エドワード7世 (イギリス王)
エドワード7世(Edward VII、アルバート・エドワード、Albert Edward、1841年11月9日 - 1910年5月6日)は、グレートブリテン及びアイルランド連合王国(イギリス)ならびに海外自治領(the British Dominions beyond the Sea)の国王、インド皇帝(在位:1901年1月22日 - 1910年5月6日)。
エドワード7世は、イギリス王室で2番目に長く王太子の位置にあった人物である。王妃はデンマーク国王クリスチャン9世の娘アレクサンドラ。
生涯[編集]
アルバート・エドワードは、バッキンガム宮殿でヴィクトリア女王とアルバート王配の長男(第2子)として生まれ、1842年1月25日にアルバート・エドワードとしてウィンザー城聖ジョージ礼拝堂で洗礼を受けた。彼は生涯、バーティーというあだ名で知られていた。
生まれながらの王太子であり、幼少時は虐待とも言えるほどに厳しいしつけをうけた。その反動からか、長じては母ヴィクトリア女王から「愚かな息子」と言われる程の問題児になる。このため、エドワードは、自分の子供達には自分が親にされたのと同じような厳しいしつけをしようとはしなかった。一方、世界各地を旅行して回り、大衆と接触して国民の間に大きな支持を得る。父アルバートの死後、母ヴィクトリア女王がひきこもりがちになると、代わりに公務をこなすようになった。
1901年、母ヴィクトリア女王崩御を受けて60歳で即位。国王となっても世界各地を訪問し、優れた外交センスで英仏協商や英露協商を成功させ「ピースメーカー」と謳われた。
1910年に崩御、68歳だった。
イギリスの歴史的時代区分では1901~10年のことを「エドワード朝時代」(Edwardian period/era)と呼ぶ。10年にも満たない短い「時代」だったが、イギリス人が「古き佳き時代」として憧憬するこの時代はどこまでも明るく陽気で、暗く堅苦しい雰囲気に包まれがちだった「ヴィクトリア朝時代」からの明確な脱却がさまざまな分野に見て取ることができる。イギリスではこの「エドワード朝時代」が国王の名を冠した最後の時代名称となった。
人物[編集]
人間関係[編集]
派手好きで奔放な性格であり、女優のネリー・クリフデンやサラ・ベルナールなど、数多くの女性達と浮名を流した。特に長年の愛人にして最愛の女性であるアリス・ケッペルは、片時も側から離したがらないほど深く寵愛し、彼女の子供たちの何人かの実の父親はエドワードである可能性が濃厚であると言われている。
また、オーストリアのエリーザベト皇后やルドルフ皇太子と親しかった。クレメンス・メッテルニヒの孫パウリーネ・メッテルニヒが出演したパリでの舞台にも、観客として来たことがあった。1855年にパリ万博を両親と訪問した折にはフランスを大いに気に入り、フランス皇帝ナポレオン3世に向かって「フランスはすばらしい国ですね。いっそ私はあなたの子供になりたいです。」とまで述べた。事実彼は即位までを長くパリの娼館で過ごし、女好きだったナポレオン3世と同じように振る舞ってヴィクトリア女王やアルバート公を大いに悩ませた。
一方、王妃アレクサンドラとの関係は、両親のヴィクトリア女王・アルバート公夫妻とは全く対照的に終始冷やかで険悪であり、かつ互いに好意も愛情も一切抱き合うことのない関係であった。
彼の妃アレクサンドラに対する愛情が消えた一因として、性格や価値観の不一致と共に、彼女の瘰癧(るいれき=頸部リンパ節結核)手術による醜い首の傷跡を見たことが挙げられるといわれる。初夜に初めてアレクサンドラの首の手術跡を見たエドワードは、その余りのおぞましさに悲鳴をあげ、以後エドワードは妻に対して愛情や好意を抱くことは全く無くなり、コンプレックスを更に深くしたアレクサンドラは、以前に増して首を隠すようになった。
また、寵姫アリス・ケッペルを自らの寝室に自由に出入りさせ、アレクサンドラの目前で愛情を交わし合うなどといった、アレクサンドラに対する陰険な嫌がらせや苛めもしばしば行った。
一方アレクサンドラも子供たちに「父親のようになってはいけません」と常に言い聞かせたり、夫の愛人たち一人一人に蔑称をつけて呼んだりした。エドワードがアリス・ケッペルと連れ立って宮殿の庭を散策しているのを目撃した際、夫とアリスが共に肥満体であったことから、2人を「豚のつがいが庭を散歩している」と皮肉り、夫の臨終の際、夫自身が最期を看取らせるために手元に呼び寄せていたアリスを夫の寝室から追い出し、その後も生涯を通して彼女を憎み続けた。
競馬[編集]
元来イギリス王室は競馬と深いかかわりを持っており、アルバート・エドワードも23歳のときにジョッキークラブに所属している。1863年にはサンドリンガムに別荘を購入し、牧場や厩舎を整えた。平地競走初勝利は45歳と遅かったが、その後はエプソムダービーを3度も勝つなど競馬史に大きな足跡を残した。プリンスオブウェールズステークス(G1)、キングエドワードVII世ステークス(G2)はエドワード7世を記念した競走である。
エプソムダービー、ロイヤルアスコット開催はほぼ毎年臨席し、結局体調を崩したため延期になったが戴冠式もダービーに合わせて執り行う予定だった。
主な所有馬は以下の通りである。
- ダイヤモンドジュビリー - 史上9頭目のイギリスクラシック三冠馬。
- パーシモン - ダイヤモンドジュビリーの兄。エプソムダービー等二冠、アスコットゴールドカップ他。英チャンピオンサイアー4回。
- ミノル - 前2頭とは違いリース契約という形ではあったが、在位中の1909年にエプソムダービーに優勝。イギリス国王の所有馬がエプソムダービーを優勝した唯一の例となった。馬名は陸上競技選手の藤井実に由来する。
煙草[編集]
嫌煙家の母ヴィクトリア女王が崩御すると、即位時の晩餐会で「Gentlemen, you may smoke!」(諸君、吸おうではないか!)と宣言した。
子女[編集]
アレクサンドラ王妃との間に3男3女を儲けた。
- アルバート・ヴィクター(1864年-1892年) クラレンス公
- ジョージ・フレデリック・アーネスト・アルバート(1865年-1936年) 次代国王ジョージ5世
- ルイーズ・ヴィクトリア・アレクサンドラ・ダグマー(1867年-1931年) ファイフ公爵アレグザンダー夫人
- ヴィクトリア・アレクサンドラ・オルガ・メアリー(1868年-1935年)
- モード・シャーロット・メアリー・ヴィクトリア(1869年-1938年) ノルウェー国王ホーコン7世妃
- アレクサンダー・ジョン・チャールズ・アルバート(1871年、夭折)