日本国体研究所

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日本国体研究所(にほんこくたいけんきゅうじょ)は、1938年(昭和13)11月に、元企画院嘱託の緋田工や、左翼転向者の尾崎陞川崎堅雄らによって創立された翼賛団体東亜協同体論に立脚して協同体的国家の建設を目標としていた、とか、近衛文麿を担いで旧体制を革新しようとする新体制運動の系譜につながる組織だった、と評されている。1940年1月に尾崎・川崎らが日本建設協会を設立して分裂。その後も緋田は同研究所で機関紙発行、講演会開催などの活動を続けた。

沿革

1938年11月に、元企画院嘱託の緋田工や、左翼からの転向者である尾崎陞川崎堅雄らによって創立された[1]

創立以来、機関紙・演説会・座談会などを通じて国民に対する啓蒙・宣伝につとめた[1]

  • 公安調査庁 (1965 )は、同研究所は、東亜協同体論に立脚し、国民組織を通じて日本における政治的指導権を把握し、協同体的国家を建設することを目標とした、と評している。
  • 三戸 (1999 70)は、同研究所は、近衛文麿を担いで旧体制を革新しようという新体制運動の系譜につながるものだった、と評している。

公安調査庁 (1965 )によると、1938年(1939年?)秋頃から、内外情勢が急迫しているとして組織・活動の拡大を志向する尾崎・川崎と、慎重な姿勢をとる緋田との間に意見の対立を生じたという。

1940年1月6日に尾崎と川崎は岡本清一らとともに日本建設協会を設立し、研究所は分裂した[1]

分裂後も、緋田は機関紙の発行、講演会の開催などの活動を続けた[1]

付録

脚注

参考文献