淘宮術

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淘宮術(とうきゅうじゅつ)は、天保5年(1834)に横山丸三によって創始された精神修養術。人の生年月日の干支(特に十二支)から年齢層別の「気質」や「癖」即ち悪い「気質」を鑑定し(決め付け)、降りかかる厄災などを占い、修行により「癖」を直し、運気の改善をはかる。精神修養術と称しているが、宗教とも評される。

難解な教典を持たず、難行・苦行も行わないため、修養は比較的容易と評されるが、教義を秘伝とし、入門の手続きや免許皆伝に至る伝授の過程を複雑にしている。天源術の宿命観を前提とするが、道徳的・修養的な努力によって運命は変えられる、と説く積極性が特徴とされる。会員の会合「淘席」で「淘歌」「淘話」により教義を習得する活動形態は、道歌・道話による教化を行った石門心学の一派・堵庵心学の亜流とも評される。

はじめ天源陶宮学と称し、弘化2年(1845)に開運陶宮術と改称。嘉永元年(1848)江戸幕府に講義集会を禁止されたが、明治維新後、解禁され、教派神道大成教会傘下で活動した。横山の直弟子・佐野量丸やその弟子・吉川尹哲の指導下で教勢を拡大。また横山やその直弟子・新家春三大奥と関係があり、明治期以降も華族紳商などに信者が多く、信者に女性が多いという特徴があった。大正期には、秘伝を公開・出版して信者を獲得した竹内師水なども出たが、有力な指導者を失い衰微。1938年に淘道連盟、1944年に日本淘道会を組織した。

沿革[編集]

江戸時代[編集]

江戸幕府御下男大奥女中方の雑用をする者[1])から小普請組御留守居番同心(、組頭[2])となった横山丸三(本名・三之助)は、文政4年(1821)、42歳のときに奥野南卜の門下に入って天源術の伝授を受け、文政10年(1827)に奥野が死去した後、天源術を離れて、天保5年(1834)に「淘宮学」を創始した[3][4]淘宮の名は、横山の弟子の安平玄俊・谷津昌啓らが選定し、当初は天源陶宮学と称した[5]

  • 後年、幕府が横山から聴取したところによれば、奥野は横山が入門して3年で病気を患い、そのまま6年後に亡くなったため、横山は十分に奥野の術を習うことができず、12宮のことは自分自身で理屈を考えて、開運淘宮術と名付けた、という[6]

それ以来、横山に教えを請う弟子が増えていき、嘉永元年(1848)時点で1,040人を数えた[7]。侯伯の門弟も数十人に達した[5]。そのうち、免許皆伝に至った弟子は、久留島侯飯田勝美新家春三佐野量丸青木十丸および相原貞三尼の6人だった[5]

天保13年(1842)6月から、弟子が淘話をするようになった[8]

弘化2年(1845)に開運陶宮術と改号[9]

嘉永元年(1848)9月、弟子が増えたことで幕府の目に止まり、横山は、当時三教神道儒教仏教[10])以外の宗教を禁止していた幕府(組頭・豊田藤之進)の糺問を受けた[11][6]。「訛伝紛伝の首罪者」として遠流されることも懸念されたが、翌10月晦日に、幕府(若年寄・大岡主膳正)から、淘宮術自体は禁止しないが、門人・生徒を集めての術の教授を禁止する、との命令を受けた[11][12]。これにより、弟子の中には門下を離れる者も出た[13]

安政元年(1854)に横山は75歳で没した[14][15]

明治時代[編集]

細川 (1922 )によると、明治の初めに教部省の官吏が横山の家にやって来てその説を聴取し、幕府の集会禁止命令を解禁したという。西川 (1914 125)は、明治維新の後、佐野と青木が内務省の許可を受け、大成教会の管理下で、再び一般に淘宮術の宣伝を行うことができるようになった、とする。

佐野量丸は2代目の指導者として、新家と並び称された[15]大成教の教祖・平山省斎も、佐野量丸の門下に入っていたことがあった[16]

佐野の門下で皆伝を受けた吉川尹哲も多くの門弟を抱え、華族や富豪の信奉者・支援者も多かった[17]。佐野や吉川の教導・指導によって、淘宮術は明治中期に信奉者を増やし、全国的にブームとなった[18]

佐野の没後は、その夫人・佐野陽月が後継者となった。門人は1万数千人を数え、上流の名家や実業家に入信する人が多かった。[16][19]

新家春三は佐野と意見が合わないところがあり、別に公の許可を得て一派を形成した[16]。正統を継いだのは新家で、淘宮の本家のように言われていた、ともいう[15]

飯田勝美静岡へ移住し、その後、門跡が絶えた[16]

この頃は、入門者を対象として淘話という非公開の講義形式で活動し、少人数での活動で発展していった[19]。佐野・青木・吉川・新家の4家がそれぞれ皆伝を与え、その弟子がまた皆伝を与えて門徒を増やしていき、1914年頃には東京だけでも免許皆伝者は200余人に及んでいた[20]

  • 1909年頃、吉川の門下だけでも直接皆伝を得た者が12人あり、いずれも定業を有する中流階級以上の人たちで、入門希望者があれば余暇を使って淘宮術を伝授していた[21]
  • 1909年頃、最も盛んに行われていたのは東京で、次いで京都大阪神戸および三州地方で盛んだった。加入者には教養のある人も多かった。名古屋控訴院長・某、本所の広部銀行頭取、芝浦製作所の庶務課長・巌六平京都大学の村岡某、伊沢某、蜂須賀某などが信奉者だった。[21]
  • 京・阪・神地方では、毎週1回~毎月1回程度、陶話の会合が持たれており、陶宮共洗会と呼ばれていた[22]

大正時代[編集]

鈴木 (1966 8)は、淘宮術は、入門者が急増したことで教義の誤解と逸脱から活動が沈滞し、大正期に入ると、正伝・篤学の指導者を失い、衰微した、と評している。

西川 (1914 128)は、淘宮術は普及をみたが、免許皆伝者の中には、旧習に固執しがちで、時勢に鑑みて遺教を現代に活用できるだけの見識や手腕を持たない者が多かった、と評している。

吉川尹哲の門人だった竹内師水は、1912年に吉川の淘話を筆記・刊行して破門され、その後「革新淘宮術教授」と称して自ら淘宮術の教授を始め、1913年5月から『処世活用 淘宮術伝習録』を毎月発行して、某人の門下に入らずとも、独学で淘宮術が学習できるようにした[23]。竹内の下には、従来からの、入門・皆伝の手続きの煩瑣さや秘密主義に疑問を抱いていた人々が集まり、門弟は数百名に達したという[24]

読売新聞 (1913-5 )は、社中の人は、東京に7-8万人、大阪1万、京都200-300人、大連に100人ほど、岡山50-60人で、中流階級の者が多く、女が7割を占めているという、としている。

教義[編集]

井上 (1896 228)は、淘宮術は天源術から出て、専ら十二支に基づき、人の生年月からその資性命運を判定するが、それよりも「治心」を要諦としている点が特徴で、道二らが提唱した心学に近かった、と評している。

勝峰 (1908 102-103)は、人には生まれ持った「気質」があり、「気質」には「徳」があり「癖」がある。「癖」は病となり禍いとなるため、「癖」となる気質を取り去ることによって禍転じて福と為すのが淘宮術、としている。

鈴木 (1966 8)は、淘宮術は、人格の淘げ(よなげ)、精神修養を説き、「天源十二宮」の講義によって人を明朗に導き、家庭社会を明るくすることを説いた、としている。

鑑定法[編集]

十二支[編集]

淘宮術では十二支に基づいて鑑定を下すが、子・丑・寅・…の名称を用いず、滋・結・演・…の術語を用いている[25]

大井 (1868 46-68)によると、気質(人相、性格)の判断から、向いている職業や災難の予想をするほかに、結婚相手にどの十二支の相手を選べばよいか(よい気質の子供が生まれるか)という話があるもよう。

天源淘宮の鑑定法(十二支)
記号 気質 鑑定
滋(子、シ) 商家大吉 水難
結(丑、ケ) 出家大吉
演(寅、エ) 武家大吉 火難
豊(卯、ホ) 出家医師農商家とも大吉
奮(辰、フ) 剱難火難
止(巳、ト) 万事大吉
[26] 合(午、コ) 火難
老(未、ロ) 出家大吉
[27] 緩(申、カ) 火難
堕(酉、タ) 医師大吉
煉(戌、レ) 剱難火難
実(亥、チ) 水難

出典:井上 1896 229-233、川瀬 1891 5-6,7-15。記号の定義は不明。

三輪[編集]

淘宮術では、或る人の「気質」が母の胎内に宿った年月日の気候を受けて決まると考える[28]

井上 (1896 233-234)によると、

  • 大輪は生れた月から10ヵ月前に遡った月(年?の干支)
  • 中輪は生れた月(の干支)
  • 小輪は生れた日(の干支)

大井 (1868 46)によると、

  • 大輪は生れた年(の干支)
  • 中輪は生れた月(の干支)
  • 小輪は生れた日(の干支)

であり、

  • 小輪は生まれてから20歳まで
  • 中輪は20歳から40歳まで
  • 大輪は40歳から60歳まで

の期間に関わる、とする[29]

教典類[編集]

  • 佐野量丸の話によると、横山丸三は『阿気の顕支』という小冊子を著して「この外に淘宮術には書はない」と示したという。『十二の辛苦』以下の7部はもともと天源術の書で、淘宮術のオリジナル書は『阿気の顕支』と淘詠集の2部のみという。[30]

淘詠・淘話・淘席[編集]

淘宮術は、人格陶冶と常識涵養のための生活指導理念として「淘詠」と呼ばれる31文字の道歌を提示し、また「淘話」と呼ばれる故事や例話による講義によって、「淘席」と呼ばれる会合を開いて、理念を講義・敷衍した[31]

淘話の会合では、門人が師匠の所に集って自身の出来事を報告し、師匠の警策・指導を受けた[22]

指導者[編集]

信奉者[編集]

旅行[編集]

勝峰 (1908 108-109)は、陶宮術とと医術を合せて毎日研学していたが重病になり瀕死となったため、これらを放棄して熱海の温泉につかりにいき、座禅をしたら平癒して健康になった。研学を放棄して温泉につかりながら座禅をしたのが淘宮術にも医術にも叶っていた、としている。(謎)

大井 (1868 35-44)の年表によると、横山の存命中から各地への旅行が催されることがしばしばあったようである(下記)。

  • 天保7年(1836)4月7日 金沢
  • 天保12年(1841)夏 箱根温泉
  • 弘化2年(1845)5月10日 箱根気賀温泉
  • 嘉永2年(1849)秋 相州
  • 嘉永4年(1851)3月 流山看花
  • 嘉永5年(1852)9月19日~ 八王子道志川鮎漁、江ノ島旅行
  • 嘉永6年(1853)9月 成田

評価[編集]

  • 西川 (1914 126-128)は、淘宮術の修業は、人の天賦の性質を熟知し、性質に附随する悪癖を矯正して中庸の至正を回復するという簡明な精神修養法で、他の神道各派の修業のように難行苦行があったり、数多難解な書籍を通覧しなければならなかったりするわけでないため、門下に入り、自分の性癖を知り得れば、誰でも容易に修養の効果が得られる、と評している。
また同書は、それにもかかわらず淘宮術が他の諸宗教と比べて微勢に止まっている理由として、教義を秘伝としていて、入門していなければ家族であっても伝えてはいけない、としていることや、複雑な入門の手続き、伝授の課程があることを指摘している。
  • 桧山 (1915 420)は、自分の性格を知り、観念によって欠点を補う術法であるが、自身の気質の問題を運命として指摘され、それが改善できないと悲観的になるため、注意が必要で、以前大阪で、淘宮術を修めて自殺した女性がいた、としている。
    • 1913年5月19日に、大阪市西区京町堀通4丁目で、紳商の妻(淘宮術の門人)が、短刀で自殺する事件があった。夫に隠して実の妹に時々送金をしていたところ、淘宮術の信条から、犯した罪について懺悔し、罪を贖わなければ報いを受けるとの観念にとらわれ、夫にそのことを打ち明けて許しを乞うたことがあったが、その後、孫が感冒に罹ったことを「自分の罪が報いた」と考えて自殺した、といわれていた。[43]
  • 森田 (1928 219)は、淘宮術は、その目的や手段はよいとしても、人の気質が生まれた年月日の干支によって決まるとすれば、同一の年月日に生まれた世界中の人は皆同一の性質・運命をもっているべきだ、ということになり、話の出発点が迷信だ。1人1人についていう時には、十干十二支と三輪の複雑な関係で組み合わさるため、そこで自由な牽強付会の解釈がつけやすいのだ、と評している。
また同書は、自身の性状や運勢の判断が往々にして適中することがあるため、不思議に感じることがあるが、それは不思議なことではなく、抽象的でどのようにも解釈できる意味の言葉が用いられるため、信じる人には当り、信じなければ当らない。人の心情を12に分けても各人は12種類くらいの「情」は持っており、それを年月日で3つくらい挙げられれば、自省して自らの性状に符合するものがあると認識する、と解釈している。
  • 文部省 (1936 20-21)は、淘宮術は天源術と同様に宿命観を前提としていたが、道徳的・修養的な努力によって宿命を克服し修正できるとした点が天源術と大きく異なり、人為によって運命を変え、現状を向上させることができるとして、そのために努力し勤労することを強調する積極性は天保期に創設された3つの教化団体(報徳教性理教、淘宮術)に共通の特質だった、と指摘している。
また同書は、上記の点を除くと、淘宮術はどんなに高く見積もっても堵庵心学手島堵庵が18世紀前半に開いた石門心学の一派)の亜流以上のものではなく、淘歌・淘話は心学の道歌・道話に近いもので、心学のそれよりも実利的・卑俗的だった。通俗的・直接的な意味で「運」がよくなることを目的とし、そのためには道徳に励めという教えは、天保頃の暗い世相の一面を反映したもので、卑俗化していたが修養をする当事者にとっては心学より切実な教えだったともいえる、と評している。

我といふ 小さき此の身 捨てゝ見よ 大千世界 さわる物なし

心学初入手引草より [44]

我といふ たつた一字を 淘(よな)げれば 此の世の中に さわる物なし

丸三道歌集より [44]

  • 鈴木 (1966 8)は、教義には「天は自ら助くる者を助く」という西洋の自助論にも通じるところがあり、宗教的信仰ではなく東洋的ではあるが科学的実証に基づくと説いたことで、社会生活の矛盾と不安に悩む多くの人々に目新しいものとして興味を持たれた、と評している。

付録[編集]

関連文献[編集]

  • 新家春三『十二宮伝』[45]
  • 佐野量丸『分宮考』[46]
  • 川瀬勝『淘宮学軌範』厳々堂、1892・明治25、NDLJP 760631
  • 石川勝太郎『淘宮之早道 - 開運自在』石塚清三郎、1892・明治25、NDLJP 760639
  • 安田政常(楳庵)『鼇頭九星天源淘宮術』国華堂、1893・明治26、NDLJP 760611
  • 金刀比羅神学会『太麻邇占鑑秘訣』金刀比羅神学会、1898・明治31、NDLJP 760771
  • 鶯亭金升「淘宮指南」『風俗画報 26』東陽堂、1905年11月、pp.19-24、NDLJP 1579777 (閉)
  • 心霊学人「淘宮術と幹枝学」『神通力 一名 千里眼透視法』尚文館、1910・明治43、pp.95-106、NDLJP 759874/52
  • 田中武栄『天源淘宮三輪組織明暦』春江堂、1910・明治43、NDLJP 760610
  • 佐々木高明『天源淘宮運命開発秘伝』春江堂、1910・明治43、NDLJP 760609
  • 川島幸済(幸太郎)『天源淘宮運命開発秘伝』川島星光堂、1910・明治43、NDLJP 760614 (閉)
  • 村田徽典『天源淘宮術 - 秘密開放 附 三輪早繰表』文泉堂、1911・明治44、NDLJP 760612
  • 竹内師水(編)『一元先生の淘話 附 天源十二宮詳解』永楽堂、1912・大正元、NDLJP 949211
  • 大阪毎日「大阪の淘宮術」天理教道友社『道の友』No.259、大正2年6月号、1913年6月、pp.30-32、NDLJP 11030226 (閉)
  • 山本勝「化学的食養法と天源淘宮術」『食養雑誌』6月号、No.68、1913・大正2年6月、NDLJP 1501175 (閉)
  • 竹内師水(編)『淘宮術伝習録』永楽堂、1914・大正3、初伝:NDLJP 951386 (閉) 中伝:NDLJP 951387 (閉)
  • 広瀬南雄(著)長崎法剣(編)「陶宮術」『民間信仰の話』法蔵館、1926・大正15、pp.124-126、NDLJP 919209/69
  • 須崎忠輔『修養之近道』須崎忠輔、1929・昭和4、NDLJP 1100980 (閉)
  • 玉塚天保銭翁編纂会『玉塚天保銭翁』玉塚天保銭翁編纂会、1932・昭和7、NDLJP 1175381 (閉)
  • 榛葉元水『淘宮道の本質』代々木書院、1935・昭和10、NDLJP 1055293/22 (閉)
  • 佐伯有義(編)『神道分類総目録』春陽堂書店、1937・昭和12、NDLJP 1913894 (閉)
  • 熊平源蔵『抜萃の綴 その5』熊平商店、1942・昭和17、NDLJP 1031696 (閉)
  • 橋本喜閑『淘祖言行録』日本淘道会、1952年、JPNO 23436579
  • 高嶋象山『運勢大事典』住吉書店、1955年、NDLJP 2940647/74 (閉)
  • 綿谷雪「占星術から淘宮術まで」『術』青蛙房、1964年、NDLJP 2983719/147 (閉)
  • 日本文化中央連盟(編)『日本文化団体年鑑 昭和18年版』日本文化中央連盟、1943年、NDLJP 1071176
  • 日本淘道会「淘宮」史編纂委員会『淘宮』日本淘道会、1994年、JPNO 22994372
  • 大井正元(原著)横山正実(抄釈)『淘祖横山丸三先生伝』日本淘道会、2000年、JPNO 22994378
  • 鳥羽一朗(編著)『現代淘道フォーラム - 後世に淘宮を伝えるには』日本淘道会京都淘洗会、2003年、JPNO 22994374
  • 先師遺墨集編纂委員会『先師遺墨集 カラー版』日本淘道会、2006年、JPNO 21178722
  • 日本淘道会編集委員会『淘道 (淘宮) のしおり - 淘道を理解して頂くために』日本淘道会、2009年、JPNO 22994375
  • 大館右喜「幕末・明治期における淘道」関東近世史研究会(編)『関東近世史研究論集2 宗教・芸能・医療』岩田書院、2012年、ISBN 978-4872947755
  • 日本淘道会「平成の淘宮史」編纂委員会『平成の淘宮史』日本淘道会、2014年、JPNO 22994373
  • 日本宗教学会『宗教研究』別冊91、2018-3-30
  • 樋口雄彦「淘宮術と明治の旧幕臣群像」『沼津市博物館紀要』ISSN 09120092、No.43、2019
  • 日本宗教学会『宗教研究』別冊93、2020-3-30
  • 久米功一「一生懸命に働く、意味のない仕事をすることの構造と動因に関する探索的分析」リクルートワークス研究所、2021-3-31、電子書籍

脚注[編集]

  1. 精選版 日本国語大辞典『下男』 - コトバンク
  2. 大井 (1868 5,35)に、文政5年、43歳の12月27日に組頭に昇進したとあり、同書39頁の天保8年の条に「8月組頭退役」とある。細川 (1922 )によると、嘉永元年の幕府の聴書では、横山は「同心」とされているもよう。組頭になっていたとしても、なっていなかったとしても、嘉永元年には退役済。
  3. 井上 1896 227-228
  4. 大井 1868 5-13
  5. 5.0 5.1 5.2 大井 1868 13
  6. 6.0 6.1 細川 1922
  7. 大井 1868 13,42
  8. 大井 1868 40
  9. 大井 1868 14
  10. 精選版 日本国語大辞典『三教』 - コトバンク
  11. 11.0 11.1 大井 1868 15,42
  12. 鈴木 1966 9
  13. 大井 1868 15
  14. 大井 1868 20
  15. 15.0 15.1 15.2 15.3 井上 1896 228
  16. 16.0 16.1 16.2 16.3 西川 1914 125
  17. 西川 1914 126
  18. 18.0 18.1 18.2 18.3 18.4 鈴木 1966 7
  19. 19.0 19.1 鈴木 1966 8
  20. 西川 1914 128
  21. 21.0 21.1 陽新堂主人 西潜竜 1909 72
  22. 22.0 22.1 陽新堂主人 西潜竜 1909 73 - 『報知新聞』による
  23. 西川 1914 128-129
  24. 西川 1914 129
  25. 井上 1896 229-230
  26. 川瀬 (1891 11)は「○」としている。
  27. 左が○、右が●
  28. 勝峰 1908 101-102
  29. 井上 1896 233-234
  30. 大井 1868 23
  31. 鈴木 1966 8-9
  32. 大井 1868 38
  33. 大井 1868 13,37
  34. 大井 1868 13,33,39
  35. 大井 1868 13,17,37
  36. 大井 1868 13,17,38
  37. 翌檜居主人 1964
  38. 38.0 38.1 38.2 38.3 大井 1868 17
  39. 読売新聞 1913-9
  40. 藤田 2019 352 - 日本淘道会『淘道』による。
  41. 読売新聞 1992
  42. 藤田 2019 356-359,368-369
  43. 読売新聞 1913-5
  44. 44.0 44.1 文部省 1936 27
  45. 井上 1896 229
  46. 藤田 2019 369

参考文献[編集]

  • 大井 (1868) 大井正元三始氏「淘宮元祖先聖伝記并略年譜」天源淘宮術研究会『天源淘宮術秘訣』松成堂、1909・明治42(原著:慶応4・1868)、pp.4-44、NDLJP 2209062/10
  • 川瀬 (1891) 川瀬勝『淘宮学秘書 初伝・中伝・奥伝』川瀬勝、明治24、NDLJP 760632
  • 井上 (1896) 井上円了(講述)『妖怪学講義 合本第3冊 増補再版』哲学館、明治29、pp.225-236、NDLJP 1080793/118
  • 勝峰 (1908) 勝峰大徹『内観法 - 記憶長寿及胆力増進之要訣』成功雑誌社、明治41、NDLJP 837124
  • 陽新堂主人 西潜竜 (1909) 陽新堂主人・西潜竜『陶宮術秘密奥伝』求光閣、1909・明治42、NDLJP 760638
  • 読売新聞 (1913-5)「自殺と淘宮術 大阪富豪の妻自殺 淘宮術に凝り」『読売新聞』1913年5月21日 朝刊 犯罪・事件 p.3
  • 読売新聞 (1913-9) 「淘宮術の大家逝く」『読売新聞』1913年9月29日 朝刊 社会 p.3
  • 西川 (1914) 西川光次郎『神道教祖伝 - 霊験奇瑞』永楽堂、1914・大正3、NDLJP 908681/70
  • 中島・足立 (1914) 中島力造・足立栗園「第11章 淘宮術」『社会徳育及教化の研究』隆文館、1914・大正3、pp.345-359、NDLJP 939551/189
  • 桧山 (1915) 桧山鉄心「第7章 淘宮術の修養法」『心身修養療法原論 - 附・桧山式療養法』忠誠堂出版部、大正4、pp.418-420、NDLJP 953871/225
  • 細川 (1922) 細川潤次郎「淘宮術」『梧園随筆 賸編 3』西川忠亮、大正11、NDLJP 985320/7
  • 高島易断所 (1925) 高島易断所本部「第三章 陶宮術」『除災招福神秘開運法』神宮館、大正14、pp.39-64、NDLJP 922749/25
  • 森田 (1928) 森田正馬「附録 二 淘宮術」『迷信と妄想』実業之日本社、1928・昭和3、pp.218-220、NDLJP 1051057/113
    • (内容同じ)森田正馬「淘宮術」『科学と芸術』2(4)、白日荘、1934年4月、NDLJP 1469727/30 (閉)
  • 文部省 (1936) 文部省社会教育局「淘宮術の普及とその思想傾向」『江戸時代末期に於ける教化の観念と其の理念』〈社会教育叢書 第34輯〉文部省社会教育局、pp.20-22、NDLJP 1124628/16
  • 翌檜居主人 (1964) 翌檜居主人「俳人逸話 三 松本顧言」全国市区選挙管理委員会連合会『選挙』vol.13 no.4、1964年4月、p.42、NDLJP 2756251/23 (閉)
  • 鈴木 (1966) 鈴木龍二「相沢翁と淘宮術」相沢菊太郎ほか『相沢日記・続』相沢栄久、7-9頁、NDLJP 2985880/8 (閉)
  • 埼玉県 (1988) 「三 新興宗教・キリスト教の伸長(一)教会所・説教所の簇生」『新編埼玉県史 通史編5 近代1』埼玉県、680-685頁、NDLJP 9644254/371 (閉)
  • 読売新聞 (1992) 「横山正実氏(元東京都立大教授・食品化学、日本淘道会理事長)死去」『読売新聞』1992年5月26日 東京朝刊 社会 27頁
  • 藤田 (2019) 藤田英昭「幕末維新期の大奥と『淘宮術』」『論集大奥人物研究』東京堂出版、pp.345-371、ISBN 978-4490210200