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'''吉川 尹哲'''(よしかわ いんてつ、[[1822年]]または[[1825年]] - [[1912年]])は、[[日本]]の宗教活動家、[[淘宮術]]の指導者。'''淡々斎一元'''(たんたんさいいちげん)と号した。{{Sfn|西川|1914|pp=125-126}}{{Sfn|鈴木|1966|p=7}}
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'''吉川 尹哲'''(よしかわ いんてつ、[[1823年]]または[[1826年]] - [[1912年]])は、[[日本]]の宗教活動家、[[淘宮術]]の指導者。'''淡々斎一元'''(たんたんさいいちげん)と号した。{{Sfn|西川|1914|pp=125-126}}{{Sfn|鈴木|1966|p=7}}
  
 
==経歴==
 
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淘宮術の開祖・[[横山丸三]]の縁故者でもあり、弘化元年(1844)、19歳のとき横山の門下に入った{{Sfn|鈴木|1966|p=9}}。
 
淘宮術の開祖・[[横山丸三]]の縁故者でもあり、弘化元年(1844)、19歳のとき横山の門下に入った{{Sfn|鈴木|1966|p=9}}。
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2021年11月17日 (水) 16:54時点における版

吉川 尹哲(よしかわ いんてつ、1823年または1826年 - 1912年)は、日本の宗教活動家、淘宮術の指導者。淡々斎一元(たんたんさいいちげん)と号した。[1][2]

経歴

推定1823年(文政6)または1826年(文政9)生まれ[3]

淘宮術の開祖・横山丸三の縁故者でもあり、弘化元年(1844)、19歳のとき横山の門下に入った[4]

江戸幕府の役人としては御小納戸御召方役をつとめ、徳川亀之助にも勤仕した[4]

嘉永元年(1848)、幕府が横山の淘宮講義の集会を禁止し[4]、安政元年(1854)に横山が死去[5][6]

その後は佐野量丸の門下となった[7]

明治維新の後は東京府出仕となり、後に戸長職を務めた[4]

1881年(明治14)、57歳のとき、戸長を辞職[4]佐野量丸から「天源十二宮」の皆伝を受け[7][8]、3代目の指導者として淘宮術の教導・普及につとめた[8]

東京・神田の猿楽町独逸協会学校の前に住み、各所へ出張、教導[2]。東京の青梅地方や八王子、相原方面(相模原市)へも出張して門下を増やし、淘宮術を普及させた[4]

吉川は、佐野に比肩するほど多くの門弟を抱え、華族や富豪の信者・支援者も多かった[9]。佐野や吉川の教導・指導によって、淘宮術は明治中期に信奉者を増やし、全国的にブームとなった[2]

吉川の弟子だった竹内師水は、1912年に吉川の淘話を筆記して『一元先生の淘話』(竹内 1912 )として刊行し、秘密を漏洩したとして吉川に破門された。[10]

1912年(明治45)9月に病没[9]。養嗣子の吉川留男が後を継いだ[9][11]

付録

関連文献

  • 竹内 (1912) 竹内師水(竹内勝太郎)(編)『一元先生の淘話 附 天源十二宮詳解』永楽堂、1912・大正元、NDLJP 949211

脚注

  1. 西川 1914 125-126
  2. 2.0 2.1 2.2 2.3 鈴木 1966 7
  3. 鈴木 1966 7に、明治21年・1888年3月当時、66歳とあり、同書9頁には弘化元年・1844年当時19歳とある。
  4. 4.0 4.1 4.2 4.3 4.4 4.5 鈴木 1966 9
  5. 大井 1868 20
  6. 井上 1896 228
  7. 7.0 7.1 西川 1914 125
  8. 8.0 8.1 鈴木 1966 7,9
  9. 9.0 9.1 9.2 西川 1914 126
  10. 西川 1914 128-129
  11. 西川 (1914 126)は、留男について「不肖にして徒らに様に依りて胡蘆を画くに過ぎず(愚かで、ただ形はそれらしくしているが、先例主義で独創性がなかった)」と評している。

参考文献

  • 大井 (1868) 大井正元三始氏「淘宮元祖先聖伝記并略年譜」天源淘宮術研究会『天源淘宮術秘訣』松成堂、1909・明治42(原著:慶応4・1868)、pp.4-44、NDLJP 2209062/10
  • 井上 (1896) 井上円了(講述)『妖怪学講義 合本第3冊 増補再版』哲学館、明治29、pp.225-236、NDLJP 1080793/118
  • 西川 (1914) 西川光次郎『神道教祖伝 - 霊験奇瑞』永楽堂、大正3、NDLJP 908681
  • 鈴木 (1966) 鈴木龍二「相沢翁と淘宮術」相沢菊太郎ほか『相沢日記・続』相沢栄久、7-9頁、NDLJP 2985880/8 (閉)