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[[1838年]](天保9年)10月26日に[[阿弥陀]]信仰深く、慈悲深い生活をしていた奈良県の農民[[中山みき]]が、病気の息子を治すために、[[山伏]]に[[祈祷]]を依頼した。それでも治らなかったため、自ら[[修験者]]の[[霊媒]]となった際に、[[三島神社]]にて「親神([[おやがみ]])」[[天理王命]](てんりおうのみこと)が天降り、憑依したと主張している。中山みきは、超能力を得て、安産の祈願や、人々の病気を治すなどの奇跡を起こしていたらしい。そして、近隣の農民や職人の尊敬を集めた。しかし、地域の寺社からは疎まれ、[[官憲]]からは弾圧を受け、中山みきは幾度となく、[[逮捕]]・[[拘留]]された。
 
[[1838年]](天保9年)10月26日に[[阿弥陀]]信仰深く、慈悲深い生活をしていた奈良県の農民[[中山みき]]が、病気の息子を治すために、[[山伏]]に[[祈祷]]を依頼した。それでも治らなかったため、自ら[[修験者]]の[[霊媒]]となった際に、[[三島神社]]にて「親神([[おやがみ]])」[[天理王命]](てんりおうのみこと)が天降り、憑依したと主張している。中山みきは、超能力を得て、安産の祈願や、人々の病気を治すなどの奇跡を起こしていたらしい。そして、近隣の農民や職人の尊敬を集めた。しかし、地域の寺社からは疎まれ、[[官憲]]からは弾圧を受け、中山みきは幾度となく、[[逮捕]]・[[拘留]]された。
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中山みきの側近達は[[おやがみ]]を祭る新宗教を作ろうとしたが、中山みきはそれを禁じた。また、りっぱな建物を造ることも禁じた。簡素な仮の社でいいとした。なぜなら、中山みき自身が神が宿る社なので、おやがみを祭る建物は必要ないからだ。
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中山みきの没後、側近達は新宗教を立ち上げようと活動を開始するが、当時において教えがきわめて特異的だったため認められなかった。その後政府の指導に従い、[[神道]]の一派として天理教を立ち上げた。[[1885年]](明治18年)5月23日[[神道本局]]傘下の六等教会「[[神道天理教会]]」としての認可された。故に天理教で'''教祖とされる中山みきが天理教を興したのではない'''。あくまで彼女の思想が天理教の教理の元となり、彼女が天理教によって崇拝対象としてあがめられているだけである。[[1900年]](明治33年)8月から明治政府の意向に配慮した「[[明治教典]]」等の編纂を行うなど各方面で努力をした結果、[[1908年]](明治41年)に別派として独立することが出来た。(天理教ではこの一連の活動を「[[一派独立運動]]」と呼称している)。しかしこれは、本来の教祖の教え([[おふでさき]]に書かれていることなど)に反することでもあった。元々教祖(=[[親神]])は明治以前より始まっていた教団の認可活動を快く思っておらず、幾度と無く反対の意思を示しており(前述の明治維新に伴う吉田神祇管領の廃止=認可の無効も預言していたとされる)、明治に入り教祖が現身を隠した後、[[飯降伊蔵]]を通して神意を示す様になってからもこの姿勢を崩す事は無かった。
  
 
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2008年12月5日 (金) 16:16時点における版

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天理教(てんりきょう)は、日本の新興宗教の一つである。教祖中山みき(但し中山みきが天理教を始めたわけではない)・親神天理王命御霊様を崇拝対象とする。江戸時代末期に開かれた。天啓宗教創唱宗教

狭義には奈良県天理市に本拠地を置く包括宗教法人宗教法人天理教)及びその傘下の被包括宗教法人等(教会本部及び一般教会)からなる宗教集団を指す。広義には中山みきが伝えた教義そのものを指す。本稿では、狭義の天理教について述べる。 広義には、天理教を信仰する全ての宗教団体が含まれる。宗教法人天理教の他、「ほんみち」・「ほんぶしん」・「天理教豊文教会」・「おうかんみち」・「神一条教」・「うち分け場所」・「茨木一派」などがあげられる。また財団法人としてモラロジー研究所などがある。これらはそれぞれの項で述べる。

おさづけ」という儀式(息や手踊り)で、どんな病気でも治すことが出来るとしている。

街頭で、黒いハッピを着て鳴り物を鳴らし、歌を歌いながら踊っている集団が天理教である。


概要

宗教法人天理教本部は奈良県天理市にある。

歴史

1838年(天保9年)10月26日に阿弥陀信仰深く、慈悲深い生活をしていた奈良県の農民中山みきが、病気の息子を治すために、山伏祈祷を依頼した。それでも治らなかったため、自ら修験者霊媒となった際に、三島神社にて「親神(おやがみ)」天理王命(てんりおうのみこと)が天降り、憑依したと主張している。中山みきは、超能力を得て、安産の祈願や、人々の病気を治すなどの奇跡を起こしていたらしい。そして、近隣の農民や職人の尊敬を集めた。しかし、地域の寺社からは疎まれ、官憲からは弾圧を受け、中山みきは幾度となく、逮捕拘留された。

中山みきの側近達はおやがみを祭る新宗教を作ろうとしたが、中山みきはそれを禁じた。また、りっぱな建物を造ることも禁じた。簡素な仮の社でいいとした。なぜなら、中山みき自身が神が宿る社なので、おやがみを祭る建物は必要ないからだ。

中山みきの没後、側近達は新宗教を立ち上げようと活動を開始するが、当時において教えがきわめて特異的だったため認められなかった。その後政府の指導に従い、神道の一派として天理教を立ち上げた。1885年(明治18年)5月23日神道本局傘下の六等教会「神道天理教会」としての認可された。故に天理教で教祖とされる中山みきが天理教を興したのではない。あくまで彼女の思想が天理教の教理の元となり、彼女が天理教によって崇拝対象としてあがめられているだけである。1900年(明治33年)8月から明治政府の意向に配慮した「明治教典」等の編纂を行うなど各方面で努力をした結果、1908年(明治41年)に別派として独立することが出来た。(天理教ではこの一連の活動を「一派独立運動」と呼称している)。しかしこれは、本来の教祖の教え(おふでさきに書かれていることなど)に反することでもあった。元々教祖(=親神)は明治以前より始まっていた教団の認可活動を快く思っておらず、幾度と無く反対の意思を示しており(前述の明治維新に伴う吉田神祇管領の廃止=認可の無効も預言していたとされる)、明治に入り教祖が現身を隠した後、飯降伊蔵を通して神意を示す様になってからもこの姿勢を崩す事は無かった。