土方歳三
土方歳三'(ひじかたとしぞう,1835年 – 1869年6月20日)は新撰組の副長。箱館五稜郭政権の陸軍奉行並。局中法度を貫き,山南敬助・河合耆三郎らを切腹に追い込むなど内部粛清し「鬼の副長」と言われた。家紋は、左三つ巴。
出来事[編集]
浪士隊結成[編集]
武蔵国多摩郡石田村(東京都日野市石田))の農家に1835年生まれる。六人兄弟の末子[1]。父は土方隼人(土方義諄)、母は恵津。多摩の豪農であった。1840年、5歳で母恵津が死去(48歳)する。土方歳三の父は、生まれる3ヶ月前に結核で亡くなっていた。次兄の土方喜六が家督を継ぎ隼人を襲名し、土方隼人とその妻・なかによって養育された。土方歳三の姉・のぶ(14歳)が日野宿名主の佐藤彦五郎に嫁入する。 1845年、江戸上野松坂屋呉服店(現在の松坂屋上野店)に丁稚奉公に出るが、番頭とケンカして家に戻ったとされる。しかし石田村の「宗門人別帳」によれば、十三歳か十四歳に奉公にでて、そのまま二十三歳まで奉公をしていたようである。佐藤彦五郎の日記『佐藤彦五郎日記』に歳三の名前が登場するのは、1859年(安政六年)からである。「ある縁談のことで、小野路村の橋本方に行き、そのとき俊蔵(歳三)も同行した」と書かれる。1859年3月29日、土方歳三は正式に天然理心流に入門する。この道場で天然理心流試衛館の近藤勇(のちの新選組局長)と出会ったとされる。1860年(万延元年)5月に「昨日近藤勇先生が参り、今日石田歳蔵と同行して八王子から五日市へ行く」と記載される。万延元年八月に刊行された関東の剣術者名簿『武術英名録』に、歳三は「天然理心流武州日野宿土方歳蔵」と記載されている。 郷里に戻った後、土方歳三は実家秘伝の「石田散薬」(捻挫などの薬)を行商しつつ、各地の剣術道場で他流試合を重ねたというからその成果が表れたのであろう。 1860年9月30日、府中六所宮で天然理心流献額の神事があり、土方歳三は型試合を披露した。江戸試衛館に住み込み師範代となる。 1863年(文久3年)2月の江戸幕府将軍・徳川家茂上洛にあわせ、将軍警護のために作られた浪士組に近藤勇とともに参加する(29歳)。2月8日、小石川伝通院に集まった浪士組は江戸を出立して中山道を上洛し、土方は三番隊の芹沢鴨・近藤勇・山南敬助・土方歳三・永倉新八・沖田総司・原田左之助・藤堂平助・平山五郎・野口健司・平間重助らと行動を共にする。2月23日、京都壬生村に到着する。近藤勇・土方歳三らは八木家に宿泊した。清河八郎とたもとを分かれた芹沢・近藤らは京都守護職を務めていた会津藩の預かりとなり京都に残り、「壬生浪士組」を名乗った。浪士残留組13名は八木邸に残留する。3月16日に浪士残留組は京都守護職邸で松平容保に拝謁する。当初連判十七名の一人となる[2]。
新選組誕生[編集]
1863年(文久3年)8月18日、朝廷より壬生残留浪士組に「新選組」の隊名が下賜され、8月21日、松平容保は新選組に対して、市中見廻りを昼夜行う事を命じた。1863年9月16日、新選組の土方歳三・近藤勇天然理心流派は、芹沢鴨、平山五郎、平間重助を襲撃し、芹沢鴨、平山五郎を殺害する。この頃、新選組の局長に近藤勇、副長に土方歳三が就任した。 1864年(文久4年)1月10日、土方歳三は平忠右衛門と平作兵衛に年賀状を書く。2月2日、連光寺村(現在の多摩市連光寺)の富沢政恕が夜に壬生を訪問して土方歳三、沖田総司、井上源三郎と酒宴を開く。3月3日、土方歳三は井上源三郎と富沢政恕を訪問し、清水寺を参拝後、祇園藤屋で酒宴を開く。3月11日、土方歳三、近藤勇、沖田総司、井上源三郎、藤堂平助、武田観柳斎と富沢政恕を誘い花見の後、島原木津屋で酒宴を開く。4月11日、近藤勇 土方歳三、沖田総司、井上源三郎と富沢政恕の送別会を千紅万紫楼で開いた。5月16日、徳川家茂が天保山より乗船し、新選組は安治川河口を警備する。6月5日、池田屋事件が発生する。長州藩・土佐藩・肥後藩等の尊王攘夷派志士を新選組が殺傷し、新選組の名前が有名となる。8月4日、江戸幕府は新選組に池田屋事変の感状と恩賞金を出す。10月9日、土方歳三は近藤勇・佐藤彦五郎に対し近況報告の手紙を書く。11月1日、土方歳三は実家に鉄扇を送る。1865年1月8日、大坂のぜんざい屋事件。1865年2月頃、土方歳三は西本願寺と屯所移転を交渉する。3月10日、新選組は西本願寺の太鼓楼に屯所を移転する。土方歳三は隊士募集のため江戸に向い、1865年4月5日に江戸に入る。4月12日土方歳三が日野の佐藤彦五郎家を訪問する。4月14日、土方歳三は日野で小島鹿之助と面会する。 4月27日、新隊士55名をつれて、土方歳三は京に向い、5月10日に京に入る。9月9日、土方歳三は近藤周斎、宮川総兵衛、近藤ツネに「行軍録」を添えた近況報告手紙を書いた。6月15日、不動堂村に新選組の屯所を移動する。6月23日、新選組の幕臣取り立てが正式決定する。6月24日、近藤勇の建白書を土方歳三、山崎燕、尾形俊太郎、吉村貫一郎が、柳原前光、三条実愛を訪問して届けた。9月20日頃、土方歳三は隊士募集のため井上源三郎と共に江戸に向った。10月8日、土方歳三は日野の佐藤彦五郎邸を訪問する。10月21日、土方歳三らは新隊士を連れ京に向い、途中の品川釜屋で昼食。10月22日大磯に宿泊し、10月23日は箱根に宿泊する。11月3日、土方歳三ら一行は京に入った。12月2日、土方歳三は剣術の小手を購入する。12月18日、二条城での軍議に参加して伏見に戻る途中の近藤勇は御陵衛士の残党に銃で狙撃され重傷となる[3]。
鳥羽伏見の戦い[編集]
1868年1月3日、鳥羽伏見の戦い。鳥羽伏見の戦いは副長・土方歳三が指揮して戦った。井上源三郎は戦士した。1月6日、橋本の戦いも敗れ、新選組は天満橋西詰代官屋敷に入り、1月7日、大坂城二の丸に入る。1月10日、近藤勇、土方歳三ら負傷者と介護の隊士は「富士山丸」に乗船して兵庫に停泊し、江戸に向かった
江戸から鴻台・下館[編集]
1月16日、近藤勇・土方歳三は江戸城に登城。1月18日、近藤勇と土方歳三は佐藤彦五郎・粕屋良循と会い、同日、会津江戸藩邸で2000両の軍資金を得る。1月22日、土方歳三は洋式軍服を受け取り、1月23日、髪を総髪にして写真を取る。 2月28日、新選組は勝海舟から甲陽鎮撫を命じられ、3月1日、新選組を主力とする甲陽鎮撫隊 約200名は大砲2門・小銃500挺・軍資金5000両で江戸を出発する。3月3日、近藤勇と土方歳三は日野の佐藤彦五郎宅を訪問し歓待を受ける。3月6日、土方歳三は旗本の間で結成されていた菜葉隊に援軍要請のため引き返した。3月8日、土方歳三は援軍要請に失敗して近藤勇に合流する。3月15日土方歳三が新隊士を連れて近藤勇と合流。4月3日、土方歳三は仮名である内藤隼人として応対し武装解除に応じる。土方歳三は勝海舟を訪問した後、鴻台(市川)に向った。土方歳三は、島田魁ら数名の隊士と4月10日に今戸に入り、4月11日に伝習隊を率いて江戸を脱出した大鳥圭介の旧幕府陸軍3000人と鴻台で合流する。4月12日、旧幕府軍の軍議で大鳥圭介が総督、参謀には土方歳三が就任し、宇都宮城に向けて進軍する。4月16日、土方歳三は旧幕府軍の別動隊を率い松戸小金宿から水海道、下妻陣屋を制圧し、下館藩に武器、食料を供出させ、下館に向かう。4月18日、土方歳三ら旧幕府軍は蓼沼に布陣し、4月19日に宇都宮城を攻撃し、制圧する。4月23日に、新政府軍は宇都宮城奪還の総攻撃を開始し、土方歳三は左指に銃弾を受けて負傷。戦線を離脱して今市に後退し、会津に向かう。4月26日、土方歳三は会津田嶋陣屋に入り、4月29日、会津城下の七日町清水屋に入ると、幕府の医師・松本良順の治療を受け流山脱出隊士と合流する。6月15日、土方歳三は覚王院義観と面談。7月1日に土方歳三は全快し、戦線に復帰して7月6日に新選組と合流。8月21日、新政府軍は母成峠の戦いとなり大鳥圭介隊、土方歳三隊など会津藩は敗走する。8月23日土方歳三は大鳥圭介と松平定敬に会い、戦局不利と判断し、8月25日に米沢に入った。9月3日、土方歳三は榎本武揚と合流し、仙台青葉城での軍議に参加する。土方歳三は軍事総督就任を要請されたが意見が合わず拒否する。榎本武揚と土方歳三は、仙台青葉城での抗戦を訴えるが仙台藩は拒否した。9月16日、旧幕府軍が仙台に入ると、10月10日に土方歳三は、新選組と共に「大江丸」に乗船し、函館を目指した。
北海道[編集]
北海道に到着した土方歳三は、10月22日、一隊を率いて、川汲峠を越えて五稜郭に向かい、砂原に宿陣した。10月23日、土方歳三隊は鹿部村に宿陣し、24日には川汲で斥候数名を撃退。25日に上湯ノ川に宿陣して、10月26日、土方歳三隊は、峠下・七重方面からの大鳥圭介隊と共に五稜郭に入城し新選組は箱館市中取締を命じられる。10月27日、土方歳三を総督として額兵隊・衝鋒隊などからなる700名が松前城に向けて出陣。11月1日に知内で敵の奇襲を受けるも、11月5日松前城に到達し占領する。11月11日、江差に退却していた松前藩兵を追撃し、11月4日、大滝峠の敵兵を撃退。11月15日、「開陽丸」から艦砲射撃の援護を受けて、土方歳三隊は江差を占領。12月15日に土方歳三隊は箱館へ凱旋し、蝦夷地平定の祝賀会に各国領事を招き開催する。共和国政府の役員を選挙で決定し、総裁に榎本武揚、副総裁は松平太郎、軍艦奉行・荒井郁太郎、陸軍奉行・大鳥圭介、陸軍奉行並・土方歳三、開拓奉行・沢太郎左衛門、箱館奉行・永井尚志、松前奉行・人見勝太郎が選ばれる。4月9日早朝、海陸軍参謀・山田顕義率いる新政府軍1500名が侵攻する。衝鋒隊・伝習隊からなる300名の土方歳三隊は二股口守備のため五稜郭を出陣する。二股口の戦いで土方歳三は策略を用いて、4月13日、新政府軍700名を後退させ、その夜、陣地を巡り兵士達を労った。4月22日、新政府軍は再度攻撃を試みたが、二股口の土方歳三隊はこれも撃退する。4月29日、矢不来が新政府軍に突破され、退路を断たれる危険があった土方歳三隊は五稜郭へ撤退する。5月11日、函館市内が新政府軍に制圧され、孤立した弁天台場の救出に向かった土方歳三は、一本木関門付近で指揮中に狙撃され戦死する[4]。(享年35歳)
箱館奉行並・中島三郎助らの千代ヶ岱陣屋守備隊は降伏を拒否して全滅する。5月18日、新政府軍の降伏勧告を受け入れ五稜郭は開城した。墓は日野市石田の石田寺。法名は歳進院殿誠山義豊大居士[5]。
句集[編集]
豊玉という雅号がある。25歳~28歳に詠んだ俳句を『豊玉発句集』にまとめている。
逸話[編集]
- 親戚の葬式を手伝ったときに下足番をして、弔問客が帰る際に取り違えずに履物を出したり、壇払いのときも誰がどれだけ飲食をしたかを覚えていたという記憶力のよさがあった。
- 身長は五尺五寸(約168cm)
- 熱い風呂が好きであった。
- 好物は小野路村の親戚、橋本家の老婆が漬けてくれた沢庵という。
- 戦死の報せに、母を失った子供のように仲間の兵士達が嘆き悲しんだという記録からは、「鬼の副長」と味方からも恐れられた京都時代とは異なる、厳しいが優しい土方の姿が垣間見える。
土方歳三資料館[編集]
- 愛刀「和泉守兼定」、直筆書簡や『豊玉発句集』、池田屋事件の際に使用された鎖帷子を展示する。資料館に残る鉢金は、「新選組誕生のきっかけになった戦いで着用したものです」と、歳三が故郷に送り届けたものである。
- 公式HP
- 土方歳三資料館
「霊山歴史館」[編集]
- 土方歳三の愛刀「大和守源秀國」を常設展示している。
- 公式HP
- 霊山歴史館