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		<title>Yourpedia - 利用者の投稿記録 [ja]</title>
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		<title>源師房</title>
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		<summary type="html">&lt;p&gt;初心者Ａ: ページの作成：「'''源 師房'''（みなもと の もろふさ、寛弘5年（1008年） - 承保4年2月17日（1077年3月14日））は、[...」&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''源 師房'''（みなもと の もろふさ、[[寛弘]]5年（[[1008年]]） - [[承保]]4年[[2月17日 (旧暦)|2月17日]]（[[1077年]][[3月14日]]））は、[[平安時代]]中期の[[公家]]・[[歌人]]。[[村上源氏]]の祖。[[村上天皇]]の皇子[[具平親王]]の子。中院流祖。[[従一位]]・[[右大臣]]。'''土御門右大臣'''と号した。幼名は万寿宮。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 経歴 ==&lt;br /&gt;
はじめ'''資定王'''（すけさだおう）と称すが、父・[[具平親王]]を早くに亡くし、姉・[[隆姫女王]]の夫である[[藤原頼通]]の[[猶子]]となった（ただし、当時の実態とすれば[[養子]]とほぼ同様の意味に解する事ができる）。[[1020年]]（[[寛仁]]4年）正月に[[従四位|従四位下]]に叙せられ、12月26日に[[元服]]し、[[源氏|源姓]]を賜与されて[[臣籍降下]]、師房と名を改めた。「師房」の名は頼通が授けたものであるという&amp;lt;ref&amp;gt;頼通は自らが選んだこの名を気に入り、後に生まれた自分の2子に「師房」の一字を用いて「[[藤原通房|通房]]」「[[藤原師実|師実]]」と命名したという。なお、通房・師実はともに師房の娘を妻に迎えている。&amp;lt;/ref&amp;gt;。はじめ小野宮右大臣[[藤原実資]]（母方叔母・[[婉子女王]]の後夫）の娘[[藤原千古]]と縁談もあったらしいが、[[1024年]]（[[万寿]]元年）に[[藤原道長]]の五女・[[藤原尊子|尊子]]（頼通の異母妹）と結婚して&amp;lt;ref&amp;gt;『小右記』万寿元年3月27日条&amp;lt;/ref&amp;gt;[[藤原氏|九条流藤原氏]]と密接な関係を築いた&amp;lt;ref&amp;gt;藤原道長の娘の内、人臣の妻となったのは尊子のみ。&amp;lt;/ref&amp;gt;。同年[[従三位]]に叙せられ[[公卿]]に列し、以後も昇進を重ねる。[[1064年]]（[[康平]]7年）[[内大臣]]、[[1069年]]（[[延久]]元年）[[右大臣]]となって[[村上源氏]]の政界進出の基を築いた。[[1077年]]（[[承暦]]元年）2月17日に[[太政大臣]]に任ぜられるが、同日に出家し、薨去。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
高い学才の一方で、[[漢詩]]・[[和歌]]にも秀で『後拾遺和歌集』以下の[[勅撰和歌集]]にも10首入集している。著書に『叙位除目抄』『[[土右記]]』などがあり、彼とその子孫による[[有職故実]]の流派は「[[土御門流]]」と称せられた。また、その才能を愛した藤原道長は「頼通に男子が生まれなければ、師房に[[摂関家]]を継がせてもいい」と言ったといわれている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 系図 ==&lt;br /&gt;
* 父：[[具平親王]]&lt;br /&gt;
* 母：[[為平親王]]女&lt;br /&gt;
* 妻：[[藤原尊子]]（1003?-1087） - [[藤原道長]]女&lt;br /&gt;
:* 長女：[[源げん子|源妧子]]（1027-1108） - [[藤原通房]]室&lt;br /&gt;
:* 次女：[[源澄子]]（1029?-1087）&lt;br /&gt;
:* 三女：&lt;br /&gt;
:* 長男：[[源俊房]]（1035-1121）&lt;br /&gt;
:* 次男：[[源顕房]]（1037-1094）&lt;br /&gt;
:* 四女：[[源麗子]]（1040-1114） - [[藤原師実]]正室&lt;br /&gt;
:* 三男：[[仁覚]]（1045-1102）‐[[天台座主]]&lt;br /&gt;
* 妻：[[藤原頼宗]]女&lt;br /&gt;
:* 四男：[[源師忠]]（1054-1114）&lt;br /&gt;
* 妻：[[源憲清]]女&lt;br /&gt;
:* 男子：[[実覚]]（1063-1130） [[僧綱|少僧都]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:* [[養子縁組|養子]]：源広綱（1048-1108）&amp;lt;ref&amp;gt;生没年は『[[中右記]]』天仁元年11月29日条による。&amp;lt;/ref&amp;gt; - 実は[[藤原成国]]の子&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 和歌 ==&lt;br /&gt;
*''行く末を せきとどめばや 白河の 水と共にぞ 春もゆきける'' （『[[後拾遺和歌集]]』歌番号146）&lt;br /&gt;
*''有明の 月待つほどの うたたねは 山の端のみぞ 夢に見えける'' （『[[金葉和歌集]]』歌番号214） &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 参考文献 ==&lt;br /&gt;
*木本好信「『土右記』と源師房」、『平安朝日記と逸文の研究』所収、[[桜楓社]]。&lt;br /&gt;
*岡野友彦「源師房」、『王朝の変容と武者』所収、[[清文堂]]。&lt;br /&gt;
*細谷勘資「平安時代後期の礼儀作法と村上源氏」、十世紀研究会 編『中世成立期の歴史像』所収、[[東京堂出版]]。後に「村上源氏の台頭と儀式作法の成立」と改題、細谷勘資氏遺稿集刊行会 編『中世宮廷儀式書成立史の研究』所収、[[勉誠出版]]。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 脚注 ==&lt;br /&gt;
{{reflist}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:みなもと の もろふさ}}&lt;br /&gt;
[[Category:平安・鎌倉時代の皇族]]&lt;br /&gt;
[[Category:村上源氏|もろふさ]]&lt;br /&gt;
[[Category:平安時代の歌人]]&lt;br /&gt;
[[Category:1008年生]]&lt;br /&gt;
[[Category:1077年没]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>初心者Ａ</name></author>	</entry>

	<entry>
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		<title>源頼国</title>
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		<summary type="html">&lt;p&gt;初心者Ａ: ページの作成：「'''源 頼国'''（みなもと の よりくに、生年未詳 - 天喜元年（1058年）?）は、平安時代中期の武将・官人。[[源頼光...」&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''源 頼国'''（みなもと の よりくに、生年未詳 - [[天喜]]元年（[[1058年]]）?）は、[[平安時代]]中期の[[武将]]・[[官人]]。[[源頼光]]の長男。母は[[藤原元平]]、あるいは[[藤原元尹]]の娘。弟に[[源頼家 (摂津源氏)|頼家]]、[[源頼基|頼基]]らがある。[[正四位下]]、[[蔵人]]、[[左衛門尉]]、[[讃岐国|讃岐]]守、[[美濃国|美濃]]守。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
父の頼光同様、主に京における中級官人として活動する。特に[[藤原道長]]一族との結びつきが強く、道長の娘[[藤原彰子|上東門院彰子]]、その所生の皇子敦成親王（[[後一条天皇]]）に長きに渡って近侍した。武人としてよりも文人としての活動が主体であり、[[寛弘]]4年（[[1007年]]）に道長の催した[[漢詩]]の会に出席したことなどが記録に見える。[[内昇殿]]を許され、娘達を[[摂政]][[藤原師実]]、[[参議]][[藤原為房]]といった[[公卿]]の妻妾に配すなど、総じて貴族社会の一員としての側面が強かった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
説話上では、父頼光の[[酒呑童子]]退治に[[頼光四天王|四天王]]や[[藤原保昌]]らと共に同行し、[[茨木童子]]の住居であった「鬼ヶ城」を攻め落とす武士として描かれるが、史実上の頼国に武人としての目立った事跡はなく、[[寛仁]]3年（[[1019年]]）に暴漢を逮捕したことなど、主に京周辺の警察的活動に従事した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
多くの子女に恵まれ、男子では[[源頼弘|頼弘]]、[[源頼資|頼資]]、[[源頼実|頼実]]、[[源実国|実国]]、[[源頼綱|頼綱]]、[[源国房|国房]]、[[源師光|師光]]などがあり、頼実、頼綱、師光は[[歌人]]としての活動が知られるほか、頼資、頼綱、国房、師光らの子孫が後代武門として様々な形で歴史に名を刻んでいる。また娘達のうち、師実妻は[[左大臣]][[藤原家忠|家忠]]（[[花山院家]]祖）、為房妻は[[参議]][[藤原為隆|為隆]]（[[吉田家]]祖）、[[権中納言]][[藤原顕隆|顕隆]]（[[葉室家]]祖）らをそれぞれ生んだことで知られ、さらに別の娘の一人は歌人「[[六条斎院宣旨]]」として名を残している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 家系 ==&lt;br /&gt;
*父：[[源頼光]]&lt;br /&gt;
*母：[[藤原元平]]女（[[藤原元尹]]女・[[平惟仲]]女など異説あり）&lt;br /&gt;
*妻：[[藤原信理]]女&lt;br /&gt;
**長男：[[源頼弘]]&lt;br /&gt;
*妻：[[藤原師長]]女&lt;br /&gt;
**次男：[[源頼資]]&lt;br /&gt;
*妻：[[藤原中清]]女&lt;br /&gt;
**五男：[[源頼綱]]（多田頼綱）&lt;br /&gt;
*生母不明&lt;br /&gt;
**三男：[[源頼実]]&lt;br /&gt;
**四男：[[源実国]]&lt;br /&gt;
**六男：[[源国房]]&lt;br /&gt;
**七男：源頼仲‐蔵人・従五位下・土佐守・越後守&lt;br /&gt;
**八男：[[源師光]]&lt;br /&gt;
**九男：源頼房‐加賀守・従五位下&lt;br /&gt;
**十男：源頼任&lt;br /&gt;
**男子：明円‐水尾山寺住&lt;br /&gt;
**女子：[[藤原師実]]室（美濃）&lt;br /&gt;
**女子：[[藤原為房]]室&lt;br /&gt;
**女子：源道時室&lt;br /&gt;
**女子：[[藤原顕家]]室&lt;br /&gt;
**女子：藤原良綱室&lt;br /&gt;
**女子：[[源隆国]]室&lt;br /&gt;
**女子：藤原定輔室&lt;br /&gt;
**女子：源朝任室&lt;br /&gt;
**女子：藤原盛綱室&lt;br /&gt;
**女子：藤原盛実室&lt;br /&gt;
**女子：藤原高定または源隆国室（[[六条斎院宣旨]]）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
*[[摂津源氏]]&lt;br /&gt;
*[[多田源氏]]&lt;br /&gt;
*[[美濃源氏]]&lt;br /&gt;
*[[丸山城 (摂津国能勢郡)]]&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:みなもと の よりくに}} &lt;br /&gt;
[[Category:平安時代の武士]]&lt;br /&gt;
[[Category:讃岐守]]&lt;br /&gt;
[[Category:美濃守]]&lt;br /&gt;
[[Category:摂津源氏|よりくに]]&lt;br /&gt;
[[Category:多田源氏|よりくに]]&lt;br /&gt;
[[Category:1058年没]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>初心者Ａ</name></author>	</entry>

	<entry>
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		<title>貞登</title>
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		<summary type="html">&lt;p&gt;初心者Ａ: ページの作成：「'''貞登'''（さだののぼる、生没年不詳）は、平安時代前期の賜姓皇族。仁明天皇の皇子で、母は更衣三...」&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''貞登'''（さだののぼる、生没年不詳）は、[[平安時代]]前期の賜姓[[皇族]]。[[仁明天皇]]の皇子で、母は[[更衣 (女官)|更衣]]三国氏（三国町）。[[文徳天皇]]・[[光孝天皇]]らの異母兄弟。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
生年は830年代後半と推定されている。母は仁明天皇の寵愛を受け「三国町」と呼ばれた女官だったが、仁明天皇の寵臣だった[[藤原有貞]]と密通した罪により[[承和]]12年（845年）に更衣の身分を剥奪されて後宮から追放された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
彼自身も承和年間の初めに[[源氏|源]][[朝臣]]の氏姓を賜って臣籍に降下していたが（源氏時代の名は不明）、母のこの過失によって属籍を削られ、出家して'''深寂'''と称した。それから20年余経過した貞観8年（866年）に還俗し[[清和天皇]]から[[貞氏|貞]]朝臣の氏姓と登の名を賜り、正六位上に叙位され、平安京の右京一条一坊に貫せられた。同9年1月、従五位下に昇進。同19年1月に従五位上に昇り、のちに正五位下まで昇進したが、この間に大和権守・備中守・越中介・紀伊権守などを務めた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
没年は不明だが、正五位下に叙された寛平6年（894年）には存命していたことは判明している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[勅撰和歌集]]では『[[古今和歌集]]』に1首の歌が残る。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*''ひとりのみ ながめふるやの つまなれば 人をしのぶの 草ぞおひける''（古今和歌集0769）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:さたののほる}}&lt;br /&gt;
[[Category:平安時代の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:平安時代の歌人]]&lt;br /&gt;
[[Category:平安・鎌倉時代の皇族]]&lt;br /&gt;
[[Category:還俗した人物]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>初心者Ａ</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%B4%AB%E9%9B%B2%E7%AB%9C%E5%90%89%E4%B9%8B%E5%8A%A9&amp;diff=142887</id>
		<title>紫雲竜吉之助</title>
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				<updated>2011-11-15T10:54:35Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;初心者Ａ: ページの作成：「'''紫雲竜吉之助'''（しうんりゅう きちのすけ、明治15年1月7日（1882年）―昭和21年4月28日（1946年））は、明治・大正時代の大相...」&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''紫雲竜吉之助'''（しうんりゅう きちのすけ、明治15年1月7日（1882年）―昭和21年4月28日（1946年））は、明治・大正時代の大相撲力士。本名'''斎藤吉次郎'''。[[千葉県]]山辺郡（現在の千葉県[[山武郡]]）出身。[[高砂部屋]]及び[[阿武松部屋]]所属。最高位は[[前頭]]筆頭。得意手は右四つ・引き落とし。現役時代の身長は174cm、体重は83kgだった。年寄名は[[出来山 (相撲)|出来山]]（9代目）・[[阿武松 (相撲)|阿武松]]（7代目）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
幕内[[大見嵜八之助]]（6代目阿武松）の甥。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
現在の千葉県山武郡大網白里町四天木に生まれる。明治31年（1898年）1月場所序ノ口で初土俵を踏む。明治37年（1904年）1月場所で[[十両]]に昇進。明治40年（1907年）5月場所で新入幕。その後は幕内と十両を往復したが、明治41年（1908年）5月場所において前頭9枚目で7勝2預1休の成績で優勝に相当する最優秀成績を挙げたこともある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
大正3年（1914年）6月場所で前頭4枚目にあって6勝4敗の成績をあげ、翌場所の大正4年（1915年）1月場所の番付で自己最高位の前頭筆頭まで昇進している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
大正6年（1917年）1月場所を最後に引退した後、年寄・9代目出来山を襲名して出羽海一門に所属した。昭和15年（1940年）1月、伯父阿武松（前年の10月に死去）のあとを継いで7代目阿武松を襲名した。昭和21年4月28日、年寄在職中に死去。享年64歳。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*幕内成績：52勝66敗10分7預25休（16場所）&lt;br /&gt;
*幕内勝率：0.441&lt;br /&gt;
*優勝回数：（優勝相当成績1回）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:しうんりゆうきちのすけ}}&lt;br /&gt;
[[Category:千葉県出身の大相撲力士]]&lt;br /&gt;
[[Category:高砂部屋]]&lt;br /&gt;
[[Category:阿武松部屋]]&lt;br /&gt;
[[Category:1882年生]]&lt;br /&gt;
[[Category:1946年没]]&lt;br /&gt;
[[Category:千葉県出身の人物]]&lt;br /&gt;
[[category:上総国の人物]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>初心者Ａ</name></author>	</entry>

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		<id>http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E5%A4%A7%E7%B7%91%E4%BB%81%E5%90%89&amp;diff=142877</id>
		<title>大緑仁吉</title>
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				<updated>2011-11-14T12:39:11Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;初心者Ａ: ページの作成：「'''大緑仁吉'''（おおみどり にきち、明治13年1月3日（1880年）―昭和29年7月19日（1954年））は、明治時代後期の大相撲[[力...」&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''大緑仁吉'''（おおみどり にきち、明治13年1月3日（1880年）―昭和29年7月19日（1954年））は、[[明治時代]]後期の[[大相撲]][[力士]]。[[石川県]][[足羽郡]]（現在の[[福井県]]福井市）出身。本名'''帰川仁吉'''。最高位[[前頭]]3枚目。[[高砂部屋]]所属。身長179cm・体重94kg（現役時代）。年寄名は[[大山 (相撲)|大山]]（8代目）。兄弟弟子に[[横綱]][[小錦八十吉 (初代)|小錦八十吉]]らいる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
現在の福井県福井市東郷二ヶ町に生まれる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[明治]]33年（1900年）に家族の猛反対を押し切って[[高砂浦五郎 (初代)|高砂浦五郎]]のもとに入門し（しかし同年4月高砂が没したため、部屋は[[高見山宗五郎]]が継承した）、同年1月に序ノ口で初土俵を踏む。明治40年（1907年）1月場所で[[十両]]に昇進。翌年の5月場所に新入幕を果たした。その後幕内で3場所好成績を収め、明治43年（1910年）1月に自己最高位となる前頭3枚目まで昇進した。しかしその後は成績不振で番付を下げ、明治45年（1912年）5月に十両に転落して引退した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
痩身で手足が長く、手首だけを使って突っ張って左四つで食い下がる取り口を得意とした。強い力士に勝つこともある一方で、格下力士に負けることも多く、そのため「'''不得要領居士'''」（ふとくようりょうこじ）という渾名で呼ばれることもあった。地味で真面目な性格で、相手から不義理な仕打ちを受けても決して責めることのない剛腹な人柄は、力士たちの間でも評判が良かったという。また非常に母親思いで信仰心も厚く、義理人情を重んじた。さらに家族の反対を押し切って力士となった負い目と、相撲に対する世間の偏見に対する反発から、現役時代から晩年まで故郷に送金した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
引退後は年寄・大山（8代目）を襲名し、[[昭和]]13年（1938年）5月限りで廃業するまでこの地位にあった。この間、副業として瀬戸物業を経営して財をなしたが、昭和20年（1945年）の[[東京大空襲]]で全財産を失った後は製材所を経営した。戦後はGHQから大型テントの払い下げを受けて、[[浅草]]一帯に40ヶ所以上の簡易宿泊所を建て、多くの流浪者（戦争罹災者・満州からの引揚者など）を救った。昭和29年7月19日、74歳で没した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*幕内戦績：24勝22敗12分2預10休（7場所）&lt;br /&gt;
*幕内勝率：0.522&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:おおみとりにきち}}&lt;br /&gt;
[[Category:福井県出身の大相撲力士]]&lt;br /&gt;
[[Category:高砂部屋]]&lt;br /&gt;
[[Category:1880年生]]&lt;br /&gt;
[[Category:1954年没]]&lt;br /&gt;
[[Category:福井県出身の人物]]&lt;br /&gt;
[[category:越前国の人物]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>初心者Ａ</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E5%AD%9D%E5%BA%B7%E7%9A%87%E5%90%8E_(%E6%98%8E%E6%9C%9D)&amp;diff=142452</id>
		<title>孝康皇后 (明朝)</title>
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				<updated>2011-11-07T07:31:25Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;初心者Ａ: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''孝康皇后'''（こうこうこうごう、1354年?‐1378年）は、[[明]]の懿文太子[[朱標]] （太祖洪武帝[[朱元璋]]の長子）の正妃。姓は常氏。開平王[[常遇春]]の長女で、母は藍氏（[[藍玉 (明)|藍玉]]の姉）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
父常遇春は洪武帝朱元璋の旧くからの仲間で、明王朝建国の元勲の一人。[[洪武]]4年（1371年）4月に皇太子朱標と結婚して皇太子妃に冊立された。朱標との間に朱雄英（早世）・呉王朱允熥を産むが、洪武11年（1378年）11月に朱標に先立って没し'''敬懿皇太子妃'''と諡された。死因は朱允熥出産時の産褥死であろう。建文元年（1399年）、朱標の子[[建文帝]]（母は側室の呂氏）が即位すると嫡母（父の正室）として'''孝康皇后'''と追尊された。[[永楽]]元年（1403年）、永楽帝が即位すると敬懿皇太子妃に戻された。その後、明朝末期の安宗[[弘光帝]]によって孝康皇后と改めて諡された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:こうこうこうこう}}&lt;br /&gt;
[[Category:1378年没]]&lt;br /&gt;
[[Category:明の皇后]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>初心者Ａ</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E6%9C%B1%E6%A8%99&amp;diff=142451</id>
		<title>朱標</title>
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				<updated>2011-11-07T07:22:32Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;初心者Ａ: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''朱標'''（しゅひょう、[[至正]]15年10月10日（[[1355年]]） - [[洪武]]25年5月17日（[[1392年]]））は、中国・[[明]]朝の[[皇太子]]・追尊[[皇帝]]。明の太祖洪武帝[[朱元璋]]の長男で、母は[[馬皇后 (洪武帝)|馬皇后]]（[[李淑妃 (明太祖)|李淑妃]]とする説もある）。第2代皇帝[[建文帝]]朱允炆の父。第3代皇帝成祖[[永楽帝]]朱棣の同母兄（異母兄とする説もある）。死後、'''懿文太子'''と諡され、建文帝即位によって皇帝位と'''興宗'''という廟号を追贈された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
元朝末期の至正15年（1355年）、[[黄山区|太平]]（現在の[[安徽省]][[黄山区]]）で朱元璋と馬氏の長男として生まれる。至正24年（1364年）に父朱元璋が応天府（現在の[[南京]]）で呉王を名乗ると、朱標はその世子に立てられた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
洪武元年（1368年）、明王朝が成立すると朱標は14歳で皇太子に立てられた。しかし朱標は温厚な人柄で儒教的教養を持ち、父が進める重臣たちの粛清を諌めたりしたために、父からは頼りなく思われたという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
洪武25年（1392年）、父に先立って38歳で病死した。朱標を失った洪武帝は非常に悲しみ、彼に「懿文太子」と諡した。その後、朱標の子・朱允炆（建文帝）が即位すると興宗の廟号と、諡号の孝康皇帝が追号された。しかし[[靖難の変]]によって弟の朱棣（永楽帝）が即位すると諡が懿文太子に戻された。その後、明朝末期の安宗[[弘光帝]]（在位1644年－1645年）によって帝号を回復し、'''興宗和天敬道憲懿勤敏淳文度武明仁慈孝康皇帝'''と諡された。彼の陵墓は[[明孝陵]]の東側にあり、世人から「東陵」と呼ばれていたといわれる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
彼の早すぎる死が却って父による粛清を加速させた上に、靖難の変の原因の一つになるなど、明の王室に数々の悲劇を生み出す原因となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 系譜 ==&lt;br /&gt;
*父：太祖洪武帝朱元璋&lt;br /&gt;
*母：孝慈高皇后馬氏&lt;br /&gt;
*正室：[[孝康皇后 (明朝)|孝康皇后]]常氏‐開平王[[常遇春]]の娘&lt;br /&gt;
**長男：虞王朱雄英（1374‐1382）&lt;br /&gt;
**三男：呉王朱允熥（1378‐1417）&lt;br /&gt;
*側室：[[呂太后 (明興宗)|皇太后呂氏]]‐呂昌本の娘&lt;br /&gt;
**次男：恵帝建文帝朱允炆（1377-1402?）&lt;br /&gt;
**四男：衛王朱允熞（1385‐1402）&lt;br /&gt;
**五男：徐王朱允𤐤（1391‐1407）&lt;br /&gt;
*生母不明&lt;br /&gt;
**長女：江都公主‐[[耿璿]]（長興侯[[耿炳文]]の子）に嫁ぐ&lt;br /&gt;
**次女：宜倫郡主&lt;br /&gt;
**三女（夭折）&lt;br /&gt;
**四女：南平郡主&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:しゆひよう}}&lt;br /&gt;
[[Category:明の皇族|ひよう]]&lt;br /&gt;
[[Category:明の皇帝]]&lt;br /&gt;
[[Category:中国の皇太子]]&lt;br /&gt;
[[Category:追尊された人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:1355年生]]&lt;br /&gt;
[[Category:1392年没]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>初心者Ａ</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E5%BE%85%E4%B9%B3%E5%B1%B1%E6%A5%AF%E4%B9%8B%E4%BA%9F(2%E4%BB%A3%E7%9B%AE)&amp;diff=142449</id>
		<title>待乳山楯之亟(2代目)</title>
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				<updated>2011-11-07T07:18:04Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;初心者Ａ: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''待乳山楯之亟'''（まつちやま たてのじょう、[[寛政]]6年（1794年）‐[[安政]]4年10月8日（1857年））は、江戸時代後期の大相撲力士。'''待乳山楯之丞'''と表記することもある。最高位[[前頭]]6枚目。本名は不明。出身地は[[武蔵国]][[足立郡]]野田（現在の[[埼玉県]][[さいたま市]]野田）と推測される。[[粂川部屋]]・[[雷部屋]]所属。'''[[待乳山 (相撲)|待乳山]]'''としては3代目。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
粂川（矢車福五郎）の門弟として江戸相撲に入門。兄弟弟子に[[横綱]][[阿武松緑之助]]・[[大関]][[手柄山繁右エ門]]・大関[[平石七太夫]]らがいる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[文政]]2年（1819年）3月、二段目（現在の[[十両]]）番付外で'''武蔵潟伊之助'''という四股名で初土俵を踏む。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
文政8年（1825年）10月、四股名を'''荒滝伊之助'''と改める。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
文政10年（1827年）3月、年寄・2代目'''待乳山楯之亟'''（3代目待乳山）を襲名。同年11月、入幕。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
文政12年（1829年）、この年の10月場所を全休したため二段目に番付を下げる。この場所から数年間番付から名前が消えるが、彼が不在の間、越ノ海勇藏（越ノ海灘五郎）という力士が[[天保]]2年（1831年）2月に待乳山鶴五郎と改名して相撲を取っていたことから、彼と越ノ海の間で「待乳山」の襲名をめぐって何らかのトラブルがあったと推測される。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
天保3年（1832年）閏11月、'''懸嶋幸之助'''と四股名を改めて再び江戸相撲に出場。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
天保6年（1835年）1月、再び'''待乳山楯之亟'''と改名。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
天保8年（1837年）1月、引退して年寄専務となる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
安政4年（1857年）1月、勧進元を務める。同年10月8日、64歳で死去。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
彼の弟子に、[[武藏潟伊之助]]（初代[[君ヶ濱]]）や[[待乳山楯之亟(3代目)|待乳山楯之亟]]（4代目待乳山）らがいる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*幕内成績：4勝17敗1預21休（5場所）&lt;br /&gt;
*幕内勝率：0.190&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 参考文献 ==&lt;br /&gt;
*「相撲」編集部編『大相撲人物大事典』ベースボールマガジン社、2001年。&lt;br /&gt;
*[[日本相撲協会]]監修『相撲大事典』現代書館、2011年。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:まつちやまたてのしよう}}&lt;br /&gt;
[[Category:江戸時代の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:埼玉県出身の大相撲力士]]&lt;br /&gt;
[[Category:粂川部屋]]&lt;br /&gt;
[[Category:雷部屋]]&lt;br /&gt;
[[Category:1794年生]]&lt;br /&gt;
[[Category:1857年没]]&lt;br /&gt;
[[Category:埼玉県出身の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:武蔵国の人物]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>初心者Ａ</name></author>	</entry>

	<entry>
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		<title>待乳山楯之亟(2代目)</title>
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				<updated>2011-11-07T02:10:38Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;初心者Ａ: ページの作成：「'''待乳山楯之亟'''（まつちやま たてのじょう、寛政6年（1794年）‐安政4年10月8日（1857年））は、江戸時代後期の大相撲...」&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''待乳山楯之亟'''（まつちやま たてのじょう、[[寛政]]6年（1794年）‐[[安政]]4年10月8日（1857年））は、江戸時代後期の大相撲力士。'''待乳山楯之丞'''と表記することもある。最高位[[前頭]]6枚目。本名は不明。出身地は[[武蔵国]][[足立郡]]野田（現在の[[埼玉県]][[さいたま市]]野田）と推測される。[[粂川部屋]]・[[雷部屋]]所属。'''[[待乳山 (相撲)|待乳山]]'''としては3代目。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
粂川（矢車福五郎）の門弟として江戸相撲に入門。兄弟弟子に[[横綱]][[阿武松緑之助]]・[[大関]][[手柄山繁右エ門]]・大関[[平石七太夫]]らがいる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[文政]]2年（1819年）3月、二段目（現在の[[十両]]）番付外で'''武蔵潟伊之助'''という四股名で初土俵を踏む。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
文政8年（1825年）10月、四股名を[[荒滝伊之助]]と改める。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
文政10年（1827年）3月、年寄・2代目'''待乳山楯之亟'''（3代目待乳山）を襲名。同年11月、入幕。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
文政12年（1829年）、この年の10月場所を全休したため二段目に番付を下げる。この場所から数年間番付から名前が消えるが、彼が不在の間、越ノ海勇藏（越ノ海灘五郎）という力士が[[天保]]2年（1831年）2月に待乳山鶴五郎と改名して相撲を取っていたことから、彼と越ノ海の間で「待乳山」の襲名をめぐって何らかのトラブルがあったと推測される。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
天保3年（1832年）閏11月、'''懸嶋幸之助'''と四股名を改めて再び江戸相撲に出場。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
天保6年（1835年）1月、再び'''待乳山楯之亟'''と改名。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
天保8年（1837年）1月、引退して年寄専務となる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
安政4年（1857年）1月、勧進元を務める。同年10月8日、64歳で死去。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
彼の弟子に、[[武藏潟伊之助]]（初代[[君ヶ濱]]）や[[待乳山楯之亟(3代目)|待乳山楯之亟]]（4代目待乳山）らがいる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*幕内成績：4勝17敗1預21休（5場所）&lt;br /&gt;
*幕内勝率：0.190&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 参考文献 ==&lt;br /&gt;
*「相撲」編集部編『大相撲人物大事典』ベースボールマガジン社、2001年。&lt;br /&gt;
*[[日本相撲協会]]監修『相撲大事典』現代書館、2011年。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:まつちやまたてのしよう}}&lt;br /&gt;
[[Category:江戸時代の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:埼玉県出身の大相撲力士]]&lt;br /&gt;
[[Category:粂川部屋]]&lt;br /&gt;
[[Category:雷部屋]]&lt;br /&gt;
[[Category:1794年生]]&lt;br /&gt;
[[Category:1857年没]]&lt;br /&gt;
[[Category:埼玉県出身の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:武蔵国の人物]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>初心者Ａ</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E6%89%8B%E6%9F%84%E5%B1%B1%E7%B9%81%E5%8F%B3%E3%82%A8%E9%96%80&amp;diff=142436</id>
		<title>手柄山繁右エ門</title>
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				<updated>2011-11-07T02:07:52Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;初心者Ａ: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''手柄山繁右エ門'''（てがらやま しげえもん、寛政10年（1798年）‐安政5年6月25日（1858年））は、[[江戸時代]]後期の[[大相撲]][[力士]]。最高位は[[大関]]。[[近江国]][[神崎郡]]（現在の[[滋賀県]][[東近江市]]）出身。本名'''安村弥三郎'''。182cm、135kgといわれる。所属部屋は御幸野部屋（京都相撲）から[[武隈部屋]]・[[粂川部屋]]・[[雷部屋]]・[[浦風部屋]]・[[阿武松部屋]]。[[長州藩]]及び[[姫路藩]]のお抱え力士。年寄名は[[武隈]]（5代目）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
兄弟子でもあり師匠でもあった[[横綱]][[阿武松緑之助]]の引退後に大関に昇進し、天保年間の江戸相撲を支えた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
近江国神埼郡、現在の滋賀県東近江市今代町に生まれる。はじめ商人だったが力士に転向して京都相撲で相撲を取り、その後江戸に下って武隈文蔵（3代目武隈、現役時代の四股名は住ノ井甚助）の弟子となり、[[文政]]7年（1824年）10月場所に長州藩お抱え力士として'''勇山岩右衛門'''の四股名で二段目（[[十両]]）に付け出された。文政10年（1827年）3月に四股名を'''小緑春五郎'''と改め、同12年10月に入幕。その後も好成績を続け、[[天保]]4年（1833年）10月に四股名を'''小緑長吉'''と改め、天保5年10月に[[関脇]]に昇進、天保7年2月に大関に進み、天保8年10月に姫路藩のお抱えとなり'''手柄山繁右エ門'''（姫路にある[[手柄山]]にちなむ）に改名。その後、弟弟子の[[平石七太夫|平石]]に大関を譲ったが間もなく大関に復帰した。天保12年（1841年）11月に姫路藩のお抱えを解かれ、郷里近江の[[琵琶湖]]にちなんで'''湖東山文右衛門'''（ことうざん ぶんえもん）と改名。翌天保13年（1842年）2月に関脇に下がり、天保14年（1843年）10月に5代目'''武隈'''を襲名、[[弘化]]2年（1845年）3月場所を最後に引退した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
引退後は後の横綱[[鬼面山谷五郎]]らを育てた。安政5年6月25日、61歳で没した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
安定した地力を持ち、下位力士相手に取りこぼすことは少なかったが、上位力士にはほとんど勝てなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*幕内優勝：（優勝相当成績3回）&lt;br /&gt;
*幕内成績：120勝52敗19分13預3無89休（31場所）&lt;br /&gt;
*幕内勝率：0.698&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 参考文献 ==&lt;br /&gt;
*「相撲」編集部編『大相撲人物大事典』ベースボールマガジン社、2001年。&lt;br /&gt;
*[[日本相撲協会]]監修『相撲大事典』現代書館、2011年。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:てからやましけえもん}}&lt;br /&gt;
[[Category:江戸時代の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:滋賀県出身の大相撲力士]]&lt;br /&gt;
[[Category:武隈部屋]]&lt;br /&gt;
[[Category:粂川部屋]]&lt;br /&gt;
[[Category:雷部屋]]&lt;br /&gt;
[[Category:浦風部屋]]&lt;br /&gt;
[[Category:阿武松部屋]]&lt;br /&gt;
[[Category:1798年生]]&lt;br /&gt;
[[Category:1858年没]]&lt;br /&gt;
[[Category:滋賀県出身の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:近江国の人物]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>初心者Ａ</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E5%BE%90%E7%9A%87%E5%90%8E_(%E6%B0%B8%E6%A5%BD%E5%B8%9D)&amp;diff=142408</id>
		<title>徐皇后 (永楽帝)</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E5%BE%90%E7%9A%87%E5%90%8E_(%E6%B0%B8%E6%A5%BD%E5%B8%9D)&amp;diff=142408"/>
				<updated>2011-11-06T13:09:08Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;初心者Ａ: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''徐皇后'''（じょこうごう、[[1362年]] - [[1407年]][[7月]]）は、[[明]]の第3代[[皇帝]]である[[永楽帝]]（朱棣）の[[皇后]]。安徽省鳳陽の人。[[朱元璋]]（洪武帝）に仕え明の建国に貢献した元勲である[[徐達]]の長女で、母は謝氏（[[謝再興]]の次女）。[[靖難の変]]で活躍した[[徐輝祖]]の姉。'''仁孝慈懿成明荘献配天斉聖文皇后'''と諡され、略して'''仁孝文皇后'''と呼ばれる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
幼い頃から読書を好んだ才女で、「女諸生（女学者という意味）」とまで称された。その噂を聞いた朱元璋は4男で見込みのあった燕王朱棣の正妻として嫁がせるよう徐達に頼み込み、洪武9年（[[1376年]]）に15歳の徐氏は17歳の朱棣と結婚した。彼女は人柄が優しく温和だったため[[馬皇后 (洪武帝)|馬皇后]]（洪武帝の皇后）に特に寵愛されたという。彼女は朱棣との間に長男朱高熾（[[洪熙帝]]）・次男[[朱高煦]]・3男[[朱高燧]]・長女永安公主・次女永平公主・3女安成公主・4女咸寧公主を儲けた。洪武13年3月、夫と共に北平に赴いた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1399年]]に[[靖難の変]]が起こると、燕の本拠である[[北平]]（北京）に[[建文帝]]軍の将である[[李景隆]]が攻めてくる。このとき北平を守るは[[朱能]]とわずかな兵士だったが、徐氏も出征中の兵士の妻を集め自らも鎧を着て奮戦したという。[[1402年]]に靖難の変が終結すると、弟である徐輝祖の助命を夫に嘆願して許され、夫が永楽帝になると皇后になった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
慎み深い性格で、皇后になっても驕ることは無く自らの一族を重用することは決して無かった。文化事業に熱心で、古人の格言・善行を編纂した「内訓」や「高皇后聖訓」「勧善」などがある。1407年7月に死去。享年46。死因は乳癌だったとも言われる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
永楽帝は彼女の死を深く悲しみ、[[チベット]]から僧侶を招いて盛大な葬儀を行なったと伝わっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 系譜 ==&lt;br /&gt;
*父：中山王[[徐達]]&lt;br /&gt;
*母：謝翠娥（謝再興の娘）&lt;br /&gt;
**弟：[[徐輝祖]]&lt;br /&gt;
**弟：徐添福（夭折）&lt;br /&gt;
**弟：[[徐膺緒]]&lt;br /&gt;
**弟：[[徐增壽]]&lt;br /&gt;
**妹：徐氏（代王[[朱桂]]の妃）&lt;br /&gt;
**妹：徐氏（安王[[朱楹]]の妃）&lt;br /&gt;
*夫：[[永楽帝]]朱棣&lt;br /&gt;
**長女：永安公主（?‐1417）‐袁容に嫁ぐ&lt;br /&gt;
**長男：[[洪熙帝]]朱高熾（1378‐1425）&lt;br /&gt;
**次女：永平公主（1379‐1444）‐李讓に嫁ぐ&lt;br /&gt;
**次男：漢王[[朱高煦]]（1380‐1426）&lt;br /&gt;
**三男：趙王[[朱高燧]]（1383‐1431）&lt;br /&gt;
**三女：安成公主（1384‐1443）‐宋琥（西寧公[[宋晟]]の次男）に嫁ぐ&lt;br /&gt;
**四女：咸寧公主（1385‐1440）‐宋瑛（西寧公[[宋晟]]の三男）に嫁ぐ&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 参考文献 ==&lt;br /&gt;
* 『明史』（[[中華書局]]）&lt;br /&gt;
* 『中国歴代皇帝人物事典』（[[河出書房新社]]）&lt;br /&gt;
* 『永楽帝』（[[徳間書店]]。[[伴野朗]]）&lt;br /&gt;
*[http://zh.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%90%E7%9A%87%E5%90%8E#.E5.AE.B6.E5.BA.AD Wikipedia中国語版・仁孝文皇后]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:しよこうこう}}&lt;br /&gt;
[[Category:明の皇后]]&lt;br /&gt;
[[Category:1362年生]]&lt;br /&gt;
[[Category:1407年没]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>初心者Ａ</name></author>	</entry>

	<entry>
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		<title>朱元璋</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E6%9C%B1%E5%85%83%E7%92%8B&amp;diff=142215"/>
				<updated>2011-11-06T04:41:30Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;初心者Ａ: /* 朱元璋を題材にした作品 */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''朱 元璋'''（しゅ げんしょう、[[天暦 (元)|天暦]]元年[[9月18日 (旧暦)|9月18日]]（[[1328年]][[10月21日]]） - [[洪武]]31年閏[[5月10日 (旧暦)|5月10日]]（[[1398年]][[6月24日]]）、在位：[[1368年]][[1月23日]] - [[1398年]][[6月24日]]）は、[[中国]]の[[明]]朝の創始者であり、初代[[皇帝]]である。[[廟号]]は太祖（たいそ）。[[諡号]]は開天行道肇紀立極大聖至神仁文義武俊德成功高皇帝。その治世の年号を取って、'''洪武帝'''（こうぶてい）と呼ばれる。また、生まれた頃の名は、'''朱重八'''（しゅ じゅうはち）といい、後に'''朱興宗'''（しゅこうそう）と改名し、紅巾軍に参加する頃にさらに朱元璋と改名し、字を国瑞（こくずい）とした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 生涯 ==&lt;br /&gt;
=== 紅巾の乱 ===&lt;br /&gt;
[[元 (王朝)|元]]末の天暦元年（1328年）、濠州の鐘離（現在の[[安徽省]][[鳳陽県]]）の貧農の家の末子に生まれる。伝承によると母親は夢の中で[[仙人]]から赤い玉を授かって妊娠し、朱元璋が生まれると家全体が赤く光り輝き、近所の人々が火事であると勘違いして家の周りに集まってきたという。従兄弟も含めて八番目の子であったため、重八と名づけられる（もしくは[[排行]]でそのように呼ばれる）。元末の政治混乱に伴い飢饉・凶作が頻発しており、朱元璋の家族は食べるものも無く飢え死にした（流行病で家族を失った説もある）。朱元璋だけは皇覚寺という寺に身を寄せ[[托鉢]]僧となり、[[淮河]]流域で[[勧進]]の旅を続けながら辛うじて生き延びたが、ほとんど乞食同然の生活であった。中国はもとより全世界の帝王・王朝創始者の中でも最も悲惨な境遇から身を起こした人物といわれる所以である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1351年]]、[[白蓮教]]徒の集団が各地で反乱を起こし、[[紅巾の乱]]が勃発した。この大乱により皇覚寺は焼け落ちてしまった。朱元璋は自分の将来を占ってみたところ、紅巾軍に参加することが大吉であると出たため、[[韓林児]]を教祖とする東系紅巾軍の一派として濠州で挙兵していた[[郭子興]]のもとに身を投じたという。朱元璋は郭子興の下で頭角を現し、養女の馬氏を妻に貰った。これが後の[[馬皇后 (洪武帝)|馬皇后]]である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
朱元璋が郭子興の軍に参加した時、最初は間諜と間違われ、殺されそうになったが、面構えが郭子興に気に入られて、幕下に入ったという逸話がある。それぐらい朱元璋の人相が悪かったとも言えるだろう。朱元璋は他の造反軍がただ食料欲しさに目の前の事しか考えないのに比べ、先のことを考えた行動をとった。自分の出自を逆に活かして貧民の味方という立場を打ち出し、元軍の中の徴兵された農民達を取り込んで勢力を増していった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この時期、のちに功臣第一となる[[徐達]]や勇猛で知られる[[常遇春]]や後の謀臣・[[李善長]]と出会った。朱元璋は李善長から「乱れた天下を治めるのは貴方である。そのためには同じ農民出身の[[劉邦]]の真似をすれば良い」と言われた。これ以降朱元璋の行動は劉邦を意識したものが多くなる。朱元璋が皇帝になる野望を本当に抱き始めたのはこの頃からだろう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 江南の統一 ===&lt;br /&gt;
[[1355年]]に郭子興が死ぬと彼の軍は息子の郭天叙、郭子興の妻の弟・張天祐、そして朱元璋の3人に受け継がれた。しかし郭天叙と張天祐の2人は、元軍との戦いで戦死したため（朱元璋による陰謀との説もある）、朱元璋はそれらの軍を吸収し[[1356年]]、集慶路（現在の[[南京市|南京]]）を占領し、応天府と改める。応天府を占領した朱元璋は長江下流の一大勢力となった。朱元璋の名声は大いに高まり各地から[[劉基]]、[[宋濂]]ら名望家がやって来るようになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その頃、長江上流では西系紅巾よりのし上がってきた[[陳友諒]]が大漢国をうち立て、[[湖北省|湖北]]から[[江西省|江西]]の一帯を支配していた。また非紅巾勢力の[[張士誠]]も蘇州を本拠に大勢力を築いていた。朱元璋を含めたこの3勢力で当時、中国で最も豊かであるといわれた[[江南]]の覇権を争うことになった。[[1360年]]、陳友諒は大軍を率いて応天府の目と鼻の先まで進軍し陣を敷いた。その上で張士誠に使者を送り、共に朱元璋を挟み撃ちにするよう促した。応天府では投降、首都放棄を主張する者まで現れるほど混乱したが、劉基が「陳友諒との決戦あるのみ」を主張し、部下の偽りの降伏によって陳友諒の軍を竜湾に引きずり出し勝利することができた。[[1363年]]3月、陳友諒は前回の敗北を挽回すべく60万を号する大水軍を率いて南昌を攻撃し、7月、朱元璋も水軍を率いて救援に向かった。これを[[鄱陽湖の戦い]]と言う。3日にわたる激戦の後、劉基の献策した火薬を用いた火計が当たり、漢の水軍の殲滅に成功し陳友諒自身も戦死した。翌年に陳友諒の後を継いだ陳理が降伏し大漢国を滅ぼした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1364年]]、朱元璋は呉王を名乗った。同じ頃、張士誠も呉王を名乗っており、両者は江南の覇権をかけて激突した。朱元璋は張士誠側の要地を一つ一つ確実に落としていった。[[1366年]]に朱元璋は[[韓林児]]を応天府に呼び寄せたが、その途中、韓林児は水死してしまった（朱元璋の部下に暗殺されたとも言われる）。これを機会に朱元璋は方針を大きく転換し白蓮教と縁を切り、逆に邪教として弾圧するようになった。[[1367年]]、11ヶ月にもおよぶ包囲の末に[[蘇州市|蘇州]]に拠る張士誠を討ち、淮南、江南を統一した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1368年]][[正月]]、応天府（現在の南京）にて朱元璋は即位し、元号を[[洪武]]とし、国号を大明とした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 中国統一 ===&lt;br /&gt;
太祖は元に内紛を生じたのを好機と捉え、20万を越える大軍を竹馬の友である徐達に授け[[北伐]]を行わせた。当時元軍の主力である[[ココ・テムル]]の軍は陝西で李思斉の軍と交戦中であり、中原の防備は手薄であった。北伐軍は快調に進撃し、山東、河南を次々に平定した。元の[[トゴン・テムル|順帝]]は抵抗を諦め首都[[大都]]を放棄して北方へ逃走したため、明軍は抵抗を受けることもなく同年の8月に大都を占領し、北平府と改称した。元はモンゴルへ撤退し[[北元]]となった。[[1371年]]に紅巾の残党である[[四川]]の[[夏 (元末)|大夏国]]を滅ぼし、[[1381年]]には段氏の[[雲南]]を平定し中国を統一した。また北元を討つためモンゴルへ繰り返し出兵し、元の残党の多くを降らせることに成功した。[[1387年]]の遠征で北元最後の主力であった[[マンジュリア]]軍団を討ち、北元をほぼ壊滅させた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 即位後の政策 ===&lt;br /&gt;
==== 国家組織 ====&lt;br /&gt;
洪武帝は独裁権力の確立を目指し[[中書省]]を廃止して六部を直属とした。また軍も皇帝直属とし、[[宦官]]の専横を抑えるために宦官は学問をしてはならないという布告を出した（詳細に関しては「[[明]]」の項を参照）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 民政 ====&lt;br /&gt;
洪武帝は[[重農主義|重農政策]]を打ち出し、[[商人|大商人]]を弾圧して、大商人や大地主の財産を没収、荒地の開拓地への強制移住などを行った。また、貨幣流通の掌握のために銀山の官有や[[銅銭]]・[[紙幣]]の発行、民間における[[銀]]の通貨としての使用を禁じた。一方で[[1380年]]には不当な商税を廃して、生活必需品を扱うような零細な商人の保護も行っている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
重農政策のもと、[[1371年]]には地方官の治績の評価に流民の定着と農地回復の度合いを加え、[[1381年]]に全国一斉に[[魚鱗図冊]]（土地台帳）、[[賦役黄冊]]（戸籍台帳）を作り、[[里甲制]]（村落の自治的行政制度）・[[衛所制]]（兵農一致による軍事制度）を実施した。[[1394年]]には[[工部]]の官吏と[[国子監]]の学生を総動員して[[治水]]事業を一斉に行い、全国で49,007ヶ所の[[堤防]]を修繕したという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 官吏、知識人の弾圧 ====&lt;br /&gt;
[[1381年]]、[[文字の獄]]と呼ばれる大弾圧を行った。「光」「禿」「僧」などの字を使っただけで、洪武帝が昔僧侶であったことをあてこすったとされて[[薛祥]]ら功臣が殺され、洪武帝が盗賊まがいのことをしていたので、「盗」の字と同音の道、「僧」と音の近い「生」の字を使った者がそれだけで殺された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1382年]]には「[[空印事件]]」（「空印の案」とも）と呼ばれる官吏への残虐な懲罰を行った。当時の地方官らの間では、ある種の文書作成の手間を省くため、先に承認印だけを押した用紙（空印）を用意しておき、それを利用して報告書を作成することが常態となっていたのだが、それに気付いた洪武帝は、印の管理者を全員死刑とし、他の関係者にも厳罰を下したのである。[[鄭士利]]という地方官は、空印事件の関係者に冤罪の者が大勢いる旨を洪武帝に直訴したところ、かえって罪に処せられて労役に付かされた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1385年]]には[[郭桓事件]]が起こる。これは、[[戸部侍郎]]の[[郭桓]]が不正経理を行ったとして死刑となった際、各布政使司の官吏も連座させられた事件で、殺されたものは数万にのぼったという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
文人たちは戦々恐々とし、洪武帝から離れようとしたがそれも許されず、文才のある者は官吏として半強制的に登用された。官吏を選抜するための[[科挙]]は極めて難しい試験を課され、及第するためには何年も勉強しなければならなかったが、明の時代に試験の難易度が下がり、定型文を暗記するだけでよくなった。これにより明の官吏の意識は低下し、事なかれ主義に走り、朝廷で目立つ行動を取ることを恐れるようになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 粛清 ===&lt;br /&gt;
洪武帝は自分が老いるに従い後の心配をするようになった。[[皇太子]]に選ばれたのは長男の[[朱標]]であったが、この皇太子は優しい性格で、洪武帝から見るとあまりにも甘すぎると感じられた。一連の粛清事件は、この後継者のことを心配したためとも言われる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1375年]]には[[劉基]]が胡惟庸に毒殺された。[[:zh:廖永忠|廖永忠]]も殺されている。[[1380年]]には、功臣・中書左[[丞相]]・[[胡惟庸]]の疑獄事件をきっかけとしてそれまでの功臣の大粛清を始めた。これは[[胡惟庸の獄]]と呼ばれ、胡惟庸らの誅殺により一旦は終結した。この際、胡惟庸は隣国日本に通じたという容疑もかけられている。同年に[[宋濂]]も連座させられ、馬皇后のとりなしで刑一等を減ぜられて流刑となったが、翌年死んだ。[[1384年]]には[[李文忠]]が毒殺された。[[1385年]]に[[徐達]]が病死したが、これにも毒殺説がある。さらに胡惟庸の獄の10年後の[[1390年]]、事件を再び蒸し返して[[李善長]]ら功臣の大粛清を行った。自分の寿命が近づいたことを覚悟していたのか、前回よりもはるかに激しくなり、3万を越える人数が誅殺されたとされる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これでやっと粛清の嵐も収まったかと思われた[[1392年]]、皇太子が早世した。洪武帝は皇太子の子の[[建文帝|朱允{{lang|zh|炆}}]]を皇太孫としたが、幼い後継者に変わったことで更に後継者が心配になり、再び粛清を始めた。[[1393年]]には[[藍玉 (明)|藍玉]]が謀反を起こしたとして、一族もろとも殺された。これは[[藍玉 (明)#藍玉の獄|藍玉の獄]]と呼ばれ、先の胡惟庸の獄と合わせて胡藍事件とも言う。[[1394年]]には穎国公の[[傅友德]]と[[王弼 (明)|王弼]]が殺された。傅友德についてはなぜ殺されたのかが分からず歴史家も理由を探すのに難儀しているという。[[1395年]]には宋国公の[[馮勝]]が殺された。[[1396年]]には監察御史の[[王朴]]、[[1397年]]には[[欧陽倫]]が殺された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
洪武帝は死の間際まで功臣を殺し続け、[[1398年]]に崩御した。[[享年]]71（満69歳没）。後を孫の朱允{{lang|zh|炆}}（建文帝）が継いだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 宗室 ==&lt;br /&gt;
=== 父母・兄弟姉妹 ===&lt;br /&gt;
*父 [[朱世珍]]（元の名（[[排行]]での呼び方）は朱五四、後に仁祖淳皇帝と追贈）&lt;br /&gt;
*母 陳氏（後に淳皇后と追贈）&lt;br /&gt;
*兄 南昌王[[朱興隆]]（本名・朱重四）：[[朱文正]]・[[福成公主]]らの父。&lt;br /&gt;
*兄 盱眙王[[朱興盛]]（本名・朱重六）&lt;br /&gt;
*兄 臨淮王[[朱興祖]]（本名・朱重七）&lt;br /&gt;
*姉 [[太原公主 (明朝)|太原公主]]：王七一の妻&lt;br /&gt;
*姉 [[曹国公主]]：李貞の妻・[[李文忠]]の母&lt;br /&gt;
=== 后妃 ===&lt;br /&gt;
*皇后 [[馬皇后 (洪武帝)|孝慈高皇后馬氏]]&lt;br /&gt;
*孫貴妃（成穆貴妃）&lt;br /&gt;
*李淑妃&lt;br /&gt;
*郭寧妃&lt;br /&gt;
*郭恵妃&lt;br /&gt;
*崔恵妃（荘靖安栄恵妃）&lt;br /&gt;
*江貴妃&lt;br /&gt;
*趙貴妃&lt;br /&gt;
*胡充妃（昭敬充妃）&lt;br /&gt;
*鄭安妃&lt;br /&gt;
*達定妃（[[永楽 (明)|永楽]]年間に廃されて庶人となる）&lt;br /&gt;
*胡順妃（建文年間に自焚死）&lt;br /&gt;
*任順妃&lt;br /&gt;
*李賢妃&lt;br /&gt;
*甕妃&lt;br /&gt;
*劉恵妃&lt;br /&gt;
*葛麗妃&lt;br /&gt;
*碽妃&lt;br /&gt;
*韓妃&lt;br /&gt;
*余妃&lt;br /&gt;
*楊妃&lt;br /&gt;
*余妃&lt;br /&gt;
*周妃&lt;br /&gt;
*李婕妤&lt;br /&gt;
*崔美人&lt;br /&gt;
*張美人&lt;br /&gt;
*郜氏&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 子 ===&lt;br /&gt;
朱元璋には26人の息子がいた。&lt;br /&gt;
*# 懿文太子[[朱標]]、母は[[馬皇后 (洪武帝)|馬皇后]]&amp;lt;ref&amp;gt;長男朱標・次男朱樉・3男朱棡については母を李淑妃とする説もある。&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
*# 秦愍王[[朱樉]]、母は馬皇后&lt;br /&gt;
*# 晋恭王[[朱棡]]、母は馬皇后&lt;br /&gt;
*# 燕王[[永楽帝|朱棣]]（[[永楽帝]]）、母は馬皇后&amp;lt;ref&amp;gt;4男朱棣・5男朱橚については母を碽妃とする説もある。&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
*# 周定王[[朱橚]]（建文年間に廃位、永楽年間に復位）、母は馬皇后&lt;br /&gt;
*# 楚昭王[[朱楨]]、後の、母は胡充妃&lt;br /&gt;
*# 斉王[[朱榑]]（建文年間に廃位、永楽年間に復位）、母は達定妃&lt;br /&gt;
*# 潭王[[朱梓]]（胡惟庸の獄で妃の家である于氏が連座、追及を恐れ自焚死）、母は達定妃&lt;br /&gt;
*# 趙王[[朱杞]]（夭折）、母は不明&lt;br /&gt;
*# 魯荒王[[朱檀]]、母は郭寧妃&lt;br /&gt;
*# 蜀献王[[朱椿]]、母は郭恵妃&lt;br /&gt;
*# 湘献王[[朱柏]]、母は胡順妃（建文年間に自焚死）&lt;br /&gt;
*# 代簡王[[朱桂]]（建文年間に廃位、永楽年間に復位）、母は郭恵妃&lt;br /&gt;
*# 粛庄王[[朱楧]]、母は郜氏&lt;br /&gt;
*# 遼簡王[[朱植]]、母は韓妃&lt;br /&gt;
*# 慶靖王[[朱栴]]、母は余妃&lt;br /&gt;
*# 寧献王[[朱権]]、母は楊妃&lt;br /&gt;
*# 岷荘王[[朱楩]]（建文年間に[[福建省|漳州]]へ配流、永楽年間に復位）、母は周妃&lt;br /&gt;
*# 谷王[[朱橞]]（[[永楽 (明)|永楽]]年間に廃されて庶人となる）、母は郭恵妃&lt;br /&gt;
*# 韓憲王[[朱松]]、母は周妃&lt;br /&gt;
*# 瀋簡王[[朱模]]、母は趙貴妃&lt;br /&gt;
*# 安恵王[[朱楹]]、母は不明&lt;br /&gt;
*# 唐定王[[朱桱]]、は李賢妃&lt;br /&gt;
*# 郢靖王[[朱棟]]、母は劉恵妃&lt;br /&gt;
*# 伊暦王朱㰘、母は葛麗妃&lt;br /&gt;
*# 朱楠（夭折）、母は不明&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 女 ===&lt;br /&gt;
*#臨安公主：李祺（李善長の子）に嫁ぐ&lt;br /&gt;
*#寧国公主（母は馬皇后）：梅殷（梅思祖の甥）に嫁ぐ&lt;br /&gt;
*#崇寧公主：牛城に嫁ぐ&lt;br /&gt;
*#安慶公主（母は馬皇后）：欧陽倫に嫁ぐ&lt;br /&gt;
*#汝寧公主：陸賢（陸仲亨の子）に嫁ぐ&lt;br /&gt;
*#懐慶公主（母は孫貴妃）：王貞亮に嫁ぐ&lt;br /&gt;
*#大名公主：李堅に嫁ぐ&lt;br /&gt;
*#福清公主（母は鄭安妃）：張麟に嫁ぐ&lt;br /&gt;
*#寿春公主：傅忠（傅友徳の子）に嫁ぐ&lt;br /&gt;
*#十公主（夭折）&lt;br /&gt;
*#南康公主：胡観（胡海の子）に嫁ぐ&lt;br /&gt;
*#永嘉公主（母は郭恵妃）：郭鎮（郭寧妃の兄郭英の子）&lt;br /&gt;
*#十三公主（夭折）&lt;br /&gt;
*#含山公主（母は韓妃）：尹清に嫁ぐ&lt;br /&gt;
*#汝陽公主（母は郭恵妃）：謝達に嫁ぐ&lt;br /&gt;
*#宝慶公主：趙輝に嫁ぐ&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 家臣 ==&lt;br /&gt;
=== 定遠攻略（1353年）に参加した24将 ===&lt;br /&gt;
[[徐達]]、[[湯和]]、[[費聚]]、[[呉良]]、[[呉楨]]、[[花雲]]、[[陳徳]]、[[顧時]]、[[耿再成]]、[[耿炳文]]、[[唐勝宗]]、[[陸仲亨]]、[[華雲龍]]、[[鄭遇春]]、[[郭興]]、[[郭英]]、[[胡海]]、[[張龍]]、[[陳桓]]、[[謝成]]、[[李新材]]、[[張赫]]、[[周銓]]、[[周徳興]]&amp;lt;ref name=&amp;quot;kawabata&amp;quot;&amp;gt;川越泰博著『明史』（中国古典新書続編28）明徳出版社、2004年 ISBN 4-89619-828-X。&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 明の建国時（1368年）に重職を与えられた者 ===&lt;br /&gt;
[[李善長]]、[[徐達]]、[[常遇春]]、[[馮宗異]]、[[胡廷端]]、[[廖永忠]]、[[李伯升]]、[[趙庸]]、[[王溥]]、[[楊憲]]、[[傅瓛]]、[[康茂才]]、[[張興祖]]、[[顧時]]、[[孫興祖]]、[[呉楨]]、[[耿炳文]]、[[鄧愈]]、[[湯和]]、[[劉基]]、[[章溢]]、[[文原吉]]、[[範顕祖]]&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.hoolulu.com/zh/25shi/24mingshi/s-115.htm 明史・列伝第3]&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 洪武2年（1369年）の叙勲 ===&lt;br /&gt;
公爵：[[李善長]]、[[徐達]]、[[李文忠]]、[[馮勝]]、[[鄧愈]]、[[常茂]]。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
侯爵：[[湯和]]、[[唐勝宗]]、[[陸仲亨]]、[[周徳興]]、[[華雲龍]]、[[顧時]]、[[耿炳文]]、[[陳徳]]、[[郭子興]]、[[王志]]、[[鄭遇春]]、[[費聚]]、[[呉良]]、[[呉楨]]、[[趙庸]]、[[廖永忠]]、[[兪通源]]、[[華高]]、[[楊璟]]、[[康鐸]]、[[硃亮祖]]、[[傅友徳]]、[[胡美]]、[[韓政]]、[[黄彬]]、[[曹良臣]]、[[梅思祖]]、[[陸聚]]&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.hoolulu.com/zh/25shi/24mingshi/s-068.htm 明史・輿服4]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 洪武9年（1376年）に認定された功臣 ===&lt;br /&gt;
[[徐達]]、[[常遇春]]、[[李文忠]]、[[鄧愈]]、[[湯和]]、[[沐英]]、[[兪通海]]、[[張徳勝]]、[[胡大海]]、[[趙得勝]]、[[耿再成]]、[[桑世傑]]&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.hoolulu.com/zh/25shi/24mingshi/s-052.htm 明史・礼6]&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 功臣として太祖廟に祀られた者 ===&lt;br /&gt;
[[徐達]]、[[常遇春]]、[[李文忠]]、[[鄧愈]]、[[湯和]]、[[沐英]]、[[胡大海]]、[[趙徳勝]]、[[華高]]、[[兪通海]]、[[呉良]]、[[曹良臣]]、[[呉復]]、[[孫興祖]]、[[馮国用]]、[[耿再成]]、[[丁德興]]、[[張徳勝]]、[[呉楨]]、[[康茂才]]、[[茅成]]&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.hoolulu.com/zh/25shi/24mingshi/s-050.htm 明史・礼4]&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== その他の家臣 ===&lt;br /&gt;
[[邵栄]]、[[胡惟庸]]、[[宋濂]]、[[藍玉 (明)|藍玉]]、[[陶安]]、[[張昶]]、[[謝再興]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 人物・逸話 ==&lt;br /&gt;
*洪武帝の死後、孫の朱允炆が即位して[[建文帝]]となった。洪武帝は孫のために万全の策を尽くしたと思ったのであろうが、翌年には[[靖難の変]]で建文帝と息子の[[永楽帝|朱棣]]が戦うことになる。洪武帝は家臣には異常な程猜疑の目を向けたが、自分の家族は全面的に信じ、大きな兵を預けたままであった（若い頃に家族を失い、孤児となった記憶から家族を強く愛し、疑わなかったのであろう）。戦術に長けていた功臣は既に殺し尽くされていたので、建文帝軍は二流の将軍しか持たず、結局建文帝は敗死した。&lt;br /&gt;
*現代に残っている洪武帝の肖像画には2種類が知られている。一方はいかにも君子然とした温和そうな老人であり、もう一つはねじくれた顔をした醜い人相のものである。後者が実像で、前者は画家に粉飾させたものと推察される。[[豊臣秀吉]]にも似たような話があるが、洪武帝の場合は本人の二重性格を表しているとの指摘もある。また逆に、前者が実像で、後者のほうが粉飾であるという異説もある。暗殺を恐れて、あえて醜悪な顔であると広めたという説である。&lt;br /&gt;
*文字の獄のような政策は政治上の必要から行われたこともあったろうが、その基盤となったのは洪武帝の文人や商人に対する不信感、あるいは憎悪によるものでもあったであろう。少年時代の極貧生活の記憶が常に洪武帝の頭の中にあった。文人や功臣を大量に殺す一方で[[肉刑]]を禁ずる布告を出したり、治水工事を熱心に行うなど農民に対しては常に心を砕き、恤れみの心を持っていた。&lt;br /&gt;
*洪武帝と[[永楽帝]]が中国における皇帝の独裁を確立したと言われている。洪武帝は重農主義と民族主義を基調として国を作ったが、永楽帝によって全て覆され、その後の明は洪武帝の方針と永楽帝の方針の間で揺れ動くことになる。なお近年では、洪武帝の重農主義を彼個人の性格と並んで、長年の戦乱で貨幣体系が崩壊して一時的な自然経済への回帰現象の中で発生したという側面を指摘する歴史学者もいる。&lt;br /&gt;
*明建国以前の1361年、応天府（南京）に宝源局（今日で言う造幣局）を設置して[[大中通宝]]を鋳造するが、その際に1貫＝10両＝100銭＝400文という単位を導入した。これは当時の元の鈔が至元通行宝鈔5貫＝中統元宝交鈔2.5貫＝銅銭1貫（1000文）であったことに関係している。朱元璋は大中通宝の価値を理念上の貨幣価値である銅銭1貫＝1000文（枚）に拘らず、当時最も通用していた現実的な通貨である中統元宝交鈔1貫と大中通宝400文（枚）を直接結び付けることで、自らの通貨を強引に元の通貨体系に織り込むと同時に、不足を補うための代替貨幣として元の鈔を使わせることで経済的な混乱を防止しながら自らの経済圏の確保を計ったのである。&amp;lt;!-- 宮澤知之『中国銅銭の世界 銭貨から経済史へ』（思文閣出版、2007年）ISBN 978-4-7842-1346-7　第12章《紙幣時代の銅銭》 --&amp;gt;&lt;br /&gt;
* 朱元璋は歴代王朝が宦官や外戚の政治介入を招いて滅びたことから、彼らを重用しなかったという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 総合的な評価 ===&lt;br /&gt;
[[趙翼]]は朱元璋の事を「一身において聖賢、豪傑、盗賊を兼ねた才物」と評している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 現代中国への影響 ==&lt;br /&gt;
*[[孫文]]が[[辛亥革命]]を起こして[[清]]を打倒し、[[中華民国]]を建国した後に朱元璋の陵を訪れ、漢民族の国家の復活を報告している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 朱元璋を題材にした作品 ==&lt;br /&gt;
*映画『デブゴンの太閤記』（[[1980年代]]、[[香港映画]]）＝主演：[[サモ・ハン・キンポー]]&lt;br /&gt;
*テレビドラマ『[[大明帝国 朱元璋]]』（2006年、中国。日本では2011年に[[チャンネル銀河]]にて放映）＝主演：[[胡軍]]&lt;br /&gt;
*テレビドラマ『伝奇皇帝朱元璋』（2006年、中国）＝主演：[[陳宝国]]&lt;br /&gt;
*書籍『超巨人・明の太祖朱元璋』（[[呉晗]]著・[[堺屋太一]]ほか訳、[[講談社]]、1989年）&lt;br /&gt;
*書籍『明の太祖朱元璋』中国歴史人物選（[[檀上寛]]著、白帝社、1994年）&lt;br /&gt;
*小説『紅嵐 明王朝太祖異聞』（[[高橋和島]]著、青樹社、1993‐1995年）&lt;br /&gt;
*小説『朱龍賦』（[[伴野朗]]著、[[徳間文庫]]、1995年）&lt;br /&gt;
*小説『朱元璋 皇帝の貌』（[[小前亮]]著、講談社、2010年）&lt;br /&gt;
ほか多数&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 脚注 ==&lt;br /&gt;
&amp;lt;references/&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
* [[明孝陵]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 参考文献 ==&lt;br /&gt;
* 『明史』（[[中華書局]]）&lt;br /&gt;
* 『永楽帝』（[[徳間書店]]。[[伴野朗]]）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 外部リンク ==&lt;br /&gt;
*[http://culture.china.com/zh_cn/history/diwang/11036694/20090121/15292765.html 画师据实画像被杀 朱元璋奇特长相成谜（中国語）] 2種類の肖像画が掲載されている&lt;br /&gt;
*[http://www.china7.jp/bbs/board.php?bo_table=2_5&amp;amp;wr_id=40 朱元璋－明の開国君主]&lt;br /&gt;
*[http://zh.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%B1%E5%85%83%E7%92%8B 朱元璋（Wikipedia中国語版）]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:しゆ けんしよう}}&lt;br /&gt;
[[Category:明の皇帝|けんしよう]]&lt;br /&gt;
[[Category:1328年生]]&lt;br /&gt;
[[Category:1398年没]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>初心者Ａ</name></author>	</entry>

	<entry>
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		<title>朱元璋</title>
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				<updated>2011-11-06T04:16:19Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;初心者Ａ: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''朱 元璋'''（しゅ げんしょう、[[天暦 (元)|天暦]]元年[[9月18日 (旧暦)|9月18日]]（[[1328年]][[10月21日]]） - [[洪武]]31年閏[[5月10日 (旧暦)|5月10日]]（[[1398年]][[6月24日]]）、在位：[[1368年]][[1月23日]] - [[1398年]][[6月24日]]）は、[[中国]]の[[明]]朝の創始者であり、初代[[皇帝]]である。[[廟号]]は太祖（たいそ）。[[諡号]]は開天行道肇紀立極大聖至神仁文義武俊德成功高皇帝。その治世の年号を取って、'''洪武帝'''（こうぶてい）と呼ばれる。また、生まれた頃の名は、'''朱重八'''（しゅ じゅうはち）といい、後に'''朱興宗'''（しゅこうそう）と改名し、紅巾軍に参加する頃にさらに朱元璋と改名し、字を国瑞（こくずい）とした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 生涯 ==&lt;br /&gt;
=== 紅巾の乱 ===&lt;br /&gt;
[[元 (王朝)|元]]末の天暦元年（1328年）、濠州の鐘離（現在の[[安徽省]][[鳳陽県]]）の貧農の家の末子に生まれる。伝承によると母親は夢の中で[[仙人]]から赤い玉を授かって妊娠し、朱元璋が生まれると家全体が赤く光り輝き、近所の人々が火事であると勘違いして家の周りに集まってきたという。従兄弟も含めて八番目の子であったため、重八と名づけられる（もしくは[[排行]]でそのように呼ばれる）。元末の政治混乱に伴い飢饉・凶作が頻発しており、朱元璋の家族は食べるものも無く飢え死にした（流行病で家族を失った説もある）。朱元璋だけは皇覚寺という寺に身を寄せ[[托鉢]]僧となり、[[淮河]]流域で[[勧進]]の旅を続けながら辛うじて生き延びたが、ほとんど乞食同然の生活であった。中国はもとより全世界の帝王・王朝創始者の中でも最も悲惨な境遇から身を起こした人物といわれる所以である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1351年]]、[[白蓮教]]徒の集団が各地で反乱を起こし、[[紅巾の乱]]が勃発した。この大乱により皇覚寺は焼け落ちてしまった。朱元璋は自分の将来を占ってみたところ、紅巾軍に参加することが大吉であると出たため、[[韓林児]]を教祖とする東系紅巾軍の一派として濠州で挙兵していた[[郭子興]]のもとに身を投じたという。朱元璋は郭子興の下で頭角を現し、養女の馬氏を妻に貰った。これが後の[[馬皇后 (洪武帝)|馬皇后]]である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
朱元璋が郭子興の軍に参加した時、最初は間諜と間違われ、殺されそうになったが、面構えが郭子興に気に入られて、幕下に入ったという逸話がある。それぐらい朱元璋の人相が悪かったとも言えるだろう。朱元璋は他の造反軍がただ食料欲しさに目の前の事しか考えないのに比べ、先のことを考えた行動をとった。自分の出自を逆に活かして貧民の味方という立場を打ち出し、元軍の中の徴兵された農民達を取り込んで勢力を増していった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この時期、のちに功臣第一となる[[徐達]]や勇猛で知られる[[常遇春]]や後の謀臣・[[李善長]]と出会った。朱元璋は李善長から「乱れた天下を治めるのは貴方である。そのためには同じ農民出身の[[劉邦]]の真似をすれば良い」と言われた。これ以降朱元璋の行動は劉邦を意識したものが多くなる。朱元璋が皇帝になる野望を本当に抱き始めたのはこの頃からだろう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 江南の統一 ===&lt;br /&gt;
[[1355年]]に郭子興が死ぬと彼の軍は息子の郭天叙、郭子興の妻の弟・張天祐、そして朱元璋の3人に受け継がれた。しかし郭天叙と張天祐の2人は、元軍との戦いで戦死したため（朱元璋による陰謀との説もある）、朱元璋はそれらの軍を吸収し[[1356年]]、集慶路（現在の[[南京市|南京]]）を占領し、応天府と改める。応天府を占領した朱元璋は長江下流の一大勢力となった。朱元璋の名声は大いに高まり各地から[[劉基]]、[[宋濂]]ら名望家がやって来るようになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その頃、長江上流では西系紅巾よりのし上がってきた[[陳友諒]]が大漢国をうち立て、[[湖北省|湖北]]から[[江西省|江西]]の一帯を支配していた。また非紅巾勢力の[[張士誠]]も蘇州を本拠に大勢力を築いていた。朱元璋を含めたこの3勢力で当時、中国で最も豊かであるといわれた[[江南]]の覇権を争うことになった。[[1360年]]、陳友諒は大軍を率いて応天府の目と鼻の先まで進軍し陣を敷いた。その上で張士誠に使者を送り、共に朱元璋を挟み撃ちにするよう促した。応天府では投降、首都放棄を主張する者まで現れるほど混乱したが、劉基が「陳友諒との決戦あるのみ」を主張し、部下の偽りの降伏によって陳友諒の軍を竜湾に引きずり出し勝利することができた。[[1363年]]3月、陳友諒は前回の敗北を挽回すべく60万を号する大水軍を率いて南昌を攻撃し、7月、朱元璋も水軍を率いて救援に向かった。これを[[鄱陽湖の戦い]]と言う。3日にわたる激戦の後、劉基の献策した火薬を用いた火計が当たり、漢の水軍の殲滅に成功し陳友諒自身も戦死した。翌年に陳友諒の後を継いだ陳理が降伏し大漢国を滅ぼした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1364年]]、朱元璋は呉王を名乗った。同じ頃、張士誠も呉王を名乗っており、両者は江南の覇権をかけて激突した。朱元璋は張士誠側の要地を一つ一つ確実に落としていった。[[1366年]]に朱元璋は[[韓林児]]を応天府に呼び寄せたが、その途中、韓林児は水死してしまった（朱元璋の部下に暗殺されたとも言われる）。これを機会に朱元璋は方針を大きく転換し白蓮教と縁を切り、逆に邪教として弾圧するようになった。[[1367年]]、11ヶ月にもおよぶ包囲の末に[[蘇州市|蘇州]]に拠る張士誠を討ち、淮南、江南を統一した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1368年]][[正月]]、応天府（現在の南京）にて朱元璋は即位し、元号を[[洪武]]とし、国号を大明とした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 中国統一 ===&lt;br /&gt;
太祖は元に内紛を生じたのを好機と捉え、20万を越える大軍を竹馬の友である徐達に授け[[北伐]]を行わせた。当時元軍の主力である[[ココ・テムル]]の軍は陝西で李思斉の軍と交戦中であり、中原の防備は手薄であった。北伐軍は快調に進撃し、山東、河南を次々に平定した。元の[[トゴン・テムル|順帝]]は抵抗を諦め首都[[大都]]を放棄して北方へ逃走したため、明軍は抵抗を受けることもなく同年の8月に大都を占領し、北平府と改称した。元はモンゴルへ撤退し[[北元]]となった。[[1371年]]に紅巾の残党である[[四川]]の[[夏 (元末)|大夏国]]を滅ぼし、[[1381年]]には段氏の[[雲南]]を平定し中国を統一した。また北元を討つためモンゴルへ繰り返し出兵し、元の残党の多くを降らせることに成功した。[[1387年]]の遠征で北元最後の主力であった[[マンジュリア]]軍団を討ち、北元をほぼ壊滅させた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 即位後の政策 ===&lt;br /&gt;
==== 国家組織 ====&lt;br /&gt;
洪武帝は独裁権力の確立を目指し[[中書省]]を廃止して六部を直属とした。また軍も皇帝直属とし、[[宦官]]の専横を抑えるために宦官は学問をしてはならないという布告を出した（詳細に関しては「[[明]]」の項を参照）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 民政 ====&lt;br /&gt;
洪武帝は[[重農主義|重農政策]]を打ち出し、[[商人|大商人]]を弾圧して、大商人や大地主の財産を没収、荒地の開拓地への強制移住などを行った。また、貨幣流通の掌握のために銀山の官有や[[銅銭]]・[[紙幣]]の発行、民間における[[銀]]の通貨としての使用を禁じた。一方で[[1380年]]には不当な商税を廃して、生活必需品を扱うような零細な商人の保護も行っている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
重農政策のもと、[[1371年]]には地方官の治績の評価に流民の定着と農地回復の度合いを加え、[[1381年]]に全国一斉に[[魚鱗図冊]]（土地台帳）、[[賦役黄冊]]（戸籍台帳）を作り、[[里甲制]]（村落の自治的行政制度）・[[衛所制]]（兵農一致による軍事制度）を実施した。[[1394年]]には[[工部]]の官吏と[[国子監]]の学生を総動員して[[治水]]事業を一斉に行い、全国で49,007ヶ所の[[堤防]]を修繕したという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 官吏、知識人の弾圧 ====&lt;br /&gt;
[[1381年]]、[[文字の獄]]と呼ばれる大弾圧を行った。「光」「禿」「僧」などの字を使っただけで、洪武帝が昔僧侶であったことをあてこすったとされて[[薛祥]]ら功臣が殺され、洪武帝が盗賊まがいのことをしていたので、「盗」の字と同音の道、「僧」と音の近い「生」の字を使った者がそれだけで殺された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1382年]]には「[[空印事件]]」（「空印の案」とも）と呼ばれる官吏への残虐な懲罰を行った。当時の地方官らの間では、ある種の文書作成の手間を省くため、先に承認印だけを押した用紙（空印）を用意しておき、それを利用して報告書を作成することが常態となっていたのだが、それに気付いた洪武帝は、印の管理者を全員死刑とし、他の関係者にも厳罰を下したのである。[[鄭士利]]という地方官は、空印事件の関係者に冤罪の者が大勢いる旨を洪武帝に直訴したところ、かえって罪に処せられて労役に付かされた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1385年]]には[[郭桓事件]]が起こる。これは、[[戸部侍郎]]の[[郭桓]]が不正経理を行ったとして死刑となった際、各布政使司の官吏も連座させられた事件で、殺されたものは数万にのぼったという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
文人たちは戦々恐々とし、洪武帝から離れようとしたがそれも許されず、文才のある者は官吏として半強制的に登用された。官吏を選抜するための[[科挙]]は極めて難しい試験を課され、及第するためには何年も勉強しなければならなかったが、明の時代に試験の難易度が下がり、定型文を暗記するだけでよくなった。これにより明の官吏の意識は低下し、事なかれ主義に走り、朝廷で目立つ行動を取ることを恐れるようになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 粛清 ===&lt;br /&gt;
洪武帝は自分が老いるに従い後の心配をするようになった。[[皇太子]]に選ばれたのは長男の[[朱標]]であったが、この皇太子は優しい性格で、洪武帝から見るとあまりにも甘すぎると感じられた。一連の粛清事件は、この後継者のことを心配したためとも言われる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1375年]]には[[劉基]]が胡惟庸に毒殺された。[[:zh:廖永忠|廖永忠]]も殺されている。[[1380年]]には、功臣・中書左[[丞相]]・[[胡惟庸]]の疑獄事件をきっかけとしてそれまでの功臣の大粛清を始めた。これは[[胡惟庸の獄]]と呼ばれ、胡惟庸らの誅殺により一旦は終結した。この際、胡惟庸は隣国日本に通じたという容疑もかけられている。同年に[[宋濂]]も連座させられ、馬皇后のとりなしで刑一等を減ぜられて流刑となったが、翌年死んだ。[[1384年]]には[[李文忠]]が毒殺された。[[1385年]]に[[徐達]]が病死したが、これにも毒殺説がある。さらに胡惟庸の獄の10年後の[[1390年]]、事件を再び蒸し返して[[李善長]]ら功臣の大粛清を行った。自分の寿命が近づいたことを覚悟していたのか、前回よりもはるかに激しくなり、3万を越える人数が誅殺されたとされる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これでやっと粛清の嵐も収まったかと思われた[[1392年]]、皇太子が早世した。洪武帝は皇太子の子の[[建文帝|朱允{{lang|zh|炆}}]]を皇太孫としたが、幼い後継者に変わったことで更に後継者が心配になり、再び粛清を始めた。[[1393年]]には[[藍玉 (明)|藍玉]]が謀反を起こしたとして、一族もろとも殺された。これは[[藍玉 (明)#藍玉の獄|藍玉の獄]]と呼ばれ、先の胡惟庸の獄と合わせて胡藍事件とも言う。[[1394年]]には穎国公の[[傅友德]]と[[王弼 (明)|王弼]]が殺された。傅友德についてはなぜ殺されたのかが分からず歴史家も理由を探すのに難儀しているという。[[1395年]]には宋国公の[[馮勝]]が殺された。[[1396年]]には監察御史の[[王朴]]、[[1397年]]には[[欧陽倫]]が殺された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
洪武帝は死の間際まで功臣を殺し続け、[[1398年]]に崩御した。[[享年]]71（満69歳没）。後を孫の朱允{{lang|zh|炆}}（建文帝）が継いだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 宗室 ==&lt;br /&gt;
=== 父母・兄弟姉妹 ===&lt;br /&gt;
*父 [[朱世珍]]（元の名（[[排行]]での呼び方）は朱五四、後に仁祖淳皇帝と追贈）&lt;br /&gt;
*母 陳氏（後に淳皇后と追贈）&lt;br /&gt;
*兄 南昌王[[朱興隆]]（本名・朱重四）：[[朱文正]]・[[福成公主]]らの父。&lt;br /&gt;
*兄 盱眙王[[朱興盛]]（本名・朱重六）&lt;br /&gt;
*兄 臨淮王[[朱興祖]]（本名・朱重七）&lt;br /&gt;
*姉 [[太原公主 (明朝)|太原公主]]：王七一の妻&lt;br /&gt;
*姉 [[曹国公主]]：李貞の妻・[[李文忠]]の母&lt;br /&gt;
=== 后妃 ===&lt;br /&gt;
*皇后 [[馬皇后 (洪武帝)|孝慈高皇后馬氏]]&lt;br /&gt;
*孫貴妃（成穆貴妃）&lt;br /&gt;
*李淑妃&lt;br /&gt;
*郭寧妃&lt;br /&gt;
*郭恵妃&lt;br /&gt;
*崔恵妃（荘靖安栄恵妃）&lt;br /&gt;
*江貴妃&lt;br /&gt;
*趙貴妃&lt;br /&gt;
*胡充妃（昭敬充妃）&lt;br /&gt;
*鄭安妃&lt;br /&gt;
*達定妃（[[永楽 (明)|永楽]]年間に廃されて庶人となる）&lt;br /&gt;
*胡順妃（建文年間に自焚死）&lt;br /&gt;
*任順妃&lt;br /&gt;
*李賢妃&lt;br /&gt;
*甕妃&lt;br /&gt;
*劉恵妃&lt;br /&gt;
*葛麗妃&lt;br /&gt;
*碽妃&lt;br /&gt;
*韓妃&lt;br /&gt;
*余妃&lt;br /&gt;
*楊妃&lt;br /&gt;
*余妃&lt;br /&gt;
*周妃&lt;br /&gt;
*李婕妤&lt;br /&gt;
*崔美人&lt;br /&gt;
*張美人&lt;br /&gt;
*郜氏&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 子 ===&lt;br /&gt;
朱元璋には26人の息子がいた。&lt;br /&gt;
*# 懿文太子[[朱標]]、母は[[馬皇后 (洪武帝)|馬皇后]]&amp;lt;ref&amp;gt;長男朱標・次男朱樉・3男朱棡については母を李淑妃とする説もある。&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
*# 秦愍王[[朱樉]]、母は馬皇后&lt;br /&gt;
*# 晋恭王[[朱棡]]、母は馬皇后&lt;br /&gt;
*# 燕王[[永楽帝|朱棣]]（[[永楽帝]]）、母は馬皇后&amp;lt;ref&amp;gt;4男朱棣・5男朱橚については母を碽妃とする説もある。&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
*# 周定王[[朱橚]]（建文年間に廃位、永楽年間に復位）、母は馬皇后&lt;br /&gt;
*# 楚昭王[[朱楨]]、後の、母は胡充妃&lt;br /&gt;
*# 斉王[[朱榑]]（建文年間に廃位、永楽年間に復位）、母は達定妃&lt;br /&gt;
*# 潭王[[朱梓]]（胡惟庸の獄で妃の家である于氏が連座、追及を恐れ自焚死）、母は達定妃&lt;br /&gt;
*# 趙王[[朱杞]]（夭折）、母は不明&lt;br /&gt;
*# 魯荒王[[朱檀]]、母は郭寧妃&lt;br /&gt;
*# 蜀献王[[朱椿]]、母は郭恵妃&lt;br /&gt;
*# 湘献王[[朱柏]]、母は胡順妃（建文年間に自焚死）&lt;br /&gt;
*# 代簡王[[朱桂]]（建文年間に廃位、永楽年間に復位）、母は郭恵妃&lt;br /&gt;
*# 粛庄王[[朱楧]]、母は郜氏&lt;br /&gt;
*# 遼簡王[[朱植]]、母は韓妃&lt;br /&gt;
*# 慶靖王[[朱栴]]、母は余妃&lt;br /&gt;
*# 寧献王[[朱権]]、母は楊妃&lt;br /&gt;
*# 岷荘王[[朱楩]]（建文年間に[[福建省|漳州]]へ配流、永楽年間に復位）、母は周妃&lt;br /&gt;
*# 谷王[[朱橞]]（[[永楽 (明)|永楽]]年間に廃されて庶人となる）、母は郭恵妃&lt;br /&gt;
*# 韓憲王[[朱松]]、母は周妃&lt;br /&gt;
*# 瀋簡王[[朱模]]、母は趙貴妃&lt;br /&gt;
*# 安恵王[[朱楹]]、母は不明&lt;br /&gt;
*# 唐定王[[朱桱]]、は李賢妃&lt;br /&gt;
*# 郢靖王[[朱棟]]、母は劉恵妃&lt;br /&gt;
*# 伊暦王朱㰘、母は葛麗妃&lt;br /&gt;
*# 朱楠（夭折）、母は不明&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 女 ===&lt;br /&gt;
*#臨安公主：李祺（李善長の子）に嫁ぐ&lt;br /&gt;
*#寧国公主（母は馬皇后）：梅殷（梅思祖の甥）に嫁ぐ&lt;br /&gt;
*#崇寧公主：牛城に嫁ぐ&lt;br /&gt;
*#安慶公主（母は馬皇后）：欧陽倫に嫁ぐ&lt;br /&gt;
*#汝寧公主：陸賢（陸仲亨の子）に嫁ぐ&lt;br /&gt;
*#懐慶公主（母は孫貴妃）：王貞亮に嫁ぐ&lt;br /&gt;
*#大名公主：李堅に嫁ぐ&lt;br /&gt;
*#福清公主（母は鄭安妃）：張麟に嫁ぐ&lt;br /&gt;
*#寿春公主：傅忠（傅友徳の子）に嫁ぐ&lt;br /&gt;
*#十公主（夭折）&lt;br /&gt;
*#南康公主：胡観（胡海の子）に嫁ぐ&lt;br /&gt;
*#永嘉公主（母は郭恵妃）：郭鎮（郭寧妃の兄郭英の子）&lt;br /&gt;
*#十三公主（夭折）&lt;br /&gt;
*#含山公主（母は韓妃）：尹清に嫁ぐ&lt;br /&gt;
*#汝陽公主（母は郭恵妃）：謝達に嫁ぐ&lt;br /&gt;
*#宝慶公主：趙輝に嫁ぐ&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 家臣 ==&lt;br /&gt;
=== 定遠攻略（1353年）に参加した24将 ===&lt;br /&gt;
[[徐達]]、[[湯和]]、[[費聚]]、[[呉良]]、[[呉楨]]、[[花雲]]、[[陳徳]]、[[顧時]]、[[耿再成]]、[[耿炳文]]、[[唐勝宗]]、[[陸仲亨]]、[[華雲龍]]、[[鄭遇春]]、[[郭興]]、[[郭英]]、[[胡海]]、[[張龍]]、[[陳桓]]、[[謝成]]、[[李新材]]、[[張赫]]、[[周銓]]、[[周徳興]]&amp;lt;ref name=&amp;quot;kawabata&amp;quot;&amp;gt;川越泰博著『明史』（中国古典新書続編28）明徳出版社、2004年 ISBN 4-89619-828-X。&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 明の建国時（1368年）に重職を与えられた者 ===&lt;br /&gt;
[[李善長]]、[[徐達]]、[[常遇春]]、[[馮宗異]]、[[胡廷端]]、[[廖永忠]]、[[李伯升]]、[[趙庸]]、[[王溥]]、[[楊憲]]、[[傅瓛]]、[[康茂才]]、[[張興祖]]、[[顧時]]、[[孫興祖]]、[[呉楨]]、[[耿炳文]]、[[鄧愈]]、[[湯和]]、[[劉基]]、[[章溢]]、[[文原吉]]、[[範顕祖]]&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.hoolulu.com/zh/25shi/24mingshi/s-115.htm 明史・列伝第3]&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 洪武2年（1369年）の叙勲 ===&lt;br /&gt;
公爵：[[李善長]]、[[徐達]]、[[李文忠]]、[[馮勝]]、[[鄧愈]]、[[常茂]]。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
侯爵：[[湯和]]、[[唐勝宗]]、[[陸仲亨]]、[[周徳興]]、[[華雲龍]]、[[顧時]]、[[耿炳文]]、[[陳徳]]、[[郭子興]]、[[王志]]、[[鄭遇春]]、[[費聚]]、[[呉良]]、[[呉楨]]、[[趙庸]]、[[廖永忠]]、[[兪通源]]、[[華高]]、[[楊璟]]、[[康鐸]]、[[硃亮祖]]、[[傅友徳]]、[[胡美]]、[[韓政]]、[[黄彬]]、[[曹良臣]]、[[梅思祖]]、[[陸聚]]&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.hoolulu.com/zh/25shi/24mingshi/s-068.htm 明史・輿服4]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 洪武9年（1376年）に認定された功臣 ===&lt;br /&gt;
[[徐達]]、[[常遇春]]、[[李文忠]]、[[鄧愈]]、[[湯和]]、[[沐英]]、[[兪通海]]、[[張徳勝]]、[[胡大海]]、[[趙得勝]]、[[耿再成]]、[[桑世傑]]&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.hoolulu.com/zh/25shi/24mingshi/s-052.htm 明史・礼6]&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 功臣として太祖廟に祀られた者 ===&lt;br /&gt;
[[徐達]]、[[常遇春]]、[[李文忠]]、[[鄧愈]]、[[湯和]]、[[沐英]]、[[胡大海]]、[[趙徳勝]]、[[華高]]、[[兪通海]]、[[呉良]]、[[曹良臣]]、[[呉復]]、[[孫興祖]]、[[馮国用]]、[[耿再成]]、[[丁德興]]、[[張徳勝]]、[[呉楨]]、[[康茂才]]、[[茅成]]&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.hoolulu.com/zh/25shi/24mingshi/s-050.htm 明史・礼4]&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== その他の家臣 ===&lt;br /&gt;
[[邵栄]]、[[胡惟庸]]、[[宋濂]]、[[藍玉 (明)|藍玉]]、[[陶安]]、[[張昶]]、[[謝再興]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 人物・逸話 ==&lt;br /&gt;
*洪武帝の死後、孫の朱允炆が即位して[[建文帝]]となった。洪武帝は孫のために万全の策を尽くしたと思ったのであろうが、翌年には[[靖難の変]]で建文帝と息子の[[永楽帝|朱棣]]が戦うことになる。洪武帝は家臣には異常な程猜疑の目を向けたが、自分の家族は全面的に信じ、大きな兵を預けたままであった（若い頃に家族を失い、孤児となった記憶から家族を強く愛し、疑わなかったのであろう）。戦術に長けていた功臣は既に殺し尽くされていたので、建文帝軍は二流の将軍しか持たず、結局建文帝は敗死した。&lt;br /&gt;
*現代に残っている洪武帝の肖像画には2種類が知られている。一方はいかにも君子然とした温和そうな老人であり、もう一つはねじくれた顔をした醜い人相のものである。後者が実像で、前者は画家に粉飾させたものと推察される。[[豊臣秀吉]]にも似たような話があるが、洪武帝の場合は本人の二重性格を表しているとの指摘もある。また逆に、前者が実像で、後者のほうが粉飾であるという異説もある。暗殺を恐れて、あえて醜悪な顔であると広めたという説である。&lt;br /&gt;
*文字の獄のような政策は政治上の必要から行われたこともあったろうが、その基盤となったのは洪武帝の文人や商人に対する不信感、あるいは憎悪によるものでもあったであろう。少年時代の極貧生活の記憶が常に洪武帝の頭の中にあった。文人や功臣を大量に殺す一方で[[肉刑]]を禁ずる布告を出したり、治水工事を熱心に行うなど農民に対しては常に心を砕き、恤れみの心を持っていた。&lt;br /&gt;
*洪武帝と[[永楽帝]]が中国における皇帝の独裁を確立したと言われている。洪武帝は重農主義と民族主義を基調として国を作ったが、永楽帝によって全て覆され、その後の明は洪武帝の方針と永楽帝の方針の間で揺れ動くことになる。なお近年では、洪武帝の重農主義を彼個人の性格と並んで、長年の戦乱で貨幣体系が崩壊して一時的な自然経済への回帰現象の中で発生したという側面を指摘する歴史学者もいる。&lt;br /&gt;
*明建国以前の1361年、応天府（南京）に宝源局（今日で言う造幣局）を設置して[[大中通宝]]を鋳造するが、その際に1貫＝10両＝100銭＝400文という単位を導入した。これは当時の元の鈔が至元通行宝鈔5貫＝中統元宝交鈔2.5貫＝銅銭1貫（1000文）であったことに関係している。朱元璋は大中通宝の価値を理念上の貨幣価値である銅銭1貫＝1000文（枚）に拘らず、当時最も通用していた現実的な通貨である中統元宝交鈔1貫と大中通宝400文（枚）を直接結び付けることで、自らの通貨を強引に元の通貨体系に織り込むと同時に、不足を補うための代替貨幣として元の鈔を使わせることで経済的な混乱を防止しながら自らの経済圏の確保を計ったのである。&amp;lt;!-- 宮澤知之『中国銅銭の世界 銭貨から経済史へ』（思文閣出版、2007年）ISBN 978-4-7842-1346-7　第12章《紙幣時代の銅銭》 --&amp;gt;&lt;br /&gt;
* 朱元璋は歴代王朝が宦官や外戚の政治介入を招いて滅びたことから、彼らを重用しなかったという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 総合的な評価 ===&lt;br /&gt;
[[趙翼]]は朱元璋の事を「一身において聖賢、豪傑、盗賊を兼ねた才物」と評している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 現代中国への影響 ==&lt;br /&gt;
*[[孫文]]が[[辛亥革命]]を起こして[[清]]を打倒し、[[中華民国]]を建国した後に朱元璋の陵を訪れ、漢民族の国家の復活を報告している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 朱元璋を題材にした作品 ==&lt;br /&gt;
*映画『デブゴンの太閤記』（[[1980年代]]、[[香港映画]]）＝主演：[[サモ・ハン・キンポー]]&lt;br /&gt;
*テレビドラマ『[[大明帝国 朱元璋]]』（2006年、中国。日本では2011年に[[チャンネル銀河]]にて放映）＝主演：[[胡軍]]&lt;br /&gt;
*テレビドラマ『伝奇皇帝朱元璋』（2006年、中国）＝主演：[[陳宝国]]&lt;br /&gt;
*小説『超巨人・明の太祖朱元璋』（[[呉晗]]著・[[堺屋太一]]ほか訳、[[講談社]]、1989年）&lt;br /&gt;
*小説『朱元璋 皇帝の貌』（[[小前亮]]著、講談社、2010年）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 脚注 ==&lt;br /&gt;
&amp;lt;references/&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
* [[明孝陵]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 参考文献 ==&lt;br /&gt;
* 『明史』（[[中華書局]]）&lt;br /&gt;
* 『永楽帝』（[[徳間書店]]。[[伴野朗]]）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 外部リンク ==&lt;br /&gt;
*[http://culture.china.com/zh_cn/history/diwang/11036694/20090121/15292765.html 画师据实画像被杀 朱元璋奇特长相成谜（中国語）] 2種類の肖像画が掲載されている&lt;br /&gt;
*[http://www.china7.jp/bbs/board.php?bo_table=2_5&amp;amp;wr_id=40 朱元璋－明の開国君主]&lt;br /&gt;
*[http://zh.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%B1%E5%85%83%E7%92%8B 朱元璋（Wikipedia中国語版）]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:しゆ けんしよう}}&lt;br /&gt;
[[Category:明の皇帝|けんしよう]]&lt;br /&gt;
[[Category:1328年生]]&lt;br /&gt;
[[Category:1398年没]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>初心者Ａ</name></author>	</entry>

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		<title>朱五四</title>
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				<updated>2011-11-06T03:39:29Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;初心者Ａ: 朱世珍へのリダイレクト&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;#転送 [[朱世珍]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>初心者Ａ</name></author>	</entry>

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		<title>朱興盛</title>
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				<updated>2011-11-06T03:36:27Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;初心者Ａ: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''朱興盛'''（しゅこうせい、生没年不詳）は、[[明]]の太祖洪武帝[[朱元璋]]の次兄。本名'''朱重六'''。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
濠州鐘離（現在の[[安徽省]][[鳳陽県]]）の貧農・朱五四（[[朱世珍]]）と陳氏の次男として生まれる。朱旺という息子がいたが、[[元 (王朝)|元]]朝末期に頻発した飢饉・災害により朱重六もその子朱旺も若くして死んだ。明王朝成立後の[[洪武]]元年（[[1368年]]）、朱元璋は亡兄朱興盛を盱眙王に、甥の朱旺を昭信王に追封した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{デフォルトソート:しゆこうせい}}&lt;br /&gt;
[[Category:明の皇族|こうせい]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>初心者Ａ</name></author>	</entry>

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		<title>朱世珍</title>
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				<updated>2011-11-06T03:35:13Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;初心者Ａ: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''朱世珍'''（しゅせいちん、1283年‐1344年）は、明の太祖洪武帝[[朱元璋]]の父。本名を'''朱五四'''といい、死後に'''朱世珍'''と改名された。明王朝では'''仁祖淳皇帝'''とも呼ばれた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[元 (王朝)|元]]の泗州盱眙（現在の[[江蘇省]][[盱眙県]]）の貧農・[[朱初一]]と王氏の子として生まれる。[[朱五一]]という兄がいた。妻の陳氏との間に朱重四（[[朱興隆]]）・朱重六（[[朱興盛]]）・朱重七（[[朱興祖]]）・朱重八（朱興宗→朱元璋）と娘2人（[[曹国公主]]・[[太原公主 (明朝)|太原公主]]）の4男2女を儲けた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
小作農として生涯を貧窮のうちに過ごし、泗州霊壁県（現在の江蘇省霊壁県）から泗州虹県（現在の江蘇省泗県）と流浪し、後に濠州鐘離（現在の[[安徽省]][[鳳陽県]]）に移った。しかし至正4年（1344年）、淮北の大旱魃により朱五四と陳氏・朱重四が相次いで死んだ（死因は餓死または病死）。朱重八ら残された家族は、貧しさのため朱五四らの葬式さえ出せない有様だったという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
明王朝成立後の[[洪武]]元年（1368年）、朱元璋によって廟号'''純祖'''・諡号を'''淳皇帝'''と追尊され、明皇陵（安徽省鳳陽県）に葬られた。その後、廟号は曾孫にあたる[[洪熙帝]]により'''仁祖'''と改められた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*父：熙祖裕皇帝[[朱初一]]&lt;br /&gt;
*母：裕皇后[[王氏]]&lt;br /&gt;
*兄：寿春王[[朱五一]]&lt;br /&gt;
*妻：淳皇后陳氏（陳二娘）&lt;br /&gt;
**長男：南昌王朱興隆（朱重四）&lt;br /&gt;
**次男：盱眙王朱興盛（朱重六）&lt;br /&gt;
**三男：臨淮王朱興祖（朱重七）&lt;br /&gt;
**四男：洪武帝朱元璋（朱重八→朱興宗）&lt;br /&gt;
**娘：太原公主朱氏‐王七一の妻&lt;br /&gt;
**娘：曹国公主朱氏‐李貞の妻・[[李文忠]]の母&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:しゆせいちん}}&lt;br /&gt;
[[Category:明の皇族|せいちん]]&lt;br /&gt;
[[Category:追尊された人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:1283年生]]&lt;br /&gt;
[[Category:1344年没]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>初心者Ａ</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E5%A4%AA%E5%8E%9F%E5%85%AC%E4%B8%BB_(%E6%98%8E%E6%9C%9D)&amp;diff=142202</id>
		<title>太原公主 (明朝)</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E5%A4%AA%E5%8E%9F%E5%85%AC%E4%B8%BB_(%E6%98%8E%E6%9C%9D)&amp;diff=142202"/>
				<updated>2011-11-06T03:33:23Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;初心者Ａ: ページの作成：「'''太原公主'''（たいげんこうしゅ、生没年不詳）は、明の太祖洪武帝朱元璋の姉。姓は朱氏、名は不明。  元朝末期、濠...」&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''太原公主'''（たいげんこうしゅ、生没年不詳）は、[[明]]の太祖洪武帝[[朱元璋]]の姉。姓は朱氏、名は不明。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
元朝末期、濠州鐘離（現在の[[安徽省]][[鳳陽県]]）の貧農・朱五四（[[朱世珍]]）と陳氏の長女として生まれる。王七一という農民に嫁いで子供を何人か産んだが、元朝末期に頻発した飢饉と災害によって、王七一の一家は彼女を含めて全員が餓死してしまった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
明王朝成立後の洪武3年（1370年）、弟朱元璋は亡姉に太原長公主と追封した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{デフォルトソート:たいけんこうしゆ}}&lt;br /&gt;
[[Category:明の皇族]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>初心者Ａ</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E6%9C%B1%E8%88%88%E7%A5%96&amp;diff=142201</id>
		<title>朱興祖</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E6%9C%B1%E8%88%88%E7%A5%96&amp;diff=142201"/>
				<updated>2011-11-06T03:32:45Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;初心者Ａ: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''朱興祖'''（しゅこうそ、生没年不詳）は明の皇族で、太祖洪武帝[[朱元璋]]の三番目の兄。初名'''朱重七'''。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
濠州鐘離（現在の[[安徽省]][[鳳陽県]]）の貧農・朱五四（[[朱世珍]]）と陳氏の三男として生まれたが、若くして死に、子もなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
明王朝成立後の洪武元年（1368年）、朱元璋は亡兄朱興祖を臨淮王に追封した。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{デフォルトソート:しゆこうそ}}&lt;br /&gt;
[[Category:明の皇族|こうそ]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>初心者Ａ</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E6%9C%B1%E5%85%83%E7%92%8B&amp;diff=142194</id>
		<title>朱元璋</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E6%9C%B1%E5%85%83%E7%92%8B&amp;diff=142194"/>
				<updated>2011-11-06T03:20:10Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;初心者Ａ: /* 宗室 */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''朱 元璋'''（しゅ げんしょう、[[天暦 (元)|天暦]]元年[[9月18日 (旧暦)|9月18日]]（[[1328年]][[10月21日]]） - [[洪武]]31年閏[[5月10日 (旧暦)|5月10日]]（[[1398年]][[6月24日]]）、在位：[[1368年]][[1月23日]] - [[1398年]][[6月24日]]）は、[[中国]]の[[明]]朝の創始者であり、初代[[皇帝]]である。[[廟号]]は太祖（たいそ）。[[諡号]]は開天行道肇紀立極大聖至神仁文義武俊德成功高皇帝。その治世の年号を取って、'''洪武帝'''（こうぶてい）と呼ばれる。また、生まれた頃の名は、'''朱重八'''（しゅ じゅうはち）といい、後に'''朱興宗'''（しゅこうそう）と改名し、紅巾軍に参加する頃にさらに朱元璋と改名し、字を国瑞（こくずい）とした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 生涯 ==&lt;br /&gt;
=== 紅巾の乱 ===&lt;br /&gt;
[[元 (王朝)|元]]末の天暦元年（1328年）、濠州の鐘離（現在の[[安徽省]][[鳳陽県]]）の貧農の家の末子に生まれる。伝承によると母親は夢の中で[[仙人]]から赤い玉を授かって妊娠し、朱元璋が生まれると家全体が赤く光り輝き、近所の人々が火事であると勘違いして家の周りに集まってきたという。従兄弟も含めて八番目の子であったため、重八と名づけられる（もしくは[[排行]]でそのように呼ばれる）。元末の政治混乱に伴い飢饉・凶作が頻発しており、朱元璋の家族は食べるものも無く飢え死にした（流行病で家族を失った説もある）。朱元璋だけは皇覚寺という寺に身を寄せ[[托鉢]]僧となり、[[淮河]]流域で[[勧進]]の旅を続けながら辛うじて生き延びたが、ほとんど乞食同然の生活であった。中国はもとより全世界の帝王・王朝創始者の中でも最も悲惨な境遇から身を起こした人物といわれる所以である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1351年]]、[[白蓮教]]徒の集団が各地で反乱を起こし、[[紅巾の乱]]が勃発した。この大乱により皇覚寺は焼け落ちてしまった。朱元璋は自分の将来を占ってみたところ、紅巾軍に参加することが大吉であると出たため、[[韓林児]]を教祖とする東系紅巾軍の一派として濠州で挙兵していた[[郭子興]]のもとに身を投じたという。朱元璋は郭子興の下で頭角を現し、養女の馬氏を妻に貰った。これが後の[[馬皇后 (洪武帝)|馬皇后]]である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
朱元璋が郭子興の軍に参加した時、最初は間諜と間違われ、殺されそうになったが、面構えが郭子興に気に入られて、幕下に入ったという逸話がある。それぐらい朱元璋の人相が悪かったとも言えるだろう。朱元璋は他の造反軍がただ食料欲しさに目の前の事しか考えないのに比べ、先のことを考えた行動をとった。自分の出自を逆に活かして貧民の味方という立場を打ち出し、元軍の中の徴兵された農民達を取り込んで勢力を増していった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この時期、のちに功臣第一となる[[徐達]]や勇猛で知られる[[常遇春]]や後の謀臣・[[李善長]]と出会った。朱元璋は李善長から「乱れた天下を治めるのは貴方である。そのためには同じ農民出身の[[劉邦]]の真似をすれば良い」と言われた。これ以降朱元璋の行動は劉邦を意識したものが多くなる。朱元璋が皇帝になる野望を本当に抱き始めたのはこの頃からだろう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 江南の統一 ===&lt;br /&gt;
[[1355年]]に郭子興が死ぬと彼の軍は息子の郭天叙、郭子興の妻の弟・張天祐、そして朱元璋の3人に受け継がれた。しかし郭天叙と張天祐の2人は、元軍との戦いで戦死したため（朱元璋による陰謀との説もある）、朱元璋はそれらの軍を吸収し[[1356年]]、集慶路（現在の[[南京市|南京]]）を占領し、応天府と改める。応天府を占領した朱元璋は長江下流の一大勢力となった。朱元璋の名声は大いに高まり各地から[[劉基]]、[[宋濂]]ら名望家がやって来るようになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その頃、長江上流では西系紅巾よりのし上がってきた[[陳友諒]]が大漢国をうち立て、[[湖北省|湖北]]から[[江西省|江西]]の一帯を支配していた。また非紅巾勢力の[[張士誠]]も蘇州を本拠に大勢力を築いていた。朱元璋を含めたこの3勢力で当時、中国で最も豊かであるといわれた[[江南]]の覇権を争うことになった。[[1360年]]、陳友諒は大軍を率いて応天府の目と鼻の先まで進軍し陣を敷いた。その上で張士誠に使者を送り、共に朱元璋を挟み撃ちにするよう促した。応天府では投降、首都放棄を主張する者まで現れるほど混乱したが、劉基が「陳友諒との決戦あるのみ」を主張し、部下の偽りの降伏によって陳友諒の軍を竜湾に引きずり出し勝利することができた。[[1363年]]3月、陳友諒は前回の敗北を挽回すべく60万を号する大水軍を率いて南昌を攻撃し、7月、朱元璋も水軍を率いて救援に向かった。これを[[鄱陽湖の戦い]]と言う。3日にわたる激戦の後、劉基の献策した火薬を用いた火計が当たり、漢の水軍の殲滅に成功し陳友諒自身も戦死した。翌年に陳友諒の後を継いだ陳理が降伏し大漢国を滅ぼした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1364年]]、朱元璋は呉王を名乗った。同じ頃、張士誠も呉王を名乗っており、両者は江南の覇権をかけて激突した。朱元璋は張士誠側の要地を一つ一つ確実に落としていった。[[1366年]]に朱元璋は[[韓林児]]を応天府に呼び寄せたが、その途中、韓林児は水死してしまった（朱元璋の部下に暗殺されたとも言われる）。これを機会に朱元璋は方針を大きく転換し白蓮教と縁を切り、逆に邪教として弾圧するようになった。[[1367年]]、11ヶ月にもおよぶ包囲の末に[[蘇州市|蘇州]]に拠る張士誠を討ち、淮南、江南を統一した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1368年]][[正月]]、応天府（現在の南京）にて朱元璋は即位し、元号を[[洪武]]とし、国号を大明とした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 中国統一 ===&lt;br /&gt;
太祖は元に内紛を生じたのを好機と捉え、20万を越える大軍を竹馬の友である徐達に授け[[北伐]]を行わせた。当時元軍の主力である[[ココ・テムル]]の軍は陝西で李思斉の軍と交戦中であり、中原の防備は手薄であった。北伐軍は快調に進撃し、山東、河南を次々に平定した。元の[[トゴン・テムル|順帝]]は抵抗を諦め首都[[大都]]を放棄して北方へ逃走したため、明軍は抵抗を受けることもなく同年の8月に大都を占領し、北平府と改称した。元はモンゴルへ撤退し[[北元]]となった。[[1371年]]に紅巾の残党である[[四川]]の[[夏 (元末)|大夏国]]を滅ぼし、[[1381年]]には段氏の[[雲南]]を平定し中国を統一した。また北元を討つためモンゴルへ繰り返し出兵し、元の残党の多くを降らせることに成功した。[[1387年]]の遠征で北元最後の主力であった[[マンジュリア]]軍団を討ち、北元をほぼ壊滅させた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 即位後の政策 ===&lt;br /&gt;
==== 国家組織 ====&lt;br /&gt;
洪武帝は独裁権力の確立を目指し[[中書省]]を廃止して六部を直属とした。また軍も皇帝直属とし、[[宦官]]の専横を抑えるために宦官は学問をしてはならないという布告を出した（詳細に関しては「[[明]]」の項を参照）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 民政 ====&lt;br /&gt;
洪武帝は[[重農主義|重農政策]]を打ち出し、[[商人|大商人]]を弾圧して、大商人や大地主の財産を没収、荒地の開拓地への強制移住などを行った。また、貨幣流通の掌握のために銀山の官有や[[銅銭]]・[[紙幣]]の発行、民間における[[銀]]の通貨としての使用を禁じた。一方で[[1380年]]には不当な商税を廃して、生活必需品を扱うような零細な商人の保護も行っている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
重農政策のもと、[[1371年]]には地方官の治績の評価に流民の定着と農地回復の度合いを加え、[[1381年]]に全国一斉に[[魚鱗図冊]]（土地台帳）、[[賦役黄冊]]（戸籍台帳）を作り、[[里甲制]]（村落の自治的行政制度）・[[衛所制]]（兵農一致による軍事制度）を実施した。[[1394年]]には[[工部]]の官吏と[[国子監]]の学生を総動員して[[治水]]事業を一斉に行い、全国で49,007ヶ所の[[堤防]]を修繕したという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 官吏、知識人の弾圧 ====&lt;br /&gt;
[[1381年]]、[[文字の獄]]と呼ばれる大弾圧を行った。「光」「禿」「僧」などの字を使っただけで、洪武帝が昔僧侶であったことをあてこすったとされて[[薛祥]]ら功臣が殺され、洪武帝が盗賊まがいのことをしていたので、「盗」の字と同音の道、「僧」と音の近い「生」の字を使った者がそれだけで殺された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1382年]]には「[[空印事件]]」（「空印の案」とも）と呼ばれる官吏への残虐な懲罰を行った。当時の地方官らの間では、ある種の文書作成の手間を省くため、先に承認印だけを押した用紙（空印）を用意しておき、それを利用して報告書を作成することが常態となっていたのだが、それに気付いた洪武帝は、印の管理者を全員死刑とし、他の関係者にも厳罰を下したのである。[[鄭士利]]という地方官は、空印事件の関係者に冤罪の者が大勢いる旨を洪武帝に直訴したところ、かえって罪に処せられて労役に付かされた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1385年]]には[[郭桓事件]]が起こる。これは、[[戸部侍郎]]の[[郭桓]]が不正経理を行ったとして死刑となった際、各布政使司の官吏も連座させられた事件で、殺されたものは数万にのぼったという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
文人たちは戦々恐々とし、洪武帝から離れようとしたがそれも許されず、文才のある者は官吏として半強制的に登用された。官吏を選抜するための[[科挙]]は極めて難しい試験を課され、及第するためには何年も勉強しなければならなかったが、明の時代に試験の難易度が下がり、定型文を暗記するだけでよくなった。これにより明の官吏の意識は低下し、事なかれ主義に走り、朝廷で目立つ行動を取ることを恐れるようになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 粛清 ===&lt;br /&gt;
洪武帝は自分が老いるに従い後の心配をするようになった。[[皇太子]]に選ばれたのは長男の[[朱標]]であったが、この皇太子は優しい性格で、洪武帝から見るとあまりにも甘すぎると感じられた。一連の粛清事件は、この後継者のことを心配したためとも言われる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1375年]]には[[劉基]]が胡惟庸に毒殺された。[[:zh:廖永忠|廖永忠]]も殺されている。[[1380年]]には、功臣・中書左[[丞相]]・[[胡惟庸]]の疑獄事件をきっかけとしてそれまでの功臣の大粛清を始めた。これは[[胡惟庸の獄]]と呼ばれ、胡惟庸らの誅殺により一旦は終結した。この際、胡惟庸は隣国日本に通じたという容疑もかけられている。同年に[[宋濂]]も連座させられ、馬皇后のとりなしで刑一等を減ぜられて流刑となったが、翌年死んだ。[[1384年]]には[[李文忠]]が毒殺された。[[1385年]]に[[徐達]]が病死したが、これにも毒殺説がある。さらに胡惟庸の獄の10年後の[[1390年]]、事件を再び蒸し返して[[李善長]]ら功臣の大粛清を行った。自分の寿命が近づいたことを覚悟していたのか、前回よりもはるかに激しくなり、3万を越える人数が誅殺されたとされる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これでやっと粛清の嵐も収まったかと思われた[[1392年]]、皇太子が早世した。洪武帝は皇太子の子の[[建文帝|朱允{{lang|zh|炆}}]]を皇太孫としたが、幼い後継者に変わったことで更に後継者が心配になり、再び粛清を始めた。[[1393年]]には[[藍玉 (明)|藍玉]]が謀反を起こしたとして、一族もろとも殺された。これは[[藍玉 (明)#藍玉の獄|藍玉の獄]]と呼ばれ、先の胡惟庸の獄と合わせて胡藍事件とも言う。[[1394年]]には穎国公の[[傅友德]]と[[王弼 (明)|王弼]]が殺された。傅友德についてはなぜ殺されたのかが分からず歴史家も理由を探すのに難儀しているという。[[1395年]]には宋国公の[[馮勝]]が殺された。[[1396年]]には監察御史の[[王朴]]、[[1397年]]には[[欧陽倫]]が殺された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
洪武帝は死の間際まで功臣を殺し続け、[[1398年]]に崩御した。[[享年]]71（満69歳没）。後を孫の朱允{{lang|zh|炆}}（建文帝）が継いだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 宗室 ==&lt;br /&gt;
=== 父母・兄弟姉妹 ===&lt;br /&gt;
*父 [[朱世珍]]（元の名（[[排行]]での呼び方）は朱五四、後に仁祖淳皇帝と追贈）&lt;br /&gt;
*母 陳氏（後に淳皇后と追贈）&lt;br /&gt;
*兄 南昌王[[朱興隆]]（本名・朱重四）：[[朱文正]]・[[福成公主]]らの父。&lt;br /&gt;
*兄 盱眙王[[朱興盛]]（本名・朱重六）&lt;br /&gt;
*兄 臨淮王[[朱興祖]]（本名・朱重七）&lt;br /&gt;
*姉 [[太原公主 (明朝)|太原公主]]：王七一の妻&lt;br /&gt;
*姉 [[曹国公主]]：李貞の妻・[[李文忠]]の母&lt;br /&gt;
=== 后妃 ===&lt;br /&gt;
*皇后 [[馬皇后 (洪武帝)|孝慈高皇后馬氏]]&lt;br /&gt;
*孫貴妃（成穆貴妃）&lt;br /&gt;
*李淑妃&lt;br /&gt;
*郭寧妃&lt;br /&gt;
*郭恵妃&lt;br /&gt;
*崔恵妃（荘靖安栄恵妃）&lt;br /&gt;
*江貴妃&lt;br /&gt;
*趙貴妃&lt;br /&gt;
*胡充妃（昭敬充妃）&lt;br /&gt;
*鄭安妃&lt;br /&gt;
*達定妃（[[永楽 (明)|永楽]]年間に廃されて庶人となる）&lt;br /&gt;
*胡順妃（建文年間に自焚死）&lt;br /&gt;
*任順妃&lt;br /&gt;
*李賢妃&lt;br /&gt;
*甕妃&lt;br /&gt;
*劉恵妃&lt;br /&gt;
*葛麗妃&lt;br /&gt;
*碽妃&lt;br /&gt;
*韓妃&lt;br /&gt;
*余妃&lt;br /&gt;
*楊妃&lt;br /&gt;
*余妃&lt;br /&gt;
*周妃&lt;br /&gt;
*李婕妤&lt;br /&gt;
*崔美人&lt;br /&gt;
*張美人&lt;br /&gt;
*郜氏&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 子 ===&lt;br /&gt;
朱元璋には26人の息子がいた。&lt;br /&gt;
*# 懿文太子[[朱標]]、母は[[馬皇后 (洪武帝)|馬皇后]]&amp;lt;ref&amp;gt;長男朱標・次男朱樉・3男朱棡については母を李淑妃とする説もある。&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
*# 秦愍王[[朱樉]]、母は馬皇后&lt;br /&gt;
*# 晋恭王[[朱棡]]、母は馬皇后&lt;br /&gt;
*# 燕王[[永楽帝|朱棣]]（[[永楽帝]]）、母は馬皇后&amp;lt;ref&amp;gt;4男朱棣・5男朱橚については母を碽妃とする説もある。&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
*# 周定王[[朱橚]]（建文年間に廃位、永楽年間に復位）、母は馬皇后&lt;br /&gt;
*# 楚昭王[[朱楨]]、後の、母は胡充妃&lt;br /&gt;
*# 斉王[[朱榑]]（建文年間に廃位、永楽年間に復位）、母は達定妃&lt;br /&gt;
*# 潭王[[朱梓]]（胡惟庸の獄で妃の家である于氏が連座、追及を恐れ自焚死）、母は達定妃&lt;br /&gt;
*# 趙王[[朱杞]]（夭折）、母は不明&lt;br /&gt;
*# 魯荒王[[朱檀]]、母は郭寧妃&lt;br /&gt;
*# 蜀献王[[朱椿]]、母は郭恵妃&lt;br /&gt;
*# 湘献王[[朱柏]]、母は胡順妃（建文年間に自焚死）&lt;br /&gt;
*# 代簡王[[朱桂]]（建文年間に廃位、永楽年間に復位）、母は郭恵妃&lt;br /&gt;
*# 粛庄王[[朱楧]]、母は郜氏&lt;br /&gt;
*# 遼簡王[[朱植]]、母は韓妃&lt;br /&gt;
*# 慶靖王[[朱栴]]、母は余妃&lt;br /&gt;
*# 寧献王[[朱権]]、母は楊妃&lt;br /&gt;
*# 岷荘王[[朱楩]]（建文年間に[[福建省|漳州]]へ配流、永楽年間に復位）、母は周妃&lt;br /&gt;
*# 谷王[[朱橞]]（[[永楽 (明)|永楽]]年間に廃されて庶人となる）、母は郭恵妃&lt;br /&gt;
*# 韓憲王[[朱松]]、母は周妃&lt;br /&gt;
*# 瀋簡王[[朱模]]、母は趙貴妃&lt;br /&gt;
*# 安恵王[[朱楹]]、母は不明&lt;br /&gt;
*# 唐定王[[朱桱]]、は李賢妃&lt;br /&gt;
*# 郢靖王[[朱棟]]、母は劉恵妃&lt;br /&gt;
*# 伊暦王朱㰘、母は葛麗妃&lt;br /&gt;
*# 朱楠（夭折）、母は不明&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 女 ===&lt;br /&gt;
*#臨安公主：李祺（李善長の子）に嫁ぐ&lt;br /&gt;
*#寧国公主（母は馬皇后）：梅殷（梅思祖の甥）に嫁ぐ&lt;br /&gt;
*#崇寧公主：牛城に嫁ぐ&lt;br /&gt;
*#安慶公主（母は馬皇后）：欧陽倫に嫁ぐ&lt;br /&gt;
*#汝寧公主：陸賢（陸仲亨の子）に嫁ぐ&lt;br /&gt;
*#懐慶公主（母は孫貴妃）：王貞亮に嫁ぐ&lt;br /&gt;
*#大名公主：李堅に嫁ぐ&lt;br /&gt;
*#福清公主（母は鄭安妃）：張麟に嫁ぐ&lt;br /&gt;
*#寿春公主：傅忠（傅友徳の子）に嫁ぐ&lt;br /&gt;
*#十公主（夭折）&lt;br /&gt;
*#南康公主：胡観（胡海の子）に嫁ぐ&lt;br /&gt;
*#永嘉公主（母は郭恵妃）：郭鎮（郭寧妃の兄郭英の子）&lt;br /&gt;
*#十三公主（夭折）&lt;br /&gt;
*#含山公主（母は韓妃）：尹清に嫁ぐ&lt;br /&gt;
*#汝陽公主（母は郭恵妃）：謝達に嫁ぐ&lt;br /&gt;
*#宝慶公主：趙輝に嫁ぐ&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 家臣 ==&lt;br /&gt;
=== 定遠攻略（1353年）に参加した24将 ===&lt;br /&gt;
[[徐達]]、[[湯和]]、[[費聚]]、[[呉良]]、[[呉楨]]、[[花雲]]、[[陳徳]]、[[顧時]]、[[耿再成]]、[[耿炳文]]、[[唐勝宗]]、[[陸仲亨]]、[[華雲龍]]、[[鄭遇春]]、[[郭興]]、[[郭英]]、[[胡海]]、[[張龍]]、[[陳桓]]、[[謝成]]、[[李新材]]、[[張赫]]、[[周銓]]、[[周徳興]]&amp;lt;ref name=&amp;quot;kawabata&amp;quot;&amp;gt;川越泰博著『明史』（中国古典新書続編28）明徳出版社、2004年 ISBN 4-89619-828-X。&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 明の建国時（1368年）に重職を与えられた者 ===&lt;br /&gt;
[[李善長]]、[[徐達]]、[[常遇春]]、[[馮宗異]]、[[胡廷端]]、[[廖永忠]]、[[李伯升]]、[[趙庸]]、[[王溥]]、[[楊憲]]、[[傅瓛]]、[[康茂才]]、[[張興祖]]、[[顧時]]、[[孫興祖]]、[[呉楨]]、[[耿炳文]]、[[鄧愈]]、[[湯和]]、[[劉基]]、[[章溢]]、[[文原吉]]、[[範顕祖]]&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.hoolulu.com/zh/25shi/24mingshi/s-115.htm 明史・列伝第3]&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 洪武2年（1369年）の叙勲 ===&lt;br /&gt;
公爵：[[李善長]]、[[徐達]]、[[李文忠]]、[[馮勝]]、[[鄧愈]]、[[常茂]]。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
侯爵：[[湯和]]、[[唐勝宗]]、[[陸仲亨]]、[[周徳興]]、[[華雲龍]]、[[顧時]]、[[耿炳文]]、[[陳徳]]、[[郭子興]]、[[王志]]、[[鄭遇春]]、[[費聚]]、[[呉良]]、[[呉楨]]、[[趙庸]]、[[廖永忠]]、[[兪通源]]、[[華高]]、[[楊璟]]、[[康鐸]]、[[硃亮祖]]、[[傅友徳]]、[[胡美]]、[[韓政]]、[[黄彬]]、[[曹良臣]]、[[梅思祖]]、[[陸聚]]&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.hoolulu.com/zh/25shi/24mingshi/s-068.htm 明史・輿服4]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 洪武9年（1376年）に認定された功臣 ===&lt;br /&gt;
[[徐達]]、[[常遇春]]、[[李文忠]]、[[鄧愈]]、[[湯和]]、[[沐英]]、[[兪通海]]、[[張徳勝]]、[[胡大海]]、[[趙得勝]]、[[耿再成]]、[[桑世傑]]&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.hoolulu.com/zh/25shi/24mingshi/s-052.htm 明史・礼6]&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 功臣として太祖廟に祀られた者 ===&lt;br /&gt;
[[徐達]]、[[常遇春]]、[[李文忠]]、[[鄧愈]]、[[湯和]]、[[沐英]]、[[胡大海]]、[[趙徳勝]]、[[華高]]、[[兪通海]]、[[呉良]]、[[曹良臣]]、[[呉復]]、[[孫興祖]]、[[馮国用]]、[[耿再成]]、[[丁德興]]、[[張徳勝]]、[[呉楨]]、[[康茂才]]、[[茅成]]&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.hoolulu.com/zh/25shi/24mingshi/s-050.htm 明史・礼4]&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== その他の家臣 ===&lt;br /&gt;
[[邵栄]]、[[胡惟庸]]、[[宋濂]]、[[藍玉 (明)|藍玉]]、[[陶安]]、[[張昶]]、[[謝再興]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 人物・逸話 ==&lt;br /&gt;
*洪武帝の死後、孫の朱允炆が即位して[[建文帝]]となった。洪武帝は孫のために万全の策を尽くしたと思ったのであろうが、翌年には[[靖難の変]]で建文帝と息子の[[永楽帝|朱棣]]が戦うことになる。洪武帝は家臣には異常な程猜疑の目を向けたが、自分の家族は全面的に信じ、大きな兵を預けたままであった（若い頃に家族を失い、孤児となった記憶から家族を強く愛し、疑わなかったのであろう）。戦術に長けていた功臣は既に殺し尽くされていたので、建文帝軍は二流の将軍しか持たず、結局建文帝は敗死した。&lt;br /&gt;
*現代に残っている洪武帝の肖像画には2種類が知られている。一方はいかにも君子然とした温和そうな老人であり、もう一つはねじくれた顔をした醜い人相のものである。後者が実像で、前者は画家に粉飾させたものと推察される。[[豊臣秀吉]]にも似たような話があるが、洪武帝の場合は本人の二重性格を表しているとの指摘もある。また逆に、前者が実像で、後者のほうが粉飾であるという異説もある。暗殺を恐れて、あえて醜悪な顔であると広めたという説である。&lt;br /&gt;
*文字の獄のような政策は政治上の必要から行われたこともあったろうが、その基盤となったのは洪武帝の文人や商人に対する不信感、あるいは憎悪によるものでもあったであろう。少年時代の極貧生活の記憶が常に洪武帝の頭の中にあった。文人や功臣を大量に殺す一方で[[肉刑]]を禁ずる布告を出したり、治水工事を熱心に行うなど農民に対しては常に心を砕き、恤れみの心を持っていた。&lt;br /&gt;
*洪武帝と[[永楽帝]]が中国における皇帝の独裁を確立したと言われている。洪武帝は重農主義と民族主義を基調として国を作ったが、永楽帝によって全て覆され、その後の明は洪武帝の方針と永楽帝の方針の間で揺れ動くことになる。なお近年では、洪武帝の重農主義を彼個人の性格と並んで、長年の戦乱で貨幣体系が崩壊して一時的な自然経済への回帰現象の中で発生したという側面を指摘する歴史学者もいる。&lt;br /&gt;
*明建国以前の1361年、応天府（南京）に宝源局（今日で言う造幣局）を設置して[[大中通宝]]を鋳造するが、その際に1貫＝10両＝100銭＝400文という単位を導入した。これは当時の元の鈔が至元通行宝鈔5貫＝中統元宝交鈔2.5貫＝銅銭1貫（1000文）であったことに関係している。朱元璋は大中通宝の価値を理念上の貨幣価値である銅銭1貫＝1000文（枚）に拘らず、当時最も通用していた現実的な通貨である中統元宝交鈔1貫と大中通宝400文（枚）を直接結び付けることで、自らの通貨を強引に元の通貨体系に織り込むと同時に、不足を補うための代替貨幣として元の鈔を使わせることで経済的な混乱を防止しながら自らの経済圏の確保を計ったのである。&amp;lt;!-- 宮澤知之『中国銅銭の世界 銭貨から経済史へ』（思文閣出版、2007年）ISBN 978-4-7842-1346-7　第12章《紙幣時代の銅銭》 --&amp;gt;&lt;br /&gt;
* 朱元璋は歴代王朝が宦官や外戚の政治介入を招いて滅びたことから、彼らを重用しなかったという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 総合的な評価 ===&lt;br /&gt;
[[趙翼]]は朱元璋の事を「一身において聖賢、豪傑、盗賊を兼ねた才物」と評している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 現代中国への影響 ==&lt;br /&gt;
*[[孫文]]が[[辛亥革命]]を起こして[[清]]を打倒し、[[中華民国]]を建国した後に朱元璋の陵を訪れ、漢民族の国家の復活を報告している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 朱元璋を題材にした映画 ==&lt;br /&gt;
*『デブゴンの太閤記』（[[1980年代]]、[[香港映画]]）＝主演：[[サモ・ハン・キンポー]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 脚注 ==&lt;br /&gt;
&amp;lt;references/&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
* [[明孝陵]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 参考文献 ==&lt;br /&gt;
* 『明史』（[[中華書局]]）&lt;br /&gt;
* 『永楽帝』（[[徳間書店]]。[[伴野朗]]）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 外部リンク ==&lt;br /&gt;
*[http://culture.china.com/zh_cn/history/diwang/11036694/20090121/15292765.html 画师据实画像被杀 朱元璋奇特长相成谜（中国語）] 2種類の肖像画が掲載されている&lt;br /&gt;
*[http://www.china7.jp/bbs/board.php?bo_table=2_5&amp;amp;wr_id=40 朱元璋－明の開国君主]&lt;br /&gt;
*[http://zh.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%B1%E5%85%83%E7%92%8B 朱元璋（Wikipedia中国語版）]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:しゆ けんしよう}}&lt;br /&gt;
[[Category:明の皇帝|けんしよう]]&lt;br /&gt;
[[Category:1328年生]]&lt;br /&gt;
[[Category:1398年没]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>初心者Ａ</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E5%AD%9D%E5%BA%B7%E7%9A%87%E5%90%8E_(%E6%98%8E%E6%9C%9D)&amp;diff=141914</id>
		<title>孝康皇后 (明朝)</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E5%AD%9D%E5%BA%B7%E7%9A%87%E5%90%8E_(%E6%98%8E%E6%9C%9D)&amp;diff=141914"/>
				<updated>2011-11-05T02:15:13Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;初心者Ａ: ページの作成：「'''孝康皇后'''（こうこうこうごう、1354年?‐1378年）は、明の懿文太子朱標 （太祖洪武帝朱元璋の長子）の正妃。姓は...」&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''孝康皇后'''（こうこうこうごう、1354年?‐1378年）は、[[明]]の懿文太子[[朱標]] （太祖洪武帝[[朱元璋]]の長子）の正妃。姓は常氏。開平王[[常遇春]]の娘。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
父常遇春は洪武帝朱元璋の旧くからの仲間で、明王朝建国の元勲の一人。[[洪武]]4年（1371年）4月に皇太子朱標と結婚して皇太子妃に冊立された。朱標との間に朱雄英（早世）・呉王朱允熥を産むが、洪武11年（1378年）11月に朱標に先立って没し'''敬懿皇太子妃'''と諡された。死因は朱允熥出産時の産褥死であろう。建文元年（1399年）、朱標の子[[建文帝]]（母は側室の呂氏）が即位すると嫡母（父の正室）として'''孝康皇后'''と追尊された。[[永楽]]元年（1403年）、永楽帝が即位すると敬懿皇太子妃に戻された。その後、明朝末期の安宗[[弘光帝]]によって孝康皇后と改めて諡された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:こうこうこうこう}}&lt;br /&gt;
[[Category:1378年没]]&lt;br /&gt;
[[Category:明の皇后]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>初心者Ａ</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E6%9C%B1%E6%A8%99&amp;diff=141911</id>
		<title>朱標</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E6%9C%B1%E6%A8%99&amp;diff=141911"/>
				<updated>2011-11-05T01:53:48Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;初心者Ａ: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''朱標'''（しゅひょう、[[至正]]15年10月10日（[[1355年]]） - [[洪武]]25年5月17日（[[1392年]]））は、中国・[[明]]朝の[[皇太子]]・追尊[[皇帝]]。明の太祖洪武帝[[朱元璋]]の長男で、母は[[馬皇后 (洪武帝)|馬皇后]]（[[李淑妃 (明太祖)|李淑妃]]とする説もある）。第2代皇帝[[建文帝]]朱允炆の父。第3代皇帝成祖[[永楽帝]]朱棣の同母兄（異母兄とする説もある）。死後、'''懿文太子'''と諡され、建文帝即位によって皇帝位と'''興宗'''という廟号を追贈された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
元朝末期の至正15年（1355年）、[[黄山区|太平]]（現在の[[安徽省]][[黄山区]]）で朱元璋と馬氏の長男として生まれる。至正24年（1364年）に父朱元璋が応天府（現在の[[南京]]）で呉王を名乗ると、朱標はその世子に立てられた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
洪武元年（1368年）、明王朝が成立すると朱標は14歳で皇太子に立てられた。しかし朱標は温厚な人柄で儒教的教養を持ち、父が進める重臣たちの粛清を諌めたりしたために、父からは頼りなく思われたという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
洪武25年（1392年）、父に先立って38歳で病死した。朱標を失った洪武帝は非常に悲しみ、彼に[[懿文太子]]と諡した。その後、朱標の子・朱允炆（建文帝）が即位すると興宗の廟号と、諡号の孝康皇帝が追号された。しかし[[靖難の変]]によって弟の朱棣（永楽帝）が即位すると諡が懿文太子に戻された。その後、明朝末期の安宗[[弘光帝]]（在位1644年－1645年）によって帝号を回復し、'''興宗和天敬道憲懿勤敏淳文度武明仁慈孝康皇帝'''と諡された。彼の陵墓は[[明孝陵]]の東側にあり、世人から「東陵」と呼ばれていたといわれる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
彼の早すぎる死が却って父による粛清を加速させた上に、靖難の変の原因の一つになるなど、明の王室に数々の悲劇を生み出す原因となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 系譜 ==&lt;br /&gt;
*父：太祖洪武帝朱元璋&lt;br /&gt;
*母：孝慈高皇后馬氏&lt;br /&gt;
*正室：[[孝康皇后 (明朝)|孝康皇后]]常氏‐開平王[[常遇春]]の娘&lt;br /&gt;
**長男：虞王朱雄英（1374‐1382）&lt;br /&gt;
**三男：呉王朱允熥（1378‐1417）&lt;br /&gt;
*側室：[[呂太后 (明興宗)|皇太后呂氏]]‐呂昌本の娘&lt;br /&gt;
**次男：恵帝建文帝朱允炆（1377-1402?）&lt;br /&gt;
**四男：衛王朱允熞（1385‐1402）&lt;br /&gt;
**五男：徐王朱允𤐤（1391‐1407）&lt;br /&gt;
*生母不明&lt;br /&gt;
**長女：江都公主‐[[耿璿]]（長興侯[[耿炳文]]の子）に嫁ぐ&lt;br /&gt;
**次女：宜倫郡主&lt;br /&gt;
**三女（夭折）&lt;br /&gt;
**四女：南平郡主&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:しゆひよう}}&lt;br /&gt;
[[Category:明の皇族|ひよう]]&lt;br /&gt;
[[Category:明の皇帝]]&lt;br /&gt;
[[Category:中国の皇太子]]&lt;br /&gt;
[[Category:追尊された人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:1355年生]]&lt;br /&gt;
[[Category:1392年没]]&lt;/div&gt;</summary>
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		<summary type="html">&lt;p&gt;初心者Ａ: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''朱標'''（しゅひょう、[[至正]]15年10月10日（[[1355年]]） - [[洪武]]25年5月17日（[[1392年]]））は、中国・[[明]]朝の[[皇太子]]・追尊[[皇帝]]。明の太祖洪武帝[[朱元璋]]の長男で、母は[[馬皇后 (洪武帝)|馬皇后]]（[[李淑妃 (明太祖)|李淑妃]]とする説もある）。第2代皇帝[[建文帝]]朱允炆の父。第3代皇帝成祖[[永楽帝]]朱棣の同母兄（異母兄とする説もある）。死後、'''懿文太子'''と諡され、建文帝即位によって皇帝位と'''興宗'''という廟号を追贈された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
元朝末期の至正15年（1355年）、[[黄山区|太平]]（現在の[[安徽省]][[黄山区]]）で朱元璋と馬氏の長男として生まれる。至正24年（1364年）に父朱元璋が応天府（現在の[[南京]]）で呉王を名乗ると、朱標はその世子に立てられた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
洪武元年（1368年）、明王朝が成立すると朱標は14歳で皇太子に立てられた。しかし朱標は温厚な人柄で儒教的教養を持ち、父が進める重臣たちの粛清を諌めたりしたために、父からは頼りなく思われたという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
洪武25年（1392年）、父に先立って38歳で病死した。朱標を失った洪武帝は非常に悲しみ、彼に[[懿文太子]]と諡した。その後、朱標の子・朱允炆（建文帝）が即位すると興宗の廟号と、諡号の孝康皇帝が追号された。しかし[[靖難の変]]によって弟の朱棣（永楽帝）が即位すると諡が懿文太子に戻された。その後、明朝末期の安宗[[弘光帝]]（在位1644年－1645年）によって帝号を回復し、'''興宗和天敬道憲懿勤敏淳文度武明仁慈孝康皇帝'''と諡された。彼の陵墓は[[明孝陵]]の東側にあり、世人から「東陵」と呼ばれていたといわれる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
彼の早すぎる死が却って父による粛清を加速させた上に、靖難の変の原因の一つになるなど、明の王室に数々の悲劇を生み出す原因となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 系譜 ==&lt;br /&gt;
*父：太祖洪武帝朱元璋&lt;br /&gt;
*母：孝慈高皇后馬氏&lt;br /&gt;
*正室：[[孝康皇后]]常氏‐開平王[[常遇春]]の娘&lt;br /&gt;
**長男：虞王朱雄英（1374‐1382）&lt;br /&gt;
**三男：呉王朱允熥（1378‐1417）&lt;br /&gt;
*側室：[[呂太后 (明興宗)|皇太后呂氏]]‐呂昌本の娘&lt;br /&gt;
**次男：恵帝建文帝朱允炆（1377-1402?）&lt;br /&gt;
**四男：衛王朱允熞（1385‐1402）&lt;br /&gt;
**五男：徐王朱允𤐤（1391‐1407）&lt;br /&gt;
*生母不明&lt;br /&gt;
**長女：江都公主‐[[耿璿]]（長興侯[[耿炳文]]の子）に嫁ぐ&lt;br /&gt;
**次女：宜倫郡主&lt;br /&gt;
**三女（夭折）&lt;br /&gt;
**四女：南平郡主&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:しゆひよう}}&lt;br /&gt;
[[Category:明の皇族|ひよう]]&lt;br /&gt;
[[Category:明の皇帝]]&lt;br /&gt;
[[Category:中国の皇太子]]&lt;br /&gt;
[[Category:追尊された人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:1355年生]]&lt;br /&gt;
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&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''朱標'''（しゅひょう、[[至正]]15年10月10日（[[1355年]]） - [[洪武]]25年5月17日（[[1392年]]））は、中国・[[明]]朝の[[皇太子]]・追尊[[皇帝]]。明の太祖洪武帝[[朱元璋]]の長男で、母は[[馬皇后 (洪武帝)|馬皇后]]。第2代皇帝[[建文帝]]朱允炆の父。第3代皇帝成祖[[永楽帝]]朱棣の同母兄（異母兄とする説もある）。死後、'''懿文太子'''と諡され、建文帝即位によって皇帝位と'''興宗'''という廟号を追贈された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
元朝末期の至正15年（1355年）、[[黄山区|太平]]（現在の[[安徽省]][[黄山区]]）で朱元璋と馬氏の長男として生まれる。至正24年（1364年）に父朱元璋が応天府（現在の[[南京]]）で呉王を名乗ると、朱標はその世子に立てられた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
洪武元年（1368年）、明王朝が成立すると朱標は14歳で皇太子に立てられた。しかし朱標は温厚な人柄で儒教的教養を持ち、父が進める重臣たちの粛清を諌めたりしたために、父からは頼りなく思われたという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
洪武25年（1392年）、父に先立って38歳で病死した。朱標を失った洪武帝は非常に悲しみ、彼に[[懿文太子]]と諡した。その後、朱標の子・朱允炆（建文帝）が即位すると興宗の廟号と、諡号の孝康皇帝が追号された。しかし[[靖難の変]]によって弟の朱棣（永楽帝）が即位すると諡が懿文太子に戻された。その後、明朝末期の安宗[[弘光帝]]（在位1644年－1645年）によって帝号を回復し、'''興宗和天敬道憲懿勤敏淳文度武明仁慈孝康皇帝'''と諡された。彼の陵墓は[[明孝陵]]の東側にあり、世人から「東陵」と呼ばれていたといわれる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
彼の早すぎる死が却って父による粛清を加速させた上に、靖難の変の原因の一つになるなど、明の王室に数々の悲劇を生み出す原因となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 系譜 ==&lt;br /&gt;
*父：太祖洪武帝朱元璋&lt;br /&gt;
*母：孝慈高皇后馬氏&lt;br /&gt;
*正室：[[孝康皇后]]常氏‐開平王[[常遇春]]の娘&lt;br /&gt;
**長男：虞王朱雄英（1374‐1382）&lt;br /&gt;
**三男：呉王朱允熥（1378‐1417）&lt;br /&gt;
*側室：[[呂太后 (明興宗)|皇太后呂氏]]‐呂昌本の娘&lt;br /&gt;
**次男：恵帝建文帝朱允炆（1377-1402?）&lt;br /&gt;
**四男：衛王朱允熞（1385‐1402）&lt;br /&gt;
**五男：徐王朱允𤐤（1391‐1407）&lt;br /&gt;
*生母不明&lt;br /&gt;
**長女：江都公主‐[[耿璿]]（長興侯[[耿炳文]]の子）に嫁ぐ&lt;br /&gt;
**次女：宜倫郡主&lt;br /&gt;
**三女（夭折）&lt;br /&gt;
**四女：南平郡主&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:しゆひよう}}&lt;br /&gt;
[[Category:明の皇族|ひよう]]&lt;br /&gt;
[[Category:明の皇帝]]&lt;br /&gt;
[[Category:中国の皇太子]]&lt;br /&gt;
[[Category:追尊された人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:1355年生]]&lt;br /&gt;
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		<title>朱世珍</title>
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		<summary type="html">&lt;p&gt;初心者Ａ: ページの作成：「'''朱世珍'''（しゅせいちん、1283年‐1344年）は、明の太祖洪武帝朱元璋の父。本名を'''朱五四'''といい、死後に'''朱世珍'''と...」&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''朱世珍'''（しゅせいちん、1283年‐1344年）は、明の太祖洪武帝[[朱元璋]]の父。本名を'''朱五四'''といい、死後に'''朱世珍'''と改名された。明王朝では'''仁祖淳皇帝'''とも呼ばれた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[元 (王朝)|元]]の泗州盱眙（現在の[[江蘇省]][[盱眙県]]）の貧農・[[朱初一]]と王氏の子として生まれる。[[朱五一]]という兄がいた。妻の陳氏との間に朱重四（[[朱興隆]]）・朱重六（[[朱興盛]]）・朱重七（[[朱興祖]]）・朱重八（朱興宗→朱元璋）と娘2人（[[曹国公主]]・[[太原公主]]）の4男2女を儲けた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
小作農として生涯を貧窮のうちに過ごし、泗州霊壁県（現在の江蘇省霊壁県）から泗州虹県（現在の江蘇省泗県）と流浪し、後に濠州鐘離（現在の[[安徽省]][[鳳陽県]]）に移った。しかし至正4年（1344年）、淮北の大旱魃により朱五四と陳氏・朱重四が相次いで死んだ（死因は餓死または病死）。朱重八ら残された家族は、貧しさのため朱五四らの葬式さえ出せない有様だったという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
明王朝成立後の[[洪武]]元年（1368年）、朱元璋によって廟号'''純祖'''・諡号を'''淳皇帝'''と追尊され、明皇陵（安徽省鳳陽県）に葬られた。その後、廟号は曾孫にあたる[[洪熙帝]]により'''仁祖'''と改められた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*父：熙祖裕皇帝[[朱初一]]&lt;br /&gt;
*母：裕皇后[[王氏]]&lt;br /&gt;
*兄：寿春王[[朱五一]]&lt;br /&gt;
*妻：淳皇后陳氏（陳二娘）&lt;br /&gt;
**長男：南昌王朱興隆（朱重四）&lt;br /&gt;
**次男：盱眙王朱興盛（朱重六）&lt;br /&gt;
**三男：臨淮王朱興祖（朱重七）&lt;br /&gt;
**四男：洪武帝朱元璋（朱重八→朱興宗）&lt;br /&gt;
**娘：太原公主朱氏‐王七一の妻&lt;br /&gt;
**娘：曹国公主朱氏‐李貞の妻・[[李文忠]]の母&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:しゆせいちん}}&lt;br /&gt;
[[Category:明の皇族|せいちん]]&lt;br /&gt;
[[Category:追尊された人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:1283年生]]&lt;br /&gt;
[[Category:1344年没]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>初心者Ａ</name></author>	</entry>

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		<title>朱興祖</title>
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		<summary type="html">&lt;p&gt;初心者Ａ: ページの作成：「'''朱興祖'''（しゅこうそ、生没年不詳）は明の皇族で、太祖洪武帝朱元璋の三番目の兄。初名'''朱重七'''。  濠州鐘離（現在...」&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''朱興祖'''（しゅこうそ、生没年不詳）は明の皇族で、太祖洪武帝[[朱元璋]]の三番目の兄。初名'''朱重七'''。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
濠州鐘離（現在の[[安徽省]][[鳳陽県]]）の貧農・朱五四（[[朱世珍]]）と陳氏の三男として生まれたが、若くして死に、子もなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
明王朝成立後の洪武元年（1368年）、朱元璋は亡兄朱興祖を臨淮王に追封した。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{デフォルトソート:しゆこうそ}}&lt;br /&gt;
[[Category:明の皇族]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>初心者Ａ</name></author>	</entry>

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		<title>朱興盛</title>
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&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''朱興盛'''（しゅこうせい、生没年不詳）は、[[明]]の太祖洪武帝[[朱元璋]]の次兄。本名'''朱重六'''。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
濠州鐘離（現在の[[安徽省]][[鳳陽県]]）の貧農・朱五四（[[朱世珍]]）と陳氏の次男として生まれる。朱旺という息子がいたが、[[元 (王朝)|元]]朝末期に頻発した飢饉・災害により朱重六もその子朱旺も若くして死んだ。明王朝成立後の[[洪武]]元年（[[1368年]]）、朱元璋は亡兄朱興盛を盱眙王に、甥の朱旺を昭信王に追封した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{デフォルトソート:しゆこうせい}}&lt;br /&gt;
[[Category:明の皇族]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>初心者Ａ</name></author>	</entry>

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		<title>朱興隆</title>
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		<summary type="html">&lt;p&gt;初心者Ａ: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''朱興隆'''（しゅこうりゅう、?‐1344年）は、明の太祖洪武帝[[朱元璋]]の長兄。本名は'''朱重四'''。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
濠州の鐘離（現在の安徽省鳳陽県）の貧農朱五四（[[朱世珍]]）と妻・陳氏の長男として生まれる。成人すると王氏と結婚して朱聖保（夭折）・[[朱文正]]と娘（のちの[[福成公主]]）を儲けた。元の至正4年（1344年）、淮北の大旱魃によって父朱五四・母陳氏が餓死し、朱重四自身も餓死してしまった（朱五四・陳氏・朱重四が死んだのは伝染病による病死とする説もある）。朱重四の死後、妻の王氏は飢饉のため子供たちを連れて他の土地に逃れた。その後、朱重四の末弟朱元璋（初名・朱重八）が紅巾軍に参加すると、王氏は子供たちを連れて朱元璋のもとに身を寄せた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
明王朝成立後の洪武元年（1368年）、朱元璋は亡兄を豫章王に追封し、その後さらに南昌王に改封した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
彼の息子朱文正は朱元璋の義子となり、明王朝建国に功績があったが後に粛清された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:しゆこうりゆう}}&lt;br /&gt;
[[Category:明の皇族|こうりゆう]]&lt;br /&gt;
[[Category:1344年没]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>初心者Ａ</name></author>	</entry>

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&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''朱興隆'''（しゅこうりゅう、?‐1344年）は、明の太祖洪武帝[[朱元璋]]の長兄。本名は'''朱重四'''。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
濠州の鐘離（現在の安徽省鳳陽県）の貧農朱五四（[[朱世珍]]）と妻・陳氏の長男として生まれる。成人すると王氏と結婚して朱聖保（夭折）・[[朱文正]]と娘（のちの[[福成公主]]）を儲けた。元の至正4年（1344年）、淮北の大旱魃によって父朱五四・母陳氏が餓死し、朱重六自身も餓死してしまった（朱五四・陳氏・朱重六が死んだのは伝染病による病死とする説もある）。朱重四の死後、妻の王氏は飢饉のため子供たちを連れて他の土地に逃れた。その後、朱重四の末弟朱元璋（初名・朱重八）が紅巾軍に参加すると、王氏は子供たちを連れて朱元璋のもとに身を寄せた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
明王朝成立後の洪武元年（1368年）、朱元璋は亡兄を豫章王に追封し、その後さらに南昌王に改封した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
彼の息子朱文正は朱元璋の義子となり、明王朝建国に功績があったが後に粛清された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:しゆこうりゆう}}&lt;br /&gt;
[[Category:明の皇族|こうりゆう]]&lt;br /&gt;
[[Category:1344年没]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>初心者Ａ</name></author>	</entry>

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		<title>朱元璋</title>
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				<updated>2011-11-03T14:59:26Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;初心者Ａ: /* 宗室 */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''朱 元璋'''（しゅ げんしょう、[[天暦 (元)|天暦]]元年[[9月18日 (旧暦)|9月18日]]（[[1328年]][[10月21日]]） - [[洪武]]31年閏[[5月10日 (旧暦)|5月10日]]（[[1398年]][[6月24日]]）、在位：[[1368年]][[1月23日]] - [[1398年]][[6月24日]]）は、[[中国]]の[[明]]朝の創始者であり、初代[[皇帝]]である。[[廟号]]は太祖（たいそ）。[[諡号]]は開天行道肇紀立極大聖至神仁文義武俊德成功高皇帝。その治世の年号を取って、'''洪武帝'''（こうぶてい）と呼ばれる。また、生まれた頃の名は、'''朱重八'''（しゅ じゅうはち）といい、後に'''朱興宗'''（しゅこうそう）と改名し、紅巾軍に参加する頃にさらに朱元璋と改名し、字を国瑞（こくずい）とした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 生涯 ==&lt;br /&gt;
=== 紅巾の乱 ===&lt;br /&gt;
[[元 (王朝)|元]]末の天暦元年（1328年）、濠州の鐘離（現在の[[安徽省]][[鳳陽県]]）の貧農の家の末子に生まれる。伝承によると母親は夢の中で[[仙人]]から赤い玉を授かって妊娠し、朱元璋が生まれると家全体が赤く光り輝き、近所の人々が火事であると勘違いして家の周りに集まってきたという。従兄弟も含めて八番目の子であったため、重八と名づけられる（もしくは[[排行]]でそのように呼ばれる）。元末の政治混乱に伴い飢饉・凶作が頻発しており、朱元璋の家族は食べるものも無く飢え死にした（流行病で家族を失った説もある）。朱元璋だけは皇覚寺という寺に身を寄せ[[托鉢]]僧となり、[[淮河]]流域で[[勧進]]の旅を続けながら辛うじて生き延びたが、ほとんど乞食同然の生活であった。中国はもとより全世界の帝王・王朝創始者の中でも最も悲惨な境遇から身を起こした人物といわれる所以である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1351年]]、[[白蓮教]]徒の集団が各地で反乱を起こし、[[紅巾の乱]]が勃発した。この大乱により皇覚寺は焼け落ちてしまった。朱元璋は自分の将来を占ってみたところ、紅巾軍に参加することが大吉であると出たため、[[韓林児]]を教祖とする東系紅巾軍の一派として濠州で挙兵していた[[郭子興]]のもとに身を投じたという。朱元璋は郭子興の下で頭角を現し、養女の馬氏を妻に貰った。これが後の[[馬皇后 (洪武帝)|馬皇后]]である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
朱元璋が郭子興の軍に参加した時、最初は間諜と間違われ、殺されそうになったが、面構えが郭子興に気に入られて、幕下に入ったという逸話がある。それぐらい朱元璋の人相が悪かったとも言えるだろう。朱元璋は他の造反軍がただ食料欲しさに目の前の事しか考えないのに比べ、先のことを考えた行動をとった。自分の出自を逆に活かして貧民の味方という立場を打ち出し、元軍の中の徴兵された農民達を取り込んで勢力を増していった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この時期、のちに功臣第一となる[[徐達]]や勇猛で知られる[[常遇春]]や後の謀臣・[[李善長]]と出会った。朱元璋は李善長から「乱れた天下を治めるのは貴方である。そのためには同じ農民出身の[[劉邦]]の真似をすれば良い」と言われた。これ以降朱元璋の行動は劉邦を意識したものが多くなる。朱元璋が皇帝になる野望を本当に抱き始めたのはこの頃からだろう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 江南の統一 ===&lt;br /&gt;
[[1355年]]に郭子興が死ぬと彼の軍は息子の郭天叙、郭子興の妻の弟・張天祐、そして朱元璋の3人に受け継がれた。しかし郭天叙と張天祐の2人は、元軍との戦いで戦死したため（朱元璋による陰謀との説もある）、朱元璋はそれらの軍を吸収し[[1356年]]、集慶路（現在の[[南京市|南京]]）を占領し、応天府と改める。応天府を占領した朱元璋は長江下流の一大勢力となった。朱元璋の名声は大いに高まり各地から[[劉基]]、[[宋濂]]ら名望家がやって来るようになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その頃、長江上流では西系紅巾よりのし上がってきた[[陳友諒]]が大漢国をうち立て、[[湖北省|湖北]]から[[江西省|江西]]の一帯を支配していた。また非紅巾勢力の[[張士誠]]も蘇州を本拠に大勢力を築いていた。朱元璋を含めたこの3勢力で当時、中国で最も豊かであるといわれた[[江南]]の覇権を争うことになった。[[1360年]]、陳友諒は大軍を率いて応天府の目と鼻の先まで進軍し陣を敷いた。その上で張士誠に使者を送り、共に朱元璋を挟み撃ちにするよう促した。応天府では投降、首都放棄を主張する者まで現れるほど混乱したが、劉基が「陳友諒との決戦あるのみ」を主張し、部下の偽りの降伏によって陳友諒の軍を竜湾に引きずり出し勝利することができた。[[1363年]]3月、陳友諒は前回の敗北を挽回すべく60万を号する大水軍を率いて南昌を攻撃し、7月、朱元璋も水軍を率いて救援に向かった。これを[[鄱陽湖の戦い]]と言う。3日にわたる激戦の後、劉基の献策した火薬を用いた火計が当たり、漢の水軍の殲滅に成功し陳友諒自身も戦死した。翌年に陳友諒の後を継いだ陳理が降伏し大漢国を滅ぼした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1364年]]、朱元璋は呉王を名乗った。同じ頃、張士誠も呉王を名乗っており、両者は江南の覇権をかけて激突した。朱元璋は張士誠側の要地を一つ一つ確実に落としていった。[[1366年]]に朱元璋は[[韓林児]]を応天府に呼び寄せたが、その途中、韓林児は水死してしまった（朱元璋の部下に暗殺されたとも言われる）。これを機会に朱元璋は方針を大きく転換し白蓮教と縁を切り、逆に邪教として弾圧するようになった。[[1367年]]、11ヶ月にもおよぶ包囲の末に[[蘇州市|蘇州]]に拠る張士誠を討ち、淮南、江南を統一した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1368年]][[正月]]、応天府（現在の南京）にて朱元璋は即位し、元号を[[洪武]]とし、国号を大明とした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 中国統一 ===&lt;br /&gt;
太祖は元に内紛を生じたのを好機と捉え、20万を越える大軍を竹馬の友である徐達に授け[[北伐]]を行わせた。当時元軍の主力である[[ココ・テムル]]の軍は陝西で李思斉の軍と交戦中であり、中原の防備は手薄であった。北伐軍は快調に進撃し、山東、河南を次々に平定した。元の[[トゴン・テムル|順帝]]は抵抗を諦め首都[[大都]]を放棄して北方へ逃走したため、明軍は抵抗を受けることもなく同年の8月に大都を占領し、北平府と改称した。元はモンゴルへ撤退し[[北元]]となった。[[1371年]]に紅巾の残党である[[四川]]の[[夏 (元末)|大夏国]]を滅ぼし、[[1381年]]には段氏の[[雲南]]を平定し中国を統一した。また北元を討つためモンゴルへ繰り返し出兵し、元の残党の多くを降らせることに成功した。[[1387年]]の遠征で北元最後の主力であった[[マンジュリア]]軍団を討ち、北元をほぼ壊滅させた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 即位後の政策 ===&lt;br /&gt;
==== 国家組織 ====&lt;br /&gt;
洪武帝は独裁権力の確立を目指し[[中書省]]を廃止して六部を直属とした。また軍も皇帝直属とし、[[宦官]]の専横を抑えるために宦官は学問をしてはならないという布告を出した（詳細に関しては「[[明]]」の項を参照）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 民政 ====&lt;br /&gt;
洪武帝は[[重農主義|重農政策]]を打ち出し、[[商人|大商人]]を弾圧して、大商人や大地主の財産を没収、荒地の開拓地への強制移住などを行った。また、貨幣流通の掌握のために銀山の官有や[[銅銭]]・[[紙幣]]の発行、民間における[[銀]]の通貨としての使用を禁じた。一方で[[1380年]]には不当な商税を廃して、生活必需品を扱うような零細な商人の保護も行っている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
重農政策のもと、[[1371年]]には地方官の治績の評価に流民の定着と農地回復の度合いを加え、[[1381年]]に全国一斉に[[魚鱗図冊]]（土地台帳）、[[賦役黄冊]]（戸籍台帳）を作り、[[里甲制]]（村落の自治的行政制度）・[[衛所制]]（兵農一致による軍事制度）を実施した。[[1394年]]には[[工部]]の官吏と[[国子監]]の学生を総動員して[[治水]]事業を一斉に行い、全国で49,007ヶ所の[[堤防]]を修繕したという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 官吏、知識人の弾圧 ====&lt;br /&gt;
[[1381年]]、[[文字の獄]]と呼ばれる大弾圧を行った。「光」「禿」「僧」などの字を使っただけで、洪武帝が昔僧侶であったことをあてこすったとされて[[薛祥]]ら功臣が殺され、洪武帝が盗賊まがいのことをしていたので、「盗」の字と同音の道、「僧」と音の近い「生」の字を使った者がそれだけで殺された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1382年]]には「[[空印事件]]」（「空印の案」とも）と呼ばれる官吏への残虐な懲罰を行った。当時の地方官らの間では、ある種の文書作成の手間を省くため、先に承認印だけを押した用紙（空印）を用意しておき、それを利用して報告書を作成することが常態となっていたのだが、それに気付いた洪武帝は、印の管理者を全員死刑とし、他の関係者にも厳罰を下したのである。[[鄭士利]]という地方官は、空印事件の関係者に冤罪の者が大勢いる旨を洪武帝に直訴したところ、かえって罪に処せられて労役に付かされた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1385年]]には[[郭桓事件]]が起こる。これは、[[戸部侍郎]]の[[郭桓]]が不正経理を行ったとして死刑となった際、各布政使司の官吏も連座させられた事件で、殺されたものは数万にのぼったという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
文人たちは戦々恐々とし、洪武帝から離れようとしたがそれも許されず、文才のある者は官吏として半強制的に登用された。官吏を選抜するための[[科挙]]は極めて難しい試験を課され、及第するためには何年も勉強しなければならなかったが、明の時代に試験の難易度が下がり、定型文を暗記するだけでよくなった。これにより明の官吏の意識は低下し、事なかれ主義に走り、朝廷で目立つ行動を取ることを恐れるようになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 粛清 ===&lt;br /&gt;
洪武帝は自分が老いるに従い後の心配をするようになった。[[皇太子]]に選ばれたのは長男の[[朱標]]であったが、この皇太子は優しい性格で、洪武帝から見るとあまりにも甘すぎると感じられた。一連の粛清事件は、この後継者のことを心配したためとも言われる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1375年]]には[[劉基]]が胡惟庸に毒殺された。[[:zh:廖永忠|廖永忠]]も殺されている。[[1380年]]には、功臣・中書左[[丞相]]・[[胡惟庸]]の疑獄事件をきっかけとしてそれまでの功臣の大粛清を始めた。これは[[胡惟庸の獄]]と呼ばれ、胡惟庸らの誅殺により一旦は終結した。この際、胡惟庸は隣国日本に通じたという容疑もかけられている。同年に[[宋濂]]も連座させられ、馬皇后のとりなしで刑一等を減ぜられて流刑となったが、翌年死んだ。[[1384年]]には[[李文忠]]が毒殺された。[[1385年]]に[[徐達]]が病死したが、これにも毒殺説がある。さらに胡惟庸の獄の10年後の[[1390年]]、事件を再び蒸し返して[[李善長]]ら功臣の大粛清を行った。自分の寿命が近づいたことを覚悟していたのか、前回よりもはるかに激しくなり、3万を越える人数が誅殺されたとされる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これでやっと粛清の嵐も収まったかと思われた[[1392年]]、皇太子が早世した。洪武帝は皇太子の子の[[建文帝|朱允{{lang|zh|炆}}]]を皇太孫としたが、幼い後継者に変わったことで更に後継者が心配になり、再び粛清を始めた。[[1393年]]には[[藍玉 (明)|藍玉]]が謀反を起こしたとして、一族もろとも殺された。これは[[藍玉 (明)#藍玉の獄|藍玉の獄]]と呼ばれ、先の胡惟庸の獄と合わせて胡藍事件とも言う。[[1394年]]には穎国公の[[傅友德]]と[[王弼 (明)|王弼]]が殺された。傅友德についてはなぜ殺されたのかが分からず歴史家も理由を探すのに難儀しているという。[[1395年]]には宋国公の[[馮勝]]が殺された。[[1396年]]には監察御史の[[王朴]]、[[1397年]]には[[欧陽倫]]が殺された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
洪武帝は死の間際まで功臣を殺し続け、[[1398年]]に崩御した。[[享年]]71（満69歳没）。後を孫の朱允{{lang|zh|炆}}（建文帝）が継いだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 宗室 ==&lt;br /&gt;
=== 父母・兄弟姉妹 ===&lt;br /&gt;
*父 [[朱世珍]]（元の名（[[排行]]での呼び方）は朱五四、後に仁祖淳皇帝と追贈）&lt;br /&gt;
*母 陳氏（後に淳皇后と追贈）&lt;br /&gt;
*兄 南昌王[[朱興隆]]（本名・朱重四）：[[朱文正]]・[[福成公主]]らの父。&lt;br /&gt;
*兄 盱眙王[[朱興盛]]（本名・朱重六）&lt;br /&gt;
*兄 臨淮王[[朱興祖]]（本名・朱重七）&lt;br /&gt;
*姉 曹国公主：李貞の妻・[[李文忠]]の母&lt;br /&gt;
*姉 太原公主：王七一の妻&lt;br /&gt;
=== 后妃 ===&lt;br /&gt;
*皇后 [[馬皇后 (洪武帝)|孝慈高皇后馬氏]]&lt;br /&gt;
*孫貴妃（成穆貴妃）&lt;br /&gt;
*李淑妃&lt;br /&gt;
*郭寧妃&lt;br /&gt;
*郭恵妃&lt;br /&gt;
*崔恵妃（荘靖安栄恵妃）&lt;br /&gt;
*江貴妃&lt;br /&gt;
*趙貴妃&lt;br /&gt;
*胡充妃（昭敬充妃）&lt;br /&gt;
*鄭安妃&lt;br /&gt;
*達定妃（[[永楽 (明)|永楽]]年間に廃されて庶人となる）&lt;br /&gt;
*胡順妃（建文年間に自焚死）&lt;br /&gt;
*任順妃&lt;br /&gt;
*李賢妃&lt;br /&gt;
*甕妃&lt;br /&gt;
*劉恵妃&lt;br /&gt;
*葛麗妃&lt;br /&gt;
*碽妃&lt;br /&gt;
*韓妃&lt;br /&gt;
*余妃&lt;br /&gt;
*楊妃&lt;br /&gt;
*余妃&lt;br /&gt;
*周妃&lt;br /&gt;
*李婕妤&lt;br /&gt;
*崔美人&lt;br /&gt;
*張美人&lt;br /&gt;
*郜氏&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 子 ===&lt;br /&gt;
朱元璋には26人の息子がいた。&lt;br /&gt;
*# 懿文太子[[朱標]]、母は[[馬皇后 (洪武帝)|馬皇后]]&amp;lt;ref&amp;gt;長男朱標・次男朱樉・3男朱棡については母を李淑妃とする説もある。&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
*# 秦愍王[[朱樉]]、母は馬皇后&lt;br /&gt;
*# 晋恭王[[朱棡]]、母は馬皇后&lt;br /&gt;
*# 燕王[[永楽帝|朱棣]]（[[永楽帝]]）、母は馬皇后&amp;lt;ref&amp;gt;4男朱棣・5男朱橚については母を碽妃とする説もある。&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
*# 周定王[[朱橚]]（建文年間に廃位、永楽年間に復位）、母は馬皇后&lt;br /&gt;
*# 楚昭王[[朱楨]]、後の、母は胡充妃&lt;br /&gt;
*# 斉王[[朱榑]]（建文年間に廃位、永楽年間に復位）、母は達定妃&lt;br /&gt;
*# 潭王[[朱梓]]（胡惟庸の獄で妃の家である于氏が連座、追及を恐れ自焚死）、母は達定妃&lt;br /&gt;
*# 趙王[[朱杞]]（夭折）、母は不明&lt;br /&gt;
*# 魯荒王[[朱檀]]、母は郭寧妃&lt;br /&gt;
*# 蜀献王[[朱椿]]、母は郭恵妃&lt;br /&gt;
*# 湘献王[[朱柏]]、母は胡順妃（建文年間に自焚死）&lt;br /&gt;
*# 代簡王[[朱桂]]（建文年間に廃位、永楽年間に復位）、母は郭恵妃&lt;br /&gt;
*# 粛庄王[[朱楧]]、母は郜氏&lt;br /&gt;
*# 遼簡王[[朱植]]、母は韓妃&lt;br /&gt;
*# 慶靖王[[朱栴]]、母は余妃&lt;br /&gt;
*# 寧献王[[朱権]]、母は楊妃&lt;br /&gt;
*# 岷荘王[[朱楩]]（建文年間に[[福建省|漳州]]へ配流、永楽年間に復位）、母は周妃&lt;br /&gt;
*# 谷王[[朱橞]]（[[永楽 (明)|永楽]]年間に廃されて庶人となる）、母は郭恵妃&lt;br /&gt;
*# 韓憲王[[朱松]]、母は周妃&lt;br /&gt;
*# 瀋簡王[[朱模]]、母は趙貴妃&lt;br /&gt;
*# 安恵王[[朱楹]]、母は不明&lt;br /&gt;
*# 唐定王[[朱桱]]、は李賢妃&lt;br /&gt;
*# 郢靖王[[朱棟]]、母は劉恵妃&lt;br /&gt;
*# 伊暦王朱㰘、母は葛麗妃&lt;br /&gt;
*# 朱楠（夭折）、母は不明&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 女 ===&lt;br /&gt;
*#臨安公主：李祺（李善長の子）に嫁ぐ&lt;br /&gt;
*#寧国公主（母は馬皇后）：梅殷（梅思祖の甥）に嫁ぐ&lt;br /&gt;
*#崇寧公主：牛城に嫁ぐ&lt;br /&gt;
*#安慶公主（母は馬皇后）：欧陽倫に嫁ぐ&lt;br /&gt;
*#汝寧公主：陸賢（陸仲亨の子）に嫁ぐ&lt;br /&gt;
*#懐慶公主（母は孫貴妃）：王貞亮に嫁ぐ&lt;br /&gt;
*#大名公主：李堅に嫁ぐ&lt;br /&gt;
*#福清公主（母は鄭安妃）：張麟に嫁ぐ&lt;br /&gt;
*#寿春公主：傅忠（傅友徳の子）に嫁ぐ&lt;br /&gt;
*#十公主（夭折）&lt;br /&gt;
*#南康公主：胡観（胡海の子）に嫁ぐ&lt;br /&gt;
*#永嘉公主（母は郭恵妃）：郭鎮（郭寧妃の兄郭英の子）&lt;br /&gt;
*#十三公主（夭折）&lt;br /&gt;
*#含山公主（母は韓妃）：尹清に嫁ぐ&lt;br /&gt;
*#汝陽公主（母は郭恵妃）：謝達に嫁ぐ&lt;br /&gt;
*#宝慶公主：趙輝に嫁ぐ&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 家臣 ==&lt;br /&gt;
=== 定遠攻略（1353年）に参加した24将 ===&lt;br /&gt;
[[徐達]]、[[湯和]]、[[費聚]]、[[呉良]]、[[呉楨]]、[[花雲]]、[[陳徳]]、[[顧時]]、[[耿再成]]、[[耿炳文]]、[[唐勝宗]]、[[陸仲亨]]、[[華雲龍]]、[[鄭遇春]]、[[郭興]]、[[郭英]]、[[胡海]]、[[張龍]]、[[陳桓]]、[[謝成]]、[[李新材]]、[[張赫]]、[[周銓]]、[[周徳興]]&amp;lt;ref name=&amp;quot;kawabata&amp;quot;&amp;gt;川越泰博著『明史』（中国古典新書続編28）明徳出版社、2004年 ISBN 4-89619-828-X。&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 明の建国時（1368年）に重職を与えられた者 ===&lt;br /&gt;
[[李善長]]、[[徐達]]、[[常遇春]]、[[馮宗異]]、[[胡廷端]]、[[廖永忠]]、[[李伯升]]、[[趙庸]]、[[王溥]]、[[楊憲]]、[[傅瓛]]、[[康茂才]]、[[張興祖]]、[[顧時]]、[[孫興祖]]、[[呉楨]]、[[耿炳文]]、[[鄧愈]]、[[湯和]]、[[劉基]]、[[章溢]]、[[文原吉]]、[[範顕祖]]&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.hoolulu.com/zh/25shi/24mingshi/s-115.htm 明史・列伝第3]&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 洪武2年（1369年）の叙勲 ===&lt;br /&gt;
公爵：[[李善長]]、[[徐達]]、[[李文忠]]、[[馮勝]]、[[鄧愈]]、[[常茂]]。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
侯爵：[[湯和]]、[[唐勝宗]]、[[陸仲亨]]、[[周徳興]]、[[華雲龍]]、[[顧時]]、[[耿炳文]]、[[陳徳]]、[[郭子興]]、[[王志]]、[[鄭遇春]]、[[費聚]]、[[呉良]]、[[呉楨]]、[[趙庸]]、[[廖永忠]]、[[兪通源]]、[[華高]]、[[楊璟]]、[[康鐸]]、[[硃亮祖]]、[[傅友徳]]、[[胡美]]、[[韓政]]、[[黄彬]]、[[曹良臣]]、[[梅思祖]]、[[陸聚]]&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.hoolulu.com/zh/25shi/24mingshi/s-068.htm 明史・輿服4]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 洪武9年（1376年）に認定された功臣 ===&lt;br /&gt;
[[徐達]]、[[常遇春]]、[[李文忠]]、[[鄧愈]]、[[湯和]]、[[沐英]]、[[兪通海]]、[[張徳勝]]、[[胡大海]]、[[趙得勝]]、[[耿再成]]、[[桑世傑]]&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.hoolulu.com/zh/25shi/24mingshi/s-052.htm 明史・礼6]&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 功臣として太祖廟に祀られた者 ===&lt;br /&gt;
[[徐達]]、[[常遇春]]、[[李文忠]]、[[鄧愈]]、[[湯和]]、[[沐英]]、[[胡大海]]、[[趙徳勝]]、[[華高]]、[[兪通海]]、[[呉良]]、[[曹良臣]]、[[呉復]]、[[孫興祖]]、[[馮国用]]、[[耿再成]]、[[丁德興]]、[[張徳勝]]、[[呉楨]]、[[康茂才]]、[[茅成]]&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.hoolulu.com/zh/25shi/24mingshi/s-050.htm 明史・礼4]&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== その他の家臣 ===&lt;br /&gt;
[[邵栄]]、[[胡惟庸]]、[[宋濂]]、[[藍玉 (明)|藍玉]]、[[陶安]]、[[張昶]]、[[謝再興]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 人物・逸話 ==&lt;br /&gt;
*洪武帝の死後、孫の朱允炆が即位して[[建文帝]]となった。洪武帝は孫のために万全の策を尽くしたと思ったのであろうが、翌年には[[靖難の変]]で建文帝と息子の[[永楽帝|朱棣]]が戦うことになる。洪武帝は家臣には異常な程猜疑の目を向けたが、自分の家族は全面的に信じ、大きな兵を預けたままであった（若い頃に家族を失い、孤児となった記憶から家族を強く愛し、疑わなかったのであろう）。戦術に長けていた功臣は既に殺し尽くされていたので、建文帝軍は二流の将軍しか持たず、結局建文帝は敗死した。&lt;br /&gt;
*現代に残っている洪武帝の肖像画には2種類が知られている。一方はいかにも君子然とした温和そうな老人であり、もう一つはねじくれた顔をした醜い人相のものである。後者が実像で、前者は画家に粉飾させたものと推察される。[[豊臣秀吉]]にも似たような話があるが、洪武帝の場合は本人の二重性格を表しているとの指摘もある。また逆に、前者が実像で、後者のほうが粉飾であるという異説もある。暗殺を恐れて、あえて醜悪な顔であると広めたという説である。&lt;br /&gt;
*文字の獄のような政策は政治上の必要から行われたこともあったろうが、その基盤となったのは洪武帝の文人や商人に対する不信感、あるいは憎悪によるものでもあったであろう。少年時代の極貧生活の記憶が常に洪武帝の頭の中にあった。文人や功臣を大量に殺す一方で[[肉刑]]を禁ずる布告を出したり、治水工事を熱心に行うなど農民に対しては常に心を砕き、恤れみの心を持っていた。&lt;br /&gt;
*洪武帝と[[永楽帝]]が中国における皇帝の独裁を確立したと言われている。洪武帝は重農主義と民族主義を基調として国を作ったが、永楽帝によって全て覆され、その後の明は洪武帝の方針と永楽帝の方針の間で揺れ動くことになる。なお近年では、洪武帝の重農主義を彼個人の性格と並んで、長年の戦乱で貨幣体系が崩壊して一時的な自然経済への回帰現象の中で発生したという側面を指摘する歴史学者もいる。&lt;br /&gt;
*明建国以前の1361年、応天府（南京）に宝源局（今日で言う造幣局）を設置して[[大中通宝]]を鋳造するが、その際に1貫＝10両＝100銭＝400文という単位を導入した。これは当時の元の鈔が至元通行宝鈔5貫＝中統元宝交鈔2.5貫＝銅銭1貫（1000文）であったことに関係している。朱元璋は大中通宝の価値を理念上の貨幣価値である銅銭1貫＝1000文（枚）に拘らず、当時最も通用していた現実的な通貨である中統元宝交鈔1貫と大中通宝400文（枚）を直接結び付けることで、自らの通貨を強引に元の通貨体系に織り込むと同時に、不足を補うための代替貨幣として元の鈔を使わせることで経済的な混乱を防止しながら自らの経済圏の確保を計ったのである。&amp;lt;!-- 宮澤知之『中国銅銭の世界 銭貨から経済史へ』（思文閣出版、2007年）ISBN 978-4-7842-1346-7　第12章《紙幣時代の銅銭》 --&amp;gt;&lt;br /&gt;
* 朱元璋は歴代王朝が宦官や外戚の政治介入を招いて滅びたことから、彼らを重用しなかったという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 総合的な評価 ===&lt;br /&gt;
[[趙翼]]は朱元璋の事を「一身において聖賢、豪傑、盗賊を兼ねた才物」と評している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 現代中国への影響 ==&lt;br /&gt;
*[[孫文]]が[[辛亥革命]]を起こして[[清]]を打倒し、[[中華民国]]を建国した後に朱元璋の陵を訪れ、漢民族の国家の復活を報告している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 朱元璋を題材にした映画 ==&lt;br /&gt;
*『デブゴンの太閤記』（[[1980年代]]、[[香港映画]]）＝主演：[[サモ・ハン・キンポー]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 脚注 ==&lt;br /&gt;
&amp;lt;references/&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
* [[明孝陵]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 参考文献 ==&lt;br /&gt;
* 『明史』（[[中華書局]]）&lt;br /&gt;
* 『永楽帝』（[[徳間書店]]。[[伴野朗]]）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 外部リンク ==&lt;br /&gt;
*[http://culture.china.com/zh_cn/history/diwang/11036694/20090121/15292765.html 画师据实画像被杀 朱元璋奇特长相成谜（中国語）] 2種類の肖像画が掲載されている&lt;br /&gt;
*[http://www.china7.jp/bbs/board.php?bo_table=2_5&amp;amp;wr_id=40 朱元璋－明の開国君主]&lt;br /&gt;
*[http://zh.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%B1%E5%85%83%E7%92%8B 朱元璋（Wikipedia中国語版）]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:しゆ けんしよう}}&lt;br /&gt;
[[Category:明の皇帝|けんしよう]]&lt;br /&gt;
[[Category:1328年生]]&lt;br /&gt;
[[Category:1398年没]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>初心者Ａ</name></author>	</entry>

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		<title>君子内親王</title>
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		<summary type="html">&lt;p&gt;初心者Ａ: ページの作成：「'''君子内親王'''（きみこ/くんしないしんのう、生年未詳 - 延喜2年10月8日（902年11月10日））は、[[平...」&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''君子内親王'''（きみこ/くんしないしんのう、生年未詳 - [[延喜]]2年[[10月8日 (旧暦)|10月8日]]（[[902年]][[11月10日]]））は、[[平安時代]]の[[皇族]]。[[宇多天皇]]の第4[[皇女]]。母は[[女御]][[橘義子]]。[[斎院|賀茂斎院]]。[[醍醐天皇]]の異母妹で、同母の兄弟に[[斉中親王]]・[[斉世親王]]・[[斉邦親王]]がいる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[寛平]]4年、[[親王宣下|内親王宣下]]。同5年（[[893年]]）3月14日、斎院に[[卜定]]される。同年6月19日、[[初斎院]]（[[宮内省]]）へ移る。同7年（[[895年]]）4月16日、野宮（[[紫野院]]）へ入る。[[延喜]]2年（[[902年]]）10月8日、病により斎院より退出、その夜（あるいは翌晩）[[薨去]]した（『[[西宮記]]』）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:きみこないしんのう}}&lt;br /&gt;
[[Category:平安・鎌倉時代の皇族]]&lt;br /&gt;
[[Category:斎院]]&lt;br /&gt;
[[Category:902年没]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>初心者Ａ</name></author>	</entry>

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		<title>仲野親王</title>
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		<summary type="html">&lt;p&gt;初心者Ａ: /* 生涯 */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''仲野親王'''（なかのしんのう、[[延暦]]11年（[[792年]]） - [[貞観 (日本)|貞観]]9年[[1月17日 (旧暦)|1月17日]]（[[867年]][[2月25日]]））は、[[平安時代]]前期の[[皇族]]。[[桓武天皇]]の第12皇子で、母は宮人[[藤原河子]]（[[藤原大継]]女）。[[平城天皇]]・[[嵯峨天皇]]・[[淳和天皇]]らの異母弟で、同母兄弟に[[安勅内親王]]・[[大井内親王]]・[[紀内親王]]・[[善原内親王]]がいた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 生涯 ==&lt;br /&gt;
[[弘仁]]5年（[[814年]]）四品に叙される。当時の親王の初叙が18歳であった中で親王の初叙が遅かった理由については不明である。[[天長]]7年（[[830年]]）[[大宰帥]]に任ぜられた。天長10年（[[833年]]）に三品に昇叙され、[[承和 (日本)|承和]]9年（[[842年]]）[[弾正尹]]に任ぜられ、承和14年（[[847年]]）に二品になった。[[嘉祥]]3年（[[850年]]）[[式部卿]]になり、[[仁寿]]3年（[[853年]]）[[常陸国|常陸]]太守を兼任する。貞観3年（[[861年]]）[[上総国|上総]]太守を兼ね、貞観5年（[[863年]]）に大宰帥に遷任。翌年の貞観6年（[[864年]]）、輦車に乗り宮中に入ることを勅許された。貞観9年（[[867年]]）正月17日、76歳で薨去した。[[山城国]]葛野郡内（[[京都市]][[右京区]]太秦垂箕山町）の高畠墓に葬られた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
幼少の頃から利発で、人柄も寛大だったらしい。[[藤原緒継]]から学んだ音儀詞語に詳しく、六条第で[[藤原基経]]や[[大江音人]]らに音詞曲折を教えたという。息子14人・娘15人の父で、子に平茂世（[[茂世王]]）・[[輔世王]]・[[房世王]]・[[秀世王]]・[[当世王]]・[[基世王]]・[[潔世王]]・[[実世王]]・[[十世王]]・[[在世王]]・[[康世王]]・[[則世王]]・[[惟世王]]・[[宜子女王]]・[[班子女王]]らがいた。娘の班子女王は[[光孝天皇]]の女御で[[宇多天皇]]の母となり、その宇多天皇が即位したため、外祖父にあたる仲野親王に一品[[太政大臣]]が追贈された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*父：[[桓武天皇]]&lt;br /&gt;
*母：[[藤原河子]]‐藤原大継女&lt;br /&gt;
*妻：当宗氏&lt;br /&gt;
**王女：[[班子女王]]‐光孝天皇女御・宇多天皇母&lt;br /&gt;
*妻：菅原氏&lt;br /&gt;
**王女：[[宜子女王]]‐伊勢斎宮&lt;br /&gt;
*生母不詳&lt;br /&gt;
**王子：茂世王（平茂世）‐正四位下・刑部卿&lt;br /&gt;
**王子：房世王（平房世）‐正四位下・因幡守&lt;br /&gt;
**王子：当世王‐従四位下・正親正&lt;br /&gt;
**王子：輔世王‐従四位下・伊予守&lt;br /&gt;
**王子：季世王‐従四位上・美作守&lt;br /&gt;
**王子：秀世王‐従四位上・美作守&lt;br /&gt;
**王子：基世王‐従四位下・因幡守&lt;br /&gt;
**王子：潔世王‐従四位上・山城守&lt;br /&gt;
**王子：実世王（平実世）‐従四位上・摂津守&lt;br /&gt;
**王子：[[十世王]]‐従三位・宮内卿&lt;br /&gt;
**王子：在世王‐従四位上・相模守&lt;br /&gt;
**王子：康世王‐従四位上・河内守&lt;br /&gt;
**王子：則世王（利世王・平利世）‐従五位下・備後守&lt;br /&gt;
**王子：惟世王（平維世）‐従四位上・大舎人頭&lt;br /&gt;
他13人の王女がいた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 参考文献 ==&lt;br /&gt;
*平野邦雄・瀬野精一郎編『日本古代中世人名辞典』[[吉川弘文館]]、2006年。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:なかのしんのう}}&lt;br /&gt;
[[Category:平安・鎌倉時代の皇族]]&lt;br /&gt;
[[Category:常陸国の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:上総国の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:792年生]]&lt;br /&gt;
[[Category:867年没]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>初心者Ａ</name></author>	</entry>

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		<title>十世王</title>
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		<summary type="html">&lt;p&gt;初心者Ａ: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''十世王'''（とおよおう、天長10年（833年）‐延喜16年7月3日（916年））は、[[平安時代]]前期の[[皇族]]。桓武天皇の皇孫で、父は二品式部卿宮（贈一品太政大臣）[[仲野親王]]。[[斎宮]][[宣子女王]]・[[皇太后]][[班子女王]]（[[光孝天皇]]女御・[[宇多天皇]]母）らの兄弟。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
中務大輔・播磨守などを歴任。宇多天皇治世中の寛平9年（897年）6月19日に[[参議]]となる。その後、延喜10年（910年）に従三位になり、官も宮内卿に至った。延喜16年7月3日、84歳で薨去した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
子に時世王・時相王・時清王（従五位下）・[[徳姫女王]]（宇多天皇更衣）がいる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:とおよおう}}&lt;br /&gt;
[[Category:平安・鎌倉時代の皇族]]&lt;br /&gt;
[[Category:833年生]]&lt;br /&gt;
[[Category:916年没]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>初心者Ａ</name></author>	</entry>

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		<title>十世王</title>
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		<summary type="html">&lt;p&gt;初心者Ａ: ページの作成：「'''十世王'''（とおよおう、天長10年（833年）‐延喜16年7月3日（916年））は、平安時代前期の皇族。桓武天皇の皇孫で、父...」&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''十世王'''（とおよおう、天長10年（833年）‐延喜16年7月3日（916年））は、[[平安時代]]前期の[[皇族]]。桓武天皇の皇孫で、父は二品式部卿宮（贈一品太政大臣）[[仲野親王]]。[[斎宮]][[宣子女王]]・[[皇太后]][[班子女王]]（[[光孝天皇]]女御・[[宇多天皇]]母）らの兄弟。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
中務大輔・播磨守などを歴任。宇多天皇治世中の寛平9年（897年）6月19日に[[参議]]となる。その後、延喜10年（910年）に従三位になり、官も宮内卿に至った。延喜16年7月3日、84歳で薨去した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
子に時世王・時相王・時清王（従五位下）・[[徳姫女王]]（宇多天皇後宮）がいる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:とおよおう}}&lt;br /&gt;
[[Category:平安・鎌倉時代の皇族]]&lt;br /&gt;
[[Category:833年生]]&lt;br /&gt;
[[Category:916年没]]&lt;/div&gt;</summary>
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		<title>宣子女王</title>
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		<summary type="html">&lt;p&gt;初心者Ａ: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''宣子女王'''（よしこ/せんしじょおう、生没年不詳）は、[[平安時代]]前期の[[皇族]]。[[式部省|式部卿宮]][[仲野親王]]（[[桓武天皇]]の皇子）の娘。母は[[菅野氏]]。異母妹に[[皇太后]][[班子女王]]（[[光孝天皇]][[女御]]・[[宇多天皇]]母）がいる。[[淳和天皇]]朝の[[斎宮|伊勢斎宮]]。宜子女王（よしこ/ぎしじょおう）とも表記することもある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[天長]]5年（[[828年]]）2月12日、前年の[[氏子内親王]]の退下を受けて、斎宮に[[卜定]]され、同7年（[[830年]]）8月27日、[[鴨川 (淀川水系)|賀茂川]]で[[御禊]]、同年9月6日、[[伊勢国|伊勢]]へ群行した。同10年（[[833年]]）2月28日、淳和天皇の[[譲位]]により在任5年で退下。以後の消息は不明。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:よしこしよおう}}&lt;br /&gt;
[[Category:平安・鎌倉時代の皇族]]&lt;br /&gt;
[[Category:斎宮]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>初心者Ａ</name></author>	</entry>

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		<title>宣子女王</title>
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		<summary type="html">&lt;p&gt;初心者Ａ: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''宣子女王'''（よしこ/せんしじょおう、生没年不詳）は、[[平安時代]]前期の[[皇族]]。[[式部卿宮|式部省]][[仲野親王]]（[[桓武天皇]]の皇子）の娘。母は[[菅野氏]]。異母妹に[[皇太后]][[班子女王]]（[[光孝天皇]][[女御]]・[[宇多天皇]]母）がいる。[[淳和天皇]]朝の[[斎宮|伊勢斎宮]]。宜子女王（よしこ/ぎしじょおう）とも表記することもある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[天長]]5年（[[828年]]）2月12日、前年の[[氏子内親王]]の退下を受けて、斎宮に[[卜定]]され、同7年（[[830年]]）8月27日、[[鴨川 (淀川水系)|賀茂川]]で[[御禊]]、同年9月6日、[[伊勢国|伊勢]]へ群行した。同10年（[[833年]]）2月28日、淳和天皇の[[譲位]]により在任5年で退下。以後の消息は不明。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:よしこしよおう}}&lt;br /&gt;
[[Category:平安・鎌倉時代の皇族]]&lt;br /&gt;
[[Category:斎宮]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>初心者Ａ</name></author>	</entry>

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		<summary type="html">&lt;p&gt;初心者Ａ: ページの作成：「'''宣子女王'''（よしこ/せんしじょおう、生没年不詳）は、平安時代前期の皇族。式部卿宮仲野親王（桓武天皇の...」&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''宣子女王'''（よしこ/せんしじょおう、生没年不詳）は、[[平安時代]]前期の[[皇族]]。[[式部卿宮]][[仲野親王]]（[[桓武天皇]]の皇子）の娘。母は[[菅野氏]]。異母妹に[[皇太后]][[班子女王]]（[[光孝天皇]][[女御]]・[[宇多天皇]]母）がいる。[[淳和天皇]]朝の[[斎宮|伊勢斎宮]]。宜子女王（よしこ/ぎしじょおう）とも表記することもある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[天長]]5年（[[828年]]）2月12日、前年の[[氏子内親王]]の退下を受けて、斎宮に[[卜定]]され、同7年（[[830年]]）8月27日、[[鴨川 (淀川水系)|賀茂川]]で[[御禊]]、同年9月6日、[[伊勢国|伊勢]]へ群行した。同10年（[[833年]]）2月28日、淳和天皇の[[譲位]]により在任5年で退下。以後の消息は不明。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:よしこしよおう}}&lt;br /&gt;
[[Category:平安・鎌倉時代の皇族]]&lt;br /&gt;
[[Category:斎宮]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>初心者Ａ</name></author>	</entry>

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		<title>宜子女王</title>
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		<summary type="html">&lt;p&gt;初心者Ａ: 宣子女王へのリダイレクト&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;#転送 [[宣子女王]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>初心者Ａ</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E4%BB%B2%E9%87%8E%E8%A6%AA%E7%8E%8B&amp;diff=141588</id>
		<title>仲野親王</title>
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				<updated>2011-10-30T04:16:37Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;初心者Ａ: /* 生涯 */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''仲野親王'''（なかのしんのう、[[延暦]]11年（[[792年]]） - [[貞観 (日本)|貞観]]9年[[1月17日 (旧暦)|1月17日]]（[[867年]][[2月25日]]））は、[[平安時代]]前期の[[皇族]]。[[桓武天皇]]の第12皇子で、母は宮人[[藤原河子]]（[[藤原大継]]女）。[[平城天皇]]・[[嵯峨天皇]]・[[淳和天皇]]らの異母弟で、同母兄弟に[[安勅内親王]]・[[大井内親王]]・[[紀内親王]]・[[善原内親王]]がいた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 生涯 ==&lt;br /&gt;
[[弘仁]]5年（[[814年]]）四品に叙される。当時の親王の初叙が18歳であった中で親王の初叙が遅かった理由については不明である。[[天長]]7年（[[830年]]）[[大宰帥]]に任ぜられた。天長10年（[[833年]]）に三品に昇叙され、[[承和 (日本)|承和]]9年（[[842年]]）[[弾正尹]]に任ぜられ、承和14年（[[847年]]）に二品になった。[[嘉祥]]3年（[[850年]]）[[式部卿]]になり、[[仁寿]]3年（[[853年]]）[[常陸国|常陸]]太守を兼任する。貞観3年（[[861年]]）[[上総国|上総]]太守を兼ね、貞観5年（[[863年]]）に大宰帥に遷任。翌年の貞観6年（[[864年]]）、輦車に乗り宮中に入ることを勅許された。貞観9年（[[867年]]）正月17日、76歳で薨去した。[[山城国]]葛野郡内（[[京都市]][[右京区]]太秦垂箕山町）の高畠墓に葬られた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
幼少の頃から利発で、人柄も寛大だったらしい。[[藤原緒継]]から学んだ音儀詞語に詳しく、六条第で[[藤原基経]]や[[大江音人]]らに音詞曲折を教えたという。息子14人・娘15人の父で、子に平茂世（[[茂世王]]）・[[輔世王]]・[[房世王]]・[[秀世王]]・[[当世王]]・[[基世王]]・[[潔世王]]・[[実世王]]・[[十世王]]・[[在世王]]・[[康世王]]・[[則世王]]・[[惟世王]]・[[宜子女王]]・[[班子女王]]らがいた。娘の班子女王は[[光孝天皇]]の女御で[[宇多天皇]]の母となり、その宇多天皇が即位したため、外祖父にあたる仲野親王に一品[[太政大臣]]が追贈された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*父：桓武天皇&lt;br /&gt;
*母：藤原河子‐藤原大継女&lt;br /&gt;
*妻：当宗氏&lt;br /&gt;
**王女：班子女王‐光孝天皇女御・宇多天皇母&lt;br /&gt;
*妻：菅原氏&lt;br /&gt;
**王女：宜子女王‐伊勢斎宮&lt;br /&gt;
*生母不詳&lt;br /&gt;
**王子：茂世王（平茂世）‐正四位下・刑部卿&lt;br /&gt;
**王子：房世王（平房世）‐正四位下・因幡守&lt;br /&gt;
**王子：当世王‐従四位下・正親正&lt;br /&gt;
**王子：輔世王‐従四位下・伊予守&lt;br /&gt;
**王子：季世王‐従四位上・美作守&lt;br /&gt;
**王子：秀世王‐従四位上・美作守&lt;br /&gt;
**王子：基世王‐従四位下・因幡守&lt;br /&gt;
**王子：潔世王‐従四位上・山城守&lt;br /&gt;
**王子：実世王（平実世）‐従四位上・摂津守&lt;br /&gt;
**王子：十世王‐従三位・宮内卿&lt;br /&gt;
**王子：在世王‐従四位上・相模守&lt;br /&gt;
**王子：康世王‐従四位上・河内守&lt;br /&gt;
**王子：則世王（利世王・平利世）‐従五位下・備後守&lt;br /&gt;
**王子：惟世王（平維世）‐従四位上・大舎人頭&lt;br /&gt;
他13人の王女がいた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 参考文献 ==&lt;br /&gt;
*平野邦雄・瀬野精一郎編『日本古代中世人名辞典』[[吉川弘文館]]、2006年。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:なかのしんのう}}&lt;br /&gt;
[[Category:平安・鎌倉時代の皇族]]&lt;br /&gt;
[[Category:常陸国の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:上総国の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:792年生]]&lt;br /&gt;
[[Category:867年没]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>初心者Ａ</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E8%81%96%E6%AD%A6%E5%A4%A9%E7%9A%87&amp;diff=141586</id>
		<title>聖武天皇</title>
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				<updated>2011-10-30T00:24:00Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;初心者Ａ: /* 系譜 */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{基礎情報 天皇&lt;br /&gt;
| 名  =聖武天皇&lt;br /&gt;
| 代数=第45&lt;br /&gt;
| 画像=&lt;br /&gt;
| 説明=&lt;br /&gt;
| 在位=[[724年]][[3月3日]] - [[749年]][[8月19日]]&lt;br /&gt;
| 時代=[[奈良時代]]&lt;br /&gt;
| 年号=[[神亀]]&amp;lt;br&amp;gt;[[天平]]&amp;lt;br&amp;gt;[[天平感宝]]&lt;br /&gt;
| 首都=[[平城京]]&lt;br /&gt;
| 皇居=[[平城宮]]&lt;br /&gt;
| 諱  =首（おびと）&lt;br /&gt;
| 幼称=&lt;br /&gt;
| 別名=天璽国押開豊桜彦天皇&amp;lt;br&amp;gt;勝宝感神聖武皇帝&amp;lt;br&amp;gt;沙弥勝満&lt;br /&gt;
| 印  =&lt;br /&gt;
| 生年=[[701年]]&lt;br /&gt;
| 生地=&lt;br /&gt;
| 没年=[[756年]][[6月4日]]&lt;br /&gt;
| 没地=&lt;br /&gt;
| 陵墓=佐保山南陵&lt;br /&gt;
| 先代=[[元正天皇]]&lt;br /&gt;
| 次代=[[孝謙天皇]]&lt;br /&gt;
| 子  =[[孝謙天皇]]&amp;lt;br&amp;gt;[[基王]]&amp;lt;br&amp;gt;[[安積親王]]&amp;lt;br&amp;gt;[[井上内親王]]&amp;lt;br&amp;gt;[[不破内親王]]&lt;br /&gt;
| 皇后=[[光明皇后|藤原光明子]]&lt;br /&gt;
| 夫人=[[県犬養広刀自]]&lt;br /&gt;
| 父親=[[文武天皇]]&lt;br /&gt;
| 母親=[[藤原宮子]]&lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
'''聖武天皇'''（しょうむてんのう、[[大宝 (日本)|大宝]]元年（[[701年]]） - [[天平勝宝]]8年[[5月2日 (旧暦)|5月2日]]（[[756年]][[6月4日]]）、在位：[[神亀]]元年[[2月4日 (旧暦)|2月4日]]（[[724年]][[3月3日]]） - 天平勝宝元年[[7月2日 (旧暦)|7月2日]]（[[749年]][[8月19日]]））は[[奈良時代]]の第45代天皇である。即位前の名は'''首皇子'''（おびとのみこ）。 [[尊号]]（[[諡|諡号]]）を'''天璽国押開豊桜彦天皇'''（あめしるしくにおしはらきとよさくらひこのすめらみこと）、'''勝宝感神聖武皇帝'''（しょうほうかんじんしょうむこうてい）、'''沙弥勝満'''（しゃみしょうまん）とも言う。[[文武天皇]]の第一皇子。母は[[藤原不比等]]の娘・[[藤原宮子|宮子]]。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 経歴 ==&lt;br /&gt;
文武天皇の第一皇子として生まれたが7歳で父は死没、母の宮子も心的障害に陥りその後は長く皇子に会う事はなかった（物心がついた天皇が病気が平癒した宮子と対面したのは天皇が37歳のときのことであった）。このため、文武天皇の母親である[[元明天皇]]（[[天智天皇]]皇女）が中継ぎの天皇として即位した。[[和銅]]7年（[[714年]]）には首皇子の元服が行われて正式に立太子されるも病弱であったことと[[皇親]]勢力と[[外戚]]である[[藤原氏]]との対立もあり、即位は先延ばしにされ文武天皇の妹である[[元正天皇]]が「中継ぎの中継ぎ」として皇位を継ぐことになった。24歳の時に元正天皇より皇位を譲られて即位することになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
聖武天皇の治世の初期は皇親勢力を代表する[[長屋王]]が政権を担当していた。この当時、藤原氏は自家出身の光明子の立后を願っていた。しかしながら皇后は夫の天皇亡き後に中継ぎの天皇として即位する可能性があるため皇族しか立后されないのが当時の慣習であったことから、長屋王は光明子の立后に反対していた。ところが[[天平]]元年（[[729年]]）に[[長屋王の変]]が起き長屋王は自殺、反対勢力がなくなったため光明子は非皇族として初めて立后された。長屋王の変は長屋王を取り除き光明子を皇后にするために不比等の息子で光明子の兄弟である[[藤原四兄弟]]が仕組んだものといわれている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし天平9年（[[737年]]）に疫病が流行して藤原四兄弟をはじめとして政府高官の殆どが死亡するという惨事に見舞われて、急遽長屋王の実弟である[[鈴鹿王]]を[[太政大臣|知太政官事]]に任じて辛うじて政府の体裁を整える。更に天平12年（[[740年]]）には[[藤原広嗣の乱]]が起こっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
天平年間は災害や疫病（[[天然痘]]）が多発したため聖武天皇は[[仏教]]に深く帰依し、天平13年（[[741年]]）には[[国分寺]]建立の詔を、天平16年（[[743年]]）には[[東大寺]][[大仏]]の建立の詔を出している。また度々[[遷都]]を行って災いから脱却しようとしたものの官民の反発が強く、最終的には[[平城京]]に復帰した。また藤原氏の重鎮が相次いで亡くなったため、国政は[[橘諸兄]]（光明皇后とは異父兄弟にあたる）が取り仕切っていた。天平16年（743年）には、耕されない荒れ地が多いため新たに[[墾田永年私財法]]を制定した。これにより、[[律令制]]の根幹の一部が崩れた。天平17年閏[[1月13日 (旧暦)|1月13日]]（[[744年]][[3月7日]]）には[[安積親王]]が脚気のため急死した。これは[[藤原仲麻呂]]による毒殺だという説がある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
天平勝宝元年7月2日（749年8月19日）、娘の阿倍内親王（[[孝謙天皇]]）に譲位（一説には自らを「三宝の奴」と称した天皇が独断で[[出家]]してしまい、それを受けた朝廷が慌てて退位の手続を取ったともいわれる）。初の男性の[[太上天皇]]となる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
天平勝宝4年[[4月9日 (旧暦)|4月9日]]（[[752年]][[5月30日]]）に[[東大寺盧舎那仏像|東大寺大仏]]開眼供養を行う。天平勝宝6年（[[754年]]）、[[唐]]僧[[鑑真]]来日し皇后や天皇と共に会ったが、同時期に長く病気を患っていた母の宮子と死別する。天平勝宝8年（756年）に[[天武天皇]]の2世王・[[道祖王]]を皇太子にする遺言を残して崩御。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 系譜 ==&lt;br /&gt;
[[画像:Emperor family tree38-50.png|thumb|200px|天皇系図38～50代]]&lt;br /&gt;
* 父：[[文武天皇]]&lt;br /&gt;
* 母：[[藤原宮子]] - [[藤原不比等]]女&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 皇后：[[光明皇后]]（701-760） - 藤原不比等女、母・宮子の異母妹&lt;br /&gt;
** 阿倍内親王（[[孝謙天皇|孝謙・称徳天皇]]。718-770）&lt;br /&gt;
** [[基王]]（727-728） - 皇太子&lt;br /&gt;
* 夫人：[[県犬養広刀自]]（?-762）&lt;br /&gt;
** [[井上内親王]]（717?-775） - [[光仁天皇]]皇后&lt;br /&gt;
*** [[酒人内親王]]（754-829） - [[桓武天皇]]妃&lt;br /&gt;
*** [[他戸親王]]（?-775） - 光仁天皇皇太子&lt;br /&gt;
** [[不破内親王]]（723?-795?） - [[塩焼王]]（氷上塩焼）妃&lt;br /&gt;
*** [[氷上志計志麻呂]]・[[氷上川継]]&lt;br /&gt;
** [[安積親王]]（728-744）&lt;br /&gt;
* 夫人：[[橘古那可智]]（?‐759） - [[橘佐為]]女&lt;br /&gt;
* 夫人：藤原氏（藤原南夫人）（?‐748） - [[藤原武智麻呂]]女&lt;br /&gt;
* 夫人：藤原氏（藤原北夫人）（?‐760） - [[藤原房前]]女&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 在位中の元号 ==&lt;br /&gt;
* 神亀 724年2月4日（3月3日） - 729年[[8月5日 (旧暦)|8月5日]]（[[9月6日]]）&lt;br /&gt;
* 天平 729年8月5日（9月6日） - 749年[[4月14日 (旧暦)|4月14日]]（[[5月8日]]）&lt;br /&gt;
* 天平感宝 749年4月14日（5月8日） - 7月2日（8月19日）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 在位年と西暦との対照表 ==&lt;br /&gt;
{| border=&amp;quot;1&amp;quot; cellspacing=&amp;quot;0&amp;quot; cellpadding=&amp;quot;3&amp;quot; style=&amp;quot;clear:both; border:1px solid #999; margin:0.5em auto; text-align:center&amp;quot;&lt;br /&gt;
|colspan=&amp;quot;11&amp;quot; style=&amp;quot;background-color:#CCCCFF; font-size:90%; border-left:3em soli; font-weight:bold&amp;quot;|'''在位年と西暦との対照表'''&lt;br /&gt;
|-style=&amp;quot;background:#f2f2f2&amp;quot;&lt;br /&gt;
!神亀!!元年!!2年!!3年!!4年!!5年!!6年&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|西暦||[[724年]]||[[725年]]||[[726年]]||[[727年]]||[[728年]]||[[729年]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|[[干支]]||[[甲子]]||[[乙丑]]||[[丙寅]]||[[丁卯]]||[[戊辰]]||[[己巳]]&lt;br /&gt;
|-style=&amp;quot;background:#f2f2f2&amp;quot;&lt;br /&gt;
!天平!!元年!!2年!!3年!!4年!!5年!!6年!!7年!!8年!!9年!!10年&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|西暦||[[730年]]||[[731年]]||[[732年]]||[[733年]]||[[734年]]||[[735年]]||[[736年]]||[[737年]]||[[738年]]||[[739年]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|干支||[[庚午]]||[[辛未]]||[[壬申]]||[[癸酉]]||[[甲戌]]||[[乙亥]]||[[丙子]]||[[丁丑]]||[[戊寅]]||[[己卯]]&lt;br /&gt;
|-style=&amp;quot;background:#f2f2f2&amp;quot;&lt;br /&gt;
!天平!!11年!!12年!!13年!!14年!!15年!!16年!!17年!!18年!!19年!!20年&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|西暦|||[[740年]]||[[741年]]||[[742年]]||[[743年]]||[[744年]]||[[745年]]||[[746年]]||[[747年]]||[[748年]]||[[749年]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|干支||[[庚辰]]||[[辛巳]]||[[壬午]]||[[癸未]]||[[甲申]]||[[乙酉]]||[[丙戌]]||[[丁亥]]||[[戊子]]||[[己丑]]&lt;br /&gt;
|-style=&amp;quot;background:#f2f2f2&amp;quot;&lt;br /&gt;
!天平感宝!!元年&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|西暦||749年&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|干支||己丑&lt;br /&gt;
|}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 陵墓 ==&lt;br /&gt;
* 陵墓は奈良市法蓮町にある佐保山南陵（さほやまのみなみのみささぎ）。&lt;br /&gt;
* 光明皇后を佐保山東陵に葬る。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
* [[安禄山]]&lt;br /&gt;
* [[日本の書家一覧]]&lt;br /&gt;
* [[宸翰]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{先代次代|[[天皇の一覧|天皇]]|第45代：724-749|[[元正天皇]]|[[孝謙天皇]]}}&lt;br /&gt;
{{歴代天皇一覧}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Category:日本の天皇]]&lt;br /&gt;
[[Category:飛鳥・奈良時代の皇族]]&lt;br /&gt;
[[Category:奈良県の歴史]]&lt;br /&gt;
[[Category:東大寺]]&lt;br /&gt;
[[Category:701年生]]&lt;br /&gt;
[[Category:756年没]]&lt;br /&gt;
{{Wikipedia/Ja}}&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>初心者Ａ</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E6%A1%9C%E4%BA%95%E7%8E%8B&amp;diff=141585</id>
		<title>桜井王</title>
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				<updated>2011-10-30T00:15:41Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;初心者Ａ: ページの作成：「'''桜井王'''（さくらいおう、生没年不詳）は、奈良時代の皇族。大原真人の氏姓を賜ったことか...」&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''桜井王'''（さくらいおう、生没年不詳）は、[[奈良時代]]の[[皇族]]。[[大原氏|大原真人]]の[[氏]][[カバネ|姓]]を賜ったことから'''大原桜井'''（おおはらのさくらい）とも呼ばれる。兄に[[高安王]]、弟に[[門部王]]がおり、子に大原継麻呂がいる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
『[[本朝皇胤紹運録]]』によれば[[天武天皇]]の曾孫で、[[長親王]]の孫・[[河内王]]の子とされる。しかしこれには異説もあり、『[[新撰姓氏録]]』には[[百済王]]（[[敏達天皇]]の皇孫）の後裔とされる。いずれにせよ彼には高安王（大原高安）・門部王（大原門部）という兄弟がいたらしい。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[和銅]]7年（714年）1月、従五位下に叙位される。[[天平]]3年（731年）1月、従四位下に昇叙（以上『[[続日本紀]]』）。この間、時期は不明だが[[弾正台|弾正尹]]（『日本高僧伝要文抄』第三石山大僧都伝）を務めたことがあり、また天平年間に遠江守として[[聖武天皇]]と交わした歌が残っている（『[[万葉集]]』8-1614）。天平11年4月、兄の高安王とともに[[大原氏|大原]][[真人]]の氏姓を賜り、大原真人桜井と名乗った。天平16年2月には[[大蔵省|大蔵卿]]の任にあり、[[恭仁京]]（現在の京都府木津川市に宮跡がある）の留守司を務めた。天平勝宝8歳（756年）11月頃は存命していたらしい（『万葉集』20－4478）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
在世中は文人として名声があり、六人部王（「むとべおう」と読み、元[[斎宮]][[田形皇女]]の夫）・門部王・佐為王（[[橘佐為]]）らとともに聖武天皇の風流侍従を務めた（『[[藤氏家伝]]』下）。また『万葉集』の編纂にも何らかの形で関与していたともいわれる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
''「遠江守桜井王、天皇に奉る歌一首」''&lt;br /&gt;
*''九月''（ながつき）''のその初雁の使にも思ふ心は聞こえ来ぬかも''（『万葉集』8-1614）&lt;br /&gt;
''「大原桜井真人、佐保川の辺を行く時、作る歌一首」''&lt;br /&gt;
*''佐保川に凍りわたれる薄氷''（うすらび）''の薄き心を我が思はなくに''（同20-4478）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:さくらいおう}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Category:飛鳥・奈良時代の皇族]]&lt;br /&gt;
[[Category:万葉歌人]]&lt;br /&gt;
[[Category:大原氏]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>初心者Ａ</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E5%BE%8C%E4%BA%8C%E6%9D%A1%E5%A4%A9%E7%9A%87&amp;diff=141520</id>
		<title>後二条天皇</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E5%BE%8C%E4%BA%8C%E6%9D%A1%E5%A4%A9%E7%9A%87&amp;diff=141520"/>
				<updated>2011-10-29T03:36:34Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;初心者Ａ: 日本の天皇&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''後二条天皇'''（ごにじょうてんのう、[[弘安]]8年[[2月2日 (旧暦)|2月2日]]（[[1285年]][[3月9日]]） - [[徳治]]3年[[8月25日 (旧暦)|8月25日]]（[[1308年]][[9月10日]]））は、[[鎌倉時代]]の第94代[[天皇]]（在位：[[正安]]3年[[1月21日 (旧暦)|1月21日]]（[[1301年]][[3月2日]]） - [[徳治]]3年[[8月25日 (旧暦)|8月25日]]（[[1308年]][[9月10日]]））。[[諱]]は'''邦治'''（くにはる）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 系譜 ==&lt;br /&gt;
[[後宇多天皇]]（[[大覚寺統]]）の第一皇子。母は[[太政大臣]][[堀川基具]]の養女、西華門院[[堀川基子|基子]]（実父は[[内大臣]][[堀川具守]]）。[[後醍醐天皇]]の異母兄にあたる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*[[中宮]]：[[徳大寺忻子|藤原（徳大寺）忻子]]（長楽門院）（1283-1352） - [[徳大寺公孝]]女&lt;br /&gt;
*尚侍：藤原（一条）頊子（万秋門院）（1268-1338） - [[一条実経]]女&lt;br /&gt;
*典侍：[[五辻宗子|藤原（五辻）宗子]]（中納言典侍） - [[五辻宗親]]女&lt;br /&gt;
**第一皇子：[[邦良親王]]（1300-1326） - [[後醍醐天皇]]皇太子&lt;br /&gt;
**第二皇子：[[邦省親王]]（1302-1375）&lt;br /&gt;
*掌侍：平氏（勾当内侍） - [[平棟俊]]女&lt;br /&gt;
**第一皇女：＊子内親王（＊は女偏に便。寿成門院）（1302-1362）&lt;br /&gt;
*宮人：藤原氏（権大納言局） - [[三条公泰]]女&lt;br /&gt;
**第三皇子：祐助法親王（1302-1359） - [[天台座主]]&lt;br /&gt;
**第四皇子：聖尊法親王（1303-1370）&lt;br /&gt;
**第三皇女：栄子内親王&lt;br /&gt;
**第五皇女&lt;br /&gt;
*宮人：藤原氏（御匣殿） - [[三条公親]]女&lt;br /&gt;
**第五皇子：[[尊済法親王]]（1304-1329） - [[円満院]]&lt;br /&gt;
*宮人：平氏 - [[平信輔]]女&lt;br /&gt;
**第四皇女：瑒子内親王&lt;br /&gt;
*宮人：藤原氏（新大納言局） - 法眼良珍女 &lt;br /&gt;
**第二皇女：珉子内親王 &lt;br /&gt;
== 略歴 ==&lt;br /&gt;
[[弘安]]9年（[[1286年]]）[[10月25日 (旧暦)|10月25日]]に[[親王宣下]]を受け、[[永仁]]6年（[[1298年]]）[[6月27日 (旧暦)|6月27日]]、冷泉万里小路殿で元服。同年[[8月10日]]に[[後伏見天皇]]（[[持明院統]]）の[[皇太子]]となる。正安3年1月21日（[[1301年]]3月2日）、後伏見天皇の[[譲位]]を受けて[[践祚]]。同年[[3月24日 (旧暦)|3月24日]]に[[即位]]。[[徳治]]3年（[[1308年]]）8月に病を得て、同25日（[[9月10日]]）在位7年にして二条高倉皇居で[[崩御]]。宝算24。同27日、[[二条天皇|二条院]]の加後号として'''後二条院'''を[[追号]]された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
大覚寺統と持明院統との間で皇位継承をめぐる対立が続いていた時期に、邦治親王の立太子が実現した背景には、祖父・[[亀山天皇|亀山法皇]]による[[鎌倉幕府|幕府]]への強い働きかけがあった。すなわち、[[伏見天皇]]・[[後伏見天皇]]と持明院統の天皇が2代連続したことについて、大覚寺統は[[後嵯峨天皇|後嵯峨上皇]]の遺詔に反する決定として、幕府に不服を申立てたのである。即位に際しては、父・[[後宇多天皇|後宇多上皇]]による[[院政]]が実現したが、当時は南北朝分裂への過渡期にあたり、「天の下の人、又押し返し、一方に靡（なび）きたる程も、さも目の前に移ろひ変はる世の中かな」&amp;lt;ref&amp;gt;『[[増鏡]]』巻14「つげの小櫛」&amp;lt;/ref&amp;gt;と慨嘆される時世であった。さらに、天皇が在位7年で病没したことやその時点で大覚寺統の嫡流を継ぐべき皇子の[[邦良親王]]がわずか9歳だったことから、大覚寺統と持明院統とが交互に皇位継承していくという幕府裁定の[[両統迭立]]原則が崩壊することになった。その調整策の結果、天皇の異母弟である[[後醍醐天皇]]が中継ぎとして即位し、そして[[皇位継承]]への幕府の関与に対する異議申し立てに発する討幕運動へと展開していくことになるのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なお、天皇は在位中、[[嘉元]]元年（[[1303年]]）に後二条院歌合を催すなど、[[歌会]]・[[歌合]]の催行が多く、同3年（[[1305年]]）には、自ら『後二条院御集』（原題『愚藻』）を撰集している。また、後宇多上皇の[[院宣]]を受けて[[勅撰集]]（『[[新後撰和歌集]]』）の撰進が行われたが、これは大覚寺統による支配の正統性を誇示する政治的行為でもあった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 在位中の元号 ==&lt;br /&gt;
* [[正安]] （[[1301年]][[1月22日 (旧暦)|1月22日]]） - [[1302年]][[11月21日 (旧暦)|11月21日]]&lt;br /&gt;
* [[乾元 (日本)|乾元]] 1302年11月21日 - [[1303年]][[8月5日 (旧暦)|8月5日]]&lt;br /&gt;
* [[嘉元]] 1303年8月5日 - [[1306年]][[12月14日 (旧暦)|12月14日]]&lt;br /&gt;
* [[徳治]] 1306年12月14日 - （[[1308年]][[8月25日 (旧暦)|8月25日]]）&lt;br /&gt;
== 陵墓 ==&lt;br /&gt;
*[[京都市]][[左京区]][[北白川]]追分町にある'''北白河陵'''（きたしらかわのみささぎ）とされる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[徳治]]3年（[[1308年]]）8月28日、北白川殿で火葬し、そのまま陵とした。中世に荒廃したが、[[元禄]]探陵の時に当所が陵に擬定され、幕末に修補を加えた。なお、分骨所が父・後宇多天皇の蓮華峯寺陵内にある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 脚注 ==&lt;br /&gt;
{{Reflist}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:こにしようてんのう}}&lt;br /&gt;
[[Category:日本の天皇]]&lt;br /&gt;
[[Category:日本の幼帝]]&lt;br /&gt;
[[Category:平安・鎌倉時代の皇族]]&lt;br /&gt;
[[Category:1285年生]]&lt;br /&gt;
[[Category:1308年没]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>初心者Ａ</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E5%BE%90%E7%9A%87%E5%90%8E_(%E6%B0%B8%E6%A5%BD%E5%B8%9D)&amp;diff=141303</id>
		<title>徐皇后 (永楽帝)</title>
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				<updated>2011-10-26T03:31:01Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;初心者Ａ: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''徐皇后'''（じょこうごう、[[1362年]] - [[1407年]][[7月]]）は、[[明]]の第3代[[皇帝]]である[[永楽帝]]（朱棣）の[[皇后]]。安徽省鳳陽の人。[[朱元璋]]（洪武帝）に仕え明の建国に貢献した元勲である[[徐達]]の長女で、母は謝氏（[[謝再興]]の次女）。[[靖難の変]]で活躍した[[徐輝祖]]の姉。'''仁孝文皇后'''と諡された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
幼い頃から読書を好んだ才女で、「女諸生（女学者という意味）」とまで称された。その噂を聞いた朱元璋は4男で見込みのあった燕王朱棣の正妻として嫁がせるよう徐達に頼み込み、洪武9年（[[1376年]]）に15歳の徐氏は17歳の朱棣と結婚した。彼女は人柄が優しく温和だったため[[馬皇后 (洪武帝)|馬皇后]]（洪武帝の皇后）に特に寵愛されたという。彼女は朱棣との間に長男朱高熾（[[洪熙帝]]）・次男[[朱高煦]]・3男[[朱高燧]]・長女永安公主・次女永平公主・3女安成公主・4女咸寧公主を儲けた。洪武13年3月、夫と共に北平に赴いた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1399年]]に[[靖難の変]]が起こると、燕の本拠である[[北平]]（北京）に[[建文帝]]軍の将である[[李景隆]]が攻めてくる。このとき北平を守るは[[朱能]]とわずかな兵士だったが、徐氏も出征中の兵士の妻を集め自らも鎧を着て奮戦したという。[[1402年]]に靖難の変が終結すると、弟である徐輝祖の助命を夫に嘆願して許され、夫が永楽帝になると皇后になった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
慎み深い性格で、皇后になっても驕ることは無く自らの一族を重用することは決して無かった。文化事業に熱心で、古人の格言・善行を編纂した「内訓」や「高皇后聖訓」「勧善」などがある。1407年7月に死去。享年46。死因は乳癌だったとも言われる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
永楽帝は彼女の死を深く悲しみ、[[チベット]]から僧侶を招いて盛大な葬儀を行なったと伝わっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 系譜 ==&lt;br /&gt;
*父：中山王[[徐達]]&lt;br /&gt;
*母：謝翠娥（謝再興の娘）&lt;br /&gt;
**弟：[[徐輝祖]]&lt;br /&gt;
**弟：徐添福（夭折）&lt;br /&gt;
**弟：[[徐膺緒]]&lt;br /&gt;
**弟：[[徐增壽]]&lt;br /&gt;
**妹：徐氏（代王[[朱桂]]の妃）&lt;br /&gt;
**妹：徐氏（安王[[朱楹]]の妃）&lt;br /&gt;
*夫：[[永楽帝]]朱棣&lt;br /&gt;
**長女：永安公主（?‐1417）‐袁容に嫁ぐ&lt;br /&gt;
**長男：[[洪熙帝]]朱高熾（1378‐1425）&lt;br /&gt;
**次女：永平公主（1379‐1444）‐李讓に嫁ぐ&lt;br /&gt;
**次男：漢王[[朱高煦]]（1380‐1426）&lt;br /&gt;
**三男：趙王[[朱高燧]]（1383‐1431）&lt;br /&gt;
**三女：安成公主（1384‐1443）‐宋琥（西寧公[[宋晟]]の次男）に嫁ぐ&lt;br /&gt;
**四女：咸寧公主（1385‐1440）‐宋瑛（西寧公[[宋晟]]の三男）に嫁ぐ&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 参考文献 ==&lt;br /&gt;
* 『明史』（[[中華書局]]）&lt;br /&gt;
* 『中国歴代皇帝人物事典』（[[河出書房新社]]）&lt;br /&gt;
* 『永楽帝』（[[徳間書店]]。[[伴野朗]]）&lt;br /&gt;
*[http://zh.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%90%E7%9A%87%E5%90%8E#.E5.AE.B6.E5.BA.AD Wikipedia中国語版・仁孝文皇后]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:しよこうこう}}&lt;br /&gt;
[[Category:明の皇后]]&lt;br /&gt;
[[Category:1362年生]]&lt;br /&gt;
[[Category:1407年没]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>初心者Ａ</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E5%BE%90%E7%9A%87%E5%90%8E_(%E6%B0%B8%E6%A5%BD%E5%B8%9D)&amp;diff=141268</id>
		<title>徐皇后 (永楽帝)</title>
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				<updated>2011-10-24T12:35:30Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;初心者Ａ: ページの作成：「'''徐皇后'''（じょこうごう、1362年 - 1407年7月）は、明の第3代皇帝である永楽帝（朱棣）の皇后。安徽省鳳...」&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''徐皇后'''（じょこうごう、[[1362年]] - [[1407年]][[7月]]）は、[[明]]の第3代[[皇帝]]である[[永楽帝]]（朱棣）の[[皇后]]。安徽省鳳陽の人。[[朱元璋]]（洪武帝）に仕え明の建国に貢献した元勲である[[徐達]]の長女で、母は謝氏。[[靖難の変]]で活躍した[[徐輝祖]]の姉。'''仁孝文皇后'''と諡された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
幼い頃から読書を好んだ才女で、「女諸生（女学者という意味）」とまで称された。その噂を聞いた朱元璋は4男で見込みのあった燕王朱棣の正妻として嫁がせるよう徐達に頼み込み、洪武9年（[[1376年]]）に15歳の徐氏は17歳の朱棣と結婚した。彼女は人柄が優しく温和だったため[[馬皇后 (洪武帝)|馬皇后]]（洪武帝の皇后）に特に寵愛されたという。彼女は朱棣との間に長男朱高熾（[[洪熙帝]]）・次男[[朱高煦]]・3男[[朱高燧]]・長女永安公主・次女永平公主・3女安成公主・4女咸寧公主を儲けた。洪武13年3月、夫と共に北平に赴いた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1399年]]に[[靖難の変]]が起こると、燕の本拠である[[北平]]（北京）に[[建文帝]]軍の将である[[李景隆]]が攻めてくる。このとき北平を守るは[[朱能]]とわずかな兵士だったが、徐氏も出征中の兵士の妻を集め自らも鎧を着て奮戦したという。[[1402年]]に靖難の変が終結すると、弟である徐輝祖の助命を夫に嘆願して許され、夫が永楽帝になると皇后になった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
慎み深い性格で、皇后になっても驕ることは無く自らの一族を重用することは決して無かった。文化事業に熱心で、古人の格言・善行を編纂した「内訓」や「高皇后聖訓」「勧善」などがある。1407年7月に死去。享年46。死因は乳癌だったとも言われる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
永楽帝は彼女の死を深く悲しみ、[[チベット]]から僧侶を招いて盛大な葬儀を行なったと伝わっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 参考文献 ==&lt;br /&gt;
* 『明史』（[[中華書局]]）&lt;br /&gt;
* 『中国歴代皇帝人物事典』（[[河出書房新社]]）&lt;br /&gt;
* 『永楽帝』（[[徳間書店]]。[[伴野朗]]）&lt;br /&gt;
*[http://zh.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%90%E7%9A%87%E5%90%8E#.E5.AE.B6.E5.BA.AD Wikipedia中国語版・仁孝文皇后]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:しよこうこう}}&lt;br /&gt;
[[Category:明の皇后]]&lt;br /&gt;
[[Category:1362年生]]&lt;br /&gt;
[[Category:1407年没]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>初心者Ａ</name></author>	</entry>

	<entry>
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		<title>朱元璋</title>
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				<updated>2011-10-24T02:25:27Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;初心者Ａ: ページの作成：「'''朱 元璋'''（しゅ げんしょう、天暦元年9月18日（1328年10月21日） - 洪武31年閏[[5月10日 (...」&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''朱 元璋'''（しゅ げんしょう、[[天暦 (元)|天暦]]元年[[9月18日 (旧暦)|9月18日]]（[[1328年]][[10月21日]]） - [[洪武]]31年閏[[5月10日 (旧暦)|5月10日]]（[[1398年]][[6月24日]]）、在位：[[1368年]][[1月23日]] - [[1398年]][[6月24日]]）は、[[中国]]の[[明]]朝の創始者であり、初代[[皇帝]]である。[[廟号]]は太祖（たいそ）。[[諡号]]は開天行道肇紀立極大聖至神仁文義武俊德成功高皇帝。その治世の年号を取って、'''洪武帝'''（こうぶてい）と呼ばれる。また、生まれた頃の名は、'''朱重八'''（しゅ じゅうはち）といい、後に'''朱興宗'''（しゅこうそう）と改名し、紅巾軍に参加する頃にさらに朱元璋と改名し、字を国瑞（こくずい）とした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 生涯 ==&lt;br /&gt;
=== 紅巾の乱 ===&lt;br /&gt;
[[元 (王朝)|元]]末の天暦元年（1328年）、濠州の鐘離（現在の[[安徽省]][[鳳陽県]]）の貧農の家の末子に生まれる。伝承によると母親は夢の中で[[仙人]]から赤い玉を授かって妊娠し、朱元璋が生まれると家全体が赤く光り輝き、近所の人々が火事であると勘違いして家の周りに集まってきたという。従兄弟も含めて八番目の子であったため、重八と名づけられる（もしくは[[排行]]でそのように呼ばれる）。元末の政治混乱に伴い飢饉・凶作が頻発しており、朱元璋の家族は食べるものも無く飢え死にした（流行病で家族を失った説もある）。朱元璋だけは皇覚寺という寺に身を寄せ[[托鉢]]僧となり、[[淮河]]流域で[[勧進]]の旅を続けながら辛うじて生き延びたが、ほとんど乞食同然の生活であった。中国はもとより全世界の帝王・王朝創始者の中でも最も悲惨な境遇から身を起こした人物といわれる所以である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1351年]]、[[白蓮教]]徒の集団が各地で反乱を起こし、[[紅巾の乱]]が勃発した。この大乱により皇覚寺は焼け落ちてしまった。朱元璋は自分の将来を占ってみたところ、紅巾軍に参加することが大吉であると出たため、[[韓林児]]を教祖とする東系紅巾軍の一派として濠州で挙兵していた[[郭子興]]のもとに身を投じたという。朱元璋は郭子興の下で頭角を現し、養女の馬氏を妻に貰った。これが後の[[馬皇后 (洪武帝)|馬皇后]]である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
朱元璋が郭子興の軍に参加した時、最初は間諜と間違われ、殺されそうになったが、面構えが郭子興に気に入られて、幕下に入ったという逸話がある。それぐらい朱元璋の人相が悪かったとも言えるだろう。朱元璋は他の造反軍がただ食料欲しさに目の前の事しか考えないのに比べ、先のことを考えた行動をとった。自分の出自を逆に活かして貧民の味方という立場を打ち出し、元軍の中の徴兵された農民達を取り込んで勢力を増していった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この時期、のちに功臣第一となる[[徐達]]や勇猛で知られる[[常遇春]]や後の謀臣・[[李善長]]と出会った。朱元璋は李善長から「乱れた天下を治めるのは貴方である。そのためには同じ農民出身の[[劉邦]]の真似をすれば良い」と言われた。これ以降朱元璋の行動は劉邦を意識したものが多くなる。朱元璋が皇帝になる野望を本当に抱き始めたのはこの頃からだろう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 江南の統一 ===&lt;br /&gt;
[[1355年]]に郭子興が死ぬと彼の軍は息子の郭天叙、郭子興の妻の弟・張天祐、そして朱元璋の3人に受け継がれた。しかし郭天叙と張天祐の2人は、元軍との戦いで戦死したため（朱元璋による陰謀との説もある）、朱元璋はそれらの軍を吸収し[[1356年]]、集慶路（現在の[[南京市|南京]]）を占領し、応天府と改める。応天府を占領した朱元璋は長江下流の一大勢力となった。朱元璋の名声は大いに高まり各地から[[劉基]]、[[宋濂]]ら名望家がやって来るようになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その頃、長江上流では西系紅巾よりのし上がってきた[[陳友諒]]が大漢国をうち立て、[[湖北省|湖北]]から[[江西省|江西]]の一帯を支配していた。また非紅巾勢力の[[張士誠]]も蘇州を本拠に大勢力を築いていた。朱元璋を含めたこの3勢力で当時、中国で最も豊かであるといわれた[[江南]]の覇権を争うことになった。[[1360年]]、陳友諒は大軍を率いて応天府の目と鼻の先まで進軍し陣を敷いた。その上で張士誠に使者を送り、共に朱元璋を挟み撃ちにするよう促した。応天府では投降、首都放棄を主張する者まで現れるほど混乱したが、劉基が「陳友諒との決戦あるのみ」を主張し、部下の偽りの降伏によって陳友諒の軍を竜湾に引きずり出し勝利することができた。[[1363年]]3月、陳友諒は前回の敗北を挽回すべく60万を号する大水軍を率いて南昌を攻撃し、7月、朱元璋も水軍を率いて救援に向かった。これを[[鄱陽湖の戦い]]と言う。3日にわたる激戦の後、劉基の献策した火薬を用いた火計が当たり、漢の水軍の殲滅に成功し陳友諒自身も戦死した。翌年に陳友諒の後を継いだ陳理が降伏し大漢国を滅ぼした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1364年]]、朱元璋は呉王を名乗った。同じ頃、張士誠も呉王を名乗っており、両者は江南の覇権をかけて激突した。朱元璋は張士誠側の要地を一つ一つ確実に落としていった。[[1366年]]に朱元璋は[[韓林児]]を応天府に呼び寄せたが、その途中、韓林児は水死してしまった（朱元璋の部下に暗殺されたとも言われる）。これを機会に朱元璋は方針を大きく転換し白蓮教と縁を切り、逆に邪教として弾圧するようになった。[[1367年]]、11ヶ月にもおよぶ包囲の末に[[蘇州市|蘇州]]に拠る張士誠を討ち、淮南、江南を統一した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1368年]][[正月]]、応天府（現在の南京）にて朱元璋は即位し、元号を[[洪武]]とし、国号を大明とした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 中国統一 ===&lt;br /&gt;
太祖は元に内紛を生じたのを好機と捉え、20万を越える大軍を竹馬の友である徐達に授け[[北伐]]を行わせた。当時元軍の主力である[[ココ・テムル]]の軍は陝西で李思斉の軍と交戦中であり、中原の防備は手薄であった。北伐軍は快調に進撃し、山東、河南を次々に平定した。元の[[トゴン・テムル|順帝]]は抵抗を諦め首都[[大都]]を放棄して北方へ逃走したため、明軍は抵抗を受けることもなく同年の8月に大都を占領し、北平府と改称した。元はモンゴルへ撤退し[[北元]]となった。[[1371年]]に紅巾の残党である[[四川]]の[[夏 (元末)|大夏国]]を滅ぼし、[[1381年]]には段氏の[[雲南]]を平定し中国を統一した。また北元を討つためモンゴルへ繰り返し出兵し、元の残党の多くを降らせることに成功した。[[1387年]]の遠征で北元最後の主力であった[[マンジュリア]]軍団を討ち、北元をほぼ壊滅させた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 即位後の政策 ===&lt;br /&gt;
==== 国家組織 ====&lt;br /&gt;
洪武帝は独裁権力の確立を目指し[[中書省]]を廃止して六部を直属とした。また軍も皇帝直属とし、[[宦官]]の専横を抑えるために宦官は学問をしてはならないという布告を出した（詳細に関しては「[[明]]」の項を参照）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 民政 ====&lt;br /&gt;
洪武帝は[[重農主義|重農政策]]を打ち出し、[[商人|大商人]]を弾圧して、大商人や大地主の財産を没収、荒地の開拓地への強制移住などを行った。また、貨幣流通の掌握のために銀山の官有や[[銅銭]]・[[紙幣]]の発行、民間における[[銀]]の通貨としての使用を禁じた。一方で[[1380年]]には不当な商税を廃して、生活必需品を扱うような零細な商人の保護も行っている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
重農政策のもと、[[1371年]]には地方官の治績の評価に流民の定着と農地回復の度合いを加え、[[1381年]]に全国一斉に[[魚鱗図冊]]（土地台帳）、[[賦役黄冊]]（戸籍台帳）を作り、[[里甲制]]（村落の自治的行政制度）・[[衛所制]]（兵農一致による軍事制度）を実施した。[[1394年]]には[[工部]]の官吏と[[国子監]]の学生を総動員して[[治水]]事業を一斉に行い、全国で49,007ヶ所の[[堤防]]を修繕したという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 官吏、知識人の弾圧 ====&lt;br /&gt;
[[1381年]]、[[文字の獄]]と呼ばれる大弾圧を行った。「光」「禿」「僧」などの字を使っただけで、洪武帝が昔僧侶であったことをあてこすったとされて[[薛祥]]ら功臣が殺され、洪武帝が盗賊まがいのことをしていたので、「盗」の字と同音の道、「僧」と音の近い「生」の字を使った者がそれだけで殺された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1382年]]には「[[空印事件]]」（「空印の案」とも）と呼ばれる官吏への残虐な懲罰を行った。当時の地方官らの間では、ある種の文書作成の手間を省くため、先に承認印だけを押した用紙（空印）を用意しておき、それを利用して報告書を作成することが常態となっていたのだが、それに気付いた洪武帝は、印の管理者を全員死刑とし、他の関係者にも厳罰を下したのである。[[鄭士利]]という地方官は、空印事件の関係者に冤罪の者が大勢いる旨を洪武帝に直訴したところ、かえって罪に処せられて労役に付かされた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1385年]]には[[郭桓事件]]が起こる。これは、[[戸部侍郎]]の[[郭桓]]が不正経理を行ったとして死刑となった際、各布政使司の官吏も連座させられた事件で、殺されたものは数万にのぼったという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
文人たちは戦々恐々とし、洪武帝から離れようとしたがそれも許されず、文才のある者は官吏として半強制的に登用された。官吏を選抜するための[[科挙]]は極めて難しい試験を課され、及第するためには何年も勉強しなければならなかったが、明の時代に試験の難易度が下がり、定型文を暗記するだけでよくなった。これにより明の官吏の意識は低下し、事なかれ主義に走り、朝廷で目立つ行動を取ることを恐れるようになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 粛清 ===&lt;br /&gt;
洪武帝は自分が老いるに従い後の心配をするようになった。[[皇太子]]に選ばれたのは長男の[[朱標]]であったが、この皇太子は優しい性格で、洪武帝から見るとあまりにも甘すぎると感じられた。一連の粛清事件は、この後継者のことを心配したためとも言われる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1375年]]には[[劉基]]が胡惟庸に毒殺された。[[:zh:廖永忠|廖永忠]]も殺されている。[[1380年]]には、功臣・中書左[[丞相]]・[[胡惟庸]]の疑獄事件をきっかけとしてそれまでの功臣の大粛清を始めた。これは[[胡惟庸の獄]]と呼ばれ、胡惟庸らの誅殺により一旦は終結した。この際、胡惟庸は隣国日本に通じたという容疑もかけられている。同年に[[宋濂]]も連座させられ、馬皇后のとりなしで刑一等を減ぜられて流刑となったが、翌年死んだ。[[1384年]]には[[李文忠]]が毒殺された。[[1385年]]に[[徐達]]が病死したが、これにも毒殺説がある。さらに胡惟庸の獄の10年後の[[1390年]]、事件を再び蒸し返して[[李善長]]ら功臣の大粛清を行った。自分の寿命が近づいたことを覚悟していたのか、前回よりもはるかに激しくなり、3万を越える人数が誅殺されたとされる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これでやっと粛清の嵐も収まったかと思われた[[1392年]]、皇太子が早世した。洪武帝は皇太子の子の[[建文帝|朱允{{lang|zh|炆}}]]を皇太孫としたが、幼い後継者に変わったことで更に後継者が心配になり、再び粛清を始めた。[[1393年]]には[[藍玉 (明)|藍玉]]が謀反を起こしたとして、一族もろとも殺された。これは[[藍玉 (明)#藍玉の獄|藍玉の獄]]と呼ばれ、先の胡惟庸の獄と合わせて胡藍事件とも言う。[[1394年]]には穎国公の[[傅友德]]と[[王弼 (明)|王弼]]が殺された。傅友德についてはなぜ殺されたのかが分からず歴史家も理由を探すのに難儀しているという。[[1395年]]には宋国公の[[馮勝]]が殺された。[[1396年]]には監察御史の[[王朴]]、[[1397年]]には[[欧陽倫]]が殺された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
洪武帝は死の間際まで功臣を殺し続け、[[1398年]]に崩御した。[[享年]]71（満69歳没）。後を孫の朱允{{lang|zh|炆}}（建文帝）が継いだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 宗室 ==&lt;br /&gt;
=== 父母・兄弟姉妹 ===&lt;br /&gt;
*父 朱世珍（元の名（[[排行]]での呼び方）は朱五四、後に仁祖淳皇帝と追贈）&lt;br /&gt;
*母 陳氏（後に淳皇后と追贈）&lt;br /&gt;
*兄 南昌王朱興隆（本名・朱重四）：[[朱文正]]・[[福成公主]]らの父。&lt;br /&gt;
*兄 盱眙王朱興盛（本名・朱重六）&lt;br /&gt;
*兄 臨淮王朱興祖（本名・朱重七）&lt;br /&gt;
*姉 曹国公主：李貞の妻・[[李文忠]]の母&lt;br /&gt;
*姉 太原公主：王七一の妻&lt;br /&gt;
=== 后妃 ===&lt;br /&gt;
*皇后 [[馬皇后 (洪武帝)|孝慈高皇后馬氏]]&lt;br /&gt;
*孫貴妃（成穆貴妃）&lt;br /&gt;
*李淑妃&lt;br /&gt;
*郭寧妃&lt;br /&gt;
*郭恵妃&lt;br /&gt;
*崔恵妃（荘靖安栄恵妃）&lt;br /&gt;
*江貴妃&lt;br /&gt;
*趙貴妃&lt;br /&gt;
*胡充妃（昭敬充妃）&lt;br /&gt;
*鄭安妃&lt;br /&gt;
*達定妃（[[永楽 (明)|永楽]]年間に廃されて庶人となる）&lt;br /&gt;
*胡順妃（建文年間に自焚死）&lt;br /&gt;
*任順妃&lt;br /&gt;
*李賢妃&lt;br /&gt;
*甕妃&lt;br /&gt;
*劉恵妃&lt;br /&gt;
*葛麗妃&lt;br /&gt;
*碽妃&lt;br /&gt;
*韓妃&lt;br /&gt;
*余妃&lt;br /&gt;
*楊妃&lt;br /&gt;
*余妃&lt;br /&gt;
*周妃&lt;br /&gt;
*李婕妤&lt;br /&gt;
*崔美人&lt;br /&gt;
*張美人&lt;br /&gt;
*郜氏&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 子 ===&lt;br /&gt;
朱元璋には26人の息子がいた。&lt;br /&gt;
*# 懿文太子[[朱標]]、母は[[馬皇后 (洪武帝)|馬皇后]]&amp;lt;ref&amp;gt;長男朱標・次男朱樉・3男朱棡については母を李淑妃とする説もある。&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
*# 秦愍王[[朱樉]]、母は馬皇后&lt;br /&gt;
*# 晋恭王[[朱棡]]、母は馬皇后&lt;br /&gt;
*# 燕王[[永楽帝|朱棣]]（[[永楽帝]]）、母は馬皇后&amp;lt;ref&amp;gt;4男朱棣・5男朱橚については母を碽妃とする説もある。&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
*# 周定王[[朱橚]]（建文年間に廃位、永楽年間に復位）、母は馬皇后&lt;br /&gt;
*# 楚昭王[[朱楨]]、後の、母は胡充妃&lt;br /&gt;
*# 斉王[[朱榑]]（建文年間に廃位、永楽年間に復位）、母は達定妃&lt;br /&gt;
*# 潭王[[朱梓]]（胡惟庸の獄で妃の家である于氏が連座、追及を恐れ自焚死）、母は達定妃&lt;br /&gt;
*# 趙王[[朱杞]]（夭折）、母は不明&lt;br /&gt;
*# 魯荒王[[朱檀]]、母は郭寧妃&lt;br /&gt;
*# 蜀献王[[朱椿]]、母は郭恵妃&lt;br /&gt;
*# 湘献王[[朱柏]]、母は胡順妃（建文年間に自焚死）&lt;br /&gt;
*# 代簡王[[朱桂]]（建文年間に廃位、永楽年間に復位）、母は郭恵妃&lt;br /&gt;
*# 粛庄王[[朱楧]]、母は郜氏&lt;br /&gt;
*# 遼簡王[[朱植]]、母は韓妃&lt;br /&gt;
*# 慶靖王[[朱栴]]、母は余妃&lt;br /&gt;
*# 寧献王[[朱権]]、母は楊妃&lt;br /&gt;
*# 岷荘王[[朱楩]]（建文年間に[[福建省|漳州]]へ配流、永楽年間に復位）、母は周妃&lt;br /&gt;
*# 谷王[[朱橞]]（[[永楽 (明)|永楽]]年間に廃されて庶人となる）、母は郭恵妃&lt;br /&gt;
*# 韓憲王[[朱松]]、母は周妃&lt;br /&gt;
*# 瀋簡王[[朱模]]、母は趙貴妃&lt;br /&gt;
*# 安恵王[[朱楹]]、母は不明&lt;br /&gt;
*# 唐定王[[朱桱]]、は李賢妃&lt;br /&gt;
*# 郢靖王[[朱棟]]、母は劉恵妃&lt;br /&gt;
*# 伊暦王朱㰘、母は葛麗妃&lt;br /&gt;
*# 朱楠（夭折）、母は不明&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 女 ===&lt;br /&gt;
*#臨安公主：李祺（李善長の子）に嫁ぐ&lt;br /&gt;
*#寧国公主（母は馬皇后）：梅殷（梅思祖の甥）に嫁ぐ&lt;br /&gt;
*#崇寧公主：牛城に嫁ぐ&lt;br /&gt;
*#安慶公主（母は馬皇后）：欧陽倫に嫁ぐ&lt;br /&gt;
*#汝寧公主：陸賢（陸仲亨の子）に嫁ぐ&lt;br /&gt;
*#懐慶公主（母は孫貴妃）：王貞亮に嫁ぐ&lt;br /&gt;
*#大名公主：李堅に嫁ぐ&lt;br /&gt;
*#福清公主（母は鄭安妃）：張麟に嫁ぐ&lt;br /&gt;
*#寿春公主：傅忠（傅友徳の子）に嫁ぐ&lt;br /&gt;
*#十公主（夭折）&lt;br /&gt;
*#南康公主：胡観（胡海の子）に嫁ぐ&lt;br /&gt;
*#永嘉公主（母は郭恵妃）：郭鎮（郭寧妃の兄郭英の子）&lt;br /&gt;
*#十三公主（夭折）&lt;br /&gt;
*#含山公主（母は韓妃）：尹清に嫁ぐ&lt;br /&gt;
*#汝陽公主（母は郭恵妃）：謝達に嫁ぐ&lt;br /&gt;
*#宝慶公主：趙輝に嫁ぐ&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 家臣 ==&lt;br /&gt;
=== 定遠攻略（1353年）に参加した24将 ===&lt;br /&gt;
[[徐達]]、[[湯和]]、[[費聚]]、[[呉良]]、[[呉楨]]、[[花雲]]、[[陳徳]]、[[顧時]]、[[耿再成]]、[[耿炳文]]、[[唐勝宗]]、[[陸仲亨]]、[[華雲龍]]、[[鄭遇春]]、[[郭興]]、[[郭英]]、[[胡海]]、[[張龍]]、[[陳桓]]、[[謝成]]、[[李新材]]、[[張赫]]、[[周銓]]、[[周徳興]]&amp;lt;ref name=&amp;quot;kawabata&amp;quot;&amp;gt;川越泰博著『明史』（中国古典新書続編28）明徳出版社、2004年 ISBN 4-89619-828-X。&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 明の建国時（1368年）に重職を与えられた者 ===&lt;br /&gt;
[[李善長]]、[[徐達]]、[[常遇春]]、[[馮宗異]]、[[胡廷端]]、[[廖永忠]]、[[李伯升]]、[[趙庸]]、[[王溥]]、[[楊憲]]、[[傅瓛]]、[[康茂才]]、[[張興祖]]、[[顧時]]、[[孫興祖]]、[[呉楨]]、[[耿炳文]]、[[鄧愈]]、[[湯和]]、[[劉基]]、[[章溢]]、[[文原吉]]、[[範顕祖]]&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.hoolulu.com/zh/25shi/24mingshi/s-115.htm 明史・列伝第3]&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 洪武2年（1369年）の叙勲 ===&lt;br /&gt;
公爵：[[李善長]]、[[徐達]]、[[李文忠]]、[[馮勝]]、[[鄧愈]]、[[常茂]]。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
侯爵：[[湯和]]、[[唐勝宗]]、[[陸仲亨]]、[[周徳興]]、[[華雲龍]]、[[顧時]]、[[耿炳文]]、[[陳徳]]、[[郭子興]]、[[王志]]、[[鄭遇春]]、[[費聚]]、[[呉良]]、[[呉楨]]、[[趙庸]]、[[廖永忠]]、[[兪通源]]、[[華高]]、[[楊璟]]、[[康鐸]]、[[硃亮祖]]、[[傅友徳]]、[[胡美]]、[[韓政]]、[[黄彬]]、[[曹良臣]]、[[梅思祖]]、[[陸聚]]&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.hoolulu.com/zh/25shi/24mingshi/s-068.htm 明史・輿服4]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 洪武9年（1376年）に認定された功臣 ===&lt;br /&gt;
[[徐達]]、[[常遇春]]、[[李文忠]]、[[鄧愈]]、[[湯和]]、[[沐英]]、[[兪通海]]、[[張徳勝]]、[[胡大海]]、[[趙得勝]]、[[耿再成]]、[[桑世傑]]&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.hoolulu.com/zh/25shi/24mingshi/s-052.htm 明史・礼6]&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 功臣として太祖廟に祀られた者 ===&lt;br /&gt;
[[徐達]]、[[常遇春]]、[[李文忠]]、[[鄧愈]]、[[湯和]]、[[沐英]]、[[胡大海]]、[[趙徳勝]]、[[華高]]、[[兪通海]]、[[呉良]]、[[曹良臣]]、[[呉復]]、[[孫興祖]]、[[馮国用]]、[[耿再成]]、[[丁德興]]、[[張徳勝]]、[[呉楨]]、[[康茂才]]、[[茅成]]&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.hoolulu.com/zh/25shi/24mingshi/s-050.htm 明史・礼4]&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== その他の家臣 ===&lt;br /&gt;
[[邵栄]]、[[胡惟庸]]、[[宋濂]]、[[藍玉 (明)|藍玉]]、[[陶安]]、[[張昶]]、[[謝再興]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 人物・逸話 ==&lt;br /&gt;
*洪武帝の死後、孫の朱允炆が即位して[[建文帝]]となった。洪武帝は孫のために万全の策を尽くしたと思ったのであろうが、翌年には[[靖難の変]]で建文帝と息子の[[永楽帝|朱棣]]が戦うことになる。洪武帝は家臣には異常な程猜疑の目を向けたが、自分の家族は全面的に信じ、大きな兵を預けたままであった（若い頃に家族を失い、孤児となった記憶から家族を強く愛し、疑わなかったのであろう）。戦術に長けていた功臣は既に殺し尽くされていたので、建文帝軍は二流の将軍しか持たず、結局建文帝は敗死した。&lt;br /&gt;
*現代に残っている洪武帝の肖像画には2種類が知られている。一方はいかにも君子然とした温和そうな老人であり、もう一つはねじくれた顔をした醜い人相のものである。後者が実像で、前者は画家に粉飾させたものと推察される。[[豊臣秀吉]]にも似たような話があるが、洪武帝の場合は本人の二重性格を表しているとの指摘もある。また逆に、前者が実像で、後者のほうが粉飾であるという異説もある。暗殺を恐れて、あえて醜悪な顔であると広めたという説である。&lt;br /&gt;
*文字の獄のような政策は政治上の必要から行われたこともあったろうが、その基盤となったのは洪武帝の文人や商人に対する不信感、あるいは憎悪によるものでもあったであろう。少年時代の極貧生活の記憶が常に洪武帝の頭の中にあった。文人や功臣を大量に殺す一方で[[肉刑]]を禁ずる布告を出したり、治水工事を熱心に行うなど農民に対しては常に心を砕き、恤れみの心を持っていた。&lt;br /&gt;
*洪武帝と[[永楽帝]]が中国における皇帝の独裁を確立したと言われている。洪武帝は重農主義と民族主義を基調として国を作ったが、永楽帝によって全て覆され、その後の明は洪武帝の方針と永楽帝の方針の間で揺れ動くことになる。なお近年では、洪武帝の重農主義を彼個人の性格と並んで、長年の戦乱で貨幣体系が崩壊して一時的な自然経済への回帰現象の中で発生したという側面を指摘する歴史学者もいる。&lt;br /&gt;
*明建国以前の1361年、応天府（南京）に宝源局（今日で言う造幣局）を設置して[[大中通宝]]を鋳造するが、その際に1貫＝10両＝100銭＝400文という単位を導入した。これは当時の元の鈔が至元通行宝鈔5貫＝中統元宝交鈔2.5貫＝銅銭1貫（1000文）であったことに関係している。朱元璋は大中通宝の価値を理念上の貨幣価値である銅銭1貫＝1000文（枚）に拘らず、当時最も通用していた現実的な通貨である中統元宝交鈔1貫と大中通宝400文（枚）を直接結び付けることで、自らの通貨を強引に元の通貨体系に織り込むと同時に、不足を補うための代替貨幣として元の鈔を使わせることで経済的な混乱を防止しながら自らの経済圏の確保を計ったのである。&amp;lt;!-- 宮澤知之『中国銅銭の世界 銭貨から経済史へ』（思文閣出版、2007年）ISBN 978-4-7842-1346-7　第12章《紙幣時代の銅銭》 --&amp;gt;&lt;br /&gt;
* 朱元璋は歴代王朝が宦官や外戚の政治介入を招いて滅びたことから、彼らを重用しなかったという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 総合的な評価 ===&lt;br /&gt;
[[趙翼]]は朱元璋の事を「一身において聖賢、豪傑、盗賊を兼ねた才物」と評している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 現代中国への影響 ==&lt;br /&gt;
*[[孫文]]が[[辛亥革命]]を起こして[[清]]を打倒し、[[中華民国]]を建国した後に朱元璋の陵を訪れ、漢民族の国家の復活を報告している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 朱元璋を題材にした映画 ==&lt;br /&gt;
*『デブゴンの太閤記』（[[1980年代]]、[[香港映画]]）＝主演：[[サモ・ハン・キンポー]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 脚注 ==&lt;br /&gt;
&amp;lt;references/&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
* [[明孝陵]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 参考文献 ==&lt;br /&gt;
* 『明史』（[[中華書局]]）&lt;br /&gt;
* 『永楽帝』（[[徳間書店]]。[[伴野朗]]）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 外部リンク ==&lt;br /&gt;
*[http://culture.china.com/zh_cn/history/diwang/11036694/20090121/15292765.html 画师据实画像被杀 朱元璋奇特长相成谜（中国語）] 2種類の肖像画が掲載されている&lt;br /&gt;
*[http://www.china7.jp/bbs/board.php?bo_table=2_5&amp;amp;wr_id=40 朱元璋－明の開国君主]&lt;br /&gt;
*[http://zh.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%B1%E5%85%83%E7%92%8B 朱元璋（Wikipedia中国語版）]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:しゆ けんしよう}}&lt;br /&gt;
[[Category:明の皇帝|けんしよう]]&lt;br /&gt;
[[Category:1328年生]]&lt;br /&gt;
[[Category:1398年没]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>初心者Ａ</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E5%B8%B8%E7%9B%A4%E4%BA%95%E5%AE%AE%E6%81%92%E6%98%8E%E8%A6%AA%E7%8E%8B&amp;diff=140737</id>
		<title>常盤井宮恒明親王</title>
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				<updated>2011-10-13T02:34:47Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;初心者Ａ: 南北朝時代の皇族&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''常盤井宮恒明親王'''（ときわいのみやつねあきしんのう/-つねあきらしんのう、[[嘉元]]元年[[5月9日 (旧暦)|5月9日]]（[[1303年]][[6月24日]]） - [[正平_(日本)|正平]]6年/[[観応]]2年[[9月6日 (旧暦)|9月6日]]（[[1351年]][[9月26日]]））は、[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]の[[大覚寺統]]に属する[[皇族]]で[[亀山天皇|亀山法皇]]の末子。母は[[太政大臣]][[西園寺実兼]]の娘[[西園寺瑛子|昭訓門院瑛子]]。[[常盤井宮|常盤井宮家]]の祖。一品・式部卿。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
幼い頃は年上の甥にあたる尊治親王（後の[[後醍醐天皇]]）とともに父の亀山法皇の寵愛を受けて育てられる。3歳の時、父である亀山法皇が病死するが遺詔でその財産の多くを与えた上に、自分の孫に当たる[[後二条天皇]]に対しては次の[[大覚寺統]]の皇位は天皇の嫡男[[邦良親王]]ではなく、恒明親王を立てるように命じたのである。昭訓門院の実兄で[[関東申次]]であった[[西園寺公衡]]は直ちに[[鎌倉幕府]]にこの旨を伝え、もう一人の妹である[[西園寺しょう子|永福門院]]の夫である[[持明院統]]の[[伏見天皇|伏見上皇]]の協力を求めた。伏見上皇も自分の息子である[[後伏見天皇]]を無理やり皇位から降ろさせた[[後宇多天皇|後宇多上皇]]（亀山法皇の子で[[後二条天皇]]・尊治親王の父、当時[[院政]]を行っていた）への反感から、これに同意する姿勢を幕府に伝えた。だが、幕府は[[大覚寺統]]の分裂を招きかねない恒明親王立太子には同意しなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[徳治]]3年（[[1308年]]）、後二条天皇が急死すると幕府は邦良親王の成長までの中継ぎの天皇になるべき親王を大覚寺統から選ぶ事を認めたが、それは恒明ではなく当時の[[院政]]執行者であった後宇多上皇が推した[[後醍醐天皇|尊治親王]]であり、この時点で恒明親王の皇位継承の可能性は絶たれた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この件で後宇多上皇と完全に対立関係に陥った[[西園寺公衡]]は上皇から出仕停止の扱いを受けてしまった。同時に大覚寺統側からその政治的立場に疑いを持たれるに至り、「関東申次」職を背景に[[朝廷]]内で隠然たる力を振るっていた[[西園寺家]]はその政治的求心力を大きく損なう事になった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その後、親王は[[後醍醐天皇]]（かつての尊治親王）の側近として[[建武の新政]]でも[[中務省|中務卿]]・[[式部省|式部卿]]を歴任する一方で[[持明院統]]の[[皇族]]とも親密な関係を保った。後醍醐天皇が[[吉野]]に移った後も、持明院統側の説得をうけてそのまま京都に留まって薨去している。観応2年9月6日出家・薨去。享年49歳。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なお、[[戦前]]の[[皇国史観]]においては、[[鎌倉幕府]]が亀山法皇の遺詔を無視して恒明親王を立てなかったことを「不忠」であると非難する主張がなされる事があったが、幕府はあくまでも亀山法皇の嫡男でありかつ当時の[[治天の君]]であった後宇多上皇の意向に従っただけに過ぎない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 系譜 ==&lt;br /&gt;
*父：亀山天皇&lt;br /&gt;
*母：昭訓門院西園寺瑛子（西園寺実兼の娘）&lt;br /&gt;
*妃：（不明）&lt;br /&gt;
**子：[[常盤井宮全仁親王|全仁親王]]&lt;br /&gt;
**子：仁誉法親王&lt;br /&gt;
その他&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 外部リンク ==&lt;br /&gt;
* [http://www.geocities.jp/ahmadjan_aqsaqal/ssr/1k5/ko519001.html 『親王・諸王略傳』恒 ［恒明］]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[category:室町・安土桃山時代の皇族|ときわいのみやつねあきしんのう]]&lt;br /&gt;
[[Category:1303年生|ときわいのみやつねあきしんのう]]&lt;br /&gt;
[[Category:1351年没|ときわいのみやつねあきしんのう]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>初心者Ａ</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E5%A5%A8%E5%AD%90%E5%86%85%E8%A6%AA%E7%8E%8B&amp;diff=140736</id>
		<title>奨子内親王</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E5%A5%A8%E5%AD%90%E5%86%85%E8%A6%AA%E7%8E%8B&amp;diff=140736"/>
				<updated>2011-10-13T02:06:34Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;初心者Ａ: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''奨子内親王'''（しょうし（まさこ）ないしんのう、[[弘安]]9年[[9月9日 (旧暦)|9月9日]]（[[1286年]][[9月28日]]） - [[貞和]]4年／[[正平 (日本)|正平]]3年[[11月2日 (旧暦)|11月2日]]（[[1348年]][[11月23日]]））は、[[鎌倉時代]]後期から[[室町時代]]初期（[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]）にかけての[[皇族]]・[[歌人]]。「弉子内親王」とも表記する。[[後宇多天皇]]の第1皇女。生母は[[参議]][[五辻忠継]]の娘、[[典侍]][[五辻忠子|忠子]]（談天門院）。[[後二条天皇]]の異母妹で、[[後醍醐天皇]]の同母姉。[[斎宮|伊勢斎宮]]、のち非妻后の[[皇后]]（尊称皇后）、[[女院]]。院号は'''達智門院'''（たっちもんいん）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[乾元 (日本)|乾元]]元年（[[1302年]]）、[[親王宣下|内親王宣下]]。[[徳治]]元年12月22日（[[1307年]]1月26日）、21歳で異母兄後二条天皇の斎宮に卜定される。同2年9月13日（[[1307年]]10月10日）、諸司へ初斎院入り、同月27日（10月24日）[[野宮]]へ移る。同3年8月25日（[[1308年]]9月10日）、後二条天皇[[崩御]]のため、群行には至らず退下した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その後、[[文保]]2年2月26日（[[1318年]]3月29日）に同母弟の後醍醐天皇が即位すると、翌文保3年3月27日（[[1319年]]4月18日）に皇后（非妻后の皇后）に[[冊立]]される。同年11月16日（12月28日）、'''達智門院'''の院号宣下を受けるが、同時期に母談天門院が没したため、まもなく[[出家]]して法号を'''真理覚'''と称した。[[元亨]]3年（[[1323年]]）には、[[紀伊国]][[和佐荘]]の田地1[[町 (単位)|町]]を荘内の高社（現[[和歌山県]][[和歌山市]]の[[高積神社]]）に寄進している。貞和4年／正平3年（1348年）、63歳で[[崩御]]。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
『[[続千載和歌集]]』『[[玉葉和歌集]]』などの[[勅撰和歌集]]に多くの詠作が入集している。家集などは伝わらないが、『新千載和歌集』の詞書によれば、続千載集撰進の際に後醍醐天皇に自身の詠草をまとめて書き送ったという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*''鈴鹿川八十瀬の波はわけもせでわたらぬ袖のぬるる比かな''　（玉葉和歌集2073）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 参考文献 ==&lt;br /&gt;
*安田元久編 『鎌倉・室町人名事典』 [[新人物往来社]]、1990年。&lt;br /&gt;
*芳賀登他監修 『日本女性人名辞典』 日本図書センター、1993年。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{デフォルトソート:しようしないしんのう}}&lt;br /&gt;
[[Category:平安・鎌倉時代の皇族]]&lt;br /&gt;
[[Category:女院]]&lt;br /&gt;
[[Category:室町・安土桃山時代の皇族]]&lt;br /&gt;
[[Category:日本の皇后]]&lt;br /&gt;
[[Category:斎宮]]&lt;br /&gt;
[[Category:鎌倉時代の歌人]]&lt;br /&gt;
[[Category:室町・安土桃山時代の歌人]]&lt;br /&gt;
[[Category:1286年生]]&lt;br /&gt;
[[Category:1348年没]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>初心者Ａ</name></author>	</entry>

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		<title>奨子内親王</title>
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		<summary type="html">&lt;p&gt;初心者Ａ: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''奨子内親王'''（しょうし（まさこ）ないしんのう、[[弘安]]9年[[9月9日 (旧暦)|9月9日]]（[[1286年]][[9月28日]]） - [[貞和]]4年／[[正平 (日本)|正平]]3年[[11月2日 (旧暦)|11月2日]]（[[1348年]][[11月23日]]））は、[[鎌倉時代]]後期から[[室町時代]]初期（[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]）にかけての[[皇族]]・[[歌人]]。「弉子内親王」とも表記する。[[後宇多天皇]]の第1皇女。生母は[[参議]][[五辻忠継]]の娘、[[典侍]][[五辻忠子|忠子]]（談天門院）。後二条天皇の異母妹で、[[後醍醐天皇]]の同母姉。[[斎宮|伊勢斎宮]]、のち非妻后の[[皇后]]（尊称皇后）、[[女院]]。院号は'''達智門院'''（たっちもんいん）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[乾元 (日本)|乾元]]元年（[[1302年]]）、[[親王宣下|内親王宣下]]。[[徳治]]元年12月22日（[[1307年]]1月26日）、21歳で異母兄後二条天皇の斎宮に卜定される。同2年9月13日（[[1307年]]10月10日）、諸司へ初斎院入り、同月27日（10月24日）[[野宮]]へ移る。同3年8月25日（[[1308年]]9月10日）、後二条天皇[[崩御]]のため、群行には至らず退下した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その後、[[文保]]2年2月26日（[[1318年]]3月29日）に同母弟の後醍醐天皇が即位すると、翌文保3年3月27日（[[1319年]]4月18日）に皇后（非妻后の皇后）に[[冊立]]される。同年11月16日（12月28日）、'''達智門院'''の院号宣下を受けるが、同時期に母談天門院が没したため、まもなく[[出家]]して法号を'''真理覚'''と称した。[[元亨]]3年（[[1323年]]）には、[[紀伊国]][[和佐荘]]の田地1[[町 (単位)|町]]を荘内の高社（現[[和歌山県]][[和歌山市]]の[[高積神社]]）に寄進している。貞和4年／正平3年（1348年）、63歳で[[崩御]]。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
『[[続千載和歌集]]』『[[玉葉和歌集]]』などの[[勅撰和歌集]]に多くの詠作が入集している。家集などは伝わらないが、『新千載和歌集』の詞書によれば、続千載集撰進の際に後醍醐天皇に自身の詠草をまとめて書き送ったという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*''鈴鹿川八十瀬の波はわけもせでわたらぬ袖のぬるる比かな''　（玉葉和歌集2073）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 参考文献 ==&lt;br /&gt;
*安田元久編 『鎌倉・室町人名事典』 [[新人物往来社]]、1990年。&lt;br /&gt;
*芳賀登他監修 『日本女性人名辞典』 日本図書センター、1993年。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{デフォルトソート:しようしないしんのう}}&lt;br /&gt;
[[Category:平安・鎌倉時代の皇族]]&lt;br /&gt;
[[Category:女院]]&lt;br /&gt;
[[Category:室町・安土桃山時代の皇族]]&lt;br /&gt;
[[Category:日本の皇后]]&lt;br /&gt;
[[Category:斎宮]]&lt;br /&gt;
[[Category:鎌倉時代の歌人]]&lt;br /&gt;
[[Category:室町・安土桃山時代の歌人]]&lt;br /&gt;
[[Category:1286年生]]&lt;br /&gt;
[[Category:1348年没]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>初心者Ａ</name></author>	</entry>

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		<title>奨子内親王</title>
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		<summary type="html">&lt;p&gt;初心者Ａ: 南北朝時代の皇族&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''奨子内親王'''（しょうし（まさこ）ないしんのう、[[弘安]]9年[[9月9日 (旧暦)|9月9日]]（[[1286年]][[9月28日]]） - [[貞和]]4年／[[正平 (日本)|正平]]3年[[11月2日 (旧暦)|11月2日]]（[[1348年]][[11月23日]]））は、[[鎌倉時代]]後期から[[室町時代]]初期（[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]）にかけての[[皇族]]・[[歌人]]。「弉子内親王」とも表記する。[[後宇多天皇]]の第1皇女。生母は[[参議]][[五辻忠継]]の娘、[[典侍]][[五辻忠子|忠子]]（談天門院）。後二条天皇の異母妹で、[[後醍醐天皇]]の同母姉。[[斎宮|伊勢斎宮]]、のち非妻后の[[皇后]]（尊称皇后）、[[女院]]。院号は'''達智門院'''（たっちもんいん）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[乾元 (日本)|乾元]]元年（[[1302年]]）、[[親王宣下|内親王宣下]]。[[徳治]]元年12月22日（[[1307年]]1月26日）、21歳で異母兄後二条天皇の斎宮に卜定される。同2年9月13日（[[1307年]]10月10日）、諸司へ初斎院入り、同月27日（10月24日）[[野宮]]へ移る。同3年8月25日（[[1308年]]9月10日）、後二条天皇[[崩御]]のため、群行には至らず退下した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その後、[[文保]]2年2月26日（[[1318年]]3月29日）に同母弟の後醍醐天皇が即位すると、翌文保3年3月27日（[[1319年]]4月18日）に皇后（非妻后の皇后）に[[冊立]]される。同年11月16日（12月28日）、'''達智門院'''の院号宣下を受けるが、同時期に母談天門院が没したため、まもなく[[出家]]して法号を'''真理覚'''と称した。[[元亨]]3年（[[1323年]]）には、[[紀伊国]][[和佐荘]]の田地1[[町 (単位)|町]]を荘内の高社（現[[和歌山県]][[和歌山市]]の[[高積神社]]）に寄進している。貞和4年／正平3年（1348年）、63歳で[[崩御]]。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
『[[続千載和歌集]]』『[[玉葉和歌集]]』などの[[勅撰和歌集]]に多くの詠作が入集している。家集などは伝わらないが、『新千載和歌集』の詞書によれば、続千載集撰進の際に後醍醐天皇に自身の詠草をまとめて書き送ったという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 参考文献 ==&lt;br /&gt;
*安田元久編 『鎌倉・室町人名事典』 [[新人物往来社]]、1990年。&lt;br /&gt;
*芳賀登他監修 『日本女性人名辞典』 日本図書センター、1993年。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{デフォルトソート:しようしないしんのう}}&lt;br /&gt;
[[Category:平安・鎌倉時代の皇族]]&lt;br /&gt;
[[Category:女院]]&lt;br /&gt;
[[Category:室町・安土桃山時代の皇族]]&lt;br /&gt;
[[Category:日本の皇后]]&lt;br /&gt;
[[Category:斎宮]]&lt;br /&gt;
[[Category:鎌倉時代の歌人]]&lt;br /&gt;
[[Category:室町・安土桃山時代の歌人]]&lt;br /&gt;
[[Category:1286年生]]&lt;br /&gt;
[[Category:1348年没]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>初心者Ａ</name></author>	</entry>

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		<title>懽子内親王</title>
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				<updated>2011-10-13T01:04:31Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;初心者Ａ: 室町時代の皇族&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''懽子内親王'''（きんし（よしこ）ないしんのう、[[正和]]4年[[10月16日 (旧暦)|10月16日]]（[[1315年]][[11月13日]]） - [[正平 (日本)|正平]]17年/[[康安]]2年[[5月7日 (旧暦)|5月7日]]（[[1362年]][[5月30日]]））は、[[鎌倉時代]]後期から[[室町時代]]初期（[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]）にかけての[[皇族]]・女流[[歌人]]。[[後醍醐天皇]]第2皇女、母は[[中宮]][[西園寺禧子]]（後京極院）。[[斎宮|伊勢斎宮]]、のち[[光厳天皇|光厳上皇]][[妃]]、[[女院]]。[[院号]]は'''宣政門院'''。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[元応]]元年（[[1319年]]）6月26日、[[親王宣下|内親王宣下]]。同年10月、[[品位 (位階)|一品]]に叙される。[[正中 (元号)|正中]]2年（[[1325年]]）8月16日、[[裳着]]。[[元徳]]2年12月19日（[[1331年]]2月4日）、16歳で父後醍醐天皇の斎宮に[[卜定]]。翌[[元弘]]元年（同じく1331年）1月、[[准三宮]]。同年8月20日、[[野宮]]に入る。まもなく[[元弘の変]]で後醍醐天皇が退位、[[隠岐国|隠岐]]へ配流のため、同年斎宮退下。同3年（[[1333年]]）12月、光厳上皇の[[後宮]]に19歳で[[入内]]。[[建武 (日本)|建武]]2年（[[1335年]]）2月2日、院号宣下。[[延元]]4年（[[1340年]]）5月29日、保安寺に入り[[出家]]。正平17年/康安2年（1362年）5月7日、48歳で[[崩御]]。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
『[[新千載和歌集]]』等に、懽子内親王（宣政門院）の詠歌が残っている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 参考文献 ==&lt;br /&gt;
*[[山中智恵子]]『続斎宮志』砂子屋書房、1992年。 ISBN 4-7904-9221-4&lt;br /&gt;
*安田元久編 『鎌倉・室町人名事典』 [[新人物往来社]]、1990年。&lt;br /&gt;
*芳賀登他監修 『日本女性人名辞典』 日本図書センター、1993年。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:きんしないしんのう}}&lt;br /&gt;
[[Category:平安・鎌倉時代の皇族]]&lt;br /&gt;
[[Category:室町・安土桃山時代の皇族]]&lt;br /&gt;
[[Category:女院]]&lt;br /&gt;
[[Category:斎宮]]&lt;br /&gt;
[[Category:鎌倉時代の歌人]]&lt;br /&gt;
[[Category:室町・安土桃山時代の歌人]]&lt;br /&gt;
[[Category:1315年生]]&lt;br /&gt;
[[Category:1362年没]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>初心者Ａ</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E5%BE%BD%E5%AE%89%E9%96%80%E9%99%A2%E4%B8%80%E6%9D%A1&amp;diff=140732</id>
		<title>徽安門院一条</title>
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				<updated>2011-10-12T14:00:14Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;初心者Ａ: 室町時代の歌人&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''徽安門院一条'''（きあんもんいんのいちじょう、生没年不詳）は、[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]の宮廷女官・女流[[歌人]]。本名は不詳。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[正二位]][[権大納言]][[正親町公蔭]]の娘で、母は相模守[[北条久時]]（赤橋久時）の娘・種子。宣光門院[[正親町実子]]（[[花園天皇]]妃）は父方の叔母、[[赤橋登子]]（[[足利尊氏]]正室）は母方の叔母にあたる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
徽安門院[[寿子内親王]]（花園天皇皇女・[[光厳天皇]]妃）に仕えて'''一条局'''と名乗る。その後、光厳院の寵愛を受けて[[義仁親王]]（正親町宮）を産む。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
後期[[京極派]]の歌人で、[[康永]]2年（[[1343年]]）冬以前の院六首歌合に出詠。また貞和百首・延文百首にも和歌が収録されている。『[[風雅和歌集]]』以下の[[勅撰和歌集]]に22首入集。家集『徽安門院一条集』を残す。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 参考文献 ==&lt;br /&gt;
* 岩佐美代子『風雅和歌集全注釈』笠間書院、2003年。&lt;br /&gt;
* 芳賀登他監修『日本女性人名辞典』 日本図書センター、1993年。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{デフォルトソート:きあんもんいんのいちしよう}}&lt;br /&gt;
[[Category:正親町家]]&lt;br /&gt;
[[Category:室町・安土桃山時代の歌人]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>初心者Ａ</name></author>	</entry>

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