徳川義礼
徳川 義礼(とくがわ よしあきら、1863年10月31日 - 1908年5月17日)は、尾張徳川家の第18代当主。讃岐高松藩に生まれ、尾張徳川家に養子入りして家督を継承。1883年から英国へ留学し、同地でユニテリアンの洗礼を受けた。1890年に貴族院議員となり、会派「懇話会」を組織。1893年に名古屋へ移住し、大曽根に邸宅を新築した。1908年に46歳で死去。
経歴[編集]
文久3年9月19日(1863年10月31日)生まれ。讃岐高松藩主・松平頼聡の次男。元尾張名古屋藩主・徳川慶勝の養子となる。[1]
1879年(明治12年)8月、初めて北海道・八雲町の開墾場を視察[2]。その後、1881年(明治14年)8月にも同地を巡視した。[3]
1883年(明治16年)8月、慶勝の死去を受けて家督を継ぐ[4][5]。同年、侯爵を襲爵[1]。
同年、野呂景義、吉田知行、堀鉞之丞らとともに、英国へ私費留学[6]。家扶をしていた海部昂蔵が随行し、のち加藤高明が世話をした[7]。1884年-1885年、1886年-1887年にかけて、ユニバーシティ・カレッジ に在学[8]。欧州の庭園に関心を持っていた[9]。
ロンドンで、日本人留学生を世話していたユニテリアンの牧師・ハム(J. Panton Ham)の教えを受け、ユニテリアンの洗礼を受ける。洗礼名「エマニュエル」。家扶と聖書の研究会を開く。[10]
1887年(明治20年)に帰国[6]。帰国後、『愛知学芸雑誌』に洗礼名「エマニュエル」で信仰を告白する文章を寄稿[11]。
1888年(明治21年)7月、婦人と共に八雲町を視察し、40余日間逗留[12]。
1890年(明治23年)、貴族院議員[1]。
貴族院では、侯爵・伊達宗徳らと会派「懇話会」を組織した[13]。
1891年(明治24年)8月、松平申七と八雲村を視察[12]。
1900年(明治33年)、名古屋・大曽根に邸宅が完成。植物園を整備。[9]
1908年(明治41年)5月17日死去、享年46[1]。
家族[編集]
妻は良子(かたこ)[14]
著作物[編集]
- エムマニュエル(述)「ユニテリアン教ヲ信スル理由」愛知学芸雑誌社『愛知学芸雑誌』no.10、1889年(明治22年)1月、9-10頁、NDLJP 1557037/8
- マーキス、エムマニュエル(述)「再ビユニテリアン派ノ性質ヲ論シテ余ノ此宗派ニ入リシ所以ヲ陳ブ」愛知学芸雑誌社『愛知学芸雑誌』no.11、1889年(明治22年)2月、3-5頁、NDLJP 1557038/3
付録[編集]
関連文献[編集]
- 宮崎 (1994) 宮崎幸恵「徳川園の歴史的考察(2) 徳川義礼侯邸宅について」『東海学園女子短期大学紀要』no.29、1994年9月
- 宮崎 (1995) 宮崎幸恵「徳川園の歴史的考察(3) 徳川義礼侯邸宅の庭園について」『東海学園女子短期大学紀要』no.30、1995年9月
- 井上 (2006) 井上琢智『黎明期日本の経済思想 - イギリス留学生・お雇い外国人・経済学の制度化』〈関西学院大学経済学部研究叢書 第32編〉日本評論社、2006年、ISBN 978-4535555082
脚注[編集]
- ↑ 1.0 1.1 1.2 1.3 長沼 2015 83 - 『日本人名大辞典』(講談社、2001年)による。
- ↑ 大石 1994 99
- ↑ 大石 1994 100
- ↑ 大石 1994 126
- ↑ 長沼 2015 83 は、『日本人名大辞典』(講談社、2001年)により、1880年(明治13年)に家督を継いだ、としている。
- ↑ 6.0 6.1 長沼 2015 83-84
- ↑ 長沼 2015 86 - 伊藤正徳(編)『加藤高明 上巻』加藤伯伝記編纂委員会、1929年、177-178頁、NDLJP 1240803/130による。
- ↑ 長沼 2015 87 - 井上 (2006 46)による。
- ↑ 9.0 9.1 9.2 長沼 2015 83 - 宮崎 (1994 )および宮崎 (1995 )による。
- ↑ 長沼 2015 84-86 - 井上琢智「イギリス留学生伊賀陽太郎宛書簡に見る日英交流(1) - イギリス人家庭教師ハムを中心に」(PDF)関西学院大学『経済学論究』vol.61 no.3、2008年3月、1-37頁、NAID 110007153157および『読売新聞』1887年(明治20年)12月17日、2面の記事による。
- ↑ 長沼 2015 87-90 - 著作物の項を参照
- ↑ 12.0 12.1 大石 1994 128
- ↑ 長沼 2015 93
- ↑ 香山 2014 3,22-23
- ↑ 徳川 1963 98
参考文献[編集]
- 長沼 (2015) 長沼秀明「徳川義礼の英国留学 - ユニテリアン告白の意味」徳川黎明会『金鯱叢書』第42輯、2015年、pp.83-93
- 香山 (2014) 香山里絵「徳川義親の美術館設立想起」徳川美術館『金鯱叢書』v.41、2014年3月、pp.1-29
- 徳川 (2006) 徳川義宣『徳川さん宅の常識』淡交社、2006年、ISBN 4473033120
- 大石 (1994) 大石勇『伝統工芸の創生‐北海道八雲町の「熊彫」と徳川義親』吉川弘文館、1994年、ISBN 4642036563
- 小田部 (1988) 小田部雄次『徳川義親の十五年戦争』青木書店、1988年、ISBN 4250880192
- 中野 (1977) 中野雅夫『革命は芸術なり‐徳川義親の生涯』学芸書林、1977年、JPNO 78013751
- 徳川 (1973) 徳川義親『最後の殿様 徳川義親自伝』講談社、1973年、JPNO 73011083
- 徳川 (1963) 徳川義親(述)「私の履歴書‐徳川義親」日本経済新聞社『私の履歴書 文化人 16』1984年、pp.85-151、ISBN 4532030862 初出は1963年12月。