尼港事件

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尼港事件(にこうじけん、Nikolayevsk Incident)は、シベリア出兵中の1920年大正9)3月から5月にかけて、ロシアトリャピーチン率いる、ロシア人、朝鮮人、中国人四千名から成る、露中共産パルチザン(遊撃隊)によって黒竜江(アムール川)の河口にあるニコライエフスク港(尼港、現在のニコライエフスク・ナ・アムーレ)の日本陸軍守備隊(第14師団歩兵第2連隊第3大隊)および日本人居留民が無差別に虐殺された事件。

共産パルチザンに対して一旦休戦した後、共産パルチザンが騙し討ちをし、日本軍側が反撃するも敗北。生き残った日本人は軍人であるか民間人であるかを問わず捕虜とされた。そして、5月に日本陸軍がニコライエフスクへ援軍を送るやパルチザンは全ての捕虜を惨殺した上で遁走した。また、日本人以外の白色(共産主義に同調せぬ)市民6000人を虐殺した上、町を焼き払った。

のちにこの共産パルチザンの責任者はソビエト連邦政府により死刑に処せられることとなった。 この事件による日本人犠牲者は約700名にのぼり、その半数は民間人であった。このため、国内世論は憤激の声が渦巻き、反共の気運が強まって、後々まで大きく尾を引くことになった。

政府は北樺太への駐留を継続し、ソ連に対して賠償を求めたが、結局は取り下げた。

経過[編集]

1919年夏
ウラジオストク付近から逃れてきた共産パルチザンが尼港に潜入して工作を開始。
1920年1月24日
共産パルチザンの使者が和議を申込むが守備隊はそれを拒否。
2月24日
共産パルチザンから休戦の申込み。
2月28日
休戦交渉成立。しかしニコライエフスク港に入った共産パルチザンは、協約を無視して資産階級や知識階級者など反共勢力を投獄、虐殺し、また掠奪、強姦など不法の限りを尽くした。そして労働者を集めて過激派を編成、勢力を拡大して、日本軍撃滅への準備を進めた。
3月11日
共産パルチザンが守備隊の武装解除を要求したため、守備隊は機先を制して翌未明、共産パルチザンの主要拠点を不意急襲。参謀本部『出兵史』によれば、3月12日の時点で旧兵営とライチェン家に各600と300の中国人部隊、リュリ兄弟商会に約500の朝鮮人部隊が宿営していたとされる。彼ら武装した中国人、朝鮮人過激派に対する日本軍の敵愾心と恐怖が3月12日決起の一動機をなしていたことは疑いない(原暉之『シベリア出兵 : 革命と干渉1917-1922 』523頁)、とされている。しかしパルチザン兵力ははるかに優勢で、激烈な市街戦となって戦況は逐次不利となり、大隊長以下大部分が戦死。市内の日本人居住民は老若男女問わず虐殺された。また、「在留日本人ハ全部一団トナリ日本軍トトモニ抵抗スルノ決心ヲナシ両人亦コノ集団ニ加ワリ(中略)奮闘シタル日本軍ハ上下火中ニ投ジ在留民亦兵士ト行動、共ニ万歳ヲ叫ビ悉ク火中ニ投ゼリ」とする日本人居留民の絶望的な状況についてのアメリカ人毛皮商人の証言もある。(原、上同著524頁)
5月25日
共産パルチザンは日本軍の襲来を察知し、監禁していた日本人と、残っていた反共市民を惨殺し、市内の建物全部を焼き払って、西方のアムグン河谷の森林内に逃走した。

その他[編集]

尼港事件について、第一の虐殺を日本軍による居留民自害強制事件、第二のそれを共産パルチザン組織が犯した虐殺事件とし、パルチザンに対する日本人居留民の抵抗を日本軍に強制された自害,いわゆる集団自決とする説を一部の学者が唱えている(原暉之『シベリア出兵 : 革命と干渉1917-1922 』1989年 筑摩書房)

関連項目[編集]