スマトラ治安工作

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九・二〇事件から転送)
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スマトラ治安工作(スマトラちあんこうさく)、ス工作スマトラ工作赤ハンカチ事件カインメラ事件)、中国語九・二〇事件とは、1943年9月20日に、日本軍占領下のインドネシアスマトラ島で、日本軍州政庁警務部特高科とスマトラ憲兵隊が、「残置諜者(オランダ軍が現地に残したスパイ)」として約160人の現地住民を一斉検挙した事件。被検挙者のうち、1944年3月に華僑系地下組織のメンバー11人が、また1945年5月に元オランダ軍スマトラ総司令官・オフェルアッケル少将ら2人が処刑された。1944年のカ工作とあわせてスマトラ全土でインドネシア人を中心に数千人が検挙され、処刑されなかった被検挙者も政治犯刑務所で収監中に1,050人余が死亡した。戦後、オランダ軍メダン裁判でスマトラ憲兵隊や州政庁警務部特高科、刑務所の関係者らが、検挙・取り調べ時の暴行や拷問、収監中の虐待について、戦犯として訴追された。

背景[編集]

1942年4月に、スマトラ島を占領した日本軍(第25軍)は、旧オランダ軍兵士のうち、アンボン人メナド人ユーラシアンなどで、インドネシア国籍を希望していた者は釈放し、一般人と同様に扱っていた[1]

中野校友会 (1978 554-555)は、オランダの統治時代、アンボン人やメナド人、ユーラシアンはキリスト教徒であったため、軍人や下級官吏として登用されるなど一般のインドネシア人より厚遇されていた。このため一般のインドネシア人は、彼らが日本軍占領後も「一般のインドネシア人」として扱われていることに異質な感じを与えたとしている。

また同書によれば、日本軍は彼らに対して「何か釈然としないもの」や「不安、猜疑」を感じており、「一部識者」はその将来の「敵性行動」を懸念していた、という。

中野校友会 (1978 555)は、軍がアンボン・メナドの現地出身オランダ軍人を釈放しただけでなく、軍政でも旧オランダ時代の組織機構の急激な改変は行われず、親オランダと目されるサルタン系やウルバラン系の官吏をそのまま採用・優遇しており、藤原機関と連絡して日本軍のスマトラ占領に協力したアチェの宗教団体プサや、パリンドラ党プシンド党などの民族運動団体は占領後も危険分子・要注意人物のように扱われており、彼等は昔と変わらない行政に悩み続けていた、としている。

事件の経緯[編集]

メナド人大尉の逮捕[編集]

1942年10月頃[2]、オランダ軍が最後に降伏したスマトラ島北端のアチェ州タケゴンBahasa Indonesia版山中で、潜伏していたメナド人の中尉が逮捕された[3]

  • 全国憲友会 (1976 1045-1046)は、1942年末に、スマトラ憲兵隊本部特別工作隊の久松晴治憲兵中尉以下が「北スマトラのアチェ州内の山林に敵の潜入スパイの根拠地がある」との情報を得てスパイ網の偵察を行い、1943年3月上旬、アチェ州のタケゴンBahasa Indonesia版山中で、オランダ軍のファン・テ・コロク大尉を逮捕した、としている。

中野校友会 (1978 555)は、メナド人中尉の逮捕で、スマトラ島のオランダ軍が降伏するときに同軍のオハラウエッカル中将が「連合軍は必ず反攻する。そのときは必ず呼応して反日後方撹乱をはかること、そのためには常に準備と連絡を密にしておくよう」と内示していたことが裏付けられたとし、また全国憲友会 (1976 1045-1046)は、大尉を取り調べた結果、スマトラ全域に抗日地下組織があることが判明したため、スマトラ憲兵隊長の平野豊次大佐がこの事件を「ス工作」(スマトラ工作、スマトラ治安工作)と命名し、各分隊に地下組織の偵諜を指示。各分隊は、約半年間かけて地下組織の全体像を調査した、としている。

特高科の諜報網[編集]

1942年12月に陸軍中野学校出身(3丙[4])の松岡栄一少尉、近藤次男少尉、安達孝少尉、宮内盛人少尉の4人が第25軍司令部に着任[3]。松岡はブキチンギの参謀部に、近藤・安達・宮内は軍政監部付として、それぞれ東海岸州メダン)、パレンバン州パレンバン)、西海岸州パダン)の各軍政部警務部特高科長に任命された[3]

彼等は、情報主任参謀・大村少佐の統括下で、防諜と治安の維持の任務にあたることになった。当初は、憲兵や警察の情報を基に親オランダ分子をリストアップしてその行動を監視していたが、現地人の特高科員は数少なく、容疑者の全てを監視することはできなかったため、かわりにインドネシア民族運動の指導者や宗教団体の領袖を把握して日本軍に協力させ、その組織を諜報網として利用することした。[3]

  • 中野校友会 (1978 555)は、解放後も昔と変わらない行政に悩んでいたインドネシア人の活動家たちは、中野学校出身者に接して、はじめて真の友を得たとし、心から日本に協力する決意をかためるに至ったようだ、としている。
  • 鈴木 (1996 153)にある、矢野兼三・元西海岸州長官の手記(矢野 1982 )は、「残置諜報網」の端緒をつかんだのは、第25軍司令部の参謀部に勤務していた宮内中尉で、その上官の参謀部・大村中佐が直接の指揮官だった、としている。

オフェルアッケル少将の「取り調べ」[編集]

全国憲友会 (1976 1045-1046)によると、(時期不定で、)スマトラ憲兵隊(本部特別工作隊)は、メダン収容所に収容されていた、元オランダ軍スマトラ総司令官のオベルアッケル少将とその部下のホーセンソン大佐を同憲兵隊本部に連行して、数日間にわたり「取り調べ」を実施した。

  • 同書によると、1942年(昭和17)末頃から、オベルアッケル少将は、連合軍の反攻を予期して、収容所に出入りしていた商人らを通じて外部と連絡を取っていた。連合軍が反攻してきたときの道案内をさせたり、日本軍の後方攪乱の謀略班を組織したりすることを企図して、スマトラ全域の、日本軍に使役されているオランダ系の現地住民や元兵士、オランダ軍と関係のある華僑に働きかけて、組織の拡大・強化に努めていた。1943年(昭和18)以降は、潜水艦で潜入したスパイや、爆撃機から落下傘で降下したスパイと密接に連絡を取り、スパイが持参した金貨や偽造軍票などを使用して、更に組織の拡大・強化をはかったという。

鈴木 (1996 153)にある矢野兼三・元西海岸州長官の手記によると、「残置諜報網」の責任者とされた「オランダ軍の最高司令官の少将」は、俘虜となって抑留されていた台湾からスマトラへ連行された。

鈴木 (1996 151)にある、当時スマトラ憲兵隊本部特高課の下士官だった吉谷武の戦後の手記によると、オフェルアッケル少将の「取り調べ」は主に久松中尉が担当し、吉谷は記録係となって調書を作成した[5]

同書および鈴木 (1996 154-155)にある、戦時中メダン高等法院の院長をしていて、戦後オランダ軍メダン裁判で弁護人を務めた大江保直の手記(大江 1982 )によると、オフェルアッケルないしオーハラカー少将は、日本軍に降伏する前に(アンボン人メナド人などインドネシア系の軍人多数を)スパイとしてスマトラ島内に残しておき、後日、連合軍が反攻したときに呼応して蹶起することを指示しており、関係者は同志の印として赤いハンカチ(カインメラ、Kain Merah)を所持していた。このため戦後オランダの関係者は事件を赤ハンカチ事件と呼んでいたという。

検挙準備[編集]

中野校友会 (1978 556)によると、1943年4月に近藤中尉は東海岸州で、宮内中尉は西海岸州で親オランダ分子相互間の秘密連絡の状況をつかみ、同年6月に短波ラジオの盗聴と無線連絡の情報を探知した。

同月、南支那派遣軍にいた石島唯一大尉(中野乙1短)がパレンバン州に着任し、安達中尉はアチェ州に転出、藤原機関の機関員だったサイド・アブ・バカルと宗教団体・プサに協力を要請した[6]

同年7月には一般部隊や法務部から、また同年8月には中野学校出身者2人が配属され、宮腰軍曹(中野4戊)がアチェ州のムラボーBahasa Indonesia版に派遣され、潜水艦による潜入スパイの情報を収集するなど、人員が増強された[6]

(時期不定で)参謀部における作戦会議で、最後の情勢判断と処理方策が検討され、各州における「残置諜報網」が想像以上に大規模であることが判明し、連合軍の反攻時に後方治安の確保をはかるためとして9月20日の一斉検挙の作戦命令が発動された。作戦指導には情報主任参謀の大村少佐があたり、その補佐が松岡中尉、スマトラ10州の各特高科長が第1線の指揮にあたった[6]

華僑系地下組織の活動[編集]

1942年3月の日本軍のスマトラ上陸後まもなく、北スマトラでは蘇島華僑抗敵協会(略称:華抗)と蘇島人民抗敵会(のち蘇島人民反法西斯同盟、略称:反盟)という2つの秘密組織が結成されて地下新聞の刊行などの活動を行っていた[7]

鈴木 (1996 164)によると、伍ほか (1993 )は、一斉検挙の契機を、それより少し前に、日本軍の憲兵隊に逮捕されていた「華抗」のメンバー・王桐傑が、日本の特務機関に脅迫・利益誘導され、抗日組織の存在や指導者・メンバーを自白したことだった、としている。

  • 鈴木 (1996 172-173)によると、鈴木が伍ほか (1993 )の編集部に問い合わせたところ、「反盟」とオランダ軍との結びつきや、赤い布を所持したことなどはなく、『オランダ軍の「残置諜者」』は日本軍が抗日活動を鎮圧するための口実に過ぎない、との見解だったという。

一斉検挙[編集]

1943年9月20日に、スマトラ憲兵隊本部(特別工作隊)と(メダン、コタラジャ、パレンバンの)各分隊が容疑者約160人を一斉に検挙した[8]

  • 全国憲友会 (1976 1045-1046)によると、謀略行為に使用する目的で隠匿してあった小銃弾薬、被服など多数が押収された。

全国憲友会 (1976 1045-1046)は、主な被検挙者を、

  • オランダ軍スマトラ総司令官 オベルアッケル少将(名前は文献により、オフェルアッケル、オーハラカーとも)
  • 北部軍司令官 ホーセンスン大佐
  • 隊員 ファン・テ・コロク大尉、スレル中尉

としている。

このとき「残置諜者」多数も検挙された[5]

一斉検挙では、「華抗」・「反盟」のメンバーと、新聞を閲読していた100人近い一般人が逮捕された[7]

新聞報道[編集]

1943年(昭和18)11月1日に、スマトラのパダンで発行されていた『スマトラ新聞』で、「不逞分子を断乎掃蕩 スマトラ攪乱の蠢動覆滅 全島防衛今や完璧 明朗治安の基礎確立」という見出しで、検挙事件のことが報道された[9]

同記事では、北部スマトラ山中で活動していたオランダ人の「ファンサンタン」中尉以下と、中部スマトラで活動していた「マルセ」准尉、「パテナマ」「ルリデラッツ」以下など、日本軍に対して敵対的な姿勢が濃厚な者は、軍律会議に付され、「厳重なる処断」を受けた、とされていた。

処刑・処罰[編集]

(時期不定で)検挙された約160人のうち、「取り調べ」によって犯罪事実を認めた約70人が軍律会議に送致され、審議の結果、オベルアッケル少将以下が死刑判決を言い渡された[8]

多数検挙された「残置諜者」も、それぞれ処刑・処罰された[5]

死刑に処されたのは「10人ばかり」だった[10]

検挙されていた北スマトラの「華抗」・「反盟」のメンバーと秘密新聞を購読していた一般人100人近くのうち、11人が殺害され、7人は虐待によって死亡し、1人が行方不明になった。50人余は終戦まで監禁された。[11]

殺害された11人は、ブキチンギに護送され、1944年3月23日に同地で処刑された[12]

1945年5月に、陸軍大臣の命令によって、オベルアッケル少将とホーセンスン大佐の死刑が執行された。ファン・テ・コロク大尉とスレル中尉は釈放された。[8]

収監中の死者[編集]

事件による(スマトラ島北部での)検挙者の多くは、1942年11月に開設されたシアンタルBahasa Indonesia版の刑務所に収監された[13]

スマトラ島中部ではパヤクンプー、南部ではパレンバンに政治犯を収容する刑務所があり、それぞれの刑務所に事件の被検挙者が収容された[14]

  • 当初、政治犯は各州の刑務所に収監されていたが、その後、3ヶ所に集約された[14]
  • 南部では当初、スンゲイリャットBahasa Indonesia版の刑務所に収監していたが、その後パレンバンに移された[14]

シアンタル刑務所には、スマトラ各地から収監された政治犯が545人いたが、環境が劣悪で、日本の敗戦までの1年10ヵ月の間に284人(総数の52.1%)が死亡した[15]

  • 被収監者の人種別の内訳は、インドネシア人421人、中国人90人(「華抗」・「反盟」のメンバー56人、その他抗日活動関連で逮捕された華僑)、オランダ人34人だった[15]
  • うち収監中の死者数は、インドネシア人245人、中国人7人、オランダ人22人(被収監者中の死亡者の割合は、それぞれ58.2%、7.8%、64.7%)[15]
    • 鈴木 (1996 165)は、中国人の死者が少なかった理由を、沙 (1993 )の内容をもとに、差し入れがよく行われ、それを受刑者が分け合ったことによるのではないか、と推測している。

収監中にパレンバン刑務所では660人が死亡し、パヤクンプー刑務所では被収監者250人中110人が死亡した[14]

後続事件[編集]

中野校友会 (1978 556)は、9月20日のスマトラ全島にわたる大検挙でオランダ軍の残存組織はその大部分が壊滅したが、「すべての敵の残置組織が全部駆逐」されたわけではなかったため、南方地域での連合軍の反攻が熾烈になると、各地に不穏な動きが出始め、これに対応するために中野学校が各兵団に配属された、としている。

北スマトラの華人系の地下組織の指導者の1人だった周斌は、1943年9月20日の一斉検挙の後、1年近く逃亡を続けたが、1944年8月に逮捕され、1945年3月7日にメダンの第一監獄で処刑された[12]

1944年7月29日にも、スマトラ在住華僑の「重慶政府の諜者の反日陰謀事件」の一斉摘発が行われた[16]

  • この事件は、日本軍関係者の手記等には、スマトラ治安工作の摘発とは異なるカ工作として言及があるが、伍ほか (1993 )などの資料では九・二〇の一連の事件とみなされている[16]

(カ工作による被検挙者などとの区分は不分明であるが、)終戦までに「残置諜者」とみなされて逮捕され収監された住民の総数は、全国憲友会 (1976 1045-1046)にいう160人を大きく上回っており、北スマトラだけで1,000人近く、スマトラ島全体では数千人に及んだ。被収監者には、華人よりもインドネシア人の住民が多かった。[17]

被害者・遺族の活動[編集]

終戦直後に、事件の被害者・遺族は、「被難同志会」を結成し、ブキチンギで犠牲になった者の遺骸の移送と日本軍の戦犯追及を要求した[18]

その後、犠牲者を追悼するための委員会・「紀念蘇島抗日反法西斯殉難志士委員会」をメダンに設置し、1945年に被害者・遺族は事件後2周年の追悼大会を開催した[19]

1946年9月20日に、同委員会は、事件3周年を記念して『血仇』記念刊を出版し[20]、慈善バザー、演劇の公演を開催。収益金を遺族の救済に充てた。[21]

戦犯裁判[編集]

終戦後、被難同志会が整理した資料は連合軍の戦犯法廷に送致され、九・二〇事件に関与した日本軍の関係者がオランダ軍メダン裁判戦犯として訴追された[22]

検挙・取り調べ中の拷問や、処刑・拘置の際の暴行行為が戦犯事犯とされた[10][23]

  • 鈴木 (1996 154)にある、矢野兼三・元西海岸州長官の手記は、スパイ網を検挙してその重要人物を裁判にかけ、処刑するなどしたことは、正当な戦闘行為と認められて戦犯事犯にはなり得ず、検挙・取り調べ時や処刑・拘置の際の暴行などが問題にされた、としている。

検挙や取り調べを直接指揮した参謀部は、戦後、接収にあたった英軍に対して、責任をスマトラ憲兵隊と西海岸州政庁に押し付ける内容のレポートを提出して自らの責任を逃れ、参謀部の大村参謀らも戦犯訴追を逃れて日本に帰還した。オランダから逮捕状が出た者のうち、100余人が逃亡してしまったとの噂だった。[10]

田辺元司令官、谷萩元参謀長、深谷元軍医部長、山本元経理部長に死刑の判決が下された[24]

  • 鈴木 (1996 156-157)にある、矢野兼三・元西海岸州長官の手記は、第25軍司令部の参謀連が憲兵隊や州政庁に責任を押し付けたため田辺が最終責任者とみなされ、オベルアッケル少将を処刑した責任を報復的に負わされた、谷萩は「短期無事件」で深谷も短期で自身が直接指導していない病院の責任を押し付けられた、山本については特別な事件性はなく、量刑が重すぎた、と判決を評している。

西海岸州(政庁)の杉林警部、パレンバン州の森下警務部長が検挙時の拷問の責任を問われて、死刑に処せられた[23]

シアンタル刑務所の西浦堯三所長は、刑務所の収容者に対して虐待や組織的威圧行為を行い、収容者550人のうち約250人を死亡させた責任を問われ、1947年3月7日に死刑判決を受け、同年7月8日にメダン・「不帝沙」の日本人墓地で処刑された[25]

  • シアンタル刑務所の関係者では、他に監督責任者1人が無期刑、1人が2年の有期刑を受けた[26]
    • 鈴木 (1996 167-168)は、(日本軍関係者の手記などでは)「報復」といわれているが、多数の死者を出した事件の量刑としては寛大な処置だったと評している。

慰霊・追悼[編集]

1953年以降、メダン・シアンタル・ブキチンギに、犠牲者のための記念碑が建立された[19]

  • このうち、ブキチンギ郊外の華人墓地にある「蘇東華僑反法西斯十一烈士紀念碑」は、中部スマトラ省(蘇中省)の華僑文化教育工作者協会により建立され、1953年8月30日に落成式が行われた[27]

1988年9月20日に、メダンで、(碑表に)「万世流芳」と書かれた『「九・二〇」抗日紀念碑』が建立された[28]

1993年に事件後50年を記念して、『血仇』よりも広く資料を収集・整理して刊行された記念文集『難忘的「九・二〇」』(伍ほか 1993 )が刊行された[29]

付録[編集]

関連文献[編集]

  • 鈴木 (1995) 鈴木正夫『スマトラの郁達夫』東方書店、ISBN 4497954498
  • 李 (1993) 李明「値得紀念的一段歴史」伍ほか (1993 )の「代序」[30]
  • 沙 (1993) 沙南友「在日本法西斯監獄中」伍ほか (1993 )収載[13]
  • 伍ほか (1993) 伍英光ほか編『難忘的「九・二〇」』中國華僑出版社、1993.8[30]
  • 本田 (1990) 本田忠尚『パランと爆薬 - スマトラ残留兵記』西田書店、ISBN 4888661200
  • 茶園 (1992) 茶園義男(編)『BC級戦犯和蘭裁判資料・全巻通覧』不二出版、1992、JPNO 92034961
  • 大江 (1982) 大江保直『スマトラ裁判覚書』私家版、1982[31]
  • 矢野 (1982) 矢野兼三『スマトラ獄中記』図書刊行会、1982、JPNO 82024387
  • 岩崎光次「スマトラ戦犯体験記」(1)-(4)『法曹』no.98-101、1958/12-1959/3[32]

脚注[編集]

  1. 中野校友会 1978 554-555
  2. 中野校友会 1978 555に「占領(1942年4月から)6ヶ月後」とある。
  3. 3.0 3.1 3.2 3.3 中野校友会 1978 555
  4. 中野校友会 (1978 555)に、「(4人は)共に3丙」とあるが、同書 pp.842-843の名簿の「3丙」の項には松岡の名前がない。
  5. 5.0 5.1 5.2 鈴木 1996 151 - 吉谷武『軍隊生活十年』(未刊)からの引用として。
  6. 6.0 6.1 6.2 中野校友会 1978 556
  7. 7.0 7.1 鈴木 1996 160-161 - 李 (1993 )による。
  8. 8.0 8.1 8.2 全国憲友会 1976 1045-1046
  9. 鈴木 1996 157
  10. 10.0 10.1 10.2 鈴木 1996 154 - 矢野 (1982 )からの引用として。
  11. 鈴木 1996 160-161 - 李 (1993 )からの引用として。
  12. 12.0 12.1 鈴木 1996 161-162 - 伍ほか (1993 )からの引用として。
  13. 13.0 13.1 鈴木 1996 165
  14. 14.0 14.1 14.2 14.3 鈴木 1996 168
  15. 15.0 15.1 15.2 鈴木 1996 165 - 沙 (1993 )による。
  16. 16.0 16.1 鈴木 1996 170-171
  17. 鈴木 1996 173-174。茶園 (1992 )も参照。
  18. 鈴木 1996 162,167 - 伍ほか (1993 )による。
  19. 19.0 19.1 鈴木 1996 162 - 伍ほか (1993 )による。
  20. 鈴木 1996 161,162 - 李 (1993 )および伍ほか (1993 )からの引用として。
  21. 鈴木 1996 162。伍ほか (1993 )による。
  22. 鈴木 1996 162,167 - 茶園 (1992 )、大江 (1982 )および伍ほか (1993 )による。
  23. 23.0 23.1 鈴木 1996 155 - 大江 (1982 )からの引用として。
  24. 鈴木 1996 156-157 - 矢野 (1982 )からの引用として。
  25. 鈴木 1996 166-167 - 茶園 (1992 )、大江 (1982 )および伍ほか (1993 )による。
  26. 鈴木 1996 167 - 茶園 (1992 )による。
  27. 鈴木 1996 162-163 - 伍ほか (1993 )による。
  28. 鈴木 1996 163 - 伍ほか (1993 )による。
  29. 鈴木 1996 161 - 李 (1993 )からの引用として。
  30. 30.0 30.1 鈴木 1996 160,182
  31. 鈴木 1996 154-155,181
  32. 鈴木 1996 155,181-182

参考文献[編集]

  • 鈴木 (1996) 鈴木正夫「『スマトラ工作』と『九・二〇』事件」『横浜市立大学論叢 人文科学系列』NAID 40003713757、v.47 n.3、pp.149-183、1996年3月
  • 中野校友会 (1978) 中野校友会(編)『陸軍中野学校』中野校友会、JPNO 78015730
  • 全国憲友会 (1976) 「スマトラ総司令官の叛乱未遂事件」全国憲友会連合会編纂委員会(編)『日本憲兵正史』全国憲友会連合会本部、JPNO 72007299、pp.1045-1046