北条時章

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北条 時幸(ほうじょう ときあきら、? - 文永9年(1272年11月)は、鎌倉時代中期の武将。父は北条朝時。母は大友能直の娘。通称は越後四郎・遠江修理亮。兄弟姉妹に光時時長時幸時兼教時時基朝賢北条時実のち宇都宮泰綱毛利広光足利泰氏新田頼氏小野宮通俊に嫁いだ女子など。官位官職は従五位下修理亮。子に時相幸継時元時藤時久政幸政基。官職は尾張守。大炊助、式部大夫。

略歴[編集]

寛元3年(1246年)に兄の光時らが宮騒動を起こした際、名越流北条家の一員として消極的な立場から加担したが、騒動が北条時頼により鎮圧されると弟の時長、時兼らと共に謝罪して異心の無いことを示したため助命されている[1]宝治元年(1247年)7月に評定衆建長3年(1251年)6月5日に3番引付頭となり、また肥後筑後大隅能登などの守護職を歴任した[1]弘長3年(1263年)11月22日、時頼の死去により出家して尾張入道見西と称した[1]

このように時幸は光時と違って得宗に忠実だったが、弟の教時は光時と同じように反得宗の思想の持ち主であり、時頼の嫡子・時宗と対立していた庶長子である時輔と通じていた[1]。このため文永9年(1272年)2月に時輔・教時らが二月騒動で時宗派により誅殺されると、時章も時輔与党だったと誤解されて11月に大蔵頼季ら5人の討手により殺害された[1]。その後、大蔵らもすぐに誤殺したとして時宗により殺害された[1]

経歴[編集]

※日付=旧暦

  • 暦仁元年(1239年)閏2月15日、大炊助に任官。2月27日、式部少丞に遷任。9月1日、従五位下に叙し、式部大丞に転任。
  • 寛元3年(1245年)4月8日、尾張守に転任。
  • 宝治元年(1247年)、幕府の評定衆と就る。
  • 建長3年(1251年)、引付頭人兼帯。
  • 文永3年(1266年)、引付頭人退任。
  • 文永6年(1269年)、引付頭人復帰。
  • 文永9年(1272年)、二月騒動で殺害。

脚注[編集]

  1. 1.0 1.1 1.2 1.3 1.4 1.5 安田、1991年、P542

参考文献[編集]

北条時幸が登場する作品[編集]

関連項目[編集]