八百長

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八百長やおちょう)「いんちき」の意。真剣に争っているように見せながら、事前に示し合わせた通りに勝負をつけること。対義語は「ガチンコ」。

なお、事前の示し合わせがなく、プレーの態度でそれとなく為される“談合”は八百長ではない。

概説

出場者に金銭などの利益を与えて行われる場合や、審判の買収によって行われる場合など、その形態はさまざまである。

勝負事においては競技の如何を問わず、常にブックメーカーや非合法の賭け事が絡んでいるという現実的側面が付きまとっている為、直接的に影響を及ぼす公営競技は勿論の事、野球サッカーなどでも刑事告発(闇賭博が絡む場合は賭博罪)や永久追放、降格など厳しく処分されることが多い。またF1レースでは失格処分となるが、勝ちをチームメイトに譲る事(チームオーダー)は事実上許されている。

由来

八百長は、明治時代の八百屋の店主「長兵衛(ちょうべい)」に由来するといわれる。八百屋の長兵衛は通称を「八百長(やおちょう)」といい、大相撲年寄伊勢ノ海五太夫と囲碁仲間であった。囲碁の実力は長兵衛が勝っていたが、八百屋の商品を買ってもらう商売上の打算から、わざと負けたりして伊勢ノ海五太夫のご機嫌をとっていた。

ところがその後、回向院近くの碁会所開きの来賓として招かれていた本因坊秀元と互角の勝負をしたため、周囲に長兵衛の本当の実力が知れわたり、以来、真剣に争っているように見せながら、事前に示し合わせた通りに勝負をつけることを八百長と呼ばれるようになった。

隠語

大相撲では「注射」(真剣勝負は「ガチンコ」)とも言う。

対戦者の一方のみ敗退行為[1]を行う場合は「片八百長」と呼ばれることがある。

現在では「ヤオ」と略語で言うこともある要出典

主な事件・疑惑

関係者が処分された例

関係者の処分はなかったが、多くの疑問がもたれた例

ドラゴンボールのブウ編天下一武道会。ミスターサタンが18号に対してやった

大相撲

主な疑惑

4場所連続休場中だった横綱・柏戸が勝って全勝優勝を決めたが、場所後当時人気作家だった石原慎太郎がスポーツ紙上の手記でこの一番を八百長として糾弾。日本相撲協会の告訴にまで発展したがのちに和解。
同年1月場所を休場した大関・前の山は、角番の3月場所も苦戦、11日目を終わって5勝6敗だった。大関同士の琴桜との対戦で前の山が勝ったが、監察委員会より無気力相撲ではないかとの注意を受け、前の山は翌日から休場、大関から陥落した。
史上初の兄弟力士での優勝決定戦になったが、前場所まで4連覇中だった横綱・貴乃花が四つに組んだ後これといった攻めもなく下手ひねりに敗れる。八百長とは言わないまでも、やはり勝負に徹しきれない心理もあったのではないか、という見方は当時から強かったが、貴乃花が引退後にこれをふりかえって「やりにくかった」と発言、八百長を認めたとの誤解を招いて再び問題化した。
小結・板井圭介が現役時代の八百長を認め、八百長にかかわった横綱・曙太郎以下20名の力士の実名を公表した。協会は板井に謝罪を求める書面を送付したが、最終的に「板井発言に信憑性はなく、八百長は存在しない。しかし板井氏を告訴もしない。」という形でこの問題を決着させた。
2007年1月発売の週刊現代の「横綱・朝青龍の八百長を告発する」という記事において、朝青龍が白星を80万円で買っていたのではないかという疑惑が浮上。15回の優勝のうち、実に11回分の優勝は朝青龍が金で買ったものだとした。この報道に対し朝青龍は疑惑を完全否定。日本相撲協会は、八百長にかかわったとされる力士全員に事情聴取をしたが、全員が否定した。2007年2月8日に相撲協会は、週刊現代発行元の講談社と記事のライターに対して民事訴訟を起こした。但し、関取の付き人が東西の支度部屋を行き来し談笑するなど、周囲から公正性を疑われるような行為が協会にあったのもまた事実である。
同年5月に週刊現代は、2006年名古屋場所の千秋楽で、綱取りのかかった大関白鵬の師匠である宮城野が、朝青龍から300万円で星を買ったという旨の証拠音声を入手したと報道、同誌のウェブサイトでその音声を公開している。これに対し、宮城野は事実無根と否定した。日本相撲協会は7月9日、週刊現代を刑事告訴したと発表。

諸事情

大相撲における八百長行為の歴史は深く、神事や占いとしての相撲では、「独り相撲」(力士は一人で土俵に立ち神と取り組む仕草をする。神の機嫌を取るため、わざと転がって負ける)や、凶作不漁の見込まれる土地の力士に勝ちを譲ることも普通に行われていた。江戸時代の木戸銭を取っての興行でも、力士の多くが大名のお抱えだったせいもあり、力士当人や主君の面子を傷つけないための星の譲り合いや、四つに組み合って動かず引き分けたり、物言いの末の預りの裁定なども多かった。

観客としては、大名の意地の張り合いによる八百長相撲には腹に据えかねていたが、落語の「谷風の人情相撲」など、美談としての片八百長、いわゆる「人情相撲」には寛容だった様だ。

これらが罪悪視されるようになるのは、明治に入って近代スポーツの精神が輸入されてからのことになる。相撲のスポーツ化に務めたのは板垣退助である。その後、出羽海部屋の力士が幕内の西方半分を占め、対立軸が発生。出羽海内部でも両国派と天竜派に分かれ対立。対立を背景に八百長の色が濃くなるが、1932年の春秋園事件のため状況が崩壊。八百長を断ったという逸話の伝わる玉錦が力士会会長に選出。その後は戦中の雰囲気もあり、協会も敢闘精神の強調を促したため八百長は全く囁かれなくなった。引き分けでも敢闘精神不足で取り直させる程であった。

戦後もしばらくは八百長は全く囁かれなかった。栃若時代は稽古も巡業も同門で行っており、一門別の総当たり戦を行っていた当時は八百長の交渉を行う余裕が無いと思われていた。だが、1958年からの年6場所制の定着で怪我を治す暇が無くなった事、1965年1月場所に一門別から部屋別への変更が行われた事、など状況的に疑惑の土台が出来ていく。週刊誌的には大鵬と柏戸の一戦の疑惑が取りざたされた事で、内在していた八百長疑惑が取りざたされるようになっていった。

また、八百長かどうかはともかくとして、大関は優勝に関係が無い場合勝ってもあまり意味が無く、「大関互助会」と言われる状況に陥る事も少なくない。協会側も分かっており、1972年1月場所には横綱北の富士と大関琴桜の対戦を初日に組んだりもしたが、結果的には「つき手かばい手論争」「11勝4敗での優勝」と、大相撲史上稀に見る波乱の場所となった。7勝7敗の力士の勝率も似たような結果になってしまっている。こういった事情から統計的には「クロ」とみなす外国の学者もいる。

告発について

大相撲の八百長疑惑では、1980年から週刊ポストが元十両四季の花範雄の八百長告発手記を初めて公開し、その後も元力士や元角界関係者による告発シリーズを約20年にわたり掲載した。中でも1996年に部屋持ち親方としては初めて11代大鳴戸(元関脇・高鐵山孝之進)の菅孝之進と元大鳴戸部屋後援会副会長の橋本成一郎が行った14回にわたる告発手記は、八百長問題・年寄株問題暴力団との関わり・角界の乱れた女性関係などを〈暴露〉し、大きなインパクトを与えた。

この時は、協会が告訴する事態にまで発展した。それを纏めた11代大鳴戸親方の著作として、『八百長―相撲協会一刀両断』(1996年、ラインブックス)が出版された。しかし、この著書の発売直前に、告発者の菅孝之進と橋本成一郎が「同日・同じ病院・同じ病気」で急死した。事件性も疑われたが、結局は病死ということで処理された。当時は週刊誌で騒がれ、今でも謎の残る「怪死」だと告発者を支持する側は主張している。

その4年後の2000年、11代大鳴戸親方の弟子だった元小結・板井圭介が外国人記者クラブで、大相撲の八百長問題を語った。それまでも、週刊ポストで元力士らの証言は繰り返されていたが、元三役力士からの証言はこの時が初でしかも記者会見で当時の現役力士の実名を挙げての暴露だったこともあり、角界だけではなく世間一般にも大きな衝撃を与えた。その後板井は、『中盆―私が見続けた国技・大相撲の“深奥”』(2000年、小学館)を出版した。ここでは、中盆(板井の主張する角界隠語で、八百長を取り仕切る仲介・工作人の意)として君臨した板井の証言が著されている。菅孝之進の告発本との共通点も多く見られる。

この師弟の主張は、おおむね次のようなものである。

大相撲の八百長は完全にシステム化されており、大きく分けて星の「買取」と「貸し借り」の2つに分けられる。買取は主に常に好成績を求められる横綱・大関などが地位を守る為に使用する。貸し借りは三役以下の平幕力士同士が勝ち越すためや、十両に落ちないようにするための手段として使用する方法である。横綱大関の買取は70万~100万円くらいが通常の相場であり、貸し借りは先に対戦相手に頼むほうが40万円を支払うということになっている。横綱大関同士などの優勝が懸かった一番や、大関、横綱昇進の懸かった取組みなどでは相場はもっと上がり、200万~300万にもなることもあるという。あと、部屋の親方が所属力士のために八百長工作に動く場合もある。八百長の代金の清算は場所後の巡業などで付け人関取の意をうけて行うのが通例。

力士はおおよそ、八百長力士(注射力士ともいう)と非八百長力士(ガチンコ力士ともいう)に判別される。大相撲の八百長は、実力に裏付けされていなければ、この八百長力士のグループには組み入れてもらえず、やはり真剣勝負(ガチンコ)で勝つ力が無ければ地位は保つことはできないとされている。横綱・大関にしても、「この横綱・大関とガチンコで勝負しても勝てない。だったら星を売ってカネにしたほうがいい」と思わせる実力が無ければ地位は保てないとされている。関脇までは、ガチンコ力士でも、やはり横綱・大関に上がると地位に見合った成績を上げなければいけないプレッシャーからか、八百長に手を染めてしまう力士もいる。大相撲では、どんな強い力士でも取りこぼしというものが存在し、とくに負ける事がニュースになってしまう横綱・大関はより確実に勝利を重ねるために八百長で白星を保障しておくという意味合いが強く、横綱・千代の富士などはその典型だったと言われている。そうすることによって強い横綱に取りこぼしが無くなりより一層確実に好成績をあげられると言うわけである。平幕力士の場合は横綱・大関陣との対戦が多い、上位(三役~前頭5枚目)で星を売ったり、貸したりして番付が下がった翌場所に平幕下位(6枚目以下)で貸している星を返してもらい勝ち越して幕内力士としての地位を保つをいう手段が多くみられた。ただし、これもガチンコでしっかり何番か勝てる力がなければ勝ち越すことはできない。ガチンコで何番か勝つ実力が無ければ、例え八百長をしていても勝ち越すことはできず地位を下げていく事になってしまう。

ただし、八百長が横行していた15年~20年前の千代の富士全盛時代に比べると,現在の角界における八百長は少なくなったと言われている。それには生涯ガチンコを貫いて22回の優勝を果たした横綱・貴乃花(現貴乃花親方)の影響が大きいと言われている。最近、兄弟の確執問題で話題になった平成7年九州場所千秋楽の優勝決定戦、若乃花-貴乃花戦が八百長だったのかという議論は八百長ではなく、貴乃花親方が「やりにくかった」と回顧しているように「無気力相撲」の類に当るだろう。あの一番においてはあまりにも貴乃花のほうに「やりにくさ」「力が入っていない」というのがミエミエであり、八百長相撲の取組みというものは、一般のファンなどの素人にはわかりにくいようにする為に「熱戦」に見せかけるものであるために、ああいった一番は八百長とは言わないのである。無気力相撲と八百長相撲は意味合いが全く異なり、ガチンコ力士であっても自らの調子が悪かったり、相手に対して手心があったり、様々な状況からやりにくさがあれば無気力相撲になることもありえる。八百長相撲というのは金銭のやり取りから、あらかじめ予定調和された一番のことを意味する。こうした角界の八百長のシステム化は昭和30年代の初めから行われ始め、40年代に確立した

日本相撲協会は週刊ポストが国民栄誉賞まで受賞している横綱・千代の富士らなどの実名をあげての告発が20年に亘ったにも拘らず、告訴は1度しかしておらず、それも元大鳴戸親方の手記の一部分を告訴するという特殊な方法でしか告訴していない(後に不起訴)。また板井の記者会見や手記に関しても何ら法的手段に訴えておらず、そこをとらえて〈角界に八百長が存在している〉ということは事実だと考える者もいる。

ただし好角家の中には、相撲は本来、五穀豊穣を願う儀式が起源になっており、歌舞伎や能楽と同じように伝統芸能でもあり、他のプロスポーツなどとは違ったものである故、八百長は角界の必要悪でもあるという意見もある。要出典

脚注

  1. 競技者もしくはチームが、故意に試合に敗れる、または敗れるために策を用いるなどの行為を行うこと。

関連書籍

  • 元大鳴戸親方『八百長―相撲協会一刀両断』鹿砦社 ISBN 4-846-30141-9
  • 板井圭介『中盆―私が見続けた国技・大相撲の“深奥”』鹿砦社 ISBN 4-093-79546-0

関連項目

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