平正盛

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平 正盛(たいら の まさもり、生年不詳 - 保安2年(1121年)?)は、平安時代後期の武将北面の武士。父は伊勢平氏平正衡。母は不詳。子に平忠盛平貞正平忠正平時盛範延源義忠室・藤原顕時室・藤原清隆室らがある。

略歴[編集]

正盛が家督を継いだ頃は平家も勢力が小さく、河内源氏に臣従し源義家に仕えた。その後、源義家の子、源義忠に娘を嫁がせ、義忠の岳父として河内源氏に影響力を及ぼす。また、白河上皇院政に伊賀の所領を寄進するなどして重用され、検非違使追捕使として諸国の盗賊を討伐するなど活動した。

承徳元年(1097)隠岐守、康和3年(1101)若狭守、嘉承元年(1106)因幡守。

反乱を起こした源義親を討つ命令が源義家に下るが、源義家は死去したため、その後継者である義忠に源義親討伐の命令が下る。しかし、義忠が兄を討てないと躊躇したため、正盛が義忠に代わり討伐に向かい、1108年に乱を鎮圧したとの知らせがもたらされた。その功績により但馬守に叙任。後、天永元年(1110)丹後守、永久元年(1113)備前守を勤めた。ただし、義親の討伐において、実際に義親を討つことに成功したのかは不明。この事件後も義親を名乗る人物が何度も登場し、史上に痕跡を残した。当時も勇猛な義親をそれほど武に優れているとは認知されていなかった正盛が討ったのかについて疑問があったことは藤原宗忠の日記『中右記』などにも記されている。保安元年(1120)讃岐守。

平家物語』の平家滅亡時に現れる平六代は、彼より数えて六代目であることに由来する幼名である。平家は彼の子、平忠盛の時代に飛躍的に勢力を拡大し全盛期を現出させる。その地盤固めをしたのが正盛の時代の平家であり、平家興隆の基礎を築いた人物と評価される。

官位[編集]

従四位上、検非違使因幡権守、伊予権守、備前守、右馬権頭、讃岐守、但馬守、丹後

関連項目[編集]