[[織田信賢]]を破って（[[浮野の戦い]]）これを追放。新たに守護として擁立した斯波義銀が斯波一族の[[石橋氏]]・[[吉良氏]]と通じて信長の追放を画策していることが発覚すると、義銀を尾張から追放した。こうして、[[永禄]]2年（[[1559年]]）までには尾張国の支配権を確立し、信長は尾張の国主となった。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
永禄2年（[[1559年]]）2月2日、信長は100名ほどの軍勢を引き連れて[[上洛]]し、[[室町幕府]]13代[[征夷大将軍|将軍]]・[[足利義輝]]に謁見した。当時、義輝は尾張守護・斯波家（武衛家）の邸宅を改修して住しており、信長はそこへ出仕した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 桶狭間の戦いから清洲同盟へ ===&lt;br /&gt;
1560（永禄3）年5月、[[今川義元]]が尾張国へ侵攻。[[駿河国|駿河]]・[[遠江国|遠江]]の本国に加え[[三河国|三河]]を分国として支配する今川氏の軍勢は、2万人以上の大軍であった。兵力で劣る織田軍は苦戦を強いられた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
永禄3年（[[1560年]]）5月19日午後1時頃、信長は[[幸若舞]]『[[敦盛 (幸若舞)|敦盛]]』を舞った後&amp;lt;ref name=&amp;quot;atsumori&amp;quot;&amp;gt;'''幸若舞'''の敦盛は口伝で伝えられていたために、長らく節回しや詳細な振り付けが不明となっていた。そのため、映像作品などでは'''謡曲'''の敦盛で代用されていた。しかし、近年になって幸若舞の敦盛も復刻されている。（詳細は[[敦盛 (幸若舞)]]を参照）&amp;lt;/ref&amp;gt;、昆布と勝ち栗を前に置き、立ったまま[[湯漬け]]（出陣前に、米飯に熱めの湯をかけて食べるのが武士の慣わし）を食べ、出陣した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
信長はまず[[熱田神宮]]に参拝。その後、[[善照寺砦]]で2000人の軍勢を整えて出撃。今川軍の陣中に強襲をかけ今川氏の前当主で隠居の義元を討ち取った。総大将を失った今川軍は、当主・氏真の命で本国駿河国に退却した（'''桶狭間の戦い'''）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
桶狭間の戦いの後、今川氏は三河の松平氏の離反等により、急激に衰退した。これを機に、信長は徳川家康（この頃、松平元康より改名）と手を結ぶことになる。それまで織田家と松平家は敵対関係にあり、幾度も戦っていたが、信長は美濃国の[[斎藤氏]]攻略のため、家康も駿河国の[[今川氏真]]らに対抗する必要があった為、こちらの利害関係を優先させたものと思われる。両者は永禄5年（[[1562年]]）、同盟を結んで互いに背後を固めた（'''清洲同盟'''）。この同盟は信長死後まで維持された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 美濃攻略と天下布武 ===&lt;br /&gt;
斎藤道三亡き後、信長と斎藤氏との関係は険悪なものとなっていた。桶狭間の戦いと前後して両者の攻防は一進一退の様相を呈していた。しかし、永禄4年（[[1561年]]）に斎藤義龍が急死し、嫡男・[[斎藤龍興]]が後を継ぐと、信長は美濃に出兵し勝利（[[森部の戦い]]）。織田家は優位に立ち、斎藤氏は家中で分裂が始まる。永禄7年（[[1564年]]）には北[[近江国]]の[[浅井長政]]と同盟を結び、斎藤氏への牽制を強化している。その際、信長は妹・[[お市の方|お市]]を輿入れさせた。一方で、信長は永禄8年（[[1565年]]）より[[滝川一益]]の援軍依頼により伊勢方面にも進出し、[[神戸具盛 (7代目当主)|神戸具盛]]など当地の諸氏とも戦っている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
永禄9年（[[1564年]]から[[1565年]]）、[[竹中重治]]と[[安藤守就]]が[[岐阜城]]を占拠後、[[加治田城]]主の[[佐藤忠能]]を味方にして[[中濃]]の諸城を手に入れ（[[中濃攻略戦]]）、さらに[[西美濃三人衆]]（[[稲葉良通]]・[[氏家直元]]・[[安藤守就]]）などを味方につけた信長は、ついに永禄10年（[[1567年]]）、斎藤龍興を[[伊勢国|伊勢]][[長島町 (三重県)|長島]]に敗走させ、尾張・美濃の2ヶ国を領する大名になった（[[稲葉山城の戦い]]）。ときに信長33歳。このとき、井ノ口を[[岐阜市|岐阜]]と改称している&amp;lt;ref&amp;gt;出典：『[[信長公記]]』&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
同年11月には僧・沢彦から与えられた印文「'''天下布武'''」の朱印を信長は使用しはじめており&amp;lt;ref&amp;gt;林屋辰三郎『天下一統』中公文庫、105頁&amp;lt;/ref&amp;gt;、本格的に[[天下統一]]を目指すようになったとみられる。11月9日、[[正親町天皇]]は信長を「古今無双の名将」を褒めつつ、[[御料所]]の回復・[[誠仁親王]]の元服費用の拠出を求めたが、&amp;lt;ref&amp;gt;前者は[[綸旨]]、後者は[[女房奉書]]によって伝えられた。なお、天皇・朝廷のこうした動きは各地の大名に対して行われており、この時点では正親町天皇はさほど信長を特別視していたわけではなかったと思われる。[[藤井譲治]]「天皇と天下人」より&amp;lt;/ref&amp;gt;、信長は丁重に「まずもって心得存じ候」と返答したのみであった&amp;lt;ref&amp;gt;[[藤井譲治]]「天皇と天下人」より&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 上洛 ===&lt;br /&gt;
====中央幕府の情勢====&lt;br /&gt;
中央では、永禄8年（[[1565年]]）、かねて[[京都|京]]を中心に[[畿内]]で権勢を誇っていた[[三好氏]]の有力者[[三好三人衆]]（[[三好長逸]]・[[三好政康]]・[[岩成友通]]）と[[松永久秀]]が、幕府権力の復活を目指して三好氏と対立を深めていた将軍･足利義輝を暗殺し、第14代将軍として義輝の従弟・[[足利義栄]]を傀儡として擁立する（[[永禄の変]]）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
久秀らはさらに義輝の弟で僧籍にあった一乗院覚慶（[[足利義昭]]）の暗殺も謀ったが、義昭は[[一色藤長]]・[[和田惟政]]ら幕臣の支援を受けて奈良から脱出し、[[越前国]]の[[朝倉義景]]のもとに身を寄せていた。しかし、義景が三好氏追討の動きを見せなかったため、永禄11年（[[1568年]]）7月には美濃国の信長へ接近を図ってきた。信長は義昭の三好氏追討要請を応諾した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
====武田氏との外交====&lt;br /&gt;
美濃国において領国を接する[[甲斐国]]の[[武田信玄]]とは信玄の四男・諏訪勝頼（[[武田勝頼]]）に養女（[[遠山夫人]]）を娶らせることで同盟を結んだが、遠山夫人は永禄10年（1567年）11月、[[武田信勝]]を出産した直後に早世したため、同年末には信長の嫡男・信忠と信玄の六女・[[信松尼|松姫]]との婚姻を模索し友好的関係を持続させるなど、周囲の勢力と同盟を結んで国内外を固めた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 足利義昭上洛の警護 ====&lt;br /&gt;
永禄11年（1568年）9月、信長は他国侵攻の大義名分として将軍家嫡流の足利義昭を奉戴し、[[上洛]]を開始した。これに対して抵抗した南近江の[[六角義賢]]・[[六角義治|義治]]父子は織田軍の猛攻を受け、[[観音寺城]]が落城する（[[観音寺城の戦い]]）。六角父子は[[甲賀郡]]に後退、以降はゲリラ戦を展開した&amp;lt;ref&amp;gt;ただし、[[六角氏]]嫡流は別にあり、嫡流の[[六角義秀]]・[[六角義郷]]は信長に庇護されたとする異説もある。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
信長が上洛すると、[[三好長慶]]死後の内輪揉めにより崩壊しつつあった[[三好義継]]・松永久秀らは信長の実力を悟って臣従し、三好三人衆に属した他の勢力の多くは[[阿波国]]へ逃亡する。唯一抵抗していた[[池田勝正]]も信長に降伏した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
足利義昭を第15代将軍に擁立した信長は、[[和泉国|和泉]]一国の恩賞だけを賜り尾張へ帰国。この時、信長は義昭から管領・斯波家の家督継承もしくは管領代・[[副将軍]]の地位等を勧められたが、桐紋と斯波家並の礼遇だけを賜り遠慮したとされる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
永禄12年（[[1569年]]）1月、信長率いる織田軍主力が美濃国に帰還した隙を突いて、三好三人衆と斎藤龍興ら浪人衆が共謀し、足利義昭の[[御所]]である[[六条通|六条]][[本圀寺]]を攻撃した（[[六条合戦]]）。しかし、信長は豪雪の中をわずか2日で援軍に駆けつけるという機動力を見せた&amp;lt;ref&amp;gt;信長公記によれば、当時、岐阜から[[京都]]までは3日はかかったという。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
もっとも、浅井長政や池田勝正の援軍と[[明智光秀]]の奮戦により、三好・斎藤軍は信長の到着を待たず敗退していた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1月10日には三好軍と共同して決起した[[高槻城]]の[[入江春景]]を攻めた。春景は降伏したが、信長は再度の離反を許さず処刑し、和田惟政を高槻に入城させ、[[摂津国]]を守護・池田勝正を筆頭とし[[伊丹氏]]と惟政の3人に統治させた（[[摂津三守護]]）。同日、信長は三好三人衆に協力していた[[堺]]に2万貫の矢銭と服属を要求し、支払わせた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 伊勢侵攻 ===&lt;br /&gt;
同時期に[[伊勢国]]への侵攻も大詰めを迎える。伊勢は南朝以来の[[国司]]である[[北畠氏]]が最大勢力を誇っていたが、まず永禄11年（[[1568年]]）北伊勢の神戸具盛と講和し、三男の[[織田信孝]]を[[神戸氏]]の養子として送り込んだ。更に[[北畠具教]]の次男・[[長野具藤]]を内応により追放し、弟・[[織田信包]]を長野家当主とした。そして翌・永禄12年（[[1569年]]）8月20日、滝川一益の調略によって具教の実弟・[[木造具政]]が信長側に転じると、信長はその日の内に岐阜を出陣し南伊勢に進攻、北畠家の[[大河内城]]を大軍を率いて包囲、篭城戦の末10月3日に和睦し、次男・[[織田信雄]]を養嗣子として送り込んだ。後に北畠具教は幽閉され、[[天正]]4年（[[1576年]]）に信雄により殺害される。こうして信長は、養子戦略により北伊勢攻略を終える。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 第一次信長包囲網 ===&lt;br /&gt;
永禄12年（1569年）、信長は足利義昭の将軍としての権力を制限するため、『[[殿中御掟]]』9ヶ条の掟書、のちには追加7ヶ条を発令し、これを義昭に認めさせた。これによって義昭と信長の対立は決定的なものになったわけではなく、両者はお互いを利用し合う関係であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
3月、正親町天皇から「信長を副将軍に任命したい」という意向が伝えられたが、信長は何の返答もせず、事実上無視した&amp;lt;ref&amp;gt;藤井譲治「天皇と天下人」より&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[元亀]]元年（[[1570年]]）4月、信長は度重なる上洛命令を無視する朝倉義景を討伐するため、[[浅井氏]]との盟約を反故にし、盟友の徳川家康の軍勢とともに越前国へ進軍。織田・徳川連合軍は[[朝倉氏]]の諸城を次々と攻略していくが、[[金ヶ崎城|金ヶ崎]]で浅井氏離反の報告を受ける。挟撃される危機に陥った織田・徳川連合軍はただちに撤退を開始し、[[殿 (軍事用語)|殿]]を務めた池田勝正・[[明智光秀]]・[[豊臣秀吉|木下秀吉]]らの働きもあり、京に逃れた（[[金ヶ崎の戦い]]）。信長は先頭に立って真っ先に撤退し、僅か10名の共と一緒に京に到着したという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
同年6月、信長は浅井氏を討つべく、近江国[[姉川]]河原で徳川軍とともに浅井・朝倉連合軍と対峙。並行して浅井方の横山城を陥落させつつ、織田・徳川連合軍は勝利した（'''[[姉川の戦い]]'''）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
8月、信長は摂津国で挙兵した三好三人衆を討つべく出陣するが、その隙をついて石山本願寺が信長に対して挙兵した（[[野田城・福島城の戦い]]）。しかも、織田軍本隊が摂津国に対陣している間に軍勢を立て直した浅井・朝倉・延暦寺などの連合軍3万が近江国・[[坂本 (大津市)|坂本]]に侵攻する。織田軍は劣勢の中、重臣・森可成と信長の実弟・[[織田信治]]を喪った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
9月23日未明、信長は本隊を率いて摂津国から近江国へと帰還。慌てた浅井・朝倉連合軍は比叡山に立て籠もって抵抗した。信長はこれを受け、近江国・[[宇佐山城]]において浅井・朝倉連合軍と対峙する（[[志賀の陣]]）。しかし、その間に石山本願寺の[[法主]]・[[顕如]]の命を受けた伊勢の門徒が一揆を起こし（[[長島一向一揆]]）、信長の実弟・[[織田信興]]を自害に追い込んだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
11月21日、信長は六角義賢・義治父子と和睦し、ついで阿波から来た[[篠原長房]]と講和した&amp;lt;ref&amp;gt;林屋辰三郎『天下一統』中公文庫、143頁&amp;lt;/ref&amp;gt;。さらに足利義昭に朝倉氏との和睦の調停を依頼し、義昭は関白[[二条晴良]]に調停を要請した。そして正親町天皇に奏聞して[[勅命]]を仰ぎ、12月13日、勅命をもって浅井氏・朝倉氏との和睦に成功&amp;lt;ref&amp;gt;[[大久保忠教]]の記した『[[三河物語]]』によると、このとき信長は義景に対し「天下は朝倉殿が持ち給え。我は二度と望み無し」とまで言ったという。&amp;lt;/ref&amp;gt;。窮地を脱した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 第二次信長包囲網 ===&lt;br /&gt;
元亀2年（[[1571年]]）、信長は朝倉・浅井に味方した延暦寺を攻めた（'''[[比叡山焼き討ち (1571年)|比叡山焼き討ち]]'''）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一方この頃、甲斐国の武田信玄が信長への事前通告なしに徳川領へ侵攻&amp;lt;ref&amp;gt;近年では元亀2年の信玄による三河侵攻は根拠となる文書群の年代比定の誤りが指摘され、これは勝頼期の天正3年の出来事であった可能性も考えられている（鴨川達夫『武田信玄と勝頼』（岩波新書、2009）、柴裕之「戦国大名武田氏の遠江・三河侵攻再考」『武田氏研究』第37号、2007）。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
元亀3年（[[1572年]]）、石山本願寺が信長と和睦したものの、三好義継・松永久秀らが共謀して信長に謀反を起こした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
7月、信長は近江に出陣（[[虎御前山の戦い]]）。嫡男・奇妙丸（後の[[織田信忠]]）の[[初陣]]でもあった。戦況は織田軍有利に展開し、8月には朝倉義景に不満を抱いていた朝倉軍の[[前波吉継]]・[[富田長繁]]・[[毛屋猪介]]・[[戸田与次郞]]らが信長に寝返った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
9月、信長は足利義昭に対して17条の意見書を提出。信長と義昭の関係は決定的に悪化した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
11月、武田氏の秋山虎繁（信友）が、東美濃の[[岩村城]]を攻めたが、織田軍に敗退し、岩村城近辺の城はみな織田のものとなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
徳川領においては徳川軍が[[一言坂の戦い]]で武田軍に大敗し、さらに遠江国の要である[[二俣城]]が開城・降伏により不利な戦況となる（[[二俣城の戦い]]）。これに対して信長は、家康に佐久間信盛・[[平手汎秀]]ら3,000人の援軍を送ったが、12月の'''[[三方ヶ原の戦い]]'''で織田・徳川連合軍は武田軍に敗退。汎秀が討死した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1573（元亀4）年に入ると、武田軍は三河に侵攻し、2月に[[野田城 (三河国)|野田城]]を攻略した（[[野田城の戦い]]）。これに呼応して京の足利義昭が信長に対して挙兵したため、信長は岐阜から京都に向かって進軍した。信長が京都に着陣すると幕臣であった[[細川幽斎|細川藤孝]]や[[荒木村重]]らは義昭を見限り信長についた。信長は上京を焼打ちして義昭に脅しをかけてから義昭と和睦しようとした。義昭は初めこれを拒否していたが、正親町天皇からの勅命が出され、4月5日に義昭と信長はこれを受け入れて和睦した。4月12日、武田信玄は病死し、武田軍は甲斐国へ帰国した&amp;lt;ref&amp;gt;元亀年間に行われた武田氏の遠江・三河への侵攻や信長との対立は「[[西上作戦]]」と通称され、信玄は上洛を目指していたされてきたが、近年ではその実態や意図に疑問が呈されている（鴨川達夫『武田信玄と勝頼』（岩波新書、2007年）、柴裕之「戦国大名武田氏の遠江・三河侵攻再考」『武田氏研究』第37号、2007、柴辻俊六「武田信玄の上洛戦略と織田信長」『武田氏研究』第40号、2009　など&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
7月には再び抵抗の意思を示した足利義昭が[[二条城|二条御所]]や山城守護所（[[槇島城]]）に立て籠もったが、信長は義昭を破り追放し、これをもって室町幕府の勢力は京都から消滅した&amp;lt;ref&amp;gt;室町幕府の滅亡により、[[室町将軍]]は天皇王権を擁し、京都を中心とする周辺領域を支配し地方の諸大名を従属下におき紛争などを調停する「[[天下]]」主催者たる地位を喪失。信長が「天下」主催者としての地位を継承し、以降は諸大名を従属・統制下におく立場であったことが指摘されている（[[神田千里]]「織田政権の支配の論理に関する一考察」『東洋大学文学部紀要』2002、同『戦国乱世を生きる力』中央公論社、2002）。&amp;lt;/ref&amp;gt;。加えて7月28日には[[元号]]を元亀から[[天正]]へと改めることを[[朝廷]]に奏上し、これを実現させた&amp;lt;ref&amp;gt;ただし、朝廷では既に元亀3年の段階で改元を決定しており、同年3月29日には信長と義昭の下に使者を送っている（『御湯殿上日記』）。だが、義昭は改元に消極的であり、信長の17か条の詰問状でも批判の1つに挙げられている。信長は改元を支持することで、消極的な態度を見せる義昭排除の正当性を得るとともに、朝廷の望む改元を実現させることによって自己を室町幕府に代わる武家政権のトップとして朝廷に認めさせたとする評価がある（[[神田裕理]]「織豊期の改元」『戦国・織豊期の朝廷と公家社会』校倉書房、2011年）。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1573（天正1）年8月、信長は細川藤孝に命じて、[[淀古城|淀城]]に立て籠もる三好三人衆の一人・[[岩成友通]]を討伐した（第二次淀古城の戦い）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
同月、信長は3万人の軍勢を率いて越前国に侵攻。[[一乗谷城の戦い#刀根坂の戦い|刀根坂の戦い]]で朝倉軍を破り、朝倉義景は自刃した。9月、[[小谷城]]を攻略して浅井氏に勝利し、[[浅井久政]]・長政父子は自害し、長政の母・[[小野殿]]（阿古御料人）の指を一日一本ずつ切り落とした上で殺害した（執行を担当したのは秀吉であり、処刑方法が信長本人の意向か秀吉のものであるかは不明である）。なお、長政に嫁いでいた妹・お市らは落城前に落ち延びて信長が引き取った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
9月24日、信長は尾張・美濃・伊勢の軍勢を中心とした3万人の軍勢を率いて、伊勢長島に行軍した。織田軍は滝川一益らの活躍で半月ほどの間に長島周辺の敵城を次々と落とした。しかし撤退戦で[[林通政#林通政 (新次郎)|林通政]]が討死した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
11月、[[河内国]]の三好義継が足利義昭に同調して反乱を起こした。信長は佐久間信盛を総大将とした軍勢を河内国に送り込む。しかし、信長の実力を怖れた義継の家老・[[若江三人衆]]らによる裏切りで義継は11月16日に自害し、三好氏もここに滅亡した。12月26日、[[大和国]]の松永久秀も[[多聞山城]]を明け渡し、信長に降伏した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 長島一向一揆の制圧 ===&lt;br /&gt;
1574（天正2）年1月、越前で[[地侍]]と[[本願寺]][[門徒]]による反乱が起こり、守護代の[[前波吉継|桂田長俊]]が殺された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ほぼ同時期、武田勝頼が東美濃の[[明知城]]に侵攻。信長は迎撃に向かったが、到着前に明知城が落城。信長は撤退した。城の位置関係からして、この時は岩村城が武田方に同心していたようである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
3月、信長は上洛して[[従三位]][[参議]]に叙任された。このとき、信長は[[正親町天皇]]に対して「[[蘭奢待]]の切り取り」を奏請し、[[天皇]]はこれを[[勅命]]をもって了承した&amp;lt;ref&amp;gt;これは、信長が正親町天皇と密接な関係にあるということを諸国に知らしめるためであったといわれているがこれを契機に、信長の実力が[[朝廷]]からも認められていることを知った諸[[大名]]、特に[[奥州]]からは信長に対して誼を通じる使者が増えたと言われている。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
7月、信長は数万人の大軍で伊勢の[[長島一向一揆]]を殲滅、伊勢を完全に平定した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
翌天正3年（[[1575年]]）3月、荒木村重が[[大和田城]]を占領したのをきっかけに、織田信長は石山本願寺・[[高屋城]]周辺に10万兵の大軍で攻撃し、三好康長を降伏させた（[[高屋城の戦い]]）。高屋城を含む河内国の城は[[破城]]となり、[[松井友閑]]と三好康長の仲介のもと石山本願寺と一時的な和睦が成立した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 長篠の戦い ===&lt;br /&gt;
1575（天正3）年4月、三河・長篠城の[[奥平信昌|奥平貞昌]]が武田から徳川に寝返った。武田勝頼はこれを討つため、15000人の軍勢で[[長篠城]]に攻め寄せたが、織田・徳川連合軍38000人に大敗（'''[[長篠の戦い]]'''）。武田軍に圧勝する&amp;lt;ref&amp;gt;この戦いで武田氏の大軍から長篠城を防衛した奥平貞昌は、信長より[[偏諱]]を賜り信昌と改名している。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
6月27日、[[相国寺]]に上洛した信長は天台宗と真言宗の争論の事を知り、公家の中から5人の奉行を任命して問題の解決に当たらせた（[[絹衣相論]]を参照）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
7月3日、正親町天皇は信長に官位を与えようとしたが、信長はこれを受けず、家臣たちに官位や姓を与えてくれるよう申し出た。天皇はこれを認め、信長の申し出通りに、松井友閑に宮内卿法印、武井夕庵に二位法印、明智光秀に惟任日向守、[[簗田広正]]に別喜右近、塙直政に原田備中守、丹羽長秀に惟住、の官位と姓を与えた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 越前侵攻 ===&lt;br /&gt;
この頃、前年に信長から越前国を任されていた守護代・桂田長俊を殺害して越前国を奪った本願寺門徒では、内部分裂が起こっていた。門徒達は天正3年（1575年）1月、桂田長俊殺害に協力した富田長繁ら地侍も罰し、越前国を[[一揆]]の持ちたる国とした。顕如の命で守護代として[[下間頼照]]が派遣されるが、前領主以上の悪政を敷いたため、一揆の内部分裂が進んでいた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これを好機と見た信長は長篠の戦いが終わった直後の8月、越前国に行軍した。内部分裂していた一揆衆は協力して迎撃することができず、下間頼照や[[朝倉景健]]らを始め、12,250人を数える越前国・[[加賀国]]の門徒が織田軍によって討伐された&amp;lt;ref&amp;gt;このとき、信長は[[村井貞勝]]に対して、越前府中の凄惨なありさまを書状で「府中は死骸ばかりにて一円空き所無く候 見せたく候」と書き記している。&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;このとき従軍した[[前田利家]]の所業を記した石版も残っている。「一揆おこり そのまま前田又左衛門殿一揆千人ばかり生け捕りさせ候なり 御成敗は はっつけ 釜煎られ あぶられ候 かくのごとくに候 一筆書きとめ候」。&amp;lt;/ref&amp;gt;。越前国は再び織田領となり、信長は国掟を出した上で、越前八郡を柴田勝家に与えた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 右近衛大将就任および安土城築城===&lt;br /&gt;
[[ファイル:Nobunaganoyakata.JPG|thumb|250px|[[安土城天主信長の館]]（安土城復元天主） 滋賀県[[近江八幡市]][[安土町]]]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
天正3年（1575年）11月4日、信長は[[権大納言]]に叙任される、また、11月7日にはさらに[[近衛大将|右近衛大将]]（征夷大将軍に匹敵する官職で武家では武門の棟梁のみに許される）に叙任する。信長はこの就任にあたり、御所にて公卿を集め、室町将軍家の将軍就任式（[[陣座]]）の儀礼を挙行させた。以後、信長のよび名は「上様」となり将軍と同等とみなされた（足利義昭は近衛大将への昇進を望むも未だ近衛中将のままであったので内裏の近衛府の庁舎内では信長が上司ということになる）。同日、嫡子の信忠は[[秋田城介]]（[[鎮守府将軍]]になるための前官）に、次男の信雄は左近衛中将に叙任している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
11月28日、信長は1週間前に東美濃の要・岩村城を陥落させた嫡男・信忠に一大名家としての織田家の家督ならびに美濃・尾張などの織田家の領国（織田直割領）を譲った。しかし、引き続き信長は織田政権の政治・全軍を総括する立場にあった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
天正4年（[[1576年]]）1月、信長自身の指揮のもと[[琵琶湖]]湖岸に[[安土城]]の築城を開始する&amp;lt;ref&amp;gt;「安土」という地名は信長が命名したとも（「細川家記」）、元々あった地名だとも言われる。&amp;lt;/ref&amp;gt;。安土城は天正7年（[[1579年]]）に五層七重の豪華絢爛な城として完成した。[[天守]]内部は吹き抜けとなっていたと言われている。[[イエズス会]]の[[宣教師]]は「その構造と堅固さ、財宝と華麗さにおいて、それら（城内の邸宅も含めている）はヨーロッパの最も壮大な城に比肩しうるものである」と母国に驚嘆の手紙を送っている。信長は[[岐阜城]]を信忠に譲り、完成した安土城に移り住んだ。信長はここを拠点に[[天下統一]]に邁進することとなる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 第三次信長包囲網 ===&lt;br /&gt;
{{Main|信長包囲網#第三次包囲網}}&lt;br /&gt;
天正4年（1576年）1月、信長に誼を通じていた[[丹波国]]の[[波多野秀治]]が叛旗を翻した。さらに石山本願寺も再挙兵するなど、再び反信長の動きが強まり始める。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
信長は4月、明智光秀・荒木村重・[[塙直政]]を大将とした3万人の軍勢を[[大坂]]に派遣し、砦を構築させた。このうち塙が伏兵の襲撃に遭って大敗を喫し、直政を始め1,000人以上が戦死した。織田軍は本願寺軍の攻勢に窮し[[天王寺]]砦に立て籠もるが、本願寺軍はこれを包囲し、天王寺で織田軍は窮地に陥った。5月5日、信長は若江城に入り動員令を出したが、集まったのは3,000人ほどであった。5月7日早朝、その軍勢を率いて自ら先頭に立ち、天王寺砦を包囲する本願寺軍1万5,000人に攻め入り、信長自身も銃撃され負傷する激戦となった。信長自らの出陣で士気が高揚した織田軍は、光秀率いる天王寺砦の軍勢7,000人との連携に成功。本願寺軍を挟撃し、これを撃破した（[[天王寺砦の戦い]]）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その後、織田軍は石山本願寺を水陸から包囲し兵糧攻めにした。ところが7月13日、石山本願寺の援軍に現れた[[毛利水軍]]800隻の前に、織田水軍は敗れ、毛利軍により石山本願寺に[[兵糧]]・[[弾薬]]が運び込まれた（[[第一次木津川口の戦い]]）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この頃、越後守護で[[関東管領]]の上杉輝虎（[[上杉謙信]]）と信長との関係は悪化し&amp;lt;ref&amp;gt;信長は武田信玄の要請で武田と上杉謙信との和睦を仲介していたが（甲越和与）、[[元亀]]3年（[[1572年]]）10月信玄は信長への事前通告なしに織田・徳川氏領へ侵攻し、信長と武田氏は手切となり、上杉氏との共闘をもちかけている。謙信はこれに応じているが積極的に連携することはなく、武田氏で勝頼への当主交代が起こると和睦をもちかけている。&amp;lt;/ref&amp;gt;、謙信は天正4年（1576年）に石山本願寺と和睦し、信長との対立を明らかにした。謙信を盟主として、毛利輝元・石山本願寺・波多野秀治・[[紀伊国|紀州]][[雑賀衆]]などが反信長に同調し結託した。このような事情の中、11月21日に信長は正三位・内大臣に昇進している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 織田右府 ===&lt;br /&gt;
天正5年（[[1577年]]）2月、信長は、雑賀衆を討伐するために大軍を率いて出陣（[[紀州征伐#信長の紀州攻め|紀州攻め]]）するが、毛利水軍による背後援助や上杉軍の[[能登国]]侵攻などもあったため、3月に入ると雑賀衆の頭領・[[鈴木孫一]]らを降伏させ&amp;lt;ref&amp;gt;本願寺攻めに協力する誓紙を出させたが、人質の提供は無かった&amp;lt;/ref&amp;gt;、形式的な和睦を行ない、紀伊国から撤兵した。この頃、北陸戦線では織田軍の柴田勝家が、[[加賀国]]の[[手取川]]を越えて焼き討ちを行っている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
大和国の松永久秀がまたも信長を裏切り挙兵すると、信長は織田信忠を[[総大将]]とした大軍を[[信貴山城]]に派遣し、10月に松永を討ち取った（[[信貴山城の戦い]]）。久秀を討った10月、信長に抵抗していた[[亀山城 (丹波国)|丹波亀山城]]の[[内藤定政]]（丹波守護代）が病死する。織田軍はこの機を逃さず亀山城・[[籾井城]]・[[笹山城]]などの丹波国の諸城を攻略。同年、姉妹の[[お犬の方]]を丹波守護で[[管領]]を世襲する細川京兆家当主・[[細川信良|細川昭元]]の正室とすることに成功し丹波を掌握した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
11月、能登・加賀北部を攻略した上杉軍が加賀南部へ侵攻&amp;lt;ref&amp;gt;織田軍は手取川において1,000人余が討死し渡河の際にも多数の行方不明者を出した（[[手取川の戦い]]）というが、戦果を喧伝した謙信の書状以外に史料がなく、戦いが起こったかどうかは不明である。&amp;lt;/ref&amp;gt;。その結果、加賀南部は上杉家の領国に組み込まれ、北陸では上杉側が優位に立った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
11月20日、正親町天皇は信長を従二位・右大臣に昇進させた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
天正6年（[[1578年]]）1月にはさらに正二位に位を上げている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
3月13日、上杉謙信が急死。謙信には実子がなく、後継者を定めなかったため、[[養子]]の[[上杉景勝]]と[[上杉景虎]]が後継ぎ争いを始めた（[[御館の乱]]）。この好機を活かし信長は[[斎藤利治]]を総大将に、[[飛騨国]]から[[越中国]]に侵攻（[[月岡野の戦い]]）、上杉軍に勝利し優位に立った。その後、柴田勝家軍が上杉領の能登・加賀を攻略、越中国にも侵攻する勢いを見せた。かくしてまたも信長包囲網は崩壊した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 織田方面軍団の編成 ===&lt;br /&gt;
天正期に入ると、同時多方面に勢力を伸ばせるだけの兵力と財力が織田氏に具わっていた。信長は部下の武将に[[大名]]級の[[所領]]を与え、自由度の高い統治をさせ、周辺の攻略に当たらせた。研究者の間では、これら信長配下の新設大名を「[[軍団]]」「[[方面軍]]」と呼称し&amp;lt;ref&amp;gt;無論当時にはそのような名称は無かった。&amp;lt;/ref&amp;gt;、または信長軍・信長機動隊ともいう&amp;lt;ref name=&amp;quot;hujiki40&amp;quot;&amp;gt;藤木久志「天下統一と朝鮮侵略」講談社学術文庫、40頁&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
尾張の兵を弓衆・鉄砲衆・馬廻衆・小姓衆・小身衆など機動性を持った直属の軍団に編成し、天正4年（1576年）にはこれらを安土に結集させた&amp;lt;ref name=&amp;quot;hujiki40&amp;quot;/&amp;gt;。既に織田家には直属の指揮班である宿老衆や先手衆などがおり、これらと新編成軍との連携などを訓練した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
上杉景勝に対しては柴田勝家・[[前田利家]]・[[佐々成政]]らを、武田勝頼に対しては滝川一益・織田信忠らを、波多野秀治に対しては明智光秀・細川藤孝らを、毛利輝元に対しては羽柴秀吉を、石山本願寺に対しては佐久間信盛を配備した。&lt;br /&gt;
* 美濃・尾張・飛騨の抑え・[[織田信忠]]・[[斎藤利治]]・[[姉小路頼綱]]&lt;br /&gt;
* 対武田方面・[[滝川一益]]・[[織田信忠]]軍団（天正元年結成）&lt;br /&gt;
* 対本願寺方面・[[佐久間信盛]]軍団（天正4年結成 - 天正8年消滅）&lt;br /&gt;
* 北陸方面・[[柴田勝家]]軍団（天正4年昇格）&lt;br /&gt;
* 近畿方面・[[明智光秀]]軍団（天正8年昇格）&lt;br /&gt;
* 山陰・山陽方面・[[羽柴秀吉]]軍団（天正8年昇格）&lt;br /&gt;
* 関東方面・滝川一益軍団（天正10年結成）&lt;br /&gt;
* 四国方面・[[織田信孝]]・[[津田信澄]]・[[丹羽長秀]]・[[蜂屋頼隆]]軍団（天正10年結成）&lt;br /&gt;
* 東海道の抑え・[[徳川家康]]（形式的には同盟国であり織田軍団の一部ではない）&lt;br /&gt;
* 伊勢・伊賀方面の抑え・[[織田信雄]]・[[織田信包]]&lt;br /&gt;
*（紀伊方面の抑え・[[織田信張]]）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===中国侵攻===&lt;br /&gt;
天正6年（[[1578年]]）3月、[[播磨国]]の[[別所長治]]の謀反（[[三木合戦]]）が起こる、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
4月、突如として信長は右大臣・右近衛大将を辞職した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
7月、毛利軍が[[上月城]]を攻略し、信長の命により放置された[[山中幸盛]]ら[[尼子氏]]再興軍は処刑される（[[上月城の戦い]]）。10月には摂津国の荒木村重が[[有岡城]]に籠って信長から離反し（[[有岡城の戦い]]）、足利義昭・毛利氏・本願寺と手を結んで信長に抵抗する。一方、村重の[[与力]]であり東摂津に所領を持つ[[中川清秀]]・[[高山右近]]は村重にはつかなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
同年11月6日、信長は九鬼嘉隆の考案した[[鉄甲船]]を採用、6隻を建造し毛利水軍を撃破（[[第二次木津川口の戦い]]）。これにより石山本願寺と荒木は毛利軍の援助を受けられず孤立し、この頃から織田軍は優位に立つ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
天正7年（[[1579年]]）夏までに波多野秀治を降伏させ、処刑。同年9月、荒木村重が妻子を置き去りにして逃亡すると有岡城は落城し、荒木一族は処刑された。次いで10月、それまで毛利方であった[[備前国]]の[[宇喜多直家]]が服属すると、織田軍と毛利軍の優劣は完全に逆転する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
11月、信長は織田家の京屋敷・[[二条城#織田信長・誠仁親王の「二条新御所」|二条新御所]]を、[[皇太子]]である[[誠仁親王]]に進上した。同時に、信長は誠仁親王の五男・[[邦慶親王]]を[[猶子]]として、この邦慶親王も二条新御所に移っている&amp;lt;ref&amp;gt;「多聞院日記」より。なお多聞院日記によると、信長が御所を進上した相手は誠仁親王ではなく、猶子の邦慶親王の方だったようである。（藤井譲治『天皇と天下人』より）&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この年、信長は徳川家康の嫡男・[[松平信康]]に対し切腹を命じたとされる。表向きの理由は信康の12か条の乱行、築山殿の武田氏への内通などである。徳川家臣団は信長恭順派と反信長派に分かれて激しい議論を繰り広げたが、最終的に家康は築山殿を殺害し、信康に切腹させた（ただし、これに関しては、家康・信康父子の対立が原因で、信長は娘婿信康の処断について家康から了承を求められただけだとする説もある。詳細は[[松平信康#信康自刃事件について]]を参照）。また伊勢国の出城構築を[[伊賀国]]の[[国人]]に妨害されて立腹した織田信雄が、独断で伊賀国に侵攻し大敗を喫した。信長は信雄を厳しく叱責した（[[伊賀流#天正伊賀の乱|第一次天正伊賀の乱]]）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
天正8年（[[1580年]]）1月、別所長治が切腹し、三木城が開城。4月には正親町天皇の勅命のもと本願寺軍も織田軍に有利な条件を呑んで和睦し、大坂から退去した。同年には播磨国、[[但馬国]]をも攻略した。8月、信長は[[譜代]]の老臣・佐久間信盛とその嫡男・[[佐久間信栄]]に対して折檻状を送り付け、本願寺との戦に係る不手際などを理由に、高野山への追放か討ち死に覚悟で働くかを迫った。佐久間親子は高野山行きを選んだ。さらに、古参の林秀貞と[[安藤守就]]も、かつてあった謀反の企てや一族が敵と内通したことなどを蒸し返して、これを理由に追放した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
天正9年（[[1581年]]）には[[鳥取城]]を兵糧攻めで落とし[[因幡国]]を攻略、さらには[[岩屋城]]を落として[[淡路国]]を攻略した。同年、信雄を総大将とする4万人の軍勢が伊賀国を攻略。伊賀国は織田氏の領地となった（第二次天正伊賀の乱）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 京都御馬揃え～左大臣推任 ===&lt;br /&gt;
天正9年（1581年）、信長は絶頂期にあった。2月28日には京都の[[内裏]]東の馬場にて大々的なデモンストレーションを行なっている。いわゆる[[京都御馬揃え]]であるが、これには信長はじめ織田一門のほか、[[丹羽長秀]]ら織田軍団の武威を示すものであった&amp;lt;ref&amp;gt;「貴賎群衆の輩 かかるめでたき御代に生まれ合わせ …（中略）… あり難き次第にて上古 末代の見物なり」（[[信長公記]]）&amp;lt;/ref&amp;gt;。このときの馬揃えには正親町天皇を招待している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
3月7日、天皇は信長を左大臣に推任。9日にこの意向が信長に伝えられ、信長は「正親町天皇が譲位し、誠仁親王が即位した際にお受けしたい」と返答した。朝廷はこの件について話し合い、信長に朝廷の意向が伝えられた。24日、信長からの返事が届き、朝廷はこれに満足した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし4月1日、信長は突然「今年は[[金神]]の年なので譲位には不都合」と言い出した。譲位と信長の左大臣就任は延期されることになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 高野山包囲 ===&lt;br /&gt;
同・天正9年（1581年）、[[高野山]]が[[荒木村重]]の残党を匿ったり、足利義昭と通じるなど、信長と敵対する動きを見せる。『信長公記』によれば、信長は使者十数人を差し向けたが、高野山が使者を全て殺害した。一方、『高野春秋』では荒木村重探索の松井友閑の兵32名が高野山の領民に乱暴狼藉を働いたために高野山側がこれを殺害したと記している。いずれにしても、この行動に激怒した信長は、織田領における[[高野聖]]数百人を捕らえる（高野聖は[[諜報活動]]を行っていたともいう）と共に、[[河内国]]や[[大和国]]の諸大名に命じて高野山を包囲させた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
5月に越中国を守っていた上杉氏の武将・[[河田長親]]が急死した隙を突いて織田軍は越中に侵攻、同国の過半を支配下に置いた。3月23日には[[高天神城]]を奪回し、武田氏を追い詰めた。紀州では雑賀党が内部分裂し、信長支持派の鈴木孫一が反信長派の[[土橋平次]]らと争うなどして勢力を減退させた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 武田征伐 ===&lt;br /&gt;
{{Main|武田征伐}}&lt;br /&gt;
長篠合戦の敗退後、武田勝頼は越後上杉氏との[[甲越同盟]]の締結や[[新府城]]築城などで領国再建を図る一方、人質であった[[織田勝長]]（信房）を返還することで信長との和睦（甲江和与）を模索したが進まず、新府城築城のための普請増大などで却って国人衆には不満が増大していた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
天正10年（[[1582年]]）2月1日、武田信玄の娘婿であった[[木曾義昌]]が信長に寝返る。2月3日に信長は武田領国への本格的侵攻を行うための大動員令を信忠に発令。駿河国から家康、相模国から[[北条氏直]]、[[飛騨国]]から[[金森長近]]、[[木曽地域|木曽]]から織田信忠が、それぞれ武田領攻略を開始した。信忠軍は軍監・[[滝川一益]]と信忠の譜代衆となる河尻秀隆・[[森長可]]・[[毛利秀頼|毛利長秀]]等で構成され、この連合軍の兵数は10万人余に上った。武田軍は、[[伊那城]]の城兵が城将・[[下条信氏]]を追い出して織田軍に降伏。さらに[[信濃国]]の[[松尾城 (信濃国伊那郡)|松尾城]]主・[[小笠原信嶺]]、[[江尻城]]主・[[穴山信君]]らも先を争うように連合軍に降伏し、武田軍は組織的な抵抗が出来ず済し崩し的に敗北する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
信忠軍は猛烈な勢いで武田領に侵攻し武田側の城を次々に占領していき、信長が武田征伐に出陣した3月8日に信忠は武田領国の本拠である[[甲府]]を占領し、3月11日には甲斐都留郡の田野において滝川一益が武田勝頼・信勝父子を討ち取り、ここに武田氏は滅亡した&amp;lt;ref&amp;gt;俗説ではあるが、最後の武田攻めの際、明智光秀が「ここまで来られて、我々も骨を負った甲斐があった」と語ったところ、信長の逆鱗に触れ、光秀は欄干に頭を打ち付けられたともいわれている。&amp;lt;/ref&amp;gt;。また駿河国を徳川家康に、[[上野国]]を滝川一益に与え、旧武田領の監督を命じ、甲斐国を河尻秀隆、北信濃を森長可、南信濃を毛利長秀に与え一益の与力に付けて、北条氏直への抑えとしつつも同盟関係を保った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 三職推任 ===&lt;br /&gt;
4月、正親町天皇は信長を太政大臣・関白・征夷大将軍のいずれかに任じたいという意向を示し、5月に信長に伝えられた（[[三職推任問題]]）。しかし信長は使者に対して何も返答しないままだった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 本能寺の変 ===&lt;br /&gt;
[[ファイル:Honnoj.jpg|thumb|280px|『本能寺焼討之図』 [[楊斎延一]]（ようさい のぶかず）画（[[明治]]時代作成の[[武者絵]]。[[名古屋市]]所蔵）]]&lt;br /&gt;
{{Main|本能寺の変}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
信長は[[四国]]の[[長宗我部元親]]攻略に向け、三男の神戸信孝、重臣の丹羽長秀・[[蜂屋頼隆]]・[[津田信澄]]の軍団を派遣する準備を進めていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また北陸方面では柴田勝家が富山城、魚津城を攻撃（[[魚津城の戦い]]）。上杉氏は北の[[新発田重家の乱]]に加え、北信濃方面から森長可、上野方面から滝川一益の進攻を受け、東西南北の全方面で守勢に立たされていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
5月15日、駿河国加増の礼と武田征伐の戦勝祝いのため、徳川家康が安土城を訪れた。そこで信長は明智光秀に接待役を命じる。光秀は15日から17日にわたって家康を手厚くもてなした。家康接待が続く中、信長は[[備中高松城]]攻めを行なっている羽柴秀吉の使者より援軍の依頼を受けた。信長は光秀の接待役の任を解き、秀吉への援軍に向かうよう命じた。後世、『[[明智軍記]]』などによって[[江戸時代]]以降流布される俗説では、この時、光秀の接待内容に不満を覚えた信長は[[小姓]]の[[森成利]]（蘭丸）に命じて光秀の頭をはたかせた、としている&amp;lt;ref&amp;gt;この時の[[献立]]は「天正十年安土御献立」『[[続群書類従]]』に記録されているが、この時の献立は前年の家康接待（饗応役は不明）の際の献立（「御献立集」）のと比べて遜色の無い点が指摘される（[[江後迪子]]『信長のおもてなし』2007）&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
5月29日、信長は[[中国地方|中国]]遠征の出兵準備のために上洛し、[[本能寺]]に逗留していた。ところが、秀吉への援軍を命じていたはずの明智軍が突然京都に進軍し、[[6月2日 (旧暦)|6月2日]]に本能寺を襲撃する。この際に光秀は部下の信長に寄せる忠誠の篤きを考慮し、現に光秀への忠誠を誓う者が少なかったため、侵攻にあたっては標的が信長であることを伏せていたことが[[本城惣右衛門覚書]]からもうかがえる。100人ほどの手勢しか率いていなかった信長であったが、初めは自ら[[槍]]を手に奮闘した。しかし圧倒的多数の明智軍には敵わず、居間に戻った信長は自ら火を放ち、燃え盛る炎の中で自害した。[[享年]]49（満48歳没）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
光秀の娘婿・[[明智秀満]]が信長の遺体を探したが見つからなかった。当時の本能寺は織田勢の補給基地的に使われていたため、火薬が備蓄されており、信長の遺体が爆散してしまったためと考えられる。しかしながら、密かに脱出し別の場所で自害したという説や、信長を慕う僧侶と配下によって人知れず埋葬されたという説もある。なお、最後まで信長に付き従っていた者の中に[[黒人]]の家来・[[弥助]]がいた。弥助は、光秀に捕らえられたものの後に放免となっている。それ以降、弥助の動向については不明である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[平成]]19年（[[2007年]]）に行われた本能寺跡の発掘調査では、本能寺の変と同時期にあったとされる堀跡や大量の焼け瓦が発見された。これにより、城塞としての機能や謀反に備えていた可能性が指摘されており、現在も調査が続いている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==人物像==&lt;br /&gt;
「怒りっぽかった」という記録ははっきり言って当てにならない。中世の記録はたいがいこうやって脚色してあるものだからである。考えてみたまえ。庶民が法を犯すたびに怒る統治者など存在するわけがない。まあ短気ではあっただろう。即断即決でなければ生きていけない世の中だったのだから。しかし判断が早いというのと、感情が動き易いということとは全く違う。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==アホ学者の通説を斬る！==&lt;br /&gt;
立花京子&lt;br /&gt;
*『天皇は武力によって君臨しているわけではないから、武力による脅しは無意味』（by「黄金太閤」）&lt;br /&gt;
**？？？天皇が何の正当性をもって君臨しているかという事と、天皇に武力による脅しが通じるかという事に、いったい何の関係があるんだ？天皇だって人の子だ。刀をつきつけて「譲位しろ」と脅せば、ビビって「はい」と言ってしまうことだってあるだろう。過去に毒殺された親王だっている。もし「信長が天皇から武力を奪おうとした」という事実があって、それへの反論としてこう言うなら分かるのだが。どうもこのへんの歴史学者というのはいまだに天皇を崇拝しているようで困る。&lt;br /&gt;
**まあ馬揃えはどうでもいいんだけどね。ちなみに天皇が馬揃えを見たがったのは、自分の方が信長より上位であるという関係を民衆に見せたかったから。それ以外にあるわけないじゃんｗ　天皇の言葉をそのまま受け取ってしまうようじゃあ政治は語れないのである。&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Minagoroshida</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%B9%94%E7%94%B0%E4%BF%A1%E9%95%B7&amp;diff=155613</id>
		<title>織田信長</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%B9%94%E7%94%B0%E4%BF%A1%E9%95%B7&amp;diff=155613"/>
				<updated>2012-03-25T18:42:31Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Minagoroshida: /* 長島一向一揆の制圧 */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''織田 信長'''（おだ のぶなが）は、[[日本]]の[[戦国時代]]の人物。戦争と混乱に満ちた16世紀の日本を統一へと導いた。日本の政治上・軍事上最大の天才とも言われる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==概要==&lt;br /&gt;
平安時代、朝廷の軍事力の著しい低下によって日本全国の治安が非常に悪化したため、庶民は武装して身を守った。このために延々と内乱が続き、国は乱れに乱れていた。この戦乱を終わらせる終わらせる事業の大変を行ったのが織田信長である。彼は日本全国を統治する前に死んでしまったものの、実質的には彼が戦乱を終わらせたと言える。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==信長の計画==&lt;br /&gt;
まずは地盤を固める&lt;br /&gt;
↓&lt;br /&gt;
幕府あるいは朝廷という既存の権威を利用し、また隠れ蓑にもしつつ改革を行う&lt;br /&gt;
↓&lt;br /&gt;
自身の権威がそれらを越え次第、自身を神格化し、名実ともに日本の頂点に立つ&lt;br /&gt;
↓&lt;br /&gt;
余剰の軍事力は海外に向ける&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 生涯 ==&lt;br /&gt;
&amp;lt;small&amp;gt;※日付は[[和暦]]による[[旧暦]]。[[西暦]]表記の部分は[[ユリウス暦]]とする。&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 少年期 ===&lt;br /&gt;
[[天文 (元号)|天文]]3年（[[1534年]]）5月12日、[[尾張国]]の[[戦国大名]]・[[織田信秀]]の[[嫡男]]として、[[那古野城]]&amp;lt;ref&amp;gt;『[[国史大辞典 (昭和時代)|国史大辞典]]』　織田信長の項目　[[吉川弘文館]]。一般的には那古野城生まれを定説とするが、織田信秀の那古野城奪取をめぐって異説も存在する。&amp;lt;/ref&amp;gt;（現在の[[名古屋市]][[中区 (名古屋市)|中区]]）（[[勝幡城]]説もある&amp;lt;ref&amp;gt;『[[尾州古城志]]』&amp;lt;/ref&amp;gt;）で生誕。幼名は'''吉法師'''。なお、信長の生まれた「織田弾正忠家」は、尾張国の[[守護大名]]・[[斯波氏]]の[[被官]]で下四郡（海東郡・海西郡・愛知郡・知多郡）の[[守護代]]に補任された織田大和守家（清洲織田家）の家臣にして分家であり、[[清洲三奉行]]・古渡城主という家柄であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
母・[[土田御前]]が信秀の[[正室]]であったため嫡男となり、2歳にして那古野城主となる。幼少から青年時にかけて奇妙な行動が多く、周囲から'''尾張の大うつけ'''と称されていた。日本へ伝わった[[種子島銃]]に関心を持った挿話などが知られる。また、身分にこだわらず、民と同じように町の若者とも戯れていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
まだ世子であった頃、表面的に家臣としての立場を守り潜在的な緊張関係を保ってきた主筋の「織田大和守家」の支配する[[清洲城]]下に数騎で火を放つなど、父・信秀も寝耳に水の行動をとり、豪胆さを早くから見せた。また、[[今川氏]]へ人質として護送される途中で[[松平氏]]家中の[[戸田康光]]の裏切りにより[[織田氏]]に護送されてきた松平竹千代（後の[[徳川家康]]）と幼少期を共に過ごし、後に両者は固い盟約関係を結ぶこととなる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
天文15年（[[1546年]]）、[[古渡城]]にて[[元服]]し、'''上総介信長'''と称する。天文17年（[[1548年]]）、父・信秀と敵対していた[[美濃国]]の[[戦国大名]]・[[斎藤道三]]との和睦が成立すると、道三の娘・[[濃姫]]と政略結婚した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
天文18年（[[1549年]]）（異説では天文22年（[[1553年]]））に信長は[[聖徳寺 (名古屋市)|正徳寺]]で道三と会見し、その際に道三はうつけ者と呼ばれていた信長の器量を見抜いたとの逸話がある。また同年には、近江の[[国友|国友村]]に火縄銃500丁を注文したという&amp;lt;ref&amp;gt;「国友鉄砲記」より。正徳寺での会見には、兵に鉄砲500丁を持たせていったと「信長公記」にあり、これが国友村から購入した鉄砲だという可能性もある。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
天文20年（[[1551年]]）、父・信秀が没した為、家督を継ぐ&amp;lt;ref&amp;gt;信秀の葬儀において祭壇に[[抹香]]を投げつけたというエピソードが残っている。このような行為におよんだ理由は、うつけ者を装うため、葬儀を政治的に利用した信勝への抗議など諸説あるが、いずれも推測の域を出ていない。後年の創作という意見もあるが、1次史料である信長公記にまで書かれているため、全くの創作とは考えにくい。&amp;lt;/ref&amp;gt;。天文22年（[[1553年]]）、信長の教育係であった[[平手政秀]]が自害。これは諌死であったとも、息子・五郎右衛門と信長の確執のためともされる。信長は嘆き悲しみ、師匠の[[沢彦]]和尚を開山として[[政秀寺]]を建立し、政秀の霊を弔った。天文23年（[[1554年]]）には、[[村木砦の戦い]]で今川勢を破っている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 家督争いから尾張統一・上洛 ===&lt;br /&gt;
当時、尾張国は[[今川氏]]の尾張侵攻により[[守護]]の[[斯波氏]]の力が衰え、尾張下四郡を支配した[[守護代]]であった「織田大和守家」当主で[[清洲城]]主の[[織田信友]]が実権を掌握していた。信長の父・信秀はその信友に仕える三奉行の一人に過ぎなかったにも関わらず、その智勇をもって尾張中西部に支配権を拡大した。信秀の死後、信長が跡を継ぐと、信友は信長の弟・[[織田信行]]（信勝）の家督相続を支持して信長と敵対し、信長謀殺計画を企てるが、信友により傀儡にされていた[[守護]]・[[斯波義統]]が、計画を信長に密告した。これに激怒した織田信友は斯波義統の嫡子・[[斯波義銀|義銀]]が手勢を率いて川狩に出た隙に義統を殺害する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
斯波義銀が落ち延びてくると、信長は叔父の[[守山城 (尾張国)|守山城]]主・[[織田信光]]と協力し、信友を主君を殺した謀反人として殺害する。こうして「織田大和守家」は滅び、信長は那古野城から清洲城へ本拠を移し、尾張国の[[守護所]]を手中に収めた。これにより、織田氏の[[庶家]]の生まれであった信長が名実共に織田氏の頭領となった。なお信光も死亡しているが、死因は不明である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[弘治 (日本)|弘治]]2年（[[1556年]]）4月、義父・斎藤道三が子の[[斎藤義龍]]との戦いに敗れて戦死（[[長良川の戦い]]）。信長は道三救援のため、木曽川を越え美濃の大浦まで出陣するも、道三を討ち取り勢いに乗った義龍軍に苦戦し、道三敗死の知らせにより退却した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
こうした中、信長の当主としての器量を疑問視した重臣の[[林秀貞]]（通勝）・[[林通具]]・[[柴田勝家]]らは、信長を廃して聡明で知られた弟・信勝（信行）を擁立しようとした。これに対して信長には[[森可成]]・[[佐久間盛重]]・[[佐久間信盛]]らが味方し、両派は対立する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
道三の死去を好機と見た信勝派は、同年[[8月24日]]に挙兵して戦うも敗北（[[稲生の戦い]]）。その後、[[末盛城]]に籠もった信勝を包囲するが、生母・土田御前の仲介により、信勝・勝家らを赦免した。更に同年中に庶兄の信広も斎藤義龍と結んで清洲城の簒奪を企てたが、これは事前に情報を掴んだ為に未遂に終わり、信広は程なくして降伏し、赦免されている。しかし、弘治3年（[[1557年]]）に信勝は再び謀反を企てる。この時、稲生の戦いの後より信長に通じていた柴田勝家の密告があり、事態を悟った信長は病と称して信勝を清洲城に誘い出し殺害した。直接手を下したのは[[河尻秀隆]]とされている&amp;lt;ref&amp;gt;信長公記では、河尻と青貝という2人の家臣が、フロイス日本史では信長が直接殺したことになっている。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
さらに信長は、同族の[[犬山城]]主・[[織田信清]]と協力し、旧主「織田大和守家」の宿敵で織田一門の[[宗家]]であった尾張上四郡（丹羽郡・葉栗郡・中島郡・春日井郡）の守護代「織田伊勢守家」（岩倉織田家）の[[岩倉城 (尾張国)|岩倉城]]主・[[織田信賢]]を破って（[[浮野の戦い]]）これを追放。新たに守護として擁立した斯波義銀が斯波一族の[[石橋氏]]・[[吉良氏]]と通じて信長の追放を画策していることが発覚すると、義銀を尾張から追放した。こうして、[[永禄]]2年（[[1559年]]）までには尾張国の支配権を確立し、信長は尾張の国主となった。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
永禄2年（[[1559年]]）2月2日、信長は100名ほどの軍勢を引き連れて[[上洛]]し、[[室町幕府]]13代[[征夷大将軍|将軍]]・[[足利義輝]]に謁見した。当時、義輝は尾張守護・斯波家（武衛家）の邸宅を改修して住しており、信長はそこへ出仕した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 桶狭間の戦いから清洲同盟へ ===&lt;br /&gt;
1560（永禄3）年5月、[[今川義元]]が尾張国へ侵攻。[[駿河国|駿河]]・[[遠江国|遠江]]の本国に加え[[三河国|三河]]を分国として支配する今川氏の軍勢は、2万人以上の大軍であった。兵力で劣る織田軍は苦戦を強いられた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
永禄3年（[[1560年]]）5月19日午後1時頃、信長は[[幸若舞]]『[[敦盛 (幸若舞)|敦盛]]』を舞った後&amp;lt;ref name=&amp;quot;atsumori&amp;quot;&amp;gt;'''幸若舞'''の敦盛は口伝で伝えられていたために、長らく節回しや詳細な振り付けが不明となっていた。そのため、映像作品などでは'''謡曲'''の敦盛で代用されていた。しかし、近年になって幸若舞の敦盛も復刻されている。（詳細は[[敦盛 (幸若舞)]]を参照）&amp;lt;/ref&amp;gt;、昆布と勝ち栗を前に置き、立ったまま[[湯漬け]]（出陣前に、米飯に熱めの湯をかけて食べるのが武士の慣わし）を食べ、出陣した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
信長はまず[[熱田神宮]]に参拝。その後、[[善照寺砦]]で2000人の軍勢を整えて出撃。今川軍の陣中に強襲をかけ今川氏の前当主で隠居の義元を討ち取った。総大将を失った今川軍は、当主・氏真の命で本国駿河国に退却した（'''桶狭間の戦い'''）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
桶狭間の戦いの後、今川氏は三河の松平氏の離反等により、急激に衰退した。これを機に、信長は徳川家康（この頃、松平元康より改名）と手を結ぶことになる。それまで織田家と松平家は敵対関係にあり、幾度も戦っていたが、信長は美濃国の[[斎藤氏]]攻略のため、家康も駿河国の[[今川氏真]]らに対抗する必要があった為、こちらの利害関係を優先させたものと思われる。両者は永禄5年（[[1562年]]）、同盟を結んで互いに背後を固めた（'''清洲同盟'''）。この同盟は信長死後まで維持された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 美濃攻略と天下布武 ===&lt;br /&gt;
斎藤道三亡き後、信長と斎藤氏との関係は険悪なものとなっていた。桶狭間の戦いと前後して両者の攻防は一進一退の様相を呈していた。しかし、永禄4年（[[1561年]]）に斎藤義龍が急死し、嫡男・[[斎藤龍興]]が後を継ぐと、信長は美濃に出兵し勝利（[[森部の戦い]]）。織田家は優位に立ち、斎藤氏は家中で分裂が始まる。永禄7年（[[1564年]]）には北[[近江国]]の[[浅井長政]]と同盟を結び、斎藤氏への牽制を強化している。その際、信長は妹・[[お市の方|お市]]を輿入れさせた。一方で、信長は永禄8年（[[1565年]]）より[[滝川一益]]の援軍依頼により伊勢方面にも進出し、[[神戸具盛 (7代目当主)|神戸具盛]]など当地の諸氏とも戦っている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
永禄9年（[[1564年]]から[[1565年]]）、[[竹中重治]]と[[安藤守就]]が[[岐阜城]]を占拠後、[[加治田城]]主の[[佐藤忠能]]を味方にして[[中濃]]の諸城を手に入れ（[[中濃攻略戦]]）、さらに[[西美濃三人衆]]（[[稲葉良通]]・[[氏家直元]]・[[安藤守就]]）などを味方につけた信長は、ついに永禄10年（[[1567年]]）、斎藤龍興を[[伊勢国|伊勢]][[長島町 (三重県)|長島]]に敗走させ、尾張・美濃の2ヶ国を領する大名になった（[[稲葉山城の戦い]]）。ときに信長33歳。このとき、井ノ口を[[岐阜市|岐阜]]と改称している&amp;lt;ref&amp;gt;出典：『[[信長公記]]』&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
同年11月には僧・沢彦から与えられた印文「'''天下布武'''」の朱印を信長は使用しはじめており&amp;lt;ref&amp;gt;林屋辰三郎『天下一統』中公文庫、105頁&amp;lt;/ref&amp;gt;、本格的に[[天下統一]]を目指すようになったとみられる。11月9日、[[正親町天皇]]は信長を「古今無双の名将」を褒めつつ、[[御料所]]の回復・[[誠仁親王]]の元服費用の拠出を求めたが、&amp;lt;ref&amp;gt;前者は[[綸旨]]、後者は[[女房奉書]]によって伝えられた。なお、天皇・朝廷のこうした動きは各地の大名に対して行われており、この時点では正親町天皇はさほど信長を特別視していたわけではなかったと思われる。[[藤井譲治]]「天皇と天下人」より&amp;lt;/ref&amp;gt;、信長は丁重に「まずもって心得存じ候」と返答したのみであった&amp;lt;ref&amp;gt;[[藤井譲治]]「天皇と天下人」より&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 上洛 ===&lt;br /&gt;
====中央幕府の情勢====&lt;br /&gt;
中央では、永禄8年（[[1565年]]）、かねて[[京都|京]]を中心に[[畿内]]で権勢を誇っていた[[三好氏]]の有力者[[三好三人衆]]（[[三好長逸]]・[[三好政康]]・[[岩成友通]]）と[[松永久秀]]が、幕府権力の復活を目指して三好氏と対立を深めていた将軍･足利義輝を暗殺し、第14代将軍として義輝の従弟・[[足利義栄]]を傀儡として擁立する（[[永禄の変]]）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
久秀らはさらに義輝の弟で僧籍にあった一乗院覚慶（[[足利義昭]]）の暗殺も謀ったが、義昭は[[一色藤長]]・[[和田惟政]]ら幕臣の支援を受けて奈良から脱出し、[[越前国]]の[[朝倉義景]]のもとに身を寄せていた。しかし、義景が三好氏追討の動きを見せなかったため、永禄11年（[[1568年]]）7月には美濃国の信長へ接近を図ってきた。信長は義昭の三好氏追討要請を応諾した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
====武田氏との外交====&lt;br /&gt;
美濃国において領国を接する[[甲斐国]]の[[武田信玄]]とは信玄の四男・諏訪勝頼（[[武田勝頼]]）に養女（[[遠山夫人]]）を娶らせることで同盟を結んだが、遠山夫人は永禄10年（1567年）11月、[[武田信勝]]を出産した直後に早世したため、同年末には信長の嫡男・信忠と信玄の六女・[[信松尼|松姫]]との婚姻を模索し友好的関係を持続させるなど、周囲の勢力と同盟を結んで国内外を固めた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 足利義昭上洛の警護 ====&lt;br /&gt;
永禄11年（1568年）9月、信長は他国侵攻の大義名分として将軍家嫡流の足利義昭を奉戴し、[[上洛]]を開始した。これに対して抵抗した南近江の[[六角義賢]]・[[六角義治|義治]]父子は織田軍の猛攻を受け、[[観音寺城]]が落城する（[[観音寺城の戦い]]）。六角父子は[[甲賀郡]]に後退、以降はゲリラ戦を展開した&amp;lt;ref&amp;gt;ただし、[[六角氏]]嫡流は別にあり、嫡流の[[六角義秀]]・[[六角義郷]]は信長に庇護されたとする異説もある。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
信長が上洛すると、[[三好長慶]]死後の内輪揉めにより崩壊しつつあった[[三好義継]]・松永久秀らは信長の実力を悟って臣従し、三好三人衆に属した他の勢力の多くは[[阿波国]]へ逃亡する。唯一抵抗していた[[池田勝正]]も信長に降伏した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
足利義昭を第15代将軍に擁立した信長は、[[和泉国|和泉]]一国の恩賞だけを賜り尾張へ帰国。この時、信長は義昭から管領・斯波家の家督継承もしくは管領代・[[副将軍]]の地位等を勧められたが、桐紋と斯波家並の礼遇だけを賜り遠慮したとされる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
永禄12年（[[1569年]]）1月、信長率いる織田軍主力が美濃国に帰還した隙を突いて、三好三人衆と斎藤龍興ら浪人衆が共謀し、足利義昭の[[御所]]である[[六条通|六条]][[本圀寺]]を攻撃した（[[六条合戦]]）。しかし、信長は豪雪の中をわずか2日で援軍に駆けつけるという機動力を見せた&amp;lt;ref&amp;gt;信長公記によれば、当時、岐阜から[[京都]]までは3日はかかったという。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
もっとも、浅井長政や池田勝正の援軍と[[明智光秀]]の奮戦により、三好・斎藤軍は信長の到着を待たず敗退していた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1月10日には三好軍と共同して決起した[[高槻城]]の[[入江春景]]を攻めた。春景は降伏したが、信長は再度の離反を許さず処刑し、和田惟政を高槻に入城させ、[[摂津国]]を守護・池田勝正を筆頭とし[[伊丹氏]]と惟政の3人に統治させた（[[摂津三守護]]）。同日、信長は三好三人衆に協力していた[[堺]]に2万貫の矢銭と服属を要求し、支払わせた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 伊勢侵攻 ===&lt;br /&gt;
同時期に[[伊勢国]]への侵攻も大詰めを迎える。伊勢は南朝以来の[[国司]]である[[北畠氏]]が最大勢力を誇っていたが、まず永禄11年（[[1568年]]）北伊勢の神戸具盛と講和し、三男の[[織田信孝]]を[[神戸氏]]の養子として送り込んだ。更に[[北畠具教]]の次男・[[長野具藤]]を内応により追放し、弟・[[織田信包]]を長野家当主とした。そして翌・永禄12年（[[1569年]]）8月20日、滝川一益の調略によって具教の実弟・[[木造具政]]が信長側に転じると、信長はその日の内に岐阜を出陣し南伊勢に進攻、北畠家の[[大河内城]]を大軍を率いて包囲、篭城戦の末10月3日に和睦し、次男・[[織田信雄]]を養嗣子として送り込んだ。後に北畠具教は幽閉され、[[天正]]4年（[[1576年]]）に信雄により殺害される。こうして信長は、養子戦略により北伊勢攻略を終える。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 第一次信長包囲網 ===&lt;br /&gt;
永禄12年（1569年）、信長は足利義昭の将軍としての権力を制限するため、『[[殿中御掟]]』9ヶ条の掟書、のちには追加7ヶ条を発令し、これを義昭に認めさせた。これによって義昭と信長の対立は決定的なものになったわけではなく、両者はお互いを利用し合う関係であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
3月、正親町天皇から「信長を副将軍に任命したい」という意向が伝えられたが、信長は何の返答もせず、事実上無視した&amp;lt;ref&amp;gt;藤井譲治「天皇と天下人」より&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[元亀]]元年（[[1570年]]）4月、信長は度重なる上洛命令を無視する朝倉義景を討伐するため、[[浅井氏]]との盟約を反故にし、盟友の徳川家康の軍勢とともに越前国へ進軍。織田・徳川連合軍は[[朝倉氏]]の諸城を次々と攻略していくが、[[金ヶ崎城|金ヶ崎]]で浅井氏離反の報告を受ける。挟撃される危機に陥った織田・徳川連合軍はただちに撤退を開始し、[[殿 (軍事用語)|殿]]を務めた池田勝正・[[明智光秀]]・[[豊臣秀吉|木下秀吉]]らの働きもあり、京に逃れた（[[金ヶ崎の戦い]]）。信長は先頭に立って真っ先に撤退し、僅か10名の共と一緒に京に到着したという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
同年6月、信長は浅井氏を討つべく、近江国[[姉川]]河原で徳川軍とともに浅井・朝倉連合軍と対峙。並行して浅井方の横山城を陥落させつつ、織田・徳川連合軍は勝利した（'''[[姉川の戦い]]'''）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
8月、信長は摂津国で挙兵した三好三人衆を討つべく出陣するが、その隙をついて石山本願寺が信長に対して挙兵した（[[野田城・福島城の戦い]]）。しかも、織田軍本隊が摂津国に対陣している間に軍勢を立て直した浅井・朝倉・延暦寺などの連合軍3万が近江国・[[坂本 (大津市)|坂本]]に侵攻する。織田軍は劣勢の中、重臣・森可成と信長の実弟・[[織田信治]]を喪った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
9月23日未明、信長は本隊を率いて摂津国から近江国へと帰還。慌てた浅井・朝倉連合軍は比叡山に立て籠もって抵抗した。信長はこれを受け、近江国・[[宇佐山城]]において浅井・朝倉連合軍と対峙する（[[志賀の陣]]）。しかし、その間に石山本願寺の[[法主]]・[[顕如]]の命を受けた伊勢の門徒が一揆を起こし（[[長島一向一揆]]）、信長の実弟・[[織田信興]]を自害に追い込んだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
11月21日、信長は六角義賢・義治父子と和睦し、ついで阿波から来た[[篠原長房]]と講和した&amp;lt;ref&amp;gt;林屋辰三郎『天下一統』中公文庫、143頁&amp;lt;/ref&amp;gt;。さらに足利義昭に朝倉氏との和睦の調停を依頼し、義昭は関白[[二条晴良]]に調停を要請した。そして正親町天皇に奏聞して[[勅命]]を仰ぎ、12月13日、勅命をもって浅井氏・朝倉氏との和睦に成功&amp;lt;ref&amp;gt;[[大久保忠教]]の記した『[[三河物語]]』によると、このとき信長は義景に対し「天下は朝倉殿が持ち給え。我は二度と望み無し」とまで言ったという。&amp;lt;/ref&amp;gt;。窮地を脱した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 第二次信長包囲網 ===&lt;br /&gt;
元亀2年（[[1571年]]）、信長は朝倉・浅井に味方した延暦寺を攻めた（'''[[比叡山焼き討ち (1571年)|比叡山焼き討ち]]'''）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一方この頃、甲斐国の武田信玄が信長への事前通告なしに徳川領へ侵攻&amp;lt;ref&amp;gt;近年では元亀2年の信玄による三河侵攻は根拠となる文書群の年代比定の誤りが指摘され、これは勝頼期の天正3年の出来事であった可能性も考えられている（鴨川達夫『武田信玄と勝頼』（岩波新書、2009）、柴裕之「戦国大名武田氏の遠江・三河侵攻再考」『武田氏研究』第37号、2007）。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
元亀3年（[[1572年]]）、石山本願寺が信長と和睦したものの、三好義継・松永久秀らが共謀して信長に謀反を起こした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
7月、信長は近江に出陣（[[虎御前山の戦い]]）。嫡男・奇妙丸（後の[[織田信忠]]）の[[初陣]]でもあった。戦況は織田軍有利に展開し、8月には朝倉義景に不満を抱いていた朝倉軍の[[前波吉継]]・[[富田長繁]]・[[毛屋猪介]]・[[戸田与次郞]]らが信長に寝返った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
9月、信長は足利義昭に対して17条の意見書を提出。信長と義昭の関係は決定的に悪化した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
11月、武田氏の秋山虎繁（信友）が、東美濃の[[岩村城]]を攻めたが、織田軍に敗退し、岩村城近辺の城はみな織田のものとなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
徳川領においては徳川軍が[[一言坂の戦い]]で武田軍に大敗し、さらに遠江国の要である[[二俣城]]が開城・降伏により不利な戦況となる（[[二俣城の戦い]]）。これに対して信長は、家康に佐久間信盛・[[平手汎秀]]ら3,000人の援軍を送ったが、12月の'''[[三方ヶ原の戦い]]'''で織田・徳川連合軍は武田軍に敗退。汎秀が討死した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1573（元亀4）年に入ると、武田軍は三河に侵攻し、2月に[[野田城 (三河国)|野田城]]を攻略した（[[野田城の戦い]]）。これに呼応して京の足利義昭が信長に対して挙兵したため、信長は岐阜から京都に向かって進軍した。信長が京都に着陣すると幕臣であった[[細川幽斎|細川藤孝]]や[[荒木村重]]らは義昭を見限り信長についた。信長は上京を焼打ちして義昭に脅しをかけてから義昭と和睦しようとした。義昭は初めこれを拒否していたが、正親町天皇からの勅命が出され、4月5日に義昭と信長はこれを受け入れて和睦した。4月12日、武田信玄は病死し、武田軍は甲斐国へ帰国した&amp;lt;ref&amp;gt;元亀年間に行われた武田氏の遠江・三河への侵攻や信長との対立は「[[西上作戦]]」と通称され、信玄は上洛を目指していたされてきたが、近年ではその実態や意図に疑問が呈されている（鴨川達夫『武田信玄と勝頼』（岩波新書、2007年）、柴裕之「戦国大名武田氏の遠江・三河侵攻再考」『武田氏研究』第37号、2007、柴辻俊六「武田信玄の上洛戦略と織田信長」『武田氏研究』第40号、2009　など&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
7月には再び抵抗の意思を示した足利義昭が[[二条城|二条御所]]や山城守護所（[[槇島城]]）に立て籠もったが、信長は義昭を破り追放し、これをもって室町幕府の勢力は京都から消滅した&amp;lt;ref&amp;gt;室町幕府の滅亡により、[[室町将軍]]は天皇王権を擁し、京都を中心とする周辺領域を支配し地方の諸大名を従属下におき紛争などを調停する「[[天下]]」主催者たる地位を喪失。信長が「天下」主催者としての地位を継承し、以降は諸大名を従属・統制下におく立場であったことが指摘されている（[[神田千里]]「織田政権の支配の論理に関する一考察」『東洋大学文学部紀要』2002、同『戦国乱世を生きる力』中央公論社、2002）。&amp;lt;/ref&amp;gt;。加えて7月28日には[[元号]]を元亀から[[天正]]へと改めることを[[朝廷]]に奏上し、これを実現させた&amp;lt;ref&amp;gt;ただし、朝廷では既に元亀3年の段階で改元を決定しており、同年3月29日には信長と義昭の下に使者を送っている（『御湯殿上日記』）。だが、義昭は改元に消極的であり、信長の17か条の詰問状でも批判の1つに挙げられている。信長は改元を支持することで、消極的な態度を見せる義昭排除の正当性を得るとともに、朝廷の望む改元を実現させることによって自己を室町幕府に代わる武家政権のトップとして朝廷に認めさせたとする評価がある（[[神田裕理]]「織豊期の改元」『戦国・織豊期の朝廷と公家社会』校倉書房、2011年）。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1573（天正1）年8月、信長は細川藤孝に命じて、[[淀古城|淀城]]に立て籠もる三好三人衆の一人・[[岩成友通]]を討伐した（第二次淀古城の戦い）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
同月、信長は3万人の軍勢を率いて越前国に侵攻。[[一乗谷城の戦い#刀根坂の戦い|刀根坂の戦い]]で朝倉軍を破り、朝倉義景は自刃した。9月、[[小谷城]]を攻略して浅井氏に勝利し、[[浅井久政]]・長政父子は自害し、長政の母・[[小野殿]]（阿古御料人）の指を一日一本ずつ切り落とした上で殺害した（執行を担当したのは秀吉であり、処刑方法が信長本人の意向か秀吉のものであるかは不明である）。なお、長政に嫁いでいた妹・お市らは落城前に落ち延びて信長が引き取った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
9月24日、信長は尾張・美濃・伊勢の軍勢を中心とした3万人の軍勢を率いて、伊勢長島に行軍した。織田軍は滝川一益らの活躍で半月ほどの間に長島周辺の敵城を次々と落とした。しかし撤退戦で[[林通政#林通政 (新次郎)|林通政]]が討死した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
11月、[[河内国]]の三好義継が足利義昭に同調して反乱を起こした。信長は佐久間信盛を総大将とした軍勢を河内国に送り込む。しかし、信長の実力を怖れた義継の家老・[[若江三人衆]]らによる裏切りで義継は11月16日に自害し、三好氏もここに滅亡した。12月26日、[[大和国]]の松永久秀も[[多聞山城]]を明け渡し、信長に降伏した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 長島一向一揆の制圧 ===&lt;br /&gt;
1574（天正2）年1月、越前で[[地侍]]と[[本願寺]][[門徒]]による反乱が起こり、守護代の[[前波吉継|桂田長俊]]が殺された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ほぼ同時期、武田勝頼が東美濃の[[明知城]]に侵攻。信長は迎撃に向かったが、到着前に明知城が落城。信長は撤退した。城の位置関係からして、この時は岩村城が武田方に同心していたようである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
3月、信長は上洛して[[従三位]][[参議]]に叙任された。このとき、信長は[[正親町天皇]]に対して「[[蘭奢待]]の切り取り」を奏請し、[[天皇]]はこれを[[勅命]]をもって了承した&amp;lt;ref&amp;gt;これは、信長が正親町天皇と密接な関係にあるということを諸国に知らしめるためであったといわれているがこれを契機に、信長の実力が[[朝廷]]からも認められていることを知った諸[[大名]]、特に[[奥州]]からは信長に対して誼を通じる使者が増えたと言われている。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
7月、信長は数万人の大軍で伊勢の[[長島一向一揆]]を殲滅、伊勢を完全に平定した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
翌天正3年（[[1575年]]）3月、荒木村重が[[大和田城]]を占領したのをきっかけに、織田信長は石山本願寺・[[高屋城]]周辺に10万兵の大軍で攻撃し、三好康長を降伏させた（[[高屋城の戦い]]）。高屋城を含む河内国の城は[[破城]]となり、[[松井友閑]]と三好康長の仲介のもと石山本願寺と一時的な和睦が成立した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 長篠の戦い ===&lt;br /&gt;
{{Main|長篠の戦い}}&lt;br /&gt;
信長包囲網の打破後、信長や徳川家康は甲斐の武田氏に対しても反攻を強めており、武田方は織田・徳川領への再侵攻を繰り返していた。天正3年（[[1575年]]）4月、勝頼は武田氏より離反し[[徳川氏]]の家臣となった[[奥平信昌|奥平貞昌]]を討つため、1万5,000人の軍勢を率いて貞昌の居城・[[長篠城]]に攻め寄せた。しかし奥平勢の善戦により武田軍は長篠城攻略に手間取る。その間の5月12日に信長は3万人の大軍を率いて岐阜から出陣し、5月17日に三河国の野田で徳川軍8,000人と合流する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
3万8,000人に増大した織田・徳川連合軍は5月18日、設楽原に陣を敷いた。そして5月21日、織田・徳川連合軍と武田軍の戦いが始まる（'''長篠の戦い'''）。信長は設楽原決戦においては5人の奉行に1,000丁余りの[[火縄銃]]を用いた射撃を行わせるなどし&amp;lt;ref&amp;gt;『[[信長公記]]』による。佐々成政、前田利家、野々村正成、福富秀勝、塙直政の5人。ただし、この部隊以外の部隊が所有した火縄銃の数は不明。また、徳川方の鉄炮衆もいる。さらに、鳶ヶ巣山砦攻撃別働隊には馬廻鉄炮衆五百が付けられている。いわゆる「三段撃ち」戦法については、実在を疑問視する学説もある。&amp;lt;/ref&amp;gt;、武田軍に圧勝する&amp;lt;ref&amp;gt;この戦いで武田氏の大軍から長篠城を防衛した奥平貞昌は、信長より[[偏諱]]を賜り信昌と改名している。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
6月27日、[[相国寺]]に上洛した信長は天台宗と真言宗の争論の事を知り、公家の中から5人の奉行を任命して問題の解決に当たらせた（[[絹衣相論]]を参照）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
7月3日、正親町天皇は信長に官位を与えようとしたが、信長はこれを受けず、家臣たちに官位や姓を与えてくれるよう申し出た。天皇はこれを認め、信長の申し出通りに、松井友閑に宮内卿法印、武井夕庵に二位法印、明智光秀に惟任日向守、[[簗田広正]]に別喜右近、塙直政に原田備中守、丹羽長秀に惟住、の官位と姓を与えた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 越前侵攻 ===&lt;br /&gt;
この頃、前年に信長から越前国を任されていた守護代・桂田長俊を殺害して越前国を奪った本願寺門徒では、内部分裂が起こっていた。門徒達は天正3年（1575年）1月、桂田長俊殺害に協力した富田長繁ら地侍も罰し、越前国を[[一揆]]の持ちたる国とした。顕如の命で守護代として[[下間頼照]]が派遣されるが、前領主以上の悪政を敷いたため、一揆の内部分裂が進んでいた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これを好機と見た信長は長篠の戦いが終わった直後の8月、越前国に行軍した。内部分裂していた一揆衆は協力して迎撃することができず、下間頼照や[[朝倉景健]]らを始め、12,250人を数える越前国・[[加賀国]]の門徒が織田軍によって討伐された&amp;lt;ref&amp;gt;このとき、信長は[[村井貞勝]]に対して、越前府中の凄惨なありさまを書状で「府中は死骸ばかりにて一円空き所無く候 見せたく候」と書き記している。&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;このとき従軍した[[前田利家]]の所業を記した石版も残っている。「一揆おこり そのまま前田又左衛門殿一揆千人ばかり生け捕りさせ候なり 御成敗は はっつけ 釜煎られ あぶられ候 かくのごとくに候 一筆書きとめ候」。&amp;lt;/ref&amp;gt;。越前国は再び織田領となり、信長は国掟を出した上で、越前八郡を柴田勝家に与えた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 右近衛大将就任および安土城築城===&lt;br /&gt;
[[ファイル:Nobunaganoyakata.JPG|thumb|250px|[[安土城天主信長の館]]（安土城復元天主） 滋賀県[[近江八幡市]][[安土町]]]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
天正3年（1575年）11月4日、信長は[[権大納言]]に叙任される、また、11月7日にはさらに[[近衛大将|右近衛大将]]（征夷大将軍に匹敵する官職で武家では武門の棟梁のみに許される）に叙任する。信長はこの就任にあたり、御所にて公卿を集め、室町将軍家の将軍就任式（[[陣座]]）の儀礼を挙行させた。以後、信長のよび名は「上様」となり将軍と同等とみなされた（足利義昭は近衛大将への昇進を望むも未だ近衛中将のままであったので内裏の近衛府の庁舎内では信長が上司ということになる）。同日、嫡子の信忠は[[秋田城介]]（[[鎮守府将軍]]になるための前官）に、次男の信雄は左近衛中将に叙任している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
11月28日、信長は1週間前に東美濃の要・岩村城を陥落させた嫡男・信忠に一大名家としての織田家の家督ならびに美濃・尾張などの織田家の領国（織田直割領）を譲った。しかし、引き続き信長は織田政権の政治・全軍を総括する立場にあった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
天正4年（[[1576年]]）1月、信長自身の指揮のもと[[琵琶湖]]湖岸に[[安土城]]の築城を開始する&amp;lt;ref&amp;gt;「安土」という地名は信長が命名したとも（「細川家記」）、元々あった地名だとも言われる。&amp;lt;/ref&amp;gt;。安土城は天正7年（[[1579年]]）に五層七重の豪華絢爛な城として完成した。[[天守]]内部は吹き抜けとなっていたと言われている。[[イエズス会]]の[[宣教師]]は「その構造と堅固さ、財宝と華麗さにおいて、それら（城内の邸宅も含めている）はヨーロッパの最も壮大な城に比肩しうるものである」と母国に驚嘆の手紙を送っている。信長は[[岐阜城]]を信忠に譲り、完成した安土城に移り住んだ。信長はここを拠点に[[天下統一]]に邁進することとなる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 第三次信長包囲網 ===&lt;br /&gt;
{{Main|信長包囲網#第三次包囲網}}&lt;br /&gt;
天正4年（1576年）1月、信長に誼を通じていた[[丹波国]]の[[波多野秀治]]が叛旗を翻した。さらに石山本願寺も再挙兵するなど、再び反信長の動きが強まり始める。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
信長は4月、明智光秀・荒木村重・[[塙直政]]を大将とした3万人の軍勢を[[大坂]]に派遣し、砦を構築させた。このうち塙が伏兵の襲撃に遭って大敗を喫し、直政を始め1,000人以上が戦死した。織田軍は本願寺軍の攻勢に窮し[[天王寺]]砦に立て籠もるが、本願寺軍はこれを包囲し、天王寺で織田軍は窮地に陥った。5月5日、信長は若江城に入り動員令を出したが、集まったのは3,000人ほどであった。5月7日早朝、その軍勢を率いて自ら先頭に立ち、天王寺砦を包囲する本願寺軍1万5,000人に攻め入り、信長自身も銃撃され負傷する激戦となった。信長自らの出陣で士気が高揚した織田軍は、光秀率いる天王寺砦の軍勢7,000人との連携に成功。本願寺軍を挟撃し、これを撃破した（[[天王寺砦の戦い]]）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その後、織田軍は石山本願寺を水陸から包囲し兵糧攻めにした。ところが7月13日、石山本願寺の援軍に現れた[[毛利水軍]]800隻の前に、織田水軍は敗れ、毛利軍により石山本願寺に[[兵糧]]・[[弾薬]]が運び込まれた（[[第一次木津川口の戦い]]）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この頃、越後守護で[[関東管領]]の上杉輝虎（[[上杉謙信]]）と信長との関係は悪化し&amp;lt;ref&amp;gt;信長は武田信玄の要請で武田と上杉謙信との和睦を仲介していたが（甲越和与）、[[元亀]]3年（[[1572年]]）10月信玄は信長への事前通告なしに織田・徳川氏領へ侵攻し、信長と武田氏は手切となり、上杉氏との共闘をもちかけている。謙信はこれに応じているが積極的に連携することはなく、武田氏で勝頼への当主交代が起こると和睦をもちかけている。&amp;lt;/ref&amp;gt;、謙信は天正4年（1576年）に石山本願寺と和睦し、信長との対立を明らかにした。謙信を盟主として、毛利輝元・石山本願寺・波多野秀治・[[紀伊国|紀州]][[雑賀衆]]などが反信長に同調し結託した。このような事情の中、11月21日に信長は正三位・内大臣に昇進している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 織田右府 ===&lt;br /&gt;
天正5年（[[1577年]]）2月、信長は、雑賀衆を討伐するために大軍を率いて出陣（[[紀州征伐#信長の紀州攻め|紀州攻め]]）するが、毛利水軍による背後援助や上杉軍の[[能登国]]侵攻などもあったため、3月に入ると雑賀衆の頭領・[[鈴木孫一]]らを降伏させ&amp;lt;ref&amp;gt;本願寺攻めに協力する誓紙を出させたが、人質の提供は無かった&amp;lt;/ref&amp;gt;、形式的な和睦を行ない、紀伊国から撤兵した。この頃、北陸戦線では織田軍の柴田勝家が、[[加賀国]]の[[手取川]]を越えて焼き討ちを行っている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
大和国の松永久秀がまたも信長を裏切り挙兵すると、信長は織田信忠を[[総大将]]とした大軍を[[信貴山城]]に派遣し、10月に松永を討ち取った（[[信貴山城の戦い]]）。久秀を討った10月、信長に抵抗していた[[亀山城 (丹波国)|丹波亀山城]]の[[内藤定政]]（丹波守護代）が病死する。織田軍はこの機を逃さず亀山城・[[籾井城]]・[[笹山城]]などの丹波国の諸城を攻略。同年、姉妹の[[お犬の方]]を丹波守護で[[管領]]を世襲する細川京兆家当主・[[細川信良|細川昭元]]の正室とすることに成功し丹波を掌握した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
11月、能登・加賀北部を攻略した上杉軍が加賀南部へ侵攻&amp;lt;ref&amp;gt;織田軍は手取川において1,000人余が討死し渡河の際にも多数の行方不明者を出した（[[手取川の戦い]]）というが、戦果を喧伝した謙信の書状以外に史料がなく、戦いが起こったかどうかは不明である。&amp;lt;/ref&amp;gt;。その結果、加賀南部は上杉家の領国に組み込まれ、北陸では上杉側が優位に立った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
11月20日、正親町天皇は信長を従二位・右大臣に昇進させた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
天正6年（[[1578年]]）1月にはさらに正二位に位を上げている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
3月13日、上杉謙信が急死。謙信には実子がなく、後継者を定めなかったため、[[養子]]の[[上杉景勝]]と[[上杉景虎]]が後継ぎ争いを始めた（[[御館の乱]]）。この好機を活かし信長は[[斎藤利治]]を総大将に、[[飛騨国]]から[[越中国]]に侵攻（[[月岡野の戦い]]）、上杉軍に勝利し優位に立った。その後、柴田勝家軍が上杉領の能登・加賀を攻略、越中国にも侵攻する勢いを見せた。かくしてまたも信長包囲網は崩壊した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 織田方面軍団の編成 ===&lt;br /&gt;
天正期に入ると、同時多方面に勢力を伸ばせるだけの兵力と財力が織田氏に具わっていた。信長は部下の武将に[[大名]]級の[[所領]]を与え、自由度の高い統治をさせ、周辺の攻略に当たらせた。研究者の間では、これら信長配下の新設大名を「[[軍団]]」「[[方面軍]]」と呼称し&amp;lt;ref&amp;gt;無論当時にはそのような名称は無かった。&amp;lt;/ref&amp;gt;、または信長軍・信長機動隊ともいう&amp;lt;ref name=&amp;quot;hujiki40&amp;quot;&amp;gt;藤木久志「天下統一と朝鮮侵略」講談社学術文庫、40頁&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
尾張の兵を弓衆・鉄砲衆・馬廻衆・小姓衆・小身衆など機動性を持った直属の軍団に編成し、天正4年（1576年）にはこれらを安土に結集させた&amp;lt;ref name=&amp;quot;hujiki40&amp;quot;/&amp;gt;。既に織田家には直属の指揮班である宿老衆や先手衆などがおり、これらと新編成軍との連携などを訓練した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
上杉景勝に対しては柴田勝家・[[前田利家]]・[[佐々成政]]らを、武田勝頼に対しては滝川一益・織田信忠らを、波多野秀治に対しては明智光秀・細川藤孝らを、毛利輝元に対しては羽柴秀吉を、石山本願寺に対しては佐久間信盛を配備した。&lt;br /&gt;
* 美濃・尾張・飛騨の抑え・[[織田信忠]]・[[斎藤利治]]・[[姉小路頼綱]]&lt;br /&gt;
* 対武田方面・[[滝川一益]]・[[織田信忠]]軍団（天正元年結成）&lt;br /&gt;
* 対本願寺方面・[[佐久間信盛]]軍団（天正4年結成 - 天正8年消滅）&lt;br /&gt;
* 北陸方面・[[柴田勝家]]軍団（天正4年昇格）&lt;br /&gt;
* 近畿方面・[[明智光秀]]軍団（天正8年昇格）&lt;br /&gt;
* 山陰・山陽方面・[[羽柴秀吉]]軍団（天正8年昇格）&lt;br /&gt;
* 関東方面・滝川一益軍団（天正10年結成）&lt;br /&gt;
* 四国方面・[[織田信孝]]・[[津田信澄]]・[[丹羽長秀]]・[[蜂屋頼隆]]軍団（天正10年結成）&lt;br /&gt;
* 東海道の抑え・[[徳川家康]]（形式的には同盟国であり織田軍団の一部ではない）&lt;br /&gt;
* 伊勢・伊賀方面の抑え・[[織田信雄]]・[[織田信包]]&lt;br /&gt;
*（紀伊方面の抑え・[[織田信張]]）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===中国侵攻===&lt;br /&gt;
天正6年（[[1578年]]）3月、[[播磨国]]の[[別所長治]]の謀反（[[三木合戦]]）が起こる、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
4月、突如として信長は右大臣・右近衛大将を辞職した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
7月、毛利軍が[[上月城]]を攻略し、信長の命により放置された[[山中幸盛]]ら[[尼子氏]]再興軍は処刑される（[[上月城の戦い]]）。10月には摂津国の荒木村重が[[有岡城]]に籠って信長から離反し（[[有岡城の戦い]]）、足利義昭・毛利氏・本願寺と手を結んで信長に抵抗する。一方、村重の[[与力]]であり東摂津に所領を持つ[[中川清秀]]・[[高山右近]]は村重にはつかなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
同年11月6日、信長は九鬼嘉隆の考案した[[鉄甲船]]を採用、6隻を建造し毛利水軍を撃破（[[第二次木津川口の戦い]]）。これにより石山本願寺と荒木は毛利軍の援助を受けられず孤立し、この頃から織田軍は優位に立つ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
天正7年（[[1579年]]）夏までに波多野秀治を降伏させ、処刑。同年9月、荒木村重が妻子を置き去りにして逃亡すると有岡城は落城し、荒木一族は処刑された。次いで10月、それまで毛利方であった[[備前国]]の[[宇喜多直家]]が服属すると、織田軍と毛利軍の優劣は完全に逆転する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
11月、信長は織田家の京屋敷・[[二条城#織田信長・誠仁親王の「二条新御所」|二条新御所]]を、[[皇太子]]である[[誠仁親王]]に進上した。同時に、信長は誠仁親王の五男・[[邦慶親王]]を[[猶子]]として、この邦慶親王も二条新御所に移っている&amp;lt;ref&amp;gt;「多聞院日記」より。なお多聞院日記によると、信長が御所を進上した相手は誠仁親王ではなく、猶子の邦慶親王の方だったようである。（藤井譲治『天皇と天下人』より）&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この年、信長は徳川家康の嫡男・[[松平信康]]に対し切腹を命じたとされる。表向きの理由は信康の12か条の乱行、築山殿の武田氏への内通などである。徳川家臣団は信長恭順派と反信長派に分かれて激しい議論を繰り広げたが、最終的に家康は築山殿を殺害し、信康に切腹させた（ただし、これに関しては、家康・信康父子の対立が原因で、信長は娘婿信康の処断について家康から了承を求められただけだとする説もある。詳細は[[松平信康#信康自刃事件について]]を参照）。また伊勢国の出城構築を[[伊賀国]]の[[国人]]に妨害されて立腹した織田信雄が、独断で伊賀国に侵攻し大敗を喫した。信長は信雄を厳しく叱責した（[[伊賀流#天正伊賀の乱|第一次天正伊賀の乱]]）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
天正8年（[[1580年]]）1月、別所長治が切腹し、三木城が開城。4月には正親町天皇の勅命のもと本願寺軍も織田軍に有利な条件を呑んで和睦し、大坂から退去した。同年には播磨国、[[但馬国]]をも攻略した。8月、信長は[[譜代]]の老臣・佐久間信盛とその嫡男・[[佐久間信栄]]に対して折檻状を送り付け、本願寺との戦に係る不手際などを理由に、高野山への追放か討ち死に覚悟で働くかを迫った。佐久間親子は高野山行きを選んだ。さらに、古参の林秀貞と[[安藤守就]]も、かつてあった謀反の企てや一族が敵と内通したことなどを蒸し返して、これを理由に追放した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
天正9年（[[1581年]]）には[[鳥取城]]を兵糧攻めで落とし[[因幡国]]を攻略、さらには[[岩屋城]]を落として[[淡路国]]を攻略した。同年、信雄を総大将とする4万人の軍勢が伊賀国を攻略。伊賀国は織田氏の領地となった（第二次天正伊賀の乱）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 京都御馬揃え～左大臣推任 ===&lt;br /&gt;
天正9年（1581年）、信長は絶頂期にあった。2月28日には京都の[[内裏]]東の馬場にて大々的なデモンストレーションを行なっている。いわゆる[[京都御馬揃え]]であるが、これには信長はじめ織田一門のほか、[[丹羽長秀]]ら織田軍団の武威を示すものであった&amp;lt;ref&amp;gt;「貴賎群衆の輩 かかるめでたき御代に生まれ合わせ …（中略）… あり難き次第にて上古 末代の見物なり」（[[信長公記]]）&amp;lt;/ref&amp;gt;。このときの馬揃えには正親町天皇を招待している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
3月7日、天皇は信長を左大臣に推任。9日にこの意向が信長に伝えられ、信長は「正親町天皇が譲位し、誠仁親王が即位した際にお受けしたい」と返答した。朝廷はこの件について話し合い、信長に朝廷の意向が伝えられた。24日、信長からの返事が届き、朝廷はこれに満足した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし4月1日、信長は突然「今年は[[金神]]の年なので譲位には不都合」と言い出した。譲位と信長の左大臣就任は延期されることになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 高野山包囲 ===&lt;br /&gt;
同・天正9年（1581年）、[[高野山]]が[[荒木村重]]の残党を匿ったり、足利義昭と通じるなど、信長と敵対する動きを見せる。『信長公記』によれば、信長は使者十数人を差し向けたが、高野山が使者を全て殺害した。一方、『高野春秋』では荒木村重探索の松井友閑の兵32名が高野山の領民に乱暴狼藉を働いたために高野山側がこれを殺害したと記している。いずれにしても、この行動に激怒した信長は、織田領における[[高野聖]]数百人を捕らえる（高野聖は[[諜報活動]]を行っていたともいう）と共に、[[河内国]]や[[大和国]]の諸大名に命じて高野山を包囲させた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
5月に越中国を守っていた上杉氏の武将・[[河田長親]]が急死した隙を突いて織田軍は越中に侵攻、同国の過半を支配下に置いた。3月23日には[[高天神城]]を奪回し、武田氏を追い詰めた。紀州では雑賀党が内部分裂し、信長支持派の鈴木孫一が反信長派の[[土橋平次]]らと争うなどして勢力を減退させた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 武田征伐 ===&lt;br /&gt;
{{Main|武田征伐}}&lt;br /&gt;
長篠合戦の敗退後、武田勝頼は越後上杉氏との[[甲越同盟]]の締結や[[新府城]]築城などで領国再建を図る一方、人質であった[[織田勝長]]（信房）を返還することで信長との和睦（甲江和与）を模索したが進まず、新府城築城のための普請増大などで却って国人衆には不満が増大していた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
天正10年（[[1582年]]）2月1日、武田信玄の娘婿であった[[木曾義昌]]が信長に寝返る。2月3日に信長は武田領国への本格的侵攻を行うための大動員令を信忠に発令。駿河国から家康、相模国から[[北条氏直]]、[[飛騨国]]から[[金森長近]]、[[木曽地域|木曽]]から織田信忠が、それぞれ武田領攻略を開始した。信忠軍は軍監・[[滝川一益]]と信忠の譜代衆となる河尻秀隆・[[森長可]]・[[毛利秀頼|毛利長秀]]等で構成され、この連合軍の兵数は10万人余に上った。武田軍は、[[伊那城]]の城兵が城将・[[下条信氏]]を追い出して織田軍に降伏。さらに[[信濃国]]の[[松尾城 (信濃国伊那郡)|松尾城]]主・[[小笠原信嶺]]、[[江尻城]]主・[[穴山信君]]らも先を争うように連合軍に降伏し、武田軍は組織的な抵抗が出来ず済し崩し的に敗北する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
信忠軍は猛烈な勢いで武田領に侵攻し武田側の城を次々に占領していき、信長が武田征伐に出陣した3月8日に信忠は武田領国の本拠である[[甲府]]を占領し、3月11日には甲斐都留郡の田野において滝川一益が武田勝頼・信勝父子を討ち取り、ここに武田氏は滅亡した&amp;lt;ref&amp;gt;俗説ではあるが、最後の武田攻めの際、明智光秀が「ここまで来られて、我々も骨を負った甲斐があった」と語ったところ、信長の逆鱗に触れ、光秀は欄干に頭を打ち付けられたともいわれている。&amp;lt;/ref&amp;gt;。また駿河国を徳川家康に、[[上野国]]を滝川一益に与え、旧武田領の監督を命じ、甲斐国を河尻秀隆、北信濃を森長可、南信濃を毛利長秀に与え一益の与力に付けて、北条氏直への抑えとしつつも同盟関係を保った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 三職推任 ===&lt;br /&gt;
4月、正親町天皇は信長を太政大臣・関白・征夷大将軍のいずれかに任じたいという意向を示し、5月に信長に伝えられた（[[三職推任問題]]）。しかし信長は使者に対して何も返答しないままだった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 本能寺の変 ===&lt;br /&gt;
[[ファイル:Honnoj.jpg|thumb|280px|『本能寺焼討之図』 [[楊斎延一]]（ようさい のぶかず）画（[[明治]]時代作成の[[武者絵]]。[[名古屋市]]所蔵）]]&lt;br /&gt;
{{Main|本能寺の変}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
信長は[[四国]]の[[長宗我部元親]]攻略に向け、三男の神戸信孝、重臣の丹羽長秀・[[蜂屋頼隆]]・[[津田信澄]]の軍団を派遣する準備を進めていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また北陸方面では柴田勝家が富山城、魚津城を攻撃（[[魚津城の戦い]]）。上杉氏は北の[[新発田重家の乱]]に加え、北信濃方面から森長可、上野方面から滝川一益の進攻を受け、東西南北の全方面で守勢に立たされていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
5月15日、駿河国加増の礼と武田征伐の戦勝祝いのため、徳川家康が安土城を訪れた。そこで信長は明智光秀に接待役を命じる。光秀は15日から17日にわたって家康を手厚くもてなした。家康接待が続く中、信長は[[備中高松城]]攻めを行なっている羽柴秀吉の使者より援軍の依頼を受けた。信長は光秀の接待役の任を解き、秀吉への援軍に向かうよう命じた。後世、『[[明智軍記]]』などによって[[江戸時代]]以降流布される俗説では、この時、光秀の接待内容に不満を覚えた信長は[[小姓]]の[[森成利]]（蘭丸）に命じて光秀の頭をはたかせた、としている&amp;lt;ref&amp;gt;この時の[[献立]]は「天正十年安土御献立」『[[続群書類従]]』に記録されているが、この時の献立は前年の家康接待（饗応役は不明）の際の献立（「御献立集」）のと比べて遜色の無い点が指摘される（[[江後迪子]]『信長のおもてなし』2007）&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
5月29日、信長は[[中国地方|中国]]遠征の出兵準備のために上洛し、[[本能寺]]に逗留していた。ところが、秀吉への援軍を命じていたはずの明智軍が突然京都に進軍し、[[6月2日 (旧暦)|6月2日]]に本能寺を襲撃する。この際に光秀は部下の信長に寄せる忠誠の篤きを考慮し、現に光秀への忠誠を誓う者が少なかったため、侵攻にあたっては標的が信長であることを伏せていたことが[[本城惣右衛門覚書]]からもうかがえる。100人ほどの手勢しか率いていなかった信長であったが、初めは自ら[[槍]]を手に奮闘した。しかし圧倒的多数の明智軍には敵わず、居間に戻った信長は自ら火を放ち、燃え盛る炎の中で自害した。[[享年]]49（満48歳没）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
光秀の娘婿・[[明智秀満]]が信長の遺体を探したが見つからなかった。当時の本能寺は織田勢の補給基地的に使われていたため、火薬が備蓄されており、信長の遺体が爆散してしまったためと考えられる。しかしながら、密かに脱出し別の場所で自害したという説や、信長を慕う僧侶と配下によって人知れず埋葬されたという説もある。なお、最後まで信長に付き従っていた者の中に[[黒人]]の家来・[[弥助]]がいた。弥助は、光秀に捕らえられたものの後に放免となっている。それ以降、弥助の動向については不明である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[平成]]19年（[[2007年]]）に行われた本能寺跡の発掘調査では、本能寺の変と同時期にあったとされる堀跡や大量の焼け瓦が発見された。これにより、城塞としての機能や謀反に備えていた可能性が指摘されており、現在も調査が続いている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==人物像==&lt;br /&gt;
「怒りっぽかった」という記録ははっきり言って当てにならない。中世の記録はたいがいこうやって脚色してあるものだからである。考えてみたまえ。庶民が法を犯すたびに怒る統治者など存在するわけがない。まあ短気ではあっただろう。即断即決でなければ生きていけない世の中だったのだから。しかし判断が早いというのと、感情が動き易いということとは全く違う。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==アホ学者の通説を斬る！==&lt;br /&gt;
立花京子&lt;br /&gt;
*『天皇は武力によって君臨しているわけではないから、武力による脅しは無意味』（by「黄金太閤」）&lt;br /&gt;
**？？？天皇が何の正当性をもって君臨しているかという事と、天皇に武力による脅しが通じるかという事に、いったい何の関係があるんだ？天皇だって人の子だ。刀をつきつけて「譲位しろ」と脅せば、ビビって「はい」と言ってしまうことだってあるだろう。過去に毒殺された親王だっている。もし「信長が天皇から武力を奪おうとした」という事実があって、それへの反論としてこう言うなら分かるのだが。どうもこのへんの歴史学者というのはいまだに天皇を崇拝しているようで困る。&lt;br /&gt;
**まあ馬揃えはどうでもいいんだけどね。ちなみに天皇が馬揃えを見たがったのは、自分の方が信長より上位であるという関係を民衆に見せたかったから。それ以外にあるわけないじゃんｗ　天皇の言葉をそのまま受け取ってしまうようじゃあ政治は語れないのである。&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Minagoroshida</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%B9%94%E7%94%B0%E4%BF%A1%E9%95%B7&amp;diff=155612</id>
		<title>織田信長</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%B9%94%E7%94%B0%E4%BF%A1%E9%95%B7&amp;diff=155612"/>
				<updated>2012-03-25T18:37:32Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Minagoroshida: /* 伊勢侵攻と北畠家簒奪 */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''織田 信長'''（おだ のぶなが）は、[[日本]]の[[戦国時代]]の人物。戦争と混乱に満ちた16世紀の日本を統一へと導いた。日本の政治上・軍事上最大の天才とも言われる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==概要==&lt;br /&gt;
平安時代、朝廷の軍事力の著しい低下によって日本全国の治安が非常に悪化したため、庶民は武装して身を守った。このために延々と内乱が続き、国は乱れに乱れていた。この戦乱を終わらせる終わらせる事業の大変を行ったのが織田信長である。彼は日本全国を統治する前に死んでしまったものの、実質的には彼が戦乱を終わらせたと言える。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==信長の計画==&lt;br /&gt;
まずは地盤を固める&lt;br /&gt;
↓&lt;br /&gt;
幕府あるいは朝廷という既存の権威を利用し、また隠れ蓑にもしつつ改革を行う&lt;br /&gt;
↓&lt;br /&gt;
自身の権威がそれらを越え次第、自身を神格化し、名実ともに日本の頂点に立つ&lt;br /&gt;
↓&lt;br /&gt;
余剰の軍事力は海外に向ける&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 生涯 ==&lt;br /&gt;
&amp;lt;small&amp;gt;※日付は[[和暦]]による[[旧暦]]。[[西暦]]表記の部分は[[ユリウス暦]]とする。&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 少年期 ===&lt;br /&gt;
[[天文 (元号)|天文]]3年（[[1534年]]）5月12日、[[尾張国]]の[[戦国大名]]・[[織田信秀]]の[[嫡男]]として、[[那古野城]]&amp;lt;ref&amp;gt;『[[国史大辞典 (昭和時代)|国史大辞典]]』　織田信長の項目　[[吉川弘文館]]。一般的には那古野城生まれを定説とするが、織田信秀の那古野城奪取をめぐって異説も存在する。&amp;lt;/ref&amp;gt;（現在の[[名古屋市]][[中区 (名古屋市)|中区]]）（[[勝幡城]]説もある&amp;lt;ref&amp;gt;『[[尾州古城志]]』&amp;lt;/ref&amp;gt;）で生誕。幼名は'''吉法師'''。なお、信長の生まれた「織田弾正忠家」は、尾張国の[[守護大名]]・[[斯波氏]]の[[被官]]で下四郡（海東郡・海西郡・愛知郡・知多郡）の[[守護代]]に補任された織田大和守家（清洲織田家）の家臣にして分家であり、[[清洲三奉行]]・古渡城主という家柄であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
母・[[土田御前]]が信秀の[[正室]]であったため嫡男となり、2歳にして那古野城主となる。幼少から青年時にかけて奇妙な行動が多く、周囲から'''尾張の大うつけ'''と称されていた。日本へ伝わった[[種子島銃]]に関心を持った挿話などが知られる。また、身分にこだわらず、民と同じように町の若者とも戯れていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
まだ世子であった頃、表面的に家臣としての立場を守り潜在的な緊張関係を保ってきた主筋の「織田大和守家」の支配する[[清洲城]]下に数騎で火を放つなど、父・信秀も寝耳に水の行動をとり、豪胆さを早くから見せた。また、[[今川氏]]へ人質として護送される途中で[[松平氏]]家中の[[戸田康光]]の裏切りにより[[織田氏]]に護送されてきた松平竹千代（後の[[徳川家康]]）と幼少期を共に過ごし、後に両者は固い盟約関係を結ぶこととなる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
天文15年（[[1546年]]）、[[古渡城]]にて[[元服]]し、'''上総介信長'''と称する。天文17年（[[1548年]]）、父・信秀と敵対していた[[美濃国]]の[[戦国大名]]・[[斎藤道三]]との和睦が成立すると、道三の娘・[[濃姫]]と政略結婚した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
天文18年（[[1549年]]）（異説では天文22年（[[1553年]]））に信長は[[聖徳寺 (名古屋市)|正徳寺]]で道三と会見し、その際に道三はうつけ者と呼ばれていた信長の器量を見抜いたとの逸話がある。また同年には、近江の[[国友|国友村]]に火縄銃500丁を注文したという&amp;lt;ref&amp;gt;「国友鉄砲記」より。正徳寺での会見には、兵に鉄砲500丁を持たせていったと「信長公記」にあり、これが国友村から購入した鉄砲だという可能性もある。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
天文20年（[[1551年]]）、父・信秀が没した為、家督を継ぐ&amp;lt;ref&amp;gt;信秀の葬儀において祭壇に[[抹香]]を投げつけたというエピソードが残っている。このような行為におよんだ理由は、うつけ者を装うため、葬儀を政治的に利用した信勝への抗議など諸説あるが、いずれも推測の域を出ていない。後年の創作という意見もあるが、1次史料である信長公記にまで書かれているため、全くの創作とは考えにくい。&amp;lt;/ref&amp;gt;。天文22年（[[1553年]]）、信長の教育係であった[[平手政秀]]が自害。これは諌死であったとも、息子・五郎右衛門と信長の確執のためともされる。信長は嘆き悲しみ、師匠の[[沢彦]]和尚を開山として[[政秀寺]]を建立し、政秀の霊を弔った。天文23年（[[1554年]]）には、[[村木砦の戦い]]で今川勢を破っている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 家督争いから尾張統一・上洛 ===&lt;br /&gt;
当時、尾張国は[[今川氏]]の尾張侵攻により[[守護]]の[[斯波氏]]の力が衰え、尾張下四郡を支配した[[守護代]]であった「織田大和守家」当主で[[清洲城]]主の[[織田信友]]が実権を掌握していた。信長の父・信秀はその信友に仕える三奉行の一人に過ぎなかったにも関わらず、その智勇をもって尾張中西部に支配権を拡大した。信秀の死後、信長が跡を継ぐと、信友は信長の弟・[[織田信行]]（信勝）の家督相続を支持して信長と敵対し、信長謀殺計画を企てるが、信友により傀儡にされていた[[守護]]・[[斯波義統]]が、計画を信長に密告した。これに激怒した織田信友は斯波義統の嫡子・[[斯波義銀|義銀]]が手勢を率いて川狩に出た隙に義統を殺害する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
斯波義銀が落ち延びてくると、信長は叔父の[[守山城 (尾張国)|守山城]]主・[[織田信光]]と協力し、信友を主君を殺した謀反人として殺害する。こうして「織田大和守家」は滅び、信長は那古野城から清洲城へ本拠を移し、尾張国の[[守護所]]を手中に収めた。これにより、織田氏の[[庶家]]の生まれであった信長が名実共に織田氏の頭領となった。なお信光も死亡しているが、死因は不明である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[弘治 (日本)|弘治]]2年（[[1556年]]）4月、義父・斎藤道三が子の[[斎藤義龍]]との戦いに敗れて戦死（[[長良川の戦い]]）。信長は道三救援のため、木曽川を越え美濃の大浦まで出陣するも、道三を討ち取り勢いに乗った義龍軍に苦戦し、道三敗死の知らせにより退却した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
こうした中、信長の当主としての器量を疑問視した重臣の[[林秀貞]]（通勝）・[[林通具]]・[[柴田勝家]]らは、信長を廃して聡明で知られた弟・信勝（信行）を擁立しようとした。これに対して信長には[[森可成]]・[[佐久間盛重]]・[[佐久間信盛]]らが味方し、両派は対立する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
道三の死去を好機と見た信勝派は、同年[[8月24日]]に挙兵して戦うも敗北（[[稲生の戦い]]）。その後、[[末盛城]]に籠もった信勝を包囲するが、生母・土田御前の仲介により、信勝・勝家らを赦免した。更に同年中に庶兄の信広も斎藤義龍と結んで清洲城の簒奪を企てたが、これは事前に情報を掴んだ為に未遂に終わり、信広は程なくして降伏し、赦免されている。しかし、弘治3年（[[1557年]]）に信勝は再び謀反を企てる。この時、稲生の戦いの後より信長に通じていた柴田勝家の密告があり、事態を悟った信長は病と称して信勝を清洲城に誘い出し殺害した。直接手を下したのは[[河尻秀隆]]とされている&amp;lt;ref&amp;gt;信長公記では、河尻と青貝という2人の家臣が、フロイス日本史では信長が直接殺したことになっている。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
さらに信長は、同族の[[犬山城]]主・[[織田信清]]と協力し、旧主「織田大和守家」の宿敵で織田一門の[[宗家]]であった尾張上四郡（丹羽郡・葉栗郡・中島郡・春日井郡）の守護代「織田伊勢守家」（岩倉織田家）の[[岩倉城 (尾張国)|岩倉城]]主・[[織田信賢]]を破って（[[浮野の戦い]]）これを追放。新たに守護として擁立した斯波義銀が斯波一族の[[石橋氏]]・[[吉良氏]]と通じて信長の追放を画策していることが発覚すると、義銀を尾張から追放した。こうして、[[永禄]]2年（[[1559年]]）までには尾張国の支配権を確立し、信長は尾張の国主となった。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
永禄2年（[[1559年]]）2月2日、信長は100名ほどの軍勢を引き連れて[[上洛]]し、[[室町幕府]]13代[[征夷大将軍|将軍]]・[[足利義輝]]に謁見した。当時、義輝は尾張守護・斯波家（武衛家）の邸宅を改修して住しており、信長はそこへ出仕した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 桶狭間の戦いから清洲同盟へ ===&lt;br /&gt;
1560（永禄3）年5月、[[今川義元]]が尾張国へ侵攻。[[駿河国|駿河]]・[[遠江国|遠江]]の本国に加え[[三河国|三河]]を分国として支配する今川氏の軍勢は、2万人以上の大軍であった。兵力で劣る織田軍は苦戦を強いられた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
永禄3年（[[1560年]]）5月19日午後1時頃、信長は[[幸若舞]]『[[敦盛 (幸若舞)|敦盛]]』を舞った後&amp;lt;ref name=&amp;quot;atsumori&amp;quot;&amp;gt;'''幸若舞'''の敦盛は口伝で伝えられていたために、長らく節回しや詳細な振り付けが不明となっていた。そのため、映像作品などでは'''謡曲'''の敦盛で代用されていた。しかし、近年になって幸若舞の敦盛も復刻されている。（詳細は[[敦盛 (幸若舞)]]を参照）&amp;lt;/ref&amp;gt;、昆布と勝ち栗を前に置き、立ったまま[[湯漬け]]（出陣前に、米飯に熱めの湯をかけて食べるのが武士の慣わし）を食べ、出陣した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
信長はまず[[熱田神宮]]に参拝。その後、[[善照寺砦]]で2000人の軍勢を整えて出撃。今川軍の陣中に強襲をかけ今川氏の前当主で隠居の義元を討ち取った。総大将を失った今川軍は、当主・氏真の命で本国駿河国に退却した（'''桶狭間の戦い'''）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
桶狭間の戦いの後、今川氏は三河の松平氏の離反等により、急激に衰退した。これを機に、信長は徳川家康（この頃、松平元康より改名）と手を結ぶことになる。それまで織田家と松平家は敵対関係にあり、幾度も戦っていたが、信長は美濃国の[[斎藤氏]]攻略のため、家康も駿河国の[[今川氏真]]らに対抗する必要があった為、こちらの利害関係を優先させたものと思われる。両者は永禄5年（[[1562年]]）、同盟を結んで互いに背後を固めた（'''清洲同盟'''）。この同盟は信長死後まで維持された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 美濃攻略と天下布武 ===&lt;br /&gt;
斎藤道三亡き後、信長と斎藤氏との関係は険悪なものとなっていた。桶狭間の戦いと前後して両者の攻防は一進一退の様相を呈していた。しかし、永禄4年（[[1561年]]）に斎藤義龍が急死し、嫡男・[[斎藤龍興]]が後を継ぐと、信長は美濃に出兵し勝利（[[森部の戦い]]）。織田家は優位に立ち、斎藤氏は家中で分裂が始まる。永禄7年（[[1564年]]）には北[[近江国]]の[[浅井長政]]と同盟を結び、斎藤氏への牽制を強化している。その際、信長は妹・[[お市の方|お市]]を輿入れさせた。一方で、信長は永禄8年（[[1565年]]）より[[滝川一益]]の援軍依頼により伊勢方面にも進出し、[[神戸具盛 (7代目当主)|神戸具盛]]など当地の諸氏とも戦っている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
永禄9年（[[1564年]]から[[1565年]]）、[[竹中重治]]と[[安藤守就]]が[[岐阜城]]を占拠後、[[加治田城]]主の[[佐藤忠能]]を味方にして[[中濃]]の諸城を手に入れ（[[中濃攻略戦]]）、さらに[[西美濃三人衆]]（[[稲葉良通]]・[[氏家直元]]・[[安藤守就]]）などを味方につけた信長は、ついに永禄10年（[[1567年]]）、斎藤龍興を[[伊勢国|伊勢]][[長島町 (三重県)|長島]]に敗走させ、尾張・美濃の2ヶ国を領する大名になった（[[稲葉山城の戦い]]）。ときに信長33歳。このとき、井ノ口を[[岐阜市|岐阜]]と改称している&amp;lt;ref&amp;gt;出典：『[[信長公記]]』&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
同年11月には僧・沢彦から与えられた印文「'''天下布武'''」の朱印を信長は使用しはじめており&amp;lt;ref&amp;gt;林屋辰三郎『天下一統』中公文庫、105頁&amp;lt;/ref&amp;gt;、本格的に[[天下統一]]を目指すようになったとみられる。11月9日、[[正親町天皇]]は信長を「古今無双の名将」を褒めつつ、[[御料所]]の回復・[[誠仁親王]]の元服費用の拠出を求めたが、&amp;lt;ref&amp;gt;前者は[[綸旨]]、後者は[[女房奉書]]によって伝えられた。なお、天皇・朝廷のこうした動きは各地の大名に対して行われており、この時点では正親町天皇はさほど信長を特別視していたわけではなかったと思われる。[[藤井譲治]]「天皇と天下人」より&amp;lt;/ref&amp;gt;、信長は丁重に「まずもって心得存じ候」と返答したのみであった&amp;lt;ref&amp;gt;[[藤井譲治]]「天皇と天下人」より&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 上洛 ===&lt;br /&gt;
====中央幕府の情勢====&lt;br /&gt;
中央では、永禄8年（[[1565年]]）、かねて[[京都|京]]を中心に[[畿内]]で権勢を誇っていた[[三好氏]]の有力者[[三好三人衆]]（[[三好長逸]]・[[三好政康]]・[[岩成友通]]）と[[松永久秀]]が、幕府権力の復活を目指して三好氏と対立を深めていた将軍･足利義輝を暗殺し、第14代将軍として義輝の従弟・[[足利義栄]]を傀儡として擁立する（[[永禄の変]]）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
久秀らはさらに義輝の弟で僧籍にあった一乗院覚慶（[[足利義昭]]）の暗殺も謀ったが、義昭は[[一色藤長]]・[[和田惟政]]ら幕臣の支援を受けて奈良から脱出し、[[越前国]]の[[朝倉義景]]のもとに身を寄せていた。しかし、義景が三好氏追討の動きを見せなかったため、永禄11年（[[1568年]]）7月には美濃国の信長へ接近を図ってきた。信長は義昭の三好氏追討要請を応諾した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
====武田氏との外交====&lt;br /&gt;
美濃国において領国を接する[[甲斐国]]の[[武田信玄]]とは信玄の四男・諏訪勝頼（[[武田勝頼]]）に養女（[[遠山夫人]]）を娶らせることで同盟を結んだが、遠山夫人は永禄10年（1567年）11月、[[武田信勝]]を出産した直後に早世したため、同年末には信長の嫡男・信忠と信玄の六女・[[信松尼|松姫]]との婚姻を模索し友好的関係を持続させるなど、周囲の勢力と同盟を結んで国内外を固めた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 足利義昭上洛の警護 ====&lt;br /&gt;
永禄11年（1568年）9月、信長は他国侵攻の大義名分として将軍家嫡流の足利義昭を奉戴し、[[上洛]]を開始した。これに対して抵抗した南近江の[[六角義賢]]・[[六角義治|義治]]父子は織田軍の猛攻を受け、[[観音寺城]]が落城する（[[観音寺城の戦い]]）。六角父子は[[甲賀郡]]に後退、以降はゲリラ戦を展開した&amp;lt;ref&amp;gt;ただし、[[六角氏]]嫡流は別にあり、嫡流の[[六角義秀]]・[[六角義郷]]は信長に庇護されたとする異説もある。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
信長が上洛すると、[[三好長慶]]死後の内輪揉めにより崩壊しつつあった[[三好義継]]・松永久秀らは信長の実力を悟って臣従し、三好三人衆に属した他の勢力の多くは[[阿波国]]へ逃亡する。唯一抵抗していた[[池田勝正]]も信長に降伏した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
足利義昭を第15代将軍に擁立した信長は、[[和泉国|和泉]]一国の恩賞だけを賜り尾張へ帰国。この時、信長は義昭から管領・斯波家の家督継承もしくは管領代・[[副将軍]]の地位等を勧められたが、桐紋と斯波家並の礼遇だけを賜り遠慮したとされる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
永禄12年（[[1569年]]）1月、信長率いる織田軍主力が美濃国に帰還した隙を突いて、三好三人衆と斎藤龍興ら浪人衆が共謀し、足利義昭の[[御所]]である[[六条通|六条]][[本圀寺]]を攻撃した（[[六条合戦]]）。しかし、信長は豪雪の中をわずか2日で援軍に駆けつけるという機動力を見せた&amp;lt;ref&amp;gt;信長公記によれば、当時、岐阜から[[京都]]までは3日はかかったという。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
もっとも、浅井長政や池田勝正の援軍と[[明智光秀]]の奮戦により、三好・斎藤軍は信長の到着を待たず敗退していた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1月10日には三好軍と共同して決起した[[高槻城]]の[[入江春景]]を攻めた。春景は降伏したが、信長は再度の離反を許さず処刑し、和田惟政を高槻に入城させ、[[摂津国]]を守護・池田勝正を筆頭とし[[伊丹氏]]と惟政の3人に統治させた（[[摂津三守護]]）。同日、信長は三好三人衆に協力していた[[堺]]に2万貫の矢銭と服属を要求し、支払わせた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 伊勢侵攻 ===&lt;br /&gt;
同時期に[[伊勢国]]への侵攻も大詰めを迎える。伊勢は南朝以来の[[国司]]である[[北畠氏]]が最大勢力を誇っていたが、まず永禄11年（[[1568年]]）北伊勢の神戸具盛と講和し、三男の[[織田信孝]]を[[神戸氏]]の養子として送り込んだ。更に[[北畠具教]]の次男・[[長野具藤]]を内応により追放し、弟・[[織田信包]]を長野家当主とした。そして翌・永禄12年（[[1569年]]）8月20日、滝川一益の調略によって具教の実弟・[[木造具政]]が信長側に転じると、信長はその日の内に岐阜を出陣し南伊勢に進攻、北畠家の[[大河内城]]を大軍を率いて包囲、篭城戦の末10月3日に和睦し、次男・[[織田信雄]]を養嗣子として送り込んだ。後に北畠具教は幽閉され、[[天正]]4年（[[1576年]]）に信雄により殺害される。こうして信長は、養子戦略により北伊勢攻略を終える。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 第一次信長包囲網 ===&lt;br /&gt;
永禄12年（1569年）、信長は足利義昭の将軍としての権力を制限するため、『[[殿中御掟]]』9ヶ条の掟書、のちには追加7ヶ条を発令し、これを義昭に認めさせた。これによって義昭と信長の対立は決定的なものになったわけではなく、両者はお互いを利用し合う関係であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
3月、正親町天皇から「信長を副将軍に任命したい」という意向が伝えられたが、信長は何の返答もせず、事実上無視した&amp;lt;ref&amp;gt;藤井譲治「天皇と天下人」より&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[元亀]]元年（[[1570年]]）4月、信長は度重なる上洛命令を無視する朝倉義景を討伐するため、[[浅井氏]]との盟約を反故にし、盟友の徳川家康の軍勢とともに越前国へ進軍。織田・徳川連合軍は[[朝倉氏]]の諸城を次々と攻略していくが、[[金ヶ崎城|金ヶ崎]]で浅井氏離反の報告を受ける。挟撃される危機に陥った織田・徳川連合軍はただちに撤退を開始し、[[殿 (軍事用語)|殿]]を務めた池田勝正・[[明智光秀]]・[[豊臣秀吉|木下秀吉]]らの働きもあり、京に逃れた（[[金ヶ崎の戦い]]）。信長は先頭に立って真っ先に撤退し、僅か10名の共と一緒に京に到着したという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
同年6月、信長は浅井氏を討つべく、近江国[[姉川]]河原で徳川軍とともに浅井・朝倉連合軍と対峙。並行して浅井方の横山城を陥落させつつ、織田・徳川連合軍は勝利した（'''[[姉川の戦い]]'''）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
8月、信長は摂津国で挙兵した三好三人衆を討つべく出陣するが、その隙をついて石山本願寺が信長に対して挙兵した（[[野田城・福島城の戦い]]）。しかも、織田軍本隊が摂津国に対陣している間に軍勢を立て直した浅井・朝倉・延暦寺などの連合軍3万が近江国・[[坂本 (大津市)|坂本]]に侵攻する。織田軍は劣勢の中、重臣・森可成と信長の実弟・[[織田信治]]を喪った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
9月23日未明、信長は本隊を率いて摂津国から近江国へと帰還。慌てた浅井・朝倉連合軍は比叡山に立て籠もって抵抗した。信長はこれを受け、近江国・[[宇佐山城]]において浅井・朝倉連合軍と対峙する（[[志賀の陣]]）。しかし、その間に石山本願寺の[[法主]]・[[顕如]]の命を受けた伊勢の門徒が一揆を起こし（[[長島一向一揆]]）、信長の実弟・[[織田信興]]を自害に追い込んだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
11月21日、信長は六角義賢・義治父子と和睦し、ついで阿波から来た[[篠原長房]]と講和した&amp;lt;ref&amp;gt;林屋辰三郎『天下一統』中公文庫、143頁&amp;lt;/ref&amp;gt;。さらに足利義昭に朝倉氏との和睦の調停を依頼し、義昭は関白[[二条晴良]]に調停を要請した。そして正親町天皇に奏聞して[[勅命]]を仰ぎ、12月13日、勅命をもって浅井氏・朝倉氏との和睦に成功&amp;lt;ref&amp;gt;[[大久保忠教]]の記した『[[三河物語]]』によると、このとき信長は義景に対し「天下は朝倉殿が持ち給え。我は二度と望み無し」とまで言ったという。&amp;lt;/ref&amp;gt;。窮地を脱した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 第二次信長包囲網 ===&lt;br /&gt;
元亀2年（[[1571年]]）、信長は朝倉・浅井に味方した延暦寺を攻めた（'''[[比叡山焼き討ち (1571年)|比叡山焼き討ち]]'''）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一方この頃、甲斐国の武田信玄が信長への事前通告なしに徳川領へ侵攻&amp;lt;ref&amp;gt;近年では元亀2年の信玄による三河侵攻は根拠となる文書群の年代比定の誤りが指摘され、これは勝頼期の天正3年の出来事であった可能性も考えられている（鴨川達夫『武田信玄と勝頼』（岩波新書、2009）、柴裕之「戦国大名武田氏の遠江・三河侵攻再考」『武田氏研究』第37号、2007）。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
元亀3年（[[1572年]]）、石山本願寺が信長と和睦したものの、三好義継・松永久秀らが共謀して信長に謀反を起こした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
7月、信長は近江に出陣（[[虎御前山の戦い]]）。嫡男・奇妙丸（後の[[織田信忠]]）の[[初陣]]でもあった。戦況は織田軍有利に展開し、8月には朝倉義景に不満を抱いていた朝倉軍の[[前波吉継]]・[[富田長繁]]・[[毛屋猪介]]・[[戸田与次郞]]らが信長に寝返った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
9月、信長は足利義昭に対して17条の意見書を提出。信長と義昭の関係は決定的に悪化した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
11月、武田氏の秋山虎繁（信友）が、東美濃の[[岩村城]]を攻めたが、織田軍に敗退し、岩村城近辺の城はみな織田のものとなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
徳川領においては徳川軍が[[一言坂の戦い]]で武田軍に大敗し、さらに遠江国の要である[[二俣城]]が開城・降伏により不利な戦況となる（[[二俣城の戦い]]）。これに対して信長は、家康に佐久間信盛・[[平手汎秀]]ら3,000人の援軍を送ったが、12月の'''[[三方ヶ原の戦い]]'''で織田・徳川連合軍は武田軍に敗退。汎秀が討死した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1573（元亀4）年に入ると、武田軍は三河に侵攻し、2月に[[野田城 (三河国)|野田城]]を攻略した（[[野田城の戦い]]）。これに呼応して京の足利義昭が信長に対して挙兵したため、信長は岐阜から京都に向かって進軍した。信長が京都に着陣すると幕臣であった[[細川幽斎|細川藤孝]]や[[荒木村重]]らは義昭を見限り信長についた。信長は上京を焼打ちして義昭に脅しをかけてから義昭と和睦しようとした。義昭は初めこれを拒否していたが、正親町天皇からの勅命が出され、4月5日に義昭と信長はこれを受け入れて和睦した。4月12日、武田信玄は病死し、武田軍は甲斐国へ帰国した&amp;lt;ref&amp;gt;元亀年間に行われた武田氏の遠江・三河への侵攻や信長との対立は「[[西上作戦]]」と通称され、信玄は上洛を目指していたされてきたが、近年ではその実態や意図に疑問が呈されている（鴨川達夫『武田信玄と勝頼』（岩波新書、2007年）、柴裕之「戦国大名武田氏の遠江・三河侵攻再考」『武田氏研究』第37号、2007、柴辻俊六「武田信玄の上洛戦略と織田信長」『武田氏研究』第40号、2009　など&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
7月には再び抵抗の意思を示した足利義昭が[[二条城|二条御所]]や山城守護所（[[槇島城]]）に立て籠もったが、信長は義昭を破り追放し、これをもって室町幕府の勢力は京都から消滅した&amp;lt;ref&amp;gt;室町幕府の滅亡により、[[室町将軍]]は天皇王権を擁し、京都を中心とする周辺領域を支配し地方の諸大名を従属下におき紛争などを調停する「[[天下]]」主催者たる地位を喪失。信長が「天下」主催者としての地位を継承し、以降は諸大名を従属・統制下におく立場であったことが指摘されている（[[神田千里]]「織田政権の支配の論理に関する一考察」『東洋大学文学部紀要』2002、同『戦国乱世を生きる力』中央公論社、2002）。&amp;lt;/ref&amp;gt;。加えて7月28日には[[元号]]を元亀から[[天正]]へと改めることを[[朝廷]]に奏上し、これを実現させた&amp;lt;ref&amp;gt;ただし、朝廷では既に元亀3年の段階で改元を決定しており、同年3月29日には信長と義昭の下に使者を送っている（『御湯殿上日記』）。だが、義昭は改元に消極的であり、信長の17か条の詰問状でも批判の1つに挙げられている。信長は改元を支持することで、消極的な態度を見せる義昭排除の正当性を得るとともに、朝廷の望む改元を実現させることによって自己を室町幕府に代わる武家政権のトップとして朝廷に認めさせたとする評価がある（[[神田裕理]]「織豊期の改元」『戦国・織豊期の朝廷と公家社会』校倉書房、2011年）。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1573（天正1）年8月、信長は細川藤孝に命じて、[[淀古城|淀城]]に立て籠もる三好三人衆の一人・[[岩成友通]]を討伐した（第二次淀古城の戦い）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
同月、信長は3万人の軍勢を率いて越前国に侵攻。[[一乗谷城の戦い#刀根坂の戦い|刀根坂の戦い]]で朝倉軍を破り、朝倉義景は自刃した。9月、[[小谷城]]を攻略して浅井氏に勝利し、[[浅井久政]]・長政父子は自害し、長政の母・[[小野殿]]（阿古御料人）の指を一日一本ずつ切り落とした上で殺害した（執行を担当したのは秀吉であり、処刑方法が信長本人の意向か秀吉のものであるかは不明である）。なお、長政に嫁いでいた妹・お市らは落城前に落ち延びて信長が引き取った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
9月24日、信長は尾張・美濃・伊勢の軍勢を中心とした3万人の軍勢を率いて、伊勢長島に行軍した。織田軍は滝川一益らの活躍で半月ほどの間に長島周辺の敵城を次々と落とした。しかし撤退戦で[[林通政#林通政 (新次郎)|林通政]]が討死した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
11月、[[河内国]]の三好義継が足利義昭に同調して反乱を起こした。信長は佐久間信盛を総大将とした軍勢を河内国に送り込む。しかし、信長の実力を怖れた義継の家老・[[若江三人衆]]らによる裏切りで義継は11月16日に自害し、三好氏もここに滅亡した。12月26日、[[大和国]]の松永久秀も[[多聞山城]]を明け渡し、信長に降伏した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 長島一向一揆の制圧 ===&lt;br /&gt;
{{Main|長島一向一揆}}&lt;br /&gt;
天正2年（[[1574年]]）1月、朝倉氏を攻略して織田領となっていた越前国で、[[地侍]]や[[本願寺]][[門徒]]による反乱が起こり、守護代の[[前波吉継|桂田長俊]]は[[一乗谷]]で殺された。それに呼応する形で、甲斐国の武田勝頼が東美濃に侵攻してくる。信長はこれを信忠とともに迎撃しようとしたが、信長の援軍が到着する前に東美濃の[[明知城]]が落城し、信長は武田軍との衝突を避けて岐阜に撤退した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
3月、信長は上洛して[[従三位]][[参議]]に叙任された。このとき、信長は[[正親町天皇]]に対して「[[蘭奢待]]の切り取り」を奏請し、[[天皇]]はこれを[[勅命]]をもって了承した&amp;lt;ref&amp;gt;これは、信長が正親町天皇と密接な関係にあるということを諸国に知らしめるためであったといわれているがこれを契機に、信長の実力が[[朝廷]]からも認められていることを知った諸[[大名]]、特に[[奥州]]からは信長に対して誼を通じる使者が増えたと言われている。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
7月、信長は数万人の大軍と織田信雄・滝川一益・[[九鬼嘉隆]]の伊勢・[[志摩国|志摩]]水軍を率いて、伊勢長島を水陸から完全に包囲し、[[攻城戦#攻城戦の手法|兵糧攻め]]にした。一揆軍も地侍や旧北畠家臣なども含み、抵抗は激しかったが、8月に兵糧不足に陥り、[[大鳥居城]]から逃げ出した一揆勢1,000人余が討ち取られるなど劣勢となる。9月29日、[[長島城]]の門徒は降伏し、船で[[大坂]]方面に退去しようとしたが、信長は一斉射撃を浴びせ掛けた。他方、一揆側の反撃で、信長の庶兄・織田信広、弟・[[織田秀成]]など織田一族の将が討ち取られた。これを受けて信長は[[中江城]]、[[屋長島城]]に立て籠もった長島門徒2万人に対して、城の周囲から柵で包囲し、焼き討ちで全滅させた。この戦によって長島を占領した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
翌天正3年（[[1575年]]）3月、荒木村重が[[大和田城]]を占領したのをきっかけに、織田信長は石山本願寺・[[高屋城]]周辺に10万兵の大軍で出軍した（[[高屋城の戦い]]）。高屋城・石山本願寺周辺を焼き討ちにし、両城の補給基地となっていた[[新堀城]]が落城すると、[[三好康長]]は降伏を申し出これを受け入れ、高屋城を含む河内国の城は[[破城]]となる。その後、[[松井友閑]]と三好康長の仲介のもと石山本願寺と一時的な和睦が成立する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 長篠の戦い ===&lt;br /&gt;
{{Main|長篠の戦い}}&lt;br /&gt;
信長包囲網の打破後、信長や徳川家康は甲斐の武田氏に対しても反攻を強めており、武田方は織田・徳川領への再侵攻を繰り返していた。天正3年（[[1575年]]）4月、勝頼は武田氏より離反し[[徳川氏]]の家臣となった[[奥平信昌|奥平貞昌]]を討つため、1万5,000人の軍勢を率いて貞昌の居城・[[長篠城]]に攻め寄せた。しかし奥平勢の善戦により武田軍は長篠城攻略に手間取る。その間の5月12日に信長は3万人の大軍を率いて岐阜から出陣し、5月17日に三河国の野田で徳川軍8,000人と合流する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
3万8,000人に増大した織田・徳川連合軍は5月18日、設楽原に陣を敷いた。そして5月21日、織田・徳川連合軍と武田軍の戦いが始まる（'''長篠の戦い'''）。信長は設楽原決戦においては5人の奉行に1,000丁余りの[[火縄銃]]を用いた射撃を行わせるなどし&amp;lt;ref&amp;gt;『[[信長公記]]』による。佐々成政、前田利家、野々村正成、福富秀勝、塙直政の5人。ただし、この部隊以外の部隊が所有した火縄銃の数は不明。また、徳川方の鉄炮衆もいる。さらに、鳶ヶ巣山砦攻撃別働隊には馬廻鉄炮衆五百が付けられている。いわゆる「三段撃ち」戦法については、実在を疑問視する学説もある。&amp;lt;/ref&amp;gt;、武田軍に圧勝する&amp;lt;ref&amp;gt;この戦いで武田氏の大軍から長篠城を防衛した奥平貞昌は、信長より[[偏諱]]を賜り信昌と改名している。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
6月27日、[[相国寺]]に上洛した信長は天台宗と真言宗の争論の事を知り、公家の中から5人の奉行を任命して問題の解決に当たらせた（[[絹衣相論]]を参照）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
7月3日、正親町天皇は信長に官位を与えようとしたが、信長はこれを受けず、家臣たちに官位や姓を与えてくれるよう申し出た。天皇はこれを認め、信長の申し出通りに、松井友閑に宮内卿法印、武井夕庵に二位法印、明智光秀に惟任日向守、[[簗田広正]]に別喜右近、塙直政に原田備中守、丹羽長秀に惟住、の官位と姓を与えた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 越前侵攻 ===&lt;br /&gt;
この頃、前年に信長から越前国を任されていた守護代・桂田長俊を殺害して越前国を奪った本願寺門徒では、内部分裂が起こっていた。門徒達は天正3年（1575年）1月、桂田長俊殺害に協力した富田長繁ら地侍も罰し、越前国を[[一揆]]の持ちたる国とした。顕如の命で守護代として[[下間頼照]]が派遣されるが、前領主以上の悪政を敷いたため、一揆の内部分裂が進んでいた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これを好機と見た信長は長篠の戦いが終わった直後の8月、越前国に行軍した。内部分裂していた一揆衆は協力して迎撃することができず、下間頼照や[[朝倉景健]]らを始め、12,250人を数える越前国・[[加賀国]]の門徒が織田軍によって討伐された&amp;lt;ref&amp;gt;このとき、信長は[[村井貞勝]]に対して、越前府中の凄惨なありさまを書状で「府中は死骸ばかりにて一円空き所無く候 見せたく候」と書き記している。&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;このとき従軍した[[前田利家]]の所業を記した石版も残っている。「一揆おこり そのまま前田又左衛門殿一揆千人ばかり生け捕りさせ候なり 御成敗は はっつけ 釜煎られ あぶられ候 かくのごとくに候 一筆書きとめ候」。&amp;lt;/ref&amp;gt;。越前国は再び織田領となり、信長は国掟を出した上で、越前八郡を柴田勝家に与えた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 右近衛大将就任および安土城築城===&lt;br /&gt;
[[ファイル:Nobunaganoyakata.JPG|thumb|250px|[[安土城天主信長の館]]（安土城復元天主） 滋賀県[[近江八幡市]][[安土町]]]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
天正3年（1575年）11月4日、信長は[[権大納言]]に叙任される、また、11月7日にはさらに[[近衛大将|右近衛大将]]（征夷大将軍に匹敵する官職で武家では武門の棟梁のみに許される）に叙任する。信長はこの就任にあたり、御所にて公卿を集め、室町将軍家の将軍就任式（[[陣座]]）の儀礼を挙行させた。以後、信長のよび名は「上様」となり将軍と同等とみなされた（足利義昭は近衛大将への昇進を望むも未だ近衛中将のままであったので内裏の近衛府の庁舎内では信長が上司ということになる）。同日、嫡子の信忠は[[秋田城介]]（[[鎮守府将軍]]になるための前官）に、次男の信雄は左近衛中将に叙任している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
11月28日、信長は1週間前に東美濃の要・岩村城を陥落させた嫡男・信忠に一大名家としての織田家の家督ならびに美濃・尾張などの織田家の領国（織田直割領）を譲った。しかし、引き続き信長は織田政権の政治・全軍を総括する立場にあった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
天正4年（[[1576年]]）1月、信長自身の指揮のもと[[琵琶湖]]湖岸に[[安土城]]の築城を開始する&amp;lt;ref&amp;gt;「安土」という地名は信長が命名したとも（「細川家記」）、元々あった地名だとも言われる。&amp;lt;/ref&amp;gt;。安土城は天正7年（[[1579年]]）に五層七重の豪華絢爛な城として完成した。[[天守]]内部は吹き抜けとなっていたと言われている。[[イエズス会]]の[[宣教師]]は「その構造と堅固さ、財宝と華麗さにおいて、それら（城内の邸宅も含めている）はヨーロッパの最も壮大な城に比肩しうるものである」と母国に驚嘆の手紙を送っている。信長は[[岐阜城]]を信忠に譲り、完成した安土城に移り住んだ。信長はここを拠点に[[天下統一]]に邁進することとなる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 第三次信長包囲網 ===&lt;br /&gt;
{{Main|信長包囲網#第三次包囲網}}&lt;br /&gt;
天正4年（1576年）1月、信長に誼を通じていた[[丹波国]]の[[波多野秀治]]が叛旗を翻した。さらに石山本願寺も再挙兵するなど、再び反信長の動きが強まり始める。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
信長は4月、明智光秀・荒木村重・[[塙直政]]を大将とした3万人の軍勢を[[大坂]]に派遣し、砦を構築させた。このうち塙が伏兵の襲撃に遭って大敗を喫し、直政を始め1,000人以上が戦死した。織田軍は本願寺軍の攻勢に窮し[[天王寺]]砦に立て籠もるが、本願寺軍はこれを包囲し、天王寺で織田軍は窮地に陥った。5月5日、信長は若江城に入り動員令を出したが、集まったのは3,000人ほどであった。5月7日早朝、その軍勢を率いて自ら先頭に立ち、天王寺砦を包囲する本願寺軍1万5,000人に攻め入り、信長自身も銃撃され負傷する激戦となった。信長自らの出陣で士気が高揚した織田軍は、光秀率いる天王寺砦の軍勢7,000人との連携に成功。本願寺軍を挟撃し、これを撃破した（[[天王寺砦の戦い]]）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その後、織田軍は石山本願寺を水陸から包囲し兵糧攻めにした。ところが7月13日、石山本願寺の援軍に現れた[[毛利水軍]]800隻の前に、織田水軍は敗れ、毛利軍により石山本願寺に[[兵糧]]・[[弾薬]]が運び込まれた（[[第一次木津川口の戦い]]）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この頃、越後守護で[[関東管領]]の上杉輝虎（[[上杉謙信]]）と信長との関係は悪化し&amp;lt;ref&amp;gt;信長は武田信玄の要請で武田と上杉謙信との和睦を仲介していたが（甲越和与）、[[元亀]]3年（[[1572年]]）10月信玄は信長への事前通告なしに織田・徳川氏領へ侵攻し、信長と武田氏は手切となり、上杉氏との共闘をもちかけている。謙信はこれに応じているが積極的に連携することはなく、武田氏で勝頼への当主交代が起こると和睦をもちかけている。&amp;lt;/ref&amp;gt;、謙信は天正4年（1576年）に石山本願寺と和睦し、信長との対立を明らかにした。謙信を盟主として、毛利輝元・石山本願寺・波多野秀治・[[紀伊国|紀州]][[雑賀衆]]などが反信長に同調し結託した。このような事情の中、11月21日に信長は正三位・内大臣に昇進している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 織田右府 ===&lt;br /&gt;
天正5年（[[1577年]]）2月、信長は、雑賀衆を討伐するために大軍を率いて出陣（[[紀州征伐#信長の紀州攻め|紀州攻め]]）するが、毛利水軍による背後援助や上杉軍の[[能登国]]侵攻などもあったため、3月に入ると雑賀衆の頭領・[[鈴木孫一]]らを降伏させ&amp;lt;ref&amp;gt;本願寺攻めに協力する誓紙を出させたが、人質の提供は無かった&amp;lt;/ref&amp;gt;、形式的な和睦を行ない、紀伊国から撤兵した。この頃、北陸戦線では織田軍の柴田勝家が、[[加賀国]]の[[手取川]]を越えて焼き討ちを行っている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
大和国の松永久秀がまたも信長を裏切り挙兵すると、信長は織田信忠を[[総大将]]とした大軍を[[信貴山城]]に派遣し、10月に松永を討ち取った（[[信貴山城の戦い]]）。久秀を討った10月、信長に抵抗していた[[亀山城 (丹波国)|丹波亀山城]]の[[内藤定政]]（丹波守護代）が病死する。織田軍はこの機を逃さず亀山城・[[籾井城]]・[[笹山城]]などの丹波国の諸城を攻略。同年、姉妹の[[お犬の方]]を丹波守護で[[管領]]を世襲する細川京兆家当主・[[細川信良|細川昭元]]の正室とすることに成功し丹波を掌握した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
11月、能登・加賀北部を攻略した上杉軍が加賀南部へ侵攻&amp;lt;ref&amp;gt;織田軍は手取川において1,000人余が討死し渡河の際にも多数の行方不明者を出した（[[手取川の戦い]]）というが、戦果を喧伝した謙信の書状以外に史料がなく、戦いが起こったかどうかは不明である。&amp;lt;/ref&amp;gt;。その結果、加賀南部は上杉家の領国に組み込まれ、北陸では上杉側が優位に立った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
11月20日、正親町天皇は信長を従二位・右大臣に昇進させた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
天正6年（[[1578年]]）1月にはさらに正二位に位を上げている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
3月13日、上杉謙信が急死。謙信には実子がなく、後継者を定めなかったため、[[養子]]の[[上杉景勝]]と[[上杉景虎]]が後継ぎ争いを始めた（[[御館の乱]]）。この好機を活かし信長は[[斎藤利治]]を総大将に、[[飛騨国]]から[[越中国]]に侵攻（[[月岡野の戦い]]）、上杉軍に勝利し優位に立った。その後、柴田勝家軍が上杉領の能登・加賀を攻略、越中国にも侵攻する勢いを見せた。かくしてまたも信長包囲網は崩壊した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 織田方面軍団の編成 ===&lt;br /&gt;
天正期に入ると、同時多方面に勢力を伸ばせるだけの兵力と財力が織田氏に具わっていた。信長は部下の武将に[[大名]]級の[[所領]]を与え、自由度の高い統治をさせ、周辺の攻略に当たらせた。研究者の間では、これら信長配下の新設大名を「[[軍団]]」「[[方面軍]]」と呼称し&amp;lt;ref&amp;gt;無論当時にはそのような名称は無かった。&amp;lt;/ref&amp;gt;、または信長軍・信長機動隊ともいう&amp;lt;ref name=&amp;quot;hujiki40&amp;quot;&amp;gt;藤木久志「天下統一と朝鮮侵略」講談社学術文庫、40頁&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
尾張の兵を弓衆・鉄砲衆・馬廻衆・小姓衆・小身衆など機動性を持った直属の軍団に編成し、天正4年（1576年）にはこれらを安土に結集させた&amp;lt;ref name=&amp;quot;hujiki40&amp;quot;/&amp;gt;。既に織田家には直属の指揮班である宿老衆や先手衆などがおり、これらと新編成軍との連携などを訓練した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
上杉景勝に対しては柴田勝家・[[前田利家]]・[[佐々成政]]らを、武田勝頼に対しては滝川一益・織田信忠らを、波多野秀治に対しては明智光秀・細川藤孝らを、毛利輝元に対しては羽柴秀吉を、石山本願寺に対しては佐久間信盛を配備した。&lt;br /&gt;
* 美濃・尾張・飛騨の抑え・[[織田信忠]]・[[斎藤利治]]・[[姉小路頼綱]]&lt;br /&gt;
* 対武田方面・[[滝川一益]]・[[織田信忠]]軍団（天正元年結成）&lt;br /&gt;
* 対本願寺方面・[[佐久間信盛]]軍団（天正4年結成 - 天正8年消滅）&lt;br /&gt;
* 北陸方面・[[柴田勝家]]軍団（天正4年昇格）&lt;br /&gt;
* 近畿方面・[[明智光秀]]軍団（天正8年昇格）&lt;br /&gt;
* 山陰・山陽方面・[[羽柴秀吉]]軍団（天正8年昇格）&lt;br /&gt;
* 関東方面・滝川一益軍団（天正10年結成）&lt;br /&gt;
* 四国方面・[[織田信孝]]・[[津田信澄]]・[[丹羽長秀]]・[[蜂屋頼隆]]軍団（天正10年結成）&lt;br /&gt;
* 東海道の抑え・[[徳川家康]]（形式的には同盟国であり織田軍団の一部ではない）&lt;br /&gt;
* 伊勢・伊賀方面の抑え・[[織田信雄]]・[[織田信包]]&lt;br /&gt;
*（紀伊方面の抑え・[[織田信張]]）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===中国侵攻===&lt;br /&gt;
天正6年（[[1578年]]）3月、[[播磨国]]の[[別所長治]]の謀反（[[三木合戦]]）が起こる、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
4月、突如として信長は右大臣・右近衛大将を辞職した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
7月、毛利軍が[[上月城]]を攻略し、信長の命により放置された[[山中幸盛]]ら[[尼子氏]]再興軍は処刑される（[[上月城の戦い]]）。10月には摂津国の荒木村重が[[有岡城]]に籠って信長から離反し（[[有岡城の戦い]]）、足利義昭・毛利氏・本願寺と手を結んで信長に抵抗する。一方、村重の[[与力]]であり東摂津に所領を持つ[[中川清秀]]・[[高山右近]]は村重にはつかなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
同年11月6日、信長は九鬼嘉隆の考案した[[鉄甲船]]を採用、6隻を建造し毛利水軍を撃破（[[第二次木津川口の戦い]]）。これにより石山本願寺と荒木は毛利軍の援助を受けられず孤立し、この頃から織田軍は優位に立つ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
天正7年（[[1579年]]）夏までに波多野秀治を降伏させ、処刑。同年9月、荒木村重が妻子を置き去りにして逃亡すると有岡城は落城し、荒木一族は処刑された。次いで10月、それまで毛利方であった[[備前国]]の[[宇喜多直家]]が服属すると、織田軍と毛利軍の優劣は完全に逆転する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
11月、信長は織田家の京屋敷・[[二条城#織田信長・誠仁親王の「二条新御所」|二条新御所]]を、[[皇太子]]である[[誠仁親王]]に進上した。同時に、信長は誠仁親王の五男・[[邦慶親王]]を[[猶子]]として、この邦慶親王も二条新御所に移っている&amp;lt;ref&amp;gt;「多聞院日記」より。なお多聞院日記によると、信長が御所を進上した相手は誠仁親王ではなく、猶子の邦慶親王の方だったようである。（藤井譲治『天皇と天下人』より）&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この年、信長は徳川家康の嫡男・[[松平信康]]に対し切腹を命じたとされる。表向きの理由は信康の12か条の乱行、築山殿の武田氏への内通などである。徳川家臣団は信長恭順派と反信長派に分かれて激しい議論を繰り広げたが、最終的に家康は築山殿を殺害し、信康に切腹させた（ただし、これに関しては、家康・信康父子の対立が原因で、信長は娘婿信康の処断について家康から了承を求められただけだとする説もある。詳細は[[松平信康#信康自刃事件について]]を参照）。また伊勢国の出城構築を[[伊賀国]]の[[国人]]に妨害されて立腹した織田信雄が、独断で伊賀国に侵攻し大敗を喫した。信長は信雄を厳しく叱責した（[[伊賀流#天正伊賀の乱|第一次天正伊賀の乱]]）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
天正8年（[[1580年]]）1月、別所長治が切腹し、三木城が開城。4月には正親町天皇の勅命のもと本願寺軍も織田軍に有利な条件を呑んで和睦し、大坂から退去した。同年には播磨国、[[但馬国]]をも攻略した。8月、信長は[[譜代]]の老臣・佐久間信盛とその嫡男・[[佐久間信栄]]に対して折檻状を送り付け、本願寺との戦に係る不手際などを理由に、高野山への追放か討ち死に覚悟で働くかを迫った。佐久間親子は高野山行きを選んだ。さらに、古参の林秀貞と[[安藤守就]]も、かつてあった謀反の企てや一族が敵と内通したことなどを蒸し返して、これを理由に追放した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
天正9年（[[1581年]]）には[[鳥取城]]を兵糧攻めで落とし[[因幡国]]を攻略、さらには[[岩屋城]]を落として[[淡路国]]を攻略した。同年、信雄を総大将とする4万人の軍勢が伊賀国を攻略。伊賀国は織田氏の領地となった（第二次天正伊賀の乱）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 京都御馬揃え～左大臣推任 ===&lt;br /&gt;
天正9年（1581年）、信長は絶頂期にあった。2月28日には京都の[[内裏]]東の馬場にて大々的なデモンストレーションを行なっている。いわゆる[[京都御馬揃え]]であるが、これには信長はじめ織田一門のほか、[[丹羽長秀]]ら織田軍団の武威を示すものであった&amp;lt;ref&amp;gt;「貴賎群衆の輩 かかるめでたき御代に生まれ合わせ …（中略）… あり難き次第にて上古 末代の見物なり」（[[信長公記]]）&amp;lt;/ref&amp;gt;。このときの馬揃えには正親町天皇を招待している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
3月7日、天皇は信長を左大臣に推任。9日にこの意向が信長に伝えられ、信長は「正親町天皇が譲位し、誠仁親王が即位した際にお受けしたい」と返答した。朝廷はこの件について話し合い、信長に朝廷の意向が伝えられた。24日、信長からの返事が届き、朝廷はこれに満足した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし4月1日、信長は突然「今年は[[金神]]の年なので譲位には不都合」と言い出した。譲位と信長の左大臣就任は延期されることになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 高野山包囲 ===&lt;br /&gt;
同・天正9年（1581年）、[[高野山]]が[[荒木村重]]の残党を匿ったり、足利義昭と通じるなど、信長と敵対する動きを見せる。『信長公記』によれば、信長は使者十数人を差し向けたが、高野山が使者を全て殺害した。一方、『高野春秋』では荒木村重探索の松井友閑の兵32名が高野山の領民に乱暴狼藉を働いたために高野山側がこれを殺害したと記している。いずれにしても、この行動に激怒した信長は、織田領における[[高野聖]]数百人を捕らえる（高野聖は[[諜報活動]]を行っていたともいう）と共に、[[河内国]]や[[大和国]]の諸大名に命じて高野山を包囲させた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
5月に越中国を守っていた上杉氏の武将・[[河田長親]]が急死した隙を突いて織田軍は越中に侵攻、同国の過半を支配下に置いた。3月23日には[[高天神城]]を奪回し、武田氏を追い詰めた。紀州では雑賀党が内部分裂し、信長支持派の鈴木孫一が反信長派の[[土橋平次]]らと争うなどして勢力を減退させた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 武田征伐 ===&lt;br /&gt;
{{Main|武田征伐}}&lt;br /&gt;
長篠合戦の敗退後、武田勝頼は越後上杉氏との[[甲越同盟]]の締結や[[新府城]]築城などで領国再建を図る一方、人質であった[[織田勝長]]（信房）を返還することで信長との和睦（甲江和与）を模索したが進まず、新府城築城のための普請増大などで却って国人衆には不満が増大していた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
天正10年（[[1582年]]）2月1日、武田信玄の娘婿であった[[木曾義昌]]が信長に寝返る。2月3日に信長は武田領国への本格的侵攻を行うための大動員令を信忠に発令。駿河国から家康、相模国から[[北条氏直]]、[[飛騨国]]から[[金森長近]]、[[木曽地域|木曽]]から織田信忠が、それぞれ武田領攻略を開始した。信忠軍は軍監・[[滝川一益]]と信忠の譜代衆となる河尻秀隆・[[森長可]]・[[毛利秀頼|毛利長秀]]等で構成され、この連合軍の兵数は10万人余に上った。武田軍は、[[伊那城]]の城兵が城将・[[下条信氏]]を追い出して織田軍に降伏。さらに[[信濃国]]の[[松尾城 (信濃国伊那郡)|松尾城]]主・[[小笠原信嶺]]、[[江尻城]]主・[[穴山信君]]らも先を争うように連合軍に降伏し、武田軍は組織的な抵抗が出来ず済し崩し的に敗北する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
信忠軍は猛烈な勢いで武田領に侵攻し武田側の城を次々に占領していき、信長が武田征伐に出陣した3月8日に信忠は武田領国の本拠である[[甲府]]を占領し、3月11日には甲斐都留郡の田野において滝川一益が武田勝頼・信勝父子を討ち取り、ここに武田氏は滅亡した&amp;lt;ref&amp;gt;俗説ではあるが、最後の武田攻めの際、明智光秀が「ここまで来られて、我々も骨を負った甲斐があった」と語ったところ、信長の逆鱗に触れ、光秀は欄干に頭を打ち付けられたともいわれている。&amp;lt;/ref&amp;gt;。また駿河国を徳川家康に、[[上野国]]を滝川一益に与え、旧武田領の監督を命じ、甲斐国を河尻秀隆、北信濃を森長可、南信濃を毛利長秀に与え一益の与力に付けて、北条氏直への抑えとしつつも同盟関係を保った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 三職推任 ===&lt;br /&gt;
4月、正親町天皇は信長を太政大臣・関白・征夷大将軍のいずれかに任じたいという意向を示し、5月に信長に伝えられた（[[三職推任問題]]）。しかし信長は使者に対して何も返答しないままだった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 本能寺の変 ===&lt;br /&gt;
[[ファイル:Honnoj.jpg|thumb|280px|『本能寺焼討之図』 [[楊斎延一]]（ようさい のぶかず）画（[[明治]]時代作成の[[武者絵]]。[[名古屋市]]所蔵）]]&lt;br /&gt;
{{Main|本能寺の変}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
信長は[[四国]]の[[長宗我部元親]]攻略に向け、三男の神戸信孝、重臣の丹羽長秀・[[蜂屋頼隆]]・[[津田信澄]]の軍団を派遣する準備を進めていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また北陸方面では柴田勝家が富山城、魚津城を攻撃（[[魚津城の戦い]]）。上杉氏は北の[[新発田重家の乱]]に加え、北信濃方面から森長可、上野方面から滝川一益の進攻を受け、東西南北の全方面で守勢に立たされていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
5月15日、駿河国加増の礼と武田征伐の戦勝祝いのため、徳川家康が安土城を訪れた。そこで信長は明智光秀に接待役を命じる。光秀は15日から17日にわたって家康を手厚くもてなした。家康接待が続く中、信長は[[備中高松城]]攻めを行なっている羽柴秀吉の使者より援軍の依頼を受けた。信長は光秀の接待役の任を解き、秀吉への援軍に向かうよう命じた。後世、『[[明智軍記]]』などによって[[江戸時代]]以降流布される俗説では、この時、光秀の接待内容に不満を覚えた信長は[[小姓]]の[[森成利]]（蘭丸）に命じて光秀の頭をはたかせた、としている&amp;lt;ref&amp;gt;この時の[[献立]]は「天正十年安土御献立」『[[続群書類従]]』に記録されているが、この時の献立は前年の家康接待（饗応役は不明）の際の献立（「御献立集」）のと比べて遜色の無い点が指摘される（[[江後迪子]]『信長のおもてなし』2007）&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
5月29日、信長は[[中国地方|中国]]遠征の出兵準備のために上洛し、[[本能寺]]に逗留していた。ところが、秀吉への援軍を命じていたはずの明智軍が突然京都に進軍し、[[6月2日 (旧暦)|6月2日]]に本能寺を襲撃する。この際に光秀は部下の信長に寄せる忠誠の篤きを考慮し、現に光秀への忠誠を誓う者が少なかったため、侵攻にあたっては標的が信長であることを伏せていたことが[[本城惣右衛門覚書]]からもうかがえる。100人ほどの手勢しか率いていなかった信長であったが、初めは自ら[[槍]]を手に奮闘した。しかし圧倒的多数の明智軍には敵わず、居間に戻った信長は自ら火を放ち、燃え盛る炎の中で自害した。[[享年]]49（満48歳没）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
光秀の娘婿・[[明智秀満]]が信長の遺体を探したが見つからなかった。当時の本能寺は織田勢の補給基地的に使われていたため、火薬が備蓄されており、信長の遺体が爆散してしまったためと考えられる。しかしながら、密かに脱出し別の場所で自害したという説や、信長を慕う僧侶と配下によって人知れず埋葬されたという説もある。なお、最後まで信長に付き従っていた者の中に[[黒人]]の家来・[[弥助]]がいた。弥助は、光秀に捕らえられたものの後に放免となっている。それ以降、弥助の動向については不明である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[平成]]19年（[[2007年]]）に行われた本能寺跡の発掘調査では、本能寺の変と同時期にあったとされる堀跡や大量の焼け瓦が発見された。これにより、城塞としての機能や謀反に備えていた可能性が指摘されており、現在も調査が続いている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==人物像==&lt;br /&gt;
「怒りっぽかった」という記録ははっきり言って当てにならない。中世の記録はたいがいこうやって脚色してあるものだからである。考えてみたまえ。庶民が法を犯すたびに怒る統治者など存在するわけがない。まあ短気ではあっただろう。即断即決でなければ生きていけない世の中だったのだから。しかし判断が早いというのと、感情が動き易いということとは全く違う。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==アホ学者の通説を斬る！==&lt;br /&gt;
立花京子&lt;br /&gt;
*『天皇は武力によって君臨しているわけではないから、武力による脅しは無意味』（by「黄金太閤」）&lt;br /&gt;
**？？？天皇が何の正当性をもって君臨しているかという事と、天皇に武力による脅しが通じるかという事に、いったい何の関係があるんだ？天皇だって人の子だ。刀をつきつけて「譲位しろ」と脅せば、ビビって「はい」と言ってしまうことだってあるだろう。過去に毒殺された親王だっている。もし「信長が天皇から武力を奪おうとした」という事実があって、それへの反論としてこう言うなら分かるのだが。どうもこのへんの歴史学者というのはいまだに天皇を崇拝しているようで困る。&lt;br /&gt;
**まあ馬揃えはどうでもいいんだけどね。ちなみに天皇が馬揃えを見たがったのは、自分の方が信長より上位であるという関係を民衆に見せたかったから。それ以外にあるわけないじゃんｗ　天皇の言葉をそのまま受け取ってしまうようじゃあ政治は語れないのである。&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Minagoroshida</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%B9%94%E7%94%B0%E4%BF%A1%E9%95%B7&amp;diff=155593</id>
		<title>織田信長</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%B9%94%E7%94%B0%E4%BF%A1%E9%95%B7&amp;diff=155593"/>
				<updated>2012-03-25T13:22:24Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Minagoroshida: /* 室町幕府滅亡と「天下」の継承 */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''織田 信長'''（おだ のぶなが）は、[[日本]]の[[戦国時代]]の人物。戦争と混乱に満ちた16世紀の日本を統一へと導いた。日本の政治上・軍事上最大の天才とも言われる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==概要==&lt;br /&gt;
平安時代、朝廷の軍事力の著しい低下によって日本全国の治安が非常に悪化したため、庶民は武装して身を守った。このために延々と内乱が続き、国は乱れに乱れていた。この戦乱を終わらせる終わらせる事業の大変を行ったのが織田信長である。彼は日本全国を統治する前に死んでしまったものの、実質的には彼が戦乱を終わらせたと言える。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==信長の計画==&lt;br /&gt;
まずは地盤を固める&lt;br /&gt;
↓&lt;br /&gt;
幕府あるいは朝廷という既存の権威を利用し、また隠れ蓑にもしつつ改革を行う&lt;br /&gt;
↓&lt;br /&gt;
自身の権威がそれらを越え次第、自身を神格化し、名実ともに日本の頂点に立つ&lt;br /&gt;
↓&lt;br /&gt;
余剰の軍事力は海外に向ける&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 生涯 ==&lt;br /&gt;
&amp;lt;small&amp;gt;※日付は[[和暦]]による[[旧暦]]。[[西暦]]表記の部分は[[ユリウス暦]]とする。&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 少年期 ===&lt;br /&gt;
[[天文 (元号)|天文]]3年（[[1534年]]）5月12日、[[尾張国]]の[[戦国大名]]・[[織田信秀]]の[[嫡男]]として、[[那古野城]]&amp;lt;ref&amp;gt;『[[国史大辞典 (昭和時代)|国史大辞典]]』　織田信長の項目　[[吉川弘文館]]。一般的には那古野城生まれを定説とするが、織田信秀の那古野城奪取をめぐって異説も存在する。&amp;lt;/ref&amp;gt;（現在の[[名古屋市]][[中区 (名古屋市)|中区]]）（[[勝幡城]]説もある&amp;lt;ref&amp;gt;『[[尾州古城志]]』&amp;lt;/ref&amp;gt;）で生誕。幼名は'''吉法師'''。なお、信長の生まれた「織田弾正忠家」は、尾張国の[[守護大名]]・[[斯波氏]]の[[被官]]で下四郡（海東郡・海西郡・愛知郡・知多郡）の[[守護代]]に補任された織田大和守家（清洲織田家）の家臣にして分家であり、[[清洲三奉行]]・古渡城主という家柄であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
母・[[土田御前]]が信秀の[[正室]]であったため嫡男となり、2歳にして那古野城主となる。幼少から青年時にかけて奇妙な行動が多く、周囲から'''尾張の大うつけ'''と称されていた。日本へ伝わった[[種子島銃]]に関心を持った挿話などが知られる。また、身分にこだわらず、民と同じように町の若者とも戯れていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
まだ世子であった頃、表面的に家臣としての立場を守り潜在的な緊張関係を保ってきた主筋の「織田大和守家」の支配する[[清洲城]]下に数騎で火を放つなど、父・信秀も寝耳に水の行動をとり、豪胆さを早くから見せた。また、[[今川氏]]へ人質として護送される途中で[[松平氏]]家中の[[戸田康光]]の裏切りにより[[織田氏]]に護送されてきた松平竹千代（後の[[徳川家康]]）と幼少期を共に過ごし、後に両者は固い盟約関係を結ぶこととなる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
天文15年（[[1546年]]）、[[古渡城]]にて[[元服]]し、'''上総介信長'''と称する。天文17年（[[1548年]]）、父・信秀と敵対していた[[美濃国]]の[[戦国大名]]・[[斎藤道三]]との和睦が成立すると、道三の娘・[[濃姫]]と政略結婚した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
天文18年（[[1549年]]）（異説では天文22年（[[1553年]]））に信長は[[聖徳寺 (名古屋市)|正徳寺]]で道三と会見し、その際に道三はうつけ者と呼ばれていた信長の器量を見抜いたとの逸話がある。また同年には、近江の[[国友|国友村]]に火縄銃500丁を注文したという&amp;lt;ref&amp;gt;「国友鉄砲記」より。正徳寺での会見には、兵に鉄砲500丁を持たせていったと「信長公記」にあり、これが国友村から購入した鉄砲だという可能性もある。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
天文20年（[[1551年]]）、父・信秀が没した為、家督を継ぐ&amp;lt;ref&amp;gt;信秀の葬儀において祭壇に[[抹香]]を投げつけたというエピソードが残っている。このような行為におよんだ理由は、うつけ者を装うため、葬儀を政治的に利用した信勝への抗議など諸説あるが、いずれも推測の域を出ていない。後年の創作という意見もあるが、1次史料である信長公記にまで書かれているため、全くの創作とは考えにくい。&amp;lt;/ref&amp;gt;。天文22年（[[1553年]]）、信長の教育係であった[[平手政秀]]が自害。これは諌死であったとも、息子・五郎右衛門と信長の確執のためともされる。信長は嘆き悲しみ、師匠の[[沢彦]]和尚を開山として[[政秀寺]]を建立し、政秀の霊を弔った。天文23年（[[1554年]]）には、[[村木砦の戦い]]で今川勢を破っている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 家督争いから尾張統一・上洛 ===&lt;br /&gt;
当時、尾張国は[[今川氏]]の尾張侵攻により[[守護]]の[[斯波氏]]の力が衰え、尾張下四郡を支配した[[守護代]]であった「織田大和守家」当主で[[清洲城]]主の[[織田信友]]が実権を掌握していた。信長の父・信秀はその信友に仕える三奉行の一人に過ぎなかったにも関わらず、その智勇をもって尾張中西部に支配権を拡大した。信秀の死後、信長が跡を継ぐと、信友は信長の弟・[[織田信行]]（信勝）の家督相続を支持して信長と敵対し、信長謀殺計画を企てるが、信友により傀儡にされていた[[守護]]・[[斯波義統]]が、計画を信長に密告した。これに激怒した織田信友は斯波義統の嫡子・[[斯波義銀|義銀]]が手勢を率いて川狩に出た隙に義統を殺害する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
斯波義銀が落ち延びてくると、信長は叔父の[[守山城 (尾張国)|守山城]]主・[[織田信光]]と協力し、信友を主君を殺した謀反人として殺害する。こうして「織田大和守家」は滅び、信長は那古野城から清洲城へ本拠を移し、尾張国の[[守護所]]を手中に収めた。これにより、織田氏の[[庶家]]の生まれであった信長が名実共に織田氏の頭領となった。なお信光も死亡しているが、死因は不明である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[弘治 (日本)|弘治]]2年（[[1556年]]）4月、義父・斎藤道三が子の[[斎藤義龍]]との戦いに敗れて戦死（[[長良川の戦い]]）。信長は道三救援のため、木曽川を越え美濃の大浦まで出陣するも、道三を討ち取り勢いに乗った義龍軍に苦戦し、道三敗死の知らせにより退却した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
こうした中、信長の当主としての器量を疑問視した重臣の[[林秀貞]]（通勝）・[[林通具]]・[[柴田勝家]]らは、信長を廃して聡明で知られた弟・信勝（信行）を擁立しようとした。これに対して信長には[[森可成]]・[[佐久間盛重]]・[[佐久間信盛]]らが味方し、両派は対立する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
道三の死去を好機と見た信勝派は、同年[[8月24日]]に挙兵して戦うも敗北（[[稲生の戦い]]）。その後、[[末盛城]]に籠もった信勝を包囲するが、生母・土田御前の仲介により、信勝・勝家らを赦免した。更に同年中に庶兄の信広も斎藤義龍と結んで清洲城の簒奪を企てたが、これは事前に情報を掴んだ為に未遂に終わり、信広は程なくして降伏し、赦免されている。しかし、弘治3年（[[1557年]]）に信勝は再び謀反を企てる。この時、稲生の戦いの後より信長に通じていた柴田勝家の密告があり、事態を悟った信長は病と称して信勝を清洲城に誘い出し殺害した。直接手を下したのは[[河尻秀隆]]とされている&amp;lt;ref&amp;gt;信長公記では、河尻と青貝という2人の家臣が、フロイス日本史では信長が直接殺したことになっている。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
さらに信長は、同族の[[犬山城]]主・[[織田信清]]と協力し、旧主「織田大和守家」の宿敵で織田一門の[[宗家]]であった尾張上四郡（丹羽郡・葉栗郡・中島郡・春日井郡）の守護代「織田伊勢守家」（岩倉織田家）の[[岩倉城 (尾張国)|岩倉城]]主・[[織田信賢]]を破って（[[浮野の戦い]]）これを追放。新たに守護として擁立した斯波義銀が斯波一族の[[石橋氏]]・[[吉良氏]]と通じて信長の追放を画策していることが発覚すると、義銀を尾張から追放した。こうして、[[永禄]]2年（[[1559年]]）までには尾張国の支配権を確立し、信長は尾張の国主となった。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
永禄2年（[[1559年]]）2月2日、信長は100名ほどの軍勢を引き連れて[[上洛]]し、[[室町幕府]]13代[[征夷大将軍|将軍]]・[[足利義輝]]に謁見した。当時、義輝は尾張守護・斯波家（武衛家）の邸宅を改修して住しており、信長はそこへ出仕した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 桶狭間の戦いから清洲同盟へ ===&lt;br /&gt;
1560（永禄3）年5月、[[今川義元]]が尾張国へ侵攻。[[駿河国|駿河]]・[[遠江国|遠江]]の本国に加え[[三河国|三河]]を分国として支配する今川氏の軍勢は、2万人以上の大軍であった。兵力で劣る織田軍は苦戦を強いられた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
永禄3年（[[1560年]]）5月19日午後1時頃、信長は[[幸若舞]]『[[敦盛 (幸若舞)|敦盛]]』を舞った後&amp;lt;ref name=&amp;quot;atsumori&amp;quot;&amp;gt;'''幸若舞'''の敦盛は口伝で伝えられていたために、長らく節回しや詳細な振り付けが不明となっていた。そのため、映像作品などでは'''謡曲'''の敦盛で代用されていた。しかし、近年になって幸若舞の敦盛も復刻されている。（詳細は[[敦盛 (幸若舞)]]を参照）&amp;lt;/ref&amp;gt;、昆布と勝ち栗を前に置き、立ったまま[[湯漬け]]（出陣前に、米飯に熱めの湯をかけて食べるのが武士の慣わし）を食べ、出陣した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
信長はまず[[熱田神宮]]に参拝。その後、[[善照寺砦]]で2000人の軍勢を整えて出撃。今川軍の陣中に強襲をかけ今川氏の前当主で隠居の義元を討ち取った。総大将を失った今川軍は、当主・氏真の命で本国駿河国に退却した（'''桶狭間の戦い'''）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
桶狭間の戦いの後、今川氏は三河の松平氏の離反等により、急激に衰退した。これを機に、信長は徳川家康（この頃、松平元康より改名）と手を結ぶことになる。それまで織田家と松平家は敵対関係にあり、幾度も戦っていたが、信長は美濃国の[[斎藤氏]]攻略のため、家康も駿河国の[[今川氏真]]らに対抗する必要があった為、こちらの利害関係を優先させたものと思われる。両者は永禄5年（[[1562年]]）、同盟を結んで互いに背後を固めた（'''清洲同盟'''）。この同盟は信長死後まで維持された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 美濃攻略と天下布武 ===&lt;br /&gt;
斎藤道三亡き後、信長と斎藤氏との関係は険悪なものとなっていた。桶狭間の戦いと前後して両者の攻防は一進一退の様相を呈していた。しかし、永禄4年（[[1561年]]）に斎藤義龍が急死し、嫡男・[[斎藤龍興]]が後を継ぐと、信長は美濃に出兵し勝利（[[森部の戦い]]）。織田家は優位に立ち、斎藤氏は家中で分裂が始まる。永禄7年（[[1564年]]）には北[[近江国]]の[[浅井長政]]と同盟を結び、斎藤氏への牽制を強化している。その際、信長は妹・[[お市の方|お市]]を輿入れさせた。一方で、信長は永禄8年（[[1565年]]）より[[滝川一益]]の援軍依頼により伊勢方面にも進出し、[[神戸具盛 (7代目当主)|神戸具盛]]など当地の諸氏とも戦っている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
永禄9年（[[1564年]]から[[1565年]]）、[[竹中重治]]と[[安藤守就]]が[[岐阜城]]を占拠後、[[加治田城]]主の[[佐藤忠能]]を味方にして[[中濃]]の諸城を手に入れ（[[中濃攻略戦]]）、さらに[[西美濃三人衆]]（[[稲葉良通]]・[[氏家直元]]・[[安藤守就]]）などを味方につけた信長は、ついに永禄10年（[[1567年]]）、斎藤龍興を[[伊勢国|伊勢]][[長島町 (三重県)|長島]]に敗走させ、尾張・美濃の2ヶ国を領する大名になった（[[稲葉山城の戦い]]）。ときに信長33歳。このとき、井ノ口を[[岐阜市|岐阜]]と改称している&amp;lt;ref&amp;gt;出典：『[[信長公記]]』&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
同年11月には僧・沢彦から与えられた印文「'''天下布武'''」の朱印を信長は使用しはじめており&amp;lt;ref&amp;gt;林屋辰三郎『天下一統』中公文庫、105頁&amp;lt;/ref&amp;gt;、本格的に[[天下統一]]を目指すようになったとみられる。11月9日、[[正親町天皇]]は信長を「古今無双の名将」を褒めつつ、[[御料所]]の回復・[[誠仁親王]]の元服費用の拠出を求めたが、&amp;lt;ref&amp;gt;前者は[[綸旨]]、後者は[[女房奉書]]によって伝えられた。なお、天皇・朝廷のこうした動きは各地の大名に対して行われており、この時点では正親町天皇はさほど信長を特別視していたわけではなかったと思われる。[[藤井譲治]]「天皇と天下人」より&amp;lt;/ref&amp;gt;、信長は丁重に「まずもって心得存じ候」と返答したのみであった&amp;lt;ref&amp;gt;[[藤井譲治]]「天皇と天下人」より&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 上洛 ===&lt;br /&gt;
====中央幕府の情勢====&lt;br /&gt;
中央では、永禄8年（[[1565年]]）、かねて[[京都|京]]を中心に[[畿内]]で権勢を誇っていた[[三好氏]]の有力者[[三好三人衆]]（[[三好長逸]]・[[三好政康]]・[[岩成友通]]）と[[松永久秀]]が、幕府権力の復活を目指して三好氏と対立を深めていた将軍･足利義輝を暗殺し、第14代将軍として義輝の従弟・[[足利義栄]]を傀儡として擁立する（[[永禄の変]]）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
久秀らはさらに義輝の弟で僧籍にあった一乗院覚慶（[[足利義昭]]）の暗殺も謀ったが、義昭は[[一色藤長]]・[[和田惟政]]ら幕臣の支援を受けて奈良から脱出し、[[越前国]]の[[朝倉義景]]のもとに身を寄せていた。しかし、義景が三好氏追討の動きを見せなかったため、永禄11年（[[1568年]]）7月には美濃国の信長へ接近を図ってきた。信長は義昭の三好氏追討要請を応諾した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
====武田氏との外交====&lt;br /&gt;
美濃国において領国を接する[[甲斐国]]の[[武田信玄]]とは信玄の四男・諏訪勝頼（[[武田勝頼]]）に養女（[[遠山夫人]]）を娶らせることで同盟を結んだが、遠山夫人は永禄10年（1567年）11月、[[武田信勝]]を出産した直後に早世したため、同年末には信長の嫡男・信忠と信玄の六女・[[信松尼|松姫]]との婚姻を模索し友好的関係を持続させるなど、周囲の勢力と同盟を結んで国内外を固めた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 足利義昭上洛の警護 ====&lt;br /&gt;
永禄11年（1568年）9月、信長は他国侵攻の大義名分として将軍家嫡流の足利義昭を奉戴し、[[上洛]]を開始した。これに対して抵抗した南近江の[[六角義賢]]・[[六角義治|義治]]父子は織田軍の猛攻を受け、[[観音寺城]]が落城する（[[観音寺城の戦い]]）。六角父子は[[甲賀郡]]に後退、以降はゲリラ戦を展開した&amp;lt;ref&amp;gt;ただし、[[六角氏]]嫡流は別にあり、嫡流の[[六角義秀]]・[[六角義郷]]は信長に庇護されたとする異説もある。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
信長が上洛すると、[[三好長慶]]死後の内輪揉めにより崩壊しつつあった[[三好義継]]・松永久秀らは信長の実力を悟って臣従し、三好三人衆に属した他の勢力の多くは[[阿波国]]へ逃亡する。唯一抵抗していた[[池田勝正]]も信長に降伏した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
足利義昭を第15代将軍に擁立した信長は、[[和泉国|和泉]]一国の恩賞だけを賜り尾張へ帰国。この時、信長は義昭から管領・斯波家の家督継承もしくは管領代・[[副将軍]]の地位等を勧められたが、桐紋と斯波家並の礼遇だけを賜り遠慮したとされる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
永禄12年（[[1569年]]）1月、信長率いる織田軍主力が美濃国に帰還した隙を突いて、三好三人衆と斎藤龍興ら浪人衆が共謀し、足利義昭の[[御所]]である[[六条通|六条]][[本圀寺]]を攻撃した（[[六条合戦]]）。しかし、信長は豪雪の中をわずか2日で援軍に駆けつけるという機動力を見せた&amp;lt;ref&amp;gt;信長公記によれば、当時、岐阜から[[京都]]までは3日はかかったという。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
もっとも、浅井長政や池田勝正の援軍と[[明智光秀]]の奮戦により、三好・斎藤軍は信長の到着を待たず敗退していた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1月10日には三好軍と共同して決起した[[高槻城]]の[[入江春景]]を攻めた。春景は降伏したが、信長は再度の離反を許さず処刑し、和田惟政を高槻に入城させ、[[摂津国]]を守護・池田勝正を筆頭とし[[伊丹氏]]と惟政の3人に統治させた（[[摂津三守護]]）。同日、信長は三好三人衆に協力していた[[堺]]に2万貫の矢銭と服属を要求し、支払わせた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 伊勢侵攻と北畠家簒奪 ===&lt;br /&gt;
同時期に[[伊勢国]]への侵攻も大詰めを迎える。伊勢は南朝以来の[[国司]]である[[北畠氏]]が最大勢力を誇っていたが、まず永禄11年（[[1568年]]）北伊勢の神戸具盛と講和し、三男の[[織田信孝]]を[[神戸氏]]の養子として送り込んだ。更に[[北畠具教]]の次男・[[長野具藤]]を内応により追放し、弟・[[織田信包]]を長野家当主とした。そして翌・永禄12年（[[1569年]]）8月20日、滝川一益の調略によって具教の実弟・[[木造具政]]が信長側に転じると、信長はその日の内に岐阜を出陣し南伊勢に進攻、北畠家の[[大河内城]]を大軍を率いて包囲、篭城戦の末10月3日に和睦し、次男・[[織田信雄]]を養嗣子として送り込んだ。後に北畠具教は幽閉され、[[天正]]4年（[[1576年]]）に信雄により殺害される。こうして信長は、養子戦略により北伊勢攻略を終える。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 第一次信長包囲網 ===&lt;br /&gt;
永禄12年（1569年）、信長は足利義昭の将軍としての権力を制限するため、『[[殿中御掟]]』9ヶ条の掟書、のちには追加7ヶ条を発令し、これを義昭に認めさせた。これによって義昭と信長の対立は決定的なものになったわけではなく、両者はお互いを利用し合う関係であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
3月、正親町天皇から「信長を副将軍に任命したい」という意向が伝えられたが、信長は何の返答もせず、事実上無視した&amp;lt;ref&amp;gt;藤井譲治「天皇と天下人」より&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[元亀]]元年（[[1570年]]）4月、信長は度重なる上洛命令を無視する朝倉義景を討伐するため、[[浅井氏]]との盟約を反故にし、盟友の徳川家康の軍勢とともに越前国へ進軍。織田・徳川連合軍は[[朝倉氏]]の諸城を次々と攻略していくが、[[金ヶ崎城|金ヶ崎]]で浅井氏離反の報告を受ける。挟撃される危機に陥った織田・徳川連合軍はただちに撤退を開始し、[[殿 (軍事用語)|殿]]を務めた池田勝正・[[明智光秀]]・[[豊臣秀吉|木下秀吉]]らの働きもあり、京に逃れた（[[金ヶ崎の戦い]]）。信長は先頭に立って真っ先に撤退し、僅か10名の共と一緒に京に到着したという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
同年6月、信長は浅井氏を討つべく、近江国[[姉川]]河原で徳川軍とともに浅井・朝倉連合軍と対峙。並行して浅井方の横山城を陥落させつつ、織田・徳川連合軍は勝利した（'''[[姉川の戦い]]'''）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
8月、信長は摂津国で挙兵した三好三人衆を討つべく出陣するが、その隙をついて石山本願寺が信長に対して挙兵した（[[野田城・福島城の戦い]]）。しかも、織田軍本隊が摂津国に対陣している間に軍勢を立て直した浅井・朝倉・延暦寺などの連合軍3万が近江国・[[坂本 (大津市)|坂本]]に侵攻する。織田軍は劣勢の中、重臣・森可成と信長の実弟・[[織田信治]]を喪った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
9月23日未明、信長は本隊を率いて摂津国から近江国へと帰還。慌てた浅井・朝倉連合軍は比叡山に立て籠もって抵抗した。信長はこれを受け、近江国・[[宇佐山城]]において浅井・朝倉連合軍と対峙する（[[志賀の陣]]）。しかし、その間に石山本願寺の[[法主]]・[[顕如]]の命を受けた伊勢の門徒が一揆を起こし（[[長島一向一揆]]）、信長の実弟・[[織田信興]]を自害に追い込んだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
11月21日、信長は六角義賢・義治父子と和睦し、ついで阿波から来た[[篠原長房]]と講和した&amp;lt;ref&amp;gt;林屋辰三郎『天下一統』中公文庫、143頁&amp;lt;/ref&amp;gt;。さらに足利義昭に朝倉氏との和睦の調停を依頼し、義昭は関白[[二条晴良]]に調停を要請した。そして正親町天皇に奏聞して[[勅命]]を仰ぎ、12月13日、勅命をもって浅井氏・朝倉氏との和睦に成功&amp;lt;ref&amp;gt;[[大久保忠教]]の記した『[[三河物語]]』によると、このとき信長は義景に対し「天下は朝倉殿が持ち給え。我は二度と望み無し」とまで言ったという。&amp;lt;/ref&amp;gt;。窮地を脱した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 第二次信長包囲網 ===&lt;br /&gt;
元亀2年（[[1571年]]）、信長は朝倉・浅井に味方した延暦寺を攻めた（'''[[比叡山焼き討ち (1571年)|比叡山焼き討ち]]'''）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一方この頃、甲斐国の武田信玄が信長への事前通告なしに徳川領へ侵攻&amp;lt;ref&amp;gt;近年では元亀2年の信玄による三河侵攻は根拠となる文書群の年代比定の誤りが指摘され、これは勝頼期の天正3年の出来事であった可能性も考えられている（鴨川達夫『武田信玄と勝頼』（岩波新書、2009）、柴裕之「戦国大名武田氏の遠江・三河侵攻再考」『武田氏研究』第37号、2007）。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
元亀3年（[[1572年]]）、石山本願寺が信長と和睦したものの、三好義継・松永久秀らが共謀して信長に謀反を起こした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
7月、信長は近江に出陣（[[虎御前山の戦い]]）。嫡男・奇妙丸（後の[[織田信忠]]）の[[初陣]]でもあった。戦況は織田軍有利に展開し、8月には朝倉義景に不満を抱いていた朝倉軍の[[前波吉継]]・[[富田長繁]]・[[毛屋猪介]]・[[戸田与次郞]]らが信長に寝返った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
9月、信長は足利義昭に対して17条の意見書を提出。信長と義昭の関係は決定的に悪化した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
11月、武田氏の秋山虎繁（信友）が、東美濃の[[岩村城]]を攻めたが、織田軍に敗退し、岩村城近辺の城はみな織田のものとなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
徳川領においては徳川軍が[[一言坂の戦い]]で武田軍に大敗し、さらに遠江国の要である[[二俣城]]が開城・降伏により不利な戦況となる（[[二俣城の戦い]]）。これに対して信長は、家康に佐久間信盛・[[平手汎秀]]ら3,000人の援軍を送ったが、12月の'''[[三方ヶ原の戦い]]'''で織田・徳川連合軍は武田軍に敗退。汎秀が討死した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1573（元亀4）年に入ると、武田軍は三河に侵攻し、2月に[[野田城 (三河国)|野田城]]を攻略した（[[野田城の戦い]]）。これに呼応して京の足利義昭が信長に対して挙兵したため、信長は岐阜から京都に向かって進軍した。信長が京都に着陣すると幕臣であった[[細川幽斎|細川藤孝]]や[[荒木村重]]らは義昭を見限り信長についた。信長は上京を焼打ちして義昭に脅しをかけてから義昭と和睦しようとした。義昭は初めこれを拒否していたが、正親町天皇からの勅命が出され、4月5日に義昭と信長はこれを受け入れて和睦した。4月12日、武田信玄は病死し、武田軍は甲斐国へ帰国した&amp;lt;ref&amp;gt;元亀年間に行われた武田氏の遠江・三河への侵攻や信長との対立は「[[西上作戦]]」と通称され、信玄は上洛を目指していたされてきたが、近年ではその実態や意図に疑問が呈されている（鴨川達夫『武田信玄と勝頼』（岩波新書、2007年）、柴裕之「戦国大名武田氏の遠江・三河侵攻再考」『武田氏研究』第37号、2007、柴辻俊六「武田信玄の上洛戦略と織田信長」『武田氏研究』第40号、2009　など&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
7月には再び抵抗の意思を示した足利義昭が[[二条城|二条御所]]や山城守護所（[[槇島城]]）に立て籠もったが、信長は義昭を破り追放し、これをもって室町幕府の勢力は京都から消滅した&amp;lt;ref&amp;gt;室町幕府の滅亡により、[[室町将軍]]は天皇王権を擁し、京都を中心とする周辺領域を支配し地方の諸大名を従属下におき紛争などを調停する「[[天下]]」主催者たる地位を喪失。信長が「天下」主催者としての地位を継承し、以降は諸大名を従属・統制下におく立場であったことが指摘されている（[[神田千里]]「織田政権の支配の論理に関する一考察」『東洋大学文学部紀要』2002、同『戦国乱世を生きる力』中央公論社、2002）。&amp;lt;/ref&amp;gt;。加えて7月28日には[[元号]]を元亀から[[天正]]へと改めることを[[朝廷]]に奏上し、これを実現させた&amp;lt;ref&amp;gt;ただし、朝廷では既に元亀3年の段階で改元を決定しており、同年3月29日には信長と義昭の下に使者を送っている（『御湯殿上日記』）。だが、義昭は改元に消極的であり、信長の17か条の詰問状でも批判の1つに挙げられている。信長は改元を支持することで、消極的な態度を見せる義昭排除の正当性を得るとともに、朝廷の望む改元を実現させることによって自己を室町幕府に代わる武家政権のトップとして朝廷に認めさせたとする評価がある（[[神田裕理]]「織豊期の改元」『戦国・織豊期の朝廷と公家社会』校倉書房、2011年）。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1573（天正1）年8月、信長は細川藤孝に命じて、[[淀古城|淀城]]に立て籠もる三好三人衆の一人・[[岩成友通]]を討伐した（第二次淀古城の戦い）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
同月、信長は3万人の軍勢を率いて越前国に侵攻。[[一乗谷城の戦い#刀根坂の戦い|刀根坂の戦い]]で朝倉軍を破り、朝倉義景は自刃した。9月、[[小谷城]]を攻略して浅井氏に勝利し、[[浅井久政]]・長政父子は自害し、長政の母・[[小野殿]]（阿古御料人）の指を一日一本ずつ切り落とした上で殺害した（執行を担当したのは秀吉であり、処刑方法が信長本人の意向か秀吉のものであるかは不明である）。なお、長政に嫁いでいた妹・お市らは落城前に落ち延びて信長が引き取った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
9月24日、信長は尾張・美濃・伊勢の軍勢を中心とした3万人の軍勢を率いて、伊勢長島に行軍した。織田軍は滝川一益らの活躍で半月ほどの間に長島周辺の敵城を次々と落とした。しかし撤退戦で[[林通政#林通政 (新次郎)|林通政]]が討死した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
11月、[[河内国]]の三好義継が足利義昭に同調して反乱を起こした。信長は佐久間信盛を総大将とした軍勢を河内国に送り込む。しかし、信長の実力を怖れた義継の家老・[[若江三人衆]]らによる裏切りで義継は11月16日に自害し、三好氏もここに滅亡した。12月26日、[[大和国]]の松永久秀も[[多聞山城]]を明け渡し、信長に降伏した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 長島一向一揆の制圧 ===&lt;br /&gt;
{{Main|長島一向一揆}}&lt;br /&gt;
天正2年（[[1574年]]）1月、朝倉氏を攻略して織田領となっていた越前国で、[[地侍]]や[[本願寺]][[門徒]]による反乱が起こり、守護代の[[前波吉継|桂田長俊]]は[[一乗谷]]で殺された。それに呼応する形で、甲斐国の武田勝頼が東美濃に侵攻してくる。信長はこれを信忠とともに迎撃しようとしたが、信長の援軍が到着する前に東美濃の[[明知城]]が落城し、信長は武田軍との衝突を避けて岐阜に撤退した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
3月、信長は上洛して[[従三位]][[参議]]に叙任された。このとき、信長は[[正親町天皇]]に対して「[[蘭奢待]]の切り取り」を奏請し、[[天皇]]はこれを[[勅命]]をもって了承した&amp;lt;ref&amp;gt;これは、信長が正親町天皇と密接な関係にあるということを諸国に知らしめるためであったといわれているがこれを契機に、信長の実力が[[朝廷]]からも認められていることを知った諸[[大名]]、特に[[奥州]]からは信長に対して誼を通じる使者が増えたと言われている。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
7月、信長は数万人の大軍と織田信雄・滝川一益・[[九鬼嘉隆]]の伊勢・[[志摩国|志摩]]水軍を率いて、伊勢長島を水陸から完全に包囲し、[[攻城戦#攻城戦の手法|兵糧攻め]]にした。一揆軍も地侍や旧北畠家臣なども含み、抵抗は激しかったが、8月に兵糧不足に陥り、[[大鳥居城]]から逃げ出した一揆勢1,000人余が討ち取られるなど劣勢となる。9月29日、[[長島城]]の門徒は降伏し、船で[[大坂]]方面に退去しようとしたが、信長は一斉射撃を浴びせ掛けた。他方、一揆側の反撃で、信長の庶兄・織田信広、弟・[[織田秀成]]など織田一族の将が討ち取られた。これを受けて信長は[[中江城]]、[[屋長島城]]に立て籠もった長島門徒2万人に対して、城の周囲から柵で包囲し、焼き討ちで全滅させた。この戦によって長島を占領した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
翌天正3年（[[1575年]]）3月、荒木村重が[[大和田城]]を占領したのをきっかけに、織田信長は石山本願寺・[[高屋城]]周辺に10万兵の大軍で出軍した（[[高屋城の戦い]]）。高屋城・石山本願寺周辺を焼き討ちにし、両城の補給基地となっていた[[新堀城]]が落城すると、[[三好康長]]は降伏を申し出これを受け入れ、高屋城を含む河内国の城は[[破城]]となる。その後、[[松井友閑]]と三好康長の仲介のもと石山本願寺と一時的な和睦が成立する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 長篠の戦い ===&lt;br /&gt;
{{Main|長篠の戦い}}&lt;br /&gt;
信長包囲網の打破後、信長や徳川家康は甲斐の武田氏に対しても反攻を強めており、武田方は織田・徳川領への再侵攻を繰り返していた。天正3年（[[1575年]]）4月、勝頼は武田氏より離反し[[徳川氏]]の家臣となった[[奥平信昌|奥平貞昌]]を討つため、1万5,000人の軍勢を率いて貞昌の居城・[[長篠城]]に攻め寄せた。しかし奥平勢の善戦により武田軍は長篠城攻略に手間取る。その間の5月12日に信長は3万人の大軍を率いて岐阜から出陣し、5月17日に三河国の野田で徳川軍8,000人と合流する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
3万8,000人に増大した織田・徳川連合軍は5月18日、設楽原に陣を敷いた。そして5月21日、織田・徳川連合軍と武田軍の戦いが始まる（'''長篠の戦い'''）。信長は設楽原決戦においては5人の奉行に1,000丁余りの[[火縄銃]]を用いた射撃を行わせるなどし&amp;lt;ref&amp;gt;『[[信長公記]]』による。佐々成政、前田利家、野々村正成、福富秀勝、塙直政の5人。ただし、この部隊以外の部隊が所有した火縄銃の数は不明。また、徳川方の鉄炮衆もいる。さらに、鳶ヶ巣山砦攻撃別働隊には馬廻鉄炮衆五百が付けられている。いわゆる「三段撃ち」戦法については、実在を疑問視する学説もある。&amp;lt;/ref&amp;gt;、武田軍に圧勝する&amp;lt;ref&amp;gt;この戦いで武田氏の大軍から長篠城を防衛した奥平貞昌は、信長より[[偏諱]]を賜り信昌と改名している。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
6月27日、[[相国寺]]に上洛した信長は天台宗と真言宗の争論の事を知り、公家の中から5人の奉行を任命して問題の解決に当たらせた（[[絹衣相論]]を参照）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
7月3日、正親町天皇は信長に官位を与えようとしたが、信長はこれを受けず、家臣たちに官位や姓を与えてくれるよう申し出た。天皇はこれを認め、信長の申し出通りに、松井友閑に宮内卿法印、武井夕庵に二位法印、明智光秀に惟任日向守、[[簗田広正]]に別喜右近、塙直政に原田備中守、丹羽長秀に惟住、の官位と姓を与えた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 越前侵攻 ===&lt;br /&gt;
この頃、前年に信長から越前国を任されていた守護代・桂田長俊を殺害して越前国を奪った本願寺門徒では、内部分裂が起こっていた。門徒達は天正3年（1575年）1月、桂田長俊殺害に協力した富田長繁ら地侍も罰し、越前国を[[一揆]]の持ちたる国とした。顕如の命で守護代として[[下間頼照]]が派遣されるが、前領主以上の悪政を敷いたため、一揆の内部分裂が進んでいた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これを好機と見た信長は長篠の戦いが終わった直後の8月、越前国に行軍した。内部分裂していた一揆衆は協力して迎撃することができず、下間頼照や[[朝倉景健]]らを始め、12,250人を数える越前国・[[加賀国]]の門徒が織田軍によって討伐された&amp;lt;ref&amp;gt;このとき、信長は[[村井貞勝]]に対して、越前府中の凄惨なありさまを書状で「府中は死骸ばかりにて一円空き所無く候 見せたく候」と書き記している。&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;このとき従軍した[[前田利家]]の所業を記した石版も残っている。「一揆おこり そのまま前田又左衛門殿一揆千人ばかり生け捕りさせ候なり 御成敗は はっつけ 釜煎られ あぶられ候 かくのごとくに候 一筆書きとめ候」。&amp;lt;/ref&amp;gt;。越前国は再び織田領となり、信長は国掟を出した上で、越前八郡を柴田勝家に与えた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 右近衛大将就任および安土城築城===&lt;br /&gt;
[[ファイル:Nobunaganoyakata.JPG|thumb|250px|[[安土城天主信長の館]]（安土城復元天主） 滋賀県[[近江八幡市]][[安土町]]]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
天正3年（1575年）11月4日、信長は[[権大納言]]に叙任される、また、11月7日にはさらに[[近衛大将|右近衛大将]]（征夷大将軍に匹敵する官職で武家では武門の棟梁のみに許される）に叙任する。信長はこの就任にあたり、御所にて公卿を集め、室町将軍家の将軍就任式（[[陣座]]）の儀礼を挙行させた。以後、信長のよび名は「上様」となり将軍と同等とみなされた（足利義昭は近衛大将への昇進を望むも未だ近衛中将のままであったので内裏の近衛府の庁舎内では信長が上司ということになる）。同日、嫡子の信忠は[[秋田城介]]（[[鎮守府将軍]]になるための前官）に、次男の信雄は左近衛中将に叙任している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
11月28日、信長は1週間前に東美濃の要・岩村城を陥落させた嫡男・信忠に一大名家としての織田家の家督ならびに美濃・尾張などの織田家の領国（織田直割領）を譲った。しかし、引き続き信長は織田政権の政治・全軍を総括する立場にあった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
天正4年（[[1576年]]）1月、信長自身の指揮のもと[[琵琶湖]]湖岸に[[安土城]]の築城を開始する&amp;lt;ref&amp;gt;「安土」という地名は信長が命名したとも（「細川家記」）、元々あった地名だとも言われる。&amp;lt;/ref&amp;gt;。安土城は天正7年（[[1579年]]）に五層七重の豪華絢爛な城として完成した。[[天守]]内部は吹き抜けとなっていたと言われている。[[イエズス会]]の[[宣教師]]は「その構造と堅固さ、財宝と華麗さにおいて、それら（城内の邸宅も含めている）はヨーロッパの最も壮大な城に比肩しうるものである」と母国に驚嘆の手紙を送っている。信長は[[岐阜城]]を信忠に譲り、完成した安土城に移り住んだ。信長はここを拠点に[[天下統一]]に邁進することとなる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 第三次信長包囲網 ===&lt;br /&gt;
{{Main|信長包囲網#第三次包囲網}}&lt;br /&gt;
天正4年（1576年）1月、信長に誼を通じていた[[丹波国]]の[[波多野秀治]]が叛旗を翻した。さらに石山本願寺も再挙兵するなど、再び反信長の動きが強まり始める。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
信長は4月、明智光秀・荒木村重・[[塙直政]]を大将とした3万人の軍勢を[[大坂]]に派遣し、砦を構築させた。このうち塙が伏兵の襲撃に遭って大敗を喫し、直政を始め1,000人以上が戦死した。織田軍は本願寺軍の攻勢に窮し[[天王寺]]砦に立て籠もるが、本願寺軍はこれを包囲し、天王寺で織田軍は窮地に陥った。5月5日、信長は若江城に入り動員令を出したが、集まったのは3,000人ほどであった。5月7日早朝、その軍勢を率いて自ら先頭に立ち、天王寺砦を包囲する本願寺軍1万5,000人に攻め入り、信長自身も銃撃され負傷する激戦となった。信長自らの出陣で士気が高揚した織田軍は、光秀率いる天王寺砦の軍勢7,000人との連携に成功。本願寺軍を挟撃し、これを撃破した（[[天王寺砦の戦い]]）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その後、織田軍は石山本願寺を水陸から包囲し兵糧攻めにした。ところが7月13日、石山本願寺の援軍に現れた[[毛利水軍]]800隻の前に、織田水軍は敗れ、毛利軍により石山本願寺に[[兵糧]]・[[弾薬]]が運び込まれた（[[第一次木津川口の戦い]]）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この頃、越後守護で[[関東管領]]の上杉輝虎（[[上杉謙信]]）と信長との関係は悪化し&amp;lt;ref&amp;gt;信長は武田信玄の要請で武田と上杉謙信との和睦を仲介していたが（甲越和与）、[[元亀]]3年（[[1572年]]）10月信玄は信長への事前通告なしに織田・徳川氏領へ侵攻し、信長と武田氏は手切となり、上杉氏との共闘をもちかけている。謙信はこれに応じているが積極的に連携することはなく、武田氏で勝頼への当主交代が起こると和睦をもちかけている。&amp;lt;/ref&amp;gt;、謙信は天正4年（1576年）に石山本願寺と和睦し、信長との対立を明らかにした。謙信を盟主として、毛利輝元・石山本願寺・波多野秀治・[[紀伊国|紀州]][[雑賀衆]]などが反信長に同調し結託した。このような事情の中、11月21日に信長は正三位・内大臣に昇進している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 織田右府 ===&lt;br /&gt;
天正5年（[[1577年]]）2月、信長は、雑賀衆を討伐するために大軍を率いて出陣（[[紀州征伐#信長の紀州攻め|紀州攻め]]）するが、毛利水軍による背後援助や上杉軍の[[能登国]]侵攻などもあったため、3月に入ると雑賀衆の頭領・[[鈴木孫一]]らを降伏させ&amp;lt;ref&amp;gt;本願寺攻めに協力する誓紙を出させたが、人質の提供は無かった&amp;lt;/ref&amp;gt;、形式的な和睦を行ない、紀伊国から撤兵した。この頃、北陸戦線では織田軍の柴田勝家が、[[加賀国]]の[[手取川]]を越えて焼き討ちを行っている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
大和国の松永久秀がまたも信長を裏切り挙兵すると、信長は織田信忠を[[総大将]]とした大軍を[[信貴山城]]に派遣し、10月に松永を討ち取った（[[信貴山城の戦い]]）。久秀を討った10月、信長に抵抗していた[[亀山城 (丹波国)|丹波亀山城]]の[[内藤定政]]（丹波守護代）が病死する。織田軍はこの機を逃さず亀山城・[[籾井城]]・[[笹山城]]などの丹波国の諸城を攻略。同年、姉妹の[[お犬の方]]を丹波守護で[[管領]]を世襲する細川京兆家当主・[[細川信良|細川昭元]]の正室とすることに成功し丹波を掌握した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
11月、能登・加賀北部を攻略した上杉軍が加賀南部へ侵攻&amp;lt;ref&amp;gt;織田軍は手取川において1,000人余が討死し渡河の際にも多数の行方不明者を出した（[[手取川の戦い]]）というが、戦果を喧伝した謙信の書状以外に史料がなく、戦いが起こったかどうかは不明である。&amp;lt;/ref&amp;gt;。その結果、加賀南部は上杉家の領国に組み込まれ、北陸では上杉側が優位に立った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
11月20日、正親町天皇は信長を従二位・右大臣に昇進させた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
天正6年（[[1578年]]）1月にはさらに正二位に位を上げている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
3月13日、上杉謙信が急死。謙信には実子がなく、後継者を定めなかったため、[[養子]]の[[上杉景勝]]と[[上杉景虎]]が後継ぎ争いを始めた（[[御館の乱]]）。この好機を活かし信長は[[斎藤利治]]を総大将に、[[飛騨国]]から[[越中国]]に侵攻（[[月岡野の戦い]]）、上杉軍に勝利し優位に立った。その後、柴田勝家軍が上杉領の能登・加賀を攻略、越中国にも侵攻する勢いを見せた。かくしてまたも信長包囲網は崩壊した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 織田方面軍団の編成 ===&lt;br /&gt;
天正期に入ると、同時多方面に勢力を伸ばせるだけの兵力と財力が織田氏に具わっていた。信長は部下の武将に[[大名]]級の[[所領]]を与え、自由度の高い統治をさせ、周辺の攻略に当たらせた。研究者の間では、これら信長配下の新設大名を「[[軍団]]」「[[方面軍]]」と呼称し&amp;lt;ref&amp;gt;無論当時にはそのような名称は無かった。&amp;lt;/ref&amp;gt;、または信長軍・信長機動隊ともいう&amp;lt;ref name=&amp;quot;hujiki40&amp;quot;&amp;gt;藤木久志「天下統一と朝鮮侵略」講談社学術文庫、40頁&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
尾張の兵を弓衆・鉄砲衆・馬廻衆・小姓衆・小身衆など機動性を持った直属の軍団に編成し、天正4年（1576年）にはこれらを安土に結集させた&amp;lt;ref name=&amp;quot;hujiki40&amp;quot;/&amp;gt;。既に織田家には直属の指揮班である宿老衆や先手衆などがおり、これらと新編成軍との連携などを訓練した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
上杉景勝に対しては柴田勝家・[[前田利家]]・[[佐々成政]]らを、武田勝頼に対しては滝川一益・織田信忠らを、波多野秀治に対しては明智光秀・細川藤孝らを、毛利輝元に対しては羽柴秀吉を、石山本願寺に対しては佐久間信盛を配備した。&lt;br /&gt;
* 美濃・尾張・飛騨の抑え・[[織田信忠]]・[[斎藤利治]]・[[姉小路頼綱]]&lt;br /&gt;
* 対武田方面・[[滝川一益]]・[[織田信忠]]軍団（天正元年結成）&lt;br /&gt;
* 対本願寺方面・[[佐久間信盛]]軍団（天正4年結成 - 天正8年消滅）&lt;br /&gt;
* 北陸方面・[[柴田勝家]]軍団（天正4年昇格）&lt;br /&gt;
* 近畿方面・[[明智光秀]]軍団（天正8年昇格）&lt;br /&gt;
* 山陰・山陽方面・[[羽柴秀吉]]軍団（天正8年昇格）&lt;br /&gt;
* 関東方面・滝川一益軍団（天正10年結成）&lt;br /&gt;
* 四国方面・[[織田信孝]]・[[津田信澄]]・[[丹羽長秀]]・[[蜂屋頼隆]]軍団（天正10年結成）&lt;br /&gt;
* 東海道の抑え・[[徳川家康]]（形式的には同盟国であり織田軍団の一部ではない）&lt;br /&gt;
* 伊勢・伊賀方面の抑え・[[織田信雄]]・[[織田信包]]&lt;br /&gt;
*（紀伊方面の抑え・[[織田信張]]）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===中国侵攻===&lt;br /&gt;
天正6年（[[1578年]]）3月、[[播磨国]]の[[別所長治]]の謀反（[[三木合戦]]）が起こる、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
4月、突如として信長は右大臣・右近衛大将を辞職した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
7月、毛利軍が[[上月城]]を攻略し、信長の命により放置された[[山中幸盛]]ら[[尼子氏]]再興軍は処刑される（[[上月城の戦い]]）。10月には摂津国の荒木村重が[[有岡城]]に籠って信長から離反し（[[有岡城の戦い]]）、足利義昭・毛利氏・本願寺と手を結んで信長に抵抗する。一方、村重の[[与力]]であり東摂津に所領を持つ[[中川清秀]]・[[高山右近]]は村重にはつかなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
同年11月6日、信長は九鬼嘉隆の考案した[[鉄甲船]]を採用、6隻を建造し毛利水軍を撃破（[[第二次木津川口の戦い]]）。これにより石山本願寺と荒木は毛利軍の援助を受けられず孤立し、この頃から織田軍は優位に立つ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
天正7年（[[1579年]]）夏までに波多野秀治を降伏させ、処刑。同年9月、荒木村重が妻子を置き去りにして逃亡すると有岡城は落城し、荒木一族は処刑された。次いで10月、それまで毛利方であった[[備前国]]の[[宇喜多直家]]が服属すると、織田軍と毛利軍の優劣は完全に逆転する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
11月、信長は織田家の京屋敷・[[二条城#織田信長・誠仁親王の「二条新御所」|二条新御所]]を、[[皇太子]]である[[誠仁親王]]に進上した。同時に、信長は誠仁親王の五男・[[邦慶親王]]を[[猶子]]として、この邦慶親王も二条新御所に移っている&amp;lt;ref&amp;gt;「多聞院日記」より。なお多聞院日記によると、信長が御所を進上した相手は誠仁親王ではなく、猶子の邦慶親王の方だったようである。（藤井譲治『天皇と天下人』より）&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この年、信長は徳川家康の嫡男・[[松平信康]]に対し切腹を命じたとされる。表向きの理由は信康の12か条の乱行、築山殿の武田氏への内通などである。徳川家臣団は信長恭順派と反信長派に分かれて激しい議論を繰り広げたが、最終的に家康は築山殿を殺害し、信康に切腹させた（ただし、これに関しては、家康・信康父子の対立が原因で、信長は娘婿信康の処断について家康から了承を求められただけだとする説もある。詳細は[[松平信康#信康自刃事件について]]を参照）。また伊勢国の出城構築を[[伊賀国]]の[[国人]]に妨害されて立腹した織田信雄が、独断で伊賀国に侵攻し大敗を喫した。信長は信雄を厳しく叱責した（[[伊賀流#天正伊賀の乱|第一次天正伊賀の乱]]）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
天正8年（[[1580年]]）1月、別所長治が切腹し、三木城が開城。4月には正親町天皇の勅命のもと本願寺軍も織田軍に有利な条件を呑んで和睦し、大坂から退去した。同年には播磨国、[[但馬国]]をも攻略した。8月、信長は[[譜代]]の老臣・佐久間信盛とその嫡男・[[佐久間信栄]]に対して折檻状を送り付け、本願寺との戦に係る不手際などを理由に、高野山への追放か討ち死に覚悟で働くかを迫った。佐久間親子は高野山行きを選んだ。さらに、古参の林秀貞と[[安藤守就]]も、かつてあった謀反の企てや一族が敵と内通したことなどを蒸し返して、これを理由に追放した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
天正9年（[[1581年]]）には[[鳥取城]]を兵糧攻めで落とし[[因幡国]]を攻略、さらには[[岩屋城]]を落として[[淡路国]]を攻略した。同年、信雄を総大将とする4万人の軍勢が伊賀国を攻略。伊賀国は織田氏の領地となった（第二次天正伊賀の乱）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 京都御馬揃え～左大臣推任 ===&lt;br /&gt;
天正9年（1581年）、信長は絶頂期にあった。2月28日には京都の[[内裏]]東の馬場にて大々的なデモンストレーションを行なっている。いわゆる[[京都御馬揃え]]であるが、これには信長はじめ織田一門のほか、[[丹羽長秀]]ら織田軍団の武威を示すものであった&amp;lt;ref&amp;gt;「貴賎群衆の輩 かかるめでたき御代に生まれ合わせ …（中略）… あり難き次第にて上古 末代の見物なり」（[[信長公記]]）&amp;lt;/ref&amp;gt;。このときの馬揃えには正親町天皇を招待している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
3月7日、天皇は信長を左大臣に推任。9日にこの意向が信長に伝えられ、信長は「正親町天皇が譲位し、誠仁親王が即位した際にお受けしたい」と返答した。朝廷はこの件について話し合い、信長に朝廷の意向が伝えられた。24日、信長からの返事が届き、朝廷はこれに満足した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし4月1日、信長は突然「今年は[[金神]]の年なので譲位には不都合」と言い出した。譲位と信長の左大臣就任は延期されることになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 高野山包囲 ===&lt;br /&gt;
同・天正9年（1581年）、[[高野山]]が[[荒木村重]]の残党を匿ったり、足利義昭と通じるなど、信長と敵対する動きを見せる。『信長公記』によれば、信長は使者十数人を差し向けたが、高野山が使者を全て殺害した。一方、『高野春秋』では荒木村重探索の松井友閑の兵32名が高野山の領民に乱暴狼藉を働いたために高野山側がこれを殺害したと記している。いずれにしても、この行動に激怒した信長は、織田領における[[高野聖]]数百人を捕らえる（高野聖は[[諜報活動]]を行っていたともいう）と共に、[[河内国]]や[[大和国]]の諸大名に命じて高野山を包囲させた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
5月に越中国を守っていた上杉氏の武将・[[河田長親]]が急死した隙を突いて織田軍は越中に侵攻、同国の過半を支配下に置いた。3月23日には[[高天神城]]を奪回し、武田氏を追い詰めた。紀州では雑賀党が内部分裂し、信長支持派の鈴木孫一が反信長派の[[土橋平次]]らと争うなどして勢力を減退させた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 武田征伐 ===&lt;br /&gt;
{{Main|武田征伐}}&lt;br /&gt;
長篠合戦の敗退後、武田勝頼は越後上杉氏との[[甲越同盟]]の締結や[[新府城]]築城などで領国再建を図る一方、人質であった[[織田勝長]]（信房）を返還することで信長との和睦（甲江和与）を模索したが進まず、新府城築城のための普請増大などで却って国人衆には不満が増大していた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
天正10年（[[1582年]]）2月1日、武田信玄の娘婿であった[[木曾義昌]]が信長に寝返る。2月3日に信長は武田領国への本格的侵攻を行うための大動員令を信忠に発令。駿河国から家康、相模国から[[北条氏直]]、[[飛騨国]]から[[金森長近]]、[[木曽地域|木曽]]から織田信忠が、それぞれ武田領攻略を開始した。信忠軍は軍監・[[滝川一益]]と信忠の譜代衆となる河尻秀隆・[[森長可]]・[[毛利秀頼|毛利長秀]]等で構成され、この連合軍の兵数は10万人余に上った。武田軍は、[[伊那城]]の城兵が城将・[[下条信氏]]を追い出して織田軍に降伏。さらに[[信濃国]]の[[松尾城 (信濃国伊那郡)|松尾城]]主・[[小笠原信嶺]]、[[江尻城]]主・[[穴山信君]]らも先を争うように連合軍に降伏し、武田軍は組織的な抵抗が出来ず済し崩し的に敗北する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
信忠軍は猛烈な勢いで武田領に侵攻し武田側の城を次々に占領していき、信長が武田征伐に出陣した3月8日に信忠は武田領国の本拠である[[甲府]]を占領し、3月11日には甲斐都留郡の田野において滝川一益が武田勝頼・信勝父子を討ち取り、ここに武田氏は滅亡した&amp;lt;ref&amp;gt;俗説ではあるが、最後の武田攻めの際、明智光秀が「ここまで来られて、我々も骨を負った甲斐があった」と語ったところ、信長の逆鱗に触れ、光秀は欄干に頭を打ち付けられたともいわれている。&amp;lt;/ref&amp;gt;。また駿河国を徳川家康に、[[上野国]]を滝川一益に与え、旧武田領の監督を命じ、甲斐国を河尻秀隆、北信濃を森長可、南信濃を毛利長秀に与え一益の与力に付けて、北条氏直への抑えとしつつも同盟関係を保った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 三職推任 ===&lt;br /&gt;
4月、正親町天皇は信長を太政大臣・関白・征夷大将軍のいずれかに任じたいという意向を示し、5月に信長に伝えられた（[[三職推任問題]]）。しかし信長は使者に対して何も返答しないままだった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 本能寺の変 ===&lt;br /&gt;
[[ファイル:Honnoj.jpg|thumb|280px|『本能寺焼討之図』 [[楊斎延一]]（ようさい のぶかず）画（[[明治]]時代作成の[[武者絵]]。[[名古屋市]]所蔵）]]&lt;br /&gt;
{{Main|本能寺の変}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
信長は[[四国]]の[[長宗我部元親]]攻略に向け、三男の神戸信孝、重臣の丹羽長秀・[[蜂屋頼隆]]・[[津田信澄]]の軍団を派遣する準備を進めていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また北陸方面では柴田勝家が富山城、魚津城を攻撃（[[魚津城の戦い]]）。上杉氏は北の[[新発田重家の乱]]に加え、北信濃方面から森長可、上野方面から滝川一益の進攻を受け、東西南北の全方面で守勢に立たされていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
5月15日、駿河国加増の礼と武田征伐の戦勝祝いのため、徳川家康が安土城を訪れた。そこで信長は明智光秀に接待役を命じる。光秀は15日から17日にわたって家康を手厚くもてなした。家康接待が続く中、信長は[[備中高松城]]攻めを行なっている羽柴秀吉の使者より援軍の依頼を受けた。信長は光秀の接待役の任を解き、秀吉への援軍に向かうよう命じた。後世、『[[明智軍記]]』などによって[[江戸時代]]以降流布される俗説では、この時、光秀の接待内容に不満を覚えた信長は[[小姓]]の[[森成利]]（蘭丸）に命じて光秀の頭をはたかせた、としている&amp;lt;ref&amp;gt;この時の[[献立]]は「天正十年安土御献立」『[[続群書類従]]』に記録されているが、この時の献立は前年の家康接待（饗応役は不明）の際の献立（「御献立集」）のと比べて遜色の無い点が指摘される（[[江後迪子]]『信長のおもてなし』2007）&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
5月29日、信長は[[中国地方|中国]]遠征の出兵準備のために上洛し、[[本能寺]]に逗留していた。ところが、秀吉への援軍を命じていたはずの明智軍が突然京都に進軍し、[[6月2日 (旧暦)|6月2日]]に本能寺を襲撃する。この際に光秀は部下の信長に寄せる忠誠の篤きを考慮し、現に光秀への忠誠を誓う者が少なかったため、侵攻にあたっては標的が信長であることを伏せていたことが[[本城惣右衛門覚書]]からもうかがえる。100人ほどの手勢しか率いていなかった信長であったが、初めは自ら[[槍]]を手に奮闘した。しかし圧倒的多数の明智軍には敵わず、居間に戻った信長は自ら火を放ち、燃え盛る炎の中で自害した。[[享年]]49（満48歳没）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
光秀の娘婿・[[明智秀満]]が信長の遺体を探したが見つからなかった。当時の本能寺は織田勢の補給基地的に使われていたため、火薬が備蓄されており、信長の遺体が爆散してしまったためと考えられる。しかしながら、密かに脱出し別の場所で自害したという説や、信長を慕う僧侶と配下によって人知れず埋葬されたという説もある。なお、最後まで信長に付き従っていた者の中に[[黒人]]の家来・[[弥助]]がいた。弥助は、光秀に捕らえられたものの後に放免となっている。それ以降、弥助の動向については不明である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[平成]]19年（[[2007年]]）に行われた本能寺跡の発掘調査では、本能寺の変と同時期にあったとされる堀跡や大量の焼け瓦が発見された。これにより、城塞としての機能や謀反に備えていた可能性が指摘されており、現在も調査が続いている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==人物像==&lt;br /&gt;
「怒りっぽかった」という記録ははっきり言って当てにならない。中世の記録はたいがいこうやって脚色してあるものだからである。考えてみたまえ。庶民が法を犯すたびに怒る統治者など存在するわけがない。まあ短気ではあっただろう。即断即決でなければ生きていけない世の中だったのだから。しかし判断が早いというのと、感情が動き易いということとは全く違う。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==アホ学者の通説を斬る！==&lt;br /&gt;
立花京子&lt;br /&gt;
*『天皇は武力によって君臨しているわけではないから、武力による脅しは無意味』（by「黄金太閤」）&lt;br /&gt;
**？？？天皇が何の正当性をもって君臨しているかという事と、天皇に武力による脅しが通じるかという事に、いったい何の関係があるんだ？天皇だって人の子だ。刀をつきつけて「譲位しろ」と脅せば、ビビって「はい」と言ってしまうことだってあるだろう。過去に毒殺された親王だっている。もし「信長が天皇から武力を奪おうとした」という事実があって、それへの反論としてこう言うなら分かるのだが。どうもこのへんの歴史学者というのはいまだに天皇を崇拝しているようで困る。&lt;br /&gt;
**まあ馬揃えはどうでもいいんだけどね。ちなみに天皇が馬揃えを見たがったのは、自分の方が信長より上位であるという関係を民衆に見せたかったから。それ以外にあるわけないじゃんｗ　天皇の言葉をそのまま受け取ってしまうようじゃあ政治は語れないのである。&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Minagoroshida</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%B9%94%E7%94%B0%E4%BF%A1%E9%95%B7&amp;diff=155592</id>
		<title>織田信長</title>
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				<updated>2012-03-25T13:19:23Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Minagoroshida: /* 第二次信長包囲網 */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''織田 信長'''（おだ のぶなが）は、[[日本]]の[[戦国時代]]の人物。戦争と混乱に満ちた16世紀の日本を統一へと導いた。日本の政治上・軍事上最大の天才とも言われる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==概要==&lt;br /&gt;
平安時代、朝廷の軍事力の著しい低下によって日本全国の治安が非常に悪化したため、庶民は武装して身を守った。このために延々と内乱が続き、国は乱れに乱れていた。この戦乱を終わらせる終わらせる事業の大変を行ったのが織田信長である。彼は日本全国を統治する前に死んでしまったものの、実質的には彼が戦乱を終わらせたと言える。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==信長の計画==&lt;br /&gt;
まずは地盤を固める&lt;br /&gt;
↓&lt;br /&gt;
幕府あるいは朝廷という既存の権威を利用し、また隠れ蓑にもしつつ改革を行う&lt;br /&gt;
↓&lt;br /&gt;
自身の権威がそれらを越え次第、自身を神格化し、名実ともに日本の頂点に立つ&lt;br /&gt;
↓&lt;br /&gt;
余剰の軍事力は海外に向ける&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 生涯 ==&lt;br /&gt;
&amp;lt;small&amp;gt;※日付は[[和暦]]による[[旧暦]]。[[西暦]]表記の部分は[[ユリウス暦]]とする。&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 少年期 ===&lt;br /&gt;
[[天文 (元号)|天文]]3年（[[1534年]]）5月12日、[[尾張国]]の[[戦国大名]]・[[織田信秀]]の[[嫡男]]として、[[那古野城]]&amp;lt;ref&amp;gt;『[[国史大辞典 (昭和時代)|国史大辞典]]』　織田信長の項目　[[吉川弘文館]]。一般的には那古野城生まれを定説とするが、織田信秀の那古野城奪取をめぐって異説も存在する。&amp;lt;/ref&amp;gt;（現在の[[名古屋市]][[中区 (名古屋市)|中区]]）（[[勝幡城]]説もある&amp;lt;ref&amp;gt;『[[尾州古城志]]』&amp;lt;/ref&amp;gt;）で生誕。幼名は'''吉法師'''。なお、信長の生まれた「織田弾正忠家」は、尾張国の[[守護大名]]・[[斯波氏]]の[[被官]]で下四郡（海東郡・海西郡・愛知郡・知多郡）の[[守護代]]に補任された織田大和守家（清洲織田家）の家臣にして分家であり、[[清洲三奉行]]・古渡城主という家柄であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
母・[[土田御前]]が信秀の[[正室]]であったため嫡男となり、2歳にして那古野城主となる。幼少から青年時にかけて奇妙な行動が多く、周囲から'''尾張の大うつけ'''と称されていた。日本へ伝わった[[種子島銃]]に関心を持った挿話などが知られる。また、身分にこだわらず、民と同じように町の若者とも戯れていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
まだ世子であった頃、表面的に家臣としての立場を守り潜在的な緊張関係を保ってきた主筋の「織田大和守家」の支配する[[清洲城]]下に数騎で火を放つなど、父・信秀も寝耳に水の行動をとり、豪胆さを早くから見せた。また、[[今川氏]]へ人質として護送される途中で[[松平氏]]家中の[[戸田康光]]の裏切りにより[[織田氏]]に護送されてきた松平竹千代（後の[[徳川家康]]）と幼少期を共に過ごし、後に両者は固い盟約関係を結ぶこととなる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
天文15年（[[1546年]]）、[[古渡城]]にて[[元服]]し、'''上総介信長'''と称する。天文17年（[[1548年]]）、父・信秀と敵対していた[[美濃国]]の[[戦国大名]]・[[斎藤道三]]との和睦が成立すると、道三の娘・[[濃姫]]と政略結婚した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
天文18年（[[1549年]]）（異説では天文22年（[[1553年]]））に信長は[[聖徳寺 (名古屋市)|正徳寺]]で道三と会見し、その際に道三はうつけ者と呼ばれていた信長の器量を見抜いたとの逸話がある。また同年には、近江の[[国友|国友村]]に火縄銃500丁を注文したという&amp;lt;ref&amp;gt;「国友鉄砲記」より。正徳寺での会見には、兵に鉄砲500丁を持たせていったと「信長公記」にあり、これが国友村から購入した鉄砲だという可能性もある。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
天文20年（[[1551年]]）、父・信秀が没した為、家督を継ぐ&amp;lt;ref&amp;gt;信秀の葬儀において祭壇に[[抹香]]を投げつけたというエピソードが残っている。このような行為におよんだ理由は、うつけ者を装うため、葬儀を政治的に利用した信勝への抗議など諸説あるが、いずれも推測の域を出ていない。後年の創作という意見もあるが、1次史料である信長公記にまで書かれているため、全くの創作とは考えにくい。&amp;lt;/ref&amp;gt;。天文22年（[[1553年]]）、信長の教育係であった[[平手政秀]]が自害。これは諌死であったとも、息子・五郎右衛門と信長の確執のためともされる。信長は嘆き悲しみ、師匠の[[沢彦]]和尚を開山として[[政秀寺]]を建立し、政秀の霊を弔った。天文23年（[[1554年]]）には、[[村木砦の戦い]]で今川勢を破っている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 家督争いから尾張統一・上洛 ===&lt;br /&gt;
当時、尾張国は[[今川氏]]の尾張侵攻により[[守護]]の[[斯波氏]]の力が衰え、尾張下四郡を支配した[[守護代]]であった「織田大和守家」当主で[[清洲城]]主の[[織田信友]]が実権を掌握していた。信長の父・信秀はその信友に仕える三奉行の一人に過ぎなかったにも関わらず、その智勇をもって尾張中西部に支配権を拡大した。信秀の死後、信長が跡を継ぐと、信友は信長の弟・[[織田信行]]（信勝）の家督相続を支持して信長と敵対し、信長謀殺計画を企てるが、信友により傀儡にされていた[[守護]]・[[斯波義統]]が、計画を信長に密告した。これに激怒した織田信友は斯波義統の嫡子・[[斯波義銀|義銀]]が手勢を率いて川狩に出た隙に義統を殺害する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
斯波義銀が落ち延びてくると、信長は叔父の[[守山城 (尾張国)|守山城]]主・[[織田信光]]と協力し、信友を主君を殺した謀反人として殺害する。こうして「織田大和守家」は滅び、信長は那古野城から清洲城へ本拠を移し、尾張国の[[守護所]]を手中に収めた。これにより、織田氏の[[庶家]]の生まれであった信長が名実共に織田氏の頭領となった。なお信光も死亡しているが、死因は不明である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[弘治 (日本)|弘治]]2年（[[1556年]]）4月、義父・斎藤道三が子の[[斎藤義龍]]との戦いに敗れて戦死（[[長良川の戦い]]）。信長は道三救援のため、木曽川を越え美濃の大浦まで出陣するも、道三を討ち取り勢いに乗った義龍軍に苦戦し、道三敗死の知らせにより退却した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
こうした中、信長の当主としての器量を疑問視した重臣の[[林秀貞]]（通勝）・[[林通具]]・[[柴田勝家]]らは、信長を廃して聡明で知られた弟・信勝（信行）を擁立しようとした。これに対して信長には[[森可成]]・[[佐久間盛重]]・[[佐久間信盛]]らが味方し、両派は対立する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
道三の死去を好機と見た信勝派は、同年[[8月24日]]に挙兵して戦うも敗北（[[稲生の戦い]]）。その後、[[末盛城]]に籠もった信勝を包囲するが、生母・土田御前の仲介により、信勝・勝家らを赦免した。更に同年中に庶兄の信広も斎藤義龍と結んで清洲城の簒奪を企てたが、これは事前に情報を掴んだ為に未遂に終わり、信広は程なくして降伏し、赦免されている。しかし、弘治3年（[[1557年]]）に信勝は再び謀反を企てる。この時、稲生の戦いの後より信長に通じていた柴田勝家の密告があり、事態を悟った信長は病と称して信勝を清洲城に誘い出し殺害した。直接手を下したのは[[河尻秀隆]]とされている&amp;lt;ref&amp;gt;信長公記では、河尻と青貝という2人の家臣が、フロイス日本史では信長が直接殺したことになっている。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
さらに信長は、同族の[[犬山城]]主・[[織田信清]]と協力し、旧主「織田大和守家」の宿敵で織田一門の[[宗家]]であった尾張上四郡（丹羽郡・葉栗郡・中島郡・春日井郡）の守護代「織田伊勢守家」（岩倉織田家）の[[岩倉城 (尾張国)|岩倉城]]主・[[織田信賢]]を破って（[[浮野の戦い]]）これを追放。新たに守護として擁立した斯波義銀が斯波一族の[[石橋氏]]・[[吉良氏]]と通じて信長の追放を画策していることが発覚すると、義銀を尾張から追放した。こうして、[[永禄]]2年（[[1559年]]）までには尾張国の支配権を確立し、信長は尾張の国主となった。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
永禄2年（[[1559年]]）2月2日、信長は100名ほどの軍勢を引き連れて[[上洛]]し、[[室町幕府]]13代[[征夷大将軍|将軍]]・[[足利義輝]]に謁見した。当時、義輝は尾張守護・斯波家（武衛家）の邸宅を改修して住しており、信長はそこへ出仕した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 桶狭間の戦いから清洲同盟へ ===&lt;br /&gt;
1560（永禄3）年5月、[[今川義元]]が尾張国へ侵攻。[[駿河国|駿河]]・[[遠江国|遠江]]の本国に加え[[三河国|三河]]を分国として支配する今川氏の軍勢は、2万人以上の大軍であった。兵力で劣る織田軍は苦戦を強いられた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
永禄3年（[[1560年]]）5月19日午後1時頃、信長は[[幸若舞]]『[[敦盛 (幸若舞)|敦盛]]』を舞った後&amp;lt;ref name=&amp;quot;atsumori&amp;quot;&amp;gt;'''幸若舞'''の敦盛は口伝で伝えられていたために、長らく節回しや詳細な振り付けが不明となっていた。そのため、映像作品などでは'''謡曲'''の敦盛で代用されていた。しかし、近年になって幸若舞の敦盛も復刻されている。（詳細は[[敦盛 (幸若舞)]]を参照）&amp;lt;/ref&amp;gt;、昆布と勝ち栗を前に置き、立ったまま[[湯漬け]]（出陣前に、米飯に熱めの湯をかけて食べるのが武士の慣わし）を食べ、出陣した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
信長はまず[[熱田神宮]]に参拝。その後、[[善照寺砦]]で2000人の軍勢を整えて出撃。今川軍の陣中に強襲をかけ今川氏の前当主で隠居の義元を討ち取った。総大将を失った今川軍は、当主・氏真の命で本国駿河国に退却した（'''桶狭間の戦い'''）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
桶狭間の戦いの後、今川氏は三河の松平氏の離反等により、急激に衰退した。これを機に、信長は徳川家康（この頃、松平元康より改名）と手を結ぶことになる。それまで織田家と松平家は敵対関係にあり、幾度も戦っていたが、信長は美濃国の[[斎藤氏]]攻略のため、家康も駿河国の[[今川氏真]]らに対抗する必要があった為、こちらの利害関係を優先させたものと思われる。両者は永禄5年（[[1562年]]）、同盟を結んで互いに背後を固めた（'''清洲同盟'''）。この同盟は信長死後まで維持された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 美濃攻略と天下布武 ===&lt;br /&gt;
斎藤道三亡き後、信長と斎藤氏との関係は険悪なものとなっていた。桶狭間の戦いと前後して両者の攻防は一進一退の様相を呈していた。しかし、永禄4年（[[1561年]]）に斎藤義龍が急死し、嫡男・[[斎藤龍興]]が後を継ぐと、信長は美濃に出兵し勝利（[[森部の戦い]]）。織田家は優位に立ち、斎藤氏は家中で分裂が始まる。永禄7年（[[1564年]]）には北[[近江国]]の[[浅井長政]]と同盟を結び、斎藤氏への牽制を強化している。その際、信長は妹・[[お市の方|お市]]を輿入れさせた。一方で、信長は永禄8年（[[1565年]]）より[[滝川一益]]の援軍依頼により伊勢方面にも進出し、[[神戸具盛 (7代目当主)|神戸具盛]]など当地の諸氏とも戦っている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
永禄9年（[[1564年]]から[[1565年]]）、[[竹中重治]]と[[安藤守就]]が[[岐阜城]]を占拠後、[[加治田城]]主の[[佐藤忠能]]を味方にして[[中濃]]の諸城を手に入れ（[[中濃攻略戦]]）、さらに[[西美濃三人衆]]（[[稲葉良通]]・[[氏家直元]]・[[安藤守就]]）などを味方につけた信長は、ついに永禄10年（[[1567年]]）、斎藤龍興を[[伊勢国|伊勢]][[長島町 (三重県)|長島]]に敗走させ、尾張・美濃の2ヶ国を領する大名になった（[[稲葉山城の戦い]]）。ときに信長33歳。このとき、井ノ口を[[岐阜市|岐阜]]と改称している&amp;lt;ref&amp;gt;出典：『[[信長公記]]』&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
同年11月には僧・沢彦から与えられた印文「'''天下布武'''」の朱印を信長は使用しはじめており&amp;lt;ref&amp;gt;林屋辰三郎『天下一統』中公文庫、105頁&amp;lt;/ref&amp;gt;、本格的に[[天下統一]]を目指すようになったとみられる。11月9日、[[正親町天皇]]は信長を「古今無双の名将」を褒めつつ、[[御料所]]の回復・[[誠仁親王]]の元服費用の拠出を求めたが、&amp;lt;ref&amp;gt;前者は[[綸旨]]、後者は[[女房奉書]]によって伝えられた。なお、天皇・朝廷のこうした動きは各地の大名に対して行われており、この時点では正親町天皇はさほど信長を特別視していたわけではなかったと思われる。[[藤井譲治]]「天皇と天下人」より&amp;lt;/ref&amp;gt;、信長は丁重に「まずもって心得存じ候」と返答したのみであった&amp;lt;ref&amp;gt;[[藤井譲治]]「天皇と天下人」より&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 上洛 ===&lt;br /&gt;
====中央幕府の情勢====&lt;br /&gt;
中央では、永禄8年（[[1565年]]）、かねて[[京都|京]]を中心に[[畿内]]で権勢を誇っていた[[三好氏]]の有力者[[三好三人衆]]（[[三好長逸]]・[[三好政康]]・[[岩成友通]]）と[[松永久秀]]が、幕府権力の復活を目指して三好氏と対立を深めていた将軍･足利義輝を暗殺し、第14代将軍として義輝の従弟・[[足利義栄]]を傀儡として擁立する（[[永禄の変]]）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
久秀らはさらに義輝の弟で僧籍にあった一乗院覚慶（[[足利義昭]]）の暗殺も謀ったが、義昭は[[一色藤長]]・[[和田惟政]]ら幕臣の支援を受けて奈良から脱出し、[[越前国]]の[[朝倉義景]]のもとに身を寄せていた。しかし、義景が三好氏追討の動きを見せなかったため、永禄11年（[[1568年]]）7月には美濃国の信長へ接近を図ってきた。信長は義昭の三好氏追討要請を応諾した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
====武田氏との外交====&lt;br /&gt;
美濃国において領国を接する[[甲斐国]]の[[武田信玄]]とは信玄の四男・諏訪勝頼（[[武田勝頼]]）に養女（[[遠山夫人]]）を娶らせることで同盟を結んだが、遠山夫人は永禄10年（1567年）11月、[[武田信勝]]を出産した直後に早世したため、同年末には信長の嫡男・信忠と信玄の六女・[[信松尼|松姫]]との婚姻を模索し友好的関係を持続させるなど、周囲の勢力と同盟を結んで国内外を固めた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 足利義昭上洛の警護 ====&lt;br /&gt;
永禄11年（1568年）9月、信長は他国侵攻の大義名分として将軍家嫡流の足利義昭を奉戴し、[[上洛]]を開始した。これに対して抵抗した南近江の[[六角義賢]]・[[六角義治|義治]]父子は織田軍の猛攻を受け、[[観音寺城]]が落城する（[[観音寺城の戦い]]）。六角父子は[[甲賀郡]]に後退、以降はゲリラ戦を展開した&amp;lt;ref&amp;gt;ただし、[[六角氏]]嫡流は別にあり、嫡流の[[六角義秀]]・[[六角義郷]]は信長に庇護されたとする異説もある。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
信長が上洛すると、[[三好長慶]]死後の内輪揉めにより崩壊しつつあった[[三好義継]]・松永久秀らは信長の実力を悟って臣従し、三好三人衆に属した他の勢力の多くは[[阿波国]]へ逃亡する。唯一抵抗していた[[池田勝正]]も信長に降伏した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
足利義昭を第15代将軍に擁立した信長は、[[和泉国|和泉]]一国の恩賞だけを賜り尾張へ帰国。この時、信長は義昭から管領・斯波家の家督継承もしくは管領代・[[副将軍]]の地位等を勧められたが、桐紋と斯波家並の礼遇だけを賜り遠慮したとされる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
永禄12年（[[1569年]]）1月、信長率いる織田軍主力が美濃国に帰還した隙を突いて、三好三人衆と斎藤龍興ら浪人衆が共謀し、足利義昭の[[御所]]である[[六条通|六条]][[本圀寺]]を攻撃した（[[六条合戦]]）。しかし、信長は豪雪の中をわずか2日で援軍に駆けつけるという機動力を見せた&amp;lt;ref&amp;gt;信長公記によれば、当時、岐阜から[[京都]]までは3日はかかったという。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
もっとも、浅井長政や池田勝正の援軍と[[明智光秀]]の奮戦により、三好・斎藤軍は信長の到着を待たず敗退していた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1月10日には三好軍と共同して決起した[[高槻城]]の[[入江春景]]を攻めた。春景は降伏したが、信長は再度の離反を許さず処刑し、和田惟政を高槻に入城させ、[[摂津国]]を守護・池田勝正を筆頭とし[[伊丹氏]]と惟政の3人に統治させた（[[摂津三守護]]）。同日、信長は三好三人衆に協力していた[[堺]]に2万貫の矢銭と服属を要求し、支払わせた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 伊勢侵攻と北畠家簒奪 ===&lt;br /&gt;
同時期に[[伊勢国]]への侵攻も大詰めを迎える。伊勢は南朝以来の[[国司]]である[[北畠氏]]が最大勢力を誇っていたが、まず永禄11年（[[1568年]]）北伊勢の神戸具盛と講和し、三男の[[織田信孝]]を[[神戸氏]]の養子として送り込んだ。更に[[北畠具教]]の次男・[[長野具藤]]を内応により追放し、弟・[[織田信包]]を長野家当主とした。そして翌・永禄12年（[[1569年]]）8月20日、滝川一益の調略によって具教の実弟・[[木造具政]]が信長側に転じると、信長はその日の内に岐阜を出陣し南伊勢に進攻、北畠家の[[大河内城]]を大軍を率いて包囲、篭城戦の末10月3日に和睦し、次男・[[織田信雄]]を養嗣子として送り込んだ。後に北畠具教は幽閉され、[[天正]]4年（[[1576年]]）に信雄により殺害される。こうして信長は、養子戦略により北伊勢攻略を終える。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 第一次信長包囲網 ===&lt;br /&gt;
永禄12年（1569年）、信長は足利義昭の将軍としての権力を制限するため、『[[殿中御掟]]』9ヶ条の掟書、のちには追加7ヶ条を発令し、これを義昭に認めさせた。これによって義昭と信長の対立は決定的なものになったわけではなく、両者はお互いを利用し合う関係であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
3月、正親町天皇から「信長を副将軍に任命したい」という意向が伝えられたが、信長は何の返答もせず、事実上無視した&amp;lt;ref&amp;gt;藤井譲治「天皇と天下人」より&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[元亀]]元年（[[1570年]]）4月、信長は度重なる上洛命令を無視する朝倉義景を討伐するため、[[浅井氏]]との盟約を反故にし、盟友の徳川家康の軍勢とともに越前国へ進軍。織田・徳川連合軍は[[朝倉氏]]の諸城を次々と攻略していくが、[[金ヶ崎城|金ヶ崎]]で浅井氏離反の報告を受ける。挟撃される危機に陥った織田・徳川連合軍はただちに撤退を開始し、[[殿 (軍事用語)|殿]]を務めた池田勝正・[[明智光秀]]・[[豊臣秀吉|木下秀吉]]らの働きもあり、京に逃れた（[[金ヶ崎の戦い]]）。信長は先頭に立って真っ先に撤退し、僅か10名の共と一緒に京に到着したという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
同年6月、信長は浅井氏を討つべく、近江国[[姉川]]河原で徳川軍とともに浅井・朝倉連合軍と対峙。並行して浅井方の横山城を陥落させつつ、織田・徳川連合軍は勝利した（'''[[姉川の戦い]]'''）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
8月、信長は摂津国で挙兵した三好三人衆を討つべく出陣するが、その隙をついて石山本願寺が信長に対して挙兵した（[[野田城・福島城の戦い]]）。しかも、織田軍本隊が摂津国に対陣している間に軍勢を立て直した浅井・朝倉・延暦寺などの連合軍3万が近江国・[[坂本 (大津市)|坂本]]に侵攻する。織田軍は劣勢の中、重臣・森可成と信長の実弟・[[織田信治]]を喪った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
9月23日未明、信長は本隊を率いて摂津国から近江国へと帰還。慌てた浅井・朝倉連合軍は比叡山に立て籠もって抵抗した。信長はこれを受け、近江国・[[宇佐山城]]において浅井・朝倉連合軍と対峙する（[[志賀の陣]]）。しかし、その間に石山本願寺の[[法主]]・[[顕如]]の命を受けた伊勢の門徒が一揆を起こし（[[長島一向一揆]]）、信長の実弟・[[織田信興]]を自害に追い込んだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
11月21日、信長は六角義賢・義治父子と和睦し、ついで阿波から来た[[篠原長房]]と講和した&amp;lt;ref&amp;gt;林屋辰三郎『天下一統』中公文庫、143頁&amp;lt;/ref&amp;gt;。さらに足利義昭に朝倉氏との和睦の調停を依頼し、義昭は関白[[二条晴良]]に調停を要請した。そして正親町天皇に奏聞して[[勅命]]を仰ぎ、12月13日、勅命をもって浅井氏・朝倉氏との和睦に成功&amp;lt;ref&amp;gt;[[大久保忠教]]の記した『[[三河物語]]』によると、このとき信長は義景に対し「天下は朝倉殿が持ち給え。我は二度と望み無し」とまで言ったという。&amp;lt;/ref&amp;gt;。窮地を脱した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 第二次信長包囲網 ===&lt;br /&gt;
元亀2年（[[1571年]]）、信長は朝倉・浅井に味方した延暦寺を攻めた（'''[[比叡山焼き討ち (1571年)|比叡山焼き討ち]]'''）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一方この頃、甲斐国の武田信玄が信長への事前通告なしに徳川領へ侵攻&amp;lt;ref&amp;gt;近年では元亀2年の信玄による三河侵攻は根拠となる文書群の年代比定の誤りが指摘され、これは勝頼期の天正3年の出来事であった可能性も考えられている（鴨川達夫『武田信玄と勝頼』（岩波新書、2009）、柴裕之「戦国大名武田氏の遠江・三河侵攻再考」『武田氏研究』第37号、2007）。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
元亀3年（[[1572年]]）、石山本願寺が信長と和睦したものの、三好義継・松永久秀らが共謀して信長に謀反を起こした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
7月、信長は近江に出陣（[[虎御前山の戦い]]）。嫡男・奇妙丸（後の[[織田信忠]]）の[[初陣]]でもあった。戦況は織田軍有利に展開し、8月には朝倉義景に不満を抱いていた朝倉軍の[[前波吉継]]・[[富田長繁]]・[[毛屋猪介]]・[[戸田与次郞]]らが信長に寝返った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
9月、信長は足利義昭に対して17条の意見書を提出。信長と義昭の関係は決定的に悪化した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
11月、武田氏の秋山虎繁（信友）が、東美濃の[[岩村城]]を攻めたが、織田軍に敗退し、岩村城近辺の城はみな織田のものとなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
徳川領においては徳川軍が[[一言坂の戦い]]で武田軍に大敗し、さらに遠江国の要である[[二俣城]]が開城・降伏により不利な戦況となる（[[二俣城の戦い]]）。これに対して信長は、家康に佐久間信盛・[[平手汎秀]]ら3,000人の援軍を送ったが、12月の'''[[三方ヶ原の戦い]]'''で織田・徳川連合軍は武田軍に敗退。汎秀が討死した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1573（元亀4）年に入ると、武田軍は三河に侵攻し、2月に[[野田城 (三河国)|野田城]]を攻略した（[[野田城の戦い]]）。これに呼応して京の足利義昭が信長に対して挙兵したため、信長は岐阜から京都に向かって進軍した。信長が京都に着陣すると幕臣であった[[細川幽斎|細川藤孝]]や[[荒木村重]]らは義昭を見限り信長についた。信長は上京を焼打ちして義昭に脅しをかけてから義昭と和睦しようとした。義昭は初めこれを拒否していたが、正親町天皇からの勅命が出され、4月5日に義昭と信長はこれを受け入れて和睦した。4月12日、武田信玄は病死し、武田軍は甲斐国へ帰国した&amp;lt;ref&amp;gt;元亀年間に行われた武田氏の遠江・三河への侵攻や信長との対立は「[[西上作戦]]」と通称され、信玄は上洛を目指していたされてきたが、近年ではその実態や意図に疑問が呈されている（鴨川達夫『武田信玄と勝頼』（岩波新書、2007年）、柴裕之「戦国大名武田氏の遠江・三河侵攻再考」『武田氏研究』第37号、2007、柴辻俊六「武田信玄の上洛戦略と織田信長」『武田氏研究』第40号、2009　など&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 室町幕府滅亡と「天下」の継承 ===&lt;br /&gt;
武田氏の西上作戦停止によって信長は態勢を立て直し、元亀4年（1573年）7月には再び抵抗の意思を示した足利義昭が[[二条城|二条御所]]や山城守護所（[[槇島城]]）に立て籠もったが信長は義昭を破り追放し、これをもって室町幕府の勢力は京都から消滅した&amp;lt;ref&amp;gt;室町幕府の滅亡により、[[室町将軍]]は天皇王権を擁し京都を中心とする周辺領域を支配し地方の諸大名を従属下におき紛争などを調停する「[[天下]]」主催者たる地位を喪失するが、信長は「天下」主催者としての地位を継承し、以降は諸大名を従属・統制下におく立場であったことが指摘されている（[[神田千里]]「織田政権の支配の論理に関する一考察」『東洋大学文学部紀要』2002、同『戦国乱世を生きる力』中央公論社、2002）。&amp;lt;/ref&amp;gt;。加えて7月28日には[[元号]]を元亀から[[天正]]へと改めることを[[朝廷]]に奏上し、これを実現させた&amp;lt;ref&amp;gt;ただし、朝廷では既に元亀3年の段階で改元を決定しており、同年3月29日には信長と義昭の下に使者を送っている（『御湯殿上日記』）。だが、義昭は改元に消極的であり、信長の17か条の詰問状でも批判の1つに挙げられている。信長は改元を支持することで、消極的な態度を見せる義昭排除の正当性を得るとともに、朝廷の望む改元を実現させることによって自己を室町幕府に代わる武家政権のトップとして朝廷に認めさせたとする評価がある（[[神田裕理]]「織豊期の改元」『戦国・織豊期の朝廷と公家社会』校倉書房、2011年）。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
天正元年（1573年）8月、細川藤孝に命じて、[[淀古城|淀城]]に立て籠もる三好三人衆の一人・[[岩成友通]]を討伐した（第二次淀古城の戦い）。信長は同月、3万人の軍勢を率いて越前国に侵攻。[[一乗谷城の戦い#刀根坂の戦い|刀根坂の戦い]]で朝倉軍を破り、朝倉義景は自刃した。9月、[[小谷城]]を攻略して浅井氏に勝利し、[[浅井久政]]・長政父子は自害し、長政の母・[[小野殿]]（阿古御料人）の指を一日一本ずつ切り落とした上で殺害した（執行を担当したのは秀吉であり、処刑方法が信長本人の意向か秀吉のものであるかは不明である）。なお、長政に嫁いでいた妹・お市らは落城前に落ち延びて信長が引き取った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
9月24日、信長は尾張・美濃・伊勢の軍勢を中心とした3万人の軍勢を率いて、伊勢長島に行軍した。織田軍は滝川一益らの活躍で半月ほどの間に長島周辺の敵城を次々と落とした。しかし撤退途中にまたも一揆軍による奇襲を受け、[[林通政#林通政 (新次郎)|林通政]]が討死した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
11月、[[河内国]]の三好義継が足利義昭に同調して反乱を起こした。信長は佐久間信盛を総大将とした軍勢を河内国に送り込む。しかし、信長の実力を怖れた義継の家老・[[若江三人衆]]らによる裏切りで義継は11月16日に自害し、三好氏もここに滅亡した。12月26日、[[大和国]]の松永久秀も[[多聞山城]]を明け渡し、信長に降伏した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 長島一向一揆の制圧 ===&lt;br /&gt;
{{Main|長島一向一揆}}&lt;br /&gt;
天正2年（[[1574年]]）1月、朝倉氏を攻略して織田領となっていた越前国で、[[地侍]]や[[本願寺]][[門徒]]による反乱が起こり、守護代の[[前波吉継|桂田長俊]]は[[一乗谷]]で殺された。それに呼応する形で、甲斐国の武田勝頼が東美濃に侵攻してくる。信長はこれを信忠とともに迎撃しようとしたが、信長の援軍が到着する前に東美濃の[[明知城]]が落城し、信長は武田軍との衝突を避けて岐阜に撤退した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
3月、信長は上洛して[[従三位]][[参議]]に叙任された。このとき、信長は[[正親町天皇]]に対して「[[蘭奢待]]の切り取り」を奏請し、[[天皇]]はこれを[[勅命]]をもって了承した&amp;lt;ref&amp;gt;これは、信長が正親町天皇と密接な関係にあるということを諸国に知らしめるためであったといわれているがこれを契機に、信長の実力が[[朝廷]]からも認められていることを知った諸[[大名]]、特に[[奥州]]からは信長に対して誼を通じる使者が増えたと言われている。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
7月、信長は数万人の大軍と織田信雄・滝川一益・[[九鬼嘉隆]]の伊勢・[[志摩国|志摩]]水軍を率いて、伊勢長島を水陸から完全に包囲し、[[攻城戦#攻城戦の手法|兵糧攻め]]にした。一揆軍も地侍や旧北畠家臣なども含み、抵抗は激しかったが、8月に兵糧不足に陥り、[[大鳥居城]]から逃げ出した一揆勢1,000人余が討ち取られるなど劣勢となる。9月29日、[[長島城]]の門徒は降伏し、船で[[大坂]]方面に退去しようとしたが、信長は一斉射撃を浴びせ掛けた。他方、一揆側の反撃で、信長の庶兄・織田信広、弟・[[織田秀成]]など織田一族の将が討ち取られた。これを受けて信長は[[中江城]]、[[屋長島城]]に立て籠もった長島門徒2万人に対して、城の周囲から柵で包囲し、焼き討ちで全滅させた。この戦によって長島を占領した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
翌天正3年（[[1575年]]）3月、荒木村重が[[大和田城]]を占領したのをきっかけに、織田信長は石山本願寺・[[高屋城]]周辺に10万兵の大軍で出軍した（[[高屋城の戦い]]）。高屋城・石山本願寺周辺を焼き討ちにし、両城の補給基地となっていた[[新堀城]]が落城すると、[[三好康長]]は降伏を申し出これを受け入れ、高屋城を含む河内国の城は[[破城]]となる。その後、[[松井友閑]]と三好康長の仲介のもと石山本願寺と一時的な和睦が成立する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 長篠の戦い ===&lt;br /&gt;
{{Main|長篠の戦い}}&lt;br /&gt;
信長包囲網の打破後、信長や徳川家康は甲斐の武田氏に対しても反攻を強めており、武田方は織田・徳川領への再侵攻を繰り返していた。天正3年（[[1575年]]）4月、勝頼は武田氏より離反し[[徳川氏]]の家臣となった[[奥平信昌|奥平貞昌]]を討つため、1万5,000人の軍勢を率いて貞昌の居城・[[長篠城]]に攻め寄せた。しかし奥平勢の善戦により武田軍は長篠城攻略に手間取る。その間の5月12日に信長は3万人の大軍を率いて岐阜から出陣し、5月17日に三河国の野田で徳川軍8,000人と合流する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
3万8,000人に増大した織田・徳川連合軍は5月18日、設楽原に陣を敷いた。そして5月21日、織田・徳川連合軍と武田軍の戦いが始まる（'''長篠の戦い'''）。信長は設楽原決戦においては5人の奉行に1,000丁余りの[[火縄銃]]を用いた射撃を行わせるなどし&amp;lt;ref&amp;gt;『[[信長公記]]』による。佐々成政、前田利家、野々村正成、福富秀勝、塙直政の5人。ただし、この部隊以外の部隊が所有した火縄銃の数は不明。また、徳川方の鉄炮衆もいる。さらに、鳶ヶ巣山砦攻撃別働隊には馬廻鉄炮衆五百が付けられている。いわゆる「三段撃ち」戦法については、実在を疑問視する学説もある。&amp;lt;/ref&amp;gt;、武田軍に圧勝する&amp;lt;ref&amp;gt;この戦いで武田氏の大軍から長篠城を防衛した奥平貞昌は、信長より[[偏諱]]を賜り信昌と改名している。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
6月27日、[[相国寺]]に上洛した信長は天台宗と真言宗の争論の事を知り、公家の中から5人の奉行を任命して問題の解決に当たらせた（[[絹衣相論]]を参照）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
7月3日、正親町天皇は信長に官位を与えようとしたが、信長はこれを受けず、家臣たちに官位や姓を与えてくれるよう申し出た。天皇はこれを認め、信長の申し出通りに、松井友閑に宮内卿法印、武井夕庵に二位法印、明智光秀に惟任日向守、[[簗田広正]]に別喜右近、塙直政に原田備中守、丹羽長秀に惟住、の官位と姓を与えた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 越前侵攻 ===&lt;br /&gt;
この頃、前年に信長から越前国を任されていた守護代・桂田長俊を殺害して越前国を奪った本願寺門徒では、内部分裂が起こっていた。門徒達は天正3年（1575年）1月、桂田長俊殺害に協力した富田長繁ら地侍も罰し、越前国を[[一揆]]の持ちたる国とした。顕如の命で守護代として[[下間頼照]]が派遣されるが、前領主以上の悪政を敷いたため、一揆の内部分裂が進んでいた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これを好機と見た信長は長篠の戦いが終わった直後の8月、越前国に行軍した。内部分裂していた一揆衆は協力して迎撃することができず、下間頼照や[[朝倉景健]]らを始め、12,250人を数える越前国・[[加賀国]]の門徒が織田軍によって討伐された&amp;lt;ref&amp;gt;このとき、信長は[[村井貞勝]]に対して、越前府中の凄惨なありさまを書状で「府中は死骸ばかりにて一円空き所無く候 見せたく候」と書き記している。&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;このとき従軍した[[前田利家]]の所業を記した石版も残っている。「一揆おこり そのまま前田又左衛門殿一揆千人ばかり生け捕りさせ候なり 御成敗は はっつけ 釜煎られ あぶられ候 かくのごとくに候 一筆書きとめ候」。&amp;lt;/ref&amp;gt;。越前国は再び織田領となり、信長は国掟を出した上で、越前八郡を柴田勝家に与えた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 右近衛大将就任および安土城築城===&lt;br /&gt;
[[ファイル:Nobunaganoyakata.JPG|thumb|250px|[[安土城天主信長の館]]（安土城復元天主） 滋賀県[[近江八幡市]][[安土町]]]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
天正3年（1575年）11月4日、信長は[[権大納言]]に叙任される、また、11月7日にはさらに[[近衛大将|右近衛大将]]（征夷大将軍に匹敵する官職で武家では武門の棟梁のみに許される）に叙任する。信長はこの就任にあたり、御所にて公卿を集め、室町将軍家の将軍就任式（[[陣座]]）の儀礼を挙行させた。以後、信長のよび名は「上様」となり将軍と同等とみなされた（足利義昭は近衛大将への昇進を望むも未だ近衛中将のままであったので内裏の近衛府の庁舎内では信長が上司ということになる）。同日、嫡子の信忠は[[秋田城介]]（[[鎮守府将軍]]になるための前官）に、次男の信雄は左近衛中将に叙任している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
11月28日、信長は1週間前に東美濃の要・岩村城を陥落させた嫡男・信忠に一大名家としての織田家の家督ならびに美濃・尾張などの織田家の領国（織田直割領）を譲った。しかし、引き続き信長は織田政権の政治・全軍を総括する立場にあった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
天正4年（[[1576年]]）1月、信長自身の指揮のもと[[琵琶湖]]湖岸に[[安土城]]の築城を開始する&amp;lt;ref&amp;gt;「安土」という地名は信長が命名したとも（「細川家記」）、元々あった地名だとも言われる。&amp;lt;/ref&amp;gt;。安土城は天正7年（[[1579年]]）に五層七重の豪華絢爛な城として完成した。[[天守]]内部は吹き抜けとなっていたと言われている。[[イエズス会]]の[[宣教師]]は「その構造と堅固さ、財宝と華麗さにおいて、それら（城内の邸宅も含めている）はヨーロッパの最も壮大な城に比肩しうるものである」と母国に驚嘆の手紙を送っている。信長は[[岐阜城]]を信忠に譲り、完成した安土城に移り住んだ。信長はここを拠点に[[天下統一]]に邁進することとなる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 第三次信長包囲網 ===&lt;br /&gt;
{{Main|信長包囲網#第三次包囲網}}&lt;br /&gt;
天正4年（1576年）1月、信長に誼を通じていた[[丹波国]]の[[波多野秀治]]が叛旗を翻した。さらに石山本願寺も再挙兵するなど、再び反信長の動きが強まり始める。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
信長は4月、明智光秀・荒木村重・[[塙直政]]を大将とした3万人の軍勢を[[大坂]]に派遣し、砦を構築させた。このうち塙が伏兵の襲撃に遭って大敗を喫し、直政を始め1,000人以上が戦死した。織田軍は本願寺軍の攻勢に窮し[[天王寺]]砦に立て籠もるが、本願寺軍はこれを包囲し、天王寺で織田軍は窮地に陥った。5月5日、信長は若江城に入り動員令を出したが、集まったのは3,000人ほどであった。5月7日早朝、その軍勢を率いて自ら先頭に立ち、天王寺砦を包囲する本願寺軍1万5,000人に攻め入り、信長自身も銃撃され負傷する激戦となった。信長自らの出陣で士気が高揚した織田軍は、光秀率いる天王寺砦の軍勢7,000人との連携に成功。本願寺軍を挟撃し、これを撃破した（[[天王寺砦の戦い]]）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その後、織田軍は石山本願寺を水陸から包囲し兵糧攻めにした。ところが7月13日、石山本願寺の援軍に現れた[[毛利水軍]]800隻の前に、織田水軍は敗れ、毛利軍により石山本願寺に[[兵糧]]・[[弾薬]]が運び込まれた（[[第一次木津川口の戦い]]）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この頃、越後守護で[[関東管領]]の上杉輝虎（[[上杉謙信]]）と信長との関係は悪化し&amp;lt;ref&amp;gt;信長は武田信玄の要請で武田と上杉謙信との和睦を仲介していたが（甲越和与）、[[元亀]]3年（[[1572年]]）10月信玄は信長への事前通告なしに織田・徳川氏領へ侵攻し、信長と武田氏は手切となり、上杉氏との共闘をもちかけている。謙信はこれに応じているが積極的に連携することはなく、武田氏で勝頼への当主交代が起こると和睦をもちかけている。&amp;lt;/ref&amp;gt;、謙信は天正4年（1576年）に石山本願寺と和睦し、信長との対立を明らかにした。謙信を盟主として、毛利輝元・石山本願寺・波多野秀治・[[紀伊国|紀州]][[雑賀衆]]などが反信長に同調し結託した。このような事情の中、11月21日に信長は正三位・内大臣に昇進している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 織田右府 ===&lt;br /&gt;
天正5年（[[1577年]]）2月、信長は、雑賀衆を討伐するために大軍を率いて出陣（[[紀州征伐#信長の紀州攻め|紀州攻め]]）するが、毛利水軍による背後援助や上杉軍の[[能登国]]侵攻などもあったため、3月に入ると雑賀衆の頭領・[[鈴木孫一]]らを降伏させ&amp;lt;ref&amp;gt;本願寺攻めに協力する誓紙を出させたが、人質の提供は無かった&amp;lt;/ref&amp;gt;、形式的な和睦を行ない、紀伊国から撤兵した。この頃、北陸戦線では織田軍の柴田勝家が、[[加賀国]]の[[手取川]]を越えて焼き討ちを行っている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
大和国の松永久秀がまたも信長を裏切り挙兵すると、信長は織田信忠を[[総大将]]とした大軍を[[信貴山城]]に派遣し、10月に松永を討ち取った（[[信貴山城の戦い]]）。久秀を討った10月、信長に抵抗していた[[亀山城 (丹波国)|丹波亀山城]]の[[内藤定政]]（丹波守護代）が病死する。織田軍はこの機を逃さず亀山城・[[籾井城]]・[[笹山城]]などの丹波国の諸城を攻略。同年、姉妹の[[お犬の方]]を丹波守護で[[管領]]を世襲する細川京兆家当主・[[細川信良|細川昭元]]の正室とすることに成功し丹波を掌握した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
11月、能登・加賀北部を攻略した上杉軍が加賀南部へ侵攻&amp;lt;ref&amp;gt;織田軍は手取川において1,000人余が討死し渡河の際にも多数の行方不明者を出した（[[手取川の戦い]]）というが、戦果を喧伝した謙信の書状以外に史料がなく、戦いが起こったかどうかは不明である。&amp;lt;/ref&amp;gt;。その結果、加賀南部は上杉家の領国に組み込まれ、北陸では上杉側が優位に立った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
11月20日、正親町天皇は信長を従二位・右大臣に昇進させた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
天正6年（[[1578年]]）1月にはさらに正二位に位を上げている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
3月13日、上杉謙信が急死。謙信には実子がなく、後継者を定めなかったため、[[養子]]の[[上杉景勝]]と[[上杉景虎]]が後継ぎ争いを始めた（[[御館の乱]]）。この好機を活かし信長は[[斎藤利治]]を総大将に、[[飛騨国]]から[[越中国]]に侵攻（[[月岡野の戦い]]）、上杉軍に勝利し優位に立った。その後、柴田勝家軍が上杉領の能登・加賀を攻略、越中国にも侵攻する勢いを見せた。かくしてまたも信長包囲網は崩壊した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 織田方面軍団の編成 ===&lt;br /&gt;
天正期に入ると、同時多方面に勢力を伸ばせるだけの兵力と財力が織田氏に具わっていた。信長は部下の武将に[[大名]]級の[[所領]]を与え、自由度の高い統治をさせ、周辺の攻略に当たらせた。研究者の間では、これら信長配下の新設大名を「[[軍団]]」「[[方面軍]]」と呼称し&amp;lt;ref&amp;gt;無論当時にはそのような名称は無かった。&amp;lt;/ref&amp;gt;、または信長軍・信長機動隊ともいう&amp;lt;ref name=&amp;quot;hujiki40&amp;quot;&amp;gt;藤木久志「天下統一と朝鮮侵略」講談社学術文庫、40頁&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
尾張の兵を弓衆・鉄砲衆・馬廻衆・小姓衆・小身衆など機動性を持った直属の軍団に編成し、天正4年（1576年）にはこれらを安土に結集させた&amp;lt;ref name=&amp;quot;hujiki40&amp;quot;/&amp;gt;。既に織田家には直属の指揮班である宿老衆や先手衆などがおり、これらと新編成軍との連携などを訓練した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
上杉景勝に対しては柴田勝家・[[前田利家]]・[[佐々成政]]らを、武田勝頼に対しては滝川一益・織田信忠らを、波多野秀治に対しては明智光秀・細川藤孝らを、毛利輝元に対しては羽柴秀吉を、石山本願寺に対しては佐久間信盛を配備した。&lt;br /&gt;
* 美濃・尾張・飛騨の抑え・[[織田信忠]]・[[斎藤利治]]・[[姉小路頼綱]]&lt;br /&gt;
* 対武田方面・[[滝川一益]]・[[織田信忠]]軍団（天正元年結成）&lt;br /&gt;
* 対本願寺方面・[[佐久間信盛]]軍団（天正4年結成 - 天正8年消滅）&lt;br /&gt;
* 北陸方面・[[柴田勝家]]軍団（天正4年昇格）&lt;br /&gt;
* 近畿方面・[[明智光秀]]軍団（天正8年昇格）&lt;br /&gt;
* 山陰・山陽方面・[[羽柴秀吉]]軍団（天正8年昇格）&lt;br /&gt;
* 関東方面・滝川一益軍団（天正10年結成）&lt;br /&gt;
* 四国方面・[[織田信孝]]・[[津田信澄]]・[[丹羽長秀]]・[[蜂屋頼隆]]軍団（天正10年結成）&lt;br /&gt;
* 東海道の抑え・[[徳川家康]]（形式的には同盟国であり織田軍団の一部ではない）&lt;br /&gt;
* 伊勢・伊賀方面の抑え・[[織田信雄]]・[[織田信包]]&lt;br /&gt;
*（紀伊方面の抑え・[[織田信張]]）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===中国侵攻===&lt;br /&gt;
天正6年（[[1578年]]）3月、[[播磨国]]の[[別所長治]]の謀反（[[三木合戦]]）が起こる、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
4月、突如として信長は右大臣・右近衛大将を辞職した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
7月、毛利軍が[[上月城]]を攻略し、信長の命により放置された[[山中幸盛]]ら[[尼子氏]]再興軍は処刑される（[[上月城の戦い]]）。10月には摂津国の荒木村重が[[有岡城]]に籠って信長から離反し（[[有岡城の戦い]]）、足利義昭・毛利氏・本願寺と手を結んで信長に抵抗する。一方、村重の[[与力]]であり東摂津に所領を持つ[[中川清秀]]・[[高山右近]]は村重にはつかなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
同年11月6日、信長は九鬼嘉隆の考案した[[鉄甲船]]を採用、6隻を建造し毛利水軍を撃破（[[第二次木津川口の戦い]]）。これにより石山本願寺と荒木は毛利軍の援助を受けられず孤立し、この頃から織田軍は優位に立つ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
天正7年（[[1579年]]）夏までに波多野秀治を降伏させ、処刑。同年9月、荒木村重が妻子を置き去りにして逃亡すると有岡城は落城し、荒木一族は処刑された。次いで10月、それまで毛利方であった[[備前国]]の[[宇喜多直家]]が服属すると、織田軍と毛利軍の優劣は完全に逆転する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
11月、信長は織田家の京屋敷・[[二条城#織田信長・誠仁親王の「二条新御所」|二条新御所]]を、[[皇太子]]である[[誠仁親王]]に進上した。同時に、信長は誠仁親王の五男・[[邦慶親王]]を[[猶子]]として、この邦慶親王も二条新御所に移っている&amp;lt;ref&amp;gt;「多聞院日記」より。なお多聞院日記によると、信長が御所を進上した相手は誠仁親王ではなく、猶子の邦慶親王の方だったようである。（藤井譲治『天皇と天下人』より）&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この年、信長は徳川家康の嫡男・[[松平信康]]に対し切腹を命じたとされる。表向きの理由は信康の12か条の乱行、築山殿の武田氏への内通などである。徳川家臣団は信長恭順派と反信長派に分かれて激しい議論を繰り広げたが、最終的に家康は築山殿を殺害し、信康に切腹させた（ただし、これに関しては、家康・信康父子の対立が原因で、信長は娘婿信康の処断について家康から了承を求められただけだとする説もある。詳細は[[松平信康#信康自刃事件について]]を参照）。また伊勢国の出城構築を[[伊賀国]]の[[国人]]に妨害されて立腹した織田信雄が、独断で伊賀国に侵攻し大敗を喫した。信長は信雄を厳しく叱責した（[[伊賀流#天正伊賀の乱|第一次天正伊賀の乱]]）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
天正8年（[[1580年]]）1月、別所長治が切腹し、三木城が開城。4月には正親町天皇の勅命のもと本願寺軍も織田軍に有利な条件を呑んで和睦し、大坂から退去した。同年には播磨国、[[但馬国]]をも攻略した。8月、信長は[[譜代]]の老臣・佐久間信盛とその嫡男・[[佐久間信栄]]に対して折檻状を送り付け、本願寺との戦に係る不手際などを理由に、高野山への追放か討ち死に覚悟で働くかを迫った。佐久間親子は高野山行きを選んだ。さらに、古参の林秀貞と[[安藤守就]]も、かつてあった謀反の企てや一族が敵と内通したことなどを蒸し返して、これを理由に追放した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
天正9年（[[1581年]]）には[[鳥取城]]を兵糧攻めで落とし[[因幡国]]を攻略、さらには[[岩屋城]]を落として[[淡路国]]を攻略した。同年、信雄を総大将とする4万人の軍勢が伊賀国を攻略。伊賀国は織田氏の領地となった（第二次天正伊賀の乱）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 京都御馬揃え～左大臣推任 ===&lt;br /&gt;
天正9年（1581年）、信長は絶頂期にあった。2月28日には京都の[[内裏]]東の馬場にて大々的なデモンストレーションを行なっている。いわゆる[[京都御馬揃え]]であるが、これには信長はじめ織田一門のほか、[[丹羽長秀]]ら織田軍団の武威を示すものであった&amp;lt;ref&amp;gt;「貴賎群衆の輩 かかるめでたき御代に生まれ合わせ …（中略）… あり難き次第にて上古 末代の見物なり」（[[信長公記]]）&amp;lt;/ref&amp;gt;。このときの馬揃えには正親町天皇を招待している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
3月7日、天皇は信長を左大臣に推任。9日にこの意向が信長に伝えられ、信長は「正親町天皇が譲位し、誠仁親王が即位した際にお受けしたい」と返答した。朝廷はこの件について話し合い、信長に朝廷の意向が伝えられた。24日、信長からの返事が届き、朝廷はこれに満足した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし4月1日、信長は突然「今年は[[金神]]の年なので譲位には不都合」と言い出した。譲位と信長の左大臣就任は延期されることになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 高野山包囲 ===&lt;br /&gt;
同・天正9年（1581年）、[[高野山]]が[[荒木村重]]の残党を匿ったり、足利義昭と通じるなど、信長と敵対する動きを見せる。『信長公記』によれば、信長は使者十数人を差し向けたが、高野山が使者を全て殺害した。一方、『高野春秋』では荒木村重探索の松井友閑の兵32名が高野山の領民に乱暴狼藉を働いたために高野山側がこれを殺害したと記している。いずれにしても、この行動に激怒した信長は、織田領における[[高野聖]]数百人を捕らえる（高野聖は[[諜報活動]]を行っていたともいう）と共に、[[河内国]]や[[大和国]]の諸大名に命じて高野山を包囲させた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
5月に越中国を守っていた上杉氏の武将・[[河田長親]]が急死した隙を突いて織田軍は越中に侵攻、同国の過半を支配下に置いた。3月23日には[[高天神城]]を奪回し、武田氏を追い詰めた。紀州では雑賀党が内部分裂し、信長支持派の鈴木孫一が反信長派の[[土橋平次]]らと争うなどして勢力を減退させた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 武田征伐 ===&lt;br /&gt;
{{Main|武田征伐}}&lt;br /&gt;
長篠合戦の敗退後、武田勝頼は越後上杉氏との[[甲越同盟]]の締結や[[新府城]]築城などで領国再建を図る一方、人質であった[[織田勝長]]（信房）を返還することで信長との和睦（甲江和与）を模索したが進まず、新府城築城のための普請増大などで却って国人衆には不満が増大していた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
天正10年（[[1582年]]）2月1日、武田信玄の娘婿であった[[木曾義昌]]が信長に寝返る。2月3日に信長は武田領国への本格的侵攻を行うための大動員令を信忠に発令。駿河国から家康、相模国から[[北条氏直]]、[[飛騨国]]から[[金森長近]]、[[木曽地域|木曽]]から織田信忠が、それぞれ武田領攻略を開始した。信忠軍は軍監・[[滝川一益]]と信忠の譜代衆となる河尻秀隆・[[森長可]]・[[毛利秀頼|毛利長秀]]等で構成され、この連合軍の兵数は10万人余に上った。武田軍は、[[伊那城]]の城兵が城将・[[下条信氏]]を追い出して織田軍に降伏。さらに[[信濃国]]の[[松尾城 (信濃国伊那郡)|松尾城]]主・[[小笠原信嶺]]、[[江尻城]]主・[[穴山信君]]らも先を争うように連合軍に降伏し、武田軍は組織的な抵抗が出来ず済し崩し的に敗北する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
信忠軍は猛烈な勢いで武田領に侵攻し武田側の城を次々に占領していき、信長が武田征伐に出陣した3月8日に信忠は武田領国の本拠である[[甲府]]を占領し、3月11日には甲斐都留郡の田野において滝川一益が武田勝頼・信勝父子を討ち取り、ここに武田氏は滅亡した&amp;lt;ref&amp;gt;俗説ではあるが、最後の武田攻めの際、明智光秀が「ここまで来られて、我々も骨を負った甲斐があった」と語ったところ、信長の逆鱗に触れ、光秀は欄干に頭を打ち付けられたともいわれている。&amp;lt;/ref&amp;gt;。また駿河国を徳川家康に、[[上野国]]を滝川一益に与え、旧武田領の監督を命じ、甲斐国を河尻秀隆、北信濃を森長可、南信濃を毛利長秀に与え一益の与力に付けて、北条氏直への抑えとしつつも同盟関係を保った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 三職推任 ===&lt;br /&gt;
4月、正親町天皇は信長を太政大臣・関白・征夷大将軍のいずれかに任じたいという意向を示し、5月に信長に伝えられた（[[三職推任問題]]）。しかし信長は使者に対して何も返答しないままだった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 本能寺の変 ===&lt;br /&gt;
[[ファイル:Honnoj.jpg|thumb|280px|『本能寺焼討之図』 [[楊斎延一]]（ようさい のぶかず）画（[[明治]]時代作成の[[武者絵]]。[[名古屋市]]所蔵）]]&lt;br /&gt;
{{Main|本能寺の変}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
信長は[[四国]]の[[長宗我部元親]]攻略に向け、三男の神戸信孝、重臣の丹羽長秀・[[蜂屋頼隆]]・[[津田信澄]]の軍団を派遣する準備を進めていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また北陸方面では柴田勝家が富山城、魚津城を攻撃（[[魚津城の戦い]]）。上杉氏は北の[[新発田重家の乱]]に加え、北信濃方面から森長可、上野方面から滝川一益の進攻を受け、東西南北の全方面で守勢に立たされていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
5月15日、駿河国加増の礼と武田征伐の戦勝祝いのため、徳川家康が安土城を訪れた。そこで信長は明智光秀に接待役を命じる。光秀は15日から17日にわたって家康を手厚くもてなした。家康接待が続く中、信長は[[備中高松城]]攻めを行なっている羽柴秀吉の使者より援軍の依頼を受けた。信長は光秀の接待役の任を解き、秀吉への援軍に向かうよう命じた。後世、『[[明智軍記]]』などによって[[江戸時代]]以降流布される俗説では、この時、光秀の接待内容に不満を覚えた信長は[[小姓]]の[[森成利]]（蘭丸）に命じて光秀の頭をはたかせた、としている&amp;lt;ref&amp;gt;この時の[[献立]]は「天正十年安土御献立」『[[続群書類従]]』に記録されているが、この時の献立は前年の家康接待（饗応役は不明）の際の献立（「御献立集」）のと比べて遜色の無い点が指摘される（[[江後迪子]]『信長のおもてなし』2007）&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
5月29日、信長は[[中国地方|中国]]遠征の出兵準備のために上洛し、[[本能寺]]に逗留していた。ところが、秀吉への援軍を命じていたはずの明智軍が突然京都に進軍し、[[6月2日 (旧暦)|6月2日]]に本能寺を襲撃する。この際に光秀は部下の信長に寄せる忠誠の篤きを考慮し、現に光秀への忠誠を誓う者が少なかったため、侵攻にあたっては標的が信長であることを伏せていたことが[[本城惣右衛門覚書]]からもうかがえる。100人ほどの手勢しか率いていなかった信長であったが、初めは自ら[[槍]]を手に奮闘した。しかし圧倒的多数の明智軍には敵わず、居間に戻った信長は自ら火を放ち、燃え盛る炎の中で自害した。[[享年]]49（満48歳没）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
光秀の娘婿・[[明智秀満]]が信長の遺体を探したが見つからなかった。当時の本能寺は織田勢の補給基地的に使われていたため、火薬が備蓄されており、信長の遺体が爆散してしまったためと考えられる。しかしながら、密かに脱出し別の場所で自害したという説や、信長を慕う僧侶と配下によって人知れず埋葬されたという説もある。なお、最後まで信長に付き従っていた者の中に[[黒人]]の家来・[[弥助]]がいた。弥助は、光秀に捕らえられたものの後に放免となっている。それ以降、弥助の動向については不明である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[平成]]19年（[[2007年]]）に行われた本能寺跡の発掘調査では、本能寺の変と同時期にあったとされる堀跡や大量の焼け瓦が発見された。これにより、城塞としての機能や謀反に備えていた可能性が指摘されており、現在も調査が続いている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==人物像==&lt;br /&gt;
「怒りっぽかった」という記録ははっきり言って当てにならない。中世の記録はたいがいこうやって脚色してあるものだからである。考えてみたまえ。庶民が法を犯すたびに怒る統治者など存在するわけがない。まあ短気ではあっただろう。即断即決でなければ生きていけない世の中だったのだから。しかし判断が早いというのと、感情が動き易いということとは全く違う。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==アホ学者の通説を斬る！==&lt;br /&gt;
立花京子&lt;br /&gt;
*『天皇は武力によって君臨しているわけではないから、武力による脅しは無意味』（by「黄金太閤」）&lt;br /&gt;
**？？？天皇が何の正当性をもって君臨しているかという事と、天皇に武力による脅しが通じるかという事に、いったい何の関係があるんだ？天皇だって人の子だ。刀をつきつけて「譲位しろ」と脅せば、ビビって「はい」と言ってしまうことだってあるだろう。過去に毒殺された親王だっている。もし「信長が天皇から武力を奪おうとした」という事実があって、それへの反論としてこう言うなら分かるのだが。どうもこのへんの歴史学者というのはいまだに天皇を崇拝しているようで困る。&lt;br /&gt;
**まあ馬揃えはどうでもいいんだけどね。ちなみに天皇が馬揃えを見たがったのは、自分の方が信長より上位であるという関係を民衆に見せたかったから。それ以外にあるわけないじゃんｗ　天皇の言葉をそのまま受け取ってしまうようじゃあ政治は語れないのである。&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Minagoroshida</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%B9%94%E7%94%B0%E4%BF%A1%E9%95%B7&amp;diff=155589</id>
		<title>織田信長</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%B9%94%E7%94%B0%E4%BF%A1%E9%95%B7&amp;diff=155589"/>
				<updated>2012-03-25T13:12:14Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Minagoroshida: /* 第一次信長包囲網 */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''織田 信長'''（おだ のぶなが）は、[[日本]]の[[戦国時代]]の人物。戦争と混乱に満ちた16世紀の日本を統一へと導いた。日本の政治上・軍事上最大の天才とも言われる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==概要==&lt;br /&gt;
平安時代、朝廷の軍事力の著しい低下によって日本全国の治安が非常に悪化したため、庶民は武装して身を守った。このために延々と内乱が続き、国は乱れに乱れていた。この戦乱を終わらせる終わらせる事業の大変を行ったのが織田信長である。彼は日本全国を統治する前に死んでしまったものの、実質的には彼が戦乱を終わらせたと言える。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==信長の計画==&lt;br /&gt;
まずは地盤を固める&lt;br /&gt;
↓&lt;br /&gt;
幕府あるいは朝廷という既存の権威を利用し、また隠れ蓑にもしつつ改革を行う&lt;br /&gt;
↓&lt;br /&gt;
自身の権威がそれらを越え次第、自身を神格化し、名実ともに日本の頂点に立つ&lt;br /&gt;
↓&lt;br /&gt;
余剰の軍事力は海外に向ける&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 生涯 ==&lt;br /&gt;
&amp;lt;small&amp;gt;※日付は[[和暦]]による[[旧暦]]。[[西暦]]表記の部分は[[ユリウス暦]]とする。&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 少年期 ===&lt;br /&gt;
[[天文 (元号)|天文]]3年（[[1534年]]）5月12日、[[尾張国]]の[[戦国大名]]・[[織田信秀]]の[[嫡男]]として、[[那古野城]]&amp;lt;ref&amp;gt;『[[国史大辞典 (昭和時代)|国史大辞典]]』　織田信長の項目　[[吉川弘文館]]。一般的には那古野城生まれを定説とするが、織田信秀の那古野城奪取をめぐって異説も存在する。&amp;lt;/ref&amp;gt;（現在の[[名古屋市]][[中区 (名古屋市)|中区]]）（[[勝幡城]]説もある&amp;lt;ref&amp;gt;『[[尾州古城志]]』&amp;lt;/ref&amp;gt;）で生誕。幼名は'''吉法師'''。なお、信長の生まれた「織田弾正忠家」は、尾張国の[[守護大名]]・[[斯波氏]]の[[被官]]で下四郡（海東郡・海西郡・愛知郡・知多郡）の[[守護代]]に補任された織田大和守家（清洲織田家）の家臣にして分家であり、[[清洲三奉行]]・古渡城主という家柄であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
母・[[土田御前]]が信秀の[[正室]]であったため嫡男となり、2歳にして那古野城主となる。幼少から青年時にかけて奇妙な行動が多く、周囲から'''尾張の大うつけ'''と称されていた。日本へ伝わった[[種子島銃]]に関心を持った挿話などが知られる。また、身分にこだわらず、民と同じように町の若者とも戯れていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
まだ世子であった頃、表面的に家臣としての立場を守り潜在的な緊張関係を保ってきた主筋の「織田大和守家」の支配する[[清洲城]]下に数騎で火を放つなど、父・信秀も寝耳に水の行動をとり、豪胆さを早くから見せた。また、[[今川氏]]へ人質として護送される途中で[[松平氏]]家中の[[戸田康光]]の裏切りにより[[織田氏]]に護送されてきた松平竹千代（後の[[徳川家康]]）と幼少期を共に過ごし、後に両者は固い盟約関係を結ぶこととなる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
天文15年（[[1546年]]）、[[古渡城]]にて[[元服]]し、'''上総介信長'''と称する。天文17年（[[1548年]]）、父・信秀と敵対していた[[美濃国]]の[[戦国大名]]・[[斎藤道三]]との和睦が成立すると、道三の娘・[[濃姫]]と政略結婚した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
天文18年（[[1549年]]）（異説では天文22年（[[1553年]]））に信長は[[聖徳寺 (名古屋市)|正徳寺]]で道三と会見し、その際に道三はうつけ者と呼ばれていた信長の器量を見抜いたとの逸話がある。また同年には、近江の[[国友|国友村]]に火縄銃500丁を注文したという&amp;lt;ref&amp;gt;「国友鉄砲記」より。正徳寺での会見には、兵に鉄砲500丁を持たせていったと「信長公記」にあり、これが国友村から購入した鉄砲だという可能性もある。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
天文20年（[[1551年]]）、父・信秀が没した為、家督を継ぐ&amp;lt;ref&amp;gt;信秀の葬儀において祭壇に[[抹香]]を投げつけたというエピソードが残っている。このような行為におよんだ理由は、うつけ者を装うため、葬儀を政治的に利用した信勝への抗議など諸説あるが、いずれも推測の域を出ていない。後年の創作という意見もあるが、1次史料である信長公記にまで書かれているため、全くの創作とは考えにくい。&amp;lt;/ref&amp;gt;。天文22年（[[1553年]]）、信長の教育係であった[[平手政秀]]が自害。これは諌死であったとも、息子・五郎右衛門と信長の確執のためともされる。信長は嘆き悲しみ、師匠の[[沢彦]]和尚を開山として[[政秀寺]]を建立し、政秀の霊を弔った。天文23年（[[1554年]]）には、[[村木砦の戦い]]で今川勢を破っている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 家督争いから尾張統一・上洛 ===&lt;br /&gt;
当時、尾張国は[[今川氏]]の尾張侵攻により[[守護]]の[[斯波氏]]の力が衰え、尾張下四郡を支配した[[守護代]]であった「織田大和守家」当主で[[清洲城]]主の[[織田信友]]が実権を掌握していた。信長の父・信秀はその信友に仕える三奉行の一人に過ぎなかったにも関わらず、その智勇をもって尾張中西部に支配権を拡大した。信秀の死後、信長が跡を継ぐと、信友は信長の弟・[[織田信行]]（信勝）の家督相続を支持して信長と敵対し、信長謀殺計画を企てるが、信友により傀儡にされていた[[守護]]・[[斯波義統]]が、計画を信長に密告した。これに激怒した織田信友は斯波義統の嫡子・[[斯波義銀|義銀]]が手勢を率いて川狩に出た隙に義統を殺害する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
斯波義銀が落ち延びてくると、信長は叔父の[[守山城 (尾張国)|守山城]]主・[[織田信光]]と協力し、信友を主君を殺した謀反人として殺害する。こうして「織田大和守家」は滅び、信長は那古野城から清洲城へ本拠を移し、尾張国の[[守護所]]を手中に収めた。これにより、織田氏の[[庶家]]の生まれであった信長が名実共に織田氏の頭領となった。なお信光も死亡しているが、死因は不明である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[弘治 (日本)|弘治]]2年（[[1556年]]）4月、義父・斎藤道三が子の[[斎藤義龍]]との戦いに敗れて戦死（[[長良川の戦い]]）。信長は道三救援のため、木曽川を越え美濃の大浦まで出陣するも、道三を討ち取り勢いに乗った義龍軍に苦戦し、道三敗死の知らせにより退却した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
こうした中、信長の当主としての器量を疑問視した重臣の[[林秀貞]]（通勝）・[[林通具]]・[[柴田勝家]]らは、信長を廃して聡明で知られた弟・信勝（信行）を擁立しようとした。これに対して信長には[[森可成]]・[[佐久間盛重]]・[[佐久間信盛]]らが味方し、両派は対立する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
道三の死去を好機と見た信勝派は、同年[[8月24日]]に挙兵して戦うも敗北（[[稲生の戦い]]）。その後、[[末盛城]]に籠もった信勝を包囲するが、生母・土田御前の仲介により、信勝・勝家らを赦免した。更に同年中に庶兄の信広も斎藤義龍と結んで清洲城の簒奪を企てたが、これは事前に情報を掴んだ為に未遂に終わり、信広は程なくして降伏し、赦免されている。しかし、弘治3年（[[1557年]]）に信勝は再び謀反を企てる。この時、稲生の戦いの後より信長に通じていた柴田勝家の密告があり、事態を悟った信長は病と称して信勝を清洲城に誘い出し殺害した。直接手を下したのは[[河尻秀隆]]とされている&amp;lt;ref&amp;gt;信長公記では、河尻と青貝という2人の家臣が、フロイス日本史では信長が直接殺したことになっている。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
さらに信長は、同族の[[犬山城]]主・[[織田信清]]と協力し、旧主「織田大和守家」の宿敵で織田一門の[[宗家]]であった尾張上四郡（丹羽郡・葉栗郡・中島郡・春日井郡）の守護代「織田伊勢守家」（岩倉織田家）の[[岩倉城 (尾張国)|岩倉城]]主・[[織田信賢]]を破って（[[浮野の戦い]]）これを追放。新たに守護として擁立した斯波義銀が斯波一族の[[石橋氏]]・[[吉良氏]]と通じて信長の追放を画策していることが発覚すると、義銀を尾張から追放した。こうして、[[永禄]]2年（[[1559年]]）までには尾張国の支配権を確立し、信長は尾張の国主となった。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
永禄2年（[[1559年]]）2月2日、信長は100名ほどの軍勢を引き連れて[[上洛]]し、[[室町幕府]]13代[[征夷大将軍|将軍]]・[[足利義輝]]に謁見した。当時、義輝は尾張守護・斯波家（武衛家）の邸宅を改修して住しており、信長はそこへ出仕した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 桶狭間の戦いから清洲同盟へ ===&lt;br /&gt;
1560（永禄3）年5月、[[今川義元]]が尾張国へ侵攻。[[駿河国|駿河]]・[[遠江国|遠江]]の本国に加え[[三河国|三河]]を分国として支配する今川氏の軍勢は、2万人以上の大軍であった。兵力で劣る織田軍は苦戦を強いられた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
永禄3年（[[1560年]]）5月19日午後1時頃、信長は[[幸若舞]]『[[敦盛 (幸若舞)|敦盛]]』を舞った後&amp;lt;ref name=&amp;quot;atsumori&amp;quot;&amp;gt;'''幸若舞'''の敦盛は口伝で伝えられていたために、長らく節回しや詳細な振り付けが不明となっていた。そのため、映像作品などでは'''謡曲'''の敦盛で代用されていた。しかし、近年になって幸若舞の敦盛も復刻されている。（詳細は[[敦盛 (幸若舞)]]を参照）&amp;lt;/ref&amp;gt;、昆布と勝ち栗を前に置き、立ったまま[[湯漬け]]（出陣前に、米飯に熱めの湯をかけて食べるのが武士の慣わし）を食べ、出陣した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
信長はまず[[熱田神宮]]に参拝。その後、[[善照寺砦]]で2000人の軍勢を整えて出撃。今川軍の陣中に強襲をかけ今川氏の前当主で隠居の義元を討ち取った。総大将を失った今川軍は、当主・氏真の命で本国駿河国に退却した（'''桶狭間の戦い'''）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
桶狭間の戦いの後、今川氏は三河の松平氏の離反等により、急激に衰退した。これを機に、信長は徳川家康（この頃、松平元康より改名）と手を結ぶことになる。それまで織田家と松平家は敵対関係にあり、幾度も戦っていたが、信長は美濃国の[[斎藤氏]]攻略のため、家康も駿河国の[[今川氏真]]らに対抗する必要があった為、こちらの利害関係を優先させたものと思われる。両者は永禄5年（[[1562年]]）、同盟を結んで互いに背後を固めた（'''清洲同盟'''）。この同盟は信長死後まで維持された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 美濃攻略と天下布武 ===&lt;br /&gt;
斎藤道三亡き後、信長と斎藤氏との関係は険悪なものとなっていた。桶狭間の戦いと前後して両者の攻防は一進一退の様相を呈していた。しかし、永禄4年（[[1561年]]）に斎藤義龍が急死し、嫡男・[[斎藤龍興]]が後を継ぐと、信長は美濃に出兵し勝利（[[森部の戦い]]）。織田家は優位に立ち、斎藤氏は家中で分裂が始まる。永禄7年（[[1564年]]）には北[[近江国]]の[[浅井長政]]と同盟を結び、斎藤氏への牽制を強化している。その際、信長は妹・[[お市の方|お市]]を輿入れさせた。一方で、信長は永禄8年（[[1565年]]）より[[滝川一益]]の援軍依頼により伊勢方面にも進出し、[[神戸具盛 (7代目当主)|神戸具盛]]など当地の諸氏とも戦っている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
永禄9年（[[1564年]]から[[1565年]]）、[[竹中重治]]と[[安藤守就]]が[[岐阜城]]を占拠後、[[加治田城]]主の[[佐藤忠能]]を味方にして[[中濃]]の諸城を手に入れ（[[中濃攻略戦]]）、さらに[[西美濃三人衆]]（[[稲葉良通]]・[[氏家直元]]・[[安藤守就]]）などを味方につけた信長は、ついに永禄10年（[[1567年]]）、斎藤龍興を[[伊勢国|伊勢]][[長島町 (三重県)|長島]]に敗走させ、尾張・美濃の2ヶ国を領する大名になった（[[稲葉山城の戦い]]）。ときに信長33歳。このとき、井ノ口を[[岐阜市|岐阜]]と改称している&amp;lt;ref&amp;gt;出典：『[[信長公記]]』&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
同年11月には僧・沢彦から与えられた印文「'''天下布武'''」の朱印を信長は使用しはじめており&amp;lt;ref&amp;gt;林屋辰三郎『天下一統』中公文庫、105頁&amp;lt;/ref&amp;gt;、本格的に[[天下統一]]を目指すようになったとみられる。11月9日、[[正親町天皇]]は信長を「古今無双の名将」を褒めつつ、[[御料所]]の回復・[[誠仁親王]]の元服費用の拠出を求めたが、&amp;lt;ref&amp;gt;前者は[[綸旨]]、後者は[[女房奉書]]によって伝えられた。なお、天皇・朝廷のこうした動きは各地の大名に対して行われており、この時点では正親町天皇はさほど信長を特別視していたわけではなかったと思われる。[[藤井譲治]]「天皇と天下人」より&amp;lt;/ref&amp;gt;、信長は丁重に「まずもって心得存じ候」と返答したのみであった&amp;lt;ref&amp;gt;[[藤井譲治]]「天皇と天下人」より&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 上洛 ===&lt;br /&gt;
====中央幕府の情勢====&lt;br /&gt;
中央では、永禄8年（[[1565年]]）、かねて[[京都|京]]を中心に[[畿内]]で権勢を誇っていた[[三好氏]]の有力者[[三好三人衆]]（[[三好長逸]]・[[三好政康]]・[[岩成友通]]）と[[松永久秀]]が、幕府権力の復活を目指して三好氏と対立を深めていた将軍･足利義輝を暗殺し、第14代将軍として義輝の従弟・[[足利義栄]]を傀儡として擁立する（[[永禄の変]]）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
久秀らはさらに義輝の弟で僧籍にあった一乗院覚慶（[[足利義昭]]）の暗殺も謀ったが、義昭は[[一色藤長]]・[[和田惟政]]ら幕臣の支援を受けて奈良から脱出し、[[越前国]]の[[朝倉義景]]のもとに身を寄せていた。しかし、義景が三好氏追討の動きを見せなかったため、永禄11年（[[1568年]]）7月には美濃国の信長へ接近を図ってきた。信長は義昭の三好氏追討要請を応諾した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
====武田氏との外交====&lt;br /&gt;
美濃国において領国を接する[[甲斐国]]の[[武田信玄]]とは信玄の四男・諏訪勝頼（[[武田勝頼]]）に養女（[[遠山夫人]]）を娶らせることで同盟を結んだが、遠山夫人は永禄10年（1567年）11月、[[武田信勝]]を出産した直後に早世したため、同年末には信長の嫡男・信忠と信玄の六女・[[信松尼|松姫]]との婚姻を模索し友好的関係を持続させるなど、周囲の勢力と同盟を結んで国内外を固めた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 足利義昭上洛の警護 ====&lt;br /&gt;
永禄11年（1568年）9月、信長は他国侵攻の大義名分として将軍家嫡流の足利義昭を奉戴し、[[上洛]]を開始した。これに対して抵抗した南近江の[[六角義賢]]・[[六角義治|義治]]父子は織田軍の猛攻を受け、[[観音寺城]]が落城する（[[観音寺城の戦い]]）。六角父子は[[甲賀郡]]に後退、以降はゲリラ戦を展開した&amp;lt;ref&amp;gt;ただし、[[六角氏]]嫡流は別にあり、嫡流の[[六角義秀]]・[[六角義郷]]は信長に庇護されたとする異説もある。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
信長が上洛すると、[[三好長慶]]死後の内輪揉めにより崩壊しつつあった[[三好義継]]・松永久秀らは信長の実力を悟って臣従し、三好三人衆に属した他の勢力の多くは[[阿波国]]へ逃亡する。唯一抵抗していた[[池田勝正]]も信長に降伏した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
足利義昭を第15代将軍に擁立した信長は、[[和泉国|和泉]]一国の恩賞だけを賜り尾張へ帰国。この時、信長は義昭から管領・斯波家の家督継承もしくは管領代・[[副将軍]]の地位等を勧められたが、桐紋と斯波家並の礼遇だけを賜り遠慮したとされる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
永禄12年（[[1569年]]）1月、信長率いる織田軍主力が美濃国に帰還した隙を突いて、三好三人衆と斎藤龍興ら浪人衆が共謀し、足利義昭の[[御所]]である[[六条通|六条]][[本圀寺]]を攻撃した（[[六条合戦]]）。しかし、信長は豪雪の中をわずか2日で援軍に駆けつけるという機動力を見せた&amp;lt;ref&amp;gt;信長公記によれば、当時、岐阜から[[京都]]までは3日はかかったという。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
もっとも、浅井長政や池田勝正の援軍と[[明智光秀]]の奮戦により、三好・斎藤軍は信長の到着を待たず敗退していた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1月10日には三好軍と共同して決起した[[高槻城]]の[[入江春景]]を攻めた。春景は降伏したが、信長は再度の離反を許さず処刑し、和田惟政を高槻に入城させ、[[摂津国]]を守護・池田勝正を筆頭とし[[伊丹氏]]と惟政の3人に統治させた（[[摂津三守護]]）。同日、信長は三好三人衆に協力していた[[堺]]に2万貫の矢銭と服属を要求し、支払わせた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 伊勢侵攻と北畠家簒奪 ===&lt;br /&gt;
同時期に[[伊勢国]]への侵攻も大詰めを迎える。伊勢は南朝以来の[[国司]]である[[北畠氏]]が最大勢力を誇っていたが、まず永禄11年（[[1568年]]）北伊勢の神戸具盛と講和し、三男の[[織田信孝]]を[[神戸氏]]の養子として送り込んだ。更に[[北畠具教]]の次男・[[長野具藤]]を内応により追放し、弟・[[織田信包]]を長野家当主とした。そして翌・永禄12年（[[1569年]]）8月20日、滝川一益の調略によって具教の実弟・[[木造具政]]が信長側に転じると、信長はその日の内に岐阜を出陣し南伊勢に進攻、北畠家の[[大河内城]]を大軍を率いて包囲、篭城戦の末10月3日に和睦し、次男・[[織田信雄]]を養嗣子として送り込んだ。後に北畠具教は幽閉され、[[天正]]4年（[[1576年]]）に信雄により殺害される。こうして信長は、養子戦略により北伊勢攻略を終える。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 第一次信長包囲網 ===&lt;br /&gt;
永禄12年（1569年）、信長は足利義昭の将軍としての権力を制限するため、『[[殿中御掟]]』9ヶ条の掟書、のちには追加7ヶ条を発令し、これを義昭に認めさせた。これによって義昭と信長の対立は決定的なものになったわけではなく、両者はお互いを利用し合う関係であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
3月、正親町天皇から「信長を副将軍に任命したい」という意向が伝えられたが、信長は何の返答もせず、事実上無視した&amp;lt;ref&amp;gt;藤井譲治「天皇と天下人」より&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[元亀]]元年（[[1570年]]）4月、信長は度重なる上洛命令を無視する朝倉義景を討伐するため、[[浅井氏]]との盟約を反故にし、盟友の徳川家康の軍勢とともに越前国へ進軍。織田・徳川連合軍は[[朝倉氏]]の諸城を次々と攻略していくが、[[金ヶ崎城|金ヶ崎]]で浅井氏離反の報告を受ける。挟撃される危機に陥った織田・徳川連合軍はただちに撤退を開始し、[[殿 (軍事用語)|殿]]を務めた池田勝正・[[明智光秀]]・[[豊臣秀吉|木下秀吉]]らの働きもあり、京に逃れた（[[金ヶ崎の戦い]]）。信長は先頭に立って真っ先に撤退し、僅か10名の共と一緒に京に到着したという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
同年6月、信長は浅井氏を討つべく、近江国[[姉川]]河原で徳川軍とともに浅井・朝倉連合軍と対峙。並行して浅井方の横山城を陥落させつつ、織田・徳川連合軍は勝利した（'''[[姉川の戦い]]'''）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
8月、信長は摂津国で挙兵した三好三人衆を討つべく出陣するが、その隙をついて石山本願寺が信長に対して挙兵した（[[野田城・福島城の戦い]]）。しかも、織田軍本隊が摂津国に対陣している間に軍勢を立て直した浅井・朝倉・延暦寺などの連合軍3万が近江国・[[坂本 (大津市)|坂本]]に侵攻する。織田軍は劣勢の中、重臣・森可成と信長の実弟・[[織田信治]]を喪った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
9月23日未明、信長は本隊を率いて摂津国から近江国へと帰還。慌てた浅井・朝倉連合軍は比叡山に立て籠もって抵抗した。信長はこれを受け、近江国・[[宇佐山城]]において浅井・朝倉連合軍と対峙する（[[志賀の陣]]）。しかし、その間に石山本願寺の[[法主]]・[[顕如]]の命を受けた伊勢の門徒が一揆を起こし（[[長島一向一揆]]）、信長の実弟・[[織田信興]]を自害に追い込んだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
11月21日、信長は六角義賢・義治父子と和睦し、ついで阿波から来た[[篠原長房]]と講和した&amp;lt;ref&amp;gt;林屋辰三郎『天下一統』中公文庫、143頁&amp;lt;/ref&amp;gt;。さらに足利義昭に朝倉氏との和睦の調停を依頼し、義昭は関白[[二条晴良]]に調停を要請した。そして正親町天皇に奏聞して[[勅命]]を仰ぎ、12月13日、勅命をもって浅井氏・朝倉氏との和睦に成功&amp;lt;ref&amp;gt;[[大久保忠教]]の記した『[[三河物語]]』によると、このとき信長は義景に対し「天下は朝倉殿が持ち給え。我は二度と望み無し」とまで言ったという。&amp;lt;/ref&amp;gt;。窮地を脱した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 第二次信長包囲網 ===&lt;br /&gt;
{{Main|信長包囲網#第二次包囲網}}&lt;br /&gt;
[[ファイル:織田信長.jpg|thumb|170px|『織田信長 図像』&amp;lt;br /&amp;gt;兵庫県[[氷上町]] 所蔵]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
元亀2年（[[1571年]]）、信長は朝倉・浅井に味方した延暦寺を攻める。9月、信長は何度か退避・中立勧告を出した後、なおも抵抗し続けた比叡山延暦寺を焼き討ちにした（'''[[比叡山焼き討ち (1571年)|比叡山焼き討ち]]'''）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一方、甲斐国の武田信玄は駿河国を併合すると三河国の家康や[[相模国]]の[[後北条氏]]、[[越後国]]の[[上杉氏]]と敵対していたが、元亀2年（1571年）末に後北条氏との[[甲相同盟]]を回復させると徳川領への侵攻を開始する。この頃、信長は足利義昭の命で武田・上杉間の調停を行っており、信長と武田の関係は良好であったが、信長の同盟相手である徳川領への侵攻は事前通告なしで行われた&amp;lt;ref&amp;gt;近年では元亀2年の信玄による三河侵攻は根拠となる文書群の年代比定の誤りが指摘され、これは勝頼期の天正3年の出来事であった可能性も考えられている（鴨川達夫『武田信玄と勝頼』（岩波新書、2009）、柴裕之「戦国大名武田氏の遠江・三河侵攻再考」『武田氏研究』第37号、2007）。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
元亀3年（[[1572年]]）、石山本願寺が信長と和睦したものの、三好義継・松永久秀らが共謀して信長に謀反を起こした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
7月、信長は嫡男・奇妙丸（後の[[織田信忠]]）を[[初陣]]させた。この頃、織田軍は浅井・朝倉連合軍と小競り合いを繰り返していた。しかし戦況は織田軍有利に展開し、8月には朝倉義景に不満を抱いていた朝倉軍の[[前波吉継]]・[[富田長繁]]・[[毛屋猪介]]・[[戸田与次郞]]らが信長に寝返った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
10月、信長は足利義昭に対して17条からなる詰問文を送り、信長と義昭の関係は決定的に悪化する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
11月、武田氏の秋山虎繁（信友）が、東美濃の[[岩村城]]を攻める。当主の[[遠山景任]]は防戦したが（[[上村合戦]]）、運悪く病死してしまう。遠山景任の後家・[[おつやの方]]（信長の叔母）は信長の五男・坊丸（後の[[織田勝長]]）を養子にして城主として抵抗したが、虎繁はおつやの方に対して虎繁に嫁することを降伏条件に提示し、結果、信長の援軍が到着する前に岩村城は降伏してしまう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、徳川領においては徳川軍が[[一言坂の戦い]]で武田軍に大敗し、さらに遠江国の要である[[二俣城]]が開城・降伏により不利な戦況となる（[[二俣城の戦い]]）。これに対して信長は、家康に佐久間信盛・[[平手汎秀]]ら3,000人の援軍を送ったが、12月の'''[[三方ヶ原の戦い]]'''で織田・徳川連合軍は武田軍に大敗。汎秀は討死した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
12月末、松永久秀が信長に降伏する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
元亀4年（[[1573年]]）に入ると、武田軍は遠江国から三河国に侵攻し、2月には[[野田城 (三河国)|野田城]]を攻略する（[[野田城の戦い]]）。これに呼応して京の足利義昭が信長に対して挙兵したため、信長は岐阜から京都に向かって進軍した。信長が京都に着陣すると幕臣であった[[細川幽斎|細川藤孝]]や[[荒木村重]]らは義昭を見限り信長についた。信長は上京を焼打ちして義昭に脅しをかけてから義昭と和睦しようとした。義昭は初めこれを拒否していたが、正親町天皇からの勅命が出され、4月5日に義昭と信長はこれを受け入れて和睦した。4月12日、武田信玄は病死し、武田軍は甲斐国へ帰国した&amp;lt;ref&amp;gt;元亀年間に行われた武田氏の遠江・三河への侵攻や信長との対立は「[[西上作戦]]」と通称され、信玄は上洛を目指していたされてきたが、近年ではその実態や意図に疑問が呈されている（鴨川達夫『武田信玄と勝頼』（岩波新書、2007年）、柴裕之「戦国大名武田氏の遠江・三河侵攻再考」『武田氏研究』第37号、2007、柴辻俊六「武田信玄の上洛戦略と織田信長」『武田氏研究』第40号、2009　など&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 室町幕府滅亡と「天下」の継承 ===&lt;br /&gt;
武田氏の西上作戦停止によって信長は態勢を立て直し、元亀4年（1573年）7月には再び抵抗の意思を示した足利義昭が[[二条城|二条御所]]や山城守護所（[[槇島城]]）に立て籠もったが信長は義昭を破り追放し、これをもって室町幕府の勢力は京都から消滅した&amp;lt;ref&amp;gt;室町幕府の滅亡により、[[室町将軍]]は天皇王権を擁し京都を中心とする周辺領域を支配し地方の諸大名を従属下におき紛争などを調停する「[[天下]]」主催者たる地位を喪失するが、信長は「天下」主催者としての地位を継承し、以降は諸大名を従属・統制下におく立場であったことが指摘されている（[[神田千里]]「織田政権の支配の論理に関する一考察」『東洋大学文学部紀要』2002、同『戦国乱世を生きる力』中央公論社、2002）。&amp;lt;/ref&amp;gt;。加えて7月28日には[[元号]]を元亀から[[天正]]へと改めることを[[朝廷]]に奏上し、これを実現させた&amp;lt;ref&amp;gt;ただし、朝廷では既に元亀3年の段階で改元を決定しており、同年3月29日には信長と義昭の下に使者を送っている（『御湯殿上日記』）。だが、義昭は改元に消極的であり、信長の17か条の詰問状でも批判の1つに挙げられている。信長は改元を支持することで、消極的な態度を見せる義昭排除の正当性を得るとともに、朝廷の望む改元を実現させることによって自己を室町幕府に代わる武家政権のトップとして朝廷に認めさせたとする評価がある（[[神田裕理]]「織豊期の改元」『戦国・織豊期の朝廷と公家社会』校倉書房、2011年）。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
天正元年（1573年）8月、細川藤孝に命じて、[[淀古城|淀城]]に立て籠もる三好三人衆の一人・[[岩成友通]]を討伐した（第二次淀古城の戦い）。信長は同月、3万人の軍勢を率いて越前国に侵攻。[[一乗谷城の戦い#刀根坂の戦い|刀根坂の戦い]]で朝倉軍を破り、朝倉義景は自刃した。9月、[[小谷城]]を攻略して浅井氏に勝利し、[[浅井久政]]・長政父子は自害し、長政の母・[[小野殿]]（阿古御料人）の指を一日一本ずつ切り落とした上で殺害した（執行を担当したのは秀吉であり、処刑方法が信長本人の意向か秀吉のものであるかは不明である）。なお、長政に嫁いでいた妹・お市らは落城前に落ち延びて信長が引き取った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
9月24日、信長は尾張・美濃・伊勢の軍勢を中心とした3万人の軍勢を率いて、伊勢長島に行軍した。織田軍は滝川一益らの活躍で半月ほどの間に長島周辺の敵城を次々と落とした。しかし撤退途中にまたも一揆軍による奇襲を受け、[[林通政#林通政 (新次郎)|林通政]]が討死した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
11月、[[河内国]]の三好義継が足利義昭に同調して反乱を起こした。信長は佐久間信盛を総大将とした軍勢を河内国に送り込む。しかし、信長の実力を怖れた義継の家老・[[若江三人衆]]らによる裏切りで義継は11月16日に自害し、三好氏もここに滅亡した。12月26日、[[大和国]]の松永久秀も[[多聞山城]]を明け渡し、信長に降伏した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 長島一向一揆の制圧 ===&lt;br /&gt;
{{Main|長島一向一揆}}&lt;br /&gt;
天正2年（[[1574年]]）1月、朝倉氏を攻略して織田領となっていた越前国で、[[地侍]]や[[本願寺]][[門徒]]による反乱が起こり、守護代の[[前波吉継|桂田長俊]]は[[一乗谷]]で殺された。それに呼応する形で、甲斐国の武田勝頼が東美濃に侵攻してくる。信長はこれを信忠とともに迎撃しようとしたが、信長の援軍が到着する前に東美濃の[[明知城]]が落城し、信長は武田軍との衝突を避けて岐阜に撤退した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
3月、信長は上洛して[[従三位]][[参議]]に叙任された。このとき、信長は[[正親町天皇]]に対して「[[蘭奢待]]の切り取り」を奏請し、[[天皇]]はこれを[[勅命]]をもって了承した&amp;lt;ref&amp;gt;これは、信長が正親町天皇と密接な関係にあるということを諸国に知らしめるためであったといわれているがこれを契機に、信長の実力が[[朝廷]]からも認められていることを知った諸[[大名]]、特に[[奥州]]からは信長に対して誼を通じる使者が増えたと言われている。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
7月、信長は数万人の大軍と織田信雄・滝川一益・[[九鬼嘉隆]]の伊勢・[[志摩国|志摩]]水軍を率いて、伊勢長島を水陸から完全に包囲し、[[攻城戦#攻城戦の手法|兵糧攻め]]にした。一揆軍も地侍や旧北畠家臣なども含み、抵抗は激しかったが、8月に兵糧不足に陥り、[[大鳥居城]]から逃げ出した一揆勢1,000人余が討ち取られるなど劣勢となる。9月29日、[[長島城]]の門徒は降伏し、船で[[大坂]]方面に退去しようとしたが、信長は一斉射撃を浴びせ掛けた。他方、一揆側の反撃で、信長の庶兄・織田信広、弟・[[織田秀成]]など織田一族の将が討ち取られた。これを受けて信長は[[中江城]]、[[屋長島城]]に立て籠もった長島門徒2万人に対して、城の周囲から柵で包囲し、焼き討ちで全滅させた。この戦によって長島を占領した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
翌天正3年（[[1575年]]）3月、荒木村重が[[大和田城]]を占領したのをきっかけに、織田信長は石山本願寺・[[高屋城]]周辺に10万兵の大軍で出軍した（[[高屋城の戦い]]）。高屋城・石山本願寺周辺を焼き討ちにし、両城の補給基地となっていた[[新堀城]]が落城すると、[[三好康長]]は降伏を申し出これを受け入れ、高屋城を含む河内国の城は[[破城]]となる。その後、[[松井友閑]]と三好康長の仲介のもと石山本願寺と一時的な和睦が成立する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 長篠の戦い ===&lt;br /&gt;
{{Main|長篠の戦い}}&lt;br /&gt;
信長包囲網の打破後、信長や徳川家康は甲斐の武田氏に対しても反攻を強めており、武田方は織田・徳川領への再侵攻を繰り返していた。天正3年（[[1575年]]）4月、勝頼は武田氏より離反し[[徳川氏]]の家臣となった[[奥平信昌|奥平貞昌]]を討つため、1万5,000人の軍勢を率いて貞昌の居城・[[長篠城]]に攻め寄せた。しかし奥平勢の善戦により武田軍は長篠城攻略に手間取る。その間の5月12日に信長は3万人の大軍を率いて岐阜から出陣し、5月17日に三河国の野田で徳川軍8,000人と合流する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
3万8,000人に増大した織田・徳川連合軍は5月18日、設楽原に陣を敷いた。そして5月21日、織田・徳川連合軍と武田軍の戦いが始まる（'''長篠の戦い'''）。信長は設楽原決戦においては5人の奉行に1,000丁余りの[[火縄銃]]を用いた射撃を行わせるなどし&amp;lt;ref&amp;gt;『[[信長公記]]』による。佐々成政、前田利家、野々村正成、福富秀勝、塙直政の5人。ただし、この部隊以外の部隊が所有した火縄銃の数は不明。また、徳川方の鉄炮衆もいる。さらに、鳶ヶ巣山砦攻撃別働隊には馬廻鉄炮衆五百が付けられている。いわゆる「三段撃ち」戦法については、実在を疑問視する学説もある。&amp;lt;/ref&amp;gt;、武田軍に圧勝する&amp;lt;ref&amp;gt;この戦いで武田氏の大軍から長篠城を防衛した奥平貞昌は、信長より[[偏諱]]を賜り信昌と改名している。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
6月27日、[[相国寺]]に上洛した信長は天台宗と真言宗の争論の事を知り、公家の中から5人の奉行を任命して問題の解決に当たらせた（[[絹衣相論]]を参照）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
7月3日、正親町天皇は信長に官位を与えようとしたが、信長はこれを受けず、家臣たちに官位や姓を与えてくれるよう申し出た。天皇はこれを認め、信長の申し出通りに、松井友閑に宮内卿法印、武井夕庵に二位法印、明智光秀に惟任日向守、[[簗田広正]]に別喜右近、塙直政に原田備中守、丹羽長秀に惟住、の官位と姓を与えた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 越前侵攻 ===&lt;br /&gt;
この頃、前年に信長から越前国を任されていた守護代・桂田長俊を殺害して越前国を奪った本願寺門徒では、内部分裂が起こっていた。門徒達は天正3年（1575年）1月、桂田長俊殺害に協力した富田長繁ら地侍も罰し、越前国を[[一揆]]の持ちたる国とした。顕如の命で守護代として[[下間頼照]]が派遣されるが、前領主以上の悪政を敷いたため、一揆の内部分裂が進んでいた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これを好機と見た信長は長篠の戦いが終わった直後の8月、越前国に行軍した。内部分裂していた一揆衆は協力して迎撃することができず、下間頼照や[[朝倉景健]]らを始め、12,250人を数える越前国・[[加賀国]]の門徒が織田軍によって討伐された&amp;lt;ref&amp;gt;このとき、信長は[[村井貞勝]]に対して、越前府中の凄惨なありさまを書状で「府中は死骸ばかりにて一円空き所無く候 見せたく候」と書き記している。&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;このとき従軍した[[前田利家]]の所業を記した石版も残っている。「一揆おこり そのまま前田又左衛門殿一揆千人ばかり生け捕りさせ候なり 御成敗は はっつけ 釜煎られ あぶられ候 かくのごとくに候 一筆書きとめ候」。&amp;lt;/ref&amp;gt;。越前国は再び織田領となり、信長は国掟を出した上で、越前八郡を柴田勝家に与えた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 右近衛大将就任および安土城築城===&lt;br /&gt;
[[ファイル:Nobunaganoyakata.JPG|thumb|250px|[[安土城天主信長の館]]（安土城復元天主） 滋賀県[[近江八幡市]][[安土町]]]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
天正3年（1575年）11月4日、信長は[[権大納言]]に叙任される、また、11月7日にはさらに[[近衛大将|右近衛大将]]（征夷大将軍に匹敵する官職で武家では武門の棟梁のみに許される）に叙任する。信長はこの就任にあたり、御所にて公卿を集め、室町将軍家の将軍就任式（[[陣座]]）の儀礼を挙行させた。以後、信長のよび名は「上様」となり将軍と同等とみなされた（足利義昭は近衛大将への昇進を望むも未だ近衛中将のままであったので内裏の近衛府の庁舎内では信長が上司ということになる）。同日、嫡子の信忠は[[秋田城介]]（[[鎮守府将軍]]になるための前官）に、次男の信雄は左近衛中将に叙任している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
11月28日、信長は1週間前に東美濃の要・岩村城を陥落させた嫡男・信忠に一大名家としての織田家の家督ならびに美濃・尾張などの織田家の領国（織田直割領）を譲った。しかし、引き続き信長は織田政権の政治・全軍を総括する立場にあった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
天正4年（[[1576年]]）1月、信長自身の指揮のもと[[琵琶湖]]湖岸に[[安土城]]の築城を開始する&amp;lt;ref&amp;gt;「安土」という地名は信長が命名したとも（「細川家記」）、元々あった地名だとも言われる。&amp;lt;/ref&amp;gt;。安土城は天正7年（[[1579年]]）に五層七重の豪華絢爛な城として完成した。[[天守]]内部は吹き抜けとなっていたと言われている。[[イエズス会]]の[[宣教師]]は「その構造と堅固さ、財宝と華麗さにおいて、それら（城内の邸宅も含めている）はヨーロッパの最も壮大な城に比肩しうるものである」と母国に驚嘆の手紙を送っている。信長は[[岐阜城]]を信忠に譲り、完成した安土城に移り住んだ。信長はここを拠点に[[天下統一]]に邁進することとなる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 第三次信長包囲網 ===&lt;br /&gt;
{{Main|信長包囲網#第三次包囲網}}&lt;br /&gt;
天正4年（1576年）1月、信長に誼を通じていた[[丹波国]]の[[波多野秀治]]が叛旗を翻した。さらに石山本願寺も再挙兵するなど、再び反信長の動きが強まり始める。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
信長は4月、明智光秀・荒木村重・[[塙直政]]を大将とした3万人の軍勢を[[大坂]]に派遣し、砦を構築させた。このうち塙が伏兵の襲撃に遭って大敗を喫し、直政を始め1,000人以上が戦死した。織田軍は本願寺軍の攻勢に窮し[[天王寺]]砦に立て籠もるが、本願寺軍はこれを包囲し、天王寺で織田軍は窮地に陥った。5月5日、信長は若江城に入り動員令を出したが、集まったのは3,000人ほどであった。5月7日早朝、その軍勢を率いて自ら先頭に立ち、天王寺砦を包囲する本願寺軍1万5,000人に攻め入り、信長自身も銃撃され負傷する激戦となった。信長自らの出陣で士気が高揚した織田軍は、光秀率いる天王寺砦の軍勢7,000人との連携に成功。本願寺軍を挟撃し、これを撃破した（[[天王寺砦の戦い]]）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その後、織田軍は石山本願寺を水陸から包囲し兵糧攻めにした。ところが7月13日、石山本願寺の援軍に現れた[[毛利水軍]]800隻の前に、織田水軍は敗れ、毛利軍により石山本願寺に[[兵糧]]・[[弾薬]]が運び込まれた（[[第一次木津川口の戦い]]）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この頃、越後守護で[[関東管領]]の上杉輝虎（[[上杉謙信]]）と信長との関係は悪化し&amp;lt;ref&amp;gt;信長は武田信玄の要請で武田と上杉謙信との和睦を仲介していたが（甲越和与）、[[元亀]]3年（[[1572年]]）10月信玄は信長への事前通告なしに織田・徳川氏領へ侵攻し、信長と武田氏は手切となり、上杉氏との共闘をもちかけている。謙信はこれに応じているが積極的に連携することはなく、武田氏で勝頼への当主交代が起こると和睦をもちかけている。&amp;lt;/ref&amp;gt;、謙信は天正4年（1576年）に石山本願寺と和睦し、信長との対立を明らかにした。謙信を盟主として、毛利輝元・石山本願寺・波多野秀治・[[紀伊国|紀州]][[雑賀衆]]などが反信長に同調し結託した。このような事情の中、11月21日に信長は正三位・内大臣に昇進している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 織田右府 ===&lt;br /&gt;
天正5年（[[1577年]]）2月、信長は、雑賀衆を討伐するために大軍を率いて出陣（[[紀州征伐#信長の紀州攻め|紀州攻め]]）するが、毛利水軍による背後援助や上杉軍の[[能登国]]侵攻などもあったため、3月に入ると雑賀衆の頭領・[[鈴木孫一]]らを降伏させ&amp;lt;ref&amp;gt;本願寺攻めに協力する誓紙を出させたが、人質の提供は無かった&amp;lt;/ref&amp;gt;、形式的な和睦を行ない、紀伊国から撤兵した。この頃、北陸戦線では織田軍の柴田勝家が、[[加賀国]]の[[手取川]]を越えて焼き討ちを行っている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
大和国の松永久秀がまたも信長を裏切り挙兵すると、信長は織田信忠を[[総大将]]とした大軍を[[信貴山城]]に派遣し、10月に松永を討ち取った（[[信貴山城の戦い]]）。久秀を討った10月、信長に抵抗していた[[亀山城 (丹波国)|丹波亀山城]]の[[内藤定政]]（丹波守護代）が病死する。織田軍はこの機を逃さず亀山城・[[籾井城]]・[[笹山城]]などの丹波国の諸城を攻略。同年、姉妹の[[お犬の方]]を丹波守護で[[管領]]を世襲する細川京兆家当主・[[細川信良|細川昭元]]の正室とすることに成功し丹波を掌握した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
11月、能登・加賀北部を攻略した上杉軍が加賀南部へ侵攻&amp;lt;ref&amp;gt;織田軍は手取川において1,000人余が討死し渡河の際にも多数の行方不明者を出した（[[手取川の戦い]]）というが、戦果を喧伝した謙信の書状以外に史料がなく、戦いが起こったかどうかは不明である。&amp;lt;/ref&amp;gt;。その結果、加賀南部は上杉家の領国に組み込まれ、北陸では上杉側が優位に立った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
11月20日、正親町天皇は信長を従二位・右大臣に昇進させた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
天正6年（[[1578年]]）1月にはさらに正二位に位を上げている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
3月13日、上杉謙信が急死。謙信には実子がなく、後継者を定めなかったため、[[養子]]の[[上杉景勝]]と[[上杉景虎]]が後継ぎ争いを始めた（[[御館の乱]]）。この好機を活かし信長は[[斎藤利治]]を総大将に、[[飛騨国]]から[[越中国]]に侵攻（[[月岡野の戦い]]）、上杉軍に勝利し優位に立った。その後、柴田勝家軍が上杉領の能登・加賀を攻略、越中国にも侵攻する勢いを見せた。かくしてまたも信長包囲網は崩壊した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 織田方面軍団の編成 ===&lt;br /&gt;
天正期に入ると、同時多方面に勢力を伸ばせるだけの兵力と財力が織田氏に具わっていた。信長は部下の武将に[[大名]]級の[[所領]]を与え、自由度の高い統治をさせ、周辺の攻略に当たらせた。研究者の間では、これら信長配下の新設大名を「[[軍団]]」「[[方面軍]]」と呼称し&amp;lt;ref&amp;gt;無論当時にはそのような名称は無かった。&amp;lt;/ref&amp;gt;、または信長軍・信長機動隊ともいう&amp;lt;ref name=&amp;quot;hujiki40&amp;quot;&amp;gt;藤木久志「天下統一と朝鮮侵略」講談社学術文庫、40頁&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
尾張の兵を弓衆・鉄砲衆・馬廻衆・小姓衆・小身衆など機動性を持った直属の軍団に編成し、天正4年（1576年）にはこれらを安土に結集させた&amp;lt;ref name=&amp;quot;hujiki40&amp;quot;/&amp;gt;。既に織田家には直属の指揮班である宿老衆や先手衆などがおり、これらと新編成軍との連携などを訓練した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
上杉景勝に対しては柴田勝家・[[前田利家]]・[[佐々成政]]らを、武田勝頼に対しては滝川一益・織田信忠らを、波多野秀治に対しては明智光秀・細川藤孝らを、毛利輝元に対しては羽柴秀吉を、石山本願寺に対しては佐久間信盛を配備した。&lt;br /&gt;
* 美濃・尾張・飛騨の抑え・[[織田信忠]]・[[斎藤利治]]・[[姉小路頼綱]]&lt;br /&gt;
* 対武田方面・[[滝川一益]]・[[織田信忠]]軍団（天正元年結成）&lt;br /&gt;
* 対本願寺方面・[[佐久間信盛]]軍団（天正4年結成 - 天正8年消滅）&lt;br /&gt;
* 北陸方面・[[柴田勝家]]軍団（天正4年昇格）&lt;br /&gt;
* 近畿方面・[[明智光秀]]軍団（天正8年昇格）&lt;br /&gt;
* 山陰・山陽方面・[[羽柴秀吉]]軍団（天正8年昇格）&lt;br /&gt;
* 関東方面・滝川一益軍団（天正10年結成）&lt;br /&gt;
* 四国方面・[[織田信孝]]・[[津田信澄]]・[[丹羽長秀]]・[[蜂屋頼隆]]軍団（天正10年結成）&lt;br /&gt;
* 東海道の抑え・[[徳川家康]]（形式的には同盟国であり織田軍団の一部ではない）&lt;br /&gt;
* 伊勢・伊賀方面の抑え・[[織田信雄]]・[[織田信包]]&lt;br /&gt;
*（紀伊方面の抑え・[[織田信張]]）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===中国侵攻===&lt;br /&gt;
天正6年（[[1578年]]）3月、[[播磨国]]の[[別所長治]]の謀反（[[三木合戦]]）が起こる、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
4月、突如として信長は右大臣・右近衛大将を辞職した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
7月、毛利軍が[[上月城]]を攻略し、信長の命により放置された[[山中幸盛]]ら[[尼子氏]]再興軍は処刑される（[[上月城の戦い]]）。10月には摂津国の荒木村重が[[有岡城]]に籠って信長から離反し（[[有岡城の戦い]]）、足利義昭・毛利氏・本願寺と手を結んで信長に抵抗する。一方、村重の[[与力]]であり東摂津に所領を持つ[[中川清秀]]・[[高山右近]]は村重にはつかなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
同年11月6日、信長は九鬼嘉隆の考案した[[鉄甲船]]を採用、6隻を建造し毛利水軍を撃破（[[第二次木津川口の戦い]]）。これにより石山本願寺と荒木は毛利軍の援助を受けられず孤立し、この頃から織田軍は優位に立つ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
天正7年（[[1579年]]）夏までに波多野秀治を降伏させ、処刑。同年9月、荒木村重が妻子を置き去りにして逃亡すると有岡城は落城し、荒木一族は処刑された。次いで10月、それまで毛利方であった[[備前国]]の[[宇喜多直家]]が服属すると、織田軍と毛利軍の優劣は完全に逆転する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
11月、信長は織田家の京屋敷・[[二条城#織田信長・誠仁親王の「二条新御所」|二条新御所]]を、[[皇太子]]である[[誠仁親王]]に進上した。同時に、信長は誠仁親王の五男・[[邦慶親王]]を[[猶子]]として、この邦慶親王も二条新御所に移っている&amp;lt;ref&amp;gt;「多聞院日記」より。なお多聞院日記によると、信長が御所を進上した相手は誠仁親王ではなく、猶子の邦慶親王の方だったようである。（藤井譲治『天皇と天下人』より）&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この年、信長は徳川家康の嫡男・[[松平信康]]に対し切腹を命じたとされる。表向きの理由は信康の12か条の乱行、築山殿の武田氏への内通などである。徳川家臣団は信長恭順派と反信長派に分かれて激しい議論を繰り広げたが、最終的に家康は築山殿を殺害し、信康に切腹させた（ただし、これに関しては、家康・信康父子の対立が原因で、信長は娘婿信康の処断について家康から了承を求められただけだとする説もある。詳細は[[松平信康#信康自刃事件について]]を参照）。また伊勢国の出城構築を[[伊賀国]]の[[国人]]に妨害されて立腹した織田信雄が、独断で伊賀国に侵攻し大敗を喫した。信長は信雄を厳しく叱責した（[[伊賀流#天正伊賀の乱|第一次天正伊賀の乱]]）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
天正8年（[[1580年]]）1月、別所長治が切腹し、三木城が開城。4月には正親町天皇の勅命のもと本願寺軍も織田軍に有利な条件を呑んで和睦し、大坂から退去した。同年には播磨国、[[但馬国]]をも攻略した。8月、信長は[[譜代]]の老臣・佐久間信盛とその嫡男・[[佐久間信栄]]に対して折檻状を送り付け、本願寺との戦に係る不手際などを理由に、高野山への追放か討ち死に覚悟で働くかを迫った。佐久間親子は高野山行きを選んだ。さらに、古参の林秀貞と[[安藤守就]]も、かつてあった謀反の企てや一族が敵と内通したことなどを蒸し返して、これを理由に追放した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
天正9年（[[1581年]]）には[[鳥取城]]を兵糧攻めで落とし[[因幡国]]を攻略、さらには[[岩屋城]]を落として[[淡路国]]を攻略した。同年、信雄を総大将とする4万人の軍勢が伊賀国を攻略。伊賀国は織田氏の領地となった（第二次天正伊賀の乱）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 京都御馬揃え～左大臣推任 ===&lt;br /&gt;
天正9年（1581年）、信長は絶頂期にあった。2月28日には京都の[[内裏]]東の馬場にて大々的なデモンストレーションを行なっている。いわゆる[[京都御馬揃え]]であるが、これには信長はじめ織田一門のほか、[[丹羽長秀]]ら織田軍団の武威を示すものであった&amp;lt;ref&amp;gt;「貴賎群衆の輩 かかるめでたき御代に生まれ合わせ …（中略）… あり難き次第にて上古 末代の見物なり」（[[信長公記]]）&amp;lt;/ref&amp;gt;。このときの馬揃えには正親町天皇を招待している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
3月7日、天皇は信長を左大臣に推任。9日にこの意向が信長に伝えられ、信長は「正親町天皇が譲位し、誠仁親王が即位した際にお受けしたい」と返答した。朝廷はこの件について話し合い、信長に朝廷の意向が伝えられた。24日、信長からの返事が届き、朝廷はこれに満足した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし4月1日、信長は突然「今年は[[金神]]の年なので譲位には不都合」と言い出した。譲位と信長の左大臣就任は延期されることになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 高野山包囲 ===&lt;br /&gt;
同・天正9年（1581年）、[[高野山]]が[[荒木村重]]の残党を匿ったり、足利義昭と通じるなど、信長と敵対する動きを見せる。『信長公記』によれば、信長は使者十数人を差し向けたが、高野山が使者を全て殺害した。一方、『高野春秋』では荒木村重探索の松井友閑の兵32名が高野山の領民に乱暴狼藉を働いたために高野山側がこれを殺害したと記している。いずれにしても、この行動に激怒した信長は、織田領における[[高野聖]]数百人を捕らえる（高野聖は[[諜報活動]]を行っていたともいう）と共に、[[河内国]]や[[大和国]]の諸大名に命じて高野山を包囲させた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
5月に越中国を守っていた上杉氏の武将・[[河田長親]]が急死した隙を突いて織田軍は越中に侵攻、同国の過半を支配下に置いた。3月23日には[[高天神城]]を奪回し、武田氏を追い詰めた。紀州では雑賀党が内部分裂し、信長支持派の鈴木孫一が反信長派の[[土橋平次]]らと争うなどして勢力を減退させた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 武田征伐 ===&lt;br /&gt;
{{Main|武田征伐}}&lt;br /&gt;
長篠合戦の敗退後、武田勝頼は越後上杉氏との[[甲越同盟]]の締結や[[新府城]]築城などで領国再建を図る一方、人質であった[[織田勝長]]（信房）を返還することで信長との和睦（甲江和与）を模索したが進まず、新府城築城のための普請増大などで却って国人衆には不満が増大していた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
天正10年（[[1582年]]）2月1日、武田信玄の娘婿であった[[木曾義昌]]が信長に寝返る。2月3日に信長は武田領国への本格的侵攻を行うための大動員令を信忠に発令。駿河国から家康、相模国から[[北条氏直]]、[[飛騨国]]から[[金森長近]]、[[木曽地域|木曽]]から織田信忠が、それぞれ武田領攻略を開始した。信忠軍は軍監・[[滝川一益]]と信忠の譜代衆となる河尻秀隆・[[森長可]]・[[毛利秀頼|毛利長秀]]等で構成され、この連合軍の兵数は10万人余に上った。武田軍は、[[伊那城]]の城兵が城将・[[下条信氏]]を追い出して織田軍に降伏。さらに[[信濃国]]の[[松尾城 (信濃国伊那郡)|松尾城]]主・[[小笠原信嶺]]、[[江尻城]]主・[[穴山信君]]らも先を争うように連合軍に降伏し、武田軍は組織的な抵抗が出来ず済し崩し的に敗北する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
信忠軍は猛烈な勢いで武田領に侵攻し武田側の城を次々に占領していき、信長が武田征伐に出陣した3月8日に信忠は武田領国の本拠である[[甲府]]を占領し、3月11日には甲斐都留郡の田野において滝川一益が武田勝頼・信勝父子を討ち取り、ここに武田氏は滅亡した&amp;lt;ref&amp;gt;俗説ではあるが、最後の武田攻めの際、明智光秀が「ここまで来られて、我々も骨を負った甲斐があった」と語ったところ、信長の逆鱗に触れ、光秀は欄干に頭を打ち付けられたともいわれている。&amp;lt;/ref&amp;gt;。また駿河国を徳川家康に、[[上野国]]を滝川一益に与え、旧武田領の監督を命じ、甲斐国を河尻秀隆、北信濃を森長可、南信濃を毛利長秀に与え一益の与力に付けて、北条氏直への抑えとしつつも同盟関係を保った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 三職推任 ===&lt;br /&gt;
4月、正親町天皇は信長を太政大臣・関白・征夷大将軍のいずれかに任じたいという意向を示し、5月に信長に伝えられた（[[三職推任問題]]）。しかし信長は使者に対して何も返答しないままだった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 本能寺の変 ===&lt;br /&gt;
[[ファイル:Honnoj.jpg|thumb|280px|『本能寺焼討之図』 [[楊斎延一]]（ようさい のぶかず）画（[[明治]]時代作成の[[武者絵]]。[[名古屋市]]所蔵）]]&lt;br /&gt;
{{Main|本能寺の変}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
信長は[[四国]]の[[長宗我部元親]]攻略に向け、三男の神戸信孝、重臣の丹羽長秀・[[蜂屋頼隆]]・[[津田信澄]]の軍団を派遣する準備を進めていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また北陸方面では柴田勝家が富山城、魚津城を攻撃（[[魚津城の戦い]]）。上杉氏は北の[[新発田重家の乱]]に加え、北信濃方面から森長可、上野方面から滝川一益の進攻を受け、東西南北の全方面で守勢に立たされていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
5月15日、駿河国加増の礼と武田征伐の戦勝祝いのため、徳川家康が安土城を訪れた。そこで信長は明智光秀に接待役を命じる。光秀は15日から17日にわたって家康を手厚くもてなした。家康接待が続く中、信長は[[備中高松城]]攻めを行なっている羽柴秀吉の使者より援軍の依頼を受けた。信長は光秀の接待役の任を解き、秀吉への援軍に向かうよう命じた。後世、『[[明智軍記]]』などによって[[江戸時代]]以降流布される俗説では、この時、光秀の接待内容に不満を覚えた信長は[[小姓]]の[[森成利]]（蘭丸）に命じて光秀の頭をはたかせた、としている&amp;lt;ref&amp;gt;この時の[[献立]]は「天正十年安土御献立」『[[続群書類従]]』に記録されているが、この時の献立は前年の家康接待（饗応役は不明）の際の献立（「御献立集」）のと比べて遜色の無い点が指摘される（[[江後迪子]]『信長のおもてなし』2007）&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
5月29日、信長は[[中国地方|中国]]遠征の出兵準備のために上洛し、[[本能寺]]に逗留していた。ところが、秀吉への援軍を命じていたはずの明智軍が突然京都に進軍し、[[6月2日 (旧暦)|6月2日]]に本能寺を襲撃する。この際に光秀は部下の信長に寄せる忠誠の篤きを考慮し、現に光秀への忠誠を誓う者が少なかったため、侵攻にあたっては標的が信長であることを伏せていたことが[[本城惣右衛門覚書]]からもうかがえる。100人ほどの手勢しか率いていなかった信長であったが、初めは自ら[[槍]]を手に奮闘した。しかし圧倒的多数の明智軍には敵わず、居間に戻った信長は自ら火を放ち、燃え盛る炎の中で自害した。[[享年]]49（満48歳没）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
光秀の娘婿・[[明智秀満]]が信長の遺体を探したが見つからなかった。当時の本能寺は織田勢の補給基地的に使われていたため、火薬が備蓄されており、信長の遺体が爆散してしまったためと考えられる。しかしながら、密かに脱出し別の場所で自害したという説や、信長を慕う僧侶と配下によって人知れず埋葬されたという説もある。なお、最後まで信長に付き従っていた者の中に[[黒人]]の家来・[[弥助]]がいた。弥助は、光秀に捕らえられたものの後に放免となっている。それ以降、弥助の動向については不明である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[平成]]19年（[[2007年]]）に行われた本能寺跡の発掘調査では、本能寺の変と同時期にあったとされる堀跡や大量の焼け瓦が発見された。これにより、城塞としての機能や謀反に備えていた可能性が指摘されており、現在も調査が続いている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==人物像==&lt;br /&gt;
「怒りっぽかった」という記録ははっきり言って当てにならない。中世の記録はたいがいこうやって脚色してあるものだからである。考えてみたまえ。庶民が法を犯すたびに怒る統治者など存在するわけがない。まあ短気ではあっただろう。即断即決でなければ生きていけない世の中だったのだから。しかし判断が早いというのと、感情が動き易いということとは全く違う。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==アホ学者の通説を斬る！==&lt;br /&gt;
立花京子&lt;br /&gt;
*『天皇は武力によって君臨しているわけではないから、武力による脅しは無意味』（by「黄金太閤」）&lt;br /&gt;
**？？？天皇が何の正当性をもって君臨しているかという事と、天皇に武力による脅しが通じるかという事に、いったい何の関係があるんだ？天皇だって人の子だ。刀をつきつけて「譲位しろ」と脅せば、ビビって「はい」と言ってしまうことだってあるだろう。過去に毒殺された親王だっている。もし「信長が天皇から武力を奪おうとした」という事実があって、それへの反論としてこう言うなら分かるのだが。どうもこのへんの歴史学者というのはいまだに天皇を崇拝しているようで困る。&lt;br /&gt;
**まあ馬揃えはどうでもいいんだけどね。ちなみに天皇が馬揃えを見たがったのは、自分の方が信長より上位であるという関係を民衆に見せたかったから。それ以外にあるわけないじゃんｗ　天皇の言葉をそのまま受け取ってしまうようじゃあ政治は語れないのである。&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Minagoroshida</name></author>	</entry>

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