大阪産業大学付属高校同級生殺害事件

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大阪産業大学高等学校同級生殺害事件(おおさかさんぎょうだいがくこうとうがっこうどうきゅうせいさつがいじけん)とは、1984年昭和59年)11月1日大阪府大阪市で発生したいじめ報復殺人事件である。

事件の背景

この事件では、大阪産業大学高等学校(当時。現大阪産業大学附属中学校・高等学校)に通っていた二人のいじめ被害者が、殺人事件の加害者となった。彼らは被害者がリーダーになっているグループの一員であったが、被害者が柔道部を6月下旬に退部した後7月からいじめが始まった。のちに事件の加害者となった生徒らは、いじめ被害を数人の教師に相談したが、教師からは取り合ってもらえなかった。彼らは休み時間昼休みに教師の目の届かない所でしばしば殴られていた。

また、授業中・昼休み時間中・放課後には人前で強制的に自慰を強要し、応じない場合は殴りつけ、さらに「5回まわれ」や「シンボルを持ってやれ」などと言い、嫌々自慰をする2人を見ては笑っていた(和田秀樹はマスターベーション行為を挙げた上で「恥の体験の自己愛憤怒」があったのではないかと解釈している)。さらに、いじめ被害者の一人は顔をベルトで殴られ無理に休まさせられ性玩具を買ってくるよう強要され、パシリにされた。最終的に自慰行為は無理矢理教室内で(若い女性教諭のいる前で)陰茎を露出させ回されるところまでエスカレートした。

また、吸えない煙草を無理矢理吸わされたり、ビールなどのを無理矢理飲まされたりしていた。被害者は授業中のノートをほとんど2人に取らせ、教室を移動するときは、自分の教科書等は2人に持たせていた。顔に絵具を塗られたり、力のある別の2人を殴るよう強要されたりもしていた。10月26日には、加害者2人に対する暴力の一角が発覚し、被害者は加害者らを含む5人で担任と柔道部顧問を襲撃する計画を立てていた。

このような状況は9~10月頃集中的に起こり、追い詰められたいじめ被害者らが殺害の計画を立てることになる。2人は勉強はあまり振るわなかったが、性格は大人しく目立たない存在で、それまで補導された事もなかった。

事件の発生

10月31日夜、電話で相談が始まった。創立記念日で高校が休校である11月1日午前8時半ころ、京阪電鉄の駅でお互いに落ち合い相談し、殺害方法や時間を決めた。

同日正午過ぎ被害者に電話。被害者は「近くで自転車を盗んでこい」と指示し、2人は自転車を盗み天満橋大阪市)に行く。午後5時頃、靱公園(大阪市)に行き被害者が「もっといい自転車を取ろう」ということで公園近くのマンションで自転車を盗み、被害者が乗った。彼らは「天満橋に行けば、もっといい自転車がある」と持ちかけ、桜宮公園(大阪市)へ向かい公園内でしばらく遊んだ。

そして午後7時40分ころ、公園の遊歩道で彼らの一人がポケットに隠していた金槌で、自転車に乗っていた被害者の後ろから襲い頭を殴りつけ、倒れた被害者を2人で約10分間金槌で頭部を滅多打ちにし、金槌の釘抜きの部分で左目を潰し約50メートル引きずり川に投げ込み水死させた。

翌日の1984年11月2日、大阪市北区天満橋2丁目・桜宮公園東側の大川で彼の水死体が発見された。死体は半裸でブリーフ、白の靴下姿だった。

警察は1984年11月11日、被害者の同級生である2人を逮捕した。彼らは「解決するには自分たちで殺すしかなかった」と犯行の動機を自供した。

事件後の対応

事件後二人は自主退学勧告を受け退学し、中等少年院送致処分を受けた。問題となったいじめについては警察庁「少年の補導及び保護の概況」では「理由もなく殴られたり、自転車を盗むよう強制されるなど、2か月にわたって手下のような扱い方をされいじめられ」とだけ述べられた。

担任は何も知らないと相談された事実を否定。校長は「2人が自分たちの立場を有利にしようとして発言したとしか思えません」と述べる。結局、校長ら6人の教師を懲戒処分としたものの、担任には処分はなかった。理事会原案では、担任に1番重い処分を課そうとしていたが、教職員の反対で処分は下されなかった。

だが、12月5日付けで学校が大阪産業大学付属高校の教師や大阪府教育課など学校関係者に配布した「同級生殺害事件に関する報告書」と題した24ページの内部資料では、いじめの詳細が鮮明に描かれた。なお事件後、同校では学級委員を投票で決めるようになった。

関連項目

参考文献

  • 『友だちが怖い ドキュメント・ノベルいじめ』(南英男、1985年5月)ISBN 978-4-08-610750-1

外部リンク