箸墓古墳

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箸墓古墳(はしはかこふん)は奈良県桜井市に所在する大規模な 前方後円墳である。我が国で最初の巨大古墳とされ、卑弥呼の墓の有力候補とされている。3世紀の半ばから後半頃に築造され、当時としては国内最大の集落跡である纒向遺跡の近くに作られた。現在、宮内庁が陵墓として管理しており、原則として陵墓内に立ち入ることはできない。

概要[編集]

箸墓古墳は奈良県の北部、奈良盆地の南東部の桜井市箸中に位置する。JR桜井線の沿線であり、三輪山のふもとにあり、三輪山から直線距離で約2.3kmである。

墳丘は前方部4段、後円部5段の段築で墳丘表面には葺石が積まれており、後円部墳頂やその付近から吉備地方と同型式の特殊壺形埴輪特殊器台型埴輪が採集されている。 平成9年に桜井市教育委員会が後円部に隣接する土地を調査し、周濠と大規模な堤を確認している。後円部は径約150メートル、高さ約30メートルである。3世紀代で最も早い時期の巨大前方後円墳である。この規模の古墳を造営するためには当時は人力のみであったから、築造には10年から20年程度を要したと考えられている。卑弥呼の存命中から工事を開始したとすれば、箸墓古墳の造営年代と卑弥呼の没年がかなり近いことになる。

築造年代[編集]

1990年代の三角縁神獣鏡の研究から箸墓古墳の築造年代は3世紀中頃とされている[1]。また箸墓古墳の周濠状遺構から出土した布留0式土器の付着物を炭素14年代法で分析した結果でも、較正年代は西暦240年から260年とされている[2]。 これらの科学的調査から日本の考古学者の多くは卑弥呼の墓の有力候補と考えている[3]

倭迹迹日百襲姫命[編集]

日本書紀では第七代孝霊天皇の皇女倭迹迹日百襲姫命(ヤ マ トトトビモモ ソヒメノミコ ト)の墓として宮内庁が管理している。しかし倭迹迹日百襲姫命は実在性が疑われている人物である。


日本書紀によれば、倭迹迹日百襲姫は崇神天皇の時代に活躍 した 「シャーマン」であり、三輪山大神神社の祭神である大物主神の妻とされている。

是時、神明憑倭迹々日百襲姬命曰「天皇、何憂國之不治也。若能敬祭我者、必當自平矣。」天皇問曰「教如此者誰神也。」
答曰「我是倭國域內所居神、名爲大物主神。」 (御間城入彥五十瓊殖天皇 崇神天皇 七年春二月丁丑朔辛卯)

(大意) 倭迹迹日百襲姫命に神が乗り移っていった、「なぜ国が治まらないことを憂うのか。私を敬ってちゃんとお祀りすれば、必ず国は平らかに治まる」そこで崇神天皇は問う。「に教えて下さるのは、何処の神様でしょうか」神は「私は大和国の内に坐す神で、名を大物主神である」と答えた。

天皇姑倭迹々日百襲姬命、聰明叡智、能識未然、乃知其歌怪、言于天皇「是武埴安彥將謀反之表者也。吾聞、武埴安彥之妻吾田媛、
密來之、取倭香山土、裹領巾頭而祈曰『是倭國之物實』乃反之。(御間城入彥五十瓊殖天皇 崇神天皇 十年秋七月丙戌朔己酉)

崇神天皇7年、倭迹迹日百襲姫命は聡明で、予知能力があった。歌の不吉なものを感じて、武埴安彦(孝元天皇の皇子)が謀反を企てている兆候であると予言した。そのとき武埴安彦の妻である吾田媛がこっそりやってきて、香具山の土をとり、頒巾の端に包み呪言をして、『これは倭の国のかわりの土』と言って帰った。

卑弥呼の墓との整合性[編集]

卑弥呼が亡くなったのは西暦248年(または247年)と考えられているが、箸墓古墳の築造年代の推定と大きくは矛盾しない。また魏志倭人伝記載の「径100歩の墓」とは、古代の歩は6尺であるから、径100歩は145メートルとなり、箸墓古墳の後円部の径と矛盾しない[4]。「径100歩の墓」は円墳を思わせるが、その理由は、視察に来た中国の使者が古代の官道である「下つ道」を通ったためであろう。箸墓古墳は「下つ道」の沿道にあるが、「下つ道」から見ると、後円部しか見えないからである。

出土品[編集]

2000年5月17日(水)、宮内庁の調査により土器や最古型の埴輪などの破片が3000点以上出土した。これらの遺物は、平成10年9月の台風7号の強風により、古墳の墳丘に植えられた木が倒たため、その整備事業の際に倒れた木の根元の土から採取されたものである。後円部で出土した土器に「特殊器台」という吉備地方の墳墓に見られる大型の土器が含まれていた[5]。「特殊器台」は弥生時代後期に吉備地方で出現している。古墳時代になって円筒埴輪に変化した。

また壺形埴輪が出土しており、宮内庁が保存している[6]

箸墓古墳から「親魏倭王」の印綬が副葬品に出てくれば決定打となるが、立ち入りできないので、証明不可能である。

外濠遺跡[編集]

考古学者は、箸墓古墳は日本列島における最初の大王墓と考える向きがある。墳丘の周囲をめぐる幅10メートル程度の周濠と、その外側に広がる大規模な外濠状遺構が存在し、幅は50メートル以上で、またその南端部分では人工的な盛り土が確認されている[7]

周濠内の堆積土から木製の輪鐙(馬具)がみつかった。輪鐙は四世紀初めに周濠に投棄されたと推定され、国内最古の馬具である可能性が高いと発表する。しかしこれは、3世紀中頃の古墳築造を否定するものではない。古墳と外濠とが同じ時代の築造とは限らないからである。実際3世紀ころは古墳に周濠を作ることは慣習化されていない[8]

木製輪鐙は2001年度(平成10年度)に行われた箸墓古墳後円部裾の調査で周濠の上層から出土している。復元すれば長さ23センチメートル程度のもので、孔の上部に鐙靼によって摩耗したと考えられる幅1センチメートル程度の摩耗痕が認められているので、実際に使用されていたものと考えられている。国内の木製輪鐙の出土は宮城県仙台市1点(5世紀代)、滋賀県長浜市1点(5世紀末~6世紀後半)、大阪府四條畷市2点(5世紀後半)の4点で、箸墓古墳で5例目となる。4世紀初の日本最古の鐙とされている[9]

纒向古墳群[編集]

箸墓古墳付近で前方後円墳と判別できる古墳には、纒向石塚古墳矢塚古墳勝山古墳東田大塚古墳ホケノ山古墳があり、これらは「纒向古墳群」と呼ばれる。ただし文化庁は箸墓古墳を「纒向古墳群」に入れていないようである(文化遺産オンライン)。纒向古墳群は史跡名勝天然記念物に指定されている。JR桜井線の巻向駅周辺に広がる纏向遺跡が邪馬台国の王都であるなら、箸墓古墳はその周辺に作られたと考えると整合性がある。

明治時代の写真[編集]

1876年(明治9年)に撮影した写真と原板が宮内庁に保存されている。明治政府が奈良県に依頼し、官民合同の奈良博覧会社が撮影したものである。後円部頂上に円壇が写っている[10]。明治9年ころは木が少なく、もとの墳丘の姿が鮮明に映されている。計59枚の写真があり、「大和御陵写真帖」と題するアルバムになっている。4段構造の墳丘、後円部頂上に築かれた巨大な円壇(直径45m、高さ5m)が写っている[11]。それ以前の古墳に比べ、規模が3倍となっており、埋葬者の権力の大きさを表している。

衆議院での質問[編集]

2010年(平成22年)6月3日、第174回国会で吉井英勝議員(日本共産党所属)より「宮内庁に管理されている古墳の祭祀と調査に関する質問主意書」(質問番号:535)が出された。質疑には定説が定まらない歴史学の学説の見解も含まれており、回答のない事項も見られる[12]。重要な回答について、まとめる。

No 質問 政府回答
1 立ち入り等禁止の看板はいつから 陵墓等への立入り等を禁じる旨の看板を陵墓等に掲示することを命じた明治六年十一月二日の太政官達以降、設置している。
2 学術目的での自由な立ち入りまでも禁止する法的根拠は何か 国有財産法(昭和二十三年法律第七十三号)第九条の五「各省各庁の長は、その所管に属する国有財産について、良好な状態での維持及び保存、用途又は目的に応じた効率的な運用その他の適正な方法による管理及び処分を行わなければならない。」との規定に基づく。
3 政府の見解として起源や存在を明らかにできない人物が埋葬されているという土地に対し、祭祀や管理の費用を国費から支出する根拠は何か。 陵墓等及び出土品の管理については、宮内庁の所掌事務の一環として、所要の予算をもって適切に行っている。
4 箸墓古墳の築造時期はいつか。 御指摘の「箸墓古墳」の箸墓古墳に関する記述は認められない。
5 なぜ外濠と外堤全域を史跡に指定することができないのか。 史跡に指定されていない外濠・外堤に想定される部分については、文化財保護法(昭和二十五年法律第二百十四号)にのっとった措置として、大阪府教育委員会、羽曳野市教育委員会及び藤井寺市教育委員会が、開発行為に伴う事前の発掘調査等を実施している
6 「陵墓の被葬者の副葬品は皇室の私有財産である」と解釈してよいか。 陵墓の副葬品については、皇室の私有財産と考えている。


基本事項[編集]

文化遺産オンライン[編集]

リファレンス[編集]

  1. 岸本直文「倭における国家形成と古墳時代開始のプロセス」国立歴史民俗博物館研究報告 No185、pp.369-403
  2. 春成秀爾他(2011)「古墳出現期の炭素14年代測定」国立歴史民俗博物館研究報告163、pp.133-176
  3. 邪馬台国九州説を唱える研究者らは「後の時代の築造」として3世紀中頃の築造説を受け入れていない。文献学者には邪馬台国九州説と邪馬台国畿内説とがいるが、考古学者はおおむね邪馬台国畿内説でまとまっている。
  4. ウィキペディア日本語版の「古墳の規模および様式が魏志倭人伝の記述と異なっている」との記述は不正確である。
  5. [ https://digital.asahi.com/articles/ASL8S574CL8SPTFC00R.html 奈良の箸墓古墳]朝日新聞, 2018年8月27日
  6. 所蔵資料詳細宮内庁
  7. 広報「わかざくら」桜井市、平成22年7月掲載
  8. 高島敦(2008)「古墳の周濠の意義」奈良大学大学院研究年報 (13号), 174-178
  9. 纒向遺跡出土の木製輪鐙」広報「わかざくら」、平成14年1月15日号掲載
  10. 「卑弥呼の墓」箸墓古墳、鮮明に産経デジタル、2014年5月19日
  11. 「卑弥呼の墓」鮮明に 最古の古墳写真 宮内庁が保存産経Biz、2014年5月19日
  12. 第174回国会 質問の一覧衆議院、