読売新聞

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読売新聞は、株式会社読売新聞東京本社、株式会社読売新聞大阪本社及び株式会社読売新聞西部本社が発行する新聞である。2013年下半期の販売部数は朝刊が約987万部、夕刊が約333万部(日本ABC協会調べ)で、世界最多である(かつてはソ連共産党機関紙プラウダ)。

題号は、江戸時代瓦版を読みながら売っていた「読売」に由来する。

歴史[編集]

  • 1874年11月2日 合名会社日就社」から「讀賣新聞」創刊。初代社長は岐阜県出身の子安峻。創刊当時は漢字によみがなを振った画期的な庶民のための新聞だった。
  • 1897年1月1日 尾崎紅葉作の小説金色夜叉』が連載開始。
  • 1904年5月7日〜1905年9月29日 本紙直接購読者を対象に、電報料読者負担で重大事件の速報を電報で伝える「電報通信」サービスを行う。
  • 1917年12月1日 商号を「日就社」から「讀賣新聞社」に改称。
  • 1924年2月25日 関東大震災後の経営難から、前警視庁警務部長、後の衆議院議員正力松太郎が買収。正力の社長就任で今日に至る読売新聞発展の基礎を築いた。
  • 1925年11月15日 「よみうりラジオ版」新設(テレビラジオ欄=番組表の先駆け)。
  • 1931年11月25日 夕刊の発行を開始。
  • 1934年12月26日 大日本東京野球倶楽部(現:読売ジャイアンツ)創設。部数拡大に大きく貢献する。
  • 1942年8月5日 新聞統制により、報知新聞社を合併。「讀賣報知」に改題。
  • 1945年
  • 1946年
    • 5月1日 題号「讀賣新聞」に復帰。
    • 7月1日 現在の印南渓龍が書いた横書きの隷書体の物を使用している(それ以前は縦書きの楷書体であった)。
  • 1947年12月6日 読者投票による「日本十大ニュース」の募集を開始(海外版は1989年から開始)。
  • 1949年
    • 3月1日 朝刊コラム「編集手帖」スタート(1953年8月から「編集手帳」に改題。「編集手帖」以前のコラムのタイトルは「明窓」であった)。
    • 11月26日夕刊読売」創刊(夕刊が復活、1951年9月に朝夕刊セット制再開により読売本紙に統合)。
  • 1950年6月1日 読売新聞社が株式会社に改組。
  • 1951年 正力松太郎の公職追放解除。
  • 1952年11月25日 大阪市で「大阪讀賣新聞」創刊、西日本に進出。
  • 1955年1月1日 正力松太郎の命令により、原発導入を図るため大キャンペーンを展開開始
  • 1955年4月1日 英字新聞『ザ・デイリー読売』創刊。
  • 1959年5月1日 札幌市に北海道支社開設。現地印刷開始。
  • 1961年5月25日 富山県高岡市に北陸支社開設。現地印刷開始。
  • 1962年4月1日 読売日本交響楽団設立。
  • 1964年9月23日 北九州市に「読売新聞西部本社」設立。現地印刷開始。
  • 1966年6月29日 この日から7月2日まで行われたビートルズ日本公演を主催。
  • 1971年10月29日 読売新聞社、本社が銀座から千代田区大手町に移転。
  • 1975年3月25日 名古屋市で読売本体との姉妹提携紙として「中部讀賣新聞」創刊。創刊当初の数年間は中部版独自の縦組み題字であったが、その後他の本社と同じ横組みとなる。
  • 1977年 発行部数で朝日新聞を抜き、日本一となる。またソ連(現:ロシア)のプラウダなどを抜いて世界一の発行部数となる。
  • 1978年 ギネスブック(1978年版)に発行部数世界一であると記載される。
  • 1979年 渡邉恒雄(現読売新聞グループ本社会長)が論説委員長に就任。
  • 1980年 空白の一日事件読売ジャイアンツ長嶋茂雄監督解任に対する不買運動に遭う。
  • 1980年 宝塚市学童誘拐事件において、被害者の安全を考慮せずに報道協定を破りフライング報道を行う。兵庫県警記者クラブは3ヶ月間除名する処分に留めた[1]
  • 1982年4月1日 植田まさし作の4コマ漫画コボちゃん』が連載開始。
  • 1988年6月1日 中部読売新聞社が読売本体と合併し読売新聞中部本社となり、題号から「中部」が外れる。
  • 1989年12月1日 被疑者の呼び捨てをやめ、「容疑者」などの呼称を付ける。
  • 1994年
    • 5月 日本ABC協会の報告により、発行部数が1千万部を達成。
    • 11月3日 当時の社長である渡邉恒雄の下で、主要なマスコミで初めて「憲法改正試案」を発表して、憲法の改正を主張。憲法について再考する一つのきっかけになった。
  • 1995年6月16日 YOMIURI ONLINEを開設。
  • 1999年2月1日 経営難の中央公論社を買収し、中央公論新社を設立。
  • 2000年
    • 1月26日 全国の販売店の呼称を「読売センター」(略称・YC)に統一。これまでは東京と西部が「YSC」、大阪が「読売IC」の呼称だった。
    • 12月1日 紙面の文字拡大。「第二次文字拡大ブーム」に火を付ける。
  • 2002年
    • 1月1日 読売新聞の題字下に記載されていた、「THE YOMIURI SHIMBUN」のローマ字が廃止。
    • 7月1日 グループ再編。株式会社読売新聞社を株式会社読売新聞グループ本社(グループ持株会社)と株式会社読売新聞東京本社に、株式会社よみうりを株式会社読売新聞西部本社と株式会社読売巨人軍に会社分割。中部本社はよみうりから読売新聞東京本社に分割承継(中部支社に格下げ)。大阪本社(株式会社読売新聞大阪本社)も株式交換により読売新聞グループ本社の完全子会社に移行。
    • 10月17日 新聞社で唯一、日本オリンピック委員会のオフィシャルパートナーになる。
  • 2004年
    • 1月1日 読売新聞西部本社が北九州市から福岡市に移転。
    • 12月1日 朝刊連載の4コマ漫画『コボちゃん』が、日本の全国紙の4コマ漫画では初めてカラー化。
  • 2007年10月1日 読売新聞グループ本社・日本経済新聞社朝日新聞社の3社がインターネット分野による共同事業及び販売事業における業務提携、システム障害と災害時における新聞発行の相互援助協定を締結することを発表。
  • 2008年
    • 3月31日 紙面を大幅刷新。紙面の文字を拡大、14段組みから12段組みの「メガ文字」になる。1面下段のコラム「編集手帳」が横1列から縦2段に再編され、題字上に「THE YOMIURI SHIMBUN」のローマ字が復活する。夕刊題字のスクリーントーンが廃止[2]
    • 8月31日 大阪本社の「泉」のコーナーが終了。新コーナーへ引き継ぐ。
  • 2009年
    • 1月10日 創刊135周年記念企画として連日6回に渡り300の候補地を掲載し、4月中旬に「平成百景」を定めた。
    • 2月10日 1874年の創刊から現在に至るまでの紙面記事がインターネットで検索できる、日本初のオンラインデータベース「ヨミダス歴史館」のサービスが開始。
    • 2月27日 ウォールストリート・ジャーナルと編集、印刷、販売に関して提携することが発表され、2009年3月2日からアジア版の主な記事の見出しが日本語で夕刊2面に掲載され始めた。
    • 3月16日 創刊135周年記念企画としてコラムポケモンといっしょにおぼえよう! ことわざ大百科」を設け、子供の頃から新聞に慣れ親しむことわざ解説の連載開始。その後「熟語大辞典」、「慣用句全集」、「わかる故事成語」と逐次シリーズ化され、この日以降一面には、「探せ!ポケモン どこかのページにことわざ大百科」のタイトルと共に、ピカチュウのイラストが掲載されている。
    • 6月1日 島根県石見地方の発行が西部本社から大阪本社に変更し、島根県内では全県で大阪本社版の発売とした。
  • 2010年
    • 3月31日 東京本社(大手町)社屋建て替えを発表。地上30階・地下3階・延べ床面積約7万9800平方メートル・高さ180メートルの計画で、2014年に完成予定。現在の大手町社屋は2010年中に解体され、その間の仮社屋は東京都中央区銀座の日産自動車旧本社ビルを使用することとなった。
    • 10月1日 東京本社が千代田区大手町から中央区銀座の日産自動車旧本社ビルへの仮移転が完了。3年強の暫定期間だが、39年ぶりに銀座の本社が復活した。
  • 2011年
  • 2012年
  • 2013年
  • 2014年
    • 1月6日 東京本社(大手町)新社屋が完成し、中央区銀座の仮社屋(日産自動車旧本社ビル)から移転。

読売争議[編集]

読売争議は、ポツダム宣言受諾により連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)の間接統治下にあった敗戦直後の日本で発生した労働争議をさす。間接統治では総司令部から日本政府への命令が覚書、メモ、口述により伝えられた。口頭の場合は命令ではなく示唆であり「するべきではないか」という曖昧さにより伝えられた。

労働争議は労使契約を締結した使用者側と労働者側において労使関係に意見の一致を見ないとき生じる争いで労働組合法において認められた行為になる。敗戦直後の日本は勤労者はいても労働者は一人も存在しなかったし、法律も存在しなかったが現実には12月の時点で509組合38万人が組織され翌年に12,000組合368万人、組織率は41.5%へ膨張していた。

第1次争議[編集]

1945年9月13日、読売新聞社の中堅幹部45名が正力松太郎社長へ社内民主化に関する意見書を提出した。

「君の社にはどうしてあんなにたくさんの[[赤]]い社員がいたのか」と正力の巣鴨出所後、友人伊藤忠兵衛が質問したところ、正力は
「俺は勤勉に、真面目に社のため働く人間はどんな思想をもっていようと構わない方針だった。
赤には新聞記者として有能な人間が多いから、自然、赤い社員ができたのだろう」と答えている
「読売は[[藤原銀次郎]]や[[郷誠之助]]など財界のお歴々がカネをだして匿名組合でやっていた新聞でした。朝日や毎日に比べて記者が少なかったんです。
(中略)ほうぼうから記者を引き抜いて強化しました。それで左翼でもはいれたんですが監視するスパイ網はつくっていましたよ」

同年の10月23日、読売新聞社の鈴木東民編集委員他は、東京本社の講堂において全従業員大会を開催した。翌日、従業員代表は正力へ大会にて決定した「社内機構の民主化」「従業員の人格尊重と待遇改善」などを求めた要求事項を書面で提出した。正力は要求を拒否、また社内民主化運動の中心人物であった5名を社内に混乱を生じさせたとして退職を命じた。

正力は徹底した独裁者であり、火の玉のような男である。
この意見書を見た彼は果然、激怒をもって一蹴してしまった。
普通の対談でも怒号するように聞える彼の話ぶりであるから、怒った時のその語調や態度は容易に想像できる

この結果をうけて従業員側は闘争宣言を発し、鈴木東民を委員長とする闘争委員会を結成した。同月25日、闘争委員会は新聞の生産管理を宣言し、これに従わない編集局長、工務局長の現場よりの退出を求めている。紙面を決定する編集局、新聞を印刷する工務局はここに闘争委員会の管理下におかれた。読売新聞社内部において従業員組合が結成され世間の注目が集まると同時に政治的な色彩が濃くなっていく。

同年の10月10日には府中刑務所を出獄した日本共産党徳田球一、志賀義雄、金天海が熱狂の中で迎えられ、蔵前工業会館では日本全国から戦前の労働組合関係者170名あまりが集まり第一回労働組合再建懇談会が開かれている。22日には朝日新聞の従業員大会において村山長挙社長以下首脳陣が戦争責任をとり退陣すると発表した。

政府は11月2日に労働争議の調停に関する通牒を出して東京都に下駄が預けられた。都は第三者機関として『労働争議調停委員会』に仲裁を任せるために委員を選任したが、これが労働者側から資本家よりの反発を食らう。都は『調停委』の下にさらに『臨時委員会』を設立する。委員長に末弘厳太郎、労働者側の委員に徳田球一聴濤克巳鈴木茂三郎。資本側に鈴木文四郎品川主計田村幸策が選ばれた。12月2日、都庁会議室において世間の注目を浴び第一回の調停委員会が開かれたが双方のラッパの吹き合いが終わって本番となる、五回目の委員会を前にして正力松太郎がA級戦犯指名を受けて巣鴨プリズン収監が決定。経営側と従業員側は12月に調停案に合意した。

第2次争議[編集]

「民主読売」の成立は他のマスコミに大きな影響を与え、さらには記者クラブ改革や新しい新聞の発刊にまで波及した。しかし、1946年に入るとチャーチルの「鉄のカーテン」発言から冷戦が事実上開始され、GHQの方針に微妙な変化が起こり、これが「民主読売」の前途に暗雲をもたらした。

1946年6月、馬場はGHQの支援を取り付けた上で、鈴木たち共産党員6名に退社命令をだした。これがきっかけで争議が再発した。GHQ民間情報教育局(CIE)は第1次争議では従業員側を陰ながら応援していたが、この第2次争議では馬場ら経営側を応援した。従業員側はストライキで抵抗し、経営側の人間だった務台光雄はこれに対抗すべく警察担当となって、従業員排除のために警察やMPの出動を要請した。GHQの後ろ盾が急に無くなった従業員側は初めから不利であり、警察やMPともみ合いになって血まみれになりながら輪転機を守ったが、10月には鈴木ら労組の幹部だった37名が退社処分となって「民主読売」は崩壊した。

日本共産党などはこの争議を高く評価しているが、大勢的に見れば冷戦とそれによるGHQの方針転換に大きく振り回された争議と見ることもできる。また、馬場のイメージもあまり芳しくないが、馬場サイドから見ればGHQの方針転換に忠実に従ったまでのことであり、鈴木がそれを見抜けなかっただけだという見方もある。この争議の混乱が尾を引いて読売は社の体力が大きく疲弊。読売の民間ラジオ局「読売放送」の構想が挫折した(後にラジオ東京の前身の一つとなった)。

組織[編集]

社会部[編集]

読売新聞は、かつて立松和博本田靖春(東京本社)、黒田清大谷昭宏(大阪本社)といった辣腕記者を社会部に擁し「社会面に強い」と言われた。藤原肇『朝日と読売の火ダルマ時代』(国際評論社、1997年、57~59頁)によれば、この間の事情は、以下のようなものであったという。

競馬の予想記事や漫画欄を作ったりして、庶民向きの読みやすい紙面作りを進めたが、その推進役は編集局長になった柴田勝衛である。…この柴田が正力社長の下で起死回生を狙ったのが、日本各地に縄張りを持って君臨していた、素性の知れたヤクザの親分衆36人を選んだ企画であり、『人物の森』風の人物評伝に仕立てて連載すると、それが評判になり売り上げを大いに伸ばした。

連載が終わった年の正月のことである。紋付きハカマに正装した36人の親分衆が市電を止めて数寄屋橋の大通りに並び、読売新聞社の正面玄関に向かい土下座して一斉に頭を下げると、「柴田編集長にご挨拶したいので、読んで頂きたい」と申し入れた。…柴田は悠然と正面玄関に現れたのであり、その前にひれ伏した親分衆の代表が、「われわれのような日陰者を、こんな晴れがましい紙面で世間様に紹介くださり、光栄の至りに思う次第であります。このご恩は孫子末代まで忘れることはせず、…、われらの血筋が続く限り読売新聞の進展に死力を尽くすことを、ここで一同で誓約いたします」と言って、粛然と引き上げていったそうである。

田辺則雄発行名儀人(昭和27年頃)の話によると、読売新聞の社会部は大躍進を遂げ、親分衆の協力による物凄い特ダネ続きとなり、下町衆の支持を受け売り上げを伸ばした。…社会部長の田辺則雄も、読売の名物男で、戸籍にバツ印(×)が11も付いており、幾ら日本の新聞界に人材がキラ星でも、前科11犯はそうザラにある話ではない。…親分衆から一目を置かれる存在だったという。こんな伝統があることが大きく影響して、朝日を始め他社は暗黒街の取材が仲々出来ないのに、読売の社会部だけはスクープを記録し続け、新聞界では未だに一頭突出するのだそうだ

  

読売新聞大阪社会部はコラム「窓」、長期連載「戦争」を拠点に、社会的弱者の視点に立つ特集記事を数多く発し、黒田が社会部長になってのち社会部は“黒田軍団”という異名で呼ばれた。しかし1980年代に社内で渡邉恒雄らによる保守的思潮が主流になると圧力が高まり、1987年に黒田は退社に追い込まれた。渡邉に放逐された記者は数多いが、渡邉が直接手を下すことはなかった。渡邉の意を呈した周囲が該当する記者を左遷したり、仕事を取り上げたりして、退社に追い込むのが常であったと言われている。

この行動は読売新聞の論説体系の統一の観点からはやむを得ないものではあるが、一方で従来の「保守的なリベラル」というバランスに立脚した論説体系を捨てたともされる。

医療情報部[編集]

読売新聞は、他の全国紙にはない医療専門の取材機関「医療情報部」を持つ。同部長である前野一雄は、自身が脳動脈瘤、次いで甲状腺がんを患った経験を生かして「脳動脈瘤がある人の不安と選択」(ISBN 4-88320-246-1)、「甲状腺がんなんて怖くない」(ISBN 4-385-36190-8)を著している(後者は杉谷巌との共著)。また、「『健康常識』ウソ・ホント55」(ISBN 4-06-257370-9)で世間に伝わる「健康常識」に疑問を呈している。

紙面・論調・歴史[編集]

現在の論調は、概ね中道右派親米保守である。また日本の全国紙の中では論調が保守的な印象が持たれているという調査がある。大衆主義とも評される。

大垣藩士・子安峻佐賀藩士・本野盛亨柴田昌吉らの創業した読売新聞は、「文学新聞」として知られた。分かりやすい新聞、だれでも読める新聞を目指しただけでなく、西郷隆盛戦死の号外を自決した当日に出すなど早くから電信の導入をおこない、明治10年、発行部数は2万5千部を突破して、早くも日本最大の発行部数を誇った。明治中期以降、部数が衰えた読売新聞は、1919年白虹事件によって東京朝日を退社した松山忠二郎たちをむかえ、「大正デモクラシー梁山泊」として、プロレタリア文学などの発表の場となるとともに、政治・経済の硬派記事を加え、部数も3万部から13万部に急伸させた。1923年関東大震災の襲来にともない経営不振に陥った読売新聞は、1924年2月26日、警視庁刑事課長・警務部長を歴任し、虎の門事件で退官していた、まだ38歳の正力松太郎の手に委ねられる。

正力は、社務を統括する総務局長に警視庁特高課長の小林光政、販売部長には警視庁捜査係長の武藤哲哉、のちの読売巨人軍代表の品川主計など、警視庁人脈を中枢に入れて社内の労務支配をおこない、半沢玉城らを使って、大量のリストラをおこなった。松山忠二郎社長時代の幹部、十数人が正力に辞表を出す際、記者の1人が「正力君、ここはポリの来るところではない。君が社長になるなんて生意気だよ」「帰れ帰れ!」と言い、「何が生意気だ。オレは今日から社長だ。黙って聞け!」とやりかえした話は有名である。警官が新聞社の社長となったことは衝撃であった。そのため、正力が読売新聞にのりこんだ当日、朝日新聞夕刊の短評欄には、「読売新聞、遂に正力松太郎の手に墜つ。嗚呼」と書かれたほどである。正力による買収後、読売社内では「不正摘発」に名をかりた告発による恐怖政治が敷かれ、『読売新聞百年史』(読売新聞社、1974年)でも、「社長が社員を告訴するというこのやり方に、社の内外ともびっくりした」。正力は警視庁人脈で経営を固めただけではない。後の法務大臣、秦野章の証言によれば、

販売にも警視庁の刑事あがりを使ったというんだな。あの当時は、“オイコラ警察”の時代だから、刑事あがりにスゴまれりゃ、新聞をとらざるをえない。そうやって片っぱしから拡張していったんだって、正力さんは自慢そうによく言っていたな。

  

という。正力は、読売の「警察新聞化」をすすめる一方で、アメリカのハースト系新聞社のイエロージャーナリズムにならい、警察ネタとセンセーショナルな記事を結合させる独自の紙面作りを推し進めた。「読売のエロ・グロ」については、佐野真一『巨怪伝』によれば、1927年当時のことが次のように描かれている。

昭和2年、正力は社会面に早くもヌード写真を載せ、江湖の読者の度肝を抜いた。当時正力は、『新聞の生命はグロチックとエロテスクとセセーションだ』と胸をそらして語り、心ある人々から『正力という男は英語の使い方も知らないのか』と失笑を買った。

  

東京朝日と東京日日(後の毎日新聞)が幅を利かせる中で、正力は、両紙に対抗するため、まともな文章が書けるとして、「アカ」を大量に採用した。学生時代に左翼運動に参加したものは、戦前、獄中で転向しても、特高警察が仕事場に入りこんで嫌がらせをしたため、就職もままならない。「アカ」の弱みを握っている正力は、彼らを安くこき使った。報知時代、「納金不納同盟」に参加し、退職に追い込まれた後の読売新聞社長務台光雄も、「アカ」扱いされていたという。戦時中は、記者たちに吹き込まれた「読売魂」による命がけの取材によって「戦死」「絶命」「重症」が相次いだものの、「敵兵を斬って血しぶきが上がった写真」などを掲載し、センセーショナルな報道をおこなった。読売は、戦時中、『報知新聞』向け30万部の新聞用紙配給をもらうなど、戦時経済統制の恩恵をもっとも受けた新聞のひとつであった。読売は、急拡大したこともあって、「学閥のない」「派閥のない」バイタリティあふれる会社となった。ケンカ、バクチ、女郎買いは日常茶飯事。読売新聞の記者は、「変わり者が多いなかでも、またわけても読売新聞社会部というところには、豪傑、怪物、異物、ウジャウジャと集まる」「個性豊かな」「鉛筆ヤクザ」たちであった。このような読売の社風は、「読売ヨタモン、毎日マヤカシ、朝日エセ紳士」と呼ばれた。

読売新聞が現在の発行部数世界一になったのは、1951年以降の全国紙化によるところが大きい。全国紙である毎日・朝日両紙とは異なり、当時、読売新聞は関東一円のブロック紙にすぎなかった。正力松太郎は、毎日・朝日両紙に対して、日本テレビの設立への協力の見返りとして、大阪進出の見送りを約束していた。読売新聞の販売戦略を担当する務台光雄は、毎日新聞が新聞共販制から専売店の組織化に乗り出したことをとらえ、大阪への進出を断行したのである。1952年11月25日、大阪読売新聞が創刊。読売新聞は、まだ宝くじの1等が400万円だった時代に、最高500万円、総額1億~2億にものぼる「福引き」をおこない、新聞業界の常識を打ち破る熾烈な拡販競争をおこなったのである。このとき関東から送られた読売新聞の拡販団は、「人相の悪い暴力団ヤクザ風の若者」。読売新聞は、1人住まいの女性や主婦を集中的に狙い、「お届け物です」と声をかけてドアを空けさせた後、ヤクザ風に凄んで新聞を取らせる、勝手に半年契約のハンコを押す、クレームを入れると謝罪し、今度はもみ手戦術で新聞をとらせる等々、現在でも続いている拡販団による悪名高い新聞拡販方式の原型を作った。この方式は、現在では他紙に模倣されている。ただ、拡販や読者つなぎ止めで他紙と違うのは、プラチナ・ペーパーとされた巨人戦チケットを使うことである。大阪進出当時、甲子園球場阪神タイガース読売ジャイアンツの試合のチケットは、ほとんど読売新聞が引きうけ、阪神にとっては「読売さまさま」だった。巨人戦チケットを使った拡販は、読売の全国進出にあたって広く使われた。巨人軍が負けてはならない、強くならなければならないのは、読売拡販のためという。

戦後は、原四郎社会部長の下、読売「社会部王国」を築き、暗黒街の取材に関しては他紙の追随を許さなかった。「読売の在野精神」とよばれ、「庶民感覚」に根ざしたリベラルな論調を展開した。これは、絶対的な権力をもつ社長・社主の正力松太郎自身、自民党の政治家でありながら、社論に容喙することが少なく、また「販売の鬼」「販売の神様」と呼ばれた後任社長務台光雄も、新聞の心臓部である編集に口を差し挟まなかったことが大きい。ただ、読売新聞は、「読売と名がつけば白紙でも売ってみせる」(務台光雄)と豪語し、「“社主の魅力”でとっているのが40%、“巨人軍”でとっているのが20%、『記事が良いからとっている』というのは、わずか5%」(小島文夫専務・編集主幹)[3]と言うだけあって、「かつては教養ある日本人は読売新聞を読んだり、読んでいることを知られるのを恥じる」のが通例で、90年代までそのような傾向は残存していた。国立大学の教授では18%(朝日新聞が80%)、官僚の課長以上では25%(同75%)、上場企業の総務部長の30%(同55%)しか読売を読んでいなかったという。

1979年渡邉恒雄の論説委員長就任以降、紙面の編集方針や論調は右派保守主義となった。現在は基本的に自民党支持、改憲支持、財界(日本経団連)支持、新自由主義的経済改革支持である。その一方、「大連立構想」以降の社説等で見られるように民主党など中道左派・左派系の政治勢力や、左派系の考え方が強い労働組合、平和運動、反核・反原発運動などへの論調には総じて批判的なものが多い。ただし、民主党「も」政権に参加する「大連立」には積極的であるという指摘もある。そのためか、民主党については、方向が違うために批判する場合だけでなく、税制改革のように基本的な方向は現在の民主党主流派と一緒だが程度の違いがあるための批判というケースもある。その他に、主筆・渡邉恒雄が戦争経験者であるため、特に靖国神社(特に遊就館)における歴史認識には批判的で、小泉純一郎の首相在任中の靖国参拝には反対した。

政府の政策に関し、政策分野によっては(憲法改正問題、防衛政策など)、社の見解(社論)を明確に打ち出すのが特徴である。他方、不得意な政策分野については、基本的に官庁発表をベースに報道を行い、官庁発表に顕れていない問題意識を独自に掘り起こすような記事に紙面を割かないのも特徴である。また、個々の記者の見解が前面に出るような記事が少なく、社論に沿った記事がほとんどであることも特徴である。

5大全国紙中で唯一の人生相談コーナー「人生案内」を紙面に持っている。また教育面は早稲田大学と提携。

一方、全国紙では唯一、週刊誌を発行していない(週刊読売→読売ウイークリーがあったが2008年、販売不振で休刊)。

読売新聞の読者層について、木村雅文大阪商業大学JGSS研究センターの調査をもとに、「日経や朝日と比べて高卒(新制)の割合、ブルーカラーの割合、非正社員の割合が多い」としている。これら学歴、職業を反映して読者世帯の平均年収は、毎日と並んで、日経、朝日、産経に次ぐとしている。

全国紙への道[編集]

1952年(昭和27年)11月25日、大阪府大阪市北区野崎町に於いて「大阪讀賣新聞」の第一号を発刊した。東京の讀賣新聞社(現・読売新聞東京本社)とは別会社・別法人による「株式会社大阪讀賣新聞社」によって「讀賣新聞」が関西に進出し、全国紙としての体制を整えた。1953年4月1日付から、題字から「大阪」を外し、東京と同じ「讀賣新聞」の題号で発行。1971年から「読売新聞大阪本社」の呼称を使用。
1964年(昭和39年)9月23日、福岡県北九州市小倉北区砂津中津口(現・明和町1-11)に於いて「読売新聞」の西部版第一号を発刊。当時の読売新聞西部本社は、読売巨人軍の運営会社、読売興業株式会社(後に『株式会社よみうり』に商号変更)の一事業として発足した。
1975年3月25日に、読売新聞の東海3県に於いての発行としての形で、愛知県・岐阜県・三重県を対象地域とする『中部読売新聞』(題号:中部讀賣新聞、読み:ちゅうぶよみうりしんぶん)が創刊された。紙面は、東京で製作された紙面を一部共用し、読売本社と中部読売は編集・工務・販売・広告などの部門で互いに協力し合った。創刊号は、一般的な読売新聞の横並びの題字ではなく、中部読売独自による縦並びの題字[1]が使われた。

Jリーグのチーム表記問題[編集]

他メディアに対する姿勢[編集]

  • 自らが報道対象になることに関して、J-CASTの取材には「過去にJ-CASTニュースの取材方法に問題があったので、当面は取材にお答えしていません」と回答し、取材拒否する。
  • 2010年2月27日、総務大臣原口一博消防庁災害対策本部から津波に関する情報をTwitterに発信し、襲来が予想される津波への警戒を呼びかけた。これに対して読売新聞は、既存のメディアよりTwitterを優先するものだとして批判し、「今後、論議を呼ぶ可能性がある」と議論の火種を仄めかした[4]。ただし、当該記事において読売新聞は、誰が、何処に議論を呼ぶのか、一切明記していない。
  • 巨人の契約金の超過に関する問題で自らが運営する巨人軍及び読売グループの会長である渡辺恒雄に対する過度の取材を控えるよう文書にして申し入れた。なお、渡邊会長は過度の取材に対して「人権侵害」であると述べている。

注目を集めた報道・スクープ[編集]

  • 1953年新宿暗黒街の暴力追放などのキャンペーン報道により、第1回菊池寛賞を受賞した。
  • 1954年第五福竜丸の被爆事件の特ダネを報道。一躍、世界に知られるようになる。
  • 連載「物価戦争」による物価引き下げのキャンペーン報道により、1966年度日本新聞協会賞を受賞した。
  • 1968年、連載「昭和史の天皇」により、第16回菊池寛賞を受賞した。
  • 1973年8月8日に起こった金大中事件で、韓国KCIAが介在していたことをスクープし、1974年度日本新聞協会賞を受賞した。
  • 1977年弘前大学教授夫人殺人事件の再審に関する報道により、第25回菊池寛賞を受賞した。
  • 弘前大学教授夫人殺人事件に関する一連の報道により、1977年度日本新聞協会賞を受賞した。
  • 企画「医療をどうする」により、1978年度日本新聞協会賞を受賞した。
  • 在韓日本人妻の里帰りキャンペーン報道により、1986年度日本新聞協会賞を受賞した。
  • 1988年に発生した大阪府警察の巡査及び堺南署(現西堺警察署)署長以下の職員が組織ぐるみで主婦に拾得物横領の罪を着せようとした事件では、読売新聞記者がいち早く事件を耳にし、社会面に大きく特集記事を掲載したことから事件が発覚、主婦の冤罪が晴れた。この報道により、1988年度日本新聞協会賞を受賞した。
  • 1991年6月3日雲仙・普賢岳噴火の写真報道により、1991年度日本新聞協会賞を受賞した。
  • 企画「PKOぐったり“良識の歩み”」により、1992年度日本新聞協会賞を受賞した。
  • 1994年11月3日日本国憲法公布記念の日)、日本のマスコミとしては初めての問題提起である「憲法改正草案」を発表し、憲法改正論議のさきがけとなる。しかし48年前の1946年同月同日(日本国憲法公布の当日)に発行した『新憲法読本』で“新憲法をしっかりと身につけ新憲法を一貫して流れる民主主義的精神を自分たちのものとすることによって、われわれははじめて平和国家の国民としてたち直ることができるのである。”、憲法第9条について同書で“新しい時代の平和の典型として日本憲法を見るならば、ある程度の戦力保持の必要を漠然と感じる危惧感は、この憲法によって再生しようとする日本国民のヒューマニズムを踏みにじるものでしかない。それは単なる感傷の域を脱しない小市民的感情であろう”と述べていた事はあまり知られていない(つまり転向した)。
  • 日本の医療を取り上げた連載企画「医療ルネサンス」により、1994年度日本新聞協会賞を受賞した。
  • FIFAワールドカップ(W杯)2002年大会の招致活動に際して、「日韓共同開催」を社論に掲げて、「日本単独開催」にこだわる日本サッカー協会・W杯招致委員会を厳しく批判する論陣を張った。事実上の招致の妨害活動は、読売ヴェルディの名称をめぐる、Jリーグ首脳部との確執が原因とみられる。
  • 元日のトップに他紙のように連載特集記事ではなくスクープ記事を持ってくる。特に1995年での「山梨のオウム施設近くでサリン残留物を検出」では一連のオウム報道のきっかけを作った。
  • 日本国内で初めて、第三者の女性から卵子の提供を受けた体外受精をスクープし、1998年度日本新聞協会賞を受賞した。
  • ユーゴスラビア紛争コソボ紛争に関する一連の写真報道により、1999年度日本新聞協会賞を受賞した。
  • 2009年10月14日、『コボちゃん』の登場人物・田畑小穂(コボちゃん)の母・田畑早苗が妊娠。この話は、全国紙のみならずYahoo! Japanでも取り上げられた。
  • 2009年12月22日朝刊で、佐藤栄作リチャード・ニクソンによる日米核持ち込み問題を独占スクープした。この報道は2010年度日本新聞協会賞を受賞した。
  • 2011年7月21日付朝刊に東電OL殺人事件で別人のDNAが見つかったと報道。真犯人はネパール人男性ではない可能性があることをスクープ。2012年度日本新聞協会賞を受賞した。

疑義が持たれた報道・スキャンダル[編集]

  • 1911年1月19日、読売新聞は、小学校「日本歴史」教師用教科書の南北朝についての「容易にその間に正閏軽重を論ずべきにあらず」という記述を「大義名分を誤るもの」として社説で批判し、いわゆる南北朝正閏論問題の火ぶたを切った。南北朝正閏論争は、大逆事件判決直後にとりあげられたため、桂内閣を弾劾したい人々による「正義の旗」に利用され、2月23日、立憲国民党は大逆事件とあわせ閣僚問責決議案を提出。桂内閣は、決議案否決のため、政府系会派「中央倶楽部」に大浦兼武を通じて朝鮮銀行から1万円もの資金を渡したという。2月27日、南朝北朝のどちらを正統とするか、勅裁をあおぐことを閣議決定。結局、南朝正統の勅裁が下り、北朝は「偽朝」に、現在の皇室の祖先である北朝の天皇は、『大日本史』の例にならい、「○○院」とすることが定められた。戦前期の南朝を正統とする歴史教育の端緒を作っただけでなく、大逆事件とあわせて、予防策としての教育や社会政策、警察による取締強化を招いた。
  • 1925年にラジオ欄の創設、1932年に「地方版」である「読売江東版」の刊行など、時代を先取りする紙面作りを行う一方、1927年、ヌード写真を社会面に掲載し、「読売のエログロ主義」と呼ばれて批判も受けた。
  • 1930年代、毎日新聞朝日新聞などと同様、いわゆる「15年戦争」「大本営発表」に全面的に協力し、戦争を煽りたてる報道を行った。ただし当時、同業者からは「新聞記事は創作するのが練達堪能の記者とされ、やがて幹部に出世する大道」「外電と称して実は編集室の机上でニュースを作りあげる」」と見られており、1938年に捏造記事「揚子江上英米軍艦訪問記」で記者が処分されると驚きをもって迎えられた。また、営利主義的に親ナチ・ヒトラー礼賛の紙面作りを行い、1941年の独ソ戦開始直後から「独軍の電撃的勝利」「赤軍の全面的崩壊」とやったため、年末になると収拾できなくなった。その姿は同時代から「昭和年代のお笑い草」とされた。
  • 1948年、読売新聞は、昭電疑獄において、重要人物の召還を次々と予告して的中させる、連続特大スクープをおこない、「朝起きたら読売を見る、自分の名前が出ていないのを確認して朝日を読む」といわしめるほどの報道をおこなった。このセンセーショナルな紙面作りを可能にしたのは、記者としての訓練をほとんど受けていない、入社3年目の駆け出し記者、24歳の立松和博である。立松和博の父・懐清は、朴烈事件の予審判事。そのため立松は、検察幹部に可愛がられ、「木内曾益 最高検次長検事-馬場義続 東京高検 次席検事河井信太郎 東京地検主任検事」のラインに結びつくことに成功した。当時、GHQ内は、日本の占領統治をめぐって、右のウィロビー少将と左のケージスが対立・分裂しており、ウィロビー少将は自由党の吉田茂を支持していた。「木内-馬場-河井」の検察ラインは、芦田均内閣を潰そうとするGHQの政治的思惑にそって、昭電疑獄をでっちあげて、検察が政治を支配する時代をつくりあげたのである。河井信太郎は、馬場の黙認の下、捜査情報を読売新聞にリークし続けた。検察は、読売新聞一社のみにスクープを独占・継続させることを通して、強烈なインパクトを各界にあたえ、芦田連立政権を崩壊させることに成功した。ただ、立松は、読売の連続スクープに息巻く他社の記者たちから、河井がネタ元であることを悟らせないようにするため、細心の注意を払わざるをえず、睡眠不足と疲労からヒロポンを打つほど心身がボロボロになり、ほどなくして休職に追いこまれることになる。1957年の売春防止法の読売新聞の大誤報事件は、取材体制の出遅れにあせった景山与志雄社会部長が、昭電疑獄時のエース記者、立松を病欠から呼びもどしたことからはじまった、という。なお、司法記者クラブが検事の家に夜討ち朝駆けをして「ネタ」を物乞いする習慣は、昭電疑獄から始まり、造船疑獄で定着、ロッキード事件グラマン事件リクルート事件では、検察関係者による報道機関に対するリーク、すなわち検察リークが猛威を振るうことになる。検事たちが思いあがり、報道機関が検察批判をすると、ただちに「出入り禁止」にする慣行は、三田和夫によれば、読売新聞による昭電疑獄・造船疑獄報道が原因、と、読売新聞の行為を厳しく断罪している。
  • 1950年6月1日に電波三法が施行されたのに伴い、米国の資金と技術によって放送通信分野の国内基幹網を建設し、公共団体保安隊へ貸与する構想が浮上した事で騒動が起きた。1952年9月4日の読売新聞には、正力松太郎が中心的役割を担うマイクロ波中継構想が公表された。構想は二転三転したが、最終的に1954年暮れの参議院通信委員会決議により決着した。
    詳細は 正力マイクロ波事件 を参照
  • 1954年3月、第五福竜丸被曝以降、読売新聞は、社主にして自民党議員、正力松太郎の政治力拡大と原発利権掌握の思惑から、CIAとの協力をえて、原子力平和利用をすすめる原子力発電所建設のための積極的なキャンペーンをおこなった。ただ、日本の再軍備のため、独自に核兵器の開発能力を期待して原発を推進した正力とCIAの思惑は一致せず、CIAが協力するにとどまったことが、有馬哲夫『原発・正力・CIA―機密文書で読む昭和裏面史』により明らかにされている。ただ、このことは、東日本大震災における福島第一原子力発電所の水素爆発(福島第一原子力発電所事故)以降、あらためて問題とされ、2012年6月1日、ウォールストリート・ジャーナルは、読売新聞社主と原子力発電の不透明な関係を世界に伝えた。
  • 1957年10月18日、朝刊社会面トップ記事は、前年に成立した売春防止法をめぐって、反対運動を行っていた赤線(公認売春)組織から宇都宮徳馬・福田篤泰両代議士が収賄していた、というものであった。これは法務省刑事課長・河井信太郎のリークであったが、読売に情報を漏らす法務省関係者をあぶりだすため、検察が法務省に仕掛けたガセネタであった。読売新聞は、ただちに両代議士から事実無根と告訴され、執筆者の立松和博記者も逮捕された。当時、後に検事総長になる伊藤栄樹たち東京地検特捜部の検事たちは、前任の事務次官・岸本義広によって法務研修所の教官にとばされた河井信太郎が、馬場義続・法務事務次官によって法務省の刑事課長に呼びもどされ、やがては特捜部長に返り咲くのではないか、と憂えていた。とても法律家とは思えない、 造船疑獄における河井の強引な捜査手法に危惧の念を抱いたからにほかならない。岸本東京高検検事長の検事総長就任をめぐって、検察庁内の岸本派と馬場派の感情的対立は頂点に達した。岸本派の集う東京高検は、馬場たち赤レンガ派の昭電疑獄以来の読売新聞への河井のリーク疑惑を確認するため、あえて法務省にガセネタをあげたのである。河井信太郎は、法務省にあげられた容疑濃厚な5名の代議士の内、宇都宮徳馬福田篤泰のみ、イニシャルではなく実名での報道を立松に認めた。これは、当時もっとも汚い汚職とされた売春疑獄において、選挙に強くない東京2区の宇都宮、東京7区の福田を読売に名指しさせることで落選させて、大物新人として当時総選挙に出馬予定であった、藤山愛一郎外務大臣(東京2区)と、後の参議院議長安井謙の実兄、安井誠一郎東京都知事(東京7区)の当選を確実にし、 岸内閣のために便宜をはかることが狙いだった、とみられている。小島編集局長は、ニュースソースである河井信太郎を隠匿するため「検察庁筋」と答えたとものの、検事総長は両氏の容疑と情報漏れを完全否定。衆議院法務委員会の証人喚問の動きに対して、原四郎は他紙への根回しのうえ、誤報にもかかわらず、全紙をあげて東京高検攻撃に出た。結局、正力松太郎の調停もあって、12月18日、謝罪広告を出し、立松記者は懲戒休職処分となった。読売「社会部王国」終わりの始まり、とされるスキャンダルであった。
    詳細は 売春汚職事件 を参照
  • 1960年代、読売新聞は、北朝鮮を礼賛し、在日朝鮮人の北朝鮮帰還事業を積極的に推し進めた。1960年1月9日、読売新聞は、ピョンヤン発の特派員電で、「北朝鮮へ帰った日本人妻たち」「夢のような正月」という記事を掲載し、金日成首相に招かれて新年の宴会に出席してることや、正月用にお餅やおせち料理が特配される豊かな生活ぶりを伝え、日本人妻をふくめた在日朝鮮人の帰国熱をあおりたてた。そして、「夫の祖国に帰った日本人妻たちはみんな喜びと幸福にひたっています。新潟を出港するまでの不安や心配は、国あげての大歓迎にすっかり消しとんでしまったようです」「日本で貧困と、ときには屈辱の生活をおくっていた妻たちには夢のようなお正月。まだ日本で帰国をためらっている同じ境遇の人たちに『早く来るように伝えてほしい』と口をそろって語っている」「記者が見たすべての日本人妻が、朝鮮にきてほっと解放されたかのような安らぎをみせ」「みんなが希望にあふれて前方を見つめている」とのべ、多くの日本人の犠牲者をつくりだす原動力となった。読売新聞や産経新聞が在日朝鮮人とその日本人妻の北朝鮮帰国事業を煽りながら、社民党や朝日新聞を攻撃するだけで、自らの過去の言論をまったく反省しない姿に対しては、「目糞鼻糞を笑う」とまで厳しく批判されている。
  • 1966年12月24日、朝刊一面トップで「総選挙にかける」という特集記事が組まれ、「黒い霧の審判 歓迎されぬ首相の応援」「史上最低の不人気内閣」「(支持率)二五パーセントの不人気首相」と、渡辺恒雄記者による佐藤内閣への批判キャンペーンがおこなわれる。1961年以降、旧大蔵省関東財務局国有財産局であった「国有地の払い下げ」問題がこじれたためであった。跡地は日比谷通りに面した一等地のため、100社以上の応募が殺到。読売新聞は、49番目の応募だったが、「角さん、俺のとこに社屋の土地をよこせよ」(渡辺恒雄の田中角栄への直談判の時の発言)と、熾烈な政界工作を展開。1963年、読売への払い下げが決定された。ところが水野成夫産経新聞社長の巻き返しで、1966年夏、払い下げは白紙撤回。そのため1966年12月22日、業を煮やした務台光雄副社長は、読売新聞本社部長会の席上、「大手町の国有地を払い下げるとはっきり約束した。この約束が反故になったら日本の政治はもうおしまいだ。道義は地に墜ちてしまう。そうなったら内閣と一戦交えるしかない」と発言。12月24日朝刊記事は、国有地を読売にわたさない佐藤内閣へ、解散総選挙を利用した圧力であった。1966年12月27日、「黒い霧解散」で衆議院が解散される。12月29日、務台光雄と佐藤栄作は、首相官邸で会談をおこなう。読売新聞は、460万部の部数をバックにして、大手町の国有地を手に入れることに成功した。
  • 1969年10月8日、読売新聞と報知新聞は、西鉄の永易選手による暴力団と絡んだ八百長事件を報じ、「黒い霧事件」報道の先鞭をつけた。ところが、当時、読売ジャイアンツでは、コーチと暴力団の癒着が騒がれていた。読売ジャイアンツと暴力団の癒着という疑惑から世間の注意をそらすため、読売グループがこの事件を意図的にフレームアップした、と囁かれた。
  • 1974年から1975年にかけて、読売新聞は名人戦騒動をおこした。1961年から始まった旧・名人戦は、高度成長期に14年間も、2500万円前後に契約金が据えおかれた。そこで日本棋院は、1億円の契約金を提示した朝日新聞に名人戦主催権を移すことを表明。あわてた読売新聞は、「金目当て」「信義がない」と激しいバッシングをほぼ1年にわたって囲碁界全体に加え、裁判にまで発展した。1975年末、「最高棋士決定・棋聖戦」創設(1976年から開始)という形で落ち着いたものの、日本棋院のプロの卵である院生の数は激減。日本囲碁界の凋落と中国・韓国の台頭の一因となった。
  • 1978年、ドラフト会議前日に協定の隙を突いて、プロ野球セ・リーグの読売ジャイアンツと作新学院法政大学出身(のち阪神タイガース読売ジャイアンツ、解説者)の投手江川卓が入団契約を結んだ事件、いわゆる空白の一日。これは栃木選出の代議士である船田中議員らが関与したとも言われ、その経緯は「実録たかされ」(原作:江川卓、作画:本宮ひろ志)などに詳しい。この事件は読売の100年史においてもその記載をどうするかで論議されたが、結局掲載を見送られるなど、読売社内においても一種のタブー扱いになっていた。しかし、2005年日本テレビのスポーツ番組においてこの事件が取り上げられるなど、近年では内部での扱いが変化しつつある。
    詳細は 江川事件 を参照
  • 1986年12月5日夕刊では、「よみうり寸評」差し替え事件がおきた。「よみうり寸評」では、中曽根政権の売上税導入の決定に対して、「朝三暮四のもう一つの意味、詐術を用いて人を愚弄する点も、今回は当てはまる。(略)中曽根首相は七月の同日選のとき、『大型間接税は導入しない』と選挙民に約束した」と批判。渡邉恒雄主筆1985年6月就任)の展開した「売上税は中型間接税だから公約違反ではない」という売上税導入キャンペーンにそぐわぬためで、夕刊3版から急遽差し替えられた。「よみうり寸評」で1981年の日本記者クラブ賞を受賞した村尾清一記者は、1987年6月、出版局顧問に退いた。
  • 1987年11月29日、大韓航空機爆破事件では、「大韓航空機の墜落確認 タイ奥地」(11月30日夕刊)と報道した。墜落したのは、ベンガル湾上空であった。またこの事件では、11月30日、日本人の偽造旅券を使った人物が、中東のバーレーンで逮捕されそうになり服毒自殺をした。12月2日付夕刊で読売新聞は、「墜落大韓機自殺の男 宮本と同一人物か」と、自殺した男性が宮本明(李京雨)と同一人物と報じた。実際は金勝一で、他紙は「自殺男性 宮本と別人か」(同日毎日新聞夕刊)と報じていた。また翌3日、夕刊一面トップは、「「宮本」に逮捕状」の見出しが踊り、「3日、公文書偽造などの容疑で逮捕状をとった」と報道した。しかし、実際は、翌4日朝刊「「宮本」逮捕状請求は見送り」であり、完全な誤報であった。「韓国筋」「公安筋」に頼りすぎた結果の、誤報続出であった。
  • 1989年8月17日、夕刊一面トップで、東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件の容疑者「宮崎のアジトを発見」と報道した。記事ではアジトの様子が語られており、アジト付近の地図まで載っていたが捜査本部は全面否定し、全くの虚偽であることが判明。翌日には「おわび」を出したものの、「検証」記事に2ヶ月もかかり、その内容も具体性に欠けるものであった。この虚偽報道事件は、珊瑚損傷記事捏造(『朝日新聞』同年4月20日夕刊)やグリコ・森永事件の犯人取り調べ捏造(『毎日新聞』同年6月1日朝刊)とならぶ一大スキャンダルであったが、朝日新聞のサンゴ事件の影に隠れてほとんど話題にされず、読売新聞は処分の内容も、記事を書いた記者の名前も明らかにしなかった。
  • 1990年5月6日、子供の日翌日の朝刊社会面トップは、「雨の日の5日午前2時幼い2人置き去り 歩道とぼとぼ 保護 親の名言わず」と、「豊かな時代」の「子捨て」を報道し、「親の身勝手から依然として後を絶たない」と批判した。しかし実際は、父に黙って深夜に外出して保護されただけであり、記者の早とちりであった。ところが、訂正・お詫び記事を出さなかったどころか、「同署では"兄妹は大人たちに囲まれ、緊張感と警戒心で自宅がすぐ近くにあることさえ口に出せなかったのだろう"と同情している」(5月7日夕刊)と書き、読売新聞は誤報の責任を子供になすりつけた。
  • 1991年12月1日朝刊は、1990年5月におきた足利事件を報道した。読売は、朝日・毎日と異なり、「捜査本部は、これまでの調べで、男性が少女を扱ったビデオソフトや雑誌を愛好している」と、犯人をロリコンとする独自記事を掲載。翌日の朝刊でも、「ロリコン趣味の45歳」と見出しをつけ、「週末の『隠れ家』でロリコン趣味にひたる地味な男」「『週末の隠れ家』には、少女を扱ったアダルトビデオやポルノ雑誌があるといい、S容疑者の少女趣味を満たすアジトとなったらしい」と、あたかも宮崎勤事件かのようにセンセーショナルに煽りたてた。菅家容疑者の家宅捜索が12月3日におこなわれ、少女向けアダルトビデオは一切発見されなかったにも関わらず、続報として触れるにとどまり、一切謝罪しなかった。読売新聞は、2009年6月8日、菅家受刑囚の釈放後最初の単独インタビューを掲載した後になって、菅家容疑者に対する一連のロリコン報道について検証をおこなう(2009年6月26日)。その検証でによれば、「記事は、県警担当の記者が菅家さん逮捕の約1週間前、県警幹部から取材をした情報がもと」と警察リークであることを白状した。だが検証では、逮捕の日(12月2日)前日にロリコンと報道としていたにも関わらず、「別の複数の捜査幹部からも『逮捕できるだけの直接証拠ではないが、状況証拠の一つだ』との感触を得ていたことから、菅家さんの逮捕直後に記事にした」と『逮捕直後』の報道とするなど、事実関係を偽っていて、まったく検証になっていない。また「菅家さんについての予断や偏見を読者に与えた可能性はある」と『可能性』に矮小化するなど、真摯な反省・謝罪はまったくおこなわれていない。
  • 1994年3月25日、朝刊一面に「『グリコ・森永』に有力容疑者 大阪の男、一部供述」という見出しがおどった。内容は、「グループ8人か」「捜査本部一斉聴取へ」「江崎勝久グリコ社長誘拐に始まった一連の事件について関与を示唆するような供述」「末端の実行犯の可能性」「『しゃべれば、殺される』などと供述」「当時の行動を再現させるなど、確認作業を始めた」「時効まで残すところ二ヶ月余りという局面で最大のヤマバをむかえる」というもの。しかしその後進展はなく誤報であることが分かった。読売新聞は6月2日朝刊一面の「グリコ・森永事件『アベック襲撃』も時効」と伝えたことを受けての社会面記事、「悔しい時効」の一節にあわせて掲載した「大阪社会部『グリコ・森永事件』取材班」の署名入り記事「性急だった本紙報道」の中で「情報の検証に甘さがあったことは否めない」と釈明した[5]
  • 松本サリン事件において、6月28日付でマスメディアが報じた「薬剤の調合をまちがえた」「農薬混合」とされたガスの正体が、7月3日になって農薬ではなく調合では精製できないサリンと判明したものの、1994年7月15日夕刊では「薬剤使用をほのめかす 事件直後に会社員」と、会社員・河野義行を犯人視させる報道をおこなっている。なお読売新聞は1995年5月12日になってから河野に対し紙面で謝罪をおこなった。
  • 1995年2月14日、東京協和信用組合の前理事長・高橋治則が行った、元・中曽根派代議士山口敏夫のファミリー企業への法定限度額をこえた過剰融資と癒着を報じた記事は、編集局次長の業務命令で差し替えられた。12版・13版まで掲載された記事が14版(東京都内)で消えた背景には、旧・大野派の番記者として、山口敏夫や彼の父と親しかった渡邉恒雄社長(当時)への、編集局幹部たちの過剰な配慮があったとされた。
  • 1995年3月28日、地下鉄サリン事件の報道が過熱する中で、朝刊一面にトップに「入院の男 容疑者と断定」「小伝馬町駅 サリン車内に置く」「目撃情報で突き止める」「回復次第 取り調べ」と題した記事を掲載した。内容は、営団地下鉄日比谷線の電車の3両目車内に、サリン発生源である新聞包をおいたコート姿のサングラスの男は、サリンを浴びて入院している男と同一人物であることが、目撃情報によって突き止められた、というものである。しかし同日夕刊の続報では、社会面で「犯行とは無関係」と、朝刊特ダネを完全に否定した。容疑者と断定した人物についての謝罪・顛末説明はおこなわれていない。
  • 2001年から2002年にかけて、読売新聞は田中眞紀子外相更迭の旗振り役をになう。2001年6月2日付社説では、「機密費問題などに見られる外務官僚の閉鎖的体質を改めるのは大事なことだ。だが、いたずらに省内に混乱を生じ、外交を弱めるようでは本末転倒」と、田中外相の外交感覚を危惧。8月3日、4日付社説では、事務次官人事の混乱に基づき、田中外相の更迭を要求した。これは、「9・11」以後噴出する田中外相批判の先鞭となり、2002年1月29日の外相更迭につながっている。しかし2002年2月以降、機密費横領・水増し詐偽・組織的裏金作り・私的流用・「鈴木宗男疑惑」などが噴出すると、一転して「『政と官』の不明朗な関係が批判されているにもかかわらず、外務省幹部の意識が一向に改まっていない」(2002年2月24日付社説)と批判した。
  • 2002年4月、個人情報保護法案と人権擁護法案の国会審議入りに際して、日本新聞協会(会長・渡邉恒雄)は、表現・報道の自由を侵すとして廃案・出直しをもとめ、緊急声明まで出して反対姿勢を示していた。しかし読売新聞は、個人情報保護法については、メディアを含めて守らなければならない基本原則のうち「透明性の確保」を報道分野だけ除外する、などを柱とした「「報道の自由」と両立を/修正試案を本社提言」を5月12日付1面で掲載した。5月13日、小泉首相は、読売試案を参考にして修正協議に入るように山崎幹事長に指示。事前了解済みを疑わせる怪しい動きに、ほとんどのメディアがこの読売試案に反発。「特定の大新聞がよければ「青信号」を出せるような法案ではない」(『北海道新聞』)「読売案は<歴史の汚点>」(月刊『文藝春秋』)という批判をあびた。
  • 2002年9月18日、小泉訪朝による日朝首脳会談では、政治部長署名記事で、「北朝鮮軍事独裁国家である限り、経済協力などできるものではない」と啖呵をきった。しかし、1962年から1965年朴正煕政権との日韓国交回復交渉において、金鍾泌と日韓国交回復に反対していた党人派大野伴睦を引き合わせるなどして、軍事独裁国家に対する経済協力を実現させた黒子役は、読売新聞の渡邉恒雄記者(当時)であった。
  • 2003年3月、米英によるイラク戦争の開始にあたって、「湾岸戦争から十二年後の今もなお、大量破壊兵器の廃棄義務を履行していない」(3月9日社説)「大量破壊兵器を廃棄した、というフセイン政権の主張は、まだ立証されていない」(3月14日社説)「問題の本質は、イラクの大量破壊兵器がテロリストの手に渡る危険性をどう排除するか、である」(3月19日)など、イラク攻撃に賛成する論陣を張った。しかし2004年の米政府調査団による最終報告にて、大量破壊兵器がイラクに存在しなかったことが結論付けられた。
  • 2004年4月8日に起こったイラク日本人人質事件報道において読売新聞は、「三人の行動はテロリストの本質を甘く見た軽率なもの」(4月9日)「三人にもこうした事態を招いた責任がある」(4月10日)「人質の家族の言動にもいささか疑問がある…政府や関係機関などに大きな無用の負担をかけている。深刻に反省すべき問題である」(4月13日)等、人質とその家族を批判する「自己責任論」の火付け役となる。また4月19日付社会面では本人の帰国費用のほか、政府自治体関係者の活動費まで細かく算定して「自己負担論」を唱えた。だが、読売新聞は、サマワから記者を撤退させた際、「現地の治安が悪化し、外務省から航空自衛隊の輸送機で撤退を求められたため、利用」(4月15日)したとして、帰国費用や政府自治体関係者の活動費を「自己負担」したかどうか、未だ明らかにしていない。
  • 2004年5月26日、「アル・カーイダ幹部新潟潜伏」の見出しで記事を掲載。新潟で会社を経営しているバングラデシュ国籍の男性が、国際テロ組織アルカーイダと関連があるかのように報道した。警察の捜査の結果、男性はアルカーイダとは無関係と判明。男性は名誉を傷つけられたとして読売新聞東京本社に330万円の損害賠償を求めた。読売新聞側は「記事は警察当局の見方や方針を報じたもの」などと主張したが、1審、2審では読売新聞側の裏付け取材が不十分なうえ、記事の見出しは原告がアル・カーイダ幹部であると読者に誤解させるものと判断、原告の名誉棄損を認めた。2008年11月25日、最高裁は読売側の上告を棄却したため読売新聞に220万円の支払いを命じた2審判決が確定した。
  • 2005年デンマークの新聞「ユランス・ポステン」が、預言者ムハンマドに関する風刺画12枚を掲載、イスラム教徒の反発と抗議行動を招いた。ヨーロッパの新聞が、風刺画を転載するなど、「表現の自由」を訴える中で、2006年2月11日、読売新聞は、社説「風刺漫画騒動 『表現の自由』には責任が伴う」の中で、「風刺漫画という表現方法で、権力者や社会事象などを皮肉るのも、報道の範疇だろう。だが、それによって、敬虔な信仰心を傷つける権利までは表現の自由にはない」とし、これ以上信教の自由を侵してはならないという論陣をはって、どのような風刺画だったのかを一切明らかにしなかった。一見、「信教の自由」を重視したようにみえるが、実は、イスラム教徒の暴力やテロを極度に恐れた日本新聞協会日本雑誌協会による、風刺画を転載しない申し合わせに従っただけにすぎないことが明らかにされており、暴力への弱腰が厳しく批判された。
  • 2007年2月16日、アサヒビールサッポロホールディングスに経営統合を提案したとの報道がなされたが、両社ともにそのような事実は無いとして否定した。
  • 2007年6月2日、朝刊の連載小説「声をたずねて、君に」の同年5月28日掲載分について、挿絵が雑誌に掲載された写真を無断使用して描かれていたことが判明。即座に挿絵の掲載を中止し、他にも無断利用がないか調査した結果、7月2日には新たに35点に著作権侵害の疑いがあることが判明した。挿絵を担当したのはイラストレーターの中島恵可であり、写真の無断使用を認めている。使われた写真は高知新聞に掲載された32点と読売新聞に掲載された3点。高知新聞の掲載写真のうち、13点は共同通信、5点は時事通信、2点は主婦と生活社の配信であり、読売新聞社は各社に謝罪した。
  • 2007年11月、自民党民主党の間で大連立内閣を組む構想が持ち上がったが、読売新聞主筆の渡邉恒雄が仲介役として関与していたことが読売新聞以外の各紙報道により伝えられた。読売新聞自体も大連立を推進する報道を行い、構想頓挫について民主党を批判する報道を行った。
  • 2008年1月27日、石川県版に掲載されたある大学教員の学位をめぐる記事に対して、大学から「取材を受けていないのにコメントが掲載されている」という抗議があり調べたところ、金沢支局の記者が大学側に取材を行わず他紙の報道や大学、文部科学省の公表資料などを参考にして記事を執筆し、コメントも「土曜日で電話がつながらなかったから」という理由で捏造していたことが発覚。記者は休職1カ月の懲戒処分となった。
  • 2008年7月28日、青森県版に掲載された全日本吹奏楽コンクール青森県大会関連の記事で、掲載された八戸市代表楽団長の談話は“岩手県中部の地震被災地関連の記事が必要だ”と考えた青森支局の記者が、楽団名をネット検索して書いた捏造記事だった(コメントした団長は先任者で楽団とは既に無関係)。元団長本人からの指摘で発覚。談話部分は取り消され、執筆記者は休職3ヶ月、伊藤学支局長はけん責の懲戒処分となった。取消・謝罪は「青森版」のみに掲載された。なお、謝罪会見は行われず、執筆者も明らかにされていない。
  • 2009年3月以降、小沢一郎民主党代表(当時)をめぐる西松建設の疑惑西松建設事件では、検察リークにもとづき小沢批判を紙面で展開する一方、批判に対しては徹底した検察擁護をおこなった。2009年6月11日付けの朝刊社説では、「検察・報道批判は的外れだ」とタイトルをつけ、批判を一蹴。「小沢氏に持たれた疑惑の核心部分はもっと別のところにある。秘書が西松建設幹部と相談し、ダミーの政治団体からの献金額や割り振り先を決めていたとして、検察当局は悪質な献金元隠しと認定した」と断定したが、「ダミーの政治団体」であることは、西松事件の公判で否定された。もちろん、読売新聞は謝罪・訂正を一切していない。このような、一方的な報道姿勢については、元・読売新聞大阪社会部記者の大谷昭宏からも、「現状では小沢氏を罪に問える材料は何もなく、事件取材をしている現場記者たちは、無理筋だとわかっている。だから、これまでの犯罪報道なら『贈収賄』や『闇献金』という具体的な容疑で書くのが原則のところを、『政治とカネ』という漠然とした言葉にせざるを得ない。とにかく小沢氏に疑惑をかぶせて批判したというだけの恣意的な報道です。ある現場の記者は、『デスクなど上司からは小沢の悪い記事を書けと要求されるが、何も容疑がないのに何故悪く書けというのか。上司の感覚の方がズレている』と嘆いていた」と批判されている。
  • 2009年5月22日、20日付朝刊のスポーツ面に掲載された記事が中国新聞からの盗用であることが発覚。読売新聞大阪本社の運動部記者が容疑を認めたため、中国新聞社に謝罪した。後日、その他の盗用の有無を調査した結果、同じ記者が執筆した4月16日付朝刊のスポーツ面においても、中国新聞の2008年9月11日付のスポーツ面の記事と酷似した表現が数カ所発見され、最終的に8本の記事で盗用が確認された。
  • 2009年7月23日付け世論調査記事『「比例は民主」42%、優勢維持…読売世論調査』で、麻生太郎鳩山由紀夫のうち総理大臣にふさわしいのはどちらかを比較するグラフを掲載したが、菅原琢・東京大学特任准教授(先端科学技術研究センター、博士 (法学))は作為的に(基準軸を操作して)麻生の横ばい評に対し鳩山は大きく下落しているように表現したとし、「メディアの信頼性を毀損するもの」と批判している。
  • 2010年1月20日付夕刊では、「石川知裕衆院議員が東京地検特捜部の調べに、(中略)小沢氏に報告し、了承を得ていたと供述していることが、関係者の話でわかった」と、陸山会の虚偽記載について報告し了承を小沢氏から取った、ことを一面でスクープ。新聞・テレビによる「陸山会の『虚偽報告書』問題」報道をリードした。また2010年10月8日朝刊では、「ブレなかった石川供述」と題し、「小沢氏の公判では、石川議員が供述を翻すことも考えられる。その場合、保釈後も崩れなかった石川供述が再び意味を持つことになる」と、自社のスクープをもちあげ、検察審査会は、「強制起訴議決」の有力な根拠に石川供述を挙げるほどであった。だが、担当検事による「供述の捏造」が指摘され、東京地裁は石川供述の採用を却下。すると、2012年3月2日朝刊一面トップで、「地検が問題発覚の約1年前にこの事実を把握しながら、十分な調査を行わず放置していたことがわかった」と、今度は自社のスクープを否定するスクープを報道。読売新聞による2010年1月20日以降の「(虚偽記載について)小沢先生への報告・了承を求めた」の報道についての釈明・訂正・謝罪はなく、その余りのマッチポンプな報道ぶりで呆れさせた。
  • 2010年1月25日の夕刊で、民主党幹事長小沢一郎の政治資金管理団体陸山会による政治資金収支報告書に関する虚偽・不記載疑惑に関連し、「東京地検特捜部が押収した(元事務担当の)石川議員の手帳には、水谷建設の元幹部らが5000万円を渡したとする04年10月15日の欄に、授受の場所とされるホテル名が記されていた」という記事を掲載した。また、「特捜部はこの手帳の記載を、水谷建設の当時の幹部と面会したことを示す証拠として重視している」と続けた。しかし、実際に手帳に書かれていた数字は「04年」ではなく「05年」であり、さらにホテル名が記載されていた時期も4月だった。読売新聞は翌26日朝刊に訂正記事を掲載し、記事と見出しの当該部分を取り消した。
  • 2010年10月5日付朝刊社説は、検察審査会による小沢一郎強制起訴議決に賛成する論陣をはった。社説では、村木厚子をめぐる障害者郵便制度悪用事件で証拠を改竄した主任検事が、陸山会事件大久保元秘書の取り調べを担当し、調書を作成していたことに対してほとんど触れなかっただけではなく、「大阪地検特捜部検事による証拠改竄事件が検察の審査に与える影響も懸念されたが、『強制起訴』議決は改竄疑惑が発覚する前の先月14日だった。無責任な検察審批判は慎むべきだろう」と、改竄の発覚前の議決だから、検察審批判をしてはいけない、という論陣をはり、一部から批判された。
  • 2011年3月11日、東日本大震災による福島原発の被災に対して、原発推進派で多額の広告料を東京電力からもらっていた読売新聞は、放射能被害を少なく見せかける虚偽の報道を繰り返した。2011年3月16日には、「『黒い雨』『うがい薬飲め』のデマ」と題して、「放射性物質が雨に溶け込んで降ってくるというのは考えにくい」という原子力安全技術センターのコメントをのせるなど、放射性物質を含んだ雨水によるホットスポットによる被曝を否定をつづけた。ところが、2011年10月22日、千葉県柏市の私有地では、毎時57.5シーベルトの高い放射線量が検出され、10月23日、文科省は「原発事故が原因の雨水」とみとめることとなる。あろうことか、この事件について読売新聞は、2011年5月16日、「チェーンメールで放射能のデマ拡散」と題して、ホットスポットとはデマである、と以下のように断言していながら、読売新聞は今に至るまで、まったく訂正・謝罪をしていない。
福島第一原発の事故に関連して、千葉の柏市、松戸、流山と埼玉県の三郷の計4市で、飛び地のように放射線観測地が高くなる「ホットスポット」が発生しているといううわさがチェーンメールやツイッター、ネット掲示板で広がっている。…… 日本データ通信協会迷惑メール相談センターは「公的機関や報道機関などの根拠のある情報を確認してほしい」と注意を呼びかけている

  

なお、コメントを引用された原子力安全技術センターは、「読売さんが当時どのように取材したのかわからないため答えようがない」としており、東電との癒着だけでなく、取材方法、報道姿勢も問題視された[6]

  • 2011年5月20日の朝刊一面トップで、「東電社長に築舘氏」との見出しで、同社の清水正孝社長が退任し、常任監査役の築舘勝利が社長に就任すると報じたが、実際は西沢俊夫常務取締役が社長に就任した。この誤報については、「『ああ、新聞ももう絶望的だな』と思った」「社長にならない人を社長になるって書いちゃった。それもマヌケだけど、この期に及んで社長人事が1面トップ、特ダネだと思っているような人たちが新聞を作っている。それが何よりもマヌケなんです」(烏賀陽弘道)「ワカメや昆布からヨウ素131が10万ベクレル以上検出されたというほうが世界的大ニュースですからね。しかも食べているのは日本人なんです。でも新聞はそれをやらない。感覚がズレている」(上杉隆)「いや狂っていると言ったほうがいい」(烏賀陽弘道)などと、批判を浴びている。
  • 2011年9月2日野田内閣発足の際、同日付けの朝刊の1面トップで「財務・岡田氏」と乗せ、岡田克也が財務大臣に内定したと報じたが、実際には岡田は入閣せず、誤報となった。
  • 2011年10月20日、読売新聞東京本社編集局社会部次長恒次徹記者は、自由報道協会で行われた小沢一郎衆議院議員の記者会見において、事前に了解していたはずの「参加者は司会者の指示に従う」というルールを守らず、上杉隆岩上安身と衝突した取材態度が問題視された。恒次記者は、会見の席上、司会者が静止しているにも関わらず繰り返し質問をおこない、ゲストが答えている最中に声をかぶせて持論を展開。主催者側では、動画中継されている記者会見自体を妨害する行為と判断。そこでたしなめた所、恒次記者が「対話がしたいもので…」「小沢さんがきちんと答えない。私たちはこれまでも数々の会見に出席し、追及してきた」と反論したばかりか、公平性を重視し外部のフリーアナウンサーを司会に起用しているにも関わらず、「司会者の司会が不当な場合もある」と司会に責任転嫁したからである。主催者側の上杉と岩上は激怒。恒次徹社会部次長の「失笑」ものの「不規則発言」「露骨な決めつけ」もあって、ネットでは大いに話題となった。2011年10月27日、読売新聞は、検証記事「本紙記者へ激しい抗議 自由報道協会」で「ルール違反と過剰に騒ぐことは、会見者を追及から守ることにしかならない」と反論。寄付金で賄われ、ボランティアが運営する記者会見に出席しても、あたかもルールなど守る必要はない、という見解を示して、さらなる自由報道協会側の反発をまねいた。なお、この事件については、「読売新聞の記者が、国民、つまり読者を見ていないから起きたのです。要するに『会社の方針』だから、そのために一所懸命、取材をやって紙面化してる。…、自説の開陳なんて、本来、会見でやることではない」(佐藤優)などの意見が出されており、読売新聞側を支持する人は、とりわけネット上では2割にとどまるなど、厳しい批判にさらされている。
  • 2012年3月15日付『朝日新聞』の朝刊一面トップは、読売巨人軍が新人選手へ1億円をこえる契約金を裏金で支出していた、とする報道であった。読売新聞は、同日、朝日新聞の報道にあわせて、ただちに反論記事を掲載。新人選手への1億円以上の契約金の支出禁止は、2007年1月までは、目安に過ぎなかったとした。だが、この反論記事は、「04年に横浜西武が1億円を超えて払っていたことが大きなニュースになって、コミッショナーに厳重注意を受けて、西武なんか上層部が責任をとった」「あれは何なの? 野間口も同じ04年ですよ。その時になんで巨人さん、バックアップしてくれなかったのよ。『ルールじゃないんだよ』と。そう思うじゃないですか」(小倉智昭)という反発をうけただけではない。報道各社に「朝日がこんな取材をしているが」と反論文書を配る、読売新聞の「報道のモラル」に反した振る舞いも厳しく批判された。とりわけ、読売新聞の反論の中で失笑を買ったのは、「いま球団が一丸となって東日本大震災を支援しようとする時に、10年も前のことを持ち出すのはいかがなものか」と、東日本大震災の復興への支援をダシにして、朝日新聞を批判し、裏金報道を封じこめようとする態度であった。
  • 2012年3月27日、読売新聞は、「『管理会社』実体なし」との見出しで、2ちゃんねるの管理会社がペーパーカンパニーであることについて、記者をシンガポールにまで派遣してあきらかにした。ただ、2011年10月に就任した片桐裕・警察庁長官は、すでに生活安全畑出身の樋口建史・警視総監に指示し、警視庁生活安全部に約20人からなる『2ちゃんねる特捜班』を設置。2011年11月以降、覚醒剤売買の書き込みを放置した麻薬特例法違反幇助容疑で、2ちゃんねるの関係先を捜索している。ただ、「そもそも掲示板の管理人がすべての削除依頼に目を通すことなど不可能。そこで2ちゃんねるでは、複数の人が自警団的に削除をしてきた。犯罪が起きたのは残念だが、一部のユーザーの不届きな行為で、掲示板自体を潰そうとすれば言論統制、表現の自由の侵害といわれても仕方がない」(ITジャーナリストの井上トシユキ氏)。そのため、捜査当局が描く「2ちゃんねる=悪」というストーリーを補完するためだけの、警視庁と読売新聞の二人三脚による、警察リーク記事ではないか、いう批判をあびただけではなく、読売新聞はそもそも報道機関ではない、とまで揶揄されている。
  • 2012年7月25日~26日の夕刊「夏の連ドラ記者座談会」は、大きな話題をよんだ。「 1位の『トッカン』は、何と言っても、『お金になんて、殺されないで』というセリフ、キャッチコピーがいいね。市井の市民が税金に追いまくられる姿を描いた、メッセージ性のあるドラマだよ」「 このセリフはビシッと決まったね。僕は映画のような映像にはまった。井上真央も頑張っている」などと、同じ読売グループ内の日テレの連続ドラマについて、なにが良いのかよく分からない「礼賛」がおこなわれたばかりか、連続ドラマとして取り上げた11作品中、テレビ朝日の作品が1つしか含まれない、異常に偏った連続ドラマ紹介が行われていたためである。当時、テレビ朝日と日テレは、激烈な視聴率争いを展開していた。そのため、読売新聞が日テレに異常な配慮をしたのではないか、と問題視された。
  • 2012年平成24年)10月11日付の朝刊一面トップ記事にて『iPS心筋移植 - 初の臨床応用』の見出しを付けた記事を一面と三面に掲載。ハーバード大学客員講師・東京大学客員研究員の森口尚史が、iPS細胞を利用して心筋細胞を作成し、特殊な注射器心臓の30箇所に注入し手術が成功した、という記事を書いた。しかし2日後の10月13日の一面記事にて『iPS移植は虚偽』と見出しを出し「おわび」を掲載。10月11日朝刊と夕刊・一部地域の12日朝刊の関連記事に誤りがあったとして、お詫び文を掲載し誤報を認め、検証記事を10月13日朝刊8面に掲載し、事実上の虚報を認めた。
  • 2013年(平成25年)5月19日付朝刊1面および8面にて、東京電力柏崎刈羽原子力発電所1号機と7号機の運転再開を原子力規制委員会に申請する方針を固めたと報道。YOMIURI ONLINEにも同内容の記事を掲載した。これに対し東京電力は、そのような事実は無いとして、読売の報道内容を否定した。

不祥事[編集]

  • 1969年12月14日、全日本空輸の旅客機と、読売新聞社のレシプロ機が空中衝突した。衝突後も双方の機体は飛行可能であったため、死傷者は出なかった。
  • 1975年3月25日、創刊当時の『中部読売新聞』の月極め購読料が500円(1部売り20円)と、他の新聞より安く設定されていたため、公正取引委員会は「不当廉売の疑いあり」として緊急停止命令を東京高等裁判所に申し立てた。同年4月30日に東京高裁は、公正取引委員会の審決があるまで、月極め812円を下回る価格での販売を禁止する判決を下した。
  • 1981年9月、読売新聞拡販団長がピストル密輸事件で逮捕される事件が起こった。1981年9月2日付『朝日新聞』によれば、広域暴力団住吉連合がアメリカからピストルを密輸した事件の第二次摘発が行われ、逮捕者は合計で二八名、押収したピストルは四三丁におよんだ。担当の警視庁捜査四課は、密輸されたピストルの総数を「百丁は越す」としていた。読売新聞の「城西地区」(杉並、中野、渋谷)を担当エリアとする拡張販売団である、武蔵野総合企画社長矢野公久も、「銃刀法・火薬取締法違反」で逮捕された。矢野公久は、池田会宮崎組のナンバー・ツーで、「自動式拳銃四丁と実弾二百発」を所持していたという。警視庁は、一応、矢野公久の身元を発表したのだが、警視庁詰め記者クラブ談合でほとんど報道されなかったため、「なぜ新聞に一行も出ないのか/読売新聞拡販団長が/ピストル二〇〇丁密輸事件で逮捕」(『週刊文春』1981年9月10日号)などと厳しい批判をあびた。
  • 1990年12月4日、東京都調布市の読売新聞販売店で新聞奨学生の過労死事件が発生した。裁判の結果、1999年7月27日読売新聞社と遺族との間に和解が成立した。
  • 2004年11月5日、渡邉恒雄の名義とされる日本テレビ放送網株が讀賣新聞社の実質所有する株式であることを公表し有価証券報告書を訂正。これを受けて地方のテレビ局24社とラジオ局18社の株式を役員などの第三者の名義で実質保有していることも公表した。その結果、テレビ9社とラジオ3社に対する出資比率がマスメディアの集中排除の原則における制限を越えていた事実が明らかになった。その後、第三者名義にして制限を逃れる行為が他の全国紙や地方紙でも行われていたことが発覚した要出典
  • 2005年5月4日から5日早朝にかけてのJR福知山線脱線事故記者会見の席上、JR西日本の事故直後の対応やレクリエーションを中止しなかったことについて、出席した記者が説明を求めて「あんたらはもういい、社長を呼んで」等と罵声を浴びせたり、感情的発言を繰り返していたことが判明。取材モラルに欠けていないかと読者や他のマスコミなどから批判され、特に産経新聞は『主張』(社説)で批判文を掲載した。後に、大阪本社社会部長名で社会面に謝罪文が掲載された一方、当の記者が報じられたことのうちの一部を否定している。
  • 2006年週刊新潮2月16日号の報道において、社主・正力松太郎中央情報局(CIA)に買収されその意向に従って行動していたことが明らかにされた。これは有馬哲夫早稲田大学教授が、アメリカ国立公文書記録管理局によって公開された外交機密文書を調査した結果判明したもので、大きな反響を呼んだ。
  • 2007年9月12日付のJ-CASTニュースにて、朝日新聞社(asahi-np.co.jp)からウィキペディア日本語版の記事項目が大量に修正されていた事実が報道されたが、読売新聞社からは朝日より多い850件余りの修正が行われていたことも同時に発覚した(具体例[1])。読売はWikiScanner日本語版において、プログラム開発者の「お勧め」として挙げられている。
  • 2012年1月18日奈良県版で、殺人罪などが問われている警察官発砲事件の裁判員裁判奈良地方裁判所)をめぐり、裁判員に選任された女性のコメントを掲載した。裁判員法102条により、選任された裁判員への接触が禁じられているため、読売新聞の記事は裁判員法に抵触する可能性がある。奈良地方裁判所の上田昭典所長は同月20日、読売新聞奈良支局長宛ての抗議文書を送付し、遺憾の意を表明した。

マスコットキャラクター[編集]

どれどれ[編集]

「どれどれ」の特徴
  • 「大きな眼」は、将来を見通し、先見性を持って報道にあたる読売新聞の基本方針を示している。新聞を読んでいるのは活字を大切にする姿勢を、緑色は環境を大切にする姿勢を象徴している。
  • 「どれどれ」は、旺盛な探究心、好奇心を象徴する言葉である。
  • 2005年、スタジオジブリのプロデュースによる楽曲『どれどれの唄』(唄:拝郷メイコ)が発表され、読売新聞の企業CMに使われた。「どれどれの唄」は読売新聞各本社に電話した際、部署に繋ぐ際の保留音にも採用されている。
  • 因みに、宮崎駿は読売系列の日本テレビのマスコットキャラクター「なんだろう」も手掛けた。

だっち君[編集]

2002年に読売新聞夕刊のイメージキャラクターとして登場したコウモリのキャラクター。当初は夕刊のキャラクターであったが、後に購読申し込みのテレビCMや朝刊こども面のマスコットキャラクターにも起用された。読売新聞グループの中央公論新社が発行する『中公文庫』のイメージキャラクターとしても使われている。

読売新聞とプロ野球[編集]

日本のプロ野球ファンの中で最も数が多い巨人ファンから見ると、読売新聞を巨人軍の「親会社」と考える者は多くても、巨人軍を読売新聞の「グループ企業」と見る向きは少ない。そのため、巨人軍に「読売」色が全面に出るのを嫌う人達も少なくない(むろん、巨人ファンの大多数が読売新聞の読者というわけでも、あるいは読売新聞の論調を支持しているわけでもなく、あくまで巨人軍という球団のファンであるに過ぎない)。また、読売ジャイアンツの通称としては「巨人」がマスコミも含め一般に浸透しており、「読売」と呼称するのはむしろアンチ巨人の立場のファンに多く見られる。

  • 1980年、ファンから絶大な人気を得ていた長嶋茂雄が巨人軍監督を解任されると、ファンによる「読売新聞」不買運動が繰り広げられた。
  • ON対決となった2000年日本選手権シリーズ後、特に九州地方で部数減の傾向となった。以降西部本社・大阪本社管内においては、地元の系列民放テレビ局(福岡放送読売テレビ)への配慮から、それぞれ福岡ソフトバンクホークス阪神タイガースの記事も同等に取り扱うようにしている。
  • 2002年、球団の経営母体が「株式会社よみうり」から「株式会社読売巨人軍」に変わったことにより、球団の正式名称も「東京読売巨人軍」から「読売巨人軍」に、またビジター用ユニホームの胸文字も、長年使われてきた「TOKYO」から「YOMIURI」に変更された。特にユニホームの変更は反感を買い、東京ドーム右翼席に抗議の横断幕が掲げられたこともあった(「YOMIURI」表記は2004年に廃止。現在はユニホームデザインの刷新でホーム・ビジターとも「GIANTS」表記になっている)。
  • 2004年日本プロ野球選手会によるストライキが行われた際に、選手会を糾弾する報道を展開し、ファンの反発を招いた。
  • 近年は各地のプロ野球本拠地球場(千葉マリンスタジアムなど)で「読む声援 読売新聞」の広告看板を掲出するところがある。また、ニューヨーク・ヤンキース旧ヤンキー・スタジアムにも広告看板を出稿していた。
  • 2011年11月11日、巨人のコーチ人事を巡る清武英利球団代表と渡邉恒雄オーナーの騒動では、他の全国紙が大きく取り扱う一方、読売新聞ではスポーツ欄で小さく取り上げられた。

キャッチコピー[編集]

  • 900万部の信頼・世界最大の発行部数(1980年代後半)
  • 1,000万部、読者と拓く新世紀(1990年代)
  • たしかメディア(1999年)
  • NEWS!(2002年)※CMキャラクターは唐沢寿明
  • 読者と歩むあすの中部(中部支社)
  • 中部をみつめ 世界をひらく(中部支社、2010年)※中部発刊35周年の際に使用
  • 関西で、全国で、世界でNo.1(大阪本社)
  • action!(西部本社)※西部本社の福岡移転の際に使用
  • 読む、いま。読む、先。読む、ほんとう。(2003年〜)
  • 読む、声援(2004年〜)※スポーツ関連の際に使用
  • その新聞は、読売新聞でありますように。(2006年)※CMキャラクターは玉木宏
  • 世の中を、人の中へ。(2006年)
  • 今朝の読売新聞をご覧ください。(2009年1月限定)※ソフトバンクモバイルとのタイアップCM。
  • もっと、伝えたい。(2009年)※創刊130周年公式キャッチコピー。CMキャラクターはAKB48(メインは前田敦子)。
  • リアルのチカラ。(2010年)※CMキャラクターはEXILEのHIRO。

CM日本テレビ系列の放送局を中心に放送されているが、関東地区ではTBSフジテレビテレビ東京でも放送される場合がある。また、オリンピック中継の際は読売新聞が日本オリンピック委員会のオフィシャルパートナーである関係でテレビ朝日系列でも放送される。2009年には正月限定でソフトバンクの白戸家とタイアップしたCMを放送した。

掲載四コマ漫画[編集]

発行所[編集]

ファイル:読売新聞大阪本社東館.JPG
読売新聞大阪本社東館(編集・制作・印刷部門が入居)
  • 東京本社 東京都千代田区大手町一丁目7-1
  • 大阪本社 大阪市北区野崎町5-9
  • 西部本社 福岡市中央区赤坂一丁目16-5
    • 北九州総本部 北九州市小倉北区米町二丁目1-1

印刷工場[編集]

各社の担当地域[編集]

株式会社読売新聞東京本社
青森県岩手県宮城県秋田県山形県福島県茨城県栃木県群馬県埼玉県千葉県東京都神奈川県新潟県山梨県長野県及び静岡県
株式会社読売新聞東京本社北海道支社
北海道
株式会社読売新聞東京本社北陸支社
富山県及び石川県
株式会社読売新聞東京本社中部支社
岐阜県愛知県及び三重県名張市伊賀市以外)
株式会社読売新聞大阪本社
福井県、三重県(名張市伊賀市及び南牟婁郡御浜町紀宝町の一部)、滋賀県京都府大阪府兵庫県奈良県和歌山県鳥取県島根県岡山県広島県徳島県香川県愛媛県及び高知県
株式会社読売新聞西部本社
山口県福岡県佐賀県長崎県熊本県大分県宮崎県鹿児島県及び沖縄県

海外取材網[編集]

ヨーロッパ
  • ロンドン(欧州総局)
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朝夕刊の別[編集]

北海道石狩管内上川管内空知管内後志管内胆振管内日高管内)、茨城県栃木県群馬県埼玉県千葉県東京都神奈川県山梨県静岡県富山県石川県滋賀県京都府大阪府兵庫県奈良県和歌山県山口県福岡県大分県沖縄県では、一部地域を除いて朝夕刊セット。その他の県は朝刊統合版だが、特に中部支社版のみは対象地域全域が朝刊単独である。

なお、静岡県向けの夕刊及び、西部地方向け朝刊に限っては社内事情により、中部支社管内の清須工場で印刷しトラック輸送している(こちらを参照のこと)。

また、沖縄県では東京本社発行版と西部本社発行版が朝夕刊とも空輸で送られ、お昼過ぎから翌朝にかけて配達されている。

さらに、西部本社管轄で統合版地域の佐賀県では、佐賀市中心部と鳥栖市三養基郡基山町の一部で夕刊も沖縄を除く上記地域と同じ時間に配達されている他、JR佐賀駅鳥栖駅新鳥栖駅キヨスクでは夕刊も販売されている。佐賀県と同じ統合版地域の熊本県鹿児島県でも、JR熊本駅鹿児島中央駅のキヨスクで夕刊早版が販売されている他、大阪本社管轄で統合版地域の岡山県でも、JR岡山駅のキヨスクで夕刊早版が販売されている(岡山・熊本・鹿児島3県とも宅配及び番組表の差し替えはなし)。

縮刷版[編集]

読売新聞の縮刷版は1958年9月号より刊行されており、毎月下旬に発売している。一か月分(東京本社発行最終版=東京23区内版)の全紙面をA4サイズに縮小し、一冊の本にして発行。全国の図書館などで閲覧することができる。

書籍の他、CD-ROMによる読売新聞縮刷版も毎月下旬に発売されている。

日本図書センターより1945年から1948年までの「讀賣報知」「讀賣新聞」紙面の復刻縮刷版が全8巻で刊行されている。

また、通常の縮刷版とは別に、重大事件・事故・災害が起こった際に、関連ニュースを中心とした「特別縮刷版」を発行する場合もある。例を挙げると、1995年1月17日に発生した阪神・淡路大震災の際は、1月17日付号外から2月17日付夕刊まで、普段は縮刷版を発行していない大阪本社発行の最終版紙面からの重要記事を一冊の本にまとめた「大阪読売特別縮刷版 阪神大震災」を発行した。また、2011年3月11日に発生した東日本大震災の際は、3月11日付号外から4月11日付夕刊までの紙面(いずれも東京最終版)からの重要記事を一冊の本にまとめた「読売新聞特別縮刷版 東日本大震災1か月の記録」(ISBN 978-4643110067)を発行している。

販売店[編集]

新聞販売店の愛称は「YC」。これは「Yomiuri Center」の略称で、それまでは東京、中部、西部各本社(中部は現在支社格下げ)の管轄地域は「YSC」(Yomiuri Service Center)、大阪本社管轄地域のみ「読売IC」(Yomiuri Information Center)といっていたのを2000年の創刊125周年達成を機に統合した。近年では新聞の販売のみではなく、YCによる地域に特化した情報を提供する「ヨミパラ」のような試みも見られる。

備考[編集]

  • 中部支社版の紙齢(創刊からの号数)は、2002年6月30日付までは「中部読売新聞」として創刊された時からの紙齢だったが、同年7月1日付から、東京本社の支社になったことに伴い、東京本社版と同じ紙齢になった。ちなみに「中部読売新聞」が「読売新聞」になる1988年5月31日付までは、東京本社が東海3県愛知県岐阜県三重県)向けの地方版「中京版」を発行していた(中京版のテレビ・ラジオ欄は静岡県遠州版と共有だった)ため実質的には東京本社発の「中京版」と、中部読売(現中部支社)の発行する「中部読売新聞」が併売された格好だった。
  • 三重県の伊賀地方は東京管轄であったが、1988年6月1日に中部読売の読売本体への合流に伴い大阪本社管轄に変更された。伊賀地方は京阪神通勤圏に近く、朝日新聞毎日新聞など他の全国紙が大阪管轄であることを考慮して大阪管轄に切り替わった。熊野市以南などの東紀州地方では朝日・毎日など他の全国紙は伊賀地方と同様大阪管轄であるが、読売のみ現在も東京(中部支社)管轄である。
  • 北陸3県においては、富山県石川県は東京本社傘下の北陸支社管轄となっているが、福井県は大阪読売発刊までは東京の管轄であった。1952年の大阪読売発刊と同時に、福井県が近畿地方に近いことから大阪管轄に切り替わった。
  • 九州及び山口県においては、1964年の西部本社版発刊以前は大阪本社版が販売されていた。

在籍していた著名人[編集]

著名な記者[編集]

読売グループの企業・団体[編集]

読売新聞グループ本社 を参照

読売新聞グループ本社の支配下にある放送事業者[編集]

ここでは、放送局の開設の根本的基準(昭和25年電波監理委員会規則第21号)第9条(いわゆるマスメディア集中排除原則)に於いて「支配」に当たる10%を超える議決権を読売新聞の持株会社である株式会社読売新聞グループ本社が有しているものとして総務省のウェブサイトに於いて公表されている放送事業者を挙げた。

海外特約メディア[編集]

脚注[編集]

  1. 報道協定を参照
  2. 夕刊のスクリーントーンは夕刊創刊時~1992年ごろまでは東京・西部の両本社版のみで、バックに灰色と白の縦じまを入れていたものであった。1993年にカラー化が本格的に進むと、大阪本社版を含めて夜をイメージする薄い青紫色に白の縦じまを入れたトーンが採用された。題字へのトーン廃止後は発行所(札幌、東京、高岡、名古屋、大阪、福岡)を記載する欄にトーンの配置を変更。朝刊は黄土色、夕刊は薄い青紫色のバックを使っている
  3. 三田和夫『読売梁山泊の記者たち』紀尾井書房、1991年、123頁
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  6. 「半年間住民を見殺しにした大新聞と天下り財団」『日刊ゲンダイ』2011年10月26日

参考文献[編集]

  • 「第一篇 労働争議 第二章 主要な争議 第一節 読売新聞社の争議」『日本労働年鑑 第22集/戦後特集』1949年 法政大学大原社会問題研究所/第一出版
  • 御厨貴『馬場恒吾の面目―危機の時代のリベラリスト』1997年、中央公論社

関連項目[編集]

外部リンク[編集]

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