ボクシングにおける死亡事故

提供: Yourpedia
2013年3月8日 (金) 23:16時点におけるAk (トーク | 投稿記録)による版 (日本関連の事例)

移動: 案内検索

ボクシングにおける死亡事故では、おもにボクシングの練習・試合に起因して競技者が深刻な障害を負ったり、死亡に至る事故について述べる。

概説

格闘技試合においては必ずしも負けた側が死亡に至るとも限らず、試合の勝者が死亡に至る場合もある。試合以外でも、スパーリングなどが原因で練習中、練習後に死亡する場合などもある。

しかし一度試合行為において脳挫傷脳出血など頭部・頸部の受傷に至った場合、予後問題ないとしても引退は免れず事実上の選手生命の終了に等しい(日本では赤井英和の例が広く知られる)。

通常、スポーツで競技の最中に競技者が引退を余儀なくされるような負傷をした場合は重大な事故であると言えるが、ボクシングでは脳挫傷など重体患者の発生自体が重大な事故として大きく報道されることは無い。

ボクシングは相手の頭部を狙って殴る競技であるが、頭部に衝撃が加わることにより殴られた者が脳出血で死亡する事故が頻発している。試合中に死亡に至る場合もあれば、KO、判定如何にかかわらず試合を終えた後に意識を失い、死亡に至る例も多い。ほとんどのコミッションではボクサーへ試合前後の検査を実施しているものの、直接的な予防は困難を極める。アメリカ合衆国の各州のコミッションでも、幾度と無く安全面での改革が行われているが死亡事故は現在も続いている。

ヘッドギアを装着して行うアマチュアボクシングやスパーリングは安全であると思われがちだが、ヘッドギアは擦り傷・切り傷・腫れを防ぐためのものであり、打撃から脳震盪や脳挫傷を防ぐためのものではない。

今日、マスコミなどで事後に報道されるプロボクシングの試合での死亡事故以外にも練習中のスパーリングや、アマチュアの試合でも死亡事故は世界的に発生している。また、直接的にどの試合が原因か分からなくとも、試合行為による蓄積的な悪影響で最終的にパンチドランカーになったり、失明など深刻な障害を持つに至ることもある。

多くの場合、死亡事故へ至るまでの試合展開、過程に共通点が存在する。詳細は原因に対する指摘にて後述。

団体システムへの影響

1741年、英国タイトルマッチでジャック・ブロートンに敗れたジョージ・スティーヴンソンが数週間後に死亡[1]。ブロートンはベアナックル・ファイトの普及にルールが必要として、1743年にブロートン・コードを発表した。これは噛みつき、投げ飛ばしなどを禁じ、ダウンを喫した選手は30秒以内に中央の所定の位置に立てなければ負けと定めた他、採点方法、賞金の分配(勝者と敗者が2:1で配分)などを初めて明文化したものであった。また、ブロートンは指導を受けたがる貴族たちの負傷予防として現在のグローブの原型となるマフラーという防具を発案している[2]

1962年3月24日、アメリカ・ニューヨークで行われた世界ウェルター級タイトルマッチでエミール・グリフィスに12ラウンドKO負けとなった王者ベニー・パレットが4月3日に死亡した。パレットは当時の3本ロープの間から半身を外へ出した格好で、剥き出しの鉄柱でしかなかった当時のコーナーポストとグリフィスのパンチに挟まれるようにして衝撃を受けており、これが直接のダメージを招いた原因とされた。世界王者として最初の死亡事故であった。この後、コーナーポストにはビニールカバーを施すことが義務付けられ、リングの3本ロープを4本ロープに増やすための指導が行われた[3]

1982年11月13日、アメリカ・ラスベガスで行われたWBA世界ライト級タイトルマッチで王者レイ・マンシーニに挑み、14ラウンドTKO負けを喫した金得九が試合後に倒れて脳死の診断を受け、4日後の11月17日に生命維持装置を外されて死亡した。金得九の死から3か月後には金得九の実母が自殺し、さらに翌年の7月には当該試合を裁いたレフェリーリチャード・グリーネまで自殺してしまう。それらをマスコミが大々的に報道し一連の事柄が全米で社会的な注目を浴びたことなどが、1983年にWBCが世界戦を15ラウンド制から12ラウンド制へと変更する契機になった[3]。その後、WBCに追随する形で1987年にWBAが変更、以下IBFなどの世界王座認定団体も世界戦を12ラウンド制に変更した。

勝者の受傷例

1996年4月3日、日本の大阪で行われた安野一也と中島徹也のフェザー級8回戦で、判定勝ちした中島が試合後意識不明の重体となる。その後中島の意識は戻らず、2001年12月に死亡した。

2006年3月18日、アメリカのエヴァンズビルで行われたケビン・ペイン(en)とライアン・マラルドのウェルター級8回戦で判定2-1で勝利したペインがリング上から担架で病院へ搬送され、翌日に死亡。病院の検死官代表のアーニー・グローブスは外傷性脳出血が死因だと述べた。その後、ペインは試合前に周囲の人間に頭痛を訴えていたかもしれないが、コミッションドクターには一切の異変も告げなかったということが報告された[4]

2007年12月25日崔堯森とヘリ・アモルのWBOインターコンチネンタルフライ級タイトルマッチ12回戦で判定勝ちした崔が試合後意識不明の重体となる。2008年1月2日に脳死宣告をされ、翌1月3日に家族の要望で生命維持装置が外され死亡した。

フィクションの世界では、人気ボクシング漫画のあしたのジョーで、主人公・矢吹丈と宿命のライバルである力石徹との戦いで、勝者の力石が試合中に丈のパンチで倒れた際、リングロープに後頭部を強打したことで試合後に死亡したエピソードが有名である。実在の人物ではないにもかかわらず、実際にファンが集まり力石の葬儀が行われた。

原因に対する指摘

float

通念的には、階級(体格、体重)とパンチの威力は比例関係にあると考えられている。階級が重くなるほど打撃の直撃がダウンや決着に繋がる割合が高くなり、逆に階級が軽くなるほど直撃の決定力は低下し、結果としてより多くのパンチを浴び続けることが、結果的に頭部への負担を増大させる、という見方が存在する。

加えて、軽量級、中量級は重量級に比して明確にパンチの回転力で勝りパンチが相手に命中する回数が多くなる(例えば、世界戦においてラウンド中500発以上の有効打が記録されているのは全て70kg未満の試合であり、400発以上の有効打が記録されている試合も、20試合中15試合が70kg未満の試合である[5])。しかし、パンチによる頭部への影響は打つ側と打たれる側の要素が複合するため死亡事故の要因を特定するのは不可能だとする見方も多い。

また、日本では1995年1月10日より健康管理面に配慮する目的で、試合数時間前の当日計量から前日計量へと変更になったが、これ以降に死亡事故が急増していることから、前日計量実施でより無理な減量が可能になったことや、計量から試合までの時間が長くジム側が出場選手を監視できない故、計量後の暴飲暴食(アルコールの摂取も)をコントロールできないことも一因ではないかとの指摘もある。

序盤でのKOでの早期の決着ではなく、中盤や終盤まで多数のパンチを頭部に浴び続けた結果として起こるとされている。

防止策の検討

試合時間の短縮

女子ボクシングの試合や一部興行の試合で行われているように1ラウンドの時間を通常の3分間よりも短い、アマチュアボクシングと同じ2分間にすることで試合時間の短縮を図り、頭部への負担を低減する試合形式も死亡事故の可能性を減少させる方法のひとつである。しかし世界的には未だラウンド2分間の試合は広く行われているとは言えず、日本ボクシングコミッション(JBC)が統括する日本においても死亡事故による犠牲者や脳挫傷などの重体に至る選手が絶えない中、現在もプロボクシングの公式戦は全てラウンド3分間で行われている。

スパーリング方法の見直し

頭部を強打するようなスパーリングでは、ヘッドギアをつけていても死亡事故の可能性は試合と同等に存在する。スパーリングや試合行為などで頭部に打撃を被った後は、頭部に負担をかける行為を控え休息を取ることが望ましい。悪例としては練習の一環としてスパーリングを行い頭部に打撃を被った直後にサンドバッグを殴るなどの練習をした場合、スパーリングでの負担に加え、バッグを殴った際に発生する反動衝撃などの負荷が頭部にかかることにより、追加的に脳への負荷を増大させる可能性が考えられる。

選手や監督者は日頃の練習などでも細心の注意を払うことが望ましい。

最も現実的かつ確実な死亡事故の防止法は、あらゆる点において選手が自主的に頭部へ負担をかける事自体を極力減らすことである(極論として頭部への攻撃禁止がある)。ボクサーにとっての究極的な死亡事故の防止法は極力試合を、ボクシングを控えることだが、ボクシングファンはボクサーに対しより多く試合をすることを望んでおり、また、ボクサーがボクシングにおける地位を向上させるには当然、より多くの試合で勝利し評価を高めなければならない。

試合数だけでなく試合時間についても同様の構図が存在する。長い時間試合を見たいというファンの心理、およびそれに迎合する興行的観点から、興行の構成の中核にあたるような選手や人気選手が4回戦や6回戦といった短いラウンド数の試合を行うことは敬遠される。今日、一定の経験や実績を積んだボクサーは10ラウンド制の10回戦試合を行うのが常であり人気選手同士の試合では、たとえノンタイトル戦でも12ラウンドで行われる場合もある。

このようにボクシングファンのボクシングへの向き合い方は死亡事故の防止努力からは対極に位置し、そうしたボクシングファンの要望を実現することで、プロボクシングビジネスが成り立っているのが現実である。

また、WBAなどの世界王座認定団体では世界タイトル戦、下部タイトル戦、次期挑戦者決定戦など自団体に関連した特定の12回戦の判定でジャッジの採点による勝敗結果が不適切であると判断した場合、両選手に再戦の指令を出す場合があるが、選手の競技努力とは無関係な、ジャッジの採点の間違いという外的な理由で、最も苛酷で長い12ラウンドの試合を選手に行わせることは、死亡事故防止の観点からいえば最悪の措置といえる。

日本における傾向と対策

傾向

谷諭, 大橋元一郎, 大槻穣治らによる Problems in health management of professional boxers in Japan では、全国規模のアンケートから以下の傾向が報告されている。このアンケートは、1999年12月時点で現役だったプロボクサーのうち、同年中に試合を行った選手2031名を対象に、それぞれが所属する全国238のジムを窓口として、2000年2月28日を提出期限として匿名での回答を求めたものである。このうち107のジムから回答があったが、4つのジムは期限を超えていたため、全国103のジムに所属する659名のプロボクサーから得られた632の有効回答をもとに分析結果が報告された。

回答者全体の平均では、ボクシングを始めたのは19.2歳(11歳から32歳まで)、平均62.7か月のキャリアがある。アマチュア歴を持つ選手は186名(29.4%)、平均6.5試合を経験し、平均17.7歳でボクシングを始めている。60名(23.0%)は階級を下げた経験があり、201名(77.0%)は階級を上げた経験がある。内訳は、A級ボクサー122名(19.5%)、B級ボクサー93名(14.9%)、C級ボクサー410名(65.6%、無回答7名)。日に1.9時間の練習を週に5.5日している [6]

表はアンケートの集計結果、一部は複数回答可として回答を求めた結果である。

表1 減量期間中に起こる症状
症状 回答数
疲れやすい 109
疲れきっている 68
立ちくらみや回転性のめまい 52
疲れている 19
発熱 19
集中力の欠如 16
能力の低下 13
吐き気 8
頭痛 8
イライラ感 6
不眠 5
喉の渇き 5
麻痺 5
その他 11

日常生活

試合に勝つために最も重要な要因は何かという質問には、概ね3種類の回答があった。まず心理的要因として165名(31.7%)が、精神的な強さ、ファイティングスピリット、セルフコントロール、精神力、自信などと回答。221名(42.5%)は実践的要因として、日々の練習、トレーニング方法、トレーナーの質と答えた。また116名(22.3%)は健康管理として、減量方法、体調管理、けがの予防と回答している。

負傷の初期段階でレフェリーやジャッジ、あるいはリングドクターが従来より早く試合を止める方針については、333名(64.0%)が賛成、166名(31.9%)は反対し、21名(4.0%)はどちらとも言えないとした(このアンケートでは、選手たちが自らの裁量で答えることを求められており、回答者は平均的な選手と比べて健康管理により高い関心をもっている可能性があることを論者は仮定している。)

試合前

試合前6.5日までに42.5ラウンドのスパーリングをする。96名の選手がスパーリング中に体調の悪化を感じ、24名は負傷、22名は急性もしくは鈍い頭痛、7名は吐き気、他にめまいと衰弱を各3名が回答している。208名は試合前の検診で37度以上の発熱があり、このうち174名が発熱の理由を回答。59名が脱水、49名が減量、28名が緊張、23名が風邪、8名が直前のトレーニングとしている(その他7名)。

88名の選手(14.2%)は上位ランクを得るために自らに減量を強いている。60%の選手は約1か月かけて減量し、減らす体重とその期間はほぼ比例している。平均すると29.5日にわたって約5.5kgを落とし、中には15kgの減量をしている選手もいた(この数字には階級による顕著な差は見られなかった)。減量法は各選手に委ねられ、ジムごとに決められた方法があるわけではない。ほとんどの選手はトレーニングの負荷を増やし、目標体重に達するまで徐々に食事の摂取量を減らしている。それでは不十分な時に水分摂取を制限し、発汗を促す。絶食し、水分も摂らない者はほとんどいなかった。67.7%の選手は減量でサウナを使った後、体調の悪化を経験している。前日計量をパスするとすぐに食事や水分を摂って試合当日までに平均42kg増量する。この間、ほとんどの選手は通常と同程度かやや少ない量の食事や水分を摂っている。増量による体調悪化は見られず、これは前日計量のメリットのひとつともなっている。

減量に伴う症状として、脱力感、極度の疲労、倦怠感、めまい、集中力の欠如、思考能力の低下などが見られた(表1参照)。これらの症状は、試合や練習での怪我を引き起こす有害な要因と見なされている。

表2 ボクシングに起因する症状
症状 試合翌日以降に残る 日常的にある
頭痛 64 36
吐き気 13 4
嘔吐 6 0
物が二重に見える 1 6
物が傾いて見える 9 2
耳鳴り 39 13
難聴 34 8
めまい 20 10
片手または片脚の衰え 13 2
手の震え 7 3
物忘れ 35 48
その他 11 6

約30%の選手は、試合前日の健康診断で体温が37度以上あった。その約半数は減量と脱水によるものと考えられるが、極度の緊張と脱水が発熱の原因となることがあり、一部はこの緊張によるものである。

試合中

試合中に水を飲む選手は204名(35%)、うち53名は体調の変化を感じているが、悪化したという回答はなく、20名は力が漲るまたは回復する、19名はリラックスする、7名は渇きがおさまる、3名はより速く動けるようになるとしている。

パンチには不快なダメージを受けるものとそうでないものがあり、どのようなパンチが不快かとの質問には、頭がぼんやりし、足元がふらつく(76.2%)、疲れがどっと出る(4.6%)、精神的に弱まる(27%)、足が弱まる(8.5%)、記憶や意識を一時的に失う(5.7%)と回答している。不快なパンチは多様な表現で説明されたが、回答は概ね、頭部を回転させる(58.5%)、頭を横方向に揺らす(38.7%)といったもので、12%は不明としている。これらの症状は脳震盪によって引き起こされると考えられる。KO負けはしばしば脳震盪を伴い、脳震盪の後遺症を経験した選手がさらにダメージを受けると、セカンドインパクト症候群として致命傷となる可能性が高い。

KO負けした339人の選手のうち、262名(77.3%)がワンパンチによるもの、72名(21.2%)は複数打によるものと回答。また、57名(16.8%)は意識を失い、94名(27.7%)に記憶障害が見られた。

試合後

280名(47.5%)はKO負けの後で、頭痛、吐き気、嘔吐、軽度の麻痺、耳鳴り、めまい、難聴など、脳震盪によって引き起こされる症状を訴えた(表2参照)。これらの症状は178名(30.2%)が試合の翌日以降にも残ったと言い、16名(2.7%)が試合後1週間以上残ったとしている。脳や聴覚器官へのダメージは深刻なものではなく一時的なものと見られ、記憶力は試合直後より、日常生活の中で悪化している選手が多い。99人は日常生活において常に症状があると回答している。KO負けの後で注意していることについては313名が回答し、187名が自宅で休養、106名が常に誰かを同伴する、104名がしばらくトレーニングを制限、39名が後日通院、69名が特に注意しない、4名がアルコール摂取を制限、2名が外出を制限としている。

表3 記憶を失っていた期間
期間 回答数
試合前のことを何も覚えていない 9
試合中のことを何も覚えていない 40
KOパンチを覚えていない 59
KOされた後のことを何も覚えていない 41
試合後のことを何も覚えていない 11

脳損傷の程度は、逆行性健忘症が起こる期間の幅と相関関係にある。9%ほどの選手は、試合前のことを何も覚えていないと回答している(表3参照)。

脳により多くのダメージを引き起こす回転加速度を伴う外力は、そうでない外力と比べて脳震盪を引き起こす傾向が強く、選手たちもそれが最大のダメージを引き起こすことを理解している。ヘッドギアの着用は回転加速度の効果を強めるため、この点ではダメージの回避に逆効果とされている。

対策

JBCによると日本のプロボクサーが試合中のダメージが原因で死亡したのは、1952年4月21日のJBC発足以降35名(2009年4月現在、※JBC管轄外の海外で死亡した親川昇は除く)。プロボクシングの公式戦以外では、高校、大学の部活動での練習や試合中に発生した死亡事故がしばしば報道される一方で、プロボクサーが脳挫傷などの重篤に至っても死亡しない限りは死亡事故として報告されないことが多く、また外国人招聘選手が帰国後に死亡した場合も同様に報告されない。

1977年には日本での死亡事故が多発、世界的にリングの安全性が見直されることになり、WBAはそれまで中量級で使用していた6オンスグローブを大きめの8オンスへ変更するようルールを改定した。(6オンスグローブはその後も使用されることがあったが、1990年代始めに安全面への配慮という目的からWBCで廃止され、数年のうちにWBAが追従、JBCは1996年から移行し、2001年8月1日にルールを改定した。)また偶然のバッティング規定を新設し、3R以内に続行不能となった場合は引き分けとし、4R以降はその時点の採点表によるものとした[7]

この後、1980年代には減少傾向にあったものの1990年代には再び急増し、1977年の試合によるものも含めて10名のプロボクサーが死亡した。1997年10月13日の日本スーパーフライ級王座決定戦での死亡事故を受け、同月末、JBCは緊急の健康管理委員会を開き、事故防止対策を協議した。

この健康管理委員会でまず争点となったのがスタンディングカウント制度で、WBA、WBCのルールではカウント8での試合続行により深刻な事態へ進行することを避けるため、すでに10年以上前に廃止されていた。日本でも試験的に廃止されたことがあったが、レフェリーからはストップのタイミング判断の際、観客の違和感以上に、ストップをかけられた側のボクサー・陣営から不満の訴えがあった場合のトラブルが懸念され、安全という観点からは逆効果との声もあり、スタンディングカウントをとるローカルルールが引き継がれていた。しかしJBCの小島茂事務局長(当時)がレフェリーを説得し、スタンディングカウント制度は1998年2月1日付で廃止されることが決まり、この日以降は選手控室にも告知された。加撃されたボクサーがロープに寄りかかり攻撃も防御もできない状態にあればレフェリーはダウンと裁定してカウントはせず、即座にTKOとして試合を停止することになった。

また、この1997年10月末の健康管理委員会では前日計量を当日計量へ戻すべきとの意見もあったが、再検討の結果、極力、世界と共通のルールとし、また体力回復に時間を長くとれるというメリットを重視して、既定通りの前日計量が続行された。ただし前日に正式な計量を行う他、統計をとるために便宜上行われていた当日計量を恒久的に実施することとなった[8]

2009年には、1月28日の59.5kg契約8回戦で開頭・開腹手術を要する事故、3月21日の日本ミニマム級王座決定戦で死亡事故が起きたことを受け、4月14日、JBCと日本プロボクシング協会の合同で健康管理委員会が開かれ、再発防止策としてMRI検査の実施など5項目がルール化を検討されることになった[9][10]。また、2010年2月19日の50.0kg契約8回戦での死亡事故を受け、同じく合同の健康管理委員会で再発防止策が協議されている[11]

日本関連の事例

日本関連で起こった事故には次のようなものがある[3]。タイトルマッチの記述においては煩雑になるのを避けるため、勝敗結果にかかわらず、対戦前の王者を「王者」として記載している。

float
JBC発足以前
  1. 1902年1月24日、横浜市でスパーリングを披露したアフリカ系アメリカ人のアーネスト・パドモアが、数時間後に足の冷たさと痺れを訴え、病院へ送られたが処置のしようがなく、午前1時半に死亡。検視の結果、スポーツ心臓によるものであった[12]。観客の目にはあまりにも緩慢なスパーリングだったという[13]
  2. 1930年8月29日、西宮市でフィリピン人選手ボビー・ウィルスに9RTKO負けした前日本ライト級王者小林信夫(帝拳)が翌月1日に死亡。日本関連選手で最初の死亡事故となった。
  3. 1940年11月13日、東京で日本大学の韓国人アマチュア選手が脳震盪を起こした後、死亡[14]
  4. 1944年3月29日、今井清(第一)が死亡。
  5. 1947年11月30日、小宮信雄(埼玉)が死亡。
  6. 1948年1月29日、ライト級8回戦に判定負けした小山省吾(日新)が同年3月16日に死亡。
JBC発足後

字下げのない行で行頭に番号を付した事故は、JBC発表の過去の件数に含まれているもの。アマチュア選手の他、他国のプロ選手や、日本のプロ選手のプロテスト中・スパーリング中の事故はカウントされていない。

  1. 1952年4月24日、寺田保(大星)が死亡。
  2. 1955年3月19日、名古屋市で10回戦に判定勝利した横井義春(松田)が肺炎と脳内出血により同月22日に死亡[13]
  3. 1958年2月4日、国本士成(東亜)が脳内出血により死亡[13]
  4. 1964年8月16日、東京でのプロ4戦目で6RKO負けした長谷川稔(田辺)が試合終了直後に倒れ、脳内出血により同月20日に死亡[13]
  5. 1966年8月15日、東京で8RKO負けした久保義実(新和)が脳内出血により、3日後に死亡[13]
    1. 1967年8月24日、全日本選手権でポイント負けしたアマチュア選手が病院へ運ばれて手術を受けた後、脳内出血で死亡[13]
    2. 1969年11月6日、前年度西日本ミドル級新人王の二宮盛一(大星)が、スパーリング中のダメージにより脳の外傷で死亡。ライスファイトは1969年3月30日に行われた札幌での6回戦(判定負け)であった[13]
    3. 1970年3月5日、プロテストで顎への右フックでダウンを喫した17歳の選手が起き上がれず、脳内出血により開頭手術を受けたが、翌日に死亡[15][16]
  6. 1973年1月26日、グアムでフィリピン人選手フレッド・ザヤスとのスーパーフェザー級10回戦に8RKO負けした直後に倒れた親川昇(野口)が翌日に死亡。リングドクターも神経外科医も理由が特定できなかった[17]。日本関連選手が国外試合で死亡したのは初めてであった。
  7. 1973年8月22日、渡辺人志(大川)が死亡。
  8. 1977年1月3日、木村孝仁(高橋)がデビュー戦で相手の右ストレートを顎に受けて頭から倒れ、立ち上がろうとしたが、かなわなかった。開頭手術を受けたが、意識を回復することなく死亡[13]
  9. 1977年1月28日、ムサシ後藤(熊本)がKO負けから意識を回復することなく、脳の外傷で死亡[13]
  10. 1977年7月19日、成田利彦(協栄河合)が試合後、意識を回復することなく脳内出血で死亡[13]
  11. 1977年8月20日、水野雅之(松田)が試合で意識を失い、昏睡状態のまま1996年5月10日に死亡[13]
  12. 1977年8月26日、大幸勝則(山田)が死亡。
  13. 1978年5月2日、東京で4回戦に2RKO勝利した大和克也(本庄)が翌月28日に死亡。
  14. 1978年10月13日、東京でライト級4回戦にKO負けした黒井俊明(ヨネクラ)が翌年8月18日に死亡。
  15. 1979年10月7日、内海修一(セキ)が死亡。
  16. 1981年8月4日、東京でのプロデビュー戦でフライ級4回戦に1RKO負けした浦山純人(角海老)が同月10日に死亡[13]
  17. 1982年10月19日、東京でスーパーバンタム級10回戦に9RKO負けした小林直樹(金子)が同月21日に死亡。
  18. 1984年1月7日、秋田市でライトフライ級10回戦に6RKO負けした木村功(センタースポーツ)が、脳の外傷により同月9日に死亡[13]
  19. 1986年5月9日、名古屋市でのプロデビュー戦で、フライ級4回戦の最終回に顔面への連打を受けてKO負けを喫した22歳の小林健二(角海老宝石)が、リング上で意識を失い、2日後に死亡。当時JBCの事務局長を務めていた小島茂によれば、前年度より脳の検診を実施するようになってから初の死亡事故であった[18]
  20. 1987年6月24日、東京でジュニアウェルター級4回戦で3回KO負けした21歳の小沢真尚(全日本パブリック)が数度の手術の後、8月10日に硬膜下血腫で死亡[19][13]
  21. 1990年6月14日、札幌市でバンタム級10回戦に10RKO負けした米坂淳(北海道)が試合後の控室で意識を失い、4日後に脳挫傷で死亡[20]。対戦相手は後のWBC世界バンタム級王者薬師寺保栄であった。
  22. 1991年12月1日、名古屋市でのジュニアフェザー級10回戦にタオル投入での10RTKO負けを喫した勝又ミノル(高村)は歩いてリングを降りたが、控え室で意識を失った。脳の外傷で緊急手術を受けたものの昏睡状態に陥り、翌日に死亡[21][22][13]
    1. 1992年5月16日、高校生のアマチュア選手がトーナメントの試合終了時にコーナーで倒れ、脳の外傷で死亡[13]
  23. 1992年12月19日、大阪でライト級8回戦に7RKO負けした23歳の浜川泰治(アポロ)が意識を失い、脳の外傷により意識を回復することなく翌月(1993年1月)7日に死亡[22][23][13]
  24. 1995年9月5日、東京での日本バンタム級タイトルマッチにて王者川益設男に判定負けしたグレート金山(ワタナベ)は試合後に気分が悪いと訴え、控え室で失神した。同月9日に急性硬膜下血腫で死亡[13]。日本タイトルマッチ史上初の死亡事故となった。金山は同年2月28日、王者として川益の挑戦を受け、10回判定負けで王座陥落。しかし、その判定結果が物議を醸し、JBCは川益に対し再戦を命じていた。その再戦で起こった事故である。
  25. 1995年12月12日、スーパーライト級でTKO負けして1週間昏睡状態にあった26歳の伊藤光幸(秋田松本)が脳内出血で死亡[24]。この事故により日本ボクシングコミッションは毎年の脳検査とKO負け後の出場禁止期間延長などの予防策をとることになった[13]
  26. 1996年4月3日、大阪でフェザー級8回戦に判定勝利した中島徹也(ハラダ)が昏睡状態に陥り、意識の戻らないまま5年後の2001年12月2日に死亡。
  27. 1996年7月21日、鈴木敦(上滝)が死亡。
  28. 1997年2月10日、東京でスーパーライト級8回戦に判定引分となった24歳の平沼浩幸(松戸平沼)が控え室で倒れ、昏睡状態にあったが、脳内出血のため、同月24日に死亡[25]
  29. 1997年2月24日、東京でスーパーバンタム級8回戦に8RKO負けした都田俊宏(協栄)が2005年10月に死亡。
  30. 1997年10月13日、東京で日本スーパーフライ級王座決定戦に7RKO負けした大雅アキラ(協栄)が同月19日に死亡。
  31. 1998年10月12日、東京でスーパーバンタム級10回戦に9RKO負けした28歳の片桐賢(極東)が、開頭手術を受けたが昏睡状態に陥り、同月27日に死亡[26]
    1. 2000年1月16日、17歳の高校生アマチュア選手が試合中に2度ダウンした後、猛攻撃を受けて意識を失って倒れ、病院に運ばれたが、脳の外傷により8日後に死亡。両親は91億円の損害賠償を求める訴訟を起こしたが、新潟地裁に請求を棄却する判決を言い渡された[27]
    2. 2001年10月24日、福岡県久留米大学のアマチュア選手がスパーリング中に急性硬膜下血腫となり翌月14日に死亡。
  32. 2002年3月24日、東京でのフライ級6回戦に判定負けした伊礼喜洋(八王子中屋)が試合後の控え室で倒れ、開頭手術を受けたが翌月9日に死亡[13]
    1. 2002年12月9日、東京でバンタム級8回戦に6RKO負けしたタイ人選手ヨードシン・チュワタナが帰国後試合4日後に昏睡状態になり、2日後にバンコクの病院で死亡。
    2. 2004年1月22日、埼玉で16歳の高校生アマチュア選手がスパーリング中に、脳内出血で死亡[27]
  33. 2004年3月15日、東京でのスーパーバンタム級10回戦に0-2で判定負けした24歳の能登斉尚(フラッシュ赤羽)が翌日軽い頭痛を訴えて入院、安定していた容体が22日未明に急変し、硬膜下血腫で緊急手術を受けた後は意識不明のまま翌月2日に死亡。試合後のコミッションドクターの検診では異常は認められなかった[28]
  34. 2005年4月3日、大阪で日本スーパーフライ級王座の初防衛戦に10RKO負けした王者田中聖二(金沢)が同月15日に死亡。挑戦者は後のWBA世界スーパーフライ級王者名城信男であった。
  35. 2008年5月3日、東京でスーパーライト級6回戦に6RTKO負けした張飛(明石)が同月18日に死亡。
  36. 2009年3月21日、東京で日本ミニマム級王座決定戦に10RKO負けした辻昌建(帝拳)が同月24日に死亡。
    1. 2009年10月12日、福岡でスーパーバンタム級10回戦に10RTKO負けしたタイ人選手サーカイ・ジョッキージムが試合終了とともに意識を失い、急性硬膜下血腫により3時間後に福津市の病院で死亡。
  37. 2010年2月19日、東京でフライ級8回戦に8RTKO負けした八巻裕一(野口)が急性硬膜下血腫により緊急手術を受けたが[29]、同月22日に死亡[30]

日本国外の死亡事故

米国における最初の死亡事故

1842年9月13日、ニューヨーク州ウエストチェスター郡のヘイスティングス・オン・ハドソンで[31]約2000人の観衆が見守る中、英国人のクリストファー・リリー (Christopher Lilly) とアイルランド人のトマス・マッコイ (Thomas McCoy) が[32][33]、119ラウンド[34][32][35]、2時間41分にわたって戦った[31][32][33][36]ライトヘビー級の試合とされるが[33]、リリーは23歳、140ポンドで、マッコイは20歳2か月、137ポンド(ともにスーパーライト級相当)。身長はリリーの方がマッコイよりも1インチ高かった[34]。この試合は1743年のブロートン・コードの下ではあまりにも頻繁に黙殺されていた髪を引っ張る行為、頭突き、目玉えぐり、膝蹴り、首絞めなどを明示的に禁じた、1838年のロンドン・プライズリング・ルールズの下で行われた[32]。自信のあったマッコイは、「勝利、さもなければ死」を意味する黒いハンカチをロープに結び付けていた[32][33]

試合は13時きっかりに開始された。マッコイは初回に左耳から血を流し、5回に口を打たれてダウンした時には、何らかの反則を訴えている。7回には唇と首が血で染まっていた。この回、リリーの左を腹に受けてマッコイはダウンし、立ち上がると何らかの反則を訴え、ジャッジは同意。レフェリーもこれを認めた。各ラウンドの詳細な経過を記した Life and Battles of Yankee Sullivan では「ここで試合は終わるべきだった」とされているが、マッコイ陣営は寛大にもマッコイの反則勝ちを拒否して、試合の続行を要求した。15回にマッコイは鼠径部のあたりを打たれて反則打を訴え、ジャッジは再び同意。この時もマッコイ陣営はアドバンテージは要らないと言って反則勝ちの権利を放棄している[34]。マッコイは15、16回までは優勢だったが[31][32]、次第に消耗し、20回にはパンチで唇をカットして血が流れ始める。度々投げられ、32回、49回とリリーの反則を訴えたが、冷静なリリーに対して闘志は衰えないばかりか入れ込み過ぎているほどで、63回にはセコンドからもっと抑えるように指示を受けている[34]

両者ともに重いパンチを当て、試合は完全に一方的に展開したわけではなかったが、70回にはマッコイの両目は黒く腫れ上がって左目は塞がり、頬は衝撃的な様相を呈し、額は青黒く、唇は信じ難い大きさに腫れ上がり、胸に血が流れ落ち、動きは弱々しく、息も絶え絶えで、身構えながらも喉から血の塊を吐き出そうとしていた。76回になると試合はより凄惨なものになり、観客は停止を求めて叫んだが、マッコイは毎回リングに出て行った[34][32]。84回から91回にかけては荒々しく突進しながらも朦朧として拳を握れなくなっていた[34]。86回には、リリーがほぼ無傷で入場時とほぼ変わらない状態であったのに対し、マッコイの両目は塞がり、鼻は折れて潰れ、鼻からも口からも夥しい血を流していたにも関わらず、両者のセコンドは試合を続行させた。リリーは毎回マッコイからダウンを奪い、マッコイの両目からも鼻・口からも血が噴き出すようになっていた[31]。89回には試合をプロモートしたヤンキー・サリバンらが、「死ぬまでやらせてどうする? マッコイはもう勝てない」と試合を止めようとしたが、マッコイのセコンドについていたヘンリー・シャンフロイドは「まだ始まったばかりだ」と拒否[34][32]。マッコイは自分の血で喉を詰まらせ、血の塊を吐き出しながら、続行を求めた[32]

107回には、マッコイは窒息感に苦しむように腫れた舌を突き出して口を開いていた[34]。しかし、80度以上もダウンを奪われながらも、118回が終わるとマッコイはセコンドに「手当してくれ。そうすればまだやれる」と言い、次の119回を戦った[34][32]。120回が始まろうとする時、マッコイは動くことができず、15分足らずのうちに死亡した[31]。この結果、リリーが勝利[34]。検視結果では、血が肺に流れ込んだことによる窒息死だった[32]。1791年の Delaware Gazette 紙などでは、トマス・ダニエルがジェームズ・スミスとのベアナックル・ファイトで命を落としたことが簡単に記されているが[37]、一般的にはこのリリー対マッコイ戦が、米国における死亡事故の最初の記録とされている[32][35][33][36]。18人の関係者が騒乱罪や過失致死罪で逮捕・起訴され[32]、その後ベアナックル・ファイト、懸賞試合への批判が高まることになった[36]

日本国外の事例

以下、代表的な例として、世界タイトルマッチで起こった死亡事故に次のようなものがある[3]。煩雑になるのを避けるため、勝敗結果にかかわらず、対戦前の王者を「王者」として記載している。この他、2005年4月2日にアメリカ・デンバーで行われた女子アマチュアの選手権大会では、3RKO負けしたベッキー・ザーレンテスが試合中に意識を失い、数時間後に死亡した。これは認可試合で女子ボクサーが死亡した最初の事故となった。

  • 1897年12月6日、ロンドンで行われた世界バンタム級タイトルマッチで王者ジミー・バリー(アメリカ)に20RKO負けしたウォルター・クルート(イギリス)が死亡。
  • 1947年6月24日、クリーブランドで行われた世界ウェルター級タイトルマッチで王者シュガー・レイ・ロビンソン(アメリカ)に8RTKO負けしたジミー・ドイル(アメリカ)が死亡。
  • 1962年3月24日、ニューヨークで行われた世界ウェルター級タイトルマッチでエミール・グリフィス(アメリカ領ヴァージン諸島)に12RKO負けした王者ベニー・パレット(キューバ)が上述の通り、同年4月3日に死亡。
  • 1963年3月21日、ロサンゼルスで行われた世界フェザー級タイトルマッチでシュガー・ラモス(キューバ)に10RTKO負けした王者デビー・ムーア(アメリカ)が2日後の3月23日に死亡。
  • 1980年9月19日、ロサンゼルスで行われたWBC世界バンタム級タイトルマッチで王者ルペ・ピントール(メキシコ)に12RKO負けした後、意識不明となったジョニー・オーエン(イギリス)が同年11月3日に死亡。
  • 1982年11月13日、ラスベガスで行われたWBA世界ライト級タイトルマッチで王者レイ・マンシーニ(アメリカ)に14RKO負けした金得九(韓国)が上述の通り、4日後の11月17日に死亡。
  • 1983年9月1日、ロサンゼルスで行われたWBC世界バンタム級王座決定戦(史上初の暫定王座決定戦)でアルベルト・ダビラ(アメリカ)に12RKO負けしたキコ・ベヒネス(メキシコ)が3日後の9月4日に死亡。
  • 1995年5月6日、ラスベガスで行われたWBC世界スーパーフェザー級タイトルマッチで王者ガブリエル・ルエラス(アメリカ)に11RTKO負けしたジミー・ガルシア(コロンビア)が開頭手術後も意識不明のまま、同年5月19日に生命維持装置を外されて死亡。
  • 1999年10月9日、ホセ・ルイス・バルブエナ(ベネズエラ)戦で10RTKO負けした元WBA世界スーパーバンタム級暫定王者カルロス・バレット(ベネズエラ)が、試合後に担架で運ばれ、同月12日死亡。
  • 2002年6月22日、ラスベガスで行われたWBO世界スーパーフライ級タイトルマッチでフェルナンド・モンティエル(メキシコ)に6RTKO負けした王者ペドロ・アルカサール(パナマ)が2日後の6月24日早朝に意識不明となり、この日の午後、病院で死亡。
  • 2005年9月17日、ラスベガスで行われたIBF世界ライト級タイトルマッチでヘスス・チャベス(メキシコ)に11RTKO負けした王者レバンダー・ジョンソン(アメリカ)が5日後の9月22日に死亡。
  • 2007年12月25日、韓国で行われたWBOインターコンチネンタルフライ級タイトルマッチで王者崔堯森(韓国=元WBC世界ライトフライ級王者)が挑戦者ヘリ・アモル(インドネシア)に12回判定勝ちするが、試合終了直後のリング上で意識不明となり、9日後の2008年1月3日に死亡。

脚注

  1. Richard Hoffer Five Famous Boxing-related Fatalities スポーツ・イラストレイテッド 2001年7月16日 (英語)
  2. ボクシングの歴史 日本ボクシングコミッション
  3. 3.0 3.1 3.2 3.3 死亡事故についての参考資料:
    「ボクシング百科全書 - 死亡事故」『日本ボクシング年鑑2005』 ボクシング・マガジン編集部編、日本ボクシングコミッション/日本プロボクシング協会協力、ベースボール・マガジン社、2005年4月30日発行 ISBN 4-583-03849-6、188頁。
  4. Kevin Payne - Boxrec Boxing Encyclopaedia
  5. Record Book CompuBox Online
  6. 谷諭, 大橋元一郎, 大槻穣治ほか(2001)プロボクシングにおけるパンチの影響 全国規模のアンケート調査より. 日本臨床スポーツ医学会誌9: pp. 413-416 (英語)
  7. 1977年の事故後の動向についての参考資料:
    芦沢清一 「特別読物 日本のリング変遷史〈III〉 昭和41年〜63年」『ワールド・ボクシング』7月号増刊、日本スポーツ出版社、1993年7月31日発行 共通雑誌コードT1009804071109 雑誌09804-7、128-129頁。
  8. 1997年の事故後の動向についての参考資料:
    芦沢清一 「スタンディングカウントの廃止と前日計量について」『ワールド・ボクシング』4月号増刊、日本スポーツ出版社、1998年4月10日発行 共通雑誌コードT1109804040751 雑誌09804-4、80-82頁。
  9. ボクサーの死、根絶へ本腰 王座戦の悲劇きっかけ JBC(1/2ページ)(2/2ページ) 朝日新聞 2009年7月1日閲覧
  10. JBC・JPBA合同健康管理委員会を開催 日本ボクシングコミッション 2009年4月14日
  11. JBC・JPBA合同健康管理委員会報告 日本ボクシングコミッション 2010年3月18日
  12. Fatal Prizefight – Yokohama Pugilist Died After Sparring With Jack Slavin The Morning Oregonian 1902年2月5日 p. 5 (英語)
  13. 13.00 13.01 13.02 13.03 13.04 13.05 13.06 13.07 13.08 13.09 13.10 13.11 13.12 13.13 13.14 13.15 13.16 13.17 13.18 13.19 Joseph Svinth Death under the Spotlight: The Manuel Velazquez Boxing Fatality Collection – The Data (pdf) Journal of Combative Sport 2011年 (英語)
  14. Joseph R. Svinth Fighting Spirit: An Introductory History of Korean Boxing, 1926-1945 Journal of Combative Sport 2001年 (英語)
  15. Japanese Fighter Critical After KO St. Petersburg Times 1970年3月9日 p. 2C (英語)
  16. Japanese Boxer Dies The Evening Independent 1970年3月9日 p. 3C (英語)
  17. Japanese Boxer Dies 18 Hours After Collapsing The Press-Courier 1973年1月28日 p. 20 (英語)
  18. Boxer dies The Times-News 1986年5月12日 p. 18 (英語)
  19. Japanese boxer dies Manila Standard 1987年8月10日 p. 12 (英語)
  20. 大池和幸 愚行、悲劇…引退も考えた 日刊スポーツ 2008年1月9日
  21. ロイター Japanese Boxer Dies of Brain Injury ロサンゼルス・タイムズ 1991年12月3日 (英語)
  22. 22.0 22.1 At a glance The Post and Courier 1993年1月12日 p. 6D(英語)
  23. Bowe-Gonzalez viewer killed; boxer in coma Manila Standard 1995年1月16日 p. 21 (英語)
  24. BOXE. Mort du Japonais Mitsuyuki Ito リベラシオン 1995年12月13日 (フランス語)
  25. McCall no peleó drogado El Nacional 1997年2月11日 (スペイン語)
  26. Boxer Dies Two Weeks After Knockout APnewsArchive.com 1998年10月27日 (英語)
  27. 27.0 27.1 Parents refused damages over schoolboy boxer's death Mainichi Daily News (AccessMyLibrary.com) 2004年3月12日 (英語)
  28. Noto dies from injury in March bout ジャパンタイムズ 2004年4月4日 (英語)
  29. ホールで死亡事故 八巻選手緊急手術 ボクシングニュース「Box-on!」 2010年2月20日閲覧
  30. 八巻裕一選手死亡 JBC設立後37例目の犠牲者 ボクシングニュース「Box-on!」 2010年2月23日閲覧
  31. 31.0 31.1 31.2 31.3 31.4 S. Andrus and Son Confessions, Trials, and Biographical Sketches of the Most Cold Blooded Murderers, who Have Been Executed in this Country from Its First Settlement Down to the Present Time... 1837年(1928年頃改訂版) pp. 411–412 (英語)
  32. 32.00 32.01 32.02 32.03 32.04 32.05 32.06 32.07 32.08 32.09 32.10 32.11 32.12 Elliott J. Gorn The Manly Art: bare-knuckle prize fighting in America 2012年 pp. 73–76 (英語)
  33. 33.0 33.1 33.2 33.3 33.4 Human Kinetics Sport in America: From Colonial Leisure to Celebrity Figures and Globalization, Volume 2 2010年 p. 62 (英語)
  34. 34.0 34.1 34.2 34.3 34.4 34.5 34.6 34.7 34.8 34.9 Life and Battles of Yankee Sullivan – Fatal prize fight between Lilly and M'Coy A. Winch 1854年 pp. 79–87(ラウンドごとの詳細説明あり) (英語)
  35. 35.0 35.1 Nigel Collins How do we reconcile ring deaths? ESPN.com 2013年1月17日 (英語)
  36. 36.0 36.1 36.2 森脇由美子 アメリカにおけるヒーロー像と都市労働者階級- 19世紀中葉のニューヨークを中心に- 人文論叢:三重大学人文学部文化学科研究紀要26 2009年 p. 137
  37. William H. Williams Slavery and Freedom in Delaware, 1639-1865 1999年 p. 22

外部リンク

Wikipedia-logo.svg このページはウィキペディア日本語版のコンテンツ・リング禍を利用して作成されています。変更履歴はこちらです。