新宿

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新宿(しんじゅく)は、東京都新宿区南西部と一部渋谷区にまたがる新宿駅を中心とした歓楽街オフィス街であり、渋谷池袋と並ぶ3大副都心の一つである。江戸時代は甲州道中の宿駅(内藤新宿)として栄え、近代以降は関東大震災を契機に繁華街として成長している。町名としては新宿一丁目から新宿七丁目が存在する。

概要[編集]

武蔵野台地の東方に位置し、甲州道中の宿駅(内藤新宿)として栄えた。明治維新後に鉄道駅が置かれたが、繁華街として本格的な発展を遂げたのは、関東大震災後のことである。すなわち、銀座浅草などの下町に比べて新宿は表層地盤が非常に強く被害が軽微であり、震災後に人口が激増した西部郊外にとって当時の中央線が都心に乗換えなしに行ける唯一の鉄道であったことから、私鉄各線からの乗り換え需要で新宿に交通が集中するようになり、昭和初期には、都内有数の一大歓楽街となったのである。そして、1965年淀橋浄水場が閉鎖され、新宿副都心の開発が始まると、西新宿に超高層ビルが林立し、1991年の東京都庁移転などを経て、今日見られるようなオフィス街を形成した。1990年代以降は、新たな鉄道駅(1996年西新宿駅2000年東新宿駅)の設置により、複合型の超高層ビルや超高層マンションを中心とした再開発が進んでいる。

地理[編集]

新宿は洪積世に形成された武蔵野台地の東方に位置しており、新宿駅は淀橋台上にあり、標高は山の手で最も高く約44mであり、表層地盤も強い。西端には神田川が流れ、江戸時代には神田上水が開削された。また、近代以降の都市化により都心部では同心円状のヒートアイランド現象が生じているが、新宿御苑新宿中央公園戸山公園などの大規模な公園の園内外ではクールアイランドもみられる。

歴史[編集]

新宿における遊郭や赤線地帯の歴史については新宿二丁目を、戦後形成された歓楽街については歌舞伎町を、高層ビル街の歴史については西新宿も参照

古代から中世[編集]

新宿には、鎧神社(北新宿)や稲荷鬼王神社(歌舞伎町)など平将門伝承の地があり、1083年源義家後三年の役に際し建立した厳嶋神社(東新宿)などもみられるが、新宿周辺の地名が記録に残る最古の例は、1340年に江戸近江権守が足利義詮から預かった牛込である(牛込文書)。

江戸時代 - 宿場開設による発展[編集]

宿場開設以前[編集]

1698年に、信州高遠藩主内藤氏の下屋敷に甲州道中の宿駅として内藤新宿が設けられたのが「新宿」の始まりであるが、新宿と内藤氏とのつながりは、豊臣秀吉により後北条氏が滅ぼされ、徳川家康江戸に入府する直前の1590年天正18年)7月にさかのぼる。三河時代より徳川家康の小姓として仕えていた内藤清成は、家康の入府に先立ち後北条氏残党に対する警備のため、鉄砲隊を率いて甲州街道(国府道)と鎌倉街道が交差していた現在の新宿二丁目付近に陣を敷いた。

この功が認められ、清成は付近一帯を拝領し中屋敷(現在の新宿御苑、上屋敷は神田小川町、下屋敷は下渋谷にあったとされる)を構えた。なお、清成が率いていた鉄砲隊は、1602年(慶長7年)に伊賀組鉄砲百人組として大久保に配置され、百人町の名のもととなっている。

この拝領に際しては、家康が「馬一息で駆け巡るだけの範囲を与える」と伝えたため、清成は馬に乗り榎の大木を中心に東は四谷、西は代々木、南は千駄ヶ谷、北は大久保におよぶ範囲を駆け、その馬はついに倒れて、まもなく死んでしまったというエピソードがある。

「新宿」の誕生[編集]

江戸時代甲州街道は江戸から甲府までの主要街道として整備されたが、第一の宿場高井戸までは距離があり、旅人は難儀をしていた。そのうち、現在の新宿二丁目近辺に人家ができ、1625年寛永2年)には住民の願いにより太宗寺門前の町屋ができ、これを内藤宿と呼ぶようになった。「宿」とはいっても、正規の「宿場」ではなく、甲州街道や成木街道(現:青梅街道)を利用する人馬が休憩所として利用していたので、そのように呼び習わすこととなったという。

1697年元禄10年)、甲州街道における新たな宿場の必要性や行楽地づくりを念頭に、当時の浅草安倍川町の名主であった喜兵衛ほか同志4人が5,600の上納とともに宿場開設を願い出て、翌年、内藤家の中屋敷の一部を利用して宿場が開設され、内藤新宿と称される。ここから新宿の名が誕生した。なお、宿場開設を申し出た喜兵衛は高松喜六と名乗り、高松家は代々新宿の名主を務めた。

宿場としての発展[編集]

この新宿は、玉川上水の水番所が置かれていた四谷大木戸から西、現在の新宿駅付近までの街道沿いに広がっていた。新宿追分(新宿追分・現在の新宿三丁目交差点付近)からは青梅街道も分岐しており、やがて、品川東海道)、板橋中山道)、千住日光街道奥州街道)と併せて四宿(ししゅく)と呼ばれ、江戸の新たな行楽地としても発展した。

その結果、岡場所(非公認の売春宿)なども繁盛して、「四谷新宿馬の糞の中であやめ咲くとはしほらしい」(馬の糞は活発な馬の往来、あやめは飯盛女遊女を意味する)と狂歌に詠われている。これらが災いし、1718年享保3年)に風紀上の理由から一時廃駅の憂い目にあうも、1772年明和9年)には復活している(明和の立ち返り)。歓楽街としての新宿の原型は、この時代に既にあったといえるだろう。

このころ太宗寺は、江戸六地蔵のひとつに数えられ、庶民の信仰を集めていた。また、成覚寺は遊女などの投げ込み寺であった。

明治期から戦前の発展[編集]

明治維新と鉄道開通[編集]

明治維新後、新宿の武家地は住むものがなくなり荒廃し始めた。そこで、とくに広大な敷地を誇った内藤新宿は大蔵省によって買い上げられ、海外から持ち込まれた動植物の適否を試験する「内藤新宿試験場」となり、1879年には宮内省の所轄となり「新宿植物御苑」と改称された。これが新宿御苑のおこりである[1]。他方で、江戸時代の岡場所は、明治以降は遊郭となり、戦後の公娼廃止後もいわゆる赤線地帯として1958年(昭和33年)の売春防止法施行まで続いた。

また、1885年(明治18年)に日本鉄道品川線(後の山手線)が開通し、新宿駅が宿場の西はずれ角筈(つのはず)に作られる。続いて、甲武鉄道(現JR中央線)、東京市街鉄道が新宿駅に乗り入れ、1915年(大正4年)には京王電気軌道(現、京王線)が乗り入れ、ターミナル駅としての姿を見せ始める。

関東大震災後の台頭[編集]

そして、その流れを決定的にしたのが、1923年(大正12年)に起きた関東大震災である。表層地盤の弱い都心部の銀座浅草などの下町エリアは繁華街が全滅し人口が激減したのに対して、武蔵野台地(山の手台地)の東端に位置する新宿は地盤が強くほとんど被害を受けなかったために、渋谷池袋といった他のターミナル駅とともに、郊外の人口の急増にともない駅周辺が新たな繁華街として発展することになったのである[2]

なかでも、当時の中央線は西郊から都心に乗換えなしに行ける唯一の鉄道であったことから、新宿に交通が集中するようになり、昭和の初めには小田急線西武鉄道も乗り入れ、新宿は都内有数の繁華街となった。伊勢丹デパートや中村屋のカリー、高野商店の果物(フルーツパーラー)といった名物をはじめ、武蔵野館新歌舞伎座帝都座ムーランルージュ新宿座などの映画館劇場カフェーなどが集中し人々で賑わうようになる[3]。当時の賑わいは次のように描写されている。

新宿の雑踏を形作るものは何と伝つても新宿駅が吐き出す大衆が中心であつて、これ等の大衆がほてい屋へ行かうとするときには、あの目まぐるしい程往来頻繁な電車路をいやでも横切つて行かなくてはならない。新宿の街路は、電車や自動車やバスやトラツクや自転車やが数珠つなぎになつて、朝早くから夜遅くまで分時の隙間もなく往来してゐて、自動車だけでも1分間に十九台平均に通るといふことである。[4]

戦後初期の発展 - 商業と文化の拠点として[編集]

新宿もまた東京大空襲により大きな被害を受けたが、下町と比べれば人的被害も少なく、新宿駅周辺には戦後間もない頃に闇市が建ち並び、良きにつけ悪しきにつけ、戦後新宿の商業の先駆けとなった[5]。東口の中村屋横にできたハーモニカ横丁ではカストリ焼酎が売られ、カストリ文化の名も生まれた。

ただし、政府による闇撲滅運動が始まると、1950年頃までには新宿から闇市は姿を消し、小売店も次々と再開または新規開店し、東口を中心に新宿駅を中心とした商店街は戦前にも増して活気で満ちあふれた[6]。そして、1952年には新宿駅が日本一乗換駅が多い駅となった。さらに、昭和30年代にかけて、丸井小田急京王などの百貨店が続々と進出し、現在見られるような新宿の商業地の風景が作られた[7]

昭和30年代に入ると人びとにもゆとりが生まれ、新宿は商業の急激な発展とともに、娯楽・演劇の拠点としても戦前以上の賑わいをみせる[8]。その中心となったのが、戦災で焼失した新宿駅北方の地の一角、すなわち、歌舞伎町である。歌舞伎町を中心に数々の映画館が建ち並び、1956年には新宿コマ劇場がオープンし大衆の人気を集め、1964年には紀伊國屋ホールが開場し若手演劇人の登竜門となった。そしてこの頃から、アングラ演劇も盛んになり、新宿は独自のサブカルチャーの発信地としての地位を確立し、ジャズ喫茶歌声喫茶などの喫茶店には多くの若者が交流の場を求めた。

新宿副都心開発と都庁の移転(1965年~) [編集]

昭和40年代に入ると、新宿では1965年に淀橋浄水場が閉鎖され、新宿副都心の開発が始まる。そして、1971年の京王プラザホテル本館を皮切りに、新宿住友ビルKDDビル新宿三井ビルなど、超高層ビルが林立するようになる。また新宿駅西口地下広場、東口の地下街新宿サブナードの発展が始まったのもこの頃である。かくして、1980年代には次のような状況が生まれるに至った。

新宿駅のラッシュは、1日に5回あるという。朝夕の通勤ラッシュ、昼前の買い物客ラッシュ、酔っ払い客など新宿で遊んだ人たちがギリギリの時間に飛び乗る終電ラッシュ。それに、朝まで遊び、遊び疲れた若者らが待って乗る始発ラッシュである。

そして、1970年代から進められていた東京都庁移転計画が1985年に確定し、1991年には新庁舎が完成すると、西新宿で再開発とともに超高層ビルの建設ラッシュが続き、今日の大オフィス街が形成されることになった[9]

再開発の時代(1990年~)[編集]

1980年代以降、再開発の進行にともない、西新宿や北新宿に新たな地下鉄新駅の開発が望まれ、1996年に東京メトロ丸ノ内線西新宿駅が誕生。また、同年には、JR新宿駅南口の新宿貨物駅跡地に高島屋新宿店を核とする複合商業施設タカシマヤタイムズスクエアがオープンし、京王新線初台駅近くには東京オペラシティが開設されるなど、新たな人の流れが作り出された。

さらに2000年には都営地下鉄大江戸線が開通し、新宿内では都庁前駅新宿西口駅東新宿駅が設置され、都庁前駅を起点に都内をほぼ環状に走る地下鉄網が完成した。そして、2008年には東京メトロ副都心線が開通し、新宿内では新宿三丁目駅東新宿駅と接続され、新たな再開発も進み、大江戸線と副都心線の接続駅となった東新宿駅では、2012年三菱地所が山手線内最大規模の約1800坪の基準階面積を持つ新宿イーストサイドスクエアが竣工している。

他方で2001年に起きた歌舞伎町ビル火災を契機として、歌舞伎町内でも新たなまちづくりが始まっている。新宿警察署や地元町内会の協働による見回り活動や防犯カメラ設置などの防犯活動が成果を上げている。2005年には、歌舞伎町を誰もが安全に楽しめるまちにすることを掲げた歌舞伎町ルネッサンス協議会が設立され、地域活性化にも取り組み、全国の繁華街再生のモデルと位置づけられている[10]

こうして、現在の新宿は、多種多様な人と文化が集まり、新たな経済と文化を創り出す日本有数の巨大繁華街として全国的、世界的にも認知され、日本政府観光局の訪日外客実態調査では、2004年度調査以来、都市・観光地別訪問率のトップを占め(2010年は34.8%)、2009年に東京都が実施した観光客数等実態調査では、最も満足したまちの第1位(16.8%)となるなど(第2位は銀座の7.6%)、東京における観光スポットの顔となっている。

現在の社会地理[編集]

新宿駅北東エリアの歓楽街については歌舞伎町、新宿駅西側にある高層ビル街などについては西新宿、新宿二丁目の歓楽街については新宿二丁目も参照

駅周辺[編集]

駅周辺は日本有数の繁華街であり、昼夜にわたり人波が途絶えることはなく、巨大な商圏を形成している。

  • 新宿駅の一日の利用者数は約344万人(2007年、地下街で連結した西武新宿駅含むと約364万人)に達し世界一であり、ギネス・ワールド・レコーズに認定されている。
  • 徒歩圏の周辺駅も併せた『新宿エリア』の駅乗降者数は約403万人(2007年)
  • 新宿エリア乗降客数約403万人(2007年)
内訳:新宿西口駅53,685・大江戸線都庁前駅37,809・丸ノ内線新宿3丁目駅46,073・都営新宿3丁目駅41,316・大江戸線東新宿駅15,915・丸ノ内線西新宿44,449・丸ノ内線新宿御苑前駅45,621・南新宿4,124人・JR代々木駅74,536人・都営代々木駅31,950人に上る。
  • 繁華街の集客人員は164万人(2002年)に達しており、統計では日本一となっている
  • 繁華街集客人員(商業地実地調査データ集2003版 野村総合研究所より)
新宿地区164万人・渋谷地区130万人・難波心斎橋地区122万人・名古屋錦栄地区120万人・大阪駅周辺地区119万人・横浜関内伊勢佐木町地区112万人・池袋地区100万人・名古屋駅周辺地区93万人・有楽町銀座地区86万人・神田神保町御茶ノ水地区77万人・札幌大通り・すすきの地区77万人・福岡中洲天神地区71万人・横浜駅周辺地区70万人・三宮駅周辺地区63万人・京都四条河原町地区58万人・六本木赤坂地区56万人・上野浅草地区50万人・天王寺阿倍野地区37万人・紙屋町八丁堀地区33万人・博多駅周辺地区28万人・仙台一番町周辺地区22万人・京橋地区19万人・町田駅周辺地区19万人・名古屋大須地区17万人、その他ソースは日経流通新聞(日経MJ)など。
  • デパート販売額や商品販売額では日本で初めて1兆円を超えた。

なお、繁華街として一般に「新宿」と称される範囲は、地名としては概ね新宿区新宿・西新宿歌舞伎町などである。また、新宿駅新南口渋谷区に在るが、タカシマヤタイムズスクエア小田急サザンタワーが渋谷区にあることを知らない人もいる。

新宿駅東側[編集]

新宿駅の東側は老舗デパートや専門店・飲食店などが密集し、昼夜を問わず人の波が途絶えることはなく、日本一の繁華街となっている。駅東口近くにあるスタジオアルタや中央東口の交番は、新宿でも屈指の待ち合わせ場所となっており、夕方の終業時間になると著しく混雑する。


新宿駅西側[編集]

新宿駅に連なる西口は小田急京王の両デパートやハルクルミネなどの専門店、駅前は大型量販店などが集まり、歩を進めると超高層オフィスや超高層ホテルなどが集まる超高層ビル群、新宿副都心になっている。

新宿駅の西側は、1950年代までは十二社池(じゅうにそういけ)といった大きな池もあり、戦前までは東京近郊の行楽地であった。そうしたこともあり、1960年代までは駅東側に比べ長閑(のどか)で寂しい地域であった。しかし、このころ千代田区周辺の東京都心部に機能が集中していることが課題となり、新宿西口が副都心として位置づけられた。

1965年(昭和40年)には西口にあった淀橋浄水場東村山市に移転し、その跡地に1971年(昭和46年)の京王プラザホテルを皮切りに超高層ビルが挙って建設され、後に新宿副都心と呼ばれるようになった。また東京都庁1991年(平成3年)に有楽町からこの地に移転して以降、新都心と呼称される場合もある(但し、青梅街道にある新都心歩道橋は都庁移転前から存在する)。高層ビル近辺では1968年(昭和43年)に開園した新宿中央公園が都会のオアシスとして著名である。

なお、西口のやや北寄りには、太平洋戦争後すぐに形成された闇市を起源とする飲み屋街、思い出横丁がある。ここには「赤ちょうちん」と呼ばれる小規模な居酒屋が密集し、変化の著しい新宿の町並みのなかでも戦災復興や昭和の時代の匂いを残している。そのすぐ北にはJR線の高架橋、通称・大(おお)ガードがある、下を走る青梅街道靖国通り小滝橋通りの交差する大ガード交差点周辺は交通の要衝のため夜間は著しく混雑する。

新宿駅北側[編集]

新宿駅の北側、歌舞伎町方面は飲食店やホテルが軒を連ねて巨大な歓楽街を形成している。いわゆる新宿ゴールデン街も歌舞伎町の中にある。西武新宿駅が至近である。一方、線路の西側である小滝橋通り周辺には、輸入、中古レコード店やライブハウスなどが目立ち、都営大江戸線新宿西口駅が存在する。

この2駅の間にはJR線の高架が存在しアンダーバスが形成されていないため、小滝橋通り沿い方面は新宿駅の他の地域に比べれば人の往来は少なめである。

また、歌舞伎町の北方には、コリアン中国人を主とする外国人が多く居住しているが、一方で怒羅権などチャイニーズマフィアの活動拠点の一つにもなっているとされる。

新宿駅南側[編集]

新宿駅の南側に面す新宿四丁目は、かって四谷旭町と言う住所で作家の林芙美子が下宿していた場所として知られる。入り組んだ路地に民家や旅館、個人商店などが都市開発の煽(あお)りを受けビルに阻まれる様に取り残されている雑多な地域であったが平成10年前後の再開発により、周辺には超高層ビルや大型デパートなどが次々と建設された。新宿タカシマヤから駅構内に直結するペデストリアンデッキ(歩道橋)が整備され、新たな人の流れを生み出している。戦後、満州からの引き揚げ者が餃子屋を多く営んでいた。 アルタと同様目印となる巨大ビジョン(FLAGSビジョン)がある駅南口、東南口は階段と周囲が一新されFLAGSのオープン以降は待ち合わせの人などで大変混雑するようになった。夕方から夜にかけてはアマチュア音楽家による演奏が行われ、家路を急ぐ人々などの注意を惹いている。吉本興業芸人らが出演する劇場ルミネtheよしもと」もある。なお、タカシマヤを含む甲州街道の南側は、新宿四丁目の一部を除き渋谷区千駄ヶ谷代々木に属する。

なお、京王デパートと小田急デパートの間には「モザイク通り」という遊歩道があり、様々な店舗が軒を連ねている[12]。西口から南口側へ抜けるにはここを通れば最短で便利である。

東新宿駅周辺[編集]

新宿三丁目の北、歌舞伎町の東に位置する新宿六・七丁目は低層の住宅地域が広がっていたが、2000年12月、都営大江戸線東新宿駅が七丁目(六丁目との境)に開設されると七丁目を中心に中高層マンションの造成が進み、2008年6月の東京メトロ副都心線開通を経て、今日まで駅の利用者の増加が続いている。

さらに、2007年、東新宿駅の東南部約3.7万㎡の日本テレビゴルフガーデン跡地を三菱地所が落札し再開発に着手。敷地一帯を「新宿イーストサイド」と命名し、敷地北側のビジネスエリアには、広場や遊歩道とともに、1万人以上が就業可能な延床面積約17万㎡の商業&ビジネス複合型オフィスビル「新宿イーストサイドスクエア」を建設(2012年5月竣工、9月グランドオープン予定)。同ビルには、スクウェア・エニックス・ホールディングスの本社移転も決まっている。そして、敷地南部はレジデンスエリアとして整備され、地上32階、地下1階、高さ111.7m、総戸数761戸のタワーマンションなどが建設されている。

その他の周辺地域[編集]

街並みは新宿駅南口及び新南口至近の渋谷区代々木千駄ヶ谷辺りにも波及している。また、近隣の中野坂上初台などの開発は新宿の地続き的な発展として捉えていいだろう。以下は、西新宿のビル街からは離れた高層ビルである。

都市問題[編集]

新築のビルの横に風俗店パチンコ店が密集し、雑多な景観は新宿の特徴でもあるが、治安悪化の温床でもあった。このほか、公園地下道の一部などホームレスが比較的多く集まっている場所もある。近年では、繁華街の商店主や警察らによって治安の向上が図られ、成果を上げている。

さらに、高層ビルの増加に伴う日照権ビル風などの問題もある。

行政区画・町名の変遷[編集]

新宿一帯は1889年(明治22年)の町村制施行で南豊島郡内藤新宿町となる。1896年(明治29年)南豊島郡と東多摩郡の合併で豊多摩郡の所属となる。1920年(大正9年)に東京市四谷区に編入、1947年(昭和22年)3月15日には四谷区、牛込区淀橋区が統合されて新宿区となる。

1973年(昭和48年)住居表示実施による町名変更で現在の新宿一丁目から四丁目、1978年(昭和53年)には新たに五丁目から七丁目が誕生した。西新宿は角筈と十二社、淀橋、柏木一丁目が統合された。北新宿となっている地域は柏木二丁目から柏木五丁目であった。

住居表示実施後 実施前(注意書きのない町名はその一部)
旧四谷区 旧淀橋区
新宿一丁目 新宿一丁目、花園町(全部)
新宿二丁目 新宿一丁目、新宿二丁目
新宿三丁目 新宿二丁目、新宿三丁目 角筈一丁目、角筈二丁目
新宿四丁目 新宿四丁目(全部)
新宿五丁目 番衆町(全部)、三光町 東大久保一丁目
新宿六丁目 東大久保一丁目、東大久保二丁目、西大久保一丁目
新宿七丁目 東大久保二丁目、西大久保二丁目

新宿一丁目から七丁目までの人口は、15,605人(2010年(平成22年)8月1日現在、住民基本台帳による。新宿区調べ)。

新宿を舞台にした作品[編集]

小説[編集]

映画[編集]

ドラマ[編集]

ゲーム[編集]

漫画[編集]

アニメ[編集]

歌謡曲[編集]

雑事[編集]

  • 2007年になって新宿駅を行き来する一般路線バスの表示が「Shinjuku」から「Shinjyuku」と変わっている。要出典

脚注[編集]

  1. 新宿区(2007: 50)
  2. 東京都百年史編集委員会(1979)、新宿区(1998: 379-81)
  3. 新宿区(1998:413-22)
  4. 『大新宿』第一巻第二号、昭和5年10月号
  5. 新宿区(1998: 395-7)
  6. 新宿区(2007: 96)
  7. 新宿区(2007: 118)
  8. 新宿区(2007: 112-4)
  9. 新宿区(1998: 159-60)
  10. 仁階堂(2009)
  11. 要通り界隈の飲食街を「要町」と呼ぶことがある。東京新聞平成15年12月23日「わが街わが友9 新宿要町」、さぶ1985年5月号エレクト広告「要町カバリエ」。
  12. 一部はルミネ新宿店の一部をなしている

参考文献[編集]

  • 新宿区(1998)『新宿区史―区成立五十周年記念 第一巻』
  • 新宿区(2007)『新宿時物語―新宿区60年史』星雲社
  • 東京都(2010)「平成22年東京都観光客数等実態調査」
  • 東京都百年史編集委員会(1979)『東京百年史』
  • 仁階堂拓哉(2009)「歌舞伎町タウン・マネジメントにおける歌舞伎町ルネッサンス事業の現況」『安全・安心を創出するための15の視点』東京法令出版
  • 日本政府観光局(2010)「JNTO 訪日外客訪問地調査2009報告書概要」

関連項目[編集]

外部リンク[編集]

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