富田幸次郎
富田幸次郎(とみたこうじろう, 1890年3月7日 – 1976年4月10日)は元ボストン美術館アジア部長である。東洋美術の収集、整理、紹介に尽くす。勲三等瑞宝賞。
概要[編集]
1890年(明治23年)3月7日、京都市に生る。1906年(明治39年)、京都市立美術工芸学校(現京都市立芸術大学)を卒業し、同校専攻科において漆芸研究中に農商務省海外実業練習生に選ばれ、さらに京都市嘱託として渡米し、ボストンに留学する[1]。 1907年(明治40年)、 ボストン美術館日本部々長の岡倉天心に迎えられ、農商務省海外実業練習生及び京都市嘱託のまま、ボストン美術館日本部嘱託員となる。 1908年(明治41年)、ボストン美術館支那・日本部助手となる。 1909年(明治42年)、ハーバード大学夏期講習を受講する。農商務省実業練習生期間満了。 1913年(大正2年)、ボストン美術館支那・日本部の管理員となる。(同年岡倉天心没) 1916年(大正5年)、 ボストン美術館支那・日本部の副部長に就任する。 1923年(大正12年)、Miss Hariet E. Dickinsonと結婚する。 1931年(昭和6年)、ボストン美術館アジア部部長に就任[2]。 1939年(昭和14年)、セーラム市のピーポディ博物館日本部名誉部長に就任する。 1953年(昭和28年)、米国に帰化する。 1959年(昭和34年)、 長年の東洋美術研究への寄与によりボストン大学から表彰される。 1963年(昭和38年)、後進に道を開くため、73歳を機にボストン美術館を退職する。 1976年(昭和51年)4月10日逝去。
ボストン美術館[編集]
ボストン美術館東洋美術部はフェノロサと岡倉天心の尽力で開設された。東洋美術品の所蔵点数は10万点に及び、その80%は日本美術である。日本美術に関する講演や著作は多数ある。戦争中に京都奈良が空襲を受けなかったのは、ウォーナー博士と長年の知己にあった富田幸次郎の寄与もあったとされる。戦前訪米の高松宮殿下及び妃殿下の案内役を務め、ボストン市日本協会の副会長も務めた[1]。 大正13年に美術調査のために来日したときは、天心の没後にボストンに残された天心の遺産、著書の印税を五浦に住む天心の未亡人に届けた。これにより天心未亡人は五浦に住みながら恵まれた余生を過ごした[1]。