大同倶楽部

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大同倶楽部(だいどうくらぶ)は、明治時代の日本の政党である。時期をずらして、民党の大同倶楽部と、吏党の大同倶楽部の二つが結成されたが、いずれも短命であった。

大同倶楽部 (1889年 - 1890年)[編集]

大同倶楽部(だいどうくらぶ)は、日本最初の自由党解散後、大同団結運動の一片として、1889年 (明治22年) 5月10日に結成され、翌1890年 (明治23年) 8月17日に解散した。

1884年に自由党が解散してからしばらく後、1886年に民権派政治家の力を結集するべく、大同団結運動が呼びかけられた。1889年にはこの運動に沿った組織結成の機運が高まったが、この時、まとまった政治団体を志向する河野広中犬養毅ら政社派と、ゆるやかな連絡組織を望んだ大井憲太郎らの非政社派の対立が表面化した。そして大同団結運動の主導者であった後藤象二郎が突如黒田内閣逓信大臣として入閣して運動からの離脱を表明したのを機に両派は4月に決別し、5月に政社派の団体として大同倶楽部が、非政社派の団体として大同協和会が発足した。

翌1890年には、最初の衆議院議員選挙を目前にして、大同団結運動とは距離を置いていた自由党の元代表板垣退助の擁立構想が浮上したのを機に他の民権派との合同の交渉が進んだ。この選挙で大同倶楽部は55議席を獲得した。1890年8月に解散し、9月に他の民権派とともに立憲自由党に合流した。

大同倶楽部 (1905年 - 1910年)[編集]

大同倶楽部(だいどうくらぶ)は、明治時代後期に存在した日本の政党(1905年12月23日1910年3月2日)。

第1次桂内閣の崩壊後、同内閣を支持していた帝国党佐々友房を中心に甲辰倶楽部などが合流して76人結成される。桂太郎長州藩閥と親しく、当初は立憲政友会及びその第1次西園寺内閣に対して支持していたが、後に対決姿勢を強めたために親政友会派の脱会を招いた。その後、反政友会勢力再結集を目指して戊申倶楽部と合同して中央倶楽部を結成した。

関連項目[編集]