西方電撃戦

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西方電撃戦(せいほうでんげきせん)とは、第二次世界大戦中の1940年5月に発生したドイツ軍と連合軍とのベネルクス三国フランス北部での戦闘であり、電撃戦が最も成功を収めた例と考えられている。

フランスの戦いナチス・ドイツのフランス侵攻バトル・オブ・フランス(Battle of France)とも呼ばれる。ドイツ側の作戦名は第1フェイズ(ベネルクス三国、フランス北部侵攻)が黄色作戦Fall Gelb、ファル・ゲルブ)、第2フェイズ(フランス本国侵攻)が赤色作戦Fall Rot、ファル・ロト)である。ドイツ語では西方戦役(Westfeldzug)といわれる。


戦いの背景[編集]

ヒトラーは、ポーランド侵攻の直後に西部戦線での戦闘を予定していたが、欧州の冬の悪天候では空軍の支援がおぼつかず、翌年に延期された。一向に戦闘が始まらないこの戦争を、アメリカ人は「奇妙な戦争」、ドイツ人は「座り込み戦争」と称した。

当初の作戦計画はシュリーフェン・プランに沿ったものであった。しかし1940年1月10日、ドイツ空軍第二航空艦隊参謀将校が第一次黄色作戦での第二航空艦隊運用計画書を所持したまま飛行機事故に遭遇、ベルギー領内へ不時着してベルギー軍憲兵に逮捕され、焼却に失敗した書類の一部が押収されるという事件が発生した(メケレン事件)。そのため作戦内容が連合軍側へ漏洩してしまったと考えねばならず、1月16日ヒトラーは作戦内容の変更を決意した。第一次世界大戦に従軍し、西部戦線で悲惨な塹壕戦を経験しており、シュリーフェン・プランに不満を抱いていたヒトラーの後押しで、マンシュタインの作戦計画が採用された。

マンシュタイン計画に基づいて、ドイツ国防軍はマジノ線の要塞群に立てこもるフランス軍守備隊を釘づけにするC軍集団、ベルギー・オランダに侵攻する歩兵主力のB軍集団と、森林地帯を抜ける装甲師団主力のA軍集団の三つに分かれ、1940年5月10日一斉に越境した。これに対し、フランス・ベルギー・イギリス大陸派遣軍から成る連合軍は、シュリーフェン・プランに基づいてドイツが侵攻すると予想しており、ベルギーのディール川沿いに防衛線を敷いた。戦力的には連合軍が勝っていたが、装甲師団がほとんど無く、戦車は歩兵の中に散らばって配置されているなど防戦思考で、戦術面でドイツに大きく劣っていた。

戦いの経過[編集]

空挺作戦による要塞制圧[編集]

B軍集団の侵攻ルートにはベルギー・オランダの要塞が各所に点在しており、装甲師団の多く(10個師団中、7個師団)は A軍集団に配置されたため、空挺部隊による制圧が行われた。5月10日、ベルギーのエバン・エマール要塞にグライダーで工兵が降下し、各トーチカに爆薬を貼り付け、破壊活動を行った(翌日歩兵部隊が到着し制圧)。その後もドイツ軍はオランダの各要塞に落下傘降下を行い、ロッテルダム戦略爆撃を行うなどし、オランダは戦闘能力を失って14日に降伏した。

A軍集団の進撃[編集]

森林地帯を抜けたA軍集団がムーズ川の対岸で遭遇したのは、予想通り弱体なフランス歩兵部隊だった。5月13日、3個装甲師団がスダンで渡河作戦を開始、激しい支援爆撃の下に橋頭堡を確保し、翌日には渡河に成功した。以後、ムーズ川各所で残りの装甲師団も渡河に成功し、遮る敵部隊のいないフランス北部をイギリス海峡に向けて突進した。

連合軍の総退却[編集]

5月16日、A軍集団が背後へなだれ込んだことを知らされた連合軍は総退却を開始。しかし、機動力に勝るA軍集団にパリ方面への退却を阻まれ、イギリス海峡方面へと追い詰められていく。

アラスの戦い[編集]

5月19日、ついにドイツA軍集団の先頭を行く第二装甲師団がドーバー海峡に達し、連合軍はフランス本土から切り離されてしまった。しかし、一方でハインツ・グデーリアンの装甲軍団は突出しすぎて後続の歩兵各師団とは離れてしまっており、連合軍の背後を完全に遮断するには至っていなかったため、連合軍のフランス本土への退却はまだ可能なように思われた。英国陸軍参謀総長エドムント・アイアンサイドは、フランス軍司令部がA軍集団への反撃および連合軍-フランス本土間の連絡線の確保のための行動を起こさないことに業を煮やし、自ら作戦に介入することを決意した。ただし実際には、連合軍はドイツB軍集団による北東方向からの激しい圧迫を受けており、反対方向の南方面に転進させる兵力の余裕はなかった。

アイアンサイドはBEF司令官ゴートと協議し、フランス第一軍集団司令官ビョットを説得して、英仏共同による南方面への反撃を行うことで同意に至った。21日、予備兵力として温存されていたイギリス大陸派遣軍二個師団によるアラス方面への反撃が開始された。しかし、事前の連絡不徹底と英仏両軍間の不和により、同時に行われるはずであったフランス二個師団によるカンブレー方面への攻撃は翌22日に延期されてしまった。また、これも事前確認の不徹底により、二個師団によって全力で行われるはずであった英軍によるアラス方面への反撃も、実際には戦車二個大隊と歩兵二個大隊にフランス軍の戦車が若干加わっただけの兵力で行われた。

だが、この反撃はタイミングがよかったため予想以上の効果をもたらした。無線設備をほとんど持たず、ドイツ軍に制空権を掌握され偵察もできなかった英軍にとってはまさに五里霧中の作戦行動であったが、ちょうどアラスを迂回して突進中であったロンメルの第七装甲師団の横っ腹に突っ込む形となったのであった。当時、第七装甲師団の戦車連隊は二つとも遠く前進してしまっており、アラスの南側を進撃中であった狙撃兵連隊と砲兵隊が、英軍の戦車二個大隊による襲撃を受けることになった。

本来、第七装甲師団の北側を防御するはずだった第五装甲師団は進撃が遅れており、第七装甲師団の南側を併走していたSS髑髏師団は戦闘経験がなく、英軍の戦車を目にするや戦わずして逃亡してしまった。第七装甲師団は直ちに対戦車陣地を構築して迎え撃ったが、師団長のロンメルは不在であり、英軍のマチルダII歩兵戦車の分厚い装甲に対戦車砲が歯が立たず、英軍に突破されてしまうかに思われた。しかし、前進していたロンメルが戻ってくるとドイツ側は陣地の再構築を行い、特に88mm高射砲による水平射撃がマチルダII歩兵戦車に有効だったこともあり、英軍戦車の突進を食い止め、撃退することに成功した。さらに退却する英軍戦車大隊を、救援要請を受けたドイツ空軍の急降下爆撃機部隊が追撃し、英軍によるアラス方面への反撃はわずか半日で失敗、終結することになった。

一方、翌22日にフランス軍によるカンブレーへの攻撃が行われたが、前日のアラスでの戦いで警戒を強めていたドイツ空軍にすぐ発見されてしまい、激しい空爆を受けてやむなく撤退した。こうして、連合軍による南方面への反撃はたいした戦果を挙げることもなく失敗に終わったのである。

しかしこの戦いは二つの波紋を呼んだ。ひとつは、BEF司令官ゴートに英国本土への撤退を決意させたことと、もうひとつは連合軍が反撃してきたことにショックを覚えたヒトラーが、快進撃を続ける装甲各軍団に停止命令を下したことであった。このふたつの波紋がダンケルクの奇跡を起こすのである。

ダンケルク包囲戦[編集]

5月28日、ベルギーが降伏。A軍集団はイギリス海峡のブーローニュカレーなどの港湾都市を制圧した。連合軍は西からはA軍集団装甲部隊・南からは歩兵隊・東からは追撃してきた B軍集団によって、港湾都市ダンケルク周辺で完全に包囲された。しかし、装甲師団に損害が出るのを恐れたヒトラーは、ゲーリングが「空軍のみで連合軍を撃破できる」と主張したこともあり、5月23日に進軍停止を命じた。数日後に装甲師団が進撃を再開した時、ダンケルクはすでに要塞化されており、ドイツ軍がこれを制圧したのは6月5日、その間に連合軍将兵34万人はイギリスへの脱出に成功していた(これはダイナモ作戦と言われる。民間の漁船やヨットまで動員した大脱出劇であった)。

フランス降伏[編集]

イギリス軍将兵と一部のフランス軍将兵はイギリスへ脱出したものの、これは戦車・火砲など重機材を放棄しての脱出だった。その後のフランスは、残存部隊やマジノ要塞から引き抜いた歩兵主体の部隊で防衛するしかなかった(イギリス軍は歩兵2個師団を再び派遣しているが、のちに撤退)。

ダンケルク包囲戦が終わりドイツ軍が進撃を再開すると、フランス政府は6月10日にパリ無防備都市と宣言して放棄、政府をボルドーに移した。同日、イタリアが英仏に対し宣戦を布告。6月14日にはドイツ軍がパリに無血入城した。

6月21日に、フィリップ・ペタンを首班とするフランス政府はドイツに休戦を申し込み、フランスは降伏した(独仏休戦協定)。

フランスの敗因[編集]

防衛の不備[編集]

かねてから、イギリスのウィンストン・チャーチルはフランス軍が弱小であると指摘し、要塞マジノ線の建設に軍事費の多くを費やす方針を批判してきた。しかし、フランスは軍備拡張がドイツを刺激するのを恐れ、チャーチルの苦言に耳を貸さず、陣地防衛中心の戦略を立てていた。 また、後にドイツ軍戦車の侵攻ルートとなるアルデンヌの森やムーズ川は戦車が通過できないと判定しており、軍部は防備の強化を求める意見を拒否した。スダン周辺に配置されていた第九軍は弱体な部隊であり、さらにアルデンヌからスダンへ通じる道に設置されていた戦車障害物を撤去させたともいう。

侵攻開始直前、ドイツ軍の戦力がアルデンヌに集中していると判明してからもフランス軍は対応策をとらず、ドイツ軍の侵攻を許す結果となった。

戦争指導の欠陥[編集]

宣戦布告後においてもなおドイツの報復を恐れ、積極的な攻撃計画を実行しなかった。当時発生していた冬戦争におけるフィンランドへの支援や宣戦布告していないソビエト連邦への攻撃をイギリス側に提案するなど、ドイツ軍への備えはほとんど考慮されなかった。

軍事面の最高指揮官である、陸軍総司令官兼参謀総長モーリス・ガムラン大将は梅毒の影響で思考力が低下していたとされ、適切な指揮を行わなかった。パリ郊外に置かれた陸軍総司令部には無線や軍用電話、テレタイプ端末が設置されず、伝書鳩もいなかった。連絡は通常電話やオートバイによる伝令に頼ったため、前線へ指示を伝達するのに48時間を要したという。

ドイツ軍の侵攻前日、侵攻の気配を知らせる情報が次々と司令部に届いたが、総司令部は何の対応も取らなかった。翌日、ガムランはドイツ軍が侵攻を開始したという連絡を受けたが、指示すら出さずに寝室に入っていった。

政府の内部分裂[編集]

さらに、フランス政府の内部分裂が拍車を掛ける。もともと小党が分立する第三共和政下のフランス政界では、政変が日常茶飯事であり、しかも当時のエドゥアール・ダラディエ首相とポール・レノー蔵相の仲は険悪であった。レノーはダラディエ内閣を総辞職に追い込み、自ら首相に就任するが、国防相としてダラディエを政権内に残さざるを得なかった。その後も対立は続き、政治面での戦争指導を甚だしく阻害した。ドイツ侵攻前にレノーはガムランの解任を考えていたが、ガムランの友人であったダラディエの反対で失敗している。

5月20日、戦局の悪化を受けてレノーは内閣改造とガムランの更迭を行った。副首相に第一次世界大戦の英雄フィリップ・ペタン元帥、総司令官にマキシム・ウェイガン大将を据えたが、戦局はどうにもならず、ペタンとウェイガンは和平を強く主張するようになる。レノーはなおアフリカで抗戦することを主張したが、閣内の大勢は和平に傾いており、レノー内閣は倒れた。レノーに代わって組閣したペタンのもとで、フランスはドイツと休戦協定を結ぶこととなる。

人口問題[編集]

また、ナポレオン時代以降フランスの人口は減少傾向にあり、兵員を増やしたくても増やせなかった事情もある。ナポレオンの強さの要因のひとつは、欧州(ロシア除く)で最大の人口を持つ国民に徴兵制を施行し、圧倒的な兵力を集中できたことである。ナポレオン戦争、さらに第一次世界大戦による青少年(兵役適齢者)の減少と、離婚・中絶の増加で、1940年当時のフランスの人口はドイツ・イギリスより少なくなっていた。

その後[編集]

6月22日に締結された独仏休戦協定の結果、パリを含むフランス北部はドイツの占領下に置かれた。南部はイタリアの占領地域を除く部分のフランス政府の自治が認められたが、実質的なドイツの傀儡政権であった。

7月1日、フランス政府は首都をボルドーからヴィシーに移した。このためこの時期の政権はヴィシー政権と呼ばれる。

国民議会は7月9日には憲法改正を行って大統領職を廃止、「全権力をペタン将軍に委任する」というただ一条の憲法を持つファシズム体制の国家となった。ヴィシー政府は敗戦の反省から、「過度な個人主義の抑制・国家への忠誠を無視した教育の変更・宗教の再興」を掲げる、「国民革命」を標榜した。青少年に軍隊式のスパルタ教育を施し、離婚・中絶売春を禁止し、カトリック教を支援した。経済面でも個人主義を抑制し、社会主義的な労使協調・農業集団化を行った。さらに強制労働・ユダヤ人への迫害・秘密警察の設置などが行われたという。戦争においては中立を標榜していたものの、資源面などでドイツに協力した。

ヴィシー政府は降伏したが、これをよしとしない勢力も存在した。シャルル・ド・ゴールはイギリスで自由フランス国民委員会(自由フランス)を樹立、あくまで対独抗戦の道を選んだ。カメルーン仏領赤道アフリカ等の一部植民地はこれに呼応、自由フランス軍を形成することになる。また、フランス国内ではレジスタンスがドイツや政府に対する反抗を行った。

この戦い及び占領下のフランスを舞台とした作品[編集]

  • ダンケルク (Week-End A Zuydcoote) 1964年 フランス・イタリア合作映画 アンリ・ヴェルヌイユ監督
  • 激戦ダンケルク (Dunkirk) 1958年 イギリス映画 レスリー・ノーマン監督
  • 禁じられた遊び (Jeux Interdits) 1952年 フランス映画 ルネ・クレマン監督 ブリジット・フォッセー主演
  • 渡洋爆撃隊 (Passage to Marseille) 1944年 アメリカ映画 マイケル・カーティズ監督
  • 影の軍隊 (L'Armee des Ombres) 1969年 フランス映画 ジャン・ピエール・メルヴィル監督

関連項目[編集]

外部リンク[編集]