「竹田宮恒久王」の版間の差分

提供: Yourpedia
移動: 案内検索
 
(他の1人の利用者による、間の1版が非表示)
1行目: 1行目:
:'''竹田宮恒久王'''(タケダノミヤ・ツネヒサオウ)殿下樣。
+
[[Image:竹田宮恒久王殿下樣.jpg|350px|thumb|竹田宮恒久王]]
[[日本帝國]][[皇族]]。 明治十五年(1882年)生。 大正八年(1919年)四月二十三日没。
+
'''竹田宮恒久王'''(たけだのみや つねひさおう、[[1882年]][[明治]]15年)[[9月22日]] - [[1919年]]([[大正]]8年)[[4月23日]])は[[日本]]の[[皇族]]・陸軍軍人。[[北白川宮能久親王]]第1王子。妃は[[明治天皇]]の皇女昌子内親王。官位は[[陸軍少将]][[菊花章|大勲位]][[金鵄勲章|功五級]]に昇る。
[[画像:竹田宮恒久王殿下樣.jpg]]
+
:北白川宮能久親王第一王子。妃は明治天皇の第六皇女昌子内親王。官位は陸軍少将大勲位功五級に昇る。
+
:竹田宮の稱號を賜り、竹田宮家を創設。近衛騎兵連隊に所属して、日露戦争の激戦を経験した。
+
:井口嶺の戦いでは、すぐ隣を進んでいた「伯爵南部利祥騎兵中尉(奥州南部家第42代当主)」が敵弾に当たり戦死したという。
+
:大正八年(1919年)四月二十三日、当時流行していたスペイン風邪に因り薨去。享年三十七歳。
+
==略歴==
+
:明治35年8月 貴族院議員(皇族議員)
+
:明治36年11月30日 陸軍士官学校卒業(第15期)
+
:明治37年2月12日 陸軍騎兵少尉
+
:明治39年3月31日 竹田宮家創設
+
:明治39年4月1日 功五級金鵄勲章
+
:明治41年5月 皇典講究所総裁
+
:明治41年 竹田宮邸竣工
+
:明治41年 明治天皇第6皇女昌子内親王と成婚
+
:明治43年 陸軍大学校卒業(22期)
+
:大正2年10月31日 大勲位菊花大綬章
+
:大正8年4月 免貴族院議員
+
:大正8年4月23日 薨去
+
==血縁==
+
:父母:北白川宮能久親王 - 妃光子(後、離婚) - 妃富子 - (実母)申橋幸子
+
:兄弟:恒久王 - 延久王 - 成久王 - 輝久王 - 二荒芳之 - 上野正雄(女子省略)
+
:妻:昌子内親王(明治天皇第六皇女)
+
:第一王子:竹田宮恒徳王(つねよしおう、1909年 - 1992年)
+
:第一王女:礼子女王(あやこじょおう、1913年 - 、佐野常光夫人)
+
==関係事項==
+
*[[伏見宮]]
+
*[[北白川宮]]
+
*[[竹田宮]]
+
  
[[Category:日本帝國]]
+
[[1903年]](明治39年)、竹田宮の称号を賜り、宮家を創設。近衛騎兵連隊に属し、[[日露戦争]]に従軍した。井口嶺の戦いですぐ隣を進んでいた[[伯爵]][[南部利祥]]騎兵中尉(奥州[[南部家]]第42代当主)が敵弾に当たり戦死したという挿話を伝えているが、実際には南部中尉が戦死した3月4日には王は日本に帰国しており、ありえない話である。[[1919年]](大正8年)4月23日、当時流行していた[[スペインかぜ|スペイン風邪]]のため薨去。享年37。
[[Category:日本帝國皇族]]
+
 
[[Category:日本の陸軍軍人]]
+
== 略歴 ==
 +
* [[1902年]](明治35年8月) 貴族院議員(皇族議員)
 +
* [[1903年]](明治36年11月30日) [[陸軍士官学校]]卒業(第15期)
 +
* [[1904年]](明治37年2月12日) 陸軍騎兵少尉
 +
* [[1906年]](明治39年3月31日) 竹田宮家創設
 +
* [[1906年]](明治39年4月1日) 功五級金鵄勲章
 +
* [[1908年]](明治41年5月) [[皇典講究所]]総裁
 +
* [[1908年]](明治41年) 竹田宮邸竣工
 +
* [[1908年]](明治41年) 明治天皇第6皇女昌子内親王と成婚
 +
* [[1910年]](明治43年) [[陸軍大学校]]卒業(22期)
 +
* [[1913年]](大正2年10月31日) [[大勲位菊花大綬章]]
 +
* [[1919年]](大正8年4月) 免[[貴族院議員]]
 +
* [[1919年]](大正8年4月23日) 薨去
 +
 
 +
== 血縁 ==
 +
* 父母:[[北白川宮能久親王]] - [[能久親王妃光子|妃光子]](後、離婚) - [[能久親王妃富子|妃富子]] - (実母)[[申橋幸子]]
 +
* 兄弟:[[竹田宮恒久王|恒久王]] - [[延久王]] - [[北白川宮成久王|成久王]] - [[小松輝久|輝久王]] - [[二荒芳之]] - [[上野正雄]](女子省略)
 +
* 妻:[[恒久王妃昌子内親王|昌子内親王]](明治天皇第6皇女)
 +
* 子:
 +
** 第1王子:[[竹田宮恒徳王]](つねよしおう、[[1909年]] - [[1992年]])
 +
** ''第1王女'':[[佐野禮子|禮子女王]](あやこじょおう、[[1913年]] - 、佐野常光夫人)
 +
 
 +
== 外部リンク ==
 +
*[http://miyake.yaekumo.com/Takeda.html 竹田宮家御家族の写真アルバム]
 +
 
 +
{{先代次代|[[竹田宮]]|初代:1906 - 1919| - |[[竹田宮恒徳王]]}}
 +
{{皇典講究所総裁}}
 +
 
 +
{{DEFAULTSORT:たけたのみやつねひさおう}}
 +
[[Category:大日本帝国陸軍将官]]
 
[[Category:日露戦争の人物]]
 
[[Category:日露戦争の人物]]
 
[[Category:貴族院皇族議員]]
 
[[Category:貴族院皇族議員]]
[[Category:スペインかぜ死亡者]]
+
[[カテゴリ:スペインかぜ死亡者]]
 +
[[Category:金鵄勲章受章者]]
 +
[[Category:大勲位菊花大綬章受章者]]
 
[[Category:1882年生]]
 
[[Category:1882年生]]
 
[[Category:1919年没]]
 
[[Category:1919年没]]

2013年7月27日 (土) 10:32時点における最新版

竹田宮恒久王

竹田宮恒久王(たけだのみや つねひさおう、1882年明治15年)9月22日 - 1919年大正8年)4月23日)は日本皇族・陸軍軍人。北白川宮能久親王第1王子。妃は明治天皇の皇女昌子内親王。官位は陸軍少将大勲位功五級に昇る。

1903年(明治39年)、竹田宮の称号を賜り、宮家を創設。近衛騎兵連隊に属し、日露戦争に従軍した。井口嶺の戦いですぐ隣を進んでいた伯爵南部利祥騎兵中尉(奥州南部家第42代当主)が敵弾に当たり戦死したという挿話を伝えているが、実際には南部中尉が戦死した3月4日には王は日本に帰国しており、ありえない話である。1919年(大正8年)4月23日、当時流行していたスペイン風邪のため薨去。享年37。

略歴[編集]

血縁[編集]

外部リンク[編集]

先代:
-
竹田宮
初代:1906 - 1919
次代:
竹田宮恒徳王

テンプレート:皇典講究所総裁