松下康雄
松下 康雄(まつした やすお、1926年1月1日 -)は、兵庫県神戸市出身の第27代日本銀行総裁。元大蔵事務次官。瑞宝大綬章。
来歴・人物[編集]
神戸一中、旧制一高を経て、東京大学法学部を卒業後、大蔵省に入省。大蔵省では、主計・主税・銀行畑を満遍なくこなし、順調に出世の階段を上り詰めて行った。1982年には大蔵事務次官に就任。「大物事務次官」の条件とされる、2年間の任期を全うする。退官後は、開銀・輸銀への天下りという「ロイヤル・ロード」を歩まず、民間の太陽神戸銀行に進み、1987年には同行頭取に就任。在任中に三井銀行との合併(太陽神戸三井銀行誕生)をやってのけ、世間を驚かせた。その後、三重野康日本銀行総裁の後継者レースの候補として名前が浮上し、大蔵事務次官経験者の吉野良彦・山口光秀・平澤貞昭を制して第27代同行総裁に就任。この時、斎藤次郎ら大蔵省現役幹部の意中の人は吉野であったが、吉野が総裁就任を固辞した為、松下にお鉢が回ってきたと言われている。
日本銀行総裁としての松下は、バブル経済崩壊後の経済再建という難しい舵取りを迫られた。折からの日米経済摩擦による超円高、国内金融機関の腐敗と累積する不良債権、そして忍び寄るデフレ経済の影等、松下が取り組むべき課題は、過去に類例を見ない厳しいものであった。そうした状況下において、松下は、かつて太陽神戸銀行の頭取として銀行大合併をやってのけた時のような辣腕を振るうことは出来ず、結局、更なる不良債権の累増と、デフレ経済への突入を許してしまった。その上、在任中は大蔵省・日本銀行のスキャンダルに見舞われ、最後はその責を問われる形で、福井俊彦日銀副総裁と共に職を辞した。
経歴[編集]
- 1950年 大蔵省入省
- 1952年 フルブライト留学生
- 1953年 銀行局金融制度調査部
- 1955年 笠岡税務署長
- 1956年 泉大津税務署長
- 1957年 国税庁査察課長補佐
- 1959年 主税局調査課課長補佐
- 1962年 大臣官房文書課課長補佐
- 1964年 主計官補佐
- 1966年 大臣官房秘書官事務取扱
- 1967年 大臣官房秘書官
- 1968年 主計官
- 1971年 銀行局銀行課長
- 1972年 大臣官房秘書課長
- 1974年 近畿財務局長
- 1975年 主計局次長
- 1978年 大蔵大臣官房長
- 1980年 主計局長
- 1982年 事務次官
- 1986年 太陽神戸銀行取締役
- 1987年 太陽神戸銀行頭取
- 1990年 太陽神戸三井銀行会長(1992年より、さくら銀行)
- 1994年 さくら銀行相談役
- 1994年 日本銀行総裁
- 1998年 日本銀行総裁退任
同期[編集]
旧大蔵省入省同期に、渡辺喜一(財務官)、吉野実(防衛事務次官)、福島量一(国土事務次官)、松下正美(衆議院法制局長)、米山武政(関税局長)、副島有年(日本ヒルトンホテルグループ会長、関税局長)、渡部周二(国税庁長官)、吉岡孝行(北海道開発事務次官)、渡辺豊樹(証券局長)、片山充(印刷局長)、高橋英雄(運輸省船員局長)、系光家(弁護士)、谷口昇(兵庫銀行社長)、青木寅男(新潟大教授)など。