平信範

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平 信範(たいら の のぶのり、天永3年(1112年) - 文治3年2月12日1187年3月23日))は、平安時代末期の公卿桓武平氏高棟流、兵部大輔平知信の三男。母は主殿頭藤原惟信の娘。兄弟に時信知範、子に信国信季信基らがある。正三位兵部卿。字は平能。日記『兵範記』の作者として著名である。

保安2年(1121年)に文章生となり、以後、蔵人修理亮左兵衛尉左衛門少尉甲斐権守などを歴任する。また、摂関家近衛家)の家司として藤原忠実から基通の4代にわたって仕えた。正五位下少納言の官にあった保元3年(1158年)、関白藤原忠通の前を横切った藤原信頼がその非礼によって忠通の下人に車を破壊されるという事件が起こり、信頼の訴えを受けた後白河上皇は、忠通の家司であった信範と藤原邦綱の両名を除籍、謹慎処分としている。

その後、永暦元年(1160年)に再度蔵人に任じ、仁安3年(1168年)には正四位下蔵人頭権右中弁に進むが、翌嘉応元年(1169年)、延暦寺大衆の強訴によって院近臣藤原成親配流される事件が勃発する(嘉応の強訴)。この事件に対処していた信範は、甥の時忠ともども法皇から責任を問われることとなり、「奏事不実(奏上に事実でない点があった)」の罪により解官の上、備後国へ配流されるという憂き目を見ている。

しかし翌2年(1170年)には召還され本位に復し、3年(1171年)に従三位となって公卿に列する。承安3年(1173年)兵部卿、安元2年(1176年)正三位と進み、これを極位極官として翌3年(1177年)に出家。その後、子の信基や甥の時忠は治承・寿永の乱の中で平氏一門とともに西走、敗戦の末捕えられ配流されるという波乱の生涯を送っているが、既に引退していた信範はこれとは別に静かな余生を送ったとされる。

その日記『兵範記』は、平安末期の政情や朝廷の儀典を克明に記録した第一級の史料として名高い。また、子孫は後世、西洞院家平松家交野家など数家に分かれて、それぞれ繁栄している。

官歴[編集]

※日付=旧暦

3月23日:文章生
正月28日:能登大掾
正月22日:中宮権少進(中宮・藤原聖子)
4月2日:蔵人
3月14日:修理亮
10月26日:左兵衛尉
正月22日:左衛門少尉。検非違使兼帯
正月5日:従五位下
正月24日:甲斐権守
正月5日:従五位上(高陽院御給)
正月12日:正五位下(高陽院御給)
11月28日:少納言
正月27日:安芸権守
10月4日:蔵人
9月15日:左京権大夫。蔵人・少納言を辞任
正月23日:備後権守兼任
8月17日:右少弁。左京権大夫如元
正月12日:左京権大夫を辞任
正月30日:権右中弁。従四位下
2月11日:蔵人頭
4月10日:従四位上
正月6日:正四位下
2月19日:新帝(高倉天皇)蔵人頭
9月7日:大嘗会御禊装束司次官
12月28日:解官。備後国に配流
2月26日:召還
12月9日:本位に復す
正月18日:従三位
正月21日:兵部卿
3月6日:正三位(御賀・御幸の賞、建春門院御給)
7月5日:出家