会津小鉄 (幕末)
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(会津の小鉄から転送)
会津小鉄(あいづのこてつ、本名:上坂 仙吉(こうさか せんきち)、1833年7月7日(天保4年5月20日) - 1885年(明治18年)3月19日)は、京都の侠客。
生地は後の大阪市南区本町2丁目、本籍は京都府愛宕郡吉田村第140号。行友李風の『近世遊侠録』によると背中の文身は小町桜(小野小町が桜の下にいるとされる)。全身に数十にわたる刃傷があり1853年に右の小指を、1865年に左の指を3本(親指と人差し指を残して)斬られているが、己自身も少なくとも5人は手に掛けている。
1849年(嘉永2年)頃より恋人と生活していたが、縄張り争いで亡くしている。1865年(慶応元年)より暮らしていた芸者との間に2子を儲ける。1人は子分の養子に、1人は九州の親分の養子にする。1872年(明治5年)に妻を迎え1子を儲ける。この子は21歳で家出をして行方不明。
年表[編集]
- 1833年(天保4年)頃 - 元水戸藩士と、大阪 島之内に店を構える太物商の娘の間に私生児として生まれる。
- 1835年(天保6年)頃 - 父が水戸に帰参。母は仙吉を連れて水戸へ向かうが行方不明になる。
- 1845年(弘化2年)頃 - 福知山に預けられる。この時期、剣術を学ぶ。
- 1849年(嘉永2年)頃 - 人を殺し無罪となったが堅気の生活を捨てる。
- 1851年(嘉永4年)頃 - 京都の会津藩中間部屋に入る。
- 1853年(嘉永6年)頃 - 縄張り争いを起こし喧嘩となる。
- 1856年(嘉永9年)頃 - 江戸会津藩中間部屋の世話となる。後、二条新地大文字町に一家を構えた。
- 1863年(文久2年)12月 - 会津藩兵が入京。会津藩中間部屋頭の片腕として迎える。
- 1864年(元治元年) - 池田屋事件、禁門の変に協力するが討幕派に狙われる。
- 1865年(慶応元年)9月 - 木屋町のお茶屋で会津藩の人間と談合中に襲われる。
- 1867年(慶応3年) - 浪人を殺し入牢するが会津藩が助命する。
- 1868年(慶応4年) - 鳥羽・伏見の戦いには子分500人を動員し軍夫としたが大坂へ敗走。放置されている会津藩の戦死者の遺体を葬る。この後、遺品を携え官軍のいる会津若松に潜入して目的を達する。
- 1883年(明治16年) - 賭博により逮捕、裁判で禁錮10月の刑を宣告され入獄。翌年、出獄。
- 1884年(明治17年) - 出獄すると7000人が白川村の自宅に祝いに訪れたとされる。
- 1885年(明治18年) - 下京区の病院で3月19日に歿す。21日に本葬、大阪北区消防頭取の小林佐兵衛をはじめ1万3000余人の会葬者が集まる。墓は洛東の金戒光明寺にある。